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『ユーレイ噺の裏の方〜蔵岡貴道の割と平均的な日常〜【完結】』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:木沢井
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あらすじ・作品紹介
猿渡浩助が幽霊少女と東奔西走していた頃、お人好し少年の蔵岡貴道(くらおかたかみち)が昼食時の彼女ら+αと繰り広げていた平日です。
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蔵岡貴道(くらおかたかみち)の朝は、四時半を告げる目覚まし時計のアラームで始まる。
「う……ん」
手探りで目覚まし時計を止めると、貴道はぼんやりとした頭で、微かに重みを感じる左腕の根元に目をやる。
「ぬ……」
そこでは、貴道の左腕を枕に、気持ちよさそうに眠る少女の姿があった。クセのある黒髪が彼女の顔の周囲で柔らかく広がり、安物のベッドにこれ以上ない彩りを添えていた。
彼らの通う高校の全男子が認めたアイドル的存在の少女、カティ・クラゥシア――と瓜二つの容姿を持つ覇王的存在の少女、ラーナ・クラゥシアである。
「ごめんね」
起こさぬよう巧妙に腕と枕をすり替え、起きている時の彼女からは想像もつかないほどに和らいだ表情で眠り続けるラーナに謝った貴道は、くしゃっと彼女の黒髪を指先で梳くように撫でる。
「っぬ、ぅ……」
「っと」
赤ん坊がむずがるような寝言を洩らしたラーナが無意識に手を掴もうとしてくるので慌てて躱す。暫くは貴道の手を探して動いていた彼女の手だが、結局むなしく彼女の鼻先に力なく落ちた。
普段は見られることのない彼女の仕草に心和むのも事実であったが、これでは早起きした意味がない。もう一つあるベッドを迂回して、貴道は音を立てずに寝室を出る。
一階に下りるとまずは洗顔。続いて着替え――と思いきや、手に持ったのはバケツと雑巾、そして何故か一ヶ月前の古新聞。
よし、と意気込む貴道は、白く煙る息を吐いてバケツに満たされたお湯に雑巾を浸す。吐息に劣らず白い湯気を立てる雑巾を片手に、貴道は洗面所から玄関まで真っ直ぐ続く廊下を寺の小坊主よろしく雑巾がけを始める。その他にも階段や靴箱の上も拭くので、四度目に汚れたお湯を排水溝に捨てた頃には体がすっかり温まっていた。
五時十五分。貴道が次に向かったのは、なんと外である。
「はあ……」
温かく湿った吐息を掌に吹きかけつつ、古新聞でリビングに繋がる大窓の汚れの一つ一つを丁寧に拭き取り始める。家と家の隙間から差し込む朝陽が、貴道の向かい合う窓ガラスに反射して眩しかった。二十分ほどかけて目が眩しさに慣れた頃には窓は全て拭き終わる。二本の牛乳瓶と今朝の新聞を小脇に抱えつつ、真っ黒になった古新聞を片付けに家へ戻る。ご苦労様、という一言を古新聞に添えて、貴道の日課その一は終わった。
寝巻き代わりのTシャツとジャージを洗濯機へ放り込み、クローゼットから出しておいた制服の一つに袖を通す。詰襟はまだ着ず、腕にかけたままリビングへ。
日が出ていると言っても、冬の五時半はまだ暗い。貴道は照明のスイッチを入れると、リビングとダイニングの境に置かれた三人掛けのソファーに詰襟をかける代わりにエプロンを身に着け始める。十年来の幼馴染の少女が今年の誕生日にくれたそのエプロンには『朴念人』という刺繍が施されてあったが、貴道には『間違えちゃったのかなぁ』という感想しかない。
「うん、ご飯は炊けてる」
昨晩から仕込んでおいた白米(地元産)の仕上がり具合を確認すると、貴道は冷蔵庫に足を運ぶ。
冷蔵庫に貼り付けておいてあるメモから、ご飯をメインにしたおかずを考えつつ、体は無意識に野菜室からニンジンと大根を、パーシャル室から特売品の残りである豚バラ肉の塊――と呼ぶには少々物足りないかもしれないが――を取り出していた。
とりあえず、一汁は豚汁に決まる。残るは一菜と主食だ。
一考し、大根の煮浸しと魚の味噌漬けに決めた。
鍋に水を張り、沸騰させておく。その間に魚の味噌漬け作りである。
味噌漬けは冷蔵庫に作り置きの分があるのでそれを取り出す。そのままでも食べられるが、今日は温めることにしたので、コンロを予熱しておく。その間に、余分な味噌を素手で扱き落とすのだ。
「よし」
下準備を終えると、魚をコンロにいれ、最初だけ中火で、続いて弱火で暫く焼いておく。その間に貴道は、大根の煮浸しの方に取り掛かった。
豚汁でも使う予定だった大根を慣れた手つきで厚めに皮を剥き、薄く輪切りにする。キッチンタイマーを片手にそれらを鍋に入れて五分間を計りつつ、次の調理段階として氷水を用意しておくと、先ほどから魚の味噌漬けを焼いていたコンロの火を止め、仕上げとして余熱で焼く。
豚汁の方も同時進行で行っていると、キッチンタイマーが五分経ったことを貴道に報せる。
器具で大根を取り出し、氷水に移して冷ます。その間に、同じ鍋の湯に塩を入れ、大根葉の茎を素早く通す。火を通すのではなく、青臭さを取るのが目的である。こちらも氷水に取り、冷えた頃合いを見計らってそれぞれの水気を取る。
一旦お湯を捨てて洗い直し、その鍋へと作り置きしておいた出汁一カップと調味料(日本酒など)を入れて火にかけ、そこへ切っておいた大根を入れて煮立てる。充分に煮立つまでの間に魚の味噌漬けを取り出し、皿に盛り付けておく。焼けた味噌の香りが、貴道の食欲を刺激してならない。
そうこうしている間にも、大根を入れた鍋が煮立ってきていた。キッチンタイマーを六分半に設定すると、貴道は弱火にする。桜によると五〜八分くらいらしいが、八百屋でオマケにまとめてもらったこの大根は、六分半がベストであった。
待っている間も時間は無駄にしない。先ほどの大根葉の茎を刻み、醤油と絡めておいたりしつつ、四人分の弁当を作る準備もしなくてはならないのである。
「どうしようかなぁ」
冷蔵庫には、昨晩のゴボウ巻きがまだ残っていた。桜直伝の料理で、美冬も気に入っていた品だ。朝食に出そうかと悩んでいたが、やはり弁当のおかずとして用いることにした。
(――「できたら、先輩のおうちのがいいです」――)
とは美冬の言葉。当初は流石にためらいもしたが、今は特にこれといって思うこともなく、弁当箱の一角に盛り付けていく。それぞれの食べられる量に応じて振り分けておいたが、美冬がいつも食べ終わると物欲しそうな目でこちらの弁当箱を覗いてくるのを思い出し、少し多めに入れておいた。朝食の一部も、そちらに移す。
――二度目のキッチンタイマーの音。六分半が過ぎたのだ。
鍋から大根を出して汁気をきり、刻んだ大根葉の茎と軽く混ぜ合わせてから底の深い器に盛る。
「うん、豚汁もいいできだ」
それぞれの味見を終え、弁当の仕上げにとりかかりつつ壁に掛けられた時計を見る。あと十分もしないうちに六時だ。
「そろそろかなぁ」
などと呟いた貴道は、脚を肩幅に開くと軽く膝の力を抜く。こうしておくと、不意の衝撃に対し強くなるのだ。
何故そんな物騒なことを考える必要があるのかというと、
「ターカーミーチ――――――――――ッ!!!」
「ご……っ!?」
目が覚めるなり、貴道へと猛タックル――もとい、スキンシップをしたがる少女、カティ・クラゥシアがいるからだ。
「おはヨ、タカミチ!」
「うん、おはようカティ」
背中に抱きつく少女の、満面の笑みを浮かべての挨拶に、貴道も柔らかく微笑んで返す。先ほどの全体重を乗せての背中への体当たりにやや前傾してしまっていたが、それ以上に被害もダメージもなさそうに見える。部活こそしていないが、貴道の肉体は決して軟(やわ)ではない。
「とりあえず、ちゃんと着替えてきてね?」
「うン!」
二つ返事で大きく頷いたカティは、ぱたぱたとスリッパの音を立ててリビングに吊るされたセーラー服一式に向かう。二階から降りてくる時は『ダダダダダ!』という凄まじい音が聞こえてきたようにも思えたが、朝食の芳しい香りの前に疑問は掻き消えてしまう。
「――お着替え終わったヨ!」
「は、早いね……」
再び背中で甘えるカティへの評価は、着替えに要した時間だけではない。そこから洗濯機へとパジャマを放り込み、洗顔とブラッシングを済ませるまでの時間にである。ちなみに彼女やラーナは化粧はしない。
「ご飯炊けてるから、先に持って行ってくれる?」
「うン!」
これにも即答し、カティは湯気を立ち上らせるお椀を大事そうに両手で抱えて運んでくれる。少しでも自分に触れていないと不安そうな表情になり、すぐに泣いてしまっていた去年と比べれば、充分成長してきていると言える。いいことであった。
そうしたことも思いながら、まるでリスみたいに豚汁のお椀も運んでくれているカティの仕草に、貴道は微笑ましい気持ちを表面に出す。
「うユ?」
つまり、笑顔になっていた。
「タカミチ、いつもより笑ってル。どしたノ?」
「え? うん、ちょっとね」
とことこと目と鼻の先まで近寄ってくると、カティは正面から不思議そうに見上げてきた。空色と言って差し支えない、彼女の薄い青の瞳には、困惑する自分が映っていた。
「……エヘヘ」
「え?」
突然、ごく自然に正面から抱きつかれる。頭が状況に追いつかず、手や指が意味もなく動く。こうしたことに免疫のない昔だったら、きっと十分くらいは何もできなかっただろう。
「ど、どうしたのかな?」
「よく分からないけド、タカミチが笑ってるとネ、カティもすっごく嬉しくなるノ!」
エプロンの上部、ちょうど胸元のあたりに頬をすり寄せてくる。温かいやら柔らかいやらいい匂いがするやらくすぐったいやらで、思わず貴道はもう一度笑ってしまう。
だけど、時間は無駄にできない。
「そういえば、ラーナは?」
「うユ……」
いきなり責めるようなまなざしを向けてくるカティは、「まだ寝てル」と簡潔に答えたきり頬を膨らませて押し黙り、力を込めてしがみ付いてくる。これは彼女が拗ねている時に見せる仕草なのであるが、何故そうする必要があったのかは皆目見当がつかない、
(うーん……)
という訳でもなかった。ラーナがすぐに目覚めないのには、理由がある。
幾つもの事情と経緯が絡み合って、今のラーナはひどく体が弱くなっている。長時間の運動は不可能で、緋乃(ひの)によると免疫も弱いらしい。特に日光が大敵で、長く浴び続けていると倒れてしまう可能性が高いので、この時期になっても日中は日傘が手放せない。かといって気温が下がっても、それはそれですぐに体調を崩してしまう。
そうした理由から、ラーナは中々床から起き上がれないのだが、それもよりカティが気に入らなかったのは、おそらくラーナが彼女に見せたであろう態度だと思われる。気分屋で我の強いラーナは、その時々に思ったことを最優先させる。
(たしかに、こんな寒い朝にいつまでも寝てるラーナを見てたら、いい気分はしないよね)
カティにしたって、こうやって抱き付いて暖を取りたがるぐらい寒いのだ。そんな中、こうして自分に合わせて無理をしてくれているのだろうと思うと、それだけで申し訳なさと嬉しさが胸にこみ上げてきた。
「ありがとう」
「うユ?」
カティは何のことだか分かっていないように見えるが、気にせず彼女の頭を撫でて「じゃあ、仕方ないよね」と言う。
「……エヘヘー」
さっきまでのふくれっ面はどこへやら、カティはゆっくりと目を閉じ、もう一度柔らかく抱き付いてくる。
ラーナのことは気になるが、今はカティのことを優先してあげたかった。
「……ご飯、先に食べよっか」
「――うン!」
拗ね出した時や機嫌を直してくれた時のように、カティはあっという間に大輪の向日葵を連想させる笑顔へとなった。
「いただきます」
「いただきまース!」
全ての食材と、関わった人達全員への感謝を込めて、一言。
六時十五分、朝食の時間。
食器の後片付けや洗濯物干しに終われて、気が付けば時間は六時四十五分。ラーナは最後の最後まで起きる気配がなかったので、申し訳ないが留守を頼むことにする。両親と祖父の、二つで三人分の仏壇に線香を点し、お供え物を用意して、家での日課は施錠で一旦締めくくるのが日常なのだが、
「手袋はヤなノ!」
おもちゃ屋で駄々をこねる子どものように、カティは玄関で貴道の腕にしがみ付いていた。
「タカミチ、昨日も『しなくっていい』って言ってたもン! だから今日だっていいでショ?」
「そ、そうだけどね……」
譲歩する口調も弱々しく、「でもね」と貴道は続けた。
「今日は、すごく寒くなるよ?」
「カティ、タカミチがいるもン! タカミチがいてくれたらカティはポカポカだかラ、ほんとはマフラーだっていらないもン!」
顔まで押し付けての主張に、いよいよ貴道は苦笑する他になくなってきていた。性格上、貴道はどうしても人との争いが苦手なのである。
「ねえタカミチ、ダメなノ?」
「う、うーん……」
駄目押しにカティの涙が加われば、貴道の敗北は確定する。
「……分かったよ、今日も手袋しなくていいから」
ため息混じりに白旗を振ると、カティはあっという間に笑顔を浮かべて貴道の頬に自分の頬をすり寄せてくる。
「で、でもマフラーはしてね? 風邪ひいちゃうから」
「はーイ!」
どこまでも上機嫌なカティに苦笑しながら、貴道は玄関からは見えない仏壇の写真から見守ってくれている(と根拠もなく信じている)両親と祖父に改めて告げる。
「いってきます」
「まス!」
外へ出ると、まず初冬の空気が暖まっていたことに気付く。窓を拭きに出た時と比べれば、時間が経っていることを感じさせた。
「遅い。いつまで待たせんのよ」
そして、もう一つ、時間の変化を感じさせるものが。
スポーツバッグを肩からかけた少女が一人、門の向こうで待っていた。マフラー姿のカティとは対照的な、ポニーテールにジャージ姿の彼女へ、カティと一緒に挨拶を交わす。
「おはよう、桜」
「サクラおはヨー!」
「おはよ」
柔らかな貴道と明るく快活なカティに対し、国本(くにもと)桜(さくら)の返答は素っ気ないものであった。その冷ややかな視線は、貴道の右腕と、そこに抱き付くカティに向けられていた。
「……ど、どうしたの桜?」
「別に」
またしても素っ気ない返事。だが、『早くしなさい』と目線は訴えかけてくるので、苦笑しつつ門を出る。目は口ほどに……という言葉の示す通りなのかどうかはさて置き、桜は平然と歩き出した。
「……聞こえてんのよ」
「え?」
たしかに、今桜が何か言っていたような気がしたのだが、尋ねても「別に」としか言わないので、それきり貴道は触れないことにした。
幼馴染みの桜を加えて、差し障りのない会話をしつつ登校。平均的な高校生からすれば異様に早い時間の理由は、一年生にして陸上部不動のエースである彼女は朝練のために。自分は登校の道すがら、ゴミを拾うために。
「あ」
「やあ」
道中、ジョギングをしているらしい、紺色のスウェット姿の老人が向こう側から走ってきた。少し遅れて、おそろいのスウェットに首からタオルをかけた、奥さんと思しい老婦人も見えてくる。
「おはようございます、坂城(さかき)さん」
「おお、貴道君か、おはよう」
「桜ちゃんにカティちゃんも、おはようねえ」
坂城婦人も挨拶をしてくるので、二人もそれぞれ返した。
「この前いただいた、蜜柑、すごく美味しかったです」
「カティ、貴道やラーナといっぱい食べたヨ!」
「ははは、そうかい。そりゃ何より。ところで貴道君、それっていつものだろ? 精が出るねぇ」
そう言って、坂城司郎は貴道の持っている火ばさみとゴミ袋を指さした。貴道の趣味(と噂される習慣)は、町内では既に風物詩の一種として広く知られていた。
「ええ、そうですけど」
「あらあら、偉いわねぇ」
坂城司郎との会話に、坂城婦人も加わる。軽く息を弾ませながら汗を拭く姿は、彼女を外見より実年齢よりもずっと若々しく見せていた。
「司郎さん、いまどきこんな子いないわよ。宝物よ」
「そうだなぁ」
投げやりなようで、だが包容力の感じられる司郎の相槌に更なる笑みを加えて頷いた坂城婦人は、こんなことを言い出した。
「ほんと、絶対に手放しちゃ駄目よ、桜ちゃん?」
「――っはぁ!?」
それまで、貴道の隣でどことなく誇らしげにしていた桜が、坂城婦人から話題を振られると急に顔を真っ赤にして驚く。桜にとって、そんな驚くほどのタイミングだったのだろうか。「まま、また郁美(いくみ)さんはテキトーなことを!」と坂城婦人に向かって、裏返りかけたソプラノで捲くし立てようとするが、
「あらあら、わたしは冗談でこんなこと言わないわ。ねえ、司郎さん?」
「ん? ん、んむ……そう、だな。うん」
貴道が見てもちょっと怪しいのだが、さっきから妙に落ち着きのない桜にはそこまで気が回らないらしく、しきりに手を振り回して「あたしはそんなじゃない」とか「あのバカはただの幼馴染」「とか郁美さんが勘違いしてるだけ」だとか力説していた。
「…………?」
そんな時、カティが腕を引っ張ってくる。
「どうしたのカティ?」
「学校、遅れるヨ」
カティは言葉少なく、呟くように言うと前に進むようまた腕を引っ張る。まだ七時にもなっていないのに大袈裟な、とは思わず、貴道は「そうだね」と相槌を打って混乱中の桜に声をかける。
「桜、そろそろ」
「あっ、ちょ、貴道、貴道からも郁美さんに――」
そこまで言いかけたところで、桜の目が輝いた。閃いた、とも言えるかもしれない。
「そ、そうね! じかん、時間ないしっ、だからごめんなさいね郁美さん!?」
そぉ、と空気が抜けたような呟きを洩らした坂城婦人は、「いいわねぇ」と顔を綻ばせる。
「もぉ、本当に初々しいのねぇ。まるで昔の司郎さんとわたしみたい」
「おいおい、俺も含まれるのか」
「えぇ、もちろん」
ジョギングそっちのけで仲睦まじい様子を見せ始める老夫婦を、貴道が縁側で徒然なるままに日を過ごす老人のような眼差しで見ていると、カティが抱きついている方と反対側の腕を桜に掴まれた。
「ほ、ほら行くわよ貴道っ!」
「う、うん……」
「またネー!」
桜に引っ張られるまま、名残惜しそうに貴道は坂城夫妻を見た。司郎の隣、坂城夫人の開けっぴろげな笑顔が、徐々に遠くなる。
いつもの時間にいつもの人達と繰り広げた、ちょっと違うやり取り。
角を曲がり車道に出て、校舎が住宅の向こうに見えそうな所まで来て、やっと桜は走るのを止めた。この辺りまで来ると、貴道ら以外にも制服やジャージ姿の生徒の姿が三々五々ながらも目に付き始める。桜と同じく、朝練習や委員会が目的の生徒らである。貴道と同じ目的の生徒は、いない。
「ほんっと、郁美さんには困ったわ」
「あはは……お疲れ様」
肩を落として呻くように洩らした桜に、微苦笑交じりに相槌を打つ。「ほんとよ」と桜も苦笑しながら言ったが、表情を見ていると実際はそれほどでもなさそうである。
「……なにジロジロ見てんのよ?」
「え、いやえっと、何でもないよ」
「タカミチはずっとカティのこと見てたんだもんネー?」
疑り深そうだった視線が、カティが首の辺りに抱き付いてきた途端に別種のものに変わった気がしたのだが、その正体を見極める前に「そうそう」と桜が話題を切り出してきた。
「練習してる最中にびっくりしたことがあるのよ。浩助ってば、土曜日に学校来ちゃってたのよね」
「ふぅん?」
相槌を打つと、貴道はいそいそと火ばさみで歩道に落ちていたタバコの吸殻を拾い上げ、吸殻用のビニール袋のに入れた。驚きはしたが、普段の浩助を考えるとそれほどでもない。
「浩助、どうしたのかなぁ?」
「さあ? ――あ、そういえば、あいつ何故かびしょ濡れだったわね」
ますますよく分からない話だった。あと十日もすれば師走だというのに、浩助は寒中水泳でも始めようとしたのだろうかと思った矢先、ふと貴道は「それってどんな格好だったの?」と思ったことを訊いた。
「制服姿。いつものね」
「制服!? 服着たまま寒中水泳してたの?」
は? と言いたげな桜を前に、「な、何でもないよ」と苦しい言い訳を試みるのだが、
「いくら浩助でも、そこまで突飛なことはしないはずよ」
「……うん、そうだね」
やはり幼馴染だけあって、すぐさま見抜いてくる。
「じゃア、どうしてビショビショだったんだろうネー?」
楽しそうに繋いでいる手を振り子のように揺らしながら、カティが話しかけてくる。
「そうだねぇ、どうしたんだろう浩助」
そう言いつつ、貴道は視界に入った煙草の吸殻を小型の火ばさみで拾う。
「……ねえ、いい加減そのゴミ拾いやめたら?」
「そう?」
つっぱねるでもなく、聞き流すでもなく、貴道はいつものように桜の言葉を真正面から受け止める。
「そんないけないことかなぁ? ゴミ拾いって」
「サカキのお爺ちゃんとお婆ちゃんモ、タカミチは偉いって言ってたヨ?」
「いけないとか、偉いとかそーいうのじゃなくて……あんた、本当にあんなのしてて恥ずかしくないわけ?」
「うん」
呆れつつの追求に、貴道は正直に頷く。どんな些細なことでも、嘘はつきたくない。
「だって、ゴミが落ちてたら拾うのは当然だろ? 何でそれが『恥ずかしいこと』なのさ?」
「だからって……あーもう、ほんっとややこしいわねぇ」
ポニーテールの結び目辺りをガリガリと掻いてる桜は、何故か不機嫌そうだった。……彼女の心境が分からない。そう思うだけで申し訳なさと、悲しみがこみ上げる。
「ごめん」
「は?」
「桜は、僕が分かっていないことが分かっているんだろう? でも、僕にはそれが何なのか分からない。だから、ごめん」
言い訳など一切せず、ただ謝る。分かってもらえなければ、分かってもらえるまで。
馬鹿にされたこともある。否定されたことだって数え切れないくらいある。それでも、変えようとは思わない。
悪いのは、信じてもらったりできない自分なのだから。
「……はぁっ」
返ってきたのは、露骨なため息と、大げさな肩をすくめる動作。
「……ほんっとに、いつも思うけど、蔵岡君はあたしが横でどうにかしてあげなきゃダメねぇ」
「うん」
溜息交じりの桜に、貴道は恥ずかしそうに頷いた。
「桜が傍にいてくれて、本当に助かってるよ。ありがとう」
こういう時は、素直に感謝の言葉を――これもまた、桜が教えてくれたこと。
「だ、だからそーいうのが……まあいいわ」
ふんと鼻を鳴らし、桜はどこか得意げに、でも実際は仕方なさそうに聞こえる口調で「蔵岡君がそんなんじゃ幼馴染として恥ずかしいし、これからだってちゃんと世話してあげるわよっ」と言うのだった。
貴道は、そんな桜の態度を偉そうだと思ったことは一度もない。勿論、不愉快に思ったことも。
仕方がないから世話をする。幼馴染だから放っておけない。――そういった言葉のオブラートに包む桜だが、その内側にあるものが掛け値のない優しさだと貴道は知っている。素直になるのが苦手なのに誰かの力になろうと思うことはできても、実際には誰にでもできることではない。
国本桜という女の子は、そうしたことができる素晴らしい人間の一人だった。
そんな女の子にいつも助けてもらっていることの嬉しさ、ありがたさを形にしようと、貴道は口を開く。
「うん、ありが――」
そんな時、
「カティがいるからタカミチはヘーキなノ!」
どうしたことなのか、カティが急に首に抱き着きつつそう主張した。いきなり首に負荷をかけられると流石に危ないのでやらないよう注意しているのだが、今のカティには言っても通じそうにない。
「んなっ!? ちょっとカティ、あんた何やってんのよ!?」
「サクラには関係ないもーン。カティ、タカミチにぎゅってしてるだけだもーン」
「それが問題なの! こら、離れなさいっ!?」
「ヤダー」
舌を出しながら貴道に頬ずりしてくるカティと、その様子にまたしても激昂する桜。
そんな二人に挟まれた貴道は、
「ふ、二人とも、まだ朝早いんだし……ね?」
何とも日和見のご様子。
「タカミチ、カティ悪くないよネ?」
「貴道、あんたもカティが悪いと思うでしょ!?」
そして二人も、何で争っていたのかを忘れているご様子。
「え、えっと……」
不自由な体勢ながらも本日三本目の煙草の吸殻をビニール袋に放り込むと、困ったように笑うのであった。
八時十分過ぎ。桜を含む陸上部員達が次々と着替えて校舎へ向かっている中、スナック菓子の袋を拾おうとした貴道の頭上に、校舎の影とは異なる影が落ちた。
「よぅ、歩くNGOども」
見上げた先にそびえ立つのは、男子にも負けないほどの、長身の女子生徒。貴道にかけられたぶっきらぼうな口調の裏には、分かる者だけに分かる親しみが垣間見える。
「あ、おはようゲンさん」
「おはヨ、ゲンさン」
「おう」
校舎ゴミ拾いの旅三週目にして、漸く満足した貴道に話しかけてきたのは、気心の知れた糸目の同級生、ゲンさんこと源五郎丸(げんごろうまる)百合絵(ゆりえ)であった。
「今日は隊員三号は寝坊か?」
「えっと……あ、そうみたい」
貴道は携帯電話を確認すると、その画面をゲンさんに見せた。「どれどれ」と長身をわざとらしく屈めて、ゲンさんは覗き込む。
着信、なし。メールが一通、七時五十分に来ている。
[sub:先輩ごめんなさい]
「たしかに、こりゃ三号だ」
ゲンさんの言う『隊員三号』とは、彼女が部長を務める新聞部の後輩にして伝説級の先代部長、市川秋の妹である市川美冬のことである。二ヶ月ほど前、貴道が早朝ゴミ拾いをしていると知るや「お手伝いします」と言って意気込んでいたのだが、低血圧のために参加できた日の方が圧倒的に少ないのが現状であった。
「あいつも言ってたが、飽きもせずに毎朝毎朝よく頑張るな、お前さん方」
「そうでもないよ」
「カティも平気だヨ!」
謙遜ではなく、貴道は当然の事実として、カティは貴道と一緒だからという、それぞれの理由で答える。「だからゲンさんだって、やろうと思ったらできるよ」などという貴道の発言は、そうした部分に裏打ちされている。
「あー、じゃあわたしには無理だな。そのやる気がない」
「そ、そう」
「そうそう」
カラカラと笑いながら断言するゲンさんに、貴道は乾いた笑みを浮かべる。彼女の言動には、いつも秋の青空に似た清々しさがある。
「そーいうこった。んじゃ、先に待ってるよ」
手を振る姿も清々しく、ゲンさんは玄関へと歩き去った。
「僕らも行こっか」
「うン!」
集めたゴミを片手に二人で行ったのは、烏丸やラーナとの思い出も懐かしい校舎裏のゴミ捨て場。
「じゃあ、燃えるゴミは頼んだよ?」
「うン!」
ゴミ袋を抱えるカティに微笑んで促すと、貴道も燃えないゴミを決められた場所に捨てると竹箒を片手に朝の最後の日課にかかる。
ゴミ捨て場の脇に植えられた、イチョウの樹の根元に散らばる落ち葉の掃除である。土日は家事やアルバイトに追われて来れないためというか、やはり二日分、黄色い面積は広い。
「カティもお手伝いするノ!」
「うん、ありがとう」
お礼の言葉をかけると、何故だかカティは笑顔になって、頭のてっぺんを向けてくる。初めは何のことだか分からなかったが、とりあえず頭を撫でてみた。
「エヘヘ〜」
どうやら当たりだったらしく、暫くして「充電完了ッ!」と飛び跳ねたカティは、元気いっぱいに竹箒を振り回し――
「カティ、葉っぱが飛んじゃうから、落ち着いてやってね?」
「はーイ!」
返事は明るく元気よく、手元は静かに落ち着いて取り組むカティに微笑みつつ、貴道はどことなく寂しさの増しているイチョウの樹を見上げ、たしかな日々の移り変わりを感じていた。
カティと再会し、生活が一変したことも、
市川秋(いちかわあき)と接し、夢について考えたことも、
烏丸(からすまる)と出会い、本当の強さとは何か考えたことも、
桜の悩みに触れ、自分の無力さを痛感したことも、
市川美冬(みふゆ)と向き合い、自分の醜さを知ったことも、
そして、
(――「このワレに抗う事の愚かしさ、とくとその身に刻むが良い」――)
ラーナと邂逅し、途轍もなく大きな流れに足を踏み込んでいたのを知ったことも、全てが流れて、足元の落ち葉のように降り積もっているのだと貴道は竹箒を動かしながら思う。
(色々あったなぁ)
などと、烏丸やラーナに殺されかけたことまで含めて老人のように懐かしむ貴道の袖を、誰かが脇からつまんできた。カティかと思い、そちらに目をやると、
「あ」
「…………」
そこにいたのはカティではなく、人形を思わせる雰囲気を漂わせる少女が一人いた。空いている方の手には、学生鞄とゴミ袋、そして火ばさみがまとめて握られていて、傍目にも辛そうだった。
「……おはようございます、先輩」
「やあ、おはよう美冬ちゃん」
恭しく一礼した少女――市川美冬は、貴道が挨拶を返すと、更にもう一度頭を下げる。
「……また、起きれませんでした」
どうやら、遅れてしまったことを謝ってくれているらしい。
「ううん。美冬ちゃん、メールくれたし、大丈夫だよ?」
「……そうですか?」
美冬はちょっと首を傾げて、こちらをじっと見つめてくる。顔を映した薄茶色の瞳が、どことなく不安げに揺れているが、それほど心配させるような態度をとってしまったのだろうか?
「――――」
ごめんね、と思いを言葉にしかける貴道の鼻先に、竹箒の柄の先端が横たわる。ちょうど、貴道と美冬の間に竹箒が割り込む形となった。
「タカミチ、お手々が止まってるヨ?」
「え、う、うん……」
自分が受け持っていた部分だけ落ち葉が残っていることに気付き、慌てて掃こうとするのだが、
「……えっと、美冬ちゃん?」
「…………」
何故か美冬は、つまんでいる詰襟の袖を離してくれない。
「ミフユ、タカミチの邪魔しちゃダメなノ!」
カティに言われても頓着した様子はなく、いよいよ視線が『じっ』から『じぃ〜〜〜〜〜っ』に変わりかけてきた美冬は、「先輩」と静かに口を開く。
「手伝います」
「え?」
何でもない一言のように思えるが、やはりどうしても対応に遅れる。簡潔に述べるところはゲンさんと同じだが、美冬の場合は唐突に、しかも思い出したようにぽつりと呟くのだから、どうしても会話がワンテンポほどズレてしまうのだ。
「手伝います」
「あ、いやその、分かったから」
再び淡々とした口調で呟くように述べた美冬へと、貴道が微苦笑を浮かべて竹箒を差し出すと、美冬は足元に荷物を置いてから受け取り、それ以上一言もも発さずに黙々と掃き始めた。
「ほラ、タカミチも頑張っテ!」
「う、うん」
カティから竹箒を押し付けられた貴道は、苦笑しつつ美冬がまだ掃いていない部分の落ち葉を集め始める。
作業の途中、貴道は俯いて取り組む美冬に目をやる。
態度の悪い子――という評価をしばしば耳にするが、美冬がそう言われるほどの人物だと貴道は思わない。たしかに無愛想な一面もあるが、言動を見ていると礼儀正しい方であると評価していた。
現に今朝も、寝過ごしてしまい、ホームルームまで時間が少ないにもかかわらず、わざわざ手伝いに来てくれているのだ。やはり根はいい子なのだろう。
「偉いね、美冬ちゃんは」
「そうですか?」
首だけを動かして、美冬はこちらを見つめてくる。反応の速さというかよさに驚きつつ、「うん」と貴道は頷く。
「こうやって、ちゃんと手伝いに来てくれてるじゃないか。やぱりいい子だよ、美冬ちゃんは」
「……そうですか」
今度は、いつもより遅れた相槌の後に「ありがとうございます」が付いた。今気付いたことなのだが、心持ち顔も赤いし呼吸が落ち着いていないように見える。ここまで走ってきたのだろうか。
「タカミチ、カティもお手伝いしたヨ? カティもいい子? いい子?」
「うん、カティもいい子だよ」
全身でぶつかってくるカティの頭をもう一度撫でる。滑らかだけど少しクセのある髪の感触はよく知っているが、何度撫でても飽きが来ないのは不思議だった。
「…………」
「?」
右肘辺りの袖に違和感があったので振り向くと、そこには右手で詰襟の袖をつまみ、左手で竹箒を差し出している美冬の姿があった。
「終わりました」
「え? あ、ありがとう美冬ちゃん。それと何だかゴメンね、僕だけ何もしてなくて」
気がつけば、殆どがカティと美冬によって殆どの落ち葉が片付けられていた。美冬が掃いたと思しい部分は掃き残しが目立っているが、何もしていない人間があれこれと言うべきではない。
(後で僕が責任持って掃いておこう……)
などと思う貴道の手は、いつの間にやら無意識に美冬の頭にまで手を伸ばしていた。
「……ぁ」
「タカミチ、そっちはミフユだヨ!」
「え?」
カティの声で自分の手が美冬の繊細な髪をクシャクシャとやっていること気付いた貴道は、慌てて手を離した。
「ご、ごめんね美冬ちゃん。間違えて撫でちゃって」
「いえ……」
何か言いたげな様子だった美冬は、名前の通りに涼やかな視線を少し下げて、
「これで、おあいこです」
と呟いた。
「? そ、そう?」
「そうです」
何はともあれ、ここで朝の日課が終わる。
時刻は八時二十分。玄関で美冬と別れた貴道とカティは、二階にある教室へと向かう。これぐらいの時間帯ともなると、やはり各教室からの話し声や騒ぐ声が耳に入ってくる。
「…………?」
道中の廊下で、いきなりカティが組んでいた貴道の腕を軽く引っ張っる。
「……タカミチ」
「どうしたの?」
俯くカティは、何やら身を捩りながら消え入りそうな声で「ちょっとだケ、ここで待っててほしいノ」と申し出た。
「ああ」
言われてすぐに、納得する。カティが貴道引き止めたそこは、女子トイレであった。
断る理由が全く浮かばないので、貴道は頷く。『タカミチ、一緒に入っテ』と言われなくなって既に五ヶ月近くになるが、それでもまた言い出すのではと不安になる時はある。
流石にもうないだろう、と手放しでカティを信じる貴道へと、地球上の不幸全てを背負ったかのような男子生徒が話しかけてきた。
「よぉ、おはよう……」
何の特徴も見つからない――そんな悲しい特徴を持った友人、猿渡浩助である。どういうわけか、妙にやつれているというか傷だらけというか、兎に角全体的に燃え尽きている感があった。
「お、おはよう浩助」
当然、友人の不調を見過ごしておくことなどできるはずもない貴道は「……どうしたの? 元気なさそうだけど」と挨拶の後に続けた。
「…………」
すると、急に浩助が怖い顔を作って押し黙る。かと思えば、
「聞いてくれよぉ貴道ぃ〜」
いつものやる気のなさそうな声と一緒に、貴道の肩へ倒れかかってくるのだ。浩助には悪いと分かっていても、やはり驚いてしまう。
「聞くも涙! 語るも涙! の土日でよ〜。ま、とりあえず教室行って話聞いてくれよ」
「い、いや浩助、まだ僕――」
やつれた浩助は、いつもと違う点が一つあった。
いつもは真っ先に挨拶をしているはずのカティのことを、丸っきり忘れているということである。
(ごめんカティ……)
肩を組んで強制連行される中、貴道は胸中でカティに謝るのだった。
九時十分。月曜日の一限目である数学は、いつものように狛杉先生の「あー……とりあえずビールで」という惚(とぼ)けた発言から始まった。
先生の板書する乱雑な文字、眠たげな声で話す内容を随時ノートに書き込む貴道の姿は真剣そのものであった。そのものであったのだが、
(うーん……)
授業の内容を理解するまでには、やや遠いようであった。
(え、えーと? サイン二乗シータとコサイン二乗シータを足したら1だから、えー……)
カティや義妹である緋乃(ひの)のお陰で、理数科目はそれなりに補強されたはずだったのだが、応用になると手が出なくなる辺りに限界を感じてしまう。
進退窮まる貴道は、視線を右隣の席に座る少女へと移す。体育や芸術系科目以外で高得点を楽々叩き出すカティは、貴道や浩助からすれば救世主に等しい。
「カティ――っぃ!?」
寸でのところで、貴道は声をひそめた。
「うユー……」
そこには席から身を乗り出し、物欲しそうな表情で貴道の腕を掴もうとしているカティの姿があった。
周囲に聞こえないよう気を配りながら「どうしたの?」と訊いた貴道に、カティは潤んだ瞳でこう言った。
さびしいから、手を繋いでいて欲しいと。
「うーん……」
微苦笑を浮かべて言葉を濁しつつ、貴道はカティが未だに直そうとしない癖に頭を悩ませる。
単純なようで複雑な事情から、カティは貴道と接触していないと落ち着きをなくす。厳密に言い表すと、接触している状態がカティにとっての常態となっていた。
三分から五分程度なら耐えられるようだが、十分以上離れていると目に見えて落ち着きがなくなり、三十分過ぎるか、視界に映らなくなると本格的なパニックに陥り、更には軽度の退行も見られた。貴道の名前を叫びながら飛び付いてくるのも、それが原因だったりする。
目も当てられない現状であるが、初めて会った時の、貴道が離れる素振りを見せただけで取り乱していたことを考えれば、これでも大分改善された方なのである。
「も、もうちょっとくらい我慢できない、かな?」
今にも泣き出しそうなカティを見ていて痛ましい気持ちにはなるのだが、敢えて貴道は心を鬼にしようと試みる。
「カティはいい子だから、ちゃんと我慢できるよね?」
「でモ、でモ……」
何度も貴道の顔と手の間で視線を往復させながら、カティは口を尖らせる。
「カティ、もう二十分くらいタカミチにきゅってしてなイ。もう我慢できないもン」
「まだ十六分くらいだよ」
ほら、と壁掛け時計を示した途端、カティは唇をへの字に曲げたかと思うと「四捨五入したラ、ちゃんと二十分だもン」と言い返してきた。
「そうだけどさ……」
「じゃア、何でダメなノ?」
涙に濡れた空色の瞳が、真っ直ぐに貴道の顔を映す。
その脇では、
「そんじゃ、次の問題を……えー、猿渡(サル)」
「わ、分かんねっす……」
「あっそう、じゃ佐柄木(さえき)兄」
貴道の視界の隅で「はい」という名前に相応しい清涼感のある声で佐柄木涼太郎(りょうたろう)は淀みなく解答を述べると、『姉』である涼香(すずか)へ爽やかな笑みを見せた。
「えっと、その……まあ、今は授業中だし、ね?」
「でも二ヶ月前は『いいよ』って言ってくれてタ。五日前ニ、ラーナにはしてタ」
まるで罪状でも読み上げているかのようなカティの口調に、貴道は言葉を詰まらせる。心境としては、冤罪に問われている人間のものに近い。
「それにタカミチ、まだ埋め合わせしてくれてないッ」
「え?」
カティが妙に力んで言った『埋め合わせ』という言葉に、思わず目を丸くする。
ホームルームの最中、ご機嫌斜めのカティは隣の席から身を乗り出して貴道の手を握り締めまま「まだダメなノ!」と手を引っ込めようとしていた貴道に怒っていた。こうなると手強いもので、ちょっとやそっとのことでは絶対にカティは機嫌を直してくれない。
(――「あ、後で何とか埋め合わせするから。ね?」――)
「あ……」
はたと貴道が手を打つ脇では、
「ん? どーした猿渡。そんなに睨んでて、随分と自信ありげじゃあないか」
「!」
「じゃ、今度こそ頑張ってみよーか?」
「クッソー……!」
またしても浩助が思っていることを口に出してしまっている時、ようやく貴道はホームルーム中にカティとしていた約束を思い出す。
「え、いやでも、あれは――」
「タカミチ」
声量は微かに、だがそれだけに切実な響きを含む声音で、カティは貴道に訴えかける。
「ねえタカミチ、手握ってちゃだめなノ……?」
「え、えーっとぉ……」
苦笑を浮べて、貴道は自分の敗北を悟る。即答できなかった時点で、何を言ってもカティは聞き入れてくれまい。頬を掻きながら「分かったよ」と申し出を受け容れると、すぐにカティは表情を輝かせた。
現金なんだから、と桜が毒づく気持ちも分かるが、顔中で嬉しさを表現しているカティを見ていると許せてしまうのであった。
その脇で、
「おっし、じゃあサ――」
「ぜんぜん分かんねっす! あと俺、ちょっと便所に行ってきまっす!!」
「あ――」
「エヘヘ〜」
落ち着きのない浩助が狛杉先生を振り切るようにして教室を出て行った時も、カティは幸せそうに握り締めた手に頬を寄せていた。
(あ、数学のノート、どうしよう……)
狛杉先生は依然として授業を進めている。一方のカティは、べったりと貴道の掌に
無論、ここまでの間に埋めてあるはずだったノートは空白のままであり、後で浩助と一緒にゲンさんを頼ろうと思うのだった。
授業が終わり、トイレに行こうと腰を上げた貴道に、ゲンさんが歩み寄ってきた。
「あいつ、どうしたんだろうな」
「……うん」
ゲンさんの指す『あいつ』のことを思い、貴道は表情を曇らせる。
トイレから戻ってきて五分も経たない間に、浩助は奇声を発するばかりか、やおら立ち上がっておかしな動作を始めていた。貴道も全て見たわけではなかったが、あの動きは尋常ではなかったように思える。
そして、保健室へ行ったきり、まだ帰ってきていない。
珍しく笑みを消し、腕組みをしていたゲンさんが、ゆっくりと口を開く。
「どうしたんだろ、浩助」
「独り言や夏月(かづき)さんのアレはいつものことだとしても、何かが腑に落ちないんだよな」
「土曜日に学校来てたっテ、サクラも言ってたしねェ」
そうそう、とゲンさんと二人して頷き合っていたカティの手が、こっそりと教室から出ようとしていた貴道の手を素早く掴んだ。
「ターカーミーチー?」
「あ、あはは……ごめん」
いつもより低いめのトーンで名前を呼んでくるカティに、貴道は脂汗を浮かべて謝った。誠意が伝わるといいなぁ、と思うが、こちらを見つめるカティはちょっぴり不機嫌そうである。
「タカミチ、どこ行こうとしてたノ?」
「ちょ、ちょっとトイレに……かな?」
「ジャ、カティも一緒に行ク」
当然のことだと言わんばかりに真顔で宣言されると、貴道にはどうすることもできない。
「……分かったよ」
何しろ、休み時間は十分しかないのだ。その貴重な時間を無意味な押し問答で潰してしまうのはカティに悪かったし、何よりも貴道は誰かと争うようなことは嫌いであった。
「エヘヘー♪」
手を握ったまま飛び跳ねてはしゃぐカティを見ていると、何やら妙な視線を感じた。
「タカミチ、早くしよッ!」
「……うん」
どことなくすっきりしない気分のまま、貴道はカティに促されてトイレに向かうのだった。
ちなみに、ゲンさんは貴道とカティが痴話喧嘩と評されてもおかしくない押し問答を繰り広げている間に席へ戻って、ぐっすりと居眠りしていた。
(浩助、本当にどうしたんだろうなぁ)
桜やゲンさんの話を総合すると、浩助は先週の土曜日から(ゲンさん曰く『いつもより』)様子がおかしかったらしい。ということは、先週の金曜日の夜から土曜日の朝ぐらいから浩助の様子はおかしかったことになる。少なくとも金曜日の放課後までは、浩助はいつもと変わらないように見えたのだ。
(部活の時から変だったなら、ゲンさんは知ってただろうし……うーん)
慣れないことに頭を使っているからか、何だかこめかみの辺りが嫌な感じになってくる。貴道の経験上、こうした時はあまり悩まずにいた方がよかった。
(浩助をお昼に誘ってみて、そこから話を聞けばいいかな? あ、でもダメだったら――)
「っくし」
うー、と呻きながら、貴道は鼻の辺りをこする。上着なしでの冬のトイレは、流石の貴道でも耐え難いものがあった。あったのだが、そうせざるを得ない理由が前提としてあったのである。
「タカミチー、まだなノー?」
兎に角『貴道』を感じていなければ落ち着けない、カティという存在である。
外から聞こえてくるカティの催促に、貴道は気まずい思いだったのは言うまでもない。左右に目をやれば、思春期特有の自意識過剰も手伝ってか、妙に落ち着きのない男子生徒らが非難がましく睨んでいる。意味がないとは思いつつ、貴道は胸中で彼らに謝った。
人間とは嫌なもので、幾度となく繰り返される事象には新鮮さを感じなくなり、やがては『いつものこと』として受け取ってしまう。美味しいカレーも、三日経てば飽きてしまうのだ。
何が言いたいかというと、一年近くもトイレや風呂場の外で催促され続ければ(そして時には乱入されれば)嫌が上にも慣れてしまうということだ。
しかし、周囲はそうもいかない。
既に一年と半年を過ぎ、彼女の「ターカーミーチー!」が、ある意味での日常と化してから暫く経った現在でも、男子生徒らにとってカティ・クラゥシアという少女は憧れであり、夢であり、最近では『不可侵にして神聖なもの』であるらしい。最後の部分はあぶなっかしい宗教の臭いがするが、その辺のことは浩助が主催する『カティちゃんFC(ファン・クラブ)』(非公式)の間で静々と広められていることなので、貴道には詳細を知ることができない。
「タカミチー!」
そんなことを考えている間に、外から再び催促の声が飛んでくる。
「今行くよー」
冷たい水で洗い、真っ赤になった両の手をハンカチで拭きながら、貴道はトイレの扉を開け、
「――――っ!」
左側から振り下ろされる、上段からの神速の一刀を視界の端に収めると同時に、ハンカチをポケットにしまった貴道は、左の頬を掠める得物に驚きつつも、間断なく繰り出された二太刀目の軌道を大雑把とはいえ先読みし、目線の少し上――頭頂と指先が直線で結べる辺りで両手を重ね合わせ、竹製の物差しを挟み止めた。剣客もの以外でもお馴染み、真剣白刃取りと呼ばれる技である。
「タカミチ、だいじょブ!?」
「えっと……」
容赦なく力を加えてくる襲撃者に、貴道は七割ほど笑みの抜けた困り顔でこう言った。
「おはようございます、烏丸(からすまる)さん」
「ええ、お早うございます、貴道さん」
コロコロと、上等な鈴を転がしているかのような声音の主は、ふっくらとした印象を与える、三つ編みを左肩から垂らした少女であった。
柔道剣道合気道など各種合わせて十段超の武闘派にして、地元の名士であり、全国にその名を轟かせる烏丸グループの跡取りとも噂されるリアルお嬢様、烏丸響子である。
「あの、烏丸さん?」
「はい?」
未だに瀬戸際での攻防が繰り広げられている中、貴道は申し出る。
「そろそろやめませんか? これ」
「キョーコ、危ないからやめるノ!」
そんな彼女にも困ったところがあった。その日一番の挨拶と称しては、あらゆる道具(に仕込まれた刀剣類)で仕掛けてくるのである。
「うふふ、何を仰いますのやら」
一方の烏丸は、趣さえ感じられそうな挙措で小首を傾げてみせると、柔らかな声音の中に諭すような響きを加える。
「仮にも貴方は烏丸家に婿入りなさる御方、これしきのことは余裕をもって捌かれないと困ります」
「はあ……すみません」
丁寧な物腰ゆえの説得力と迫力によって、貴道は弱々しく謝った。
「タカミチも謝らなくていいノ!」
当然、そうしたやり取りを見過ごせるカティではない。鍔迫り合いの間には入れないものの、貴道の詰襟を抱き締めて抗議する。
だが、烏丸響子という人間は、こうした局面でカティの相手をしない。
「うふふ、流石は貴道さん。見事な身のこなしでしたわ」
「あ、はあ、ありがとうございます」
貴道やカティの申し出をあっさり聞き流し、烏丸響子は常の赤みが差した頬を更に染める。どことなく新妻の雰囲気に似ているのだから対応にも困る。
「聞いてるノ!? 危ないからやめなきゃダメなノ!」
「うふふ。やはり貴方は、わたしが見初めただけのことはあります」
「あのー、烏丸さん? そろそろ手が痺れてきたんですけども――」
全く話を聞いいてくれない両者に対し、とうとう憤慨したカティが遂に「うユー! カティ無視しちゃダメなノー!!」と手も足も出さない貴道と彼女の鍔迫り合いの間に割って入った。
「キョーコ! タカミチが迷惑してるノ!」
無理やりに貴道を引きはがし、猫が威嚇する時のように下からカティが睨みつけるのだが、
「あらカティさん、お早うございます。……ところで、いつ頃からそこにいましたの?」
烏丸はそんなカティに動じるどころか、小首を傾げて頬杖をつき、恥ずかしそうに返しただけであった。それが素なのか、はたまた演技なのかが全く分からないあたりに、ラーナとも違った、彼女の恐ろしさがある。桜や美冬は、そんな彼女を『キツネ女』と呼んでいたが、本当にぴったりだなぁと貴道は内心で同意した。
「うユー! さっきからちゃんといたもン! キョーコが視てないだけだもン!」
「あらあら、そうでしたか。そういえば貴道さん、先ほどの白刃取りですが――」
どれだけカティが食い下がろうとも柳に風、すぐに烏丸は平然と貴道との談笑を楽しんでいた。
「うユー……」
その様子を流石に見かねた貴道が「烏丸さん」と声をかけるより早く、
「タカミチィー、キョーコがネ、キョーコがカティにいじわるするゥ〜」
ここで心の折れたカティは、本当に涙を浮かべながら抱き付いてくるのであった。
「お、落ち着いてカティ、ね?」
「ゆゥ……」
貴道に背中あたりを撫でてもらいながら、まだカティは悔しそうに鼻を鳴らす。彼女としては貴道に仇を討ってほしいのだろうが、当の貴道は微苦笑を浮かべるばかりであった。物干しならぬ物差し(偽)は、未だに烏丸の手の内にあるのだ。
本来なら、貴道がカティと烏丸の顔を交互に見やりながら苦笑いをしている間に時間が過ぎていくのだろうが、
「っと!?」
「うユ?」
今日は、そこに追加事項があった。物差しに仕込まれた白刃が目線を横切るように振り払われるという、何とも危険な追加事項が。
「あ、危ないですってば烏丸さん!?」
「うふふふふ、ちょっとお肩に虫が見えたものですから」
すみませんね、と頭を下げる烏丸の目は、明らかに獲物を狙う猛獣か猛禽(もうきん)類のそれであった。俯き気味なので顔に影が降りていて、より不気味さを増している。
「貴道さん?」
「は、はい!?」
カズラかアサガオの蔓のような、全身に絡みつきそうな視線を向けたまま「関心いたしませんわね」と意味深なことを呟いた。
「え? 何て言ったんですか?」
「うふふ、何でございましょうね? ……それよりもお昼、楽しみにさせていただきますね?」
という言葉を残して再び一礼し、烏丸はその場から去った。
嵐が去った後のような虚脱感を吐息で表すと、貴道は目線を下げる。
「えっと、カティ?」
「なぁニ、タカミチー?」
「寒いから上着返してほしいのと……そろそろ、離れてくれると嬉しいんだけどなぁ」
「ヤダー♪」
烏丸の一刀から庇うべく抱き寄せられたままの姿勢で、カティは頬をすり寄せながら満足そうに笑っていた。そして当然、先ほどの一件もあって周囲からの視線が集中することとなる。
「あ、あはは……」
おそらくこれが、烏丸の狙ってた『置き土産』なんだろう――そう思いつつ、貴道はカティに離れてもらうよう説得を試みるのであった。
その日、ラーナ・クラゥシアは目が覚めるなり仏頂面を更に不機嫌なものへと変じさせる。
「ぬ……」
自身を包んでいた温もりと安らぎはない。あるのは比べることすらおこがましい、安物の布団と枕だけ。
寝る間際まで感じられていた息遣いもない。窓の外から聞こえる囀りなど、耳障りでしかない。
自分と瓜二つの容姿を持っている『敵』――カティを含む少女らを、ラーナはをそのように認識している――はどうでもいいとして、貴道の姿がどこにも見当たらないのである。
幾度かベッドの上で「タカミチは居るのか!?」と声を張り上げるも、結果は直後に訪れる静寂ばかり。その結果にラーナは薄く形のいい眉を逆立て、奥歯をすり潰しかねないほどの力で噛み締めた。
いらいらが募る。
すっきりしない気分のまま、床を階段を踏み砕かんばかりの勢いで駆け下りる。一刻も早く貴道の姿を見ねば、この家を丸ごと消し去ってしまいかねない。
――こうした発想からも分かるように、ラーナという少女は普通の人間ではない。それどころか、『人間』の範疇からも逸脱していると言えた。
一人の狂った男の撒き散らした愚かな野望と幻想、そして恐怖の中から生み出された超常者『世界(ぜん)にして個(いち)、個(いち)にして世界(ぜん)』を最も純粋に体現する存在。それが、ラーナを形作る全ての要素であった。
生物を生物として定義付ける三条件と引き換えに得たのは地球上に存在する、核を筆頭に、薬物はおろか細菌兵器やウイルスさえもが意味を持たないほどの、究極と言って過言どころか物足りないほどの、暴力。
まさに無敵、向かうところ敵なしといったラーナだったのだが、
「タカミチは居るか!?」
リビングの扉を蹴り飛ばすようにして入った彼女を待ち受ける運命は、ああ無常。
リビングには人影どころか物音すらなく、ただ食卓の上にオニギリが三つ四つほど、皿の上でラップに包まれてあっただけであった。
「ぬ……」
怪訝そうな顔はするものの、ラーナは皿の脇に置かれてある書置きに手を伸ばすと一気に目を通した。
[ラーナへ
昨日から調子悪そうだったし、よく眠れてるみたいだからそのままにしました。豚汁はお昼前にはとろ火でお鍋を温め直しておくと美味しくなるよって貴道が言ってました。あとそれから、雨が降らなくても三時ごろには洗濯物を取り込んでてねって カティより]
目覚めた時からから噴火に向かって順調に驀進していたラーナの怒りが、ここでまず沸点を迎えた。
決定打となったのはこの書置きである。どうやらカティが書いたものらしいが、これではまるで自分だけ除け者にされたように思え、しかもそんなことを思う自分にも苛立ち……兎に角、気に入らないのであった。
いらいらが募る。何でもいいから壊したくなってきた。
「……ぬぅ。タカミチめ、何故ワレを起こさなんだ」
彼女ら姉妹が食べやすい大きさに握られたオニギリを鷲掴みにし、可愛らしくも豪快に咀嚼しつつラーナは憤慨する。具である梅干の種さえ噛み砕きかねない勢いだったが、その前に梅干の酸っぱさに顔をしかめる。
「ぬぅ……っ」
顔全体で酸っぱさを表現するという、可愛らしくも器用な芸当もそこそこに、種を吐き捨てたラーナは不機嫌の材料を更に発見してしまう。
彼女の好き嫌いを完全に把握しているはずの貴道が、オニギリの具材を誤るなどという些細なミスを犯すはずがないのだ。
ならば、犯人は一人しかいない。
「おのれカティ……!」
書置きのことも貴道謹製のオニギリに偽装した梅干入りのオニギリも、今朝の彼女には全て許し難かった。
「いや、タカミチも同罪ぞ」
寂しさや虚しさを紛らわせようというわけではない。ましてや腹いせでもない。これは貴道及び愚かな人類どもに対し、改めて畏怖と畏敬の念を抱かせるための、いわば見せしめである。
「……双方、思い知らせてやらねばなるまいな?」
オニギリを握り潰すと、ラーナは火を吐きかねないほどの怒りを言葉に乗せて呟いた。
一番上の数字で重なった長針と短針が震えた理由が、別のものに思えてくる。
十二時四十分。天気は快晴。風は微風。だけど当然というか、やはり少し寒い。
そんな冬空の下、貴道はいつもの面々と一緒に屋上の一角を陣取り、昼食を囲う。
「うしゃーっ! くらっちクンの隣もらっ――」
「うふふふふふふ」
ゆらりと、新聞部『元』部長の背後に烏丸が立つ――それだけで、秋は蛇に睨まれた蛙のように竦み上がってしまう。初めて顔を合わせて以来、どうにも烏丸のことが苦手で仕方ないらしい。
「あらあら、市川様はどうなされたのでしょうね?」
「え、ええっと……」
堂々と貴道の隣を占有し、そしてさりげなく膝に手を添えてくる烏丸に、貴道も秋も笑う他ない。ちなみにカティは反対側で既に寛ぎモードに入っている。
「うユ〜、ターカーミーチィ〜♪」
「あ、こら、今からご飯なんだから、ちゃんと座らないと。ほら」
べったりと貴道にもたれかかっていたのを邪魔された上に引き剥がされて、カティは不満げに頬を膨らませる。その様子に、流石に申し訳ないかなと思った貴道は、軽くカティの頭を撫でる。
「うユ……」
怒りの矛先を見失ってくれたカティは、複雑な表情のまま黙って撫でられている。反対側からの絡みつくような視線に背筋が震えるも、敢えて貴道はカティに意識を向けておく。
「あ、そうだ」
「うユ?」
そんな折、忘れかけていた日課の一つを思い出す。
「ちょっと待っててね」
そう言ってカティの頭から手を離し、真向かいに座る少女に、ピンク色のナプキンで包んだ、少し大きめのお弁当箱を手渡す。
「はい、美冬ちゃん」
「……ありがとうございます」
とても大事そうに受け取ったお弁当箱を眺めてから十数秒後、美冬は思い出したようにぽつりと礼の言葉を洩らした。そんなにお腹が減っていたのかと思った貴道は微笑みながら「どういたしまして」と返す。
「……で、いつまでそーやってんのよ」
「え?」
ぼそりと、美冬の隣で桜が険のある声音で問いかけてきた。どこかにおかしい点があるのかと思い、自分の現状について確かめるが、どう考えても同じ結論にしかたどり着かないことに頭を捻る。
ただ、美冬と向かい合ってお弁当箱を持っているだけではないのか。
「えっと……どこが変かな?」
「あたしに訊かないでよ。訊いてんのはこっちなんだから」
酷薄そうに歪めた唇の間から短く息を吐いた桜の言葉には、何とも言えない棘がある。
「わたしは、平気です」
と美冬が、やはり気にした様子もなくさらりと告げる。
「あ、そ、そうなんだ」
「はい。先輩がよければ、お昼休み中でふぉ……っ!?」
「そしたら蔵岡君が食べれないでしょーに」
横から桜が、美冬の頬を遠慮なく抓る。どうすべきか迷っている間に解放された美冬は少しだけ涙目で、「ひどいです」とだけ言って非難がましくじっと睨んだ。だけど桜は意に介した気配もなく「蔵岡君」と指を指して貴道に背後を見るよう促した。
「? ――っう、わ!?」
「にゃははっ、見つかっちゃった〜」
殆ど背中に張り付くような姿勢で、秋がエネルギーに満ち満ちた笑みを浮かべていた。
「ふっふっふ、背中ががら隙だぜ? くらっちクンよぉ」
「は、はぁ……」
「うユー、アキはびっくりさせ過ぎだヨ」
あっけらかんとしている貴道を他所に、秋は何やら貴道の見えない所でごそごそとしていたかと思うと、
「じゃっじゃじゃ〜ん!! 今日はトリカラすぺさるどぇーっす!!」
特定の誰かへというわけでもなく、ツインテールを翻して薄桃色の弁当箱を掲げる。
「へぇ、すごく豪華ですねぇ」
「あ、本当ね」
そう言って、貴道や桜が律儀に膝立ちになって彼女の弁当箱を覗き込むと、秋の表情が一際輝きを増した。
「でしょでしょ〜っ? 何ならゴチっとくかにゃ、くらっちクンに桜ちゃん!?」
「あ、はい、ありがとうございます」
セールスレディーも真っ青の勢いで詰め寄ってくる秋の弁当箱に整然と並ぶ唐揚げと輪切りのレモンから、貴道は適当を装って一つを選び、半分ほど齧り取る。
「あ」
作られてから時間が経ってしまっているから仕方ないにしても、ムネ肉の食感は柔らかく、味もよく染みている。
「……うん」
お世辞抜きに、美味しい。
「お――」
そう伝えようとした矢先、
「およっ?」
コメントを中断し、貴道は左眼だけで二つ隣に座る少女の様子を窺う。
僅かに顎を下げ、お新香を咀嚼する音も高々に、桜がじっとりとした視線をこちらに向けていた。心もち、話しかけてはいけないような雰囲気も漂っている。
(ど、どうしたんだろ桜……)
純粋に首を傾げる秋の手前、いつまでも反応を引き伸ばすわけにもいかない。しかし、何故か分からないが正直に言うと桜の機嫌を損ねてしまうような気がする。それはそれで嫌だった。
(――「義兄(にい)さん、貴方は本当に我儘なのですね」――)
こんな時に義妹の緋乃から言われた言葉が記憶を過ぎる。
たしかにね、と自嘲気味に貴道は苦笑する。
皆が幸せであってほしい――本当はそんなこと、緋乃や桜が言うように無理なのかもしれない。無理ではないにしても、自分にはできないことなのかもしれない。
「どったの、くらっちクン?」
だけど、そこに至ろうと思い、ひたすら頑張って努力することは充分できるはず。
「あ、いえ」
大したことなんてできなくてもいい。今は少しでも理想に近付きたい。近付けるよう頑張りたい。
「本当に、この唐揚げ美味しいなぁ、って思いまして」
「マジっ!?」
秋のはち切れんばかりに輝いた笑顔を見ていると、本当にそう思えた。
「やーそっかー、美味しかったかー。うんうんっ、くらっちクンのお口に合ってて嬉しいよ!」
「タカミチ、カティもそれ食べル! 食−べーるゥー」
そう言ってねだるカティのためにもう一ついいかと秋に訊こうとしたら、カティは口を尖らせた。
「アキだって唐揚げ食べるんだかラ、あんまり頼んじゃダメだと思うノ」
だかラ、と言うなりカティは、笑顔で貴道の箸先に摘ままれたままの唐揚げを一口で食べてしまった。
「こうやったらいいよネ?」
「そ、そうだね……でも一応、食べながら喋るのはやめようね?」
満足そうにもぐもぐとやりながら、カティは笑顔で頷く。
「……ふーん」
興味なさそうに聞こえるが、聞き逃しは絶対に許してくれそうにない呟きが、貴道の鼓膜に割り込んできた。
やっぱり、現実は上手くいかない。
毅然とした表情で、桜は秋にこう言った。
「先輩、あたしもいいですか?」
「うん? いいよいいよっ、YouバクっちゃいなYO!」
「……それ、だめじゃないですか?」
「ん? そだっけ?」
という秋と美冬によるやり取りの傍らに、桜も秋謹製の唐揚げを
「ちょっと油っこくし過ぎじゃないですか、先輩?」
「おっ、言ってくれるねぇ〜桜ちゃん?」
言葉の端々に挑みかかるような響きを含ませる桜に対し、秋は妙に楽しげな様子で迎え撃つ。
「やっぱお年頃のオトコノコだしぃ、これぐらいが適当じゃないのん?」
「あれ、知らないんですか? 蔵岡君ってサッパリ系の味の方が好みなんですよ」
「――あらあら」
鼻で笑うような桜の横から、多分に艶を含んだ相槌が入る。
「んむ!?」
「!?」
突然下顎を掴まれたかと思うと、貴道の口に無理矢理何かがねじ込まれる。形は見えなかったが、どうやら白身魚の酒蒸しらしい。脂が乗りながらも上品なこの味は、前にも食べさせられたクロムツだ。
「つまり、このようなお味ですのね、貴道さん?」
「は、はあ……まあ」
うっとりとした表情で朱塗りの箸の先を眺めていた烏丸は、貴道の言葉を聞くと頬に手を添えて微笑んだ。夫の健啖ぶりを楽しむ妻の笑みに似ていた。
「よかった。貴道さんのお口に合うのかと、とても心配していましたの」
「……まさか、一服盛ってんじゃないでしょーね?」
と負け惜しみじみた言葉を洩らす桜に対し、烏丸はというと「うふふ」とその場の空気を滲ませただけ。さしもの貴道とはいえ、前科のある人間にやられると少々怖い。
「……烏丸さん?」
「では貴道さん、次はこちらを」
貴道の疑問には一切触れず、手弱女ぶりを体現したような仕草で烏丸は次の一品を箸先で摘み、再び貴道の口元に運ぼうとする。
「あの、えっと」
「?」
小皿を箸先の下に宛がいつつ、烏丸は可愛らしく小首を傾げる。演技だとしても、それはきっと賞賛されるはず。
「気持ちは嬉しいんですけど、自分で食べれますので、その」
「わたしが食べさせると迷惑ですか?」
新妻めいた笑顔は徐々に陰をひそめ、烏丸は拒絶に悲しんでいるかのような表情で見つめてくる。嘘だとか演技だとかに関係なく、そうした表情をされるだけで貴道は胸が痛む。
「え、いやそういう、ええといや、まあ……」
「タカミチ!」
既にお弁当を食べ終わっていたカティが、全身で貴道へとしがみ付いてくる。
「タカミチはカティにあーんってしなきゃダメなノ!」
「ま、まだ食べれるんだね……」
肩越しに貴道がゴボウ巻きを箸で摘んで食べさせるなり「うゆゥ……」とカティは目を細めて溜息を吐く。満足してくれているようなので、もう一つ。
「……貴道さん?」
忘れては困ると悲しそうな顔の陰で主張しながら、烏丸の箸先が貴道の口元に迫る。
「やはり、わたしの手から召し上がるのはお嫌ですか?」
「う……っ」
烏丸の仕草が、言葉が、表情が、貴道の心を容赦なく抉る。
「タカミチ、無理しなくっていーノ!」
「そうよ蔵岡君、無理して烏丸先輩の罠にハマる必要なんてないわ!」
「や、やっだなー、皆して響子さん疑い過ぎだにゃー?」
「……そうですか?」
賛否両論悲喜交々、いつの間にやら他の少女達も混ざって賑わいでいる様子に、貴道は『満面の微笑』を浮かべる。
(ああ、平和だなぁ……)
ちょっとした諍いはあるけれども、それはお互いが近しいから起きてしまうわけで、結局のところ仲がいい証拠になるのではないだろうか。
(――「義兄さんは長所と短所が同じなので、非常に分かりやすいですね」――)
といった緋乃の意見だって、きっと自分が赤の他人だったら言われることもなかったかもしれない。
(『この場において仮想条件など無意味です』って、もっと怒られちゃったけどね)
少しばかり、貴道は苦笑を混ぜていたが、不意に表情を曇らせる。
(……そういえば浩助、どうしたんだろう)
待っていても来ないので先に来てしまったが、あれから幸助が来る気配がない。
(一応、連絡しておいた方がいいよね)
携帯電話を取り出そうとした矢先、
「…………」
貴道は、馴染みのある視線を感じた。
「どうしたの、美冬ちゃん?」
「およっ?」
それまで美冬や桜と話していた秋が、大きく首を傾げる。余談だが、貴道は美冬の方を向いていない。
「……お弁当です。先輩」
「おいしかった?」
微笑み混じりに尋ねると、薄くはにかみながら美冬は頷く。控えめにではあるが、最近は笑ってくれる回数が増えてきている。出会った時のことを考えれば、とてもいい傾向であると貴道は思う。
「ごぼう、でした」
「ゴボウ巻きのこと?」
頷く角度も小さく、美冬は「そうです」と呟くように答えた。
「甘辛かったです」
「よかった。気に入ってくれてたんなら、また作ろうか?」
「……はい」
ちぐはぐにも聞こえるが、しかしたしかな結び付きの上に成り立っている会話。そこだけ切り取ってみれば、非常に心温まる風景である。
「うユー……」
「!」
「あらあら」
――と、ここで快く思わない少女『ら』が乱入する。
「ターカーミーチー!!」
「ぅぼ!?」
まず甘えん坊隊長のカティが首っ玉にかじり付き、精一杯の自己主張をし、
「ちょっとあんた、これぐらいの味付けで褒められていい気になってんの? もうちょっとマシな味付け教えてあげるから、勤労感謝の日空けときなさいよ?」
「え? う、うん……」
桜がムキになって突っかかり、でもさりげなく予定を取り付け、
「うふふ……」
「え、ちょ、ちょっとこればっかりはシャレになりませんよ!?」
止めと言わんばかりに箸を置いた烏丸が、どこからか取り出した竹刀を振りかざそうとする。鍔と刀身にあたる部分の根元で輝く刃金は、とりあえず無視の方向で。
「そ、それにしてもさ」
と眼前の惨状をある程度は気にしつつ、秋が声をかける。
「くらっちクン、よっく美冬ちゃんに気付いたね〜」
「ええ、まあ……」
「うふふふふふ……」
宮本武蔵もびっくりの真剣白刃取りで烏丸と瀬戸際の攻防を繰り広げつつ、貴道はなんとか返答する。
「何となくですけど、美冬ちゃんの言いたいことって分かってきてるんですよ」
「……そうですか」
俯いた美冬が、嬉しそうに呟いた。嬉しそう、といっても表面上の変化は殆どない。僅かな表情やイントネーションの違いぐらいである。
「うふ、うふふふふふふふふふふふふふふふ」
烏丸にも、その違いが分かるのだろう。烏の濡羽色、と表現するにふさわしい瞳が、妖しく輝いた。
「かか烏丸さん!? 何なんですかそのパワー!??」
「うユー! そうなノ、タカミチいじめちゃ駄目なノ!」
がばっとさりげなく背中に張り付いてくるカティの感触について意識する間もなく、貴道は烏丸への弁明を探す。
「あ、あのっ、僕何か烏丸さんを怒らせるようなことを言いました?」
そうやって選んだ言葉が、よりによってこれである。烏丸の眼が、細められたその奥で妖しく輝いたが、
「――だ、だとしたらごめんなさいっ!!」
「……貴道さん?」
貴道が頭を下げて謝った直後には、竹刀に込められていた力と一緒に霧散してしまっていた。
「……そのお言葉は、どのような意図で仰られましたの?」
「僕が悪かったから烏丸さんが怒った――そのことを謝りたいだけです」
烏丸の質問に、貴道は嘘偽りなく答える。間違っていれば謝り、次がないよう努力しようとする――それは貴道にとって、当然のことであった。
「それで、僕は何をしてしまったんでしょうか?」
「…………」
が、その努力の方向性は少々問題がある。
「教えて下さい、烏丸さん」
などと人目を憚らずに真剣な面持ちで質問するのだから、尚のこと性質が悪い。
「僕は何がいけなかったんですか? どうすればそれは解決できるんですか?」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいって!」
勢い余って烏丸に詰め寄りかねない貴道を、桜が慌てて間に割って入って止めた。
「あんたねぇ、すぐそうやって熱入るとこって悪い癖よって言ってるでしょ?」
「う、うん……」
恥ずかしそうに頭を掻きながら、貴道は頷いた。
「ごめん、気を付けるよ」
「分かればいいのよ。……で」
急に桜は声をひそめて、
「休み時間がどうとかって何なのよ?」
一睨みしつつ、そう訊いてきた。
「あ、あはは……ちょっとね」
とごまかしを試みるも、そこは幼馴染であった。
「今度の休みに買い物で手を打つわ。……返事」
「……はい」
しっかり釘だけ刺すと、面倒ごとは嫌だと言わんばかりに貴道の傍で妖しげに微笑む烏丸から距離をとる。
「……そうですねぇ?」
一方、桜の存在など歯牙にもかけた様子のない烏丸は、薔薇色の頬を更に朱に染めると笑みの種類を変え、
「今宵、わたしの拙宅にて父秘蔵の酒を交え――」
「――って! 早速ナニふざけたこと言ってんのよ!!?」
直後、顔をトマトのように高潮させた桜の踵落としを脳天に見舞われたのであった。その際、スカートの中身が貴道に見えてしまうという危険性に関しては全く頭にないらしい。
「う、うふふふふ……」
「か、烏丸さん!? いや桜、流石に今のはちょっと――」
烏丸の容態を気にすべきか、桜に注意すべきかで貴道が迷っていた時、
「――タカミチは居るかッ!?」
途轍もないタイミングで現れた少女が一人、髪を木枯らしに翻らせて戸口に仁王立ちしていた。
「ら、ラーナ!? どうしたのさ?」
「ほう?」
貴道の言葉に耳を傾けつつ、ラーナは可憐な少女の声からは想像もできないほどの重みを感じさせる相槌を発した。 何故か背後には世界最強の生物が見えるけれど気にしてはいけない。
「ワレを前に、よくぞ然様なる事が云えたものよな?」
悠然と、そして傲然と獲物へ歩み寄る虎のようなラーナを前に、さしもの彼女らも言葉を失いかける。平然としているように見えるのはカティと烏丸くらいである。
「タカミチ」
「……は、はい」
自ずと敬語になってしまう貴道の頬に、ラーナの細い――だが、数々の器物人物を再起不能にしてきた繊手が触れる。この怒り具合だと、骨折で済めば僥倖どころか奇跡である。
覚悟を決め、貴道は固く目をつぶる。
だが、
「……え?」
想像していた怒りの鉄槌は飛んで来ず、代わってすぐ右隣から首周りに、温もりが伝わってきた。
「ぬ。これで勘弁してやろう」
「えっと……ラーナ?」
温もりの正体は分かった。すぐ傍に座って、傲慢な笑みの影に満足さを漂わせながら優しく首に腕を巻きつけてきたラーナである。やっていることは可愛らしいのに、虎が喉を鳴らしているようにしか見えないのだから不思議である。
「何を畏れて居るのだ、タカミチ」
「?」
貴道の目と鼻の先で、ラーナは笑みを深くした。微睡む時にしか見せないはずの、甘えるカティに似た笑みである。
「自らタカミチによる安らぎを損ねるほどにワレが無粋ではないことを知って居よう?」
臆面もなく自らの心境を語るラーナの様子は、むしろ誇らしげでさえあった。
「よって、これよりワレが満足するまでタカミチがワレの傍を離れることを許可せぬ。これがそなたへの罰ぞ」
「う、うん……」
桜達からは妙に刺々しい視線は感じるものの、これでひとまず大丈夫かと貴道が安堵しかけた矢先、
「――だがカティ、貴様だけは決して許しておけぬ」
「うユ?」
ラーナは、すぐさま次の火種に点火し始める。すぐ傍から見える彼女の瞳の色はカティと同じであるはずなのに、憤怒の赤に染まっているようであった。
「あろうことか、タカミチがワレのために作ったオニギリに偽装するなど……これは万死に値う愚行ぞ!」
「え、えっと――」
「カティ悪くないもン!」
口を尖らせカティが抗議すると、目に見えてラーナは不機嫌になる。こうなった時の二人は、貴道でも中々治めることができないくらい仲が悪くなる。
「だいたイ、ラーナがお寝坊さんなのが悪いノ! カティはぜーんぜん悪くないノ!」
「ぬぅ……!」
ラーナの髪が、心持ち体積を増したように感じる。正論であるとか詭弁だとかはどうでもいい。ただラーナにしてみれば、自分の意に沿わなければとにかく気に入らないのである。
「ラーナ」
「ぬ?」
臨戦態勢のラーナに、貴道は勇気を出して機嫌をとろうとする。他の人に比べればそこそこ友好的に接してくれているが、それでもラーナは何をするか時々分からない時がある。以前には、美冬にオニギリを作っている最中に殴られそうになったこともある。
「オニギリくらいなら、後でいっぱい作ってあげるからさ、機嫌直そうよ、ね?」
「ぬぅ……」
打開を狙ったつもりだったのだが、より一層ラーナは不機嫌そうな顔を作る。
「タカミチは解っておらぬ」
「え?」
「そなたの作るオニギリは、凡百のオニギリと比べる事すらおこがましいのだぞ」
そうとも、と独り頷いたラーナは柔らかそうな掌を握り締めるなり天高く突き上げ、独裁者か何かのように語り始める。
「外見や味といった要素もさることながら、何よりタカミチが作った――そう、タカミチが作ったという無視すれば死罪に値う要素秘めたるオニギリである以上、一つ残らず、十全と満喫したくなるのは当然至極の事であろう?」
「……分かりますね、それ」
「え、分かんの?」
不意に美冬が、ぽつりと呟いた。その横で桜が、信じられないと表情と声で洩らす。
「先輩のオニギリ、わたしも好きです」
「ぬ」
鷹揚に頷きつつ、『だが貴様になど呉れてやるものか』と視線で牽制するラーナは、しかめっ面で貴道に語ってのける。
「そなたのオニギリが有する価値は計り知れぬ――いいや、計ることすら愚かしい、至宝と呼ぶに相応しい逸品。それ程のものをワレ相手にとはいえ、易々と量産すると云うべきではないが」
が? と一同が首を傾げている中で、
「……それ故に、そなたの申し出は悩むところである」
「あ、あはは……」
ラーナは、貴道を抱き寄せた姿勢のままで「ぬぅ」と唸る。オニギリと人命を真剣に秤にかけている少女(というか人物?)など、世界中探してもラーナぐらいしかいまい。
タカミチ、とラーナが意識を引きずり戻す。
「そなたは、幾つ献上するつもりなのだ?」
どうやら、自分がもらうオニギリの個数が気になるらしい。
「えっと……」
曖昧に言葉を濁して時間を稼ぎつつ、貴道は悩んだ。
幾つでもいいとか、全て平らげたいだとか豪語するラーナだったが、実際は健啖家でもなんでもなく、むしろ虚弱化しているので胃弱に近かったのだが、生まれながらに王様育ちを経てきたラーナは絶対に自分の弱いところを見せたがらない。
下手に少ない個数を言えば『ワレに恥を掻かせるのか』と怒り、かといって過分に言うと『ワレはそこまで食すつもりはない』とやはり怒る。
だったらいつも決まった数を言えばいいじゃないの、とは桜の言だが、ラーナの気まぐれさは侮れないのである。
「……七つ、でどうかな?」
祈るような気持ちで、貴道は切り出してみる。腕に込められる力が強まったような気もしたが、今のところラーナの表情には変化がない。このままいけば問題ないのだが、今現在のラーナが納得する保証はない。
「まあ良い、此度はタカミチの忠節に免じて赦してやろう」
という言葉に、軽く息を吐きながら桜がぼやいた。
「あんたね、毎回毎回どんだけワガママで振り回すのよ?」
「何を云って居るのだ、サクラ」
小煩げにハエでも払うような仕草で手を振りながら、ラーナは片目を眇める。
「本来ならば極刑をも超えて死罪に処してやっても構わぬだけの重罪を赦してやったのだ、ワレに平伏し謝辞を千万と述べるならばいざ知らず、文句を垂れるとは何事ぞ」
「…………」
神をも恐れぬと標榜せんばかりに尊大な態度をとるラーナに、さしもの桜も『何それ』とでも言いたげに口を開閉させる他なかった。
「……ふう」
とりあえず、危機は去った。妙に鋭い視線を感じるが、桜に倣って軽く息を吐く。
「タカミチ」
「?」
そんな貴道のすぐ傍から呼びかけた覇王的少女が、控え目に口を開ける。その意味が分からないでもない貴道は、曖昧に頷くと何とも言えない針の筵の中で、雛鳥よろしく口を開けて待つラーナのために、魚の味噌漬けを箸で摘んだのだった。
「ぬ……」
「ど、どうかな?」
威厳たっぷりに咀嚼し、わざわざ白い喉を見せ付けるようにして嚥下したラーナは「ぬ」と頷くと、
「いつもながらに良い仕事をして居る。流石はワレのタカミチぞ」
そう言って、鷹揚な挙措で貴道の頭を撫でてやるのだった。何故かラーナの手からは、ちょっとだけお米と梅干の匂いがしていた。
「タカミチ! ラーナだけズルいノ!」
貴道の手前、大人しくラーナの背中を見つめていたカティが、再び甘えん坊隊長として貴道の背中にかじり付く。
「……わたしも」
「そうよねー、って! 別にあんたは関係ないでしょ!?」
「あらあら、それではわたしもお願いしてよろしいでしょうか?」
「ちょっ、響子さん……」
窘めるような雰囲気も含ませつつ、当の秋も緊張の混じった視線を向けてくる。
「ぬ? 何ぞ貴様ら、ワレのタカミチに馴れ馴れしく寄るでない!」
「そうなノ! タカミチはカティをぎゅってするノ!」
にじり寄る四人の少女らを牽制するかのように、瓜二つの外国人美少女は貴道を左右でがっちり挟んで動かない。当然のように、二対四つの視線も。
「えっと、あの……」
『あの?』
恐ろしいほどの一致を見せる、計六名の視線が、ガンマナイフよろしく貴道を重点的に貫く。
「あ、あはは……」
冬なのに汗の止まらない貴道は空を見上げる。
寒々しい空の上、飛行機雲が滲んで見えるのは、どうしてだろう。
昼休みが終わり、次の授業に備えて教科書を取り出したり教室を移動している生徒らの中に、貴道の姿はあった。
立っているその場所は、別名『真っ当な手段では未来永劫男子は知ることのできない禁断の地其の壱』、正式名所では『女子更衣室』という。
「うユー……」
「や、やあ」
その女子更衣室から体操着姿で出てきたばかりのカティを、詰襟姿の貴道は半笑いという、何とも貴道らしい表情で迎えた。その隣では同じく制服姿のラーナが、当然のように貴道と腕を組んでいた。
性格や力とは対極的に肉体が脆弱化してしまったラーナは、体育に出ることができない。そしてそもそも、体操着を持って来ていない。制服だけ着て、そのまま学校に来たのである。
「タカミチ」
恨めしげに貴道とラーナの交わる肘を睨みながら、カティは請願する。
「カティも体育お休みしたイ」
「だーめ」
注射嫌いの子どもを嗜めるように、貴道はカティと目線を合わせて諭す。
「カティは元気なんだから、休んじゃ駄目だよ?」
「じゃア、どうしてタカミチもお休みなノ? カティと一緒じゃないノ?」
だからといって、すぐさま分かってくれるカティでもない。まだまだ貴道が一緒にいないというだけで嫌そうな顔をするのだ。
「そ、それは……」
「タカミチはワレの傍に居らねばならぬからだ」
何と馬鹿なことを訊くのだ、とラーナは煩わしげにカティを睨みつつ、貴道を自分の許へ引き寄せる。
「じゃア、カティも休ム! カティもタカミチと一緒がいいもン」
貴道の袖をきつく握り締めて、カティは諦めずに粘ろうとする。
「……あのね、カティ」
「うユ?」
使いたくはなかったけれど、貴道は『切り札』を使った。
「僕は、カティがちゃんと授業に出てくれた方が嬉しいんだけどなぁ」
「……うゆゥ」
手を離し、自身のシャツの裾をきつく握り締めたカティは、下唇を噛み締めたまま睨むのだが、何も言わなかった。
規則云々よりも、貴道自身がどう思うかを伝えた方が効果はある――緋乃直伝の扱い方は、確かに効き目があった。我欲に正直で甘えん坊で、どうしても自分から離れたがらないカティだが、決して聞き分けが悪いわけではないのである。
「でもタカミチ、ラーナにはいいよって言ってル」
諦めは悪い、というのも緋乃の見解だが。
「……ラーナは仕方ないよ。体操着持ってきてないし」
「それにタカミチは、ワレが満足するまで離れてはならぬ。至極当然の結果ぞ」
と言って、これ見よがしにラーナは貴道の腕に頬を寄せた。
「うユ!」
大きな目をこれでもかと見開いたカティは、瞬く間に貴道の腕にしがみ付く。
「タカミチはラーナばっかり贔屓しててずるイ! カティもタカミチと一緒がいいノ!」
「カティ……」
ありったけの力を腕に込めて主張するカティを前にしては、貴道には苦笑を浮かべる他なかった。
「ねエ、どうしてもダメなノ?」
「駄目に決まって居よう」
貴道の隣、カティから見て反対側から、ラーナが獲物を射竦めるような視線を向ける。
「タカミチはワレのみの所有物。貴様如きが気安く触れる事は許さぬ」
「別にラーナが許さなくっても平気だもーン。ネ、タカミチも平気だよネ?」
「……え?」
カティが確認の問いかけをしてくるのが意外だったのか、つい貴道は間の抜けた返事をしてしまう。
「……タカミチ?」
当然、そうした貴道の内情が分からないカティではない。貴道の名前を呼んだ声はいつもの甘ったるい声音ではなく、懐疑的な響きが強い。
「あ、えっと、うんまあ、そう、というか、でもカティにはちゃんと授業に出て、ああでもカティにいじわるしてるとかそういうつもりはなくって……」
カティから見つめられ、ラーナからは睨みつけられる貴道は、始業開始のチャイムが鳴るまで固まっていた。
校庭で寒い寒いと文句を垂れつつ準備運動をしている同級生らを、貴道とラーナは他の見学者と一緒に眺めていた。ちなみに浩助は昼休み中に怪我をしたらしく、まだ保健室にいると体育委員が言っていた。
「……えっと、ラーナ?」
「ぬ?」
自分達から大きく距離をとっている見学者の塊を横目に、貴道は自分の腕に密着しているラーナに話しかける。「喋って良いぞ」と彼女から許可が出ると、空気を白く曇らせながらこう言った。
「どうせだったら、僕らもみんなのとこに行かない?」
「……なんぞ、そのような事か」
下らぬな、と貴道の二の腕辺りに頬を寄せつつ、ラーナは語る。
「ヒトには皆、等しく定められたる『天分』が有る。奴らにせよ……ふん、カティにせよ、あれでちょうど良いのだ」
ラーナは険しい表情でこちらを凝視しているカティに気付くと、傲慢な笑みを強めて台詞を付け足す。
「それにワレは、今この時に余人を立ち入らせる事を望まぬ。たとえタカミチがどう思おうが、ワレは決して望まぬ」
「そ、そうだけど……」
と貴道がいつものように言葉を濁らせていると、ラーナが思わぬ行動に出た。
「っ、ラーナ?」
「ここはワレのみが座せる場所。こうして居って何が悪い」
偉そうにラーナが振る舞うその場所は、貴道の膝の上。
「愚か者には、それ相応の罰を呉れてやらねばならぬ。……それに」
「それに?」
貴道の頬に、ラーナが細長い指を伸ばす。
「喪った時は取り戻せぬ。ならば今、この瞬間を以って喪失を埋める他あるまい。……そう思わぬか、タカミチ?」
「え? う、うん……」
愛しげに頬を下から撫でられて、貴道は微苦笑を強める。そんな貴道の態度が気に喰わないのか、ラーナの眉間にしわが寄った。
「何ぞその応答は」
「え、あ、ごめん」
謝罪の言葉と一緒に、貴道はラーナの頭に手を伸ばして撫でる。「ぬ……」とラーナは何か言いかけたが、結局押し黙ってしまった。これ以上この話題に関しては不問にしてやる、というラーナの意を汲んだ貴道は、体育の授業を受けている他の生徒らの方をぼんやりと眺めることにした。
(……浩助、怪我したって言ってたけど大丈夫なのかな)
当然、大丈夫ではないから保健室にいるのだろうが、貴道は純粋に浩助の安否が気になっていた。
(大事にはなってないんだとは思うけど……後でカティが着替えてから、見に行った方がいいよね。うん)
簡潔に予定を立てると、グラウンドの方に目をやる。どうやら内容は男子がサッカー、女子がドッジボールに決まったらしいことが会話から分かった。並んでいる順番に一人ずつ先生が作ったグループに割り振られ、ぞろぞろと動いていく。
そんな中、カティと目が合った。
「あ、あはは……」
……いつからかは分からないが、途轍もなく機嫌が悪そうだということだけは貴道にも分かった。
やっぱりさっきのことを根に持っているのだろうか、と例によって申し訳なく思う貴道に、ちょっとした救世主が現れる。
カティの後ろを通りかかったゲンさんが事情に気付いてくれたのか、何やら話しかけていた。最初は怪訝そうな顔をしていたカティだったが、ゲンさんの言葉に頷くたびに表情が明るくなっていき、遂には笑顔でこちらに向かって大きく手を振るようにまでなっていた。
(……ゲンさん、いったいカティに何て言ったんだろう?)
「タカミチ」
そんな時のことだった。
他の生徒達が白熱した試合に夢中になっている中、ラーナは不意に貴道の胸元に頭を預けてきた。心持ち、さっきまでより体の力が抜けている。
「……うん」
ラーナの意図を汲んだ貴道は、彼女を両腕で外側から包むようにしてしっかり抱きかかえた。制服越しなのにラーナの暖かさ、柔らかさが伝わってきて、ちょっと気持ちがいい。ましてや、今貴道らがいるのは冬の校庭である。
「ぬ……」
少し眠たげな声を洩らしながら、ラーナは満足そうに鼻を鳴らす。
「やはりタカミチが傍に居ると好い。魂が安らぎで満ちる」
「そう」
より深く腰を落ち着けてくるラーナのため、貴道は優しく腕に力を込めた。口元を飾っているのは、偽りであるはずのない、真心からの微笑。
「今のワレならば、きっとムミョウすら抹殺できよう……」
「……そ、それはちょっと困るかなぁ?」
そこに少々、苦笑い。
「ぬ、そうか。タカミチが困るのは……ぬぅ……」
ラーナはそれ以上口を開かず、じっと瞼を閉じて大人しくもたれかかっていた。不思議に思う貴道の耳に聞こえるのは、おそらく寝息。
「……もう」
あっという間に眠ってしまったラーナに微苦笑を浮かべ、貴道は彼女が膝から落ちてしまわないよう慎重に抱え直す。せっかくリラックスしてくれているのだから、邪魔はしたくない。
耳元で聞こえる寝息と、ふざけ合いも混じったゴール際での叫び声。そこへ囃し立てるような、見学者の声も混じる。どんな高校でも一日に一度はありそうな、取るに足らない光景である。
だが貴道は、そうした光景を目の当たりにできていることに申し訳なさを覚えてしまうほどの幸福感を覚えていた。
その理由の一端を担うのが、現在貴道の膝の上で幸せそうに微睡んでいる少女である。
これほどに小さく、ありふれた少女と変わらないラーナの体は、その内側の奥深くに人智を遥かに超越した力を秘めていた。
体現者――緋乃の実父にして貴道の養父でもある黒銀無明 は、ラーナのことをそう言っていた。『世界にして個、個にして世界』というこの世の理を最も純粋に『体現』すると同時に、あらゆる理をも超克し得る者の一人だとも。
小柄でほっそりとした体躯が発揮する、まるで質量を無視したかのような身体能力に始まって、水平線の彼方に爆発か何かで水柱を作る、道具を使わず空を飛ぶ、人間をいとも容易く『解体』する、逆にあらゆる外部からのダメージを無力化するといった、まさしく反則極まる“力”の数々を、貴道は幾度となく目にしてきた。
そして、それよりも奥に在った、ラーナの抱える闇も。
自分以外の何者をも認めないというラーナの考えは、紛れもなく彼女を独りにしていた。
おかしいとか、間違っていると言うのは簡単だ。でも貴道は、たとえラーナの考えが一般的なものから遠くかけ離れていようとも、その選択だけはしたくなかった。
何故ならそれは、ラーナという一人の女の子を独りのままにしておくという、貴道が最も好まない行為だからである。
「……タカミチ……」
「なぁに?」
確かに呼びかける声を聞いたのだが、問い返してみても反応がない。
「……寝言だったのかな」
覇王然とした佇まいは影をひそめ、だが変わらず気品だけは感じさせる寝顔の少女は、時折何事か洩らしているように思えた。この調子では、体育の間中眠ってそうだ。
何度か危うい目にも遭ったが、貴道はなるべくラーナの傍にもいながら、彼女が『こちら』に馴染めるよう努力した。
その結果が、貴道の膝の上に座り、無防備にも背中を預けているラーナである。あくまでも当面の、であるが。
――人と人は、やっぱり分かり合える。真心からの言葉を、態度を、行動をもって接すれば、必ず伝わるのだ。
よほどの人間でもなければ、自身の価値観を絶対視することはできない。ましてや、他者の存在を重んじる貴道にしてみれば、このことを実感できるほど嬉しいことはなかった。一方的に助けたとは思わない。彼女の力にもなれたことで、自分と自分の理想は助けられたのだから。
「ラーナ、ありがとう」
偽りのない、心からの感謝。思った時には、もう口から出ていた。
「――あ」
何やらこちらに向かう足音が聞こえてきたので顔を上げてみると、そちらには、
「ターカーミーチー!」
めいいっぱい力走してくる、体操着姿のカティ。
「あ、カ――っうわ!?」
貴道がラーナを抱えていることも気にせず、カティは飛びついてくる。『お預け』を喰らっていたためか、いつもより遠慮なく身体を寄せてきていた。
「カティ、ずっと最後まで残ってたヨ! んト、それでネ、いっぱいボール当てたヨ! ねえタカミチ、カティ偉イ? 偉イ!?」
「あ、えっと……」
ラーナが起きてしまわないかと心配する傍ら、貴道は瞳を輝かせるカティの望みを実行することにした。蔵岡貴道は、どんな時でも誰かのために在らねばならないのである。
「う、うん。すごいね」
「エヘヘヘェ〜」
褒めてもらえた上に頭を撫でられたことが嬉しいらしく、カティはいつもより割り増しで甘えてくる。
「……ぬぅ」
その結果、最初から貴道と密着状態にあったラーナが激しく揺さぶられることとなり、もう一人の美少女外国人が瞼をゆっくりと開いた。
「……タカミチ、何故そなたにカティがへばり付いて居る」
「え!? あ、いや……」
「カティいっぱい頑張ったかラ、タカミチがご褒美ニ、ラーナと交代してあげるって言ったんだヨ〜♪」
カティが得意げに語ってのけると、ラーナは眠たげな――だが充分に威圧感のある視線を貴道に向けて刺す。
「ワレはその様な宣旨を許可して居らぬぞ」
「いや、まあ何ていうか、その……」
言葉を探しつつも、貴道の視線は無意識にゲンさんを探していた。どこにいても頭くらいは一つは抜けているゲンさんは、あっという間に見つけられた。
視線が効を奏したのか、ゲンさんはすぐに気付いてくれた。そして、おそらくこちらの事情を察してくれたのだろう。
ゲンさんは、親指を立てると何食わぬ顔でその場から立ち去り、次のドッジボールの試合に臨んだのだった。
「タカミチ、そなた何を見て居った?」
「うユ〜♪」
ラーナとカティ、二人の少女に挟まれたままの状態で、本日の貴道の体育は終わっていったのだった。
嵐のような体育も気だるそうな担任の終礼も終わった放課後、体育に参加していないはずなのに、何故か疲れの抜けない貴道の許に、一人の大柄な少女が訪れる。
「よう、蔵岡」
「何、ゲンさん?」
貴道とクラゥシア姉妹が見上げる先で、ゲンさんは「今日、例のアレ、頼めるか?」と訊いてきた。
ゲンさんの言っている『例のアレ』とは、貴道が月に二度、校内新聞に掲載している料理のレシピのことである。記者との対話形式という珍しい形で綴られる内容は簡単な一品物から少々手の込んだお菓子までとジャンルが幅広いことから、一部の読者層に根強い人気のあるコーナーである。
「僕はいいけど……どう、かな?」
という貴道の発言は、両脇をがっちりと固める二人の少女に向けられたものであった。
「カティも一緒だったらいいヨ!」
カティは満面の笑みで、快く答えた。問題は、残る一人である。
「……駄目かな?」
「ぬ……時に臣下を労うも王の務め。許可しようぞ」
今日は大丈夫だったようだ。何かいいことがあったのかもしれない。
「はいはいっと。んじゃ先に行って用意してくるからさ、今のうちにあのバカでも見舞いに行ってやれよ」
「う、うん」
悠然と立ち去るゲンさんを見送ると、貴道とクラゥシア姉妹も腰を上げた。
廊下を行く生徒らの視線など気にせず、暇を持て余したカティが話題を提供する。
「タカミチ、コースケ元気かナ?」
「……だといいねぇ」
応える貴道の表情は明るいが、影もあった。
「ぬ、奴なら昼間に会ったぞ」
「え、そうなの?」
意外なところからの情報に、貴道はもとよりカティまでもが目を丸くする。
「ど、どうだったの? どこか変なところはなかった?」
「ぬ? そうよな……」
細い顎に手を添え、暫く考えていたラーナは、眉根を寄せた難しい表情のまま答えた。
「……憑かれて、居ったな」
「疲れてた?」
意外といえば意外だった。マラソン大会にも半袖短パンで毎年参加している浩助が疲れてるなんて。
「ねえカティ、金曜日に何か宿題って出てたっけ?」
「んーン、出てないヨ」
「だよねぇ」
他に思い当たる節を考えていた貴道は、午前中の休み時間に交わしたゲンさんとの会話を思い出す。
浩助の様子がおかしくなった原因は、少なくとも金曜日の夜にある。
(そこで『疲れる』ようなこと、かぁ……何だろうな)
訊けるようだったら本人に訊いてみよう。無理でも、銀耶先生に頼めば何か教えてもらえるかもしれない。
「タカミチ、着いたヨ」
「……あ、うん、ありがと」
分からないなりに頭を使っていると、保健室まではあっという間であった。
「すみませーん、蔵岡ですけどー」
「カティも一緒だヨー?」
二人して声をかけると、「どーぞ」という気だるそうな声が返ってきた。
「…………?」
違和感を覚えつつ、貴道はカティに引き戸を開けてもらう。
入ってすぐ目の前にいたのは、退屈そうに椅子に腰かけ、窮屈なスーツの胸元のボタンを外して寛ぐ銀髪の養護教員であった。
「こんにちは、銀耶先生」
「こんにちハー!」
「はいはい、こんにちは。……あら、ラーナちゃんもいたの。こんにちは」
「ぬ」
不愉快そうにラーナはこめかみをひくつかせたが、貴道を横目にすると、尚のこと不愉快そうに押し黙った。
「で、何しに来たの?」
「ええと、ですね」
「うんうん」
難しい表情をしているラーナの様子を気にしつつ、貴道は訪れた用件を切り出した。
「浩助って、まだここにいますか?」
「いーや、もう行ったよ」
面倒くさそうにあっさりと返され、貴道は目を丸くした。
「え、浩助はもう出て行ってたんですか?」
「そ、今しがた元気になってね」
ペン立てに突っ込まれていたコケシ付きの耳掻きで耳掃除をしつつ、「先にクラブに行ったんじゃないかしら?」と付け加えた。
「そう、ですか……」
言葉では頷いていたが、貴道の表情と内心は全く別のことを考えていた。
銀耶のことを疑っているわけではないのだが、後頭部に硬球が当たればそれなりに危険だろうし、ましてや浩助は様子がおかしかった。そのあたりも含めて本当に大丈夫なのかと、不安で仕方ないのだ。
「分かりました。どうもありがとうございます」
いずれにせよ、情報は教えてもらえた。新聞部に行けば、きっと浩助に会えるだろう。
「――なあ貴道」
「はい?」
保健室を出ようとした矢先に、呼び止められた。
「放課後、ちょっと空いてる?」
「もしかして、こがねちゃんのことですか?」
「そ。あの子のこと」
悩ましげなため息を一つ漏らし、銀耶は「悪いんだけどね、六時までにはわたしの代わりに幼稚園に行ってほしいのよ」と付け加えた。
「どう、行けそう?」
「ええ、分かりました」
銀耶から娘さんのことで頼まれるのはいつものことなので、特に疑問を持つこともなく貴道は了承する。おそらく、職員会議か何かが入ってしまったのだろう。
左原こがねは、開業医の大和と銀耶の娘で、今夏に四歳の誕生日を迎えたばかりの幼稚園児だ。左原家とも家族ぐるみの(といっても、今となっては蔵岡家には貴道しかいないのだが)付き合いをしている貴道は彼女ともそれなりに親しくなっており、そのため何度か銀耶や大和の代わりとして迎えに行くことも多々あった。
「……じゃア」
詰襟の袖を引っ張り、カティが主張してくる。
「コガネのとこ行くノ、タカミチ?」
「?」
そうだけど、と答えるなり、ふくれっ面だったカティは輪をかけて頬を膨らませてみせる。
「カティ、今日は早くおうち帰りたイ」
「どうして?」
眉根を寄せつつ、貴道はカティの言い分をしっかり頭に入れようとする。
「だって今日ハ、夕方から見たいテレビがあるもン」
「そ、そう……」
しれっと嘘をつくカティに、貴道は苦笑いを強める。どういうわけか、カティはこがねに会うのを嫌がるのだ。こがねの方もそのことを感じ取っているのか、カティやラーナが一緒にいると落ち着きがなくなっていた。
「で――」
「ならば貴様だけ帰れば良い」
それまで黙っていたラーナが、貴道とカティの間に腕を差し込んでくると、カティを見下すように顎を反らしてせせら笑った。
「ワレはあのような女童(めのわらわ)なぞ、まるで気にも留めぬがな」
「うユ、カティだって平気だもン! コガネなんて気にしないもン!」
「そ、それはちょっとこがねちゃんに失礼なんじゃ……」
とカティに苦笑しつつも、貴道は状況を好転させてくれたラーナに内心で感謝していた。
「……それじゃ、満場一致で受けてくれるのね?」
「ええ、まあ」
と貴道が頷くと、銀耶は退屈そうな表情に戻った。
校舎から東南に向かって伸びる渡り廊下で繋がれた、文化系クラブ棟の一階。[ノックは二回!!]と大書された看板が下げられた傷と落書きだらけのドアの向こうに、人外魔境の地がある――訪れた経験のある、とある一年生の言葉だが、ちょっと大げさではないかと貴道は思う。たしかに個性的な人達だけど、とも。
「すみま――」
「先輩」
ノックをしようとした直後、いきなりドアが開いた。
息を弾ませて出てきたのは、貴道の鼻ぐらいの、カティやラーナよりは少し背の高い女子生徒であった。
市川美冬である。
「やあ、こんにちは美冬ちゃん」
そう言って、貴道は日干ししたばかりの羽根布団のような微笑みを向けた。いつもは無表情なことで有名な美冬だが、この時ばかりは儚げに微笑み返す。
「うユー……!」
「ぬっ」
貴道の両脇に控える少女らの胸中に、昏い炎を点らせるほどに。
「っと、どうしたの?」
「タカミチはカティと一緒なノ!」
「……そうですか?」
「否。タカミチはワレの所有物ぞ」
早くも昼休みの屋上を再現しつつある貴道と彼女らの許に、部屋の奥から強烈なスタカッティシモで声をかけてくる人物がいた。
「っお〜〜〜う!! よーっくぞ来てくれたニャーくらっちクン! ささっ、入って入って。あ、森川君お茶出したげて」
ご存知、元・この部室の“主”にして市川美冬の姉、秋である。本来彼女が座っているのは部長であるゲンさんが座るべき場所なのだが、ゲンさんを始め他の部員も何も言わないので引退後もそのままとなっている。
「え、あ、どうも」
ほら、行こう、と姉妹を促し、貴道も市川美冬の後に続く。
部室自体は他の文化部の部室と同じで、教室の半分ほどの広さ。そこをちぐはぐな長机と十脚余のパイプ椅子、未だに正体不明の段ボール箱などが埋めており、机の上はノート型とデスクトップ型のパソコンが合わせて三台、無数の四百字詰め原稿用紙とルーズリーフ、筆記用具、各部員の私物などが秩序だってか無秩序にかはさておき散乱していて、いつ来ても養父である黒銀無明の私室を思い出してしまう。
「――あ、クラさん達こんにちはー」
最初に目の合った前島陽子が、間延びした口調で挨拶する。浩助やゲンさんが『大食い小動物』と恐れるだけあって、彼女の周囲には、とりわけ大量のお菓子とその包み紙や容器が散乱していた。彼女の相方とでも言うべき眼鏡の少女やその他の面々の殆どがいないところを見ると、それぞれ『取材』に行っているのかもしれない。
「こんにちは」
と返し、いつものように微笑むと前島も笑い返してくれる。桜に言わせれば『ガキっぽい』らしいが、明るくていい笑顔だと貴道は思っていた。
「…………」
「?」
いきなり美冬は立ち止まると、じっとこちらを見つめてくる。どうしたのか尋ねてみたら「お弁当、美味しかったです」と返ってきた。
「あ、ありがとう?」
「……いえ」
最小限の言葉だけで会話を終わらせた美冬は、最奥手前の机で何やらペンを走らせている大柄な少女に声をかける。
「ゲン先輩、先輩が来ました」
「……ん?」
糸のように細い眼でこちらを見据えたゲンさんは「おお、来てたのか」と言ってカラカラと笑う。
「早速ですまんが、作業に取りかかってもらえるか?」
「うん」
頷いた貴道は、壁際に積まれた折り畳みのパイプ椅子を三脚持ってくると、カティに広げるのを手伝ってもらい、それぞれ腰掛ける。当然、間に座ったのは貴道である。
「疾く終わらせるのだぞ、タカミチ」
「う、うん……」
貴道の対面に座った美冬はラーナのことを無視し、「では始めて下さい」とマイペースに告げる。
「……忘れてました」
「な、何かな?」
氷のように透き通った視線を真っ直ぐに向けたまま、美冬はさらりとこう言った。
「聞き逃すのは、嫌です」
「?」
どういうことだろうと思い尋ねてみると、
「……ゆっくりと、お願いします」
美冬は少しだけ視線を下げてそう答えた。
分かったよ、ごめんね――そう言おうと口を開きかけた時、
「……タカミチ」
「ワレの言、忘れては居まいな?」
左右から、少女らが釘を刺してくるのだった。
考えてみれば、この後はこがねの迎えにも行くのだ。美冬には悪いが、ここは断っておくべきだろう。
「……嫌ですか?」
「えー……と?」
切り出そうとした矢先に、今度は美冬から来た。
「あ、うん、ええと、その、嫌、じゃあないん、だ。うん、だけど、その……」
「――お茶だよ……」
計ったかのようなタイミングで、印象の薄い小太りの男子が人数分の『来客用!』と大書された湯飲みを置いていった。
「あ、ありがとう」
「……ま、とりあえずはゆっくり喋ってやりなよ。誤字とかあっても困るし」
そこでゲンさんが、ペンを走らせながら間を取り持った。やっていることも言っていることも真面目なものなのだが、何故か笑いを堪えているように見えた。
「……では、改めまして」
「う、うん」
妙に刺々しさの感じられる美冬の言葉で、取材は始まったのであった。
貴道が選んだレシピは、美冬が気に入ってくれていたゴボウ巻。あれは桜から教わった料理だが、味付けには貴道なりの工夫が施してあり、本人はあまりそう言わないが『自慢の』一品である。自ずと舌は軽くなるので、その都度美冬は貴道に『ゆっくりと、お願いします』と頼まなくてはならなかった。
「ごめんね、つい喋り過ぎちゃって」
「……いえ」
書き留めたルーズリーフの枚数を確認してから束ねると、美冬は静かに首を振る。
「楽しかったです」
だから気にするな、と言いたいのだろう。気遣われることへの申し訳なさはあったが、今は彼女の優しさに甘えておくことにした。
「うん、僕もだったよ」
「……そうですか」
はっきりと――だが俯いて――美冬は微笑んでくれた。何の混じり気もない、純粋な笑顔。貴道の好きな、感情の一つ。
「うユー!!」
「あだだだだっ!?」
「タカミチ、もう終わったならカティと喋るノ!」
今まで話に混ざれなかったことが嫌だったのか、膨れっ面のカティが左腕だけで貴道の腕をきつく締めつつ、思いっきり頬を抓ってきた。
「わ、分かったよ! 悪かったってば!」
「……本当にそう思ってル?」
抓る手を離して、カティは貴道の真意を知ろうとするかのように顔を覗き込んでくる。薄い青の瞳いっぱいに、貴道の顔が映る。
「本当だって――」
「黙って見逃して居れば……度が過ぎるぞ、カティ」
反対側、貴道から見れば背後から、今度はラーナが貴道の首に腕を回してくる。ちょうど裸締めのような体勢になっていて、現状維持が続けば貴道の意識は闇に沈みかねない。
「ら、ラーナ……」
「解って居る。彼奴らがワレの逆鱗に触れねば、ワレからは特に何もせぬ」
胸を張って断言するラーナだが、その視線の先にいる少女達は露骨に不満そうな表情をしていた。あの美冬までが、である。
「……先輩?」
殆ど口を動かさずに、美冬が喋りかけてくる。本人に悪意があるのかどうか分からないが、能面のようでちょっと怖い。
「えっと、何かな?」
「……そうですか」
訳が分からぬままに美冬は椅子をこちらに近づけてくると、
「これで、公平です」
ラーナが貴道の背後に回ったことで空いた左手を両手でしっかりと包み、やっと満足そうにしてくれた。
「あっりゃー。いいニャー美冬ちゃん」
参考書から顔を離した秋が、半ば以上冷やかすかのように声をかけてくる。
「……姉さんでも、代わりません」
「あっはは! そりゃ残念、だね!」
秋の笑い声に影響を受けてか、少しずつ部室の空気から緊張感が解れていく。今回のラーナはそれほど暴れるつもりはなかったらしく、カティが落ち着きを取り戻すと彼女も腕の力を緩めた。
「――次回分の草稿のコピー、先生に渡してきたっすよーって、あれ?」
そんな時、秋のものとはまた違った意味で明るい少年の声が部室に木霊した。
「お、くらっち先輩じゃねっすか。はよっす!」
「? ……うん、こんにちは」
もう夕方なのに、とは思いつつも貴道は少年――美容院の三男坊、ヤタベーこと谷田部宗一郎であった。
「ああ、ご苦労さん。ところでヤタベー、職員室であのバカを見なかったか?」
「バカ? あーはいはい、コースケ先輩なら職員室にいましたっすね」
ふぅん、と素っ気なく返したゲンさんは、髪の結び目辺りを乱暴に掻いた。
「あ――――――――――っ!?」
すると谷田部がゲンさんを指さし、耳をつんざくような、という表現がぴったりくるような叫び声を上げた。
「何だよ、うるさいぞヤタベー」
「髪っすよ髪! そんなコトしちゃったら痛んじゃうじゃねっすか!?」
肩をいからせ顔を真っ赤にして怒鳴る谷田部は、貴道達がいることも忘れた様子で真っ直ぐにゲンさんへ詰め寄った。
「いつもいつも言いますけど、ゲンさんってば髪の手入れがズサン過ぎなんすよ! せっかくそんないい髪質してるんすから、せめて毎月とは言わなくても三ヶ月に一回は美容院に行って下さい! あ、リンスは毎日っすよ?」
「冗談。あんな、たかが髪切るだけで何時間も費やすような場所はご免だよ」
例によって、ちょっと分かり辛い持論を振りかざすけどもゲンさんに躱され続けるヤタベーこと谷田部君。新聞部唯一にして最後のツッコミ役という貴重だが微妙な肩書きを持つ彼だが、ゲンさんによると普段は『こんなもん』らしい。
「というかヤタベー、今はあのバカの話をしてやれ。わたしの髪の話なら、後でまとめて聞いてやるよ」
「おぅ! そっした」
いやー、俺としたことが、などと洩らしながら、谷田部は自慢の髪を指先で弄る。
「で、どうだ? まだ時間はかかりそうだったか?」
「んー、たぶん今日は来ないっスよ。だってあの人帰っちゃいましたし」
「……え?」
語られた内容にまず反応したのは、貴道だった。
「そうなの、谷田部君?」
「? はい、何かチョーシ悪いとかで」
この言葉を貴道は嘘と思っていない。そもそも思うという発想すらなかったのだが、「カティ、ごめん」と謝った直後にはその手は携帯電話をポケットから取り出していた。即座にアドレスを開き、不慣れながらも浩助のアドレスを出そうとしたところで、
「蔵岡」
「……あ」
ゲンさんに声をかけられた貴道は、そこでようやくカティや美冬ばかりか、秋を含む他の部員、果てはラーナにまで気遣わしげな視線を向けられていた。
「あのバカはわたしに任せておいてくれ。奴のしてることは、部長としても放っておけん」
「……うん」
携帯電話を戻すと、まずはカティに「ごめんね」と言って恥ずかしそうに微笑んだ。カティは嬉しそうな顔をして、右腕に再びしがみ付いてくる。
「……タカミチ」
「うん、僕なら大丈夫だよ。ラーナ」
そう言って彼女にも微笑むと、「ぬ」とだけ返された。
心配だという気持ちは変わらない。どうにかしたいという気持ちも変わらない。
だけど、焦っちゃいけない。それが大切なものなら、大事なことなら、尚のこと。
「それじゃあゲンさん、浩助のこと、頼んでいいかな?」
「おお、任せときな」
糸のように細い眼を開き、ゲンさんはかくと頷いてみせた。その様子に安心しつつ、そろそろ暇を告げようかと思ったのだが、
「…………」
貴道の左手は、まだ美冬の両手に包まれていた。
「美冬ちゃん、そろそろ」
別れの時間が来たことを知って、美冬は切なそうな表情を浮かべる。まるで今生の別れでも迎えているかのようなその様子に、貴道も困ったように微笑む。
「もう、駄目ですか?」
「そ、そうだねぇ」
じっと見つめてくるばかりか、詰襟の内側、ワイシャツの袖まで摘んでくる。そのまま離れそうにないのでこちらからするしかないのだろうが、じっと無言で見つめられると良心が激しく痛む。
「……駄目、ですか?」
「え、いや……その」
美冬は、貴道の言葉に光明を見出したのだろう。無機質な相貌に三分の笑顔を咲かせたかと思うと、ためらいがちに口を開く。
「せ――」
「――早くするノ!」
美冬が何か言いかけた矢先、またもやカティが割り込んでくる。
「う、うん……」
頷きつつ、貴道はまた悲しげな表情をしている美冬にこう言った。
「ごめんね、美冬ちゃん。また明日」
「……はい……」
見るからにしょんぼりとした様子の美冬は貴道の手を離すと手近にあった自分の鞄から弁当箱を取り出した。昼休みが終わると、決まって美冬は『洗って返します』と言って持ち帰るのだ。
「……お弁当、美味しかったです」
「あ、ありがとう。……明日は、何か美冬ちゃんの好きなものでも作ろうかな?」
「……本当、ですか?」
信じられない、と言った様子で、美冬は胸前で手を組む。
「あの、先輩」
「うん」
微苦笑を浮かべる貴道の前で、美冬は何度もつかえながら『後でリクエストのメールを送ってもいいか』と尋ねてきた。
無論、断るという選択肢は初めからない。
「うん、いいよ――」
「タカミチ!」
カティの細腕に半ば引きずられる形で、貴道は新聞部を後にすることとなった。
扉が閉まった後も、美冬の姿は曇り硝子の向こうにあった。
校舎を出てみると、早くも暗くなってきている。流石は冬だなぁ、と思ってみるのだが、どうも気は晴れない。妥当性から浩助のことはゲンさんに託したが、それで気が晴れるかというと、やはりそうでもない。
理性だけで全部を解決させようなんて、自分には向いていないのかもしれない。
「タカミチ、顔色悪いヨ? 大丈夫?」
そんな気持ちを汲み取ってくれたのか、校門を出た頃からカティが心配そうに下から顔を覗き込んできた。
いけない。カティ達を心配させてしまっている?
だったら駄目だ。蔵岡貴道は誰かを心配しても、誰かから心配されてはいけない。
「カティ、ありがとう。でも僕なら大丈夫だよ」
「うユ……」
なるべく明るく振舞ったつもりだったが、カティの表情はまだ晴れない。それどころか、ちょっと泣きそうだ。
「ほ、本当だよ? だから泣かないで、ね?」
そう言って笑ってみせるのだが、カティはまだ不服そうにしている。子どもっぽいと周囲から言われているカティだが、鋭い一面もある。子どもっぽいから、なのかもしればいが。
「――タカミチ」
「? ……っあひゅ?」
貴道がカティと向かい合って固まっていると、急にラーナが貴道の頬を掴んで無理矢理に捻ってくる。首が回る限界で止めてくれたのは、彼女なりの配慮なのかもしれない。
「ひょ、ひょうひたのラーナ?」
「タカミチが嫌がってるから手離すノ!」
頬を掴まれているので上手く伝わるか分からなかったが、機嫌悪そうに目を細めたところを見ると分かったらしい。
「ワレは、そなたの陰鬱な顔など見ぬぞ」
見たくないという希望ではなく、見ないという、厳然たる意思の表明。
突然の告白に、思わず目を丸くしていると、ラーナは気にせず話を続けた。
「そなたが如何様な心境に在るのか、ワレは知らぬし、また知ろうとも思わぬ。ワレの傍に居る時は、ただワレの事のみを考えて居れば良い」
「え、っと……?」
「うユー……!」
何だか右腕への締め付けがきつくなっているような気もするが、今はラーナの話を聞いておきたかった。
「あの者の事は暫し忘れておけ。そなたがいつまでも陰鬱な顔をして居ると、ワレまで気が滅入るのだ」
「ラーナ……」
貴道がじっと言葉に耳を傾けていると、何故だかラーナは鼻を鳴らして視線を電柱やバス停に向けるのだった。
「云ったであろう。ワレはそなたを見て居って胸糞悪い気分になりたくない、それだけぞ」
「ひょ、ひょほ……?」
見てると、何だか気まずそう……な、気がした。
「ラーナってば素直じゃなーイ」
「ふん、貴様は口を慎んで居れ」
横からカティが茶化してくると、ラーナはさっきまでとは違う、心の底からどうでもよさそうな対応をとった。
「やーダー♪」
それでもカティはやめず、ラーナに対し同じような言葉を繰り返す。何だかいつものカティらしくないなぁ、と普段の貴道なら暢気に思っているところであったが、状況が状況なだけにそんな暇はない。
「ぬ」
ラーナの眉がはっきりとしわを作ったのを、貴道は彼女の指越しに見た。そしてまずいとも思った。基本的にラーナは、他人と交わることも交わられることも嫌うのだ。
ましてや、カティの両腕は未だ貴道の右腕にある。どんな理由で不機嫌になるのか分からないラーナのことを考えれば、安心できない。
「……ワレが寛大さを示してやれば付け上がりおって」
「カティ、ラーナに優しくしてもらった覚えないもーン」
とりあえず、二人を宥めるのと、そろそろ頬が痛くなってきたので頬から手を離してほしいかな、ということを貴道は思い切って切り出すことにした。
いつの間にか、その表情にあった影は薄らいでいた。
午後十七時四十九分。田路町市立にじいろ幼稚園の児童用玄関に、三人の姿はあった。
「あー、たかみちだー」
「ほんとだー。きょうもおんなづれだぞー」
「あ、あはは……」
園児達からいつもの手痛い歓迎を受けつつ、貴道は職員室から出てきたばかりの保育士さんに声をかける。
「こんにちは」
「あらこんにちは、お兄ちゃん」
貴道らの姿を見ると、顔見知りになっている保育士さんは悪戯っぽく笑って「いらっしゃい」と迎えてくれた。初めに来て以来、この保育士さんはずっと『お兄ちゃん』と呼ぶのだ。
「今日もこがねちゃんのお母さんの代わりに?」
「ええ、はい」
ありがとうねぇ、と保育士さんが笑いながら言ってくれるので、つられて貴道も笑う。
「っ痛!?」
「ふーン、ダ」
その際、カティに思いっきりつま先を踏まれたのは、ここだけの話。
そうした様子も微笑ましそうに見ていた保育士さんは、一人教室まで向かっていた。
「こがねちゃーん、お兄ちゃん迎えに来たわよー?」
保育士さんが声を張り上げると、しばらくして軽い足音が部屋の方から聞こえてきたのだが、不意に音がやむ。
「…………」
教室と廊下の境目で、スモック姿の銀髪の女の子が、上半身の半分ほどを覗かせて、恥ずかしそうにこちらの様子を窺っていた。
「こんにちは、こがねちゃん」
「……こんにちわ、なの」
保育士の後ろに隠れながら、こがねちゃんと呼ばれた幼い少女は礼儀正しくお辞儀をする。
「……おにいちゃん、なんで? ……なの」
舌ったらずな言葉遣いで、こがねは銀耶ではなく、貴道が来た理由を尋ねてきた。
「えっと――」
「あ……」
不意に、こがねの表情が少し明るくなる。
「……おとまり?」
「……その、今日はそうじゃないんだ、ごめんね」
違うと言われて、こがねはすぐに表情を曇らせる。慌てて貴道は、フォローに入った。
「今日はね、その……こがねちゃんのママが忙しくて、それで来たんだ」
「……わかったの」
フォローの効き目がどれだけあったのかは分からないが、こがねは納得してくれたらしい。振り返ると、やはり微笑ましそうに眺めている保育士さんに、さっきと同じように頭を下げて挨拶する。
「せんせい、さようなら」
「はい、さようなら」
保育士さんとお決まりのやりとりを終えたこがねは、遠慮がちに貴道を見る。
その視線の意味を理解している貴道は微笑みを浮かべて、目線をこがねにあわせようと屈んだ。両腕を左右から抱える姉妹は立ったままなので、磔にされたキリストのような格好になっていた。
「お家までは、どうする?」
貴道が訊くと、こがねは迷った様子で貴道の顔とアスファルトを何度か往復させた後で、
「だっこがいい……なの」
結局、甘えることにしたのだった。
「いいよ」
二人に断りを入れて腕を離してもらってから貴道は屈み、「おいで、こがねちゃん?」と言って軽く腕を広げてみせる。カティとラーナからの視線が少し痛いが、それは我慢するしかない。
「……おねがい、します?」
「はいよくできました」
苦笑しつつ、貴道は四歳児とは思えないほどに奥ゆかしいこがねをしっかりと抱きかかえ、ついでに頭を軽く撫でる。こがねもクセのある髪質だが、カティやラーナとはまた違う感触なのだから不思議だった。
こがねも嫌ではないらしい。例によって、最初はおずおずとだった両腕が、ちょとずつ首に回されてくる。
「えへ……」
「ぬぅっ」
「?」
いきなりラーナが眼を光らせたかと思うと、再び腕に抱き付いてきた。
「何の不都合も有るまい?」
ラーナはねじ込んだ腕を貴道の肘の所で深く食い込ませながら、鋭い視線を投げつけてくる。
「えっと……うん」
「ぬ」
返事を聞いてからもしばらくは不服そうだったラーナだが、どうにか笑顔を見せるようになってくれた。カティとの一件は、ひとまず大丈夫かもしれない。
などと安心していると、やはり彼女が不満の声を上げるのであった。
「タカミチ、カティもなノ! カティもだっこするノ!」
「え、いや、その、そう言われても……」
手が塞がっているから無理だよ、とまでは言えず、そこで貴道は言葉を濁してしまうのだが、
「うユー〜〜〜……!」
結果として、またしてもカティの機嫌を損ねてしまう。
「ターカーミーチ――――――――――――っッ!!!」
「ぁわ!?」
カティに背中へと飛びつかれる。貴道自身には何の問題もないのだが、勢い余ってこがねを落としかねないので、腕に少し力を込めた。
「ぁ……」
その際、こがねが言葉になるかならないかの、小さな呟きを洩らした。
「ご、ごめん、大丈夫?」
慌てて尋ねると、こがねは大きく首を横に振る。
「こがねは、だいじょうぶなの」
「そ、そう」
背中にカティ、右腕にはラーナを貼り付けたまま、貴道は弱々しく微笑む。
左原家までは、こうしたやり取りが延々と続くのだった。
この前に幼稚園で描いた家族の絵の話を聞いている間に、左原家が見えてきた。
左原家は、蔵岡家のある住宅街とは団地を挟んだ南向こうの住宅街にある。その辺りは丘や山を削って造られたので坂が多く、カティが疲れを見せ始めていた。
「タカミチー、カティ疲れたヨー」
おんブー、と肩に顎を乗せて訴えてくるカティに、貴道は申し訳なさそうな顔をする。
「もうちょっとだから、我慢してくれるかな?」
「うユー、でもカティ疲れたもン」
ほっぺたを思いっきり膨らませたカティは、貴道越しに恨めしそうな視線をこがねに送る。
「コガネ、カティと交代しテ」
「……ゃ」
言下に拒否したこがねは、反対側の貴道の肩に顔を埋める。ちょうど顔を隠すような形である。
「タカミチィ〜」
「も、もうちょっとだから……」
何かにつけて交代してほしいとねだるカティをどうにかこうにか宥めすかして、貴道ら四人は『左原外科』と書かれた看板のある家まで辿り着いた。
「診察は……あ、まだやってるんだ」
携帯電話と看板の診察時間を見比べて、貴道は独り呟く。左原家は一階にあたる坂の下の方が病院になっているのだ。
「ぱぱ、まだがんばってる……なの?」
「うん、そうみたいだね」
相槌を打つと、こがねは嬉しそうな、どことなく誇らしげな表情をする。自分のこどもにこんな顔をしてもらえるような大人に、いつか自分もなれるのだろうか。
(……そもそも、僕はどんな仕事をしてるんだろ?)
などと考えつつ、貴道は二階の方ではなく、一階にあたる病院の方の玄関を通る。
下駄箱には靴が一足あったが、待合室には人の姿はない。きっと診察中か、トイレに行っているのだろう。
「いらっしゃ……ああ、こんばんは、蔵岡さん」
「こんばんは」
受付にいた女性はこがねに気付くと、「少々お待ち下さい」と断って受付を離れた。トイレなのかもしれない。
壁の向こう、診察室の辺りから慌しい気配が伝わってくる。過去の経験から何が起きているのかよく知っている貴道は、こがねに目を向けると首を傾げて苦笑した。
「――すまない。待ったかな?」
腕に包帯を巻いた老人と一緒に診察室から出てきたのは、眼鏡をかけた白衣の男性であった。長身に怜悧な雰囲気が相俟っており、医師というよりも若年の理系学者に見える。
こがねの父親にして銀耶のよき夫、左原大和である。
「こんばんは、大和さん」
少し息の荒い大和に、微笑みながら挨拶する。幾分か落ち着いてきたのか、息を整えていた大和は「ああ、こんばんは」と、いつもの怜悧な雰囲気を漂わせながら返した。
「銀耶から話は聞いていたよ。いつもありがとう、貴道君」
「いえ。当然のことですから」
「……そうか」
貴道との会話もそこそこに、大和は貴道の胸に抱かれたままのこがねに目を移す。
その途端、怜悧な雰囲気が一気に溶解する。
「おかえり、こがね。どうだった? お外は寒かったろうに、後でちゃんと手洗いうがいをしに行くんだよ? 幼稚園で怪我はしなかったかい? 誰かに苛められたりしなかったかい? お弁当はちゃんと食べられたかい? 先生が何かこがねに意地悪してないかい? ああ、それにしてもなんて君は可愛いんだろう」
「や、大和さん……」
ちょっと困った表情をしているこがねに代わって貴道が言うと、大和は我に帰った。
「……ああ、すまない。またしても愛らし過ぎるこがねを前にして、僕は我を忘れていたようだよ」
「は、はあ……」
冷静に自身が陥っていた状態を分析している大和に、貴道は苦笑いする。どんな時でもマイペースな大和は、時々こうやって無自覚に人を混乱させるのだった。
「ほらこがね、パパの所においで?」
敏腕医師としての怜悧な雰囲気はどこへやら、大和はまたしても子煩悩な初心者パパへと変貌していた。
しかし、
「……ゃ」
こがねは貴道から離れるどころか、より力を入れて貴道の首にしがみ付いた。
「まだ、おにいちゃんといる……なの」
「うユ!」
「……ぬ」
「――あのね、こがね」
姉妹が反応するより僅かに早く、大和が口を開いた。
「貴道君達は、もう帰らないといけないんだよ?」
「……じゃあ、おにいちゃんだけでいいの」
大人の常識が四歳児のこがねに通じるはずもなく、やはり首を横に振ってしがみ付く。
「カティはタカミチと一緒なんだかラ、帰る時はタカミチも一緒なノ!」
「許可せぬぞ、タカミチ」
「え、えっと……」
一方からは瞳を潤ませて、もう一方からは射竦めるように視線を向けられる貴道は、自ずと大和に顔を向けるしかないのだが、
「……貴道君?」
その大和は、眼鏡のブリッジを指先で押さえながら貴道を見下ろしていた。立ち位置の都合で顔に影が生じていて、妙に怖い。
「な、何でしょうか?」
「このところ、こがねは本当によく笑うようになった。この前に幼稚園で描いてきたという絵を見せてくれた時なんて、それはもう満面の笑みだったよ」
だがね、と大和は言葉を切る。その場に満ち始める空気に、ラーナまでもが眉をひそめた。
「その『家族』をモチーフにした絵には、僕や銀耶だけじゃなく、何故か君まで描かれていたんだよ。しかも僕より前の方でね」
「は、はあ……」
本人の望む望まないに関係なく、貴道の直感は首筋に電流のような不快感を送り続けている。
この状況が続くのはもしかしてよくないのでは、と貴道が今更ながらに思っていた時、
「……ぱぱ、こわい」
こがねが、ぽつりと呟くように言ったのだった。
「ぱぱ、おにいちゃんにいじわるしたらだめなの」
「こ、こがね……」
それまでの剣呑な空気はこがねの一言で消し飛ばされ、目に見えて大和は狼狽する。これがさっきまでラーナの注意を向けさせたほどの人物かと言われると、貴道も苦笑を浮かべる他ない。
「いや、別に貴道君に意地悪しようとしているわけではないんだけど……」
「ぱぱ」
「……分かったよ」
娘にやや強い口調で咎められては、流石の大和も手も足も出なかった。
「こがねちゃん」
「…………?」
話が一段落したと思った貴道は、今なお自分の首にしがみ付いているこがねに声をかける。
「こがねちゃんも、お父さんに意地悪しちゃだめだよ?」
ほら、と言って貴道が屈むと、こがねは悲しそうな表情で貴道を見つめる。
「ね?」
「…………」
しばらくは無言を貫いていたこがねだったが、「わかった……なの」と言って貴道の首から手を離す。
「ぱぱ。いじわるしてごめんなさい」
「い、いいんだよこがね……」
ぺこ、と頭を下げるこがねを前に大和は戸惑っていたようだが、さっきよりは慌てていない。
「タカミチ……」
「うん」
どちらからともなくかけられた呼びかけに、貴道は頷く。
「こがねちゃん」
「……おにいちゃん、かえるの?」
寂しそうな声だった。美冬の時にしてもそうだが、貴道はこうした縋るようなまなざしや、表情に弱い。
「う、うん、そうなんだ」
「……わかったの」
貴道から直接聞かされたためか、とても残念そうにこがねは頷いた。左原家の教育によるものなのか、こがねはとても聞き分けがいい。
「……でも」
「?」
詰襟を、こがねの丸っこい指に掴まれる。
「こんどのおとまり、いつ……なの?」
『!』
「……えー、っと?」
三人ほどから睨まれて、貴道は困ったように笑う。
「あの、大和さ――」
「勤労感謝の日も、僕の所は通常業務だよ」
どこか諦観の感じさせる口調で、大和は告げる。
「だから後で、ママに訊くといいよ?」
「ままに……」
こがねは大和と貴道をじっと見つめているが、すぐに悲しそうな顔をした。
「す、すぐに帰ってくるよ。そうだね貴道君?」
「え? は、はあ……」
「?」
こがねを挟んで、男二人が若干重ためのため息を吐いた。
「二人とも、夕飯は何がいいかな?」
紺色の背広姿の男性に軽く会釈をしながら、貴道は左右の少女らに尋ねる。
午後十八時四十五分。夕食時を少し過ぎたばかりの田路町駅前商店街には会社帰りのサラリーマンや部活帰りの学生も加わっていて、もはや十メートル先を見据えるのも一苦労、といった状態であった。買い物目当ての主婦しかいない十七時台ではなく、こちらが本当の意味での盛りなのである。
「んっとネ、カティはタカミチが作ってくれたら何でもいいヨ!」
「そなたに一任しておこう」
「……うん」
同じことを言っているように聞こえるが、ラーナの『一任』とは『何でもいい』という意味ではない。好き嫌いを完全に把握していることを前提に、ワレの気に入るものを作るのだぞ、という暗黙からの命令である。
裏を返せば、それだけ他人と線引きしたがるラーナが自分のことを信用してくれている証拠なのだろう。いつもながらにプレッシャーを感じるが、その分やり甲斐もある。主婦として――もとい、主夫として。
(ラーナはオニギリも食べるし、その辺と組み合わせて考えないとなぁ)
頭を巡らせること十数秒。一通りの結論を出した貴道は、微笑みを浮かべて二人にこう応えた。
「頑張るから期待しててね?」
「うン!」
「……まあ、一任したのはこのワレ。今更云う事なぞ有りはせぬ」
各々に微笑みかけた貴道が最初に向かったのは、商店街の南口に入ってすぐの所に店を構える魚屋の『魚亀』。何度かバイトにも行ったこともあって、店主一家とは最早顔馴染みと言っても過言ではない。
「こんばんは、おじさん」
「おおー! 貴道じゃねーか!」
別の脚に刺身のパックを渡していた『魚亀』店主の喜田が、魚屋らしい豪快な挨拶を返してくる。昔は不揃いな角刈りが特徴だったのだが、最近は特に髪が薄くなってきたからと、頭に白いタオルを巻くようになっていた。
「珍しいな、いっつも反対側から来るってのによ」
「こがねちゃんを送ってたんですよ」
いつものように相槌を打つと、貴道は喜田に「何がお勧めですか?」と訊いた。
「今日は何作るんだい? 焼き魚か? 煮魚か? 鍋か?」
「えっと、焼こうかなって」
などなど質問を重ねた喜田はやおら店の奥に引っ込むと、暫くして意外な物を持ってきた。
「き、喜田さ――」
「来るだろうって思ってたからな、特別にとっといたのさ」
目を丸くしている貴道に喜田が掲げて見せるのは、なんと昼間に烏丸が食べていたものと同じ――厳密には違うのだが――キンメダイであった。
「どうだ、今なら半額だぜ?」
「そんな、でも」
「ああ、気にすんな。この前にゃ随分と世話になっただろ? あのまんまってのも締まらねえんだよ。だからな、あん時のお礼ってことでな」
それでもと、貴道は申し訳なさから辞去しようとするが、押しの弱い人間が押しの強い人間に押し問答で勝てる道理はなく、結局貴道は殆ど半額に近い金額で『貰った』のであった。
「キダさんが特別って言ってるんだかラ、素直に受け取ったらいいのニ」
「そうもいかないよ。僕が得したってことは、誰かが損しちゃってるかもしれない、誰かが不幸になってるかもしれない、ってことだからね」
そう言って貴道が透明な微笑を浮かべていると、カティはいきなり頬を腕に押し付けてきた。
「……カティ、タカミチのその顔は嫌イ」
「?」
どうやら不機嫌らしいカティに、貴道の微笑は苦笑に染まった。どうしたの? と問いかけても反応は同じで、
「タカミチが笑ってなキャ、カティもつまんないもン!」
「笑ってなきゃって……やっぱり、そんなに変?」
「ユ!」
大真面目な表情で頷かれた貴道は、頬を掻こうとして手が塞がっていることに気付いた。
(その顔は嫌い、か。そういえば前にも言われてたっけ……)
車に轢かれて入院していた時も烏丸や美冬の力になろうと頑張っていた時も、カティは説明を聞き終えると決まってああ言っていた。
誰かの力になり続けることは蔵岡貴道の根幹。それだけは決して変わらない。
(……でも、笑ってないってどういうことだろう?)
緋乃や桜達にも似たようなことは言われてきたが、カティのあの言葉だけは見当もつかない。
(――「その理由をわたしに求めるというのは筋違いです」――)
緋乃に訊いてみても、そうやって一蹴されただけであった。
「うーん……」
「――幸福の価値とは、常に流動し変化し続けるもの。そこに絶対性を求めてはならん」
そんな折、張りと深みの混ざった、独特な男声がざわめきを貫いて貴道達に届いた。
『あ』
「む、こんばんはだ。クラオカ家の面々よ」
何の気なしに、目を輝かせ、あるいは興味なさげに、三人は着流し姿の異国の青年に向かって言葉を洩らした。
「お前達も買い物か?」
「ええ、まあ……」
鋭いまなざしを手に下げた荷物に向ける青年――ジークさんに、貴道は苦笑いを浮かべた。会話の内容には天と地ほどのギャップがあるのに、ジークは全く同じ様子で喋るのだ。ちなみに着流し姿の外国人というジークの奇抜ないでたちについて怪しむような人はこの界隈にはいない。
「ねネ、ジークさン。今日はいないノ?」
急に瞳を輝かせていたカティが、貴道を押しのけるようにして尋ねた。
「む、今日は連れてないぞ。午後の講義が終わってから直接来たから……む」
「か、カティ……」
目に見えて消沈しているカティに、ジークさんは暫く視線を宙に迷わせると、
「何も今生の別れという訳でもあるまい。その気持ちを次に会う時にまで蓄積させればいい」
「……うン」
渋々ではあったが、カティは頷いた。あの時のテンションを考えれば分からなくもないのだが、こういう部分はやっぱりカティだなぁと貴道は思った。
「……ラーナ?」
「ワレは何もしておらぬ」
万力など足元にも及ばない膂力で左腕を締め上げているラーナは、貴道の目から見ても不機嫌そうなのは明白であった。
「……む、こうもしておれんな。本日の特売が全て終わってしまう」
カティと何事か会話していたジークさんは、着流しの袖から取り出した懐中時計に目をやると、大股で人ごみの中へと分け入っていくのだった。
「タカミチよ、いつまで呆けて居るつもりぞ」
「え? あ、ああうん、そうだったね」
ラーナの意図を考えていた矢先、その本人から促された。いつもの気まぐれだったのだろうか。
「タカミチー、カティたい焼き食べたーイ!」
「こら、一応夕飯前なんだから――」
「……ぬ、そうなのか?」
両脇を固める少女らと他愛のない会話を繰り広げながら、貴道の姿は商店街の奥へと消えていく。
買出しから帰ってくる頃には、辺りはすっかり宵闇の中であった。電灯の下で吐いた息が、白い煙のようになって後ろに消えていく。カティがそれを見て、「トーマスみたイ」と笑っていた。
「ただいマー!!」
玄関の戸を開けると、一番最初に入るのはカティだ。これにも理由がちゃんとある。
「エヘヘ、『おかえりなさい』タカミチ!」
「……うん」
意味がないと桜は言うが、すぐ目の前で満面の笑みを浮かべるカティを見ていると、自然と一つの言葉が口をつく。
「ただいま、カティ」
「エヘヘ〜♪」
笑うだけじゃ表しきれなくなったのだろう。カティは軽く胸に飛びついて、本当に嬉しそうに頬をすり寄せてくる。
こんな言葉一つでも幸せな気持ちになれる。なんて素晴らしいことなんだろう。
「――あ、そうだ洗濯物!」
ラーナに頼んでおいたのだが、そのラーナは昼からずっと傍にいた。あの時の怒り具合からして、取り入れていないかもしれない。
(あ、でも夕飯の仕度もしなきゃ、でも天気が変わっちゃうかもしれないし……)
生来の優柔不断な性格が災いし、貴道は扉と廊下で視線を往復させるばかり。
「じゃア、カティが入れてこよっカ? 洗濯物」
そこに、首の方からこんな台詞が来ると、ちょっと目が丸くなる。
「え、でもカティ」
「カティ、ちょっとだけなら平気だもン。ほんとは嫌だけド、我慢できるんだもン」
「……じゃあ、お願いしてみようかな」
えっへん、と胸を張るカティに洗濯物は一任すると、貴道は靴をスリッパに履き替え、リビングとダイニングを通って台所に行く。無論、途中で暖房の電源を入れることも忘れずに。
ひとまずは詰襟をソファーの背にかけ、夕飯に用いる分の食材以外を冷蔵庫にしまうと、申し訳なさそうにラーナを見る。
「ぬ?」
「えっと……」
料理の間だけでも、自分から離れて待っていてほしい――そう言いたい貴道だったが、ラーナの性格を考えると聞いてもらえる可能性は低い。
かといって、美味しいと言ってもらえる料理のためには万全の状態で臨みたいという気持ちがあるのも事実。
離れてくれと言うのもラーナのため。離れなくてもいいよと言うのもラーナのため。どちらを選んでも角が立つのは間違いない。
「タカミチ」
「……え?」
思考が堂々巡りになりかけていた貴道の意識を呼び戻したラーナは、何故か制服の上から花柄のエプロンを身に着け、頭に三角布を巻こうとしていた。
ラーナが、料理の支度をしようとしている?
「中々上手くいかぬ。結べ」
「う、うん……」
見慣れない光景に首を傾げつつも、貴道は既に背を向けているラーナのために三角布を巻いた。暫くラーナは頭の締め具合を確かめていたようだが、「ぬ」と満足げに頷く。
「次は米を用意せよ」
「お、お米?」
間違いなく、料理の支度をしようとしているらしい。
「タカミチー! 洗濯物終わっ――アー!? 何でラーナがカティのエプロンしてるノ!!?」
明るい声音とともに戻ってきた私服姿のカティだったが、その直後には険悪な雰囲気を放出しながら詰め寄ってくる。
「ワレが直々にオニギリをタカミチに振舞うのだ」
「何そレ、どーゆうことなノ?」
まさか自分にも追及が来るとは思っていなかったようで、貴道は「うーん」と唸って首を傾げるばかりであった。
そんな二人のために、ラーナは演説を始める前のヒトラーのように咳払いを一つして説明を始める。
「ワレがためにタカミチはオニギリを作り、ワレがタカミチがためにオニギリを作る――この構図こそが究極であると、ワレは悟ったのだ」
「要するニ、オニギリが作りたいって急に思い付いただけでショ」
得意げに語った直後、カティに水を差されたラーナの青い瞳が、屋上の時と同じく燃え上がった。どうやら今のラーナにとって触れてはいけない部分だったらしい。
「貴様……」
「ほ、ほらラーナっ、オニギリ作る時ね、先にこうやって水で手を濡らしておくといいんだよ?」
睨み合い程度で収まっているうちに、貴道はまずラーナの気を紛れさせようとする。
あれよあれよという間に三つ四つと作っては並べられていく貴道謹製のオニギリに、まず反応したのがラーナだった。
「ほら、ラーナもやってみようよ、ね?」
「……ぬ、タカミチが為のオニギリには代えられぬ。仕方がない、この場はワレの顔に免じて赦そう」
「それって自分の名前じゃ――」
「か、カティも一緒に作らない? きっと楽しいよ?」
「うン! カティもやるやルー!」
万華鏡の速さで満面の笑みを浮かべたカティも、すぐさま水道で手を洗う。
そんなこんなで、蔵岡家の夕食は十分ほど遅れたのだった。
『ごちそうさま』
午後二十時十三分。いつものように食事は三人の声で締め括られる。
「タカミチ、カティお手伝いしよっカ?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「……うゆゥ」
柔らかく断られてしまい、リビングのソファーでむくれるカティに苦笑しつつ、貴道は流し台に三人分の食器を運ぶ。
「ワレにも寄越すのだ」
その際、傍らに立ったラーナが、手伝わせろと手を伸ばして催促してくる。
当然、それを見過ごせるカティではない。
「! タカミチ、ラーナだけずるイ!」
「お、落ち着いてよカティ。……えっと、ラーナも休んでていいんだよ?」
詰め寄ってくるカティを宥めながらラーナを説得しようとするのだが、ラーナは袁術軍を前にした呂布のように不敵な笑みを浮かべるのであった。
「タカミチよ、そなたワレの技巧をもう忘れたのか?」
「え――」
「ぬ、そなたの言いたいことは解る。器に付いた絵柄さえもこそぎ落とすという技巧の極み、幾度もワレに使わせるのは流石に躊躇われよう」
心配してカティの方を見ると、怒っているというより呆然としていると言った方が正しそうな表情をしていた。
カティもラーナの実力を知っているのだから無理もない。自分の力を全くコントロールするつもりのないラーナは、皿を洗う時でさえ力いっぱいに擦って洗う。絵柄がなくなるのはまだいい方で、酷い時には皿が割れてしまうこともある。
「よってタカミチ、疾くワレに器を寄越すが良い」
二人の思惑など知る由もないラーナに、貴道は小皿を渡すのだが、何故かラーナは断った。
「ラーナ?」
「ワレに然様な器は合わぬ。そなたが持って居る、大きい方を寄越すのだ」
貴道のそれよりは二回り小さく、三回りは細いラーナの手が伸びてきたが、一向に皿が渡されないと、露骨に不満げな表情になる。
「タカミチ、ワレに恥を掻かせるでない」
「え、でも」
「タカミチ」
「……うん」
困ったように笑いながら皿を渡した貴道の服の裾を、もう一人の少女が引っ張った。
「カティ、ちゃんといらない分はタンスに戻しておいたヨ」
「あ、ありがとう。偉いねカティ」
唐突な小さな気配りの発表に、貴道はカティの頭を撫でる。心から嬉しそうに笑ったカティは、もっともっととせがんで頭を掌に押し付けてくる。
「うン、だからネ」
「?」
食器同士が危うげにぶつかり合う音の中、カティの朗らかな声が台所に木霊した。
「カティもお皿洗いたイ」
「……え?」
ラーナに聞こえていないかと心配しながら、一応「あの、本当に大丈夫だから」と言い含めようとするのだが、
「でモ、ラーナなんだヨ?」
「……えー、っと?」
真顔で分かるような分からないようなことを言われてしまい、貴道の方も表現し難い表情を作るのだった。
本当にカティは、ラーナを全く恐れない。
「それにカティ、ちゃんとお手伝いできるもン。タカミチの分も頑張れるもン」
「カティ……」
徐々に真剣みを帯びてくるカティの声音に、貴道は戸惑うこともなく彼女を真正面から見つめる。
最初は、ラーナと張り合おうとしていたのかもしれない。だけど今のカティが違う理由で動いていることは、表情や声からもしっかりと伝わってくる。
意味や理由は重要じゃない。ただ、これを断ることだけは、絶対にしてはいけないと直感は告げている。
「……うん、お願いするよ」
微笑みながらカティの頭をもう一度、今度は二、三回軽く鞠をつくように撫でると、貴道は改めてカティに頼んだ。
「! うン、任せてネ!!」
「ぬ」
貴道のエプロンを手早く身に着けたカティは、鋭くこちらを睨み付けているラーナの隣に向かう。
「ここは今やワレの領域、余人が立ち入ることなぞ認めぬ」
「タカミチがいいって言ったから別にいいもーン」
危なっかしい手つきと会話を眺める貴道は、小さく笑っていた。
奇跡的に食器は割れず、宿題もラーナの漢字ドリル(喋る分には困らないが、文字は書けないのだ)も終えて、最大の関門である入浴は長い説得の末にまず貴道が短時間で済ませて、続いて二人を送り届けることで無事に突破することができた。この順番で入浴しないと、先に風呂から上がった二人が洗面所の前で貴道が出てくるのを待っていてしまい、湯冷めさせてしまうかもしれないのだ。
「ふぅ……」
洗面所から戻る途中に詰襟をきれいに整えてから戻し、一通りの日課を終えた貴道は、独りソファーに腰掛け、
「あ」
いざ寛ごうとした途端、サイドボードのガラス戸に付いている指紋や、それに連鎖して埃が気になってくる。
目に入ってしまっては無視することができず、貴道は腰を上げてサイドボードに歩み寄ると、備え付けておいたハンドワイパーを片手にサイドボード周りの簡単な掃除を始めてしまうのだった。
冬になるとセーターやマフラーといった冬物を着る機会が多くなるので、貴道がどうにか減らそうと苦労しても、埃は飛んでしまう。ましてや、もうじき十二月、即ち炬燵導入の時期である。埃との戦いが激化することは到底避けることはできないだろう――などとゲンさんから借りていた小説の一文を頭に浮かべながら、貴道が最後の諮問を拭き取った時、
「?」
午後二十一時十六分。電話が鳴る。貴道はサイドボードにある親機に手を伸ばし、受話器の向こうにいる人物に名乗る。
「はい、蔵岡です」
《知っています》
受話器から聞こえてきたのは、硬い響きを含んだ少女の声。機械的な反面、古い図書館の、紙とインクと埃の臭いを感じさせる、少女の声。
「こんばんは、緋乃」
《わたしの現在位置からすれば違和感のある挨拶ですが、目を瞑りましょう。こんばんは、義兄さん》
愛想など一欠片も感じられない声音と内容で、電話向こうの少女――黒銀緋乃は挨拶を返してきた。
カティがこちらに住むようになってから、彼女についての報告目的で緋乃と頻繁に電話する機会が増えてきた。稀に彼女の実父である黒銀無明が出ることもあるが、やはり殆どの場合が緋乃である。
「そっちはどう?」
《質問の際は、質問の内容を明確にした上で供述して下さいと、わたしは累計で二三六〇二回述べてきました。ちなみにですが、五秒〇二前の分を加算した場合は、二三六〇三回となります》
「ぜ、全部覚えているんだね……」
業務報告書でも読み上げているような緋乃の口調に、貴道は苦笑しながらも彼女がいつも通りの緋乃だと確信する。
《――む、先刻の発言にはわたしを揶揄する意図が感じられます。発言の真意を述べ、真実であれば誠意ある謝罪を要求します》
「……ごめんなさい」
苦笑いのない本心からの謝辞に、緋乃は《分かって下さればいいのです」と頷いた。
「それで、……えっと、体の具合とか、授業とか」
《身体面に於ける各数値には特筆すべき変化は現時点では発生していません。講義に関しましては、考古学で父さんがサボタージュすることを含め、わたしの四月期に於ける計画との誤差は〇・三九パーセントと、事前に想定していた値の範囲内に収まっています》
「えっと……」
ちょっと考えて、貴道はこう尋ねた。
「……それって、順調なの?」
《その質問には肯定です。わたしが算出した結果では、義兄さんの田路町市立第四高等学校に於ける各学習状況と比較した場合の数値を三〇・二一倍上回っています》
具体的で機械的な解説に、やはり貴道は「あはは……」と苦笑いしてごまかす他ない。
《それでは義兄さん、いつもと同じく、詳細な報告をお願いします》
「うん」
報告という硬い響きの言葉とこれから話そうとしている内容とのギャップに、貴道は小さく笑いながら話し出した。
主な話題は、日本でのカティやラーナにの生活についてであった。緋乃は『彼女らの成長を見守る者としての、努めの一端です』と力説していたこともあるが、興味深そうに頷く彼女の姿が目に浮かぶと、やはり笑みがこぼれてしまう。
《……何ですか義兄さん、その含み笑いは》
「え? あ、いや何でもないよ」
どうにかごまかして、話題はいよいよ浩助が廊下で転んだ話から今日の昼食のこととなった。その中でも、特にラーナの話題が中心となった。
《そうですか、ラーナが》
「うん。ちょっとびっくりしたよ」
受話器から聞こえる、硬質な響きを含んだ少女の声に苦笑を感じ取った貴道も、微苦笑を浮かべる。
《? どうしたのですか義兄さん、声紋を分析した限りでは、九九・六四%の確率で微笑んでいられるようですが》
聡い義妹は、受話器の向こうからでも兄の表情が手に取るように分かるらしい。吊り上った三白眼を訝しげに細める彼女の顔が、貴道にも浮かべることができた。
「あのね、ラーナがそれだけ皆に馴染んできてるんだなって思えてさ、なんだか嬉しくって」
《だから内情が表情や声に表出したと、義兄さんは仰りたいのですか》
限りなく疑問系に近い断定口調。もしくはその逆。いつもの緋乃だ。
「うん。緋乃だって嬉しいだろ?」
《無論です》
緋乃のことを知らない人が、こんな風に簡潔に即答されたらどんな感想を抱くのか――貴道はある時期まで知らなかったが、知ってからも感想は変わらない。
《義兄さんの性格上、虚偽の供述は不可能です。もしも仮に実行しようとすれば、声紋以外にも動揺による変化が顕わになります。よってわたしは、義兄さんの供述する情報に対し、素直に『嬉しい』という感情を表出することができます》
「そ、そう」
素直なのか素直じゃないのか判断しづらい供述に、貴道は苦笑するばかりであった。
IQテストでは二〇六という異例の数値を叩き出し、弱冠十五歳にして父親の勤める海外の大学に在籍するという異例の肩書を持つ少女は、常にああやって人と壁を作るような言動をする。かつては露骨に人への侮蔑を大いに含んでいたその言動だったが、今は賢者のような、人を諭したり、導いたりできるようなものになっていた。
《時に義兄さん》
「?」
急に緋乃が、例によって事務的な口調で淡々と告げる。
《そろそろ、背後に注意された方がよろしいかと》
「え、今なん――っぎゅ!?」
「ヒノとの会話も大概にせよ、タカミチ」
「そうなノ!」
クラゥシア姉妹はそれぞれが左右斜め後ろから首に抱き付き、遠慮なしに負荷をかけてくる。妙に首筋が湿っぽいので視線を巡らせると、二人は体や髪のあちこちに水滴が残っている。殆ど拭き終えていないまま来たらしい。
《……少なからず同情の念が湧出したことを報告します》
「あ、あはは……ぐぇ」
倒れそうなのだが、もしそうなったら二人を下敷きにしてしまいかねないので、貴道が選べる選択肢は『堪える』一択である。
「そ、それじゃ……カティ達には、あ、代わらなくていいの。うん、うん、それじゃ、無明さんによろしく」
受話器を置いた貴道は、未だに首にぶら下がったままの二人に話しかける。
「えっと……手、辛くない?」
「だっテ、湯冷めしたくないもン」
「ワレに同じことを幾度も云わせるでないぞ、タカミチ」
それぞれから現状で全く問題ないと断言され、ちょっと頬を掻く。『手が使えるだけ、こっちの方がいいかも』などと暢気に思いつつ、何とか二人に首から離れてもらう。
朝食の下ごしらえと簡単な風呂掃除に、時間割と教科書の確認と家計簿――これらの作業を終えた貴道と彼から離れられないクラゥシア姉妹は、午後二十三時までには床に就いてしまう。
「うユー……」
「タカミチ、疾く来よ」
隣のベッドで恨めしげにこちらを睨んでいるカティへと見せ付けるかのように、ラーナは自分の隣――辛うじて貴道一人が寝られるスペースを叩いて呼び寄せる。
「うん」
視線だけで何とかカティに謝りながら、貴道はベッドの左側、ラーナから見て右隣に身を横たえる。最初は諸々の事情で緊張したりすることもあったが、今は彼女らのことを思うと緊張することはなくなってきている。
「……ぬ、やはりそなたが傍に在ると良いな」
「そ、そう……」
といっても、寝床で全身を密着させてくることに関しては、完全に慣れたとは言い難いのが現状だが。
「誇りに思うが良い」
しっかりと両の腕を貴道の顔に回し、ラーナは言葉少なく告げる。
「ワレがこの身を許すのはそなただけぞ」
「……ありがとう」
信じているのはお前だけ、というラーナの言葉に、貴道は寂しさの混じった笑顔で答える。
「解って居れば良い」
満足げに吐かれた吐息。きっと――いや、間違いなく時間はかかるのだろうが、いつかこの安らいだ表情をみんなにも向けられる日が来るのだろうか。
「今日のような愚行、二度と犯すでないぞ?」
何度も求められた約束と、何度も繰り返された返答。
貴道は思う。そんな日を手繰り寄せられるとしたら、それはきっと緋乃や――ほんのちょっぴりだが、自分の力だろう。
「分かってるよ、約束する」
頷いて、貴道は器用にラーナの頭を撫でる。巻き付けられている腕から、僅かに力が抜けたことに貴道は気付いていた。
「タカミチィ……」
隣のベッドから聞こえる、物欲しげな声。苦笑して、こちらを見つめる少女に呼びかける。
「手だけだよ、カティ」
「! うン!」
布団を払いのけたカティはベッドから身を乗り出して、貴道の右手をあっという間に自身の両手で包み込んだ。ベッドから落ちそうでちょっと困ったが、カティの嬉しそうな様子を見れば耐えなくてはと思い、背筋に力を入れる。
「エヘヘー♪」
声だけでこれほどまでに感情を表せるなんてすごいなと、貴道は一年経った今でも思う。
「タカミチ」
「うん」
もう一方からの催促に、貴道はラーナを抱き寄せることで応えた。
「……それで良い」
「? どうしたのラーナ?」
「どうもせぬ。……ワレはもう眠る。明日は……必ず、ワレを起こす……」
言い終わるか終らないかのうちに、ラーナは静かに寝息を立て始めた。
もう一人の少女も、殆ど同時に眠気を覚えていたようだ。
「おやすみなさイ、タカミチ」
「うん、おやすみ」
ゆっくりと青い瞳を瞼の向こうに隠していく少女を前に、そういえば彼女に包まれている自分の手をどうしようかと考えて貴道は苦笑したが、結局そのまま本人も瞼を閉じる。
蔵岡貴道の、今やすっかり日常の一部と化している少女達との一日は、こうしてまた終わるのだった。
●主な登場人物
蔵岡貴道(くらおか たかみち)……『ユーレイ噺』とは異なる作品の主人公。女性運に関しては意見が分かれる。
カティ・クラゥシア……蔵岡家の居候その1。明るく活発な少女。ある意味での病気持ち。
ラーナ・クラゥシア……蔵岡家の居候その2。傲慢で暴君な少女。分かりやすく危険人物。
国本桜(くにもと さくら)……貴道の幼馴染で一年後輩。陸上部員で、私立から推薦の誘いもあったほどの俊足。
烏丸響子(からすまる きょうこ)……貴道の同級生。文武両道にして才色兼備だが、謎な一面が多々ある。
市川秋(いちかわ あき)……貴道の先輩で、新聞部の(元)部長。常にテンション高め。烏丸を恐れているらしい。
市川美冬(いちかわ みふゆ)……秋の妹で、高校一年生。素直な性格だが、人嫌い。一応新聞部に所属している。
左原こがね(さのはら)……左原銀耶の娘。なんとも奥ゆかしい性格の四歳児。
黒銀緋乃(くろがね ひの)……貴道の義妹。現在は父親と海外に住んでいるため、本編には登場しない。
○『ユーレイ噺』本編の登場人物
猿渡浩助(さるわたり こうすけ)……ユーレイ噺『では』主人公の少年。貴道とは中学校からの友人。カティのファン。
ユキ……ひょんなことから浩助が出会ってしまった幽霊の少女。純粋無垢で、ちょっと泣き虫。
左原銀耶(さのはら ぎんや)……保険医。何故か幽霊のことにやたらと詳しい。派手な外見とは裏腹に、一児の母。
源五郎丸百合絵(げんごろうまる ゆりえ)……浩助、貴道、桜の共通の友人。現在の新聞部部長。あだ名は「ゲンさん」
狐……狐の耳と尻尾を持つ女性。時折カラスと二人(?)で会話している。若干テンションが低く、マイペースな性格。
カラス……カラスの翼を持った少女。ユキに対し、何やら物騒な思惑を抱いている。狐とは対照的に短気な性格。
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2009/07/25(Sat)11:28:44 公開 / 木沢井
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■作者からのメッセージ
はじめまして、もしくはTPOに即した挨拶をば。三流物書きの木沢井です。
ユーレイ噺本編の方が現在手詰まりなためというか、しばらくは投稿させていただきたく思います。幅広いご意見・ご感想をお待ちしております。
やっと完成しました。ここまでお読み下さってきた方々には本当に感謝してます。
*完結にあたって。
キャラクターの背景がはっきりしないという御意見が寄せられましたので、この場を借りて申し開きをさせていただきます。
貴道やカティといったキャラクターは、別の作品のキャラクターでして、いつかその話をこちらに投稿しようと考えていたので、あまり核心に触れるのもどうだろうかと思い、今回のように中途半端な結果となってしまいました。この点に関してこれ以上の言い訳はありません。
では、まだ見捨てられていないのでしたら、ユーレイ噺本編で。
*お知らせ
ログの20081130にて、『ユーレイ噺』本編の投稿を再開しました。興味のある方は、どうぞご覧になってください。
4/28 続きを更新しました。それと、一箇所加筆しました。
5/1 続きを更新しました。それと、一部加筆修正しました。
5/5 続きを更新しました。それと、一部加筆しました。
6/2 続きを更新しました。
6/4 本文末尾に登場人物の紹介を追加しました。
6/14 続きを更新しました。
6/28 続きを更新しました。それと、ユーレイ噺も更新しました。
7/6 続きを更新しました。
7/20 最終更新を終えました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。