『虹の向こうへ』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:Rred                

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 第一章

 オタクという言葉がある。
 俺はその言葉が嫌いだ。
 なぜなら自分がその人種にあてはまり、オタクというその人種にかなりの偏見があるからだ。
 俺はかなり服装には気を使うし、髪型もいつも美容院にいって切ってもらっている。
 でも、自分がオタクだと分かったら、相手はいつも避けていく。
 栄子もそうだった。
 あんなに自分のこと愛してると言ったくせに、オタクと分かったら違う男に乗り換える。
 

 憂鬱な午後の日だった。
 高校の授業はすべて終わり、学校附属の図書館へとむかう。
 なぜ図書館へ向かうのかというと、クラスの委員会決めで図書委員になったからだ。
 はっきりいってやりたくなかった。
 漫画やアニメなら興味はあるが、小説などの活字が並ぶ本を見ると目眩がし、読む気がなくなる。小説に興味がないのだ。

 図書館に着いた。
 中はなかなか広い。五十メートルプールくらいはあるだろうか。
 冷房がきいていて気持ちがいい。本が整然と並んでいる無機質なイメージが更に体をひんやりさせる。
 入口の近くに貸出カウンターがある。そこで受付をするのが俺の役目だ。
 受付のところに女の子がいる。
 いままで見たことがない子だ。
 同じ学年だろうか。
 眼鏡をかけている。
 一応挨拶をしよう。
「こんにちは。松本亘っていいます。今日から図書委員の仕事するのでよろしくおねがいします。」
 そうわずかにうわずって俺は挨拶をした。
 「そう。」
 そう新参者がきてうれしいだとか、恥ずかしいだとかの感情がわからない調子で答えた。
 その女の子の席の隣に俺はとりあえず座る。
 仕事はどうやってするのだろうか。
 目の前にはコンピューターがある。これになにかを入力するんだな。
 コンピューターを意味もなくいじっているうちに本をもった男子が来た。
 本をとりあえずその男子からうけとり、どうするか分からなくてあたふたしてると、隣の女の子が、本を俺から取り、その本のバーコードを読み取って、コンピューターをパチパチと打った
「わからないんなら言って。」
 そう女の子は言った。
 わからないもなにも、初めてだからしょうがないじゃないか。

 その女の子の第一印象は、暗い、の一言だった。

 パソコンの打ち方はその女の子から教えてもらいなんとか仕事はなんとかなった。
 仕事を覚えてしまったら、あとは楽というか、暇だ。
 ずっとあまりひとがいない図書館に一時間半いることになる。
 漫画もってくればよかったな。
 なにもすることがない。
 栄子のことを考えた。
 滑らかなラインの健康的なふとももが見える、短いスカートをはいている栄子。
 ふざけてわざと怒った顔をする栄子。
 自転車で二人乗りをした時に背中に感じた生暖かい体温。
 初めてキスをした栄子の柔らかい唇。

「終わり。」
 そう眼鏡をかけた女の子は言った。
 「え、もう終わり?」
 いつの間にか眠ってしまったようだ。少し間の抜けた声で答える。
 「鍵閉めるから出て。」
 そう言われると、俺はあわてて図書館から出た。
 図書館を出ると、夕方の涼しい夏の風が吹いていた。
 夕焼けのオレンジが顔をまぶしく照らす。
 ずっと座っていたので背中が痛い。少しのびをする。
 さて、帰るか。
 俺の通っている高校は市街地とは少し離れたところにある。
 駅から徒歩十分だ。
 しかし通称「イチョウ坂」という坂があり、登校する学生を苦しめる。
 そのイチョウ坂をゆっくり下る。
 そこから街が見える。
 オレンジからすこし暗くなりはじめた光を柔らかくビル群が反射する。
 
 あっ!
 虹だ!
 その街を優しくなでるかのように虹がかかっている。
 とてもきれいだ。
 人間の美しさとは違う、大自然の美しさ。
 人工的なビル群があるから、よりいっそう映えて見える。
 消えかかっているが、なにか自分に問いかけてくるかのように、はかなげだ。

 なぜか自分の未来について考えた。
 将来は漫画家になりたい。
 そう強く思っている自分がいる。
 どうせ叶わないとはわかっているものの、それが余計に自分を悩ませる。
 人生は一度きりだ。
 後悔はしたくない。
 夢を追いかけたい。
 そう虹に今度は自分から問いかけた。




第二章

「おう、亘。帰ろうぜ。」
 茶髪頭の佐々木武はそう俺に言った。
 佐々木武は俺の友達のうちの一人だ。
 彼は俺がオタクであるとは知らない。
 もしそうであると言ったら、彼は自分を避けるだろうか。
 
 「いや、今日は図書委員があるから。」
 そう俺はもうしわけなさそうに断わった。
  
 図書館に入ると、いつもと同じように眼鏡をかけた女の子は座っていた。
 どうやら彼女は上級生らしい。
 どかっと椅子に座る。
 なんてめんどくさいんだろ。
 そう思いながら漫画をカバンから取り出し、読む。
 本当に暇だな。
 図書委員なんかなるんじゃなかったな。
 チラッと横を向くと、眼鏡の上級生は静かに読書をしていた。
 よく見ると、その上級生は、なんというか、かなりきれいだった。
 眼鏡の奥の目はきれいな二重で、まつげが長い。
 肌は驚くほど白く、透明感さえある。
 伏し目がちで本を読む姿はかなり色っぽかった。
 何の本を読んでいるんだろう。
 えーと、なにか英語でかいてある。
 いままで聞いたことのない本のタイトルだった。
 じっと見ていると、その眼鏡の女の子は俺の視線に気づいたようで、俺は目線をすぐに漫画にあわした。

「終わり」
 そう眼鏡の上級生は静かに言った。
 「ちょっと待ってください。借りたい本があるんです。」
 と俺は言った。
 「早くして」
 そう図書館の入り口で抑揚のない声でその女の子は言った。
 俺はあの、上級生が読んでいた本を探していた。
 なにか気になるのだ。

 あった。
 
 本棚の上の隅にそのハードカバーの本はあった。
 なにかその女の子の恥ずかしい部分を見るようなそんな興奮感と後ろめたさを感じながらその本を手にする。
 コンピューターにパチパチと自分が借りる本を入力した。
 それをカバンの中に忍ばせる。
「すいません。もういいです。」
 そう俺はその上級生の図書館の暗さに溶けていきそうな白い肌をみることなく、図書館を出た。
 少し雨が降っている。
 やや肌寒い。
 図書館の脇にうえられているソテツの木は久しぶりの雨に身を震わせるように、その葉は雨の露をはじく。
 傘は持ってきていない。
 さてどうやって帰ろう。
 そうやってぼうっとしていると、横にあの眼鏡の女の子がいた。
 彼女も傘は持ってないみたいだ。
 
 「本好きなんですか?」

 唐突に彼女に聞いた。
 なんだか話しかけてみたくなったのだ。
 少し驚いたような顔をした。
 そして少し間を空けて。

 「好きよ」

 と少し微笑みながら彼女は答えた。
 まるで大切な思い出を話すかのようなそんな微笑みだった。
 本当に本が好きなんだなと、なぜか思った。
 「俺松本って言うんですけど、名前覚えてますか?」
 「ええ。亘君でしょ。」
 「覚えていてくれたんですね。」
 「漫画が好きなのね。」
 「ええ。まあ」
 
 そういった会話をした。
 なんだかうれしい気持がした。
 自分のことをみていてくれたんだ、という思いのせいもあるが、彼女があまりにも可憐に見えたせいもあるだろう。きれいな女性と話すのはうれしい。また彼女は今までに出会ったことのないようなタイプの女性だとも思った。

 「私行くから。」
 そう彼女は言うと、雨の中に入って行った。
 「じゃあね。」
 そう俺の方を向いて言うと、雨の中小走りでかけて行った。
 名前聞かなかったな。
 彼女の口から名前を聞きたい、と思った。
 
 雨の中なぜ彼女は濡れて帰ったんだろう。
 
 なにか用があるのか。
 それともただ単に濡れて帰りたかったんだろうか。
 俺も濡れて帰りたい気持ちだ。
 俺は雨の中へかけ出していた。
 
第三章

  
 俺は図書館へ向かっていた。
 かなり気持ちが興奮している。
 あの先輩が読んでいた本に、ただ感動したのだ。
 この気持ちを誰かに伝えたい。
 けれど最初に思い浮かんだのは、あの眼鏡の少女だった。
 彼女ならきっとわかってくれる。
 なぜかそうした確信があった。

 読み終わったのは今日の昼休みだった。
 本の最後は、登場人物の男女が永遠の別れを描写する場面で終わっていた。
 あんなに愛し合ったのに、運命は無情にも二人を引き裂く。
 最初は納得がいかなかった。
 絶対に二人は一緒になるものだと思っていた。
 しかし、人間ってのはいつか別れるものだ、と思うとその人間の別れの切なさや悲しみが象徴された形で描かれたのがこの小説ではないか、と思った。
 
 一番美しく、悲しく、切なく別れというのはどういう別れだろうか。
 
 別れはあまりしたくない。
 でもいつか別れなくちゃならないなら、そんな別れをしてみたい、と思った。
 大好きな相手と。

 図書館のドアをバンッと開ける。
 先輩はいつものように本を読んでいる。
 「先輩!!この間先輩が読んでいた本なんですけど、とても感動しました。この二人の別れがとてもせつないけどいいですよね。いつかこんな別れを経験したいなって思いました。」
 そう一気に話した。
 眼鏡の先輩はポカンとした表情をしている。
 あれ、あまりにも突然すぎたか。
 「ふふふ。そうね。あなたの気持ちわかるわ。」
 そうコロコロと笑いながら眼鏡の先輩は答えた。
 俺の気持ち伝わったのかな。
 「でも、ここは読書するところだから静かに話してね。」
 あ、すいません、と今頃恥ずかしくなった。
 ドカッと先輩の隣に座る。
 「そう、そんなに感動したの。あれはイギリスの小説だったかな。時代はけっこう前ね。彼の小説っていいわよね。かなり彼はロマンティックなのよ」
 そう眼鏡の先輩は話す。
 本のことになると饒舌になるようだ。
 「今読んでいる小説も彼の作品なの。どこにいっても彼の作品はないのに、この図書館にはあるの。蔵書してくれた人はなかなかセンスあるわね。」
 そう眼鏡の先輩は喋り終えると、ふう、と吐息をもらした。
 「俺、漫画しか読まなかったけど、なんだか小説も読みたくなりました。いい小説あれば教えてくださいね。」
 そう俺は言った。
 「私の助言でよければ。」
 
 「先輩の名前はなんなんですか。」
 
 「太田尚代」
 そう首をかしげて、まるで花のような可憐な笑顔で言った。

 その日から、急に図書委員の仕事が楽しくなった。
 尚代先輩の勧めてくれる本はどれも素敵な話で、読み終わった後先輩とその本の感想を言い合うのもまた楽しかった。
 小説が好きになれば、図書館は宝の山である。
 ここの図書館はかなり本の数が多い。
 尚代先輩いわくここの図書館にくる本を選書している有山という先生がかなりセンスがいいらしい。また先輩いわく文学というのは芸術で、一つの作品でもひとそれぞれ受け取るものは違って、センスがいいというのは自分の本の好みがその人と合う、ということらしい。
いろんな本を読んだ。
 その中でも印象に残ったのは、中国のある小説の登場人物の少年だ。
 彼は夢を持っていたが、親や兄弟に反対され、悩んだ末その夢をあきらめる。
 なんだか自分を見てるようだった。
 
 夢と現実。
 その言葉が自分に重くのしかかる。

 この少年は夢をあきらめて自分の与えられた仕事をして、それなりに大成する。
 しかし、この少年は本当に幸せなのだろうか。
 本当に後悔はないのだろうか。

 「尚代先輩。夢ってありますか。」
 そう俺は先輩に聞いた。
 「あるわよ。」
 そう少し間をおいて言った。
 「そうですか。」
 あえて夢の内容は聞かなかった。失礼になる気がしたからだ。
 「もし、現実的にその夢がかなうかどうか分からなかったら、どうしますか?」
 そう俺は言うと、少し尚代先輩は手を口の辺りに持っていき、考えてから言った。
 「難しいわね。私は憶病だからあきらめてしまうかもしれないわね。やっぱり先がみえない未来って怖いじゃない。でも 夢にむかってがんばってる人は好きよ。なにかきらきらしてるから。」 
 俺は自分の夢のことを話そうかどうかためらった。
 
 オタクであることがばれてしまうかもしれない。

 でも、尚代先輩は受け入れてくれるような気がした。
 尚代先輩が受け入れてくれないなら、この世の中の誰も受け入れてくれないような気さえした。
 
 「俺、漫画家になりたいんです。」
 そう俺はためらいがちに言った。
 「漫画が大好きで、人を笑わせて、感動させるような、そんな漫画が描きたいんです。」
 俺はそう言うと、尚代先輩はふふふ、と笑った。
 「亘君っておかしいわね。」
 そう尚代先輩は笑いながら言った。
 「そうなの。亘君、悩んでるんだね。私は応援するな。なんだか亘君の描いた漫画を見ていて見たいって思う。」
 そう尚代先輩は思わず目線をずらしてしまうような、そんな純粋な瞳で俺の目をみて言った。
 
 尚代先輩の絵を描きたい。
 そうなぜか思った。

「終わり」
 そう尚代先輩は言った。
 自分の読んでいた本を閉じて、腰を上げた。
 ふう、少し疲れたな。
 図書館を出るとやや薄暗い。
 秋が来る。
 そんなことを思い起こさせるような、かすかに肌寒いそんな空気。

 「一緒に帰らない?」
 そう言ってきたのは尚代先輩の方だった。
 少しどきり、とする。
 「いいですよ。」
 そう俺は平静を装っていった。

 彼女はどんな恋愛をしてるのだろう。
 そういう疑問がうかんだ。

 どこか寂しげな雰囲気をもつ彼女。
 どういう友達がいるのだろう。
 本以外に好きなものはないんだろうか。
 嫌いなものはなんだろうか。
 そういうことを質問したかったが、なかなか素直に聞けなかった。
 聞けば彼女はすぐに答えてくれるだろう。
 なぜだろう。
 彼女に自分の好意をさとられたくないからか。
 俺は尚代先輩のことが好きなのか。

 イチョウ坂をぶらぶらとくだる。
 
 「私ね、小説を書きたいの。」
 そう切り出したのは尚代先輩だった。
 「ごめんね。なんか変だな私。なんだかおしゃべりね。」
 そう尚代先輩は言った。
 「小さい頃からの夢なんだけどね。自分の才能に自信がなくて。」
 尚代先輩は少し寂しそうに言う。
 きゅんとしぼんだ姿はなんだかとても愛おしく思った。
 かわいい、と思った。
 「きっと尚代先輩は才能ありますよ。そんな気がするんです。」
 そう俺は元気づけるように言った。
 「そう。ありがとう。」
 夢を大事にしてるんだな、と思った。
 恥ずかしそうにうつむく尚代先輩。
 そう恥ずかしがる尚代先輩はウサギのようだった。
 さびしがりやのウサギ。
 飼い主をなによりも大事に思っているそんなウサギ。
 
 尚代先輩のことが好きなのかもしれない。
 
 一番自分が聞いてみたいことを俺は質問してみた。
 「好きな人っているんですか?」
 「ええいるわよ。」
 遠くをみて尚代先輩はそう言った。
 その目の先にあるのは俺でないことはすぐに分かった。
 でもそれはわかっていたことだ。
 せつない気持ちが湧く。
 
 イチョウ坂をゆっくり歩く。
 夢がかなえばいい、と思った。
 二人のどちらの夢も。
 そう心から思った。

第四章
 ここからみえる景色はかなり気に入っている。
 教室の窓からぼんやり俺は眺める。
 行ったことのない場所が見える。
でも行きたくない、と思った。
 行ってしまったら、がっかりするだろうから。
 なんだこんなもんか、と。
 永遠にこの景色のまま、お気に入りの風景であってほしい、と思った。

 「おい、亘。お前さっそく新しい彼女見つけたのか?」
 そう佐々木武は言った。
 「なんのことだ?」
 そう俺は聞き返した。
 「おいおい、とぼけてもむだだぜ。あの眼鏡の文芸部員さ。」
 尚代先輩のことか。
 「俺と先輩はただの友達だ。」
 そう俺は言ったが、友達という言葉がなにか虚しい響きをもっていることに気づいた。
 
 俺と尚代先輩はただの友達なのだろうか。
 俺と尚代先輩とはなにか特別な絆があるんではないのか。

 「でも、悪いことは言わねえ。あれはやめとけ。あんな暗い女のどこがいいんだ?本しか友達がいなさそうじゃねえか。それに変な噂もあるしな。」
 どろり、と暗い感情が俺を流れる。
 「変な噂?」
 そう俺は聞き返した。
 「ああ。たしか彼女が二年だった時だったかな。自殺しようとしたって。」

 ひんやりと冷たい刃が俺の頬をスルリと切ったような、そんな衝撃を覚えた。
 驚くほどその刃は冷たかった。
 心を壊してしまうくらい。
 
 尚代先輩の横顔が浮かんだ。
 あの壊れるほど繊細で可憐な笑顔。
 夢を語った時の少し意志を宿した瞳。
 彼女の心にはナイフが刺さっている。
 彼女は強い。
 凛としている、と思った。
 彼女はけして自分の傷をみせるような仕草はなかった。
 俺という人間に正面からぶつかってきてくれる。
 
 「なぜ?」
 そう俺は茶髪頭の佐々木武に聞いた。
 「いじめがあったって。」
 そう佐々木武はなんの躊躇もなく言った。
 
 俺は教室を飛び出していた。
 尚代先輩に会いたい。
 ただそう思った。
 俺は彼女に何をしてあげられるわけでもないが、ただ会いたかった。
 彼女が今日のうちに、この世から消え去ってしまう気さえした。
 尚代先輩にもう会えなくなるかもしれないことが怖かった。
 尚代先輩は三年生だ。
 何組かは分からない。
 一組から三年生の教室を見る。
 尚代先輩らしき人はいない。
 二組、三組を順に見る。
 しかし彼女の姿はなかった。
 「おい。なにかあまり見かけない顔だな。」
 そう先生らしき人が声をかける。
 その人は有山とよばれる年配の先生だった。
 「太田尚代という生徒をさがしているんですけど。」
 そう俺は言った。
 「太田か。君は太田の新しい友達かな?」
 「そういう感じです。」
 そう俺はあいまいに答えた。 
 「そうか。彼女なら文芸部の部室にいるんじゃないのかな。」
 「ありがとうございます。」
 そう俺は答えると、有山は俺の肩をポンポン、と叩いて言った。
 「彼女はああみえてもろいところがあるからよろしくな。」
 俺は有山にはい、と答えて文芸部に向かった。
 文芸部のある場所は本館からは別の、旧館にある。
 ここに彼女はいるのだろうか。
 古くなった廊下を歩く。
 なにかかび臭いにおいがするのは気のせいだろうか。

 ここだ。
 俺は文芸部の前に立ちつくす。
 どう彼女に接すればいいんだろうか。
 ゆっくりとドアを開けた。
 
 尚代先輩がいた。
 
 とても嬉しかった。
 もう会えないかと思った。
 死神に孤独な光を放つ尚代先輩の魂が持っていかれるイメージが頭の中にあった。
 彼女の純粋な瞳はもう開かない。
 そんなの悲しすぎる。
 あまりにも不公平だ。
 
 とにかく会えてよかった。
 涙が出てきた。

 「亘君。どうしたの?」
 そう消え入りそうな高い声の中に、驚きの感情を持たせたように尚代先輩は言った。
 「すいません。嫌なことがあって。」
 そう言う俺の背中をやさしくさすり、俺を席に着かせた。
 「そう。そう言うときは思いっきり泣くのがいいわよ。すっきりするから。」
 そう俺に優しく言った。
 
 いつまでそうしていただろう。
 尚代先輩と俺の間には深い沈黙があった。
 お互いなにか声をかけるとかいうようなことはしなかった。
 沈黙が一番説得力を持った言葉のように思えた。

 きっとこうゆう時は言葉なんてなんの役にも立たない。
 尚代先輩もそれを理解しているようだった。
 今はなんにも言葉はいらない。
 ただそばにいてほしい。
 俺と尚代先輩はまるで世界で一番理解しあえているような気さえした。

 「尚代先輩って文芸部なんですね。」
 そう声をかけたのは俺の方だった。
 「そう。ずっと私はここにいた。」
 そう尚代先輩は言った。
 「私はここにいるから。」
 そう尚代先輩は言った。
 「もう俺は帰ります。ありがとうございました。」
 そう俺は言った。
 「俺は尚代先輩の味方ですから。」
 そう俺は最後に言った。


第五章
 「私、亘のことが忘れられないの。」
 そう栄子は俺に言った。
 放課後なにもすることがなく、教室で友達と話していると、栄子が俺を呼んだ。
 「あれから、ずっと考えたの。そうしたら亘しかいないって気づいた。」
 俺は素直に嬉しかった。

 俺と栄子との出会いは席が偶然となりになったことだった。
 一目ぼれだった。
 俺の方から告白した。
 答えはオウケイ、だった.
 最初は遊びのつもりだったらしい。
 俺はそれでも嬉しかった。
 初めての彼女だから大切にしたい、と思った。

 俺の頭に尚代先輩の影がよぎった。
 俺が好きなのは尚代先輩だ。
 「また今度返事をする。」
 そう栄子に言った。

 尚代先輩に会いたい。
 この頃とくにそう思うことが多い。
 しかし俺の恋心は大海に浮かぶイカダのようにはかなく、実らないだろうとなんとなく思った。
 しかし、まだ分からない。
 今好きな人がいるとしても、自分に好意が向く可能性はある、とそう信じてみることにした。
 
 文芸部に足は向く。
 今日は図書委員はなかった。
 当番がない日でも、尚代先輩と話がしたくてたまに文芸部に行った。
 文芸部の扉の前に来た。
 少し緊張する。
 手を扉にかける。
 ゆっくりと俺は扉を開けた。

 あっ!!
 
 見てはいけないものを見た。
 それとともにこの世で一番見たくないものを見た。
 尚代先輩と有山という先生が抱き合っていたのだ。
 なにも言わずドアを閉める。
 俺は何も見なかったことにする。
 そう俺は部外者だ。
 彼女たちとは違う世界の。
 けして開くことのできない扉が俺と彼女たちにはあるような気がした。
 
 さっきの光景を思い浮かべる。
 尚代先輩はしっかりと有山の背中を抱きしめていた。
 その窮屈な感じがとても俺に欲しいものだと感じた。

 裏切られたような気さえした。
 どうして有山なんだ。
 妙に尚代先輩のことを知っているような感じがしたのが、とても憎たらしかった。
 俺と尚代先輩にはない秘密のようなものをしっていることに激しく嫉妬した。

 尚代先輩のような女性が他にいるだろうか。
 そう無意識に考えた。
 きっといない。
 俺と尚代先輩の時間はけして二つはない。
 交わした言葉も、気持も。
 とても切ない気持が湧く。
 俺と尚代先輩は出会ってしまった。
 この広い世界で偶然にも。
 そんな壮大なことを考えた。
 そのくらい尚代先輩のことが好きだった。

 「亘。一人なの。」
 そう栄子が俺を引き留めた。
 「泣いてるの?」
 そう栄子は言った。
 最近涙もろい。
 「一緒にかえろうよ。」
 そう栄子は言った。
 俺はそれに従った。
 だれでもよかった。
 一緒にいてくれるなら。
 イチョウ坂をゆっくりくだる。
 「大丈夫?」
 「なにがあったの?」
 「亘が泣くところなんか初めて見た。」
 栄子はよく話した。
 それが栄子のやさしさであることはよく分かった。
 しかし、つい尚代先輩との時間を思い出す。
 せつない気持ちが湧く。
 栄子が手を握ってきた。
 もうどうでもよかった。
 栄子と目が合う。
 栄子の柔らかそうな唇。
 俺と栄子はキスをした。


第六章
 今日は図書委員がある。
 もう三週以上行ってない。
 尚代先輩にあってもせつない気持が湧くだけだ。
 もう会いたくない。
 そんな気さえした。
 
 「亘〜。一緒に帰ろうよ。」
 そう栄子は甘えたように俺に言う。
 俺はいいよ、と返事をする。
 「亘って漫画描いてるの?」
 そう栄子は俺に聞いた。
 「ああ。あんまりうまくないけど。」
 俺はそう言った。
 「ふーん。じゃあ今度私の絵を描いてね。」
「ああ。」
 そう俺は曖昧に返事をした。
 栄子のことは好きだ。
 しかしそれ以上に好きな存在がいる。
 そのような気持で栄子と付き合うのは栄子にとって残酷なような気がした。
 しかし自分の怠惰な性格というか、面倒くさがりな性格が、なかなか別れまで切り出すのを拒んだ。

 「亘君?」
 そう聞き覚えのある声がする。
 誰よりも愛しい声。
 尚代先輩だ。
 俺は振り返った。
 「どうかしましたか?」
 そう俺は冷たく答えた。
 「最近当番に来ないからどうしたのかと思って。」
 そう尚代先輩は言った。
 「面倒くさいんですよ。もともと本なんて好きじゃないし。」
 
 メンドクサイ。
 
 そんな冷たい言葉を自分の口から言ったことにぞっとした。
 人はなかなか素直になれない生き物だ。
 あなたのことが好きです。
 そう言えたらどんなに楽だろうか。

 「そう。わかったわ。」
 そう言って尚代先輩は図書館へと歩いて行った。
 どんな顔をしていたかは見ることができなかった。
 悲しい顔をしていただろうか。
 
 オレハセンパイノミカタデスカラ。

 俺は尚代先輩に何をすることができただろう。
 傷つけてばかりじゃないか。

 イチョウ坂を下る。
 「あの人とどういう関係なの?」
 そう栄子は唐突に聞いた。
 鋭い、と思った。
 俺と尚代先輩との関係。
 もしかしたら、なんの関係もないのかもしれない。
 「図書委員の当番で一緒になるんだよ。」
 そう俺は答えた。
 「でも仲良さそうだったじゃん。よく話すの?」
 「ああ。たまにね。」
 「怪しいな。なにか隠してることない。」
 そう栄子は言った。
 その言葉が俺の感情を逆なでする。
 「なんにもない!!」
 その言葉が空しくイチョウ坂に響く。
 怒ったのなんか久しぶりだ。
 この感情はもしかしたら自分に向けられたものかもしれない。
 あいまいで、自分の気持ちを言うことができない自分に。

 家に帰った。
 自分の部屋に向かう。
 ベッドに俺は倒れこんだ。
 疲れた。
 尚代先輩。
 愛おしかった。
 今すぐにでも会いたかった。
 そうだ。
 尚代先輩の絵を描こう。
 自分の気持ちをぶつけるように絵を描いた。
 思い出す尚代先輩の顔。
 眼鏡の奥に覗く意志的な瞳。
 どっちかといえば控え目で小さな鼻。
 ちょんとついた、どこか寂しそうな唇。
 彼女と愛の言葉を交わすように描いた。
 しかし、自分の技量が自分の思いとは相反するように拙く、未熟であることを思い知った。
 でも一生懸命描いた。描いた。描いた。
 出来上がった作品はあまりいいできとよべるものでなかった。
 しかし、自分がどれくらい先輩を好きか知ることができた。
 
 栄子とは別れよう。
 そう決めた。
 このまま引きずるのは良くないことだ。
 問題は先輩との関係だ。
 このまま避け続けるのか。
 先輩の読んでいた本を思い出す。
 あの最初に読んだ本。
 別れか。
 先輩との別れはこれでいいのか。
 このままだと先輩は卒業してしまう。
 こんな中途半端な別れでいいのか。
 こんな悲しい別れでいいのか。
 絶対に嫌だ。
 明日先輩に会おう。
 そう俺は決めた。


第七章
 「別れてくれないか。」
 そう切りだしたのは俺の方だった。
 「どうして?私何かわるいことした?」
 そう今にも泣きそうな表情で栄子は言う。
 「好きな人ができた。」
 そう俺は言った。
 別れを切り出すのはとても気が引ける行為だった。
 誰かを悲しませるのは嫌だ。
 大切な人ならなおさらだ。
 ある意味残酷な行為だった。
 しかし人間というのは時に残酷にならないといきていけない。
 「あの時の眼鏡の子ね。」
 「ああ。」
 「ひどい!!」
 そう栄子は悲しみと怒りと嫉妬の気持ちを吐きだすかのように俺に言った。
 「ごめん。これ以上付き合うのは栄子にとっても俺にとってもよくない。」
 「もう私のこと好きじゃないの?」
 「……。」
 俺は何も言うことができなかった。
 栄子は俺の方を懇願するように見つめた後、何も言わずに校舎の方にかけ出した。

 自分の気持ちは偽ることができない。
 もし栄子を好きでいられたらどんなに楽だろう。
 しかしそれは無理なことだ。
 俺は自分自身のどうすることもできない気持を呪った。

 沈んだ気持ちだった。
 だれとも話したくない気分。
 しかし尚代先輩には会いたかった。
 自分のどんな気持ちも尚代先輩なら受け入れてくれる気がした。
 先輩に会いに行こう。
 そう俺は決めると文芸部のある休館に向かった。
 廊下のタイルがはげている。
 あいかわらずさびれている。
 ここだ。
 少し緊張する。
 ガラッとドアを開ける。
 そこにはだれもいなかった。
 今日は先輩はくるのだろうか。
 いつも先輩が座っていた机。
 あれ。
 ノートがある。
 俺はそのノートに手をのばす。
 尚代先輩のものなのか。
 チラっと中身を見てみた。
 それは尚代先輩の日記だった。
 平坦な文体でただ黙々と日々の想いを書き綴っていた。
 これは見てはいけないものだな。
 しかし自分の好奇心に俺は勝てなかった。

 「八月一日 今日新しい子が図書委員に来た。松本亘君と言うらしい。あまりうまく接することができなかった。反省。」
 「八月十四日 今日亘君が話しかけてくれた。うれしかった。少し緊張したがうまく話せた。雨が降っていた。」
 「八月二十一日 亘君が本について話しかけてきた。素敵な子だな、と思った。それからすこし会話をした。なんだか弟ができたみたい。」
 そう俺のことが書かれていた。
 なんだか恥ずかしかった。
 「九月六日 亘君が泣いていた。なんだか私のことを思い出した。なにがあったんだろう。」
 「九月十日 今日有山先生に抱きついてしまった。でも有山先生はそれを拒否した。悲しかった。私の想いは叶わないだろう。でもそれでいい。きっとそれが一番幸せ。」
 「九月十四日 今日亘君が当番にこなかった。風邪でもひいたのだろうか。少し心配だ。」
 「九月二十一日 亘君が今日も来なかった。なぜか今日は亘君に会いたかった。」
 「九月二十八日 亘君が今日も来なかった。私を避けているのだろうか。そうだとしたらとても悲しい。」
 「十月五日 今日亘君と話した。女の子といた。亘君の彼女だろうか。やはり私を避けているみたいだ。悲しかった。大事な友達を失ったみたい。少し泣いた。」
 そう辛辣な気持ちが書かれていた。

 尚代先輩を今すぐ抱きしめたかった。
 そのくらい愛おしかった。
 
 パラパラとページをめくる。
 先輩が二年生のときだ。
 「四月八日 新しいクラスになった。うまく馴染めるかちょっと心配。」
 「五月四日 一緒にいた友達がなにかよそよそしい。なにか傷つけることでも言っただろうか。」
 「五月八日 私の机にひどい言葉が書かれていた。私なにか悪いことしただろうか。」
 「五月二十一日 悪口を言われた。言った人たちの中にはあの友達がいた。そのことが一番傷ついた。」
 「六月一日 私のかばんがなくなっていた。一生懸命さがしたらトイレにあった。みたくもないくらい汚されていた。傷ついた。」
 「六月六日 なんだか毎日憂鬱だ。ときどき私の存在を考える。生きるってつらい。」
 「六月二十日 好きな人が自分の悪口をいっているのを聞いた。」
 そこでぷっつりとぎれている。
 パラパラとページをめくる。
 「八月十日 とても両親に迷惑をかけた。ごめんなさい。」
 自殺未遂の後のことだろうか。
 「八月十四日 もう学校に行きたくない。有山先生が必至に励ましてくれた。嬉しかった。」
 「八月二十日 有山先生に連れ添ってもらって学校に行った。みんなまるで私のことをおかしい人みたいな目で見る。辛かった。」
 「八月三十日 有山先生がとてもやさしい。ごめん、と何回も言っていた。有山先生のことが好きだ。」
 「九月一日 有山先生の勧めで文芸部に入ることにした。有山先生と一緒の時間を過ごすことができる。嬉しい。」
 俺はもう見るのをやめた。
 
 それはあまりにも悲しい尚代先輩の過去だった。
 まるで自分のことのように心が痛んだ。

 ガラ。
 扉が開いた。
 尚代先輩がそこにはいた。
 ちょっと驚いたような顔をみせる。
 「それ。」
 ん、このノートのことを言っているのだろうか。
 「見た?」
 ちょっと怒ったように尚代先輩は言った。
 なにもこたえられない俺。
 「これは見ないで欲しかったな。」
 尚代先輩の言葉が棘のように俺の心に刺さる。
 「すいません……。」
 尚代先輩はそのノートをとって文芸部を出ようとした。
 「先輩!」
 俺はそう叫ぶように言った。
 「何?」

 「俺、先輩のことが好きです。」
 
 そう俺自身信じられない言葉を俺は言った。

 きっと俺の中で強く先輩に伝えたかったんだと思う。
 いままでの想いを。

 尚代先輩はあきらかに動揺しているようだった。
 ちょっと顔が赤くなっている。
 ちょっとした沈黙があった。
 そして尚代先輩は思いおしたように言った。

 「私も好きよ。亘君のこと。」

 伝わった。
 そう俺は思った。
 人間の思いなんてほとんど伝わらないとおもっている。
 言葉にそれをだしても、自分がどれほど切なく感じたかどうかは本人にしかわからない。
 でも尚代先輩は俺の気持ちを分かってくれている気がした。
 もし伝わらないことがあったとしても、これから伝えていこう。
 愛という気持ちのカケラを交換していくように。

 「一緒に帰りませんか?」
 
 「ええ。」
 女の子らしい尚代先輩はとてもかわいらしくそう言った。

 イチョウ坂をゆっくりくだる。
 まるで俺と尚代先輩の恋のようにゆっくりとイチョウの葉は紅葉し始める。
 夕方のやさしい光がその葉が透けてしまうほどキラキラと照らす。
 道路とオレンジの光のグラデーション。
 それはまるで神様が俺達のためにつくってくれた贈り物のようだった。
 なにを話そう。
 そう迷っていると尚代先輩の方から話しかけてくれた。
 「有山先生はとてもいい人。有山先生と私にはなんの関係もないから。」
 「わかってます。」
 そう俺は言った。
 「俺尚代先輩のこと大事にしますから。」
 「ありがとう。」
 俺と尚代先輩は見つめあった。
 とても気持ちのいい時。
 永遠にこのままでいたい。
 俺と尚代先輩は優しくキスをした。


第八章
 図書館に俺は駈け出す。
 わくわくする気持ち。
 これが恋ってやつだな、としみじみと思う。
 恋ってのは楽しいことばかりではない。
 辛いこともある。
 でも俺は思う。
 恋をどんな時も楽しもうと。

 ビートルズの歌詞でこんなことを言っていた。
 愛ってのはもっとも簡単で、楽しいゲームのようだと。

 愛ってなんだろう。
 
 お互いが異性として意識し、言葉を交わすことから始まり、可憐な彼女の笑顔で明日への希望を抱き、胸を焦がすようなせつない夜を経験し、些細な違う異性との会話で激しく嫉妬し、自分の気持ちとは違う言葉でお互いを傷つけ、しかしそんなことを経験しながら、誰にも作ることのできない二人だけのダイアモンドのような綺麗で純粋な気持ちを、二人だけのゆるやかな時を感じ、抱き合いながら育んでいく。
 
 ドカッと椅子に座る。
 尚代先輩はいつものように本を読んでいる。
 俺の方をちょっとみたが、また読書に戻る。
 そんなマイペースなところもかわいい、と思った。
 尚代先輩は空のような人だと思った。
 なにも変わらずただ黙々と人々に時間を知らせる。
 人は時に空に思いを重ねる。
 なぜだろう。
 きっと理解してほしいからだろう。
 心の底から叫びたい衝動のような思い。
 誰にも理解してもらえないようなそんなせつない思い。
 それをわかってくれるような気がするんだ。
 きっとそれは人間というものを越えたそんな存在。
 そんなふうに慈悲深いとさえ思えるような瞳で尚代先輩は本を黙々と読んでいる。 
 「先輩って受験生なんですよね?」
 そう俺は疑問を口にした。
 「ええ。そうよ。」
 尚代先輩は淡々と答えた。
 「勉強しなくて大丈夫なんですか?」
 「私勉強してるわよ。家で。」
 「そうなんですか。努力は見せないんですね。」
 「ふふふ。そんなふうに意識したことはないけど。」
 そう尚代先輩は笑う。
 
 勉強か。
 勉強が好きな人がうらやましい。
 勉強すれば、いい大学にいける。
 そうすればきっといい会社に入れる。
 そうすればきっとお金がもらえる。
 きっと。
 そうきっとなんだ。
 先がみえない未来。
 確かなものを得ようと人は努力する。
 もしそのきっとがかなわないと人は絶望する。
 そんな風に生きたくないと思った。
 いつだって自分らしい、輝ける自分でいたい。

 「今度デートしませんか?」
 そう俺は思い切って聞いてみた。
 「いいわよ。」
 そうとびきりの笑顔で尚代先輩は言った


第九章
 駅で尚代先輩を待つ。
 自分はけっこうおしゃれな方だと思う。
 尚代先輩にかっこいいと思われるといいな、と思った。
 あっ。
 尚代先輩だ。
 尚代先輩は黒のジャケットに、赤と黒のチェックのスカート。黒い長いソックスを履いて、靴はブーツをはいていた。
 なんというか、かなりオシャレだ。
 「待った?」
 「いいえ今来たところです。」
 そんな恋人のような会話をした。
 あれ俺と尚代先輩は恋人だよな。
 「電車乗りましょっか?」
 「ええ。」
 そう言って俺と尚代先輩は駅の構内に入って行った。
 俺達が電車に乗る駅は学校のすぐ近くの駅だ。
 二人の都合がいいので待ち合わせはその駅になった。
 電車をホームで待つ。
 「先輩っておしゃれなんですね。」
 「おしゃれは好きなの。きれいになるって女性にとっては大事なことよ。」
 そう尚代先輩は言った。
 電車が来た。
 ひとはあまりいない。
 どうやら座れそうだ。
 空いてる席に座る。
 「私、デートってはじめてなの。」
 そう尚代先輩は言った。
 「そうなんですか。じゃあ今日は楽しまないといけないですね。」
 そうなのか。
 きっとあまり恋愛はうまくいかなかったのかもしれない。
 俺が初めての恋人なんだな。
 いい恋人になれたらいいな。
 そう俺は思った。

 いい恋人か。
 俺はあまり器用な方じゃない。
 俺にできることは誠実に、誰よりも優しくすることだ。

 目的の駅に着いた。
 そこは自分たちの街で一番大きな町だった。
 まあデートコースとしては無難だろう。
 人が波のように往来する。
 尚代先輩の手を握る。
 「どこか行きたいところあります?」
 「亘君にまかすわ。」
 そう俺を試すかのようにいった。
 女の子はいつだって男を虜にする悪魔のようになれる。
 そんなことを思った。

 だいたい行くところは決めていた。
 楽しくてドキドキするところがいい。
 楽しい会話が生まれるような。

 一度も行ったことのない雑貨店に行くことにした。
 そこはいろんなものがあった。
 魅惑的な香りがする香水。
 値段の高そうなギラギラとしたシルバーのアクセサリー。
 おしゃれなカバン。
 かわいらしいフィギア。
 きれいで鮮やかなイラストがのってある本。
 どこかの国のロックなCD。

 尚代先輩が気になっていたのは、星の形をしたキーホルダーだった。
 じっとみている。
 あまりにもじっと見ていたので、笑ってしまった。
 「それ気に入りましたか?」
 「うん。小さい頃よくキーホルダーをかってもらってたの。鍵なんかもってないのにね。それをランドセルにつけるのがひそかな楽しみだったの。それを思い出しちゃって。」
 そう尚代先輩は言った。
 「同じやつ買いませんか?思い出に。」
 「それってプレゼント?」
 ちょっと笑って尚代先輩は言った。
 「はい。大切にしてくださいね。」
 そう俺は言った。

 雑貨店をでてぶらぶらする。
 「亘君ってやさしいわよね。」
 「そうですかね。」
 「きっと亘君が思っている以上にやさしいと思うわ。」
 「ありがとうございます。」
 そう言って俺は笑った。
 「きっといい漫画かけると思う。」
 そう尚代先輩は言った。

 それから音楽ショップに行って、古着屋をみてまわった。
 尚代先輩が意外にもロックが好きなことに笑ってしまった。
 「心を揺さぶるロックっていいわよね。」
 そんなことを真顔でいう尚代先輩はとてもおかしかった。

 もう夕方だ。
 俺と尚代先輩は小さな公園のベンチに腰かけた。
 「今日は楽しかった。」
 そう尚代先輩は言った。
 尚代先輩が俺の肩によりかかる。
 肩を抱き寄せる。
 甘い彼女の体臭がする。
 「愛してる。」
 そう俺は言った。

 愛してる。
 その言葉を俺は大切にしている。
 言葉の中でも最も甘く、せつない言葉だからだ。

 「私も好きよ。亘君のこと。」
 彼女もきっとその言葉を大切にしているんだな、と思った。
 彼女の口から愛してると言わせたい。
 尚代先輩の目を見つめる。
 尚代先輩も見つめ返す。
 愛しいその唇。
 俺は尚代先輩とキスをした。
 尚代先輩の柔らかい唇。
 尚代先輩の鼻息がかかる。
 「好きよ」
 そう喘ぐように尚代先輩は言った。
 ゆっくりと舌を入れる。
 ザラザラとした尚代先輩の舌は一つの生き物のように動く。
 唾液の匂いがする。
 俺と尚代先輩は互いに求めあった。
 俺と尚代先輩は男と女になった。
 ゆっくりと俺たちは大人になる。

第十章
 尚代先輩に勉強を見てもらう。
 「ここはコサインの範囲があるから最大値は3ね。」
 そう尚代先輩は言った。
 尚代先輩の説明はわかりやすい。
 下手な先生よりよっぽど教え方がうまい。
 きっと先輩は俺より賢い。
 なにか男として劣等感を感じる。
 尚代先輩が一生懸命説明する。
 いい?と俺に言う。
 デートした日のことをふと思い出した。
 先輩の下手ながら一生縣命のキス。
 わずかにのぞく尚代先輩の性欲が俺の脳を刺激した。
 「先輩?」
 そうキスをねだる。
 「だめ。亘君ったら。」
 そう笑って尚代先輩は拒んだ。
 そう言う姿もとてもかわいかった。
 「俺先輩に言うことがあるんです。」

 そう俺は先輩に言うことがある。
 それは俺の決意だった。
 「先輩に俺の漫画見てもらいたいんです。」
 「先輩が卒業しちゃうともうそんな機会ないと思うから。」
 卒業。
 無情にも別れはやってくる。
 もしかしたら永遠の別れかもしれない。
 自分の存在を認めてほしかった。
 夢と現実で悩む俺の生きる叫び。
 「わかった。」
 そう尚代先輩は言った。
 もう二月の終わりだ。
 先輩は入試を終え、結果を待っている。
 卒業まで二週間。
 
 書く題材は決まっている。
 ひょんなことからロック歌手になったその抜群の歌唱力をいかして成り上がる、という話しだった。
 漫画に笑いははずせない。
 必至に笑いを考えた。
 言葉も大事だ。
 いかに胸を打つ言葉を紡ぎ出せるか。
 その主人公はニートという設定にした。
 成り上がるんならそのくらい下がいい。

 主人公は昔から歌が好きだった。
 ある時から歌が嫌いになった。
 なぜなら有名な歌手だった親父が浮気をして母親をすてたからだ。
 尊敬していた父親が自分たちを裏切る。
 その衝撃は自分の人生にまで影響する。
 高校時代は荒れた。
 悪いことはなんでもやった。
 しかし虚しさだけがのこる。
 大人になっても働かなかった。
 なにか大切なものが欠けている感覚。
 そんな思いがする主人公。
 そんな中好きな女の子ができる。
 主人公には高嶺の花だった。
 その女の子はあるバンドのボーカルをしていた。
 ライブを見に行ったとき楽屋にいくと、女の子が倒れていた。
 ボーカル不在の中ライブは中断しそうになった。
 しかしそこである欲求が湧く。
 歌いたい。
 ただそのことを強く思った。
 俺が歌うと宣言する。
 当然ながら反対するバンドのメンバー。
 そこで主人公は歌う。
 切なく、甘い、高いハスキーボイス。
 なめらかなビブラート。
 主人公は自覚する俺はやれると。


 そういった話だった。
 はっきり言って自信がなかった。
 どんなに話がよくても伝えたいことがないとだめだ。
 俺はそう思う。
 自分の伝えたいことが伝わって初めてプロと呼ばれる。
 絵はあまりうまくない。
 そう自分でおもってる。
 一生懸命かいた。
 最初は下書き。
 それからペン入れ。
 自分のお気に入りのGペンをつかって書く。
 根気のいる作業だ。
 丁寧に。
 ただ丁寧に。
 ちょっと休憩だ。

 尚代先輩が遠くにいってしまうとなると、遠距離恋愛ってことか。
 いっぱい手紙を書こう。
 実際に話すのと手紙をかくのは全然違う。
 より素直に書ける。
 卒業まで二日前。
 先輩に自分の漫画を渡す。
 「たしかに受け取ったわ。」
 そう尚代先輩は言った。
 「ペンネームは(ワタル)ね。」
 俺は自分の名前を気に入っている。
 先輩が亘君、と甘くささやくのも大好きだった。
 「卒業式のとき感想をいうから、会おうね。」
 そう尚代先輩は言った。
 
 ちょっとクラっとする。
 あれ、なんだか目眩がした。
 
 「楽しみにしてる。」
 そう俺は言った。
 本当は怖かった。
 先輩と別れるのが。
 俺のところにいろ。
 なんの力ももたない十代の俺はその言葉を胸にしまうしかなかった。

 
 
第十一章
 とても大変なことが起きてしまった。 
 頭が割れるようにいたい。
 熱もある。
 吐き気がおれを何度も襲う。
 明日は卒業式だ。
 なんとしてもいかなければいけない。
 まだ自分の漫画の感想を聞いてない。
 尚代先輩の連絡先も聞いてない。
 そんなことを思いながら当日を迎えた。
 相変わらず吐き気がひどい。
 親は休めという。
 俺は行くといってきかなかった。
 ふらふらしながら学校に向かった。

 頭が痛い。
 そればかり思った。
 尚代先輩に会いたい。
 抱きしめよう。
 強く、壊れるくらい。
 そうおれは思った。
 
 卒業式がある体育館へ向う。
 目眩がする。
 強い吐き気。 
 意識が飛ぶ。
 俺はそのまま倒れた。



 気づくと病院にいた。
 まだ頭が痛い。
 ふととてつもなく恐ろしいことが頭に浮かぶ。
 尚代先輩。
 俺はベッドから起きようとすると、看護婦があわてて止める。
 「大切な人が待ってるんです。」
 俺は叫ぶように言った。
 「今は体のことだけを考えなさい。」
 そう冷たく看護婦は言う。
 俺はその看護婦を突き飛ばして、病室を出ようとした。
 駆け付けた看護婦によって取り押さえられる。
 俺は狂ったみたいにそれをどかそうとする。
 午後十時を時計は指していた。
 俺は看護婦に取り押さえられた。
 

最終話
 俺は脱力感に襲われた。
 もうどうでもいい。
 悲しいというより、虚しかった。
 今まで過ごした時間はなんだったんだろう。
 尚代先輩の好きだった本。
 先輩と交わした言葉。
 先輩とのキス。
 先輩のあの可憐な笑顔。
 すべては思い出だった。
 すべては過去に存在する。
 俺と先輩は過去のことなのか。

 
 ふと思った。

 今日は図書委員がある日だ。

 もしかしたら。


 俺はすがるような足取りで図書館に向かった。
 先輩の座っていた席。
 なにかある。
 それは先輩の日記と、俺の書いた漫画と、封筒だった。
 封筒を開ける。
 それは先輩の手紙だった。

 
 「亘君。これを読んでる頃には私はあなたの知らない街にいることでしょう。
  時間がなかったから汚い文字でごめんなさい。
  亘君と過ごした時間はまるで幼いころ聞いたオルゴールの音色のようにはかなく、甘い時  でした。
  亘君。覚えてますか。あの亘君が泣いて文芸部にやってきたときのことを。
  私は自分のことをみているみたいでした。
  とても悲しくて泣いてばかりいたあの頃。
  私はいじめられていました。
  いじめる人たちなんかくだらない人だから気にしない、と思うのですが、自分のことを悪  く言われるのはやはりつらかったです。
  死んでしまおう、と思ったとき、もし亘君がいたら、と思うのです。
  きっと私は死のうとは思わなかったでしょう。
  消えかける意識の中で、自分の人生について思いました。
  私には本当に愛する人がいなかった。
  そうかんがえるととても悲しくて、切なくて。
  亘君。あなたを愛しています。
  これだけは変わらない気持ち。
  もう一度あなたと一緒の時間を過ごしたかった。
  亘君の漫画、とてもおもしろかったです。
  才能きっとあります。
  亘君。賭けをしませんか。
  亘君が夢をかなえて漫画家になれたら、私亘君に会いにいきます。
  私が亘君を思っているかぎり結婚はしません。
  ペンネームはワタル、でお願いします。
  本当に馬鹿ですよね。
  こんなこというなんて。
  でも私は信じています。
  あなたはきっと偉大な漫画家になれると。
  私の日記は私のことをもっと知ってほしいから置いときました。
  とても勇気がいったんですよ。
  素敵な思い出をありがとう。
  
  私の愛する亘。 尚代。」
         
  
 そう書いてあった。


 俺は涙が枯れるかと思うくらい泣いた。

 未来はある。 
 
 けして俺と尚代先輩は過去の思い出ではない。
 きっとそれは砂漠の中一粒の砂金をさがすように、難しいことだろう。
 俺は絶対にあきらめない。
 先輩は夢に迷ってくれていた自分を押してくれたのだ。
 それが先輩の最後のメッセージ。
 夢をあきらめないで。
 そういう尚代先輩の高い、小鳥がさえずるような声が聞こえる。

 俺は図書館をでてイチョウ坂にむかって走った。
 ただ走りたかった。
 イチョウ坂をかけぬける。

 あっ!
 虹だ。

 いつか迷っていた自分は虹を見ていたきがする。
 虹はこのまちを覆うかのようにかかっていた。
 あの時と比べてしっかりと鮮やかな色がその虹を彩っていた。

 虹の向こうへ

 きっとその先に答えはある。

 愛するあの人を思い浮かべて、ただやみくもに俺はイチョウ坂をくだった


エピローグ
 仕事が忙しい。
 最近ほとんど寝ていない。
 あれから大学にはいかず、上京し、バイトをしながら漫画を描いた。
 時にはくじけそうな時もあった。
 でも俺はあきらめなかった。
 先輩との約束は自分の生きる理由のようなものだった。
 おまえ馬鹿だろ。
 そんなことをいう奴もいた。
 お前のことなんかもう忘れてるよ。
 俺はある意味尚代先輩のことはどうでもよくなっていた。
 ただ尚代先輩の気持ちを無駄にはしたくなかった。
 俺は未来をみながらも、過去を見ていた。
 尚代先輩の可憐な笑顔。

 「おーい。べた塗っといてくれ。」
 そう俺はアシスタントに言う。
 一応漫画家にはなれた。
 しかしこの世界は厳しい。
 人気がないとやっていけない。
 新人賞をとった時はとてもうれしかった。
 先輩のことを思い出しながら酒を飲んだ。
 きっと俺のことなんて忘れてる。
 けれどあの時の約束はかなえた。
 それだけでおれは満足だった。

 やつれた自分の顔を鏡で見る。
 だいぶ老けた。
 髪はもう何か月も切ってない。
 髭もそらなきゃな。


 「ワタルさーん。お客さんです。」
 「はいはい。今行きます。」
 客室に入ると、女の自分とおなじくらいの年齢の人が座っていた。

 バックには見覚えのある星のキーホルダーがさげられている。

 
 あなただけはどんなに時が経とうと忘れない。


 そのお客はあのときと同じような可憐な笑顔で俺に笑いかけた

2009/03/06(Fri)16:50:11 公開 / Rred
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■作者からのメッセージ
見てくれてありがとうございました。

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