『遺書』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:kanare
あらすじ・作品紹介
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夫の葬儀から四十九日が経ち、どうにか気持ちの区切りをつけようと、わたしは、家中のあれやこれやをいっぺんに整理することにした。そんな折、以前より使っていた書類棚の奥から、日焼けし、随分古ぼけた一枚の便箋が出てきたのである。わたしは、はて、こんなものどうして後生大事にとっておいたのだろうと、我ながら訝しげにその便箋をあけてみた。しかし、その瞬間、わたしは「あっ」と驚き、その場で硬直してしまった。便箋の筆跡を見るやいなや、わたしの記憶がすぐさま蘇ったのだ。同時に、当時の感情がありありと呼び起こされて、せっかく整理をつけようとしていたわたしの気持ちも、また千千に乱れてしまうのだった。
「……お母さん、大丈夫?」
十六になる娘が、扉の向こうから呼びかけた。両手の手紙を眺め、涙している母を見て、また悲痛なる父への思いに服しているに違いないと、子どもながらに気を遣ったのだろう。
わたしは、慌てて涙を拭い、「なんでもないのよ」と娘に言い聞かせた。そして、何事もなかったかのように、階下で熱いお茶を飲み、家族と何気ない昔話などをした。その後、また寝室の整理を再開することにした。しかし、一人になるとどうにも心が動揺してしまって、落ち着かない。何をしていても、先ほどの便箋の文字が瞼の裏に張り付いて離れないのだ。
そこで、いてもたってもいられずに、わたしは衝動的にペンと新品の便箋を取り出した。
張り切って家の整理をすると言った張本人が、いきなり何やら書き出したわたしに、娘も祖父も随分呆気に取られたようだった。こうして、わたしは滔々と宛てのない手紙を書き始めたのだった。
*
いきなりこのような手紙を書いて、あなたもさぞ驚かれることでしょう。でも、どうしてもあなたに伝えたいことがあり、このように筆をとった次第です。
これは、わたしの叔父さんの話です。
今から、40年ほど前でしょうか。叔父さんがある地方都市の大学に通っていたときのことです。
叔父さんは大学に向かうのに、閑静な住宅街の真ん中にある通りを毎日通っていました。
通りは坂道になっていて、秋になると、街路樹の銀杏が黄色い雨を降らせました。しかし、他にはこれといって特徴もなく、ひっそりと佇む家々に囲まれた、どこにでもありそうな通り道でした。叔父さんは、それこそ、夏も冬も、必ずその道を通っていました。
そんな平凡な通りには、一箇所だけ不思議な場所がありました。
登り坂をちょうど真ん中くらいまで歩いていくと、突如として、ポツンと古びた洋館が出現します。母によれば、洋館は、昭和初期にドイツの建築技師を招いて造られたそうで、当時は、それは立派でモダンな建物だったそうです。ところが、叔父さんが大学に通う頃には、もう相当古びてしまっていて、主人もなく、苔むした赤煉瓦の建物は、住宅街にあって相当異質で、不気味な存在になっていました。
叔父さんは毎日、この洋館の前を通りました。洋館の敷地にそびえる、黒光りする立派な鉄門は、いつも閉じたままで、誰も住んでいないことは一目瞭然でした。外観の赤茶色の煉瓦造りもとうに色あせ、あちこち緑青の蔦と苔に覆われていました。叔父さんも、最初は不思議な建物だな、程度にしか思っていなかったようです。
そんな、ある日のことでした。
叔父さんが、クローゼットから出したばっかりの夏服を着て、洋館の前を通りかかったときでした。どういう訳か、いつもは硬く閉じられている、洋館の二階にある木製の雨戸が開かれていたのです。叔父さんは、思わずその窓を見上げました。すると、くすんだ窓ガラスの向こうに、一瞬誰かの影が見えたのです。
叔父さんは、驚いて、その場に釘付けになってしまいました。そして、すぐ我に還って、ついに幽霊でも見るようになってしまったか、と思い、大学までの坂道を急ぎ足で駆け上りました。
大学での講義も終わり、恐る恐る洋館の前を通りました。茜空に照らされた濃緑色の木製の雨戸は、今までと同じようにぴったりと閉じられていました。
なんだ、やはりただの見間違いだったんだ、と叔父さんはほっとしたそうです。
数日が経ち、いつもの通りに、まだひんやりとしている街の空気を吸いながら、登り坂を歩いていきました。
叔父さんは、何気なく、洋館の前で足を止めました。ふと、二階の隅に目を遣ると、驚いたことに、その日も雨戸が開いていたのです。
叔父さんは、自分の目を疑いました。
窓の奥には、はっきりと女性の人影が見えたのです。
叔父さんは、やはり洋館には誰かいるのだと思いました。しかし、その時は、恐怖心というより、むしろ神秘的な気持ちを抱きました。なぜなら、深窓に現れた女性の影が、驚くほど美しかったから。
それからというものの、叔父さんは、坂道の通りを通るたびに、赤煉瓦の洋館が気になり、日課のように眺めるようになりました。毎日毎日、洋館の二階の窓辺に目を遣っていると、時々、一ヶ月に一度あるか、ないかですが、やはり女性が窓辺に立っていることがありました。女性は、艶めく黒く長い髪をたなびかせ、少し尖った耳をしていて、そして、いつも真っ白なワンピースを着ていました。
彼女は、大変美しい女性だったそうです。はっきりと瞼に写るその姿に、叔父さんは、きっとどこかの富豪の令嬢で、故あってあの洋館に住むようになったのだ、と想像していました。
叔父さんは、いつもいつも洋館を眺めていました。秋になり、冬が訪れ、やがて街の景色が変わり、厚手のコートを手放す時期になっても、大学からの帰りしな、近くを通ったときなど、必ず洋館の前に立ちました。時には、数時間そこで佇んでいることさえありました。しかし、なかなか彼女は姿を見せてはくれません。叔父さんは、彼女と、もっと近づきたい、もっと話がしたいと思うようになっていました。しかし、叔父さんの思いとは裏腹に、彼女は稀にしか姿を見せてはくれません。しかも、きまって悲しげな横顔なのです。
ある時などは、いつも洋館を熱心に眺めている若者を心配して、近所の人が駆けつけてきたときもあったそうです。近所の人によれば、その洋館は、当時で二十年ほど前ですから、戦時中でしょうか、その時期にはもう空き家で、ずっと主人がいないはず、とのことでした。近所の人も、赤煉瓦の洋館には人が出入りしているところを見たことがない、と話していたそうです。
しかし、叔父さんははっきりと見たのです。あの美しい女性の姿を。
家族も、近所の人も、恋人の一人も作らず、古びた洋館ばかり眺めている叔父さんをひどく心配しました。あそこの息子さんは気が狂ってしまった、と陰口をたたく人もいたそうです。
来る日も来る日も、叔父さんは洋館の窓辺の女性を見つめました。叔父さんは、その頃になると、会うことは適わなくても、せめてこちらを向いて欲しい、と思っていました。しかし、彼女が窓辺に立つときは、寂しげな横顔のままで、その瞳をこちらに向けてはくれません。
そして、何をも拒否するように、洋館は、頑強な黒い鉄格子に囲われていたのです。
大学を卒業し、小さな企業に就職した後も、叔父さんは、決して彼女のことを忘れることができませんでした。
叔父さんは、多少遠回りしてでも、会社への行き帰りには必ず洋館へと立ち寄りました。不思議なことですが、窓際に佇む彼女の、艶めく黒髪も、少し尖った耳も、白いワンピースも、ずっと変わらずにいるのです。
初めて彼女を目にしたときから、ずっと離れないその面影。すでに、洋館に通いだして十数年の月日が経とうとしていました。叔父さんは、その間誰とも結婚せず、ただ淡々と、名前も知らない黒髪の女性を思い続けました。
母は、叔父さんを孤独な人だった、と言いました。
月日は流れ、叔父さんの頭にも白髪が混じり始めた頃のことです。
初冬の風の強い日でした。いつもの会社の帰り道、叔父さんは夕暮れの洋館の前で、彼女が窓際に立つのを待っていました。強い風が叔父さんのマフラーをたなびかせ、銀杏の葉が舞い散ります。コンクリートに長く影がのび、通りは寂しい冬の気配で満ちていました。
叔父さんは両手をコートのポケットに突っ込んで、ただ何をするわけでもなく佇んでいました。しかし、三十分、一時間と過ぎても彼女は現れてくれません。辺りも暗くなってきて、今日はもうだめか、と諦めて帰ろうと、窓から目を逸らしました。
しかし、一陣の風が、彼を立ち止まらせます。叔父さんは、何か気配のようなものを感じました。慌てて視線を戻すと、黒髪の彼女が窓辺に立ち、こちらを見つめていました。
初めて見る、彼女の透き通るような美しい黒い瞳。悲哀に満ちたその瞳は、叔父さんの心を貫きました。
どうして、彼女はずっとああしているのだろう。誰とも会わず、一歩も外に出ないまま、時々、ああして窓辺に立って、寂しく、澄んだ黒い瞳を濡らしている。考えても、考えてもきりがありません。きっと、あの人は助けを求めているんだ。誰かに助けを……。
気がつくと、彼女の姿は跡形もなく消えていました。叔父さんは、複雑な思いを抱えたまま、冬の闇に身を隠しました。
もしかしたら、こうした日々が永遠に続くのかもしれない、と叔父さんは思い始めていました。ところが、結末は思いのほか早く訪れました。
彼女の瞳に出会ってから数日たった、冬の割には暖かい、ある午後のことです。彼がいつものように、すっかり枯れ果てた銀杏並木の登り坂を歩いていると、その日に限って妙な胸騒ぎがするのです。叔父さんは、今日は何かが起こるんじゃないか、と胸に手を当てて、ひとつ深呼吸をしました。それから、神妙な面持ちで件の洋館の前にやってきました。
叔父さんの胸騒ぎは奇しくもあたってしまったのです。
これまで何十年も変わらなかった、洋館の外観。幾星霜を経て、苔むし、無尽に蔦が生い茂り、朽ちつつあるレンガ造りの建物。まるで侵入者を遮るように、張り巡らされた赤褐色の分厚い塀、無愛想な鉄製の柵、そして、敷地の中央には、決して開くことのない重厚な鉄の門……。
しかし、その日は違っていました。突如として、玄関の扉が開け放たれていたのです。
叔父さんは呆気にとられてしまいました。あてもなく解き放たれた錠前と、キィキィと空しい音を立てて佇む門を前にして、驚きのあまり、その場に立ち尽くしたまま、想像しうる限りの考えを巡らせました。
どうして、あんなに望んでも開くことのなかった扉が、今日は開いているんだろう……。
叔父さんは、喜びよりは、戸惑いを感じました。
何かが起こる気がする。そんな予感を胸に、叔父さんは、早なりになる鼓動を抑えながら、思い切って玄関の扉をくぐりました。
初めて立ち入った庭は、楽園とは呼べませんでした。それは見事で、美しかったであろうかつての庭園は、当時の見る影もありません。剪定のされない薔薇の蔓があちこち延び放題で、鎖のようにあちこちに絡んで、侵入者を阻みます。足元を見れば、もはや何の植物なのかわからなくなってしまった雑草が、そこらじゅうを侵食しています。かつては、美しく装飾されていた白い木製のチェアもテーブルも、とうに朽ち果てて、今は惨めな残骸としてその姿を晒すばかりです。叔父さんは、こんなところに人が住んでいるのかと、いよいよ疑わしくなりました。しかし、叔父さんは躊躇しながらも、一歩一歩たしかめるように、深みに入っていきました。
荒れ果てた庭を奥に進むと、ようやく洋館の入り口の、青鈍色にくすんだ扉にたどり着きました。
玄関の錆びきった真鍮のノブに手を掛けようとして、改めて躊躇するのでした。果たして、この扉は、自分を迎えてくれるのか……叔父さんは、厳粛な佇まいの洋館を見上げ、これまでの日々を思いました。彼女に対する思いが、今、ここで結末をみるのかもしれない。叔父さんは、そんな不安を振り払うように、ノブを回しました。扉は、軋んだ音を鳴らし、ゆっくりと開きました。
室内は薄暗く、所々、外から漏れ出す光によってぼんやりと照らされていました。ずっと放置されたままの、本棚、虫食いの絨毯、埃の積もったテーブルなど、およそ人が住んでいるようには見えません。叔父さんは、もし今までのことが、すべてただの幻だったら……と、胸をかき乱すような不安を感じました。
しかし、同時に、彼女に会うことができたらなんて話そうか、自分のことをなんと言おうか、と期待を膨らませていました。叔父さんは、早々に一階の居間を後にし、二階へと続く階段へと足を延ばしました。叔父さんには、確信がありました。いつも外から眺めていた、二階の窓。もし彼女がいるとしたら、二階のあの隅の部屋にいるに違いない、と。
張り裂けそうになる胸に手をあてながら、あちこち破れた、木製の軋む階段を登りきると、二階の長く暗い廊下の、一番奥にある扉だけが、少しだけ開いているのがわかりました。叔父さんは、埃の深く積もった木目調の廊下に足跡を残しながら、奥の扉の前まで駆け寄りました。
――僕は、今まで、なんて無駄な時間を過ごしていたのだろう、と心底後悔したよ。目の前に、こんな美しい光景があることを知らずにいた、今までの人生をね。
ずっと後になって、叔父さんが、わたしに熱っぽく語ったのをよく覚えています。
叔父さんが奥まった扉を開けると、そこは別世界でした。暖かい冬の日差しが照らす部屋の真ん中には、白い服を身にまとった美しい女性が、今まさに、天より舞い降りたかのようにいたのです。
彼女は、赤い絨毯の上に、真珠色の華奢な身体を横たえていました。
小さな部屋は、何より神聖な空間に思えました。
本棚と、簡素なベッド、それからロッキングチェアがあるだけの、小さな箱庭。これが彼女の世界なのか。叔父さんは、動くことができませんでした。しかし、叔父さんが部屋に入ってきたというのに、女性は、全くそれを意図しないかのように、絨毯の上に横たわったままでした。
部屋は、ただ静寂が支配していました。叔父さんは両手を握り締めました。もしや、彼女はすでにこの世の人ではないのか。叔父さんは決断を迫られました。幾ばくかの時間、叔父さんは立ち尽くしていましたが、意を決して、彼女のもとへ駆け寄りました。
小さな部屋に漂っている緊張感を打ち破り、叔父さんは彼女に声をかけました。そのとき何と言ったのか、おいとか、僕の声が聞こえるかとか、おそらくそんな言葉をかけたと思うが、叔父さんは、あまりのことによく覚えていないと言っていました。
彼女は、黒い髪を四方に散らし、瞳も口もぴったりと閉じて、眠るように横たわっていました。
叔父さんの呼吸以外に聞こえてくるものはありません。
叔父さんは、絶望的な気持ちになりました。ああ、やっぱりこの人は、この世の人ではないんだ、きっとどこか別の世界から偶然紛れ込んでしまったのだ、叔父さんはひどく落胆したように、その場で座り込みました。それほどに彼女は、超然としていて、また、美しく、儚げだったのです。
しかし、驚いたことに、彼女が先に沈黙を破ったのです。彼女は、呆然としている叔父さんに向かって、手を延ばしました。叔父さんは慌てて彼女の手を取りました。気がつくと、彼女のぴったりと閉じられていたはずの、大きくて黒い瞳が、叔父さんを見つめています。
それは神秘的でした。彼女と手を取り合い、見詰め合った瞬間、叔父さんの頭の中のスクリーンに映画が再生されるかのように、彼女の緩やかな声が響いてきたのです。
(……聞こえますか……)
叔父さんは、驚いて、辺りを見回しました。しかし、すぐに気がつきました。その声は、明らかに、彼女の手を通して伝わってきた『声』だったのです。
(聞こえますか。わたしの声が聞こえますか)
誰もいない雪原に佇んでいるような、恐ろしく静かで透き通った声でした。
信じ難いことに、声は彼女の口からではなく、直接頭の中に伝わってきました。叔父さんは思わず、頭を縦に振りました。もちろん、それが正しい態度なのかはわかりませんでしたが、叔父さんはそうする他に知らなかったのです。
(……よかった……)
彼女は、ほんの少しだけですが、微笑んだようにみえました。
叔父さんは、気がつくと、彼女の、冷たく血の通わない手を、強く握り締めていました。
(……わたしの命はもう長くはありません。わたしの、命が消えてなくなってしまう前に、どうしても……もし、あなたが 構わないのなら……わたしの話を聞いてくださいますか?)
叔父さんは、必死で頭を縦に振りました。
目の前にいる彼女が一体何ものなのか、この体験が現実なのか、否か。すべては謎に包まれていました。しかし、頭に響く透明な声は、必死で、叔父さんに何かを訴えようとしているのです。
(……わたしの名前はソフィアといいます。この地球から、約二十光年ほど離れた星から飛来しました。こんなふうに言っても、きっと信じられないと思うけど……あなたにとっては異星の者ということになります)
彼女は、異星人だ。にわかには信じられないことでしたが、今までの不可思議な体験を考えると、たしかに彼女はこことは別の星、別の宇宙からやってきたのかもしれない、とも思えてしまうのでした。
そんな叔父さんの戸惑いを知ってか知らずか、これがその証拠です、と言わんばかりに、彼女は叔父さんと繋いだ右手を離したかと思うと、よろめく身体を起こして、そのまま、彼の額にそっと右手を遣りました。彼女の微かな体温が伝わってきたと感じるや否や、叔父さんの頭の中に、幾万、幾億の膨大な記憶が流れ込んできたのです。彼女が見せてくれた圧倒的な量の映像(イメージ)は、言語的理解を超えて、叔父さんの神経細胞を奮い立たせました。叔父さんの目の前には、まるで、その場にワープしてしまったかのような、圧倒的なリアリティをもった惑星の姿として出現したのです。
(……わたしが住んでいた星は、それはきれいで……この星のように陸地はないのですが、どこまでも澄み切った碧い海が広がっていていました。わたしたちは、宇宙の果ての碧の星でひっそりと生活していたのです)
果てしなく広がる青碧の海。遮るもののない、燦々と輝く海原。
那由他に広がる海は、世界を包み、どこまでも際限なく、ただただ蒼々とした世界を構築している。
この大海の表層には何万、何億の生命がいる。
かれらは、どれも奇怪で美麗な造形をしており、地球上の生命とはまったく異なる。そう、かれらはこの碧い惑星で生まれ、独自に進化した幾ばくもの生物群であり、碧い透明な世界を支配しているのだ。
さらに、柔らかな恒星の光に照らされた、広大な海洋の底には、それら多くの生物群とは明らかに異なる、人為的な空間、建造物があちこちに見える。
誰かがいる。蒼白し、透き通った肌に、長くのびる手足。黒い髪。黒い目――すべて、われわれと似ているようで異なる。まさしく、ヒトだ。かれらは、海底にいくつもつくられた、水中の都で暮らし、水中に適応したコトバを用いている。
海底で、なにものからも侵害されずに、静穏とともに暮らす人達。かれらは、まさしくこの星で、海の中で生きることを選択した「ヒト」だった。そして、海の底こそ、かれらの『地上』なのだ。
(……どうですか、見えるでしょう。わたしたちの世界が)
彼女たちは、気の遠くなるほどの長い時間を経て、海中の有機物からエネルギーを摂取し、徐々に進化を果たし、高度な社会を発達させるにいたるに至ったのです。
(わたしたちは、静かな海の底で、他の生き物たちとともに生きていました。何千年も、何万年も変わらぬ暮らしを続けていたのです……でも、わたしたちの運命は残酷なものでした……)
彼女の表情が、次第に深い悲しみへと変わってゆきます。
(薄緑の空の彼方に、この星を照らす恒星の姿がみえるでしょう。さらに、その遥か向こう、座の連星のひとつに、一際強く輝く星があったのです……まさに、その途方もない大きさの恒星が何十億年の寿命を終えようとしていました。命の炎を燃やすように、一層強く放たれた光は、容赦なくわたしたちの星にも降り注しました……星に生きるすべての生命たちは、光の束によって貫かれ、次々に命を失いました。その星のすべてといえる海も、容赦のない光の爆発によって、全く変貌してしまったのです。碧の星は、自身の生命を失おうとしていました。もはや、わたしたちには一刻の猶予もありませんでした……わたしたちは、この惑星で死に絶えるしかなかったのです……)
彼女の淡々とした語り口とは対照的に、叔父さんの脳内に直接伝わってくる映像では、それまであれほど繁栄していた生物たちが、多量の放射線によって悉く命を失い、彼らの生きる土壌である海も、瞬く間に豊かさを失っていく過酷で悲痛な様子が、惑星単位のスケールで描かれていました。叔父さんは、あまりのことに目を背けたくなりましたが、同時に、彼女の悲しみ痛みが、まるで自分の体験であるかのように伝わってきて、叔父さんは、彼女を見つめたまま、黙って彼女の記憶を辿る作業に付き合っていたのです。
(……わたしは、黙ってこの破滅の運命を受け入れようと思いました。だけど、わたしの家族、兄弟は、どうしてもお前には生きてほしい。この星の生きた記憶を伝えて欲しいといいました。きっと、広大な宇宙には、われわれと同じような、豊かな星があるはずだ……少数の仲間とわたしは、その頃、偶然発見されたワームホールを使って……星を脱出しました……わたしは小さな水の分子となって、冥々とした宇宙を彷徨いました。いったいどれほどの時間が経過したのか……きっと何十万年と経過したことでしょう……気の遠くなるほど、長い旅路を経て、この地球と呼ばれる星に……)
そこまで言い終えると、彼女は叔父さんの額にあてていた手をすっと降ろしました。彼女の声は、儚げに響きました。
(……この惑星に降り注いだ当初、わたしはちっぽけな水溜りでした。数十年かけ、今のカタチに戻りました。同時に、わたしは恐くてたまりませんでした。わたしは、姿形はあなたによく似ていますから……わたしは人目を恐れて、この家から出ることもなく、生きながらえました。だけど、次第に、永劫ともいえる命が、なくなっていくのを感じました……それでもわたしは、あなたたちに助けを求めることはできなかった……“言葉”を発することでしか分かり合えないあなたたちと……気持ちを通じることなんて不可能だ……この星にたった一人の「わたし」は、あなたたちにとって奇異なる存在……わたしは恐かったの……わたしたちの星の記憶を伝える前に……きっと殺されてしまう……わたしは恐かった……あなたたちを……信じることができなかった……)
叔父さんは、どんな表情をすればよいのかわからず、ただ黙って彼女に従うばかりでした。彼女は、憂いを帯びた表情のまま、おじさんを見つめました。
(……あなたたちは……確かにわたしたちと似ているわ……肌も、髪も、手足もね……でも違うの……やはり、わたしたちは海の中でしか生きられない……わたしたちの住む世界は、争いのない静寂と平穏が支配する世界だった……でも、この地上に住む人たちは違う……騒々しくて、争いごとを好み、同じ種族同士で殺しあう……とても野蛮で残忍な…………)
ソフィアは、そっと目を閉じました。
彼女の双瞼からは、大粒の涙がいくつもいくつも零れ落ちました。
(……あなたのことは、知っていました……でも最初は恐ろしかった……きっとわたしのことを監視しているんだわ……きっとどこかに連れて行く気なんだわって思い込んでいたの………)
叔父さんは、これまでの自分の気持ちを、彼女への思いを、どのようにしたら伝えることができるのか見当がつきませんでした。叔父さんは、ただただ彼女の瞳を見つめながら、頷くしかありませんでした。
(……わかっているわ……あなたの瞳を初めて見たとき……ああ……あの人はきっと優しい人って……やっと気がついたのよ……今まで……優しく見守ってくれていたのね……でも遅すぎたわ……わたしは……勇気がなかったの……)
彼女の頬には涙の後が残りました。
ソフィアは、叔父さんが言わんとすることをすべて理解したうえで、彼にテレパシーを送っていたのです。叔父さんの目からも、涙が零れました。しかし、叔父さんの感情とは裏腹に、彼女の意識は次第に朦朧としていくようで、叔父さんにも、ソフィアの生命が終わりに近いことを悟らせました。
(……死ぬ前に、わたしの記憶を……わたしたちの記憶を誰かに……伝えたかったの…………誰にも知られずに……一人で死ぬのは……本当に……本当に……辛かった……でも、今日はじめてあなたと会って……今は安らかな気持ち……)
彼女は、少し微笑んだようでした。
(…………ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまって……)
叔父さんは、首を横に振って、再び彼女の手を強く握り締めました。
(……今日起こったことは……わたしのことは……忘れてしまっても構いません……でも、もし……もし……あなたが構わないのなら……わたしのことを、わたしが生まれた星のことを、どうか覚えてていてはくれませんか……たとえこの身が消え去っても……あなたが覚えていてくれるなら……この星に来れてよかった……と……思え……ありがと…………う……最後まで聞いてくれ……て……あり……が……)
頭に響いていた柔らかいソフィアの声は、遠く、小さくなっていきました。
叔父さんは、慌てて彼女を抱き寄せました。しかし、彼女の大きな瞳は、すでにぴったりと閉じられていました。身体は、まだほんのりと体温を保っていましたが、すぐに冷たくなり、がっくりと叔父さんに身を擡(もた)げていました。
ソフィアの黒い瞳は二度と開きませんでした。気がつくと、彼女はすでにカタチなく、ただの水となって叔父さんの腕から零れ落ちました。あとに残ったのは、絨毯に残ったわずかな滲みだけです。
いったいどれくらいの時間が経ったのでしょうか。
叔父さんは、止め処なく流れる涙を拭うこともなく、座り込んだまま、ただ黙って彼女の身体を腕に抱いていました。瞳を閉じれば、ソフィアの語った『碧の惑星』のありありとした生命の姿が、残り香のように瞼の裏に浮かんできます。
この屋敷に入ってから、彼女と出会い、そして事切れるまでの間……きっと、ほとんど一瞬の出来事であったに違いないでしょう。それにも関わらず、叔父さんは、彼女との接触が、永劫とも思えました。宇宙の果てより届いたソフィアの声、ソフィアの瞳……きっと、一生忘れることはないだろう、と叔父さんは確信しました。
*
わたしが初めて叔父さんに会ったのは、母が入院したときでした。
病室で見た叔父さんは、白髪交じりの頭に丸眼鏡をかけた、とても優しそうな老人でした。今考えると、とても叔父さんらしいのですが、叔父さんと母は兄妹なのに、ほとんど会話らしい会話はしませんでした。不思議な顔をしているわたしを他所に、叔父さんはお見舞いの品を置いて、すぐに帰ってしまいました。母は「昔からああいう人だから……」と半ば諦めたようでした。
わたしは母にせがんで、叔父さんのことを色々と聞きました。母は言葉少なに叔父さんのことを話していました。
それから、わたしは、一度だけ、叔父さんの洋館に足を運んだことがあります。叔父さんは、ある日突然会社を辞め、件の古びた洋館を買い取ったのだと、母から聞いていました。
叔父さんは、突然洋館に訪れた姪っ子を拒否することなく、受け入れてくれました。叔父さんは、この洋館を引き取って以来、わたしが初めてのお客さんだと、少しはにかんだように笑いました。わたしは、思い切って、母から少しだけ聞いたことのある、「窓際の彼女」のことを聞いてみました。「ここだけの秘密だよ」と言って、まるで物語を語るかのように、最初の出会いから結末まで事細かに、感情豊かに話してくれました。叔父さんは、きっと信じられないだろうけどね、と言いましたが、わたしは叔父さんの体験が、本当のことだと思えたのです。だって、わたしの頬からは、大粒の涙が流れていたから。
それから、少しして、叔父さんはこの世を去りました。
母によると、叔父さんは、広い洋館の、二階にある奥まった自室で、ひっそり息を引き取っていたそうです。
叔父さんにはほとんど友人・知人と言える人もおらず、親族だけの、ひっそりとした葬儀になりました。おじさんは、最後まで一人で、ひっそりと死んでいった――彼女との、思い出だけを胸にしまって。――わたしの頬を涙が伝いました。同時に、わたしの胸は寂寥感に押しつぶされそうになりました。
出棺のとき、母がそっとわたしの手に手紙を渡してくれました。それは、叔父さんがわたしに宛てたものでした。
夜になり、わたしは一人になりたくて、家の裏手にある公園でぽつんと座っていました。見上げると、冬の空は快晴で、いつもよりも星が綺麗に瞬いていました。
わたしは遠く、二十光年先の宇宙に思いを馳せながら、静かに叔父さんの便箋を開きました。
裕子へ
わたしは、ずっと考えていた。深窓の彼女について。この愛の正体について。そして、ソフィアがどんな気持ちで、この星に来て、死んでいったかを。考えた末に、わたしは、このように肉体が衰え、死を迎えるときまで、一人で過ごすことに決めた。きっと、お前の母も、そしてお前も随分驚き、飽きれたことだろう。けれども、たとえ、誰になんと思われても構わないんだ。わたしにとっては、彼女の気持ち、彼女の思いを知ることなく一生を終えるほうが、よほど恐ろしかった。
そして、ついにこのときが来た。今、わたしはこの小さな部屋の一室で、ロッキングチェアに一人座っている。わたしは、これから、誰にも知られず、誰とも話さず、誰にも触れられないまま、ここで一人死んでいく。今、ようやく知ることができた。身を引き裂くような孤独と、迫り来る死の苦しみを。やっと理解したんだ。彼女がいかに孤独だったのか。どんなに死が恐ろしいものだったのかを。わたしは、初めて、死に瀕した彼女の、ソフィアの気持ちに共感することができた。わたしの気持ちは確かなものだった。わたしの愛は、間違いではなかった。
どうか、おまえにもわかってほしい。愛することの尊さを。おまえも、愛する人を救うことができる。彼の孤独と、自らの孤独を、その愛によって救うことが……
はっきりとした筆圧で書かれた文面を、涙が濡らしました。わたしは、幾度もその手紙を読み返しました。それから、少しだけ笑って、わたしにもできるかな……と小さく呟いたのです。
*
当時、わたしは叔父さんの死と、それから叔父さんの手紙に随分心を動かされました。その後、あなたと出会ったのだけれど、あなたには叔父さんの話はしなかったね。きっと、あなたは、そんなことあるわけないじゃないかって言うと思っていたから……。今にして考えると、あなたとは色々なことがあって、娘も生まれ、大きくなって……もちろん楽しかったこともいっぱいあったけれど、でも決して、うまくいったとはいえないわ。わたしは、あなたの孤独を癒しきれなかったもしれない。純粋な愛情を貫けなかったかもしれない。でも、この叔父さんの思いがたくさん詰まった遺書を改めて読み返して、今、こうしてあなたに手紙を送りたくなったのです。もう一度あなたに伝えます。あなたを愛しています。わたしは、あなたがこの世からいなくなっても決して寂しくないように、あなたを思い続けます。あなたの孤独に寄り添います。だから、どうか、この思いが届くように。
2009/03/07(Sat)11:48:50 公開 /
kanare
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