『いのちづな。』 ... ジャンル:ショート*2 恋愛小説
作者:春野藍海
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「……おい、そこのネクタイこっちに投げてよこせよ」
化粧台の前で、ワイシャツを着ている男が私に命令する。
ベットに腰掛けながら、私は周りを見回した。二、三回繰り返す。
「ちゃんとみろよ。そこだよ、そこ!」
「……そこってどこ」
「お前の足元だよ。ちゃんと見ろって」
足元に落ちている、グレーのネクタイをつかむ。
「早くこっちに投げろ。……あ、やっぱりいいや。お前が俺にネクタイつけろよ」
私は内心で、は?
「早くネクタイ見つけられなかった罰だよ。こっちにきて、ネクタイつけろ」
「あたし……ネクタイなんてつけたことないもん」
「あ? こんな仕事してるくせに、それくらいもできねぇのかよ。ったく、やっぱこういう仕事してる奴ってバカなんだよな」
ネクタイを男に投げた。でも、本当は投げつけてやりたかったんだ。
「俺さ、帰んなきゃなんねぇんだから、早く着替えろよ。お前だけ置いてくわけにもいかねぇから」
「まだもらってない」
「あ?」
「まだもらってないから、着替えない」
「あー、金のこと? 俺、今それどころじゃねぇんだよ。終電間に合わなかったら、またあいつの八つ当たりくらうんだって」
男は手早くネクタイを締めて行った。
これは相当急いでいる様子だ。
「奥さんと仲悪いの?」
「仲ぁ? ……悪いんじゃねぇの。外から内からどうみても。この頃あいつ本当にイライラしてて。なんだっけ、ほら……あの、あれだよ。あれ!」
髪型で若く見せようとしても、頭がついていかないらしい。
「あ、育児ノイローゼ! あれだ、あれ。二人目産んでからイライラ、イライラって。いい迷惑だよ」
「二人も子ども居るんだぁ。けっこう年取ってから生まれたんだね」
「そーだよ」
「へぇー……」
実際、こんな親父の身内話はどうでもよかった。
わたしはお金をもらえればそれでいいから。
「ほら、やるよ」
男は札を投げてよこした。
カーペットに散乱した札を拾いに、ベットから降りる。
「やべっ。本当に終電いっちまう」
腕時計に目を落とし、急いで部屋から出て行った。
……なんだ。たった七千円か。
一人で一階ロビーへと降りていくと、受付にはぴったりと寄り添いながらコースを決めているカップルの姿があった。
そう言えば、あの女は昨日も池袋のホテルでみたなぁ。
そのままホテルを出ようとすると、店員に声をかけられた。
「お客様! 料金が未払いですっ」
あの男。金も払わないででていったのか。
「五千円になります」
――二千円の女か。
料金を払い、お釣りの二千円をくしゃくしゃにしてポケットに押し込んだ。
外に出ると、どこかの会社の上司と部下。キャバ嬢に誘われている親父ホストと一夜の夢をともにしている人妻。みんながそれぞれの事情を抱えて、ひしめき合っていた。
こんな世界、やめてやる。なんどそう思っただろう。
金を稼ぐために、少し足を浸しただけだった。
でも、底はそんなに浅くなかった。みるみるうちに呑まれていく。
「酸いも甘いも楽しませてくれる場所なんだよ。ここは」いつか私にそう言った男がいた。
「甘いなんてないじゃん。本当は、酸いばっかじゃん」私はその時そう思った。
でも、現実はあながち嘘じゃなかった。ただ唯一間違っている場所はある。
『酸いも甘いも楽しませる場所』って言うのが本当。
でも、そんな場所とももうお別れ。
やっとお金がたまったんだ。しかも、ちょうど肌寒いこの季節に。
ただ少し悔いが残るのは、最後の相手があんな最低な男だったってこと。
明日の朝、私は旅立つ。憧れのあの場所へ。
先生ー。
「ん、どうした?」
先生の生まれたとこってどこ?
「生まれた所かー。俺の生まれたところは、北海道だよ」
へぇー。北海道のどこ?
「函館」
……ハコダテ? それってどこ。
「覚えてないのか。昨日の授業で教えたろ。1854年、日米和親条約で下田と一緒に開港された貿易港のひとつだぞって」
放課後の時まで、勉強の話なんか聞きたくない。
「なんかってゆうな。なんかって」
はぁーい。……でも、先生が授業の時に『函館は俺の生まれたとこなんだぞー』って言ってくれたら、絶対覚えてたよ?
「はははっ。本当か?」
うん。ほんとほんと。絶対に覚えてた!
「じゃあ、そう言っとけばよかったな」
なんでそう言わなかったの。
「ん? ……言いたくなかったから」
それじゃ、わけわかんないよ。もっと深く言って! 深く。
「もっと深く言うと、か? 深く、なぁ……。しいて言うなら、自分の中だけの場所にしと来たかったから。ってかんじだな」
自分の中だけの場所……
「うん。函館はな、治安は悪いとかってよく言われるけど、いい所だよ。こんな俺でも、なーんにも言わないで受け入れてくれる街」
へぇー。じゃあ、いいことばっかりのとこだったんだね。先生にとって。
「いいことばっかりかぁ。……いや、今から考えればいいことなんて数えるくらいしかなかった」
……それなのにいい街なの?
「うん。いい街。冬なんて特に」
そーなんだ。
「いつか行ってみればいいよ。きっと安岡ならわかる」
え、私? すっごくバカなのに!?
「馬鹿なんかじゃないよ。安岡は全然バカじゃない」
そーかなぁ。私、すっごくバカなのに。勉強とか、もうその言葉聞いてるだけでヤダし。
「そんなことだけでバカなんて言わないよ」
でもさ、そんなバカな私に先生の中だけの場所に行ってみればいーよ。とか言っちゃっていいの?
「全然。むしろ行ってほしいよ」
……どうして?
「ん? 行ってほしいから」
だからそんな言い方じゃ、わけわかんないんだってばー!
「はははっ。ほら、もうそんなことはいいから。いい加減に帰るぞ」
先生ってば、今の言葉の意味教えてよー。
「期末で百点取ったら、教えてやってもいいけどなぁ」
だからー、私はバカだから無理なの!
「ほら、行くぞ」
先生、教えてよー!
冬景色。
そんな言葉をよく聞いたことあるけど、自分自身の目で、生で見るとこんな感じなのだろう。
すっぽりと白い粉を身にまとって。寒いけれど、冷たいけれど、なぜか暖かみがある風が吹いている。
そっか。先生はこんな中で暮らしていたんだ。
きしきし、と鳴る路をあるいていたんだ。
上を見上げると、星も見えないくらい真っ暗な空から落ちてくる真っ白な粒。
果ても分からない夜空から、限りなく落ちてくる通は私の頬を撫でる。
そっか。先生はこんな心地良さを知っていたんだ。
昔、私の友達が「曇ってる夜空を見てると、自分が吸い込まれて行っちゃいそうでなんか怖くなる」そう呟いていたことがあった。
でも、こんな夜空になら吸い込まれてもいい気がする。いや。いっそのこと吸い込まれてしまいたい。良いことだけ持って、悪いことだけ捨てて。
……だけど、そんなことは考えちゃいけない。自己中すぎる私の始まりだ。
こうやって「生」を受けてこの世にいる以上、「良いことだけ」なんてそんな安易なこと。そんな幸福なこと。たやすく考えちゃダメなんだよ。
私はきしきし、と白い吐息を吐きながら、当てもなく歩いた。
先生って屋上好きなの?
「えっ? なんでそう思うの」
だっていっつも暇さえあればここにいるじゃん。だから好きなのかなぁーって。単純にそう思っただけ。
「いや、好きなわけじゃないよ。ただ、これがほしいからここにきてる」
煙草吸うため?ただそれだけなの?
「校内で教師であろうものが、生徒の面前で堂々と吸ってらんないだろ。だから、隠れて煙草吸ってる」
ふふっ。
「……なんだよ」
だって、先生も生徒みたいなことするんだなって思って。こそこそ煙草吸おうとするなんてさ。不良生徒の考え方みたいで笑えたの。
「大人だって不良になりたいこともあるの。まあ、俺のほかにもこうやってたばこ吸う場所を探してる先生って、結構いるからなぁ。ここだけの話だけど」
そーなの!? PTAにバレたらヤバいんじゃない?
「みんなでやれば怖くない、だな」
あははっ。なんか今日の先生、クラスの男子みたい。
「そうか? 俺はいつも若々しくって心がけてるんだけどなぁ」
でも、その割にはなんか足りないよ。
「なにが?」
んー、なんて言えばいいのかなぁ。……きりっとした、ぱりっとした、しゃきっとした。なんかそーいうの。
「十分きりっとして、ぱりっとして、しゃきっとしてるだろ」
……お世辞にもそーだね。って言えないなぁ。私からは。
「あ、今、上からしゃべったな」
まーまー、いいじゃんっ! ……私はそーいうのいいなぁって思うけど?
「“そういうの”って“どういうの”だ?」
なんかさ、しなっとした、ぼさっとした、だるっとしてるかんじ。
「俺がそう言う感じだってこと?」
……うん。
「失礼だなぁ。一人の教師として、生徒にそんなこと言われるとは思わなかったよ」
私から見たら、先生はそんな感じに見えるんだもん。でも、若々しいよりはいーなって思うけど?
「……そうか! 安岡はだらだらした人が好みなんだな。森川先生みたいな感じの」
ちがうちがう!! そんなこといってないよ!! 森川みたいなのは、絶対に死んでもヤダ!
「あははっ。先生に向って呼び捨てすんなよー」
はぁーい。
異国情緒漂う街並み。その中を、粉雪に包まれながら私は歩く。オレンジ色の街燈が坂道に沿って、上へ上へと続いている。やっぱり、最後のとこに選んでよかった、としみじみ思った。
その景色を見上げると、坂道の中腹ぐらいに1人の男性が降りてきているのが目にとまった。きっと、生きていれば私のお父さんより少し年下くらいだと思う。
周りにはもうすでに誰も歩いていなくて、家々の明かりも消され、カーテンも閉め切られているような時間帯にしては、その人は酔っているわけでもなく、帽子をかぶってただ歩いていた。
白いこの世界には、まるで私とその人しかいないような気がした。
知り合いでもないその人と。
そんな不可思議な気持ちにとりつかれていると、雪道に足元をすくわれ、私はその場に尻もちをついた。いってぇ。と言葉を漏らしながら、近くのベンチに座って靴の中に入ってしまった雪をはらった。
「そんな靴履いてれば、転ぶのも当たり前じゃないか」
気がつくとさっきの人が、私の近くまで来ていた。
「今日みたいな雪だと特に気をつけなくちゃならないんだ。つるつるした路面の上を粉雪が覆うから」
言われてみれば、向こうの感覚で冬靴じゃないものを履いてきたから、こんな道で滑るのも当たり前だった。
「……観光?」
「んー、そんなかんじです」
「そうかそうか。まあ、あまり人には言えない事情があってこっちに来てみた訳だな…隣、いいか? 毎日眠れなくなると、このベンチで一服するのが俺の楽しみなもんでさ」
ポケットからマルボロのつぶれかけたケースをとり出し、私に尋ねた。
どうぞどうぞと返事を返し、右側に移動した。
ベンチに薄っすら積もった雪をほろい、左側に腰掛けて、その人はケースから一本取り出しくわえた。どこかの店名がプリントされているクリアブルーのライターで火をつけ、大きく息を吸い込む。
「この調子だと、明日は冷えるな」
「…なんでわかるんですか?」
そういうとその人は、ポケットに突っこんでいた右手の人差し指を立てて、天上に向けた。
指さす方向を見ると、五分の一欠けた月が独りぽかり、と浮かんでいた。あまりの明るさに周りの雲が透けている。
「月とか星がものすごくすっきり透き通って見える夜は、次の朝、だいたい冷える。……まあ、だいたいだけどなぁ」
「へぇー」
「それでその月や星を見て、自分もすっきり透き通った気持ちになる夜は、次の朝、絶対に冷える。青空が広がる朝で」
そう言われて、もう一度上を見た。
でも、もうすでに雲で陰って月は見えなくなっていた。大きな大きな雲の陰になって。
「……雪国の青空ってどんなかんじなんですか?」
「見たことないのか?」
「はい。残念ながら」
「じゃあ、どんなものだと思う? ……直感でいいよ」
「直感で、ですか。……青々として、爽やかで、きれい」
「って大体の人は答えるんだ」
「ちがうんですか?」
煙をふ、と吐き出す。マイナス気温なか、空気は煙までも美しく魅せた。
「本当はものすごく淋しげなんだよ。空の色、雲の密度、すべてが薄い。寒々として、淋しくて。でも、空気だけがピンと張ってる。まるで琴線のように。そして、その中で目を細めると、なんだかうれしくなれる。細めた目ですべてを見渡すと、なんでもできそうな気になれる」
想像しても追い付けなかった。だって、私の中では青空は元気な証拠の一つだと思っていたから。
でも、それが淋しげ。でも、目を細めるとうれしい。
「きっとわからないと思う。でも、明日になればわかるよ」
「……明日は、私、いないから。もう自分にさよならすることにしたんです」
「……明日までいようと思ったら、いれるさ」
「青空、見れるかな。……私、バカだから、空が見せてくれないかも」
その人は上をさした。つられて上を見る。
さっきまでの大きな大きな雲が去り、五分の四の月がいた。
「俺がすっきり透き通った気持ちだから大丈夫。……しなったとした、ぼさっとした、だるってしてる俺がそういうんだから」
煙草を地に落とし、ゴム底で踏みつけてベンチを立った。
「バカなんて言うんじゃない。自分のことを。ここまでちゃんとやってきたんだから、バカじゃない。もちろん、このずっとずっと先もな」
私に笑顔を送って、その人は猫背で坂を登って行った。
もう一度、月を見る。
なんか、ぼやけて二重にみえるじゃん。……バカ。
仕方ないから、青空、探してみるよ。
この先も、ずっと。
いろんな青空を。
end
2009/06/04(Thu)23:58:17 公開 /
春野藍海
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■作者からのメッセージ
結構前に書いた作品なんですが、よければ感想お願いいたします(^^
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