『Contrary to a mind [心とは裏腹に] 1〜13話』 ... ジャンル:ミステリ 恋愛小説
作者:春野藍海
あらすじ・作品紹介
連載小説です。随時更新中3/15 …[第四話 現実との差]人物設定訂正6/4 … [第十一話 新たな旅立ち] 台詞訂正
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第一話 プロローグ
あの人はいつも泣いていた。
そんな姿を見るたび、そんな苦悩している表情を見るたび、俺は迷った。いつも明け方近くなってから溶けたように、這うように、布団にもぐりこむ姿を見るたび、俺は迷った。朝起きて、腕まくりをしながらご飯を作るあの人の細い両腕に、ねじりこまれた様な何層にもなった痣があるのを見て、俺は迷った。
「これでいい…これでいいんだよ」
いつだったからか、そう呟きながらあの人が頭を撫でてくれるその行為に、安心感を抱けなくなった。その代りに虚しさがただ、ただ俺の頬を張った。
それでいいのか?それでいいのか!?
その陰湿な問いに、俺は背を向けることしかできなかった。
だって、わかってたから。
こんな幼い俺に何もできない。できるはずがないじゃないか。できたらもうしてるさ。
…むしろ、なにかできたらびっくりするだろ。世間は。そんな甘い社会じゃないんだ。
その問いは、俺のそんな気持ちをわかってる。わかってて俺を煽る。煽って、煽って。そして、俺の無力さに俺を漬け込む。
よくできた深層心理だと常々思っていた。
それはもう幼いころからずっと。
でも、今から思えばそんなことに気づけるような、理解していたような大脳をもちあわせていたのならば、あの頃の俺にはなにかできていたんじゃないのか?と思えるようになった。
それに気づいてからは、そりゃもう自問自答の日々。
「自問」は日を増して粋がっていくけれど、「自答」は日を増して萎えていく。
四字熟語で表せるようなフェアな世界じゃない。
流され、流されるまま、俺はただ漂流していた。
太平洋。大西洋。インド洋。日本海。オホーツク海―そんな名前の付いたとこじゃないよ。
もっと辺鄙で、もっとぬかるんだとこ。
「漂流していた」っていう動詞が適切なのかもわからないような、そんなとこ。
…助けを求めなかったのかって?
求めてもどうにもならないさ。
「そんな甘い社会じゃない」。さっき言ったばかりじゃないか。
そんな世界に自分から助けを求めるなんて、正直、糞くらえだ。
それで、俺がこういう世間から見ればいわゆる「可哀想」な幼少時代を送ってきたことを耳にするとすぐに同情して、今という場所から過去という場所に住む幼い俺に、「そんな状況を脱出するためになにか方法はなかったのか」とか、眉を下げて俺にさめざめとした声で尋ねるとかいうことなんてことも、正直、糞くらえだ。
オジサン、オバサン、そーゆーのは、「後の祭り(アトノマツリ)」ってゆーんだよ。
イイ大人がなにいってんだ。
だからさ、とにかく俺が言いたいこと聞いてほしい。
余計なこと、口にしないで。
もううんざりなんだよ。疲れたんだよ。
放してほしい。
助けてほしい。
誰か、助けて。
第二話 電話との戦い
「はい。『ひとやすみの法則』企画部です」
彼女は今、電話の応対をしている。
コピー機がフル稼働し、FAXがしきりに動いている中、連続ドラマの企画部の一員として、テレビ局で働いているところだ。
週一のドラマの中でも、高視聴率をマークしているこの番組は、テレビ局の上層部も目をかけている存在。
十七階に位置しているこの部屋には、今日も大人数が出入りしているわけだ。
「上田ディレクターにお客様が」
「上田ディレクターですか?」
彼女は受付を相手にしゃべる。
「NKO機器の村川様でございます」
「わかりました。上田ディレクターにつなぎますね」
彼女は『二』のボタンを押すと、四つ隣の席の上田に声をかける。
「上田ディレクター、受付からです。二番でお願いします」
まわりの電子機器の音に遮られないように、大きめの声を出す。
「二番?…わかった」
上田は二番を押しながら、受話器を手に取る。
彼女はその様子を見届けてから、机の上の書類をあさりだす。
上に指示された仕事に取り掛かるわけだ。
しかし、まもなく電話のベルが鳴り、まじめに取り掛かることなど、なかなか難しい。
それでも気を緩めることなく、雑に対応することなく、熱心に仕事をこなす。
『新人だから』
そういわれればそれまでだが、彼女はそれだけじゃなかった。
彼女は脱却したかったのだ。
昔の自分と。
冬真っ盛りだというのに室内は気温が高かった。
様々な最新機器の熱、社員の熱気。
そんなものが重ねに重なり、半袖で過ごしていても何の不思議もない空間を作り出しているのだろう。
ドラマも中盤に差し掛かってきているのと同時に、社員のモチベーションも最終話に向けて上昇している。
この部は局内の最高のクリエイタ―たちを集めて作られたこともあり、朝日が以前所属していた部とは相当違っていた。
デスクの上の資料の山は崩れそうになるまで積み上げられているものまで達している場所が、所々にある。
そして、各自、自分のキャパシティ以上の仕事をしようと常に働いているのが、新人の朝日にでも肌でわかった。
「水無月さぁーん! 書類できた!?」
誰かが彼女の名前を呼ぶ。
どうやら、書類を頼んでいた上司らしい。
「あっ。今日までには出来上がらせます!」
「頼んだからね!」
「はい!」
彼女はまた鳴り出した電話の受話器をとった。
午後三時ごろ。
彼女は、湯を沸かすやかんの前に立っていた。
上司にコーヒーでも持っていこうかと考えていたのだ。
彼女が憧れ、尊敬する上司に。
局内には自動でコーヒーを入れてくれるような機械は、様々な部署に最低一つは設置されているが、あえて自分でコーヒーを淹れたかった。
やかんは次第に沸騰音をたて始める。
コーヒーのフィルターにお湯を通し、マグカップにコーヒーを注ぐ。
茶色を帯びたお湯が滴る。
大人の香りを漂わせる湯気を放ちながら、彼女は上司の元へと運んだ。
プロデューサー専用の部屋へと。
「…失礼します」
ノックをしてから、盆に乗っているコーヒーをこぼさぬよう、ゆっくりと室内に入る。
プロデューサーの部屋はいつ見ても、他とは造りが違い、高級感が漂っていた。
茶に黒く木目が入った壁に沿って、本棚が並べられている。
中には資料ファイル、専門書などがきちんと分けられていた。
綺麗に整頓している上司の性格が読み取れるようなかんじがした。
「……はい」
小さく了解の声をあげたプロデューサーは、パソコンに向かっていた。
キーボードの上を軽快な速さで跳びまわる指は、細く長い。
「高島プロデューサー、コーヒー。どうぞ」
高島は下がりかけている眼鏡を指で上げると、彼女を見上げた。
「ああ、水無月さんでしたか。…ありがとうございます」
「淹れたてでちょっと熱いですけど」
「水無月さんが自分で淹れてくれたんですか?」
「はい。プロデューサーの好みに合うといいんですけれど」
「ちょうど喉が渇いていたところだったので。ありがたいです」
高島は彼女が差し出すコーヒーを受け取った。
息をかけて少し冷ましてから、コーヒーを一口含んだ。
いつも微笑んでいるような高島が、真っ直ぐな目でコーヒーを味わうと彼女のほうを見る。
「ちょうどよくて、美味しいですよ。ありがとうございます」
眼鏡の奥の瞳がやけに澄んでいた。
彼女はその瞳を見ようとしてみる。
だが、すぐにそらしてしまった。
これが「恥じらい」というものなのだろうか。
「そ、それじゃ、お仕事がんばってください!」
「ありがとう」
高島は彼女にそう返した。
彼女がドアノブに手をかけようとしたとき
「水無月さん」
彼女はあわてて振り返る。
「はい?」
「…これ」
高島は茶封筒を手渡した。
「私宛に届いた手紙の中にこれが入っていました。宛名が『水無月朝日様』となっていましたので、あなたにと思って」
「あっ、すいません」
「いいえ。なにも、あなた宛の郵便物を届けただけですから。…あ、中身は見ていないので安心してください」
「わざわざ、すいませんでした」
「それじゃあ、お互い仕事頑張りましょうね」
高島は再び朝日へと笑いかける。
朝日に思わず笑みがこぼれた。深々と一礼して、高島の部屋を後にした。
朝日は机に座ると、高島から受け取った封筒を封切った。
中には、A4サイズの白紙のコピー用紙が入っていた。
裏返しても何も書いてなく、朝日は間違って入れてしまったのだろうと思うことにした。
深く考えてもきりがないからだ。
そして、ペンを持って仕事を再開しようとしたとき、朝日の右手の斜め前にある電話が鳴った。
「はい、ひとやすみの法則企画部です」
朝日が出ると、相手はしばらく返事をしなかった。
「あ、あの…」
「…ドラマの視聴者なんですけどー」
若い男性の声が返ってきた。
「あ、いつもご視聴ありがとうございます」
「てかさ、さっきみたいに視聴者なんですけどーってはじめてよかったわけ?」
「はい。大丈夫です」
「初めてだからさ、こんな風に電話かけんの」
朝日の頭の中には、もうすでに相手の人物像が出来上がっていた。
絶対に茶髪に、腰でジーンズをはくようなやつだ。と。
「それで、ご用件は…?」
「ん? あー。あのさ、…あのキャスティングっつーの?」
「はい」
「そんで、あれ。なんとかしてくんない?」
―『あれ』って言われても…。
朝日は苦笑していた。
「…あの、台詞間違いとか、台詞の言い回しが悪いだとかそういう問題のことでしょうか?」
「いや、あのキャスティングやめてくれない?」
「…えっ?」
朝日は目が点になった。
なにせ、こんな要望を赤裸々に言う視聴者は初めてだったからだ。
「それでも、もうドラマはスタートしていますし、なにより今からキャスティング変更というのは…」
「んだよてめえ。視聴者の意見を水の泡にするつもりかよ!」
「いいえ、決してそういうわけではありません。ただ、ドラマがスタートしているのにも関わらず、今から変更はできないということなのですが」
相手は、文句を混じらせたため息をついて見せる。
そんな無理な意見をぶつけられても…と朝日は頭をひねらせた。
こういうときはどうやって切り交わすべきなのかと。
「まじでさ、あんなくそ真面目なドラマなんていまさらはやんねぇし。…なんかさー、もっとこう色気があるやつ?あんなのがいいんだって」
「脚本も、ドラマの展開も決まっていますし」
「主役もさ、もっと胸のあるやつ使えよなぁ!まじでつまんねぇんだけど!!」
朝日は受話器から耳を離した。
鼓膜がおかしくなりそうだ。
「それで…そういうあんたは、何カップ?」
「えっ!?」
―こいつ、頭おかしいんじゃないだろうか。
朝日は受話器を切ろうと、耳から徐々に離していった。
「おーい、お姉ちゃん。電話きるなよ。他局のマスコミに『ひとやすみの法則 視聴者の意見を踏みにじる!!』って垂れ込むからな!」
朝日は急いで、受話器を耳に当てる。
「す、すみません!」
「楽しく話そうよ。せっかく出会えたんだし」
相手は高らかに笑った。
朝日は否が応でも、置くことはできない。
受話器を置いたら、番組がめちゃくちゃになってしまう。
泣きたい気持ちでいっぱいだった。
答えようと口を開きかけた、そのときだった。
「はい。替わりました。ひとやすみの法則番組プロデューサーの高島尚秋です」
朝日の受話器を高島がいきなり取り、応対し始めたのだ。
「視聴者の方ですか? …いつもご視聴ありがとうございます。はい…あ、なんでも私たちの番組に意見があると伺っていたのですが。はい…そうですか? 失礼いたしました。…はい。それではこれからも当番組をよろしくお願いいたします」
高島はいつもの冷静さで応対すると、受話器を置いた。
朝日はただ呆然としていた。
「…大丈夫ですか?」
「あ…はい! 大丈夫です」
「ああいう視聴者は結構いるんですよ。いたずら半分に困らせる質問ぶつけてくる方って」
「ど…どうして、私が困っているって知ってたんですか?」
「ちょうどスタジオに顔出しに行こうかと思って部屋を出てきたら、水無月さんが顔真っ赤にして、たどたどしく応対していたものですから。これはいつものだなと」
高島はいつもの笑顔で話す。
朝日は自分がそんな状態に陥っていたことを改めて知り、さらに顔を赤くする。
「ありがとうございました」
「いいえ。もしまたなにかありましたら、いつでも呼んでください」
高島は朝日に微笑みかけると、颯爽とその場を後にした。
―高島プロデューサーの顔がすぐ目の前に…。
朝日はさっきの光景を思い返す。
地獄から天へと舞い上がった。
波打つ栗色の髪。
肩より少し下まで下げて、彼女は歩いている。
ヒールの高い黒革の靴、胸を強調させる服に袖を通し、彼女は歩いている。
「清水さん、おはよう」
先輩ディレクターが、廊下を歩く清水に挨拶をした。
「おはようございます」
清水は礼をする。
それは他の誰よりもしなやかで、艶やかだった。
「すごいよねぇ。そっちは」
「…すごいなんて、なにもそんなに」
清水は照れて見せた。
これも、自分を褒めてくれる相手に対しての気持ちだ。
可愛さも混じらせながら、先輩の顔を見上げる。
「なんだっけ、たしか…」
先輩は頭をひねらせていた。
「…そう、ひとやすみの法則!!清水さんのいる番組ですよ。いいよねぇ。報道は浮かばれないよ」
先輩は参ったとばかりに、苦笑いをした。
清水はというと、まぁ言わんばかりの反応だ。
「それじゃ、頑張ってよ。応援してるからさ」
手をひらひらさせながら、先輩は去っていった。
清水はというと、まぁ言わんばかりの心境だ。
清水は、ヒールの音を鳴らしながら、ひとやすみの法則企画部へと足を進めた。
「…はい。それではこれからも当番組をよろしくお願いいたします」
清水が企画部に足を踏み入れたとき、目の前の世界でありえないことが起こっていた。
「…大丈夫ですか?」
「あ…はい!大丈夫です!!」
清水は呆然となった。
―な…なに、あいつは!?あの小娘は?
「ああいう視聴者は結構いるんですよ。いたずら半分に困らせる質問ぶつけてくる方って」
「ど…どうして、私が困っているって知ってたんですか?」
清水は高島相手に話す、名前も知らない小娘が無性に腹が立った。
―なんだ?あいつは?
それしか頭に浮かばない。
あんな光景は今までに見たことがなかった。
ましてや、あの高島プロデューサーが…。
「ちょうどスタジオに顔出しに行こうかと思って部屋を出てきたら、水無月さんが顔真っ赤にして、たどたどしく応対していたものですから。これはいつものだなと」
高島はいつもの笑顔で話している。
―水無月?あの小娘の名前は『水無月』っていうのか!?
「ありがとうございました!!」
うれしそうに笑顔で高島にお礼を言う小娘が、清水の癪にさわる。
「いいえ。もしまたなにかありましたら、いつでも呼んでください」
高島は小娘に微笑みかけてしまった…。
―……ありえない。『いつでも呼んでください』!?私にそんなことを言ってくれたことなんて、今までないじゃない!!
清水の中には、明らかな青い炎が燃え盛っていた。
あの事件の後、企画部中の女子ではその話題で盛り上がっていた。
清水ももちろんその輪の中に入っている。
そこで聞き出したことは、
1.あの癪にさわる小娘の名前は『水無月朝日』
2.新人のくせに、高島プロデューサーとのうのうと話していた
3.友達が今のところいない
4.電話番をしていて、いつも大変そうに仕事をしている
5.電話番の仕事のせいで自分の仕事ができなくなり、いつも残業をしている
この5つだった。
しかし、情報がこれだけというのは物悲しい。
いつもなら、ありとあらゆるほど、いらないところまで情報が集まってくるというのに、今回はこれだけだったからだ。
友達がいなくて、自分の素性を話す相手もいないということも理由のひとつだろうが、これだけの女子がいてわずかだということは異常だ。
しかも、一同の本命はただひとつだというのに。
「清水さぁん。どうするんですかぁ?これから」
後輩が清水に尋ねてくる。
こいつも可愛い顔して、なかなかの業師だ。
「私?んー、いろいろ話したりしちゃおうかな。…意外にやり応えありそうだし。ねぇ?」
清水は巻いている髪をいじりながら、淡々と言い放った。
「もしかして、もうやる気ですかぁっ!?」
後輩たちがそれぞれに声を上げる。
……若い。実に若い声だ。
清水は目を細めた。
「まぁ、簡単よ。あんな小娘なんて。なんとかなるわ」
「さすがぁー。本当に頼りがいがありますよねぇ」
……黄色い。実に黄色い声だ。
なんだか、褒められているのにもかかわらず、胸焼けするのは気のせいだろうか。
その会合の後、ひとまず自分の席に戻った。
少しパソコンのマウスを動かしながら、考えていた。
華麗にやってのけなければ、清水佐夜香の名が立たない。
「清水くーん。この書類、もうちょっとそっちに寄せてくれないかな」
隣の先輩が試行錯誤している清水に申し訳なさげに声をかける。
…ダサい顔して、私に指図すんなよ。
心の中で舌打ちしながら、上辺で「すみません」としおらしく書類を寄せた。
その瞬間、瞳に光が戻った。
「水無月さぁーん」
清水は朝日のところを訪れた。
…まず、基本的なところから攻めていこう。
清水の中には、ある程度のプランが立てられているらしい。
「はい、なんでしょうか?」
「コーヒーでもどう? 入れてきたんだけど、休憩に少し。ねっ?」
「あっ、ありがとうございます!」
朝日は清水が手渡すコーヒーを受け取った。
「いつも大変よねぇ。電話番しながら、書類整理でしょ?」
「いいえ。これも新人としての役割ですから」
朝日の謙虚な態度に感心していた。
うわべであれこれ話すものの、清水自身、朝日の頑張っている姿など目に留めたこともない。
…これが、情報のなせる業。
「清水先輩って、本当にお綺麗ですよね。いつもすごいなって思っているんです。先輩のオーラって言うのか…そういうものに」
朝日は意外にも、清水の名前を知っていた。
それだけ、目立つ存在なのだと清水は改めて感じ、高みに登った。
pipipipipi…
清水のほうから着信音が聞こえる。ポケットから携帯を出し、話し始めた。
「もしもし、清水です。あ、こんにちは! はい…え、今からそちらにですか!? …いや、迷惑じゃないんですけど。…今日中に仕上げなきゃいけない書類があって。…い、いや、そういうことじゃないんですよ。はい…それじゃあ、その時間にお伺いします。すみません…」
清水は携帯を畳み、元の場所へしまった。
「…あぁ。どうしよ」
「どうしたんですか?」
深いため息をついて口をとがらせる先輩に、朝日は尋ねる。
「報道の先輩から呼び出されちゃって。でも、やらなきゃならない仕事があるから断ったの。…きっと、企画の清水はノリ悪いとかって噂たてられちゃうわ…」
「……よかったら、その仕事、私がやりましょうか?」
朝日がカップを持ちながら、清水に話しかけた。
「えっ?いいの?」
「はい。別に大丈夫ですよ」
朝日は微笑んだ。
清水は、ありがとう。ちょっと待ってて。というと、机の上に用意してあった、書類の山を朝日の机の上に置いた。
「よっし!そしたら、お願いねっ!バイバ〜イ!」
清水は手を振りながら、去っていった。
朝日の目は点になった。
「『アラームを利用して携帯に電話が来ました』作戦成功」
ガッツポーズをし、清水はにやりと笑った。
第三話 天変地異とはこのこと
午後十一時四十三分。
まさかの事態に驚きながらも、頑張って仕事をしている朝日の姿がそこにあった。
まわりの机には、もう誰一人として残っていない。
やっと終わりそうだった仕事が、まさかこんな形で引き伸ばされるとは。
しかも、「明日までね!」と清水は朝日に電話をかけてきていた。
電話の向こうは、大きな機械な伴奏音と熱唱する声。
さすがの朝日にも、自分が置かれた状況をしっかりと理解していた。
まさに、昨日の仕事に引き続き、徹夜2日目に突入しようとしている瞬間だった。
そのとき、向こうの部屋の扉がゆっくり開いた。
まさかとは思った。
テレビ局でそんなことが起こるはずがない。
朝日は背筋を凍らせた。
あえて、こういうときは音のする方向を見ないほうがいい。
朝日は書類の山に身を隠していた。
どんどん自分のほうへ、足音が近づいてくる。
机に向かいながら、迫りくる恐怖に目をきつく閉じた。
次の瞬間、肩を誰かが叩いた。
「は…い…」
恐る恐る後ろを振り返っる。
「水無月さん。まだいらっしゃったんですか?」
そこには想像していたものとはまったく違う、高島の姿があった。
「はぁ…高島プロデューサーですかぁ…」
安堵のため息とともに、言葉を漏らした。
「なにか不都合でもありましたか?」
「いいえ。誰もいないはずの部屋のドアが、いきなり開いたものですから。それもゆっくりと。…幽霊か何かと思っちゃいました」
高島はいつもの笑顔で笑った。
朝日の緊張していた心に、高島の笑い声が染み渡った。
「驚かせてすみません。明日の朝一の会議で使う資料を再確認してたもので」
高島は謝っているのにもかかわらず、いつものとおり微笑んでいる。
「い、いえ! ただ私の思い込みでしたから」
上司に謝られるなんぞとんでもないこと。
朝日はここに誰もいなくて良かったと悟った。
―……待てよ。ということは、私と高島プロデューサーの2人っきり?
朝日にそんな思いがよぎる。
その瞬間、心臓が高鳴った。
「なんですか? それは」
高島は不思議そうな目で書類を指差した。
「あ、それは明日までと頼まれた書類です」
「でも、こんなに書類を一気に頼まれるものですか?ものすごい量ですし。」
「そんなことないですよ。大丈夫です」
高島は書類のうちの一部を手にとり、読み始めた。
しばらくすると、眉間にしわを寄せた。
「ん?これは、私が清水さんに頼んだものです…。1週間で仕上げてくれればよいと言ったのですが。何せこの量ですから」
「い、1週間!?」
朝日はやっと『はめられた』感に陥った。
清水にしてやられた。
「ええ。…それを何故あなたが?」
「それは…」
「清水さんに頼まれたんですね?」
ちがう、と喉元まで出かかったが、高島の鋭い視線でそれは押し戻された。
「…はい」
朝日は申し訳なさそうに、結果論を述べた。
「それでは…」
高島は着ていたコートを脱ぎ、鞄を置いて、隣の席に腰掛け書類を取った。
朝日はいきなりの出来事に、目を点にさせた。
「プ、プロデューサー!なにを」
「そもそも私がお願いした仕事です。いくら新人とはいえ、これはやりすぎだ。しかも明日までとは無理な話。…私もやります」
どこか硬い微笑で高島は答えた。
「いえ! 私がやります。頼まれた仕事ですから!」
「いいんですよ。あなたはこの頃、いささか疲れすぎています。目の下にこんなひどい隈まで作って、これはさすがに異常です。入社したてのあなたを倒れさせてしまったら、…上司としてあなたのご両親に合わせる顔がない」
眼鏡を指で上げながら、高島はペンを走らせる。
朝日は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「プロデューサー…でも」
「もうそれはいいですから。そうしなきゃ、明日までに終わりませんよ。せっかく2人でやるんですから、頑張りましょう。ここまでの努力を無駄にしたくないでしょう?」
高島の微笑みはやっと柔らかくなったようだ。
「すみません…」
朝日は自分が置かれた状況に、ひたすら心臓を高鳴らせていた。
二人で作業を開始してから、約一時間半が経過した。
日付が変わっても、外の世界の賑やかさは治まることを知らなかった。
この時間までずっと会話をしていない2人。
朝日はあまりの静かさに、高島がうたた寝しているのではないかと気になり、書類の山の影から、伸びをするふりをして除いてみたりしていた。
高島は黙々と書類に向かって、ペンを走らせている。
背筋を伸ばして椅子に座っている姿は、とても華奢で清らかだった。
あの部屋の中でいつもこうして、独りぼっちで仕事をしているのだろう。と空想をふくらませていた。
そして、緊張のせいか、まったく眠くなっていないことに気づいた。
いつもなら机に突っ伏して寝ている時間帯。
朝日には新鮮な感覚だった。
「…あっ」
高島が小さく声を上げた。
書類の山の影から、朝日は顔をのぞかせた。
「どうかしましたか?」
「余計な点を無意識のうちにつけてしまっていたみたいで。…修正液あります?」
「はい。もちろんです。必需品ですから」
朝日は自分専用の修正液を手渡した。
「すいません…」
高島は修正液で誤字を白く塗りつぶすと、礼を言って返した。
「………」
高島は膝に手をそろえ、修正箇所を見つめている。
朝日はそんな高島を見つめている。
「…こんなに長かったんですね」
「…なにがですか?」
高島は微笑んだ。
「修正液が乾くのって…こんなに長かったんですね」
「そうですか? いつものことですよ?」
「たぶん、電子機器が動いてなくて社員たちがいないぶん、いくらか室温が低いのでしょう。暖房もフル稼働していませんし。そのせいで乾くのがいくらか遅い」
修正液ひとつでそこまで考えたことなんてなかった。
きっと、こんな細かいところまで考えてしまえるような性格が、高島尚秋がヒットメーカーと呼ばれる所以なのだろう。
「…すこし、休みませんか。集中力が途切れるころですから」
そういうと、高島は椅子から立ち上がり、歩き始めた。
「プロデューサー、何処へ行かれるのですか?」
「コーヒーでも入れようかと思いまして。眠気覚ましにでも」
「そ、それなら、私が入れますよ!いつも慣れていますし」
「この前、水無月さんにご馳走になったばかりですし。…今日は私がご馳走しますよ」
慌てる朝日を制して、一人歩いていった。
数分後。
高島は二つのカップを持って帰ってきた。
美味しそうな湯気が立ち上っている。
ゆっくりゆっくりと、コーヒーをこぼさぬように歩いてくる姿が、朝日の心を妙にくすぐった。
「…よっし」
掛け声とともに、高島は朝日の机にコーヒーを置いた。
朝日は、高島でもこんな声を出すのかと微笑ましくなった。
「ありがとうございます」
「味は保障できませんが。どうぞ」
「それじゃ、いただきます」
暖かいカップを持って、口へと運んだ。
喉を暖かいコーヒーが通っていく。
「…あー。すっごく美味しいですよ!」
「…そうですか?私は水無月さんのコーヒーのほうが、美味しいと思うんですけど」
高島は、真剣な目で首を少しかしげる。
「私のより、全然いいですよ!」
朝日は目を輝かせて言う。
まだ首をかしげている高島。
朝日はとうとう、くすりと笑ってしまった。
「…どうかしましたか?」
「い、いいえ!ただ、高島プロデューサーが真剣な顔して首をかしげているのを見たの初めてだったので。
…なんか、いいなぁって」
そういい終えると、恥ずかしそうにコーヒーをすする。
高島は朝日を見ながら、また首をかしげる。
「そうですか?…なんかいいなぁ……ですか?」
「いや、ただ私が思ったことなので。あまり気にしないでください」
考え込む高島を見て、慌てて返答した。
しかし、しばらくの間、ぶつぶつと「…なんかいいなぁ」と呟いていた。
そんな姿がどうも可愛らしかった。
第四話 現実との差
互いにコーヒーを飲み、しばらく沈黙が続いた後、
「…そういえば、水無月さんとこうやって話したこと…なかったですね」と高島が話を切り出した。
言われてみればそうだったかもしれない。
コーヒーをプロデューサーの部屋まで運んで、多少言葉を交わすことはあったものの、こうして長時間、面と向かって会話をするのは初めてのこと。
「そうですねぇ…」
新人はしみじみと返す。
コーヒーの力なのか、二人の間にはまったりとした空気が流れていた。
高島は腕を組んだまま、何か考え込んでいる。
さっきよりも、長い間沈黙は続いた。
「水無月さんは」
「はい」
「どこでしたっけ? …出身地」
「北海道です。ものすごい田舎なんですけど」
「そうでしたか。それでは、進学とかはこちらで?」
「そうです。大変でしたけど、こっちに一人暮らししながら、高校と大学に通いました」
「一緒ですね。私もそうでした。…それでは、ご家族はその、北海道に…いらっしゃるんですか?」
その質問の後、朝日の表情が一瞬にして曇った。
高島が今まで見たことないような表情だ。
その変わりように、上司ながら慌て始める。
NGワードを言ってしまった。
そのショックが高島を覆う。しかし、その後、苦笑いをした朝日に、目を細めた。
―…なんだ、今の表情は。
そんな表情をする彼女の意図がわからなかった。
裏をかこうとして、考えを巡らせてみたが、彼女について知っていることはまだわずかだ。
わかるはずなどない。
「妹が一人いるんですけど、一人立ちしちゃいましたから。今は九州にいるんですけどね」
やっと口を開いた彼女から出てきた言葉は、意外に普通のもの。
とんでもない台詞がでてくるかと思っていたが。
「プロデューサーは何人兄弟ですか?」
「私は、弟が一人」
「じゃあ、お兄ちゃんなんですね」
「…ええ」
その言葉を最後に、二人は自然と自分の仕事に戻った。
どこまでも続く広大な畑。地平線の果てまでも覆いつくしてしまうような。
容赦なく降り注ぐ強力な日光が、薄黒く染まりつつある肌をさらに刺激した。
「ねえ、お母さん。どうしてお盆休みまで仕事しなくちゃならないの?」
萎びた草を抜きながら、都は粘っこく聞いた。
「……」
母は一心不乱にどんどん前へと進む。
なにかに追われるように、草を抜いては投げ、抜いては投げを繰り返している。
気を抜いていると、四方八方にうっそうと繁る南瓜の茎に足をとられそうになった。
都は何を言っても耳を傾けてくれない母に、炎天下の手伝いもあって、苛立ちを募らせた。
そんな幼い妹の姿を右斜め後ろに見ながら、朝日は気が気でなかった。
いつもこういう妹の態度から、母の堪忍袋の緒がしゅるしゅると音を立てて勢いよくほどけ始めるのだ。
「都、静かにして仕事しよう。早く終われば、それだけ早く帰れるんだから」
息がつまりそうな熱風を受け、気が遠くなりそうになる朝日がかけれる精一杯のなだめの言葉だった。
「お姉ちゃん、さっきも同じこといったじゃない! もう嫌だよ!!」
その嘆きが号砲のように、遠く離れる母の耳に飛び込んだ。
向こうで作業していた手をすぐさま止め、都のほうへ歩み寄ってくる。
母が抱く嫌悪は、二人の間にいる朝日に痛いほど伝わってきた。
―まずい。都を守らなければ。
「都、謝って」
勢いよく口から飛び出ようとする台詞を、懸命に制しながら、都に促す。
しかし、当の本人はよくこの状況を理解できていないようだった。
蝉の声が三人の抗争をやんや、やんやと盛り上げる。
揺らめく蜃気楼の彼方から、母が歩調を早めて近づく。
暑さのせいではない汗が朝日の頬を、つうと伝った。
「都、お願い。ごめんなさいって言って!」
「嫌だっ! お母さんなんて大嫌い!!」
「都!! お願い、謝って!!」
都の呼吸が届くところで母はぴたりと足を止めた。
「…もう一回いってごらんなさい」
蝉の声がじわりといって止まった。
ものすごい悪寒が朝日を襲う。
「もう一回言いなさい。なんて言ったの」
―お願い、謝って…
声にならない叫びは都には届かなかった。ただ固くなってぶるぶると震えているだけ。
母は右手を大きく振り上げ、都の左頬を張った。
それに続いて、その場に倒れた都のみぞおちを蹴った。
「お母さん! 止めて!」
朝日は母に駆け寄り、しがみついて懇願した。
無言の暴行を止めようとしても、朝日一人の力ではどうにもできなかった。
都はごめんなさいと言うものの、母の行為に遮られ、しゃくりあげながら叫んだ。
何度も。何度も。都は叫ぶ。朝日は懇願する。母は殴る蹴る。
息も切らさずに暴行を加える母の顔を、しがみつきながら朝日は瞬時に見上げた。
―…鬼の形相というのはこういった表情のことを言うのだろうか。
ぶつけようのない問いを投げかけた。
「痛いっ!!」
消毒液を染み込ませた脱脂綿で傷口の泥を拭くと、都は小さく悲痛な叫びをあげた。
あれから帰ってきてすぐ、逃げるように二人の部屋へもぐりこんだ。
今はもう、安心できる鍵付きの部屋の中。
所狭しと並ぶ二段ベットや勉強机に囲まれながら、二人は作業服のまま座っていた。
どうして謝らなかったの。
そう尋ねようとして、すぐに飲む込む。
答えは都の表情に書いてあったからだ。
きつく一文字に結んだ唇。こぼれおちそうに下睫毛にたまる涙。固く握られた拳。
いつも受身であるが故に、勇気を振り絞ってそれに反抗した小さな体を震わせていた。
「…お姉ちゃん。どうして私たちはこんなことされなきゃならないの?」
それを合図に都の瞳から、涙がぼたぼたと勢い良く落ち始めた。
朝日は都の体を強く抱きしめた。
何も言わずに、ただ強く。
鍵がかけられた二人の部屋には、幼い泣き声が二重奏になって響いた。
蝉も泣き静まり、夜が更けたころ。蛙の何重にもなる叫び声が、遠く遠くから響く。
都もやっと寝静まり、朝日は家庭学習に神経を集中させようと努めていた。
床の下から微かに聞こえるテレビの大音量に対抗する如く。
すると、開けていた窓からエンジン音が迫ってくるのが聞こえた。
朝日は急いで机の引き出しからMDウォークマンを取り出した。
LRをきちんと確認して、音漏れするくらいにまでボリュームを上げる。
そして、ある一曲にリピート設定をし、再びペンをもった。
『大きく背伸びをして あなたはどこまでも行ける』
透明感が売りの女性アーティストの声が、朝日の鼓膜を震わせる。
「…なによ! …しが悪いって言うの!?」
壮大なストリングスの向こうから、途切れ途切れに叫びがあがる。
コーラスがトゥトゥトゥとメインを追いかけた。
『優しい眼差しと温かい空気が私を包む』
「お前は…いつも子供た……あの子たちは悪くない!!」
『ただいま おかえり その声が私を支えてくれた だから今の私があるの』
鼻で軽快なリズムを歌う。
できるだけ息が続く限り、鼻歌で。
サビに向かって全体のサウンドがどんどん上昇していく。
『大きく背伸びをして あなたはどこまでも行ける 悩んだときそういってくれたお母さん』
「…して私が……世話を…!好きでもない…農家の仕事…」
サビは、声を出して歌うのが一番だ。
私も一緒に歌うよ。
私も一緒にスタジオで歌うよ。
『お前は独りじゃない 困ったときそういってくれたお父さん』
「引き取るって…して決めたのに……つけるんだよ!!」
耳とイヤホンに少しの隙間もできないように、両手で押さえつける。
『私はあなたたちの子供でよかった』
「…たちは……供じゃないのよ!」
『本当に 本当に ありがとう』
朦朧とする中、目を覚ますと、あたりはすでに薄明るくなっていた。
すべての影が窓とは正反対の方向に位置していた。
左隣りに積まれた書類の影に包まれ、状況把握をしてみる。
「…ロデューサー!」
大声を上げながら、勢いよく、覆いかぶさっていた机から飛び起きた。
すると、背後でなにかが落ちる音がした。振り返ると黒いコートが重なって落ちていた。
―これはさっきどこかでみたはず。
そう思いながら、席から立ってコートを拾った。
机に目を戻すとメモが置いてあることに気づいて、メモを手に取る。
『徹夜二日連続、お疲れ様。書類は全部片付けておきました。今日は無理せず家に帰ってゆっくり休んでください。有休にしておきますから大丈夫ですよ』
達筆なインク字で、一文字一文字丁寧に書いてあった。
そして、メモの最後に、高島とサインしてある。
慌てて書類に目を通すと、すべてきちんとペンがはいっていた。
どうしよう…と嬉しいような、困ったような。朝日はその狭間を漂っていた。
第五話 High and low
「お疲れ様でした」
会議に出席している役員が声を掛け合って、会議は幕を閉じた。
役員たちが早々と室内を後にする中、席に座ったまま高島はずっと溜めていた息をなにかに押されるように少しずつ吐き出した。銀縁の眼鏡を机に置くと目を擦り、そのまま両手で顔を覆った。まるで何かを避けるかのように。
目を強く瞑ると、そこは真っ暗闇の中。しかし、その向こうになにかがちらついた。何も見えない暗闇の中に自分はいるはずなのに。
――こんな時くらいも休ませてくれないのか。
ぶつけようのない文句を消化しようと努めてみるものの、今までの如く、簡単に消えることなんてありえなかった。
「……お母さん! 止めて!」
昨夜、机に覆いかぶさりながら、うたた寝している朝日が小さく叫んだ声が、高島の脳を揺さぶる。山積みになった書類の陰から、電気スタンドの光を後頭部に受けて、こちら側に寝顔を向けている朝日の苦痛にひきつった表情も、ぼう、と脳裏に焼き付いていて離れない。
席を立って、眩しい陽光がさす壁一面の大窓へ近寄った。高層ビルが立ち並ぶ中、数羽の鳥がそれを縫うように飛び交う。人間が作り出してしまったスモッグが、せっかくの青空を濁している。それのもとには何万という人が、自分のやるべきことを果たすために、せわしく歩いているのが、高島の目にもありありと映った。
しかし、様々な事情を抱えた大勢の中を、小さな子供と一緒に散歩している女性の姿だけが、まるでそこだけ時間が止まっているようにゆったり流れていた。
その親子を目を細めて観察した後、先ほどまで疲れを持て余していた高島は、一気にいつもの冷静さを取り戻したようだった。
化粧室で鏡に粘っこく張り付くように、自分の顔を飾りなおしている清水の姿があった。普段つけている色よりも明るめでピンクのグロスを、唇が立体感を醸し出すように入念に塗りつける。ベースメイクはいつもよりナチュラルに仕上げ、チークをラメ入りのローズピンクに。可愛らしく且つ艶やかさを決めるアイカラーも、勝負時にしか使わないものを選んだ。
一通りメイクを終えると、今度は自らの顔が良く見える表情と角度を探す。あれか、これかと模索し、結局いつものベストポジションに定まった。そして、鏡に微笑みを投げかけると、ヒールの音を高く鳴らして化粧室を後にした。
――さすがね。水無月。
企画部に戻ると清水の机には、昨日頼んでおいた書類の山がきちんと出来上がっていた。こうでなくっちゃ。と小さく呟くと、あからさまに『重さ』を主張するかのように、プロデューサー室を目指した。
「失礼いたします」
弱くノックした後そう囁くように入室した清水を、いつものようにパソコンに向かいながら、はい、と高島は小さい了解の返事で迎えた。
「あの……高島プロデューサー、今、よろしいでしょうか?」
「……あ、清水さんでしたか。おはようございます」
パソコンに向かっていた高島は、下がりかかっていた眼鏡をあげながら清水に返事を返した。
「プロデューサーに頼まれた書類のことなんですけども」
「一週間後までに出来ればいいとお願いした書類のことですか」
「はい。一生懸命に気合いを入れて取りかかったら、一週間もかからないで出来てしまったので持ってきたんです……」
しおらしく首をかしげながら、化粧室で決めた表情を魅せた。目を丸くし、高島は感嘆の声を小さくあげた。
「もう出来たんですか? あれほど沢山の書類を」
「はい。……出来上がらせるの早すぎました?」
「い、いいえ。早いに越したことはありませんから。ありがとうございます」
書類を受け取ると、ばさばさとなにかのはずみで少量の紙が、灰色のカーペットの上に散乱した。清水はきゃあ、と叫ぶと、すいませんを連呼しながら紙を拾い始める。高島も席を立ち、清水に続いて紙を拾おうとしゃがみこむ。
すると、紙を拾おうとするお互いの手が触れ、重なった。高島の手が下で、清水の手が上。そして、重なりあうその手に軽く力を込めたのは清水だった。
「あっ! すいませんっ!!」
急いで手を放し、それに続いてものすごい勢いで紙をかき集めると、清水は頬を赤らめたまま部屋を出て行こうとした。しかし、それを止めたのは高島の言葉だった。
「清水さん」
「はい。なんでしょうか?」
「今日も仲間たちと楽しく仕事しましょうね。……もちろん、後輩とも」
高島は微笑みを清水に向けた。しかし、どこかいつもの微笑みとは違うオーラが漂っていることは、清水にも手に取るようにわかった。
「えっ……あ、はいっ」
失礼いたしました、と小さく呟いて清水は部屋を後にした。
清水の作戦は悔しくも失敗に終ったようだ。
入社して以来、有休をつかってまで家で寝るということがなかった朝日は、自宅でベットに入っているものの、このままでいいのか戸惑っていた。徹夜二日分の睡魔が朝日を囲んでいるのにもかかわらず、そのことに対する罪悪感に似たものが睡魔を押し戻していたのだ。
ぶつけようのない感情を秘めた瞳で、ハンガーに掛けてある高島のコートを見つめた。
――明日、なんて言って返そう。
朝日の頭の中には高島の笑顔が浮かぶ。きっといつもの様な笑顔で受け取ってくれるのだろうけど、そのときの自分の表情を想像するにもできなかった。ただ緊張と紅潮しているのだろうということ以外は。
仕事を手伝ってくれたお礼になにかかって言ったほうが良いのだろうか……。それとも、自分でなにかお菓子でも作ろうか! でも、嫌いなものが何か分からないのに、もしそれを作ってしまったら……。
いろんな思いが巡り、朝日の眠気をさらに向こうへと飛ばした。その時だった、電話のコール音が部屋中に響き渡った。
――いつもは仕事中の時間なのに。誰だろう。
布団からだらけた体をひっぱりだし、おぼつかない足取りで歩み寄って、電話の受話器をとった。
「はい。水無月です」
仕事場と違う気の抜けた声を漏らした。しかし、向こうからの返事はなにもない。
「……もしもし? どちら様ですか?」
再度尋ねても何も言おうせず、受話器からはなんの物音もしない。間違い電話か何かなのだと思い、朝日は耳から受話器を離そうとしたそのときだった。
「……イツマデモミテイル。オマエガドコヘニゲヨウト。ミナヅキアサヒ」
ボイスチェンジャーで細工された声が朝日の耳を貫き、それだけを言い残すと一方的に電話を切った。
言いようのない寒さに襲われ、朝日はいよいよ眠れなくなってしまった。
第六話 『親子』は何処へ
電話のコール音が鳴り響く中、朝日の脳内では昨日の心もない機械的な声が旋回していた。あれからどれくらい経ったのかはわからないが、いつ思い出しても寒気がやってこないことなどない。つま先から頭の旋毛までを一気に襲う。
――…どうして私の電話番号まで。
上京してからなにか人から恨みを買うようなことをしただろうか。裏社会に生きるような人達と関わりをもったことがあっただろうか。仕事場でも様々な疑念が朝日を嘲笑うかのように湧いてくる。
「おい、水無月! 俺の頼んだ資料持って来たんだろうな」
「え……あ、すいません! 今行ってきます!!」
「今日何回目のミスだよ。頼むぞ!」
「申し訳ありません! 大急ぎで行ってきます」
先輩に頼まれたことを連続して忘れるなど、入社してから一度もなかった朝日は顔を青ざめたまま走りだした。
今日もつまらなそうにマウスを意味もなく、ぐるぐるとパットの上を走らせているのは紛れもなく清水だった。目の下にフェイスパウダーで入念に消した隈が、ほんのりと浮かび上がっている。ブランド物で飾っている中、そこだけが明らかに欠落していた。
「どうしたんだよ。浮かない顔して」
隣の空いている席に腰かけ、頑丈な青いファイルを点検しながら、相原は清水に話しかける。端整な顔立ちを横目で一瞥する清水の鼻腔を、ふんわりとオーシャンブルーの香りが満たした。
「……別に。なんでもないけど」
「その割には仕事が進んでないんじゃない? ……ま、それはいつものことか」
「うるさいわね。余計なこと言わないで」
「お前がなにかしら沈んでる理由、当ててやろうか?」
悪戯な笑みを口元に湛えながら、相原は椅子を清水のほうへと回転させる。この笑みに落ちる女はどれほどいるのだろう。知らず知らずのうちに、この表情を覚えたのだろうか。
「狙っている男に媚を売ろうと仕掛けたが、それが逆に裏目に出てしまい、昨日、後輩を引き連れて飲みに飲みまくった。……その隈が動かぬ証拠」
細長い人差し指で清水の目元を指す。何故か思わず相原の形の良い爪を凝視してしまった。筋もない綺麗な細長い卵型を手に入れるために、女はそんな僅かな部分にもあれほどの金をかけるというのに、この男はいとも簡単に身につけている。そんな男に軽々しく自分の失敗をあしらわれたのが、清水のプライドをさらに傷つけた。
「当たりだろ? ちなみにターゲットは高島プロデューサーってわけだ」
その笑みがまた憎たらしいことこの上なかった。
「ちょっと黙ってて。……人のことはいいから、あんたも仕事しなさいよ」
「俺は十分してるって。初心を忘れずにいつも百パーセントで頑張ってる」
「水無月朝日よりも?」
「水無月朝日? ……ああ、新人の子のこと? あの子はいっつも頑張ってるよな。可愛い顔して一生懸命になんでもこなしてるし。本当に頭が下がるよ」
「私は水無月より頑張ってるわ。何倍もね」
キーボードを飛び交う指の力が強くなったのが、相原には一目瞭然だった。そして、その訳も。同期のよしみで何年付き合ってきたと思っているのか。
「別にいいんじゃない? 誰がどんな好意を持とうとさ。俺はそう思うけどな」
「何が言いたいのよ」
「人それぞれってこと。プロデューサーにだって、朝日ちゃんにだっていろんな感情があるし、いろんな思いがあるわけ」
「……わかってるわよ。そんなことぐらい」
「いろんな過去もさ。……十人十色なんだから」
相原は語った。まるで、なにか遠くのものを見つめるように、霧の向こうの何かを見つめるように。清水は、ふん、と鼻を鳴らして、再びパソコンと向き合った。
「ま、頑張れよ。……くれぐれも後輩を虐めないようにー」
ひらひらと手をなびかせ、ファイルを読みながら席を立ち、相原は去って行く。「今に見てなさいよ」と清水はその背中に怒号をぶつけた。
その背後にあるプロデューサー室で、朝日は高島に昨日借りたコートを手渡していた。
「昨日は本当にありがとうございました」
何度も深く深く礼をする朝日を、そんなにいいですよ、と高島は制した。
「なにも少しだけですから。ほとんどは水無月さんが既にやってくれていましたから」
「でも、本当にプロデューサーのお陰で助かったんです!」
そうですか、と言った後、高島は朝日の顔を窺いながら、ころりと表情を変えた。
あまりの変化のしように、朝日はなにかしでかしてしまっただろうかと考えに考える。
「水無月さん……」いつもより低く呼ぶ声に朝日の返事は上ずった。
「はいっ!?」
「……体調でも悪いのですか?」
「えっ?」意外な質問に気の抜けた感嘆を漏らした。
「どことなく顔色が悪いような気がしたので。昨日、風邪でもひいちゃいましたか?」
「い、いいえ!私はいつもどおり元気ですよ!!」
「でも、昨日は――」
「し、失礼しましたっ!」
高島にそれ以上話題を掘り下げられるのが怖くて、空元気を振り絞って部屋を出た。
高島にあれやこれやと聞かれると、すべて喋ってしまいそうだった揺れ続ける気持ちを抱えたまま、朝日は自ら机に座りうつ伏せになった。
一方、そのスピードに乗り遅れた高島は、口をあけコートを受け取った姿のまま、一人室内に立ちすくんでいた。
その後、朝日は『ひとやすみの法則』収録スタジオに応援として来ていた。今日は主人公とその子供が感動の再会を果たす山場のシーンを撮影するため、スタジオ内には大がかりなセットが組まれていた。一見、日曜日の昼下がりに家族が戯れているような普通の公園だ。草、木、少し錆びれたブランコや滑り台。すべてが忠実に再現されている。子供を連れてきたら、普通に楽しめる場所だろう。そのセットのリアルさを証明するかのように、実際に子役たちがすでに駆け回っていた。 朝日は三カメに繋がれているコードを、カメラが移動しやすいように、他の機器の邪魔をしないように伸ばす役割を担っていた。演出監督のスタートが叫ばれ、役者達は演技に入り、スタッフは静かにそれぞれの持ち場につく。
「お父さんっ!!」
子役の喜々とした叫び声がスタジオ内に広がる。そして、主人公のほうへと全力疾走して抱きついた。息子の名前を囁きながら主人公は強く抱き締める。
その様子を三カメの陰から見つめながら、朝日は胸が締め付けられるような思いに駆られていた。まるで心臓を力いっぱいに一つかみされているかのように。
泥で汚れた作業着のまま、保育所まで迎えに来てくれた父の姿が脳裏をかすめる。玄関から父をめがけて飛びだし抱きついた。そのときいつも朝日を柔らかく包むのは、父の作業着に染みついたほのかな畑の香り、トラクターの油の濃い雰囲気、滴る汗の匂い。そして、見上げるとたくましく微笑む父の顔が、いつも私を安心させてくれたものだった。
初めて父に出会ったときも、その匂いが朝日を包んだことを未だに覚えている。朝日が四歳、都がわずか一歳のとき。孤児院での生活を始めて一年もしていない頃に、二人を訪ねてきた男女がいた。孤児院の先生は、その男女に朝日たちを紹介する。そのとき、孤児院で幾度となくこの光景を見てきた朝日には、四歳ながらも自分が置かれている状況をしっかりと理解していたのだ。
「あなたたちのお父さん、お母さんよ」
朝日の予感は見事に的中したのだった。
最初のうちは父も母も優しかった。自らの両親を、こう客観的に評価するのはどうかということを置いて、本当に優しかったのだ。まだ幼かった二人に一つずつ部屋を与え、服も良いものを揃えてくれるし、まわりのものはすべて新品で買いそろえられていく。そんなこの上ない待遇をもって受け入れられた二人には、これからの生活を案じる瞬間などこれぽっちもあるわけがなかった。
しかし、そんな幸せが続いたのも最初の一年くらい。家業である農業の経営悪化に歯止めがかからず、その上天候不安定のため作物がうまく育たなく、大赤字をだしてしまったことが、朝日と都の歯車が狂いだした原因だった。
父は農業が終わると、副業のためバイトを始め、車で一時間ほど離れた市街まで毎晩通っていた。その間、母は子供たちをまるで奴隷のように使い回し、朝日たちは学校が終わるや否や働いたのだ。しかし、父はそんなことを知る由もない。もちろん、子供の口から母の行いを告げ口することなど以ての外だった。その後に待ち受けているものが、朝日と都には容易に想像できたからだ。
朝日たちは母とは真逆の優しさをもつ父を心の底から尊敬し、愛していた。自分たちが愛せば愛すほど、父も同じだけの、いや、それ以上の愛情を注いでくれる。父の温度、声、肌。父が持つものすべてが愛しくて、恋しくて仕方なかったのだ。父だけが朝日たちの拠り所であり、安心できる場所。
幼いころから朝日は時折考えていた。「もし、お父さんがいなくなったらどうしよう」と。いなくなってしまったら、自分たちの居場所はない。それ以上に、自分たちの生きる意味なんてなくなってしまう。抱えきれなくなったとき、一度父にそれを打ち明けてみたことがあった。
「なに言ってんだ。お父さんはいつまでも、朝日と都のそばにいるよ」
「本当に? 約束してくれる?」
「おう」
「指きりげんまんしよう!」
父の半分しかない朝日の小指を、朝日の親指よりも太い父の小指に絡ませ、二人で歌いあいながら誓った。
ゆびきりげんまん 嘘ついたら 針のます ゆびきった きった きった
第七話 得体のしれない恐怖
収録の応援が終わり、朝日はそのまま直帰した。ポケットから使い古したMDウォークマンをとりだし、イヤフォンを耳にはめる。唯一持っている音楽機器が、今どき流行が去ったMDウォークマンというのもどうだろうか。と呟いてみながらも、いつもの曲を選曲した。
『大きく背伸びをして あなたはどこまでも行ける』
朝日の耳の中に広がる声は、何年経とうと何があろうと色褪せず、衰えることはなかった。
――今まで何回この曲を聴いてきたんだろう。
哀愁に満ちた目で付属品のリモコンを眺める。忘れもしない、この曲が収録されたCDを貰ったときのことを思い返していた。周りのすべてをクリアにしてしまえるような歌声を聴くたび、朝日はその時のことを反芻せずにはいられなかった。
母がくれた誕生日プレゼント。後にも先にも、このCDが母からもらった最後の贈り物だった。家族でいつも見ていたホームドラマの主題歌だった曲。私は自らのテーマソングのように、思い出しては歌ってを繰り返していた。
「朝日、誕生日おめでとう」
そういって太陽のような母の笑顔を受けながら、プレゼントを受け取った。その時は真冬の夜だったけれど、朝日には何故か輝くものが見えた。後ろから射す、春のような陽光を。
「いつまで家族で笑ってご飯食べられるのかな」
幼いころからとにかく心配性だった朝日は、母の手作りケーキを頬張り、幸せに浸りながらそんな質問をしてみた。
そのとき、父も母も「何を言ってるの」とばかりに笑った。そして、隣に座る母が朝日の頭を包むように撫でながら、春の息吹のように言った。
「朝日の誕生日が来るたびに、四人で祝うわ。何度でも、いつまでも」
母の言葉に続いて、父も「そうだよ」とたくましい微笑みをくれた。
今でもありありと思い出せる。ついさっきのことのように。例え、あれから何年経とうとも。
真冬の風が吹き荒む中、朝日は寒さに立ち向かうように肩を上げながら、ポケットに両手を入れながら家路を歩いた。
「ただいま」
誰もいない自宅のドアを開けながら、幼いころからの習慣として身に付いた挨拶を呟く。室内は外よりもいくらか温かいだけで、決して安堵のため息が出るような室温ではなか
った。玄関に出しっぱなしにしてある三足の靴に、履きなれたパンプスを並べて家へ入る。
暗闇の中、郵便受けを開ける。数日間開けていなかったせいもあって、これでもかと言わんばかりに、様々な大きさの封筒がひしめき合っていた。両手に抱えながら、部屋の電気をつけた。感度が悪いのか、ぱちぱち、と蛍光灯が瞬きするようにしてから、室内を明るくする。
電気ストーブのスイッチを入れて、テーブルに座り郵便物を一つずつ確認し始めた。携帯の料金通知やら、電気・水道代の請求やらと、すべてが業務連絡のようなものばかり。今回もいつものように朝日宛ての手紙などひとつも見つからないはずだった。
水無月朝日様、と何の変哲もない明朝体でタイプされた文字が印刷されている茶封筒が目に入った。差出人は裏を返しても、どこにも見つからない。会社名も、企業名も、団体名も一切印刷されていない茶封筒など、今どき珍しい。朝日は、この間もどこかで見覚えがある封筒な気がした。
鋏で丁寧に上から五ミリくらいの幅で、封筒を切っていく。すると、中に一枚のA4サイズのコピー用紙だけが入っているのが見えた。コピー用紙を取り出すと、真ん中に宛名の字体と同じく、パソコンでタイプされた文字が印刷されていた。
『オマエノチチオヤガシタコトハ、タダゴトデハユルサレナイ。イツマデモオマエヲミテイル。ドコヘニゲヨウト。……ミナヅキアサヒ』
はっ、と温まり始めた空気を勢い良く吸い、慌ててコピー用紙をテーブルに離した。この前の電話と同じ台詞が書かれている。目を丸くさせ、部屋の寒さなど一気に吹き飛んだ朝日は思い出した。
――このコピー用紙だけが入った茶封筒は、前、私宛にテレビ局に届いたものと同じ。
見覚えがあったのはそのせいだったのだとようやく思い出したのだ。どうしよう、どうしよう。と誰に聞けばいいのかわからない迷いを繰り返し囁く。助けて、助けて。誰に求めていいのかわからない叫びを繰り返し呟く。
朝日の言葉を聞いたかのように、電話が鳴り響いた。朝日の体はびくり、と飛び跳ねる。電話は鳴ると止み、鳴ると止みをひっきりなしに続けた。
――どうしてお父さんのこと知っているの。……あなたは誰?
翌日、朝日は先輩に頼まれた資料を届けるために九階の会議室へと、足を早めていた。昨日の電話は数え切れないほど続き、遂には電話線を抜く羽目にまでなった。いつもならば、仕事の時は仕事のことしか考えず邪念を払うように努める朝日だったが、今日限りはそんなことは無理に等しかった。エレベーターで九階を目指している時も、背後のガラス張りの壁を通して、どこかの建物から見張られている緊張感と恐怖が朝日を覆う。
エレベーターから出ると、見覚えのある顔が朝日の前を通ろうとしていた。その男もエレベーターから出てきた朝日に一瞥くれた。
「あっ、朝日じゃん!」
「……翔太郎?」
「そうそう、しばらくだな」
男は朝日の前部署での同期、光田翔太郎だった。前部署では、同期が翔太郎しかいなかったこともあり、仲良くしていたのだ。テレビ局で唯一といっていいほどの友達。まるで小さな頃からの友達のような存在だった。
「もしかしてこれから会議室?」
「あ、うん。翔太郎も?」
光田は両手に持った冊子を示して、微笑んだ。
「やっぱり、俺たち何処に行っても同じ仕事してんだな」
変わらない。光田の笑顔は以前とまったくと言っていいほど変わらなかった。中学生のようなあどけなさが残る笑い声ももちろんのこと。光田と話していると、何故だか涙が出るような勢いで懐かしさが込み上げてくる。昨日の出来事があったから、人肌が恋しいのだろうか。
二人はどちらからともなく、一緒に並んで会議室を目指し歩き始めた。
「最近、どうしてんの?」
「それなり……かな。まだ雑用ばっかりだけどね。でも、いろんなこと吸収させてもらってる」
「朝日のことだから、また無理してんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「嘘つけ。また、前より痩せてんじゃん。もっと健康に気つかえって」
まるで兄のような口ぶりで叱咤する。私にもお兄ちゃんがいたら、こんなかんじで心配してくれたりするのかな、と朝日は考える。
「それになんとなく顔色も悪いぞ。頬こけたろ」
「そう? ……ほら、たぶん最近寒いから体がついていかないんだよ」
なんでもない素振りをしながらも、心当たりはあった。実際、昨日から一睡も出来ていない。常に誰かに見られているような気がし、電話線を抜いているのにまた電話が鳴りだすのではないかとも思い、おちおち安心もできなかったのだ。
光田は朝日の素振りを横目で見ながら、それが取ってつけたものだということが自然とわかっていた。今まで何度も同じ素振りを目にしている。こうやっていつも無理して破裂するんだよな、と小さく溜息をついた。
「なんかあったら電話かけろよ。俺はいつでも大丈夫だから」
「うん。ありがとう」
じゃ、私こっちだから、と言って二人は別れた。朝日の魂が抜けかけたような背中を見届けると、光田は先ほどまでの温かさを振り払い会議室のドアをノックした。
誰もいなくなり、機械が自らの役目を終えた室内は明らかに寒かった。朝日の周りが真っ暗なせいもあるからなのだろうか。朝日は前に高島が言っていたことが、今なら身をもって理解できるような気がした。
今までこんなに緊張しながら過ごした日はなかった、と机に肘をつきながら頭を抱えた。入社初日やこの部署に異動した日も緊張はしたが、それとはまた違う風格を持ったものであることは、朝日にはすでにわかっていることだった。
残業などはないのだが、それにかこつけて今日も仕事場にひとり残ることにしたのだ。自宅よりも、テレビ局のほうが断然安全に違いない。その思いにすがるように、恐怖感を揉み消そうと努める。
しかし、どんなに揉み消しても浮かび上がってくるのは当たり前のことだった。
こんなとき、一般世間の人間ならば、恋人や友達、親に相談するのだろうが、朝日にはできるはずもなかった。自分の今の悩みを、包み隠さず話せるような条件に値する人が誰一人として思い当たらないからだ。かといって、どうしたの? と尋ねてくれる人にも言えるようなことではない。事が事なのだ。
朝日には友達と呼べるような友達は、光田くらいしかいない。学生時代にもそんな存在を作れたことはなかった。友情というものに憧れがなかったわけじゃない。むしろ、欲しくて欲しくてたまらなかった。
でも、行動を起こそうとすると、『自分はそんな存在を求めるに値しない人間なのだ』という悟りが朝日を邪魔したものだった。転校した学校でも虐められ、なじられ。もう望みはなかった。
自分の生きている価値さえ失ってしまった朝日には、もうなにも守るべきものも守ってくれる人もいない。あの出来事が起こってから今までずっと。
「あれ? 朝日ちゃん?」
男の声が朝日の背筋を凍らせた。勢い良く振り返ると、そこには段ボールを抱えて歩いてくる相原の姿があった。
「ごめんごめん。びっくりさせちゃった?」
「いいえ、大丈夫です。こちらこそすいません、相原先輩」
「へえ、俺の名字知ってたんだ。じゃあ、下の名前も当ててみてよ」
「……浩介さん、じゃなくて浩介先輩」
朝日の慌てようは相原の笑いを誘った。段ボールを朝日から少し離れた相原の机に置くと、中に入っていた専門誌を何冊か机に出した。
「なにもそこまで気を使わなくていいよ。真面目なんだね」
「そんなことないです」
「謙遜しなくても俺にはわかる。いつも頑張って仕事してるし。俺が新人のころは朝日ちゃんみたいに全力で頑張ったりしてなかったよ。……あっ、朝日ちゃんって呼んでいい?」
「はい。大丈夫です」
朝日は急いで適当に書類を取り出すとペンを持って書いているふりをした。相原は目立つ存在だったのもあり、朝日はいつの間にか名前を覚えていたのだ。なにしろ、高島の次を追う人気を誇る人物。否が応でも、相原の名前は何度も耳に入ってくる。
「……今日は何の仕事してるの?」
相原は専門誌を手に持ちながら、軽い足取りで朝日の机に近づく。朝日の机をそっと覗くと、にんまりと怪しげな笑みを口元に浮かべた。
「慌てて仕事してるふりしてたってバレバレだよ?」
えっ、と小さく声をあげると、相原は朝日が右手に持っているペンを指差した。
「その書類にこれはおかしいでしょ」
すでに書類に書かれている文字は黒なのに、朝日が持っているペンは青だった。咄嗟に手にしたペンが何色かなんて気がつかなかったのだ。
「可愛いなあ。朝日ちゃんは」
あはは、と弾むような声で笑うと自分の机へと戻っていく。相原は何を考えているのかわからない男だ。いつか隣の先輩がそう話していたことがあったのを、朝日は思い出した。
「今日このあと空いてる?」
いかにも高そうな黒いコートを羽織りながら、相原はいきなり朝日に尋ねた。とってつけた残業がばれてしまった以上、もう嘘はつけない。どんな嘘をついても相原には暴かれそうな気がして、朝日は了承の返事を返すしかなかった。
「いい店知ってるから一緒に行こうよ。飯、食べてないよね?」
「はい。まだです」
「じゃあ、決まり」
さっきと同じ怪しげな笑みを浮かべる。朝日は何かに追われるように、荷物を急いで鞄につめた。
テレビ局を出てから二人は一切会話を交わしていなかった。なにか話しかけようと朝日は試みたが、何を話していいのかわからない。相原は打って変わっての冷静な表情を一切変えずに、行きつけの店へと歩くだけ。二人の間に流れる妙な雰囲気に、朝日は耐えられなかった。
しかし、その雰囲気をぶち破ったのは意外にも相原だった。
「あっ、プロデューサー」
ぼそり、と相原は呟きながら真っ直ぐ前を見る。朝日も慌てて相原の視線を追った。そこには、いつもと変わらずに銀縁眼鏡をかけ、黒いコートを着てこちらに歩いている高島がいた。
すると、高島も朝日と相原に気づき、いくらか目を丸くしているように見えた。自然に三人は有名アクセサリー店のショーウィンドーの前で出くわした。
「こんばんは」
二人は礼をしながら、高島と挨拶を交わす。こんばんは、と丁寧に高島も挨拶を返した。
「二人とも、今、帰りですか」
「はい」
朝日がそういうのを遮って、先に返事をしたのは相原だった。朝日は早くこの空間から抜け出したい気持ちでいっぱいだ。なにせ、異性と歩いていてる途中に自分が思い焦がれている人と出くわしてしまったのだから。
「これから二人で食事にでも行こうかと思っていたところだったんです」
相原は朝日が予想もしていなかったことを口走った。きっと朝日の目がいつもの倍に見開かれたに違いない。
高島は微笑みながら、そうですか、と相原の台詞を促した。その後、朝日は自分でも思ってもいない行動に出ていたのだ。
「あっ、相原先輩、用事を思い出したので、せっかく誘ってもらったんですけど、帰ります! 本当にすいませんっ!!」
それだけ言い残すと、朝日は相原の返事を待たずに駆け出した。
その状況をリアルタイムで理解できなかった高島と相原は、ショーウィンドーの前で男二人、呆気にとられていたのは言うまでもない。
本当は帰ってくるはずではなかった自宅を目指して、朝日は一人でひたすら歩いていた。歩調がいつもより早くなる。さっきの状況を強行突破してしまった事実と、得体のしれない人物に見張られている恐怖から逃げるように。
後ろを振り返ろうとするが、もし誰か知らない人がいたらがいたら……、と思うと振り返ることなどできるはずもなかった。朝日にできることは、ただ自宅へと一生懸命に歩くことだけのみ。
アパートの二階に位置する自宅を見つけると、錆びた緑の階段を駆けあげる。ポケットから鍵を出し、なにかと競争しているかのように素早く鍵穴に刺して、室内に入った。
ドアにもたれかかりながら、目を強く瞑り今まで溜めていた息をすべて吐き出す。暗闇の中、気分を落ち着かせてからいつものように靴を脱ごうとしたとき、かさり、と靴が何かに擦れる音がしたことに気づいた。
また一歩進めると、かさりかさりと擦れる。朝日は、靴箱のすぐ上にある玄関先のライトのスイッチを入れた。
すると、郵便受けからあふれ出たA4のコピー用紙が、玄関一面に散乱しているのが目に入った。すべてがコピー用紙の白で埋め尽くされている。なにも書かれていない真っ白なコピー用紙に。
朝日は心臓発作を起こしたかのように呼吸を止め、その場に座り込んでしまった。
第八話 突然の再会
「清水先輩―。ちょっと聞いてくださいよ」
昼休みも中盤に差し掛かったころ、清水が可愛がっている後輩が肩をとんとん、と叩いた。この口調はなにか文句がある時だろう。清水は即座に分析してみせた。
「私、昨日見ちゃったんですよ」
単語の母音をいちいち強調しながら話を切り出す。しかも、「どうしたの?」と言いたくなるように、その先が気になるところで話を切る方法を使いこなすとは、ぶりっ子の中のぶりっ子だ。
清水はその後輩の思惑どおりに聞き返すことにした。
「なにをみたのよ」
「聞きたいですか?……水無月朝日が、昨日、相原さんと高島プロデューサーの二人と一緒にティファニーの前にいたの見たんですよ!」
清水のNGワード『水無月朝日』が後輩の口が出るや否や、身を乗り出した。後輩も清水のあまりの早い行動に、若干上半身を後退させる。
「水無月朝日が高島プロデューサーと一緒に!?」
「あと、相原さんも」
それはどうでもいいのよ、と清水が低い声で囁くと、後輩は背筋を凍らせた。
後輩が言うには、ティファニーのショーウィンドーの前で朝日、高島、相原の三人が話していたのだそうだ。しかも、高島は目を丸くする時もあれば、微笑む時もあるわだったらしい。相原はというと、冷静にまじめな顔を保ったまま。
朝日はおどおどして、心なしか慌てていたそうだ。そこから、三人はすでにただならない三角関係を築いてるのは安易に予想できる。
そして、朝日は何かを一気に喋るとぺこぺこと礼をして駆け出し、その場から去ったらしい。その後、高島と相原は気まずそうに別れた……。
――プロデューサーと相原を手玉に取るなんて。
清水は近くで餡パンを頬張っている朝日をじろり、と横目で舐めるように見つめた。
「朝日ちゃんっ! 今日はなに食べてるの?」
無理に繕ったように上ずった声を朝日にかけたのは、やはり清水だ。呼び方が、前は『水無月さん』だったのに、今日から『朝日ちゃん』に変わっていることは、お人よしの朝日にもわかりきっていた。
「うわぁっ、餡パンじゃない! いいなぁー、美味しそう」
取ってつけたような反応をどんどん繰り出すことなど、百戦錬磨の清水にはたやすいこと。隣に座った清水に対して、山ほどの書類を押しつけられた事件の後一切言葉を交わしていなかった朝日は、どことなくぎくしゃくしているように見えた。
「あのさぁ、今、私たちの中で流行ってるアンケートに協力してくれない?」
『私たち』という台詞が誰を指しているか、朝日は瞬間的に考える。その結果、自分以外の企画部女子社員だという結果がでた。
「はい。どんなアンケートですか?」
「“好きなタイプはどっち?”っていうアンケートなんだけど」
「“好きなタイプ”……ですか?」
うんうんと頭を縦にふり、清水は両手の人指し指を立てて見せた。綺麗に手入れされたラメ入りのローズピンクが映えるネイルが、朝日の目をひく。
清水は「相原浩介」と素っ気なく言って左手を揺らし、「高島尚秋プロデューサー」とキュートに言って右手を揺らした。
「朝日ちゃんはどっちがタイプ?」
ここは正直に言ったほうがいいのか、それとも隠して自分の気持ちに反した方を示すべきか……。と思案していると、「正直に言いなさいよ」と刺すような視線を朝日に向けて、清水は言い放った。
きっと嘘を言ってもダメなのだろう、と心で呟きながら右手を指そうとして、朝日は餡パンを置き、右手を動かした。すると、さっきに増して目力が強くなった清水の目が朝日の右手を捕らえた。
「……少しは遠慮っていうもの覚えないわけ?」
今まで自分の反感心に逆らって『朝日ちゃん』などと呼びかけたりしながら朝日に接していたが、清水の怒りのボルテージが一気に上昇し、いきなり声色が変化した。突然の出来事に朝日は目を丸くするのみ。
自分はどういう失態を犯したのだろうか、と今までの行動を急いで早巻きして思い出したが、なにもそんなことは見当たらなかった。
「先輩をもっと立ててあげようとか、そういうこと考えないの?」
「す、すいません……」
わけがわからない朝日が、怒っている清水に返せる言葉はこれしかなかった。しかし、清水の勢いは止まることを知らない。
「あんたさぁ、いいかげんにしなさいよ」
「……本当にすいませんでした」
椅子に座りながら、朝日はひたすら頭を下げる。清水は足を組み返して、腕まで組む。完璧に女王様とヘマをやらかした家来そのもの。
「いつもぺこぺこってさぁ。そうしてればなんでも解決するって誰に教えられたわけ? あんたの親? ……どうせ、しょうもないあんたのしょうもない両親なんでしょ」
その台詞を聞いた瞬間、朝日の謝罪の言葉と礼はぴたりと止んだ。表情も一変して、睨みつけるような目に変わっていた。
「……なによ、その表情」
今まで自分にこんな視線を正々堂々と向けてきた後輩は初めてだったこともあり、清水は少し吃ってしまった。しかし、清水は一貫として頑とした態度を取り戻してみせる。次にどんな罵声を浴びせるべきなのかあれこれ考えている時も、朝日の視線は変わらず一定だ。
「なんなの。私に何か文句でもあるわけ? 間違ったことなんて言ってないわよ。文句があるなら、あんたを育てた親に言ったらどうなのよ」
それを言ったのが間違いだった。朝日は勢いよく席を立つと、清水の頬を力いっぱい張った。普段、企画部で聞きなれないその甲高い音は、一気に周りの社員の目を集めるのには十分だった。
朝日は息を切らしながら、呆気らかんとしている清水の顔を見下ろしている。すると、みるみるうちに、朝日の目には涙がたまっていった。
「なにがわかるのよ! 知ったような口で、人の家族を馬鹿にしないで!!」
轟々と室内に響き渡る朝日の訴えは、廊下を歩く人をも振り向かせる。ぽかん、とする清水を置いて、昼休みが終わろうとしているのにもかかわらず、朝日は企画部を飛び出していった。
そんな朝日を、眼鏡を指で上げながら、鋭い目つきで追いかける高島の姿があった。
ここ数日間どうやって過ごしていたのか、朝日はよく覚えていなかった。きっと仕事はこなしていたんだと思う。あくまでも『たぶん』の範囲だが。
先輩である清水に暴言を吐いた上に頬を叩き、水無月朝日の名が一気に企画部中に広まったのは言うまででもない。しかし、朝日の脳裏には、今までの誰がしているのかもわからない様々な嫌がらせしかなかった。
ストーカーなわけはない、というのは朝日はしっかりと理解していた。それでなければ、あんなこと知っているわけがない。どうしてあのことを知りえたのだろう。どうやって調べたのだろう。
そう考えるだけで朝日の背筋は驚くほどの速さで凍っていくのだ。実際に朝日は、相原に食事に誘われた夜以来、自宅に戻っていない。自宅に帰ればまたどんな嫌がらせが待ち受けているか、と思うと勤務時間が終わりを告げようとも、自分の席から立つ気には到底なれなかった。今日はやり残していた仕事があったため、罪悪感なく残業することができた。
「……水無月さん?」
一瞬驚きかけたが、声色ですぐに高島だと気づいた。今日もいつもと変わらないコートを腕にかけながら、プロデューサー室の電気を消して出てきたところだったらしい。
もしも自分と同じことが高島の身に起きたとしたら、どういう反応をするのだろうか。と朝日はふと考えてみた。しかし、そんなことを考えても答えは見つかるはずなどなく。
「今日も残業ですか?」
あんまり無理しないでくださいよ、と呟くとふ、と笑みを浮かべる。そして、あっ、そういえば、と言葉を漏らすと、朝日に話しかけた。
「この間は折角のところをお邪魔してすいませんでした」
高島が何を言わんとしているのか、朝日には理解できなかった。
「……相原さんのことです」
相原……と考えてから、電流が駆け巡るように朝日は思い出した。すると一気に顔が紅潮するのが自分で恥ずかしくなる。今まで様々なことがありすぎて、そんなことなど言われるまですっかり忘れていたのだ。
「私はいいと思いますよ」
どこか物悲しげに語りながらも、高島は笑みを繕ってみせた。もしかして、高島は相原とデキている、と勘違いしているのではないだろうか。朝日は眉間に皺を徐々に寄せ始めた。
「ただ社内でああいった関係が露呈する後々面倒ですから。……ほら、社内でそういうのは……ね……」
あの時の状況や相原と高島の会話を考えると、そう思わせるのには足らないものはなかった。むしろ、そう思ってもおかしくない。
「いや、プロデューサー、あれはただ単に相原先輩にご飯でもと誘われただけなんです!」
朝日は手を左右に振りながら慌てて弁解する。いつもの穏やかさを保っているように見せかけてるが、何気に悲しそうな表情を隠すのは高島でも無理らしく、そんな本人と目の前で対峙している朝日の弁解口調に拍車をかけた。
「えっ?……そうだったんですか」
ほっ、と高島の吐いた息がまるでアニメの効果音のように聞こえた。でも、何故、企画部女性社員の一人が同じ職場で働く男性社員と一緒にいるだけのことに、高島がここまで一喜一憂しているのだろう。朝日は、「プロデューサーもそう言うこと言ったりするんだ」と的外れなことを心で呟くだけに留めていた。
「体調はどうですか?」
「えっ?」
「この前、コートを返しに来てくれたとき顔色が良くなかったので。……でも、見た限り今も良くないですね。むしろ、悪くなっているじゃないですか。頬もこけたような」
そう言えばつい最近、翔太郎にも同じこと言われたな、と朝日は思い出していた。高島までこう言うということは、そうとう顔色が悪いのだろう。
「体調はすごくいいんです。なにもないんです」
言葉の端々が台詞を正反対の雰囲気を醸していることは、朝日自身でもわかった。呆れたように一度目を伏せてから、またゆっくりと開くと朝日に話しかける。
「悩みごとがあるのでしょう」
はっきりとした口調で高島は言いきった。明らかにどことなく、か細さを感じさせる高島の普段のものとは違う。疑問文でもないとの台詞は、確かに朝日の不意をついていた。下を俯いていた朝日は椅子に座ったまま、立っている高島の目を見ようとする。いつもならそらしてしまうはずなのに、計り知れない引力で引き寄せてられるように、高島の瞳から視線をそらすことは不可能だった。
こんな高島の視線。今まで見たことがあったろうか。引き寄せられながらも、僅かな余裕の中で朝日は思案してみる。
すると、高島は不敵というだけでは物足りない笑みを浮かべた。
「この数日間でなにかあったのですね」
――……だめだ。もう勝てない。逃げられない。
朝日はさり気なくそっと白旗を揚げた。誰かに助けを求めがっていた意識が白旗を高く掲げさせようとする。
やっと高島の瞳から解放された朝日は、再度、自分の膝を見る。この部に異動が決まった記念で購入した紺のパンツスーツのボトムのそこだけが、頼りなく白く霞んでいる気がした。そして、霞がさらに自らの孤独感を粋がらせるように映えた。
もう一度高島の瞳を見る。
――……『凪』っていうのはこういうことだったんだ。
最初に怪しい電話が自宅にかかってきて以来、どこからともなく聞こえ続けていた漣が、しゃわしゃわ、と音を立ててなにもなかったかのように消え去っていく。
朝日のそんな心境をいるかのように、高島は持っていた鞄とコートを置くと、朝日の隣の椅子に音もたてずに腰かけた。
あれからどれくらいの時間をかけて話したのだろうか。ボイスチェンジャー細工された妙に高い声が電話で話した台詞、連続する無言電話、散乱している白紙のコピー用紙、それ故に恐怖心から家に帰りたくないということ……。
しかし、何の変哲もない茶封筒の中の紙に何の変哲もない文字で書かれていた言葉のことは、朝日は話すことはしなかった。
朝日が口を閉じるまで、高島は口を一文字に結び神妙な顔つきを崩さず、相槌を打つだけで話の邪魔をすることもなく、腕を組んだまま、ただ黙って耳を傾けていた。
自分の悩みを大きな器で受けてくれる高島の、寛大な心遣いが、得体のしれない恐怖に怯え、傷つけられている朝日にはどんなものよりも嬉しかった。
ようやくすべてを話し終わると、二人の間には数分の沈黙が流れた。高島は何かを考えているのか、目をこれでもかというほどにきつく閉じる。高島のどんな些細な行動でも、朝日には大事のように映った。
高島は机に肘をつき、両手を組むとそれに顎を寄せる。虚空を怪訝そうな顔で睨んだまま、閉ざしていた口を開いた。
「……なんでだろう」
高島の口から出た第一声は、同情の言葉でもなければ、相手の安否を気遣う言葉でもなかった。そして、また数分そのままの姿勢を崩さずに黙った。
「引っ掛かりますね」
「……引っ掛かる?」また予想だにしなかった言葉に、朝日は聞き返す。
「ええ。最初に電話があったでしょう。その時の相手の台詞です」
「いつまでもお前を見ている。どこへ逃げようと」
「そこなんですよ。『どこへ逃げようと』……。その部分が引っ掛かるんです」腕を組みなおしながら唸った。
「どうしてですか?」まったくわけがわからない朝日は、そう言うしかない。
「『どこへ逃げようと』ということは相手は、水無月さんを昔から知っている人間なはずです。あなたが今まで、ずっと何かから逃げて来たことを知っている。そして、その後を相手は追っている。相手はそういう人物だと思います。……あくまで私なりの見解ですが」
高島は朝日の方へ椅子を回転させる。そこには、憂いを浮かべながら、下唇を噛んで微動だにしない朝日の姿があった。
「なにか心当たりはありませんか?」
問いかけにも一切応じず、朝日は机を見つめているばかり。その先にある書類を見ているわけでもなさそうで、息もせずに過去を見つめているような表情に思えた。
高島にはわかったのだ。朝日が何を見ているのか。どんな気持ちでいるのか。
「心当たり、あるのですね」
すると朝日は首を左右にゆっくりと二回振った。しかし、高島にはそれが何かを否定するような強い根拠を持っているようには思えなかったのだ。むしろ、『私は隠し事があります』と示していることと、たいして変わりはなかった。
高島は先ほどまでの緊張感を持った姿勢を崩し、口元を緩めた。
「……気晴らしにでもどこかへ行きましょうか」
え、と言葉にならない感嘆を喉で出すと、朝日は席を立った高島を見上げる。鞄から財布だけを出してコートを持つと、ね、とお茶目に言って見せた。
「やっぱり冷えますね」
以前借りた黒いコートに身を包みながら、高島は肩を上げる。決して強くはないが、威厳のある風が高層ビル街を駆け巡った。
周りのオフィスビルには、虫に穴をあけられた洋服のように所々、電気が灯されている。すれ違う人には、朝のようにこわばった顔のオフィスワーカーはいなくて、仕事から解放され個人本来の柔らかな表情をしている人が多い。その中には仕事後の一杯を交わすサラリーマンもいれば、一人の男と女として並んで腕を組み歩いている人もいる。
――この中の人たちには、私と同じような人生を歩んでいる人はいるのかな。
朝日はふと考えた。人それぞれの人生は、いくつかのジャンルに分けることができるのだとしたら、私の人生は一体どんなジャンルに分けられるのだろう。……そもそも、私の人生はジャンル分けされるに値するものなのだろうか。よくてもきっと「その他」とかに区分されることになるんだ。
憧れの上司が隣にいるというのに、朝日はそんなことばかり考えていた。
もう今、自分がどんな状況にあるのか考えていない。考えられるのは、得体のしれない恐怖の犯人のことのみ。
相手は何をしたがっているんだろう。その前にどうしてお父さんのことを知っているんだろう。どのくらい前から私が逃げていることをしているんだろう。
……いや、違う。逃げてなんかいない。逃げようとしたことなんか一度もないじゃない。あのことを忘れた日なんて一度もなかった。家族のことを忘れたことなんて一度もない。
そう心で独り喋っていると、後ろから何かが囁くのがわかった。
――本当に『あのことを忘れた日なんて一度もなかった』って言えるかい?『家族のことを忘れたことなんて』って心から言えるのかい?
ひんやりとした指が朝日の背骨をそって伝う。
――本当は『あのことを忘れたいと思った日は一度もなかった』じゃないのか?『家族のことを忘れたくても忘れられなかった』の間違いじゃないのかい?
手首、足首を凍りそうなほど冷たく長い舌のようなものが、舐めるようにまとわりついてくる。
糸を引くほど粘っこい消化液が、朝日の毛穴から体内に入り込んでいくような気がした。それは振り払おうとするたびに強さを増した。
――あんな酷い家族のこと。お前の人生を一変させたあんな酷い出来事。忘れたくないなんて思う馬鹿がどこにいる? ん? そう思わねぇか。
気持ちを落ち着かせようと空気を吸おうとした。しかし、酸素の濃度が低いのか、うまく肺に入っていかない。
――何度も殺そうって思ったろう。殺したい。恨みを晴らしたい。ナイフでも銃でも何でもいいから、八つ裂きにしてしまいたい。そして、痛みに苦しみながら「ごめんなさい」「もう止めてくれ」って懇願してほしい。……それがお前の本心なんだよ。何を言おうと、何を隠そうと、何年も変わらずにお前の奥底にある蛇心だ。
朝日は何度も違う、と叫びたかった。叫ぼうとした。しかし、それは音になることはできない。声として何かに届くことはできなかった。それでも、陰湿な叫ぶような笑い声をあげて、それは私を蔑みなじる。
「水無月さん? ……大丈夫ですか?」
遠くから聞こえる高島の呼びかける声に、何かはなにもなかったように去って行った。
「あっ、はい。大丈夫です」
朝日がそう答えると、後ろから誰かがぶつかった振動が体中に響いた。よろけて倒れそうになった朝日を高島が支える。
「おい、杏子っ! お前なにしてんだよ。……どうも、すいません」
いえ、大丈夫です、と口を開きかけたとき「……朝日と高島プロデューサー?」と尋ねる声が聞こえる。その声の主は光田だった。
濃いメイクと真冬なのに生足をほとんど出しているミニスカートを着ている女と一緒だった。生足には所々に治りきらなかった傷や、赤黒くなっている痣が目立った。髪の毛は明らかに日本人の色をしていない。歳は朝日より五つ下といったところだろうか。
「会社の人ぉー?」酒の匂いを漂わせながら、光田にふらついている細い体を支えてもらいながら、高島を下から上まで舐めるように隈なく見る。イイ男、と獲物を見つめるようしてから怪しい笑みを湛えて呟いた。
「お知り合いなんですか?」高島は不思議そうに朝日に尋ねた。
「はい。前の同期なんです」
光田も朝日に続いて頷き、光田翔太郎です、と礼をする。こちらこそ、と高島は会釈した。その間も光田といる女の視線は揺らめきながらも、高島の方を放さない。
「クラブ・キャンディーの濱野杏子でーす」
右手でピースを作りながら、あははと挨拶する。一気に青ざめながら光田は、馬鹿、と慌てて制した。
光田がキャバクラで遊んだりする人だとは思っていなかった朝日は、心なしか不快感を覚えた。しかも、こんなけばい女と……、そう顔をしかめながら相手の顔をよくよく見た時だった。
「……都?」
濃い化粧をしている大人の女には変わりなかったが、卵型の輪郭、ちょうど良い目の大きさ、奥二重、形のいい眉毛、上が下に比べて少し薄い唇。
すべてが幼い頃、共に過ごしてきた妹の都にしかないパーツだった。
気がつくと、真冬の風にさらしている生足のミニスカートにぎりぎり隠れきれていないところには、昔、母につけられた煙草の火傷が二カ所あるのが見えた。
「……どうしてこんなところにいるの? しかもこんな恰好で。九州にいるんじゃ……」
呆然としつつも、懸命に妹に話しかけようとする朝日は、高島や光田の存在などもう無いに等しかった。濱野は先ほどまでの酔いはどこへ行ったのか、虚ろだった目も今や見開かれている。
「だ、誰よあんた! ってゆうか都って誰こと!? 私は濱野杏子。濱野杏子だって言ってんでしょ!」
いきなり始まった口論に、高島と光田はその光景を戦場を眺める政治家のように、仲裁することもなく冷静に眺めていた。
「でも、あなたは杏子なんかじゃないわ。都でしょ? 私、お姉ちゃん。一緒に暮らしてた――」
「知らないもんは知らないって言ってるじゃない!! あんた、水無月朝日だかなんだかっていうらしいけど、私、そんな女知らないわ! 聞いたこともないそんな名前!」
朝日の言葉を制して、一気にそう言い終えると、濱野は光田を置いて去って行った。すいません、と言って光田はその後を追う。
落ち着いたかと思うと、朝日はその場に座り込んでしまった。
「水無月さん、大丈夫ですか?……水無月さんっ」
高島の懸命な呼びかけにも、気を失ってしまった朝日には届くはずはなかった。
第九話 告白
気がつくと、目の前はにマンションの陰に隠れている夜月があった。そして、朝日は公園のベンチに横たわっていることに気付く。
どうして寒くなかったんだろう、と上半身を起こすと、高島のコートが掛っていたのがわかった。二回目だ、とぽつりと呟いて、束の間の喜びを噛みしめる。
すると、滑り台の向こうから高島が歩いてくるのが目にとまった。朝日が目を覚ましたとわかると、幾分固かった表情が柔らかさを取り戻した。
「大丈夫ですか? 寒かったりしませんか。……鞄にマフラーがあったんですけど、企画部に鞄ごと置いてきてしまったもので」
朝日の隣に腰掛けながら、高島はさり気なく朝日の顔色を窺い、先ほどよりも赤味をとり戻したのがわかった。
「寒いのにすいません。返します!」朝日はスーツだけで冬空の下にいる高島に、コートを返そうとする。
しかし、高島はそれを制して、「私は寒い地方の出身なのでこれくらいどうってことないんです。体調は大丈夫ですか?」と再度聞いた。
大丈夫です、微笑みながらそう言う朝日を見て、よかった、と高島は言葉を漏らした。高島は近くの自販機で買ってきた温かい缶コーヒーを手渡す。
しかし、微笑んだかと思うと、朝日はまた切なさを醸しだす。その表情を見ていると、高島まで切なくなってしまいそうになった。朝日は何かを考えている。普段はこんな表情など人に見せることはないのに。台風でなんの前触れもなく突然折れてしまった木の切れ株のように、朝日の心が荒んでいるのはすぐに理解できた。そして、なにがそうさせているのかということも。
「……人違いだって言ってたけど、濱野杏子は間違いなく妹の都です。あの子の前で一度も自分の名前を名乗っていないのに、私が水無月朝日だということを知っていましたから」
貰った缶コーヒーを両手で握ったまま、手を放さなかった。まるで、失いつつあるものを必死でつかもうとしているように。
「……高島プロデューサー、私はもう――」
「帰ります。……そう言うのでしょう?」
朝日の言おうとしていたことを、高島は言って見せた。
朝日は驚いてその横顔を見る。しかし、高島はいつものように微笑んですらいなかった。どこか悲しげでどうすればいいのかわからない、というような表情。心が締め付けられているような表情。
その心境は、今の高島になら分かるような気がした。
「きっと水無月さんは、このまま黙っていてもなにも言わずに帰るというのだろうということは分かっていました。……今日はありがとうございました、などと上辺だけで笑って見せて」
苦しそうにそう吐き出すと、高島はどこかのある一点を見つめながら、一つ息をついてから話し始めた。
「本当はもう自分で抱えきれないほどの悩みと不安、恐怖に怯えているというのに。それを押さえつけて、あなたはいつものようにまた明日、と家路につこうとするのでしょう。本当は帰りたくないのに。誰があなたを脅かせているとも知らないのに。あなたの知らない人かもしれない。もしかしたら、あなたのすぐ近くにいる人かもしれない。例えば、この私のように」
高島の口からそんな言葉が出ると予想だにしなかった朝日は、高島の喋ることを聞いているしかできなかった。
目を細めながら高島は話す。喉までこみあげている何かを押さえつけるように。
「……あなたはすべてをしまい込みなのです。そうやって何度も続けているうちに、自分の生きる価値を見失ってしまったらどうするんですか。生きる価値を見失ってしまったら――」
そう言って台詞を飲み込む。朝日には高島が、まるで泣くのをこらえているようにも見えた。左手の手首を右手できつく握っている。人差し指側は皮膚がどんどん赤くなるにつれ、小指側はどんどん青ざめていく。左手の拳を掌に爪が食い込むほど、強く握っていた。
「……もうこれでいいんだなどと思わないでください。それだけは思わないでほしい。そうしたら、あなたは朽ちていくだけだ。……私はあなたにそうはなってほしくないのです。だから、私で良ければ、あなたが誰にも言えずに隠していたことを、話してください。……すべて、私が受け止めます」
高島は朝日の目をみた。何を見るわけでもなく、朝日だけを。高島の瞳には朝日が映っている。朝日の瞳には高島が映っていた。朝日は今までこらえてきたものをこじ開けようとするように、泣くのをこらえながら目をきつく瞑った。そして、一つ息をつくと、先ほどの高島と同じように、ある一点を見つめながら閉じていた唇をゆっくりと開いた。
もう何年前のことだったのか、思い出したくもないあの一年。その年の夏は、全国的に猛暑といわれるほどの異常気象が続いていた。
夏休みには、炎天下の中、朝日と都は何があろうと畑に出され、休憩もなしに働く毎日を送っていた。水分補給も満足にできず、母は疲れるとすぐに自宅へ帰る始末。
日がとっぷり暮れてからも、山奥の畑に取り残されたことも少なくない。原因は自宅へ帰ってしまった母が、子供たちを迎えに行くことを忘れていたことにあった。朝日たちのことを何かと気にかけていた父が、ほぼまったくと言っていいほど、バイトに行ったまま自宅へ帰ってこなくなったのはその頃。
次の日に仕事があろうとなんであろうと、父は帰ってこなかった。その頃は、携帯電話もあまり普及していなかったこともあり、連絡を取ることなど不可能だった。
たまに帰って来たかと思うと、子供たちに昔のようなたくましい笑顔を見せることも、太い指の大きな手で頭を撫でることもない。唯一、父がしてくれたのは、白々しい目で子供を見下げることだけだった。
すると、必然的に畑仕事の指揮は朝日と都の二人に任されることになる。
母はますます仕事場に出ることもなくなり、寝室から出ようともしなくなっていった。母の癪に障るようなことをしなくても、顔を見るだけで暴力を振られる。
そんな母が自慢の料理をふるっていたキッチンも、すでに『キッチン』と呼べる場所ではなくなっていた。家族で楽しんでホームドラマを見ていたリビングには、隅々に綿埃がたまり始め、ダイニングの食卓には薄く埃が積もり、いつかに食べたラーメンの汁が飛び散ったまま茶色くこびりついている。電話線も抜かれたままで、かかってくるはずのない誰かからの着信をひっそりと待っているだけの存在。
帰宅すると、誰もが自らの部屋に閉じこもる。なぜならば、そこが一番自分の安心できる場所だったから。今では『団欒』という言葉もどういう意味だったかすらわからない。
誰がどんな状態なのか、どんな表情をしているのか、どんなことを感じているのか。生きているのかすらわからない。もはや家ではなく、部屋付きの小屋と化していたのだった。
――いつか、家族で共有した『時間』。あれはどこへ行ったのだろう。
口にはしなくても、誰もがそう思っていたに違いない。
農業経営も悪化していき、とどまることを知らなかった。最盛期には七人いた従業員が、夏休みが終わるまでには、誰ひとりとして出勤しなくなっていたのだ。
学校があろうがあるまいが、朝日と都は常に仕事へ出て行った。誰に言われなくても、朝六時までに起きて、ご飯を食べ、作業着に着替え、「いってきます」「いってらっしゃい」もなく歩いて畑へ向かった。クラスの友達が自転車で三十分ほど離れた学校へ通う姿を見ながら、二人はビニールハウスや畑へ登校する。
そんな毎日を送りながらも不思議と涙は出なかった。悔しさもなかった。何を言おうとそれが二人の日常、当たり前の生活。それが二人の普通だったのだ。
未来のことなど考えなかった。来年のことなど考えなかった。明日のことなど考えなかった。今で十分、今を生きていられればそれでいい。確固たる思いが幼い二人には、勝手に育っていく作物のように、いつの間にか実をつけていた。
しかし、ある夜、その生活に狂いが生じたのだ。
いつもなら蛙のぎすぎすとした鳴き声しか聞こえない夜なのに、アスファルトを車が走る音がした。その車の音は父のものだということが、窓を開けたまま勉強をしていた朝日にはすぐにわかった。
「……お父さんかな」久しぶりに聞いた『お父さん』という言葉を発したのは、都だった。
「まだ起きてたの? いつもならもう寝てるのに」
時計はちょうど一時を指している。ペンをノートに走らせながら、朝日は真後ろの二段ベッドにいる都に話しかけた。
「なんか眠れなくて。いつもならもう眠たいのに」
寝付けない目を擦りながら、都は仰向けから朝日の方へと寝返りをする。その頃、父が車のドアを閉める音が外に響いた。
いつもなら歩いて来るのに、父は走っていた。しかも、決して軽快とは言えない足音を立てて。
「雨、降ってるの?」
都にも走っている父の足音が聞こえたのか、朝日にそう尋ねた。しかし、窓から聞こえるのは蛙の声と、風に吹かれて枝を揺らす木の音のみ。
一階からは玄関のドアを勢いよく開閉する音が聞こえた。ひときわ大きな足音が、フローリングの床を通して二階まで響く。
――明日の仕事はお父さんがいるから大丈夫だな。
朝日がそう思うのと同時に、すぐまた玄関のドアを開閉する音が響いた。朝日にはその音はなんだか最初の時より、重く淋しげに木霊した気がした。外で再び軽快とは言えない足取りで走る音が聞こえる。不審な父の行動を不思議に思った朝日は、そっと窓から車の方みた。
そこには走っていた足を止めて家を見上げている父の姿が、街灯の光を受けてぽかりと浮かび上がっていた。二カ月前に見た父の姿とは打って変わっていて、不精髭を顎にはやし、髪の毛も白髪が交じっているのが、遠くから見る朝日の目に映る。
大柄だった父の体躯が、いつの間にかほっそりとしていたことに気づいた。
―― 一体いつからこんなに痩せていたんだろう。
久しぶりに父の姿をまじまじと見つめる朝日は、ふと考える。その視線に気づいたのか父は、二階の子供部屋の窓から覗いている娘に気づいた。
父は口元を緩める。何時ぶりに見る柔らかな表情なのだろうか。しかし、その表情はいつかのたくましいものとは正反対だった。切なそうに鼻から吐いた息が、朝日にまで聞こえた気がした。街灯に照らされた父のこけた頬を、一筋の涙が伝う。
数秒間、血は違えど愛情を注いだ娘の顔を見届けると、父の口が動く。あまりにも小さな声で、蛙の鳴き声に隠れてしまった。朝日が聞き返そうとすると、父は踵を返して車に乗り込み、エンジンをふかして行ってしまったのだ。その時の朝日には、父の表情の意味など知り得るはずなどなかった。
しかし、翌日、その意味を有無を言わさず二人の子供は知らされることになった。
父が兼ねてから交際していた浮気相手を刺殺したのだ。スナックの経営者だったその女性と口論になり、それが悪化した結果らしい。事情聴取の対象者として、もちろん、朝日と都、妻である二人の母が警察に連行された。
そして事件発覚から二日後、バイト先の近くにあった港から、車ごと父が引き上げられたのだ。それは紛れもなく自殺。父の体内には大量のアルコールと、睡眠薬が含まれていたことから、睡眠薬を飲んだ上でさらに車で海に突っ込んだことが明らかになった。
あまりの時間の流れるスピードの速さに、まだ小学生だった朝日と都はついて行けるはずなどない。そして、それに追い打ちをかけるように、家にあった貴重品をすべて持って母は失踪した。
しかし、その後も二人の普通は何事もなかったかのように続く。学校があろうがあるまいが、誰に言われなくても朝六時までに起きて、ご飯を食べ、作業着に着替え、「いってきます」「いってらっしゃい」もなく歩いて畑へ向かう。周りで何があろうと、二人は息を合わせたわけでもなく、話し合って決めたわけでもなく、普通に畑に出た。
なぜなら二人にはそうするしか道はないことを、幼いながらも身をもって理解していたから。生きる意味、生きる価値をなくした二人にはそれしかない。それにすがっていなければ、自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。もう過去、未来。どちらもどうでもよかったのだ。今さえあれば。今、自分が『何かをしている』という確証があれば。
しかし、またその僅かな望みさえも奪われてしまうことになる。二人を見かねた児童相談所が何故か孤児院へ入れたのだ。しかもなぜか、別々の孤児院へ。朝日は札幌、都は福岡という日本の北と南。どんなに二人が抵抗しようが、「もう決定したことだから」の一点張りで、二人はまもなく別れることになったのだ。
その前のことも、その後のことも、朝日はあまりよく覚えていない。ぼんやりとした概要しか覚えていないのだ。記憶にあるのは、ものすごいスピードで過ぎる時間と、泣きじゃくっている都の顔のみ。そして、学校と孤児院内でも虐められていたという事実だけ。
「人殺しの子供」「殺人者の娘」そう叫ばれたことも、なんとなく覚えている。しかし、どこから自分が『精神的な痛み』として、感じていたのか朝日には思い出せなかった。
むしろ、そんな痛みを感じていたことがあったのだろうか、と疑問を抱くくらいだった。自らがやっと人間らしい感情と感覚を取り戻してきた、と言えるのは大学に入ってからのこと。それまで、まるで過去を忘れ、捨てたドラマのヒロインのように、断片的にしか記憶に留めていなかったことは確か。
そして、それから時間が経つにつれ、自分の生い立ち、血の繋がっていない家族、二人で耕した畑、父の殺人、母の失踪、姉妹別々に入れられた孤児院――。それらが、沸騰しだしたお湯のようにふつふつと湧き上がってきたのだった。
それに気づいたとき、朝日は、自分は何のためにいるのかわからなくなった。自分は何故生きているのだろうか。たった一人の血が繋がっている妹を失った今、守るべきものもなにもない。
その不安を消すように、あれから仕事に打ちに打ち込んできた。気を抜けば今でも、不安は意気揚々と姿を見せる。必死になっている朝日を指をさしてせせら笑う。
――お前はなんで生きてるんだよ。何を目的に生きてるんだ。殺人者の娘のくせによ!……いや、お前は娘でも何でもないか。血が繋がってないんだからな。独りなんだよな。いいかげんに自覚したらどうなんだ? ん?
話し終わった朝日は辛そうに顔をしかめながら、すっかり冷めた缶コーヒーを力いっぱい握る。しかし無情にも、朝日の指先がスチール缶の強さに耐えられず、じんじんと痛むだけだった。
その横顔を数秒間見つめた後、高島はまだ温かい自分の缶コーヒーと、冷たくなっている朝日の缶コーヒーを交換した。
「……飲みましょうか」
ぷしゅ、と夜の静寂に潔い音が生まれる。高島の後を追うように、朝日も缶のプルを上げた。コーヒーを一口含むと、高島はほっと一息つく。朝日は少しずつ控え目にコーヒーを口に運ぶ。ほろ苦さの中に、ミルクの甘さが際立つ。なんだか懐かしい味、そうポツリと心の中で呟いた。
「大丈夫です。……水無月朝日はここにいます。今も私の隣にちゃんといる」
高島は微笑むわけでもなく、ただそう呟いた。高島の飾らない優しさが、朝日の今まで溜めこんでいたものを、一気に押し出す。下を向きながら、朝日はただ大粒の涙を流した。
――こんなに素直に泣けたのは、きっと家族のあまりの優しさに幸せになって嬉しくなったとき以来……。
遠くに眠らない街の騒音をBGMに、静寂に包まれる真夜中の公園では、高島の優しさに見守られながら、朝日は流れ落ちる涙を拭こうとはしなかった。
第十話 取り戻せるものと取り戻せざるもの
あの人の笑った顔を見たのはいつが最後だったろう。
俺はあの人が笑った顔が一番好きだった。よく、くしゃり、と音を立てるようにはにかんで笑った。俺はその表情が見たくて、テストで良い点を取るために勉強に励んだり、上手に似顔絵を描いたりしたものだ。
微笑みながら「よく頑張ったね」と褒めてくれるときなんか、本当に至福の瞬間だった。零れおちそうなほど頬を緩めて笑っている俺を見て、「お兄ちゃんだけずるいよ!」と喧嘩になることもしばしばあったけれど、そんな幸せなことで喧嘩できていたなんて、今から考えれば、羨みたくなくても羨んでしまうくらいに当時の生活に嫉妬をしてしまう。
……それなのに。それなのに。
俺たちが唯一、あの人の一番近くにいる存在だったのに、どうして気付かなかったのだろう。どうして気付けなかったのだろう。
いや、本当は気づいていたのに、なにもしなかったんじゃないか?なにかできたはずなのになにもしないで、幸せな生活だけを現実だと思い込みたかったんじゃないのか?
……うるさい。話しかけるな。もう黙ってくれ。
ほら、また逃げてるじゃないか。まるで、誰かさんと一緒だな。罪も償おうとしないでさ。まるっきり同じじゃないか。
……俺はそんなんじゃない。俺をあいつと一緒にするな。
じゃあ、そのためらいは何だ? どうしてためらってるんだよ。それが証拠じゃないか。そうか、類は友を呼ぶっていうくらいだもんな。そいつと悲しみを共有したいのか?
……違う。違うんだ。俺が今までどれだけこのために何もかも無駄にしてきたと思ってるんだよ!
「無駄にしてきた」か……。その時点で、自ら認めてるじゃないか。このために費やしてきた年月を無駄だと思うお前の考え方に、そのまま出てるとは思わないか?
うるさい! 黙れ!
とにかく早くしろよ。時間は待ってくれないんだ。お前も良く知ってるだろ?
翌日も普通通りに仕事をこなしていたが、朝日の脳裏には常に都のことがあった。濱野杏子と偽名を使ってまで、いつの間にか東京で暮らしていたたった一人の妹のことを。しかも、看護師をしていると児童相談所からは聞いていたのに、水商売をしているなんて。
――どうして? 都、なにがあったの?
返答のない質問を何度もどこかにぶつけていた。
先輩の雑用を引き受けながら、朝日は濱野杏子としての都を唯一知っている、光田に話を聞きに行くことを心に決めていたのだった。
昼休み。いつも自分の部で昼食を取っている光田に会うため、朝日は以前所属していた部を目指していた。すると、廊下の向こうに何やら話しこんでいる光田の姿が目に入る。
――あんなまじめな顔。珍しいな。
誰と話しているのだろう、と光田の正面に立っている人物に目を移す。こちらに背を向けているその人物は、紛れもなく高島だった。光田とは何の接点もないはずなのに、どうして高島は光田とあんなに真剣に話しているのか、朝日にはまったくわからない。
昨日の出来事のことを光田に聞いているのだろうか、とも考えるが、まさか高島がそこまでするはずなどない、という結論にたどりつく。そうこうしているうちに、光田は憤っているようにも取れる顔つきを保ったまま、部室内へと戻って行った。
廊下に残された高島はいくらか肩を落としているようにも見える。そうしているかと思うと、いつもの冷静さを取り戻したのか、廊下のその先へと足を進めていった。
疑問を持ちながらも、本来の目的である光田に会うため、朝日は室内へそっと踏み出した。
バラエティー企画部は朝日の属するドラマ企画部に比べて、散らかっていて統一感がなかった。どんな生物なのかわからない着ぐるみや、数年前のもののマンガ雑誌、ほぼ全社のスポーツ新聞、その中で仮眠をとる社員。ごちゃごちゃした空間が、入社当初ここで過ごした朝日の懐古の情を、たまらなく煽らせた。
その中に、昔と変わらない場所の机に座って、焼きそばパンを片手にペンを走らせている光田の背を見つけ、朝日はその肩を二回ほど軽く叩いた。
「お、朝日か。珍しいじゃん、バラエティーまで来るなんて」
高島と話し込んでいた時の憤りはどこへやらで、光田はいつもと変わらない笑顔を朝日に見せてくれた。机には、相変わらず高視聴率を保ち続けている名物番組の企画書が乗っており、そこに女子高生が書くような、光田のものと思われる可愛らしい赤い文字が、余白という余白に書き足されている。
「なんかあったの?」
企画書に釘付けになっていた朝日を、光田の声が呼び戻す。まるで妹を心配する兄のような眼差しで、朝日の目を見つめた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
朝日が話を切り出すと、その重々しく口を開く朝日の様子に気づいたのか、光田はペンを置き、焼きそばパンを包んであったラップを元通りに戻した。
「……昨日の夜、翔太郎と一緒にいたあの女の人のことなんだけど」
「杏子のこと?」
光田も昨日の口論を目の前にしていて、そのことを気にかけていないはずはなかったが、朝日を傷つけまいとしているのか、昨夜のことを覚えていないかのように振る舞う。
「その人とはどういう関係なの?」
「杏子とは半年くらい前に初めて会ったんだ。先輩に誘われて行った店で働いててさ。それが知り合ったきっかけだな。それから、杏子に誘われてたまに一緒に飲んだりして」
「翔太郎が誘ったんじゃなくて?」
「うん。なんか定期的に淋しいときがあるみたいで、そういうときには一人でいれないらしいんだ」
「じゃあ、昨日もその日だったんだ」
「店で客を接待してる時は淋しい顔なんて絶対に見せないんだけど、その日だけは別人になったみたいになる。それで、その時の杏子の口から出るのは決まって家族の話」
『家族の話』。思ってもいない言葉に、朝日は反射的に聞き返してしまった。
「ちっちゃい頃に家族で見てたドラマの話とか、杏子のお父さんの畑仕事をしている姿のとか。それに、お母さんの料理に勝る食べ物は世界中どこを探してもないってことも言ってたな。あっ、あと、お姉ちゃんが大好きだった曲をカラオケで必ず歌う」
ずきり。胸が激しい音を立てて痛むのが自分でもわかった。
――都は忘れないでいてくれていたのに、どうして私は。どうして……
朝日にはやりきれない思いがどんどん後を継いで現れる。後悔と情けなさが朝日を蝕み、あっという間に支配した。光田の話を聞いているうちに、朝日の中に、ある思いがしっかりと土台を固めていくのを感じた。
都に会いに行くという確固たる思いが。
昨日に増して冷える夜の電光掲示板には、それを裏付けるように、マイナスがつく気温が表示されていた。腕を組んで早足で店内に入る客が、道路に沿って立ち並ぶ様々な専門店を賑わせている。
朝日はハイスピードでスクロールする光景を、タクシーの窓からぼんやりと眺めていた。今日は、いつもはころころと変わる表情を見せる街が、どこかしらに統一感があるように感じられる。普段は寒々しい街路樹に施されている鮮やかなイルミネーションを見て、そうか、と朝日は妙に納得させられたのだった。
数分後、タクシーから降りた朝日は、光田から聞き出した店の住所のメモを手に、歌舞伎町を女一人で彷徨っていた。誘惑、詐欺、勧誘、犯罪。様々な面を併せ持つ、東京でも犯罪率の高い地域を、慣れていない二十代前半の女一人身で歩くことなど、「良いカモがここにいますよ」と宣伝しているようなものと一緒だ。
しかし、今の朝日にはそんなことなど、しょうもないことに過ぎない。気に掛ける時間がもったいなかった。都が働く店を探すことだけが朝日の目的なのだから。
仕事終わりのサラリーマンたちが、どうみても釣り合わない派手な女性たちに連れられてネオンランプが激しく点滅する看板を掲げた店に入って行ったり、朝日と同い年くらいのホストがすでに泥酔している未成年をたぶらかしている姿があったり、普段の生活では目にできないような風景が、朝日を取り巻いていく。
様々な事情を抱えて生きている人が多いこの世界になら、私と同じような幼少時代を送ってきた人がいるんじゃないか、とふとそんな思いがよぎる。
――だから、都もここにたどりついたのだろうか。
姉として何もしてやれなかったという自責の念が、朝日の脇腹に突き刺さったような気がした。
その頃、ちょうど『CLUB CANDY』と描かれた看板が朝日の目に飛び込んだ。その看板も他店に負けず劣らずのネオンランプの個数を誇っている。店名の下に、「アメのように甘いヒトトキをアナタと…」と誘い文句が添えてあった。
自らの辛い過去を押し殺しながら、都は客に楽しんでもらおうと笑顔を絶やさないで毎日ここで働いているのだろうか、と思うとさらに自責の念が溢れ出し、朝日は思わず顔をしかめた。
店内に入るにも女一人では入るような店ではないだけに、どうやって都を呼び出すべきか店先で躊躇していると、中年サラリーマンの二人組が一人の店員に見送られて店を後にる姿が目に飛び込んだ。
「……都?」
その店員は紛れもなく、昨日偶然の再会を果たした都。振り返ると、先ほどまで口元に湛えていた笑みは、朝日を見るなり一瞬にして消え去った。そのまま店内へ無言で戻ろうとする都の腕を、朝日は藁にもすがる思いで掴んだ。
まさかそんなことまでされると思っていなかったのか、都は目を最大限に見開くと、朝日を凝視する。昔はあんなに小さかった都は、朝日よりも数センチ身長が大きくなっていた。
「ちょっと待って」朝日の開かれた唇からは、都を引きとめようとする真意が十分すぎるほどに込められていた。
しかし、都はそれを受け流すように、数センチ身長の低い朝日に冷やかな眼差しを惜し気もなく浴びせる。朝日は都の態度にひるむことなく、必死に引き止めようとする姿勢を崩そうとはしなかった。
「……なんですか」それが、都が今日初めて朝日に向けた第一声だった。
「話がしたいの」
「忙しいので、放してほしいんですけど」
「お願い。少しだけでいいの」
他人の素振りを一向に変えようとせず、冷やかな眼差しも途切れることはなく。朝日の一方通行だということは、赤の他人でも分かるような修羅場だった。
「都、お願いっ」
その台詞を聞いた都は、今までの冷静さを失ったかのように取り乱し、朝日の手を勢いよく振り払った。それでも懲りずに懇願する朝日を、突き飛ばしてまで。
「私は都なんかじゃないの! 濱野杏子だって言ってるでしょ! 昔の私はもうとっくの前に死んだわ! 水無月都なんて知らない。あんな……あんな最低で最悪な親からもらった名字なんて……死んでも名乗りたくない!」
周りの音をなにもかも掻き消すように、都の叫び声は響き渡った。やまびこのように朝日には何度も同じ言葉が聞こえる。呼吸をすることも忘れたまま、朝日は両手をきつく握ったまま必死に訴える女性に、都ではないことを強要されていた。
都はかつての妹になってしまった瞬間だと思わされずにいられなかった。尻もちをついたまま見上げる朝日を放置したまま、都は店内へと戻って行く。その間も、都の両手の握り拳は開くことを知らなかった。
「もう一時四十分か……」
家路につく高島は横断歩道で青信号を待ちながら、腕時計を見つめながら呟いた。
最終話を目前に控える中、すでに様々な次のクールのドラマ制作会議が後を絶たず、帰宅するのはここのところずっとこの時間になっていたのだ。常に忙しい日々を送っているというのに、なぜか高島は最近本調子でない朝日のことが気にかかっていた。
ドラマ放送当初の活発でフットワークの軽い朝日は、今や上辺でしかそれを保てない新人になりつつある。いや、もうなっているのに等しい。
――素直に「心配だ」と言えたら、どんなに楽なのだろう。
青に変わる信号を見届けながら、高島はそう嘆いてみた。
疲れた面影を漂わせ、横断歩道を渡る数人に交じりながら足を進める。すると、その向こうに、生気が抜けてしまったように歩いている朝日の姿を捕らえた。もはや、歩いているのではなく、足を動かしているだけと言ったほうが合っているかもしれない。
高島はその姿を見失わないように、走って朝日の元へ駆け寄った。
「水無月さん!」
呼びかけると朝日は高島の声だということに気づいたのか、振り向かずに足を動かすことを止めた。朝日の背中まであと数歩というところで、高島も足を止める。
「こんな時間にどうしたのですか?」
安否を窺うように高島は話しかける。しかし、朝日は答えようとしない。いつものように無理をしてまで、「なんでもないです」とも口にしなかった。
「……水無月さん?」
さすがの変わりように、再度呼ぶと、朝日はやっと高島の方へと振り向く。しかし、その顔には普段の水無月朝日はいなかった。その表情にあったのは、やり場のない気持ちに襲われ、非愴に満ちたものだけだった。
涙を一筋流しながら、なにをすればいいのかわからない、と訴えかける眼差しを向ける。
それを察したように高島は朝日との間にあった距離を縮め、優しく抱き締めた。片手を朝日の後頭部にそっと置く。その髪には道に転んだ時に絡んだ、僅かな砂利が感じられた。
朝日は高島の胸に抱かれると、ゆっくりと腕を回してきつくきつく力を込め、声をあげて泣きじゃくった。
もう何も失いたくない。まるでそう言っているかのように。
第十一話 新たな旅立ち
からん、と丁寧にカットされた氷を、グラスを傾け鳴らしてみる。
――やっぱり失意に溺れる女には、バーのカウンターで一人酒っていうのが合うのよね。
満たされることのない恋心を秘めながら、清水はストレートのウィスキーを流し込む。浮かない表情をしている清水には、薄暗い店内の照明がいやに優しく感じられた。
ここ数日間。清水はいつにも増して高島に熱い視線を送っていたが、その張本人は清水の視線を無視するように何かを常に追っていたのだ。高島の見つめる先にあるのは、九分九厘、水無月朝日の姿。
その朝日に清水なりの攻撃を何度か仕掛けていたが、顔色一つ変えずにそれを難なくかわして行く。ここまで清水の攻撃を平然とした顔でかわしたのは、朝日が最初の人間だった。
その結果、二人の関係に少しでも凸凹を生じさせようと、悪戦苦闘している自分がなんだか哀れに感じてきたのだ。情けなさもじわじわと染み込む。
――私は『清水佐夜香』なのよ。百戦錬磨の『清水佐夜香』なのよ?
心でそう叫んでみても、誰も振り向いてくれることはない。誰も情けの声をかけてくれることもない。血統書付きのプライドが見事な音を立てて、ずたずたに引き裂かれていったのは言うまでもなかった。
「すいません。もう一杯ください」
またストレートで飲むんですか、と了解の返事を返しながら店員の目はそう語っていた。手もちぶたさに、清水はグラスについていた雫の跡が残るコースターをくるくると回す。
「深酒は体に障りますよ」
そう声が聞こえたかと思うと、男は清水の右隣りに席に腰かけた。なんだ……私もそう落ちぶれちゃいないじゃない、と自分の魅力を最大限に振り絞った眼差しを男に向ける。
「……なんだ、相原かぁ」
清水はつまらなそうに肩落とした。その様子を見かねたように店員がウィスキーを差し出す。相原は、彼女と同じものを、と店員に告げた。
「独りじゃ淋しいだろうって思ってココに来てあげたのに、そう言うことないんじゃない?」
「来てほしいなんて頼んでないけど」
「ここのところずっと、誰かに心配だって言って欲しそうな顔してたのに?」
相原のその言葉に清水は口を噤んだ。……図星、と相原は呟くと悪戯な笑みを浮かべ、運ばれたウィスキーを一口含む。強がって見せる清水だったが、隣に相原が座っているだけでなぜか先ほどまでの焦燥感がどこかへ消え去った。
「上手くいってないんだろ」
「……なにが?」相原が言わんとしていることを分かっているのに、清水は知らない振りを装う。
「高島プロデューサーへのアプローチが」
そんなことないわよ、とまた強がって見せようとしたが、喉元まで出かかって飲み込む。なんでここまで悪あがきしなきゃいけないんだろう、ふと清水は情けなくなったのだ。
「……もういいんじゃないの」
いつもからかってばかりの相原の口から、予想もしない台詞が出た。清水は驚きを隠せないまま、グラスにそっと下唇をつけている相原の横顔をみる。
「好きじゃないんだろ、本当は」
「な、なに言ってるの? 私はプロデューサーのこと――」
「ただ、自分が勝負を仕掛けていったのに、難なくかわしちゃう朝日ちゃんに負けたくないだけのくせに」
心の裏を読まれた気がした。自分でも意識していなかった心の裏を。相原は、そんなこと見てれば分かるよ、とでも言いたそうにふ、と淋しげに鼻を鳴らした。すると、清水の方を向いて、微笑んだ。その微笑みはいつもの怪しい笑みではない。
「そんなに無理強いしなくても、清水は大丈夫だって」
「無理強いなんかしてない」
「三十路が近いからって焦らなくても、ちゃんと清水のこと貰ってくれる奴はいるよ」
「……」清水は相原に何も言葉が返せなくて、口を尖らせる。どこまで私の心を読んでるのかしら、と途方もなくそう思った。
「もしも誰も落ちなかったら、俺が落ちてやるよ。……仕方なく」
相原は舌の先を少しだけ噛んで、はにかんでいるような表情を作る。視線を絡ませていた二人はどこか恥じらいながらその視線を解き、苦笑いしながらグラスをからんころん、と音立てた。
清水は何かから解き放たれたように、心から自然な微笑みをいつの間にか浮かべていた。
「おい、朝日……朝日」
体に響き渡る振動で朝日は目覚めた。寝ていたわけではなかったが、昼休みにもかかわらず仕事に没頭しすぎて憑かれているようだったのだ。
肩に乗る手を伝って後ろを振り返ると、心配そうな眼差しを向ける光田の姿があった。
「大丈夫か?」
「あ、うん。ちょっと真剣に仕事してただけだから」頭を掻きながら、吃りつつも返事を返す。
「どうしたの?」
「その、一緒に昼飯でもどうかなって思ってさ」
朝日が迷う素振りを見せる隙も与えさせないように、どうせ空いてるだろ? と光田は朝日の腕を引いて室内を後にした。
連れてこられたのは、今の時間、社内で最も盛り上がっている食堂だった。有無も言わさず朝日を椅子に着かせると、光田はカツ定食を二膳それぞれ両手に乗せて戻ってきた。
たまにはスタミナあるもの食べなきゃな、と呟いて、朝日の前に置く。その反動で、味噌汁が少量お椀を伝って零れた。
――スタミナか。
光田が励ますように呟いた言葉が、朝日にはなぜが根強く残った。席に着くなりいただきます! と言い、光田はカツにがっつく。朝日はその姿を目の前にしながら、割り箸を手に取りじわりじわりと力を加えた。じゃっ、と裂けるような音をたてて割り箸は見るも無惨に分裂した。片方は今にも何かを突き刺しそうにとげとげしく。もう片方はそれを受け止める、と言わんばかりな真っ平らに。
――世の中は一体どこまで皮肉なのだろう。
ばらばらに裂けた割り箸を見つめながら浮かない顔をしている朝日を、味噌汁を啜りながら光田はお椀の淵越しに見る。
「早く食わなきゃ冷めるぞ」
ぼそりとした光田の声に促され、朝日はその割り箸を一旦黒い盆の上に置き、食道に潤滑油を注す如くお冷を流し込んだ。
その後、朝日が漸く食物に手をつけたのを見届けて、光田はまた食事に戻った。
「……本当は話したいことがあって飯に誘ったんだ」
朝日が一通り食べ終わったのを確認してから、光田は二人の間に流れていた沈黙を破った。
「話したいこと?」
本当は聞き返したくなるほど気にも留めていなかったが、朝日は上辺だけでもそう装った。辛辣な趣で自分に何かを伝えようとしている友達の前で、私はなんて酷いことを考えているんだろう、という思いが過るが、それも昨日の出来事に呆気なく遮られてしまった。
「昨日さ、俺のとこにきて聞いて行っただろ? ……濱野杏子のこと」
違う、あの子は水無月都――、そう言いかけたが昨夜、都本人が叫んだ言葉が胸を刺した。
――あんな最低で最悪な親からもらった名字なんて……死んでも名乗りたくない!
何の躊躇いも見せず、一気に放たれた言葉。家族の私に向けて放たれた言葉。……いや、今のあの子にとって私は、家族だった存在でしかないんだ。
朝日は心の中でさえ、昨夜歌舞伎町で会った女性のことを都と呼べばいいのか、杏子と呼べばいいのか見当がつかなかった。
「実は昨日の夜中、遊びに付き合え! って杏子に呼び出されて。……まぁ、俺は何処行ってもほとんど寝てたんだけどな……それで、カラオケとか行ってあいつ歌いまくってたのに、帰り道でいきなり泣き出したんだよ。今まで淋しい淋しいって言っても、誰にも泣き顔なんて見せたことなかったのに。今日何かあったの? って聞いたら、別に何があったかは答えなかった。だけど――」
そこまで一通り喋ると、光田は下唇を噛んで台詞をとぎらせた。そして、周りの騒音に遮られることなく光田の言葉に、一心に耳を傾けている朝日を見る。どうみても、妹の安否を心配する姉の姿にしか見えなかった。
「あいつこう言ってた。……何も言わず、何も知られずに去りたかった。どうしてこんな時に会っちゃったんだろう。私が悪いんだ。本当はこのために九州から出てきたのに、何も行動を起こさなかったから。…………ずっとこの言葉ばっかり繰り返して、泣きまくってた。……朝日、余計なお節介かもしれないけど、俺さ、杏子と――いや、都とずっと接してきたからなんとなくわかるんだ。絶対にあいつは、後悔してる。そして、どこかに行こうとしてる」
何も寄せ付けない空気が二人のテーブルの周りだけに流れている。その中を、光田の鋭い訴えかけるような視線が、朝日に真っ直ぐ注がれた。
「朝日はこのままでいいのか? 都と仲違いしたまま、永遠に会えなくなってもいいのかよ。朝日が都に伝えたかったこと、全部伝えつくしたのか?」
朝日は光田の訴えに耐えきれなくなり、目を落とした。その先には右手に握られた長さがバラバラな割り箸があった。朝日が瞼をゆっくりと閉じようとも、光田はその中に隠された迷いを秘める瞳を見つめ続ける。
「いつまでも定期的にくる淋しさを抱えたまま、それを一生抱えたまま、あいつはこれからも生きていくことになると思う。そんな都を救ってあげられるのは、俺でも誰でもない。たった一人の家族の朝日しかしないんだよ」
光田がそう言い終わると、数秒間の沈黙が二人の間を流れた。朝日はゆっくりと目を開ける。目の前にはさっきと何も変わらない割り箸の姿があった。
――たった一人の家族。
もう一度そう心の中で呟いてみる。朝日はもうこれ以上、都に突き放されてしまうのが怖かった。また会いに行って、また切り捨てられて。もし別れるのなら、このまま傷を深入りさせないためにも、自ら身を引いた方がいいのではないか。……でも、永遠の別れかもしれないのに、そんなに簡単に決めてしまっても良いのか。伝えたいこともなにも伝えられずに。
どちらつかずの思いが巡りに巡る。私たちはこの割り箸のように、もともとは一緒だったのにバラバラになってしまったんだ。
――……もともとは一緒……。
自分で呟いた言葉をもう一度繰り返す。
そうだよ。私たちは一緒だった。なにがあっても一緒だったんだ。例え、バラバラになっても。例え、まちまちな性格になっても。
どうして、なんで恐れる必要があったんだろう。何があったって、同じ家族なのに。たった一人の家族なのに。私は都の姉、都は私の妹に変わりないんだよ。
一気に靄が晴れた。ずっと何年も朝日のどこかに必ずあった靄が、なかったかのように消え去った。
「……そうだよね」
やっと発した朝日の言葉に、光田はさっきまで俯き加減だった顔を上げた。やっと朝日は笑顔を浮かべたのだ。光田もそれにつられ、なんだか微笑んでしまった。
「早く行って来いよ。……企画部には俺がなんとか話つけとくからさ」
光田はそう言って、ポケットからメモ用紙を朝日に差し出した。そこには都の住所が記してある。ありがと、そう言い残して、朝日は人混みを縫って駆けて行った。
「……自分で食ったものくらい、片付けろよなぁ」ホントに、と苦笑いしながら光田は席を立った。さて、企画部にどうやって話をつけようかと思案しながら。
「濱野杏子ですか?」
朝日は息を切らしながら、店員に都の行方を必死に尋ねていた。時間は一刻一刻と過ぎているのに、新人なのか、店員はのろのろとファイリングしてある用紙を捲っていた。
「早くお願いします!」声を荒げて店員を急かそうとするも、ちょっと待っててください、と言うだけで捲るスピードを上げるわけでもない。
待ちきれなくなった朝日は、近くを通りかかった三十代目前くらいの女性を引きとめた。
「あの、濱野杏子がどこにいるか知りませんか?」
「……あなた、杏子のなに?」下から上まで朝日を見つめ上げると、心もない声でそう言い放つ。まるで、プログラムされた音声案内のように。
「杏子の姉です」なんの躊躇いもなく朝日は言葉を吐く。「姉」。改めて言葉にすると、なんだかその重みが感じられた。こんなに重みを感じた言葉は初めて。
「杏子なら、辞めたわよ。なんかもう東京にはいられなくなったとかで」
えっ、反射的に朝日の口から洩れる。やっぱり、どこかへ行くつもりなのか。
「まぁ、珍しいことじゃないわね。ここら辺はそういう事情持ってる人が多いしさ」
その女性の嘆きを聞き終わらないうちに、朝日は店を飛び出した。歯止めのきかない時間の流れを一時だとしても無駄にしているのが惜しくて、惜しくて。
都が東京での生活で規範としている拠点がわからなくて、朝日はとにかく走る。光田からもらったメモを見ながら、都の住んでいるアパートを訪ねるが、そこは既に都の住んでいたアパートでしかなかった。そこを中心に探すが、都らしき人も見つからない。
その最中、朝日は故郷の北海道の大いなる自然に囲まれながら、都とかくれんぼをして遊んでいた時のことを思い出していた。都はテレビゲームなんかよりも、人形遊びなんかよりも、外でかくれんぼをするのが本当に大好きだった。
あの時の無邪気な笑顔。見つけられた時の悔しそうな眼差し。「もういいよぉ!」と力いっぱいに叫ぶ声。
すべてが昨日のことのように、朝日の中に甦る。東京で再会するまで、そんなことはこれっぽっちも覚えていなかったのに。
――かくれんぼの続きみたい。
必死に走りながらも、朝日はそんなことを呟いてみる。どこを歩いているのかわからない、自らの妹に向けて。
住宅街を抜けると、朝日の息は「これ以上はムリ」とでも言うように切れ切れになっていた。足を止めて、膝に両手をつき肩で呼吸を繰り返す。
――これしきのことで疲れるくらいじゃ、妹に届かないよ。
誰かにそう囁かれた気がして、咳払いを強くついて、前を見上げた。
すると、そこには夕陽が高層ビル街に沈みかかっている姿をバックに、せせらぐ川原があった。その川に沿って、幼稚園児たちが母親と手を繋いでいる。
こんな場所あったっけ、久しぶりに目にする川に尋ねてみる。茜色に染まりながら、オレンジ色を水面に反射させ、静かに時間を過ごしている川は、朝日を懐かしさで満たした。
家の前にも、こんな川があったのだ。近くにある町を流れる主流を支える支流だったけれど、幼かった朝日と都には、深い谷を悠々と流れる川は非常に大きなものに見えた。春には鮎がやって来て、夏には避暑地になり、秋には三角州いっぱいにススキがそよぎ、冬には氷が一面覆う。
朝日と都にとって、父と母の次に自慢できるものだった。
確かあれは、それこそ家の周りでかくれんぼをしていたときのことだ。いかに見つけられないかより、いかに難しい場所に隠れるかが都にとってのモットーだったらしく、谷底に向かって足をぶらさげ、谷淵に沿ってそびえる木の幹に掴まるような体勢で、朝日に挑んだことがあった。
「もういいよぉ!」といつもどおりに威勢良く叫んだものの、都があまりにもうまく隠れていたため、朝日はいつまで経っても見つけることができなかった。
「都ぉ、もうわかんない! 出てきてぇ!」と朝日が叫んでも、都はムキになって出てくることはなかった。
しかし、小さな体で力を振り絞って木に掴まっていられたのは最初のうちだけ。都は叫び声をあげて谷底へ向かって落ちてしまったのだ。
「お姉ちゃーんっ!! 助けてぇ!」
ギリギリのところで近くにあった岩に手をかけ、都は朝日に助けを求める。朝日は急いで都の元へと駆けて行った。その時は運悪く、両親は畑で仕事をしているため、大人はどこにもいなかった。谷淵にしゃがみ、妹に向かって小さな手を差し伸べる。
「都、お姉ちゃんの手に掴まって!!」
もう無我夢中の二人は、必死で手を伸ばしあう。自分よりも一回り小さな掌を捕らえると、朝日は力いっぱいに妹を引き上げた。
「お姉ちゃーん、怖かったよぉ」
泣きじゃくる妹は、朝日の汗にまみれたTシャツを握りながら、姉の腕に包まれた。朝日も大粒の涙を流しながら、愛しい妹の泥で汚れた髪に頬を寄せる。
――もうどこにも行かせない。もう大丈夫。お姉ちゃんはここにいるよ。
何度そう言ったことだろう。何度そう誓ったことだろう。
それなのに、私は再び妹を手放してしまった。あの時と同じように、妹はすぐ近くにいたのに。
……でも、またあの時みたいに私は都を見つけてみせる。二度と放さないように。二度と離れないように。
目の前を流れる川の流れに沿って見渡すと、そこにはこちらに背を向けて、茶髪を夕陽の中でなびかせている人の姿があった。どんなに大きくなろうと、その横顔は朝日の腕の中で泣きじゃくっていた妹と何ら変わりなかった。
「……やっと見つけた」
土手を下りながら、朝日はその背中に話しかける。振り返った都の表情は、昨夜とは別人のようだった。夕陽と川の作り出す空間のせいだろうか。
「どうして追ってきたの? 折角、カッコよく九州に戻ろうと思ってたのに」
ふ、と鼻を鳴らして笑ってみせる。でも、そんな態度は見せかけにしかすぎないと朝日はわかっていた。
「伝えたいことがあるって昨日そう言ったから、ちゃんと果たそうと思って」
「いいよそんなことはもう。キレイさっぱり忘れてもらって結構」
そう呟くと、黒いキャリーバックに都は腰かけた。拒否はしつつも、逃げださずに朝日の言葉に耳を傾けてくれるのがたまらなく嬉しかった。朝日は芝生の上に腰を下ろし、都の左隣に寄る。
「こんなことになるんだったら、寄り道しないで早く行くべきだったな。……なんか、この川見てたら、行くにも行けなくなっちゃって」はは、と都は淋しげに笑う。
「本当はね、あたし、会いたくなってこっちにきたの……お姉ちゃんに会いたくて」
一瞬の出来事で、朝日は都の横顔を見る。私のこと、「お姉ちゃん」って言ってくれたの?朝日が謝ろうとする前に、都はどんどん話し出す。留め具が外れたかのように。
「向こうで過ごしてても何かいろいろ考えてちゃって。ちっちゃい頃の記憶が溢れ出しそうだったけど、その結果、もういっそのこと仕事辞めて、あたしも東京に行こう! って思った。……でも、こっちで仕事見つからないし、なかなかうまくいかなくなったの。お姉ちゃんを探しに探したけど、全然見つからないんだもん。お姉ちゃんの孤児院に連絡しても、今どうしてるかわからないとかテキト―なこと言われてさ。……まさか、テレビ局で働いてるなんて思いもしなかったし」
都は今にも消えてしまいそうな儚い笑顔を浮かべて、高層ビル街に沈みかけている夕陽を真っ直ぐ見つめる。そんな妹の表情を焼きつけようといわんばかりに、朝日はずっと都を見つめた。
「……そしたら、あたしバカだから、いつの間にか東京に来た本当の目的忘れちゃったの。もう生きることに精いっぱいになっちゃって。東京にいたら、ただでさえ無いような自分の存在価値が、ますます無くなっていく気がした。そして、濱野杏子としてこの世界に住むようになってから、お姉ちゃんとばったり会っちゃってさ。あの瞬間、一気にいろんな思いが逆流した。本当は嬉しかった。お姉ちゃんに会えて嬉しかったんだ。……それなのに、あたしはお姉ちゃんが今まで自分を探しに来てくれなかったこと、暴力を受けて育ったこと、あの一年間に嵐みたいに過ぎ去った日々のことでいっぱいになっちゃって、ひどいこと言っちゃった。……それから九州に戻って全部忘れてしまおうって決めたけど、どうにも割りきれなかったの」
都はオレンジ色の涙を零れおちないように、必死に溜めていた。その表情が朝日の胸に突き刺さる。朝日は立ち上がって、都の目をちゃんと見る。自分の伝えるべきことを伝えるために。
「いや、私が悪いの。九州まで行こうと思えば行けたはずなのに、たった一人の家族を探しに行けたはずなのに、私は行かなかった。……行けなかった。昔のことに目を向けようとしても、自分でそれを遮ってた。会いに行っても、嫌われてしまったらどうしようっていう恐怖があったのかもしれない。でもね、私、やっとまた会えて気づいたの。何があっても、私たちは同じ家族なんだって。ずっと一緒なんだって。そう思えたら、今までずっとあった靄が一気に消えた」
都はお姉ちゃん、と呟く。オレンジ色の涙が零れおちる。
「……何があっても、水無月都は私のたった一人の妹だから」
キャリーバックから立ち上がると、都は姉の胸の中に飛び込んだ。
――その言葉が聞きたかった。
そう言う声が都から聞こえた気がした。何年経っても変わらない泣き顔を見せて、今まで溜めていたすべてのものを解放するように、朝日と都は一緒に涙を流した。
いつも遊んでいたあの頃に戻って。いつも遊んでいたあの川の前で。
ありがとう、大好き、そう二人で囁きながら、夕陽はビルの陰にようやく姿を隠した。
「ただいま戻りましたっ」
深々と礼をして、朝日は企画部へ戻った。本当は都を空港まで送って行こうと思っていたのだが、その旨を伝えると、都に叱咤されたのだ。
「ちゃんと仕事はやらなきゃダメだよ! どうせ、また会いに来るんだから」
朝日は眉間に皺を寄せながら、「私が九州に行くんだから、都は仕事を休んでまで東京に来なくていい」と言い返してやったのだ。
企画部の先輩たちにくどくど文句を言われても、朝日は実際、気に留めていなかった。頭にあるのは、「またね」と言って手を振ってくれた自分の妹のことだけ。怒鳴られてるのにどことなくにやけているような朝日をみる先輩たちは、怪訝そうに「もういい」と言って気味悪そうに自分の仕事に戻るのだった。
今、どこの上を飛んでいるのだろう。もう空港についただろうか。あんなにずっと外にいて風邪でも引かなかっただろうか。
いろんなことが次々と湧いて出てくる。仕事が手につかなそうになると、「ちゃんと仕事はやらなきゃダメだよ!」と都がどこかで叫ぶのが聞こえる。
わかってるよ、と鼻で誇らしげに笑ってみせながら、朝日がすべての仕事を終えたのはほとんどの社員が帰宅の用意をしている頃だった。
最近何度かこうして遅くまで残業をしていたが、こんなに清々しい気持ちでいられたのは初めてのこと。一人で歩くテレビ局の玄関ロビーも、いつもは感じている恐怖が一切感じられなかった。
しかし、ちょうど朝日が外へ一歩踏み出したとき、咳を切ったように大粒の雨が一気に降り出して来た。こんなこともあろうかと鞄に入れておいた折り畳み傘をだして、骨組を少しずつ開く。すると、後ろから走ってきた誰かが雨が降る光景を見て、ため息つくのが聞こえた。振り返ると、どうやって帰ろうか思案している高島の姿が目に入る。
高島のほうを振り返っている朝日の姿に気づいたのか、思案していた時の表情はどこかへ去り、微笑みを取り戻した。
「今、帰りですか?」朝日の方へ歩きながら、話しかける。
「はい。プロデューサーもですか?」ええ、と高島は返す。
「ちょっと狭いですけど、よかったらどうですか?」
「……いいんですか」
はい、と朝日は開きかけた折り畳み傘を示しながら、笑顔で答える。いつもお世話になっているお礼に、そう考えながら。
申し訳ないです、と軽く礼をする高島。
「傘は、私が持ちますから」朝日に僅かに触れた高島の細長い指が、久しぶりに朝日を紅潮させる。そんな朝日を見て、高島は不思議そうに眉を少し上げると、またふわりと微笑んだ。
街の中は突然の雨に慌てて走り抜けていく人や、水しぶきをあげていく車でいっぱいだった。車道側に高島は立って、朝日にしぶきがかからないようにと歩いている。時折、ちゃんと傘に入ってますか? と尋ね、はい。大丈夫です、と朝日は返した。
――こんなに長い時間プロデューサーが近くにいるなんて……。
昨夜、自分から高島に抱きついたことをすっかり忘れている朝日は、自分で招いたこの状況に緊張しっぱなしだった。そっと、高島を見上げると、緊張している自分がさらに恥ずかしくなるくらい、そこだけゆっくり静かにすべてが流れているような気がした。朝日の視線に気づき、高島は首を傾げながら見る。
「どうしました?」と聞かれて、「見惚れてました」なんて言えない、と心で叫びながら、「なんでもないです……」と答える。
「……今日、光田君から伺いました。妹さんに会いに行ったと」
青信号を待っている間、高島はぽつりと呟いた。
「そう聞いてすごく安心したんです。水無月さんなら大丈夫だと確信していましたから」
高島は変わりそうで変わらない赤信号を見つめている。でも、朝日にはなんだかそうは見えなかった。その先にある何かを見ているような。
「……私は何も出来ない人間なんです。昔からずっと」
雨が降りしきる中、高島のつく溜め息が何も寄せ付けずに浮かび上がった。
そんなことないです、と言いかけて、赤信号が青に変わる。どうしてそんなに悲しげな表情を時々見せるのだろうか。そういう悲しげな表情を隠すために、いつも微笑んでいるのですか? 朝日にはどうしてもそれを言葉にできなかった。
いつかに朝日が過去を打ち明けた公園の前で、高島はふと足を止める。どうしたのだろうと朝日は窺った。
「……プロデューサー?」
微動だにしない高島に朝日は声をかける。先ほどのように、高島は傘の向こうを見ている気がした。何かを見ている。この世界にはない、この時間にはないなにかを。
何を考えているのですか。どうして一人で塞ぎ込んでいるのですか。私に言ってくれたことを覚えていないのですか。
――あなたはすべてをしまい込み過ぎなのです。そうやって何度も続けているうちに、自分の生きる価値を見失ってしまったらどうするんですか。
そう私に話してくれた時の表情と、どこか似ている気がするのは気のせいですか。
「私が水無月さんと同じ境遇にあったら、きっとあなたがとった行動を私はすぐにとれません。……もし、私の弟がそうなってしまったら。自分の過去から抜け出せず、そんな行動に出ることなんて出来ないでしょう」
やっと口を開いた高島は何かを睨みつけたまま、いくらかいつもより憤りが増したような声色で語った。
「そんなことありません。私は周りの人たちのおかげで会いに行くことができたんです。……前の私なら、前の私だけの力でなんて都に会いに行けませんでした」
「そうでしょうか。……私は水無月さんとは違って、根が脆いですから」
どうしてこんなに嘆いているのか。朝日は高島の視線、瞳から読み取ろうとして見るが、何もわからなかった。……どうして私はこんなに無力なの。どうして大切に思う人が苦しんでいるのに、こんなにも無力なの。
「……す、すいません。何かどうでもいいことを長々と語ってしまって」
高島は今までの苦悶の表情を吹き飛ばそうとしたのか、息を吐きながら笑おうとした。しかし、高島の眼差しは変化することもなく。行きましょうか、と歩きだそうとした高島を朝日は呼びとめた。
「何を悩んでいるんですか。何がプロデューサーを離そうとしないんですか。そんなに苦しんでいるのに、どうしてまた無理をしようとするんですか。……しまい込み過ぎないこと。そうしなければ、生きる価値を見失ってしまう。……そう私に教えてくれたのはプロデューサーでした。私はその言葉があったから、都にも会いに行くことができた、自分の過去と向き合うことができた。…………もうこれ以上、大切な人が苦しむ顔を見たくないんです。もし、何かに苦しんで悩んでいるのなら、私も一緒にそれを背負います。プロデューサーが本当に心の底から、笑うことができるようになってほしいんです」
偽りの笑みが高島の顔から消え、ゆっくりと瞬きをする。まるで、何かを振り払うように、何かを噛みしめるかのように。そして、憂いを秘めた瞳を見せると左手に持っていた傘を地面に落とし、朝日を両腕で静かに抱き締めた。雨音にお互いの衣擦れの音が混じる。
何が起きたか理解ができない朝日の右耳の鼓膜に、高島の秘かな息遣いが響いた。周りの世界を遮断するように、雨脚はさらに増し、二人を濃く塗りつぶす。冷たい真冬の氷雨なはずなのに、朝日の右肩に温かい雫が染み込んだ気がした。静かにゆっくり躊躇いがちにリズムを刻む高島の鼓動と吐息が、無言の意味を朝日に伝えている。
――ごめん、今は何も言えないんだ。
繰り返し、繰り返し。高島のすべてがそう呟く。朝日に謝まるように何度も、何度も。
一度静かに加えられている両腕の力が抜け、高島は雨粒で濡れている朝日の顔を見つめた。雨音だけが、高島と朝日の心境を映し出す。静寂に包まれた中を、早々と駆け抜けるような。
いつもは光を受けてさり気なく輝いている、朝日の亜麻色の髪はすでにしっとりと黒くなっている。顔面に垂れている前髪を、高島は冷えた華奢な指でよせた。朝日よりも一回り大きな高島の両手が朝日の頬にそっと添えられ、高島は顔をゆっくり近づけて朝日の唇に静かに触れた。二人のその狭間だけが、ほんのり温かく、しかし気を抜けば冷たく。
その空間を制する雨音だけが何かを急き立てるように、ひたすら駆けて行った。
第十二話 『束の間』の儚さ
あの人が幸せそうな表情を浮かべたのはいつが最後だったろう。
心の底から、自分の幸せだけを噛みしめたときはあっただろうか。
……そうだ、あいつがあの人とよく会うようになってから、幸せを浮かべることが多くなったんだった。
悔しくも、あいつに出会ってからそういうことが、目に見えて増えた。昔、俺たちが笑って食卓を囲んでいた時によく見せていた表情。
それをあいつに奪われたような気がして、あの人のすべてをあいつが持っていくような気がして恨みに恨んだ。
でも、あの人が幸せならそれでいいんじゃないのか。今まで苦労してきた分、それを見守っていることが俺にとってあの人のためになるんじゃないのか。何度もそう自分に言い聞かせた。だけど、そんなに容易く俺の性悪な意識は変えることなんて出来なかった。
きっとこのままあの人は俺たちを忘れて、俺たちの知っているあの人は消えていってしまうんだろう。そんな愚問がぐるぐる回る。頭を左右に大きく振ったって、そう簡単に消えることはなかった。そんなことで簡単に消えてしまえるなら、俺はなんだって出来る。その気持ちは今も変わらない。
日曜日の夜、仕事終わる時間であろうともあの人は帰ってこなかった。俺たちはもう既に寝ているのだろうと思っていたに違いない。でも、俺たちはどんなに睡魔が援軍を呼ぼうと、決して寝ることはなかった。布団に入って寝てしまったら、あいつに負けてしまう気がしてならなかったから。
その日は弟を先に寝かしつけ、俺は二時過ぎまでその意思を貫いていた。
しかし、あまりにもそのことだけに夢中になりすぎて、いつもの習慣がすっぽりと頭から抜けていたのだ。そのせいで、俺は息苦しくなってきた。上手く呼吸ができない。空気が肺に入っていかない。水面に必死に口を寄せる金魚のように、俺は目を丸くして天井を仰ぐ。隣で小さな寝息を立てている弟に助けを求めようとするが、声すらでない。ガラスを引っ掻くような掠れ声で、どうやって人を起こせようか。
身動きも鈍くなる一方で、当時の俺にはすがるものがあの人しかいなかった。普通の人なら、こんなシチュエーションの時は神を対象人物とするのだろう。だけど、俺はこんな生活を与えた神を恨んでいたこともあり、何があろうと『神頼み』なんていう三文字は脳裏にすら浮かばないのだ。
――早く帰って来て、俺を助けて。
畳に仰向けになり、胸倉を握りしめる。畳の目に逆らって、俺の小さな爪はガリガリと音を立てて食い込んでいった。夜も眠らない街の騒音も、静寂に包まれる室内を制していた時計のリズムも聞こえ辛くなっていくのが、俺には手に取るように感じられた。
――……やっぱり、俺はいらないの? どうでもよくなっちゃったの?
モザイク画のように視界もぼやけていく。
「……どうしたの!? 薬は……なかったの!?」
ああ、懐かしい声が聞こえる。俺を心配してくれてるの? 心の底から心配してくれてるの?
「救急車……くる!」
その低い声はあいつなの? やっぱり一緒にいたの? あいつは来なくていいよ。早く帰れよ。今はお前はいらないんだ。この人は俺だけのものなんだから。
今にも吹き消されそうな蝋燭のように、俺は必死に意識をかき集める。あの人の腕に抱かれているこの時間、俺はあいつに勝った。ぼやけたあいつの顔を見て、俺はあいつに嫌味を込めた目を向ける。
――どうだ。うらやましいだろ? 俺の勝ちなんだ。
勝利という優越感に浸って、あの人の焦った表情を受けながら、俺はどこかへと旅立った。
かかりつけの病院から処方されている薬を飲まなかったために、心臓発作を起こした俺は、すんでのところで救われた。でも、俺は助かったという安心より、あの人が俺の傍にいてくれることが何より安心したのだ。
俺が病院のベッドで目を覚ました時、手を握ったまま転寝している姿がある。袖から覗く白い肌には、こびりついたようなかつての痣は薄らとしていた。そのすべてが俺をしばらくぶりの安堵をもたらした。
あの人の温かさ。俺は今でも忘れない。
あの人の温かさに勝るものなんて、この世に何もないから。
『ひとやすみの法則』は翌週に堂々の視聴率を誇り、幕を閉じた。その最終回を持って、企画部は解散する。局内での最高メンバーが涙の別れを告げたのだ。
そして、スタッフとキャスト全員、他の部の協力者が参加する打ち上げが、某レストランを貸し切って開かれた。もちろん、朝日も参加。しかし、一番来なければいけない人物がいつまで経っても姿を現さなかった。
これで最後だということもあり、女たちがそれぞれ高島への贈り物を用意している。
「どうしてこないのかしら」
「何かあったのかなぁ」
「彼女とどっかにいってるんじゃないの?」
そんな囁きが飛び交う。男はとばっちりを受けたかのように、後半は酔いつぶれているものも多い。しかし、その中の一人は鋭い視線を部屋の隅々に這わせている。スーツをきっちり着こなしている相原だ。
ドラマが終わって、制作にかかわってきた者にはこの時間が安堵の息を悠々とつける空間なのに、相原だけはむしろ緊張感が増している。その相原を不思議そうに見ているのは、ワインを少しずつ口へ運ぶ清水。長年の付き合いからして、こんなに緊張感を長時間保っている相原を見たのは初めてだったからかもしれない。
他の部からの協力者には何故か、光田も仲間入りしていた。協力していたことなどあったろうか。しかし、弟キャラの光田は可憐な先輩方にいじられている。まるで、そこだけ高校時代に見たことがあるような光景が広がっていた。
一方、朝日は隙があれば、数日前の出来事を自然と考えるようになっていた。騒がしく盛り上がっている打ち上げの会場でももちろんのこと。高島の言葉、表情、行動。すべてが朝日の脳裏に焼き付いて離れない。
仄かに温かく、その裏に冷たさを秘めた高島の熱。どうすればいいのかわからない、というように眉をひそめて歪める顔。思い出しては悩み、思い出しては悩みを朝日はひたすら繰り返していた。
企画部が解散となれば、もう高島に会うこともなくなる。そうすれば、自ずと接点も失われていくはず。高島の力になりたいのに、助けになりたいのに、そう簡単にはできなくなってしまうことを朝日は重々承知していた。
周りが二次会に流れる中、朝日はとてもそんな気分にはなれず、一先ず気持ちを落ち着かせようと企画部に戻ることにした。
真っ暗になったがらんどうの室内。それぞれの机にはいくつもの段ボールが置かれ、華々しい視聴率を明示した垂れ幕も姿を消していた。
朝日はその光景を何度も目で往復する。暖房も入っていない空気が、朝日には嫌に冷たく感じられた。
自らの机まで一歩一歩確かめるように踏みしめた。足を進めるたびに、今までのことが走馬灯のように駆け巡る。
一緒に仕事と戦ってきた机につき、それに覆いかぶさるようにしてみた。緑のマットが引かれていない地肌のグレーをむき出しにした業務用の机まで、室内と同じくひんやりしている。もしかしたら、空気よりも冷たいかもしれない。
その間も、朝日の脳内ではひたすら様々な思い出が駆ける。初めて企画部に配属された日、高島に憧れと尊敬の念を抱いた時間、清水の運んでくる書類の山、何故かあれっきり途絶えた奇妙な電話と散乱したコピー用紙、相原との奇妙なやり取り、光田の知り合いだった濱野杏子との出会い、都との再会。
すべてが何かに追われるように去って行った。息をつかせる間も与えず、現れたかと思うといつの間にかいない。だが、その後には必ず何かを残していった。
憤慨。歓喜。幸福。非愴。恐怖。
様々な感覚に襲われ、どうしようもなくなっていたと導いてくれたのは、高島に違いないということに朝日は気づいてはいる。今はその高島が悩み、道標を見失っているというのに、自分は何も出来ていないという現実を目の前にして、もどかしさで満ち溢れているだけ。どうしようもないもどかしさに。
机から顔を上げた朝日は、いつも煌々と照らし続けてくれた蛍光灯を見上げる。
――私の輝いてたものも、こうして一瞬でスイッチオフされるんだ。
郷愁に近いものが朝日を背後から一気に包んだ。いつもはうるさいほどに感じられる街の喧噪も、今日はスロウなカフェで流れるボサノバのように染み渡っていく。
穏やかな優しい気持ちが連れ去られて行くような感覚にも襲われる。その後には、落胆、もどかしさがやって来る。感情の螺旋がみるみるうちに形成されて行く様は、実に見事。
見上げていた視線をふとプロデューサー室へ向けてみる。すると、ドアと壁の隙間から僅かに光がこもれていた。朝日は電気をつけっぱなしにしておくと、あとあと面倒なことになるのを知っていたので、プロデューサー室まで電気を消しに行くことを決めた。
ドアノブをキュルと右に回し、そっと開けた。すると、誰もいないはずの室内から声が聞こえてきたのだ。
「……あ、うん。わかってる。明日の最後の会議が終わり次第だろ? えっ、そうじゃなくてって……ああ、ちゃんとやるよ。今度こそは成功させるから」
静かに焦りを抑えながら、携帯電話の向こうの相手にそう語る高島の声が響いた。話し終わり携帯電話を畳むと、手に取った透明なケースを一瞥し、ためらいがちに段ボールの中へ放った。
そして、高島は視線を上げ、ドアの向こうに朝日がいることに気づいた。
「……水無月さんですか、どうしました?」
数日前の出来事を僅かながら意識しているのか、高島はたどたどしい。かといって、朝日も例外ではなかった。
「電気がつけっぱなしだと思って、消しに来たんです。まさかプロデューサーがこんな時間までいらっしゃるとは思ってなかったので」
「次の制作会議とかでスケジュールがいっぱいなので、こうして夜のうちに部屋を整理しなければ間に合わないんです」
「……みなさん、プロデューサーが来るの待ってましたよ?」
「そうでしたか。でもこうでもして時間の合間を縫って片付けをしなければ、終わりそうになくて……それに、私は行くべき者じゃないですから」
また高島の表情が曇る。数日前のように。
「そんなことありません」
否定してみるが、一向に高島の表情は晴れる気配を見せなかった。そんな高島を前に、朝日も表情を曇らせる。
「……あれから結局、何も話してくれませんでしたよね。そのまま自分の中で消化しようとするおつもりなんですか?」
迷いに迷ったのち、煮え切らない思いを朝日はとうとう口にした。その台詞によって、高島の顔はさらに曇る。カモフラージュに荷物整理をしていようとも。
「どんなことでもいいんです。私は一緒に背負います」
朝日は真っ直ぐな視線を高島に向ける。その視線に待ったをかけられるように、高島の手はぴたりと止まった。しかし、顔は一向に段ボールの中を見つめたまま。
「……私は正直になれないんです」
観念した、とでもいうように高島は重い口を開いた。朝日からは直接高島の瞳の色は見えないが、どんな色をしているのかは想像がつく。寒々とした群青。
「どうすればいいのかわからない。自分がどうしたいのかさえもわからない。……私はそんなどっちつかずな人間なんです」
高島は朝日が座っているソファの前にある段ボールの方へと移った。その横顔からは『陽』の感情は一切感じられなかった。
「嬉しさ、楽しさ、喜び……そんなものを素直に表すことができたらどんなに楽だろう。どんなに素敵なんだろう。ずっとそう考えてきました。でも、私にはそういう感情を持つこと自体が反則行為に値するのです。自分自身のルールに」
「そういうことは誰だってあります。こんな私にだってありますよ?」
「とにかく、私には誰かに語ることができないことは山ほどあるんです」
「それはみんな一緒です。プロデューサーだけじゃありません。でも、私はそれでもプロデューサーの力になりたいんです。だから、どんな些細なことでも良いから――」
「私にはできない。私はそんな人間であってはならないのです」
朝日の言葉を遮って、高島は荒げた声を抑えがちに出した。言いたかった、言いたくなかった。そんな高島の声が届くような気がした。
「どうしてそんなに自分を無駄にしようとするんですか。お母さんから命を授かって生まれたのに。……どうしてなんですか」
高島はひっきりなしに動かしていた手を止め、室内には数秒の沈黙が流れた。窓の外から聞こえる救急車のサイレンがやけにうるさく感じる。
「……私はこういう人間だから仕方ないのです。このために生まれてきたから」
目を細めて遠くの何かに話しかけるような高島をみて、朝日は焦燥に駆られた。このままでは、高島はどこか遠くへ行ってしまう。そんな胸騒ぎがしつこく起こる。言いようのないその胸騒ぎが朝日を高島の腕の中へと導いた。
「そんなこと言わないでください。もうこれ以上、大切な人が苦しむ姿を見たくないんです。本当に嫌なんです。私に出来ることなら、なんでも言ってください」
突然朝日に抱きつかれた高島は、いつかのように自らの腕で朝日を包むことをしなかった。動揺と後悔、迷いが高島を捲し立てる。目を伏せて、溜め息をつくその表情は、様々な感情にとり憑かれてどうしようもなくなっていた。
誰かが導いてくれたらいいのに、そう嘆いているようにも見えた。
――少し……少し、幸せを感じてもいいですか。
高島は朝日を抱き締めた。いつになく強く強く。もう離さない。もう離したくない。
高島は朝日の涙が溜まった瞳を柔らかく見つめる。その表情には先ほどまでの様々な感情に、悩んで苦しむ面影はどこにもない。高島の何事も包んでしまえるような深い香りが朝日を包む。
「……今だけ……今だけ、あなたを愛してもいいですか」
今にも涙がこぼれおちそうな眼差しを、朝日に惜しげもなく浴びせる。その表情だけは、すべての苦しみから解放された自然なものにちがいなかった。
高島の唇が朝日に触れた。その熱は温かさの裏に冷たさを秘めた数日前とは違い、表も裏もない温もりだった。
朝日の背後にあるソファにゆっくりと押し倒し、押し倒される。高島の温もりは、朝日を深く深く求め、朝日も高島の苦しみを少しでも癒したくて、すべてを委ねた。
今日だけ。今だけ。許されぬことだと知りながらも、僅かな時間を欲する高島は朝日を愛した。
今日だけ。今だけ。逆らう自分を戒め、二面性のある感情を同化させていられる一時を噛みしめながら、朝日をすべてで愛した。
限られた愛にすがるように、二人はお互いを慰めあう。例え、その後に二人を何が待ち受けていようとも。
第十三話 螺旋の終焉
「……ねぇ、今日なんかあったの?」
清水は三次会に流れる人混みの中で、酒の匂いが欠片もしない相原に話しかけていた。周りは呂律が回らないメンバーばかりなのに、相原だけは素面。ほろ酔いの清水にもそれは明らかだった。
「ん? 俺はいつもどおりだけど」
「そんなの嘘よ。だって全然乗り気じゃないじゃない」
「かなり乗り気だって」
なんだか素っ気ない口調で清水の気遣いを振り払う。もしかして嫌われちゃった……? 清水の中には相原に対する疑念が、ふつふつ湧いてきた。
――そういえば私、相原のこと何も知らないじゃない
清水はその事実にはっとさせられた。今まで同期だから、同期だからと言いつつも、相原の住んでいる場所も幼い頃の話も知らないのだ。相原は清水のことをある程度知ってはいるが。……いや、知ろうとしたことはあった。しかし、相原は持ち前の巧みな話術で、個人情報を聞き出す類の質問を、さらりをかわすのだ。そうだ、今から考えればそうだった。
「よーし、次はカラオケ行くかぁ!」
肥満傾向にある上司が、泥酔し歩くのもままならないのに、三字会メンバーにそう呼びかけた。はぁーい! おー! などの賛成する声が続々と上がる中、上司の接待目的に渋々ついてきている女子メンバーは、白々しい冷たい視線を送る。
そんな渋る女たちを必死に、まぁまぁ、となだめているのは弟キャラの光田。好きでもない接待に付き合わされる女には、光田は唯一の清涼剤となっていた。
温度差の激しい光景を少し後ろで見ている清水と相原は、それぞれに何かを考えているようで、前のことなどこれっぽっちもお構いなし。
その時、誰かの携帯着信音が鳴り出した。数回コールしてから、ちょっと失礼します、と了解を得てからポケットから携帯電話を取り出したようだ。三字会メンバーの人混みのせいで、誰の携帯電話が鳴ったのか清水と相原には男だということ以外、察しがつかなかった。
「……えっ!? ちょ、ちょっと、話と違うだろ! これからって……おい、待てって――」
そう叫ぶ声が聞こえ、しばらくしてから人混みから、えーっ!? という感嘆が上がった。何が起きたのか清水は人混みを覗こうとするが、それは無理に等しい行為だった。一方、相原はと言うと最初から変わらず緊張感を保ったまま。むしろ、集中力が増しているようにも見える。
「すいません、俺、ちょっと用事が出来たので失礼します」
男は何度もすいません、を連呼し、向こうへ走っていく。ざわつくメンバーはカラオケへと入っていった。すると、自然とその向こうに走る去る男の後ろ姿が残る。グレーのフードを上下にはためかせながら、全力疾走しているのは光田だった。
「……清水、ちょっと付き合え」
「えっ!?」
清水の返事も待たないまま、相原は清水の右腕を掴むと光田の後を追って走り出した。
――こんな幸せは久し振りだった。
母親に暴力をふるわれ、父親が殺人を犯し、家族がバラバラになった挙句、たった一人の血の繋がった妹を失った……。様々な喪失感を味わってきた。もう私はこの世にいないも同然なんだ。そう何度思って来たことだろう。
そうやって数え切れないほどのものに裏切られ、突き飛ばされてきて、生きているのかどうかすら考えたこともなかった。
――あの頃から今まで、私は水無月朝日として生きていたのだろうか。
遥かな憎しみや苦しみと向かい合いたくないがために、幸せだった過去ごと縁を切ろうとした。だけど、いつもギリギリのところで踏みとどまってしまう。
私はそんな自分が嫌で、嫌で。殺してしまいたくなるくらいの衝動に駆られたこともある。
自分がなんとか生きていられたあの時期、母に言われた言葉が私の感情を瞬間冷却してしまった。
「私があんたらを引き取ることに同意したのは、好きでもない仕事をやってる私の負担を減らすために、少しでも働き手を増やしたかったからなのよ!」
泣きもしなかった。せっかく楽な生活ができてたのに、と罵倒されながら殴られても蹴られても、恨む気持ちさえ生まれなかった。
ただ無気力でされるがままに、吹っ飛ばされ、血を吐き、嘔吐するだけ。
だって、それがその時の私にできる唯一のことだったから。人を喜ばせられる唯一のことだったから。
誰かが私に何かすることによって別な感情を与えられることから、私は自分の生きている価値を見い出せていた。虐めてなじらることが
どうして私は生きてしまったのだろう。どうして私は今もこうして脈打っているのだろう。
「生きる」。私はそれ自体を後悔して止まなかった。
愛に飢え、愛を欲し、愛を探し。
どこをあさろうが、愛は得られなかった。
愛って……必要なの?
愛って……本当にあるの?
愛って…………なに?
「すいません、お待たせしました」
高島は玄関ロビーで待たせていた朝日の方へと駆け寄ってきた。こんなに夜遅くに女性を一人で歩かせるわけにはいかない、と朝日の自宅まで高島が送ってくれることになったのだ。
気まずいような親しいような距離を保ちながら、二人は夜が更けた街を歩く。朝日と高島のような関係の男女が数組いるのがわかった。中には、何の目的があるのかわからない人間も存在する。
夜遅くまで営業しているコンビニや、カフェには若年層が多数だった。「昨日」と言えばいいのか「今日」と言えばいいのかわからない現在の時間のように、「大人」になりきれず「子供」にも収まらない人間がひしめき合っている。
こんな時間に外を出歩いているだけで、大人になっている気分を楽しんでいる子供もざらにいた。ギラギラと照る街灯がそんな未成年の魂胆を浮かび上がらせるものだ。
それぞれのドラマが混じりあい、入り乱れるのは街ならではの光景。しかし、一見なんの関係もなさそうなストーリーがどこかで絡み合うこともある。それは誰にも予想できなくて、誰にも決められないこと。絡み合うのが現在のことなのか。はたまた未来のことなのか。それとも過去のことなのか。
決められることができたらどんなに良かったのだろう。もっと違うところで出会えたら。違う形で出会えていたら。
こんな苦しい思いをするのは一人で十分だ。心の中でそう思うくらい、反則じゃないはず。
……なんだ。ただでさえ息苦しい夜更けを厚い雲が覆っているじゃないか。こんな些細な願いでさえも届けてくれないのか。
耳を塞ぐように。目を覆うように。顔を覆うように。そこまであからさまにしなくてもいいよ。せめて、今の時間だけどっちつかずな人間を生かしてほしい。このまま好きなように生かして。
たぶんあと少しで、自分は自分でなくなるから。有無を言わさずその時はやって来る。
車が一台も通ってない道路の赤信号が明けるのを待っている時、朝日の携帯電話の着信音が二人の沈黙を破った。ドアを軽く数回ノックするように、それは突然と。
すいません、と言って朝日はショルダーバッグから小刻みに振動する携帯電話を取り出した。サブディスプレイに表示されている着信者の名前を一瞥した朝日の表情が、一瞬曇ったのを高島は見逃すはずがない。
真冬の空気でかじかんでいる小さな指先で開き、通話ボタンを音もなく静かに押すと、もしもし、と朝日は囁くように口にした。すぐ右隣りにいる高島の耳は、朝日の携帯電話のスピーカーから微かに漏れている着信者の甲高い声に一物の不安を抱いた。
「……ヒサシブリダナ、ミナヅキアサヒ」
もう過ぎ去ったはずの胸騒ぎが再び朝日を襲う。どうして携帯電話の番号まで……。
「だ、誰ですか?」
慌てている朝日にはそれしか言うことができず、他には何も考えられない。電話の向こうで、相手は笑いをこらえるかのようにくつくつと笑った。
「ダレダトオモウ? ……オレノコト、ワスレタトカイウナヨ」
「何の用ですか……」
誰かわからない相手にも自然と敬語を使ってしまう。それは恐れからなのか、緊張からなのか。神妙な表情を浮かべて高島は朝日を見つめる。何か自分にもできればいいのに、と模索しているように。
漏れ出る加工された声からは性別は判断できないが、話し方からして容易に男であることは想像できた。
「キョウハダレトイッショニイタンダ?……イヤ、『ダレトイッショニイルンダ』ノマチガイカ」
その台詞を聞いた朝日はぞっとした。どうして自分が今、誰かと一緒にいることを知っているのだろうか。ざわざわと朝日の背筋は音を立て始める。
「ソノセナカハ……タカシマタカアキダナ。アイカワラズナカイイジャナイカ」
嘲るような笑い声が朝日の耳をつんざく。前後左右見渡してみるが、怪しい男は見当たらない。通行人、店の客。すべてが普通すぎる光景で、何が異常なのか見当がつかなかった。隣の朝日がとる忙しない行動が、高島の不信感をさらに煽った。朝日がどんなやり取りをしているのかは察しがつかないが、あの嫌がらせをしてきた奴の仕業に違いない。高島には確固たる確信があった。
朝日が血相を変えて辺りを見渡す光景を相手はどこからか見ているのか、おもしれぇなぁ。本当にお前はおもしれぇよ。と何度も繰り返す。電話を切ろう思えば切られることは確かだというのに、朝日は潔く電話を切ってしまうという様な大胆な行動には出られなかった。
「……イヤガッテモ、オレハオマエヲズットミテイルカラナ。チカイウチニアオウゼ」
叫びを上げるように、おかしくてたまらないと言わんばかりに笑い声をあげ、相手は電話を切った。その後も衝撃に耐えられない朝日は、携帯電話をすぐにバッグに戻すことができなかった。その衝撃がひとしお引けたところを見計らい、高島は朝日に声をかける。
「水無月さん、大丈夫ですか」
「……また、まただ。どうして私を?」
「嫌がらせですか?」
「はい。今も見張られているみたいなんです。近いうちに会おうって……プロデューサー、私……どうしたら」
朝日はそう言うと、おもむろに涙を流し始めた。ひとつ、またひとつと恐怖に追われ、やり場のない気持ちに押し出されるように。高島はそんな朝日をただ黙って見ているわけにはいかなかった。
……自分がしなければならないこと。そして、朝日のためにできること。
「そうなると、このまま家に帰っても危ないな」誰かに確認するように一言呟くと、朝日の手を握り締めた。
「いいですか、何があっても私から離れないでください。その男がどこからあなたを狙っているかわからないですから」
朝日の目を真っ直ぐに見てそう言うと、高島は朝日の手を引いて夜の街を再び歩き出した。どこへ行くのかもわからない朝日は高島の行く先に身を委ねるのみ。高島が自分の近くにこうしていてくれるだけで、先ほどまでの言いようのない不安は消えそうになる。朝日は高島の掌にしっかりと力を込めた。
「……ここはどこですか?」
高島が足を止めた建物に見覚えがなかった朝日の口からは、自然とその台詞が出た。微かな物音さえも木霊させてしまうようなエントランスホールで、高島はモニターに向かって手を動かしていた。その高島の後ろでは、朝日が物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。何も通さない、と言わんばかりのシルバーに彩られたドアが先を制し、この建物にふさわしいものしか入れないという風格を放っていた。
数回電子音が響き渡ると、シルバーのドアは音もたてずゆっくりと開く。高島はその中へ吸い込まれるように足を進めようとしたが、背後で佇んでいる朝日の様子に気づき、いつもの微笑みを投げかけながら先ほどの質問に答えた。
「大丈夫ですよ。ここは私の自宅です」
ドアの先にあるエレベーターの方を指差し、行きましょう、と促す。自らが住む世界との差に呆然としながらも、朝日は高島の後に続いた。
エレベーターの中でさえも雰囲気からして違っていた。床には靴のまま上がってもいいのか迷うくらい上質なカーペットが敷いてある。落ち着いたトーンでデザインされているすべてのものに高島は溶け合っていたが、朝日は完全に別物と化していた。
目的の階に着いた二人は、高島が導くのに従い、廊下と呼ぶのにふさわしいのかどうかわからないくらい立派な廊下を進む。朝日は他の家のドアに目を流し、このマンションで毎日の始まりと終わりを過ごしている人間を想像してみた。出てくる人すべてが、当たり前のように自分とは格が違っている。様々な想像を巡らせている間だけ、朝日の脳内からは加工された甲高い声は一瞬だけ消えていた。
高島はようやく足を止め、鍵を取り出すと、一切もたつくこともなく鍵を開けて見せた。高島はドアノブを静かに回し、一度室内に入るも、少し躊躇いがちに廊下と家の境に立ったままの朝日に気づき、どうぞ、と促してから奥へ奥へと入って行った。
「……お邪魔します」
パチンパチン、と室内の電気スイッチを入れる音に混じって、朝日の声が響く。徐々に明かりを灯す向こうから、はい、といつもより少し大きめな高島の返事が返ってきた。靴を脱ぎ、冷めやらぬ緊張感を保ったまま、朝日は高島のいる方へと足を進める。
室内はいかにも『高島らしい』といえば伝わるだろうか。派手な飾り物、実用的でない物などは極力排除し、きれいに整頓されているいくつも続く本棚や、食器棚。それらのものが知的で綺麗好きの高島らしさを強調させている。『シンプル イズ ベスト』その言葉がまさに似合う場所だった。
「ソファにでもかけて、くつろいでいてください」
キッチンに立ち、やかんで湯を沸かしている高島は、どうしたらいいのかわからない朝日にそう言葉をかけた。とりあえず、高島の言うとおりに黒革のソファに腰を下ろす。
やかんの底を強火が刺激する音のみが室内を制していた。高島はキッチンから一歩も動かず、ステンレスと火がぶつかり合う様をじっと見つめている。勢いよく噴き出した火は容赦なくステンレスの壁によって、二つ折りにされてしまう。どんなに強くぶつかろうとも。しゃわしゃわと内部で熱湯が囁き始めた。
――もういい頃じゃないか。
何度もそう高島に告げる。それに背くように、高島はふと水道の蛇口の傍らにある小瓶を手に取った。右手にすっぽりと納まる小瓶をじっと睨んだ。数回振っても見た。中に入っている何かが鈴の音のように耳になじむ。
――早く飲まなきゃ。もう時間はとっくに過ぎてるわ。
……わかってる、わかってるよ。
高島はその小瓶の栓を開けようと手をかけた。少しの振動で中身は音を上げる。しかし、栓をきつく締めたのか、なかなか開かない。手がするりと滑る。どうして、と苛立ちを小瓶に投げかけてみる。何を言おうと小瓶は答えない。しゃらしゃらと主張するのみ。
……ああ、そうか。…………そうだね。
高島はゆっくりと力ませていた指を緩め、右手の中でうずくまっている小瓶をもう一度見つめてみた。そして、一瞬口元を緩めると、ことりと元の場所に戻したのだった。まるで、何かに諭されたかのように。
すぐ隣で必死に叫んでいる声を遮断するため、高島は火の絵が記されたスイッチを押し、引っこんでいたスイッチは最初のように戻った。強火とステンレスはぶつかり合いを止め、元に戻る。そして、高島は引出しを開け、中に掌を忍ばせると、それは何かが握られた拳に姿を変え、ポケットの中に滑り込んだ。
すべてのものが自らのあるべき姿に治まり、キッチンは何事もなかったかのようにゆっくりと呼吸する。高島はシンクの周りに点々としている水滴を、真っ白な布巾で拭き去り、誰にも気付かれないほどの息を小さく吐いた。
静寂の中、高島はこちらに背を向けてソファに座っている朝日を一瞥する。
――俺はなんて意気地無しなんだ。
高島はポケットに右手を突っ込んだままフローリングの床を歩き、朝日の背後に回った。すると、そのポケットから刃が剥き出しの折り畳み式のナイフが握られた右手がすばやく現れ、刃が朝日の白い首筋に吸いつくようにあてがわれた。
いくら暦上では真冬の山を過ぎたからと言って、夜中は寒さを増す一方だった。いつもならもう寝ている時間のはずなのに、清水は腰の高さまである花壇の縁に腰かけている。
これでもかと言うくらい、寒さ凌ぎのため深く腕組をし、カシミヤのコートの袖を握りしめていた。
清水をここに放置したまま、相原はどこかへ姿を消したため、自分は何のためにここに連れてこられたのかわからなかった。辺りを見回しても、暗闇の曇り空へと一心に伸びる高層マンションが後ろにあるだけで、あとはなんら変わったものはない。
正面の車道にはちらほらとタクシーが走るのみで、都心とは思えないほどの静まり返った光景に包まれる中、清水は明らかに浮いていた。
最初は懸命にいつもの威勢を保っていたが、見なれないものばかりに囲まれていると思うと、やはりその威勢は徐々に薄くなっていく。そして、どこへ行ったのかまるで見当がつかない相原に助けを求めてしまうのだ。
――早く帰ってきてよ……私ひとりじゃ、怖いじゃない。
心の叫びが露わになった瞬間を逃すまいとしたかのように、相原は車道の向こう側に群がる木の陰から、その誰もが羨むようなスタイルをひけらかせて、特有の軽い足取りで戻って来た。
「……どこに行ってたのよ」
二人の間で交わされた第一声は、紛れもなく清水の苛立ちを募らせた不安だった。
相原はそんな清水を長身ゆえに見下ろしながら、少し微笑んで見せた。いつもの怪しげな笑みではなく、どこか安堵した雰囲気が窺えるようなものだった。
「ひとりで怖かった?」
「べ、別に怖くなんかないわよ! ただ、どこに行っちゃったのか心配だっただけ」
「へぇ……俺のこと心配してくれてたんだ」
「違うってば! いいからもう黙ってて」
次々に図星を当てられた清水は、もう勝ち目はないと思い知ったのか相原から視線をそらした。そんな清水をよそに、相原は手に持っていた携帯電話に数秒間目を落としている。誰かからの連絡を待っているのか、それとも誰かに連絡しようとしているのか。
二人の間に数分間の沈黙が現れ始めたかと思うと、相原は静かに口を開いた。しかし、その口調とは裏腹に声色は急かされているようだ。
「なぁ、清水。少しの間、俺と恋人同士の振りしてくれ」
「えっ? いきなりなに――」
「あとで説明するから……恋人らしいことして。俺のこと、愛してる気分になって」
溜息混じりに清水の耳元で囁く相原の声が、清水の女心を妙にくすぐった。ざわざわと肌が波打つ。また図星をつかれたみたい、清水はなんとなくそう思った。
細い茶色のウェーブした髪の毛が、隣に座る相原の肩に触れる。静かに、音をたてないように、清水は相原の肩にもたれ掛かった。
なんだか本調子じゃない。なんかいつもと違う。
ぎこちなく清水は呼吸をひとつひとつ丁寧につく。まったく見えない相原の表情を想像してはどぎまぎしながら、きっと私のこんな心境もわかってるのよね、と声にならない質問をしてみる。返ってきたのは、コートを伝ってほんのりと温める相原の体温と、規則正しい鼓動のみ。
ねぇ、あなたはどう思ってるの? もう一度質問をしようが、相原には届くはずなんてない。
そうこうしていると、相原の手が清水を引き寄せるように肩にかかった。二人の間には会話の一つも交わされていなかったが、その時間だけはお互いにどこか通じ合っているものがあった。相原は清水を。清水は相原を。
相原は自らの中へと清水を誘った。清水の火照った顔は、相原で包まれる。その状態で清水は浴びるほどに相原のすべてを受け取っていた。体温も呼吸も鼓動も。
――私だけじゃなくて、あなたもドキドキしてくれてるの?
すると、二人の背後に駆け足が迫って来た。清水はそんな音などお構いなしに、相原のすべてに酔って酔わされていた。しかし、そんなシチュエーションに溺れていたのはどうやら清水だけだったらしい。
相原は突然清水を放し、立ちあがると、高層マンションの中へ駆けていこうとしていたフードを被った青年を捕らえた。何が起こったのかわからないその青年と清水。
青年は暴れ、放せ! と連呼し、清水は花壇に打ち付けてしまった額を押さえながら、マンションの前で行われているショーをただ呆然と見ていた。
相原はもみ合っている最中に、青年の被っているフードをとった。現れた見覚えのある顔に清水はさらに目を丸くさせる。光田君がなんでここにいるの?
「もう何をしても無駄だ!」
スーツの胸ポケットから手錠を取り出すと、相原は何故か突然ここに現れた光田翔太郎の左手にかろうじてかけ、右手を捕まえるともう一方の輪にひっかけた。
「お前を逮捕する」
相原は押さえつけている光田の視界を警察手帳で遮断した。
突然、首の皮膚で感じたひやりとした感覚に、朝日は自らの神経を疑った。しかし、それは想像の産物ではなく、現実に存在するものなのだと目を僅かに落として確認した。
「動くな」
背後にまとわりつくように聞き慣れない低音が発せられる。誰なの? と思う寸前で、それが高島の声であることに気づいた。自分の首筋にナイフの刃があてがわれていること以外、何が起こったのか理解できない朝日の口からは当然の如く、お決まりの台詞が漏れ出す。
「高島プロデューサー、何を……」
少々焦りで陰りそうな威勢を持ち直して、高島は鼻で笑ってみせる。こんな怖い笑い方は今まで聞いたことない、朝日はまったく見えない後ろで高島がどんな表情でいるのか思い浮かべようとしたが、それは無理に等しい行為だった。
「立て」
高島は朝日を捕えている左腕に上へと引き連れる力をじわりと込めると、朝日ごとその場から周りに邪魔になるものが何もない場所へと誘導した。思っていたより恐怖を示さない朝日に、高島は多少眉間に皺を寄せる。その動作の裏側には何かに対する懇願が秘められていた。
――頼む。これじゃあ、意味がないんだ。
「どうしてこんなもの――」
先ほどの答えを返さない高島に痺れを切らしたのか、朝日は恐々と薄く唇を開いてもう一度問う。すると、今度はその問いを言い終わらないうちに高島は口を動かした。
「こんなものって、これが俺の復讐心にちょうどいいからだよ」
なかなかリアルタイムで頭の中に入ってこない高島の言葉を、脳内でもう一度反芻しながら朝日は意味を読みとった。その中に引っ掛かる単語があることに気づく。
『復讐心』という三文字。
それに一人称がいつの間にか変わっている。
「……重大なヒントを言ったのに、何も気づかないんだな」
品のある普段の高島の喋り方とは違う。もしかして、別人なのかと思わせるほど全く違うのだ。どこかぶっきらぼうで、早く終わらせたいのか焦っているようにも感じられた。
高島の左腕に捕らえられている中、何が起ころうとしているのか必死に考えを巡らせるが一切浮かばない。その最中でも、この世のすべてを包んでしまえそうな深い香りが朝日を覆った。
――やっぱり、高島プロデューサーなんですね。
自分は何でこんな時に安心しているのだろうか。馬鹿じゃないの?
「俺の名前に、何も反応しないのか……こんなにずっと一緒にいたのに」
台詞の意味だけを考えると、残念がっているような風にも取れるが、実際はまったくと言っていいほど違った。恨んでいる高島の視線が痛い。朝日は体の裏側ですべてを感じ取った。
一方で朝日は、『尚秋(タカアキ)』というワードで脳内検索をかけても、何も見つからない。ありそうでない名前だから尚更なのだろうか。何も浮かばない自分に対して、一気に先程に増して焦燥感が迫りくる。
「そうやって、何も知らないままだったんだな。……俺たちをこんなに苦しめておいて」
僅かに高島が絡める腕に力がこもり、それと共にナイフを持つ手がギリと摩擦する音が聞こえた。
「どうして覚えてないんだ」
高島が呟いたその言葉には、恨みが今までに比べて薄れているように感じた。嘆きに近い。どうしてそんな声を出すんですか? 脅されているのに、朝日は何故か自分が状況に反して落ち着いていることに気が付いていなかった。
それに気づいているのか否か。高島はただ自らの気持ちの矛先をどこへやるべきか、ひたすら混乱していた。この世では見られないような素晴らしき濁りと。それは完璧な絵に描いたようなカオス。身動きすら取れない中で、呼吸をひとつひとつするだけが精いっぱいだった。空気の塊を丸飲みするばかり。
そう、まるであの時と同じように……。
「プロデューサー、放してください……」
朝日は途切れを見せない沈黙の中で、一瞬だけ焦りと不安を見せた。言いようのない痺れが朝日の体をじわりと包み込む。いや、もしかしたら痺れてないのかもしれない。
だんだんと切迫してくる雰囲気は幻想ですらも生み出してしまう。
――今のさっきまであれほど近づけていたのに。これほど愛しいのに。
どうして、なんで、が朝日の外堀を埋めていく。やめて、もっと身動きができなくなってしまう。
「無駄口は叩くな」
耳を塞ぎたくなるような冷徹な台詞。すべてが冷やされ、寒がり。そんな表現じゃ済まされないほどだった。
外では曇りか快晴か判断がつかない夜が臨んでいる。きっとこの空は厚い雲で覆われているはずだ。高島はそう思った。もしそうでなかったら、どうしようもなく最低な姿をさらけ出していることになるだろう。だって、きっとあの人はこんなこと望んでないから。世界一優しくて、穏やかなあの人はこんな殺生など好かない。
じゃあ、そう思うなら、こんなこと、どうして? ……どうして。
自問自答を繰り返していると、ついにはどこからともなく嘔吐感が高島を突き破ろうとしてきた。しかし、それを全力で抑え込む。こんなことは、今まで何度も経験して来たことだから、慣れがモノを言うのだ。
「……水無月岳(たけ)大(ひろ)。誰の名前かわかるか?」
突然高島の口から出てきた、久しぶりに聞く自らの父親の名前に朝日の身の毛がよだつ。どうして知っているのかを問う前に、朝日の口はかつてのトラウマによって封じられた。憧れ、愛し、尊敬した父親の名前。殺人を犯して自らの手で命を絶った父親の名前。
「どうして知ってるのか聞かないのか。あいつの娘なのに」
「……あ、あいつ?」
慣れ親しんだようにするりと高島の口から出た人称を、朝日は聞き逃さなかった。待ってましたと言わんばかりの笑い声が室内に響く。それはそれは高らかに。迷いを吹き飛ばすような潔さで。
「あいつ以外にどんな呼び方があるんだよ、あ? フルネームで呼ぶことは必要ないだろ。…………俺の……俺たちのすべてを奪った奴なんだから」
「どういうことですか」
高島は朝日を勢い良くドンという音をたてて白い壁に押し付け、向かい合うようにさせた。その表情は、普段の高島尚秋ではなかった。薄らと充血させた眼差しを向け、唇をちぎってしまいそうな勢いで噛み締めている。
「あいつが、俺の母さんを……高島理津子(りつこ)を殺したってことだよ!」
――ああ、神様。『目の前が真っ暗になる』ってこう言うことですか?
一向に目の前で展開されている光景について行けない清水佐夜香は、艶やかに彩られた唇を薄く開け続けていた。ぐったりした様子の光田の腕を離さずに、先ほど警察手帳を胸ポケットからいきなり出した相原が自分の所属する『署』なる場所へ一報入れた。電話口につらつらと語るその口調も、偽りなど垣間見せない、本物。
疎外感を一身に受けっぱなしなことをようやく認め、清水は懐かしい束の間のときめきを味わった花壇の縁に腰をかける。
少し向こうに目をやると、肩を最大限に落としている『落ち込み』の象徴のような光田もいた。グレーのフードが、垂れている頭の後ろでさらにしんなりと垂れている。
仮に、警察官である相原がどうして光田を逮捕したのか。相原の行動と台詞、光田の様子からは一向にその真意がわからない。一体、彼が何をしでかしたというのか。
社内でも弟キャラでなにかと気を使うこともでき、優しさでできているようなカワイイ子だと聞いていた。
それが、今、目の前で正気を抜かしている青年だというのだろうか。 ほんのりと赤茶けた前髪が顔にかかり、光田のその表情は今だに清水の方までは届いていなかった。
しばらく続いている静寂の中、突然、ふぅ、と相原が一息つくのが聞こえた。
――そっか。打ち上げの時からずっと気になってた緊張感は、このことがあったからなんだ。
清水は少し首を右に傾げながら、こちらに横顔を向けている相原を見つめる。ハンサムよねぇ、と死語をそっと呟いてみた。
すると、辺りのそんな安心を逃すまいと、いきなり光田が清水の背後にまわり、どこからか取り出したタガーナイフの切っ先を清水の首筋に構えた。
一瞬の出来事で、さすがの相原も握っていた腕を放してしまったのだ。その俊敏な動きは、まるで、こうなることを予想していたかのよう。
「本当に甘いね。もしかしたらと思って、こういう予行練習しといてよかったよ。……生憎、一回怒られるだけじゃ懲りない性格なんだ、俺」
にんまりと口角を上げるその様は、小悪魔そのもの。どこからその技を習得したのかと問いたくなるほど、完璧な作りだった。しかし、相原はそんな光田の勢いをものともせず、対等に向き合っている。物怖じする気配などまったく見えない。
「まさか、ここまで最近の警察は嗅覚がいいと思わなかったな。……しかも、同じ社内に警察が張り込んでるなんて、普通は思いもしないじゃん」
「それは褒めてくれてるってこと?」
「……まぁ、そう取ってくれても構わないけど」
乾いた笑いを周囲に撒き散らしながら、本当にすごいなぁ、と光田は呟く。そんなやり取りを紙一重に感じながら、先ほどまで疎外されていたはずの、一気に二人に巻き込まれた清水は気が気でなかった。
私の首に刺さりそうなものが何か分かってんの!? と相原に怒鳴りそうになる衝動を抑えながら。そんな余計な冗談でも考えていなければ、この修羅場を乗り切れそうにないのだ。
「それにしても、どうして清水さんまで連れて来たの。恰好の人質だよ」
その一言に清水のこめかみの血管は数回大きく脈打った。生々しい音は清水自身にも、もちろん伝わった。
折角、抑え込んでいる衝動が再び煮えくりかえってくるのが感じ取れる。いつもの癖が。
「光田。お前に清水のことをとやかく言われたくない」
清水の中の、憤りは瞬時に動揺へと変化を遂げた。相原の言葉の意味を、その裏をかけばかくほど、動揺は収まるどころか、妙に騒ぎ出す。
――私の思い過ごし……なの?
こんな状況で妙な感情に浸っているのもどうかと思えば思うほど、そのツボにはまる。
「目の前で殺人が起きそうなのに、よくのろけてられるね。さすが、相原さんだ。……まあ、清水さんを刺しちゃう前に、俺がここに来ることどうして分かったのか教えてもらいたいな。俺的にはここまで完璧なプランだと思ってたから」
「俺も知りたいよ。どうして、お前がここに来ること知ってたのか」
「……ち、ちょっと、相原さん。話が噛み合ってないって。どういう意味?」
「そのまま。警察が調べたわけじゃないんだよ。タレコミがあったんだ。どこかの親切な方が教えてくれた」
「…………どうして、知ってるんだ? 誰にも話してないのに……」
その瞬間、清水を捕えている光田の腕の力が抜けた。相原はそれを見逃さず、タガーナイフと光田に向かって飛びかかり、一気に形勢逆転して見せたのだ。
日中の温かさを失ったアスファストに押さえつけられ、光田の体にじんわりとその冷たさがしみ渡る。権威のタガーナイフも、今は敵側へ渡ってしまった。
威勢、憤怒、優越感、武器。すべてが吹き消された火のように姿を消した。ちくしょう、と叫ぶので精一杯。そして、ありったけのものを失った光田の中で、ある後悔が堂々としていたのだった。
――あんなこと……聞かなきゃよかった。
室内は、荒い息遣いが支配していた。ささやかな朝日とものと、それを覆う勢いの高島のものと。二人のうち、思考回路が行き交わなくなっているのは、言わずとも朝日だった。
初めて知った事実。対向している現実。互いの間に変わらずあった真実。
「……そ、そんなこと。嘘に決まってる」
あらゆることを目の当たりにした朝日が訴えることができるのは、ただそれだけ。高島は目を細めて、静かに笑い声を響かせた。
「嘘なわけない。俺はこの目でその光景を見ていたんだからな」
「どうしてお父さんがプロデューサーの――」
「どうしてかって? 水無月岳大は母さんの常連客だったんだよ。あいつのバイト先の隣のスナックで働いてた母さんに、入り浸ってた」
耳を塞ぎたくなるような事柄が、次々と後を追ってやって来る。しかし、動きを封じこまれている朝日は耳を塞ぐことなどできやしなかった。
「そうしてるうちに、あいつと母さんは客と従業員の道から反れていった。……俗に言う、不倫関係。あいつは自分の家庭環境に耐えられなかったんだろう。そんな奴に母さんはすべてを捧げるようになっていったんだ。俺たちのことを忘れて、家庭内暴力をするだけした末に病死した父さんも忘れようとしてるみたいだった」
高島は溜めこんできたすべてをぶつけた。絶望の淵に立たされている朝日に追い打ちをかける。何か支えを必要としている水無月岳大の娘。
――洗いざらい吐き出してやる。もう死んでしまいたいと思わせてやる。
そう憤る一人に、後ろから銃を構えて狙い撃とうとしている一人が、高島の中でせめぎ合っていた。
――止めろ。そんなことをしてどうする。自分と同じ目に合わせたいのか。
なんてみっともない争いをしているのだろう。結局、いつまで経ってもピリオドを打てずに、右往左往、四方八方。どうにもできない。そして、このまま。ずっと。
だから言ったろ? 余計なこと口にするなって。あれほど言ったのに。俺をどうしたいんだよ? 憎しみと恨みだけで今まで食ってきたこの俺を。
――俺をどうしたいかって? そんなの、俺に聞かなきゃわからない。……「俺はどうしたい?」
擦り切れていたおぼろげな地方新聞。一面トップ。その裏に詳細。
その文章が写された記憶を消した消しゴムの黒白マーブルのカスさえ、もう見ないと誓っていたのに、こんな形ですべてがありのままに戻されるとは思ってもいなかった。
「水無月岳大」「スナック従業員」「刺殺」「自殺」。そして、浮かび上がる「高島理津子」の文字。なにもなかった空間にいきなり現れる。まるで、今日のこの出来事を予測していたかのように、その文字が入るスペースを空けてあったみたい。
「人間は痛さを超えると、叫ぶこともできず、泣くこともできない」
いつか孤児院で読んだ本にそう文字が並んでた。その文字は、いつまでも私の内から姿を消すことなんてなかった。そして、ふとした瞬間に過っていく。今の今もそう。でも、いつもと違うのは、頭の中でずっと回転、リピートし続けているということ。
巣を壊された蟻が、一気に巣穴から逃げだそうとする光景に似ていると思う。私の脳内は。
「どうして? どうしてあなたはそうなの?」
「……なにがだよ」
「なにがって、自分が一番よくわかってるじゃない。私が言わなくてもわかってるはずよ」
「わからないものは、わからない」
「…………あなたの……あなたの奥さんに、自分の気持ちをどうして言えないの!?」
久しぶりに荒げた母の声に、俺は遠い意識の彼方から帰って来た。隣で鼻腔をくぐりぬけてくる弟の息が、心地よいリズムで刻まれている。やっぱり似てるんだな、なんて弟の寝顔を見て途方もなく考えてみた。初めて会う人達には、兄弟そろって「お母さんに似てる」と言われたものだ。もちろん、あいつにもそう言われた。今、俺と隼人の母を苦しめているあいつに。
「二人とも苦しんでるんでしょう? きっと明日も畑に出て、誰にも頼れないまま仕事を続けていくのよ。父親であるあなたが、身を呈して二人を助けなきゃ駄目じゃない」
「そんなこと、言われなくたってわかってる」
「じゃあ、なんで助けてあげないの。自分たちで引き取るって決めて、引き取ってきたのに……どうして?」
「できたらもうしてる。……してるさ」
「私は子供が二人増えてもやっていける。あなたと一緒ならやっていけるわ。その子たちを引き取って、みんなでまた幸せにやり直しましょう?」
「できたらもうしてるって、言ってるだろう!」
大の男の怒鳴る声は、俺の元にまで地を通して伝わった。いつぶりに聞く怒鳴り声だろうか。
前はあれほど、毎日、聞かない日などなかったくらいに、母の泣き声と肌を傷つける音が響いていたというのに。そんな母を守ろうと、兄弟で立ち向かったこともあったが、そんなのは虫の音にすぎない。父の一振りで一掃された。
あの時の感覚が、隼人と一緒に耳を塞いで泣きじゃくっていた時の感覚が、怒鳴り声と共に俺を一瞬にして染めた。どうして、母は怒鳴られなければいけないのか。なにも悪いことなんかしてないじゃないか。
幾度となくこんな言い合いと接してきた俺には、母とあいつがどんな理由で争っているのかすぐに見当がついた。今までの二人の会話から、あいつの家庭状況も容易に想像することができたのだ。だからと言って、子供である自分が大人の二人の話し合いに合いの手を入れるわけにはいかない。なにせ、まだ二人の何分の一しか生きていない人間なのだから。
現時点で俺にできるのは、その状況を聴いて見守ることだけ。「現時点で」とかいっても、いつもこうだ。
――どうして俺はこんなに幼いのだろう。
その言葉が毎度のように、尚秋に圧し掛かる。
どうして何もできないのか。どうして、俺はもう少しでも大きくないのか。そうしたら、助けられるのに。母に迫ってくる全てから、母を守ることができるのに。どうして……どうして。
父が母に暴力をふるっていた時もそうだった。痛々しいほど様々な濁点音、反濁点音が室内に充満しているというのに、俺も隼人も何もできなかった。やめて! と母を守るように父の前に立ちふさがってみても、父の逞しい腕の一振りで呆気なく追い払われてしまう。それでも到底かなわないであろう父に立ち向かおうとするが、母が父に懇願するのだ。
――やめて、この子たちには何もしないで!
完璧に逆効果だった。そんなシチュエーションを余計に生み出してしまう自分に、更なる苛立ちを覚えた。
自らの無力さ。大事な人も守れなくて、一体、俺は何のために生まれてきたのだろう。
「…………自分の子供なのに」
母はひたすら嘆きを漏らす。受け取り手もない、流されっぱなしの嘆きを。襖の隙間からは、落胆の際骨頂ともいえる母の表情が見受けられた。母さん、俺は母さんの言ってることが最もだと思うよ。
「理津子まで、俺のなにもかもを奪うのか」
ぼそり、と低音で発せられたその言葉に、母と俺は耳も目をも疑った。あいつは何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかない。分かるのは、その言葉には明らかな静かなる憤怒が含まれていることだ。
「俺を奪うのか」
「……何のこと?」
「やっと俺の……水無月岳大として生きられる権利を奪うのか」
「何を言ってるのよ。 自分の子供のためなら、なんだって投げ売れないの?」
「俺は今までそうやってきた。だけど、もう耐えきれない。祥子と子供たち……すべてに疲れたんだ。…………俺は新しくやり直したい。理津子と一緒にやり直したいんだ」
「……あなたは、もっと全てにおいて優しさに溢れている人だと思ってた。そこまで自分のことが大事な人だなんて、思ってもいなかったわ! 例え血が繋がっていなかったとしても、自分の子供でしょう?」
「でも、俺は――」
「自分の子供でしょう!?」
「お前まで……お前まで、俺としてのこの時間、人生、身体を奪うのかよ!!」
そう言う台詞の勢いが家を揺るがせたかと思うと、襖の向こうで重いものがその精一杯の重量を目下で素早く押し付けられるような、いろんなものを含んだ不協和音が俺の耳に飛び込んできた。
蜘蛛の糸も震えないような静寂な振動が、古びたこの家を満たす。聞こえない恐怖が忍びながら駆け足で、俺をあっと言う間に覆いつくした。抑えきれない、おさまりきらない衝動が見守っているだけの俺を突き動かし、目にもとまらぬ速さで襖を開けさせた。
そこには、時間の流れが遅い世界が存在していた。全てがスローモーション。母はこちらに背を向けて立ち膝をしていた。しかし、その姿にはどこか力がないように見えた。そして、どことなく母の身体はゆったりと波打ちながら、ふわりと音もなく色褪せた畳の上に体を預けた。その真正面には、あいつがテーブルの上にあったはずの果物ナイフを右手に握って、仁王立ちしていた。ナイフは紅く鈍い光を放って。
「……母さん?」
やっと出た言葉。ゆっくりと母の傍に歩み寄る。あの時、何で歩いたのだろう。何故、走るような必死さは姿を現さなかったのか、今だにわからない。とにかく、母の近くに行きたかった。
「具合でも悪いの?」
場に似合わない言葉。俺は何を言ってるのだろう。何故、あんな言葉を口にしたのか。あいつの手に握られているものを見れば、すぐに分かるというのに。
母をひたすら揺する。畳に突っ伏している状態のまま、一言も喋らず、俺の生じさせる振動に操られるだけ。薄手のパジャマがなんだか湿ってきたのを、その動作の中に感じ取った。そこへ目を落とすと、辺りにじんわりと紅い血(はは)が浸み渡っていたのだ。畳の目に沿って、幾筋かの紅染めの線ができている。その先には、滴り落ちる雫。たどると、それはあいつの握る紅い果物ナイフだった。
次第に俺の声色と生じさせる振動は荒くなる。
「母さん! 母さん!!」
胃を絞られている想いだった。あいつは自分の犯したことに奇声を上げ、果物ナイフを放り投げるとすぐに姿を消した。その足音で、家を満たしていた静寂と時間の流れは一気に元に戻った。すると、俺の中に言いようのないものが瞬時に湧き上がってくるのが感じられたのだ。焦燥感と言えば一番近いだろうか。それに追われながら必死に俺は、母さんと呼び続けた。
「母さん、どうしたの!」
その声に目を覚ましたのか、隼人が目を見開き、顔を真っ青にして突っ立っているのが目に入った。隼人の両腕にはいつも抱えて寝ている、母の愛しい香りが詰まった枕を持ったまま。
「隼人、で、電話! 救急車!」
震える声で俺は叫ぶと、隼人はテグスで引っ張られる魚のように、電話の方へ吸い寄せられていくと、小さな指で1・1・9と押した。泣きながら、隼人は相手に状況を混乱しながら説明し、いったん受話器を置く。ものすごい速さで、母さんの元へ駆けてきた隼人は、俺同様に揺らし、母さんの手を握った。
「はやと……たかあき……」
母さんの声が俺と隼人の動きを止める。辛うじて意識を取り戻した母さんは、握られている手に僅かながら力を込めた。
「ごめんね……母さん、は駄目な母さん……だった」
「何言ってんのさ!」
「もう無理してなんにも喋らなくて言いよぉ!」
「隼人と、尚秋は……母さんの宝物だよ。……いつまでも……母さんの子供――」
限りある力を振り絞って母さんはそう告げると、全身から力を抜いた。その瞬間は、俺と隼人にも手に取るように感じられた。三人の大好きな家には、幼い叫び声と泣き声が混じり、モスキート音さながらの低周波が全てを揺るがした。その微かなものを消し去る勢いで、サイレンが町を満たしていたのだった。
一通り話を聞かされた朝日は、自分は今、一体、何を見ているのかわからなかった。ぼんやりと霞む情景。でもその中に映る、高島のどこか苦しげな表情はとてもはっきりとしていた。
そんなに一気に真相を詰め込まれたって、私は、どうにもできない。
混乱している朝日を目の前にしながら、高島はさらに顔を歪める。息遣いもどこか荒々しい。
互いの思惑をにじり合わせ、その挙句、互いにどうすることもできない。苦し紛れの一刻が過ぎていく。
「俺は、あいつの家族に母さんの復讐をしようと誓った。俺たちと同じ目にあわせるんだって。弟とそう約束したんだ。俺たちはこの復讐を成し遂げるためだけに今まで生きてきた。水無月朝日、水無月都を殺すためだけに」
「……もしかして、その弟って――」
「そう。光田翔太郎。お前の同期だ。隼人――いや、翔太郎が水無月都を探し出して、すぐさま始末するはずだったんだ。だけど、お前と水無月都が再会して、それが狂ってしまった。だから、先にお前を始末してしまおうってことになったんだよ」
いつかに、局内ではなにも関わりがないはずの高島と光田が真剣な表情で会話を交わしていた光景が、朝日の中でフラッシュバックした。
その一方で、悪意を含めた笑みを繕おうと口角を上げようとするが、高島にはどうにもそれがうまくできなかった。朝日の黒眼が小さく震えているのは、最も近くにいる自分にしか分かるまい。
「早く……」
霧の彼方から聞こえるような声さながらで、朝日は音を発した。
「早く、私を殺してください」
高島は己の耳を疑った。一体何を言っているのだろうか。
そう考えている瞬間、高島の身体にみなぎっていた憎しみからの力が、ふと抜けた。拍子抜けした時の人間のように。
「プロデューサーと翔太郎の敵である私を、その目的の通りに、始末してください」
自ら志願するこのシチュエーションを、復讐心に燃えていた日々の中でどうやって想像し得ただろうか。相手が苦しみ悶え、救われるために懇願している姿だけを生きる糧にしてきたというのに。
「今、いろんなことを知ったけど、本当は私、すごく幸せだったんです」
――『幸せ』?
一番予想もしていなかった言葉。
「就職してから、自分になれる場所がやっとできて、過去にとらわれず自分であり続けられることがすごく嬉しかったんです。すべてが充実していました。……それに嘘であろうが、誰かを好きになって誰かに好かれることも初めて感じられた。正直に人を愛することができたこと……すごく幸せでした」
――……何を言ってるんだ? そういうことじゃない、俺が、俺たちが願っていたことはそういうことじゃない……。
「ずっと遠い存在になっていた都とも再会できて、私の思いを素直に伝えることができた。それも、どんな理由であれ、プロデューサーと翔太郎が私たちを導いてくれたからだと思うんです。本当に私は幸せだった……。だから、このまま、幸せなまま、誰かに愛されているまま……殺してください」
高島の呼吸が一瞬止まった。朝日の『殺してください』の一言がスローモーションのように語られるのと共に。高島の目には、すべてがゆっくりと流れているように感じた。しかし、コチコチと音をたてる安物の黒い置時計の秒針は通常通りに時を刻んでいる。
それから一呼吸置くと、今までの計画のプロットが素早く、息もつかせぬ速さで巻き戻されて行く。自分の想定内に行われた出来事。自分の想定外に行われた出来事。そのすべてが一気に。
止めろ。やめろ。……ヤメテクレ!
高島は壁に押し付けていた朝日を壁から引き離し、床に叩きつけ、その筋も透き通って見えそうな首にナイフの切っ先を紙一重で差し向けた。あまりの勢いに、朝日と高島は、うっ、と声を漏らした。
「黙れ!!」
高島は目を見開いて声を荒げる。胸を締め付けられっぱなしの中で、首を絞められている途中につく呼吸を再現しているかのようだった。
一人の男の中では様々なものがせめぎ合っているのが、朝日を精一杯睨む瞳の中に見てとれる。真逆の感情、思惑が青い火花を散らしていた。陽と陰、プラスとマイナス、熱と寒。一体、それはどちらなのか。自分自身がわかれば、こんなに苦しむことなどないのに。
「苦しめ! 苦しめよ!! このために俺たちは一生を売り払ってきた。お前らの苦悩に歪む姿だけを糧にな。苦しめ!! 苦しむんだよ!!」
――尚秋、彼女の言っていることがわからないのか?
……うるさい。黙れ!
――なんでそんなに強がってるんだよ。お前の本当の気持ち……俺がわざわざ言わなくても自分でわかるだろ? もう痛いほどにいつも味わってきたもんな。
何のことを言ってるんだ。俺は翔太郎とこの瞬間のためだけに力を合わせて生きてきた。……もう誰にも止めさせはしない。
――じゃあどうして今、彼女を刺してしまわないんだ? もう少し手を下に下げれば、お前らの憎くて仕方がない奴の片割れを始末できるんだぞ。……殺れ、早く殺れよ。
……うるさいって言ってるだろ! 俺の意思で殺るんだ、お前に指図される必要はないっ!!
――そんなことを言ってるけど、本当は殺れないだけなんだろ? 思うところがあって、実行できない。ただそれだけじゃないか。
……『ただそれだけ』?……そんな、身も蓋もない……そんな言い方……
朝日の額に何かが落ちるのが感じられた。どこかで感じたことのある温もりを秘めた何か。真っ正面にいる高島に焦点を合わせると、その何かは高島が生み出したものだということが一目瞭然だった。
涙。
なんで……どうして泣いているのですか。何があなたを苦しめているのですか。そんな表情をさせるモノは何なのですか。
朝日の脳裏にいつしかの光景が甦った。器をひっくり返したような大雨が朝日と高島を染めた日のこと。その中で、高島が何も言わず、何も言えず、ただ朝日を抱き締めたあの日のこと。
高島の温もりとも冷たさとも言い難い温度に包まれていた時、朝日の肩はこの涙と同じものを感じた。そう。まったく、この涙と同じものを。
――もしかして、これはあの時から。……高島プロデューサーを苦しめていたものは、今、目の前にしているこの苦悩だったの?
歯を食いしばる音。ナイフの柄を握りしめる音。目を精一杯に見開いている音。そのすべてがトーンは違えど、同じものに違いなかった。きっと、今このとき、高島の内を力いっぱいに締めている音と同じなのだろう。
高島は苦しめられていたのに、自分は何も気付けなかった……しかもその原因が『水無月朝日』。自らであるという事実は、朝日の脳天からつま先へと一気につんざいた。そして、朝日の皮膚から内の中はすべて、皆無と化する。
「幸せだった」ついさっき高島へ向けた朝日の想いの束は、高島にとって最後の、トドメでしかなかったのだ。
――……なんて私は、自分勝手だったの。
ううっ。
よく耳を澄ましていなければ聞こえてこないような呻きが、高島の肺から生じた。音響が何もなかった室内に久しぶりに起きる振動。
すると、朝日の首筋に向けられていたナイフを持つ手が、一気に高島の左胸にぶつけられた。その勢いで、ナイフは朝日の左腕付近にカラカラと音を立てて落ちる。支えにしていた高島の左腕はがくりと力を無くし、朝日の胸にその身体を預けた。
「……た、高島プロデューサー?」
朝日は身を起し、自らの胸に倒れ込んだ高島を揺する。先程とはまた違う苦しみにとり憑かれている高島は、一切動ける気配がなかった。ただ、詰まる息遣いが聞こえるのみ。
「プロデューサー、どうしたんですか!? プロデューサー!!」
高島は朝日の体の上でゆっくりゆっくりと仰向けになると、どうしていいのかわからない朝日の表情を見つけた。必死に声を荒げ、何かを言っている朝日。背景が霞み、声が膨張し、感覚が鈍る。ぼやける何もかもの中で、朝日だけは何とか見えた。何とか見たかった。何としてでも、朝日だけは。
朝日の膝の上でいくら息を吸っても、吸った分同等に吐けない状態になっている高島。どうして、いつ、なんでこうなってしまったのか朝日には見当などつけようとしても、つけるはずもなかった。自分の手ではどうにもできないと悟り、『救急車』という言葉がやっと浮かんだ朝日は、ポケットから携帯電話を取り出し1のボタンを押そうとしたとき、高島の手が素早く朝日の手を捕らえた。
「電話……するな」
震える声でやっと話す。朝日は泣きながら、でも、でも……と言うのみ。
「やめろって……言ってんだよ!」
残り少ない僅かな力で荒げる高島。また高島の内でもう一人の自分が憤慨しそうなところを、一瞬でねじ伏せた。……最期の時間を、邪魔されたくないんだ……例えそれが自分であろうが。
「……俺の…………俺の、名前を……呼んで」
「えっ?」
「………名前、俺の……」
「……尚秋……」
高島は朝日の手を力なく握る。
「…………もう一回」
「尚秋……」
もう、いつもの体温じゃない。
「もう一回……」
「尚秋……尚秋」
聞こえる。俺の名前が、
「まだ……」
「尚秋、尚秋」
この声で、ちゃんと、俺の名前が、
「まだ……まだだ」
「尚秋、尚秋、尚秋……尚秋」
届いてるよ。
「……もっと」
「尚秋、尚秋……尚秋、尚秋、尚秋」
「…………」
体温が、私に、伝わってる、少し、冷たい、
「尚秋、尚秋……ごめんなさい、尚秋、尚秋」
「……ずっと、呼んでて……忘れないで」
ああ、弱くなる、力が、だんだん、
「忘れない、尚秋。尚秋、忘れるはずないよ」
「ごめん……俺…………正直に、なれない」
泣かないで、温かい、涙が、私に、触れてるよ、
「ごめんなさい本当に。……尚秋のこと、何も気付けなくて」
「俺、悪い……」
やめて、力がもうない、いかないで、
「尚秋、もう何も……何も言わなくていいよ」
「……俺、言う…………朝、日」
「…………」
初めて呼んだ、朝日の名前、良い音、好きな音なんだ。
「……朝日…………生まれてくれて…………ありがとう」
水道の蛇口の傍らで小瓶の中にある薬が、シャラリと鳴った。
2009/06/19(Fri)15:34:13 公開 /
春野藍海
■この作品の著作権は
春野藍海さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
題名の和訳は『心と裏腹に』。テレビ局某ドラマ企画部に勤める『水無月朝日』は、新人故にを雑用ばかりだったが、自分の仕事にやりがいを持っていた。そして、部の最高責任者である番組プロデューサーの『高島尚秋』に憧れ、尊敬していた。いろんなものに囲まれながら、仕事に励んでいる彼女のもとへ、あるとき妙な電話がかかってくる。そこから、彼女の時計の針が狂い始めた…
**主な登場人物**
水無月朝日<AsahiMinaduki>
高島尚秋<TakaakiTakashima>
清水佐夜香<SayakaShimizu>
相原浩介<KosukeAihara>
光田翔太郎<ShotaroKouda>
濱野杏子<KyokoHamano>
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。