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『Jenny Wren』 ... ジャンル:ファンタジー 時代・歴史
作者:みーな
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あらすじ・作品紹介
戦争はつづく。ひとの愚かさを背負いながら。朽ちてゆく翼さえも、春を待たぬまま、踊りくるう炎に焼かれてゆく。薬莢の音が、きみの世界を切り裂いてゆく。争いは、おわらない。
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「私は神を信じない」
ジョン・レノンはそう歌い遺して死んだ。
神に近い人間、というものにふと出くわす事はたまにある。それが運命であろうが、偶然であろうが、はたまた誰かが仕組んだ策略であろうが、結果に変わりはない。しかし、神の領域は遠すぎる。神に近い人間と言う存在もただの比喩表現である場合が多い。領域に人間が踏み入れる事は出来ない、生者の意思では到底不可能なのだ。神に近づきたければ死ねばいいが、しかし魂のみの分離、すなわち死というものは、決して神の域ではない。何故ならそれは精神世界の問題であるので、創造者であるとされる神の地位に及ぶには小さすぎる。人間は、自らを生み出した父なる主になる事は出来ない。宇宙船で空から地球を見下ろし、神になったような気分でいるだけだ。
神は、人間の愚行をどう見るだろう。自分の生み出した生き物が、互いにくだらない理由で争い殺しあう姿を、まさか平然とした目で見下ろしてはいないだろう。祈りを捧げる者を、神は救う。愚かな狼は、マタイの福音書通り、狭い門を見つけ出す事は出来ない。
所詮虚像に過ぎない神は、死んでも自分の足元に来ないこの愚かな生き物を、何のために作り出したのか。何故神は、生と死の概念を生み出したのか。生き物は必ず死ぬ。今現在、人間に求められているのは、その死を回避するための医療技術の開発だが、しかし延命は可能でも死は避けられない。この必然はどこから生まれたのか。何故生き物は生まれ、死ぬのか。その絶対的受動の先に、何があるというのだろう。 闇か。光か。それとも、永遠か。
人は生病老死においては受動側にいる。自分の意思で生まれて死ぬわけではない。人間の手によって人間が殺されるこの世界で、生きる目的を見出せない中、さらにその必然性に巻き込まれている中、本物の生死の動きは決して人間の手によるものではなく、自然に成立して然るべきものと、我々は再認識せざるを得ないのだ。
引き金を引くことに戸惑いを覚えたのはいつからだろうか。戦車のキャタピラーの跡が残る廃墟の街で銃撃戦になると、必ずどこかで指が止まる。逃げるには重荷になる武器、それこそ拳銃から爆発物に至るまで、両手を振って出来るだけ遠くに逃走するためには必要ない物は全て捨てて、全力で走り去る兵士達。恐怖におののいた敵軍は、初めは怒涛の人数だったが、こちらの一方的な攻撃に尻尾を巻いて次から次へと撤退していく。前方を横付けに並んで銃を連射する歩兵のすぐ後ろで、一分間に二百発もの発射能力を有する機関砲、ガトリング・ガンがけたたましい爆音を連続で鳴らしながら、逃げ惑う兵士たちの身体を無差別に貫いていく。僕はその前に並んでいる歩兵列のほぼ中心に配列されている。片手で持てる程の小さな拳銃で、防弾チョッキを着ていない腕や足、あるいは首元を狙って撃つなど、容易い事だった。
それを、ほんの一瞬ではあったが、戸惑った。その瞬間、銃口がぐらつき、撃った弾は敵兵に当たるはずもなく、周囲の民家の壁に食い込んだ。僕はその時、何が起こったのか分からず、普通ならその一発で撤退していく敵兵の一人ぐらいは殺せたはずなのに、大きく的を外れた事に驚き、少し銃を降ろした。そんな僕の様子を、他の仲間の兵達が横目で見たが、すぐに連射にかかった。唖然とする僕の左右背後から銃声が何度も響く。僕はグリップから片手を離し、しっかりしろよ、と呟いて銃身を手の平で叩く。そして、もう一度銃口を目の高さまで上げ、片目を細めて焦点を合わせる。ロック・オン。火薬の爆音と共に発射された銃弾は、手前の兵士の肩を掠め、破れた防弾チョッキの間からおびただしい量の血が爆ぜる。敵兵はその場に呆気なく倒れた。
大して動いてもいないのに、酷く疲れた気がする。血を見る事は慣れていた。既にこの世界は、血で血を洗い、剣が世を切り開き、拳銃が国を守る唯一の方法となっていた。そんな薀蓄を延々と上官から聞かされるのも、そろそろうんざりしてきた。僕は只、言われるがままに、命ぜられるがままに、国を侵略する他国の軍を押し返し、銃を向けられるならこちらも銃を、そしてその敵兵に照準を合わせる。僕と同じ、生きている人間に。返り血の上に別の返り血が重なる。老若男女の見境無く、ただ、命あるものを殺す。宣戦布告を聞き入れた国同士、降参するまで戦いは続く。終わるまではただ、僕たちのような雑魚のゴミ同然の兵だけで、敵国の進撃を身を挺して防ぐだけだ。どれだけの血を流そうとも、上官は安息の時間を与えようとはしない。僕たちは、使い捨てなのだ。憎しみが憎しみを呼ぶ、意味のない諍いの渦中で、叫びを聞き入れられないままもがいているだけ。この弱肉強食の戦争の時代の中で、僕達のような人間がまともに生きていけるはずが無いのだ。
「ラスティ、浮かない表情するなよ」
気づかないほど静かな声で呼ばれ、肩越しに顔だけで振り返った。馴染みの戦友が、色素のない熱いお茶を持ってきてくれた。僕は無言でコップを受け取り、飲もうともせずに再び座り込んだ。お前、昨夜の衝突で、途中で撃つ気をなくしてただろう。そんな彼の言葉に、僕は曖昧な返事しか返さなかった。自然に地面から生えてきたような大きな岩に、片足をついて乗る。この辺りまで過去に戦火が回った事は無かったのだろう、インクを落とした点のように小さくはあるが、可愛らしい花が岩の周囲に点在していた。それらがまるで、校庭で無邪気に遊ぶ子供達のように、絡み合いながら風にそよいでいる様をじっと見ていた。手にしたコップが少しずつ温くなってきたのを感じ、一口だけ飲んだ。古い茶葉を何度も繰り返し使っているのか、味など殆ど無かった。まして物資も満足に供給されないこの戦地で、まともな食事など取った事がない。住民が逃げて廃屋となった民家から食料を見つけた時は、軍の人間全員で寄ってたかって奪い合ったものだ。戦争はますます激化していく一方で、上の人間ですら生活が困難になりつつある。庶民ならコーヒーを一杯飲むのにリヤカー数台分の金が要る。国のために戦っているという主張の元で軍は成り立っているが、所詮は国の崩壊を招いているだけじゃないのか。民衆を巻き込みながら、犠牲にしながら。僕は募る疑問を持て余していた。
僕は横目で軍用テントの方を見た。昨夜の敵軍との銃撃戦で負傷した仲間の兵が、渇いた血で全身を真っ赤に染められ、簡易ベッドに横たわっていた。麻酔も無しに縫われたらしい腹の乱雑な縫合の傷が膿んで、毒々しく変色していた。その傷口は、フォークで何度も突き刺してぐちゃぐちゃにした生の赤身のようだった。放り出された肉の塊。腹以外にも、黒々しい抉れた痕が無数にあった。血まみれなせいで、彼一人の身体がそのまま、潰したあとの完熟トマトに似ている。あいつはあと数時間も持たないだろう。仲間がそうやって命を落としていくのを、これまで飽きるほど幾度も見てきた。あと少しすれば、膿んだ傷から蛆虫が大量に涌き、腐りかけて柔らかくなった彼の肉を食い荒らしながら成長する。その頃にはもう、彼の命はない。そうやって誰にも見守られないまま死んでいく兵士たちが、この世界には大勢いる。敵の銃弾に倒れた者もいれば、薬も無いまま病死した者もいる。徴兵で連れて来られた若い少年の兵たちの中には、自ら自殺を図る者もいた。死んだ兵の中には、僕が鉛を撃ち込んだ奴も多数いるだろう。ここ数年の戦争の中で、僕は数え切れないほどの命を消した。本気で兵士になった奴もいれば、誰も殺す気などないのに徴兵されて来た弱々しい少年兵もいる。それでも僕は容赦しなかった。相手が誰であろうと、自分の命が脅かされるなら、それを防ぐまでだ。
人間も、少しずつ崩壊への階段を上っていってる。戦前は比較的平和を保っていた民主主義国だったのに、大戦が始まるとそんなものは忘れ去られ、国民は容赦なく徴兵され、一般家庭の鉄や金属は武器に再形成するため没収された。挙句の果てに、大戦後に世界で数多く存在する、経済不況の戦争途上国となった。そんな国の崩壊と同時進行しているのが、人間の崩壊だ。こんな世の中では、誰も信用する事などできはしない。互いが敵同士となった世界で、人間が本来の姿を取り戻せるわけが無いのだ。敵軍は殺す。殺される前に殺す。僕は納得がいかなかったが、そうでもしないと僕が殺される。殺戮を何年も繰り返しているうちに、死と生の概念が完全に僕の脳から消え去っていたのかも知れない。こうやって、ひとつの目的を脳の中にプログラムされた僕の命に、意味はない。この目に映るものに意味はない。発する言葉に意味はない。命そのものが意味などないものとして、徴兵された少年時代から強くインプットされている。人形だ。何本もの糸で操られ、戦わされる。群衆はチャンバラごっこをする人形に興味を示さない。壊れ、糸が切れたら、そのままゴミ箱に捨てられる。僕らはそんな存在だ。命を持たないマリオネットだ。映像のように日常が繰り返されていくのを、僕はただ、冷たくも鋭くもある目でぼんやりと見つめているだけだ。
小さな息を繰り返す、腹を縫われた男は、そのぱっくり口を開けた傷口の周りにたかる虫たちの存在に気がついているのだろうか。いつか彼も死ぬ。誰にも気づかれないまま。彼の死に興味はなかった。僕は温くなったお茶を一気に飲み干して、コップをテント内にある折り畳みテーブルの上に置いた。少しずつ高くなりつつある太陽を前に、西の方角へ散歩に出かけた。他の兵士たちは、焚き火の周りに集まって楽しく雑談を交わしたりしていたが、その輪の中に入ろうとは思わなかった。日が高い間はどちらもあまり攻撃を仕掛けたりしない。夕方に仮眠を取り、日が暮れて視界が悪くなった頃に襲撃が一斉に起こる。それを分かっていたから、昼間は少しだけなら周囲をうろつく事が出来た。軍用テントの西側には、かなりの高さの丘が居座っている。丘を登っていく僕の背中から、ラス、と誰かが名を呼んだが、僕は無視に徹した。
丘は比較的緩やかな傾斜で、至る所に小さな花が咲いている。一面に花園の如く咲き乱れられるより、控えめな方が美しい。そんな花たちを横目に、どんどん丘を登っていった。行く手を遮るものは何もなく、緑の地面と空しか見えない。なんて綺麗なんだろう、と僕は暫しその場に佇んだ。僕らが駆り出される場所と言えば戦場ばかりで、血と死体の腐臭と、肉が焼けるときに唇にべっとりと張り付く皮脂の感触しか残っていない。忌まわしい。あの嘔吐感は、中学校の理科の実験で吐き気を誘った腐乱臭を嗅いだ時に似ている。喉からせり上がってくる異物。しかし、この場所では、世界各地で繰り広げられている大戦の禍々しさや憎しみを微塵も思わせない。さっきまで軍用テントの範囲内を包んでいた血の匂いも、丘を登るに連れ薄れてきた。芳しい植物の匂いと、温かな風と、優しい光が溢れている。冬も終わりかけの乾いた風に揺れる花は、あまりにも、汚れた僕とかけ離れすぎていた。僕は、銃のグリップを強く握る事に慣れてしまったこの手で、可愛らしい花たちを摘む事はできなかった。戦争の恐怖に苛まれることの無いこの美しい場所は、僕のような軍の人間がいるべきところではない。見渡す限り明るい緑の丘が続き、小さな花が点在し、青空を仰ぐことに何の躊躇いも生まれないこの場所は。せめて心無い戦火がここを荒らすことがなければいいんだけれど。そう願いながら踵を返し、丘を降りてその場を去ろうとした。
空耳かと思われるほど微かな音で、旋律が聞こえてきた。風に掻き消されそうなほど小さな音。それは最初は途切れ途切れに聞こえていたが、丘を更に登るに連れて、はっきりとした楽曲を成した。僕は音の欠片を拾うため、丘を駆け上った。少しずつ耳に上手く届く旋律。何も知らない僕の耳をくすぐる、美しい音楽。登るほど急になる角度の丘は、筋力の十分ある僕でも息切れする。それでも僕は、音の発生源を辿るため、丘を駆け上がり続けた。弱々しい花を踏まないように、気を配りながら。
やっと丘の頂へ辿り着いた時には、草の上に倒れ込みたいほど疲労が積もっていたが、しかし、そんな余裕はなかった。丘を登りきった頂上は狭く、高さ十メートル以上はあろうかという緑豊かな巨木が一本だけそびえ立っている。多い茂る葉の量は途轍もなく、小さな家の屋根ほどはあった。緑の地面の上に作られたその影の上に、葉の間から漏れた太陽の光がいくつも地面に小さな白い斑点を落とす。幹の太さも、大人が何人も手を繋いでやっと一周できるかというほどだった。樹齢は、相当なものだろう。その巨木の根元に、一台の、古びたグランド・ピアノが置いてあった。所々塗料が剥がれ落ち、木目があらわになっている。戦火で焼け落ちたものなのか。後ろ向きなのでよく分からないが、ほとんど崩壊寸前の状態だった。ピアノの反対側に丘の傾斜はなく、直角の切り立った崖のようになっていた。丘とはいえ標高が高く、飛び降りれば骨の一本でも折れそうだ。
僕は旋律が耳にはっきりと聞こえてくるのが分かった。ピアノの優しいメロディー。これほどまでに崩れ落ちたピアノでも音が鳴るものかと、僕は一瞬疑った。しかし明瞭に伝わる音。ベースとメロディーがほとんど同じで、暗く悲しい曲である。僕は疑惑が頭から離れないまま、そのピアノに歩み寄った。
ピアノの正面には、椅子があった。その上に、さらに高さを補うように太い倒木が置かれている。そのさらに上にちょこんと座っていたのは、長いブロンドヘアーのかわいらしい少女だった。見た所、年齢は十歳前後。装飾の一切無い真っ白な長袖ブラウスを着ている。高さを補っている倒木と椅子の上に座り、ピアノを弾いていた。
だが、それは手の指によるものではなく、彼女は足の指で鍵盤を叩いていた。普通の人間なら到底辿りそうもない域まで指を開き、器用にエボニーとアイヴォリーを区別して、美しい旋律を奏でている。彼女の手はだらりと体の横に吊り下がり、まるで神経が通っていないようだった。服のサイズが合っていないのか、袖から手が見えていなかった。上手く高さを補っている倒木のおかげで、彼女はちょうど座った足先が鍵盤に届くようになっている。
奏でられる音楽は、淋しく、聞くだけで涙が出てきそうな、戦場には似つかわないメロディーだった。彼女はそれを、少女とは思えない大人びた無表情で、一心に弾いている。そして、薄っすらと開かれた小さな唇からは、ときどき歌詞と思われる歌が漏れる。喉に引っかかって、よく分からない。僕はその音楽を、静かに佇んで聞いていた。
だが、最後のバースを終えたところで、彼女がふとこちらを振り向いた。そして、たった今僕の存在に気付いたのか、急に幽霊を見たように真っ青になって、椅子に置かれた倒木の上から転げ落ちた。派手な音を立てて草の上に落ちた彼女を見て、僕は慌てて抱き起こそうとした。だが、彼女はぎろりとこちらを睨みつけ、それを拒んだ。一瞬怯んでしまった僕などお構い無しに、彼女は足二本だけで体操選手のように軽やかに起き上がった。リレーのクラウチング・スタートのような姿勢で、僕を睨み警戒態勢を敷いている。長い髪が乱れて、顔を半分覆い被さっている。
僕は彼女の目に威圧され、退く事も手を貸す事も出来ないまま、その場に立っていたが、初めて僕は彼女の腕に気づいた。フリル付きの長い袖は、風や彼女の動きに合わせてはためく。干してある洗濯物のように。風に乗ってばさばさと暴れ、複雑にねじれる。そしてようやく僕は悟った。
彼女、両手がないんだ。
とにかく彼女を落ち着かせようと、腰に差していたハンディガンと手榴弾を取って、地面に捨てた。そうすれば攻撃しないという意思表示ができる。僕は空になった手を、顔の高さまで上げた。さすがに迷彩服や防弾チョッキを脱ぐには時間が足りなかった。
「ほら、僕は何も持ってないよ。だから怖がらないで。君を攻撃したいわけじゃない」
取り繕った笑顔で彼女に優しい目配せをすると、彼女が少し警戒を解いた。今にも駆け出しそうな姿勢から、ぺたんと草の上に座り込む。目はまだ厳しさを放っていたが、僕は構わず、彼女と同じようにその場にあぐらをかいて座った。僕は命ぜられない限り、無関係の人間をいきなり殺したりはしない。旋律につられてここに来た事を伏せ、あくまで偶然出会ったように装った。
「さっきの曲、素敵だったよ。君が作ったのかい?」
精一杯の会話だった。美しい少女はそれの回答を拒まず、素直に首を振った。まさかとは思っていたが、予想通りの言葉返しに、今度は次の話が見つからなかった。
「戦争が始まる前に、ピアノでも習っていたの?」
「違うよ、これ、お母さんが教えてくれたの」
彼女が始めて会話として口を開いた。その声は砂漠の上を転がる鈴のようだった。ふてくされたような表情は変わらなかったが、僕でさえ美しいと思うほどの子だった。
目が、光っていた。女性特有の媚びた目ではなく、警戒し、そして怯えている光。モノクロの世界を見ている、鈍い光。その瞳の先に何が写り込んでいるのか、僕には分からなかった。彼女の目の中で、光は炎のように一瞬揺らいで燻る。彼女の目から音がする。遊園地で流れる軽やかな音楽、子供たちの笑い声、サイレンのような喧しい高い音、でもそれはチューニングの合っていないラジオのように、時々雑音と共に途切れてはヴォリュームを変動させる。
「君の名前は?」
僕は最初にするべきだった質問を述べた。彼女は暫し考え込み、腕の入っていないカラの袖を風になびかせながら立ち上がり、器用に腕無しで肩や足を使って椅子によじ登って、倒木の上に座った。再び足の指で器用に旋律を奏でる。さっきと同じ曲だった。彼女は無表情で弾きながら、ジェニー・レン、と答えた。
あたしの腕ね、吹き飛ばされたんだ。片方は爆弾で全部なくなっちゃって、もう片方は切り取らなきゃいけないって言われて、切ったの。お母さんが爆弾からあたしを守ってくれなかったら、あたしは今頃足もなくなってたよ。お母さんは背中に爆弾を落とされて死んじゃったんだ。お父さんは、兵隊になって戦争に行ってから、帰って来ない。家も全部燃えちゃったから、お父さんが帰ってきても、あたしのいる場所が分からないだろうな。あたしの家も、近所の家も、友達の家も、みんな無くなっちゃった。友達もみんな死んじゃった。この丘の近くにある町、誰もいなかったでしょ? あの町にあたしが住んでたの。でも、お父さんが戦争に行っちゃってすぐに、大きな戦車と銃を持った兵隊さんがいっぱい来て、みんな町の人を銃で殺していったの。飛行機からも爆弾が降ってきたよ。家がみんな燃えて、町の人はみんな道端に血を流して倒れてて、でもあたしは生きてた。お母さんが守ってくれたんだ。死んじゃったお母さん、よくあたしに言ってたんだ。どくさいせいじとか、しゃかいしゅぎとかは信じちゃいけないって。それは、あたしの町みたいに、悪いことをしてない人たちがたくさん死んじゃうことなんだって。だからあたし、戦争は嫌なんだ。悪い事して捕まったのなら分かるよ、でも、何もしてないのに殺されたら、その人は何のために殺されたの? しゃかいしゅぎって、何のためにあるものなの? ねえ、兵隊さん。
ジェニー・レンは自分の事を語るには能弁すぎた。僕に心を開いて、身の上を話してくれたはいいものの、悲惨すぎて兵士の僕でさえ耳を塞ぎたくなるほどだった。彼女に帰る家はない。待ってくれる人がいない。幼い少女には、耐えられない域のものではないのだろうか。しかし、巨木の根に座って足をジタバタさせ、軽い口調で語るのは、決してうわべだけではなさそうだ。彼女も相当、戦争という事態に慣れてしまっているのだろう。生まれた時から戦争に馴染んでしまっては、それを生活の一部として捉え、何の疑いもなくなる。ましてこんな小さな子供では。
僕は静かにその話を聞いていた。たまに相槌を打つ程度だった。僕ら二人は、幅二メートル以上はあろうかという巨木の幹に背を預け、肩を並べて座り、柔らかな草の上に足を伸ばしていた。ときどき見下ろせるジェニーの横顔が、少女とは思えないほど美しかった。戦火の傷跡すらもない。ブラウスはどこまでも白く、その裾から伸びる足も白く弱々しかった。その小さな姿は、故郷に残してきた家族の思い出を蘇らせる。九歳年下の妹が、彼女に良く似ている。あどけなさが残っていて、元気に庭ではしゃぎまわる姿がジェニーと重なる。まともに食料が手に入らない田舎で、妹の身体も、ジェニーのように痩せ細っていた。
「兵隊さん、名前、なんていうの?」
昨日初めて会ったというのに、そういえば自分の名前を言っていなかった。ジェニーに言われて気がついた僕は、曖昧に返事をして彼女を見下ろした。ジェニーは興味深そうに、かわいらしい大きな瞳で僕を見ていた。そのあどけなさに、僕は軽く苦笑した。
「ラスティ。でもみんな、ラスって呼ぶよ」
「じゃあ、あたしもそう呼ぶことにしよう」
彼女は明るい笑顔を見せた。ふてくされ、傷ついたような表情をする事が多い彼女は、笑うと一層美しく見える。ずっと笑っていてくれればいいのに。戦火を被った世界の頂点で、僅かながら心に残された幸福を逃すまいと噛みしめているようだった。こんな会話が、彼女にとってほんの小さな幸せだったのだろう。
僕は彼女に何も言わなかった。自分を語ることについては弁巧なジェニーの言葉に、僕が挟む隙間は無かった。しかし、悲惨な会話内容に反し転がる鈴のような彼女の声は、この丘の上の花たちや美しい景色を、強く凌駕する。見えない力がある。だから僕は彼女に無意識に惹かれた。一日おいても、僕は再び丘に戻ってきた。彼女はやはりピアノを弾いていて、僕を見つけると嬉しそうに笑った。兵士に心を許したのは、彼女も初めてではないだろうか。
「僕が怖くないのかい?」
アーミーヘルメットを脱いで、汗で湿りを帯びた髪を手で掻きあげながら、一番気になっていた事を尋ねた。彼女の両親や町の住民は、僕と同族の兵士に殺されたのだ。僕の迷彩服に最初は怯え警戒心を露わにしていたものの、今ではすっかり友達気分だ。いくら人懐っこい性格でも、兵士の手によって町が崩れ去る様を目の当たりにしたのなら、その記憶に少なからず影響され、適合する僕に反撃の一発でもしていいものを。まして、その戦火で両手を失ったのなら、恨みは深いはず。
しかしジェニーはけろっとした表情で、首を少し傾げた。彼女に右手があれば、それで頬杖をついたり、頬を掻いたりしていた事だろう。
「あたし、ラスのこと、最初は怖かったけど、喋ったら楽しい人だもん。もし、ラスがあたしの町を攻撃した一人だとしても、あたしは何も言わないよ。ラスは優しいから。あたしの腕を心配してくれたし、慰めてくれたしね。それに、ラスなら、この戦争を終わらせてくれそうな気がする。兵士なんてみんな馬鹿ばっかりかと思ってたけど、ラスなら信じられる。戦争なんてもう嫌だよ。ラスなら、止めてくれるよね。あたしはたくさんのものを戦争に取られたけど、あたしはまだ、あたしでいる。ここにいる。だから平気。あたしがいる限り、あたしが消える事はないんだもん。まだ頑張れるよ、あたしにはやりたい事があるから。世界を変えたいの。戦争ばかりは嫌だ。ずっと崩れない平和と、みんなの幸せを作るの。あたしは自分がやると決めたら、全部やるまで消えたりしない」
屈託の無い笑顔に、僕は激しく良心が痛んだ。それを隠そうと、ジェニーから不自然に視線をそらした。確かに僕は、彼女が住んでいたと思われる町を奇襲した。家々を燃やし、数え切れない住民を殺した。それもこれも全て、この国の政府に対する僕の国からの警告だ。僕らはそのマリオネット扱い。上官から指示されるままに、無抵抗の人たちを殺した。男も女も、幼い子供も、見境い無く。その中にジェニーの家族や友達が含まれていてもおかしくはない。それでも許してくれると言う彼女の寛大さと優しさに、僕は自分の愚かさを呪った。戦争で全てを奪われたのにこれほど優しい女の子がいる傍ら、軍で操られるまま無関係の人間を躊躇無く殺す自分の存在が、途轍もなく残酷に思えた。
僕は昨日、ジェニーの手の事情を聞く前に、何も咎めず、「腕、辛いだろう」と声をかけた。本心からただそう言っただけだ。無意味な戦争の犠牲者を目の当たりにし、僕自身も苦しかった。その言葉が、きっと彼女を励ましていたのだろう。自分が町を襲ったというのに、後になってその犠牲者を慰めるなど、矛盾している。命を知らない僕。意味なく生きている僕。僕は一体、何の為にトリガーを引くのだろう。純粋な子供の存在に触れ、泣きたくなるほど辛くなった。
「ごめんな、ジェニー」
ただ、彼女に対する謝罪しか口に出来なかった。上手く伝わらないかも知れないが、とにかく、彼女を苦しめたのは自分、自分の所属している軍、自分の国だ。悔しかった。戦争の存在そのものが悔しかった。その戦争を起こす世界が悔しかった。何億人もいる中のたった一人の人間に過ぎないけれど、世界のこの場所で苦しんでいる心優しい少女がいる。愚かさの全てを僕は一手に引き受け、彼女に謝罪した。出来る事なら、この場で草の上に膝まづいて、土下座したかった。しかしそんな余裕が無かった僕は、ただ、彼女の隣で、樹の幹に背を預けたまま、呟く程度に言うことしか出来なかった。それでも彼女は、許してくれるのだろうか。
ジェニーはしばらく僕の事を、悲しい目で見ていた。彼女の目には、尻を捲った弱々しい兵士の姿が映っているのだろう。それで構わなかった。狂ってしまえばむしろ本望だった。張り手を喰らえば目も覚めるだろう。彼女は僕に幻滅したかも知れない。全てを、自分のあらゆるものを捨てた兵士の、操られるままの無力な姿に。何も知らない僕の姿に。僕は溢れてきそうになる涙を、必死に堪えた。世界とは、なんと愚かなものなのだろう。ただ一つの分子が支配し、流れるまま成されたこの世、虚無の中で限定された空間。押し付けられた虚偽意識。イデオロジー。その中で展開される独裁は、支配を崩壊へと直結させる無駄な行為に過ぎなかった。
世界は壊れていく。僕らの預かり知らぬところで。自滅の域を辿り消滅する悲しい運命を自ら選んだ人間の、生から死へと直進する過程だった。気づくのがあまりにも遅すぎて、何よりも自分の利益を優先し、そのためには手段を選ばない、下手くそな生き方を繋いできた人間。こんな連結をどこまで続けるのだろうか。与えられた運命の波の中で漂い、流れ着くところまでゆらゆらと、無表情に流れるばかりなのか。
ごめん、としか言えない僕は、無力だ。ジェニーに何を言えばいいのか分からなかった。こんなもので、彼女が許してくれるか。戦争で傷つき、飛び方を忘れた幼いミソサザイ(ジェニー・レン)は、地に這いつくばる事しか出来ない。きっと、これまで彼女は、その小さな翼を精一杯羽ばたかせ、世界の愚かさを見下ろしていたのだろう。しかし、もう彼女は飛べない。傷ついた羽で何をしようと言うのか、ジェニー・レン。駄目だ、飛べない鳥は、生きていけない。ジェニー・レン、君は何を見て来たと言うんだ。何が彼女から、翼を、両腕を、美しい歌声を奪ったというのか。ヒナのままのジェニー・レンは、何を拒んでいるというのか。
長い間、座って項垂れている僕をじっと見つめていたジェニーは、動こうとしなかった。耐え切れず涙を零した僕の目を、ずっと見ていた。彼女の大きな瞳を、僕は直視出来なかった。人は、悔しくても泣くものなのかと、その時初めて知った。
ジェニーは無くした腕で抱くように、僕の傍に寄り添ってきた。そして、僕の肩の上に、そっと頭を寄せた。足を引き寄せ、全身を僕に預ける。彼女はきっと、両腕で僕を抱きしめられない事を悔やんでいるのだろう。閉じられた彼女の瞳は、微かに震えていた。
僕は急に涙が込み上げてきて、それを抑えるために強く目を瞑り、両の腕でジェニーの身体を引き寄せ抱きしめた。戦火で温かい手を失った彼女の代わりに。僕らは只、親子のように、兄妹のように、寄り添って抱き合った。彼女が柔らかい頬を僕の胸にすり寄せてくるたび、目の奥が熱くなった。体温が分かる。火傷を繰り返し感覚を失いかけている僕の手の平が、誰かの体温を感じている。羽を散らして鳥は飛び去っていく。人が青さを奪った空へ。ジェニーはいつも空から、僕らの事を見てきたような目をしていた。彼女が失ったものは多すぎた。僕のように、誰かを優しく包み込む手もない。親を殺され、町を焼かれ、翼を奪われた彼女に残ったものは少なすぎた。身勝手な戦争で一人はぐれたミソサザイは、どこに飛び立っていくのだろう。目の当たりにした愚かさに傷ついたまま、全てを許したまま。優しさを抱いて。僕にはどうすることもできない。引き金を引くことしか教えられていない、最初から翼を持たない僕には。世界の片隅で、戦火にまかれながら、失ったものを手探りに探す。自分の愚かさを呪いながら、嘆きながら。手出しの出来ない世界が車輪のように回り続けるのを、何もせずに見つめながら。
雑音が聞こえる。太い声の男が、聞いた事のない大陸の言語で何かを訴えている。人々の悲鳴が聞こえる。雨が降り続ける。轟音。歓声が聞こえる。中東アジアの言葉で書かれたプラカードを持ったデモ隊の激しい靴音と喚き声が聞こえる。Right!! Right!! Right!! 誰かの口笛が高らかに鳴る。ラジオから大音量で国家が流れる。独裁。ヒトラーの演説。拍手。艶っぽい女の声。オペラ。死体の焼ける音。雑踏のストリートミュージシャン。壁が崩れ堕ちる。喘ぎ声。誰かが、僕に暗示の言葉をかける。チャップリンが、兵士達よ、獣に支配されるな、君達は機械でも家畜でもなく、慈悲ある愛を持った人間だ! と叫ぶ。螺旋状のヘルター・スケルター。調律の合わない壊れかけのピアノ。牢獄の中から助けを求めて叫ぶ。遊園地の音楽。ハウリング。破壊。音を立てて崩れる町。その町の真ん中で、僕は空っぽのまま突っ立っている。地面を転がるたくさんの死体に見向きもしない。耳鳴りがする。空間が渦を巻く。炎の海に沈んだ町。色んな雑音が、ハリケーンのように螺旋状の風になって僕に襲い掛かる。熱い。熱が僕を支配する。瞼が溶けてくっつき合い、視力を奪う。ガラスの破片が飛び散る。暗い闇。片方の羽を失って飛べなくなった、血まみれのジェニーの姿が、黒いカーテンの向こうに浮かび上がる。涙を溜めた大きな瞳。泣かないで、ジェニー、笑っていて。彼女に向かって訴える。僕は手探りで彼女の空っぽの袖を掴んで抱きしめて、耳元で静かな子守唄を謳う。僕は君を愛しているよ、だからいなくならないで、君の痛みを全て受け止めるよ、だから泣かないで、笑っていて、と謳う。雑音を遥かに凌駕して、優しいストリングスが鼓膜を振るわせる。
夜明けに浮かぶ朝もやは美しく、瓦礫だらけの地平線から差し込む僅かな太陽の光を吸収し、白く輝いていた。完全に太陽が昇る頃にはもやも晴れ、視界が開ける。その時間帯が勝負だ。敵軍を全員撤退させる事が出来れば、この潜伏戦も終わる。互いに引きも押しもしない戦いは、こちらの一方押しで決着がつく。しかしこれが戦争の終わりではない事は、誰もが知っていた。世界大戦は、その呼称の通り、地球上のあらゆる国を相手に戦わなければならない。一つの国を差し押さえたぐらいで高飛車になっている国が、真っ先に負ける。勝って兜の緒を締めよ、とは決して間違いではない。今は、とにかくこの国を支配してしまえば、一度は祖国に帰れる。故郷の家に戻る事は出来ないかもしれないが、少なくとも落ち着ける場所が手に入る。目の前の目標を達成するため、まずはここを制圧する事が先決だ。
僕はライフルを背負い、数本の銃と弾丸と手榴弾を装備した。廃墟になった町は平地も同様、この場でもし塹壕戦になれば、負傷者は少なくなるだろうが戦いが長引く。早く勝敗を決める事が、戦争を終結させる最善の手段だ。いつまでも身を隠して進展の無い戦争は、無駄に何年も続くだけ。一旦全軍で会議が行われ、各部隊の配置や指令の合図などが指示される。やはり僕は、塹壕で身を隠しながら敵の歩兵を地道に潰す、一番嫌いな役回りになった。近接戦での銃の扱いが苦手な僕は、どうしても手榴弾に頼りがちなので、臆病だと言われる。
早く戦争を終わらせたい。自分の国が勝つことよりも、それを祈っていた。これ以上、悲しむ人が増える前に。
軍用テントの中で銃弾を装填していると、馴染みの戦友が声をかけてきた。戦の前だというのに、彼は異様に明るかった。ハイテンションを崩さず、僕の頭を鷲掴みにして子供を扱うように撫でる。
「ラス、もうすぐ誕生日だろ。ちょうど二十一歳だよな。おめでとう」
ああ、そういえば、そんな行事もあったっけ。十六歳で徴兵されて、ずっと祝っていなかったので、その習慣がある事すら忘れていた。なんでいちいち覚えてるんだという質問に対し、お前とは同じ時期に軍に入ったからな、俺は数えてるから、お前と俺は同い年で当たり前だろ、と彼は呑気に答えた。僕は、自分が歳を重ねていくのを数えるのは、惨めになるだけだと思っていた。二十一歳は母国での成人を意味する。気がつけば、僕が気にとめていない間に、そんなに月日がたったのだ。自分すら気付かない間に、変貌は進んでいた。
懐かしい記憶が、一瞬僕の思考を掠めた。五年前、僕は中流階級の実家に届いた通知書を開けて呆然としていた。徴兵された当時はハイスクール生で、英軍の徴兵制度が導入された次の年だった。十六歳以上二十五歳未満の健康な男子は問答無用で軍隊に放り込まれ、訓練を受ける。いつか来ると分かっていたが、いざ手紙が届くと家族は言葉を失い、見送りの晩餐の席でも母と妹のさめざめとした啜り泣きが絶えなかった。父の部屋に呼び出され伝えられた「個人の意志を無視して徴兵するのは反対だが、仕方がない。精一杯生きろ。そして元気な姿で帰って来なさい。仮にお前が戦いの末に命を落としても、私はお前を誇りに思う」という言葉を、僕は一瞬たりとも忘れた事はない。あの時、キセルを吸いながらソファに座り、優しい眼差しで告げた父の姿を、まだ覚えている。父の部屋は、アンティークな柱時計や綺麗な絨毯や、仄かな明かりを放つ石油ランプなどで飾られていた。出発の朝、煙を吐きながら戦地へ向かう汽車の窓から顔を出す僕を、七歳の妹は駅のホームの端まで懸命に走って追いかけていた。走りながら何度も「お兄ちゃん」と叫び続け、少しずつ遠ざかっていく小さな妹の姿に、僕は窓から身を乗り出して強い風に吹かれながら涙を滲ませた。その時、車内で誰かがかけていた鉱石ラジオから壮大な軍歌が流れていたのを、はっきりと覚えている。
あれから、もう五年も経った。すっかり大人になってしまった僕を、家族は覚えているだろうか。顔を見ただけですぐに僕だと分かってくれるだろうか。幼かった妹はもう、十二歳になる頃だろう。綺麗に、女らしくなっているだろうか。母は元気だろうか、父は元気だろうか、重い病気などにかかっていないか。僕は不安ばかり募らせ、これから敵地に攻撃するというのに、妙にそわそわして落ち着きを失っていた。
太陽が昇る。朝もやが晴れていく。完全に視界が開ける前は攻撃しない方が無難だが、もし敵国から先に戦闘を仕掛けてくれば一斉襲撃に入る。先に攻撃をした方が負けだ。歩兵を潰しながら敵の本拠を追い詰め、最終的に降伏させようという、至って単純な手順だった。誰でも出来そうだが、実際は命がけだ。
僕らは塹壕沿いに横付けされ、五列に並ぶ。ライフルやマシンガンを持った列が、合図と共に構える。照準を合わせ、いつでも撃てる体制を取る。この国の軍を全て制圧すればこちらのものだ、今はただそれを目指せばいい。一つの目的のために統制された集団の中で、与えられた事をすればいい。そうすれば、いつか全てが終わる。無視された時間が漠然と通り過ぎるのを気にせずにいれば、終わるのなんてあっと言う間だ、と上官がいつも熱弁している。この世界では、一日一日を大切に生きようという概念がない。死ななければいい、それだけの話だ。命に意味はない。目に映るものに意味はない。発する言葉に意味はない。臓腑を侵す腐乱臭。花。皮脂の感触。木漏れ日。雑音。太陽の光。腐った肉。ブロンドヘアー。駄目だ、駄目だ、違う! ただ、ただ、やればいい。僕はまだ、そのプログラムが脳髄からアンインストールされていなかった。
静かな、静かな、静寂が空気を包む。風が空を切る音しか聞こえない。ただ、時間だけが流れていく。僕には聞こえていた。遥か遠くから、巨大な戦車と砲台が地を鳴らしながら迫ってくる音が。僕は落胆し、殺されるかも知れない、と絶望感に苛まれた。それでも僕は、肩に乗せた銃を降ろさない。死ぬまで逃げ出してはならないのだ。
突如、鋭く空気を切る音が高速で頭上を通り過ぎ、列の背後から盛大に爆音が響いた。弾丸のように飛び散る土片。それらが炎を帯びて、空から無数に襲い掛かる。僕らは塹壕に滑り込んで回避し、逃げるのが遅れた戦友たちは土片の直撃を受けて倒れていく。飛んで来たのは巨大な砲丸で、その威力は隊列の背後の地面を深さ一メートルほど抉る。一度の攻撃で一気に列は崩れ、一部の兵士は無人廃墟の民家の影に逃げ隠れた。僕はライフルを両手で掴み、塹壕から顔を出して乱射した。晴れかけの朝もやはまだ視界を覆っている。耳に響くライフルの爆裂音と火薬の匂いと飛び散る空弾。一通り右から左へ薙ぐように撃ち、すぐにまた塹壕に隠れた。何人か撃ち殺したのか、複数の呻き声が遠くから聞こえてきた。しかし、今度は爆音と共に連続で空を切る砲丸。地面に激突し、炎を散らしながら周囲の歩兵を襲う。僕は爆風と共に飛んでくる土片を弾き返す事しか出来なかった。
しばらく、味方の銃声とマシンガンの爆発音、敵の砲声しか聞こえなかったが、僕ら前列隊は指揮官の合図と共に塹壕から飛び出した。晴れてきている朝霧の中を突っ切って走り、敵の集団に突撃する。東洋の侍の合戦のような光景。互いに兵数はほぼ変わらない。衝突した僕らは、視界に映る敵国の兵を片っ端から銃で撃ち殺していった。相手のあたま数は同じようなものだったが、僕はとにかくもみくちゃにされている乱闘の中で、ひたすら鉛を撃ち続けることしか出来なかった。四方八方から滅茶苦茶に襲い掛かる、緑の軍服姿の敵軍たち。彼らも必死に、殺されまいと、殺さなければ殺されると、同じようなライフルを抱えてあがいている。生きるために。極限の場で、生きるためにあがく。無数に響く銃声、叫び声、爆ぜる血の雨、硝煙の匂い。これが死の世界だ。倒れ、地面に折り重なっていく死体。その中には、敵の緑の軍服もいれば、僕らと同じ青の服もいる。敵味方関係なく、地面の僅かな緑の草たちを覆い隠すように連なる生温かい屍。生きている心地がしなかった。呻き声と銃声しか耳に入らず、僕は只、目に入る限りの緑の軍服めがけ、引き金を引くだけだ。
僕はいつから、こんな事を繰り返してきたのだろう。
破壊された世界は、土台を失った世界は、目的を失った人間は、足元から崩れていくだけなのに。
廃墟の町で繰り広げられる死の争い、その渦中に僕がいる。ここでは、無数の魂の崩壊と、人間の俗物的部分が浮き彫りになっている。他に何があるというのだろう。僕らは只、自分が死なないためだけに、同じ目的で必死になってる同族を殺すだけだ。いつから人間は死に対し能動側になったのだろう。
雑音が酷い。グースステップスが鼓膜を侵す。金属音が感覚を逆撫でする。
僕がトリガーを引くと、目の前の人間が血を噴いてその場に崩れる。こんな事に慣れてしまった僕は、何が出来るというのだろう。僕は呆然と立ちすくみ、周りで繰り広げられる戦争の姿を直視できずにいた。誰かが僕の名前を呼んだが、心はそれを受け入れようとしなかった。銃を握る手から、力が少しずつ抜けていくのが分かった。
「ラス」
鈴の音のような声。水辺を飛ぶ小さなミソサザイの鳴き声のような、幼い声。
僕はそっと顔を上げた。遠い、遠い場所で、この戦いの渦から離れた廃墟の中、崩れた民家の屋根の上に、彼女はいた。白い、どこまでも白いワンピースを着て、長いブロンドヘアーを風に棚引かせている。その服の袖は、受け入れるべき腕を失ってはためく。
何がそうさせたのか、彼女が僕の名前を呼ぶと同時に、他の兵士たちが全員唐突に動きを止めた。今まで闘争心を剥き出しにして殺しあっていた人間たちが、互いの憎しみなど忘れたかのように銃を撃つ手を止め、瓦礫の上に立ちすくむジェニーの方を見ていた。何故彼らがそんな事をしたのか分からない。僕はその場に崩れるように膝をつき、銃を取り落とした。無機質な音がその場に高く響いたが、兵士たちはジェニーから視線を外そうとしなかった。風が吹く音しか聞こえない、静寂。
彼女は、笑っていなかった。眉を顰め、泣き出しそうな表情をしている。噛みしめている唇は白く変色し、只でさえ白い肌がさらに雪のように際立つ。そんな表情、して欲しくないのに。血に染められ死体が積み重なる廃墟の中で、彼女の姿だけが唯一、神のように浮いて美しく見えた。
ジェニーは崩れた民家の瓦礫の上から飛び降り、僕の方へ駆け出してきた。動きを止めて凝視する兵士たちの姿など視界に入っていないかのように、人の波を掻き分け、血生臭い死体を飛び越え、僕めがけて疾走する。兵士たちとは違いすぎる身長差が、走り来る彼女の姿を儚く見せた。
飛び込んでくる彼女の身体を、僕は両手で受け止めた。返り血で汚れている僕の軍服に顔を埋め、大声で泣き出す。痛みに耐え切れない幼児のように。腕を失いしがみつく事の出来ない彼女の身体を、僕は両腕で抱きしめた。少女の細い身体はひどく痩せていて、力を込めれば砕けてしまいそうだった。泣きじゃくる彼女の姿を、周りの血まみれの兵士たちは静かに見ていた。僕は只、涙を流し続ける彼女を抱きしめた。小さく、儚く、煙のように消えてしまいそうな小鳥を、そっと守ってあげたかった。僕は風に美しくなびく彼女の髪に頬を押し付け、耳元で、どうしてこんな所に来たんだ、と訊いた。
「だって、ラスが叫ぶ声が聞こえたから」
ジェニーは掻き消されそうなほど小さな声で、静かに言葉を紡いだ。銃声ばかり響いていた中、今では彼女のすすり泣く声しか聞こえない。静寂の中、彼女は僕らと違い、自分の気持ちを只正直に伝えた。その意識の中には、確かに僕と直結するものがあった。腐った臓腑に響く、何かがあった。僕は地面に膝をついたまま、腕の通っていない彼女の服の空っぽの袖を掴んだ。何か、言い知れない怒りと悲しみと、どこに流れ着くことのない気持ちが込み上げ、悔し涙を零した。僕は徴兵されてから五年間、ジェニーの前以外で泣いた事がなかった。涙は一粒だけ零れ、それ以上溢れる事はなかった。
脳髄まで侵された気持ちを振るわせる、何か。言葉では表せない気持ち。兵士として人を殺し続けている間、気づかなかった、心の揺らぎ。神経を刺す熱風。血に便乗して爪の先まで駆け巡る、哀しみ。
僕は尚も悲しみを伝え続ける彼女の身体を抱きしめたまま、顔を上げて他の兵士たちを鋭い目で睨みつけた。敵兵も味方の戦友たちも、皆僕ら二人を見ていた。切れた糸は、もう繋がらない。僕は堰を切ったように、全ての力を振り絞って叫んだ。
「どうして僕らは戦うんだ。目的のため? じゃあその目的は何なんだ? その目的はどこから流れてきたものなんだ。僕らは意思まで受動側にまわっちゃ駄目なんだ。考えなければならない事まで他人に決められたくない。みんなだってそう思ってるはずだ。誰だって、自分で道を選び、自分の意志に従って歩いて行きたいと思うはずだ。だけど僕らのこの情けない様を見ろよ。強制的に押し付けられた目的のために、意思に反した事をする。それが僕らの命の意味か? 生きている心地がするものか? そんなもののために僕らは存在するんじゃないんだ。僕らが存在する理由は、ここにはない。何故こんな事をしなけりゃいけないんだ。現に、こうして悲しんでいる子がいる。世界中にたくさんいるはずなんだ。恨み合い、憎しみ合い、悪循環を辿る事が人間の決定論なのか? 自分の意思に反した受動的な生き方で、悲しみを生み出し、怒りから戦い、自滅の域を辿り消滅するのが僕らの役目じゃないだろう。愛される事を拒む必要はないんだ。生まれてくる事と死ぬ事に関しては、僕らは完全な受動側にいるしかない。だけどその過程がいかなるものかは、僕らが決めるはずなんだ。生きてから死ぬまでの間の人生をどう飾るかは、当人の力にかかってる。自己決定に基づいているはずだ。なのに、どうして僕らはこんなところにいるんだ。みんな、自ら望んでここに立っているのか? そんなはずはない、自分の気持ちを正直に見つめてみれば、本当の意思がわかるはずなんだ。人間が自分の心も直視できない世の中を作ったのは僕らだ。まったく情けないよ。そうやって僕らは、無駄に子供たちを傷つけているだけなんだからね。奪う事の意味を僕らは気づいていない。奪われる側のことを僕らは考えていない。もっと自分に忠実になろうよ。僕らが歩き続ける意味は、こんな愚かな事じゃないはずだ。自分の意思に従って生きる、それが僕らの決定論だろう? 人形扱いされることじゃない。人に指示されることに慣れた僕らが、国の発展のために戦ったところで、世界が丸く収まるはずがないんだ。本当の平和っていうものは、崩れない平和は、人の心の平和は、こんなものじゃないはずだ!」
背筋を伝う汗。高まる動悸。心臓の鼓動が肌を通じてはっきりと分かる。叫びながら、僕は、泣いていた。血と泥に塗れた頬の上に、何度も何度も重ねて涙を流した。視界を滲ませる水滴で、今自分がどこを見ているのか分からない。ただ、僕が過去に「決めた」はずの目的が、自分の姿が、脳裏に浮かんでいた。僕らはこんな事をするために戦っているんじゃない。僕らの意志は、ここにはない。僕らの存在理由は、ここにはない。
すすり泣くジェニーの身体を抱えたまま、項垂れて涙をぼろぼろと零した。もう、抑えようとも思わない。情けなかった。戦争で全てを失った女の子が泣いているのに、同じ涙を兵士の僕が流している。僕は何をしてきたのだろう。何のために、家族と祖国に別れを告げ、戦地に出向いてきたのだろう。僕を誇りにしてくれている父の言葉は何だったのだろう。僕が徴兵制度に従ったのは、子供たちにこんな涙を流させるためではなかったはずなのに。ただ、僕は戦争に終幕を下ろし、崩れぬ平和を世界に取り戻したかっただけなのに。
僕らは、生きてきた。何も分からないまま、歩き方も覚えないまま。殻を纏ったまま生まれてきたヒナは、生きていけない。戦乱の世が与える人間の生き様を、僕らがはっきりと浮き彫りにしていた。
唐突に正面から耳に響いた、銃の安全装置を外す音。僕の銃じゃない。顔をあげる暇はなかった。ただ一発の銃声だけ、その緊迫した空気を切り裂いていった。
人生に意味はない。自分の所有権を持っているのは自分ではない。産まれてきた事、老いる事、そして死に至る事、全てにおいて僕はまったく関与していない。僕のこの身体を所有しているのは僕ではない。所有、いや、僕自身がここに完成した経緯、それは虚無のみぞ知る。僕が生まれて死ぬ事、この二つの必然に関しては、自分である僕の意思に動かされたものではない。
己の自由に人生は動かない。僕の思い通りになりはしない。この世に生まれ、老い、病にかかり、死ぬ。この星を動かす生老病死、それは僕が決める事ではない。完全な決定論。しかしその論を己自身の手で修飾する事はできた。人生の始まりと終わりに関与できない以上、その間を漂う波の中で、泳ぎ方を覚え、そしてひたすら泳ぐ事に関しては、誰も侵す事の出来ない権利の中に含まれているはずだ。生まれる事と死ぬ事は受動側だが、その間に存在する「人生」は、自分自身で決められる。人はそれを「目的」として、死ぬまでを精一杯飾り立てようと必死になる。
僕らはどうあがこうとも、その「目的」を見つけられなかった。軍の中で、戦争の中で、統制された集団の中で、僕が自分から意思表示できるはずがないのだ。生きる目的を失った「関与されていない命」は、同じく「関与されていない死」を待って、波の中で身を任せているしかない。
統制され、自由を制限された僕らは、人生の意味を見失っていた。自分の意志でなく生まれ、意志でなく死んでいく過程を飾る権利は僕らにあるはずなのに、それを同じ種族の人間に規制されては、生きる目的を見つけられない。「与えられた生き甲斐」にすがりつくには、限界があった。駄目だ、生きる意味を見失った人間は、死ぬしかない。完全な能動側として、銃弾を腹に受け止めて死ぬ。僕ら戦地の人間に、それは容易なものだった。
僕は、悔しかった。そんな生き方しか出来ない人間が世界の大半を占めていることに。僕もその一人であることに。だけどジェニーは違った。自分の意思に従い、全ての瞬間に忠実に生きてきた。失っても、奪われても、流されなかった。流されている暇はなかった。何がこの世から消え去ろうとも、自分の意志を貫いていた。やりたい事を自由にして、考えを好きに主張する。人間は、本来こうあるべきではないのか。統制されるべき生き物ではないのではないか。戦争などという愚かなことをしている場合ではない。それよりも、この長い歴史の中で失った人間の本質を、本来の生き様を、自分自身を、必死になって探す事が先決ではないか。
戦争が奪っていったものは大きすぎた。世界から大きな塊が根こそぎ消え去った。そして、戦争は「人間」を奪っていった。失ったものは戻らない。人生の意味すら見出せない人間は、取り戻す事が出来ない。
世界の片隅で、廃墟の中で、両腕と歌声と、そして翼を奪われたジェニーは、それでも笑っていた。自分を見失う事はなかった。彼女が見ていた「世界」の姿は、どれほど愚かなものだったろうか。血と金と権力で動く世は、途轍もなく脆く、哀れだっただろう。小さな少女に理解できた世界が、全ての人間に理解できないはずがない。世界を変えるのは、僕らだ。小さな場所を取り合って争っている場合ではない。それ以前に、僕らにはやらなければならないことが山積みにされている。時間を失った人間に、それは困難かも知れない。だけど、生きてから死ぬまでのこの人生を、少しでも輝かせたいと思っているのなら、スタートを切るのは楽だ。まだ知らない自分の姿を、探してみる。生まれてくることと死ぬ事が自分の意志でないのは、その過程をいかにして生き抜くかを試すための、虚無の悪戯かも知れない。
ジェニーの死体はない。それどころか、銃撃戦のさなかに割り込んできた幼い少女の存在は誰もが目にし凝視していたはずなのに、味方の兵士の誰一人として、彼女の事を覚えていない。魔法のように、全ての生存兵からジェニーの記憶がすっかり姿を消していた。僕だけが、彼女を求めて廃墟をさまよっていた。あの時、確かに彼女の体を弾丸が貫いた。しかし、気がつけば彼女の姿はどこにもなく、銃声と死体と人ごみの中で突っ立っている自分がいた。何事もなかったかのように、時間は小さなスペースをあけた。その間に何があったかは、僕以外の誰も覚えていない。
そこに存在していたはずのジェニーの姿を捜し求め、僕はあちこちさ迷い歩いた。しかし、世界が置き去りにしたのは、見渡すばかりの赤い草原と廃墟と、消え去ったかつての世界の姿だけだった。呆然としていたのも僕だけである。遂に頭がおかしくなったのかと、馴染みの戦友にからかわれたりもしたが、僕は真剣だった。軍用テントの中で、祝杯の酒を手渡されながら、頬を膨らませる僕に戦友はため息をつきながら言い放った。
「お前、疲れてるんだよ。あんな渦中に五年もいたら、現実と区別がつかない夢を見たっておかしくないさ。とにかくゆっくり休むんだな。もう俺たち兵士は御役御免なんだから。故郷に帰ろうぜ」
戦友がそう告げたとおり、八年間続いた戦争は幕を閉じた。世界大戦と名づけられたとおり、被害は各国に及び、犠牲者は数知れない。被害総額と死者数は全て省略された。そんなもの、訊きたくもない。戦争が奪ったものがいかに大きいか、数字ではっきりと公表されても世界がさらに悲しむだけだ。必要ない。戦争は終わったのだ。ようやく、世界は争いを終えたのだ。次の目標に向けて、人間が歩みを進めれば済む事だ。
只一人、馬鹿がするようにおろおろしていたのは僕だけだった。そこに居なかったように姿を消した幻影を探して、あちこちを歩き回る。そうしているうちに少しずつ、何を探しているのかすら分からなくなってきた。彼女の屍を捜して何になる? また自分のしてきた事の愚かさを呪うだけだ。だけど、僕はただ、哀れな少女の幻を追い求めていた。すぐに消えてしまう刹那の灯火のようだったジェニー・レン。ミソサザイのように小さく儚いジェニー・レン。彼女が、本来僕が歩むべき道の先にある「僕」の姿のように見えて仕方がなかった。
戦争が終結し、祝杯をあげる他の兵士たちを差し置いて、僕は彼女と初めて出会った丘を登っていった。あの日の銃撃戦などものともしないかのように、当初の姿を残したままのかわいらしい花たち。風にそよぐ草。優しい光。世界に、春がやってきていた。僕らの預かり知らぬところで、季節は姿を変えていた。その花たちを視界の隅で見届けながら、丘を駆け上がっていった。不思議と、あの日のように息切れはしなかった。軽い足取りが、僕の身体を先へ、先へと進めた。
丘の上では、地平線から顔を出しつつある明るい朝日が、青々とした草の朝露を眩しく照らしている。何も変わっていない、光を受け止める丘の巨木。その幹の傍に立てば、ここら一帯の廃墟が全て見渡せる。僕は朝日を受け止めながら、静かに、過去の残骸たちを眺めていた。何が変わったというのだろう。僕が求めてきたものは、残骸じゃない。崩れない平和だ。だけど、僕がここに立つ意味はあるのだろうか。僕が僕としてここに存在する理由は、ない。僕の存在理由は、ここにはない。
ふと、目をやったピアノ。あの日、ジェニーが足の指で弾いていた、古いグランド・ピアノ。あの時と同じ場所に、何も語る事無く佇んでいた。しかし、ジェニーが美しい曲を奏でていた時の面影は残っていない。たった二ヶ月ほどしか経っていないというのに、裸だったピアノが全身に纏っている草。黒塗りされた木目の間から新しい芽が吹き、花が咲き、まるで過去の悲しみを覆い隠しているように、腐った木製ピアノを植物が覆っていた。僕は何も言えずに、樹の幹に手をついたまま立っていた。春の主役たちに包まれたピアノは、もう過去の音色を奏でる気配はない。興味が無さそうに佇んで、廃墟を見下ろしているようだった。
僕はゆっくりとピアノに歩み寄り、鍵盤の蓋をこじ開けた。ツルがからみついてなかなか開こうとしない。手でツルを引きちぎってようやく開放した蓋の中にこもっていたのは、植物に侵食される事なく残っていた鍵盤。そこだけは、何も変わっていない。ここに、ジェニーが指をおろし、美しい歌を歌いながら弾いていた。あの頃の面影が、脳裏にはっきりと蘇ってきた。今、僕は彼女と同調している。歌を失った彼女のいた場所に、僕がいる。彼女は何故ここにいたのか。何故僕の前に現れたのか。僕自身を象徴するような彼女の本当の姿は、分からないままだった。
白い鍵盤を一つ、指先で叩いてみる。コツン、と木がぶつかり合う音がしただけで、その鍵盤の位置に相応する音は鳴らなかった。失ったものは、取り返せない。しかし失ったものを覆うように、新たな命が芽吹く。もう本来の役目を果たさない木の箱に、僕はゆっくりと蓋をした。これ以上、鍵盤を開けて過去に浸る事はしなかった。何年かしたら、また新しい根がこの箱を覆い尽くし、自然に溶け込んでしまうのだろうと、僕は感慨にふけた。いつかの思い出が、走馬灯のように思考を駆け巡る。終わった夢。かつてジェニーが足で弾いていたピアノが、自然に覆われこの星に馴染んでしまっている。オブジェのように横たわるそのピアノの姿は、どこか知らない大陸の画家が描き残しそうな、静かで新鮮な風景に見える。時間の流れをありありと映し出す。音を発さないピアノ。意味を失ったピアノでも、こうして日の光を浴びて、春の風景となっている。思わず苦笑が漏れそうだった。僕自身、この場所にいる事が、そんな風に形成されてきたのだろうと。失っても、失っても、貪欲に光を求めていた。自分を生んでくれだ母、育ててくれた家族、支えてくれた全ての人の存在が、途轍もなく尊く思えた。
ふと、僕が顔を上げると、ピアノの楽譜立ての上に、手の平に三羽分は乗りそうなほどの小さな鳥がいた。翼を広げても数センチにしかならなさそうな、茶色の小鳥。忙しなく首を動かし、朝食となる虫を探している。動きが速く、スローモーション映像でも見なければ細かい動作が分からない。場所を動こうとせず、ただひたすら首だけを動かして、朝日の中であちこちに視線を泳がしていた。僕は思わずその鳥を観察してしまった。小さなこの鳥は、ミソサザイ。本来水辺に生息するはずがどうしてこんな広い内陸にいるのか、一瞬疑問が頭をよぎったが、それよりも先に、このミソサザイが英語ではジェニー・レンと呼ばれていることを思い出した。
動き回るそれを両手で捕まえようとすると、驚いてミソサザイは僕の頭上を越えて背後へ飛び立ってしまった。その先を追って僕が振り向いた空には、もうその鳥はいなかった。
そこにいたのは、空を背景に、無かったはずの両腕を僕に伸ばし、満面の笑みを浮かべているジェニーの姿。
駆け巡る光。露わになる、過去の幻影。捜し求めていた姿。自分の姿。面影。小さな翼を羽ばたかせ、僕にしがみつこうと両腕を伸ばすジェニー。風になびいていたはずのワンピースの袖には、白く細い腕が確かにあった。僕は彼女を見つめ、ふわりふわりと宙を漂う彼女の腕を掴んで引き寄せ、抱きしめた。確かな温もりが、そこにある。奪われたはずのものがある。ジェニーは笑顔を崩さないまま僕の肩に抱きつき、足をばたつかせた。僕が手を回した彼女の背中には、小さな翼があった。耳元で、子守唄を口ずさんだ。彼女が再び、安らかな心を抱けるように。
夢なら覚めて欲しくなかった。しかし、涙を堪えて閉じられていた目を開けると、そこにはもう何もなかった。鮮明に残っている彼女の温もりも、存在していなかった。風が、ジェニーの体温を失った手を空しく撫でていく。何もない。そこには、何もない。少女の姿も、何も存在していない。消えた彼女の翼は、世界を見下ろすため、見守るためにあるのか。人間が愚かさに気付き、改める頃に、彼女はもう一度歌を取り戻せるのだろうか。一瞬だけ現れては消えた彼女の存在の必然。僕はジェニーを抱きしめていたはずの手を、そのままじっと見つめた。何が返ってくるわけでもない。だけど、確かに何かが姿を変えた。変貌を追った。
彼女の面影を追い求めるあまり、幻覚でも見たのだろうかと、一瞬でも目にしたジェニーの両腕を記憶から消そうとした。しかし、そんな事が今の僕に出来るはずがなかった。
気がつけば、僕らの知らないところで、始動の合図が鐘を鳴らしている。
僕らの過去の愚かさを嘲笑(わら)い、失ったはずの未来を見つめ直せと、僕自身が叫んでいる。心が無言で叱責している。その中で、暖かな春の風が、痛みを払拭するように吹きつけ、尾を引いた。
「あたしはたくさんのものを戦争に取られたけど、あたしはまだ、あたしでいる。ここにいる。だから平気。あたしがいる限り、あたしが消える事はないんだもん。まだ頑張れるよ、あたしにはやりたい事があるから。世界を変えたいの。戦争ばかりは嫌だ。ずっと崩れない平和と、みんなの幸せを作るの。あたしは自分がやると決めたら、全部やるまで消えたりしない」
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2009/02/22(Sun)20:37:05 公開 / みーな
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■作者からのメッセージ
高校の文芸誌用にササッと書いたものです。
色々突っ込みどころがあると思うので、ビシバシ指摘お願いします。
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