『オレンジ色の黄昏』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:橙 和義                

     あらすじ・作品紹介
 文彦は、小学校のとき、いじめにあい、中学校のとき不登校になる。高校は何とか卒業したが、大学で自分のやりたいことが見つけられず、モラトリアム人間になる。一念発起して公務員をめざし受験勉強をして合格。県職員になるが、激務のためうつ病になってしまう。精神病院で精神保健福祉士の和美に出会い、結婚する。一年後、子供が生まれるがその子は障がい児だった。復職した文彦はまた、うつ病になり入院。寛解することなく、職を失う。そんな中、和美が自殺してしまう。残された父子は絶望の底に投げやられる。文彦は若い頃の夢、小説家になることを決意する。

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 小学校一年の時。
 田中文彦は、初めて選ばれる学級委員になった。選ばれたことで、テンションがあがった。
 赤田町立伊北小学校では、一年の三学期から学級委員が担任から選ばれる。
 最初の学級委員だ。誰が選ばれるかは、クラスの関心事項であった。
 この学級で自分が一番だという気持ちよさ。優越感。
 単に担任の先生とうちの母親が幼なじみだったからだと後からわかったが、その時は、学級委員になったことが誇らしく、有頂天になっていた。
 そんな浮ついた気分の中で悪夢が訪れた。
 文彦は、そんなにやんちゃな性格ではなかったが、たまたまふざけて同級生の山本修司に水道の水をかけたことから、修司の母親からクレームがつき、学級委員のバッジを机の中に入れなければならなくなってしまたのだ。
 
 事情を聞いた文彦の母、清子は担任の斉藤幸枝に電話をかけた。
「バッジ、机に入れたままで、もう一ヶ月になるわね。まだ戻してはもらえないの?」
「そうね、相手の保護者の手前、そうそう早く返すことはできないのよ。わかってもらえるでしょ?」幸枝は、幼なじみの手前、邪険な対応ができずに、困り果てていた。
 修司の母親、登美子は学校でも有名なモンスターペアレントで、その存在は学校中に知れ渡っていた。
 先日も教頭の佐藤秀治に呼び出され、学級委員のバッジの件は慎重に処理するように言われたばかりであった。
「でも、ちょっとふざけて水をかけただけでしょう?まだ一年生なんだし、軽い気持ちでやったことなんだから、その辺のことを考えてみてよ。文彦は、反省しているんだから」
「それは、わかるんだけど。相手が山本さんでしょ。簡単にはいかないのよ。私の立場もわかるでしょ。それに学級委員に選んだのが幼なじみの清子の息子だということもあまり心証がよくないみたいで困っているよ。それとなく清子が幼なじみだということが知れ渡っているみたいなの。誰かこのことを知っている人がいるみたいで……」
「えー、そうなの?」
「私としては、文彦君が一番適任だと思って選んだんだけど、周囲はそう思っていないみたいなのよ。昔はいざ知らす、最近は教師のすることに、とやかく言う保護者が多くて困っちゃうわ」
 午後七時。学校には教師の姿が少ない。斉藤は算数の採点をするために学校に残っていた。
 同僚が少なくなった頃、電話がかかってきたのだ。
 伊北小学校は、墓地の隣にあるので、幸枝はあまり遅くまで残りたくなかったのだが、算数の採点をしなければならなくて残っていた。
 最近は問題用紙を自宅に持ち帰るのには教頭の許可がいった。いちいち許可を取るのが煩わしいので、幸枝は採点は学校ですることにしている。
 そんなときに電話がかかった。
「幼なじみだってこと何でばれたんだろう?あなたこころあたりない?」清子は触れられてはいけないものに触れられた思いで不安になった。
 清子と幸枝は島育ちである。赤田町から二十km先の港から七類島行きのフェリーが出ている。今は、高速船が就航されていて一時間でつくが、清子の幼い頃は六時間かかった。七類島までいくのに途中で何カ所か島に寄ってから最後につくためだ。
「ないはよ……。島でのことはあまり話したくないし」幸枝も不安になった。
 七類島は、本土から八十Km離れていて、幸枝の高校生の頃は、本土との交流があまりなかった。卒業生は皆、七類島に残り、一部のものが本土に渡ったのだ。
 幸枝は勉強ができたため、大学に進学することを希望した。だが、両親は娘を大学に進学させるほど、家庭が裕福ではなかった。そこで、七類島出身の県会議員、大倉健三に頼って進学ができることになったのだ。
 また、清子の父は高校を卒業した娘を島に残すことを望まなかった。三姉妹の末っ子の清子を大倉県議のコネで県職員の臨時に就かせた。
 二人にとって、大倉県議は恩人であったが、七類島はふれられたくないことであった。
「まさか、山本さんが、このことを知っているからじゃないでしょうね?」清子は息をのんだ。
「そうかもしれない。結構情報通なところがあるから」幸枝は採点中の山本修司の答案用紙に目をやった。
  
「学級委員のバッジのこと今でも覚えているんだね」児童福祉司の沢田泉実は、包容力に富む暖かい声で文彦に尋ねた。
「はい」文彦の声は、か細い。質問に短く答えるだけで会話に幅は広がらない。
 赤い瓦の平屋建ての中央児童相談所は、消防署の隣にある。周りには民家がぽつんと散在するだけで、他は田畑がうめつくす郊外の田園地帯にあった。
 その建物の面会室二で、泉実と文彦は二人きりで、丸い白布が敷かれたテーブルについていた。壁面には幾代か前の所長直筆の絵がかかっている。面接はこれが三回目であった。
「バッジとりあげられて、そのときどんな気持ちがした?」
「いやだった」
「友達に水をかけたからだったよね」あらかじめ清子から聞き取っていた書類に目を通しながら泉実は言った。
「かけていない」文彦は、表情を変えずに応えた。
「かけていないの?」泉実は文彦の目を見つめた。
「うん」


 小学校三年の時、クラス替えがあった。
 文彦の担任は、四十三歳の独身女性教師、今井和恵になった。
 和恵はいつも一組を担任していて、たまには違うクラスを受け持ちたいと学年主任に申し出て二組の担任になったのだ。
 勝ち気な性格で妥協を許さず、生徒には厳しい教師であったので、保護者には受けがよかったが、生徒たちの間では、人気がなかった。
 気に入った生徒をえこひいきすることで有名だったからである。
 
「文彦さん、あなた算数得意なのね。今度も百点よ」和恵は頬を上気させて、クラス中に言い含めるように言った。
「それに比べて修司君、基礎ができていないのね。努力は認めるけど。もっと頑張らなきゃ」
 修司は居心地の悪そうな表情をして、うつむいた。その目は文彦を睨んでいた。
「これからは、こうしましょう。理解の進んでいる者が遅れている者の先生になって教えるの。生徒同士で教えあうことでクラスの団結力のアップにつながるは。できる子も教えることで学力が身につくのよ」
 突然の教師の提案に修司は戸惑った。
「それじゃ、修司君は文彦さんに教えてもらってください。彼はクラスでトップの成績だから、それがいいは」暗に修司が最下位であることを言っていることになるが、和恵は意に止めなかった。
「俺、やだな」修司は和恵に反抗的な態度をとった。周りの者も同級生に教えてもらうことに抵抗感があるようで、修司の行動を見守っている。
「勉強のできる子に教えてもらうことに何か問題があるわけ?文彦さんは、わかりやすく教えることができます。あなたたちが考えるより立派なのよ。文彦さんに教わることを誇りに思えばいいのよ」
「なんで、あいつは、特別扱いなんだよ」修司はほっぺたをふくらませた。
「いいこと。先生の言うことは守ること。それができないようなら、そんな子はこのクラスにいりません。出て行きなさい」和恵は強い調子で声を張り上げた。
「また、えこひいきが始まった」修司は隣の生徒に小声で言った。
 文彦は事の成り行きを見守っていたが、修司が不機嫌になるのがいやだった。修司は一年から同じクラスだったが、学級委員のバッジを机の中に入れなければならなくなった原因を作った張本人だ。彼に関わっていいことはない。できれば修司の先生役はやりたくなかった。
 そんな文彦の気持ちを知らないで和恵は、「明日から二人一組で算数の勉強をします」と宣言した。
  
 下校のとき、文彦は修司と昇降口で一緒になった。
「おまえが先生なんて、俺は認めないからな」強い調子で修司は言った。
「修司くんがいやなら、僕もしたくないよ。でも先生がああいうから、仕方ないんだ」
「おまえ、先生の言うことなら何でもきくのかよ?」修司はせせら笑った。
「あのときも学級委員のバッジ机の中におとなしく入れたままだったもんな」
 文彦は一年の三学期、学級委員のバッジを机の中に入れなければならなくなった屈辱を思い出していた。
「あのとき、俺が最初に水道の水をおまえにかけた。おまえは『やめろ』と言って逃げるだけで、水をかけ返すことはしなかった。おれは模範生ずらしたおまえはいやで、家に帰ってからお袋に文彦に水をかけられたと嘘をついたんだ」
「それがバッジの取り上げになるなんて、できすぎだな。俺もびっくりしたよ。でもいい気分だった。おまえ、学級委員になって浮かれていたもんな」修司は文彦の顔色を窺った。
「もういいよ。昔のことを蒸し返さないでくれ」文彦はそう言うと駆け足で家に向かった。

「今日の国語の時間はホームルームにします」突然和恵は言い出した。
「最近、皆さんの生活態度が乱れています。遅刻も多いし、学習態度も悪い。文彦さんをご覧なさい。皆さんは文彦さんを見習うように。この時間は反省の時間にします。五、六人がグループになって最近の状況、これからどうしたらよくなるか話し合ってください」
「また、文彦ばかり、特別あつかいか」修司はおもしろくない。
 文彦も自分の立場はクラスのみんなと離れていくのがわかり、複雑な思いだった。
 和恵はそのことを意に介さず、文彦一人をのぞいて他の生徒を小グループに分けた。文彦を所在ないまま、自分の椅子を動かすことなく、和恵の次の行動を見守った。
「話し合いができて、まとまったグループから発表してください」和恵は優しいまなざしで文彦を見つめてから、厳しい目を周囲の生徒に向けた。
「また生徒との間に溝ができてしまった」文彦は暗澹たる思いでため息をついた。


 小学校六年の時。
 担任は初めて男の先生になった。名前は荒島信二。悪いことをすると体罰をする先生で有名であった。
 前任校ではそれが問題になり、教育委員会で処分を検討された。結局、やめることにはならなかったが、体罰をしないことをきつく言い聞かされ、赤田町立伊北小学校に昨年赴任してきた。

「今日は修学旅行の班を決めることにします」信二のきびきびした声がクラス中に響いた。
 伊北小学校では春に修学旅行に出かける。六年の一学期早々、修学旅行の準備をしなければいけなかった。
「このクラスは、四十二人いるので、六班を作ることにします。あらかじめ班編制は先生の方で決めておいたので、各班でリーダーを選んでください」
 文彦はプリントを見て自分の名前を確認し、同じ班に誰がいるか見た。
「修司がいる」文彦は自分の目を疑った。
 文彦は母親に修司と同じ班にならないように前もって、頼んでいたのだ。
 清子から「ちゃんと荒島先生に言っておいたからね」と聞かされていた。一緒の班になるわけがない。何かの間違いだと思った。
 周囲がざわめきだしたので、信二は話し出した。
「この班編制は先生が決めました。この班で今回の修学旅行は実施します。この班で不服な者がいるかもしれないが、仲良しだけで班編制する訳にはいきません。誰とでも仲良くすることが社会に出て行くためには必要なことです」
 信二は文彦の方を諭すように見た。
「それでは各班でリーダーを決めなさい。班ごとに椅子を移動させるように。自分がやりたいと思う人を優先させなさい。立候補する者がいなかったら班の中で誰がいいか話し合って決めてください」
 二班になった文彦は椅子を寄せながら修司となるべく距離を置くようにした。
 二班の七人が丸く椅子を置いたところで、修司が言った。
「リーダーは文彦にしよう」
 周りの者はその素早い言葉に虚をつかれ、肯定とも否定ともつかない沈黙が支配した。
「こいつはリーダーにふさわしい。なんせ、先生だからな」文彦は修司があざけり笑ったような気がした。
 文彦は、修司を睨み付け、「投票で決めよう」と冷静な声で応じた。
 この二人のやりとりに、ほかの者はどうしたらよいかわからず、荒島先生に助けてもらいたいと思ったが、先生は取り合う様子はなかった。
「リーダーは文彦でいいだろ?」修司は周りにしつこく言った。
「そうだ。文彦にしよう」森田達之が加勢した。
 達之は、五年の時クラス替えで修司と一緒になってから仲良くなった。よく二人で行動することが多いが、達之の家は裕福でゲーム類が豊富にあり、文彦も一度遊びに行ったことがあった。
 達之の意見で、周りは文彦がリーダーになるという雰囲気に落ち着いていった。
 文彦は渋々リーダーになることを引き受けることになった。

「修司と同じ班になった。それに班のリーダーまでやらされることになってしまった」文彦は母親を攻める口調で、家の三和土で声を荒げて家の奥に向かって叫んだ。
 清子は何事かと血相を変えて出てきた。見ると息子が今にも泣きそうな顔で、どうにかして欲しいと哀願していた。
「なぜなの?あんなに何度も念を押しておいたのに。あの先生。許せないは」清子は憤りを禁じ得なかった。
「しかし、なぜ同じ班にしたのだろう?何か理由があるはずだ」清子は早速荒島先生に電話をかけた。
「先生。あれだけ念を押していたのに、ひどいじゃありませんか?先生は修司君とうちの子の関係をご存じでしょう?引き継ぎを受けていらっしゃらないんですか?」
 清子の剣幕に信二はどこ吹く風のごとく、平然と「知っていますよ。充分引き継ぎを受けています。ですから、私は二人の関係を良好なものにするため、あえて同じ班にしたのです。文彦君がリーダーに選ばれたのも、当然です。彼には学校のリーダーとしても頑張ってもらいたいのです。最近、先頭立つことをいやがることが見受けられますが、少年前期の特徴で一種のポーズで、本当は先頭に立ってみんなの手本になりたいのだと思います。お母さん、心配はありません。私に任せてください」
 清子は荒島先生の熱弁に声をなくしていた。
「修学旅行から帰ってからの文彦君を見守ってあげてください。きっと成長して帰ってくるはずですから」信二は自信たっぷりで清子に微笑んだ。

 修学旅行先は広島だった。二泊三日の日程だ。当日はあいにくの雨模様で、児童を見送る保護者は「忘れ物はないか?酔い止めの薬は持ったのか?」とそれぞれの子供に話しかけて、しばしの別れを惜しんでいた。
 その異変は集合したときに、起こった。
 文彦が二班のみんなに挨拶をしても誰も返事をする者がいなかった。そればかりか、「あんたなんかー、ムシ」とそっぽを向ける仕草をして逃げていく。
 班のリーダーとして集合をかけようとしても誰も従う者はいなかった。てんでんばらばらで整列してくれる者はいなかった。
「二班、どうなってる。リーダー、リーダー」荒島先生の声が響くが、文彦にはどうすることもできなかった。
 最初から従うことを拒否する班のリーダーほど寂しい者はいない。
 自分が惨めだった。楽しいはずの修学旅行はつらい旅となった。


 応接間においてあるソファーに座ると、皮の生地が気持ちよく、座り心地がいい。
 壁には伯父の自画像の油絵がかざってある。出された紅茶をいただくと、香りがいい。上品なカップは和恵の知らないブランド品だ。しばらく待たされると健三が応接間に入ってきた。
「やあ、お待たせ。しばらくぶりだな。元気だったか?」健三は和恵に微笑んだ。
「おじさん、しばらくぶりです。ご活躍なによりです。母もよろしくと言っていました」
 和恵の父は健三の弟であった。
「で、一体、今日は何事なんだ」健三は、いつもの癖で、陳情に来る者に対する態度で言った。
「それが、同僚のことで困っているの。今、一年を教えているんだけど、隣のクラスの担任が学級委員は自分が選ぶといっているのよ。私は話し合いで選びたいと思うの。人気投票のような形にしてもいいと思うのよね。何らかの形で、クラスで選んだことが大切だと思うんだけど。幸枝先生って言うんだけど、結構ああ見えて頑固なんだよね。教頭には学年で統一して学級委員を選ぶようにと言われているんだけど。まとまらなくって」和恵は健三に意見をもらおうと矢継ぎ早に話した。
「学級委員か。選挙だな。選挙がふつうだろう」健三は県会議員らしい答えを言った。
「民意をとうのは選挙だ。選挙が一番だよ。小学生になれば誰がいいかぐらい、答えられるだろう」
「やっぱり、そうよね。私が正しいわよね。なんか、おじさんに相談して吹っ切れた気がするわ」和恵は伯父に会ってよかったと思った。
「幸枝先生と言ったな。幸枝……。名字はなって言うんだ」
「斉藤よ」
「斉藤幸枝?」健三は職業柄、名前を覚えるのが得意であった。名前を覚える技を身につけることで、長年、県会議員としてやってきた。
「聞き覚えがあるな。あっそうだ。斉藤幸枝。間違いない。俺が世話をしたんだ」
「おじさんが?」
「ああ、斉藤幸枝は、七類島出身なんだ。あの娘の家庭は、あまり裕福じゃなくて、娘を大学に出すことができないと聞いて、人肌脱いだわけだ。あのとき一緒にもう一人世話をした。瀬島清子だ。県庁の臨時につかせた」
「え?幸枝先生は七類島出身なの?」和恵は驚いた。
「それに、瀬島清子?」清子の名前が和恵は、引っかかった。
「ああそうだ。斉藤幸枝はまだ結婚していないが、瀬島清子は結婚して、田中清子になっているんだ」健三は記憶力の良さを姪にひけらかすし、自己満足の笑みを浮かべた。
「そうなんだ。幸枝先生と田中さんは幼なじみか」和恵は、幸枝と清子の接点を知った。

 修学旅行に帰ってからも、「あんたなんかー、ムシ」は続いた。二班の生徒だけではなくてクラス中に広がったのだ。「あんたなんかー、ムシ」はお笑いタレントがはやらせた「あんたなんか、もうっ。無視!」と拗ねた台詞なのだが、これを修司が脚色したのだ。仲間はずれにする集団のいじめ行為である。
 これには文彦はまいってしまった。遊ぶ相手がいなくなってしまったのだ。それまで仲良くしてくれた男子は、修司からの締め付けで一緒に遊んでくれなくなった。
 その日も一緒に帰る級友がいない文彦が昇降口で靴を履き替えていると、そばから声が聞こえた。
「文彦くん、ちょっと」小さな声で呼びかける。
 振り向くと昇降口の下駄箱の陰に安達美保がいた。
「え、何?」文彦は驚いて応えた。自分に関わるといじめの対象になりはしないか心配だった。
「話があるの」控えめな声だが、そこには毅然とした意思ががあった。
「文彦くん、みんなから無視されて、かわいそうだと私、ずっと思っていたの。でも、なかなか話しかけられなくて、ごめんなさい。今日は勇気を出して文彦くんを待っていたの」美保は話をする間中、周囲を気にしていた。
「遊ぶ相手がいないなら、私の家に来ない?」
 和美の申し出に文彦はうれしかった。「いいの?」
「ええ、でも、絶対、内緒よ」美保はいたずらっぽく笑った。
 
 校長室のソファーに、和恵と教頭、幸枝が座っている。校長は対外のことは教頭任せで、この日は学年主任も外勤となっていた。
「それで、クラスごとに学級委員の選出方法が違うことになるんですか」秀治は内心、辟易として、顔色が優れなかった。
「そうです。話し合ったんですけど、統一はできなかったんです」和恵は殊勝な顔を作って幸枝を見据えた。「憎たらしい。私の方が先輩よ。何だって言うの」頭の中でぐるぐる言葉が回っている。
「まー、いいでしょう。でも、斉藤先生、公平に学級委員を選んでくださいね。最近の保護者の方は難しい人が多いですから」
「わかっています」幸枝は事務的に応えた。幸枝の考えは固まっていた。

 文彦の父は県職員であった。人事課長で、県職員の人事異動および給与等について、事務分掌を受け持っていた。若いときは顔色が悪く、「青病たん」と言われてからかわれていた。読書が友で、引っ込み思案であったが、小学校の高学年で野球に出会い、毎日練習を重ねた。
 好きなものに熱中する性格が功を奏して、ピッチャーとしてレギュラーメンバーに名を連ねた。
 県職員になってからも野球を続けたので、体に悪いとアルコールは一切口にしなかった。
 人事課長になり、野球も引退したころから酒を飲むようになった。中年になってから初めてアルコールを口にしたので、その飲み方がわからず、悪酔いして暴れることが多くなった。
 その日も文彦が中学から勉強することになった英語の問題集を解いていると、「ほー、熱心なことだな」と勉強部屋のある二階への階段を上りながら凄んだ。和彦は酔うと息子に絡むことが多いのだ。
 文彦が無視して勉強を続けていると、「英語を学んでそれでどうするんだ?将来は外国にでも住むつもりか?」と目が据わっている。
「まだ、わからない。そのうち決めるよ」文彦は、ため息をつきながら手を止めた。
「目的を持って進め。そうじゃないと、迷いが生じる。それに、無駄なことをする可能性がある。最短距離で進め。周囲を見ろ。今、何が必要とされているか考えろ」和彦は矢継ぎ早に文彦を責め立てた。
「わかったよ。親父は下で寝ろよ」文彦は父親を諫めた。

 幸枝が文彦を学級委員にしたことを知った和恵はモンスターペアレントで有名な登美子に学級委員にしたのは、幼なじみだからだと言いたくてたまらなくなった。
 教師としては、恥ずべき行為かもしれないが、我慢ができない。
 登美子に直接接触する機会は、すぐにあった。登美子はPTAの役員をしていたらかだ。
 PTAの集まりがある日に、和恵は登美子と話すことができた。
「山本さん、今日はご苦労様です。私は斉藤幸枝と申します。音楽の教師です」和恵は当たり障りのないことを言いながら登美子を呼び止めた。
「まあ、そうですか。わざわざご挨拶ありがとうございます」登美子は訝応じた。
「修司くんのクラス、大変ですね。あんな学級委員の選び方をされてしまって」
「えっ?何のことですか?」意味深長な和恵の言葉に登美子は興味をそそられてしまった。
「ご存じありませんか?担任が自分の趣味で学級委員を決めたこと?」登美子の顔を直視し、和恵はじらすように言った。
「趣味?」
「ええ、自分の幼なじみの息子を学級委員にしたんです」和恵はきっぱり言い切った。
「何てことを」登美子は自分が身震いするのを感じた。
 
「ありがとう」文彦は美保にそう言って、ジュースの入ったグラスを受け取った。
「初めて美保の家に遊びに行ったことをいつまでも忘れないだろう」文彦はそう心の中で思った。
「誰も無視して話をしてくれない中で友達になってくれた唯一の一人。それもかわいい女の子なんだから」文彦は美保の部屋の中を眺めた。壁にはアイドルのポスターが貼ってあった。
「あんまり、じろじろ見ないで。部屋が散らかっているでしょう?」美保は微笑んだ。
 文彦は女子の部屋で二人っきりになったことがなかった。美保の両親は共働きで、今も留守であった。勉強机の横には本棚があり、その隣にはピンクの布地のベッドカバーが目に入った。
 文彦がグラスををテーブルにおくと、美保はベッドに腰をおろした。
「何か音楽かける?」美保はすっかりリラックスして文彦に聞いた。
「えっ」文彦はベッドに座る美保をどんな顔をして見ていいのか困ってしまった。
「私、トム・ジョーンズが好きなのよ。文彦くん知ってる」
 文彦はあまり音楽に詳しくないので知らなかったが、聞いてみるとどこかで聞いたことのあるメロディーであった。
「ねえ、こっちに来ない。話があるんだ」美保はベッドに文彦を呼んだ。
 文彦は誘われるままにベッドの美保の隣に座った。
「文彦くん、勉強得意なんだよね。私に勉強教えてくれない?」美保は甘えた声を出した。
 文彦は、先生になるのは、気が進まなかった。答えずに黙っていると、「ただじゃないのよ。ご褒美はあるわ。先に払っておくね」そういうと美保は文彦のほっぺにキスをした。
「教えてくれたら、美保のファースト・キスあげるね」こうも明るく言われると文彦は、顔を縦に振るしか返事のしようがなかった。

 修司の指導のもと「あんたなんかー、ムシ」は卒業まで続きそうであった。
「このまま、地元の中学に進学して、同じ仲間と勉強するのはいやだな」と文彦は思った。それにその中学は男子は坊主頭にしなければならなかった。坊主になるのも文彦はいやであった。
「ちょうどいいや、隣の市の私立中学を受験してみるか」文彦は受験生になる決心をした。
 入試の日は2月。試験勉強をするにはあまり時間が残されていなかった。気持ちが固まると、その日から受験勉強を始めた。書店で私立中学受験問題集を買い求め、毎日、夜遅くまで勉強をした。
 受験勉強の息抜きは美保に勉強を教えることであった。二週間に一度ぐらいのペースで美保の家に行った。
 あっという間に試験当時を迎えた。テストのできは自分ではあまりわからなかった。
 落ちているかもしれないと不安になったが、今更どうすることもできないと腹を決めた。
 受験結果は合格。180人の合格者の中で40番で入学した。
 
 卒業式。
 涙を流している女子は納得できたが、男子で泣いている者がいるのが不思議だった。やっと無視の呪縛から解放されるのだと思うとうれしくなってきた。
 文彦はまだ涙の跡が残る美保に校舎の裏庭に呼び出された。
「合格おめでとう。勉強教えてくれてありがとう。文彦くんのことは忘れないわ。これはお祝いよ」そう言うと美保は文彦とキスをした。 

「学級委員のことよほどショックだったんだね」泉実は文彦を労った。
「水かけていないのにバッジ取り上げられて、いつまでも返してもらえなかったんだ。それには理由があった」寂しそうに文彦は言った。
「と言うと」泉実は先を促した。
「学級委員は、先生が母さんと幼なじみだから選ばれたんだ。実力ではなかったんだ」文彦は力なく窓ガラスを見た。外は晴れていた。こんな時に自分はここにいる。なぜか空しくなった。
「誰か、友達がそう言ったんだね?」
「友達なんかいないよ」きっぱり文彦は言い切った。
 
 私立中学の入学式が、終わり、クラスで担任の佐藤浩一郎から話があった。
 開口一番。
「諸君は、難関の我が伝統校に入学してきたわけであるから、選ばれたエリートである。そのことを肝に銘じ、勉学に打ち込んで欲しい」
 周囲は静まりかえっている。無駄口をたたく者はいない。
「毎回の試験結果は、廊下に張り出すので、頑張って勉強するように」
 文彦はこれから始まる競争に身震いするような緊張感を感じた。
 授業が始まると、文彦は周囲のよそよそしい雰囲気を感じた。
 文彦が宿題をするのを忘れて、隣の席の者に「宿題してきた?」と聞くと、必ず、「してきていない」と答えるのだ。
 それで本当にしてきていないかというとそうではなく、しっかり宿題をしてきている。そんな経験を何度かした。
「勉強なんかしてない」と言うのがクラスの合い言葉であった。「中学で勉強しすぎると高校で伸びなくなる」とか意味不明のことを言う者もいた。
 皆、他を出し抜いて、隙をついて自分が上位につけることに躍起になっていた。
 そんな毎日に文彦は次第に嫌気がついてきた。

2009/02/17(Tue)22:20:23 公開 / 橙 和義
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■作者からのメッセージ
 人のターニングポイントには、出会いがある。
 塞翁が馬のとおり、何が幸いするかわからない。
 前向きに生きると、人は行くべき道をみつけることができる。
 人は、皆幸せになるために生まれてきたのだ。

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