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『空色ワルツ』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:澪
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あらすじ・作品紹介
色のない世界で生きる少年と、色の溢れる世界で生きる少女。この二人が出逢ったとき、世界は何色に染まるのだろう――…。
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1.
午前四時、カーテンをひいた部屋の彩度は、限りなくゼロに近い。どうりで鍵盤が冷たいわけだ。この時間にピアノは弾けない。夜に寝る振り。明日の入学式に、少しばかり期待を寄せている振り。それで両親は満足だろうか。
まったく彩らない、モンシロチョウの視界みたいな俺の日常。モンシロチョウと違うのは痛覚がある、たったそれだけ。神様も難儀なことをしなさった。日常のモロクロもその冷たさも、俺には似合いの代物で、なにより酷く心地が良い。だってピアノも白黒だし。これから先も、俺の生涯はたった二色で事足りる。
音を立てずにピアノの蓋を閉じた。ハンガーにかけられた真新しい制服も、彩度ゼロ。ひょっとして期待値もゼロかもしれない、と、苦笑した。最近こんな笑い方しかしてない。午前四時。そろそろ夜とお別れの時間。
「ご入学、おめでとうございます」
―――あぁ、それはどうも。だけど俺、推薦でここに入ったから、あんまり苦労してないんです。めでたいのかどうか、判断しかねる。
檀上で挨拶した校長は紳士的な男だった。なにしろ話が短い。それは彼の職種にしてみれば、得がたい美徳であると思う。
芸術を愛することが、ここ城南学園の校風だ。倍率も偏差値もそれなりに高い。推薦入試の内容は、簡単な面接のあとに試験官の前でピアノの練習曲をひとつ。その演奏時間は二分ほどだっただろうか。たったそれだけで、俺の家には合格通知が届いた。
初めて制服に袖を通した感慨とか、校門の桜の紅さとか、白さとか。それって俺に必要だろうか。
式は終始厳かに行われた。校舎は綺麗、校風も美しい。新入生たちの顔がどれも一緒に見えるのは、俺個人の問題。俺の欠陥。三年間をこの場所に捧げる。そのあまりにも潔い諦観は、期待とは逆のベクトルで不思議と俺を高揚させた。
――はい、ご入学、おめでたいです。やはり少し笑える。ほら、こんな笑い方しかしてない。
式の後には、クラスごとにホームルームが行われるらしい。それを忘れたわけではなかった。ホームルームで必要なのは、筆記用具と三月末のガイダンスで渡された資料をいくつか。それだってきちんと覚えていた。ただ……
入学式。今日は他の学年の生徒の授業は、ないと思う。今、音楽室には誰もいないと思う。きっとピアノは沈黙してる。ただ、それだけ。ホームルームをサボってしまうには、充分な理由だった。案外自分って、とんでもない。
ホームルームが始まる前の教室をそっと抜け出す。途中女子生徒にメールアドレスと尋ねられて、携帯電話を持っていないと、あまり上等ではない嘘をついた。教室のドアを閉めると、ざわめく声が少し遠退く。
さて、この学園の音楽室ってどこだろう。そういえば場所をまったく知らない。やはり自分はとんでもない。
真っ白な廊下、真っ白な日差し。その逆光で、黒。ピアノに似てる。
愛すべき彩度ゼロの、俺の日常。それが急に奪われるなんて、思いもしなかった。
2.
夜の淵に手を掛けて、海を見下ろせるグリーンの月に座っている夢にいた。幻想的過ぎる世界は極彩色。
ただ、少しでも手を触れようとすれば揺れてしまう脆さだけが欠点。そう、夢みがちな私にはここまでが限界なんだ。
溺れることは許さない、と耳元で囁かれているような、そんな感覚。その声は深い。でもきっと、私の声以外の何でもない。
「…朝…か」
布団の中で目をあけ、上体を起こしたら目眩がした。うっすら脳裏に残っている夢の続きは、世界の端は、遙か遠くへ。指先でさえも触れられないことが、いつまでも悲しい気がした。
悲しい、かどうかは定かではない。
ヒーターを点けっぱなしで寝たために頭がクラクラした。換気のために窓を開けたら一羽、モンシロチョウが舞うのが目に入り、予感めいたものを感じた。
――それが何だかをしるのは、もう何時間か後の話―…。
真新しい制服を着て、姿見の前で一回転。だいぶスッキリしてきた頭をブラシで素早くとかすと、準備は完了。ママに行ってきますを告げて玄関を出る。城南学園。今日から通う高校。ここを選んだのは、
「うわぁ、きれーい…!」
思わず声が出てしまうほどの、見事な桜並木が通学路だから。城南学園は、芸術に力を入れているらしいけど、私はあまり得意じゃない。普通学科もないし、家からも遠い。でもこの桜並木が、不思議と夢で見るような世界と重なって見えたから……手に触れる全てのものがとろけるほど甘くて、切なくて、そんな気持ちに浸れると思ったから。人から見たらそんな理由でって思うかもしれないけど、私にとってはそれだけで、ただそれだけで、高校を決めてしまうには十分な理由だった。
期待しすぎは良くない、と思い知るのは入学式。中学校の時と変わらない、通常通りでごく普通の入学式。しいていえば校長の話が短かったことくらい。
仕方がないと思いつつも、なんだか釈然としない。式が終わり。クラスへ移動するときにわざとはぐれてみた。校門をくぐり、体育館の横を通ると、そこには大きな桜があった。学校の七不思議とかになりそうなくらい、大きく見事な桜の木。
そしてふと、この桜を真上から見たいという衝動に駆られた。
「…ここなら…」
そっと扉を滑らせると、中には大きなグランドピアノが置いてあった。その他にもドラムやオーボエ、クラリネットといった楽器が隅の方に並べられている。きっとここは音楽室なんだろうと思った。
「うわ…ぁ…!!」
グランドピアノの後ろの大きな窓からは、快晴の青空と、桜のピンクが溢れていた。
息を呑んで見惚れてしまう。爽やかなブルーと妖艶なピンク。とびっきりの絵画を独り占めしている気分になった。
貪るようにその異世界を泳いでいたから、だから気付かなかった。もうひとりの、この異世界への侵入者に。
―――それが何だかを知るのは、もう何時間か後の話。
3.
老舗ブランドの白と黒のグランドピアノ。子供の頃、与えられていたのはそれだけだった。正確には、グランドピアノと、優秀なピアノ教師と、弾くための時間、そのための何不自由ない環境。
実に多くのものを貰っていると錯覚した。今も手元に残っているのは、ピアノ一つだけだけど。
白と黒のピアノしか要らないと思った。色なんて要らないと思った。そんなもの、とうの昔に捨てたと思っていた。思っていたのに、それが今更、戻って来たなんて。
やっと見つけた音楽室は、日当たりの良い角の部屋だ。きっと窓からは桜が見えるに違いない。桜を見にきたわけではないけれど。
この広い学園で、こんなに早くに音楽室を見つけられたのは幸運だった。教員に呼び止められずにここに辿りつけたのも、同じく。
一曲くらい弾いてもバレないだろうか。
誰もいないはずの音楽室から聞こえる、ピアノの音色。学校の怪談の仕掛け人になる気はさらさらないけど、ただ弾きたい。その扉を開ける前から、すでに辿る楽譜を頭の中で探している。だけど、扉を開いたその瞬間、頭の中の楽譜たちはひとつ残らず吹き飛んだ。
――絵画みたいな、人だった。
気絶しそうな青空と、溶けそうに儚い桜の色を背景に。彼女はひとり。完璧な彩色の中、佇んで。
振り向かないその背中。そう、彼女は振り向かない。
なぜだかずいぶん久しぶりに、桜が綺麗だと心底思った。散っていくそれはさながら、神聖視できそうなまでに。
あまりにも鮮やかなこの光景に、息苦しさまで覚えた。ひと刹那、呼吸を忘れる。不意に思いだしたその瞬間、妙な恐ろしささえ感じた。どうかしてる。
そして生まれて初めて、誰かに振り向いて欲しいと切に望んだ。ああ、本当にどうかしてる。
「生きてる?」
やっと口にしたその言葉は、初対面での会話のマナーを最高に破壊させた質問だった。突拍子もない、だけど切実な質問だった。
――あなたは呼吸をしていますか?俺はあなたのせいで、一瞬忘れた。
彼女は驚いたように振り返る。色素の薄い長い髪がひらり、僕の視界を彩った。
髪と同じ淡い色の瞳。見つめあった時間は案外、長い。
最初に彼女が視線を外した。戸惑うように自身の靴のつまさきを見つめている。慌てるような、恥じらうような。歳相応な彼女の仕草に安心した。現実味が戻ってくる。徐々に色彩を欠いていく。
「ああ、俺もあんたと同じような理由でここにいるよ」
だから大丈夫。ここに忍び込んでいるのはお互い様。共犯ではないけど同罪だ。それを聞いて彼女はふわりと顔を上げる。
微かに赤みのさした頬に、睫毛の影の灰色。チョコレート色の髪が一筋、その頬にかかる。色彩豊かな彼女に、少しばかり辟易する。
「なんだ、びっくりした」
見た目通り華奢な声だった。それを聞いて、はっきりと失望していく。
――普通の女じゃん。なんだ、こっちこそびっくりして損した。
「うん、生きてる」
変なこと訊くんだね、と。悪戯っぽく彼女は微笑む。
「あー……その質問は忘れて」
今日のところは、音楽室のピアノは諦めることにした。
「じゃ、生存確認も済んだし。さよーなら」
「ねぇ。あなたの名前、まだ聞いてない」
未練なく背中を向けられると思っていた。ふわりと自然に訊ねられて、ふと、立ち止まってしまう。だけどそれでも、最初の光景で抱いた彼女への興味は、すっかり褪せていた。
「俺の存在も、忘れていいよ」
4.
市販されている絵の具じゃ絶対に出ない色、ヒトの手じゃ描けそうもない繊細と豪快のミスマッチ。窓ガラス越しでも十分に美しいそれに、感覚は全て奪われていた。五感全部を預けて、吸い込まれるように。髪の毛一本残らず差し出して、溶かしてほしいとさえ思う。絵画のようなその世界の中に。
「生きてる?」
急に、知らない声。透明感があって少し高いけど、男の子、の声。
振り返ると、今まで見たことがないくらい顔立ちが整った男の子がいて、声には出さないけど妙に納得した。声と顔はパズルのようにガチリと合っていて、気品と言うか気高さを感じた。絵画の中の美少年というよりは、昔読んだ絵本に登場する王子様みたいだと思った。なんだか真正面から見つめているのが恥ずかしくて、視線を下に逸らした。
足元をみると、ふと思った。今はホームルームの行われている時間、なぜこんなところに居るのかと聞かれたらどうしよう……と。
「ああ、俺もあんたと同じような理由でここにいるよ」
その人の声に顔を上げる。私と、同じような理由……とたんに安心感が沸き上がる。
「なんだ、びっくりした」
私が声を上げると、その男の子は目をふいっと横にそらして、私の横に置いてあったグランドピアノに目を向ける。そしてふぅと息を吐いた。
――生きてる?
さっき男の子が私に問いかけた言葉。こんな質問をされたのは初めてだ。そしてまだその答えを説いてないことに気がつく。きっと私が答えなくても分かっているのだろうけど、質問されたことだ。答えないといけない。変なところで生真面目だなと自分で思いながら彼に言う。
「うん、生きてる」
変なこと訊くんだね、と付け足し彼の質問に答えた。その答えを聞くと彼はピアノから視線を離し、後ろに向きなおって歩を進める。
長い睫毛と白い頬が、少し固まったように見える。温度のない陶器みたい。
「じゃ、生存確認も済んだし。さよーなら」
だからかもしれない、彼から発される言葉にも温度を感じない。
「ねぇ、あなたの名前、まだ聞いてない」
私に興味がないのだろうという事は態度で分かる。むしろヒトそのものに興味がないのかもしれない。分かってるのに、なぜか呼び止めてしまった。きっと彼は、私になんか名前を教える筋合いはないと思っているかもしれない。
「俺の存在も、忘れていいよ」
だとしたら妥当な受け答えなのかもしれない。
「私、そんなにバカじゃないの。でも、教えてくれなくてはいい」
「なぜ?」
質問しておきながら、彼は私に目を向けない。絶対に。
「言ったでしょう? そんなにバカじゃないの。干渉されるのを嫌う人にあえて近づいたりしないわ」
彼は背を向けたまま。にこっと笑うと続けて言う。
「私は堪能したから、ここ、譲るね」
笑顔でそう言って、音楽室を出る。彼からの返事はない。そっと彼のほうを振り向くと、笑みを少しも漏らさず、ただ、蓋の閉まったピアノを見つめていた。
なんて無機質なんだろう。これが、始まり。
心臓が止まりそうになったのは、音楽室を出てわずか10秒もたたずに、だと思う。触れられてもいないのに、掴まれたように身動き出来ないまま、ただ泣きたくなった。
誰もいない空間に、響く――音。
どこかで聞いたことのあるような戦慄。こんなに切なくなるような曲だっただろうか……
そんなことを思いながら、折り重なる音が、廊下を染め上げていくのを涙目で見ていた。
5.
「私、そんなに馬鹿じゃないの。でも、教えてくれなくていい」
にっこりと、柔らかく、だけどどこか挑むように微笑む。
「私は堪能したから、ここ、譲るね」
その引き際の鮮やかさは、こちらに追い掛けさせるための手管ではない。それは口調と足取りで伺えた。すれ違う際に、彼女が案外小さい事と、オーデコロンのブランドを知る。
ピアノ一台と、僕ひとり。やっとふたりきり。もう一度静かに息を吸って、焼き付いて離れない色彩を目蓋の裏で黙殺する。ゆっくりピアノに歩み寄った。そっと蓋を開けて、端正に並ぶ白と黒にやっと出会えた。
「はじめまして」
ピアノと向き合うときだけ、僕は紳士を装う。
まだピアノは答えない。僕が触れるまで沈黙を守る、その律儀さが好きだ。何を弾こうか……。
自然に引き出された音の、曲名は忘れてしまった。ただの練習曲であまり色気のない名前だったから。
練習曲とは名ばかりの難易度を誇る繊細なワルツ。少しでも練習を怠ったら、真っ先に弾けなくなるのはこの曲かもしれない。これを失いたくないばかりに、憑かれたように弾き続けた日々すらあった。発表会で弾くには短すぎる一曲を、妙に気に入って何度も弾いた。
――蝶が舞うように。そうイメージして弾いてごらん。
習ったその日にピアノ教師にそう言われた。そう言った彼はもういないけれど、今でも忠実に守っているそれは、ある意味遺言と呼べるかもしれない。蝶が舞うように。いつも脳裏に浮かぶのはモンシロチョウだけだった。無彩色の美しい蝶。いつも必ず一羽だけで飛ぶ。普段なら何度も繰り返すそのワルツを、今日は一度だけでやめた。
忘れられないのはあの窓からの景色であって、彼女のことでは決してない。あの時、最後に見せた笑顔は桜よりもずっと儚くて、だからすぐに忘れてしまえると思ったのに。
――私、そんなに馬鹿じゃないの。
どうやら俺も馬鹿じゃないらしい。
別に記憶に残るのは構わない。いかなる感情も付随させなければ、それはただの情報に過ぎないのだし。すべての記憶に意味があるとは限らない。そう心の中で言い訳したのは、なぜだったのか。
黒澤 心音。
はからずしも彼女の名前を知ってしまった。入学式の翌日、クラス恒例の自己紹介なるイベンドで。
同じクラス、か。少し苦々しく思う。昨日名乗ることはなかったのに、お互いの名前を知ってしまう。なかなか皮肉な展開じゃないか。
モネ。珍しい名前。クロード・モネと同じ名前だなんて、彼女の親は絵画が好きなんだろうか。
クロード・モネは十九世紀フランスの印象派代表の巨匠である。僕ですら知っている、有名な画家だ。
光の画家と呼ばれた彼。思わす昨日光景を思い出してしまう。溺れそうな柔らかな日差しと、それを受け止めて振り返った彼女。あの色彩、あの感覚、彼女の――名前。
クロード・モネは生涯、色彩に執着した画家だったらしい。それはそれは、かくも美しい執着だったに違いない。
6.
足を止めたのは、何か軋むような音がしたからで、彼に未練みたいなしつこい感情があったからじゃない。
窓を開けたのかと思った。キィ……と年期が入った音がしたから、すぐ傍にある上質な絵画に触れたくなったのだろう。手で触れてしまったら現実になってしまうのに、と。
なのに――。
舞い踊るような旋律が、軽やかに耳に届く。聞いたことはあるが、題名すら分からない甘やかな曲に何故だか泣きそうになる。自分でも分からない、でも胸を搔きむしりたくなるくらい切なくて、潰れそうになるくらい甘い。
涙目になっているのを理解して、急いで廊下から走り去る。階段を駆け降りている途中で、息を整えるために立ち止まるとそれと同時にピアノの音が途切れた。どうしようもなく、泣きたくなるのを堪えた。
白鐘 巧。
昨日のあの音を創り出した人。無機質な王子様はそんな名前。名前までが王子様みたいだと思いながら、自分の席から見える彼を見つめてみた。名前、を教えてくれなくてもいいと言ったのに、強制的に知ることになったのは、彼がクラスメイトだったから。私以外の何人かの女の子たちも彼に見惚れていて、その事に彼は気付いているようだった。何もかもを疎ましがっているような空気。
あんなに甘くて、切ない音を創るのに。
その距離≠ェそうさせるの? と、絶対にしないであろう質問を飲み込んだ。近づくことはないだろうと思う。けど、少なくとも視線を逸らせない引力を彼は持っている。だから、だから見つめ続けてしまう。
それと、昨日から耳を離れない彼の音。何度でも繰り返えされるのに、少しも擦れない純粋さと精巧さにまだ、胸は痺れているように感じた。
観察するかのように眺めては溜め息。時折誰かの溜め息と重なるのが妙におかしい。
興味なんてひとつもない、なんて思いながら、ノートに彼の名前を書いては消したり。まだキレイな深緑色した黒板を、それらしく見つめながらそんなことしてた。視線を"彼だけ"からはずすことが出来たことに安心して、意識はまだ囚われてることには気づかないふりをしながら。
気になる、訳じゃない。何故かそう、自分に言い聞かせながら……。
7.
過剰な視線と、即席で寄せられる好意をやり過ごしてしまえば、学校生活はだいたい平和だった。いつだって最初だけ、少し忍耐が必要。
「あー携帯持ってないって言ったじゃーん」
媚を含んだ甘い声はいかにも大量生産型で個性に欠けている。そういうものを積極的に人に求める気質ではないので、べつに構わないけど。
四時間目の終わりに携帯電話を開いた途端、それだ。椅子に座ったまま声の持ち主を見上げる。ワンサイズ大きなセーターに短いスカートの、派手な装いの女子生徒が僕の机の前にいた。化粧や髪のセットなどの努力がきちんと実を結んでいる華やいだ姿は、軽薄を通り越してもはや頼もしい。綺麗な女って油断がねえな、と感心すらしてしまうほどに。
「あっ、もしかして覚えてない? ひどーい。あたし昨日メアド訊いたじゃん」
「あぁ……」と無愛想に答える。いたっけ、そんなの。
記憶を辿ったら確かにいた。昨日ホームルームの前に、早くもグループを作った女子生徒に声をかけられたのだった。
「あたし、優っていうの。神原優。」
「あ、そうなんだ」
あからさまに無関心な僕の態度も、彼女はどこ吹く風で。
「白鐘くん、昨日携帯持ってないって言ったじゃん。かっこいーくせに嘘つき?」
「なんだそれ」
「美形はトイレ行かないし嘘つかないんだよー」
「俺、馬鹿嫌いなんだけど」
派手な化粧で笑う様はそれなりに快活で、きっと彼女は自身の魅力を知り尽くしている。確かに表面の一ミリくらいは魅力的に見えた。それでも好ましく思えないのは、薄っぺらいからだろう。
「アドレス、教える理由なんかないから」
「ひどーい」と、上目使いで俺を見上げる。
「俺は酷いんだよ」
「かっこいーくせに?」
わざと音を立てて携帯電話を折り畳む。鞄を掴んで立ち上がった。
「帰っちゃうの?」
「そう、帰っちゃう」
「あたしも一緒に帰る」
「お前はきちんと授業出な」
「やだー一緒に帰ろうよぅ」
「わがまま嫌い」
「いい子に授業受けまーす」
このやりとりをずっと周囲に見られている。密かに集められたクラス中の視線を背負って教室を出た。あっメアド、と優が呟いたのを聞こえなかったことにした。
去り際になぜか黒澤心音を探して教室を横目で見渡した。黒澤心音は教室の真ん中で、他の女子生徒と輪になって昼食を囲んでいる。楽しそうに話を聞きながら、たまに、笑う。
「心音、食べ終わったら購買行こ?」
教室のドアを閉める直前、輪の中の誰かがそう言ったのを聞いた。
生存確認、完了。後ろ手でドアを閉めた。
「白鐘、お前のあだ名、王子だってさ」
昇降口近くの人通りのない廊下で、後ろから声をかけられた。
振り返れば、コーヒー牛乳のパックを持った男子生徒が人懐っこい顔で笑っていた。早くもかかとを履き潰した上靴、コーヒー牛乳と同じ髪色、上履きの色からして一年生のようだけど面識はない。
「クラスの女子がそう呼んでるよ、影で」
どうやら同じクラスの生徒のようだ。
「あんたはあだ名つけてもらった?」
「残念ながらまだなんだよ」
気を悪くした風もなく彼は笑う。じゃあ、コーヒー牛乳で決定。
さよならコーヒー牛乳。再び彼に背中を向けて歩き出す。
「なァ、明日も学校来る?」
来るよ、と振り向かずに答えた。
「じゃあ、明後日は?」
足を止めずに同じ答えを返した。
「しあさっては?」
この場で、向こう一年ぶんの出席確認でもする気なのか。三度目の問いで僕はようやく振り向いてやった。
「しあさっては、土曜日」
「あ、やっと笑った」
「失笑って言葉知ってるか」
もしかしたら知らないのかもしれない。コーヒー牛乳の彼は、僕の百倍感じの良い笑顔を見せた。大型犬に似ている。
「俺の名前知りたい?」
「あー……また今度聞かせて」
と、僕にしては最高に気を遣った返事をした。
昇降口から外に出ると、思いのほか風が強い。春は見た目より穏やかじゃない。典型的な春の一日だった。降り注ぐように散る桜の花びらが少し疎ましい。
8.
どうしても目で追ってしまうのは、彼が気になるからなのか、容姿に見合った流麗な仕種に視覚がさらわれるからなのかは今のところ分からない――と思っていたい。教室の至る所から、通学路の桜のような色をした視線が投げられては、咲く前に散っていた。
なのに、お昼には彼は"王子様"と呼ばれていたし。
「帰っちゃうの?」
「そう、帰っちゃう」
王子様に近づくお姫様候補も行動に移っていた。甘い声には好意がわかりやすい形で盛り込まれていて、よく通る。だからクラス中のみんなが、彼女は優という名前で、王子様は帰宅するという予定を耳にしてた。
私は席が近かった子たちと固まって、ママの作ってくれたお弁当を食べながらそのやり取りを聞くでもなしに聞いていた。たぶん、みんながそうだったんだと思う。よそよそしさが饒舌になると沈黙になるって、当り前で何だかおかしい。好意的なそれは四月に相応しくて、とまどいがちに掛けられる言葉がくすぐったい。
「わ、可愛いお弁当だね」
後ろの席のカナが、私のお弁当を指さし、柔らかく微笑む。左頬にだけえくぼが出て、可愛い。
「そうかな? 昨日慌てて雑貨屋で買ったの。お昼のこと忘れてた」
私も言いながら微笑む。雑貨屋オリジナルの大判のハンカチでお弁当を包んである。ピンク地に白い桜が散ってる。
ママは張り切って早起きをして、お弁当を用意してくれた。真新しい箱に詰められためいっぱいの優しさ。パパのお弁当箱は、これの二倍はあることを思い出して少し笑った。今頃パパも私と同じお弁当をサイズ違いで食べてるのかも。
いつまでも恋の途中のふたりが、夢見がちな私の世界と重なる。今、教室内の私のまわりの雰囲気もそれに近い気がする。きっと、カナの雰囲気がそれを作っているのだと思った。仲良くなれる、と確信を含んだ予感はより、とろりと世界の空気を変えていく。
「箱も可愛いけど、中身も!」
気さくな彼女は即席のグループでも気を遣い、誰の名前もちゃんと覚えたし、話題もわかりやすいものを選んだ。和やかな雰囲気はやっぱり、彼女が作ってくれたものだと思う。肌に優しく触れる想いはあったかい。
「心音、食べ終わったら購買行こ?」
「うん」
私が頷いたときちょうど、王子様は教室から出ていった。
午後の授業は特別つまらなくなるだろうな、と思った。
購買へ行くと、さっき王子様と話していた時とは違う声の優がいて、缶の紅茶を飲みながら午後どこへ行くかを友達らしき女の子と相談していた。それでもどこか、"意識"している仕草にはいっそ尊敬した。ヒトそれぞれに思い描いた世界があって、それに侵入出来るのは自分以外誰にも出来ない。
だって、私は彼女の世界には到底馴染めそうにないし、彼女も私の世界には侵入することすらしないと思う。
「ちょっと暖房効き過ぎじゃない?」
カナは、暑いくらいだ、と、手で顔を扇ぐ仕種をした。自分の頬に手をあててみると、存外熱い。
「私もジュース買っとこうかな」
別に、王子様がいなくて淋しいわけじゃないけどロイヤルミルクティーを買った。缶に描かれた王冠を指でなぞってからひとつため息。
僅かに冷やされた指先。
こんな安いミルクティーですら、彼に繋いでしまうなんてどうかしてる。
9.
次第に盛りを過ぎていく桜を、目で追うことを早々にやめた。新しい環境に適応することに忙しい。きっと誰もがそうなのだろう。そうやって目を逸らしているうちに、夏の気配に気付かされる。
春の終わりに花びらを散らした桜の木も、今は瑞々しい深緑を纏い、すっかりと名誉挽回を果たしていた。
七月。明日の終業式さえ済ませてしまえば夏休みに入る。クラスメイトたちは夏服に変わり、少し髪の色が明るくなった。
そしてこの三ヵ月の間でついに優――神原優――に負けた。なにかと愛想良くかまってくる彼女に、ついにメールアドレスを教えてしまったのだ。だけど、絵文字と記号で難解を極める彼女からのメールに返したことは一度もない。
「巧、夏休みうちに泊まんない?」
「泊まんない」
コーヒー牛乳の彼の名前もわかった。志田楽遼。リョウでいいよ、と彼は言った。それでも志田楽と呼び通してる。妙な意地だった。
「え、なに? 巧のウチってお泊り禁止?」
「……さぁ」
誰かの家に泊まったことがないのでわからない。
志田楽は人付き合いがよくて友人が多い。わざわざ夏休みに遊ぶ相手に、僕を選ぶこともないと思う。彼は世話好きな性格だから、僕みたいな人間を放っておけないのかもしれない。
「なァ明日も学校来る?」
「行かない」
「サボり?」
「うん、学校来るまでが面倒なんだ、暑いから」
「あーわかる。どこでもドア欲しいよな」
「俺はもっと現実的に、自家用ヘリが欲しい」
「それはそれで現実味ないよ」
その楽器屋を見つけたのは八月に入って間もなく、ピアノ教室の帰りだった。夏休みになってからというもの、自宅とピアノ教室を往復するだけの日々が続いている。
すでに大方のカリキュラムを組んだ後に無理矢理入れた今日のレッスンは、いつもよりも遅い時間に終わった。腕時計は午後八時をさしている。帰ってから親と顔を合わせずに済むためには、しばらくどこかで時間を潰す必要があった。そろそろ小言を言われそうなのだ。
教室は駅前の雑居ビルの中にある。すぐに電車に乗らずに、たいしたあてもなく繁華街に出た。酔っ払ったサラリーマンと学生、カラオケ屋や居酒屋の呼び込み、赤茶けたネオン。遠くの夜空だけはひっそりと黒い。
楽器店は繁華街のはずれにあった。ただ歩いていたら見落としそうな、小さな店だった。昼間だったらきっと見逃していたと思う。
ライトアップされた狭いショーウィンドウに飾られた、銀色のサックスに視線を奪われた。どうやら中古の年代物らしい。とんでもない桁の値札がついている。きっとこの店が潰れるまで買い手は見つからないだろう。そして、店主も売る気なんてないのだろう。嬌慢で魅力的で、商品というより看板娘の風情だった。
僕は、看板娘につられてまんまと招き入れられた。自動ドアかと思ったら手動だった。
「いらっしゃい、表のサックス見たんだろ」
店主は古びたレジの前に腰掛け、笑顔でこちらを見上げる。いかにも楽器屋の店主という雰囲気の初老の男だけど、まだ背筋はきちんと伸びている。
他の従業員の姿はなかった。ひとりでここを切り盛りしているのだろうか。
「でもお兄さん、サックスはやらなそうだ」
僕は曖昧に頷き、店を見渡す振りをして目をそらした。木管楽器がいくつかと、それらの楽器のリードや手入れ用の小さな道具。ケースに入ったトランペットも見えた。古びた店を彩る金や銀の楽器の数々。ピアノはないのだろうか。キーボードしか見つからなかった。
「あぁ、ピアノは奥の部屋に一台あるよ」
あんまり歳を喰うと、読心術を使えるようになるのかもしれない。
「そんなにびっくりしなさんなよ。ピアノ弾けそうな手だなって思っただけさ」
そう言われて、慌てて自分の手のひらを見つめたら笑われた。好意的な笑いだった。顔が赤いかもしれない。
「人は見かけによらないものだよ」 負けじと言い返した。
「弾けないのかい?」
「多分、この店の中では誰よりも巧い」
そう答えたら店主は豪快に笑う。人の良さそうな男だった。
「兄ちゃん、この店に俺とあんたしかいないって、そう思ってんだろ? 店の奥に天才ピアニストが隠れてるかもしれないよ」
え、と聞き返す前に、奥の扉が遠慮がちに開く。
「店長、奥の部屋のピアノ、ちょっとだけ触っちゃだめですか?」
聞き覚えのある華奢な声だった。
奥の部屋から出てきた黒澤心音が僕を見つけ、あっ、と小さく声を息を呑む。なるほどこっちが本物の看板娘かと、僕は驚きながらも妙に納得する。
10.
咲き乱れながら散っていく様もどうしようもなく美しい。視界はすべて桜色に、心地よく奪われるのがたまらない。毎日の登下校は今までになく華やかで、優雅なものだった。頬に世界の花びらが触れる瞬間は童話のように甘い。
淡いピンクが舞い踊るのを止めると、零れそうなグリーン。降り注ぐ光さえも支配しているのではないかと錯覚を覚える程鮮やか。入学のときから変わらず、ゆっくりとした歩幅で進む並木道を進む。進みながら上を見上げれば、目を細めてばかりいる。
――――夏。
「萌音!」
振り返るとすっかり日焼けした小林佳奈が自転車に乗り、手を振っている。同じ様に振り返した私の腕が白いのは、並木道の作る影のおかげだ。
「おはよ、今日も暑いね」
「うん、溶けちゃいそう。でも何でか萌音は涼しげなんだよなぁ」
「そっかなぁ。今は木陰の下を歩いてるだけだから割と平気だけど」
口元を緩めて、視線を佳奈から上に移したら、あまりにも澄んだグリーンに眩暈がしそうだと思った。
この何ヶ月かで佳奈とは随分仲良くなった。見た目はきっと対象的。佳奈はこんがり焼けた健康的な肌と黒い髪。少しくせ毛なの、と彼女は拗ねるけれど、それを活かしたショートヘアがよく似合っている。
ふたりで学校が終わってから買い物に行ったり、休日映画を観に行ったり、先週は佳奈の家に泊めてもらったりした。
いつの間にか、ふたりはいつも一緒にいるんだね、と色んな人に声を掛けられるくらいに。
「今日、帰りにケーキ食べに行かない? 萌音のすきそうな可愛いお店見つけたの」
「ごめん、今日はバイトなの」
「そっか、じゃあまた今度だね」
少し残念そうに、でも少し嬉しそうに笑う佳奈はいつも、途中で私を見かけると自転車を降りる。手で押しながら、一緒に学校までの数百メートルを色んな話をしながら歩く。朝のおきまり。通学途中で佳奈が私を見つけるのも、実はいつも通り。大体毎日このあたり、っていうところで名前を呼ばれて振り向く。何十回も繰り返されているのに、いつだって新鮮なのは彼女の笑顔のおかげなのかもしれない。
繁華街から外れた一角に、ノスタルジックな楽器店を見つけた奇跡は私の胸を高鳴らせた。古いフランス映画に出てきそうな外観と、店主の人柄に恋をした気分だった。孫が妊娠し、店を手伝っていた娘がそちらへ行ってしまったという話に飛び付いた。店主は豪快に笑いながらふたつ返事で私を雇ってくれると言った。
シンプルな店内。磨きあげられた楽器達は愛されてる。売る気なんてサラサラないんじゃないかと勘違う程、丁寧に飾られている。
そのシンプルの中に、異色。だけどそれは最高に、素敵で。
だから、たぶんきっと運命めいたものを感じてしまったんだ。ふと開けた扉の向こうにいた王子様に。
そして気がつくのは、桜の舞う中で出会った王子様に対しての"気になる"は、ずっと私の中で咲き続けていたということ。緑の零れる夏に、春に感じたものとは違う予感、を感じた。
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2009/03/19(Thu)15:39:02 公開 / 澪
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■作者からのメッセージ
どうも、澪です。
初投稿緊張しております。
この小説は一話ごとに違う人物の目線で進んでゆきます。
と言っても2人の目線なんですが…。
一話→少年目線、二話→少女目線、みたいな感じで。
紛らわしくてすみません。そして駄文ですみません。
作風的に純情から程遠い私が正統派純愛小説に挑む意欲作でございます。
至らぬ点が多々ありますと思いますので、さくさく評価しっちゃってくださいませ。
感想などもありましたら、ぜひぜひお願いいたします。
ではでは、最後までお付き合いいただければ幸せです^^
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。