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『ユーレイ噺 〜猿渡少年の悲喜劇〜(完)』 ... ジャンル:リアル・現代 お笑い
作者:木沢井
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あらすじ・作品紹介
高二になっても趣味は『ゴミ拾い』と家事全般、もはや人を助けることが習慣化していて、そのお人よしっぷりからか、何故か毎日のように異性に囲まれる少年――を『友人』に持った、冴えてる要素皆無の少年、猿渡浩助の夢がある意味叶ったお話です。
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1【全ては缶蹴りから始まった】
時は十一月も末の、とある夜。猿渡浩助は部活からの帰り道を、軽く息を弾ませながら校門を出る。
(あー、ヤベ)
頼りない街灯の下を、浩助は急いで走る。
まさか、こんなに遅くなるとは思ってもみなかった。『んじゃっ! 後は頼んだよ〜ぅ!!』とテンション高く部長が雑用を押し付けて帰らなければ、あと二時間は早く帰れたかもしれない。M●テだって余裕で間に合ったかもしれない。
(今日は絶対早く帰りたかったってのに……っだー畜生! 何でこんな時にかぎって誰も彼も先帰るかねぇ!?)
本当は、部員七人全員と顧問でやるはずだったのである。はずだったのであるが、
『いっや〜美冬ちゃんがまーた風邪ひいちゃっててね! だからごめんっ!』
と言ってまず部長が離脱し、
『あ、ごめん僕生徒会に用事があったんだ』
『あ、わたしもなんです』
副部長と沖がそのまま帰ってこなくて、
『……嫁に会う時間だから……』
訳の分からないことを言い出した森川が誰にも気付かれずに出て行って、
『おかしがなぁ〜〜〜〜いぃ〜〜〜〜!!』
大食い小動物こと前島がそのまま行方不明になって、
『おおーいかんいかん、急いであの小動物を探しに行かんとなー』
源五郎丸百合絵ことゲンさんがわざとらしく逃げ、
『……えーっとすんません、俺六時からバイトなんで』
部活最後の良心、ヤタベーが抜けた後で、
『……うぅ……』
目尻に涙を浮かべる顧問(女性、27歳、独身)による、無言の訴えに負けて一時間半後――それが現在である。
「くっそー。まさか七時を過ぎるとは思わなかったぜ」
声に出して呟き、浩助は携帯電話の時計を見る。待ち受け画面では、全学年の男子公認のアイドルが笑っている。
「……ああ、いいよなカティちゃん――じゃなくてだな!?」
現在七時四十五分。このままだと晩飯は今頃ラップに覆われた状態で、帰宅した自分を母親と一緒に冷ややかに迎えてくれることだろう。
「俺がこんなついてねえ思いをしてるってのに……」
そんな自分の境遇と比較して、ついつい友人の姿を頭に浮かべる。俗に言う『僻み』である。風邪っ引きの心境と言い換えてもいいかもしれない。
小石を蹴りつつ、浩助はひねた口調で洩らす。
「いーよなー、貴道はよぅ。ああやってカティちゃんと一緒に暮らしやがって……」
背中を丸めて俯き、いつ警察官に声をかけられても不思議ではないほどに怪しさを醸していた浩助は身を屈めたかと思うと、
「くぉんチクショー!! 羨まし過ぎだぜ貴道!! 俺だって、カティちゃんと一緒にいたり、飯作ってほしーっつの!!」
パンクロッカーさながらに仰け反り、下弦の月に向かって吠える。怪しさのランクが一段階上がり、いつ警官が呼ばれてもおかしくない怪しさを漂わせ始める。
この時点で既に『不審者』の称号を世間から拝してもおかしくないのだが、浩助の奇行はまだまだ続く。
「……は〜あ、誰でもいいから、俺にもカティちゃんみたく付きまとってくれる女の子がいたらなぁ……」
独り言の内容が本格的に危険なものになってきていることへの自覚など無論なく、浩助は足元にあった大き目の石を蹴り飛ばした。力を入れ過ぎたせいか、爪先が痛む。
「ってて……ん?」
浩助が爪先を擦っていると、何やら硬い物同士がぶつかる音に続き、重たい石のような物が倒れる音が聞こえたので、そちらに目をやる。
「――っゲェ!?」
ここが市街地だということも忘れての絶叫。そろそろ最寄の警察署に不審者がいるとの通報がなされているだろう。
「うわ〜、やっちまったぜ……」
電柱の傍で、小さな直方体の物体が倒れていたのである。
よく分からないままに小走りで駆け寄り、街灯の下で見ると、浩助の膝ほどの高さの、黒っぽい石であった。あちこちが欠けていたり、刻まれている文字らしきものが薄れている。
「…………」
墓石に、見えなくもなかった。
「と、とりあえず放ってはおけねーよな」
お人よしではないが、さりとて悪人でもない浩助は、元に戻そうと石に手をかける。
「よ、っと……以外に重いな」
時々細かな破片を散らす石を苦労して持ち上げると、浩助は元々あったであろう場所に置いた。石がぶつかったぐらいで倒れるだけあって、少し触るだけでグラグラと揺れている。
「――! やべ、もうこんな時間かよ……!?」
携帯電話のアラーム音で、門限を遥かに過ぎてしまっていたことに気付いた浩助は血相を変えて走り出した。
彼が倒してしまった石から、淡い光が漏れ出ていることも知らず。
(………あの方が……)
親には叱られ、姉から笑われ、飯はやはり冷えてて何故か風呂の湯は異常に熱い。ただでさえやる気のない宿題にいたっては完全に無視。Mス●にもゲームに興じることもなく、浩助は早々とベッドに顔を突っ込んだ。誰だって、嫌なことがあった日は長く夢を見ていたい。姉という、異性への憧れを無反動砲で粉砕してしまうような生き物がいるのなら、尚のこと。
「今夜こそっ、カティちゃんの夢が見れますよーに!」
ジャージにTシャツ姿の浩助は、枕元に置いてあった少女の写真を拝む。
柔らかく広がる黒髪。薄い青の瞳で、彫りの深い、西洋的な顔立ち。細く小柄な体をめいいっぱい使って、浩助の友人である少年に抱きついており、写真の枠からはみ出んばかりの躍動感を感じさせていた。撮る側ではなく、撮られる側のレベルが桁違いなのだと、隅の方で困ったように笑う少年が図らずしも証明していた。
あまりの出来栄えに、写真部の部室で浩助を交えて壮絶な争奪戦が起きたほどの至宝である。
「おやすみ、カティちゃん……」
もう一人の被写体はなるべく無視して、浩助は写真の中の、全男子公認のアイドルに寂しく話しかけると明かりを消し、眠った。
つい先ほどまで自分がいたであろう場所を見下ろし、わたしは思う。
(手も足も……きちんと動く)
髪に触れると、滑らかな感触が分かるし、着ている物にも触れられるのだが、
「…………」
手を伸ばしてみても、やはり無理。
「頼めるのは……あの方しかいませんか」
あまり気品は感じられなかったが、人柄はよさそうだった。もしかしたら、事情を話せば協力してくれるかもしれない。
目を閉じ、“縁(エニシ)”を手繰ってみる。最初は勝手が分からなかったが、徐々に慣れてきている。
「……東……」
そこはかとなく漂う“縁”を辿り、わたしは奇妙な建物が連なる道を進む。
「ごがっ!! ……ん、んん?」
ずっと続いていた鼾が止むと、浩助は不意に目を覚ました。
真っ暗な中、手探りで目覚まし時計を確認すると
「んー……なに、二時……五分て……ぐぅ」
そのまま乱雑に投げ捨て、再び眠ろうとする。
が、
「……あの……」
そんなおり、どこからか微かな声が小汚い部屋に木霊した気がするのだった。
「……あの……」
優しく、だがどこか気遣わしげな、細い声が、再び浩助の耳朶を柔らかにくすぐる――
「って、んなワケないか、空耳アワー空耳アワー……」
「え……?」
のだが、目下のところ睡眠以外はどうでもいいとさえ思っている浩助は微妙な勘違いをしたまま枕を整えると声に背を向ける形で顔を横たえてしまう。
「……ぐぅ」
元々半開きだった瞼が今や完全に密着し、意識が少しずつ自分の手を離れていくような気分になりかけたところで、
「……あの」
細い声が、やや強い語調で呼びかけてくる。
「ん……?」
さっきよりも、近くなっている。
「あの……起きて、いただけませんか?」
「嫌だ」
「そうおっしゃらずに」
「俺は眠いの……!」
布団を頭から被り、声を遮断しようとするのだが、
「そこをどうにか」
声の主も、中々諦めようとしない。
「ああもうウッセェなあ、ったく! しつけぇ、たら……」
そのことに業を煮やした浩助は被っていた布団を投げ捨てるや否や、いつも姉に対してやっているように玉砕覚悟で怒鳴りつけてやろうとした途端、「は!?」とあらぬ方向へと目を向けるなり、
「きゃ――」
「何で俺、空耳アワーの司会者と会話してんの!? タモリが弾けてゲッタウェイ!??」
声の主が驚くことも知らずに、何故か訳の分からないことを叫び出すのだった。現実と夢が入り混じっているのだろう。
「…………???」
「あー……クソ、何かすっげぇどーでもいい夢見た気がする。何だよタモリって。カティちゃんじゃねーのかよ……」
ブツブツと怪しい台詞を洩らす浩助に、声の主は果敢にも訴える。
「わ、わたしは……えっと、『空耳泡ぁ』では、ありません」
「ああ、よく分からんがそりゃ悪か――」
振り返った浩助は、この時初めて、声の主を見た。そして絶句した。
「あ、あの……?」
家族でも友人でも、ましてや浩助達の魂のアイドルでも、ない。
長い黒髪に白装束の、宙に浮いた女性――
「きィあゥイィィィィィィィィィィぁああアあァァァァぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?」
「ひぁ!?」
ほとばしる絶叫。というかむしろ奇声。いやここまで来ると最早怪しい音と書いて怪音。情熱なんてものは欠片もありはしない。あってもせいぜい『恐怖』の二文字だけ。
「な、ななんなあんなあんななんあな……あ、あんた何!? え、ちょ、あんた何、何なの!?? ワッツイズディスイズアペン!!?」
好奇心が恐怖に打ち克ったのか、浩助の震えて定まらない指先が女性を指し示す。
「え、えと、えと……」
壁際まで後退した浩助のどもりながらの問いかけに、宙に浮かぶ女性――と、呼ぶには少々若いようだ――も、困った様子で言葉を詰まらせる。
宙に浮いているため、はっきりとした身長は分からないが小柄であるらしい。絹のような黒髪は腰近くまで伸びている反面、前髪は一直線に切り揃えられている。どこかフワフワした、儚げな雰囲気を持っている。
「あの――」
「は!? もしかしてお前ユーレイとか死神か!? もしかして俺の命とか狙ってたりすんの!? うわやめてくれよ俺はなんも悪いことしてないから成仏してくれナンマイダ〜!!」
うひー! などと意味不明な言葉を並べ立てる浩助に、幽霊のような少女は「あの……」と少々首を傾げて、
「夜分に大声で騒がれて、大丈夫なのでしょうか?」
「…………」
真顔でそう尋ねて浩助を絶句させた。誰だって幽霊みたいな非常識な存在に常識的な指摘をされては、こうならざるを得まい。
「い……いい訳ねーだろ!? つかお前、誰のせいでンな大声張ってると思ってやがんだ、アァ!!?」
「!!」
くわっと目を開き、またしても浩助が大声で怒鳴りつけると、
「……う……えぐ……っ」
「へ?」
顔の半分は袖で隠されているものの、間から見えている、くしゃくしゃの顔は――明らかに、泣き顔だ。
「お、おい! 何で泣いて……」
「えっく、ぐす……っ、うぅ……」
声こそ抑えてはいるようだが、大きな黒い瞳からは大粒の涙がぽろぽろと溢れてはこぼれ落ち、隠す役目しか果たしていない袖へと遠慮なしに染みを作る。しゃくり上げるたびに涙の雫は床にも落ちるのだが、何故かそちらは染みにならず消えてしまう。
「…………」
頭を掻き掻き、浩助は閉口した。混乱し過ぎると一周して冷静になってしまうという話があるが、浩助の現状はまさしくそれである。
(……いや、俺が何をしたってゆーんだよ?)
そう思いつつも、浩助はすすり泣く幽霊(と浩助は思っている)の少女をどうにか泣き止ませねばと思う。
「……ほら、俺、別に怒ってねーぞ? だから落ち着けって、な?」
「うぅぅ〜〜」
なるたけ優しげな声音を作って話しかけるのだが、少女はますます泣き出してしまう。『すすり泣く女の幽霊』と聞けば不気味な印象しかないだろうが、眼前の少女は不思議と愛らしい。
が、彼女が泣き止む気配がまるでないことの方が、浩助にとっては重要であった。
(手に負えねー……)
泣き続ける少女を前に、浩助は白旗を上げるのだった。
「……よう、落ち着いたか?」
「うぅ……はい……」
真っ赤に泣き腫らした目をこすりこすり、少女はさっきよりもずっとか細い声で応じた。幽霊(?)が人間に怒鳴られて泣き出すというのは、今考えても奇妙な話である。
「なあ」
「?」
ようやく完全に落ち着いてくれたらしい少女に、まず浩助は、一番の疑問をぶつけた。
「あんた、名前は?」
「ユキ、と申します。どのような字をあてるのかは……すみません、忘れてしまいました」
「ユキ、ねえ」
引っかかるような点があった気もするが、とりあえず浩助は相槌を打っておく。漢字『にも』詳しくない浩助だが、それらしいものが幾つか想像できる名前であった。
「んじゃ次。お前ってさ、ユーレイ?」
尤もな内容だが、少々ストレート過ぎる。
「あ、え、ええと……」
その証拠に、見るからに気の弱そうな少女――ユキは返答に窮してしまい、またしても、今度は恥ずかしそうに袖で顔を隠してしまう。
「……たぶん、そのようなものだと、思います」
という返答が得られたのは、秒針が一週半を終えた頃であった。
「たぶんって、まーたテキトーな」
「す、すみません……っ」
浩助の何気ない一言に、ユキは過剰なまでに反応する。目尻には、またしても涙。
「うわったた!? ちょい待ち! ストップストップストップ!」
「…………?」
「悪かったって! な、別にそんな気にしてないからよ」
「はぃ……」
今回は浩助がすぐに謝ったのが功を奏したか、ユキはすぐに泣き止むと、微かに苦笑を見せてくれた。
「すみません。先ほどからみっともない姿ばかりを……」
「うっ、だ、だから別にいいって」
いつ泣き出すか予想のできない厄介な奴――という浩助のユキに対する第一印象が揺らいだ瞬間であった。
「……あの」
「? ――こぉッ!?」
ユキを刺激せぬよう奇声を抑えかけた結果、余計に奇妙な声が放たれる。
ユキが、下からこちらの様子を窺うように覗き込んでいるのだ。
「わたしは、貴方さまのお名前を存じていません。もしも、差し支えないのであれば、教えていただけませんか?」
「……お、おう」
軽く頷いた浩助は、気付かれないよう目の焦点をユキからズラした。
(ヤベ……今気付いたけど、こいつって――)
「?」
浩助の沈黙が気になるのか、ユキはこちらをじっと見つめたまま首を傾げていた。
真っ直ぐの黒髪はユキの無邪気な動作に沿って緩やかに流れ、日本人形を思わせる白い頬や細い首、白装束に包まれた小さな肩にかかっている。憂いを含んだ黒瞳を縁取る長い睫毛ににはまだ涙の雫が残っており、それが仄かに赤く色づいた頬と組み合わさることで人形のようなイメージを打ち消し、浩助に少女の愛らしさ、あどけなさを感じさせていた。
(カティちゃんに……ひひ、匹敵するくらい、メチャクチャ可愛い部類に入るんじゃねーの?)
反射的に絶賛しかけたが、ギリギリのところで浩助の本能が踏み止まらせた。
(ふう、危なかったぜ)
「……あの」
「!!?」
すぐ目の前にいるユキを見て、浩助は再び絶叫しかけるが、こちらも危ういところで踏み止まる。流石に、喉が限界に近かった。
「お名前……教えていただけないのですか?」
「い、いやそんなことは――」
ないぜと、浩助が不安げな様子のユキに答えようとした、まさにその時、
「くぉうすけぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
扉がたわむほどの勢いで押し開かれると同時に、目のやり場に困る恰好の女性は、手に持つスリッパを見事なオーバースローで浩助に投擲すると、仰け反った浩助の膝に飛び乗り、
「死ねィ!!」
「ぐぇふぅ!??」
本職の人間ですら青ざめかねないほどに容赦も非の打ち所もない、完璧なシャイニングウィザードを側頭部へと叩き込んだのだった。
「ってぇ……!!」
鞭打ち確定の一撃をもらいながらも、浩助は彼女に怒鳴る。
「な、何すんだよ姉ちゃん!?」
「黙れィ! 人様が明日のデートもといレポートのために徹夜してる隣で奇声なぞ発しおってからに……このバカが! バカが!」
浩助をも凌ぐ大音声と迫力をもって反論を圧殺した上で、大学生の姉――プロレスサークルの『マネージャー』である猿渡夏月(かづき)は、往年のレスラー天山ばりのアナコンダ・バイスで浩助を締め上げる。
「ぐぇ……や、め……死ぬ、マジで死……!!」
「ああ死ね! お前が死ねば諸経費が一人分浮く!!」
などという暴言も辞さず、ひとしきり暴れて叫んでストレスを発散したらしい夏月は、浩助をベッドに放り捨てると、汗に濡れた髪を掻き揚げどすどすと嵐のように部屋を立ち去った。
「……かッ、か……」
残されたのは死体――もとい、痣と生傷だらけの浩助と、
「……あ、あの」
目と鼻の先で人間が吹っ飛ばされるという驚異の瞬間を目撃してしまい、ただただ部屋の隅で泣きながら怯える他なかったユキであった。
「……ご、ご無事ですか?」
「ゲホ……っ。あー、一応生きてるっぽい」
ユキが気遣わしげに尋ねると、浩助は丸めたティッシュを鼻の穴に詰めながら悪態を吐く。いかにもこなれた様子が、より一層の哀しさを引き立たせる。
「くそっ、あの暴力の権化が」
無論、小声である。四〇デシベル以上での発声は死に直結するのだ。
「あの方は……ええと、『くぉうすけ?』さまのご家族なのですか?」
「俺の名前は浩助だ、こ・う・す・け。……んで、信じられないと思うけど、あいつが俺の姉貴――」
「――浩助」
不意に聞こえた姉の声に反射的に振り向くと、開けっ放しの扉の前に夏月が立っていた。
その位置から少しでも動けば、死角になっている浩助の肩越しに、ユキの姿を見ることができてしまう。
(やべ……さっきは頭に血ィ昇ってたからバレてなかったみてぇだけど……)
ぎぎぎ、という擬音でも聞こえそうなぎこちない動作で、浩助は首だけを夏月に向ける。
「な、何だよ。まだ何かあんのかよ?」
「いや、別に用と言うほどのことでもない。ただ、一つどうしても言っておきたいことがあってな」
と言って夏月は、どこか哀れみに満ちた視線を弟に向ける。
「お前、さっきから『独り』で何を叫んでいるんだ?」
「は……!?」
「……まあ、悩める年頃ってやつか」
だが次はないぞ、と言い残し、今度こそ夏月は出て行った。
(いやいやちょい待ち)
さっきの夏月の言葉は、浩助の頭でもおかしいと気付けた。
深夜二時過ぎの弟の部屋には、宙に浮かぶ、白い着物姿の美少女がいるというのに、どうして夏月は「独りで騒ぐ」と言ったのだ?
「ね、姉ちゃん!」
部屋を飛び出した浩助は、死を覚悟しつつ姉を呼び止める。
「あ?」
「俺の部屋に、誰か見えないのか?」
「いや何も。それよか愚弟よ、映画のジャンルは本命でアクションもの、大穴でホラー、意外性で純愛の三択ならどれがいいと思う?」
全く興味なさげに、夏月は弟の言を『戯言』として聞き流していた。目下のところ、彼女が関心を持っているのは午前中に提出するレポートと、午後から彼氏と映画に行くことである。本人曰く『恋愛真っ盛り』なのだそうな。
「無難に本命で……つか、何だよその選択肢――ってだからそれどころじゃねえっての!」
「何を言う。真剣に質問をしているっていうのに」
心底どうでもよさそうな夏月だったが、「浩助」と呼んだ彼女の顔は真剣みに満ちていた。
「お前、今年でもう高二だろ? お前の友達の森なんとかかナニ森だか忘れたが、あいつみたく現実と妄想の区別がつかない、なんてことはなかろうな」
「ぐ……っ」
夏月は畳みかけるような弁舌で浩助の思考を封じた後、『異論はあるまい? というかあっても言わんよなぁ?』と言わんばかりに一睨みし、完全に沈黙したのを確認してから悠々と自室に戻っていった。弟の性質を完璧に知り尽くしている。
(何なんだよいったい……)
そろそろ煙を噴出しかねない頭を撫でさすりつつ浩助が部屋に戻ると、ユキが所在なさげに宙で正座していた。どういう原理で浮いているのかなど、昨日物理の教師に呼び出しを喰らった浩助には皆目見当もつかない。
「……なあ」
何かを咎められると思っているのか、声をかけられたユキが肩を震わせる。
「お前って、俺以外の奴には見えないのか?」
「……ええと、そうだと、思います」
何ともあやふやな答えだった。
「お前にもよく分かんねえの?」
「いえ、自信はあまりないのですけど……思い当たる節は、あります」
ユキ自身も確証はないということだろうか。俯いた状態で、本当に自信なさげに口を開く。
「こうすけさまとわたしの間には、“縁(エニシ)”が結ばれています」
「エニシ?」
首を傾げる浩助に「こうすけさまは、袖擦り合うも多生の縁、という言葉をご存知ですか?」と訊くが、あっさりと首を横に振られる。一週間前に国語の教師からも呼び出しを喰らっていたのは伊達ではない。
「『多少の円』って何だよ。千円くらいか?」
「まあ!? 千円で多少なのですか!?」
は? と浩助は面食らった様子で眉根を寄せるが、「こうすけさまは、お大尽さまだったのですね……」と独り感動していたユキも、暫くするとちょっとだけ首を傾げ、「あ」と声を洩らす。自分と浩助の間違いにようやく気付いたらしい。
「ち、違います。お金の円ではなく、縁結びの縁です、こうすけさま……!」
「え、そうなの?」
じゃあそう言えよ、と言う浩助に、頬を赤く染めたユキは「うぅ」と可愛らしく唸りながらも根気強く説明しようとする。
「お、お爺さまが仰るには、“縁”とは『モノとモノを繋ぐ、線のようなもの』だそうです。それがあって、人と人が結び付くのだとも」
突然幽霊っぽい少女が口にした非現実極まる話に、さしもの浩助も軽く眩暈を覚えた。ゲームか漫画の主人公みたいな友人がいるのは認めても、そんなファンタジーじみたことがあってたまるか。
「そ、そんなのが本当にあんのかよ?」
「“縁”を辿らなければ、わたしはこちらまで参れませんでした」
そう言って、ユキは天井を指さす。そんなこともできるのか、と浩助は純粋に驚きつつ不純な想像と結び付けてしまう。
「……若干ストーカー?」
「?」
「い、いや何も。つかよお前、もしエニシだかエミシだかがあったとしても、何で俺との間にそれがあるんだよ?」
浩助が言うと、ユキは悲しげに目を伏せる。彼女の目尻には、光る何かが。
「…………」
「な、何で黙るんだよ」
「……こうすけさまは、お墓のことをお忘れになられているのですね」
「墓ァ? 墓なんて――あ!?」
そこまで言いかけて、ようやく浩助は思い出した。声もそれに比例にした声量だったが、隣りにひそむ恐怖と書いて夏月と読む存在に怯え慌てて抑える。
学校の帰り道――貴道が羨ま憎らしい――石を蹴る――その石が――
「あれお前のだったのか?」
「は、はい……」
浩助の声に怯えつつ、ユキは頷いた。
何だってんだよ、と浩助はこぼす。
墓石に石をぶつけたら真夜中に着物姿っぽい幽霊みたいな女の子が現れて、しかもどうやらその姿や声は自分にしか見えていないらしくて、しかもいきなりお金の話やら胡散臭い話やらを並べ立てているこの状況、いったい何と説明すればよいのやら。しかも誰に。
(……あー)
兎に角、色々と短時間の間に並べ立てられ続けていたせいで、浩助の頭は限界に近かった。
「……それで、ですね」
「俺、もう寝るわ」
「こうすけさまに、是非ともお願いしたいことがありまして――こうすけさま?」
「おやすみー」
「あ、はい、お休みなさいこうすけさま……ではなくてですね、あの、こうすけさま? こうすけさま?」
ユキは何度も呼びかけるのだが結果は空しく、浩助は頭から布団を被ったきり、今度こそ目を覚まさなかった。
「どうしましょう……」
何を言っても起きる様子のない浩助に、
「このままだと、こうすけさまは――」
ユキは小さく、彼にしか聞こえぬ声で呟いた。
深夜の住宅地に、鈴の音が鳴る。
「あー、コレか」
「うむ」
ポリポリと獣の耳を生やした頭を掻く女性に、漆黒の翼を持った少女は荘厳ささえ感じる声音で頷く。
「えーと? これって放っといたらまずいんだっけか?」
「故にこそ貴様を呼んだのだ、莫迦たれが」
「カラスが言うなよ、カラスが」
歯に衣着せぬ少女の物言いには顔色一つ変えず、女性は、的確に少女を苛立たせる一言を気だるげに放つ。少女の外見は、肌や装束の一部を除けば黒一色であった。
「きさ――」
「で、具体的な質問なんだけどさ」
涼やかな余韻を残して、鈴が鳴る。
やはり気にした様子もなさげに少女を押しのけると、女性はマイペースに続ける。
「わたしが何をするかってのはさて置くとしてさ」
「……何だ」
こめかみの辺りを押さえつつ、少女は促す。
「コレって、何だっけ?」
腰まで届く長髪と飾りの鈴を揺らめかせながら屈むと、女性は電柱の影に佇む、黒っぽい石を指さして訊いた。
「…………」
殺してやりたい――そう少女は思ったが、やむを得ず押し留めた。
「よく聞け牝狐、これはな――」
そして、律儀に解説してやるのだった。
2【全ては石蹴りから始まった】
まぶしい。目覚まし時計のアラーム。うるさい。気分よく寝てるってのに。
「んん……」
手探りで目覚まし時計のスイッチを切ると、ためらいなく床に放り捨てた。
「くぁ……っ」
目を開け、あくび交じりに身を起こした浩助は、清々しい気分で窓のカーテンを開ける。隙間から漏れる程度だった朝日が窓いっぱいから入り込んできた。理屈は分からないが、晴れだと寝覚めがいい。
「いやー、いい気分だ」
こうしていると、昨晩の悪夢じみた一連の出来事が嘘のように思えて――
「……あの」
いたのだが、背後から聞こえたのは昨夜と同じ――だが、幾らか緊張の薄れた――細い声。
振り向きたくなかったが、そうもいかない。
「お早うございます、こうすけさま……」
窓に背を向け振り向くと、白装束の幽霊(らしい)少女のユキが宙に浮いた状態で三つ指をつき、慎ましやかな挙措で深々と頭を下げてきたのだった。
「……おう、おはよ」
嫌そうな顔はしつつも、律儀に挨拶を返すあたりに浩助の人柄が出ている。
顔を上げるユキを他所に、浩助は部屋に視線を移す。夏月の乱入による爪痕は、手付かずのまま残っていた。
(やっぱし夢じゃなかったのかよ……)
時間が経つにつれて痛み出していた首筋を擦りつつ、浩助は重いため息を吐いた。
「あ、あの……」
「あ?」
そんなおり、心配そうな表情のユキが音もなく身を寄せ、
「よく分かりませんが、元気を出して下さいね?」
「お前……」
健気に話しかけてくると、浩助は思わず心を和ませる――
「ワケあるかっつーの! 誰のせいだと思ってんだよ!?」
どころか、憤怒の形相でユキに怒鳴ったのだった。昨夜の夏月との一件は、すっかり記憶から抜け落ちてしまっているらしい。
「う、うぅぅ……」
「はっ!?」
俯き、今にも泣き出してしまいそうなユキに、浩助は慌てて「わ、悪かった悪かった!」と謝る。どうもこの幽霊、かなりの泣き虫なようだ。
「すみ、ません……」
「あー、いいからいいから」
少しずつ治まってきているらしいユキに『何てメンドクセー奴……』と浩助は内心で悪態を吐きながら、何故か部屋の真ん中ほどに転がっている目覚まし時計を拾い上げ、
「んげぇ!?」
短針が『8』を指していることに気づいた。長針は既に、次の一周へと向かっている。完全なる寝坊であった。
「おま――」
ユキに『何で起こさなかった!?』と言いかけるが、とっさに呑み込んだ。ユキが現代の学校制度や浩助の身分について知っている可能性が低いとか事前に教えていなかったから仕方がないとかそうした理由ではなく、単にまた泣かれるのが面倒だったからである。
「こうすけさま?」
「何もない、気にすんな! ……くっそ、ついてねぇな!」
刻一刻と時間が失われていく中、浩助は着ていたTシャツを脱ぎかけ――そこでユキに一言。
「……見るなよ?」
「え? ……っあ、は、はい、分かりました」
浩助の言葉の意味を察したユキは恥らうように顔を両手で隠し、背を向けた。
(……やべ、何かカワイイかも)
一連の初々しい仕草に微笑ましさを覚えつつ、急いで浩助は詰襟に着替える。
「飯――は、食ってる暇ないよな」
名前だけの勉強机の上にあるスナック菓子の袋を学生鞄に捻じ込んだ浩助は、ドアを蹴破らんばかりの勢いで部屋を飛び出す。こうした部分に、姉との共通点を感じる。
「お前は部屋で大人し――ぅえ!?」
床がフローリングであったこともあり、浩助は勢いよく足を滑らせてしまう。しかも、
「おわぁ〜〜〜〜〜〜〜!?」
真っ逆さまに、階段を転げ落ちていった。
「こ、こうすけさま……!?」
突然の事態に動揺したユキは、階段の下で八月下旬のセミのように仰向けに転がっている浩助の傍へと文字通り飛んでいった。
「大丈夫ですか、こうすけさま……!!?」
「か、辛うじて……」
気遣わしげにユキが言葉をかけると、浩助は弱々しいながらも答えた。顔や手足にかすり傷が見られるが、特にこれといって深刻な怪我はなさそうであった。
「そ、そうですか。……よかったぁ」
「お前……」
目の端に涙をためて安堵の表情になるユキに、浩助は思わず胸が熱く――
「って!、ンなノホホンとしてる場合じゃねーよ!!」
「ひゃい!?」
なる前に、最早癖になりかけている怒鳴り声を上げるのだった。
「あ、あのこうすけさま? お怪我は――」
「気にしてる場合じゃねーんだよ! もし遅刻したら、俺の皆勤賞が、内申が……!」
「は、はあ……?」
割と切実な口調と内容は残念ながらユキにはさほど伝わっていないようだったが、気にせず浩助は玄関の靴箱にある置き時計で八時十分であることを確認しつつ、使い古した靴に足を突っ込んで玄関を出る。その際、ガレージの車の有無を確認。あった。鍵はかけずに公道へ出ると全力で走る。
(学校まで徒歩二十分、多分全力で走ったら間に合いそうだが……ったく、俺は運動部じゃねえっつーのに)
と愚痴をこぼしつつ走っていた浩助は、意図せずして小石を蹴ってしまった。
(……おい)
その石は、
(待てよ)
大きく弧を描き、
(いくらなんでも)
ゴミバケツを漁る野良犬の頭上に、
(当たりやがった……!)
野良犬がグルル、と喉を鳴らして威嚇するより先に、浩助は必死で駆けた。
「こうすけさま! 犬が、犬がそこまで来ています……!!」
「分かってらぁ!!」
何故か過剰に怯えるユキへと半ばやけっぱちな思いで怒鳴り返す傍らに、浩助は思う。
(ヤベ、何だか知らんが今日は厄日だ)
野良犬から逃げ切った直後にバイクが走ってきて、それを全力で回避したらちょうど車庫からでたらしい車に撥ねられ、受け身を取ろうとしたら溝に落ちて、汚れを落とそうと近場の公園に行ったら何故か水道管が破裂したのでずぶ濡れになりながらその場から逃げた浩助は、
「こりゃ! もっとキビキビ歩かんか!」
「……へィ」
校門の手前で人使いの荒い老人に捕まり、やたらと大きくて重い風呂敷包みを運ばされていた。しかも、学校とは真逆の方角に向かって。
何やってんだ俺は、と思いつつ、浩助は声には出さない。これ以上の厄介ごとはまっぴらだった。
「まったく! 近頃の若いモンは本当に体力がないのぅ! 今を遡ること五十余年、御国のためならばと一意専心の思いで日々を宮元武蔵の五輪の書に準え、よくよく鍛錬に明け暮れる傍らで――」
(あーウルセー……)
延々と過去の昔話と平成になってからの世の中についての愚痴を語る老人に、浩助は表情も内心もウンザリしていた。しかも、同じ内容を繰り返し繰り返し喋るので、イラつきは二倍にも三倍にも膨れ上がる。
「こうすけさま……」
「今は話しかけんな」
「あン? どうした小僧?」
「い、いや何もないっす」
ならば無駄口を叩くでない! という怒声に始まり、またしても長広舌を振るう老人に浩助は、『そろそろ血管切れるんじゃねえのかこのジジイ』などと、失礼な想像をしていた。
「も、申し訳ありません。その……わたし、とても不注意な真似をしてしまい……」
そんな浩助の横では、またしても顔を伏せたユキが泣き出しそうな様子で宙を漂っていた。
精神的に迷惑この上なかった。黒田ナニ吉とかいう老人は未だに喋り続けているし。
「いやのぉ、すぐ近所じゃで、車を使うのはどうも気が引けとってのぅ。ほれ、あれじゃて。近頃は地球が暑くなっとるんじゃろ? んん?」
(だったら俺にも優しくしたっていいだろ……!!)
と悪態を吐きつつも、結局浩助は道程の半分ほど戻される破目になった。
「お前さんみたいな小僧でも出会えて幸いじゃったわい! これも仏さんのお陰かのぅ」
うむうむ、と満足げに頷いた老人は、軽々と風呂敷包みを抱えてブザーを鳴らすと、玄関から出てきた老婦人と親しげに会話しながら中へ入って行くのだった。
「自分で運べんじゃねえかよ……」
やるせいない気持ちに浸るのもそこそこに、浩助は自分の置かれている状況を思い出す。
「あの、こうすけさま――」
「こうなりゃせめて一時限目だけでもっ!」
ユキが何事か言いかけたが、今の浩助の頭には『出席』の二文字しかないため、右の耳から左の耳へと通り過ぎてしまった。
「…………」
少しだけ悲しげに、そして未練がましく後ろを振り返っていたユキだったが、すぐに浩助を追って飛ぶ。
ユキの視線の先には、昨日浩助が倒してしまった黒い墓石があった。
一部始終を、一羽のカラスがじっと見つめていた。
カラスの右眼は潰れていて、縦に大きな筋があった。
幾多の苦難を乗り越え、疲労困憊満身創痍の浩助だったが、遂に広く開放された校門の前に立つ。
「……何で俺、ただ学校に通うだけでこんな苦労してんだろ?」
という心情の吐露も忘れずに。
「ええと……こうすけさま?」
可愛らしく小首を傾げたユキが、校門を示して尋ねる。
「こちらの看板には『校学等高四第立市市町路田』と書かれてありますけれど、何と読むのですか?」
「逆だよバーカ。何で右から読んでんだよ」
面倒くさそうに応じて、浩助は門をくぐりかけた時、
「ん?」
ふと、小さな違和感に気付く。
「あれ、なーんかおっかしいぞ……」
頭を掻き掻き考えるが、ろくな理由など思い浮かばない。全ての数学の授業で居眠りもしくは余所見を貫く不勉強さは伊達ではないのだ。
「ま、いっか」
五秒弱で諦める。
「――あら、浩助じゃない」
「あん?」
唐突に投げてよこされた少女の声に、浩助は左手を見る。長身にジャージに短パン姿の似合う、ポニーテールが特徴的な少女が走っていた。
「おはよっ」
「お、おお……」
一年後輩であるにもかかわらず、彼女は強気な笑みを見せながら手を振ってきた。思わず、浩助もつられて挨拶を返す。
「こうすけさま、こちらの方は……?」
控えめながら、しっかりと聞こえるように話しかけてくるユキに、浩助は「ああ」とそちらに目を向けながら答えかけてしまったことに気付き、焦って口元を手で隠してしまう。
「は?」
端的に表すと、傍から見る分にはかなり怪しい行動をとっていたのだった。
「どしたの、いよいよ頭がおかしくなったわけ?」
「いい、いいや何でもねえよ。中学からの俺の知り合いだったら分かるだろ、国本(くにもと)?」
とごまかしつつ、ユキにも聞こえるよう、少々わざとらしくも彼女――国本桜に答える。
「ふぅん」
興味なさげに呟くと、国本は浩助の前で足を止める。
こうして並んで立つと目線がほぼ同じ位置にあるため、改めて長身だと分かる。中学校から続けている、陸上部でのトレーニングで鍛えられた肢体は一切の無駄がなく、女性らしさが浮き出たその姿は猫科の動物を連想させる。冬だというのにやや日に焼けた肌とポニーテールが、そこに健康的な雰囲気を加えていた。
忌々しいことに彼女も『貴道』の知り合いだったりする。
「そーいや、何で国本が走ってんだ? お前ンとこのクラスって月曜の一限目体育じゃなかっただろ」
「あ、すごい覚えてたのね」
冗談めかして笑う桜だったが、「あんた本当に大丈夫?」と急に心配そうな口調で尋ねてきた。
「おい、何だよその言い草。つか、さっきのもどーい――」
「冗談で言ってるのか知らないけど、今日は土曜日よ?」
「――は?」
土曜日よ、土曜日よ、どようびよ、ドヨウビヨ……――
桜の声が頭の中で木霊している。フラフラと脚が覚束なくなっている浩助は、校門に背中を預ける形になってようやく立っていた。
思い当たる節はたくさんあった。一と二限目の体育の後、三限目が野澤先生の古典の時間だったので居眠りしていたし、●ステを楽しみにしていた自分のことも思い出した。
「……ちょっと、まさかとは思うけど、あんた本当に間違えて学校来ちゃってんの?」
「……おう」
という浩助の返答は予想していなかったのか、急に桜は『大丈夫』『そんな日もある』と、過剰に気遣わしげな言葉を並べ立てる。上司のカツラが周囲に露見してしまった部下の気持ちが、今の彼女には理解できるのだろう。きっと。
「何があったか知んないけど、疲れてんだったら帰って休んどきなさいよ」
という言葉を背中に受けて、またしても人使いの荒い黒田老人に荷物運びをさせられ、その後は若葉マークの暴走車、不気味なカラスの群れ、ベタなところでは作業員が電柱から落としてしまったスパナなどがあるが、
「バカ面をわたしに晒すなこのボケタレがッッ!!」
何故か究極的に不機嫌な姉、夏月による上段内回し蹴りが、この日の浩助の運勢を決定付けた。
今日は外出するまい――そう決意した浩助の午後は、頭痛とともに始まったのだった。
「何であんな技まで身に付けてんだよ。ったく」
自室でそうこぼしつつ、浩助は左頬からこめかみにかけてできた見事な青痣にお湯で濡らしたタオルをあてがっていた。患部を冷やさないあたり、妙に慣れている。
「こうすけさま、大丈夫ですか?」
「おう」
いつものことだからな、とごく普通に答えたりもする。
「それにしても、こうすけさまのお姉さまは、すごい方なのですねぇ」
蹴られた痕を痛ましげに見つつ、ユキは感嘆の言葉を口にする。
「だろ? 女とは思え――」
言いかけて浩助は口ごもり、小声で「思えねえだろ?」と訊いた。昨夜のシャイニングウィザードの痕は、いまだに色濃く残っている。
「昔からあんなんだったけど、付き合ってる人の影響で本格的に格闘技にハマり始めててさ、それからはあんなんだよ。今じゃサークルの人でも中々勝てないんだとよ」
「かくとうぎにはまり、とはどういうことなのですか?」
「? 殴り合ったりして戦うのにハマるっつーことだが?」
「ま、まあ」
困ったように弱々しく笑みながら、ユキは相槌を打った。
「ずいぶん、お転婆と言いましょうか……あのようなご婦人もいらっしゃるのですね」
「ご婦人って柄じゃねえだろ。ありゃ武人だ、ブジン」
間延びした声で語るユキに、浩助は笑い混じりに言い返す。壁越しに夏月のくしゃみが聞こえると、思わずユキと顔を見合わせる。
「……来ない、よな?」
「は、はい……」
つられて、ユキまで真剣な面持ちで頷く。十秒ほど経っても、嵐のような姉の襲来はない。
ふぅ、と息を吐いて、浩助はリラックスする。監視の目を免れた脱獄囚のような心境であった。
「ったく、どんだけ人様の心臓に負担をかけたら気がすむんだよ」
鈍痛を訴える青痣をタオルで押さえながら、ごろりと床に寝転がる。あんな漫画じみたことが何度も起きれば、流石の浩助も外出する気はすっかり失せていた。
「こうすけさま」
「あん?」
顔だけ向きを変え、ユキが浮遊している方へと顔を向けると、彼女はどこか思いつめたような、緊張した表情でこちらを見つめていた。
「どしたよ?」
「こうすけさまには、どうしてもお話しておかなければならないことがありました」
一文字に結んでいた唇を解いたユキの声音は、いつになく真剣みを帯びていた。
「な、何だよ?」
「はい」
ユキは宙に浮いたまま居住まいを正し、睫毛に縁取られた瞼を閉じる。ただそれだけで、ひ弱な印象しかなかった少女が凛とした空気を匂わせるようになる。
自然と浩助が身を起こしていた時、ユキは短く、深く息を吸うと目を開き、
「こうすけさまに、わたしの“未練(ミレン)”を、晴らしていただきたいのです」
余計な飾りを付けず、単刀直入に告げたのだった。
「は?」
まず反射的に、そんな対応しか浩助はできなかった。
「み、ミレン? ミレンってあの、ミレンだよな?」
情報は全く増えていないが、ユキは「はい」と頷く。
「昨夜は言いそびれてしまいましたが、それだけはどうしてもお伝えしなくてはと思い立ちまして」
「ふぅん」
分かっているのかいないのか、という曖昧さ以前に、何とも芸のない相槌であった。
「まあ、言いたいことは分かったけどよ、何で俺がそんなことしなきゃならねーんだ?」
そして根本的な部分が抜け落ちてしまっていたらしい。
「う……」
「げ……っ」
だからこうして、再びユキが目に涙を浮かべ出す。
「わ、わたしと、こうすけさまは、“縁”でっ、だから、見えているので……他の、かたは……」
「ああああ分かった分かった! エニシな、エニシ。うん俺思い出しちゃった! だから泣くな! な? な!?」
などと云々、貧相なボキャブラリーから必死になって拾い集めた言葉で作った謝辞を並べ立てた末に、ようやくユキは袖で目じりを拭い泣き止んでくれた。
「……わたし、またもやこうすけさまにみっともない所をお見せしてしまい、本当にすみません……」
「いーよいーよ、気にすんな」
生真面目に頭を下げるユキへ適当に返し、浩助は内心汗を拭う。得体が知れないとはいえ、目の前で女の子に泣かれると妙に居心地が悪い。
(つ、疲れる……)
まだ気まずそうにこちらを窺うユキ。このままだと精神的によろしくないことは浩助の頭でもよく分かった。
「よぉ」
「?」
なので、話題を変えてみたりする。
「そういえばお前って、年いくつ? 俺は十七なんだけど」
デリカシーまでは頭が回らなかったらしい。
「わ、わたしですか?」
「そ。見た目的には俺の友達とあんま変わらんよーに見えるけど、実際どうなんだよ?」
ほれほれとせっつかされ、それこそ泣き出しかねない様子のユキは、何故か両手の指を何度か曲げ伸ばしした後、
「……七つまでは数えた覚えがあるのですが、それ以上は」
そこでユキの言葉は、ぷつりと途絶えてしまう。
黙ったまま俯いてしまうユキに、浩助は自分が地雷を踏んでしまったことに気付く。
「ま、まあそーいう奴もいるさ! きーにしなーいしなーい!」
そこでとった行動が、やたらと道化てみせることなのだが、
「…………」
「…………」
外してしまった場合、行った人間が感じる気まずさは尋常ではない。
「……そう、なのでしょうか?」
浩助は鼻に指を突っ込んだままの姿で『どうせならもっと早く返事してくれよ』と思いつつ、か細い声で呟いたユキに再度念を押しておく。なんとなくだが、今日はしなくてもいい苦労ばかりしている気がする。
「……あー、そういや今日は厄日だっけ」
「?」
何でもねえよ、と不思議そうにしているユキをあしらう。
(そーいや、年っつーか……何モンだ、こいつ?)
学校の名前を右から読んだりするなど、浩助が覚えているだけのユキの言動からも、彼女の不審な点が見て取れる。
(可愛いのにすっげー年寄り臭いところもあるし、絶対普通の奴じゃねーんだろうけど……もしかして、烏丸さんの親戚とかか? 何となく和風っぽいし)
と思考が友人の知人であるリアルお嬢様にまで及びかけた時、
「お」
「ぁ」
浩助の腹が、勢いよく空腹を訴え出たのだった。
「ああそっか、もう昼かよ」
時計を見て、浩助は洩らす。そろそろ母親が食べに来いと呼びに来るかもしれない――そう思い、中途半端に冷えたタオルを片手に立ち上がる。
「今からちょっと飯食ってくるけどよ、お前は?」
「わ、わたしですか?」
下手にユキを刺激しないよう言葉に注意を払いつつ、浩助は「お前、ユーレイみたいのものらしいけど、腹空かないのか?」と訊いてみた。彼女が食事をしている場面を、浩助は一度も見ていない。
「あ、は、はい。大丈夫……です。あ、そういえば、お腹が空きませんね」
「今更かよ」
苦笑いしつつ、ふと思い出したことを一つ伝えておく。
「結局、お前のミレンとやらを俺はどーすりゃいいんだ?」
「それが……」
俯いたユキは、不安げに指を絡ませていたかと思うと、やがてその話題を持ちかけてきた時と同じく、単刀直入に告げた。
「……わたしにも、よく分からないのです」
その日、初めて浩助は自ら床に頭を打ち付けた。
「で、これが姉貴に回し蹴りくらった時の痣。こっちが金曜の脳天唐竹割りの痕」
そう言って、浩助は左頬や腕に残る楕円形の青痣を、級友二人に見せた。
「災難というか、お前らしいというか……どうせだったら、右も蹴られてくりゃあよかったのに」
身も蓋もないことをズバズバ言う、糸目で身長一八〇.九センチを誇る少女、源五郎丸百合絵ことゲンさんと、
「げ、ゲンさん……」
彼女の一つ前の席に座り、「いくらなんでも、それはちょっと」と語気も弱く嗜める少年――蔵岡貴道(くらおかたかみち)の二人である。
『お前って本当に善人だなァ』と思いつつ、浩助はこの話題を終わらせる。
「って、わけでよぅ。もう土曜は最悪、日曜日はなーんにもする気になんなくてさ」
「そ、そうなんだ……」
月曜日の朝礼前、ぐったりとした様子の浩助の話を席に座って聞いていた貴道は、柔和な表情に苦笑を混ぜた。
十七歳という、この年代では長身の部類に入るものの、華奢な体格だ。髪型に対するこだわりはないらしく、いつでも半端な長さのままだ。顔立ちは整っているとは言えるものの、柔和な表情のせいか頼りない印象を受ける。
まるで、どこかの漫画かゲームの主人公みたいな奴――そう評する人間が周囲に多い理由の一つが、
「ターカーミーチ――――!!」
「おわっ!?」
勢い余っての転倒も頚椎損傷も辞さず、貴道の首目がけ元気いっぱいに真横から飛び付いた、一人の少女である。
「わわ……っ」
「んもゥ、ちゃーんとトイレの入り口で待っててねっテ、カティ言ってたでショ?」
「ご、ごめん……」
こういう場面に慣れていないらしく、顔を覆う指の隙間から赤面しつつ窺っているユキの存在などもちろん意に介することなく、貴道に猛烈なタックルとスキンシップをしかける少女――カティ・クラゥシアは口を尖らせながらも貴道に跨り、「エヘヘ〜」と登校初日から全男子生徒の心を鷲掴みにした笑顔を全開にする。
(う、うぉおおぉおぉぉおぉぉっ!??)
無論、この『全男子』には浩助も含まれている。見ればテンションが上がる上がる。
(ヤベェ! カメラカメラカメラガメラカメラカメラカメラ――)
「だかラ、撫でテ」
「ひゃ!?」
カティの要求が完全に想像を超えていたのか、裏返った悲鳴をユキが上げている横で、浩助は携帯電話を取り出しかけた姿勢で硬直していた。
「タカミチ、撫でテ!」
「え、う、うん……」
ずいっ、とこれ以上なく身を寄せてくるカティに為す術がないのか、苦笑しつつ貴道はおそるおそる彼女の柔らかな頭髪に触れる。
「もぅ……これが終わったら、ちゃんと自分で立ってね?」
「うン!」
クラスメートのみならず、カティ目当てに廊下を通る男子達からも放たれる殺気を知ってか知らずか、貴道は若干引きつった笑みを浮かべながらぎこちない手つきで撫でてやる。
「うユ〜♪」
満足げに目を細めたカティは鳴き声めいた溜息を吐くと、全身の力を抜いて貴道に体を預けてくる。仕草といい表情といい、まるで猫である。『そこがイイ!』と絶賛する者達も少なからずいるのだとか。
「ここ、こうすけさま、これ――っひゃ!?」
予鈴のチャイムが鳴る中、未曾有の事態に遭遇してしまったのかそれとも刺激が強過ぎたのか、生まれたての小鹿のように震えていたユキは、浩助に(具体的にどうするかはさて置くとして)助けを求めようとして絶句した。
――そこには、一匹の鬼がいた。
血涙を流す、嫉妬の鬼が、そこにいた。
「コ・ン・ノ・ヤ・ロォ〜〜……!!」
こんな光景は見たくない。
だけど、自分達から見れば後光すら感じるカティの、至上の笑顔を至近距離で拝謁できる至極幸福な時間は、一刹那でも長く堪能していたい。
そうしたジレンマが、浩助をその場に縛り付けているのだろう。
「委員長出席とっといたかァ?」
相変わらずの気だるげな様子で入ってきた、クラス担任兼数学担当の存在に気付かなかったぐらいなのだから。
「こ、浩助、後ろ……」
「何カティちゃんと密着してやがんだコノヤロォ」
「え? いやだから浩助」
「何カティちゃんと密着してやがんだコノヤロォ」
「後ろ――」
「何カティちゃんと密着してやがんだコノヤ、ロォ……」
鋭い風切る音と鈍い打撃音の直後、血涙を流したまま浩助はその場に崩れ落ちる。
「朝礼終わらしたいんだ。さっさと席に着けよ猿渡(サル)」
言葉も、チョーク投擲後の姿勢も気だるげに、クラス担任が言った。
「ほ、ほら狛杉(こますぎ)先生来ちゃったし、もう終わりだよ。ね?」
「……うン」
名残惜しげに貴道の頬へと自分のそれを重ねたカティが身を引くと、貴道は誰に言われるでもなく浩助を起こして席に着かせる。理由は兎も角、人を見たら助けずにはいられないのである。
「おーおー、誰も彼も熱いねぇ」
机に頬杖をついたゲンさんが、独りカラカラと笑っていた。
一限目は狛杉が担当する数学の授業だったので、彼は朝礼が終わるとそのまま授業を始めようとした。
「センセー、そりゃないっすよー!」
「……ああそう」
男子生徒に言われ、狛杉は面倒くさそうにチョークを黒板のレール部分に放り投げると、
「チャイム鳴ったら起こしてくれ」
そう言って教卓に突っ伏したのだった。何ともフリーダムな男である。少なくとも半年以上の付き合いを経験していた彼ら二年C組の生徒らはそんな教師の扱い方をすっかり心得ており、気にしつつ、だがそれでも自由な十分間を過ごしていた。
「マジかよー、一限からコマセンとかすっげー最悪。つか頭がまだ痛ぇ」
「こ、浩助、先生すぐそこにいるんだし……」
「そうだヨ、お口にチャックなノ!」
「ほっとけ。バカに薬は勿体ないだけだ」
浩助、貴道、カティ、ゲンさんの四人も例に漏れず。
そして、
「こうすけさま、こうすけさま」
この少女も、また。
「何だよ?」
「こうすけさまが『ほーむるーむ』なされている間に近辺を見て回ろうと思っていたのですが……建物から皆さんのお召し物から品物から、本当に、何から何まで物珍しく、戻るのが今までかかってしまいました」
黒瞳を輝かせたユキは、まくし立てるように喋る。行く時もそうだったが、よほどこの学校のことが気になって仕方がなかったのだろう。常時漂わせていた儚げな雰囲気は少し影をひそめ、外見相応の明るさ、活発さが感じられた。
もしかしたら、本来の――生前?の彼女は、こんな性格だったのかもしれない。
「ふぅん」
と、周囲には聞き取られぬよう極力声量を落としているのだったが、
「独り言とはどうしたWBC(ワールド・バカ・チャンピオンシップ)日本代表」
この、寝ているのかいないのかさっぱり分からない目をした級友は、鋭く感付いてくるのだった。
「さ、さあ? きのききの、気のせいじゃあないのかっ??」
本人としては精一杯のごまかしなのだろうが、残念なことに火に油を注ぐばかりであった。
「ほぉ?」
貴道が苦笑する横で、ゲンさんの糸目が薄く見開かれる。スイッチが入った時の彼女の癖だ。こうなると、しつこい。
「常々独り言の多い奴だとは思っていたが、さっきのような、自然な応答は初めて耳にしたな」
「!!」
そして、鋭い。
「どうした? ついにわたしらには見えないお友達が、お前に語りかけてくるようにでもなったか?」
「! こ、こうすけさま……」
気にすんな、とまさか言えるはずがなく、かといって視線を送るわけにもいかず、浩助は棒立ちのまま「さ、さあ?」と震えた声で応じただけだった。
(ま、まさかこいつ、ユキが見え――)
「ねーねーゲンさン、『見えないお友達』って誰なノ?」
そんな時、救いの女神か天使のどっちかが舞い降りる。
貴道の腕に当然のように自分のそれを絡ませている男子生徒の憧れと女子生徒の嫉妬と羨望の的、カティである。
「あー」
何と言ったものかね、と言葉に迷いつつ乱雑に括った髪の辺りを掻き掻き、ゲンさんは考えていた。
(カティちゃんありがとう! そして貴道はカティちゃんからさっさと離れろよ……!!)
貴道に訊いても教えてもらえなかったからゲンさんに、という理由など知る由もなく、浩助は猛烈に感動していた。涙だって自然と流れ出る。
「漫画を読み過ぎたりゲームをし過ぎたりしてる人にしか見えないお友達だよ」
「じゃア、頑張ったらカティにも見えるノ?」
「そん代わり、目や頭が悪くなって蔵岡に怒られる」
「……ジャ、やっぱり見えなくていイ!」
「そ、その方がいいと思うよ……うん」
表情を曇らせ、貴道の首にしがみ付くカティの正面で、
「本当なのですか、こうすけさま……?」
ユキまでもが本気にしていたりした。
ここでようやく、大気圏外をさまよっていた浩助の意識が還ってくる。
「――っておい!? 何だよその言い草!」
「ん? ほぼ事実を語ってやったつもりなんだが」
本人にしてみれば謂れのない彼女の暴言に憤慨する浩助だったが、「だってお前、実際にバカだろ?」とゲンさんはカラカラと笑いながら遠慮も会釈も酌量もなく、浩助を一刀両断したのだった。
「ぐ……っ」
ストレートに本当のことを言われると腹が立つが、言い返したくても本当のことなので言葉が出ない。
「ば、バカで何が悪いってんだよ!?」
「わたしとか蔵岡とかが絡んでて迷惑する」
なので、無理矢理に言い返そうとしてもすぐに言い返され、またすぐ言葉に詰まってしまう。
「っだいたい、俺がバカとかそんなことはどーでもいいだろ!?」
「そうともさ。お前がバカなのは事実だから議論するまでもないし、わたしがしたい話はそんなんじゃない」
見開かれたゲンさんの糸目が、妖しく光った――ように、浩助は感じた。
「さっきのお前の独り受け答えの理由って、結局何なんだ?」
「!」
嵌められた。騙された。巧みに話題を修正された。そんな持って回った言い回しよりも、
(ヤベ、またやられた……)
この一言で、浩助とゲンさんの関係の説明まで言及できてしまうあたりに、日本語の妙というものを感じてしまう。
「……すごい方ですね、こうす……ぁ」
そこまで言いかけたところで、ユキは慌てて口元を白装束の袖で隠す。畜生可愛いなぁ、とは思うが、今の浩助には心和む余裕など毛筋たりともない。
「うユ、ゲンさんは刑事コロンボみたいなノ!」
「よ、よく知ってるねカティ……」
的確にその場を表現するカティに、貴道はいつもの苦笑いを浮かべただけであった。
調子外れのチャイムが、学校中に時を知らせた。
チャイムが鳴って貴道に起こされた狛杉弘樹(ひろき)は年老いた猫のような欠伸を一つ漏らすと立ち上がり、
「あー……とりあえずビールで」
などと言い出すものだから、クラス中から忍び笑いが聞こえてくる。
いつもやる気のなさそうな顔つきをしており、姿勢も猫背気味で緊張感が全くない。おまけに髪型と服装は適当でネクタイも右に大きく曲がっている。なのに何故か、髭だけは毎日剃っているらしい。全くもって分からない男だ。
「きりーつ!」
委員長の号令。緩慢な起立、不揃いな挨拶、迅速な着席というお決まりの流れを経て、授業が開始されたのだが、
「そんじゃ、次の問題を……えー、猿渡(サル)」
浩助は、まさかの四問連続での指名と相成っていた。
「わ、分かんねっす……」
「あっそう、じゃ佐柄木(さえき)兄」
「はい」
脂汗を浮かべて白旗を振る浩助の隣、不気味なほどに仲のいい双子の一人があっさりと答える。ちなみに、片割れたる『姉』は、涼やかな眼差しを兄に送っていたりする。
(畜生コマセン、ホームルームのこと引きずり過ぎだろ)
黒板に何の公式だか定理だかよく分からない式や図面を大雑把な筆致で書いていく狛杉の背を、浩助は恨めしげに睨み付ける。
「ん? どーした猿渡、随分と自身ありげじゃあないか」
そんな浩助の視線に気付いた狛杉教諭。ぼさぼさの前髪を乱雑に掻きながら、「じゃ、今度こそ頑張ってみよーか?」などとのたまい、
(クッソー……!!)
浩助は、順調に五回目をマークしたのだった。
「…………」
そうした一連の流れを、ユキは浩助の傍でずっと眺めていた。
どうしろってんだよ、とこちらにも浩助は内心毒づく。
「こうすけさまが、お声が漏れてしまわれるのを懸念されているのでしたら、わたしは我慢いたしますので……」
そう言って以来、ユキは気まずそうに――だがどこか悲しげに目を伏せていた。構ってもらえない仔犬に似ていた。
(あークソ、うっとうしいけど何つーか……っああ! マジですっきりしねえなぁ!)
得体の知れない不幸続きで心身は追いやられ、せめてもの癒しをカティと授業中の居眠りに求めようとしたら貴道との糖尿病必至のやりとり、狛杉の理不尽な指名、ユキによる無言の訴えである。ストレスは、天井知らずにどんどこどんとこ溜まっていく。三角関数の応用問題になど頭を浪費している余裕などなかった。
「ねえタカミチ、手握ってちゃだめなノ……?」
「え、えーっとぉ……」
そして、時々聞こえてくる会話。授業中に何やっているんだというより、何で断らないんだよ、と心を一つにする浩助及び男子生徒。誰かあの薄桃色の空間をどうにかしてくれ。
(あークソ、いっそここからいなくなりてぇ……)
最早定番となりかけていたボヤキだったが、それが浩助に活路を開かせた。
「おっし、じゃあサ――」
「ぜんぜん分かんねっす! あと俺、ちょっと便所に行ってきまっす!!」
そう叫ぶ浩助の姿は、恥も外聞もかなぐり捨てた漢の背中に見えなくもなかったと、後にゲンさんは面白半分に語ったとかなかったとか。
錆びた蝶番に悲鳴を上げさせつつ男子トイレに踏み込むや否や、
「み、見ないよう気を払いますので……っ」
「……いや、さっきの嘘だからな?」
え? などと言ってユキは首を傾げて瞬きを繰り返す。男子トイレまで嬉しそうについてきた人間(?)がすることではないように思えるが、浩助はそれについては触れないことにした。漢字は読めなくっとも、空気は時々読めるのだ。
「あー、ほらアレだ」
「?」
ユキの隣、男子トイレ出口の扉に背を預けていた浩助は、頬を掻きながら説明してやる。
「お前さ、ずっと退屈してたんだろ?」
「ぁ……」
「分かる分かる、コマセンの授業ってスッゲーつまんねえからよぉ。な?」
ユキは何か言いかけていたようだが、すぐさま浩助が被せてしまったために言えなくなったのだろう。
「……いいえ、そのようなことはありません」
少し寂しそうに笑って、ユキは「わたしからすれば、見るもの聞くもの全てが初めてで、真新しくて……本当に、苦にはなりませんでした」と答えた。
「マジで?」
「ま、まじで、というのは……?」
本気で眉をしかめ、真面目に悩んでいるらしいユキ。
「え? あーいや、まあ……し、しかし! 初めてってのは本当なのかよ?」
まさかと思い、まあ冗談だよなとあっさり方付けた浩助に対し、ユキは首を縦に振る。
「はい。わたしが覚えている限りでは、あのようにハイカラなものは一度として見たことがありませんでした」
ハイカラとはまた古い――そう思った人間こそ相当古い人間だと露見してしまうこの単語を、浩助が知っているはずなかった。
「ふーん」
この一言で軽く流し、浩助はそろそろ授業に戻らねばと思う。
「しかしなぁ」
「どうしました?」
「ん? ああ、いやな。そろそろ授業に戻ろうと思ったんだがよ、そしたらお前、まーた暇するだろ?」
「あ……そう、ですね」
応じるユキの声音は、寒色と暖色が入り混じったような、不思議なものだった。
「だろ? 流石にあれは俺もキツイからな〜」
ここで言う浩助の『あれ』とは、ユキによる無言の訴えに他ならないのだが、
「こうすけさま……」
ユキは何やら、勘違いしている様子。
「ありがとうございます、こうすけさま」
「? おー」
何故か目元を拭う少女の真意になど気付くはずもなく、浩助はなけなしの頭脳を『授業中、いかにしてユキの意識を自分以外のことに向けさせるか』などということに費やしていた。十秒後には煙が噴き出ることだろう。
「……うーむう、何かいいアイディアはねーかな。つかお前、また別の所見に行ったらどうよ? どこも同じだと思うがよ」
「あ、あの……それで、なのですが」
胸の前で指を遊ばせつつ、ユキは妙に歯切れ悪く弁明する。
「先ほどは、好奇心に駆られるあまりに、さほども気にせず見て回れましたが……ええと、改めて思いますと、その、何と言いましょうか」
そこから先はなんとも曖昧且つ不明瞭で、ユキが何を言いたいのかさっぱり分からない。
何なんだよ、といいかげん浩助が思い始めた頃になって、ユキは痺れを切らしたように俯いて続ける。
「こうすけさまのお傍から離れるのは……ちょっと怖いです」
視線はもちろん、浩助の方を気恥ずかしげに。
「……うわ」
思わず、意味のない言葉を洩らしてしまう。
やられた。というかこれはやられる。どうしろと言うんだ。
「……こうすけさま?」
「え!? ああいや何でもねえよそりゃもうかわいかったぜ畜生とか思ってハァッ!?」
ノぉーゥ!! と頭を抱え仰け反った浩助は、お約束のように後頭部をトイレのドアで強打し、頭を抱えてうずくまる。
兎に角『イタい』の叩き売りであった。
「こ、こうすけさま」
「さ、さぁーどーやってヒマ潰すかねぇ!? 喋らないで暇潰すっつたら、やっぱ落書きかぁ?」
怯えつつ、こちらの顔を覗き込んできたユキを立ち上がるなり露骨なやり方でごまかそうとしたのだが、
「らくがき?」
今度はそちらの方に食いついた。どうやら落書きのことも知らないらしい。
「こうすけさま、らくがきとは何なのですか?」
「ああ、落書きってのはこう、ノートとかプリントとか机に絵とか、まあ字を書いたりするやつ、って感じか?」
浩助がジェスチャーを交えての説明を終えるや、ユキは「あ」と手を打ち、
「こうすけさま、こうすけさま」
「おう?」
表情を輝かせて話しかけてくるユキの様子は、フリスビーをくわえたコリー犬のようであった。
「えらい難産だったなぁ」
教室の引き戸を開けると同時に、狛杉教諭が、浩助の顔も見ずにかけた一言であった。男子数名とゲンさんが、それを聞いて露骨な忍び笑いを洩らす。
男子高校生という生き物にしてみれば耐え難いであろう恥辱を「ウルセー」と適当に流し、浩助は席に着くなりペンを片手にノートに何事かを書き込み始める。
――それだけで、クラス中から一つ残して音が消えた。
(……俺が何をしたってゆーんだよ)
くそ、と毒吐きつつ浩助は一文を書き込んだノートを怪しまれない程度に右にずらす。
《いきなり話しかけるなっつーの》
「す、すみません……」
浩助の右隣、通路に浮かぶユキは、「次からは注意します」と頭を何度も下げながら言う。
《いーよ。気にすんな》
見かねて、思わずシャーペンを走らせる。
《それにしても、筆談ねえ。その発想はなかったわ》
などとも、具体案など一つも出さなかったはずの浩助は書き足してみる。
「い、いえ、あれはこうすけさまがらくがきについて教えて下さったから思いついたわけで、何もそのように思われなくとも」
《ああそう》
返信。ちょっと考えて、また書き足す。
《ま、これならヒマしねーだろ?》
「はいっ」
答えて、ユキは笑う。カティのような、大輪の向日葵ではなく、慎ましやかに咲く百合の笑みであった。
こうして、退屈したユキが寂しげにこちらを見つめることはなくなったのであるが、
(……結局俺、寝れないじゃん)
根本的な解決には至らなかった。それを人は『本末転倒』と呼ぶのだが、活字の多い漫画にまで拒否反応が出る浩助には知る由もなかった。
溜息を漏らし、やる気など湧くはずもない黒板の図面を漠然と眺めていると、
「こうすけさま、こうすけさま」
脇からは、またしても控えめな幽霊(?)少女の声が飛んでくる。
「こうすけさまは、今どのような学問をなされているのですか?」
《数学。聞いてて分からね?》
すうがく、と呟いたユキは、浩助の書いた『数学』の二文字をじっと覗き込むなり首を傾げる。あまりに汚い筆致だったので読めなかったらしい。
「こうすけさま、その字はどういう……?」
「!!」
再び無意識に身を寄せてくる少女。実体があるのか否かはさて置き、流れる髪の一束がこちらの肩に垂れてもおかしくないほどに二人の距離は、近い。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!?」
「きゃっ!?」
耐えられずに声にならない叫び声を上げて、浩助はクラス中どころか、近隣のクラスの注目まで浴びることとなったのであった。
疲れてるんだから休んでこい。
満場一致でクラスから追い出された浩助は、途中何度も階段で転びそうになりながらも重い足取りで校舎一階のとある一室を目指す破目になった。
「――で、ここに来なさいって?」
一部始終を聞き終えると、ボブカットの銀髪を掻き揚げて、養護教諭は書類に書き留めるべく確認する。
「……まあ、そんなトコっす」
「ふーん」
慣れた手つきでボールペンを走らせた彼女は、口の端だけで薄い笑みを作る。切れ長の眼は、頬杖をつく手の上で眠たげに浩助を映している。
グラビアアイドルでさえ自信を失いかねない美貌とスタイルで男子から、酸いも甘いも噛み分けた『オトナのオンナ』の雰囲気を感じる言動や性格で女子から絶大な支持を受けている彼女の存在を知らぬ者など、校内にはいない。
「受験までまだ時間があるからといって、あまり詰め込み過ぎても駄目よ? きちんとガスの抜き方を心得ておくことも勉強の一つなんですからね」
「はぁ」
それでいくと自分は鯉幟(こいのぼり)の吹流しか、と思いつつ浩助は曖昧に頷く。よく分からないが、好都合なことに勘違いしているらしい。
「分かりました。お昼までなら休んでて結構です。あ、緑茶とコーヒーあるけど、どっちがいい?」
「あ、えーと緑茶で」
二つ返事で頷いた彼女が、湯飲みを二つ持ってポットへと足を運ぶ。それと同時に、ユキが話しかけてきた。
「こ、こうすけさま、あちらの方は……?」
「ん? ああそっか、お前知らないんだっけ」
めんどくさいな、とは思いながらも、先日国本桜について説明してやったやり方を使おうとしたのだが、
「あー、えっと――」
「――わたしは左原銀耶(さのはらぎんや)。左右の左に原っぱの原で左原、色の銀に耳とこざとへんをくっ付けた二字で銀耶と読むのよ」
「はい、ありがとうございま――」
浩助とユキ、二人が同時に絶句する。
今、彼女は何と――――!?
「分かってくれたかな。猿渡君の隣でフワフワと浮いてる、死装束姿のお嬢さん?」
湯飲みを両手に持ち、銀耶はユキに薄く笑いかける。
「ぎ、ギンヤ先生、こいつが見えるんすか!?」
信じられない、と声にも表情にも表れている浩助に、
「ええ、見えるわ」
銀耶は一言、簡潔に肯定した。「そうねぇ」と呟き、ユキをじっと見つめてこう言った。
「うちの娘には負けるけど、なかなか可愛い娘じゃない」
「そ、そんな……」
「って! 何テレてんだお前は!?」
頬を染めて恥ずかしがるユキへと、浩助の鋭いツッコミが飛ぶ。
「んー、二人とも素直ねえ」
浩助らのやりとりに、銀耶は絶妙なタイミングで感想を述べる。早くも二人のペースを掴み始めている証拠に、彼らの意識がこちらに向かうよう発言した後、すぐにこう語る。
「でも、そうやって二人だけの世界に入る前に、貴女の名前も教えてもらえるかしら?」
揶揄するかのような口調とは裏腹に、細まった眼は真っ直ぐにユキを捉える。基本的に気弱で臆病なユキは、意見するどころか肩を震わせて浩助の背後に隠れると、彼の肩越しに名乗る。
「あ……ゆ、ユキです」
「片仮名でユキ? それとも漢字?」
「え? えっと……覚えて、いないのです」
浩助越しのやり取りを終えると、銀耶はまたしても簡潔に、そして今度は有無を言わさぬ語調で、
「二人とも、詳しい事情を聞かせてくれる?」
浩助とユキに、そう求めたのだった。
首を傾げる銀耶の左耳で、耳飾として下げられていた銀色の鈴が、動きに伴ってちりちりと冷たく鳴っていた。
途中で銀耶の質問を挿みつつ、浩助とユキはこれまでに起こった出来事を覚えている限り話した。
道端にあった墓石をうっかり倒してしまったこと。それによって結ばれたらしい“縁(エニシ)”を辿ってユキが現れたこと。次から次へと浩助に襲いかかる、コントのような不幸のこと……兎に角、全てを。
「……で、こいつはミレンとかいうワケ分からないことまで言い出すしで、俺どーしたらいいんすか?」
「ふぅん」
それらを手帳に書き留めながら銀耶は一言、とんでもないことを口にした。
「君、よく生きてたわね」
「え? まあ、はあ……」
たしかに、冗談のようだが危険な不幸も多々あった。その中の二割ほどが姉によるものという、衝撃のオマケ付で。
「実感が湧いてないのかもしれないけれど、幽霊に憑かれるっていうのは、例外を除けばよくないことしかないの」
「ぁ……」
ユキと、視線が交わる。だがそれは一瞬のことで、すぐにユキは視線を伏せてしまう。
「わ、わたし……その、えっと……」
言葉が上手くまとめられないのか、ユキは言葉にならない声を洩らし続けている。どうしたらいいのか、浩助には分からなかった。
「ユキさん」
そんな浩助に代わり、銀耶が呼びかける。
「辛いことを言ってしまったのは認めるわ。でもお願い、話を聞いてほしいの。きっと、今の貴女にはとても大事なことだから」
そう結ぶと、銀耶はユキを真っ直ぐに正面から見つめる。彼女の視界に入っていないはずの浩助でさえ肌が粟立つのを感じるほどに真剣で、荘厳さすら覚えるほどの視線であり、姿勢であった。
「左原さま……」
「信じてとは言わない。だけど聞いてもらえるかしら?」
膝に握った両手を置き、筋でも入れたかのように背筋を伸ばして返事を待つ銀耶に、ユキは「はい」と、躊躇いがちに頷いた。
「ありがとう」
銀耶が言うと、ユキは浩助の隣で微笑み返した。いいことなのだろうが、それはそれで浩助は居心地が悪かった。
「それじゃあ、今から貴方達が置かれているであろう状況について話すわね。――猿渡君、特に貴方はしっかりと聞いておかないと駄目よ」
「……へい」
痛いところを衝いてくるな、と浩助は思う。何だかんだで、彼女も教師なのだ。
「まず最初に、ユキさんは自分が幽霊だっていう自覚はあるのね?」
「は、はい。あの、ぼんやりと、ですが」
促されたユキは、たどたどしくも肯定する。
「それじゃあ、“未練”をどうしたらいいのかも、ある程度は知っているわね?」
「……はい」
「――あのー」
たまらず、浩助は手を挙げて主張する。
「俺、殆ど分かってねーんすけど」
「分かってるわよ。まずは本人が自覚していうるかどうかを確かめないと話にならないから確認してるだけ。貴方にも、ちゃんと説明するわよ」
せっかちさを嗜めるように、銀耶は浩助に人さし指を向ける。そんな何気ない仕草の一つひとつからも、匂い立ちそうな艶っぽさが感じられるのだから困りものである。
「そうね、まずは根本的な話からしましょうか」
「根本的な?」
と首を傾げる浩助に銀耶は「ユキさんのこと――即ち幽霊のことよ」と補足してやる。
「幽霊っていうのは、人が死んだ時に持っていた“未練”が強いと生まれるの。実体化した“未練”を『幽霊』と、人は呼ぶわけね」
「は――」
いきなり銀耶から告げられたトンデモナイ話に、浩助の目は丸くなる。ユキと会う前に聞かされていたら、きっと笑い飛ばしていただろう。
「み、ミレンっすか」
またミレンかよ、とは思いつつ、浩助はまた適当に応じておくのだが、
「そ。正しく埋葬されなかったことへの憤りや不満、殺した者への憎悪や、遺された人達への愛しさや不安、寂しさ……兎に角、問題となるのは程度の強さだから、感情の種類は何でもいいの。だから“未練”を晴らすのって難しいのよ」
「ぐ……」
「?」
銀耶はそのことを見抜いていたようだ。ユキはごまかせても、この女教師の目はごまかせなかったらしい。
「はあ……」
かといって、補足されてもすぐさま理解できるほど浩助は理解力も順応性も高くない。さっきの銀耶の説明を聞いても『ミレンってゴチャゴチャしてる』というイメージしか湧かなかった。
「ってことは、どーなるんすかね?」
「……つまり、“未練”があるっていうのは、諦めきれない物事があるってことなの。それ自体が鎖のようになって、死んだ人の魂を現世(こっち)に留めてしまうの。分かった?」
ため息混じりに銀耶が更に噛み砕いた説明をしてやるのだが、浩助は「うーん」と唸るばかり。
「大和はこれで理解してくれたってのに……」
「は?」
「いえ、こっちの話よ」
不意に洩れた銀耶の愚痴に反応する浩助だったが、彼女は微笑みで全て隠してしまう。
「だーかーらーね、ユキさんは死んじゃった時に、とっても大きな心残りがあったの。で、それが気になって気になってしょーがないから成仏できないわけ。分かる?」
その割に口調が投げやりになっているあたり、やはり隠している本性とでも言うべきものが露見しかけているようだが、「おお!」と手を打つ浩助には悟られなかった。
「それだったら分かるぜ。ギンヤ先生ナイス!」
「すごいです、こうすけさま」
そしておそらくは、無邪気に拍手を送るユキも。
「……兎に角、二人とも幽霊の何たるかは理解してくれたのね?」
「はい」
「何となく的に!」
という二種類の返事を受け、銀耶は苦笑いしつつ頬を掻いた。
「――で、俺は何をどーしたらいいんすか?」
「直球ねえ」
という感想が帰ってくるのだが、他に何も思い浮かばなかったのだから仕方がない。
「猿渡君は、ユキさんの“未練”を晴らしてあげたいの?」
銀耶という名にふさわしい、銀色に近い灰色の瞳が浩助を真正面から捉えていた。
「……ええ、まあそっすけど」
「けど?」
「自分のミレンが何なのか、分かってないっすよこいつ」
しばらく、沈黙がその場に下りた。
「そうなの、ユキさん?」
「……はい……」
銀耶の追求に、ユキは居心地悪そうに頷いた。
「だとしたら、ちょっと面倒なことになるわねぇ」
「へ?」
殆ど反射的に、浩助は『面倒』という単語に反応した。「それって、どーいうことなんすか?」
「さっきから言ってるけど、幽霊は実体化した“未練”そのものなの。つまり幽霊を、ユキさんを“未練”から解放しようと思ったら――」
そこで何故か、銀耶は言葉を切る。浩助はおかしいなとは思いつつ、続きを待った。ユキもそれにならって、緊張の面持ちで銀耶を見つめている。
「――ユキさんが抱えてる、何かしらの『気になること』を解明してからじゃないと、“未練”を晴らせないのよ」
言い終えた銀耶の言葉は、ため息交じりであった。浩助としては、少し冷えたお茶を口に含む銀耶の、湯飲みに触れている唇の方が妙に気になって仕方なかった。
「だから、猿渡君は大変よ?」
「は――あ、は、はいっす。……え?」
上の空の返事。遅れて気付く。とりあえず分かっていたのは、自分が依然として面倒くさいことに巻き込まれているという事実のみ。
「ユキさんの“未練”が何なのかを調べるのは当然楽なことじゃないし、具体的な行動に移るとなったらもっと辛いことだって考えられるし――」
「左原せんせー、いますかー?」
扉越しに、間延びした男子生徒の声。
「……もうこんな時間。もうすぐ休み時間だし、今はこの辺までにしましょうか」
どうぞ、でもちょっとだけ待ってねと応えた銀耶は、浩助とユキに向き直る。
「悪いけれど、わたしが貴方達に協力してあげれるのはここまで。後は自分達の力でどうにかするのよ?」
「ありがとうございます、左原さま」
恭しくユキが頭を下げる横で「ちょっといいっすか?」と浩助は尋ねる。
「さっきから思ってたんすけど、何でギンヤ先生はそんなにユーレイに詳しいんすか?」
「簡単な理屈よ」
一瞬だけ遠くを見た銀耶は、これまでとは少し違う種類の笑みを見せた。
その種類の名は、追憶と懐古。
「わたしも昔、貴方達と似たような経験をしたからね」
「……はあ」
何故か浩助は、銀耶の言葉が誰に向けられているのか分からなかった。
「左原さま……不思議な方でいらっしゃいましたねぇ」
「おお」
色っぽい先生としか思っていなかったが、その辺については浩助も同意した。
偶然行った保健室で、幽霊に関する話を聞かされる――世の中とは、よく分からないものである。
たしか前に、ユキは自分との間に『エニシ』とかいう、人と人とを繋ぐ……そう、まるで糸か紐みたいなものがあると言っていた。
なら、さっきのあれも?
(うーん……わかんね)
珍しく頭を使うも、ここで限界のようだった。頭が、慣れない重労働に文句を言ってくる。
「後でチョコ食っとくかね」
浩助は廊下を歩きながら、各教室から続々と聞こえてくるざわめきの中で小さく呟いた。
「それにしてもミレン、かぁ」
「?」
耳聡く聞き取ったユキは、「こうすけさま?」と尋ねる。
「ん?」
「どうなされたのですか?」
「どうってほどでもねーんだけどよぉ」
返す言葉も歯切れ悪く、浩助は「お前のミレンのことだよ」と続けた。めいめいのやりたいことに興じる生徒達のざわめきに紛れ、浩助の言葉が誰かに聞き取られることはなかった。
「ギンヤ先生、ユーレイのことは色々教えてくれたけどよぉ」
「はい。……こうすけさま?」
階段の踊り場で突然ぐぐっと身を屈め始める浩助に、ユキがことさら首を傾げ始めたその時、
「どーして肝心のお前のミレンについてはノータッチなんだよぉ――――――!!」
浩助はすれ違った男子生徒のグループが思わず振り返ってしまうほどの声量で、そんなことを叫ぶのであった。
「こ、こうすけさま……」
驚き呆れながらもキョロキョロと人目を気にするユキを他所に、「ノーヒントとかねえよ」だの「ったくどーすりゃいいんだよ」だのと益体のない独り言――人はそれを不平という――を延々タレ流す浩助。その様子を怪しむ生徒は意外に少なく『ああいつものアレか』とでも言いたげな視線を向けて足早に通り過ぎていく。貴道や銀耶ほどではないが、彼もある意味有名人なのである。
「せめて、どーやって調べんのかぐらい教えてくれたってバチあたんねえと思うんだけどよぉ……」
「そ、そうですねえ」
ユキが健気に相槌を打つ横で、浩助は唸りつつ頭を掻く。
結果的には体裁よく追い出されたような気もするが、これ以上の細かいことは考えずに、級友達の待つ教室に戻った。ろくでもないことばかりが起こっているのだ、せめて授業中に見られなかった分のカティの笑顔くらいは見たかった。
「あふ……っおお、なんだもう帰ってきたのか」
しかし、世の中そうそう上手くいくものではないらしい。
浩助の姿を見かけるなり席を立ったのは、他の男子に比べて頭一つ抜きん出た少女ことゲンさんであった。居眠りしていても見抜かれないともっぱらの評判になっている糸目は、相変わらず細い。
「……今お前、不愉快なこと考えてなかったか?」
「うんにゃ?」
あなどれない追求をやりすごし、浩助は「調子はどうだい?」と一応なげやりに訊いてくる級友に答えてやることにした。
「ま、コマセンの授業サボってたっぷり寝れたし、もう大丈夫だろうさ」
実際は寝るどころではなかったのだが、ゲンさんは「ふぅん」と鼻を鳴らすも納得してはいるらしい。
「何だよそのリアクション」
「ん? ああいや、流石の左原先生も精神疾患には通じてないと見てね」
などと聞き捨てならない台詞を投げ返され、流石の浩助も面食らう。
「珍しくノートをとり始めたかと思ったらいきなり叫び出す始末――ここは一つ、都市伝説『黄色い救急車』の有無を調べてくれんか? ん?」
「はっはっは。快く拒否るぞコノヤロー。そして殴らせろ」
「断る。そして速やかに野生へ還れ」
断る、の部分で浩助のジャブを容易く叩き落としてみせると、ゲンさんはニカっと歯の覗く笑みを浮かべてきた。全然本気ではなかったとはいえ、流石にこの対応は腹に据えかねる。
「てめえ……!」
「ふっふっふ、闇雲に攻めても無駄だぞサル君」
本気で怒ったふりをすると、ゲンさんは挑発を言葉と、どこぞのカンフースターかマスターのような仕草で放った。悪ノリにはとことん付き合うタイプなのだ、源五郎丸百合絵という人間は。
「こ、こうすけさま……」
困った様子で、ユキは右往左往するばかり。心配ねえよと言ってやりたかったが、状況が状況なのであえてスルー。挑発のポーズのまま突っ立っているゲンさんへと、割と本気の一発を叩き込むのだが、
「“考えるな、感じるんだ”とは名言だが……お前はちょっとくらい考えた方がいいかもな」
平気な顔して、このゲンさんという少女は男子高校生の拳をまたしても叩き落すのであった。
「お前はウチの姉貴かよ!?」
「はっはっは、ジョシコーセーの嗜みと呼んでくれたまへ」
カラカラと笑い声を上げたゲンさんは、どう見てもその辺にたむろしている『ジョシコーセー』とは一線を画しているようにしか見えない――
「隙あり、っとう」
「っげ!?」
――などと思っていた矢先、ゲンさん秘伝の一撃、極心流空手式の手刀が脳天めがけて一直線に打ち下ろされた。軽い掛け声とともに放たれているのだが、身長差の関係上、おそろしく痛い。
「ってぇ……!」
「はっはっは、油断は身近な大敵なのだよワトソン君」
床にうずくまり悶絶する敗北者に、勝者はただ笑うのみ。
「――ああ、ちなみに」
「あん?」
浩助の背後を、ゲンさんは指さしていた。
「ア、コースケ帰ってたヨ、タカミチ」
「ほんとだね。もう大丈夫なの、浩助?」
その先にいるのは、どす黒い怨念に囲まれた、一組の男女。
「蔵岡とカティなら、トイレだったよ」
その言葉と同時にチャイムがやはり調子っぱずれな音程で二時限目の開始を告げると、浩助は激しい疲労感を覚えるのであった。
「こうすけさま」
《何だよ》
新聞部の顧問でもある古典の教師が例文の品詞分解について説明しているのを見事に聞き流しつつ、浩助はユキの求めに応じる。
「あの、その……ええと、ですね……」
なかなか要領を得ないユキにじれったい思いを隠せない浩助は《さっさとしろよ》といつもより乱雑な筆致でせっついた。
「は、はい。あの……」
今ので背中を押されたらしいユキは、固く目をつむるなりこう言ったのだった。
「あの、先ほどこうすけさまと親しくしていらしたゲンさんという方は……その、こうすけさまと、どのようなご関係でいらっしゃるのですか?」
「……はあ?」
思わず、感想が声に出る。意外に声量が大きかったらしく、こちらを見てくる先生や同級生らを振り切るように顔ごと机上へ視線を移す。
《何だよいきなり》
「い、いえ、どうというわけではないのです。ですが……」
袖で顔の下半分を隠しつつ、ユキは歯切れも悪く答える。
「……よく分からないのですが、気になったのです」
《どーいうこったよ?》
こっちこそ、全くもって分からない。だがユキは「わたしも、どういうことなのかは……」と、曖昧な言葉で包んでしまって、結局本音は分からずじまいであった。
(ったく……)
頭をひと掻きして、浩助はシャーペンを動かす。
《ゲンさんは俺の
「――えっと、猿渡君……?」
頭上からの声。反射的に顔が上がる。
殆ど目の前に、スーツ姿の小柄な女性――野澤椿が、かけてきた声と同じく、困った様子でこちらを見下ろしていた。
「ど、どしたんすか先生?」
「あの、何度か、声掛けたんだけど……気付いてくれなかったから……」
相変わらず、教壇に立っている時とは別人にしか思えないほどに小さな、それこそ蚊の鳴くような声量で野澤は喋ると、チョークで汚れた人さし指を黒板に向ける。
品詞分解の問題が、一人分の隙間を残して待っていた。
「みんな、もう取り掛かっているから……頑張ってね?」
「そうそう、頑張れよ?」
とあからさまな嫌味をふっかけてきたのは、ちょうど左隣でスラスラと品詞だの活用形だのを書き込んでいる途中のゲンさんであった。
「ほっとけ」
「なんだ、せっかくヒントを教えてやろうと思ってたけど、余計なお世話だったか」
精一杯の強がりも見事に粉砕され、それどころか目の前の一文に手も足も出ない状況に頭が白くなるばかりであった。ゲンさんを含む他の同級生らが黒板から離れていくことも、これに拍車をかけている。
「…………」
そして背後からは、もはや誰のものか分かるほどになじみのある、どこかの幽霊少女さんからの視線。
「ったく……」
知らず知らずのうちに、溜息交じりの言葉が出る。
ただただ、今は昼休みが待ち遠しい。
時計が十二時を回りかけている頃、左原銀耶は誰もいない保健室の窓辺で携帯電話に――正しくはその向こうにいるであろう人物に向かって話していた。
「――そ。例の子ね、こっちで見つけたわ。うちの学校の男の子と“縁”でくっ付いてる」
確認を求める第一声に、律儀に応じてやる。
「ええ、そうだけど……それが何か?」
応答はなんともつっけんどんなものであった。銀耶は苦笑しつつ、それにも答える。
「あのねえ。あの子は自分の“未練”が何なのか覚えてないらしいし、何よりも素直過ぎてて怖いわ。いくら何でもすぐさま刺激するのは危険だと思うのよ」
これもまた、すぐさま言い返される。あくまでも強攻策を撤回するつもりのないらしい相手に、銀耶はうんざりとした感情を艶然たる微笑に隠して応じてやる。
「カラスなだけに?」
回答とともに投げ返されたのは、抜き身の刀を背筋に押し当てられたかのような怖気。だが銀耶はそれを無視して「そこまでムキにならないでよ」と自身の娘をあやすときの要領で言う。
「仕方ないでしょ。もしもってことがあると面倒だし、常にこうやって備えておくに越したことはないのよ」
頑固だが理解力のある彼女は鼻息を洩らすと、話題の転換を銀耶に求めた。
「ええ」
肯定。脳裏には冴えない顔をした男子高校生と、死に装束姿の宙に浮かぶ少女の姿が浮かぶ。
「ええ、教えておいたわ――」
頷いた直後に求められた内容は、銀耶の眉をしかめさせるのには充分であった。
「……貴女ね、それ本気で言ってるのかしら?」
でしょうね、と溜息交じりの相槌を打って前髪を軽く払う。
「そんなことをしたら――」
有無を言わさぬ彼女に、銀耶は舌打ちも辞さない。
「……そうね」
視線を窓枠に逸らすと、銀耶は普段の彼女が煙に巻く際に用いるものとは異なった曖昧さを言葉に混ぜた。
「私の方から、何くれと伝えておくわ」
彼女の細い指に握られる携帯電話の液晶には、愛しい娘と自分を抱き締める夫の画像が映っていた。
3【全ては昼飯から始まった】
四時限目終了のチャイムが鳴るや否や、束縛からの解放を喜ぶ間もそこそこに、一部の生徒と教員達は教室を勢いよく飛び出すなりある一点を目指す。
即ち、学校という戦場における補給基地と言っても過言ではない魅惑の聖地、購買所に。
「やー、大量大量っと」
などとパチンコ帰りのオヤジの如くのたまい、ホクホク顔で教室に凱旋したゲンさんは、そうした面々――いわゆる『購買組』である――の典型的な人間なのだが、そこに属さない『弁当組』の中でも特に異彩を放つ人物がいる。
「……えっと、どうしたの浩助?」
現在、理由も分からないまま浩助に凝視されて困っている蔵岡貴道、その人である。
この男、極めてヘビーな家庭環境を除けば何ら特徴のない平凡な人相であり体格であり人柄なのであるが、弁当組でも更に珍しい『自作系』であり、しかもオカズばかりか米まで美味しいというナカナカの強者であり、かく言う幸助もそのオカズをおわよくば、と狙ったりする人間の一人なのであるが、異彩を放つ、とまで言わしめる最大の原因とは――
「おーい、浩す――」
「――なーにボケっとしてんのよ、蔵岡君っ!」
声の主を容易く想像させる、凛とした少女の声。
「あ、桜。それにみんな」
貴道の視線の先には――
「……べ、別に気にしてるわけないんだけど、あんたがそんなだとあたしが恥じかくし――」
幼馴染みのツンデレ少女、国本桜(くにもと さくら)。
「うふふ。貴道さんのために、精のつくものをたくさん作らせてきましたの」
謎だらけのリアルお嬢様、烏丸響子(からすまる きょうこ)。
「おぃ―――――っす、くらっちクン! にゃははっ、美冬ちゃんがゴチになるワケだし、くらっちクンもおねーさんにゴチってもらっとくぅ?」
明朗快活な我らが新聞部の部長、市川秋。
「……ゴチです」
と、その無口な妹、一年生の市川美冬。
教室の入り口を占拠するかのように並び声をかける、各々が各々に劣らぬ個性を誇り、競い合う四人の美少女。彼女らは、他の生徒からの視線などまるで気にした風もなく、めいめいが昼食を片手に廊下から貴道へ声をかける。
――そう。彼女らと貴道を取り巻く状況こそが、貴道が昼飯時に異彩を放ち、かつ『漫画かゲームの主人公のようだ』と言われる最大のゆえんである。
顔立ちが中の上であること以外には殆ど特徴などないであろう貴道だったが、何故か昔から異性と親しくなる機会が異様に多いのだ。つまりモテモテ貴族様なのである。
現に、貴道と親しい仲にあると噂される女性陣はカティを含めたこの五人だけに留まらず、あと四人ほどいるのである。ゲンさんを別にして。
「ほラ、早く行こうよタカミチッ」
「う、うん……」
半径十メートル以内にいる全男子生徒から嫉妬と羨望の視線という矢を受けてハリネズミのようになっている貴道は、カティに手を引っ張られて席を立つ。そこで更に、嫉妬の炎が増加したのは言うまでもない。
「……こ、こうすけさま?」
何故かユキは、心底心配そうに見つめてくる。……別に、羨ましくもなんともない。目が汗をかいているだけである、暑い時に汗をかくのは自然なことだ。
「なーんて、思ったりしてないよなぁ?」
「おぅわっ!?」
突然背後から現れたゲンさんに、別の意味でも驚く。この女は、確実に仙人か魔法使いの弟子だった経歴があるに違いない。
「図星か? まあそんなとこだろうかね」
「お、お前はせせ仙人か!? それとも魔法使いの弟子か!?」
「ん? ああ、それもいいかもな」
こうした言葉も、冗談には聞こえない。
「ところでお前も弁当組だろ? 飲まず食わずで午後受けるつもりか?」
「……おお」
もう少しここでくつろぎたかったが、流石にそろそろ時間もメニューも少なくなってきてることを考えると腰を上げざるを得ない。
「浩助」
「あ?」
そんな折、モテモテ男爵様からお声がかかる。
「何だよ貴道」
「お昼、みんなと一緒にどう?」
――思考停止。きっかり十秒後に再起動。
「……何だって?」
「そーのまんまの意味だってばさっ!」
ツインテールを翻し、颯爽とモテモテ子爵様との間に滑り込んできたのは、市川先輩であった。さり気なく貴道の手を握っているあたり、侮れない人物である。
「くらっちクンね、朝から君の調子が悪そうだからって心配してたんだよ? 偉いよねぇ憎いよねぇこのこの〜っ」
茶化しつつモテモテ伯爵様の代弁を務めた市川先輩は、割と的確に肘で鳩尾を狙ってくる。……昨今の女性は格闘技に目覚めたのだろうか? カティ以外は。
「――で! そーんなコースケ君を元気にしてやったろうじゃん! って思ったくらっちクンはコースケをお誘いしようって考えたわけだよね? ね??」
「ええ、まあ……」
相変わらずの浴びせ倒すような勢いでの市川先輩の言葉に、モテモテ侯爵様は苦笑いだった。ただ他数人から、何とも言えない視線を向けられている。
「……ま、土曜もあんた様子がおかしかったしね、そのこと蔵岡君に朝話したら、すごく気にしてたみたいよ?」
「う、うん……」
と補足しつつ割り込みしつつ視線は横に流れている桜。誰を意識しているのかが分からない爬虫類並の超鈍感人間は、生憎だが一人いる。
「どうかな、浩助……浩助?」
その男が不思議そうな顔をした時。ようやく浩助の理解力が状況に追いついていた。
(まま、マジでマジでマジでマジで!?? マジでこいつ言ってんのか!??)
タナボタなんて次元ではない。これはもう、ここ数日の不幸に対する釣り合いを取っているとしか思えない。
(つか、むしろ全ての不幸はコレのためかぁ!!?)
振って湧いた幸せに、浩助は貴道の申し出を一も二もなく受け入れた。
「サンキュー! スッゲーありがてぇぜ!」
「そ、そう。よかった」
何やらモテモテ公爵様は慌てていたようだったが気にしている場合ではなかった。急いで鞄の中身をかき回し、財布を探り当てたかと思ったのだが、
「…………」
「こ、浩助?」
「どしたノ?」
モテモテ大公様とカティがこちらに近寄ってきたようだったが、今はそうしてほしくなかった。
鞄の中には財布ではなく、何故かいつも枕元に飾ってあった秘蔵の『カティちゃん☆魂の笑顔ピンナップ』が入っていたのであった。
(わ、わざわざ持ち上げといてこりゃあ……ねーんじゃねーのかよぉー……)
幸福の絶頂も一時で、あっという間に転げ落ちる感受性豊か(というよりは単純という説の方が有力)な浩助であったが、そこは捨てる神あらば、というものである。
「サル」
「ん? ――ぅえ!?」
思わず、裏返った声を上げてしまう。別の女子と戦利品をがっついていたはずのゲンさんが、いつの間にやら背後に立っていたのである。いくら彼女の身長を知っているとはいえ、いきなり見せられると流石に驚く。
「な、何だよゲンさん」
「金、貸してやろうか? ちなみにゴイチでだがな」
ゴイチ、という聞き慣れない言葉にユキともども首を傾げ「ゴイチって何だ?」と訊いた浩助に、お人好し魔人ことモテモテ宇宙皇帝様の貴道が「あのね」と何か言いかけるのであったが、
「まあ気にするな。で、借りるか借りないか、どっちなんだ?」
いきなりゲンさんに遮られてしまったことで、優先順位がそちらへと移ってしまったのであった。
「え? そりゃまあ(タダで)貸してくれんならありがたいぜ」
「ああ、(利子付で)貸してやるともさ。――手、広げときな」
今の浩助の言葉を受諾と解釈したゲンさんは、今時珍しいガマグチから取り出した硬貨をコイン・トスの要領で浩助の掌に放った。
「……お前、絶対普通じゃねえよなー」
「はっはっは、お前にだけは言われたくないね」
晴天のような一笑いとストレートな毒舌を残し、ゲンさんは友達の待つ机へと優雅に凱旋していくのであった。
「よかったネ、コースケ!」
「おう!」
突然カティに話しかけられ、テンションが鼻の下とは反比例する浩助。「コースケ、何だかほんとにお猿さんみたイ」と笑われて、むしろ幸せの絶頂だったり――
「……こうすけさま」
不意に背後からの名指し。今日は背後から話しかけるのが流行っているのだろうか。
「……いや、ンなわけねーか」
「早く行って、済ませてしまいませんか?」
いつもの独り言が誰からも華麗に無視される中、ユキは横一文字に結んでいた唇を開くなりそう言った。
「おぉーっと! こーしてっとコーバイが売り切れちまうじゃねえか! 悪いな貴道、先行っててくれ!」
「うん」
「購買は売れないからネー?」
そうした声とユキを背に、浩助は購買へと走るのだが、
「――っで!?」
「ん? ああすまん、包みが落ちてたか」
その直後、半ばお約束のようにゲンさんがゴミ箱に捨て損なって廊下に出てしまっていたアンパンの包みを踏んで派手に転んだのであった。
人生の絶頂という、幸とも不幸とも言いがたい瞬間を迷わず夢見て、浩助は購買への道を真っ直ぐに走る。
「あのたかみちさまというお方、ずいぶんと皆さまから好かれていらっしゃるのですね」
そんなおり、ユキがぽつりと話しかけてきた。どう答えたものかと思った矢先、自分で絶賛したくなるほど素晴らしいアイディアが浩助の頭をよぎった。
「――ああ、嫌になるほどな!」
携帯電話である。もちろん通話機能はオフのまま。
「ったく、なーんであんなのがモテんのかねぇ? 俺にゃあ分かんねえよ!」
これは非常に上手くいったと思う。流石に説明とか前置きもなしにやったのでユキも戸惑っていたようだが、すぐに察してくれた。
「……ですが」
だが、何やら別の問題が起こっているらしい。
「こうすけさまも、あの方達とご一緒できると知って、とても嬉しそうでした」
「そりゃあお前、カティちゃんと一緒に飯食えるんだぜ!? もーテンションが上がる上がる!」
何ィ!? と反射的に反応する男子生徒数名に誇示する意味も含めて語りつつ、浩助は購買係である、長身の青年に声をかける。最盛期には人ごみで冬の日本海並みに荒れ狂っている購買所も、めぼしい品がなくなる頃にはすっかり人がいなくなっていた。
「こんちゃーっす」
「む。今日は随分と遅いな」
返ってきた頷きの声には、若々しい張りと年経た者の深みが凝縮されていた。
射抜くような眼光鋭い切れ長の眼、日本人には再現不可能な彫りの深い白皙の相貌。そして何より、染色したとは思えない、クセの強いシルバー・ブロンドの髪――
「えーっと、コーヒー牛乳とアンパンってまだあります?」
「ないな」
在庫を確認することもなく、銀髪の青年は即答した。
「コーヒー牛乳は十五分前、アンパンは六分前に完売している。今ある物が全てだ」
などと流暢な日本語で哲学的に聞こえなくもない台詞を述べた外国人留学生のジークさん(大学一年生)は「それで、どうするのだ?」と浩助に選択を問う。
「うーん……」
目の前に陳列されているのは『味が微妙』とのことで不評の揚げパン(抹茶味)に『味がない』とのことで不評なコッペパンに『そもそも昼飯に食べるものではない』乾パンの、以上三種のみ。ちなみに飲み物の類は完売しているらしい。
「どれを選んでも大差ないように思うがな」
「っすよねぇ」
正直な話、浩助はこの三種類が苦手であった。抹茶という、色もさることながら独特な匂いには抵抗を感じるし、コッペパンは飲み物があればどうにかならないこともないが単品だと喉に張り付いて気持ち悪い。そして乾パンは非常食だ。間違っても昼に購買で奪い合うものじゃない。
「……こうすけさま、こうすけさま」
「あ?」
左からユキが話しかけてくる。思わずそちらに視線をやりかけるが、右手に持つ携帯電話の存在を思い出し、慌てて通話するふりをし始める。
「何だよいきなり」
「あ、あのですね、こちらの屋台に並べられているお品は、いったい何なのですか?」
購買で売られているパンが気になったらしい。一々面倒な話である。
「あー、残ってるやつ? ちょっと待てよ……えっとな、左から抹茶揚げパン、コッペパン、んで乾パンだな、うん」
まっちゃあげぱん、こっぺぱん、かんぱん、と指折り数えつつユキは覚えようとしていた。覚えてどうするんだよ、と思いつつどれを選ぶか悩んでいた矢先、
「通話相手は友人か?」
ジークさんが、眼光鋭く訊いてきた。
「はえ? ええ、まあそっすけど」
「む……」
ジークさんは口癖らしい、例の唸るような呟きを洩らすと、「義を見てせざるは勇無き也、か」という、よく分からない発言をするのだった。
「は?」
「不都合あって来れぬ友のため、代行も兼ねて来るとは……お前もサムライだな、サルワタリ」
何のこっちゃさっぱり分からないが、どうもジークさんは満足しているらしく、しきりに頷いていた。その様子さえも女子達からすれば喝采ものらしいのだから、イケメンってのはつくづく罪なもんだよな――などと浩助が思っていた矢先、ガサリと音を立てて、白い色が視界を覆った。
無地のビニール袋である。
「半額で構わん。持っていけ」
「え、いやでも……」
「隣家の悲劇すら見過ごす日本人が多い時世にあって、お前がクラオカのようにサムライハートを忘れておらんことに感動を覚えた。ゆえに餞別として半額で売ってやろう」
ずっと無表情に近い顔をして言ってくるのだから、迫力が半端ではない。
「は、はあ、どうも……」
「毎度あり」
一応、得してるんだよなコレ――そう思うのだが、やはりどこか釈然としないながらも浩助はジークに見送られて購買部を後にするのだった。
「……しかし、なーんで乾パンと抹茶揚げパンくれっかなぁ」
購買部を離れ生徒玄関を過ぎる頃、ビニール袋を覗き込んで浩助はぼやく。結局ジークは売れそうにないあの二種類を売り捌いてしまいたかっただけではないのか、と慣れない頭を使って邪推までしてしまうのだが、
「わぁ、きれいな色ですね、こうすけさま」
一方のユキはというと、浩助の頭上から抹茶揚げパンを眺めて上機嫌であった。
「つってもよぉ、結構マズイんだぞこれ」
緑色の食べ物なんて、野菜類以外ではご免被りたいというのが、浩助の本音であった。
「はあ、そうなのですか。こんなにきれいな色をしているのに……」
完全に初めて見る物らしい抹茶揚げパンを目に、ユキは不思議そうにしげしげと眺めていた。
と、その時だった。
「――そこな下衆!」
可憐だが、どこか傲慢な響きの感じられる少女の声が、精確に浩助の背中に突き刺さる。
反射的に足が止まり、素早く振り向かせられる。人ごみを穿ったかのような円の中央で、カティと全く同じ容姿を持つ少女が、無造作に広がる髪を撫で付けながら、不機嫌そうな表情で真っ直ぐに睨み付けていた。
「…………」
真実、人知れずユキは息を呑んでいた。
――違う。この少女は、教室で出会った彼女とは全くの別人である。髪型や『聞き慣れた』言葉遣いなど、瑣末な差異に過ぎない。
「ワレのタカミチは何処(いずこ)に在るや? 疾く答えねば殺す!」
あの無邪気な少女から『覇王』だの『暴君』だのといった物々しい雰囲気を受けるはずがないのだ。
「え? あ、いや……」
「疾く申さぬか!」
気弱な人間なら泣き出しかねない怒声を放ちつつ、少女はつかつかと歩み寄ってくる。それだけのことで某海を割った老人もびっくりの勢いで他の生徒らを廊下の端に追いやるのだから、対象となっている浩助など膝が激しく笑い出していた。
「た、たた、貴道、ネ? ああアアああいつなら、たぶぶん――」
「死ぬか?」
「屋上にいますぅッ!!?」
悲鳴に近い、何とも情けない浩助からの回答を得た少女は、親指を口元に当てながら何事か呟いていた。
「まったく。このワレを置いて行くことの愚かしさ、今一度タカミチの精髄に叩き込んでやらねばなるまい……」
ようやく嵐は去るのかと安堵しかけていた矢先、
「ぬ、何を惚けて居る」
脅威は、自ら浩助へと近付いてきた。
「貴様に道案内の役を呉れてやる。疾くワレをタカミチへと導けい」
「お、おう」
浩助に抗う手段などあるはずもなく、いまだに割れたままの紅海のようになっている廊下をおっかなびっくりで歩き出す。
(なーんでこんなことになっかなぁ)
次々と海や木々のように左右へ退いていく仰天の光景をぼんやりと眺めながら、浩助は半ば他人事のように思う。
背後に虎のようなオーラを背負い、少女は浩助の後ろを総回診中の某医局長のように闊歩していた。追従などという単語はどこを探しても見つからず、ただ『犬の散歩』という語しか浮かばない。
「貴様もそう思うであろう?」
「へぃ!?」
脊髄反射で背筋を伸ばし、浩助は鬼軍曹の質問に答える新米兵士のように即答した。
「ぬ、そうであろう」
浩助には見えていないが、したり顔で少女が浮かべるその笑みは、どう見ても独裁者かその類である。その笑みのまま市民大虐殺だとかを命じても違和感はなさそうであった。
「――カティも同罪ぞ。ワレのタカミチの名を騙るばかりか、あのような真似を……!」
(ラーナ『様』、まーたえらく機嫌悪いな……つうか、いったい何やったんだよ、カティちゃん)
背後から容赦なくガンガン飛んでくる少女からの不機嫌オーラに、浩助は内心で貴道にこっそりと同情しておいた。
病気持ちであることと髪形を除けば容姿や声の愛らしさはカティと全く同じであるこの少女――ラーナ・クラゥシアの性格は、光と影のように丸っきり逆であった。
いつもしかめっ面。いつも偉そうな口調。いつも乱暴と、およそ双子の姉(貴道によるとそうらしい)とは似ても似付かぬ暴君的彼女であるが、『それはそれでイイ! ラーナ様万歳!!』と水面下では一部の方々から、カティに劣らぬ絶大な人気を集めていたりする。高嶺の花は、遠くから拝む分には無害なのである。
「……こうすけさま……」
「あ?」
「ぬ?」
いえ、何でもとラーナの機嫌を損ねないよう注意しつつ、浩助はなるべく声を抑えて携帯電話に話しかける。貴道が絡んだりしなければおおよその物事には無関心な彼女だが、気まぐれな部分もあり、何に反応するかは予測できないのだ。
「何だよ」
「わたし、あの方の……お傍に、いたくないのです」
珍しくユキがストレートな発言をしたことも含めて、浩助は頭を捻った。
「は、どーいうこったよ?」
「…………」
ユキは何か言いたげな表情はしているのだが、俯いて首を横に振るばかりであった。
「つってもなぁ」
すぐそこで待ち受けている桃色のパライソ(楽園)を見送るのは非常に勿体ない。たとえラーナが乱入して血の雨が降り注ぐことになろうとも。
「あ、じゃあお前だけ――って、そうもいかねえしなぁ」
「……はい」
今にも泣き出しそうな表情のユキを見て、浩助は頭を抱えたくなる。何で言いたいことはすぐ出ないくせに表情だけは素直に出るんだ。
(ったく、なんてメンドクセー奴)
頭を掻き掻き、浩助は思う。パライソへ行くためには結局ラーナと同じ道を行かなくてはならないのだ。
しかし、ユキをこのままにしておくというのも、非常に居心地が悪い。どうしたものかと考えていた矢先、
「何をして居る」
「ぐへぁ!?」
ケツバットに匹敵する強烈な一撃をまともに喰らい、浩助は廊下のど真ん中で尻を押さえて転がり回った。
「下衆の分際で、ワレの道を遮るでないわ」
「は、はひぃ……スンマセン」
尻を蹴り飛ばした張本人に浩助ができたことは、ただただひれ伏すことだけである。何故かそんな自分に嫉妬や羨望の視線が向けられていることになど、気にかけている余裕はない。
「貴様はワレの命ずるままに動いて居れば良い。勝手な行動は許可せぬ」
そしてラーナにいたっては、浩助の人権すら眼中にないご様子である。まったくもって、暴君の呼び名に相応しい。
「返事はどうした」
「はひぃ!?」
スイッチの入った電気じかけの玩具のように、浩助は勢いよく立ち上がった。傍からすれば情けないことこの上ない光景であるが、それでも嫉妬と羨望の視線は向けられているのだから人間とは恐ろしいものである。
「ぬ、では進め」
「……うっす」
そう答えた時のことであった。
「――は?」
パカン、と硬い物体が別の硬い物体に直撃したような音を立てた直後、浩助は自分の足がなくなったかのような錯覚を覚えた。
(え……?)
踏ん張ろうにも脚に力が入らない。膝が床に触れた頃には時間が酷く遅くなったように感じられていた。
(いや、おい待てよ)
ユキが何か言ってるたようだが、細かいことは分からない。ただ悲痛なものであったようには思えた。
掌、額、上半身の順に襲う鈍痛。そして十一月らしい、ひやりとした感触。
「あ、すんませーん!」
そう言って、茶髪の少年は駆け寄ってくると、浩助の顔の横に落ちていた野球のボール(それも硬式)を拾った。
「ぬ? 何ぞ貴様は」
「え? あ、あー……あ! だいじょぶっすか? 一人で保健室行けます?」
結果として道を遮ってしまい、ラーナに睨まれた少年は、慌てて会話の相手を浩助に決める。ラーナとの接触を避けたかったようだ。
「あ、が……っ」
俺は平気だっ! と浩助は言いたかったのだが、「ああやっぱり」と何やら少年は頷くと、浩介から見て後方にいるらしい、もう一人友達らしい少年を呼んだ。どうもこの二人、廊下でキャッチボールをしていたようだ。
「この人を保健室まで連れてくんですけど、いいすか?」
「断る」
許可を求められたラーナは、有無を言わさぬ勢いで拒否した。
「この下衆にはタカミチまでの案内役を任せておる。その役を果たすまでは解放せぬ」
「あ、蔵岡先輩だったらたぶん屋上っすよ。そこの階段一番上まで行って、つきあたりの錆びた扉っす」
「ぬ」
と、頷きとも相槌ともつかない謎の呟きを残し、悠然とラーナはその場から立ち去った。貴道の居場所が判明した時点で、浩助の価値はなくなったのだろう。
(そんな、嘘だろ!?)
「あ、ちゃんと掴まってて下さい。保健室まで連れてくんで」
そう言って、二人の男子生徒が両脇から浩助を支えて立ち上がり、保健室へ――つまり屋上と書いてパライソと読める領域とは真逆の方角へと歩き出していた。
(お、俺のパライソが……!)
心の中での悲痛な叫びもむなしく、浩助は捕らえられた宇宙人よろしく、保健室まで連行されるのであった。
茶髪の少年らが去ってから十分後、ベッドに寝かされていた浩助へと左原銀耶(さのはらぎんや)が歩み寄ってきた。
「思ってたよりも当たり所が悪かったわ。医者に見せるほどではないけれど、暫くは安静にしておいた方がいいわね」
「はあ、そっすか」
まだ鈍い痛みを訴える頭に氷嚢を当てつつ、ふて腐れた態度で浩助は応じた。パライソに行きそびれたことを、未だに引きずっているらしい。
「左原さま」
浩助ら以外に人の姿が見えなくて安心したのか、胸前で手を組みつつユキが話しかけてきた。
「こうすけさまは、大丈夫なのですね?」
ユキによるこの類の質問の回数は、既に手の指の数を超えて片足の指にまで及んでいた。それだけ心配してくれているのだろうが、浩助にはそれがむず痒く感じられた。単刀直入に言えば、照れ臭いのである。
「あのよぉ、さっきからギンヤ先生が大丈夫だって言ってんだろ? お前ちゃんと人の話聞いてんのか?」
「猿渡君」
肩まで落として俯くユキに代わって口を開いたのは、銀耶であった。少なからず、声には咎める響きがあった。
「そんなことよりも、まずユキさんに言うことがあるでしょう? だからきっとモテないのよ、君は」
「も、モテないとかは関係ないっすよ……」
思いもよらない要素にまで言及されてしまい、浩助としてはますますふて腐れた態度を装う他なかった。
(……つっても)
「…………」
心配させていたのは、紛れもない事実。
「よォ」
「?」
心なしか、いつもより低い所を漂うユキに、浩助は頬を掻き掻き「あー、悪かったな、心配させてよ」とぶっきらぼうながらも謝るのだった。
「? どうしたよ」
「……え? あ、あのいえ、何でもありません、はい」
そうユキは言うのだが、袖に隠された口元が形作っているのは、淡い笑み。見ることのできない浩助はそれ気付くことなく、「じゃあいいや」と流した。
「びっくりしただろ? 俺がいきなり倒れちまってさ」
「……はい」
俯きながらも、ユキは小さく首肯する。
「あの時は、ほんとうにびっくりしまして……わたし、息が止まってしまうのかと思いました」
「え、お前って息してんの!?」
今度は浩助が驚く番であった。
「……ユーレイって、息するんだな」
しますよぉ、と反論するユキの言を、銀耶が補足する。
「基本的には生前できてたことや習慣はそのまま残るからね、意味はなくっても呼吸はするのよ」
はあ、とは浩介によるいつもの生返事。
「ギンヤ先生、ほんっとユーレイについて詳しいっすね」
「でしょう?」
返答は簡潔であったが、やはり満更でもない様子であった。そうした様子を見ていると、どことなく銀耶が子どもっぽくも見えるのだから不思議なものである。
「だったらミレンをどーにかする方法教えて下さいよ」
「それは駄目」
先刻と同じく、銀耶は薄い笑みを貼り付けて断る。表情は同じだが、中身は子どもっぽさが払拭されている。
「言ったでしょう? これはそういうルールなのよ」
「うへぇ」
と浩助は呻くのだが、肝心のルールが何を意味しているのかについては既に忘れかけている部分すらあった。
「……あの、左原さま」
「ん?」
銀耶の視線の先、浩介の傍で漂うユキは、「お尋ねしたいことがあるのですが」と控えめに申し出た。
「るぅる、とは何なのですか?」
「……あー」
そうね、と言いながらこちらへ視線を向けられるのだが、浩介には何のことだかさっぱり分からないのでしばらく首を傾げていると、またしても銀耶は何かを諦めた様子で説明し出す。
「ルールっていうのは約定とか決まり事って意味で、それを守らないと大変なことになるの」
「決まりごと、ですか」
可愛らしく小首を傾げていたユキは、ようやく掌同士を打ち合わせる。納得してくれたようだ。
「だから左原さまは、わたし達に協力できないのですね?」
「そう、そうなのよユキさん。理解が早くて助かるわぁ」
「……ぐ」
あからさまな自分へのあてつけだったが、事実には変わりないのでやはり浩助には言い返せない。
「この世の者と“縁”で結ばれた幽霊は、最初に結んだ者が解決しないといけないの。――わたし達だって頑張ったんだから君達も、とまでは言わないけれど、君達は君達で頑張らないと、ね?」
「ね、って言われてもっすねぇ……」
頭を掻き掻き、浩助は哀れっぽく口を尖らせる。まだ銀耶からのヒントが諦められないのだ。
「これ以上のヒントはあげられません。それに今は、安静にしておいた方が利口だと思うわよ?」
そう言って銀耶が見せたのは、小学生ぐらいまでなら誰もが忌み嫌った医療器具。透明な器の中で揺れる液体の色も妖しいその名はずばり、注射器。
「言うこと聞かないと、わたしが眠らせるからね? 軽く六時間くらい」
本来は保険医が持てるような代物ではないのだが、浩助には効果覿面であった。
「あの、わたしも今は、お休みになられた方がいいかと思います。今ご無理をされると、お体に障ると思いますので」
「お、おう。……いちち」
背中で器用に布団にもぐり込む浩助に、ユキも傍から養生するように言う。途端に頭痛が再発するのだから、人体とはいいかげんこの上ないものだ。
「こうすけさま?」
途端にユキが、心配そうに表情を曇らせて寄ってくる。だから何で表情は隠さない。しかも顔が近い。思わず叫んでしまいそうになるが、ここでもやらかすといよいよ居場所がなくなりかねない。
「あ、ああいや、さっきボールの当たった所が痛くてよ」
「――本当に?」
不意に銀耶が、会話に割って入ってくる。
「猿渡君、ちょっと後頭部を見せてもらえる?」
「え、は、はあ」
おっかなびっくりで後頭部を見せる浩助の後頭部に、銀耶の少し冷たい指先が触れる。頭では指だと分かっているはずなのに、見えないところで触れられると、それだけで別の何かのように思えてくる。
「……まずいわね」
という呟きをいきなり投げかけられて平成を保てるほど浩助は冷静ではない。慌てて銀耶に詳しく訊こうと身を起こしかけるのだが、他ならぬ銀耶の手によって遮られた。
「落ち着いて、猿渡君。それにユキさんも」
「な、何がまずいんすか!?」
言われたからといって落ち着けるはずもないのだが、銀耶の眼を見ていると、自然に気持ちが静まってくる。
「少しだけなんだけど、悪くなってきているわ」
「――っええ!?」
「本当なのですか、左原さま……!」
一度は落ち着きを取り戻したはずの二人なのだが、銀耶の言葉にまたしても取り乱してしまう。
「ここにある薬だけでもこれ以上の悪化は止められるんだけど……ちょーっと怖いことになるのよねぇ」
「た、たとえば?」
触診を受けつつ浩助が尋ねると、銀耶は僅かに声のトーンを落とし、
「血が流れることになるわ」
二人を、見事に絶句させるのであった。
「……マジっすか?」
「ええ、本当のことよ」
そこで銀耶の眼が、青ざめた顔の幽霊少女に向けられる。
「ユキさんは、ちょっと外で待っててもらった方がいいかもしれないわね」
「……は、はい……」
浩助のことが心配なのだろうが、『血』という単語を耳にしてから妙に顔色の悪いユキは小さく頷くと、一礼をしてから音もなく保健室の扉をすり抜けた。
あまりにも自然にユキが壁を通り抜けたことに顎が外れかけた浩助だったが、銀耶による次のような言葉を聞かされて更に混乱することとなる。
「――ようやく二人きりになれたわね、猿渡君」
「はぇ!??」
平静を保てるはずがない。子どもっぽさと可愛らしさで覇を唱えるカティと双璧をなす、大人っぽさと色香の銀耶から『やっと二人っきりになれたわね♪』などと言われたのだ。ある意味、ユキの壁抜けよりこちらの方が衝撃は大きい。
(い、いや俺にはカティちゃんがいるし! でギンヤ先生も捨てがたい、ってかギンヤ先生ってたしか結婚してて娘さんがいたんじゃ――)
混乱に次ぐ混乱に、何故か糸目の同級生まで出現する浩助の脳内など知るはずもないのだが、銀耶が向ける視線は階段から転げ落ちた浩助の安否を案じるユキのそれに似ていた。
「……大丈夫、猿渡君?」
「はいっ!! いつでも俺は全然バッチコイっす!! ――ったた……」
自身の容態も忘れて叫ぶのだから、またしても痛みが浩助の後頭部に起こる。そうした様子に苦笑しながら「そう」と銀耶は呟いた。
「無理な大声を出しちゃ駄目よ? 流石にさっきのは嘘だけど、まだ君は安静にしておく必要があるから」
ぴたりと、浩助の動作が止まる。
理解が追いつかない。頭痛さえ痛みはそのままに、どこか遠い所へ行ってしまったように感じられた。
「どうしても、君にだけは伝えておきたいことがあったの」
こちらを見つめて淡々と告げる銀耶の表情は、限りなく無表情に近い。
「君に憑いている、あのユキとかいうお嬢さんの幽霊はね、割と危険な存在なのよ」
「――は?」
浩助は、思い知らされることとなる。
本当に予想外の出来事が自身に起こった時、人は何もできないということを。
外から聞こえてくる、体育の授業に勤しむ同級生らの声が、別世界からのもののように思えた。
終礼が終わり、にわかに活気付く廊下を、浩助は壁に寄りかかるようにして歩いていた。
「こうすけさま、本当に、もう大丈夫なのですか?」
「おお」
答える浩助の声には、張りがない。
「……こうすけさま?」
「何でもねえよ、大丈夫だし」
覗きこんでくるユキを振り払うかのように、浩助は歩みを速める。
「…………」
とてもではないが、ユキと会話する気にはなれなかった。
どうしても、銀耶から聞かされた、一連の説明が頭の中で繰り返されるのだ。
「前にも言ったけど、幽霊っていうのはその人自身ではなく、その人が現世に遺した強い感情――更に深く言えば、人の魂とかではなくて、“未練”が形を持ったものなの」
「彼らは自身を形作る、強い“未練”で摂理を捻じ曲げて、現世に留まっているの。言ってしまえば、異分子的な扱いを――喩えるのなら、ヒトの体内に侵入した細菌とかウイルスみたいな扱いをされるわけね」
「これって、けっこう怖いことなのよ? 現世を健康な人体、幽霊を悪性のウイルスや細菌に置き換えて説明すると、そういった異質な、あるいは異常な存在が体内で活動していると、それだけで人は病気になってしまうってことなんだから」
「当然、人体――現世は異質なものを無視しておくことなんてないわけだから、幽霊を排除しようっていう働きが生じるのは正常なことだって分かるわね? でも、幽霊には実体がないから、どうしても物理的な干渉は無意味。となったら、次はどうすると思う?」
「幽霊という『異分子』を、限りなく現世から隔離しようとするの。それこそ、どんな手段を用いてでもね」
「その常套的な手段が、幽霊と“縁”で結び付いている人間――つまり、とり憑かれている人間を殺すことなの」
「実体を持たない幽霊は、物理的な干渉を一切受け付けない代わりに“縁”を介さないと、違和感を撒き散らす以外には何もできないのだから、“縁”のある人間さえ消せば幽霊の存在を限りなく『無』にすることに繋がるわけね。幽霊そのものを消すことには至らなくても、幽霊による被害は最小限に留められるから」
「結論すると、ユキさん自身が君に不幸を招いているというよりは、彼女による影響を和らげようとするから、君は不幸になっているのよ」
銀耶の説明は、聞いても頭の中がこんがらがっただけであった。
(――「君には、おそらくそんなに時間がない」――)
問題は、その後に銀耶が口にした内容であった。
(――「“未練”は種類を問わず、幽霊の感情に伴って増減を繰り返すの。“未練”が肥大化してしまった場合、幽霊はより強い違和感を発するようになり、“縁”で結ばれた人間に――更には、その人と“縁”で結び付く周囲へとも、際限なく不幸をもたらすようになるわ。一刻でも早く、異質な存在である幽霊を無力化するために」――)
不幸は、浩助を――ユキと“縁”で結ばれた人間を中心に、どんどん広がると言うのだ。
(――「……以上のことを考えるとね、君を襲う不幸が、今よりも悪化する可能性は充分にあるの。早くあの子の“未練”をどうにか判明させて晴らさないと、ふとした理由で被害は猿渡君だけじゃなく、周りの人達にも――」――)
「こうすけさま」
少し強められたユキの声が、浩助の意識を引っ張り戻す。
「あの、どうなされたのですか? お顔が優れぬようですが、あの、それでしたなら――」
「いいよ、気にすんな」
短く、浩助は懸命に言葉を探すユキを遮った。
「こう――」
「もう、大丈夫だし」
「……はい」
目を合わせようともしない浩助に、ユキは頷くより他なかった。
(ったく、マジかよ)
浩助は人目にさえつかなければ、ユキへと何でもいいから怒鳴りたい気分だったが、銀耶から聞かされた幽霊の性質のことを思い出し、苦々しい気分と一緒に飲み込んだ。
銀耶の言葉を要約するなら、ユキは感情が昂ぶったりするだけで、浩助や周囲に被害を撒き散らす爆弾と同じだということになる。
好き嫌い以前に、最低限の接触すら避けたい気分である。誰が自ら爆弾に近付くものか。
(とっととミレンを晴らしてこいつを消さねえと、『あの』不幸がひどくなるどころか、他の連中にも広がるだって? 冗談じゃねえ)
それだけは、何としてでも避けたかった。
両親や姉といった家族。貴道や桜、カティといった友人達。ゲンさんを筆頭とする部活の仲間達や、学校の先生、今すぐには出せないが、これまでに関わってきた人達。
ユキというユーレイ一人が存在しているだけで、こうした人々にまで不幸が及ぶというのなら、見過ごしておけるわけがない。
(……そうだ。絶対にそんなことにはさせねぇ)
ユキをどうにかできるのは自分だけ。それがユーレイに関するルールだと、銀耶が言っていた。
自分だけが、みんなをユキから守ることができるのだ。
(絶対に、俺がみんなへの不幸を止めてやるぜ!)
少年特有の、世界を救ったりする役目を負った架空のヒーローへの『憧れ』も手伝い、浩助は握った拳も固く、胸中で決心するのであった。
(ってなわけで、まずはジョーホーシューシューだな!)
幸いにして、明々後日(しあさって)は休日――勤労感謝の日である。何かを調べ倒すにはもってこいの日と言えよう。
「失礼しまっす」
そのためにまず向かった先は、職員室。
「野澤センセー」
「なぁに……?」
振り返る仕草もおっとりと、国語科担当にして新聞部顧問も兼務する女性――野澤椿は浩助の申し出を待った。年齢は銀耶よりも年上らしいのだが、その若々しい容貌や幼さのある仕草からは想像もつかない。
「ちょっと悪いんすけど、今日は体の具合が悪いんで、部活休んじゃっていいっすか?」
頭痛は治まっているので体調不良というのは嘘なのだが、このまま部活へ行くとユキの不幸に他の部員達が巻き込まれる可能性がある――と、銀耶からアドバイスされたための、仕方なしの行動であった。
「体調不良……?」
小さく反芻した野澤は、小さな声をより一層声をひそめて、「いつからなの……?」と詮索してきた。自分が担当していた時間帯であるかもしれないと懸念しているのである。
「んー、だいたい昼ぐらいからっすかね? 急に頭が」
「頭が……?」
「いや、それだけなんすけど」
と話が終わっていたことを伝えると、身を屈めて聞き入る態勢に入っていた野沢は恥ずかしそうに顔を赤らめた。この先生の雰囲気はユキと似通っていると言えなくもないが、身を屈めている彼女を見て浩助は思う。ある一部分に関しては別次元だ。
「……じ、じゃあ、後で源五郎丸(げんごろうまる)さんに伝えておくね……」
「……? あ、ああ、うっす、頼んます」
ゲンゴロウマル、と言われて誰のことかちょっと首を傾げそうになったが、慌ててゲンさんのことだったと思い出す。最近は彼女のことを校内放送でも『ゲンさん』と読んでいる中で、野澤だけは苗字をフルで呼ぶのだった。
(うーむ、恐るべしゲンさん……)
そんな時であった。
「すみませーん、野澤先せ……ってあれー? コースケ先輩じゃないっすか」
脳天によく響きそうな、能天気な感じの男声。振り返ってみれば案の定、校則に抵触するかしないかの際どいライン上をさまよう髪型をした奴が、手に原稿を持って立っていたのだった。
浩助と同じ軍団――もとい、同じく新聞部に所属する一年、
入部してから間もなく新聞部最後の良心(というかツッコミ役)という貴重だが微妙なポジションを獲得してしまった、ヤタベーこと谷田部(やたべ)宗一郎(そういちろう)である。どうでもいいが、後輩に見下ろされると少し傷つく。
「どうしたんすか? こんな所で」
「おう、ちょっと今日は調子が悪くてさ」
答えた直後、ヤタベーが目を瞠った。何だそのカメが空を飛んだのを見たような顔は。
「それって、大丈夫なんスか? この前『あいつに感染できる病原菌があったら終わりだ。下手したらマジでバイオハザードだぞ』って、ゲンさん言ってましたけど」
「……ンなこと言ってんのかよ、アンニャロ」
「ええ、そりゃもう」
片手を挙げて『はっはっは』と笑う脳内ゲンさんに、浩助は憎々しげに呟いた。
「……あ、あの谷田部君、そのことを源五郎丸さんに伝えてもらっていいかな?」
「ええ、分かりましたっす」
手にしていた原稿を渡し、ヤタベーはふざけて兵隊とかがやっている敬礼のマネをしてみせる。ふざけてやっているのだと分かるのだが、それでも様になっていると非常に悔しい。神様なんてのがいるなら、きっとそいつは不公平だ。
「それじゃコースケ先輩、しっかり休んで下さいよ」
「おう」
一礼して出ていくヤタベーを見送ると、浩助はもう一つの用件を思い出す。
「野澤センセー」
「……え?」
ヤタベーが持って来ていた原稿に目を通していた野沢は「なぁに?」と言いたげに首を傾げた。
「俺、ちょっと調べてみたいことがあるんですよ」
うん、と相槌を打ち、野澤は先を促す。
「この町のことっつーか、昔の人のことっつーか……ええと、そんな感じのをなんすけど」
「もしかして、郷土史のこと? ……あ、郷土史っていうのはね、一つの地域の歴史や伝統文化について調べたり、研究したりするものなの……」
適当に答えたり頷いたりしながら浩助は思う。天然だの何だのと陰で囁かれている彼女だが、こうした姿を見ていると、やはり教師なのだと実感する。
「それだったら、専門的に研究している、『郷土史研究会』っていう人達の所へお話を聞きに行くのはどう? わたしの知り合いがそこに所属してるから、猿渡君がよければ来週末くらいには連れて行って紹介してあげるから――」
「い、いや、そこまではいいっす」
何やら話が大袈裟というか、妙な方向へと行きかけているような気がしたので、思わず止めた。どうも『研究会』とかいう単語を耳にしてから背中が痒くなってきている。
「あの、気持ちはうれししいんすけど、流石にそこまでしてくんなくていいっすから」
「そう……」
遠慮なんてしなくていいのに、と洩らした野澤は「じゃあ」と代替案を出してくれた。
「田路町(とうじまち)市図書館は、どうかな……?」
「ああ」
知っている名前が出てくれて浩助はほっとした。夏休みの時、涼しさを求めて何度も夏月を足を運んだ場所である。
「あそこだったら、田路町の郷土史に関係した本が結構あるし、司書の方も親切だから行ってみる価値はあると思うけど……やっぱり、本格的に調べるなら研究会に……」
「い、いやだからそれはいいですって! てか俺、さっさと調べときたいんで、来週末ってのもちょっち無理があるんすよ!」
「あ、そうなんだ……」
表情と言葉で残念だと訴えながら、野澤は「……じゃあ、やっぱり図書館かな」と呟いた。何が彼女をこれほどまでに突き動かすのだろう。
「これ……」
「?」
何やら粘着式のメモ用紙に書き込んでいた野澤は、それを差し出してきた。
「郷土史関連の本がある場所と、本の名前。それで分からなかったら、司書の黒田さんって方に訊けば教えてもらえるはずだから」
「あ、ども」
急に奥歯にほうれん草が引っかかっているような違和感を浩助は覚えたのだが、とりあえず情報は手に入ったので、そそくさと立ち去ることに決めた。
「じゃ、じゃあありがとーございましたっ」
「あ……うん、また明日ね――」
野澤椿の声は、すぐに聞こえなくなった。
玄関前にかけられた時計を見て、浩助は自分がどのくらい職員室にいたのかを知った。
いつのまにやら、四時過ぎだった。クラブ在籍が義務付けられているこの学校では、いわゆる『帰宅部』は殆どおらず、この時間帯には『例外』を認められた生徒は早々と帰ってしまうために浩助と同じような人影は見かけられなかった。
燃え尽きかけた夕暮れの中でグラウンドを占領している運動部員達が、吹奏楽部や合唱部の奏でる音の中で負けじと声を張り上げて、力いっぱい活動している。その内の何人かは、浩助の知り合いである。
――ということは、やはり“縁(エニシ)”があるのだろうか。
そんなことを考えていると、自然に目線が右側に動く。
「?」
そこではユキが、袖の向こうからじっとこちらを見ながら、不思議そうに首を傾げていた。
「あの、こうすけさま?」
「何でもねーから気にすんな」
ふとした拍子にユキを刺激してしまわないよう注意する意味も含めて、やや強い口調で浩助はユキの追及を振り切ろうとする。
「ぁ……はい」
ユキが頷いてからは、しばらく会話のない時間が続いた。そうしている間にも陽は傾いていき、辺りは薄暗く、そしてどんどん寒さを増していた。
「……あの」
ユキが話しかけてきたのは、浩助がそんな寒さに対し手袋の買い替えとマフラーの導入を考えていた時のことであった。
何だよ、と浩助は横目で睨むように視線を送る。夕食前であったり帰宅前であったりすることから、周囲には人影どころか物音すら聞こえず、少しならユキと会話しても問題ないように思えるのだが、寒さのせいか口を開けるのも億劫で仕方ない。
「その……」
話しかけられる前よりもずっと長く思える十秒間を経て、ユキはようやく言葉をつむいだ。
「ありがとうございます。それと……ごめんなさい」
「……は?」
何かしらの質問が来るとばかり思っていたため、浩助は何と言えばいいのか分からなくなった。やっとのことで「何のことだ?」と訊けたのだが、次の返答には更に頭を抱えることとなった。
「わたし、折角こうすけさまに助けていただいているというのに、こうすけさまを怒らせてばかりで……本当に、ごめんなさいとしか言いようがありません」
「お、おお」
殆ど不意打ちに近い形で言われているため、浩助はこれといった言葉が浮かばず、ごまかしも含めて頭を掻いた。
「…………」
嫌な話だった。
何か言われたわけでもないのに、ユキがじっと――だけど少しためらいがちに――こちらを見つめているだけで、その理由が分かってしまうのだから。
多少くぐもってしまうが、気にせず浩助は口元を押さえたまま喋る。
「あー、まあ仕方のねえこったろうさ。ギンヤ先生も言ってたぜ? お前らユーレイって、直接こっちの物とかは触れないんだろ?」
「……はい」
何故か申し訳なさそうにユキは頷くと、案の定「申し訳ありません」と頭を下げた。
「いーよ、無理して謝んなくても」
「い、いえ……別に無理をしているわけではないのですが」
少し慌てた様子で否定するので、それ以上粘らずに「ああそう」と結んだ。下手にユキを刺激してはいけないのだ。
(まーた泣き出されたらマジで厄介だしな)
などという浩助の思惑も知らないユキは、「こうすけさま」と話しかける。
「ん?」
「あの、ですね……」
袖に隠された向こう側、俯くユキがようやく浩助に伝えられたのは、通算三度目の「あの」を口にしたあたりであった。
「もう少しだけでいいので、お喋りを続けて下さいませんか?」
そんなことを言い出すユキに、心の底で苛立ちに似た感情が湧き上がるのを浩助は感じていた。記憶がないとか覚えてないとか言っているが、自分の周りに与える影響も知らずに軽々しく振舞うばかり。
だが、言葉にすればユキを刺激してしまうことに繋がる。口にできないことで、抑えられている感情は膨れ上がる。
「? こうすけ、さま……?」
「――ああ、大丈夫だ。ところでよ、やっぱユーレイってのは寒さとか暑さって感じないのか?」
「……ええと、はい。そうですね」
空々しいことこの上ない会話を続けながら、浩助は家路を辿るのだった。
「こうすけさま」
夕食が終わり、自室のベッドで寝転んでからも、当然のようにユキは話しかけてきた。鬱陶しく思いつつ浩助は、ユキに何の用か尋ねた。
「先ほどこうすけさまが召し上がっていらした、あのお料理は何というものなのですか?」
「……あー」
頭を掻き掻き、浩助は先ほど飲み込むように平らげた品々を思い出す。『キチっと食えや』と夏月から手刀を喰らった場所が、まだ痛んでいるのだ。
「茶色の長丸いやつだったら、コロッケだな。ジャガイモを潰して作るんだが」
「こ、ころっけ……?」
浩助は、真面目な顔で何度もコロッケコロッケと呟くユキに、「お前さ」と声をかける。何故か掌に指で書いてまで覚えようとしていたユキは、更に何故か慌ててこちらに向き直る。
「ミレン晴れたら、成仏するんだよな」
「……ぁ」
ついさっきまでの弾んだ様子はどこにもなく、ユキは帰り道の途中に見せた、暗い表情を作って俯いていた。
「……そうでした」
「おいおい、忘れてたのかよ」
ノンキな奴、と好ましからぬ感想を浩助は抱く。
「こうすけさまと……そのぅ、ご一緒していたからでしょうか……」
ところがユキは、そんなことを呟いたのであった。
「何だよ、俺が悪いってのか?」
「ち、違います。あの、そのですね……!」
言いよどむユキに、浩助は彼女への疑念を募らせる。こうした場で即答ができないということは、さっきの言葉が本音である可能性が高い。
「決して、決してこうすけさまは悪くございません! ただ、あの……」
真っ赤な顔で勢い付けようとしたのは結構だが、肝心な部分ですぼんでしまった上に「……すみません、何でもありません」である。馬鹿にでもしているのだろうか。
「ま、別にどーでもいいさ」
こんな言葉しか浮かばないことに、自分でもびっくりした。人は無関心になると、何でも許せるらしい。
これ以上ユキの相手をする必要もないと判断した浩助は、再びベッドに背中を預けると反射的に携帯電話を開き、眼を細めた。
「っと、メールだ」
「め、めぇる? ですか」
首を傾げるユキは無視した浩助は、早速メールのチェックを始めた。
受信の画面、一覧の最上には送信者の名前と、簡潔な件名が表示されていた。
[sub:今からそっちに電話する]
「は――」
浩助がメールの内容を理解するよりも早く、手の中で携帯電話が浩助お気に入りの着信音を鳴らし始めた。電話番号も一緒に表示されている発信者の名前も、よくよく知っている。
「こ、こうすけさま?」
「大丈夫だっての」
浩助は着信音におびえた様子のユキを片手で追い払うと、受話器に耳をあてる。
《よォ、直立原人》
「誰がだよ」
相変わらずの毒舌っぷりだが、すっかり慣れきってしまっている浩助は、気にせず流した。
「それよか、何だよゲンさん」
《おお、そうだった》
はっはと快活に笑ったゲンさんは、
《お前、何か隠しているだろ?》
「――――」
いつもと同じストレートで、聞き間違えようのない言葉を浩助に叩き込んだのであった。
「な、何? 何って何だよ?」
《それはお前自身の方が知ってるだろうさ》
涼しげに返したゲンさんは、電話の向こうでズゾゾと何かを啜った。おそらくお茶かコーヒーだ。紅茶は趣味に合わないらしい。
《悪いが、質問に質問で返すのはルール違反だ。一問一答、QにはAで頼むぞ。ちなみに、『お前にゃ関係ない』って言うのも違反だからな》
「べ、別にお前には関係な――!?」
見事に先回りされた浩助を、ゲンさんは向こうでカラカラと笑う。ズゾゾと再び飲み物で唇を湿らせ、《よく聞けよ》と続けた。
《お前みたいなのでも、よく分からん『仮病』を見過ごすと、わたしが部長としての示しがつかなくなる。……それとまあ、友人を代表しての気遣いだよ。貴道に会ったら、ちゃんと礼しとけよ?》
「お、おう、ありがとよ」
淡々と述べたゲンさんに苦笑いした浩助は、早々と白旗を振ることにした。下手に抵抗すればユキのことまで洗いざらい吐かされかねないのである。
「で、何が知りたいんだっけ?」
《そうこなくちゃなぁ、ワトソン君》
ズゾ、と飲み干したらしいゲンさんは得意げに一笑いすると、早速質問してきた。
《じゃあ、まず一つ目。今日お前が部活休んだ理由は嘘で間違いないんだな?》
「……おお」
ごまかそうかとも思ったが、素直に浩助は認める。
《それじゃあ次――というか、これが最後で、本当に訊きたいことなんだがな》
遠くの方で水を注ぐ音が聞こえる。浩助がそれがお湯なのだと分かったのは、またしてもズゾゾゾという音が聞こえてきたからである。
《お前のソレ、人には話せんものなんだな?》
「…………」
……まったくもって、ゲンさんという少女には頭が下がる思いであった。
ちらりとユキに目をやって、浩助は「まあ、そうだな」と頷いた。
「悪いが、まあそういうこった」
ゲンさんの性格はそこそこ把握している。この先、どんな追及が襲うのか想像もつかない。
《なんだ、そうか。じゃいいや》
せいぜい、言葉尻を取られないよう気をつけて――
「……はい?」
《あ?》
今、何と?
「え、お前マジで本当にゲンさん?」
《トートロジーはみっともないぞ。バカの見本だ》
本人であった。
「こ、この毒舌っぷりはまさしくゲンさん……! つか、何だか珍しいな。ゲンさんがあっさり引き下がるなんてよ」
《ん? まあ、な》
とぼやかしただけで、それ以上ゲンさんは喋ろうとしなかった。ストレートな物言いばかりかと思いきや、こうやって変幻自在に言葉を操るのだから油断できない。
《悩みの尺度なんて、他人には絶対理解できんからね。どうしても人に聞かせたくないと思ってる奴、誰かに頼らず自力で何とかしたいって思っている奴に、必要以上の詮索をするような野暮ったいことはしないさ》
「…………」
――などと思っていたが、あっさりと解説して下さった。ちょっと恥ずかしい。
「……そっか」
だが、まあ、言われた内容は聞いていて悪い気はしない。
(――「だからモテないのよ」――)
(ぬ……)
妙な記憶が蘇ったような気もするが、余計なお世話である。
「心配してくれてありがとうな、ゲンさん」
こうやって素直に礼を言うことぐらい、造作もない。
《っはは、そう言ってもらえて光栄だね》
カラカラという笑い声が、いつものように浩助の耳元で響いていた時、
「――んげゃ!?」
《?》
肌寒さとかとは根本的に異なった『寒気』が、浩助の右腕から背筋にかけてを滅茶苦茶に駆け巡ったのであった。
《おい浩助っ、どうし――》
「悪いまたな!」
ゲンさんに伝わったかどうかも分からないまま携帯電話の電源を切った浩助は、諸々の感情が混在する視線を『原因』に向けた。
「…………」
いつ泣き出してもおかしくない表情をしているユキは、浩助のすぐ傍で、彼の右腕があった位置に手を伸ばしかけた姿勢で固まっていた。
「……今『触った』のって、お前だよな?」
凝視する先で、ユキは俯くように頷いた。
「はい……たしかに、こうすけさまに……触れようと、いたしました……」
本当に消え入りそうなユキの言葉に、奇跡的にも冷静さを保っていた浩助の頭が違和感を訴える。
ユーレイは、この世の物に触れられないのではなかったのか?
「何でだ?」
だが、その違和感の正体を突き止められるだけの余裕までは持ち合わせていなかった浩助には、そんな浅い質問しかできなかった。
「なあ、何でだ?」
「わ、わたし……」
落ち着きなく指を動かしながらも、ユキは懸命に言葉を探しているように見えた。
「こうすけさまが……ああいえ、違う、えっと、あのですね、わたし、だから……」
「はァ?」
まったくもって理解できない。しかも何故自分の名前が出ているのかも分からない。意味不明。理解不能。
「お前さぁ、いったい何が言いたいんだよ?」
そうした全ての――とまではいかないまでも、幾らか込められた浩助の言葉を受けたユキの姿が、一瞬だが歪んだような気がした。
(え? いや待てよ、何だよ今の――)
「わ、わたし……その……少しの間、失礼します」
「っておい――」
浩助が止めるよりも、ユキがドアをすり抜ける方が早かった。
「…………」
追うべきかどうか考えたが、結局浩助は無言でベッドに腰かけたまま、ユキが触れてきた箇所を撫でる。
そこだけは氷のように冷たく、触っている感覚も触られている感覚も弱く、自分の体ではないとさえ思えた。
深夜。とある民家の屋上に、異形と呼ぶには可憐過ぎる影が二つ、棘のある空気をまとって立っていた。
「最低だな」
狐の耳と尻尾を有した妙齢の女性が、漆黒の翼を暗夜に羽ばたかせる少女に発した一声がそれであった。
「恐怖で人間の方を煽って、“未練”の解消を急がせるって……とてもじゃないが、上策とは言えないね」
「理想論などわたしの前で語ってくれるなよ牝狐? 虫唾が走る」
少女は呈された苦言を容赦なく斬り捨てると、隻眼を細めて語る。
「あの人間は――偶然とはいえ――成功させるだけの力量を持っていたが、どうせあのような有象無象などでは独力での解決は見込めまい。ならば精々、我らの手の上で思うさま踊ってもらうだけで構わん」
冴え冴えと輝く月光の下、少女のあまりに小さく、贔屓目に見ても頼りなさそうな拳が握り締められる。
だが、漆黒の双翼を有するその背に見えるのは、武の道を修める者ならば怖気を覚えずにはいられないほどの、気迫。
「あのケガレは、わたしが刈り取ってしまえば全て終わりだ。貴様があの人間の安否を憂うこともなくなろう」
「……ふーん」
だが、腰まで届く豊かな長髪を手櫛で整えながら、女性は興味なさそうに相槌を打った。ただそれだけであったが、気炎溢れる者を苛立たせるには最適な対応と言えた。
「貴様……」
「まあ、サイコロは転がってしまったんだ。ここまで来たらやり直しはきかないからなぁ」
彼女を知らぬ者が聞けば無気力とか無関心としか思えないような台詞であったが、少女は一時の感情を制御してから続きを待った。
「なあ、カラス」
「その名でわたしを呼ぶなと言ったはずだぞ、色狂いの牝狐めが」
再び江戸時代の武士であればただちに斬り捨てかねない怒気を発しながらも、少女は女性に続きを促した。
「お前って、サイコロの出目を操れたっけ?」
「何だと?」
という少女の応答を聞いただけで「ふーん」と女性は洩らす。
「そりゃまあ、そうだよなぁ」
「待て牝狐、話が見えんぞ」
マイペースに話題を振り、マイペースに納得して終わる。そんな彼女を見て、とある人物に少なからず同情を覚えた。
だが、それはそれである。
「勝手に貴様だけで完結するなといつも言っているだろうが」
「あれ、そうだっけ?」
まあいっか、と流した女性は、全くやる気のなさそうな顔を薄い笑みで彩った。
「サイコロ振ったのはいいけど、それがどうなるのか分からないだろう?」
「……あのな」
女性の言葉に、少女はため息を一つ洩らした。
4【全ては図書館から始まった】
頭の中がぼんやりとしていているくせに、意識だけが別のものみたいにはっきりとしていた。
(何だこりゃ?)
時々、夢だと自覚していても、どうしようもできない場合がある。猿渡浩助の身に起きているのが、まさにそれであった。
内装からして、明らかにそこは浩助の部屋ではなかった。例えるなら、幼いころに祖父母と観た時代劇に出ていた座敷牢に似ている。壁の上の方に明かり取りがあるだけで、他には壁と、僅かに格子のようなものしか見えない。
よく分らん夢だと思いつつ、もう少しよく見てやろうと首を動かすのだが、何故だか浩助の思ったとおりに体は動いてくれない。
「うっ、ぐぇっ、っはぁ……っ!!」
それどころか、首から胸の辺りにかけて気持ち悪い感覚が湧き上がり、咳とも嘔吐ともつかないものを吐き出した。喉がひりつく。どうやら吐いてしまっていたらしい。
(水……)
疑問に思うこともなく、浩助の手は枕元――どうやら布団か何かの上に寝かされているらしい――を探り、やがて何かを掴む。
震える手に掴まれたそれが視界に入る。どれぐらい手入れされていないのかと推測するのも馬鹿らしいほどに汚れた、小さな茶碗であった。手が大きく震えるたびに、茶碗からは水がこぼれて頬や目にもあたる。
「んっ、ぐ……っ」
口をつけるというか、開きっぱなしの口に水を落とし込む。だが、
「ぐぇ……!?」
急にさっきよりも胸の辺りが苦しくなりだし、口に含んでいた水を全て吐き出してしまった。更に酸っぱい臭いが周りに立ち込め、気持ち悪くてしかたがない。
だが、どうすることもできない。動けばまた、気持ち悪くなって吐くだけだろう。じっと大人しく寝転んでいる他ないのだ。
――きっとこのまま、死んでいくんだろうな。
漠然とながら、浩助は他人事のように思った。
こんな場所で死んでも、誰にも気付かれまい。それどころか、きっと誰の顔も浮かぶまい。
ひどい死に方だ――意識が遠のいていく中、浩助は呟いた。少なくとも、自身の中ではそうなっていた。たかが夢のくせに、おそろしくリアルにできている。
意識が遠のいていく。もうじき夢が終わるのだろう。まるでおそろしくつまらない映画を直接体験しているような気分だった。
(――い――)
(あン?)
どこからか、声が聞こえる。どこかで耳にしたような気もするが、ぼやけた頭はちっとも役に立ってくれない。
「いゃ――」
まただ。今度はもう少しはっきりと聞こえた。
お前は誰だ――そう言おうとしても、声が出てくれない。誰かの声がはっきりとしてくるのに伴って、意識はどんどん目の前の景色から離れていく。
「このま、ま……独りで死、ぬ……い、ゃ――」
気が付くと、ベッドの上で飛び起きていた。
「うぇ……」
汗で背中に張り付いたシャツが気持ち悪い。まるで七月か八月ごろの寝起きであるが、今は十一月である。体を温めるためにも、すぐさま風呂場に直行したい気分であった。
「何だってんだよ、ったく」
呟きは寝汗に対してではなく、昨夜見た夢へのもの。
悪夢を見たのは初めてではなかった。酷い時にはベッドから転げ落ちていたこともある。
だが、昨夜(ゆうべ)のは違った。どう違うのかと事細かに訊かれると困るが、やけにリアルというか、まるで本当に体験したかのように感じられたのであった。
「まあいい」
長かった。本当に長かった。
この三日間、胃に穴を空けられているような思いで待っていた日が――勤労感謝の日がやってきたのだ。
「……おはようございます、こうすけさま」
「おう」
よりによって、一番聞きたくない奴の声を朝一番に聞いてしまう。そうした考えが丸ごと顔に出ているのだろう。ユキの顔は、ご丁寧にも悲しそうな表情を作っていた。
「着替えるから、あっち向いてろ」
「は、はい……」
そうした顔のユキに背を向けると、浩助は黙々と着替えながら昨晩のことを思い出す。
ユキは、部屋を出て行ってから二十分ほどで帰ってきた。
会話なんてしたはずがない。少しくらい悪い気はしたが、それ以上にあの時は気味悪さが勝っていた。
(何だったんだよ、ありゃあ……)
灰色のパーカーに袖を通しつつ、浩助はユキが『触れた』時の感覚を思い出す。
十一月の寒さとは全く違い、一瞬で骨の髄まで響きそうな冷たさを持っていた。死んだ人間の感触、と言えば話は早いが、触ってきたのは死んだ人間の“未練”である。生身の人間に触れるはずがないのだ。
「そりゃあ、まあ驚いたってのもあるけどよぉ」
浩助とて、ユキに対し多少の罪悪感はあったのだが、かといって、いまさら謝るのも気が引けてならない。むしろこれまでの経緯から『俺が被害者だぜ!』と、声を大にしたい気持ちの方が強いのだ。
(ギンヤ先生に相談してもあれ以上が教えてくれなさそうだしなぁ、ったくよぉ)
そんな八方ふさがりで行き場のない感情を抱えた三日間だったが、それも今日で終わりである。きっと、いや間違いなく。
「でなけりゃ、マジでやってらんね――」
「あ、あの」
「!」
背後から聞こえるか細いユキの声に、浩助は背骨が気味の悪い音を立てるほどの勢いで背筋が伸びた。
忘れていた。部屋には、まだユキがいたのだ。驚きよりもばつの悪さで、浩助の顔は赤くなる。
「こうすけさま、どうなされたのですか?」
遠慮がちに尋ねてくる、ユキの声音が浩助の心をえぐる。頼んでもないのにそんな健気な表情をするな。
「……飯食ってくる。戻ったらすぐ出かけっからな」
返事は聞かずに、浩助は急いで部屋を出た。
おざなりに顔を洗い、顔を拭いたタオルを首にかけた浩助をダイニングで待っていたのは、山積みのトーストと、
「おいどうした愚弟、折角の休日だってのに、わたしのテンションまで下げるなよ」
インウツな気分の真上から更にインウツな気分を上塗りしてきた、姉の夏月であった。食ってるのはトーストなのに、ガゼル獲った後のチーターみたいだってどういう話だよ、と思いつつ言い返す。
「姉貴はテンション高過ぎんだよ。大胡さんと何かあ――んっぎゃ!?」
「言うな言うな! テレるだろーが!!」
照れ隠しに熱々のジャムトーストを容赦なく顔面に押しつけらた浩助は悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちかねないほどに悶え苦しんだ。某天空の城の大佐の物まねをしている暇などない。
「ああ、楽しみだ。今からでも血沸き肉踊る……ッッ!!」
んな大げさな、と言いかけて浩助は黙った。興奮状態の姉をヘタに刺激して、いいことがあったことがない。
「せめて小遣いとかでもくれりゃいいのに」
「ん? なんだお前もで、デートか? いや、愚弟の分際でそれはないか」
言った直後に翻された。事実だが、それだけに悔しい。というか噛むなよ、いまどきデートくらいで。
「……そうじゃねーけどよ、まあ、約束があってよ」
「ふーん」
夏月は、新しいトーストにジャムをべったりと塗りたくりながら相槌を打った。
「で、幾らいるんだ?」
「……は?」
齧っていたトーストを落としそうになると、頭上に手刀が振り下ろされる。目から火花が出るより、舌を噛んでしまったことの方が大変だった。
「で、幾らいるんだ?」
「と、とひょかんにいくらけなのれいいれす……」
泣きたくなるような激痛を堪えながら、浩助は正直に答える。
「んー? そうか」
ピーナッツバターを塗りたくりながら、夏月は首を傾げる。しばらくそうしていたが、めんどくさくなったのか、すぐにやめてしまった。
「……ま、気のせいってやつか。わが愚弟ながら紛らわしい奴だな」
「何だそれ」
理不尽すぎる上に所々意味不明な発言をした夏月にそう返したかったが、触らぬ『姉』にタタリなしと黙っておいた。
午前十時十三分。休日だというのに近年まれに見る大寒波とやらのせいで、住宅街にはとんと人の姿が見えない。冬でも暑苦しい気象予報士によれば、雪が降りかねないという。
「あー、さむ」
猿渡家から徒歩で十分ほど坂を下った先にある、錆で赤茶けたバス停――そこに、全身ウール百%でモコモコとした格好の浩助と、ユキの姿があった。
「あー……くそ」
縮めた首を幾重にも巻いたマフラーに埋め、浩助は寒さで顔をくしゃくしゃにさせながら中身のないぼやきを洩らす。非常に情けない服装から分かるように、寒さに弱いのである。
こんな日は外に出ず、ひたすらゲーム三昧か、あえて貴道やゲンさんの家に遊びに行くものだが、生憎と今の浩助が行かなければならない先はいつもと違う。
「せっかくもらったんだし、大事にしとかねーとなぁ」
ズボンのポケットから取り出したメモ用紙に一通り目を通すと、浩助は大事そうに再びポケットへ収める。
浩助の向かおうとする先は、田路町市立図書館。そこには野澤先生の言う郷土資料――ユキの“未練”を晴らすための情報があるかもしれないのだ。
(カティちゃん、今日中にはこいつを……消してよ、何もかも終わらせるからよ)
自らの心情を憧れの少女にかこつけて、浩助は己を奮い立たせていた矢先、停留所に聞き慣れたエンジン音とともに市バスが停まる。
「! こ、こうすけさま、これはな、何なのですか……!?」
背中に隠れてバスを指さすユキに、浩助は面倒くさそうに「市バス。乗り物だよ」と小声で説明した。
先が思いやられるぜ、と内心で呟きながら、浩助はそそくさとバスに乗り込む。続けて、何やら決心したような表情でユキも。
中に入ると、暖房がほどよく効いていて、かじかんだ指先がじんじんとして心地いい。
「――わぁ……」
自分の隣にいるのがユキでなければ、延々とそのよさを語りたいほどである。
走り出したバスの外、流れていく窓越しの風景に、ユキは控えめながらも「わぁ」だの「風みたい」だのと呟いていた。バスが停まったら停まったらで、ユキは浩助に話したそうに何度か袖の向こうから視線を向けてくる。
何ともノンキな奴、と浩助は思った。
「――あの」
「通りたいんだ、ちょっといいかな?」
そんな折、新たに乗り込んできた、仲のよさげな老夫婦が話しかけてきた。貴道の家の近所に住んでいる夫婦で、浩助も面識があった。たしか名前は、サカキとかいったはずだ。
「あ、はい」
「あら、ありがとうねぇ」
そそくさと通路の端に寄った浩助に会釈し、サカキ婦人がぼんやりした様子で宙を漂うユキを通り抜けた時だった。
「っっひゃ!?」
「!!?」
サカキ婦人が、突然顔を真っ青にして叫んだのだった。数少ない乗客も、何が起こったのかと迷惑そうに彼女を見やる。
「ど、どうした!?」
「急にすごい寒気が……あら? もうしないわ」
旦那さんに支えられたサカキ婦人は、不気味そうに自分の頬を撫でながら「ふしぎねぇ」と呟いた。
「大丈夫……なんすか?」
「……ありがとう。ちょっとびっくりしただけだから、何ともないわ」
心配そうな浩助にサカキ婦人は手を振って返し、開けっぴろげな笑みを浮かべて見せた。
「きっとどこかから、風が入ったんだろう」
そんな彼女を支えつつ、サカキさんは言った。
「お前も、何だかんだで年だからなぁ、ちょっとした風が身に染みたんだろう」
「あら、ご挨拶ねぇ」
と口を尖らせるサカキ婦人を横目に、浩助はユキを見た。
「…………」
ユキはこちらに背を向けていて、どんな表情をしているのか分からない。
最寄の停留所である西田路町駅の東口で降りると、浩助は吹きすさぶ風に背を丸めつつ歩を進めた。
丘に巻き付いているような道の先、花も葉もない桜の木の向こうに、目指す図書館はあった。
田路町市市立図書館は、田路町市唯一の、そこそこの大きさじゃないかと思われる図書館だ。二階建てだが、基本的にカウンターのある一階部分だけしか使えないが、夏休みとかになると二階を開放して、一昔前のアニメだとか戦争に関係のあるビデオを観れるようにしていた記憶がある。
我ながら何と曖昧な、とは思うのだが、最後に来たのが小学五年生の夏休の時なのだから仕方がない。
「えーっと、あこれか」
野澤椿から渡されていたメモ用紙をポケットから取り出し、郷土史関連の本がある場所を確認する。郷土資料室なる名前で、カウンターのすぐ脇にある。
「なーんだ、すぐに行けるじゃん」
と浩助が特に深く考えずに郷土資料室に足を踏み入れようとした直後、
「こりゃそこ! 待たんかい!?」
「っつぉ!?」
それまでの静けさを全てぶち壊すかのようにいきなり背後から声をかけられて――というか怒鳴られて、浩助は漫画よろしく口から心臓が飛び出そうな心境で振り返り、
「げ!?」
「おお、あの時の小僧ではないか」
図書館職員の名札を左胸に付けている、いつぞやの人使いの荒い老人と再会してしまったのだった。
いったん図書館の外にまで連行された浩助は、大まかな事情を老人――黒田定吉というらしい――に喋らされた。無論、ユキに関係のある部分は伏せた上で。
「……ィッキシ! まあ、そーいうことっす」
「ふーむ」
自販機の脇で缶コーヒーの中身を少しずつ飲みながら、黒田老人はくしゃみ交じりの浩助の説明を聞き終えた。
「話の筋は分かった。しかし、その年で郷土史に目覚めるとは……流石は椿君、そしてわしといったところかのぅ!」
「はぁ」
何だよそれとは思いつつも、缶コーヒーを奢ってもらった手前、浩助は適当に相槌を打つだけにした。たとえ冷たい方のコーヒーだとしても。
数分間のやり取りで浩助が分かったのは、この黒田老人が野澤の言っていた『司書の黒田さん』に間違いないこと、黒田老人が野澤も所属している『田路町市歴史研究会』なる地元大好き人間らによって構成されている研究会の人間であること、他には研究会の中で新たな出会いを求めていること、などなどであった。
「しかし少年よ、あの場所は通常の書架とは違って、事前に受付で許可を得ねばならん。あすこに排架されてあるのは、どれもが当時の田路町の事柄を書き留めた貴重な資料じゃでな。盗難対策を怠ってはいかんのよ」
次からは気を払ってくれぃ、と言葉を結んだ黒田老人は、ダーツを投げる要領で空き缶をゴミ箱に軽く投げ入れた。
「さて、それでは案内しようかの」
意外な一芸にちょっと驚きつつ、浩助はマネして入れ損なった空き缶を拾いに行く。
「……お優しい方、なのでしょうか」
黒田老人との距離が開いたのを見計らったかのように、ユキが耳元で問いかけるように、もしくは独り言のように呟いた。
「さあ? そうじゃねーの?」
無視するというのも一つの手だったが、何故か浩助は返答していた。
「ま、何のとっかかりもねーよりかずっとマシだしだわな。とりあえず、ありがたく頑張ってもうよ」
「何をやっとる! さっさと来んかい!?」
背後から、黒田老人が怒鳴っている。
そうだ。こんなしょうもないことに時間を使っている場合ではない。
「わぁーってますよ」
そう答えて、浩助はもう一度空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
至近距離にもかかわらず、缶はゴミ箱の縁で跳ね返り、再びアスファルトの上に落ちた。
「貴重品以外の不要な荷物は脇のロッカーに預けておけぃ。鍵はかけたな? ならばわしに貸せ。責任持って預かろう」
「へーへ――っあだ!?」
「なんじゃその口のきき方は!?」
そうしたやり取りを経ながら、やっと浩助は郷土資料室に入ることができた。
「――――」
足を踏み入れた途端、空気が変わったの感じた。きっと今、隣で漂うユキと同じような表情をしているのだろう。
「……すげ」
郷土資料室は、特別物静かな印象のある図書館の中でも、とりわけ静かというか、音らしい音が全く聞こえない場所だというのが、浩助の印象であった。そもそも、部屋に入っただけでそれまであった人の声や気配が全部なくなったように感じたこともない。
四列に並ぶ本棚はどれもこれもが色あせ、古ぼけた本ばかりを納めていて、触ると全部が崩れてしまうんじゃないかとさえ思われた。
「あのー、ここって防音とかになってるんすか?」
「んなわけなかろう、バカタレが」
と切り捨てられ、黒田老人に叩かれたのはここだけの話。
ほんとに気安い爺さんだな、と思いつつ、浩助は案内してもらったついでに頼んでみることにした。
「あの、できたら昔あった事件とか、そーいうのがあるトコも教えてほしいんすけど」
「あん?」
わざとらしく片眉をつり上げた黒田老人は、「仕方がないのぅ」と一つ洩らすと、入り口脇にある、浩助の腰ぐらいの高さの棚を指さした。
「それならば、そこにある新聞か、部屋の奥にある個人伝記辺りを調べてみるとよかろう。他に何か質問は?」
「いや、特には……あ」
断りかけた時、ふと記憶が蘇る。
(――「こちらの看板には『校学等高四第立市市町路田』と書かれてありますけれど、何と読むのですか?」――)
(――「逆だよバーカ。何で右から読んでんだよ」――)
些細なことが貴重なヒントとなるのは漫画ではよくある話である。訊くだけ訊いても損はない……はずである。
「まだ他にあるんか?」
「いや、まあ、そんな大したことじゃないんすけどね」
黒田老人はちょっと面倒くさそうなリアクションを見せていたが、ここは思い切って訊いておくべきだろう。
「昔の人が、左から読むようになったのっていつからっすか?」
「はあ? 何じゃいそりゃ……まあええ、横書きの文を左側から読むようになった年代は諸説あるが、明治時代から敗戦の間というのが定説となっとるな」
予想通りというか、ある程度は期待できた内容だった。
「分かったっす! ありがとうございま――ぁ!?」
「騒ぐなっつっとるじゃろうが」
またもや黒田老人に殴られるのは、予想外だった。
「……てて、あのボーリョクジジイめ」
頭を押さえながら、浩助は黒田老人が去るのを待って毒づいた。それぐらいしないと気が晴れなかった。
「……さて、探すとしますかね」
「はい」
独り言に相槌を打たれて微妙な気持ちの中、とりあえず黒田老人の言っていた年代に当たる新聞を適当に抜き出した。
「こうすけさま、こちらが『しんぶんし』ですか?」
「そ」
適当に返して、浩助は郷土資料室の奥にあった小さい机の上に新聞を大雑把に広げていく。
「汚ねえ新聞だな」
それが浩助の感想だった。
ずいぶんと古いシロモノだというのは見て分かるが、紙は黄ばみを通り越して茶色。端の方はボロボロになっているが、辛うじて記事の幾らかは読める。読めるのだが、
「…………」
浩助には、何のことだか全く分からない。読めても意味が分からなければ、日本語も外国語も大差ない。
「はー、マジかよ? こんなの読めるわきゃねーじゃん」
とぼやくが、そんなことで事態が好転するわけでもなく、結局浩助は授業でも見たことのない漢字やら言い回しやらと格闘する羽目になった。
「くっそー、流石に予想外だったぜ……」
殴られてでもいいから黒田老人を呼べばいいものを、早くも老人のことをすっかり忘れていた浩助は頭を抱えて懊悩するのであった。
分からない上に理解する取っ掛かりも見つけられないという授業中と同じ状況が揃えば、当然のように眠気が浩助を襲ってくる。
「んー……あー、えー……?」
口から意味のない言葉を垂れ流しながら、浩助はまぶたがちょっとずつ重くなっていくのを感じていた時、
「あ、あの……こうすけさま? こうすけさま?」
か細い声で、ユキがおずおずと話しかけてきた。頭を机上に乗せたまま、浩助はめんどくさそうに「んだよ?」と適当に用件を訊く。
「あ、あのぅ、その、ですね……」
言葉を濁しているばかりで要領を得ないユキに、またもや浩助が声を荒げると、やっとユキは謝りながらこう言ったのだった。
「わたし、もしかしたら……しんぶんしが、読めるかもしれません」
「!」
しめた――そんな思いとともに、浩助の頭上で豆電球が光った。
「それ、本当か?」
「は、はい……あの、もしかしたら、ですが」
もじもじと両手の指を遊ばせながらこちらを上目遣いに見つめているユキには目もくれず、浩助はそそくさと席を立ってユキを促す。
「じゃ、あとりあえずお前がやってくれよ。何か分かったら教えてくれ」
「は、はい……!」
妙にはりきった様子で、ユキは新聞に目を通していくのであった。
(考えてみりゃあ、こいつ自分から成仏したいって言ってたじゃん。ここまで来てやったんだし、後は自分で調べんのがフツーだろ)
頭の片隅で言い訳しつつ、浩助はぼんやり窓の外を眺めていたが、いつの間にか眠ってしまった。
また、夢を見ていた。場所はどっかの屋敷で、たぶん縁側とかいう場所。庭の緑がきれいだと思っていたら、急に視界が庭から入道雲の眩しい空に移って、そこから優しそうな、着物姿のおじさんに行き着いた。
見た目は三十代くらい。図書館とかよりは書斎とか、そういった家の中が似合いそうだった。何故だか、こっちを見ている顔は申し訳なさそうにしている。
「つらくありません」
あの声が、おじさんにむかってそう言っていた。膝の上に抱えられているらしい。
それはまあいいとして、何が辛くないんだよ、こっちにも分かるように説明しろと言いたいが、今回も喋ることができない。ていうかおじさんも素直に頷いてないで何かヒントでもくれよ。
「だってわたしは、幸せに向かって生きているのですから」
そんなことを考えていると、またわけの分からないワードが出てくる。幸せに向かう? 何のことだよ。
だってお前は――
どのくらい時間が経ったのかはっきりしないが、ユラユラフラフラと定まらない浩助の意識を呼び戻したのはユキの声だった。
「あの……こうすけさま?」
「……あー?」
涙が出るほどの大あくびをかましてから、浩助はユキの方へと目をやった。窓の外を見れば、既に見える自転車置き場が夕陽を受けて暗い赤に染まっていた。
「んが……どうしたよ?」
「いえ、あのですね、しんぶんしのことなのですが……」
伏し目がちに浩助を見つめるユキは、古ぼけた新聞紙を指さして「何とか、読むことができました」と言った。
「ああ、そうなの。で?」
「……で?」
「何か分かったのかっつってんだよ」
今ひとつ察しの悪いユキに対し、自分のことは棚上げして苛立ちつつ、浩助は新聞のことを訊いた。
「ええと、あの――」
「あのとかえっととか、そーいうのはいいからはっきりしてくれよ。何か分かったのか? 分からなかったのか?」
早口で捲くし立てられ、申し訳なさそうにしていたユキは泣き出しかねない表情になりながらも、消え入りそうな声でこう答えた。
「その、『ころり』という病がこの辺りで流行っていたために、たくさんの方が亡くなられた、というようなことが書かれていたのですが……その、わたしのことと思われるものは……」
捨てられる直前の仔犬みたいな雰囲気を漂わせるユキが、震えた声音でいったい何を言おうとしているのか、浩助には分からないこともないのだが、
「ふぅん」
この一言だけで済ましてしまう。その後になってようやく、ユキの言う『ころり』とかいうのが何なのか気になってきたのだが、今更訊くのもどうかと思ってやめてしまった。
「あ」
「……こうすけさま?」
浩助にそうさせた理由の一つに、居眠りしている間に見た夢もあった。
あの夢には、何か意味でもあるのだろうか? 本当はあの夢の中にヒントがあるのではなくて、夢自体がヒントだとか――といった考えに歯止めをかけることなどできるはずもない。
(ヤベ、俺頭冴えてんじゃん)
間違ってようと駄目で元々。訊くだけ訊いておくに越したことはない。
「よォ」
「?」
浩助が声をかけると、ユキは小さく首を傾げた。
「お前ってさ、病気になったりとかインテリっぽい親父とかっていたりする?」
「え、ええと……いんてり、とは何なのですか?」
などと首を傾げて、ユキは訊き返してきた。ていうか質問に質問で返すなよ。ゲンさんに笑われるぞ。……じゃなくて、インテリから説明しなきゃならないのか。
「インテリってのは……まあいいよ、別に」
「??」
しょせんは夢だもんな、などと思いつつ、浩助は郷土資料室を出ることにした。
インテリが何なのか、説明できないわけではないのだ。
「おーい、黒田のじ――ぃぎぇ!?」
「館内で声を張り上げるでない。そして目上の人間を少しは敬わんか」
来館者であるはずの浩助に対し、黒田老人の手刀打ち下しが見事に決まった。頭を抱え悶えつつ、浩助は「スンマセン」と謝り、黒田老人の許しを得てロッカーの鍵を返してもらう。
「あ、そうだ」
「何じゃい、また訊きたいことでもあるんか?」
ユキの言っていた『ころり』について訊こうと思った矢先、黒田老人が真っ直ぐに射抜くような視線を向けてくる。
「そ、あのさ――」
「くぉーのアホンダラがっ」
再び繰り出される手刀打ち下し。しかも前回と同じ場所に。
「いってー……」
「己の力で調べようともせず、他力ばかりを頼る……貴様の体たらく、司書として見逃すことはできても日本男児としては捨て置けぬ!」
恨みがましい浩助の視線など意に介した風もなく、勝手に熱くなっている黒田老人は拳を握って息巻いた。
「じ、じゃあどーしろってんすか?」
「文明の利器を使わんかいド阿呆」
そう言って黒田老人は、カウンターの傍にある文明の利器――早い話がパソコンを指さした。
「使い方くらいは知っとるんじゃ労な?」
「そりゃあ、まあ――っだ!?」
しゃきっ答えんかっ、ともう一発打ち込んだ黒田老人は、肩をいからせながらカウンターへと戻っていった。そこから漏れ聞こえる会話を拾っていくと、どうやら別のことで気に入らないことがあったらしいが、それぐらいで八つ当たりをされてもいい迷惑である。
「ったく、なーんで俺の周りって暴力野郎ばっかなんだよ」
自分が原因だとは夢にも思わず、浩助はぶつくさ洩らしてパソコンの席に着く。
「すみませんが」
「はえ?」
そんな時、脇の方から髪のカラーリングに失敗しちゃったらしい、司書の中年女性が話しかけてきた。
「パソコンを使用される場合は、そちらの方で使用申請書を提出してからにして下さい」
「へーへー、っと……あ、コレでいっすか?」
「えー…………はい、結構です。それではこちらをどうぞ」
結構と言うまでにちょっとした間を感じたような気もしたが、食いつくと面倒くさいので浩助はパソコンの使用許可を示す、マウスパッドみたいな物を受け取った。
「こ、こうすけさま? この箱は何なのですか?」
「パソコン。……まあ、知りたいことを教えてくれる機械、ってとこか」
キカイ? とユキが首を傾げている隙に浩助は某有名な検索サイトを開いた。
「たしか、ここにキーワードを入れるんだよな……」
おっかなびっくりといった手つきで、浩助は昔ゲンさんの家で教わった手順通りに(うろ覚えながらも)実行していく。
ちなみにこの時、浩助が入力したのは『ころり 病気』と、
「めい、じ、と……お、何か出た」
『明示』という熟語二文字であった。
「へー、色々あるもんだな。さて、探し物は何ですか〜っと」
何かのCMで耳にしたフレーズを口ずさみながら浩助が表示されているサイトに順番に目を通していくと、
「……でんせんびょう――伝染病!?」
「館内ではお静かに願います」
「あ、すんません」
またしても司書から注意されて謝ると、浩助は先ほど発見した、聞き捨てならない単語を含んだサイトを開く。
「わぁ……『ぱそこんさま』とはすごいのですね、こうすけさま」
浩助はユキの無邪気でのん気な感想が気に障る暇もなく、更に表示されたサイトの、延々と続く文章に目を通す。が、
「ぐぅ……っ」
悲しいかな、浩助には文章の羅列への耐性が皆無に等しいのであった。
それでも何とか、ちょっと読んですぐ頭を抱え、ちょっと読んではすぐ頭を抱え、といったルーチンを繰り返しながら、少しずつ浩助は文章を読み進めようとする。
「やべ、頭割れそう……」
学校指定の教科書にでさえ時々苦悶する浩助にとって、目の前の(本人にしてみれば)難解な用語&言い回しの前に脳が早々と限界を訴えていた。
「だが、だがまだ終わらんよ……!」
中途半端な物まねを挿みつつ、浩助は過負荷を訴える頭をゆっくりと持ち上げていくのだが、
「申し訳ありませんが、当館は間もなく閉館となります」
その直後、お前実はさっきから待ってたんじゃないのかと疑いたくなりそうなタイミングで入ってきた、司書の中年女性によって遮られてしまうのだった。
秋の日はつるべ落とし、と言うが、冬になれば自由落下だ――とはゲンさんの言葉だが、なるほどと浩助も思う。昼過ぎだと思っていたのに、あっと言う間の夜である。
「は−、さむ……っ」
図書館から出るや、浩助はマフラーに顔を埋めて暖をとる。街灯は道路を挟んで駅まで等間隔に続いており、歩いているとそれだけでまた物寂しい雰囲気を感じる。
「わたしの“未練”、分かりませんでしたね……」
そんな中、ユキが小さく呟いた。浩助はずっと前を向いて歩いているので、どんな表情をしているかは分からない。
「おう」
何の気なしに、浩助はくぐもった声で応じる。
「で、ですが、今日はあの……手ごたえ? が、あったかと思います」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ、と言いかけたが、面倒なことになりかねないので黙って喋らせることにした。
「あの、『ぱそこんさま』でしたか? あの方が色々と教えて下さるのでしたら、わたしの“未練”も、きっと早く見つかるのだと……その、思うのです」
「……へっ」
言いたいことはそれなりにあるし、ツッコみたいことならもっとあるのだが、
ユキの様子を見ていると、まあ、悪くないのではないかとも思ってしまう。
そんな軽い気持ちが、浩助の口を軽くさせた。
「そりゃまあ。さっさとお前が成仏しねーと、カティちゃんやゲンさんにまでメーワクかかるしな」
「……え?」
空気が、凍った。比喩ではなしに、実際に浩助の体感温度は下がった。
「あ、あれ? お前知らなかったのか?」
漢字は読めないが空気は読める男は、自分の犯した失態に気付いた。
「あ、やべ、たしかこれってギンヤ先生が……」
必死になって取り繕うとする浩助だが、不幸にも彼は猿渡浩助で、
「あ、あの、わたし……」
ボロボロと涙をこぼしている、彼女はユキだった。
「ち、違うんだ! 今のは、えーっと、まあそのアレだアレ! アレだから気にすんな! な!?」
言葉は決してなかったことにはできない。如何に取り繕うとも、それは言葉を重ねただけに過ぎないのだから。
「わたし、わたし……!!」
「お、おい!?」
止める間もなく、ユキは浩助に背を向けて真っ直ぐに飛び、すぐ垣根の向こうへと消えてしまった。
「…………」
浩助は、中途半端に腕を伸ばしたままの、不格好な状態で立ち尽くしていた。
その頃、とある小型車の中では、不穏な空気が生まれつつあった。
「……まずいわね」
「? どうしたんですか?」
助手席に目をやっても答えてくれず、それどころか彼女は突然「車を停めて」と言い出したのだった。
「あ、あのぉ、どうしましたか?」
「悪いけど、説明してる暇はないの」
だから早く、と促され、結局その勢いに負けてしまった。
「ゲンさんを頼むわよ、先生」
「は、はい――え?」
言葉の真意を知ろうにも、彼女は既にパンプスだとは思えない速さで横断歩道の向こうへと走り去ってしまい、とてもではないが追えそうになかった。
「……源五郎丸さん、わたしどうしたらいいと思う?」
「わたしに訊かんで下さいよ。とりあえず今は、いつまでも停めてると邪魔なんで、早く車を動かして下さい」
今にも泣き出しそうな様子の野澤を横目に、ゲンさんこと源五郎丸は顎に指先を当てて考える。
(さて、何だかよく分からんが、面倒なことに巻き込まれている気がするぞ)
その時、とある図書館の屋根の上で、片目が潰れたカラスが呆然と立ち尽くす少年を見下しながら、悠然と翼を羽ばたかせた。
(牝狐、悪いがこれ以上待ってやる義理はないのでな)
夜闇の中にあって、カラスは間違いなく一直線に飛んだ。
ユキの消えた方角へと。
転んだ先が途轍もなく悪かった。よりにもよって、野良犬が残飯を漁っているゴミバケツに頭から倒れこんでしまった。
「畜生ぉあ痛ぁあ!? っで!??」
慌てて逃げようとする浩助だったが、そもそも転んだ原因が靴紐の緩みにあることを失念しており、またしても転び、かつ勢い余った犬に思いっきり頭を踏んづけられてしまうのだった。
「は、話せば分かる! 分かるよな!? 俺は別に驚かす気もお前の晩飯なんか横取りするつもりもないんだってば――あ痛い痛い痛い!?」
何を思ってかの説得に効き目があるはずもなく、野良犬は恨み骨髄とばかりに浩助が差し出した手に牙を突き立てた。
「……っっだー!! 放せやこンの犬畜生がよぉ!!?」
「うるせぇのは手前だバカ!」
噛み付いている犬を引き剥がそうとした矢先、塀の向こうから罵声とともに真冬の夜には(というか一年通して)ありがたくも何ともない冷や水を頭からかけられた。驚いた犬が逃げ出したことがせめてもの幸運だが、ぐっしょりと濡れた全身と噛まれた手の埋め合わせには程遠い。
「ち、畜生……か、かかか風邪ひいたら、どうすすすんだよ……!?」
むしろ狂犬病を心配すべきなのだが、保健体育のテストでも墜落寸前の点数をとっている浩助がそんな病気を知っているはずもなく、とにかく暖をとろうとバス停まで小走りで移動する。
途中で濡れたマフラーが恐ろしく冷たくて気持ち悪いことに気付き、乱暴に外した。
「あー畜生、これも全部あいつのせいかよ……」
恨みがましい声音から引き出されるのは、大粒の涙を流しながら浩助から逃げるように姿を消したユキのこと。
後を追うべきか――浩助がそう考えたのは一瞬のことであった。生身の人間に壁抜けなんて芸当ができるはずもない。
それで結局、ユキが戻ってくるかもと思い三十分ほど待っていたのだが、結果は言わずもがなの現状である。
「……ったく、ワケ分かんねえよ。せめて説明くらいしてけってーの!」
などと半ば身勝手とも言える愚痴をこぼしつつ、浩助は足元の石を蹴り飛ばそうとして、
「…………」
きわどいところで踏みとどまった。流石に同じ体験を数日の間に何度もしていれば、浩助といえど学習するらしい。
「――おーっと後ろからゴメンよぉ」
だがその直後、背後の坂から自転車で下ってきたおじさんが、浩助の学習を無意味にする。
「はー、びっくりし――って、げぇ!?」
浩助の前で身を低くし威嚇の構えをとっているのは、それはそれは立派な体格のぶち猫だった。おそらくこの辺のボスになんかなれちゃったりなんかしちゃったりするのだろう、驚いて逃げるどころか、自分に当たった石が飛んできた方向にちょうどいた浩助に、今にも飛びかかりそうであった。
「は、ははは、お、俺じゃない、俺じゃないんだって! な、分かるだろう? 分かってくれるよな――」
飛びかかるボス猫の雄たけび。生々しい何かを引っ掻く音。それらに続いて上がる浩助の叫び声。
再び塀の向こうから、しかも今度は言葉もなく冷水を浴びせられるのも無理はなかった。
(……お、俺、このまま死ぬんじゃねえの……?)
がちがちと噛み合わずに震える歯もそのままに、浩助は体温を下げまいと必死に両二の腕をさすりながら駅前のバス停を目指そうとした時だった。
「……ぉあ?」
ポケットの中で、携帯電話が自己主張していた。
時間が時間だし、姉かと思っていた浩助だったが、かけてきているのは全く知らない番号だった。
無用心だな――その場にゲンさんか貴道でもいれば警戒を促して止めたのだろうが、何やら予感めいたものが頭をよぎってならない浩助は慌てて通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てる。
「もしも――」
《猿渡君ね!?》
浩助の声を遮って通話口から飛び出してきたのは、なんと左原銀耶の声だった。何故か、ものすごい風の音が聞こえてくる。
《……よかった。まだ生きていたのね》
どうして銀耶が電話番号を知っているのか、というか何故電話をかけてきたのかさっぱり分からず、首を傾げている暇もない浩助を他所に、銀耶は風の音に意味深な言葉を混ぜる。
「あの――」
《それより、猿渡君》
ようやく諸々の疑問に頭が追いつけた浩助の言葉を、銀耶はまたしても遮ってしまう。
《貴方、ユキさんを刺激したのね》
質問ではない。一切の言葉を挿むことを許さない、断定の響きしかない。
《そうなんでしょう、猿渡君?》
「……はい」
銀耶から更に言葉を得て、浩助はやっと頷いた。
《ちょっと時間がないから理由や経緯は聞きません。兎に角今は――》
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
いきなり聞こえてきた、聞き捨てならない言葉に、浩助は自分のいる場所のことも忘れて声を荒げた。
「何ですか、その『時間がない』って? そっちで何かあるんすか!?」
《……まあ、ないと言えば嘘になるわね。あまり大きな声では言えないけど、急いでるの》
「はぇ……?」
それってどっちだっけ? などとと考えている間に、銀耶は《それより猿渡君》と話題を変えてくる。
「は、はい」
《今すぐに君はユキさんを追いかけなさい。いい? 今すぐによ?》
「今すぐって……」
どうすんだよ、という浩助の心情を察してか、《大丈夫。なるようになるから!》とすぐさま銀耶は補足する。
「いや、あの――」
《……なに、猿渡君?》
本当に時間がないのか、学校にいる時の銀耶からは想像もできない、落ち着きのない声だった。
軽く息を吐き、深く息を吸った浩助は、力のない声でこう切り出した。
「ちょっと、もう俺にはどーしようもないんじゃねって思うんすけど」
携帯電話の向こうで、風の音が急に消えた。さっきまではうるさいくらいだったというのに。
《どういうことなの、猿渡君……》
「いや、だから……」
苦し紛れの言葉を紡ぐ浩助の脳裏に映るのは、壁の向こうに消えてしまった少女――その“未練”が形をもった存在。
「正直言って、そもそも俺なんかがどーにかわけなんてないじゃないですか。だいたい何なんです、エニシとかミレンだとか、そんなもん俺にどーにかできるわけないっすよ」
《……そんなこと、》
「あるんすよ。俺は先生や、貴道やゲンさん達と違って……普通、なんすから」
銀耶が否定しようとしたが、そんな言葉は浩助に届かない。
《違うわ猿渡君。それは単なる思い込み。だって――》
「あんたに俺のことが分かんのかよ!?」
初めて浩助は、銀耶に対し声を荒げた。
電話越しに銀耶が息を呑んだことを知った浩助は、彼には似合わない、人を小ばかにしたような笑みを浮かべた。
「だいたいそーでしょ? やり方全部こっち丸投げで、でもドロップアウトなしとかありえないでしょ? アリエナイんですって。分かる?」
返事はない。そのことが浩助の歪んだ気持ちに更なる拍車をかける。
「はっ、同じ体験したとか知らねえけど、たかが保健の先生に、俺の何が分かるってんだよ、ああ!?」
――それは、この一件に対する思いではなかった。
猿渡浩助という少年は、普段決して表に出さないが、この年代にあたる少年少女の誰もがそうであるように、将来への漠然とした不安と、特徴と呼べるようなものを持たない(と、浩助は思っている)自分への劣等感を抱えていた。
客観視ができればどうという要素ではない。だが、自分の情けなさを実感した直後の浩助にかけられた銀耶の言葉は、まさしく火に油を注ぐ行為だったと言えた。
「なあっ、どうだって――」
《……分かってるつもりだから、こうして協力してるのよ!! 君のことも、ユキさんのことも、どちらとも!》
銀耶が放った予想だにしていなかった怒声に、今度は浩助が息を呑んだ。
《本当は、今の君には言うべきじゃないのでしょうけどね、貴方のこともあの子のことも同じくらい分かっているから、わたしは今みたいな状況にだけはなって欲しくなかったのよ!! 分かる!?》
「……っ、それ、は――」
元々、感情を暴発させて得た勢いである。それを上回る、裂帛の気合とでも言うべき銀耶の一声に、浩助はあっさりと声を詰まらせる。
《……これだけは、最後に言っておいてあげる》
もう押し問答をするつもりはないという意思なのだろう、銀耶は淡々と告げた。
《猿渡君。貴方を本当に、一番に必要としているのは誰でもない、ユキさんなのよ》
「な――」
《それじゃあね》
一方的にそれだけ言って、銀耶は一言の返事も聞かずに通話を終えてしまった。
いつまでも携帯電話の画面を眺めていても空しい気分にしかならないので、浩助は通話画面から通常のものに戻す。
「っはー……」
取り残された気分のまま、浩助はテスト前のそれよりはるかに重いため息を漏らす。
昔から勉強は得意じゃない。運動は好きだが、それだって打ち込むほどじゃない。これはと言える特技なんてあるわけがない。
ないない尽くしかよ、と自分でツッコむ。うん、あまりにも寒々しい。
周りにも際立った奴なんていなかったので特に劣等感も焦りもなく、そのまま好きなようにやってたら中学生になり、周りがそうしたように高校生になって二年、それが今だった。原稿用紙一枚分にも満たない十七年間である。
つまんねえ人生だとはよくよく思う。そこをいくと貴道やゲンさんは違う。特に貴道、あいつとは一度くらい人生交換したいとか思ったりもする。少子化の原因があいつみたいな奴らのせいだってよく分かる気がする。畜生。
「いやいや、最後のはどーでもいいから」
そんなことを考えたりもするが、しょせん自分がそういうのとは無縁なただの木の役君、どこぞの小説か何かで金貨に眼が眩んで騒動に巻き込まれ、でも最後にちょっと漢を見せられたらいいかな、くらいのものだと知っている。
だってのに、やれユーレイだのミレンだのっていうわけの分からんものに巻き込まれ、お次は死ぬだの救えだのとまで言われてしまい、そろそろ考えるのをやめてしまいたかったのだが、
「っのバカは……!」
とりあえず、その辺のことはあのユーレイ女に一つか二つか……とにかく、言いたいことを全部言ってからにしよう。
「どこにいるのか知らんが、待ってや――っでぇ!?」
格好つけていざ駆け出そうとした矢先に、浩助の背後から一台の小型車が、クラクションもなしにものすごいスピードで走りぬけた。
(あ、あいつは……!)
いつぞやの土曜日の朝、早速不幸に巻き込まれつつあった自分をひき殺しそうなドライビングを二度も見せていった、あの忌々しい若葉マークではないか!
(こんなクソ忙しいって時に……!)
決意を固めて気が大きくなっているのだろう、一言文句を言ってやらねば気が済まないと思った浩助は、何故か十数メートル先で停まっている若葉マークへと大股で歩み寄っていくと、大きく息を吸って怒鳴りつけようとする。
せっかく人がやってやろうという気分になっているのに水を差しやがって――よし、こう言ってやろう。少しは気も紛れるだろう。
「っの――」
「やれやれ、お前には勉強以外にも抜け落ちてるものがどれだけあるんだか」
聞き慣れた声によって、銀耶の時のように放出する直前に勢いを殺された浩助は、間の抜けた表情で固まってしまった。
「な、なな……」
「ん? 何だその不細工な上に間抜けた顔は。しかも臭い」
呆然としている浩助を他所に、助手席から女性としても男性にしても平均上の長身を引き抜いたセーターにジーンズ姿の少女は、その糸のような目を僅かに歪めてかなり失礼な一言を質問の端々にくっ付けてきた。
「だ、誰がブサ――いやいや、それ以前に何でお前がこんな所にいるんだよ!?」
「さあね」
浩助の学習能力皆無な怒声ツッコミを涼しい表情で受け流した少女――ゲンさんは、運転席に向かって「大丈夫です、うちのバカでした」などと報告していた。
「へ?」
「ああ、野澤先生だよ。詳しい話は端折ると、左原先生に急に呼ばれてさ、さっきまで一緒にいたんだよ」
浩助の表情から即座に彼の疑問を見抜いたのだろう、立て板に水という言葉が似合いそうなほどゲンさんの回答はスムーズでよどみがない。
「で、話は戻すけど、お前こそ何でこんな所にいるんだ?」
「え、おお――」
バカ正直に答えかけた浩助が口をつぐむと、ゲンさんは「ふむ」と呟いて薄く眼を開いた。
「あれか」
「……おお」
何でもお見通しだと言わんばかりのゲンさんに、浩助は頭を掻き掻き答えた。
「ならまあ、わたしがアレコレと言えることはない、が……」
「? ――っふぉ!?」
浩助の左眼のすぐそばを、ゲンさん必殺の手刀打ち降ろしが通り過ぎていった。
「な、何すんだよ!?」
「なんか知らんけど、今のお前の顔は少しムカツク」
「む、ムカツクってなぁ……」
「……ま、嫌じゃないからよしとしておく」
わざと会話が噛み合わないようにされているという自覚はあるのだが、残念ながら浩助には彼女を打ち崩せるだけの論理性も理屈も持っていない。
「お前なぁ……」
「まあまあ、こっちの話だからそう気にしなくていいよ」
カラカラと笑いながら、ゲンさんはいつものように軽く手を振って流した。
やっぱり、何かはぐらかされている気がする。
「――で、お前はどうするんだ?」
唐突に話題を振られると思考が止まる浩助は、ゲンさんをまたしても呆れさせてしまう。
「どうするって……」
「まだ全部終わってないんだろ? わたしの推測だが、早く行動しないと、手遅れになるんじゃないのか?」
相変わらず、ゲンさんは異常に鋭い。『単にお前がバカなだけ』といつも切り返されているが、やはりこれはゲンさんの方が異常だと思う。
(こいつ、絶対に魔法使いとか仙人とかの弟子だろ)
などと、またもや頭がどうでもいい思考を発展させようとするので、浩助は頭を振ってクリアにしようとする。
「……そういや、どうしよ」
その結果が、これであった。ゲンさんの失笑が寒々しさを増してくる。
「もしかして……俺って結構バカ?」
「今更だなぁ」
と、今度は苦笑いを浮かべるゲンさん。顔の作りはとてもシンプルなのに、どうしてあんなに表情は豊かなんだろう。
(つか、本当にどうするか考えてなかったぞ。ギンヤ先生はまた詳しいことは――)
(――《なるようになるから》――)
そこで浩助は、ほんの数分前に銀耶から言われたばかりの言葉を思い出す。
「ん? どうした浩助」
「お、おお、ちょっとな」
口論しておいて何だが、ここは銀耶の誘いに便乗しておくべきなのだろう。流されてばかり、という感じは否めないが、今ばかりは胸の内にしまった浩助は、ゲンさんに相槌を打つと小走りで若葉マーク――野澤椿の車へと走っていく。
「先生ー!」
「な、なぁに、猿渡君……?」
それまでずっと運転席の方でこちらの様子を窺っていた野澤は、いきなり浩助に呼びかけられて肩を震わせた。兎のようで可愛いが、同時にちょっとショックでもあった。
そういった雑念を払うべく両頬を強く叩いた浩助は、躊躇しがちにこちらを見つめる野澤にこう頼んだ。
「今から、俺が言う所までつれてってくれねっすか?」
「え、えぇと……」
どう説明したものか困っているらしい浩助を眺めながら、ゲンさんはひっそりと口元だけで笑う。
「――おーい、ゲンさーん!」
「はいはい、分かってるよ。とりあえずタオルでも借りとけ」
そんな彼女が車に乗るよう浩助から促されるのは、その後のことだった。
最初は無我夢中になって浩助から逃げていたユキだったが、今やそんな気力も意思もなく、風に漂うかのように道端を、行くあてもなく進んでいた。
(……こうすけ、さま……)
心に浮かぶのは、この数日の間、頼りきりだった少年の姿。
(……ばかなわたし。またこうすけさまに甘えようとして)
俯いていたユキは、自分の視界を遮っている前髪を両手で掴むと、指が変色するくらい力を込めて握り締めた。暑さも寒さも全く感じられないのに、この痛みはずっと胸の奥で消えずにいる。
――本当は、自分が浩助に迷惑をかけているのも、他の人達にも迷惑が及んでいくだろうというのも、重々承知だった。
その上、今日は嘘まで吐いてしまった。
浩助に見せてもらった『しんぶんし』には、ユキの“未練”――そこに繋がる重大な鍵が記されていた。
(こうすけさま、きっと気付かれていらっしゃるはず……)
これといった根拠は特にないのだが、ユキは浩助への後ろめたさから、浩助が自分の“未練”に関係のあるものが何なのかを知っているものと思っていた。
(本当はこうすけさまも、迷惑に思われているのに……嘘なんて……)
申し訳ないという気持ちはある。許されるのなら、今すぐにでも浩助の許に戻って謝りたかった。
(許されるはずがないのに……)
そう思いながらもユキは、浩助を頼りたかった。もう少し言えば、甘えたかったのだ。
どこからともなく半端な知識を与えられ、寄る辺などあるはずもないユキにとって、この時代において頼れるのは“縁”のある浩助だけである。
というのも、理由の一つであった。
(……こうすけさまの優しさに、甘えるなんて……)
たとえ、どれだけ自分のせいで不幸な目に遭っても、どれだけそのことで自分を非難したりしても、それでも浩助は、不平混じりとはいえ力になってくれた。だから自分のことを受け容れてくれていると、思っていたかったのだ。
(……わたし、いやな人)
自分で自分が嫌いになる。迷惑をかけていると知っていて、それでも甘えようだなんて。
(……消えてしまいたい。このままこうすけさまにも気付かれずに、ひっそりと消えてしまいたい)
自己嫌悪はやまず、ユキは両手で顔を押さえると、その場で背中を丸めてうずくまってしまった。
(いやなのに、もう誰にも迷惑かけたくないのに……)
こうすけさま、そう口に出そうとした時だった。
「――ふん」
「!」
不意に生じた尊大な呟きに、ユキは身をすくませる。
何だろう。このすごく寒くて、冷たい感じは。
「貴様がケガレか」
物すごく高い所から見下ろしているような口調に反して、その声はとても幼い。
それもそのはず、ユキの前に現れていたのは、小柄なユキよりも更に頭一つ分背の低い、片目を黒くて丸い物で隠した女の子であった。
だがその背中には本来ヒトにはあるはずのない、真っ黒なカラスの羽があった。
震える声で、ユキは自己紹介をしようとする。背中に羽があろうとも、初対面の人(?)には礼を欠かせない。
「わ、わたし――」
「名を名乗らずともよい」
どうでもよさげな少女に命じられ、ユキは慌てて口を噤む。
「浄魂の儀も為されず、成仏できぬまま現世を彷徨うモノよ。恐れることはない」
ユキの考えていることが分かるのか、少女は冷徹な無表情を崩さずに告げると、続いて名を名乗る。
「わたしの名は、“八咫烏”の黒月。死したる後も陽の照らす下を歩く死者をあの世に導く『カミ』だ」
「かみ、さま……貴女さま、が?」
「いかにも」
そう言って、黒月なる少女はどこからともなく、刀を二本『抜いた』。鞘はない。そもそも刀剣らしい物さえなかった。
「貴様は既に“未練”に過ぎぬ身。今となっては、如何様な苦痛も感じずに逝け――」
黒月なる少女の言葉が結ばれるより先に、ユキは踵を返して逃げようとした。
まだ宵の口にもかかわらず人気のない道を、ユキは走っているような気持ちで逃げていた。
実際には走っていない。何故なら彼女には足があるものの、宙に浮いているため役には立たない。
だが、気持ちの上ではユキは走っていた。とにかく早く、とにかく遠くへ逃げるということは、彼女の中では『走る』という行為に結び付く。
(助けて助けて助けて助けて助けて助けて!!)
幽霊だからか、ユキは浩助の居場所が分かった時のように、急速に理解できた。
あれは、今の自分に近しいモノ。だけど根本は、全くの別モノ。
そして、自分を現世から完全に消し去ってしまえるモノ。
(嫌だ、わたしまだ消えたくない! まだ“未練”が何なのかも分からないのに死んでしまうなんて……!)
さっきまで消えてしまいたいと思っていたのに、今のユキの頭は『死にたくない』とまるで念仏のように心の中で唱えていた。
(わたし、まだ、何も、誰も――)
かちりと、何かがユキの中で噛み合った。
(ぁ――)
繋っていなかったものが繋がることで、見えてこなかったものが見えてくる。
流行り病。死んでいく。誰にも気付かれず。二度と日の光を浴びることもなく。
(――「……ぃや、だ」――)
忘却の彼方から、声が響く。
お爺さまがなくなった頃、わたしはお庭の隅で独り鞠をついていることが多かった。
「さて、今日はどんなお話をしましょうか」
そんなわたしの数少ない楽しみが、お父さまにお話を聞かせてもらうことだった。
「わたしのお名前の話をして下さい」
お父さまに、わたしはいつものお話をねだる。
「分かりました」
わたしの我がままを聞き入れてくれたお父さまは、決まってわたしをお膝に乗せてから語り出す。お父さまのお膝も、ゆっくりとした語り口調も、みんなわたしは好きだった。
「貴女の名前には、『辛い』という字の上に『十』という字が入ります」
もう諳んじることだってできる、いつもの語り出し。
「辛いことがあるかもしれません。ですが、それさえも乗り越えて、貴女には十全たる幸せがあって欲しい――そう願い、私は貴女に幸と名付けたのですが……」
すみません、と謝られた時には、すっかりお父さまの言葉から力がなくなっていた。
「私がもっとしっかりしていれば、貴女や母さんは最初から幸せだったのでしょうに」
「いいえ、お父さま。幸は平気です」
嘘ではなく、わたしは本心からそう言った。
「幸の幸せは、辛さの上に成り立つのでしょう? だったら、今わたしを取り巻いているのも辛いことではなく」
つかつかえながらも、わたしは一所懸命に練習して覚えた言葉を紡いでいく。
「お父さまのおっしゃっているような、幸せに向かっている途中なのですから」
たとえ、自身がトウシュノメカケノムスメだと――たとえ、チャクシとして生まれてしまったのだからと、オイエノタイメンを守るためだけに生かされているのだとお義母さまやご親族の皆様方に言われても、お父さまと、お父さまの言葉があったから、わたしは耐えてこれた。
――それから三年後の夏に、お父さまが病気で亡くなった。お義母さまが家の全てを執り仕切るようにもなり、わたしのお父さまを名乗る方が現れたのもそれからだった。
日を追うごとに、わたしへの扱いが酷くなる。
今までの部屋から座敷牢のような場所へと移され、外出は一切許されなかった。何でも、外で『ハヤリヤマイ』という、よく分からないが恐ろしいものが出回っていて、自分もそれにかかっていたらしい。
お薬を飲まされても便が止まらず、口に入れた物を戻してしまう時も多かった。
それでもわたしは、お父さまの言葉を信じていた。
「……こほっ、えほっ」
その二年後の冬から、わたしは肺も患うようになり、床に伏せたきりになる頃には、季節の移り変わりなんて殆ど分からなくなっていた。
その頃になると、いよいよわたしに関わるのが嫌になったのだろう。もうお医者さまに診ていただくことはなく、家の者から与えられたのはお水と、僅かばかりのお粥だけ。
「っぐ、ぁあ……」
酷い時には水さえわたしの体は受け付けてくれず、無理に飲んでもすぐ吐いてしまうので、いつもわたしの枕元は湿っていて、すっぱい臭いがした。
――このまま、わたしは死んでいく。
誰の心にも残らず、誰も心に残らず。
幸せなんて、得られようはずもなく。
「……ぃや、だ」
このまま死ぬことが嫌なのではない。誰もそばにおらず、誰にも気付かれることなく、完全な『独り』のままでこの世から消えてしまうことが、途轍もなく怖かったのだ。
「このま、ま……独りで死、ぬ……い、ゃ――」
意識が遠のいていく。不思議なことに、胸の辺りで蠢いていた気持ち悪い気分も、すうっと溶けてしまったようだった。
そこでユキは、さっきまで見ていたものが、かつて祖父から聞かされたことのある『白昼夢』であると知った。生前にできたことは死んでからもできるという、銀耶の言葉は本当だったのだ。
「ああ……」
おかしな気分。とっても悲しくて嫌なのに、とても清らか。さっきまでの出来事すら忘れさせそう。
「そう、なのですね……いえ、そうだったのですね」
全ての謎が、ユキの中ではじめて形を作り上げていた。
――わたしの“未練”は、現世に『自分』を残せなかったこと。誰でもいい。ただ、自分のことを知っていて……ただ、覚えていてほしかった。それだけでよかったのだ。
それが、死ぬ間際にわたしが強く願ったもの。
「……でも」
だけど、それはもう叶わないかもしれない。
“縁”のある人達のそばに行けってしまえば、間違いなくわたしの“未練”はその人達を不幸にするだろう。
「それは、嫌……」
見ず知らずの自分のために色んなことを教え、力になってくれた銀耶に迷惑をかけるのは嫌だった。
そして――
「――忠告するのを忘れていた」
ユキの眼前で、先ほどと寸毫変わらぬ様子で宙に浮かんでいるのは、黒月だった。
「わたしはかの偉大なる天照大神が眷属、光が満ちれば如何なる場所であろうとも顕現できるのだ」
淡々とそう告げた黒月は、等間隔で並んだ街灯を指さし、「たとえ、偽りの光であろうとな」と付け加えた。
「ぁ……」
しかし、そういった黒月の律儀な補足も耳に入った様子もなく、ユキはどことなく空ろなまなざしで宙を見つめていた。
「……ふん。まあ好都合と言えよう」
乱雑な言葉とは裏腹に、黒月はゆっくりと、儀式の手順を再現するかのような厳粛な動作でユキへと近付いていく。
自らの宿命を悟ってか、必死の形相で逃げ惑っていた寸刻前と違ってユキは微動だにしない。黒月は「いい心がけだ」と言って、初めて微笑んだ。
「本来ならば祝詞の一つでも唱えてやりたいところだがな、わたしの職務はそこまでの時間はかけられんのだ」
言葉の間に間に、黒月の持つ二振りの刀は高々と掲げられ、やがてユキの頭上に達する。
ふと、彼女の悪友の顔が脳裏に映るが、黒月は瞬時に振り払う。いかなる理由があろうとも、自らに課されている使命は何よりも優先しなくてはならないのだ。
(奴とてわたしの職務は心得ているはず。……事さえ済ませば、全て受け容れよう)
そう割り切っている黒月は、呆けた様子の少女の“未練”に手向けの言葉をかけてやる。
「さらばだケガレよ。せめて“縁”に恵まれた来世に生まれられることを祈ろう」
刀身が街灯の無機質な光を反射させ、そして振り下ろされようとした時、更なる不可解な現象が起きる。
「華ヤカナルハ春桜ノ白」
聞こえてきたのは涼やかな鈴の音。眼前にあふれ出たのは白色の光。そのまぶしさに耐えかね、黒月は反射的に腕で顔を隠してしまう。
(しまった、これは……!!)
目を開いた黒月の視界は、つい先刻までとは別物であった。
住宅街は曲がりくねった細長い山道となり、寒々しい冬の電灯は柔らかな正午の日差しへと成り代わっていた。
そして決定的だったのは、山道の両脇に等間隔で並び、風に花弁を散らす様も優雅なソメイヨシノ。眼に映る限り全てが満開で、風が吹くたびに枝は優雅にしなって花弁を散らす。
風も時間も緩やかに流れるそこは、紛れもなく春の一風景であった。
「――悪いけど、事が済むまでは『ここ』で大人しくしててもらうぞ、黒月」
いつの間にか背後に続く階段の頂上に立っていた、狐の耳と尻尾を有する女性が言った。
冷静さを取り戻す暇もなく、黒月は己が使命の遂行を阻む彼女に言い返す。
「っ何故だ!? 何故そこまでしてわたしの邪魔をする!?」
刃の切っ先を女性に向け、恫喝の声を放つも女性は反応を示さない。
それが、黒月の怒りを更に燃え上がらせる。
「答えるのだ牝狐!! 答えろ――銀耶!!!」
穏やかな空気を、緩やかに舞う花びらを震わせ、尚も黒月は吠える。
だが女性は何も答えず、ただ腰まで伸びた銀髪を柔らかな春風の好きなようにさせていた。
「…………?」
目の前で何が起きたのかが分からず、ユキは呆然と黒月が消えた虚空を眺めていた。
「わたし、まだ……」
のろのろと顔や肩に手を伸ばし、感触をたしかめる。生前と変わらぬ――いや、生前にも増して健やかな気分を与えてくれるこの体には、何の違和感も感じない。
「……いきてる?」
恐ろしく間の抜けた発言ではあったが、ユキの心情と現状を考えれば、それほど間違ってはいないと言える。
「先ほどのあれは、いったい……」
立て続けに多くの出来事が起こったからだろう。半ば放心しかかったユキの思考では疑問を解くどころか、自体の整理すら覚束ない。
どれくらい時間が過ぎた頃だろうか。何の気配もしない道に、どこからか足音が聞こえてくる。
その足音の主は、とても急いでいた。
精確さもスピード感もない、ただがむしゃらで、一所懸命な足音の主は、立ち止まるなり恥も外聞もなくこう言った。
「ユキ!!」
「!」
聞きたいけど聞いてはならない、あの人の声が、後ろからした。
「おーい?」
振り返りたい。振り返るべきだろう。気持ちには嘘をつけない。
――でも、本当にいいのだろうか?
「聞いてんのかー、ユキやーい?」
(わたしは……あの方達の……)
考えは堂々巡り。続けても続けても振り出しに戻るだけで、一歩もそこから動けない。
「……っだぁ〜〜〜!! ほんっとめんどくせーなぁ!!」
「ひぁ!?」
いきなり声を張り上げられ、いつぞやの夜のように目を丸くしているユキを他所に、浩助は肩で息をしながら彼女の目の前にまで回ると、「………よ、よぉ……っ」と息も整っていないままに片手を挙げてそう言ってきた。
「こ、こうすけ……さま……?」
心のどこかで待ち望んでいた浩助の姿は、最後に別れた時とは少し違っていた。
頭から膝にかけて濡れたような跡があるし、「寒いから」と言って首に巻いていた『まふらぁ』なる襟巻きをしていなかった。
そして、どことなく臭い。
「そ、そのお召し物は……それにいったいこの臭い――」
「聞いてくれ!」
言葉のどこかに触れてはいけない部分があったのだろうか、「やっぱゴミ箱に倒れたのはまずかったよなぁ」とユキにはさっぱり分からない独り言を洩らしていた浩助だったが、突然頭を下げてこう言った。
「さっきは、お前のこと気遣ってなくてほんとに悪かった! ごめん!!」
「…………!」
「ほんっとに、俺が悪かった! お前が許してくれるか分からんけど、俺にはこれしか言えねえ!」
どうしていいか分からず、兎に角ユキは浩助に頭を上げてもらうよう頼んだ。
「……こうすけさま、その、面をお上げ下さい。わたしには、そんな、こうすけさまに謝っていただくなんて……」
「いーや! 俺が悪かったんだ! 謝んねーといけねえんだよ!」
「…………!」
頑ななまでに浩助から拒まれたことが、ユキの内心にどのような影響を与えたものだろうか、
「そ、そんなことありません!」
ユキは、この時初めて、浩助にも劣らぬ声量を張り上げた。
「わたしも、こうすけさまに黙っていたことがありました。嘘も吐きました。ですから、本当はわたしの方が、こうすけさまよりもずっと、ずっといけないのです……!」
「お、おお……」
少し意外そうな浩助の表情を見て、ユキは我に返った。
ああ、言ってしまった。何で言ってしまったんだろう。
(わたし、ああでも……)
「……そっか」
またもや思考を堂々巡りさせかけるユキに対し、歯茎まで見えるような笑みで、浩助はこう言った。
「……んじゃ、お相子ってことでいいか?」
「……はい」
ユキが頷いたのは、それから十秒ほど経ってからだった。
その直後、
「――っんの、バカユーレイがぁ―――――!!」
「っひゃあ!??」
思わずユキが身をすくめてしまうほどの大音声で、浩助は彼女を怒鳴りつけたのだった。
「俺が悪かったにしても、勝手にあっちゃこっちゃ逃げ回りやがって。お、おかげで俺は、俺は……!」
ゴミ箱ダイヴなどっ! と身を捻りつつもいつもの浩助らしさを全面的に押し出してくる浩助を前に、ユキは完全に呆然としていた。
「……ま、そりゃぁちっとは心配もしたけどよ」
「?」
「! こ、こーしてるのもなんだし、もうちょっとマシな所に行くかぁ」
「あ、はい……」
今更のような気もするが、住宅街のど真ん中にいつまでもいるのは都合が悪いので、浩助はゲンさんと野澤先生の待っているであろう場所まで移動することにした。
「――お、ゲンさん? ……ああ、おかげさんで……いや、まだ解決したってわけじゃないけどさ、とりあえずはそっちに戻ろうかなって……」
浩助が携帯電話でゲンさんに簡単な現状を話し終えたのを見計らい、「……あの」とユキが口を開いた。
「あ?」
どうしても気になっていたことを、ユキは浩助に訊いた。
「あの、どうしてわたしが……ここにいるのだと、分かったのですか?」
「……おお、それな。つか……お前が忘れてどーすんだよ」
「?」
やっと息が整ったのだろう。ユキが首をかしげていると、右手の人さし指を立てた浩助は「エニシだよ」という前置きから説明を始めた。
「ほら、お前ってたしかエニシがあったから俺ン家に来れたんだろ?」
「……ええ」
「だからさ、俺にもできんじゃね? って思ってやってみたら、本当にできちゃったわけ」
あ、と浩助は呟いて、「でもお前、あれは糸って感じじゃなかったぞ」と付け加えた。
「最初はそんな感じで期待してたのに、なーんも見えんからフィーリングで全部先生に言わなくちゃなんなかったから、今まで時間がかかっちまったって、そーゆーわけ」
「は、はあ……」
途中から感想に変わってきた上に消化不良な説明ながらも、ユキは何とか相槌を打った。
「ま、結局は振り出しになっちまったな」
「もっ、申し訳――」
「そりゃもういーから」
「も……はぃ」
またもや平身低頭を地で行くユキに、浩助は苦笑いで対応する。
「ほんっと、お前って謝るのがクセになってんな」
「……ぅぅ……」
言い返そうとはしているのだろう。ユキは死装束の袖越しに真っ赤な顔を垣間見せてはいるのだが、出てくるのは仔犬のような可愛らしい唸り声だけであった。
その様子にも浩助は「へっ」と、素直ではない笑みを見せる。
(なんだ、何とかなるじゃねえか)
本当のところ、ユキに対する怖さが完全になくなったのかというと、答えは「No」だった。
何せこちらは平凡な一高校生。言わばパンピーなのである。ユーレイ絡みの知識なんて最初っからあるはずもない。よく雑誌とかである経験者は語る、見たいな感じで教えられても、『ハイワカリマシタ!』なんて上手くいくことの方が稀なのだ。
しかし、それはそれ、これはこれ、ということなのだろう。専門外だからと言っても融通してくれない数学のテストと同じで、どうしても見逃しちゃくれない、自分がやらないといけないこともあるということか。
(んでもって、そーゆー嫌なことばっかでもない、と)
不思議な気分だった。どうにかユキは見つけられたし、仲直りもできた。思い描いた通りに――というのは少し大げさかもしれないが、普段やここ数日からは考えられないほどの運のよさに、浩助は『神様って本当にいるのかも』と真剣に考えた。
七歩くらい歩きながら浩助が出した結論は、『ま、いっか』であった。
(どんな風になってんのかなんて知んないけど、どーせ俺の頭じゃこれっぽっちも分かんないんだろうし、だったら考えなくってもいいよな)
要は考えるのが面倒くさくなっただけなのだが、銀耶の『なるようになる』という言葉は、よくも悪くも、不思議なほどに浩助の心になじんでいた。
「……よぉ、ユキ」
すぐ背後にいるだろうユキに、暇を持て余した浩助は話しかけた。
「はい」
ユキは、穏やかな声音で応じた。
「俺、あんま焦んなくてもいいと思うんだよ。……ええと、あれだ、ミレン探し」
話題としては微妙だったが、他に共通する話題がない。
「はい」
ユキは、同じ相槌を打つ。
「でも安心しろって。今の世の中にゃ、色々なやり方で色々と調べられんだ、すぐは無理でも、きっと何とかなるって」
「はい」
三度、ユキは同じ相槌を打った.
「こうすけさま」
「あ?」
今度は逆に、ユキが背後から話しかけてきた。
「ありがとう、ございました」
「は――!? っておい!?? おま、それ……!!」
浩助は、驚愕のあまり手から携帯電話を落とした。
後方数メートルに浮かぶユキの姿は上半身のみであって、下半身は砂時計の砂のようにどんどんと細かい粒になって崩れ落ちていた。
「おい、ユキ!!? ……畜生、何でだよ、何で触れねーんだよ!??」
必死の形相で駆け寄って手を伸ばすが、両手は空しくユキの体をすり抜けてしまい、冬の夜の空気よりも冷たい感触を肘から先にまで植えつけるばかりであった。
ユキは何も言わず、ただ微笑みながら浩助を見つめている。
「なあおい!? これでいいのかよ!?? お前は満足してんのかよ、なあ!!? 答えろよユキ!!」
答えはない。ただユキは真っ赤な頬もしわの寄った眉も隠さずに、こわばった微笑みを浮かべるだけだった。
今にも泣き出してしまいそうなユキの顔を隠すための両腕は、最早どこにもない。
「何でお前、そんな顔してんだよ!? あれか!? 同情か!? 同情してるつもりなのか!?」
いくら浩助が言葉を重ねようとも効果はなく、肩から下が失われたユキの姿はそこで一気に原形を失い、砂粒のようなユキだった一部は地面に落ちるよりも先に消えてなくなった。
「――おい、どうしたんだ」
気が付けば、傍にはゲンさんがいた。「メールしても返事がなかったから」とか「何でこんな所にへたり込んでるんだ」とか言われたが、浩助の頭には殆ど残っていなかった。
こうしてユキは、浩助の目の前から完全に消えたのだった。
今まさに、アスファルトに触れて解ける雪のように。
珍しく、絵本を読んでとせがむ娘を寝かしつけた後、左原銀耶はベランダに出ると備え付けの梯子を上る。防寒対策を入念にしておかないと、『ヒト』の身にこの寒さは堪える。
(明日からは、こがねにもカイロを持たせてあげようかしら……でもあの子、あんまり外に出たがらないらしいし……)
などと考えていた銀耶の頭上から、尊大な口調の少女の声が降ってきた。
「――言い訳は、考えておいたか?」
「……いきなり、それ?」
心底うんざりした表情で、銀耶は屋根の上で偉そうに立つ有翼の少女――黒月を見上げる。見事なまでに口はへの字を描いており、逆立った眉は眉間に深いしわを作っている。
完全に、黒月は先刻の怒りを解消せずにいたようだ。
「こんな寒い晩にわざわざ出てきてやったんだから、せめて労いの言葉でもかけたらどうなの?」
「知るか」
ぞんざいな言葉遣いに対する悪友の心ない返答にも慣れたもので、銀耶は軽く肩をすくめると膝を屋根の縁にかけ、そこから一息に立ち上がる。銀月の光を全身に浴びるその姿は、先刻の「よっこらしょ」という妙に年寄り臭いかけ声が気にならないほどの神秘的な光景であった。
「だいたい、言い訳って何のこと?」
「貴様、奴に己を重ねていただろう」
その言葉は疑問ではなく、断定の響きを持っていた。
まったく、このカラスは相手の気持ちを全く考えないから困る。
「そうだろう?」
「まあ、ね……嫌だな、そう怖い顔をするなよ」
「奴らは無自覚に『死』を齎すモノを呼ぶ」
半ば以上銀耶の言葉を無視して黒月は話を進める。
「今回は偶然にも貴様の愚作が功を奏したが、もしも奴の感情があのまま外に対して向かってしまえば、わたしでも止められなかったのだぞ」
「あーはいはい、今日はご苦労様」
特に頓着せずに受け流すと、黒月はなおのこと不愉快そうに顔を歪めるが、それ以上には発展しなかった。年齢四桁になって、ようやく『堪える』を学習したらしい。
「……兎に角、過ぎたことをこれ以上とやかく言うつもりはないが、わたしには奴を野放しにさせておいた貴様の意図が理解できんのだ」
「ふぅん」
結局感情がだだ漏れになっている黒月のことを薄く笑いながら、銀耶は「相変わらずカラスは頭が固いなぁ。たまには遊べば?」と、半ば冗談で提案してみる。
案の定、黒月は「ふん」と鼻先で冷笑しつつ、苛立った声音で言い返してきた。
「貴様が奔放に過ぎるだけだ。神霊の端くれが、人間なぞに毒されおって」
「そう言うなよ。……ま、毒されてるのは否定できないかな。旦那も娘も可愛いし、何より退屈しないから」
ごまかすように笑って、銀耶は黒月から夜の住宅街に視線を向ける。昔とはすっかり様変わりしても、夜の田路町は昔とさほど変わらず静かだった。
「自分を重ねて、かぁ……たしかに、そうだな」
遠い目をしたまま、銀耶は「いつだったかなぁ」と、思い出すように喋る。
「いや、長年この土地でカミやってるとね、何があったかを思い出すのも一苦労だからさ、お前に墓石のこと聞いてからあちこちで調べて回ったよ」
おかげで週末は寝不足だったよ、とこぼしたが、黒月は一言「続けろ」と言っただけであった。このカラスはどこまで人の気持ちを考えないんだか。
「分かってるって。……それで、あの子が生前に何があったかとか、“未練”が何かが分かってきたわけ」
言葉が進むごとに銀耶の表情から笑みが消えて、痛ましさと険しさが浮き彫りになっていく。
「すごい時代だったよ、うん。ヒトも何もない、どこからか来た病であっさりと命がなくなっていくんだ。毎日のようにわたしの所へ祈りに来る人達が来ていてね」
「故に貴様は、あの“未練”にだけ肩入れしたというのか?」
「いいや」
せっかちな黒月に、銀耶は緩く首を横に振って応える。
「わたしらはヒトの、そうした願望から生まれたと言っても過言じゃないけど、ヒトに過干渉しちゃいけないってルールはあるからね。今も昔も、それはあんまり忘れちゃいない」
「あんまり、だと?」
「……今は今、ってことで」
物理的な貫通力すらありそうな黒月の眼光を受けて、銀耶は気だるげに笑って返す。
「本当のことを言うと、お前に全て任せても問題はなかったんだよ」
「当然だろう」
今更のように、と遠まわしに非難する黒月を銀耶は手首の動きだけであしらう。『とやかく言うつもりはない』んじゃなかったのかと、揚げ足をとってもよかったが、面倒くさいことになりそうだったので話を続けることにした。
「それでもわたしが、あの子達に頑張ってもらおうと肩入れしたのは、わたしが傲慢だったからかな」
「説明するならば趣旨を明確にしろ。話が見えん」
何とも短気なカミ様に「今から言うってば」と苦しい弁明を返し、銀耶は数日前の自分を振り返っていく。
「わたしの所にお前の言う“未練”――ユキさんが猿渡君と一緒に来た時、もうわたしはあの子の“未練”が何か知っていたの。もちろん、どうすれば晴らせるかもね」
「……まさか、それは――」
短気だが察しのいい黒月が気付いたと知るや、
「そ、わたしがお前に連絡する、その前にはね」
銀耶はためらいもなく、自分が隠していたことを明かした。
「その時わたしには、選択肢があった。ユキさんをあの場で預かってそのままお前に引き渡すこともできたろうし、猿渡君にわたしが『視える』ことを隠すこともできた」
けど、と銀耶は言葉を濁した。
「ユキさんを見た時、もうピンときたわけ。『ああ、この子の“未練”を晴らすのは彼なんだ』ってさ……」
そこで銀耶は、黒月の表情が怒りに歪んでいることに気付いたふりをする。
「どうしたんだよ、カラス?」
「貴様、全てを知った上でわたしを謀っていたのか……?」
臨界点直前の、声音震える黒月の両手は、それぞれの反対側に向かって伸び始める。その手の形は、刀の柄を掴もうとする時のものであった。
「落ち着きなよ、カラス」
「黙れ裏切り者が」
体感気温を数度は下げかねない声音で聞き捨てならない一言を放ってくる黒月に、銀耶も飄々とした佇まいを消さねばならなくなった。
「貴様、全てを知っていた上でわたしを泳がせ、そればかりか謀ろうなどと……刑罰に処しても飽き足らん」
「分かったよ。隠し事をしてたことは謝るから」
無駄な言葉を使おうとはせず、無難な道を選択した銀耶は「お前のやり方じゃあ、あの子を下手に刺激しかねなかったからさ」と次げる。
「そんなこと――」
「じゃあ訊くけど、お前わたしが止めようとしたら言うこと聞く?」
む、と唸る黒月。図星だったようだ。
だろうねと洩らし、銀耶は肩をすくめる。
「だから全部、お前の知らない所で全部やったわけ。言っても聞かないし、力ずくで止めるのも厄介だから」
「そう言っている割には、随分とわたしの言動を非難してくれたな」
「そりゃあね。何といってもカミの一柱を騙すんだ、流石に手は抜けないよ」
「……言ってくれるな」
「そりゃあ、まあね」
先ほどの仕返しを果たして満足したらしい銀耶は、
「本当なら、もうちょっと時間をかけてユキさんに成仏してもらおうって考えていたんだけど……今日のアレは流石に予想外だったなぁ」
「賽の出目は読めぬと言ったのは貴様だろうに」
苦笑いをしながら語ると、黒月に鼻で笑われる。大人びた顔には似合わない、どこか拗ねたような表情で弁明しようとする。
「仕方がないだろ? わたし達はヒトの想像から生まれたけど、奴さんみたくヒトを創造したわけじゃないんだから」
「屁理屈の挙句に言い訳とは……まるで人間の行いだな」
「戸籍謄本ならあるぞ? 偽造だけど」
見る? と訊いてきた銀耶に黒月は「結構だ」と、これも冷淡に対処するや、ふいに嘆息する。ご丁寧に、額からこめかみ辺りに手を当てて。
「? どうした?」
「……いや、気にするな」
そういう流れにはあまり慣れておらんのだ、とこぼす黒月に首を傾げつつ、銀耶は「じゃあ最後に」と話を続けた。
「お前の言う有象無象、猿渡君はよくやってくれたよ。少しわたしの予想してた形とは違ったけど、七割くらいは役割を果たして、ちゃんとユキさんを成仏させてくれた。」
夜風に肩にも届かない銀色の髪をなびかせて、銀耶はどことも言えない彼方に目をやる。その先に見えるのは、“未練”の晴れた少女か、不幸の元凶から解き放たれた少年か。
その時、ベランダから銀耶、と彼女を呼ぶ男声が聞こえた。銀耶が覗き込むと、そこには眼鏡をかけた、長身で理知的な容貌の男がこちらを見上げていた。
「大和か。なんだー?」
「こがねが君を探してむずがるんだ。何とかしてやってくれないかな?」
「またぁ?」
「僕じゃあ効き目がないんだ。頼む」
しょうがないなぁ、と微苦笑を浮かべて返した銀耶は、首を傾けて黒月に窺う。
「悪いけど、今日はここまで……ってことにはならない?」
「ならん。――と、言いたいところだが、童子が泣き喚く中で話をする気にはならんのでな。これだけ訊いて退散するとしよう」
「そう言ってくれると助かるよ」
割と本気で答える銀耶に、黒月は黒々とした隻眼で彼女を見据えて問う。
「あそこまでしながらも貴様が直接手を貸さなかったのは、自身がカミだという自覚からか?」
「カミとかヒトとかというより、何ていう風に言ったらいいかなぁ……んー、先輩、じゃないな、先達としてあの子達には頑張ってほしかったのかも」
殆ど間を空けずに返された銀耶の回答を吟味するように黙っていた黒月は「そうか」と、およそ感情の読めない語調で呟くと、銀耶に背を向けた。
「黒月?」
「どうもせん。ただ、やはりわたしには理解できないのだと、改めて実感しただけのことだ」
言葉を結ぶと同時に黒月は翼を広げて、左原家の屋根から飛び去ったのだった。
「…………」
彼女の姿が完全に見えなくなったのを境に、銀耶は脚立を使ってベランダへと下り始める。
「話は終わったのかい?」
銀耶を待っていたのか、大和の姿はまだそこにあった。
「まあ、誰かさんのおかげでね」
最後の段は踏まず、見事な跳躍で大和の眼前に降り立った銀耶に、大和が質問をする。
「また、何かあったのかい?」
「……そうだな。たしかに、大和の言う『何か』はあったよ」
全部終わったけどね、と答えた銀耶は、ごく自然な動作で大和の腕に自分のそれを絡めて、甘えるように頭を彼の肩に預ける。
「……銀耶、こがねがまだ――」
「大和、親子で川の字だ」
全てを投げ出してしまいたそうな、どことなく疲れた声で銀耶は宣言すると、悪戯っぽく夫を見上げる。
「そうしたら、きっとこがねだって落ち着いてくれるさ」
「……君にも敵わないな」
諸々の言いたいことをひとまず胸にしまうと、大和は久しぶりとなる、彼女に向けての苦笑を浮かべる。
自分の頭を銀耶のそれに傾けて触れさせ、大和は寝室の扉の影で寂しそうにこちらを見つめる愛娘に手招きをする。
エピローグ【並べて世はこともなし】
どんなに愉快な日があっても、どんなに泣きたくなる日があっても、変わらず明日は来ることが幸せなのか不幸なのか。それは誰にも分からないだろう。
「――で、浩助も家に来ない?」
「……んー? おぉ……」
終礼が終わり、貴道から声をかけられても、浩助は力なく相槌を打つだけであった。
この、机に突っ伏し無気力そうに右の頬を机に乗せている少年、猿渡浩助を不思議で理不尽で不幸な日常に巻き込んだ張本人たる少女の“未練”が姿を消してから、早くも一週間が過ぎてしまい、十二月を迎えた教室はこれまた早くもクリスマス一色になっていた。
かく言う浩助に話しかけた級友、モテモテビル・●イツの称号をほしいままにする蔵岡貴道もその一人で、自宅で催す予定のクリスマスパーティーに来ないかと誘ってみたのだが、「俺パスだわ」という返事は、彼とその周囲にいる少女らにとっては予想外のものだった。
「浩助、何か予定あるの?」
「……いや」
重たげに頭を上げた浩助は、○×形式の小テストでまさかの全敗を喫したときよりも憂鬱そうな面持ちで応じる。
「なんかさ、今はあんまりテンション上がんなくてさ、パーティーとかそーゆー気分じゃねぇのよ。悪いな」
「そ、そうなんだ……」
力なく微笑む貴道。その背後では、カティやラーナを除く少女らが何事か囁き合っている。
「――まあまあ、本人が乗り気じゃないんだし、今日はその辺にしときなよ」
そう言って、浩助と貴道の間に割って入ったのはゲンさんだった。会話に加わっていなかったのは、自分の席まで鞄を取りに行っていたからだろう。
「……うん。分かったよ」
どことなく寂しそうに微笑む貴道に「いや、マジで悪ぃ」と浩助が謝ると、貴道はそれに対しても微笑みを絶やさずに「いいんだよ」と後光が射しそうな佇まいで返した。
「それじゃ――」
「タカミチー、カティ今日は早く帰りたーイ」
「ぬぅ!?」
「あ!? こら、カティあんたまた……!!」
「あ、あはは……浩助、先に部室に行ってるね?」
貴道を挟めば必ず起きる、外国人美人姉妹と他の少女らによる微笑ましくも熾烈な争いが見えなくなると、ゲンさんが静かに口を開いた。
「まだ、引きずってるのか?」
「あぁ……たぶん……」
頬杖をついて答える浩助に「どう見ても“たぶん”って顔じゃあないだろ」とカラカラ笑いながら指摘したゲンさんは、一つ咳払いをする。
「今日も欠席するなら目はつぶるけど?」
「いや……流石に一週間もサボれねぇって。今日は行くよ」
そう言って、浩助は鞄を引っ掴んで逃げるように教室から出て行き、その矢先に野澤先生にぶつかって大量のプリントを廊下にばら撒いていた。
「ふぅ」
その様子も含め、ゲンさんは軽く息を吐くと浩助の席に腰かけ、そのままここ数日の浩助について頭を巡らせる。
二日ほど学校を欠席したし、登校するようになってからも新聞部には現れなかった。
「現状維持が続くなら、流石に見てるだけってのはできないかもな」
呟いたゲンさんは、手にした鞄の柄を握り直して教室を後にする。
力なく廊下の端を歩く浩助にすぐ追いつけたが、無視してそのまま追い抜いた。
年末が近付くといよいよ冷え込みが増し、浩助が帰宅する頃には僅かにだが雪が降っていた。
「おう、帰ったか愚弟」
「……ただいま」
玄関で靴を放り捨て、リビングを横切ろうとした時、歩く戦術兵器の名を浩助の中でほしいままにしている姉が呼び止めてきた。
「今日は、部活行ってきたようだな?」
「まーな」
重い足取りで台所に向かい、浩助はコップ片手に冷蔵庫を開く。今日は母親が帰る途中で食材を買って帰ることになっているので、驚くほど中身はさびしい。
「うがい」
「へーへー、分かってますよっと」
適当に流すと、目当ての清涼飲料水の入った二ℓのボトル片手に次は流し台へ。コップを軽くすすぐついでに、手洗いとうがいをすませる。
「っあー、生き返るわー」
んじゃ、と誰に向けたのかも分からない、殆ど放り投げるような形の浩助の言い草を、あの姉が見逃すはずがない。
「待てィ」
「は――ゲェ!?」
一瞬にして喉を掴まれ、壁に叩きつけられた浩助を前に、叩きつけた張本人たる夏月は低くドスの利いた声音で、
「だ・れ・に、モノを言ってんのかね、ん?」
「……スンマヘン、オネーサマッス」
つぶれた蛙のような声を弟に吐かせるのだった。
「いつまでも病人扱いしてもらえると思うなよ、愚弟。あと、コップは元の場所に戻しとけ」
「へ――イエ、スミマセンスミマセンワカリマシタカラハナシテクダサイオネーサマ」
二度目のアイアンクローは一度目よりも長く、その分だけあの世が近く感じられた。
残念ながら、彼女の顔は見えずじまいだった。
自室に帰り着くや、浩助は荷物も着替えもそのままに床へと仰向けに倒れた。
「っはー……げほっ」
思い出したように出てくる咳。原因は言わずもがな、あの歩く戦術兵器だ。
「畜生、何だよあの握力、絶対人間業じゃねえって……」
力のない小声でぼやくと、浩助は天井を仰ぎ見る。
ここ数日の間にずいぶんと見慣れてしまった白い天井には、ベッドの上で呆けている間に新しく見つけた染みが、見つけた時と変わらずあった。
「そうなんだよなぁ」
薄く実感する時間の経過は、もう一つの事実も浩助に感じさせる。
「あいつ、本当に成仏しちまったんだなぁ」
このことを一週間と少し前の自分に教えれば、きっと手を叩いて喜んだことだろう。
その直後に、一発ぶんなぐってやるが。
「……って、なーに考えてんだか」
などと自分で自分ににツッコミを入れて虚しく笑う半面、浩助は彼女を追いかけた時のように、ぼんやりした『繋がっている』感覚を探してみようとも思ったが、無駄と思ってやめてしまう。
「そりゃ、できなくてトーゼンだよなぁ」
はは、と笑うも、直後に浩助はため息を一つばかり漏らす。空っぽなはずのそれは、ひどく重い。
「もう、あんな目に遭わなくていいってのによぉ……」
瞼を閉じて、思い出す。
(――「ありがとう、ございました」――)
そこに映っているのは、臆病で泣き虫だが、明るい笑顔ができる、そんな幽霊少女。
今はもういない、ユキの姿。
「何だろうなぁ、このスッキリしねー感じ」
無意識にもう一つ、ため息が漏れる。
「親父や母さんにテストでしかられた時とも違うし、カティちゃんが貴道のヤローにベタついてるのを見た時とも違うし……えー、他には……」
あれこれや言葉を探している間に精も根も尽きてしまい、結局浩助は唸るだけに終わってしまった。
「……何やってんのかねー、俺はよぉ」
ダラダラと中身のない言葉を垂れ流しながら、浩助は出口のない問題を解くことも放置することもできずに延々と床を転がりながら悩むこととなった。
「おい浩助ぇ、飯だぞー」
「……うーぃ」
姉から夕食に出るようにとの呼び出しがかかり、条件反射で浩助は身を起こす。
「ま、そんくらい元気になったってことだよなぁ」
「さっさとしないとお前のコロッケ全部食うぞー?」
間髪を入れずに飛んできた究極の脅迫に、浩助は文字通り部屋から転がり出たのだった。
朝になれば都合よく気が晴れるなんてこともなく、今日も今日とて浩助は物足りない気分のまま家を出たのであった。心のどこかで微かに期待していた、あのコントのような不幸は、やはり今日も起きない。
(つか、眠い……)
普段なら布団に入って六秒で爆睡状態に到達できる浩助だったが、昨晩は不思議と目が冴えて眠れなかった。寝ようと目を閉じても、気がつけば開いてしまうのだ。
(んで、結局徹夜でゲームやっちまって……あー畜生、何で今になって眠いんだよぉ)
ぼやきを口に出す気力もなく、口を開いて出るのは見事な大あくび。
(ま、いっか。狛杉ン授業でまた寝れば――)
「……あの」
「!?」
不意に聞こえたか細い声に、浩助は驚愕と――当惑を隠せなかった。
「あ、あの」
そんなわけがない。そんなわけがあっていいはずない。
(そ、そうだ! こーいう時こそ素数を……って素数なんて知らねえよ俺!? え、1、2,3,4……いやいや今素数とかどーでもいいし!)
分かりやすくパニックを起こす浩助の頭に、更なる不可解な出来事が追い討ちをかけてくる。
(! これって――)
言葉では表しづらい、自分を中心に漠然と『繋がっている』感覚。それが数十、主に学校の方面に向かって続いているのが分かった。
間違いない。一週間前にユキを追いかける時に感じた、“縁”の感覚そのものであった。
そして、感覚の続く先の一つが、すぐ傍にある。
「……あ、あのぅ……えっと、聞こえていらっしゃいますか、こうすけさま――」
またもや聞こえる、あの声。
ああ畜生、ここまできたら考えるより行動だろう!!
「ユキかっ!?」
慌てて振り向いた浩助の目の前には、
「……え?」
誰も、いない。
そこは人影一つない、今しがた通り過ぎたばかりの住宅街の一角であった。
「なんだ、空耳か」
自嘲気味に、浩助は呟いた。
ユキはとっくに成仏してしまっているのに、空耳でユキの声が聞こえてくるなんて、どんだけミレンたらたらなんだよ。自分で自分が嫌になりそうだ。
「……わたし、空耳ではありません」
「あーはいはい、悪かった、って……」
どこか拗ねたような響きを含んだ声に対して自然に返答してから、浩助は事態に気付いた。
「わ、わたしは、ちゃんとこうすけさまの前にいます……」
電柱の陰に隠れ、頭と左肩の一部だけを覗かせてこちらを見つめるユキを前に、浩助は固まっていた。
「……お前、ユキか?」
「はい、幸です」
はにかむような表情で寄ってきたユキは、真っ直ぐにこちらを見つめて答えた。
「本当に、ユキか?」
「はい、幸です」
浮かべる笑顔は変わらず、ユキは答えた。
「本当の本当の本当に、ユキなんだな?」
「……そこまで仰られると、少し自信がありません」
俯き、ユキは恥ずかしげに答える。
ああ、このどこかズレた素直さ、まさしくユキのも――
「って! いやそこはツッコめよ!?」
「っひゃ!?」
浩助が反射的にツッコむと、ユキは怯えた様子で縮こまってしまう。目じりに浮かんでいる涙が、不謹慎なくらい罪悪感を感じさせるものだから困る。
「……説明、してくれるよな?」
落ち着きを取り戻した浩助の言葉に、ユキは静かに頷いた。
「わたしは、こうすけさまや銀耶せんせいさまのお力添えによって、たしかに“未練”を晴らすことができました……ただ」
「ただ?」
首を傾げて浩助が返事を待っていると、何故かユキは頬を朱に染め、死装束の袖で顔を隠しながらチラチラと浩助の方を窺う。浩助は自分の社会の窓が開いていたのではと思い、こっそりと確認する。社会の窓はクローズドだった。
理由が分からない。となれば、やはり訊くしかない。
「ただ、何だってんだよ?」
「……そ、それがぁ……その、ええとぉ……」
散々迷った素振りを見せていたユキだったが、やっと決意したようで、顔を真っ赤にしたまま次のようにのたもうたのだった。
「成仏する間際……こ、こうすけさまと……離れたくないと、ずっとお傍にいたいと、とても強く思いましたから……現世に留まることができたのだと、思うのです」
そこまで言うと、ユキは真っ赤に染まる顔を押さえて俯いた。畜生、相変わらず可愛い。
「じゃなくて! ……じゃ、じゃあ何でよ、今の今まで出てこなかったんだよ!?」
「そのぉ……」
俯きつつ、ユキは何度もこちらに視線を送ってくる。何だよその恥じらいのこもった熱視線は。日本文化バンザイ?
「あんな別れ方をしておいて、今更顔を見せるのもどうかと思いまして……こうすけさま?」
ユキの眼前で、浩助は肩を震わせていた。
(アリか!? そんなのアリなのか!?)
信じられない。信じたくないといえば嘘になるけどやはり信じられないがいやしかし、目の前にいるというかフヨフヨ漂っているのは紛れもなくユキなわけで――
「あの、こうすけさま……?」
「お!? お、おおおぅ? 何だよ?」
明らかに挙動不審な浩助の様子にも動じず、ユキは浩助の腰の辺りの高さで宙に浮かんだまま丁寧に正座すると、
「辛いという字に十という字を乗せて幸、ふつつかものではありますが、これからもどうかよろしくお願いします」
これもまた丁寧に、三つ指をついて深々と頭を下げたのであった。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
その仕草、その言葉に、浩助は完全に打ちのめされた。心の三割ほどを占めるカティへの情熱が、一瞬揺らぐほどに。
いかに浩助とはいえ、ドラマなどでたまに耳にする言葉だ、つまるところの意味くらい分かっている。
(ま、マジで言ってんのか……)
しかし、嘘を自分から報告してしまう彼女のこと、嘘ではないのだろう。
「……やはり。婦女子から殿方にあのようなことを申し出るのは……その、ご迷惑でしたか?」
「はぇ!??」
現にユキは、今にも泣き出しそうなのをこらえているかのような表情で、じっと浩助を見つめている。これまでのように、死装束の袖で顔を隠さずに。
「い……」
いや、そんなわけじゃあ――という時間稼ぎの言葉は、幸か不幸か間に合わなかった。
「――よぅ、こんなとこで会うなんて珍しいな」
「!」
背後――先ほどまで進まんとしていた先から投げてよこされた声は、あまりにも聞き慣れた少女のもの。
「よ、よォゲンさん……」
「ん? なんだ元気そうだな。やっと立ち直れたようで安心したよ、うん」
はっはっは、とゲンさんは爽やかに笑う。仁王立ちで呵呵大笑する様は、女子高生という枠をぶっちぎりで超越していて、あまりにも“漢”らしい。
「……こうすけさま?」
「――っ!?」
急に背筋に冷たいものを感じて、浩助は慌てて首を肩越しに背後へねじ向ける。
そこにあるのは、俯きながらもじっとにこちらを見つめているユキ――よく分からないが不機嫌顔のオマケ付き――であった。
「? どうした?」
「な、何でもないんだ! おお、おお――」
軽いパニックに陥りながらユキとゲンさん、両方への言い訳を考えようとしたのが運のつきだった。
「……げ」
「お」
偶然か不幸か、鞄を持った右手がユキをすり抜け、その際に冷たさで痺れた手は手提げ鞄を離してしまう。
(おい)
その鞄は、
(待てよ)
大きく放物線を描き、
(いくらなんでも)
ポリバケツの中身を漁っていた野良犬の頭上に、
(二度目なんて)
寸分の狂いもなく、落ちたのだった。
(あるのかよ……!!)
「おっと、そろそろ時間じゃないか」
思い出したように、ゲンさんは腕時計を確認しだした。この状況を理解しているとは到底思えない。
「それじゃ、巻き込まれても困るんでわたしは失礼するよ」
「ちょ――」
ゲンさんが素早く身を翻すのと野良犬が飛びかかったのは、殆ど同時であった。
それら一連のやり取りを、屋根の上で監視という名目の下に堂々と覗く一人と一羽がいた。
「……よもや、こうなると読んでいた、とは言うまいな?」
「さあね? イカサマしないとサイコロの出目を操れないものだから何とも言えないなぁ」
肩をすくめた銀耶は、野良犬とにらみ合ったまま硬直状態にある浩助の背後に、怯えた様子で寄り添うユキの姿をじっと見つめてこう評した。
「見たところ、ユキさんは守護霊の一人になったようだね。あれなら“未練”が周りに悪影響を与えることはまずないでしょ?」
「……ふん」
心底忌々しげな声音で肯定した黒月は、銀耶に背を向けると反対側の屋根の縁にまで歩いていく。
「なんだ、もう行くのか?」
「付き合いきれんのだ。貴様にも、そこの馬鹿どもにも」
そう言い残すや、黒月は一瞥もせずに翼を一打ちしてその場から飛び去った。
屋根の上に残された銀耶は、
「ま、せいぜいお幸せに?」
祝福するように、あるいは今にも腹を抱えて大笑いするのをこらえるかのような笑みを浮かべながら、徐々に遠ざかる浩助らの影を見送り、屋根から飛び降りた。
猿渡浩助の、不幸だらけの幸せな一日は、今日も騒がしく続いているようだった。
「勘弁してくれぇ――――っ!!?」
蛇足【半ば適当且つ見通しのない次回予告】
物語の舞台は、引き続き浩助達が住まう田路町市。
ただし、次回は今回と同じ舞台にして同じ舞台に非ず。
時は一九九九年。『恐怖の大王』なる、漠然とした恐怖を感じさせる存在に日本中の誰もが興味を隠せずにいたこの年の春に、
少年は、神様を拾った。
「お? なんだ、あんまり驚かないな」
「……いや、これで中々驚いているつもりだよ」
居場所を失くしたカミ、そして次々と起きる謎の連続殺人事件の両方に関わった時、左原大和の日常は変わる。
ヒトとカミ、忘れた者と忘れ去られたモノによる物語が、今幕を開ける――
『神様は寂しがり』、鋭意構想中
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2009/09/17(Thu)10:43:34 公開 / 木沢井
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■作者からのメッセージ
いかがでしょうか? 気になる点などございましたら、どうか遠慮なく書き込んで下さい。今はそれが一番の原動力です。
最近――現在からすると半年ほど前、こちらで『幽霊』に関する御作を読んだ際に「そういえば自分も書いたな」と思い出し、さっそくそれを手直ししつつ投稿してみました。短〜中編になると思われます。
半年近くもダラダラと半ば無計画、半ば無謀に続けられてきました当拙作、本日をもっていよいよ幕となりました。
別の作品と平行して小説を書き進められるほど自分が器用ではないと分かったことを始め、当拙作を製作するにあたり気付いたことや気付かされたことが多々あって、拙作は拙作なりに無駄ではなかったかなと思っています。
無事か無事ではないかはさて置き、兎に角物語をひとつ完結させることができて、肩の荷が同じくらい減った気分です。といっても、本文中に挙げた胡散臭い次回予告の内容がすぐさま埋めてきそうですが。
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
2/14 続きを更新しました。
2/15 続きを更新しました。
2/17 続きを更新しました。
2/19 続きを更新しました。
2/21 続きを更新しました。
2/24 途中を更新しました。それと、一部修正しました。
2/27 続きを更新しました。
2/28 加筆修正しました。
3/4 続きを更新しました。
3/9 続きを更新しました。
3/18 続きを更新しました。
3/26 続きを更新しました。それと所々で加筆修正しました。
4/2 加筆修正しました。
4/4 続きを更新しました。
4/17 続きを更新しました。それと昼休みの所にサブタイトルを付加しました。
4/19 残りの分を更新しました。
4/26 一箇所修正しました。
6/21 続きを更新しました。
6/26 続きを更新しました。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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