貴族のような眼差しをしていた。没落した、最早この世界のどこにも居場所を持っていない、そんな哀しげだが高貴な眼差しをしていた。志穂は叔父の博物館で初めて始祖鳥を復元したレプリカを見たとき、そう感じたのだった。冷たい館内の中を、志穂は館長をしている叔父の手を握り締めながら不安げに歩いていた。様々な古代の生物を復元させたレプリカが怖かったのだ。だが、回廊の果てで彼女を待っていた始祖鳥だけは、何故か彼女にやさしく微笑んでいるように感じられた。 もうずいぶん前の記憶だった。あれからすぐに叔父に不幸があり、博物館も閉鎖された。今、そこは広大な雑木林になっている。夏休みが始まってまだ三日目だが、世界中はある出来事で持ちきりになっていた。Web上で、何か情報を探すために検索すると、「Page Not Found」と表示される現象だった。水色や、桃色の綺麗な背景をしたサイトも、この魔法にかかると、真っ白な海辺へ変わってしまう。海辺の波打ち際には、ただ無機質でシンプルな「Page Not Found」のロゴマークが表示される。志穂には、この原因がまだ解明されていない、とるにたらない現象が、何故か意識の中で始祖鳥の眼差しと重なるのだった。 志穂は昨夜、グルジアの衝突のニュースを知った。新聞で確認すると、難民キャンプにいるグルジア人の少年少女たちが、不安そうにカメラを眺めていた。志穂はそれを切り抜き、自分のダイアリーノートに貼った。その記事は、文字と写真だけで構成されたものに過ぎなかった。だが、志穂はこうした情報に出会うたびに、自分の生活世界がどれほど恵まれているかを知らされるのだった。本当にこういう出来事が遠い国で確実に起きた、ということを自分の生活に滑り込ませたかった。志穂は、たとえすぐに情報として化石化するのであれ、彼らの存在を自分の生活と結び付けたかった。そして、そういう作業を都市全体が静かなまどろみに支配された深夜に行う時、何故か志穂の心は穏やかで、落ち着いたメロディーを流していた。 志穂は今、隣の男子校に通う憐とカフェレストランに来ていた。果肉色に沈んだ涙ぐましい黄昏時のカフェテラスは、静まり返って瞑想的な雰囲気を帯びていた。憐はほっそりした、華奢な体型だったが、端麗でやさしげな容貌だった。二人は、学校でも話題になっているPage Not Foundについて、自分たちだけで調査しているのだった。何故、Webの中が何もない無人の砂浜と化しつつあるのかが、二人にはまるで解らなかった。ただ、志穂はこの問題が、自分の中の古い謎めいたアルバムと繋がっていることを感じていた。だから、彼女はこのPage Not Foundを知るために、可能な限りの努力をして情報を収集していた。 ――志穂、Page Not Foundって一体何なんだ? 「ページは見つかりませんでした」以上の何か神秘的な意味が? 憐がそう尋ねると、志穂は安堵したように笑った。 ――私が調べた限りでは、HTTPステータスコードの一つよ。ほら、Web上でさ、時どき前にお気に入りに登録してたサイトが、いつの間にか「404」になってたりするでしょ? あれのことよ。 ――でも、何でそれがペストみたいにこんな世界中で拡大してるんだろう? ――Ph=D・Fisherって神学者知ってる? 憐は真剣な眼差しで首を横に振った。やはり、志穂は誰よりもPage Not Foundについて詳しいように思われた。 ――44歳の時に発狂したのよね。Page Not Foundってサイバースペースの平凡極まる現象に、不気味な神学的解釈を施した張本人、っていうか、悪源がコイツ。 ――発狂してからも本とか出してたの? ――うん、っていうかね、発狂してからなのよね。一部の知識人たちから凄い関心を持たれ始めたのも。Fisherは自分でガソリンを被って、自ら火刑の被害者になったんだけどさ、最後の遺作っていうか、主著って呼ばれてる本があってね。それが『Page Not Found』なのよね。一説によると、デザイナーの一人がFisherその人らしいからさ。で、コイツがその本でいってることが、またブッ飛んだことなのよね。ものすっごい要約したらさ、Page Not Foundの起源は、紀元4世紀のArianismっていう異端まで遡るっていわれてる。 ――1600年も前に「Page Not Found」とよく似た現象があったってこと? ――うん。Ariusって、もともと正統派の司祭だったらしいのよね。見かけは、ほんとに完全に正統派で、たぶん祈り方も同じだったし、当時の婦人さんたちからも慕われてたと思う。ただ、考え方に一つ異常な部分があったらしいのね。 ――ちょっと待って。志穂はなんでそんなに詳しいの? もしかして聖書の授業でそんなことまで習ったりしてる? ――ううん、学校ではここまで言及されないよ。ほら、私の場合、幼児洗礼だったからさ。で、Ariusなんだけどね、彼はどうやら神さまを「隠された存在」だって考えたかったようなの。ほら、旧約聖書でも、神さまってめったに姿を現さずに、声として預言者を媒介にしてたでしょ? 神さまは「カクレンボ」の名手ってわけ。で、新約時代になって、イエスの教えが広がると、「隠されていた」ものが、「開示された」存在としてイエスが顕現したって受け取られたのね。つまり、真理って扉が、開かれたってイメージ。これをさ、あのクレイジーセオロギストは、「隠されていた/ページが見つかりませんでした」、「開示された/ページが見つかりました」って基本的な図式に置き換えたのね。たぶん、バックにはWebに聖性を見出すような妄想的な考えがあったはずだけど。 ――つまり、Page Not Foundの性質は、神の属性だってこと? ――うんうん、そう。でもさ、これは少ししたら、「聖三位一体」にとってはエラーってことで、Ariusは異端視されたのね。だって、イエスと神を別々に規定しちゃってるでしょ? ただ、FisherはWeb2・0期の現代世界を、「Web Arianism」が暗躍する時代だって定義したの。Page Not Foundってのは、原型となる元のページなりサイトが無ければ存在しない。いわば、サイトの廃墟よ。Page Not Foundは、「Page Not Found」って電子記号が画面上に出現してるのに、元のサイトが謎に包まれている点で、一種の痕跡なのよね。それは出現しているのに、核心となるものが未だ出現していないってこと。つまり「非現前」。だから、Page Not Foundは、旧約時代の神を表現する言葉でもあるって怪説を提唱しだして、自分でもおかしくなっていったのよね。 憐はその非常に不気味な、異常な思考回路によって生み出された考えに愕いた。 ――でも、その話を聞くだけなら、今世界が直面してるPage Not Foundにとって、あまり解決のヒントになるものはなさそうじゃない? ――そう、だから「デザイン」だって説が有力なの。 憐は知ったことを整理するだけでも、かなりの時間が必要だった。 ――もしかするとさ、Page Not Foundは世界から未だに「隠されてる」何かなのかもしれないね。 志穂はその憐の言葉を耳にして、急速に冷静な、分析的な少女の眼差しになった。 ――Fisherはさ、実は発狂する前にフライブルク大学の神学部教授だったんだよね。で、そこの教え子で、浅野洋子って日本人の学者がいるんだよね。まあ、私の実の姉なんだけど。 ――浅野洋子? ――姉は私より15歳も年上だけど、まだ学者としては若い方かな。ただ、姉もFisherを批判的に研究してて、Page Not Foundに関するセオロジックな論稿を機関紙に発表してるみたい。男狂いで、アルコール中毒で、ほんとにとんでもない姉なんだけど、思考力はFisher級なのよね。私は「姉」っていうより、「浅野洋子」って他人扱いしてるけどさ。その浅野洋子は、Page Not Foundを「parergon」って言葉で表現してる。 ――なんか怪物みたいな名前だね。 ――うん、でもそれ実はシャレになんないのよ。まあ、parergonってギリシア語で「作品の外」とか「余白」って意味なんだよね。Page Not Foundはさ、いってみりゃWebの中を漂う「余白」なのよ。絵画でいえば、額縁ね。でも、Webってスペースも、現実世界って生の舞台に較べれば、「余白」みたいなものだったわけでしょ? ――Web1・0期くらいには、まだそういう考え方の人が多かったね。 ――うん、でも、「もうすぐWeb3・0!」とか期待されてる今の世の中だと、Webはもうビジネスと一体化して人生を生み出す掛け替えの無い媒体になってるじゃん? つまり、現実世界と、仮想世界で、どちらがparergonで、どちらがergonかっていう明確な境界線が霧消しつつあるのよね。 ――えっ? ergonっていうのは? ――ergonは、parergonが「作品の外」なら、「作品」のことよ。本を開けて、文字が書かれてる部分ね。ここがergon。みんな、これを読んだりするわけで、parergonになんて見向きもしないし、メモ代わりに使うだけ。でも、Page Not Foundが密かに行っていることは、現実世界をparergonにすることだと私は思うの。いや、こういうべきかも。つまり、Webをリアルに限りなく、なめらかに、透明に、「浸透」させること。 ――それが浅野「洋子」さんの学説? 「志穂」はお姉さんに批判的ではないの? 憐がそう微笑みながら尋ねると、志穂は腕組みしながら、姉の姿を思い出したのか、憂鬱な溜息を吐いた。
志穂のpcに姉からメールが届き、彼女は憐を連れて南仏ニームへ旅立った。 ニームの夏休みは、まるでPage Not Foundとは無縁であるかのように、ずっと平穏な息吹で包まれていた。憐は、国鉄駅の近隣にある美しい並木道の中で、ぼんやりとベンチに座っていた。ベンチの後方に並ぶ家々の間の路地裏では、少年少女が元気な声で鬼ごっこをしているようだった。 やがて、隣にカジュアルな服装をして、麦藁帽子を被った女性が座った。浅野洋子だった。志穂は、二日前から体調を悪化させ、ずっと洋子の寝室で眠り込んでいた。憐は、一人でこうして街を呆然と歩き、いつしかベンチに腰掛けていることが多くなっていた。 ――この街は好き? 洋子は気さくな笑顔を浮かべながらそう憐に尋ねた。 ――ええ、好きです。でも、やっぱり日本がいいです。 ――Page Not Foundについて、私から直接意見を聞き出したいんだって? ――洋子さんは、Page Not Foundのデザイナーと顔見知りだったんですか? 憐がそう尋ねると、洋子は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。 ――Fisher? それとも、Northrop Frye? 私はさ、他の人がどういうか知らないけど、FisherはPage Not Foundの世界を構築していないと信じてる。あの人は、本当に病気だった。もう、誰とも話せないような状態だったから。 ――Northrop Fryeというのは誰ですか? ――(フライドポテトのことよ。)この話もうやめようさ。 憐は黙り込み、そしてバス停に古代橋ポン・デュ・ガール行きのバスが来たことを見つけた。 ――洋子さんはあそこへ行きますか? ――橋のこと? ううん、行かないよ。でも、今日の夕刻に行くよ。私の仕事は基本的に家でできるからさ。毎日あそこまで散歩するんだ。 ――今日はちょっと早く行きませんか? 憐がきょとんとした眼差しでそう誘うと、洋子はじっとまだ高校生のこの少年を見つめて、そして大笑いした。 ――暑いじゃん? もっと涼しいところなら連れていってあげてもいいけどさ。 ――カフェテラスありますよ? 橋の近くにも。だって、世界遺産なんでしょ? ――地元人にはあまり実感ないけどね。まあ、テラスはあったね。んじゃ行こっか? 二人は発車寸前のバスに乗り込んだ。憐が窓際に座った。洋子は麦藁帽子を脱ぎ、膝の上に置いていた。憐は風景ではなく、洋子の髪の毛をさり気なく見た。長髪で、茶色のメッシュが入った巻き毛だった。 ――僕には、この風景も、全部夢みたいです。夢……でもそれは、悪夢では絶対にないんです。だって、こんなに喉かで、平穏で、空も綺麗だから。 ――憐くんに質問。ここが「area:in the bus」ではないことを証明できる? 憐はその問いかけに愕いた。 ――できますよ。洋子さんが隣にいることが答えだと思います。 ――私はもしかしたらROM人格かもよ? 憐は洋子の麦藁帽子を取り上げて、自分の頭の上に乗せてみた。 ――全部本物っぽいですけどね。光を浴びて、縄目のところがこんなに光ってる。どこも、作り忘れはないですよ。Page Not Foundなんて、どこにも無い。 ――でもそれは証明にならないわよ、憐くん。私には、憐くんがあっちのイベント発生物に見えるもの。 ――失礼ですねー、といって憐は洋子の頭に麦藁帽子をそっと優しく被せた。どうすれば信じてくれるんだろう、と憐はそういった直後、不意に洪水のような哀しみに襲われた。もしも、笑顔で話せるような人が、その香りや呼吸の息遣いまで、全てプログラムされたイベント発生物であるに過ぎないとすれば、それはどれほどの戦慄だろうか。それ以上の恐怖などこの世界にあるのだろうか。 ――ごめんごめん、信じてるよ。君はリアルだ。君は憐君だ。君は若くて可愛い男の子だ。なんか眠くなってきたわ、私。着いたら起こしてくれない?着いたらでいいからさ。ね? ――はい、と憐は返した。そして洋子が自分の膝を枕にして眠り始めたので、身動きが取れなくなった。 カフェテラスに人は疎らだった。洋子はレモネードを飲みながら、うっとりしたような夢心地の眼差しで、砂色をしたローマ時代の古代橋を眺めていた。 ――憐くんさ、ブランコに乗ったことあるよね? ――突然どうしたんですか? ――あのね、「ブランコに乗る」って行為が神学的に何を意味してたのかなぁ、とかふっと思ってさ。 憐は、彼女がカトリシズムの神学者であることを想起した。 ――そんな行為にも神学では意味を与えてるんですか? ――ううん、そうじゃないけどさ。ブランコの問題ってね、Page Not Foundについて考える上でめちゃくちゃ便利なんだよね。ほら、公園とかでさ、男の子がブランコで遊んでる。30分後に同じ公園を訪れると、もうブランコには誰も乗っていない。ブランコは、いわば空席ね。ブランコに人が乗ってる状態、つまり、ブランコっていう「システム」が動作主と結合して存在している場合が、Web上に「Page」が表示されてる状態と神学的には同一なのよね。 憐は、おそらくFisherという異端的な学者も、今の洋子と同じような口ぶりで教壇に立っていたような気がした。そこには何か、独特な引き込まれる緊張感が漂っていた。 ――えっと、難しくてよく解らなかったんですけど、ブランコを人が使ってる状態を、システムが作動している状態として考えるっていう発想は理解できます。けど、その場合、ブランコから人が下りればどうなるんですか? ――そう、それなのよね。ブランコから下りたら、ブランコのあの木製の板はどうなっちゃう? さっきまでまだ男の子が乗っていたなら、きっと板は揺れ動いてるわ。まるで、誰かを乗せているみたいにね。私は、この「まだ誰かを乗せているような状態」が、サイバースペースに存在するPage Not Foundって現象だと教えられたのね。 ――誰を乗せているんですか? 今、まさに無人の公園でブランコだけが揺れ動いているのを目撃した通行人がいるとすれば、その人は「誰か」を特定できないと思いますけれど。 ――そう、Page Not Foundって画面だけなら、原型となる「Page 」が何であったのかは解らないのよね。Page Not Foundは、「Page」の痕跡、廃墟だから、まあいってみれば、「Page」に相当するのが、あの当時のポン・デュ・ガールなわけ。で、2000年後の私たちにとっては、あれはもう遺跡でしょ? 「Page」が生きていた水道橋なら、「Page Not Found」はその遺跡。二つの決定的な差異は、「時間」よ。 ――確かに、「ブランコに乗る」ことと、「ブランコから下りる」ことが成立するためには、時間が必要ですね。 ――ブログとかHPで、管理人不在であるのに、まだWeb上をGHOSTのように浮遊している現象があるでしょ? 閉鎖しようと思えば、管理人が削除すればいいだけなんだけど、仮に突然死したりすれば、誰も制御できないじゃない? システムの親元が消滅させるのを待つまで、ずっと、ごく一部のユーザーの「お気に入り」に登録されてるだけ。そのユーザーはといえば、管理人が生きてるのか死んでるのかもわかんない。人が死ねば、corpusとanimaが分離するってフレームが古今東西の神話や宗教に存在するけれど、animaはどこへ行くのかしら? というより、animaとは何なのかしら? ――僕は「anima」っていうのは、脳科学が発展していない時代の産物だと思っています。でも、昔の人はanimaが存在しなければ人間の存在も成り立たないと考えてたそうですね。 ――animaってのはね、名前が古臭くてあれだけど、ぶっちゃけ「informo(形を与える)」ものよ。つまり、管理人不在でも、サイトに「information(情報)」は残存する。それがWeb上で身体化することは可能なわけ。生命記号論だとね、生物の進化そのものを、informationのネットワークとして考えるのよね。昔のさ、animaについて奇説を展開した学者たちは、現代はみんなメディア学者として再現前しているのね。 ――じゃあ今も昔も同じってことですか? でも、「ブランコから下りる人」が誰かはまだ解明されていないんじゃないでしょうか? ――あれだね憐くん、君とは話が合うかもね。まさにその通りよ。Page Not Foundっていうかね、Webには神学的な命題がごろごろ転がってるんだよね。突き止めていくと、いつの間にか創世論にまで到着してる自分に気付くの。世界の初めに「Page Not Found」があったんじゃないのか、とかね。要するに、世界の始まりそのものが、より始原的な始まりの二次的形式なのかってね。 ――創世記の前に、「前‐創世記」みたいな本があったということですか? ――うん。でもね、これを突き止めると無限遡行のパラドクスに陥るから、憐君やめといた方がいいかもよ。 その日の晩、憐が与えられた寝室で眠っていると、突然ベッドに誰かが潜り込んできた。憐が身体に乗せていた夏用の薄い布団は、その誰かに奪い取られてしまった。憐が愕いて顔を横に向かせると、洋子が泥酔した感じで、じっとこちらを見つめていた。そして、猫みたいなのんびりした笑顔で、「暑い夜はとことん暑くなってから寝ようぜー」といって、瞼を閉じた。憐が仕方ない人だな、と思ってリビングルームへ移動しようとすると、洋子が腕をがっしりと掴んだ。彼女は瞼を閉じて、気だるそうにしていた。が、憐はこの男を寝取るのが趣味らしい志穂の姉が、裸体で横になっているのを見た。 ――洋子さん、離してください。僕、一人で寝たいんです。 憐は隣室で寝込んでいる志穂が目を覚まさないような声でそう懇願した。 ――憐くん童貞でしょ? 筆おろししてやるから、おいでよ。 憐は洋子の熟れた果実のような裸体を見て、眩暈がした。ただでさえ真夏で暑苦しいというのに。洋子は全身に汗をかいていたが、憐もそれは同じだった。 ――それでも神学者ですか! 志穂はカトリックの女の子ですよ? お姉さんがそんなんでいいんですか? ――あら、私は非信徒だけど? それに、神学だって仕事でやってるだけだしね。 洋子はそういうと、平然と両足を開いて、隠されるべきところを憐に披露した。憐はこの年上の女性は、完全にある意味でFisherと同じく「危険」だと判断した。だが、高校生の憐にとって、熟れた大人の女性が裸体で行為を迫ってくる姿は、魔性の魅力を持つものでもあった。憐は誘惑に屈してしまった。 憐と洋子は二匹の獣の共食いのように抱き合った。洋子は、憐がセックスにウブであることを悪用して、様々な遊びを教え込ませようとした。憐も、どれほど外見はほっそりした大人しそうな男の子であっても、やはり一人の男であることには変わらなかった。終いには、憐が洋子の太股を広げ、逆立ちの体勢にさせて舌先で愛撫するにまで到った。洋子は必死に喘ぎ声が出るのを抑えていたが、その声は志穂の部屋にまで届くほど大きなものになってしまった。 全身汗みずくになった二人は、しばらく抱き合いながら両足を縺れさせていた。憐は、洋子の豊かな胸に抱かれながら、不意にあることを考えた。それは、Page Not Foundや学校生活などを全て超越したようなイメージとして彼に到来した。憐は、自分が巨大な「子宮」に包み込まれているような安心感を抱いたのだった。洋子の大切なところから溢れている、女性的な香りは、二人が抱き合っている寝室に満ちていた。憐は、洋子に抱かれることによって、世界に対する見方が完全に変わったのを感じた。憐は、二人で何度も悦びの声をあげて、果て尽くした直後、洋子から二度と離れたくない、と感じた。否、感じた、というよりも、そう悟ったのである。憐は、自分が男性であるということを知っていた。その憐は、洋子という女性と交わることによって、自分が「男性ではない何か」に成ったような気がしたのであった。 これまで、ネットワークとして、rhizome状に無秩序に拡大していた世界が、憐の意識の中で、「子宮」のように、どこか丸い卵のような形状に更新された。というより、Neural networkの複数の逃走線たちが、全て「子宮」という容器に首尾よく収まったような感覚だった。それは、憐がこれまでサイバースペースを歩いてきたことから、また別の世界への見方へと進展した証左でもあった。 憐は、それを知ったことが嬉しくなり、突然夢中で洋子に接吻した。それも、彼は洋子の腹部に、その臍に接吻した。洋子はぐったりと甘美な余韻に耽っていたが、突然まぬけな愛撫が始まったので大笑いした。 ――何してるのよ、犬みたいに。 ――ねえ洋子さん? 僕には子宮がありません。でも、洋子さんにはあります。 ――ちょっと、突然どうしたの? あまりのエクスタシーで頭の中のネジがフッ飛んじゃったの? ――違うんです。ネットワークそのものが、全体としてどういう形をしているのか、それを感じたんです。僕は「子宮」だと思います。 ――matrixってこと? ――なんていうのか、さっきの初めてのセックスで、「子宮」の形のことを強くイメージしたんです。した、というか、洋子さんがそんな感じだったんで。 ――世界の起源に「子宮」が存在したとかいい出すんじゃないでしょうね? ――それは解りません。(でも、すっごい楽しかった。)悪いことしてるみたいな感覚だったけど、だんだんそうでもないって感じたんです。なんというか、小さい頃に近所の男の子とプールの中で戯れてるような、そういう感覚でした。 ――まあ、それは相手が私だからかもねー。私は志穂と違って、気持ちよけりゃそれでいいのよ。その分、代償はあるけどね。(あっ、ピル飲んだっけな。飲んでなかったら、憐くんパパになっちゃうかもよ。) 洋子はそういってあっけらかんと笑いながら、憐の丸裸の尻を優しく撫でていた。洋子は、憐のつるつるした尻を叩いたり、汗の水球を指先で弾き飛ばしたりしていた。 憐はその後も、しばらくベッドの上で一人、「子宮」のイメージについて想いを馳せていた。洋子はすっかり退屈してしまい、シャワールームへ向った。憐は、不思議な感覚になっていた。どういうわけか、洋子が自分の「母親」だったような錯覚すら抱いた。母親となら、こういうことを幼年時代に何度もしてきたような記憶があったのだ。(つまり、鼻先と鼻先を擦り合わせて微笑みあったり、お尻を触られたり、ほっぺに接吻されたり……。)だが、憐は洋子の大切なところに、彼自身のものを入れる時、「違和感」を感じた。それは、やはり昔、男の子たちとプールでどこかエロティックな戯れをしていたものとは、全く異質な感覚だった。(まず、現実に、ぬめった感覚が憐の身体に「情報」として伝達された。奥まで入れてしまった時、自分が錯乱していると信じ込んでしまった。憐は、この浅野洋子という年上の女性と、本当に、絶対に結婚しなければならない、と確信した。)洋子はあまりにもこういうことに慣れており、その無邪気さが、憐に新鮮な怖れ、新鮮な好奇心のようなものを抱かせたのだった。だが、憐は不意に、志穂がもし姉との行為を見ていたら、どれほど哀しむだろうか、ということに今更ながら気付いた。 やがて憐もシャワールームへ向った。バスタブでは、また洋子が(водкаを)飲んでいた。憐は驚愕して、それを取り上げた。洋子はぼんやりした眼差しで、憐が手っ取り早く全身の脂汗を洗い流しているのを見つめていた。 ――憐くん憐くん! 見て! 不意に、洋子がそういって、憐に合図した。憐が彼女を見やると、バスタブの中で、何か(白っぽい糸のようなもの)が水面に浮上していた。同時に、洋子が湯船で排尿していることが解った。洋子はにっこり微笑みながら、まどろみのような眼差しで、「Have you the? Horn. Have you the? Haw haw horn.」と酔いどれて囁いた。 ――洋子さん、ちゃんとお風呂掃除しなきゃダメですよ? ――これなぁんだ? 洋子は湯船の中の糸のような塊を指で掬い上げた。 ――何ですか? ――わっかんないかなー! これ、憐くんがさっき可愛い顔して出してたものだよ。ちょっときばったただけで、ホラ。 憐は洋子のふやけて、少し萎んだみたいな裸体、湯船に広がる黄金色の小便、そして自分が先刻出したものを、また指で弄くっている笑顔の彼女を見て、気分が悪くなった。 ――(前に付き合ってた男のさ、)あれが翌朝にパンツに付いてたことがあったんだよね。ちょっとおしっこっぽい色に変わるなんて知らなかったわ。 不意に、バスルームの扉を激しく叩く音が二人の鼓膜に襲撃した。憐と洋子は声を失った。やがて浴室の扉が素早く開かれた。志穂がpcを腕に抱えて、怒った顔で二人を睨んでいた。 ――憐もアンタも最低だね。これ、チェックしなかったの? たった今配信されたニュース。Page Not Foundに関する世界規模の事態収拾活動に、Scientia社が乗り出したそうよ。Scientia社のCEOが誰か知ってる?Northrop Frye! 誰かさんのクラスメイトだね! 洋子は妹が伝えたその情報に目を丸くした。そして、急速にだらしない快楽的な眼差しが、分析的な神学者の眼差しへと変化した。洋子はバスタブから勢いよく立ち上がって、そのままバスタオルだけ羽織って飛び出した。憐は茫然自失して、静かに身体に石鹸の泡を塗っていた。 ――私がカトリックだから、いわゆる「清らかで聖なる」世界しか知らないと思ったら、大間違い。 憐はショックで何もいえなかった。(何かが)おかしかった、(何かが)悪かった、と思い直した。突き止めれば、誘惑してきたのは他でもない洋子だった。憐はそれを理性で阻止できなかったのだった。改めて再び二人でシャワールームに入ったのもまずかった。憐はその夜、早朝までバスルームで悩み続けていた。あまりにも怒涛のように出来事が押し寄せてきて、眩暈がしていたのだった。整理するためには、静かな時間が必要だった。
翌朝、憐は二人の腕が自分の胸や首筋に絡みついているのをそっと解いてから、リビングルームへ向った。洋子が持参していたらしいpcがテーブルの上に無造作に置かれていた。彼はそれを使って、久しぶりに自分でWebへアクセスした。Page Not Foundの研究サイトで、国連が運営しているHPのトップページを表示させた。そこには、Christianeのふくらはぎに生じていたような、あの「空白化」が、一つの巨大な症例として紹介されていた。憐はそれについて調べ始めた。「空白化」は、時間・空間のユニットの双方に発生するだけではなく、生きた有機体にも病理として伝染するのだという。例えば、この島のある葡萄畑が、一部分だけ「découpage」されていたのは、まさにこの空間の「空白化」だった。あるイギリス人の名門貴族の少女は、自分の母親、父親、兄といった家族の記憶を「空白化」した。それは彼女がこれまで生きてきた「時間」の抹消であり、アルバムの怖ろしい切り抜きだった。最も大きなニュースとして話題になっていたのは、教皇の記憶までもが「空白化」されたことである。これによって、彼はこれまでの信仰生活はおろか、イエス・キリストとは誰か、神とは何か、といった核心となる想い出までをも、真っ白な海辺の砂浜のように、余白へと追いやってしまったのだった。 身体をPage Not Foundに至らしめる、この魔術的な「空白化」が最も痛ましい形で現れるケースもあった。憐も閲覧していて思わず、マウスの手を止めてしまったのだが、ある壮年のインド人男性の頭部、とりわけ右顔面が切り抜きされていたのだ。彼は無論、それで死者と化したわけではない。だが、彼が自分の顔を鏡に映しても、右目、右の頬、口唇の右側などは、全て真っ白な砂浜のように、「空白化」しているのだった。それは、「顔の右側」が、「 」という、文字通り何も無い、無人の世界へとシフトしたような、としか表現の手段がないものである。彼の妻は夫の顔が消え去ったことによる精神的なショックで、現在も入退院を繰り返しているという。これら、多種多様な形式で伝染、増殖を拡大している「空白化」は、15世紀にヨーロッパ全土を襲った「Black Death(黒死病)」に因んで、国際的な医療機関によって「White Death(白死病)」と名付けられた。中世のペストと現代のペストの決定的な差異は、後者には特効薬が存在しないことである。原因は未だ解明されておらず、「空白化」の猛威は世界規模で広がっていた。それは、「地球」という愛すべきロゴマークが、何者かによって「消しゴム」でゆっくり、ゆっくりと消されているような不気味な不安を与えていた。
世界で最初にcity rabbitを発見したのは、おそらく少女だった。 彼は初め、静かな夕刻の小雨に包まれた大都市の街路に姿を現した。学校から住宅街へ向かう帰りのバスに、小さな少女が乗っていた。彼女はその日、授業でクレパスの果樹園を描いたばかりだった。植物に対する感受性が、とりわけ強くなっていた。少女は傘をさしながら、もう目の前に見えている自分の家にまでやって来る。ふと車道の傍の街路樹を見る。街路樹の傍には、雨に濡れている小さな花が、頑張って自動車が浴びせる水飛沫に耐えていた。少女は同情する。彼女は近寄る――彼女にはその花が自分の親友になることがわかっていたのだ――この花の名前は、「エミリー」よ、エミリーは花の姿をした妖精なの――エミリーが呼んでいる――「寒いわ」、「水が冷たいわ」、「あなたのおうちにつれてってくれない?」、「私のことを絵に描いてもいいのよ?」、「あなたは絵が上手でしょ?」――少女は瞳に涙を浮かばせ、その花に駆け寄る。彼女はエミリーにそっとkissをする……。 その時だった。少女は一つの異変を知る。自分の隣に、おかしなひとがいるのだ。おかしなひとだ――(ママンが絶対に近寄っちゃダメというようなタイプの、)滑稽で、不思議で、ちょっと面白くて、でもなんかカワイソウなひと――それがおそらく世界で最初にcity rabbitを発見した時の、人類の感情だったのだ。彼女はcity rabbitが誰であるか知らない。ただのウサギのお人形さんだ。ただの、遊園地の入り口にいる、風船をプレゼントしてくれる沢山の着ぐるみたちの中の一人だった。でも、彼女はウサギさんが、別のもう一輪の花を大切そうに眺めているのを見つける。彼女と同じように、ウサギさんもエミリーの姉妹を哀れんでいるのだ。ウサギさんは泣いていた。花が自動車に苛められるそのたびごとに、身を震わせていた。そうだ! 彼女は直感した――この不思議なウサギさんも、私と同じように、植物の「こころ」がわかるのだ! 突然、怖い顔をした男の子たちがやって来る。男の子たちは、路上でスケボーができなくて、顔はイライラだ。彼女が怖れている最悪の事態がやがて起きる――そう、エミリーが殺されるのだ。男の子たちは、彼女がエミリーを愛しているのを知った上で、それを目の前で踏みにじった。彼らはついでに、ウサギさんの前の、エミリーの妹であるジュエルをも踏みつけ、メチャクチャにしてしまった。ウサギさんは愕いている。少女は必死で涙を堪えている。「泣いちゃいけないよ、ハニー」「泣かないで、君は世界で最高のシンデレラなんだから」、ずっと前にパパがいっていた言葉が彼女の意識に蘇る。男の子たちは、気味悪い格好をしたブサイクなウサギを蹴りつけ始める。「なんだコイツ! 被りものをぬげったら!」、「うわっ! ゴキブリ臭いぞ!」、「頭のおかしい馬鹿バニーさ!」、彼らは容赦せずにウサギを蹂躙する。彼は水溜りの上で、泥塗れだ。おまけに二人の妖精は死んでしまった。古い古い記憶の世界の、最も涙ぐましい光景がそこに映し出されていた。 だが、男の子たちはあきっぽかった。彼らは家に帰ってオンラインゲームを始める。少女とウサギだけが、静かな小雨の中に残される。死んだエミリーとジュエルを、無言で見つめている。少女は肩を震わせながら、頬に静かな熱い雨滴を流している。それを、少し離れたところで、傘もささない不思議なウサギさんが見つめている。ウサギは立ち上がる。まず、エミリーの前へ。そして、彼はグシャグシャに踏み潰された花にやさしく手をかざす。(ウサギさんの周りは、温かかった。)少女の目に次に飛び込んできたものは何であったろうか! それは、元気になったエミリーだったのだ。 少女は魔法使いが実在することを知った。彼女はエミリーを抱いて立ち上がる。そして、遂に尋ねるのだ、いってはいけないあの言葉を――。 ――ねえ、あなたは誰なの? 「誰なの?」というこの戦慄すべき衝撃的な問いに答えられる人間が存在するだろうか? city rabbitは返すことなく、曖昧に彼女を見つめた。そして、同じ御業によって復活させたジュエルを足元に、ぼんやりと天空を見上げていた。少女は彼が泣いているように思えた。(The Walt Disney Companyのキャラクターみたいな、あっけらかんとした馴染み易い顔をしているが、)雨に沈んだ大都市の中の小さな聖堂を見つめるように、彼は天空を仰ぎ見ていた。その瞳は、美しかった。そして、彼はけして口を開かなかった。「あなたのそれ、かぶりもの?」という新しい質問が少女から飛び出す前に、彼はその場から忽然と、姿を消した。 こんな話もある。ブエノスアイレスの、ある大きな中央広場でのことだ。 その日は朝から晴れ渡り、音楽隊に属している少年たちは、わくわくしていた。彼らは、やがてここで大人たちを前にして大演奏するのだ。ふと、ピザトーストを買った仲間の一人がその場に戻ってきた頃、彼らは異変に気付いた。広場の、太陽が燦爛と射している場所に、数知れない鳩たちがいるではないか。それも、莫大な数の鳩だった。(五千、否、一億羽は確実に存在すると誰もが断言するほど、)圧倒的な鳩の波立ちがそこに現前していた。それだけで、ある敬虔な少年はキリストの存在を感じ取り、涙を流した。それは、まことに驚愕すべき光景だった。一面が真っ白な美しい鳩たちで覆われていたのだ。少年たちは魅了され、一歩も動けなくなった。 鳩たちはいっせいに天空へと飛翔した。その光景の凄まじいメロディーは、(それは一つの巨大な白い宇宙が、いっせいにその背景に平穏な都市の建造物を露見させるような、)愕くべきものであった。鳩たちはいっせいに翼を広げ、無数の粉雪のような羽根を空中でダンスさせながら、ほとんど幾何学的な美しさで空に散在していく……。直後であった。少年たちは、同時にそれを見た。鳩たちが先刻までいた場所の中央に、一匹のウサギがいるではないか。否、それはウサギの着ぐるみを纏った人間であるに違いなかった。自分たちの演奏の前に、朝の秘密のセレモニーでも幕開けしたかのようだった。少年たちはウサギに釘付けになった。彼は天空を眺めながら、笑うように両手を上げた。すると、数十匹の鳩たちがどこからともなく帰還して、ウサギの身体に憩った。少年たちはその姿に圧倒され続けていた。ウサギは間違いなく、鳩の王だった。彼は鳩たちと、人間にはわからない「こころ」の通じ合いを持っていた。それは一目見ただけで人間にもわかるほど、どこか懐かしい遺伝的な直感でもあった。 都市伝説は、現代人が生み出した原始的な宗教形式に過ぎない。だが、city rabbitはそうではなかった。それは、端的にSCV(Status Civitatis Vaticanæ)において生起した。空白化に感染し、これまでのあらゆる信仰生活についての記憶をdécoupageされていた教皇の前に、彼が現れたのだ。教皇はその時、ちょうど病室で夢を見ていた。ウサギが来る夢だ。ウサギは来たのである、それも、彼の「空白」を治癒するために。彼は眠る教皇の顔の上に手をかざした。そして、沈黙したまま、しばらく最も貴重で掛け替えの無い時間が流れた。 教皇が目覚めた時、扉が閉まったと伝えられている。その時、ちょうどウサギの足だけが扉の前から覗いていたという逸話にすら詳細な解釈と敷衍が付くほどに、このニュースは全世界を駆け巡った。The New York Times、The Times 、Le Monde、Die Welt、朝日新聞、人民日報、The Jerusalem Postなどはこぞって、「ウサギ現る! 教皇完治する!」という報道を大きく流した。その時、教皇の眠っていた病室に、隠しカメラが仕掛けられていたことが問題となったが、奇妙なことにウサギの姿は映っていなかった。メディアは無論、教皇の歴史的な「みまちがい」を皮肉りもしたが、彼が描いた「ドアを閉める直前のcity rabbitの形象」は、紙上に掲載されると同時にたちまち様々な紙媒体、及び電子媒体でCOPY & COPYを繰り返した。 ウサギはメディアという舞台の中央に踊り出た。彼はあらゆる色彩を宿すメディアのスポットライトから照射されたが、彼自身は一様に沈黙を守り続けていた。そして同時に、これは最も奇怪な事態ですらあったが、このウサギは明らかに神の属性である「ubiquitous」を有しているとしか考えられなかった。何故なら、ウサギは全世界のあらゆる場所に、(同時に、全的に、一挙に、)現出したからである。それは、ある情報が、ネットワークを経由して全世界の国のpcにまで伝達されるほどの波及力を持っていた。 city rabbitは一体何がしたいのか? 彼がしていることは、ただ一つであった。つまり、彼は空白化を治癒しているのである。大都市の金融街で、路上にdécoupageが生起しているところを、彼がダンスする。彼の足取りに合わせて、切り抜きされたあらゆる場所が、蘇生していく……。それは、ペイントで一度切り抜いたものを、再び元に戻して貼り付け直す作業を彷彿とさせた。 電子記号で構成されたペストは消える。それは、取り除かれる、治癒される、まるで現代の薄気味悪い悪霊に憑かれていた人間たちから、exorcism(悪魔祓い)するかのように。(city rabbitは預言者だ。否、city rabbitは革新的なデザイナーだ。否、city rabbitは要するに――bunnyに過ぎないのだ。このような様々な風説が卵型をした地球の情報網を光速度で駆け巡る。)彼は悪霊に憑依されたあらゆる人間たちの前に現れる。時には集団で、時には単数で、時には夢の中で。「特効薬」の開発に困惑し続けていた現代人たちは、特効薬それ自体が向こうから動き始めたことに驚愕し、そして感銘を覚えた。 彼は治す。いかなる薬も、小道具も用いずに、ただ陽気な笑顔を浮かべながら、ヒョイと手をかざすだけで。(めちゃくちゃに組成されていたジグソーパズルの絵が、ゆっくりと明確に「それ」が何か判別できる一枚の画像を構成し始める。「それ」こそが、city rabbitだ。)découpageもプリュールも無い。そんなものは、初めからあり得なかったし、ただの空想的な操作子に過ぎなかったのだ。クレヨンで描いた果樹園を、鋏で切り抜かれ、不安になっていた少女たちも、これでようやく笑顔を取り戻す――(全てはウサギさんのおかげだ、ウサギの賜物、ウサギさまさまだ。) あらゆるシステムには二面性が存在する。city rabbitは確かに人間たちの電子的なペストを治す天才的な名医であった。だが、この名医は、人間を「治してあげる」ことによって、自分自身は「傷つく」という特徴を有していた。重度のWhite Deathに感染して、Pest Houseで自分の存在が消し去られるその日を待つしかなかった人間たちは、元通りの身体を取り戻す。切り抜かれていた身体は、嵌め合わされる。だが、医師は血を流していた。彼は、多く治せば、多く疲弊し、打ち砕かれ、絶望的になり、大いなる不安と孤独のさ中で苦悩しながら、自分の身体がボロボロに綻びていくのを見守らねばならなかった。彼が着込んでいた黒いチョッキに赤いネクタイはズタボロになり、彼の手足は千切れ、顔面の半分は痛ましい鞭打ちを受けたように腫れあがった。(彼は、明らかに背負っていた。彼は何かを背負っていた。)教皇は、この一連の事態を目の当たりにして、涙を流した。老いたるSCVの長は、威厳に満ちた顔でこういったと伝えられる。 ――彼はvulnerabilite(可傷性)を宿している……。 city rabbitが一体何をしているのか、それが少しずつ明らかになり始めた。彼が「誰か」「何か」は全く定かではない。彼の中に誰かが入っているのか、或いは外部から第三者によって操作されているのか、それすらも確認できなかった。彼は姿を現し、癒し、そして癒した分だけ傷つき、忽然と消える。彼の癒しの力はそのまま保存され続けているが、彼の身体は傷つけば傷つくほど、形を変えた。すなわち、彼は自分自身を癒せないのである。 彼は植物を愛していた。特に、どんな花であれ、それが花であると判れば、彼は駆け寄り、少女のようにそれらを慈しんだ。彼は動物だった。何故なら、彼は動物の「こころ」が理解できたからである。彼が傍へ来ると、どんな種類の動物たちであれ、「母親」に初めて接した時のような愛情を抱くのだった。 一度、彼が激怒したことがあった。彼が、かつて紛争のあったある村に現前していた時だ。ちょうど、地雷が顔を出していた。畑を耕していた若い女性が、それと気付かずに鍬でそれを突付いてしまった。直後、女性に即死するよりも痛ましい事態が生起した。彼女の下半身は周辺に散在してしまった。畑には大きな窪みができた。city rabbitはそれらの一部始終を見ていた。この時、彼自身も既に、取り返しがつかないほどの傷口を負っていた。彼は女性に駆け寄ると、全身の毛を逆立たせ、異常なほど膨張し、空を覆い尽くしたと伝えられている。(数千年後には村の伝説として受け継がれるであろうこの出来事の中で、)最初の奇蹟とは、彼女の身体の癒合であった。彼は、いかなる縫い目も残さず、完全に綺麗な形で、彼女を元通りに治した。(そして、直後に彼は慟哭し、悲鳴をあげながら自分の背中が裂け開くのを感じた。) 彼はその村一帯に埋まっている悪しき種たちを、全て喰らい尽くした。それは、驚嘆すべき光景であった。ほとんど怪物のような神話的なウサギが、巨躯を横たえつつ、口だけ洞窟のようにカッと開き、掃除機のように地雷を吸い上げ始めたのだ。地雷は、彼の口の中で(虹色のスパイスとなって)破裂した。そのたびごとに、彼は不思議な笑顔を浮かべたり、歯を食い縛りながら受苦の表情を覗かせた。city rabbitの胃袋は、地雷で埋め尽くされた。彼は、一個の大いなる山のように村の傍にゆっくり座った。そして、深呼吸すると、満面の笑顔を浮かべながら、(天地がひっくり返るほどの轟音で)おくびを洩らしたと伝えられる。 ラスベガスと上海に「CITY RABBIT」という世界最大級の姉妹カジノが同時にオープンし始めた頃、SCVは静かに円卓を開いていた。「city rabbitに関する神学的問題について」と題されたその公会議は、最古の公会議であるニケア会議でも既にテーマとして浮上して核心的な命題を、全く新しい形式で再検討することを余儀なくされた。すなわち、「受肉」だ。 教皇は会議を主導した。彼は、修道士イオビオスが530年頃に記した「Quaestio quare filius incarnatus sit(なぜ御子は肉となったのか)」という書物のタイトルにかけて、現代世界においてはこのタイトルは、以下のように書き換えられねばならないと強く主張した。「Quaestio quare lepus incarnatus sit(なぜ御子はウサギになったのか)」。かつて、神はイエスという人性を持った。だが、現代の神は、よりいっそう不気味なもの、奇怪なもの、被造物の次元におけるいっそう低次のものへと下降しているとしか考えられなかった。神が創造した人間が創造した工場が創造した着ぐるみ(しかもウサギの!)に、すなわち徹底化された唯物論的な「身体」へと現代の神が受肉せざるをえないということ――それこそがこの前代未聞のローマ・カトリック教会による最大の公会議の核心的テーマであった。
SCVがウサギを列聖する勢いで讃美し始めていた頃、洋子に異変が起きていた。洋子はある朝、これまで彼女自身がずっと抑制し続けてきたある衝動を解放した。洋子は目覚めるなり、憐からプレゼントされたばかりのお揃いのペンダントを満面の笑顔で飲み込むと、歯茎を剥き出しにして立ち上がった。洋子の異変に気付いた憐は、彼女の表情を見て驚愕した。それは、これまでの洋子ではなかった。彼女は大急ぎでショッピングモールへ向かうと、矢継ぎ早に薪を集めた。洋子は帰宅するなり、憐には何もいわずにそれらを一つの袋に収めた。 ――洋子さん? ――黙れ。やっと……やっと理解した。この日をどれだけ待っていたことか。私が何を求めていたのか、私が一体何故、Fisherと出会い、彼から円環を描くNeural networkの理論を教わり、そしてArchaeopteryx lithographica の夢を見たのかも……。全ては今日のためにあったのよ。ようやく悟った。私は人間ではない。 憐は唖然として青褪めていた。洋子がほとんど内的独白のような形式で、ひとりでそれらを悪霊に憑かれたように語ったからである。 ――洋子さん! 一体どうしたんですか! 何か悪夢でも見たんですか! ――黙れ、お前の存在など私にはどうでもいいのよ。これから私はこの都市の全てのカトリック教会に火を放つ。火は、放たれねばならない。火が来るからよ。火が。大いなる火が来るわ……。憐、君にまだいってなかったことが一つだけあったわ。私は幼児洗礼を受けたカトリックよ。洗礼は死ぬまで消えはしない。死ぬまで消えない、これは刻印だった……。そのためにどれほど苦しんできたか! でも、もう終わる。火が来るわ。嵐のような、大いなるもの、巨大なるもの、圧倒的な大きさを持ったものである、かの火が私を焼き尽くしに襲来する……。 洋子はそういうと、玄関へ向かった。憐は素早く彼女の前に立ちはだかった。 ――洋子さんは病気だったんですか? もっと大切な、「こころ」のものだったなら、どうして僕にいってくれなかったんですか……。 ――憐……、私の推測が正確であれば、city rabbitは世界中の全ての都市から人間を退隠させるつもりよ。彼は、おそらくキリスト教とは何の関係もない。SCVは浮かれて聖人みたいに祭り上げてるけど……端的に一語で表現すれば……「最後の神」とでもいうべきもの。ああ、彼に会いたい。彼に会って、彼の息の根を止めたい! 憐はその言葉を聞いて衝撃を受けた。「最後の神」、それは何だ? ――行かせませんよ。絶対にここからは一歩も。貴女を犯罪者にしたくないから。 憐がまだどこか、この出来事が平穏な喜劇の第一幕であったような微笑すら浮かべてそういうと、洋子は一度下を向いた。そして、直後、憐を「もの」のように見下した、戦慄すべき冷酷な眼差しで睨み付けた。 ――都市生活者は退隠し、森へ向かう。森へ仕向けたのは、彼。彼は、強いていうなれば、最も風変わりで気の狂った預言者だわ。私は永久に都市に残る。森になど帰らない。都市で生まれたんだから、都市で死ぬ。だからどけ。 洋子は片手にしていた小型の薪を振り上げた。憐は受苦の姿勢で、洋子の瞳を見つめ続けた。刹那、彼女の瞳に普段のやさしさが火花のように咲いた。だが、彼女は薪を振り落とし、憐の頭部を殴打した。憐は痛みを受けたが、それ以上の打撃をこころに受けた。だが、最も苦しんでいたのは、洋子だった。 洋子は自動車に乗り込んだ。後部座席には、大量の薪を用意していた。彼女は自分が、天啓を受けたことを知っていた。city rabbitは危険である。それだけは間違いない。最大の危険は、彼が神格化されてしまうことだった。だから、洋子はそれらに大きく加担しているカトリック教会を敵に回すことにした。 洋子は車道を疾駆した。元々、都市から人間は減少していたが、そこは既に無人地帯になっていた。そこは砂漠のように無機質だった。多くの現代人が、都市から森へ退隠しているのだった。その予兆は既にずっと前から存在していた。Page Not Found……これはWebに常時接続可能な「都市圏」で発生した特異なペストだった。それはやがて、具体的なフォルムを持って都市を構成するあらゆる有機物に感染し始めた。すなわち、découpage、空白化、白死病と呼称されていた現象がそれであった。découpageはやがて、その空白になっている部分を縫合するかのように「折り目」を形成し、いっそう醜悪奇怪な症状を露見せしめた。だが、突然、ぬいぐるみのようなウサギが現れた。彼は気味悪い都市の病を見事に治癒した。彼は端的に二千年以上の歴史を有する教会のトップの病を、その奇蹟的な御業によって完治させることで、彼の信頼を得た。 全ては仕組まれていた。洋子はこう考えていた。つまり、発端となるPage Not Foundを世界中にウィルスのように流布させた存在それ自体が、city rabbitだったのだ。city rabbitは自然を溺愛している。彼は聖母マリアの象徴である薔薇を愛し、Saint Francis of Assisiのように小鳥と会話し、イエスのようにexorcismする。彼がキリスト教を越えた存在であったとしても、彼は少なくとも、キリスト教の体系を熟知しているのだ。教皇の笑顔は、彼自身が創り出したものだった。洋子は気配を感じている。それは、まったくもって異常で不可解なものであり、最悪の場合は人間それ自体が孤独のさ中に陥れられるであろう。都市は完全に空洞化し、人間は白痴のように密林の中の教会に逃れる。都市の片隅で、ひたすら瞼を閉じていた「古代の鳩ども」が、目覚める……。 これは悲劇である――洋子は焔が魂の奥深くの内燃機関で燃え盛るのを感じながらそう直感した。これは断じて喜劇ではなかった。city rabbitは人間を森へ誘導している。それは、限りなく隠密裏に遂行されている最高度に暗号的な魔術そのものだ。洋子はハンドルを荒っぽく回しながら、おそらく教会にすらもうほとんど人間がいないであろうことを予感した。無人の教会を焼いて何になるのか? 無人の礼拝堂で、一体誰が何を礼拝するというのか? 洋子は急速に意志を喪失し、急ブレーキをかけて車を広い車道に停止させた。彼女の心臓はノアが見つめていた夕暮れの最後の安穏な海のように、密やかな高揚を孕んでいた。 都市には誰もいなかった。そこは、洋子が大嫌いなGiorgio de Chiricoが描いたような、ほとんど形而上学的に堕落した、果てしない孤独を具現化した空間だった。洋子の背筋に鳥肌が立った。憐は……? 憐は、まだあの部屋にいるであろうか? あの部屋で、私が殴りのめした薪を隣に、ぐったりと横臥しているのであろうか? その姿は、本当に憐であるのか? その姿こそが、city rabbitではなかったか……? 洋子は車から降りた。そこは、ちょうど教会の前だった。華やかな歓楽街のさ中に、教会はあった。彼女は教会の門をくぐった。すぐに聖堂へ向かったが、予想していた通り、そこには亡霊のみが現前していた。つまり、人間などはただの一人も存在していなかった。仮に、人間の存在が、亡霊的なものではないとすればの話だが。 不意に、オルガンの傍で声がした。すすり泣く少女の声だった。洋子は彼女に駆け寄った。少女は白いミサ聖祭用の衣装を着込んでいた。振り向いた時、洋子は何か名状し難い恐怖を意識に湧出させた。どこかでかつて、見た顔だった。それは、誰かがわからなかった。志穂ではなかった。志穂に限りなく似ていたが、志穂の頬に黒子が三つあるなどということはなかった。少女は走り寄って洋子に抱きついた。 ――オ姉チャンガイッタンデショ? 神ガ死ンダッテ。 洋子はその言葉を聞いて、声を失った。少女は泣きじゃくりながら、真っ赤な瞳で洋子を凝視していた。洋子は手足が震えているのを感じた。 ――ナンデソンナ哀シイコトヲイッタノ? ドンナヒトデモ、赦シテクダサル方ノ前デ……。 洋子の頬に冷たい涙が流れた。直後、閉めたはずの聖堂の扉が開いた。風だった。振り向くと、少女は跡形もなく消え去っていた。 洋子は失意に暮れた面持ちで、教会を出た。自動車の前まで来ると、そのまま前輪の前のアスファルトにしゃがみ込んでしまった。彼女は、父に生まれて初めてイエスの受難を聞かされた日以来、溜め込んできた涙を、その時に初めて流した。洋子は少女になって泣き続けた。 やがて、広大な道路の奥に影が立った。周囲には巨大な直方体や立方体のビルが乱立していた。洋子は、その全ての窓に、亡霊の気配を感じ取った。影はゆっくりと、横になって、後はもう死んだように眠るだけの洋子に近付いてきた。洋子は薄れている視界でも、その影の正体は突き止めることができた。やれ、やれだった。こんな時に、ようやくcity rabbitだ。 ――アンタさぁ、それ前から思ってたんだけど、ぜんっぜん似合ってないんだけど? なんでわざわざScientia社製のウサギの気ぐるみに受肉するんだよ……。ほんとに、バカじゃないの……? city rabbitは首を左に振ったり、右に振ったりしながら洋子を見下ろしていた。やがて洋子は気付いたが、それは何かのダンスの継続されている運動だった。それがいかなる舞踏であるのか、そもそもその舞踏が歴史上に実在したものなのか、洋子には最早わからなかった。city rabbitは壮大な旅が始まるような好奇心旺盛な眼差しで、天空を悠然と眺めた。洋子の鼻筋の上で、溶けた。雪が溶けた。冷たい雪が、ひらひらと天空から降ってきた。 都市は静かな雪に包み込まれた。 ――アンタは一体何者なんだ? 私だけに教えなよ。そうすりゃ、アンタが欲しがってるお望みのものを全部くれてやるからさ。欲しいんだろう? アンタは欲しいはずだ。人間からの信仰を。アンタは信仰の対象になることを内心では希求してきたはずだ。違うかしら? city rabbitは感激しながら、掌の中で雪を浮かばせていた。彼はまったく、洋子の話など聞いていなかった。否、おそらく耳をそばだてて聞いているのだろう――だが、それは彼にとっては、あまりにも取るに足らないことであるに過ぎないのだ。 ――アンタは……イエスのことを知っているの? De Imitatiore Christiをしているつもり? それとも、その猿真似も全部、アンタの計画の一部なの? アンタはなんで、なんで……人間に善行をしたの? キリスト教の神は、Auschwitzで死んだはずだわ。もし生きているとすれば、教皇は言動の責任を取って聖職それ自体を総辞職させなきゃならないし、そういうことが起きたんだから。アンタ、何様のつもりなの? その格好は遊び? GAME? Programかしら? アンタにもChristian nameはあるの? アンタの好きな歌手は誰? アンタはどこの国で生まれたの? アンタの本当の名前は何なの? なんでアンタは人間に永久に沈黙し続けているの? 次の瞬間、洋子の目の前で信じ難い現象が起きた。彼が、自分の頭部を脱ぎ去ったのだ。つまり、着込んでいた衣服を脱いだのである。ウサギの着ぐるみの中には、何も無かった。city rabbitは、相変わらずの微笑を浮かべながら、両腕で自分の頭部を掲げていた。city rabbitは、人間に操作されているのではなかった。彼は、むしろ操作している側なのだ。洋子の額に、幾筋もの冷や汗が流れていた。路上では、しとしとと上品な雪たちが溶けていく。 ――語りなさいよ。自分の声で、アンタの存在規定をメッセージとして伝達しなさいよ! できるでしょうが! アンタは前にもそうしてきたはずだわ! それとも、Mosesに語ったことをここで反復するのかしら? 「all the earth is mine」って? それとも、真顔で「the God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob」って? 冗談でしょ、bunnyちゃん! 洋子の魂は掻き乱されていた。彼女は自動車からガソリンを取り出すと、周りの街路樹全てに放った。彼女は胸の谷間から雄羊のマークを持つライターを取り出すと、街路樹全てに火をつけた。それらは一気に燃え上がった。city rabbitは、まるで洋子のしていることを喜劇的な道化として見守るように、軽快に眺めていた。彼は笑い出しそうで、深呼吸が必要なくらいだった。 突如、city rabbitの顔にガソリンが浴びせられた。洋子は無表情で、彼の全身にそれを浴びせたのだ。洋子は本気だった。この女性神学者が、これほども真剣になったことはこれまで一度も無かった。彼女は自分の存在の総体、思考の最も奥深くに屹立している結晶をかけていた。彼女は自分の命をかけて、city rabbitに対峙した。彼が未だ、あの憎らしい聖人みたいな笑顔だったので、洋子は憤怒した。彼女は最後に、たっぷりと自分にもガソリンを被った。 ――同時に火をつける。大いなる火で、私たち二人が同時に燃える。その時、その時、その時こそ……都市それ自体が退隠を犯し、森の神々が目覚める……。 city rabbitは一瞬、何でも貴女のすることを受け容れるというような表情を浮かべた。洋子は戦慄した。二人の足元は、一筋のガソリンの小川で繋がっていた。どちらに火の粉がかかっても、同時に焼死するはずだった。洋子はその高揚感を味わいたかった。この最高度に錯乱した現代の神と共に没する。没することこそが、必要なのだ。森へ帰還するのではなく、都市と共に没することこそが。 洋子は、ライターを自分の顔に向けた。だが、奇妙なことに、着火したのはcity rabbitの顔面だった。彼は火を受けると、踊り狂いながら後方へと向かった。洋子は仰天していた。すぐにでも何かが来るはずだった。“Yes, I come quickly.”彼女の中で、APOCALYPSISの最終章でイエスが発した言葉が蘇生した。然り、私はすぐに来る。然り、私はすぐに人間の前にやって来る。その秒針単位の、魔術的なメシアニズムのさ中で、city rabbitは燃え上がっていた。彼は、現代の異端的事象が犯した全ての罪を贖うかのように、燃え上がった。 彼の身体は見る見る間に灰になった。然り、私は灰になる。Amen! Yes, come, Lord Jesus. 然り、私は来る。必ず来る。何も心配することはない。洋子は跪いた。この異端にも身を染めていた一人の女性神学者に、忘れかけていた最後の聖なる涙を流させたのは、間違いなくcity rabbitが犯した罪だった。洋子は七つの火柱に囲まれながら、アスファルトの上で泣いている。誰も来ない。誰も来ないのだ。誰も来なかった。私は間違ってはいない。神はやはり死んでいるか、痕跡化しているかの、どちらかだ! The Spirit and the bride say, “Come!” He who hears, let him say, “Come!” He who is thirsty, let him come. 私は来る。私は必ず来る。私を信じなさい。私を信じ続けなさい。私は来る。“Yes, I come quickly!”私は必ず来る。あなたがたの涙は、私が取り払う。 やがて雪が静止した。(都市の片隅で、これまで瞼を閉じ続けていた者どもが、その大いなる瞼を、開ける……。)