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『君と笑顔の祝福を【完結】』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:もげきち
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あらすじ・作品紹介
二月の雪が降り積もる寒空の中、少年仲谷真介は他の人には見えざる存在だった少女の意識を呼び覚ました。
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1
その少女は真冬の強い寒気が吹き付け、久々に関東にも雪が積もった二月初旬の夕暮れ時に、一人ぽつんと道路の真ん中に立っていた。長袖のセーラー服に秋もののカーディガン。季節とかけ離れた薄着が、周り一面の銀色の世界とアンバランスに映る。
夕暮れといっても、陽は雪を降らせる分厚い雲に覆われたまま一度も姿を見せる事無く完全に沈んでしまい、暗がりの街中に街灯がぽつぽつと明かりを灯し始めていた。はらはらと降り積もる雪の姿が幻想的だった。そんな雪の中、彼女の姿はどこかおぼろげで、自信の無い根無し草のようにゆらゆらと寂しそうに儚く映っている。
また彼女だ。
仲谷真介は通学路を家路に着く為に歩いていると、目の前にいつもの少女が浮かび上がった事に気がついた。帰宅路に積もった雪をギュッギュッと踏みしめる音を立てながら歩き、少女の方向に彼が近づいていく間も、少女は一切興味を持たないようで、瞳はまっすぐに遠くを見つめ、ただじっと立っているだけだった。寂しそうな瞳に、何かを待ちわびているような希望を仄めかしながら。
もう彼女を見るようになって半年が過ぎただろうか――真介は、そっと少女の脇を通ると後ろを振り返ることも無く、歩みを進め思い返していた。
夏の強い日差しを浴びた夕暮れ時に、今とは正反対の気候の折にも少女は今と同じ服装で、同じ立ち方で突然この道の真ん中に現れ、一人寂しそうに立っていたのだ。
透き通るような白い肌に、この近辺では見たことも無い制服。そして長く綺麗な黒髪。
少女はとても美しかった。
きっと大人しくて、清楚な感じの子なんだろうな。真介は見た瞬間思った。
しかし、見とれていた真介が、違和感を感じたのはその後すぐの事だった。
明るく焦げ付くような日差しがまだ照りつけ、セミの声が聞こえる中、通り過ぎる人々は真介以外、誰一人彼女に気がつくことが無かったのだ。まだまだ夏の明るい時間帯にも関わらず人々は皆、初めからその場所に少女など立っていない、そこには何も居ない――というような顔をして平然と歩いていく。そして、道路の真ん中に立つ少女も周りに誰も居ないという、ようにただ遠くを見つめて立っているのだ。
――まさか?
真介に浮かんだ『まさか』と思う気持ちはすぐに確信に変わった。車が狭い路地の中平然とスピードを出したまま駆け抜け、彼女の身体をすり抜けていったのを見てしまったのだ。車がすり抜けた少女は当然の如く遠くを居つめたまま、何事も無かったようにその場所に立っていた。
……ああ、この少女はもう死んでいるのだ。
真介は確信すると、少し残念な気持ちになって溜息を吐いた。そう、また自分にだけ見える存在だったようだ。
……でもどうして?
真介自体は昔から見慣れた風景では在るが、あまりにも唐突な少女の出現と、この場所である事の脈略の無さに疑問が浮かんだ。
ここで、交通事故なんて聞いた事が無い。それに毎日毎日授業の日は当然として、休みの日だろうが何だろうが殆ど変わりなく剣道部の部活動に出掛けてきている自分が覚えていないのだから中学、高校に入ってからこの5年間の間には、特にそのような悲劇は無いはずだ。ましてやこんなに可愛い子が亡くなる事件なんて身近にあったらうちの男子校の全員がその悲劇に嘆き悲しむだろうし、否が応でも覚えてしまうはずだ。
――この子は一体何処から来たのだろうか?
まるで見たことも無い彼女の制服と、どこも怪我をしたように見えない身体も真介の疑問に拍車を掛けたのであった。自分が普段見慣れているモノは、大抵事故で亡くなった方が多く、外傷は生々しく残り、苦しみながら存在しているというのに……。彼女は苦しむ様子も無ければ、傷ついた様子も無いのだ。ただ孤独に、気高く遠くを見つめて立っているのだ。
しかし結局この謎の少女の出現はそれ以降毎日続き、真介自身も気にはなっていたものの、本腰を入れて調べようという情熱などは特に無かった事もあり、いつの間にか夕暮れ時の彼女との一方的な出会いにも慣れ『見えようが、見えまいが、ただの日常の一部』となって、気にならなくなっていったのだった。
そもそも真介が少女に話しかけなかったのは、このような存在自体、生前の意識が凝り固まり自分の世界に没頭し、周りに何も気がつかないものばかりだったからだ。
一度まだ真介が小学生だった時に、見かけたモノに興味を示して話し掛けたのだが、わけのわからない言葉をブツブツ呟いているだけで何も会話にならなかった事があった。つまらなかった上に、何故か暫く夢に何度も出て来てうんざりした記憶が懐かしい。
それ以来真介自身、敢えてそのような存在に話そうなどとは思わないようになったというのだ。が、まあ最近ではそれに加えて、ただでさえ生きている人間関係だけでも大変なのに、死んだ人間とまで話すつもりなど無い――話したとしても勿論反応があるとは思わないが、あってもどうせ厄介な事にしかなりそうにないと思うようになったからだ。
「でも……流石に今日は寒そうだな……ちょっと可哀想かも」
真介はふと思った。
こんな大雪の中を、少女は何も変わらない姿で立っているのだ。
そりゃ、幽霊は寒さを感じないかもしれないけれども、あんなに可愛い子がそのまま立っているのを見るのは何となく忍びない。自分はこんなに防寒具で固めて居るというのに。
真介は制服の上にセーター、コートを羽織り、分厚い手袋を装備し、首元はマフラーでがっちりガードされた完全防備の自分の姿を見て笑った。
何年ぶりかの雪の日だったからだろうか。少女の存在に慣れてからは、興味本位で振り向かないことを決めていた真介だったが、死んだ世界のように静かに時間が進む、銀色の孤独に何か感化されたのだろう、ゆっくりと彼は彼女を見るべく後ろを振り返った。
振り返った先には相変わらず少女が真介から背中を向け立っていた。
はらはらと降り積もる雪が、白く透き通る肌をすり抜け落ちていく姿が痛々しく真介の目に映る。
「はぁ……せめて、あの子が幽霊じゃなければコートを羽織らせてあげられるのだけどな……」
そうすれば、今の姿よりも少しは温かくなってくれそうなのに。
真介は自分の羽織っているコートのフロントラインをぎゅっと手袋をした右手で握り締めた。
「あれ? あれれ? 君、もしかして私に気付いている?」
突然女の子の透き通った声が聞こえた。
「え?」
真介が慌てて顔を上げると、半年前から今の今までただ前を見つめ佇んでいた少女が、真介の方に振り向き、少し首をかしげながら覗き込んでいた。
それはありえないと思っていた出来事が、突然起こった瞬間だった。
「わっ!」
真介は、短く一声上げると驚いた衝撃で腰に力が入らなくなりへなへなと雪の上に座り込んでしまう。すぐに熱が雪を溶かしてお尻の辺りに水分が浸食し、べチャべチャとした感覚が広がってきた。しかし、真介にとって今はそれを気にしているどころでは無かった。
まさか『日常の風景の一部』と決め付けていた少女が突然話しかけてきたのだ!
真介にとって、この驚きは尋常では無かった。
見ることには慣れているけど、この世ならざるモノが話し掛けて来る、という経験は全く無いのだから当然の事だった。突然の展開に真介の心臓が弾け飛びそうなほど大きく動機し、呼吸もままならなくなる。喉は一瞬にしてカラカラに渇き、足も力なくガクガクと震え出した。
「ちょっと! 失礼ね。女の子を見て悲鳴上げて、腰抜かすなんて失礼じゃない?」
「え? うわ……しゃべ、しゃべ……しゃべった? しゃべった?」
真介のそんなパニックになっている気持ちなど少女はさっぱり気付かないようで、あたふたとした彼の行動に、彼女は心外だ! と頬をぷくっと一つ膨らませると腰に手を当てる。そして、そのままへたり込んでいる彼を見下ろした。その仕草がなんとなく愛らしい。
「しゃべりますが何か? 君、私の事をなんて思っていたの? もしかしてマネキン? 失礼ね。いくらモデル体型だからってそんなんじゃありませんよーだ」
茶目っ気たっぷりに言い放ち、その後少しふてぶてしくニッと微笑んだ少女の姿に真介は場違いにも「可愛い」見とれてしまった。まさに少女の可愛らしさの勝利だった。もしこれが血だらけで呻き声を上げている存在だったら、逆に気を失ってしまっていたかも知れない。
そう思った真介は、気がつけば先ほどまでコレでもかというように打ち付けられた衝撃のダメージが消え失せ、身体の震えが止まっていた。本人もびっくりする回復ぶりだった。
「うん、流石にマネキンには間違えないよ。というか、身長的にモデル体系じゃ無いと解るし」
真介は落ち着きを取り戻すと、そのまま座り込んで少女の姿を眺め、笑って言葉を続けた。
「まさか、僕に話しかけてくるとは思って居なくてびっくりしただけだよ」
「本当に?」
少女は訝しげに真介の顔を眺めてくる。
「本当、本当」
真介は、そんな少女の顔をしっかり見つめ返しながら何度もコクコクと頷き返した。見つめる少女の瞳は、先ほどまでの何処か遠くを眺める物悲しい雰囲気は無く、生き生きとした輝きを見せているようだった。真介はなんだかそれが自分の事のように嬉しくなった。
「うん、まぁ……信じる。なんてったって君は私に気がついてくれた人だもん」
少女は大きく一つ頷くと、嬉しそうにくるりと廻った。少し短めのスカートが季節に合わずにひらりと舞う。
「気がつくって……やっぱり君は?」
「うん、私、死んでるよ」
あっさりと少女は答えた。まるで「生きている」「死んでいる」なんてどうでもいいことだ、と言わんばかりのようだった。
「どうして?」
真介が質問すると、少女は決まりが悪そうに視線を逸らして目を閉じた。
う……不味い質問しちゃったかな?
真介が自分のした質問のデリカシーの無さに気がつき不安に思った中、少女は少しの沈黙の後、真介に向きなおすと柔らかく微笑んだ。
「ねぇ。そんな事よりも、私も聞いていい?」
「え? あ、うん」
突然の少女の逆質問に、真介は慌てて頷く。
「私がここに居ることに、君はいつから気がついていたの?」
「え? 僕?」
少女は真介の目を見つめながら頷いた。
「えーと……もう半年前になるかな? 八月の頭から君を見始めた事を覚えているから……」
「半年前から私に気付いていたの?」
たちまち少女は真介の言葉に憤慨したような、問い詰めるような口調の声を張り上げた。少女の表情はみるみるうちに蒼褪め、その場に倒れそうな勢いだった。
「酷い! 酷いわ! ならどうしてすぐに私に『気がついてるよ』って、伝えてくれないの?ああ、もう時間が全然ないじゃない!」
「え? あ? どういうこと?」
突然の少女の狼狽振りに真介も焦った。しかし、何が何だか理由がさっぱり解らない真介は、とにかく彼女を宥めて怒りの理由を聞くことしか無かった。が、残念ながら真介は女の子とそれほど付き合いがあったわけでもなく――それつまり当然女の子を宥める方法なんて知る由も無く、結局どうすれば良いものかと、彼女を眺めてオロオロしているだけだった。
ああもう、突然一体なんなんだ? そして、もう時間が無いって……なんなんだ?
少女の言ったその言葉が、真介は妙に引っ掛かった。
暫くすると、少女は落ち着きを取り戻したようで、ゆっくりと真介の方向に顔を向けた。
しかし彼女の瞳の奥は先ほどまで見せていた明るさが消えうせ、申し訳なさと悲しさが同居したような色が宿っていた。
一体何が少女にこのような悲しい表情をさせてしまっているのだろうか。
真介は、その理由を知りたいと思った。
「ごめんなさい。君は何も知らないのに突然怒鳴っちゃったりして……」
「ううん。大丈夫だよ。君こそ大丈夫?」
「ありがとう。うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
少女は、はにかみながら笑った。
「あのさ、気になったのだけど……もう時間が無いって言うのは一体どういうこと?」
しかし、真介が疑問に思ったことを尋ねると、少女の表情が曇った。
「……ごめん、それは言えないの。取り乱した自分が言うのもなんなのだけど、私が言っちゃ駄目な事になっているの」
「駄目な事? 誰がそんな事を決めたの?」
「ごめん、それも言えないの」「じゃあ、どうしてここに?」「ごめんなさい、それも……」「そういえばその制服はどこの……」「それも言えないの」「この辺に住んでいたの?」「ごめんなさい、それも言えないの」「えっと……」「だめ」以下エンドレス……。
矢継ぎ早に真介が質問する全ての疑問に、少女は事務的とさえ感じるように次々と拒否を入れていった。途中からあまりにもテンポ良く2人の会話が流れる事に、少女はノリと勢いでわざと後半は拒否しているのじゃないのかな? と真介の頭に疑問が浮かび、それを確認すべく彼は少女の顔をちらりと覗いてみた。
案の定真介の予想通り、そこには何だか意地悪な、それでいて生き生きとした表情を浮かべ嬉々として受け答えをしている少女がいた。
あ、こりゃだめだ。今だと何言っても拒否されるぞコレ。
さっきまで悲壮感さえ漂わせていたはずの少女のころっとした変化ぶりに「不思議な子だな」と真介は思わず苦笑いが漏れる。何かスイッチが入るとそれに夢中になって今までの事を忘れる友人がいたけど、この子もそんなタイプなのだろうか。初めて目撃したときに想像した、大人しくて、淑やかそうだと思っていた少女の性格とはえらい違いだった。
「えっと、じゃあ……何が僕に言えることかな?」
真介は少し間を空けた後「もう答えはわかっているけどね」と内心思いつつ、最後の質問を繰り出してみた。
「うん、特に無いかな!」
少女の満足そうな会心の笑みが広がった。親指までグッと立てているノリの良さだ。
が、すぐに「やっぱり」と苦笑いを漏らしている真介の姿に気がつき「しまった」と、慌てた様子で口を押さえた。
「あ、ごめん! うそうそ。本当は答えられるものもあるの。ついつい調子に乗っちゃって……ごめんね。やりすぎちゃった。気分悪くなっちゃったよね? ごめんなさい!」
少女は両手を顔の前にあわせて真介に謝った。
「いやいや、途中からなんだかそんな空気がしたから、最後まで付き合っちゃっただけだよ。僕の友達にも似たような感じの奴いてさ、そういうノリ嫌いじゃないから大丈夫!」
「友達? 女の子?」
少女は眉に皺を寄せ、勘繰るように真介を見つめた。まるで詰問するような口調だった。
「え? 男だよ?」
通っている高校が男子校な上に、中高一貫教育だったのだから、そんなに女の子の知り合いなんて居るわけないのに。
予想外の部分に突然少女が喰いついて来た事に、真介は不思議に思いつつも答えた。
少女は真介の答えに顔を輝かせると、嬉しそうに何度も頷いた後「良かった」と呟き、ドキリとするような可愛らしい笑顔を浮かべた。
「良かったって?」
少女の笑顔と意味を考えドギマギしながら真介は尋ねた。
すると少女は真介を焦らすように数歩無言でゆっくりと歩くと、くるりと悪戯っぽく白く可愛らしい顔を振り向かせ、真介に向かって愛らしく微笑んだ。
「それは……もちろん、君が私の大切な人だからよ」
2
「私、自分の名前覚えていないの。君、もし良かったら私に名前付けてくれない?」
ポツリポツリと明かりが灯る街灯の下をギュッギュッと踏みしめる音が響く。積もる雪に足跡を残しながら真介は道を歩いていた。隣では、現実には存在しない事を証明しているのだろう――音も無く、足跡も残さずに少女が真介の横に並んで楽しそうに歩いていた。久しぶりに雪を見たと子供のように無邪気にはしゃぐ姿が愛らしい。
そんな少女が、真介の方を振り向くとふと思い出したようにさらっと大変なお願いをしてきたのだった。
「名前? 覚えてないの?」
「うん。だから君に私に似合う名前付けて欲しいな」
少女のくりくりとした大きな瞳が、期待を込めた眼差しで興味深々に真介を見つめてくる。
真介はあまりにも突拍子の無いお願いに素っ頓狂な声を上げたが、少女の自分を見つめる視線に思い切り目が会うと、顔が真っ赤になり、照れを隠すように慌てて下を向いた。
吸い込まれそうな綺麗な瞳だったな――と間近に見た少女の顔を思い出し、真介は胸の動機の高鳴りを感じていた。
「本当に?」
「こんな事冗談で言うわけ無いじゃない」
「でも、僕なんかが名前をそう簡単につけて良いものじゃ――」
真介のもごもごとしながら呟いた言葉に少女の眉がピクリと上がった。
「だーかーらー! 私が君に名前をつけて欲しいって言っているの。そこに遠慮なんかいらないの。解った?」
「でも……」
犬猫じゃあるまいし、そんな簡単に女の子に名前なんて付けられないよ。ましてや本当の名前を思い出したときに、どうすればいいというのだ? 親から貰った大切な名前を差し置いておこがましいではないか。
「でも……じゃないの! もう……君って、優柔不断なんだね。そういう男の子は嫌われちゃうよ!」
真介が「でも……」の続きを頭の中で呟いていることに気がついたのだろう、少女はやれやれと首を横に振ると、真介を叱咤した。
「う……ごめん」
「そして、そこで謝らない」
ピシャリと少女に言われ、真介はぐぅの音も出なくなった。
さて、困ったぞ。
真介は思った。これでどうしても自分が少女の名前を考えなくてはならないのを感じた。
いや、実際は確かに、真介は名前を考える事に関しては嬉しくも思うところもあった。何故なら相手は自分の事を意味ありげに「大切」と言ってくれている可愛い女の子なのだ。
まぁ、その割にはなんだかちょっと酷い言われようをしているけどね。
真介の顔から苦笑いが漏れる。それでも悪い気はしないのは確かだ。
しかし、やはりそれ以上に名前をつけるということは特別な意味合いがとても大きく感じ、嬉しさよりもそのプレッシャーが勝ってしまうのだった。前に述べた考えもあるし、アレやコレや一生懸命考えても、少女が気に入ってくれなかったらそもそも元も子も無い。
真介はそう思いながらも立ち止まると、じっと少女を見つめた。
――この子に似合っている名前かぁ……。
「なあに?」
少女も真介が歩みを止めたことに気がつくと足を止め、不思議そうに顔を向けた。
降り注ぐ雪。ぼうっと明かりを灯す街灯に照らされ明るく微笑む少女。
しかしその少女は既にこの世には無く、恐らく何かを想い、心を残してここに存在し、今真介の前にいるのだ。その理由はまだ彼には何もわからない。真介の目に映る少女の姿はとても幻想的で綺麗で、それでいて何処と無く脆く儚いものに見えた。
そう、それは今まさに降っている雪のようだった。触れてしまうと、何も無かったかのように消えてしまうような……少女は明るく振舞っているように見えるのに、何処か危うく脆い何かを感じてしまうのだ。
「雪子……」
ぽつりと真介の口から自然と一つの名前が漏れた。
「え? なんて言ったの?」
「あ……うん、『雪子』ってどうかな? 名前。って……やっぱ駄目かな?」
「えー、今雪が降っているから『雪子』とか安直に付けたのじゃないの? とっても良い天気で燦々とお日様出ていたら『陽子』とか。春だったら『春子』。雨の日だったら『雨子』? ……って『雨子』はやだな、なんだか縁起悪そう」
やっぱりそう言われるか。真介は苦笑いを浮かべながら少女の顔を見た。
しかし、少女は言葉とは裏腹に嬉しそうに真介を見つめ笑いながら言葉を続けていた。
「でも、嬉しいな。名前ありがとう! うん。『雪子』私は『雪子』よろしくね」
少女は、真介の付けた名前を二度嬉しそうに呟くと後ろ手に組んでいた手を解き右手を差し出した。少女の言葉と態度に真介はみるみるうちに安堵の表情を浮かべた。少女は名前をなんだかんだで気に入ってくれたようなのだ。自然と笑みが毀れる。
「あ、僕は真介。仲谷真介って言うんだ。こちらこそ、よろしく」
真介も自分の名前を述べると、差し出された手と握手しようと右手を差し出した――が、その手は少女の手をすり抜けて虚しく虚空を握り締めてしまった。
「あ……」
真介が「そうだった」と苦笑いしながら手を引っ込め雪子を眺めると、雪子は差し出した自分の手を見つめ呆然としていた。
「雪子さん?」
一瞬「さん」を付けるか付けないか悩んだ真介だったが、女の子にいきなり呼び捨ては慣れ慣れしすぎると判断し「さん」を付けながら、心配して雪子を覗き込む。
「あ……ううん。そういえば、そうだったのよね。ごめんごめん。なんで握手なんてしようとしたのかな。ははは……」
呆然としていた雪子は、真介の言葉にはっと我に返り、慌てて右手を引っ込めると苦笑いを漏らしながら頭を掻いた。
しかし、彼女が何かショックを受けたのは明白だった。
頭を掻きながら苦笑いを漏らしている雪子の姿が悲しそうに真介の目に映った。雪子の瞳は潤み、今にも泣き出しそうに感じた。
「大丈夫?」
「え? 何が?」
雪子は自分の頭を一つ軽く叩くと、真介に向かって元気に笑った。
一瞬二人の間に沈黙が訪れた。
その沈黙に雪子は再び決まりが悪そうに頭を掻くと、頼りなく周りをキョロキョロと見回してからガクリとうな垂れ、小声でポツリと呟いた。
「ごめんね。ありがとう。……そっか私死んでいるから、幽霊だから、真介に触れられ無いんだね……当たり前の事なのになんだか凄くショックだったの」
真介は胸が締め付けられるような気がした。
しかし――これは仕方が無いことだ。と、真介は思った。生きているものと、死んでいるもの。その明確な境界線なのだから。
でも、もし雪子が生きているなら……きっと僕は彼女を抱きしめていたに違いないだろうな。
真介は本気でそう思った。
そのムクムクと湧き上がる雪子に対する男の性の衝動を真介は一生懸命抑えこんでいた。
剣道での黙想の修練の賜物だった。伊達に小学生の折から続けているわけではない。精神の強さは自分でも自信があった。
こうして真介は湧き上がった衝動を自制し鎮めると、次に雪子を励ます言葉を考えた。
しかし月並みなことを言っても、雪子が幽霊であることは変わりなく、真介は生きているのだからその辛さや寂しさを知っているわけでも無い。結局真介は、こういう時に何を言えば良いのか想像が出来なかった。
「あ、あの……雪子さん」
それでも何か言わなくては。そう思い真介が言葉を掛けると、雪子は顔を上げた。
その顔は、先ほどまでとは打って変わって、何か良い悪戯を思いついた近所の悪ガキそっくりな笑いを浮かべていた。真介は一瞬呆気にとられたが、すぐに嫌な予感が湧き上がってきた。
「ま、それならそれで、真介にとり憑いてそのままこっち側に来てもらえればいいんじゃない。うん。頭良いわね私。なんてったって、私の名付け親の癖に「さん」付けで他人行儀な真介にはそれぐらいやったって全然問題ないよね!」
雪子は一人「名案だ」と納得顔で頷くと、真介に向かってしらじらしく微笑んだ。
「問題あるわ! 有りすぎだって!」
ゾッとするような提案に慌てて真介が拒否すると、雪子はふふふんと笑いながら彼の間近に迫り、下から見上げるように覗き込んでニッと笑った。
「じゃあ、私の事「さん」付けじゃなくてちゃんと『雪子』って言ってくれる?」
「……え?」
真介の顔があっという間に真っ赤に染まった。
「呼んでくれるの? それとも……とり憑いて欲しいの?」
真介は激しく動揺しながらも雪子の「とり憑く」の言葉に大きくぶんぶんと首を横に振る。
「じゃあ!」
「で……でも、名前だけで呼ぶのって、ほら恥ずかしいし……」
「む。また優柔不断だ。……やっぱ、とり憑くべきかな。こう、じわじわと衰弱させて――」
「わ、解った! 解ったって」
雪子の言葉を遮った真介の顔は、耳まで真っ赤になって湯気が出そうな勢いだった。降り注ぐ雪も触れると一瞬で蒸発しそうなくらいだ。雪子はそんな真介の様子を楽しそうに見つめると、じゃあほら言ってみなさいよ。というように腰に手を当て、胸を偉そうに張った。
「じゃ、じゃあ言うよ?」
「うん! どーんと来なさい!」
「あー、ゆ……雪子」
真介は言った瞬間、ただでさえ熱くなっていた自分の顔が更に、蒸気が沸いた音が出そうなほどに強烈に熱くなるのを感じた。あまりにも急激な熱の上昇に頭がぼーっとしてしまう。
こ……こんなに名前を呼ぶ事が照れくさいものだとは。
想像で思っていたよりも遥かに厳しかった。
お気に入りの少年漫画の主人公は、突然出会った運命の恋人に対してすぐに名前だけで呼んで恋人を真っ赤にさせて居たというのに。あれは格好良かった。しかし、僕はその漫画の主人公とは間逆では無いか。出会った女の子に叱咤されて脅されて、真っ赤になりながらやっと名前で呼ぶなんて、あまりにも違い過ぎて情けなさ過ぎて……泣けてくる。
真介はそのあまりにも情けない姿を考えてしまうと、雪子に呆れられてるんじゃないだろうか? と怖くなって身が縮む思いだった。しかし、そのときわずかに鼻をスンと啜る音が聞こえた気がしてハッとなって顔を上げてみた。
すると、真介の目に意外な光景が飛び込んできた。
そう、胸を張って偉そうにしていたはずの雪子の顔までも耳まで真っ赤に染まって、恥ずかしそうに俯いていたのだ。
え? ちょ、ちょっと……。
「あ、こら! こっち急に見ないでよ。真介の照れが移っただけなんだから。別に、何かあったわけでもないし、えっと……あの……その……とにかくこれは違うの! わかった?」
真介が自分を見ていることに気がついた雪子は慌てて真っ赤になった顔を隠すように手をバタバタと振って必死に口から漏れ出るままに言い訳を連ねていた。
雪子のその態度に、真介は思わず吹き出して笑ってしまった。
なんて事は無い。実は雪子も恥ずかしがっていたのだ。慣れていない事がばれたくないから少しお姉さんぶっていただけなのだ。
そう思うと、真介は雪子をとても身近に感じた気がした。
「な、なによー」
突然真介が笑い出した事に、意味が解らず雪子が不機嫌そうにふくれた。
「ううん、なんでもないよ」
「えー?」
「本当だよ、雪子」
言った傍から真介はまた真っ赤に顔を染めてしまった。しかし、それは雪子も同じことだった。二人はその後暫く沈黙したものの、お互いの顔を見やって大きく笑いあった。
「こ、これはちょっと慣れるのにまだ掛かりそうだね」
笑いながら真介が呟くと、雪子も諦めたようにこくこくと何度も頷いたのだった。
「あのね、真介。お願いしてもいい……かな?」
再び真介が歩き出し、その隣をふわりと雪子は並びながら付いてきている。その途中、雪子はおずおずと真介に声を掛けた。
「ん? なに?」
真介は、歩きながら横にいる雪子の方を見た。雪子は真介と目があうと満面の笑みを浮かべた。真介は真っ赤になると慌てて視線を逸らし、コホンと一つ咳払いをした。
う、やっぱり可愛い……。
どうしてこの子が幽霊なんだ? 生きていたら、実はとても美味しい事だったのじゃないのか? 女っ気の無いまま十七年間生きてきた僕に最高のチャンスが訪れているのかもしれないというのに!
切実に真介は思った。
いや、まてよ? 前向きに考えるんだ。こんな可愛い子と――いくら幽霊だとしても一緒に今歩いて、そして名前を呼び合う関係になっているんだ。それだけでも奇跡に近いじゃないか。それに、もしかしたら、すでに彼女は僕に惚れていて、僕に話しかけて貰うのをずっと待っていたんじゃ? こんな雪の降る日までずっと……やっべ、僕って罪な男なんじゃ?
ドラマティックな物語が頭に浮かび、真介は興奮した。
――あ、でもそうなるとこの半年間はどうなるんだ? それに彼女は言っていたじゃないか「どうしてもっと早くに気付いてくれなかったの?」って。あれって別に、僕を待っていた口ぶりではなかったよね。気が付いてくれる人なら誰でも良かったような言い方な気がした。っていうか、そもそも僕が彼女の事を気が付いている事に気が付いた彼女が向こうから話しかけてきたのがきっかけだったし……。
それに名前だって、よく考えなくても僕が付けた名前であって本当の名前は知らない……というか、あれ? よく考えたら僕、彼女の事全然知らないぞ?
「あ、あはははは……」
乾いた笑い声を出して、勝手に盛り上がっていた真介は、今度は一人勝手に落ち込んだ。
「? どうしたの真介?」
一瞬で浮き沈みを見せた真介のめまぐるしい感情の変化を、雪子は不思議そうに眺めながら呟いた。
「な、なんでもないよ? あ、それよりもお願いって何?」
そうだ、別にまだ会ったばかりなんだからこれからゆっくりと彼女の事を知っていけば良いじゃないか。落ち着け自分。何にせよ焦ってはいけないとは言うものでは無いか。
雪子は、暫く真介の顔を覗きこみながら考え事をしていたようだったが、一つ小さく頷くと口を開いた。
「ねぇ……これから、ずっと真介に付いていって良い?」
「憑いて?」
真介が、恐ろしげにゴクリと唾を呑み込んだ。
「ちょっと! 字が違う! 字が違う! ずっと付いていって……ずっと真介の傍に居てもいい? って聞い……て……いる……の」
真介の漢字間違えの誤解に、雪子は慌てて否定して言葉を続けていたが、最後の方はもう真っ赤になって下を向き、ぼそぼそと呟く言葉が聞こえなくなりそうなくらい尻すぼみになっていった。
「え? ずっと一緒にって……まさか、これから僕の寮に……もしかして……来るの?」
あまりにも唐突な話に、真介の思わず上擦った声が漏れた。全く予想していなかった雪子の話にドキドキと心臓が破裂しそうなくらい高まっていくのを感じる。
いや、そんな……でも、まさか!
十七歳の多感な少年の空想が、妄想になっていく瞬間だった。
「……うん。行ってもいい……かな?」
そんな真介の妄想を知ってか、知らずか、雪子は恥ずかしそうに顔を赤らめながら頷いたのであった。
「ま、まじですか……」
仲谷真介。高校二年、十七歳。まさかの美少女幽霊お持ち帰りの瞬間であった。
3
気がつけば、耳の奥に遠くから喧しく鳴り響く目覚まし時計の音に混じって女の子の声が聞こえてきた。
まだ眠いと訴える真介の意識を妨害する、耳障りな音がはっきりと聞こえるようになると、真介はうつ伏せになったまま手を伸ばし、枕元にある目覚まし時計のボタンを乱暴に押して止めた。そして再びぱたりと枕に顔を埋める。
寒い……。
ひんやりとした空気がベッドの隙間に潜り込んできた。
……少し動いただけでこれだ。
思わず掛け布団を握り締める手に力が入り、包まりたくなる誘惑が強烈に湧き上がる。
今日もまた一段と冷えた朝を迎えたようだった。
「ほら、真介。起きて。もう剣道部の朝錬の時間だよー」
もうちょっと温まりたい。まどろみたい。そういう気持ちが瞼の重さもあって強く湧いている中、今度ははっきりと耳元から女の子の声が聞こえた。
すると、真介は思い出したようにごろんと仰向けになり、ようやっと目を明けた。
「おはよう」
雪子が、真介の顔を覗きこんで笑っていた。
「おはよう……」
「もう五時半だよ。真介、道場には六時には入るって言ってたよね? もう起きないと!」
「う……うん……」
雪子に促され真介はベッドから起き上がると、電気をつけベッドの中に制服を入れた。そのまま重い足取りでパジャマ姿のまま洗面所に入り、歯を磨き、顔を洗う。強烈に冷えた水道水を顔に打ちつけると、重たかった瞼も、眠気も完全に吹き飛んでいた。寒さで鳥肌も立つが、きりりと気持ちが引き締まる。
どれだけ寒くても、顔を洗うときは冷たい水で無いと駄目だ。
そう両親に教えられ、自分自身もそれは当然だ。お湯で顔を洗うなんて邪道だよね。と、決めている真介は、自分の顔が引き締まったのを鏡で確認すると頬を軽く叩いて部屋に戻った。
さぁ、今日も一日頑張りますか。
少しだけ温まった制服を自分の布団から取り出すと、まだ温もりが残っている布団にもう一度入りたい誘惑に駆られたが、ぐっと我慢した。
「今日も空気が澄んでいるから外、すっごく寒いかも」
雪子の言葉に真介がカーテンを開けると、まだ朝とは言い難い暗闇が外の世界を覆っていた。すこし離れた県道にトラックが走っている音が響いて伝わってくるくらいだった。
二月も後半を過ぎ日の出は六時を過ぎた辺りに昇ってくるようになったものの、まだまだ剣道部の朝錬前に日差しを浴びて爽やかな気持ちになれる春の木漏れ日が訪れるのは遥か先のようであった。
真介が何気なく窓を開けると、とてつもなく寒い空気がどっと勢いよく流れ込んできたのを肌で感じ、慌てて閉めた。
「うん――というか既に猛烈に寒いって!」
「あはは、確かに。今の真介の顔見てたら解るよ。面白い面白い」
「ううう、一気にまた身体が冷えたよ……」
「窓開ける方が悪いでしょー」
真介は、ごもっともです。と頭を下げガクリと頷いた。
暫く身体を揺すって体温を上昇させると、カッターシャツを広げてから雪子を見た。
「――さてと、それじゃあ僕は着替えるから」
「はーい。じゃあ、私は外で待ってるね」
真介が雪子と奇妙な同棲生活を送るようになってからすでに二週間が過ぎようとしていた。
真介が当初妄想してしまっていたような夢のような展開とはかけ離れ、むしろ正反対の生活を強いられることになってしまった事実に気がついたのは、一緒に暮らすようになってすぐの事だった。
雪子が常に傍に居るということは、常に真介は雪子に自分の行動を見られている――という事に気がついたのだ。そしてその事実は、そこに何も悪意はなくても真介に対して相当なプレッシャーとなってのしかかっていた。部活に行くのも、授業も、そして、私生活も。真介が一人で自由になる時間はトイレとお風呂と着替え位で、それ以外の事では雪子は常に真介と一緒に居ることを望まれると、真介も無下には断れなかったのだ。
その為、真介がふわふわと飛んでいる雪子の短めのスカートが気になったとしても、発散は剣道の鍛錬等で果たすべきで、 すぐ近くにいる雪子にやましい気持ちを悟られるわけにはいかない、と一生懸命自分を抑える事に必死だった。
これは思春期真っ盛りの真介にはとても厳しい苦行であった。
この事に関しては、真介は雪子が幽霊でいてくれて良かったと感じていそうな位だった。
……に、人間と幽霊の境界線万歳。
心の中で血の涙を流しながらも、自分自身の理性の壁となってくれている。この事実に真介は支えられつつ、今日も雪子に対して紳士であろうと頑張っているのだった。
でも、まぁ……悪いことばっかりじゃ無いけどね。真介は思った。
雪子と交わす、朝の「おはよう」は今までに感じた事が無いくらい新鮮で、嬉しかった。毎日目を明けたらそこに雪子の顔があって微笑んでくれている。それだけで幸せな気分になれた。
そして、雪子ではページが捲れないからと二人で寄り添って真介がページを捲りながら読む漫画や小説。雪子が気になる漫画のページを真介がゆっくりと捲るたびに真剣に覗き込む彼女の横顔があまりにも可愛くて、気のせいだとは解っていても、良い香りと柔らかさを感じてしまうのだった。
「わー、私この漫画の初めの頃読んでたよ! そうそう、謎の赤マント仮面がクラッツ君のお兄さんだとは思っていたけど、まさかお父さんまで青マントに仮面つけてクラッツ君助けている展開になっているとは思わなかったわ。でも……仮面とマント以外そのままなのに、何故正体気がつかないのか本当わかんないわ。お父さんなんて、ほら髭もそのままじゃない」
「いや……そこは暗黙のルールってやつにしておこうよ」
漫画のキャラクターを指差して無邪気に微笑んでいた雪子を思い出すと、真介は自然と相好が崩れてしまうのだった。もう、二人は本当の恋人同士に思えてしまう。
しかし……
真介の顔が少し曇った。頭の中によぎる雪子の悲痛な声。
「もう時間がぜんぜん無いじゃない!」
あの言葉を思い出す度に、この生活が本当は長く続くものではない、と頭の片隅で何かが警鐘を鳴らしてくれていたのだ。
そして、それは間違いないとも確信していた。
だけど、そうはさせたくない。いろいろ確かに不便な事もあるけれども、雪子とこのままずっと居たいという気持ちが、日が経つにつれて真介の中にむくむくと膨れ上がっているのだ。
だが、この一番真介が気になる『雪子の事を調べる』事に関しては、何も進展していなかった。質問に答える事が出来ることもあるとは言っていたものの、相変わらず何処の生まれで、何処の高校に通っていて、何故幽霊になったのか。という疑問は何も解決しておらず、雪子について知らないことだらけなのは何も変わっていない。
ならば! と、個人で調べて見ようとも思わないでもないのだが、それは雪子が常に傍に居ることでほぼ封じられてしまっていた。まさか、本人の前で色々調べようと思うほどの度胸なんて持って無い。そんな事をして雪子に嫌われたくなかった。
でも、雪子のあの時に上げた声が嘘なわけが無い。あれ以来この話は全く出ることも無く、むしろ彼女自身が避けている印象もある。きっと何かがあるに違い無いのに、それを真介は教えてもらう事が出来ないのだ。時々見せる寂しげな表情に何か秘められたものを感じるというのに。恐らく何らかの事情で話せないのだろう。真介は考えていた。
僕が、絶対に気がつかなくてはいけないのだ。雪子の存在に気がついたという僕が。それをきっと雪子は待っているのだと思う。
僕がしっかりしないと!
この地上に何かを残し、存在している雪子の理由を。僕は必ず雪子の叫んでいた時間内に見つけてみせる。雪子を守るのだ。そして本当に一緒に居られるようにするのだ。
真介は決意も新たにマフラーを首元に巻くと、コートを羽織り、ドアノブを捻ると外へと向かった。
「ねえ、もうすぐ三年生は卒業式なんだよね?」
「そうだね、三月一日までもう一週間切ったんだよな……卒業式で先輩達を見送って、その次は学年末試験を終わらせて、そしたら短いけれども春休みだ!」
吐く息は白く、ところどころに出来ている霜柱をサクサクと踏み潰す感触を楽しみながら真介と雪子は学校に向かって歩いていた。竹刀の先にぶら下がる防具が、真介の肩にずしりとのしかかっているようだが、慣れた様子で足取りは軽い。
真介は春休みの言葉に語気を強め、にっこりと笑った。休みが待ち遠しくて仕方が無い、そんな様子だった。朝錬はあるけれども、授業が無いのが何よりも嬉しいことだった。まぁもっとも学年末をそれなりに頑張らないと、補修があるわけではあるが。
「春休み……か」
真介の言葉を繰り返すように、ぽつりと雪子も呟いた。
「ん? どしたの?」
真介の足が止まる。雪子の表情が曇った事に気がついたからだ。
すると、雪子は慌てて笑顔に戻して言った。
「んーとね、何処か行きたいなぁ」
「何処か? 春休みに?」
「うん。あ、別に春休みじゃ無くてもいいから。出来れば電車にも乗りたいな。そして、ここから少し遠い場所まで出かけてみたい……って思っちゃったり。駄目……かな?」
雪子は上目遣いで真介を見つめた。
「おー、いいね。雪子がここから離れても大丈夫だったら行って見る? 池袋とか、新宿とか」
真介は雪子に微笑み返す。
「いいの? 池袋には行ってみたいな」
「当たり前じゃん。というか、毎日毎日学校、剣道ばっかり見てるだけじゃ雪子もつまらないでしょ? 僕も雪子と出かけてみたいと思ってたし。デートしようよ、デート!」
デートと連呼した真介は照れながら恥ずかしそうに笑った。
そういえば、出会ってから今までデートのような事をした事が無かった。これは丁度いい機会かもしれない。真介は思った。
「うん。あ、でも毎日真介の練習を見てるのも楽しいよ? よく打ち込まれてるし。ボコボコって」
雪子も嬉しそうに頷いた後、面を打つ構えを見せてニコッと笑った。
「た……楽しいって。それは楽しいのか……な? あれ、見た目よりも凄く痛いんだよ。面を決められたときなんて鼻血出そう、って思うくらい衝撃来るし――って、話が逸れてる。じゃあさ、出かけるの早いほうが良いと思うし明後日の土曜日に行って見ようか?」
「おお? さ、早速?」
「うん。やっぱり思い立ったときに行っちゃうのが良くない?」
「む、なんだか真介が積極的だ。珍しい……」
雪子は目をぱちぱちとさせながら真介を見つめていたが、最後にコクンと頷いた。
4
二人で出かける約束をした土曜日は、初デートを祝ってか気持ちの良い位の晴天だった。その分朝の気温はシンと冷え込んでいたのだが、二人が昼前に池袋駅に到着し、地下道を土曜日ということで溢れかえっている人ごみの中に混じって歩き辿り着いた先の階段を昇りきると、春の足音が聞こえてきそうなほど穏やかで温かい陽気が迎え入れてくれていた。
二人の視界に広がったのは、地下に勝るとも劣らない人の群れと、綺麗に揃えられたタイルの大地。そして、均等な間隔で植えられた樹木達だった。前を見ると、信号が赤の為に多くの人が横断歩道前で足止めされていた。余程急いでいるのだろうか。その場で何度も足踏みをしている人も目に入った。
横断歩道の先には、歓楽街が並び、少し上を見上げるとサンシャイン60の建物が聳え立っているのが見える。
「すっごーい……やっぱり都会って感じがする」
「でしょ? 電車に乗って三十分足らずでこんなに景観が変わるのも凄いよね」
真介は、携帯電話を耳に当て、電話に話すふりをしながら雪子に目配せした。
沢山の人が存在する都会の中で、真介が雪子と話をするのは、一人で独白しているように周りに見られ、不審者に思われるかもしれない。では、普通に話して不審者に思われないようにはどうするべきか、と真介が考えた上で思いついた作戦だった。
どうやら作戦は上手く行ったようで、周りの人々は何も思ってはいないように、特に関心も無く足早に過ぎ去っていく。もし立ち止まられて細かい会話の内容まで聞かれたら困るかもしれないが、そんな他人の会話をずっと聞こうとする人など皆無に思えた。
「これで結構安全に話せそうだね。電車内ではマナー違反と言われるけど、こういう場所だったらいっぱい普通に話そう。遠慮せずに見たいもの言ってね、雪子。どんどんいっちゃおう! とことん付き合うよ。いっぱい話して、いっぱい見よう」
「うん! ありがとう、真介。……本当にありがとう」
真介は話を終えると屈託の無い笑顔を雪子に見せた。雪子はその笑顔をまともに受けると、真っ赤になりながら嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えてあの大きなビルが見える方に行きたいかな……」
「オッケー。もともとそのつもりだし、いっちゃいますか!」
「おー」
信号が青になったのを見届けると、二人は他の通行人に混ざり横断歩道を渡り、賑やかな音楽で溢れかえっている歓楽街方面へ歩き出していった。
デートは雪子が見たい、といった場所には必ず足を運び二人で見て楽しみ、他にはよく真介が友人と遊びに来たときに廻る池袋巡回コースの中で、携帯電話を持っていても大丈夫な箇所を考え雪子をリードして巡った。
脇に少し逸れた場所にあるゲームセンターに入って、爆音を奏でている備え付けの銃を構えて、襲ってくる敵を撃ち倒すゲームをプレイして見せたりすると、雪子は嬉しそうに真介の傍で声援を送ってくれて真介は嬉しくなった。結局は良いところを見せようとしすぎてステージ2であっという間にゲームオーバーになったのだが、それでも雪子は「面白かったよ」と笑ってくれていた。
そんなデートであったが、真介は雪子と話せなくなる地下街や、ウインドウショッピングがメインになる場所には決して足を踏み入れ無かった。
本来ならきっと女の子はそういう場所へ行った方のが喜ぶのだろうけどね……と、真介は申し訳なく思っていたのだが、そんな真介の考えを吹き飛ばすほど雪子は本当に楽しそうだった。そして、その笑顔を見れることで真介も幸せな気分になれた。
もしかしたら雪子にとって場所は何処でも良かったのかもしれない。二人で歩き、いつもとは違うものを一緒に見て、話せる事が大事だったのだ。
「ごめん。やっぱりあの映画……ちょっと見たいかも……」
そんな中歓楽街に再び戻ってきたときに雪子は、シネマサンシャインに掲げられた映画タイトルを眺めながらもじもじと呟いた。
「映画? 話せないけど……いいの?」
「うん。真介のお小遣いに余裕があるならの話だけど、アレ見てみたいなって」
雪子が指をさしていたのは、不慮の事故で死亡した主人公が、絶望し悲しみから立ち直れなくなった恋人のもとにみるにみかねて幽霊となって現れるという話題の作品だった。
真介が寮の食堂のテレビで見たこの映画の宣伝では、恋人は主人公の出現に大変喜び、いつもどおりの生活を送ろうとするが――本来死んでいる主人公が、恋人を幸せに出来るわけも無く、自己との葛藤の中で、本当に人を愛すると言うことは何かを見つけ出していく――とかいう話だった。今年度bP作品。アカデミー賞候補筆頭。全米が泣いたという作品だ。ちなみに、この謳い文句の映画は今年だけでも6つめだったような気がする。
やっぱり来たか。真介は思った。
行きの時から、雪子はこの映画に対して気にした様子を見せていたからだ。
真介も確かに前々からこの映画は気にはなっていた。なによりも自分たちの境遇に近いものを感じたからだ。
しかし、だからこそ結末を知りたくない気もする映画だった。
「やっぱり……駄目かな? 悲劇だよね。きっと……」
真介の考えている事に気が付いた雪子は、力なく言葉を吐くと下を向いた。諦めにも似た空気が彼女の廻りを覆っていく。 やっぱり幽霊と、人間で幸せになんてなれるわけが無い。暗にそう語っているようにも真介には見えてしまった。
「いいよ。見に行こうよ。悲劇だって、喜劇だって何だって良いよ。もしかしたら僕達のヒントがあるかもしれない。それに……僕は絶対に悲劇になんかしないよ」
真介はにっこりと笑って、雪子に右手を差し出した。
「真介……」
もちろん、雪子はその手に触れることは出来なかったが、ゆっくりと自分の手を真介の右手に合わせる。二人の手はしっかりと掴み合った様な気がした。雪子の顔にも笑顔が戻る。
そのまま二人は顔をあわせて微笑んだ。合わせた手はそのまま握りしめられたように繋がっていた。
――そして2時間後
ただただ純粋に泣きじゃくりながら映画館を後にする高校生と、幽霊の少女が居た。
ヒントを探す、などの考えはあっという間に吹き飛び映画の世界にのめり込んだ二人は最後の切なく、温かい世界に心が震えていた。それは決して二人の望んでいたような結末ではなかったのだが、決して悪い事ではなく――考えさせられる何かと、じわじわと来る後味の良さに、二人は酔いしれてしまったのだ。
「やっぱり親友も、恋人の事が始めから好きだったんだね」
「うん。そして親友だからこそ任せる事が出来ると……本当はずっと恋人の事が好きなのに無理してまで協力した主人公。どうしてあんな事が出来るのだろう、本当は取られたくないのに」
グズグズと鼻水を啜りながら真介と雪子が映画の感想を二人で言い合いつつ歩いていたが、真介はふと空を見上げて足を止めた。
「わ、もう夕方か……早いね」
「本当だ。もう暗くなってきてる……」
「そろそろ寮に戻らないとやばいかな。やっぱり休日は時間経つの早いね」
お互いが顔をあわせてにっこりと笑う。今日は本当に楽しい日だった。真介は思った。
「楽しかったよ、雪子。またこうやって遊びに来ようね」
「うん。私も楽しかったよ。真介ありがと――」
真介に向かって心底楽しそうに微笑んでいた雪子の表情が突然凍りついた。
「?」
雪子は遠目に映る何かに気が付いたのだろう。目を大きく見開き見つめ、それを確信すると、身体が怯えるようにガタガタと震え出していた。
「黒……」
雪子は唖然として呟く。その急激な変化に、真介は慌てて自分の後ろを振り返った。
多くの人々が無関心に通り抜けていく中、そこには一人明確な意思を持って自分たちを見つめている小柄な男の姿があった。
黒い喪服姿。後ろに揃えた白髪からして老人であるのは間違いないのだろうが、背筋をピンと伸ばし、しっかりとした足取りでこちらに向かい歩いてくる。
真介はその老人から得体の知れない禍々しいものを感じ身構えた。しかし、老人は真介には興味が無い、というように簡単にすり抜け雪子の前に立つ。そして、くっくと口の端を歪めて厭らしく笑った。
「やっと見つけましたよ――さん。まさかこのような近しい場所にいらっしゃったとは。もっと遠くにお逃げになられているかと思いましたのに。これで勝負は私の勝ちと言う事で宜しいでしょうか? 誠に残念でございますな。折角動けるようになられましたのに、私の方に見つかるとはねぇ」
真介には老人が呟いた、雪子の本当の名前であろう部分が何も聞こえなかった。どれだけ耳をこらしても、まるでテレビやラジオで聞こえるようなザーというノイズ音が響くだけだった。
「あ……あ……」
怯えきった表情で雪子は声を絞り上げていた。
その姿を見た瞬間、真介は自分のやるべき事を思い出した。
話を盗み聞きすることよりも、今怯えている雪子を助けるべきなのだ。
「おい! 爺さん」
言いながら、真介は背中を向けている老人の肩を掴もうとしたが、老人の肩を掴んだはずの手はすり抜け虚空を掴む。
「!」
その瞬間に、真介は喪服の老人もこの世の者では無い存在とやっと気がついた。
「おや?」
しかし、このアクションは無駄ではなかった。老人もその時、真介の存在に気がついたようで、ゆっくりと後ろを振り返る。そのまま体勢を崩してもたついている真介を一瞥した。
「おやおや、――さん。一応たらし込むお相手は見つけておいででしたのですか」
にやにやと厭らしい笑いを再び浮かべ、老人は馬鹿にしたように呟く。
「ふむふむ、こちらとしてはそれを使われる事もまた一興。すぐに実行するよりも、その方があなたの考えが見えますでしょうし……畏まりました。どちみち、もう私が――さんを発見したのは事実でありますし。それならば、いま暫く我々はお待ちいたしましょうかね。今回はそこの少年に感謝するのですよ」
「何を言ってるんだ? 雪子は絶対僕が守るよ」
体勢を立て直し、立ち上がった真介は老人と雪子の間に入り宣言した。底の知れない禍々しい雰囲気を纏った老人とまともに応対すると、無意識に足が震えていた。
「ええ、勿論楽しみにしておりますよ。少年」
老人は嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。
しかし、その好々爺とした笑顔とは裏腹の侮蔑した、まったく笑っていない瞳が全てを物語っている気がした。ゾッとした感覚が真介の背中を走り抜ける。
老人はそんな真介にはもう用は無いと、肩越しに雪子を見つめ、目を細めた。
「――さん。この可哀想な少年にせいぜい今のうちに甘い汁を吸わせてあげるのですね。貴方に騙されていたと心から知った時の、せめてもの救いを……ね」
「そんな! 私は……」
「騙しているつもりなど無い。と仰るつもりですか?」
くっくと再び笑う。
雪子は、そのまま唇を噛み締めて押し黙った。
「騙された?」
訝しげに真介が呟くと、老人は大げさに首を横に振った。
「いえいえ、申し訳ございません。少年。まさか――さんに限ってそのような事など御座いませんよねぇ。私の言葉などお気になさらずに、今後とも――さんをよろしくお願いしますよ。貴方次第で――さんの運命は決まってしまうのですからね」
「ああ、勿論だ。言われるまでも無く。それに、雪子が僕を騙しているわけなんてない。そんな事が出来る子じゃないのは僕が良く知っている」
ちらりと見た雪子の瞳が、真介の言葉を受け涙で滲んで行くのが見えた。
「ほほお。関心関心。ここまで既にたらし込んでいらっしゃるとは。侮れませんね。――さん。これは益々楽しみになりましたな。ではでは、このような事でお二人のお時間を使わせてしまうような無粋な事は致しません。私はこれにて失礼します。ごきげんよう――さん。少年。お二人の幸せを心から願っております。短い期間では御座いますが、存分にお楽しみください」
老人は深々とお辞儀をすると、そのまま大地に溶け込むようにすうっと消えてしまった。
たちまち、胸を締め付けるような異様な圧迫感から解放される。暫くすると、真介も現実感のある街の喧騒と人の群れが認識できる余裕が戻ってきた。
真介は一つ大きく深呼吸をした。
「な……なんだったんだ? 今のすげー嫌味な爺さんは」
苦笑いが漏れる。
真介は雪子も同じ事を思っているに違いないと思い、同意を求めるように後ろを振り向いた。
しかし、そこには真介の予想とは全く違う様子の雪子が居た。地面にへたり込んで呆然としている雪子の姿が真介の目に飛び込んできたのだ。
「雪子?」
問いかける真介の声は雪子には届いていないようだった。雪子はただ呆然としたまま、口から言葉が漏れ出していた。
「まさか……まさか黒に見つかるなんて……」
「雪子?」
もう一度問いかける真介の心配する声はまだ雪子に届かず、彼女の独白は続いた。
「どうして? どうしてここに黒が居たの? 安全だと思ったのに……。私の、私のせいで真介が……真介が認識されてしまった。どうしよう、どうしよう……どうしよう……」
言葉を吐き出し終わると、みるみるうちに雪子の顔が憔悴していった。唇がわなわなと震え、目が何処を見るでもなく見開かれたまま所在無くキョロキョロと動いている。
「雪子!」
見かねた真介が大声で雪子の名前を叫んだ。廻りの通行人が何事だと、真介のほうを認識し、迷惑そうな、醒めた視線を投げかけてきたが、今はそれどころではなかった。
「し……真介? ……あああぁあぁあああっ!」
真介の声に雪子は、はっと顔を見上げた。次の瞬間、彼女の目から涙がとめどく溢れ、声にならない叫び声を上げると、再び蹲った。激しい嗚咽が漏れ聞こえる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「ど、どうしたんだよ……雪子。しっかりしてよ……」
真介が、狼狽しながら声を掛けるも、少女は蹲ったままだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、真介ごめんなさいごめんなさい……」
池袋の夕刻。誰にも聞こえない、少女の悲痛な謝罪と慟哭は果てしなく続いていた。
5
「雪子大丈夫? 顔色が真っ青だよ?」
「うん……」
真っ赤に腫らした目。憔悴しきった顔。真介の目から見ても雪子の異常は明らかだった。
弱々しく、ふらふらになりながら付いてきている雪子に、手を貸す事が出来ない自分を真介は恨んだ。
一体、あの爺さんとの間に何があるというのだ?
楽しく二人でデートをしていた最高の一日のはずが、最後の最後にとんでもないアクシデントが待っていた。
見つけたと老人が言い、見つかったと雪子が言った。
雪子のあの怯えよう。その態度が、あの喪服の老人は歓迎されない存在であることを示しているのは間違いなかった。
そもそも……真介は思った。
老人の動きは優雅で紳士的な感じだったが、言葉の端々にひっかかる嫌味というか、常に上から目線で相手を小ばかにした態度はどう考えても好きになれない。きっと雪子に対して、なにかしら弱みを握って脅しているに違いないだろう。
そう考えると、あることに気がつき真介はハッとなった。
……これはもしかして、あの老人こそが、初めて雪子と出会ったときに「言ってはいけない」と何やらルールを決めさせている黒幕だったのかもしれない。そして――雪子に『時間が無い』と言わせている存在なのかもしれない。
そうであれば納得が行く。あの禍々しい気配。暗に臭わせた不幸の予感。全てが、あの老人が仕組んでいる事ではないだろうか?
「そうか……あの爺さんを何とかすれば、雪子とずっと一緒にいられるのか」
しかし真介の呟きに、雪子が力なく首を横に振ったのが目に入った。
「無駄よ」
言葉と共に、深い深い溜息が漏れた。
……僕だって何か出来るかもしれないというのに、この溜息だ。
その絶望を、無力を感じさせる独りよがりな溜息は真介をイライラとさせた。
何でいきなり雪子はこんなに弱気になってしまったのだろうか? まるで人が変わってしまった。たった一度老人に会ってしまっただけだというのに。
「どうしたんだよ、雪子。らしくないじゃないか」
「らしくない? らしくないって何よ!」
真介の険が入った言葉に、雪子の眉もピクリと釣りあがった。
そのままつっけんどんに返してきた雪子の声に、今度は真介の眉間に皺が寄った。
「何でそんなに子供みたいに拗ねているんだって言ってんだよ!」
「拗ねてる、ですって? 私は拗ねてなんか居ません。ただ――」
言いかけて、雪子は口に手を当てて押し黙った。
「ただ――なんだよ? 僕が、言ってやろうか?」
真介の挑発的な態度に雪子は強く彼を睨みつけたが、一度火がついた真介の感情の言葉は止まらなかった。
「諦めているだけなんだろ? 何でかわかんないけど、あの爺さんに会ってしまって、それで『もうお終いだ』見たいな情けない顔して。見つかった? じゃあ逃げれば良いじゃないか。何もしないうちから諦めてしまうなんて情けなすぎるよ」
「な……情けないですって? よくもまぁ、言えるわね。気楽なものね! あなたは何も知らないからそんな事がいえるのよ!」
「ああ、知らないね。知らないからなんだ? 知っていたら諦めてもいいっていう理由もないだろ! それだったら知らない方がマシだね」
「たった二週間ちょっとしか知らない人間が適当に言わないで! 簡単に物事がどうにでもなるなんて思っていて……虫唾が走るわ! もういいわよ。今までどうもありがとうございました! 御迷惑をお掛けしました。もう私の事は放っておいてください!」
雪子の拒絶の言葉に、真介は冷や水を掛けられたような情けない顔になった。
雪子の事を思って敢えて強く言っていた真介の気持ちが、雪子のその言葉の前に跳ね返され全てが届かずに崩れ落ちた気がした。心が大きく抉られ、ぽっかりと空いた感覚が広がる。
「な……なんでそんなこと言うんだよ! 僕は雪子の為を思って……」
「もういいの。恋人ごっこなんてもういいの。私に構わないで! もう終わりなの。私の事なんて忘れてくれていいんだから!」
雪子の言葉は、すがりつくような思いになった真介を叩き落そうと容赦なく覆いかぶさってきた。激昂している雪子の言葉どおり彼女の居なくなった世界をイメージし真介は絶望しそうになる。二週間前の雪子を知らない生活に戻る事が、とてつもなく恐ろしく感じた。
真介は、このともすればあっという間に絶望しそうな気持ちを振り落とそうと頭を強く振って冷静になろうと勤めた。そして雪子を真剣に見つめた。
雪子の言葉どおりに受けとっちゃだめだ。きっと無理しているだけなんだ。
真介の見た雪子の小さな身体は小刻みに震えていた。しかし、それは怒りからだけではないようだった。雪子は言葉とは裏腹に、後悔と悲しみが同居した瞳の色をたたえていたのだ。まるで捨てられ、震えた子犬のような目だったのだ。
ああ、そうか。
その瞳を見つめ、真介は胸が苦しくなった。苦しんでいるのは自分よりも彼女の方なのだ。その事を忘れて、嫌味を言ってしまった自分を真介は恥じた。
「『ごっこ』なわけないよ」
落ち着いた声音で、真介は口を開いた。
「な……なによ」
「僕が、雪子の事を大事にどれだけ思っているか知って欲しい。雪子が傷つくことは聞かないと勝手に決めてたけど……それでもなんとか雪子の出すサインを見つけて、助けたいと思っている僕の気持ちが『ごっこ』なわけないだろ?」
語りかける真介の優しい声音が、雪子を狼狽させていた。怒りの感情で昂ぶっていた口調がトーンダウンしていく。
「真介……」
「僕はそう思っている。強く思ってる。雪子はどうなんだ?」
真介の、強い瞳をまともに見つめた雪子はややあって視線を逸らすとポツリと呟いた。
「……聞いてくれなかったじゃない」
「は?」
「だから、『聞かないって決めて』って、私の事を何も聞いてくれなかったじゃない!」
……なんで逆切れ? 避けていたのはそっちじゃないか! 僕はいつだって雪子の事を知りたいと思ってたのに。
雪子のこの言葉に再び真介はカチンと来た。
「初めて会った時に聞いただろ? あの時に教えられないって言ったのは何処の誰だよ!」
穏やかだった口調が再び感情でヒートアップしてしまう。
「――それでも聞いて欲しかったの、そうしたら私……」
「他の日にだって、遠まわしに聞いた事はあっただろ? じゃあ、その時に答えてくれれば良かったじゃないか!」
「ちゃんと真っ直ぐに聞いて欲しかったの! 遠まわしじゃなくて、ちゃんと!」
「あーもう! ほら、それが拗ねてるって言ってるじゃないか! これじゃあ付き合いきれないよ。あー言えばこう言って。勝手に我侭言っていればいいよ!」
今度は真介が突き放すように言い放ち、ぷいとそっぽを向いた。
「…………」
雪子は何か言おうと口を開けたが、言葉を発する事無く悔しそうに俯いた。
真介は少しの間、そのまま姿勢を維持していたのだが、押し黙ったまま返事が無い雪子の事が心配になり、ゆっくりと振り向きなおした。すると雪子は、唇をわなわなと震わせながら悔し涙を流していた。
「――っ……だから、今度は何で泣くんだよ。自分が傷ついているからって、好き勝手言って困らせて。その上で泣くなんて卑怯だよ! 僕だって、僕だって何が何だかわからなくて、本当泣きたい気分なんだよ」
「馬鹿」
「な?」
「真介の馬鹿! 大馬鹿って言ってるの!」
「雪子だって馬鹿じゃないか」
「それに優柔不断! 臆病者! ええかっこしい!」
「う……それを言うなら、雪子だって。独りよがり! 気分屋! わからずや!」
「酷い! やっぱり私をそんな目で見てたんだ」
「そっちこそ僕の事そんな目で見てたんじゃないか」
呆れて呟く真介に、雪子はヒステリックに怒鳴りつけた。
「――もういいっ! やっぱり真介は私が邪魔なんだよね!」
「だ・か・ら! なんでそうなるんだよ! そんなわけ無いだろ!」
拳を震わせながら、真介も大声を張り上げる。その勢いに一瞬雪子が気圧された。場の空気が変わり、沈黙が訪れる。
その空気の変化を感じた真介は、再びゆっくりと深呼吸をして感情を落ち着かせると雪子をまっすぐに見つめた。
「な、なによ……」
「怒鳴ったりしてごめん。雪子、ちゃんと聞いてくれる? 僕は真剣に……」
「真剣に?」
「会って二週間だろうが、幽霊だろうが、そんなもの関係ないと思っているんだ。僕は雪子の事を真剣に……真剣に大切だと思っているんだ」
「……真介」
雪子はぐずついた鼻を啜ると、ごしごしと流れるままになっていた涙を袖で拭って頷いた。真介を見つめる目が再び涙で潤んでいく。
「もうなりふり構わないよ。雪子が居なくなってしまう事を考えるくらいなら、嫌われてもいいから一生懸命原因を探して見せる。そして勝手に守ってみせる。だからさ、お願いだから邪魔だなんて言わないでくれよ」
「私だって……真介と会った時に、どんなに嬉しかったか。何故だかわからないけど、一目見たときから真介だったら私の事をわかってくれる。大事にしてくれるって思ってた……」
「だったら! これからもずっと一緒に居れるように二人で頑張ろうよ。雪子の事、教えてくれるよね?」
「――でも私、幽霊だよ?」
「関係無いって言ったろ?」
雪子の『幽霊である事』という劣等感を含ませた言葉を真介は優しく一蹴した。しかし、それでも雪子はまだ不安、という表情でまだ真介を見つめていた。そのまま申し訳なさそうに口を開いた。
「これからも、ずっと一緒にいてもお互い触れることも出来ないのよ?」
「それがどうしたの? そんな事よりも僕は雪子が近くに居てくれるだけで嬉しいよ?」
真介の言葉に、一瞬嬉しそうに顔を輝かせた雪子だったが、すぐに表情が曇り唇を噛んだ。
「私は……嫌だな……」
「え? どうして?」
「だって、ずっとずっとこれからも真介に触れられないんだよ? 真介に頭を撫でて貰いたくなっても無理だし、当然手も繋げない。抱きしめてもらえないんだよ? そんなのとっても辛いよ……。真介、優しくて温かくて……ずっと一緒に居るのに……耐えられないよ。今は良いって言ってくれてるけど、そんなの絶対に苦しいよ」
「ゆ、雪子……」
雪子の悲痛な叫びに、焼けるような痛みが頭から背中まで一気に走り抜けて言った。
雪子の自身に対する劣等感と、この先に待ち受けている解決の無い苦痛を痛い程感じたのだ。
真介は、初めて会った時に握手ができなくて呆然としていた雪子の姿を思い出した。初めから雪子は、常にこんな劣等感を持ちながらも真介と普通に接してくれていたのだ。我慢して、我慢して潰されそうになりながらも、笑顔で居てくれていたのだ。
胸が締め付けられる思いだった。
「だから……ね。あの映画みたいに、最後には私は真介に恋人が出来たら消えるのが一番かも……ってちょっと思っちゃったりしちゃったりしてね……」
「バーカ」
しかし、自虐的に笑った雪子に対して出た真介の言葉は意外な単語だった。
「へ?」
雪子も、真介の言葉に思わず上擦った声を上げた。
「馬鹿って言ってんの。そんな先の事まで考えて、結局不安になるだけなんて非生産的だと思わないの? 僕が関係無いって言ってるんだから今はそれで良いじゃないか。まずは今起こっている事態を切り抜けること! 小難しい事は後だ、後! 僕も雪子が大切だから一緒に居たい。理由なんてそれだけで良いじゃないか。ね?」
「なによ。そんな無責任に、簡単に言ってくれちゃって」
雪子は泣き笑いの表情を浮かべながら頬を膨らませた。しかし、先ほどまで見せていた悲痛さは驚くほど和らいでいた。
「簡単でいいじゃん。難しく考えて絶望するよりもよっぽど楽だしさ。まぁ……こういう事ばっかり言ってるから、折角中高一貫に入ったのに頭悪くて落ちこぼれなんだけどさ」
「それはもっと勉強するべきだよね」
「う……」
決まり悪く真介が笑うと、雪子はそれに大きく頷き笑顔でぴしゃりと言った。笑顔が固まる。
だが、すぐに二人はお互い顔を見つめあうと優しく笑いあった。ギスギスした雰囲気は足早に立ち去り、今は穏やかな温かい雰囲気が二人を包んでいた。
その空気を感じて、真介はゆっくりと口を開いた。
「教えてくれるかな? 雪子のこと」
「うん」
「何があってもさ、絶対に僕が守るから。そして、これからも一緒にいようよ」
「うん、うん」
雪子はくしゃくしゃの顔になりながらコクコクと何度も頷いた。感極まって大粒の涙が流れるまま零れ落ちていく。
真介は、本音をやっと見せてくれた雪子を益々好きになっていくのを感じた。そしてその気持ちをしっかり伝えようと決意したのだった。
「……あのさ、言葉で言って良いかな?」
「え? な、なにを?」
涙を拭いながら雪子は顔を上げた。見上げた真介の顔は、これから言う事を思ってか真っ赤になっていた。
不自然だが、心地よい沈黙が訪れる。
「僕……雪子の事が好きだよ」
その沈黙を、勇気を持って破り告白した真介の顔は、益々茹蛸のように赤くなった。見つめあう雪子の顔も一瞬で赤くなる。
「うん。私も……真介の事が好き」
「よっしゃああぁぁぁああああっ! 確証ゲットぉぉおおっ!」
雪子が頷いた瞬間、真介は飛び上がって無邪気に喜びを爆発させた。
両腕を空に突き上げてのガッツポーズも見せる。
「ちょ、ちょっと。そんな大げさな」
雪子は真っ赤になりながら、真介の大はしゃぎに抗議の声を上げたが、真介は構わず喜びを大げさに噛み締めていた。
「ほっほっほっ。若いってのは良いもんじゃのう」
――と、喜びを爆発させている真介の背後から貫禄のある声が突然聞こえた。
「え?」
真介が慌てて後ろを振り向くと、電信柱の影から白い燕尾服を着た恰幅の良い老人がにこやかに現れた。
「お前はっ!」
真介は、その老人の顔を見て緊張感が走った。慌てて雪子と老人の間に入り立ち塞がる。
そう、突然現れたこの老人の顔は、池袋で出会った黒い喪服姿の老人とそっくりだったのだ。
「白様!」
しかし、その真介の緊張はすぐに打ち破られた。何故なら、雪子は安心しきった、そして喜びの表情を浮かべて相手の名前を呼んだからだった。
そのまま、雪子は燕尾服の老人に駆け寄ると首に手をするりと巻きつけ思いきり抱きつく。
……あ、雪子に抱きつけられるんだ。いいなぁ。
雪子の行動で警戒心は解けたものの、羨ましい光景に若干の嫉妬心が真介に芽生える。
「おー、よしよし。黒に見つかってしもうたのか……怖かったじゃろう?」
白と呼ばれた老人は、よしよしと雪子の頭を撫でると穏やかに笑った。そのまま、老人は真介に振り向くとまっすぐに見つめる。
「真介と言ったな。初めてお目にかかる。ワシの名前は白。この娘をとある条件で地上に送り出した片割れじゃ」
「片割れ? って事は、もう一方はあの……」
「そう、黒じゃ」
白は雪子の頭を撫でていた手をゆっくりと離し、雪子に目配せをして抱擁から解放してもらうと、腕を組んで大きく一つ頷いた。
「――喪服から、燕尾服に着替えて中身が同じとかは無いですよね?」
眉をひそめ、訝しがる真介の声に、白の組んだ腕が一瞬ずるっと崩れかけた。
「真介、違うわ。白様と黒は別人よ。私が二人に会ったときから白様と黒は仲が悪くていつも言い争いをしていたのを見ていたもの」
苦笑いを漏らしている白の変わりに、雪子が自信たっぷりに答えた。
「奴みたいな根暗と一緒にされるのは心外じゃぞ?」
雪子の言葉に相槌を打ちながら白は朗らかに笑った。
なるほど確かに別人のようだ。真介は思った。
何よりも黒と呼ばれる老人の時に感じた、禍々しく異様な圧迫感を感じない。むしろ白はその逆で、穏やかな恰幅の良い姿に親近感が湧き、見ているだけで安心出来る気分になる。
「ごめんなさい。あまりにも顔立ちが似ていらっしゃったので」
真介は素直に謝った。白は気になどしていないと微笑むと、心持ち背筋をしゃんとさせた。
「そうじゃな、まぁ似ているのは仕方が無い事なんじゃが……」
白はもごもごと口の中で何かを呟いた後『思い出した!』というように身を乗り出した。
「っとと、そうじゃ。そんな事よりも大事な話をせねばならんのじゃった」
「大事な話?」
白は真介の問いに頷くと、組んでいた腕を解き雪子の両肩にポンと手を置いた。雪子が不思議そうに白の方に顔を振り向かせると、白はにっこりと笑った。
「この娘と、真介。君のこれからの運命についてだ。黒に先に会ってしまったが為に大変面倒なことになったのは間違いないからな」
白の言葉に雪子の顔がみるみる曇っていく。何かを思い出したようで、元気だった瞳は力を失い下を向き、唇を強く噛み締めている。真介も、あの池袋での取り乱した雪子を思い出し、白になんと切り返せば良いか解らず沈黙した。
運命? 一体、なにがあるというのだろう。今、これ以上無いくらい幸せな気分になれたというのに……。
沈黙が暫く続いた。
二人の返事を待っているのだろう――白は手持ち無沙汰になったようで、一つ咳払いをすると、頭を掻いて苦笑いを漏らした。しかし、まだ沈黙は続く。
「白様。私は、真介に話をすると約束しました。私が言わなくてはならない事だと――」
沈黙を破ったのは雪子だった。何かを決心し頭を上げて、口を開いた――が、白が首を横に振り目配せをして、雪子に言葉を続けさせなかった。
「いや雪子。言う事が辛いこともあるだろうし、お前自身まだ知らないことも大量にある。今こういう事になった時点でお前達に出来る最善の事をワシが伝える必要があるのじゃ。それに、どうせお前の考えておる事など、隠していてもあの少年には気付かれてしまうだろうしな」
「白様……でも」
「大丈夫じゃ。今の二人のやりとりを見て、真介なら真実を知っても大丈夫だと確信しておる。全てを包み隠さず話すべきじゃ」
「あ……あの……なんの話でしょうか?」
二人で盛り上がる会話に、置いてけ堀を食らった気分になった真介は、二人の会話の区切りが見えた瞬間、恐る恐る尋ねてみた。
「真介……」
雪子が再び喧嘩をする前のような不安な表情を浮かべて真介を眺めた事から、あまり自分に良くない話であることは間違い無さそうであった。しかし、真介は雪子と一緒に頑張ると決めたのだ。お互いが好きだと言葉で交わし約束したのだ。
今の僕なら、たとえどんな話が出てきたとしても大丈夫。そんな自信があった。
「大丈夫だよ、雪子。一緒に頑張ろうって約束したじゃないか」
真介は強く思うと、雪子を安心させようと笑顔を浮かべた。しかし雪子は、真介の笑顔を見ると辛そうに目を伏せて下を向いた。
――え? そんなに危ない事なの?
真介は雪子の態度を見て、心の中で思った――つもりだったが、白の「そうじゃ」と、頷く姿に自分が思わず声に出して言ってしまっていた事に気がついた。顔を向けると真剣な表情で白は真介を見つめていた。そして、重々しく口が開く。
「真介。可哀想なことじゃが、今のままでは、君は確実に死ぬことになるだろう」
白の言葉に、ますます辛そうに雪子が目をぎゅっと閉じるのが解った。
「……はい?」
真介の背筋が一瞬にして凍りついたのは、寒空の下、冷たい風が吹き抜けたからだけでは無いようだった。
6
「雪子。大丈夫だって! まだ出来る事があるって白さんも言っていたじゃないか。何もかも『全てが手遅れ』で、終わりだったわけじゃないんだからさ。気にしないで、頑張ってみようよ。当たって砕けろだ!」
真介は自室に戻った後も、白との会話で落ち込んでしまった雪子を励ますのに一生懸命になっていた。
今は僕も落ち込んでいなきゃ本当は駄目なんじゃないだろうか? なのに何で僕は平気な顔をして雪子を励ましているのだろう?
どこか冷静でいる自分に自虐的な笑みが漏れる。
なんと言っても、いきなり死の宣告を受けたのだ。しかもその理由が、病気や事故というようなまだ仕方がないと思えることではなく――
「雪子の身代わりとして死ぬ」
と、あの後白は言ったのだ。身代わりと。そして続けてこうも言った。
「脅しでは無く、このままでは君が死ぬか、雪子の魂が消滅するかの二択になっているのだ」
未だかつて無いほど理不尽で、絶対に御免こうむりたい二択だと真介は思った。
理不尽だ、そう思っておる顔じゃな。白がそう言って続けた言葉を借りると「それが今回の雪子の件での約束事だ」という事だった。その約束の内容こそが『黒に見つかり条件を果たせなかった場合は、雪子を消滅させる。もしくは、魂の交換という条件のもと雪子は身代わりを探して、その魂を差し出す』というものだというのだ。
正直にふざけるな、と言いたくなる条件だ。何を考えれていれば、そんな馬鹿げた約束を思いつくのか。悪意の塊のような黒の存在に憎しみを覚える。
真介は、部屋に着いた途端に力が抜けてしまい、扉前にへたり込んで泣き出してしまった――今も蹲っている雪子の傍に近寄ると、ゆっくりと腰を下ろした。
折角気持ちが通じ合ったというのに、ある程度覚悟はしていたが、ここに来て思っていた以上の様々な障害が出てきてしまった。そして、まさかその苦難が直接的に僕にまで降りかかってくるとは思って居なかったけど――雪子を優しく見つめながら、真介は苦笑した。
黒が僕に言っていた「騙されている」というのは恐らくこの事だったのだろう。そして、雪子はその事をひた隠しにしていた。恐らく白が言わなければ、まだ先刻の時でも隠そうとしていたのでは無いだろうか? 嘘が下手なのに、一生懸命に気付かれないようにして、僕を守ろうとして。そして、最後は黒に自分の命を差し出して終わらせる気だったに違いない。
「本当に……馬鹿だなぁ。雪子は」
真介の様々な感情の入り混じった言葉に、返事を返そうと雪子は顔を上げたが、胸が大きく波打っただけで言葉が出てこないようだった。真介はそのまま優しい声音で言葉を続けた。
「どうせ、そのまま僕と楽しく最後まで時間を費やして、最後に消えよう。そう思っていたんだろ? 僕はそれを止めて欲しいって言ったのに。無理して、こんなに苦しんで。本当に馬鹿じゃないか。本当にそんな事をされて僕が喜ぶとでも思っていたの?」
雪子は力なく首を横に振った。
「わかってるんじゃん。そんなの結局自己満足でしか無いって。何の為にもならないって」
雪子は、手の甲で涙を拭うと俯いてポツリと呟いた。
「でも……私は真介を死なせたくはない……」
「それを言うなら、僕も雪子を死なせたくない――だろ? いや、死んでるかもしれないけど。消えてしまうなんて耐えられないよ。僕だって気持ちは同じなんだ。どうやったら、大事な人が消えるのに「やった、自分の命は助かったぞ」って思えるんだよ。そんな事思えるわけ無いじゃないか。ね? 二人で生き残れる道を探そうよ。白さんが言ってたじゃないか。「このままだと」って。じゃあ、このままにせずに出来ることを一生懸命やろうよ。最後まで足掻こうよ」
雪子は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「本当、私って馬鹿」
そのまま、また溢れ出ていた涙をぐしぐしと手で拭う。
「ちょっと前にらしくないって真介に言われて怒ったけれど、私、本当にらしくなかったわ」
雪子はそう言いながら立ち上がると、自分の頭をコツンと叩いて言葉を続けた。
「どうして、初めから真介に話せなかったのかしらね。本当、自分がおめでたいわ。そうよ、真介が言うようにまだ出来る事があるのに、悲劇に浸って何もしようとしなかったのは私。何もかもが真介に見透かされちゃれちゃって恥ずかしいったらありゃしない。一生懸命隠してたつもりだったのに……ね」
「雪子……」
「私だってそう! もう真介が居なきゃ幸せだなんて思えっこないの! 今まで本当にごめんなさい。私は消えたくない! そして真介も死なせたくない! こんなの当たり前の事なのに、なんで言えなかったのか……情けなくなっちゃうわ。お笑いよね」
雪子は、肩を竦めて茶目っ気たっぷりに微笑んだ。その笑顔を見て、真介は安心した表情を浮かべ大きく頷いた。
「そうだ、そうだ! 理不尽なルールに意味も解らずに、従うほど僕達は愚かではない!」
「うん!」
真介の心からの思った言葉に、雪子は瞳を潤ませながら大きく力強く一つ頷いた。
「明日から、雪子の過去を探しに出かけよう。黒に見つかる前に。必ず生きてたときの雪子を――本当の名前を思い出させてみせる! 最後まで諦めずに戦おうよ!」
白が、黒の約束に対抗するために出した条件は『雪子の本当の名前を見つける事』だった。もともとそれこそが雪子に与えていた白の条件であったらしい。
驚いたことに、雪子は本当に名前を、そして生まれた場所を、何故幽霊になったのかを全く記憶していないというのだった。
それは何やら作為的な事らしく、他の記憶は残っているのに雪子自身に関して重要な記憶だけがごっそり抜けているのだ。一緒に読んだ漫画に対しての記憶があったりしたのはその所以だったのだ。
「真介、君が雪子の記憶を取り戻してあげるのじゃよ。ワシの条件も揃えれば、力を行使する事が出来るようになり、君達を助ける事が出来るじゃろうからな。ただし、黒はワシが接触した事に気がついているじゃろうし、正直に言うと間に合わない可能性が高い。というか普通に考えると可能性は限りなく0に近いじゃろう」
白は、本当にすまないというような表情で弱々しく笑った。
「でもな、ワシは信じているのじゃ。真介。色々な幸運が君と雪子を守り、きっと二人が不幸にならないようになると」
――あの白の言葉には、それ以上の何か気持ちが入っている気が真介はしていた。
「白さんの『約束事』は一体何なのですか?」
気になった真介が聞いた時、白は「さあ、それはその時のお楽しみだよ」と肩を竦めて見事にはぐらかし、それよりも――と言葉を続けたのだった。
「頑張るんじゃぞ。本当に生易しいことではないからの……」
翌日「風邪を引いた」という真介は、剣道部の朝練を高校に入ってから初めて休んで、市内で一番大きいと言われる隣駅にある『中央図書館』に開館時間の9時には辿り着いていた。
何をどう調べれば雪子の記憶に、そして本当の記憶に辿り着くことが出来るかの明確な答えをまだ持っていなかったが、何かここでヒントを見つけられるだろうという感じたからだ。
新しく土地開発で出来た大型ビルの八階にある、出来て間もない大きな中央図書館に一歩入っただけで、真介はこの図書館の雰囲気がとても気に入った。
眩しすぎない照明と、窮屈に感じない広々としたフロア配分。カーペットも清潔で、室内の空気も本が持つ独特の香りがあまりせず清清しい。たとえ徹夜でへろへろになっていても、ここで勉強をしたとしたら、一気に集中力を復活させられそうな気がする。
「すごい……広くて綺麗な図書館ね……」
雪子の感動した声に、真介も頷く。
さてと、と真介は服の袖を捲くった。この大量の蔵書の中から雪子のヒントになりそうな本を見つけ出さなければならない。事件の本だろうか? 事故の本だろうか? いや、それよりも他にもっと有効な本があるかもしれない。
――と、書架を歩いていた真介の目に、ある本が存在感を放って飛び込んできた。
「高校制服カタログ」
発見した瞬間に、はっと閃くものがあった。すぐに雪子の姿を眺めて、大きく頷く。
真介は、そのあまりにも大きな発見に興奮し、手を震わせながらその本を手に取った。
書架の近くにある案内デスクに座る司書さんが、ちらりと「これだから思春期の男子は」とでも言いたげに真介の方を見たが、真介は本を掴んで浮かんだ考えに夢中で気が付かなかった。
カーディガンに覆われた、自分にとって見慣れない雪子の制服。
それが、このカタログに掲載されているかもしれない! そして、高校がわかれば、その関連の事柄をパソコンで調べればいいではないか!
真介は早速閲覧席にカタログを持ち込み、真剣に一枚一枚と穴が開くようにじっくりと、目の前に現れる様々な男子生徒と女子生徒が着こなしている制服を眺めていった。時折、確認の為だろう、雪子の姿をまじまじと見つめる。雪子はその度に、気恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
カーディガンも高校の物だったら解り易くていいのだが、もし違った場合はスカートと少し見えている胸元と袖の差異で判断しなくてはならない。
それでも絶対に見つけてみせる。真介は鼻息も荒く、強い決意と共にページを捲っていく。
「ちょ……真介。もう駄目。言っちゃうけどさ、今の君、かなり危ない人に見えるよ」
横で雪子がついに耐え切れなくなったと、真介の姿に苦笑いを漏らしながら忠告した。
「え?」
言われて、初めて真介は自分が周りにとって怪しい行動をしているように見えることに気がついた。開館されてすぐとは言え、日曜日だけあって人はそれなりに多い。そんな中、鼻息も荒く、女子の制服を次々と眺めていく男。それが怪しく映らないわけが無い。
自覚した途端、真介は顔が恥ずかしさで真っ赤になった――が、慌てて首を横に振ると再びカタログに視線を戻した。
怪しいと思われても、今探すべき事をしなくてどうする! 知らない周りにどう思われたって良いじゃないか。
真介は強く自分に言い聞かせると、頭をガリガリと勢い良く掻いた。雪子も、真介の真剣な気持ちを察したのだろう。それ以上は何も言わなかった。
そのまま半分ほどページを捲った時、東京新宿区の女子高の制服に真介の目が止まった。都内でも有名な真介も名前は聞いたことのある女子高だった。その女子高の制服が、今雪子が着ている制服に良く似ていたのだ。雪子もその事に気が付いたらしく、興味深く覗き込んだ。
「私の着ている制服に……似てる……ね?」
真介は、頷くと次のページを捲った。そこには、当校指定のコートとカーディガンが掲載されており、着こなした女の子がにこやかに微笑んでいた。その当校指定のカーディガンは、まさに雪子が着こなしているものであった。
二人は、その制服とカーディガンを見つめたまま一瞬沈黙した。
「見つけた……ね。どう、雪子? 何か思い出した?」
沈黙をやぶったのは真介だった。小声で雪子にカタログを見せつつ、期待の眼差しを向けて語り掛けた。しかし、雪子は「何も」と残念そうに首を振った。
「そっか……でも、問題ないよ。何にせよ、これで一歩近づいたね」
「うん。私は新宿の高校に通っていたんだね」
とにかく、これで雪子の高校は解った。東京の新宿区のあの有名女子高だ。
しかし、それだけでは雪子は何も思い出していないと言う。では、次は何を調べるべきだ? やはり事件、事故だろうか。出来れば彼女が死んでいるという証拠が出そうなものは色々な意味で見たくは無いのだけど……。
そうは思っても、調べるしかないのだろう。
真介は覚悟を決めるとカタログを閉じて席を立ち上がった。集中する為に少し前屈みでカタログを眺めていたからだろうか、立ち上がると腰の辺りが少し違和感を感じた。伸びをして心地よい感触を味わいながら解消させる。自然と口から欠伸が漏れた。決意した気持ちと正反対のようなのんびりとした自分の動きに真介は思わず吹き出してしまった。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をして雪子が真介を眺めたが、真介は「なんでもないよ」と笑って答えた。
インターネットに接続できるパソコンの接続許可を貰い、真介が移動すると丁度一人、席から立ち上がって空席が出来たところだった。真介はそのまま、そのパソコンの前にキィと椅子の軋ませる音を立てながら座る。マウスを扱い、モニターに検索エンジンを開くと、覚悟を決めて女子高の名前と、事件、事故とキーワードを重く感じながらも打ち込んで見た。
その様子に雪子が辛そうに眉を潜めたが「仕方が無いよね……」と言って許してくれた。彼女も同じ気持ちだったのだ。そしてそれでも理解して言ってくれた雪子の許しの言葉だけで、真介のキーボードを触る罪悪感を含んだ感覚が少し軽くなった。
「ありがとう、雪子。じゃあ、検索に入るね」
真介の言葉に、雪子はこっくりと頷いた。
真介は今まで感じた事が無いほど重いプレッシャーを感じながら、エンターキーを押して検索を開始した。パソコンはたちまち終了し2―3秒後にはキーワードの検索結果がモニターに現れた。
「これは……」
真介はモニターに映しだされた検索結果で出た記事群の中のとある見出し文――不思議な出だしの記事を見つけ、目を疑った。雪子も同じように目を丸くしてモニターを食い入るように見つめている。
何か惹きつけられるものをその記事に二人して感じたのだ。そのまま、真介は震える手で、記事の詳細を見るべくそのページに飛ぶようにマウスをクリックした。
『女子高生行方不明――朝の新宿駅で飛び込みか? 3月20日朝、JR新宿駅中央線で女子高生の飛び込みがあったとの連絡を受けた。ただちに電車は緊急停止し、現場検証もされた。しかし、多くの目撃者が居るにも関わらず女子高生の遺体は発見されず、また検証の結果電車に跳ねられた形跡も無かった。この緊急停車で、通勤ピーク時の十万人の足に影響が出た。
しかし、この日を境に目撃された女子高の生徒である高校二年生「橘小春さん(17)」が行方不明となっている。また現場で目撃した人々の情報では飛び込んだのが、この「橘小春さん」という話も有り、警察では事件、事故の両面で捜査を続けている』
淡々と事実だけを書き連ねられたはずなのに不可思議な、常識的に考えて違和感を感じるその記事の署名を確かめると今から2年前の出来事だった。
真介は、この記事を読んだ瞬間この事件は当時大々的にニュースやワイドショーで取り上げられていたのを思い出した。
目撃者多数の中で、飛び込み自殺を行った少女の遺体が発見されず、行方不明となったという――現代における最大のミステリー事件だっけ? それを真に受けてミステリーや心霊現象等オカルトが好きな奴が叫んでいたっけ? 「神隠しだ」って。そんな事あるわけ無いってあの時は笑っていたけど――って、いやまてよ?
真介は何かを気が付いたらしく、マウスをクリックし新しいページを開くと――
「!」
そこで鋭く息を呑みこんだ。予感は確信に変わった。
そのまま深い溜息を吐くと、椅子の背もたれにもたれ掛かって、額に手の平の付け根を押し付ける。一緒に画面を覗き込んでいる雪子を横目でちらりと見つめた。
「どう? 何か感じる?」
「……わかんない……でも、なんだか胸がムカムカして……気持ち悪いの。この記事見てたら何か凄く不安な気分になって……」
雪子は胸に手を当て、顔をしかめながら息苦しそうに答えた。しかし、何やら感じるものがあるのだろう、得体の知れない感覚に戸惑いの表情を浮かべながら真介を見た。
「でも、何かあるのかも知れない。こんな感覚になるの初めてだもの……」
「おっと、ごめんよ」
――と、隣でインターネットをしていた大学生くらいの男が、閲覧を終了し立ち上がろうとして椅子を引きすぎたのか真介とぶつかってしまった。
「あ、いえ。大丈夫ですよ」
頭を下げて、申し訳無さそうに立ち去る男性に、真介は愛想笑いを浮かべて見送った。
そのまま何気無しに自分の座るパソコンに目を戻そうとしたのだが、隣の誰も居なくなったパソコンのモニターになにやら違和感を感じて、慌てて覗き込んだ。
途端に愛想笑いが凍りつき、真介の動きが固まる。
「……雪子……あれ……」
視線が釘付けになってしまった真介が、雪子の名前を呼ぶと、雪子は不思議そうに真介が顔を向けているパソコンのモニターに目をやり――彼女もまた固まってしまった。
「シリタケレバシンジュクニオイデ」
そこには、恐らく二人に向けてのメッセージだと思われるものが、全てカタカナで打ち込まれていた。
「なに……これ……」
「これは、黒だよな? 今僕達がやっていることに気がついていながら、こうやって泳がせているのか? 性格悪いな……まぁ、どっちにしろ新宿に行かないと駄目なんだけどね……」
何度目かの背筋がゾッと凍る感触を味わいながら、真介は自分が調べているパソコンのモニターに目を戻して苦しそうに呟いた。
しかし雪子は、隣のモニターにまだ視線が釘付けになったままだったが、真介に向かって強く言葉を返した。
「嫌。行きたくない。なんでか知らないのだけど、私は新宿には行きたくない」
雪子は新宿に行くのを頑なに否定した。これ以上『新宿』という言葉のつく話題には触れられたくない。そんな雰囲気を出しながら、そわそわと落ち着き無く身体動かしている。
「雪子」
だが、真介には行かなければいけない明確な理由が出来てしまっていた。
何故なら――と、もう一度目の前のモニターを覗く。
雪子は気が付いていなかったが、新しく開いた画面。そこに映る2年前に行方不明になったという少女の顔写真。黒く艶やかな長い髪。色白の肌、そして特徴的な大きな瞳。優雅にカメラに向かって微笑んでいるその少女の姿は、目の前にいる雪子と何もかも全てがそっくりだったのだ。
自分の記事、顔写真を見ても、それでも何も思い出さない雪子。そして頑なに否定する新宿。
間違いなく、そこに何かが存在しているのだ。真介は確信していた。
きっと雪子の記憶を取り戻すために行かなくてはならない理由がそこにあるのだ。本人にとって、とても辛い理由があるかもしれない。しかし、それを避けていては何も解決にならないのだろう。
「駄目だよ、雪子。僕達は新宿に行かなきゃいけないんだ」
幼い子に言い聞かせるように真介はゆっくりと、しかしきっぱりと断言した。
「黒がいるのに? 駄目よ! 危ないわ!」
雪子は大きく目を見開いて、悲痛な声を上げた。そして、そのまま口から漏れるように真介への非難の言葉が続く。
「それに……その記事が私だって、決まった訳でも無いのに……どうして新宿に行くって言うの? 他の事件だって調べてみて私が確信を持ってから行けば良いじゃない。みすみす黒の罠に嵌りにいくよなものだわ……」
雪子の言葉に、真介は何も言わなかった。ただじっと雪子を優しく見守って居る。
雪子は顔を上げると吸い込まれるように真介の顔をじっと見つめ――暫くすると諦めたように溜息をつき、がっくりと肩を落とした。
「でも、私は真介を信じるって言ったもんね。解った……行くわ。新宿に……」
「ありがとう、僕を信じてくれて。大丈夫。僕は雪子の傍に居るから。絶対に、何があっても」
「うん。信じてる」
真介は雪子の言葉に頷くと、立ち上がり、並々ならぬ決意を込めて言った。
「行こう。新宿へ」
7
日曜日の昼過ぎ。到着した新宿駅は相も変わらず大量の人々でごった返していた。
今から遊びに出かけるという軽やかな足取りの少女達も居れば、重い足取りでふらふらと歩くスーツ姿の大人達もいる。様々な思惑をもった足取りを人々が繰り出しながら、足早に流れていく。その雑踏の中に真介と雪子は立っている。
普段ならこの人ごみにまぎれて、退屈という言葉など存在しないような、この何もかもが揃っている街「新宿」の中へ冒険に繰り出すのだが、今日と言う日だけは、新宿駅に辿り着く前から真介の気持ちは憂鬱になっていた。
真介も雪子も、ここに黒が居ることは間違いないと感じていた。
先に白との約束を守れるか、黒に邪魔をされ無駄になるかは時間との勝負だろう。それを考えるだけでも真介は不安になった。
しかし、それ以上に新宿に向かう電車の中で、改めて自分の取った行動を見つめなおす事で気が付き、真介を憂鬱にさせてしまっている事があった。
それは、こうして記憶を取り戻すという大義名分の為に、ほとんど無理やり新宿に雪子を連れてきてしまった事だった。
僕は今から雪子自身が拒否するだろう事故の現場を見せ――恐らく激しく傷つけて、当時のトラウマを目覚めさせて、苦しませてしまうのだろう。
真介は、隣で震えている痛々しい姿の雪子を見て、益々その思いを痛感していく。
雪子は新宿に着いてから、何かに締め付けられているように感じると体調の不良を訴え、がたがたと震えているのだ。しかもその震えは治まることが無く、時間がたつにつれ酷くなっている気がした。
僕がやろうとしている事は、果たして本当に良い事なのだろうか?
2年前に恐らく自殺をしようとまでした、雪子の――想像も出来ない程秘めたものがあるのだろう負の感情を、このまま思い出させて本当に良いのだろうか? そしてそれを僕が支えてあげる事が出来るのだろうか?
いや、そもそも、支えてあげるという言葉自体おこがましく感じる。
重い感覚が何度も真介の心の底に溜まっては、じわじわと広がってくる。
そして、こんな考えが浮かぶ度に、何でも「守る」「支える」と雪子に対して口にしていた自分の言葉を軽く感じてしまい、自己嫌悪に陥ってしまっていた。単純に考えても大丈夫と自信満々に雪子に言っていた自分が、思考の深みに嵌っていることを痛感した。
真介は不安になり、何度も何度も自分に問い掛けた。
僕がしようとしていることは……雪子にとってあまりにも残酷な事ではないのか?
真介は大きく息を吐いて、考えを纏めようとした。しかし、だからといって他の解決方法も考えられなかった。
この案を提案した、雪子があれほど懐いている白の事を疑うつもりも無い。何よりも、白は雪子の事、そして真介の事を心底心配していてくれていたのだ。あの表情に嘘偽りは無かったと真介は思った。
きっとこの荒療治がどうしても必要な事なのだ。僕は何も考えずに、雪子を支えれば良いだけなのだ。そう考え、自分を納得させるように何度も頷く。
しかし「これ、さっきも考えて辿り着いた結論だよな?」と苦笑いが漏れた。
考えて、考えて、結局はここに辿り着く。それならばこれが正解なんだろう。そう思いたかった――が、真介の心の片隅で何かが引っ掛かるのだ。その何かが引っ掛かる事が、不安となってむくむくと大きくなり、結局何度も何度も自問自答を繰り返させているのだった。
真介は自分の頭をイライラと掻き毟った。
「真介? 大丈夫?」
蒼褪めた表情の雪子が、心配そうに真介を覗き込んできた。
「え? あ、うん。大丈夫だよ?」
真介はすぐに取り繕うように雪子に笑顔を向けた――が、心の中で益々自己嫌悪に陥る。
雪子の方が、大丈夫じゃないというのに何を僕は余計な不安を伝染させているんだ、バカ。
もう後には引けない場所に来ているのに、せめて自信を持って雪子に大丈夫という印象をもって安心してもらうつもりだったのに。……情けない。
こういう時こそ僕が、しっかりしないといけないのだ。
真介は、頬を音が響くほど両手で叩き気合を入れ、雑踏の中歩みを進め始めた。雪子は、そんな真介を不安な表情で見つめていた。
二人が中央線のあるホームの階段踊り場付近に辿り着いたとき、周りの雰囲気が一変した。
真介と雪子が同時に息を呑む。
ホームに広がる重々しい空気。その発生源と感じた階下を眺めると喪服姿の老人が、初めて会った時そのままに禍々しい雰囲気を放ちながら、笑顔でゆっくりと手招きしていたのだ。
「こんにちは、お二人さん。ようこそ新宿に」
二人と目が合うと、黒は恭しくお辞儀をし、顔を上げた。目は相変わらず笑っていなく、頬だけがニィと歪み、皮肉な笑顔を浮かべていた。
「やはり、白さんとの条件の前に妨害ってところか。黒」
真介は、雪子を守るように前に立つと声を絞り出して聞いた。苦々しく浮かべた表情が、黒の存在を歓迎していないのは明白だった。その表情を見て黒は嬉しそうにくっくと笑うと、大きくかぶりを振った。
「まさか! とんでもない! 私がそのような卑劣な真似をするはずが無いではありませんか。お二人の美しき愛。それにいたく感動し、わざわざ御案内させて頂いたというのに」
黒はにっこりと笑うと、自分の台詞に酔うように、大げさに身振り手振りを入れてゆっくりと言葉を続けた。
「私もね、白と同じで、応援させて頂きたいのですよ。お二人の行く先を。ああっ、許されざる幽霊と人間の恋。その儚き想いはどこへ行く……。ね? 大変興味深いテーマで御座いますでしょう? しかも、儚き少女は今から死を見るか、生を見るかの一大イベント。こんなところで私が手を出しちゃあ、無粋も無粋。それこそお天道様に嫌われてしまう所業で御座いましょう」
「死を見るか、生を見るか?」
「おっとっと、申し訳ござません。私とした事が、うっかり口が滑ってしまいましたね」
黒はくっくと笑い、わざと手を口に当てる仕草をした。そのあまりにもあまりなわざとらしさに、真介は「嘘をつけ」と苛立ちを覚えた。雪子を怯えさせる為にわざと言っているに違いないだろうと確信していた。
この男は楽しんでいるのだ。雪子と僕がこれからどうなるのかを面白半分で見ているのだ。
真介がそう思い、黒の策略に嵌っていないかと心配になって覗いた雪子の表情は、ただただ不安に覆われ、手を胸元でぎゅっと握り締めていた。
「大丈夫。心配は要らないから。僕がいるよ」
「うん。ありがとう」
小声で優しく語り掛けた真介の言葉に、雪子は固い表情のまま頷いた。
「ささ、あそこに有ります黒い霧。あの場所こそが、儚き少女が己の真実を知り得るもはや唯一の場所。先ほども申しましたが、私は邪魔をするような無粋な真似は決して致しませんので御安心なさって下さいませ」
黒が大げさな身振りで指を指した場所に真介と雪子が目をやると、確かに黒い霧のようなものが立ち込めている場所が目に入った。電車の扉が開く番号が14と振られたその場所には、毒々しい霧が立ち込めている事に何も気が付いていないであろう親子が、楽しそうに会話をしながら電車を待っていた。
あの場所から、雪子は電車に飛び込もうとしたんだ。瞬間的に真介は悟った。
「さあ。どうなされたのですか? 行かないのですか? 行かないなら行かないで、約束を果たして頂くことになりますが……それでも宜しいでしょうか?」
黒は語り終えると両手を広げ鷹揚に笑って見せた。
指名された雪子は、真介以上にあの霧から何かを感じているのだろう。不安と緊張からか口をぱくぱくさせながら、これ以上無いというほど怯えた表情を見せている。
いくら何でも、雪子をこんな精神状態であんな場所に行かせたら危ない! そう思った真介は、雪子を守るべく口を開けた。
「僕も雪子と一緒に行ってもいいんだろ?」
真介の力強い言葉に、雪子はハッと真介を見つめた。
「はい? 行かれるのは勝手ですが、少年。君にはきっと何も見えないとおもいますよ? まさか傍に居て支えになってあげたいとか、まだ仰るつもりでしょうかね? その行為自体が思い上がりも甚だしいとは思わないのですか?」
しかし、黒はやれやれと手を上げ、首を左右にぶんぶんと振ると、馬鹿にした調子で答えた。
その嘲るような瞳に、真介は今の今まで考えていた自分の気持ちを見透かされてしまったような気がして急激に居心地が悪くなるのを感じた。黒は、そんな真介の動揺して一瞬顔が引きつった姿に気が付き、ニィっと口の端を歪めた。
「第一、君は本当に彼女の気持ちが本当に解っているのですか? 言ってあげましょうか? 君がただ小春――いや、雪子さんと呼ばれてましたね。その彼女と一緒に居たい。可愛い彼女に僕の傍に居て欲しい。という自分勝手な気持ちをですね、「彼女の為」だのと勝手に美化して押し付けている事を。そして君のその我侭なエゴで、これから彼女が大変な目に遭ってしまうという事実を。本当……ちょっと突付けば、君のような勘違いした人間はこうすると思ったのですよ、私は」
黒は冷ややかな声で、真介に向かって言葉を続ける。
「大体ですね、言葉が軽すぎるのですよ。あなたの「守る」だの「支える」だのというのは。気がついて居ないと思いますからこの際ハッキリと言わせて頂きますがね、そのような言葉は口で言うほど簡単な事ではありませんよ。そんな出来もしない事をですね――ただでさえ弱り、事実を見えないようにしてきた人間に対して安易に言い放ち、一時の安心だけさせて、結局その事実を受け止める事が出来なかったら……その弱りきった人の心はどうなると思います?」
黒は、パチンと手を叩くと大きく広げてみせた。
「粉々ですよ」
言われて真介はゾッとした。黒の最後の言葉は考えもしなかった事だった。
ただでさえ自覚していた部分を、疑問に感じながらも正しいと自分に言い聞かせて、考えないようにしようとしていたのに、他人にこうも冷ややかに指摘されるだけで一瞬にしてぐうの音も出ないほど打ちのめされてしまっていた。それどころか黒の言葉は、その先までもを深く抉り、真介の目の前を真っ暗にした。無意識に下を向き、胸を強く押さえる。
「そ、そんな事は……」
無い。そう言いたかった。しかし、真介の動揺し掠れた声からハッキリとその言葉を紡ぎ出す事が出来なかった。自覚していた分だけ何も言えなくなったのだ。黒の言葉という毒は真介の心に駆け足で巡っていく。真介の顔が蒼白になった。
真介は自分の押さえる胸が苦しくて仕方が無かった。どれだけ押さえても、押さえてもその苦しみは取れる気配が無い。醜い本質を言い訳で包み、見ないようにしようとしていた自分に気がつくと、無防備になった心は延々と傷つけられて行くだけだった。
「無い、訳が無いですよね。面白いことを仰る少年だ」
くっくと黒は真介の苦しむ姿を見て嘲り笑うと、今度は雪子に顔を向けた。
「ほら、小春さん。これでこの方の本質が見えたでしょう? こんな自分の欲望を他人の大義名分にすり替えてしまうような醜い心持ちの少年はさっさと身代わりにして、またあちらの世界で過ごす事を選んだらどうです? 今ならまだ記憶も戻さずに、辛いものを見る必要無く帰る事が出来るのですよ」
皮肉を含んだ黒の態度はそのままだったが、その声音は真介に向けられたものとは若干違う温かみが感じられた。
「違う! 真介は違うの!」
しかし雪子は、ともすれば心の中にジワジワと絡みついてくる黒の言葉を振り払うように、大きな声を上げて否定した。
「ほう? 何が違うというのですか?」
途端に、黒の口調が真介の時と同じような抑揚の無い無機質な声に戻る。
「真介は自分勝手じゃない。いつも私の事を考えて苦しんでくれていたのを知ってるもの!」
「だから、その行為自体が本質的には、あなたと傍に居たいと思う自分自身の身勝手な欲求から来ている打算的なものだったと私は言ってるのですが? 理解して頂けませんか?」
「それが何なの! じゃあ何? 打算的な事も何も考えずにただただ他人の為だけを思って何も見返りも求めずに無償で手伝いをする事こそが正しい事っていうの? だったら、私だって何も出来ていないじゃない。私だって真介を散々利用した打算的な女じゃない」
雪子は苦しんでいる真介の前に進むと、両手を大きく広げ守るように立ち言葉を続けた。
「白様の条件を満たすため、黒の条件から逃げるため。春先までと決められた期限の中で私を見つけてくれる人を待って、そして利用し、自分の為だけに動こうとしていたのが私じゃない! 一番醜い本質を持っているのが私じゃない!」
「雪子?」
真介は、前に立つ雪子の背中を呆然と眺めた。両手を広げ真介を守るように立つその少女の後ろ姿は、背中を小刻みに震わせ泣いているように見えた。
「しかし、小春さん。あなたは出来なかったじゃ無いですが。利用するどころか、何もせずにそのまま少年の為に終末を迎えようと覚悟されていたように見えましたよ?」
「だって……そんな私の事を真介は「好きだ」って言ってくれたのよ? 嬉しかった。本当に……嬉しかった。そんなのだから、私も真介の事を気が付けば、本当に大好きになったの。ううん。違う。きっと初めから真介の事が大好きだったの。その気持ちに嘘なんて無いわ」
雪子は呟いてから自虐的に笑った。
「……だからこそ、言えなくなったのだと思う。本当の事が知られたら、真介が何処かに行ってしまうんじゃないか? って怖くなって」
くるりと雪子は、真介の方に身体を向けた。その顔は涙でくしゃくしゃになりながらも、必死で笑顔を作ろうとしていた。
「でも、結局こうして真介はずっと一緒に居てくれた。嬉しかった。これからも私にとって本当に大事な人なんだって心から思ってる」
真介の暗く抉られた心に雪子の言葉が温かく響き、修復していく感覚が広がった。それは何よりも素晴らしい特攻薬となって駆け巡り真介の全身の力を取り戻させていく。胸の痛みが自然と消え、真介は前を向いてしっかりとした足取りで立ち上がった。
「雪子……僕の方こそ、ありがとう。ごめん、本当に僕がどうかしてたね。僕も自信を持って言うよ、雪子が大事だって」
「うん。ありがとう」
二人はお互いの顔を見つめあって、優しく笑いあった。
「そうだよね。醜い本質がどうのとか、そんなの当たり前じゃないか。好きなものは好きなのだから。格好なんてつけられないし、汚くもなるよ。僕は雪子が好きで、一緒に居たい。その嘘偽り無い気持ちに自信を持っていれば良いだけなのに。醜くて当たり前。隠し事だって、好きだからこそ言えない事があっても当たり前。だって僕達は人間じゃないか!」
「うん、うん」
真介が自分自身を納得させた結論に、雪子も大きく頷くと屈託の無い笑顔を浮かべた。それは、普段見せてくれていた雪子の最も愛らしい笑顔のそれだった。
「そんな青臭い少年の自分勝手な話に納得されるとは……残念だ」
しかし、一方で黒は目を閉じると大きく仰け反り、その後深い、深い溜息を吐いていた。そのまま開けた瞳は、今まで感じたことも無いくらい冷たく、暗かった。
「結局、あなたも人間だった。って事ですね小春さん」
「そうよ。私は人間よ」
雪子は自信たっぷりに答えた。
「……認めてしまいましたか。残念です。本当に約束を実行しなくてはならなくなりましたね。お二人が「これからも」と仰っていましたが、残念ながらその「これから」は存在しません」
黒が宣言した途端、ゆらり、と黒の影が揺らめいたような気がした。と、すぐに揺らめいたような影がぶくぶくと泡立ちをみせ、そこから黒の身長くらいあるのでは無いかという巨大な鎌が一丁出現した。黒はしっかりと右手でその鎌を握りしめると、ずるりと影から引き抜き、二人に向かって身構えた。
黒の言葉と、突然現れた大きな禍々しい鎌に、真介と雪子は鋭く息を呑み込んだ。
そうだった、黒は雪子の魂の消滅か、僕の命を狙っているのだった。ごたごたのお陰でもともとの黒のこの危険な条件を忘れてしまっていたのだ。
真介は「何とかしないと」と再び雪子の前に立つと、緊張した面持ちで黒を睨み付けた。が、禍々しい空気の中、妙案は思い浮かばなかった。額から一滴汗が流れる。
「さてと……どちらが『死』をお望みですかな?」
鎌の先を真介に向け抑揚の無い、けだるく退屈そうな黒の声が、事務処理的な感覚を真介たちにもたらし絶望的な空気が漂った。雰囲気に圧倒された二人は押し黙ったままだった。
「名乗り出られない? ああ、そうでしたね。お二人は御一緒でないとお嫌と申されてましたからですね。畏まりました。ならば特別にお二人御一緒に『死』へ向かわれるのでも私は構いませんよ? 何せ愛し合う、離れられないお二人でありますものね」
「――くっ」
「黒よ、お主は先ほど言っておったでは無いか。小春の記憶を取り戻すための行動に邪魔をするような無粋な真似はしないと……な」
――と、真介の背後から、今この状況で一番安心出来る老人の声が響き渡った。真介が後ろを振り向くと、階段の中腹から真介達に向かって降りてきている白の姿が目に入った。
「白様!」
雪子も嬉しそうに声を上げる。
白は、二人と視線が合うと右手を軽く上げ、優しく微笑んだ。
「白か。今更来て何のつもりですか? 私は約束を果たそうとしているだけ。とやかく言われる筋合いはありませんよ?」
黒は一旦真介たちに向けていた鎌を下ろすと、迷惑そうな口ぶりで白に問い掛けた。
「それじゃよ! 黒。お主も先ほど自ら約束しておったではないか。邪魔はせぬ。とな」
白に言われた事実を思い出すと黒は「しまった」と、口を覆った。
黒の初めて見せる困惑した表情からして、白に痛い所を突かれたのが良く解った。
「我々の世界での約束事がどれだけ大事な事か。それはお主が良く解っておる事じゃろう? 人間界との繋がりを持つために決められた、我々の唯一つの絶対的な決まり事じゃ。破るものは、神であれ、悪魔であれ厳罰をもって断じる」
「え?」
真介が、驚きの声を上げると白は真剣に頷いた。
「真介、お前が思っている以上に我々の世界では「約束事」は大事なことなのじゃ。じゃが面白い事にこれが人間同士となると嘘、偽りがまかりとおる世界となっておるからの。まぁ不思議に思うのは仕方が無い。が、もともと人間であっても我々との「約束事」を破ると罰が下ったものなのじゃよ。浦島太郎しかり、長谷雄しかり。皆、我々との約束事を最後に破ってしまった悲しき人間の物語じゃよ……」
白は遠くを見つめ、悲しそうに呟いた。
「し、しかし白よ。今、小春を行かせれば、もはや確実に我々の世界から居なくなってしまうのですよ? 白もそれは辛いと言っていたでは無いですか」
「もともと、ワシの条件はそうだったはずだが? そりゃ、悲しい事じゃよ。二年の間、可愛がってきた孫のようなもんじゃからの、小春は。しかし、黒よ。ワシはお主のように、だからといって小春をこちら側の住人に無理やりにでもしようとは思わん。この娘はまだ生きておるではないか。そして、しっかり相手を見つけ、こうして自分自身が人間である事を認めたでは無いか。それの何が悪いというのじゃ? ワシ等はそれを見守るべきであろうが」
黒の狼狽し、弾けるような甲高い声で白に投げかけた言葉は、やんわりと白に宥められ力を失っていく。そして暫くわなわなと震えていた黒は諦めたように力なくうな垂れた。手からするりと放れた大きな鎌が、カランと音を立てプラットホームに転がった。
そして、それと時を同じくして、白の言葉に反応した者がもうひとり居た。
「私が……生きている?」
雪子だった。白の言葉に、呆然とした様子で呟く。
その独白に、白は力強く頷いた。
「うむ。今まで言わなかったが、小春――いやまだお前は自分の名前を認識しておらんのだったな。雪子よ、お前はまだ生きておる。我々の世界の中で、時間を止めた肉体も彷徨っておるのじゃ。お前が生きたい。そう望むのなら、我々はお前を肉体と共に、この世界に復帰させてやる事ができるのじゃ」
「そんな……まさか……」
「その、まさかじゃよ」
白の断言に、自然と雪子と真介の目が合う。真介はとてつもなく胸が高揚してきているのを感じた。恐らく雪子もだろう。お互いが思う事を確信した二人は、すぐに喜びを爆発させた。
「じゃあ!」
「じゃが、ちょっと待った! はい、ちょっと待った。落ち着け、雪子。そして真介よ。喜ぶのはまだ早いぞ。その生き返らせる――という条件の為には、まずあの霧の中に雪子が入り、『死』を選ぼうとした……自身の記憶を失わせた理由を見てこなくてはならないのじゃ。これがまず一つ目じゃ。じゃが、ま、これは恐らくもう大丈夫だろうて……。雪子、今のお前ならきっと受け止める事が出来るじゃろう」
白の目が、優しく雪子を見つめた。
「そして、次に……これを言うのはとても心苦しいのじゃが……我々の世界の記憶は、基本的に現世に戻る時は消さねばならない掟があるのじゃ。雪子よ。つまり、我々と関わった記憶の全てを失うことになる。たまにおぼろげながら覚えておるものも居るようじゃが、それは奇跡に近い確率じゃろう」
「え? それって……?」
雪子の顔が、そして隣で聞いていた真介の顔も、その後に続く言葉を予想し、みるみる蒼褪めて行った。その二人の顔色を確認し、心底辛そうな表情で白は頷く。
「そうじゃ、ワシらと会った記憶。そして、今こうして真介と会った記憶。その全てを現世に戻った時には、きっと忘れておるじゃろう」
「いやです! それだったら私、生き返りたくなんて無い」
即座に雪子は否定した。真介が白の発言に対して、あれこれ考える余裕も無い程素早い回答だった。慌てて雪子の方を向くと、両手の拳をぎゅっと握り締めて悔しそうに震えている雪子がいた。雪子はそのまま自分の言葉を噛み締めるように呟いた。
「真介の事を忘れるくらいだったら、私は幽霊のままでいいです」
「こらこら、雪子。そんなに結論を急いでなく出さなくてもいいのじゃぞ。冷静にゆっくり考えてみるのもどうかの?」
「いや! 私の気持ちは変わりません。だって……じゃあ、私は本当に何のために真介に出会ったのですか? 私は結局何も真介に返すことも出来ずに、のうのうと何も覚えてないで生き返るのですか? そんなの……そんなの絶対に耐えられません!」
雪子はぽたぽたと零れ落ちる涙に気が付くと両手で顔を覆い、へなへなと崩れ落ちた。
「……真介。君はどうなんじゃ?」
崩れ落ちた雪子を見守りながら、白は困惑した表情で真介に尋ねた。
「僕……は」
問われた真介は苦悶の表情を浮かべ、口を開けたが、すぐに口を閉ざした。
そのまま長い間沈黙が訪れる。
僕はどうしたいのだろう? 確かに雪子が生き返るというのは嬉しい事だ。でも、そうなれば僕の事を忘れてしまうというのだ。言葉で交し合った気持ち、出会ったときめき、何もかも忘れて、何も無かった事として過ごす事になるのだ。
考えただけで、その状態はとてつもなく心苦しいものだった。
もし雪子が生き返ったとして、道ですれ違ったとしても、その時はもう赤の他人なのだ。これだけ世界中に人というものは居るのに、自分の人生の中で知り合える、そして関われる人間の数はたかが知れている。そして、恐らく生き返った雪子とは、知り合えるきっかけも無ければ、自分と関わることの無い人々となり、背景の一部となって何もかもが交じり合うことの無い生活となってしまうのだろう。そう考えれば考えるほど胸が苦しくなる。
このままでも良いから雪子を手放したくない。その思いがどんどんと膨れ上がってくる。
しかし、真介は思い出した。握手出来なくてショックを受けていた雪子を。そして、お互い触れ合えないという事にコンプレックスを持ち、苦悩していた雪子の姿を。
きっと、雪子は今生き返れなかったら二度とチャンスは来ないのだろう。だとしたら一時のこの激しい感情だけに振り回されて拒否し、彼女にその劣等感を持たせたまま過ごさせるのが良い事だろうか? いや、良いわけがない。それに――
「僕は、雪子に生き返って欲しいです」
長い沈黙を破り出た真介の言葉に、雪子が愕然とした表情を浮かべて顔を上げた。
「駄目よ! 真介! 無理しないで」
悲痛な雪子の声が響く。
「忘れちゃうのよ? 真介の事。何もかも。大切だって事も、好きだって事も……何よりも真介という存在を忘れてしまうのよ!」
「でも、僕は覚えてる」
そうですよね? と白に確認するように目を配らせると、白は困ったように頷いた。
雪子はハッとした表情になると、呆然と真介を見つめた。
「だったら問題ないじゃないか。雪子が生き返って、例え僕を忘れていたとしても必ず見つけ出してみせるよ。そして、また雪子に好きになって貰えるように頑張る」
「でも……」
「でも……じゃないよ。雪子が言ってたじゃないか。二人触れ合えるようになりたいって。僕も思う。そして、そのチャンスじゃないか。凄く嬉しい事じゃないか。それに比べたら、雪子が僕の事をちょっと忘れるくらいなんでも……アレ? ……おかしいな……」
真介の目から涙が溢れ出して、言葉が続かなくなった。だばだばと溢れてくる涙は、拭っても拭っても止まる事無く流れ続けた。
それは良いことだと思い、雪子を元気付けて行ってもらおうと思ったのだが、真介は言葉の途中から胸が締め付けられるように苦しくなっていき、「行ってもらいたくない」と抑え込んだ感情が自身の言葉で誘発されて爆発した為の涙だった。
「ほら、真介……やっぱり無理してるんじゃない」
雪子は優しく呟き、同じように涙を流しながら笑った。
「だからね、安心して。私はずっとこのまま、あなたの傍にいるから……」
真介の顔のすぐ傍まで顔を近づけ、決意に満ちた表所で雪子が宣言する。
しかし、真介は雪子の言葉に頭を強く横に振って拒絶した。涙と一緒に鼻水も溢れていたが、気にせずに真介は自分の気持ちを話し始めた。
「駄目だって! そ、そりゃ僕だって本心は行って欲しくないよ。忘れられるなんて思うと胸が張り裂けそうになるくらい辛くなるよ。でも、でもさ、雪子は生き返るべきなんだよ! 生き返って、これからを楽しく過ごす権利があるんだよ!」
「真介……」
「それにさ、僕は本当に雪子を探すから。見つけ出して、また雪子に好きになって貰うって言った気持ちも本当だから。だからさ……生き返っておいでよ。ね? 雪子」
雪子は真介の問いに答える事無く、真介の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったみっともない顔を、暫く優しく見つめていたが、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「ねぇ、真介。私たちが会った場所覚えてるよね」
真介は、嗚咽が漏れる中こくりと頷いた。
忘れるはずが無いじゃないかと思った。
「もし、私が生き返った後あなたの事を覚えていたら、ごたごたが収まったらね……そこに必ず行くから。私きっと会いに行くから。信じて待っててくれる?」
優しく真介に語り掛けると、雪子は立ち上がった。目に見えない埃を掃う様にパンパンとスカートを叩く。
真介は、雪子の言葉を噛み締めながら何度も頷いていた。
「白様、さっきはごめんなさい。私やっぱり行きます。今まで本当にありがとうございました」
二人を見守っていた白は、雪子の言葉に温かい微笑を浮かべて頷いた。
「黒も、本当は私を大事に思っててくれたんだね。ありがとう」
「ふん。私はまだ認めたわけではありませんからね。きっと、後悔することでしょうよ」
黒は、雪子に微笑みかけられると視線を逸らしてぶっきらぼうに答えた。しかし、白髪をポリポリと掻きながら、ポツリと言葉を続けた。
「あー、でもせいぜい後悔しないように頑張って下さいね」
雪子は黒の言葉に、嬉しそうに頷いた。
そして、最後に真介の顔をまっすぐに見つめた。
「大好きよ、真介……絶対に、また会おうね。約束だよ」
「僕も、大好きだよ。待っているから。また、後でね!」
真介の言葉に、雪子はにっこりと笑った。
「うん! また後でね!」
雪子は言って、背中を向けて黒い霧の場所まで歩いていく。その姿を真介達は見送った。
霧に入る前に、雪子は一度振り向いて白や黒に深々とお辞儀をした。最後に真介をじっと見つめると元気よく手を振った。
そして、そのまま霧の中にゆっくりと入り込むとホームから姿を消したのだった。
2年間行方不明になっていた、とある少女が霞ヶ関近辺をふらふらと歩いていたのを偶然保護したというニュースは瞬く間に全国を駆け巡った。
発見当初、少女の記憶は相当混乱しており、失踪当時から発見されるまでの間の出来事を全く覚えていなかった。その為、失踪当日に何があったのか、そして何故解放され霞ヶ関近辺を歩いていたのかの理由が解らず、原因究明にはまだまだ時間が掛かりそうだとの事だった。
しかしなにより一番世間で心配された少女の状態は、幸いな事に心身ともに健康で問題がないとの事で安心された。いや、それどころか不思議なことに、少女の時が止まっていたかのように、少女は失踪当時そのままで、何も異常が無かったとの事だった。
そのような、発見された後も謎が浮かんでは様々な憶測が浮かんでは消える失踪事件の主役である少女の名前は『橘小春』と言い、失踪当時17歳だった人物だった。本人も、失踪から二年の時間が経っていた事実を聞かされると驚きを隠せない様子だったという。殆どの事に対して記憶があやふやな少女であったが、当初「飛び込み自殺」として目撃者が多数だった事についての質問に関しては「今思うととても下らない事で御迷惑をお掛けしました」と理由については語られることは無かったものの、飛び込み自殺をしようとした事実は認めたとの事だった。
もう、あれから4週間か……。
センセーショナルな失踪事件の解決にマスコミがこぞって騒ぎ立て連日大騒動だったあの事件もようやっと下火になってきているようだった。
春休みに入り、温かく穏やかな季節がもう目の前まで来ているようだった。
真介はそんな夕暮れ時にゆっくりと散歩をしていた。今年は厳しく冷え込んだ為か、桜の開花はもう2、3日後という事だったが学校前の七分咲きの桜の花を見るだけで、真介は春の訪れを確信し穏やかな気分になる。そんな風景を眺める中、雪子の事を思い出していた。
あの後、雪子の居なくなった生活はとても辛いものだった。
初日なんて、雪子の事を考えるだけで何も手が付かなくなり、魂が抜けたようだったな。
思い返す自分の情けない姿に苦笑いが漏れる。
たった二週間弱の同棲生活だったというのに、たくさんの大切な思い出が残り、せつなさがいつまでも真介の胸を締め付けていた。
でも……と真介は思った。
時がたてば少しづつ現実を受け入れ、その気持ちから解放されていくのも感じていた。ある意味で助かり、ある意味で残酷な、その時間の流れを痛切に感じていた。
結局、こうなるものだったのかもね。
雪子との生活が薄らいでいく自分の感情に、自分が今期待している気持ちを照らし合わせ自虐的に笑った。そう、あれからもう4週間なのだ。
それでもあの約束を期待して、僕は実家に帰りもせずに夕方になると雪子が居るんじゃないかな? と外に出てあの道まで歩いて雪子を探してしまう。
そんな事、もうあるわけないのに。
女々しい奴だ、と真介は自虐的に笑いながら、今日も雪子と出会った道に辿り着いた。
――と、その時、何かいつもとこの通りの様子が違うことに気が付いた。通りがかる人々が、一人の少女に振り向き注目していたのだ。
そう、一人の少女が、道のど真ん中に立って、こちらを見つめていたのだ。
遠目から見ても解る、黒く艶やかな長い髪。色白の肌、そして特徴的な大きな瞳。
その少女はとても美しかった。
え?
目が合った瞬間真介の足が、ぱたりと止まった。そのあまりの衝撃は真介の全身をがくりと震わせた。あんぐりと口が開き、呆然と立ち尽くしてしまう。自然と涙が毀れてきた。
少女はそんな真介の方に向かって息を切らしながら嬉しそうに走ってくると、真介の顔を見つめニッと笑った。
「あれ? あれれ? 君、もしかして私の事気が付いてる?」
そして何かを思い出させるように少女は、首を傾げながら真介の方を悪戯っぽく覗き込んだ。
「うん、うん」
真介は涙で、声が出せなかった。嬉しくて嬉しくて、何度も頷く。
少女は、真介の首に手を巻き、満面の笑顔で抱きついてきた。
真介はその少女の重みをしっかりと両手に感じると、ぎゅっと強く、ただ強く少女を抱きしめた。少女の温もり、そして鼓動が聞こえる。その幸せに酔ってしまいたくなる。
「ただいま! 真介! 私、忘れて無かったよ! 忘れて無かったよ!」
少女の明るい声が響いてくる中、遠巻きに二人を見つめていた二羽のカラスがいた。
幸福そうな二人の姿を見て安心するように一羽が一声鳴くと、反論するようにもう一羽がけたたましく鳴いていたが、結局はもう一羽に宥められ大人しくなると、沈みかけている太陽の方向に向かい二羽は翼を大きく広げ優雅に飛び去っていった。
完
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2009/02/23(Mon)18:03:17 公開 / もげきち
■この作品の著作権はもげきちさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
もの凄くお久しぶりなもげきち(茂吉)です。
以前、自宅から投稿できずに困り果てていた者ですが、気がつけばこうして無事いつの間にか投稿出来るようになって嬉しく思っております。やったー、また投稿出来るぞー万歳ー(心の声)
色々あったのに、自分はその色々を吸収できてないな、未熟だなと思いながら書いた慣れない恋愛短編小説ですが、これからお付き合い頂けたら幸いです。
というわけでお待たせしました。『君と笑顔の祝福を』完結であります。
最後まで糖分多めの作品として、楽しんで読んでもらえたら幸いであります。原稿枚数をGA文庫さんのテーマ大賞の限界枚数までと決め42文字、32行50枚までとして書いた作品。限界ぎりぎりの50枚目ラストまで行ってしまうギリギリっぷりでした。枚数に合わせる難しさも痛感。色々と敢えて書かずに「そこで何があったかは想像で」というようになってしまった部分もあったりで不親切な感じになった部分もありますが、読後感を大事に出来ていたら……と思っております。
では、最後まで読んでくださった皆様、感想を頂き励みを下さった皆様に多大な感謝と愛を持ってこの作品を終わらせていただきます。(って、まだ手直しで少し上がるかもしれませんがw) また、次回出せるものが出来た時はお付き合いをどうぞよろしくお願いします!
さ、また皆さんの作品の世界を読み耽るぞーぞーぞー(エコー
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。