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『ありがとう、さようなら』 ... ジャンル:異世界 未分類
作者:ケイ
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あらすじ・作品紹介
死後の世界に入ってしまった修二。彼は、そこでたくさんのことを学びます。そして、最後に彼が見つけた答えとは……。
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「なあ、死んだ後どうなるか知ってるか?」
こんな疑問誰もが一度は思ったことあるだろ?声に出したり、心の中で呟いたり。答えてくれる人なんていないと思ってた。みんな死んでんだもんな。
俺だってそう思ってた。まさか自分が知ることになるなんてな。
そう、始まりは僅か数時間前の話からなんだ。
九月の上旬。中途半端な季節だ。過ごしやすい季節だ、なんて言う奴がいるがとんでもない。
秋は俺が一番嫌いな季節だ。別にあの出来事があったからって言う訳じゃない。
ただ、もう過ぎた夏を思い出させるような暑い日があったり、早く来過ぎた冬のせいで衣替えをしたりと
はっきりしない季節だからだ。
家の近くの商店街。つい最近できた大型ショッピングセンターのせいで、人通りが今までより少なくなっている。
そんなひっそりとした夕方の通りを二人の男女が歩いている。
「なんだかこの商店街もさみしくなっちゃったね、お兄ちゃん」
並んで歩く十五歳程度の少女が寂しそうに隣の兄に話しかけた。
「香奈は小さい頃から、この商店街が好きだったもんな」
兄は周りを見渡しながら呟いた。
「お兄ちゃんだって好きだったじゃん」
「俺は近くて便利だからここに来てたんだよ」
兄が少しムスッとした顔で答える。
「嘘つき。私覚えてるもん。お兄ちゃんが小さい頃、なにかあるとすぐお母さん達に
ここに来たいって言ってたじゃん」
香奈と呼ばれた少女がニヤニヤしながら兄を見た。
「うるさい。お前はどうでもいい事ばっか覚えてるんだな」
「どうでもいい事ばっかなんてひど〜い。せっかくの兄妹の思い出なのに」
「よく言うよ」
兄妹の他愛もない会話と笑い声が商店街に響いた。
香奈は俺の妹。十五歳の高校生で、普段は明るくよくふざけているが、学校では結構な優等生らしい。
そして俺、名前は谷崎修二。十九歳の大学生で生まれてからこの町を離れてない。
「香奈、もう夕飯の材料はそろったのか?」
「そろったと思うよ。今日の夕飯はカレーだね」
「香奈は料理上手いよな」
「お兄ちゃんだって上手じゃん」
「俺のはあくまで一人暮らしするかもしれないから覚えただけさ」
「ふーん。お兄ちゃんに褒められるとなんか照れるな」
香奈が嬉しそうに笑う。
「あっ、お父さんの車。もうお父さん帰ってるんだ」
香奈が、家の駐車場と呼ぶには狭すぎるスペースに窮屈そうに停められた白い軽自動車を指差しながら声を上げた。
我が家は築十九年の一戸建てだ。俺が生まれたときに引っ越してきたらしい。
「ただいま〜」
香奈の明るい声が家中に響く。
「おう、お帰り。ほとんど同じタイミングだったな。」
リビングやキッチンにつながる奥の扉から髪の毛がすこしピンチの男が顔を出した。
これが俺の父さん。名前は達夫、サラリーマンの四十七歳。母さんとは同じ出身地で、さっき言ったように結婚してしばらくしてから、この家に引っ越した。
母さんは昔から体が弱く、今も入院している。この町に引っ越したのも母さんのためだった。
地元では母さんは人気者だったらしく、名前が恭子だったのでみんなからキョウちゃんと呼ばれていたらしい。
今でも地元の友達がたまに見舞いに来てくれると、一日中楽しそうに喋っている。
香奈の明るさ等の性格は母さんゆずりだろう。
「今日の夕飯はカレーか」
父さんがレジ袋の中身をテーブルに広げながら聞いてきた。
「そうだよ。久しぶりに父さんが作ってみる?カレーぐらいならなんとかなるでしょ」
俺は少しニヤニヤしながら父さんに聞いた。
「よせよ。父さんは料理なんてほとんど出来ないんだから」
「分かってるよ。冗談だって」
父さんはやれやれと言いながら、洗面所へと入っていった。
「お兄ちゃん大変」
冷蔵庫の方から香奈の声が飛んできた。
「どうした?」
「鶏肉がないの」
香奈が情けない声で言ってきた。
「買い忘れたのか?」
「多分」
「しょうがないな、今から買ってくるよ」
俺はソファに掛けた上着を取った。
「どこか出かけるのか?」
洗面所から父さんが出てきた。
「鶏肉を買い忘れたみたいなんだ。今から買ってくるよ」
上着に袖を通し、財布をポケットに入れながら答えた。
「鶏肉ぐらいなくたってカレーはできるだろ。外はもう暗くて寒いから行かなくていいよ」
「いいよ、鶏肉ぐらいすぐそこで買えるから。おーい香奈、カレーの下準備だけしといてくれ」
俺は玄関の前に立ちながら香奈に叫んだ。
「わかった」
キッチンから香奈の返事が返ってきた。
「いってきます」
「車に気を付けるんだぞ」
「わかってるよ」
俺はそう言って日が短くなってきた秋の夜に出かけた。
外は思ったより涼しかった。
(結構涼しいな。早く買って帰ろう)
そう思ったのがいけなかった。少し早歩きで交差点を渡った瞬間。トラックが右折して俺の方へ走ってきた。トラックのライトだけが一瞬見えた。
その後、俺の目はなにも見えなくなり意識を失った。
「お兄ちゃん遅いね」
家では香奈が待ちくたびれたようにソファの上で足をぶらぶらさせながら、バラエティー番組を見ていた。
「修二のことだからいい肉を選んでて遅くなってるんだろ」
下準備を終えたカレーの具材を眺めながら達夫が答えた。
ピリリリリ ピリリリリ
電話が鳴る。
達夫が電話に出た。
達夫の手から受話器がこぼれ落ちた。
この出来事が僅か数時間前に、俺と俺の家族に起こった出来事なんだ。
意識を失った後、俺はどのくらい意識がなかったかも分からないほど、暗闇の中にいた。
目を開けてみると薄暗く、周りも暗く何も見えず、ただカビ臭かった。
(まいったな。ここどこだろう?病院でもないし、あの交差点でもない)
そう思いながらゆっくりと腰を上げてみる。周囲が見えないから、歩くのもままならない。
数歩進んですぐに足を止めた。
(どうしよう、早くここから離れたいんだけどな。香奈も心配してるだろうし。とりあえず進んでみようかな)
思い直して再び歩き始めたとき、どこからともなく、声が聞こえた。
「お前の妹の事は心配ない。お前がどうなったかお前より詳しく知っている」
「誰だ?俺の事も香奈の事も知っているのか?」
得体の知れない声で、不安になりながらも修二は謎の声に答えた。
「そうだ、よく知っているぞ。お前達自身が知らないことまでしっかりとな」
低く、重くのしかかるような声が返ってきた。
「知っているなら教えてくれよ。俺はどうなったんだ?」
不安を抱きながら尋ねる修二の声は、本人にしか分からないほど小さく震えていた。
「まだわからぬか?よかろう、教えてやる。あの交差点を覗いてみようか」
「声」がそう言うと、今まで暗くて何も見えなかった周囲の一部分がぼんやりと光だし、少しずつ透明になっていった。
暗闇に慣れていた修二には、少し眩しすぎて目を細めた。
やがて透明だった部分は、さっきの交差点を映していた。
そして修二は交差点の脇に立っていた。
(あれ?戻ってこれたのか?)
そう思った修二の視界に予想してないものが入ってきた。
歩道のガードレールに衝突したと思われるトラック。
車道には急ブレーキを掛けた跡があり、人だかりができていた。
道には救急車も来ており、救急車に一人の青年が担ぎこまれていた。
(え?これって一体……?)
修二の家の方角からは白い軽自動車がやって来た。
車の中からは、男性と少女が嫌な予感が外れていますようにと願っているような顔で出てきた。
(父さんの車だ……。香奈もいる。)
男性は救急隊員と話し、少女は今にも泣き出しそうな表情で青年の下に駆け寄った。
(どうしたんだよ香奈?何でそんな顔するんだよ?)
救急隊員が首を横に振ると、男性は魂が抜けたようにうなだれ、少女は静かに眠る青年の横で、大声で泣き始めた。
「香奈、父さん。俺はここにいるよ?どうして二人とも泣いてるんだよ?」
そう言おうと思った瞬間、修二は引っ張られるような感覚を感じると、さっきまでの暗い空間に立っていた。
「自分に何が起こったか分かったかな?谷崎修二君」
さっきまで聞いていた低い声がまたもや聞こえてきた。
「あ……あれって……何が……ど……どうなってんだよ?」
さっきの声より大きく震えだした声は修二自身でも抑えられなくなっていた。
「ふぅ……。まだ分からないのかね?」
ため息と共に失望したような声が聞こえた。
「分からないって……。分かっていても認められるわけないだろ!」
思わず修二の声が荒く大きくなる。
頭の中ではとっくに理解もしていたし予想もしていた。でも、心はそれを認めようとはしなかった。
心のどこかでそれは違う。自分はここにいる、という声が叫んでいた。
しかし、父親と香奈。そして交差点の状況を見れば自分に何が起こったのかは一目瞭然だった。
「俺……死ん……でる?」
なんとか絞り出した言葉は掠れていた。このたった一言を声に出すのが修二は怖かった。
声に出すことによって幻でなく現実になってしまいそうで、自分で認めてしまうようで。
怖かった。 今まで体感したことのない恐怖が修二に押し寄せた。
「その通りだ」
少し間を置いてから「声」が答えた。
「そんな……。嘘だ。嘘に決まってる。そんな事あるわけない」
修二は必死に自分に言い聞かせた。自分が悪い夢でもみているように。
「君の気持ちも分からんでもない。だが落ち着いて現実を見ろ」
「声」が諭すようにゆっくりと話した。
「嘘だ……。俺は鶏肉を買いに……」
修二は「声」からも逃れるようにブツブツと独り言を続けた。
「いい加減に目を覚まさないか、馬鹿者!」
低く、落ち着いていた声が荒くなった。
修二の独り言は治まった。
「誰でも未知の世界に自分がいて、自分が死んだなんて言われればそうなる。だが、そこで逃げるな。
逃げれば負けたことになるぞ。現実を見て立ち向かい、打ち勝ってみせろ」
声を聞いた修二は、少しずつだが落ち着きを取り戻した。
「どうすればいい?俺はどうすればいいんだよ!?」
「下界で死んだ者にはこちらの世界で仕事があるのだよ」
「声」はいつもの調子に戻りながら答えた。
「仕事?」
予想していなかった返答に修二は驚いた。
「その説明のためには、この暗闇を消さなければな」
そう言うと、周囲の暗闇が徐々に晴れていった。
修二は怪しげな紋章の上にいた。
「こちらだ、谷崎修二」
声が聞こえた方に振り向くと、そこにはあご鬚を生やした四十代の外国人と思われる男が、
思わず目をつぶってしまうような、明るい白のコートのような服を着て立っていた。
「外国人?」
さらに予想外の出来事に修二はまたしても驚いた。
「外国人だから何だ?お前は外国人は死なずに、日本人だけが死んでいると思っていたのか?」
男はまたもや失望したような声を出した。
「そんなわけないけど……っていうことはあんたも死んでいるのか?」
「ようやくわかったか」
男は少し可笑しそうな笑みを浮かべた。
「外国人なのにどうして言葉が通じるんだ?」
「死後の世界に日本語だの英語だのがあると思っていたのか。さっきから話していると、お前は頭の回転が悪いようだな」
「そういうわけじゃないさ。こんな状況になれば誰だってそうなるだろ?」
「確かにな、私も最初はそうだった。だが、今はそんな昔話をしている場合ではない。本題に入ろう」
そう言うと男は真面目な顔になった。
「あんたさっき、仕事があるって言ったよな?」
修二が尋ねる。
「仕事?たくさんあるぞ。それより、私の名前は『あんた』じゃない。『ゾーン』だ」
「俺の名前だって『お前』じゃない。俺のフルネームを知っているなら、ちゃんと呼んでくれよ」
「谷崎修二。この世界ではお前は私より年下で、身分も低いのだ。お前は私に逆らえないし、意見も言えないのだ」
「何だよそれ。そんなことがまかり通ると思っているのか?」
「それがこの世界の掟だ」
ゾーンはきっぱりと言い放った。
修二は不服そうな顔を見せたが、右も左も分からない世界で一人になるかもしれない心細さには勝てなかった。
「それでいい」
ゾーンは満足そうな笑みを浮かべた。
「この世界の仕事は大きく分けて二種類ある。一つ目は、人間の死と死に関する運命をつかさどる『黒の司』
2つ目は、人間の生と生に関する運命をつかさどる『白の司』だ」
「『黒の司』と『白の司』……。その二つのどちらかに俺もなるのか?」
「人間が死んだ時に、その人間がどうなるかはすでに私達が決めている。
『黒の司』になる者もいれば、『白の司』になる者もいる。中には、どちらにもならず本当の死後の世界に行く者もいる」
「じゃあ俺はどっちなんだ?」
「私は『白の司』、お前の導師だ。つまりお前は、『白の司』だ」
「俺が……『白の司』。ってちょっと待てよ、あんたが俺の師ってどういうこと?」
「はぁ……。これだけ言ってまだ分からんのか?言葉通りに解釈すればいいと私は思うのだが?」
「確かに。でもなんであんたなんだよ?」
修二は疑わしげな眼差しをゾーンに向けた。
「他の導師は皆弟子が何人もいて忙しいんだ。名誉に思え、私は『白の司』の中でも5本の指に入る導師だぞ」
ゾーンは誇らしげな顔で修二を見た。
「それより、さっきから出てくる導師って何なんだよ?」
「おお、まだ言ってなかったな。導師とは、お前のような死んだばかりの者を立派な『司』に育て上げる『司』
の事だ。導師になるには、多くの修行と試験があり、それに合格しなければならないのだ」
「へえ、大変そうだね」
「まあいい。今から『白の司』の仕事について説明するからついて来い」
そう言うとゾーンは暗闇へと歩き始めた。
暗闇と言ってもゾーンが現れたときから若干明るくなっており、修二も歩くのには苦労しなかった。
十分ほど歩くと分かれ道に着いた。ゾーンは左へと進み始めた。
「右の道には何があるの?」
「『黒の司』達がいる死の神殿だ。特別な事でもないかぎり、向こうへ入ってはいけん」
「どうして?」
「基本的に『白の司』と『黒の司』はあまり仲がよくない。下界の人間を殺すか殺さないかで小競り合いもよく起こる。
だが、後で特別に『黒の司』の首司に会わせる。『黒の司』のボスだ」
「なんで?」
「お前は人に聞いてばかりでなく、自分の頭で考えたらどうだ?両方の『司』のトップには相手の『司』の人数や
名前等を知らせなければならないのだ」
「それもこの世界の掟?」
「そうだ。少しはこの世界の事が分かってきたみたいじゃないか」
ゾーンは一瞬笑うと、すぐに元の顔に戻った。
その後、二人は喋らずに二十分ほど歩いた。二人の目の前にゾーンが着ている服と、同じような色をした巨大な門が現れた。
だが門の色はゾーンの服よりも、より眩しく、より神々しく見えた。
「ここが生の神殿だ」
そう言ってゾーンが片手を門に当てると、一瞬門に波紋が広がり、門が開き始めた。
「『白の司』にしか開けられない門だ」
ゾーンはさっさと入っていったので、修二は門の装飾を見る暇もなく、急いでゾーンの後を追った。
生の神殿は壁や柱から、家具や本まで全ての物が神々しく輝いていた。そのため修二は慣れるまで、目を細めて歩かなければならなかった。
歩く途中、何人かの『白の司』に出会った。外国人が多かったが、日本人と思われる『司』も見かけた。
あたりを見ながら歩いていたため、前で止まっていたゾーンにぶつかってしまった。
「どうしたの?」
まだしっかりと開けられない目を、ゾーンに向けながら尋ねた。
「この扉の奥には『白の司』の首司、大導師ヴォルフ様がおられる」
「首司?『白の司』のボスか?」
「そうだ。失礼のないように振舞えよ」
「分かってるよ。俺だって礼儀ぐらいわきまえてるさ」
「それなら結構。……我らが首司、大導師ヴォルフ様。『白の司』の導師、ゾーンがお目にかかりたく参りました」
ゾーンは一度深呼吸した後、一気に叫び終えた。
すると、最初の門と同じように一瞬波紋が広がり、扉が開き始めた。
やはり部屋は白く輝いており、壁と床と天井の区別がつかず、無限に広がっているように感じた。
さっきまでのような家具などといった物はなく、ただ一つだけ、純白の一人掛けのソファのような物が置いてあり、
その上には一人の男が座っていた。男は長い金髪のストレートヘアで、琥珀色の瞳で、見ていると吸い込まれそうだった。
男の服は今まで見たことのない色に輝いていた。誰が見ても、男が何人かは分からなかっただろう。
むしろ、男は人間というより、下界でいうエルフ等に似ていた。
「よく来ましたね、ゾーン」
ヴォルフは不思議な微笑みを浮かべて語りかけた。
ヴォルフの言葉には人を落ち着かせるような不思議な力を修二は感じた。
「はい、こちらが私の弟子谷崎修二です」
ゾーンが隣にいる修二を指しながら答えた。
「そなたの弟子は目が開けぬのか?」
ヴォルフは可笑しそうに尋ねた。
「はい?」
ゾーンはすこし驚いた様子で自らの弟子を見た。
修二はより眩しくなったヴォルフの部屋で、いまだに目をしっかり開けられずにいた。
「申し訳ありません。恐らく、まだ生の神殿や大導師様の部屋の明るさに、慣れていないのだと思います」
ゾーンは下を見ながら、申し訳なさそうに答えた。
「そうか。今来たばかりなのだから仕方あるまい」
ヴォルフはまだ可笑しそうに微笑みながら言った。
「修二よ。主はこれから自分がどのような仕事をするか分かっているのか?」
「いえ、まだ分かっておりません」
修二は慣れない話し方で、少し噛みながら答えた。
「『白の司』の仕事は、簡単に言うと人の寿命の延長だ。あの人間はまだ死なす必要はない、
あの人間を死なすのは惜しい。そういった人間の運命を少しいじり、寿命を延長させるのだ」
「その人間は自分で選ぶのですか?」
修二の心に父と香奈の顔が浮かび、修二は耐え切れなくなって尋ねた。
「自分では選べぬ。白い審議会で、寿命が近い人間について話し合うのだ。その審議会には、
主のような弟子の身分の者は出席することもできない」
「そうですか……」
「主は自分の大切な人の寿命を延ばそうとしたかったのか?」
ヴォルフの全てを見透かしたような目が修二を捕らえた。
「はい……申し訳ありません」
修二はヴォルフの目を見ることができずに、下を向いてぼそぼそと答えた。
「確かに最初にここに来た者は皆そう思う。しかし、審議会の命令に従わず、己の私情に流され
運命を書き換えた者には、厳重な処罰が下される。気を付けたまえ」
「はい……肝に銘じておきます……」
「よろしい。ゾーン、修二を連れて説明をして回ってきなさい」
ヴォルフは修二から視線を外し、ゾーンへと向けた。
「はい、分かりました」
そう言うと、ゾーンは修二を連れて部屋を出た。
恭子は少し狭く、薄暗い病室目を覚ました。夢を見ていた。修二が生まれたばかりの頃、家族三人で行った公園の夢だった。
公園で、恭子と達夫の前に修二が立っていた。二人とも呼びかけるが、修二は動こうとしない。
二人は呼び続けるが、修二は背を向けて反対側に歩き始めた。恭子は追いかけようとするが、足が動かない。
修二が振り返って、もがいてる恭子と達夫を見たときに修二の声が聞こえた。
(駄目だよ、母さん達が来ちゃ駄目だ。そこから先は……俺の世界だから)
修二はそう言ってにっこり笑うと、奥の林へと消えていった。最後に修二が見せた笑顔は、十九歳よりもっと大人っぽい、
恭子が今までに見たことのない笑顔だった。
夢はここで終わった。少し薄手の布団で寝ていたにもかかわらず、背中には汗が流れていた。
妙な胸騒ぎがするので、少し外に出ようと思い、スリッパを履いて出入り口をふと見たら、達夫と香奈が立っていた。
「どうしたの二人とも?まだ七時よ?お父さんさっき来たばかりじゃない。夕飯はもう食べたの?」
いきなりの訪問に驚きながら、恭子は笑顔で尋ねた。
そんな恭子の様子を見て、香奈が我慢しきれずに涙をこぼし始めた。
そんな香奈を達夫は腕で抱き寄せて、頭を撫でた。達夫の目にも涙が溜まっていた。
「ちょっと、本当にどうしたの?そういえば修二は?廊下で待ってるの?」
恭子は精一杯の笑顔を作りながら、さきほどの問いに答えない二人にもう一度尋ねた。
「恭子、気をしっかり持ちながら聞いて欲しい」
達夫は真剣な眼差しを恭子に向けた。
「嫌よ。聞きたくない」
恭子の頭にさっき見た夢がよぎり、思わず拒否した。
「恭子……」
達夫がゆっくりと修二の事を話し始める。
香奈はさっきより激しく、声を上げて泣いた。
「修二……」
恭子はその場に崩れ落ち、声を上げずに静かに泣いた。
病室の窓からは月の光が差し、泣き崩れる恭子と、父親の胸で泣く香奈と、二人を強く抱きしめる達夫を
照らしだしていた。
「次は『黒の司』の首司だ」
そうゾーンに言われて、二、三十分ほど歩いてようやく死の神殿の門の前に着いた。
「開けるぞ。いいか?『黒の司』の前では、さっきよりも礼儀をわきまえるんだぞ。
特に、首司の前ではな」
「どうして?」
「私達のせいで『白の司』と『黒の司』が争いを始めたらどうなると思う?」
「両方とも人間の運命を司っているから……」
「いいところまでは行ってる。珍しくな」
「最後の一言は余計だろ」
修二は少し不機嫌は顔で答えた。
「両者によって人間の運命は、大きく書き換えられるだろう。何十万人もの人が、死ぬべきではないときに
死んでしまうかもしれん。寿命だった人間が何年も、何十年も生きながらえるかもしれない」
「死ぬのは駄目だけど、どうして生きるのがそこまで駄目なんだよ?」
「よく考えろ修二。死ぬべき人間が生きれば、生まれるべきではない命が生まれてしまうのだ。
その人間が、大量殺人や大きな事故を起こしてみろ、人間の世界は大きく変わってしまう。我々の手に負えないほどにな」
「生まれるべきでない命……ひどい言い方じゃないか?生まれてきたなら生きる権利があるはずだ」
「無論その通りだ、我々も殺そうと考えている訳ではない。ただ、その者によって世界が少しでも変えられたら
運命の歯車は狂いだすのだ」
「でも……」
「行こう、死の神殿の近くにいると話題まで暗くなっていくような気がする」
ゾーンに促されるまま修二は門を通り抜けた。
死の神殿は生の神殿とは逆で、全体的に薄暗く、ねずみが走り回っていたり、クモが巣をはっていたりした。
さきほどのヴォルフの部屋の扉のような装飾は一切されておらず、寒々しい鉄の黒い扉が二人の前に現れた。
「『白の司』のゾーンだ、新しき『白の司』をご覧に入れたく参った」
ゾーンがさきほどよりぶっきらぼうな声で叫んだ。
「入れ」
一瞬修二に、背中に氷を当てたかのような悪寒が走った。
奥から聞こえた声は、恐ろしく低く冷たい声だった。
二人はゆっくりと進み始めた。周囲には、緑色の炎がゆらめくたいまつしか見えず、二人はほとんど手探りで進んだ。
修二は首司のいる所まで、永遠に着かないのではないかと思うほどゆっくりと歩いた。
少し歩くと、椅子のような輪郭がぼんやりと見えてきた。椅子には首司が座っていた。
「ゾーンか……、横にいるのが新入りか?」
『黒の司』の首司は大男だった。二メートルは超えているであろう巨体で、上から見下ろしてくるので威圧感は凄まじかった。
服は、人間が考えた死神そのもののようだった。ゾーンの服にも似ていたが、ゾーンのとは違い真っ黒だった。
「そうだ、名前は谷崎修二。死亡時刻は六時三十四分、商店街前の交差点にてトラックに轢かれ死亡」
ゾーンが修二の死因など、詳しいことを説明した。
「ふむ、命の書と変わりはないな」
首司は分厚い本を見ながら答えた。そして、本を閉じると修二を見つめて、自己紹介を始めた。
「紹介が遅れたな。俺の名前はダスク、『黒の司』の首司だ。お前の知人が死ぬときは、俺が命の書に書き込んどいてやるよ」
ダスクはそう言うと、低く、くぐもった声で笑った。
「ダスク、新入りをあまりからかわないでほしいな」
ゾーンがきっぱりと言った。
「わかったわかった。ところで、名前を谷崎修二と言ったな?」
「そうですけど」
修二は早くこの場から立ち去りたくて、イライラした声で答えた。
「命の書を調べてやるよ」
ダスクはそう言うと、さっきの分厚い本をめくりだした。
「あの……命の書って何ですか?」
「命の書ってのは人の運命が書かれている本だ。俺たちはこの本に人の運命を書き込んで、運命を操作する。『黒の司』の命の書に載ってる
人間は寿命じゃなく、病気や事故で死ぬ運命の奴だ」
ダスクはページの文字を指でなぞりながら答えた。
「んん……どこだ?」
「はぁ……さて、用件も終わったしそろそろ我々は帰らせてもらうぞ」
ゾーンが扉へ向かい歩き始めた。修二も命の書が気になったがゾーンの後を追った。
「おお、あったあった」
二人が死の神殿を出た頃、ダスクが声を上げた。
「谷崎修二の知人の運命はと……恭子と香奈、母親と妹か。ついてないな、あいつも」
そう言うとダスクはまた笑い始めた。
家のリビングでは、香奈と達夫がソファに並んで腰掛けていた。
二人とも疲れきった顔で、香奈の目は赤くなっていた。
「ねえ父さん」
香奈が重い口を開いた。
「どうした?」
「私たち、これからどうすればいいの?」
「父さんもわからないよ、母さんもあんな状態だし……」
「お母さん、ショックだったよね……お兄ちゃんが……」
香奈の目から涙がこぼれだした。
「香奈……今日はもう遅い。寝なさい」
達夫に促されるまま、香奈は寝室へとゆっくり歩いていった。
達夫は冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座りながらゆっくりと飲んだ。
飲みながら何度も、ビールの缶を壁に投げつけてやりたくなった。
必死に震える手を抑えながらビールを飲み終えた。
ゆっくりと立ち上がり、缶をゴミ箱に捨てた後、棚の上に置いてある、家族全員が写ってる写真を見て、
達夫はソファに倒れこんだ。湧き上がる感情が抑えきれなくなったのだ。
修二はいない。さっきまで目の前にいて、冗談を言っていた息子はもういないのだ。
達夫は泣いた。どのくらい時間がたったのかわからないほど。
時計の針が朝の三時を指していた。
「お前の部屋だ」
そう言われて修二が案内されたのは、生の神殿にある小さな部屋だった。
部屋にはベッドやトイレなど必要最低限の家具しか置いてなかった。
「何にもない部屋だな」
修二は思わず本音をもらした。
「導師になればもう少しちゃんとした部屋に住めるさ」
ゾーンが周りの家具を点検をしながら答えた。
「ところで『白の司』の仕事はいつ教えてもらえるのさ?」
修二がベッドに座りながら尋ねた。
「今日はもうお終いだ、寝ろ。仕事は明日説明する、夜更かしするんじゃないぞ」
ゾーンは早口で言うと、扉を開けて出て行った。
修二はベッドに横になって、今日一日の出来事を思い出していた。
さっきまで香奈や父さんと一緒だったのに。いつの間にか変な世界に紛れ込んでしまった。
帰りたいな。ビンの栓が外れ中身が溢れ出すように、修二の心から今まで忘れていたような感情が流れ出した。
帰りたいよ、父さん、母さん、香奈。修二は死んでから初めて涙をながした。
ベッドの上で、小さな子供のように父や母に会いたいと願った。しかしそれは叶わぬ願いだった。
修二は、疲れて眠りに落ちるまで泣き続けた。
朝になり、ゾーンが扉をたたく音で修二は目を覚ました。
「起きろ、修二。仕事の時間だ」
ゾーンが部屋に入り、修二の肩をたたきながら言った。
「もう朝なのか?」
寝付きが悪かった修二は、寝ぼけたような顔をゾーンに向けた。
「この世界には、時間という概念はない。時間がなければ朝も夜もない、いつも同じだ」
修二は寝不足だったが、仕方なく起きた。
寝る前に泣きじゃくったため、思いのほかすっきりしており、かえって開き直ったような感覚になった。
しかし、ゾーンは修二の目が赤くなっているのを見逃さなかった。
「泣いていたのか?」
ゾーンは問うべきか迷った質問を修二にぶつけた。
修二は一瞬固まった後、偽らずに話し始めた。
「泣いたよ。家族の所に帰りたいって、でももう無理なんだよな。死んでるんだよな。
寝る前までは辛かったよ、一人ぼっちだったから。だけどもう大丈夫、開き直ったから」
ゾーンには、そう言った修二の目に、涙が溜まっているように見えた。
「そうか、それはいい。家族の事を想いながら、己の事も自覚できるやつは、いい『司』になれる」
ゾーンはそう言いながら修二の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「やめろよ、気色悪いな」
修二はそう言って笑いながら、手を振り払った。
「気色悪いとはひどい奴だ。せっかく人が褒めてやろうと思ったのに」
「その手が余計だって言ってるんだよ」
「フフフ……。まあいい、それより今から『白の司』の仕事について本格的に説明する。よく聞けよ。
とりあえず、今からいかなければならない場所がある、着いて来い」
ゾーンはそう言うと、さっさと扉を開けて出て行った。
修二は慌てて後を追った。
「その場所に行く前に、この服に着替えろ」
そう言われて渡された物は、真っ白なローブだった。白の明るさは、ゾーンには劣っていたが、人間界では見られない白さだった。
「すごいな……、でも歩きながらどうやって着替えるんだよ?」
「そのままはおってみろ」
修二は試しにはおってみると、一瞬で修二の服はなくなり、同じく真っ白な下着とローブを着ている格好になった。
「すごいな……、一体どうなってるんだ?」
修二は思わず、同じ感想を漏らしながら尋ねた。
「さあな、私にも分からん。この世界では、理解できない出来事が幾つかある。その全ての理由を考えていると、
本来の仕事が出来なくなってしまうからな」
ゾーンは大股で歩きながら、修二を見ずに答えた。
二人が生の神殿の中を十分ほど歩くと、『白の司』が集まっている場所が見えてきた。
「ゾーン、あれは何?」
修二は人ごみを指しながら聞いた。
「あれは人間界への門、輪廻の門だ」
「ふーん、人間界への門って事は帰れるのか?父さん達の所へ」
修二は興奮気味に尋ねた。
「落ち着け、修二。死んだ者が生き返るわけないだろう」
ゾーンが冷静な声で答えた。
「だったら何なんだよ?」
修二がそわそわしながら尋ねる。
「確かに、輪廻の門を通って人間界に戻ることはできる。しかし、人間界に滞在できるのは三日間だけだ。
それ以上留まると、消滅する」
ゾーンは輪廻の門に向かいながら答えた。
「一度帰ってきたら何度でも行けるのか?」
修二は明らかに落ち着きをなくしていた。
「一度帰ってくると、人間界でいう一日の間は向こうへは行けない」
ゾーンは人ごみを掻き分けて、輪廻の門の前に立って言った。
輪廻の門は、色が何色にも変化しながら光っていて、白い物しかない生の神殿の中では際立っていた。
「行くぞ、準備はいいか、修二」
ゾーンは修二に一声掛けると、門を一押しして、眩しい光の中へと進んでいった。修二も目を細めながら光の中へ飛び込んだ。
光の中に入ると、まるで無重力のような感覚になった。辺り一帯は乳白色の霧のようなもので包まれていた。
「修二、こっちだ」
遠くからゾーンの声が微かに聞こえた。
「どっちだよ?ゾーン?」
修二は大声で呼びかけてみたが返事はなかった。仕方なく、声が聞こえたと思われる方向へと無重力の中を
浮きながら、ゆっくりと進んだ。
進むにつれて、だんだんと重力の感覚が戻ってきた。しばらく進むと、下へ下へと引っ張られた。
速度が上がり、目も開けられないほどになったとき、修二は地面に倒れこんでいた。
修二の頬に冷たいコンクリートが触れていた。ゆっくりと顔を上げると、そこはあの交差点だった。
「あれ?戻ってきたのか?」
修二はぼんやりした頭で考えた。
「いい加減、その甘えた考えをやめたらどうだ?」
交差点の向こう側にはゾーンがスーツを着て立っていた。
気づくと、修二もゾーンと同じくスーツ姿だった。
「もう開き直ったんじゃなかったのか?」
ゾーンが道を渡りながら尋ねた。
「仕方ないだろ、いきなりの出来事で驚いたんだから」
修二は立ち上がり、服に付いた汚れを取りながら答えた。
「まあいい、それより胸ポケットに手帳とペンが入っているだろう?」
ゾーンが自分のを取り出して見せながら言った。
修二がポケットの中に手を入れてみると、手帳とペンが出てきた。
手帳は真っ黒く、ペンも地味なデザインだったが両方とも金色の鶏が描かれていた。
「これは?」
修二は二つをじっくり眺めながら言った。
「命の書の小さいタイプだな。今から、私たちが生かさなければならない人間の名前などが手帳に書いてあるだろう」
修二は手帳をめくってみると、数人の名前が書いてあった。
「今から、上から順番に書いてある人間の運命を変える。最初の運命を変えるときは、お前はしっかり見ておけ」
ゾーンはそう言うと、また交差点の反対側に歩き出した。
「なあなあ。この世界にいるとき、人には俺たちが見えるのか?」
後から追いついた修二が尋ねた。
「見えるが知り合いと会って会話することは、掟で禁じられている」
ゾーンは修二の考えを見抜いて答えた。
「じゃあ、遠くから見るのは?」
修二は遠慮がちに尋ねた。ゾーンの足が止まった。
「会いたいのか?」
「ただ遠くから眺めるだけでいいんだ、一目見ておきたいんだ」
「運命を変えてからにしろ」
ゾーンはそう言うと再び歩き始めた。
「最初に運命を変えるのは誰?」
「手帳に書いてあるだろう、加賀美樹二十六歳。彼女が後に産む子供は大きな発見をする。
ここで死んでもらっては困る人間だ」
「大きな発見ってなに?」
「そんなことは知る必要はない。導師だけが知っていればよいのだ」
「わかったよ、加賀さんは何で死ぬの?」
「不運にも通り魔殺人に巻き込まれる、死者三名、重傷者五名の大きな事件だ。
この場所が事件が起こる場所だ。そこに隠れるぞ」
そう言ってゾーンが隠れたのは、通りにある一軒の雑貨屋だった。
「今は九時二十七分、二十九分に犯人が来るぞ」
ゾーンは手帳とペンを構えた。
修二は二分間が永遠のように感じられた。通り過ぎる人を見ては、加賀美樹ではないかと目を向けた。
「そういえば、どうやって被害者を見極めるんだよ?」
「見極める必要はない、命の書の運命によれば、事件が起きるときの最初の被害者は彼女ではない。
事件が起きてから対応すればよいのだ。それに、ペンと手帳を持てば、運命を変えるべき者の名前が見えるようになる」
「どうして俺は見えないの?」
「まだ未熟だからな、一人の運命を変えれば見えるようになるさ…来るぞ」
ゾーンが言った瞬間、通りで悲鳴が上がった。男が一人、手にサバイバルナイフを持っていて、その下には男性が一人倒れこんでいた。
修二が通り魔に目を奪われている頃、ゾーンはすでに手帳に加賀美樹の新たな運命を書き込んでいた。
通り魔は逃げまとう人を追いかけていた。修二は急いで目を放し、ゾーンの手元を見つめた。
ゾーンの手帳にはこう書かれていた。加賀美樹、通り魔に襲われるも、直ちに駆けつけた救急車により、病院にて一命を取り止める。
すごい。修二の素直な感想だった。事件が起きてから僅か十数秒で加賀美樹の運命を書き換えた。
命の書には、人の運命の一部し書かれていない。事件や事故が起きてから運命を考えたのだ。
「一人目は終わったな。次に行くぞ」
ゾーンはそう言うと、雑貨屋から出て、さっさと歩いていった。修二も慌てて、警察や人だかりのなかに消えたゾーンの
後を追った。
「やり方はだいたいわかっただろ?」
「まあね、でもあれだけ速く書けるか分からないな」
修二は手帳に書いてある、次に運命を変える人間の名前を見ながら答えた。
「崎本大紀二十四歳、工場で働く労働者。作業中に爆発事故が起こり死亡する」
修二は運命を読み上げた。
「そういえば、命の書に先に運命を書いとけば大丈夫じゃないの?」
修二はふと感じた疑問を聞いてみた。
「命の書は、事故や事件が起きる一分前からしか、書けないようになっているのだ。しかも事故が起きる現場にいなければな」
「意外と不便だな」
修二は不満そうな顔で手帳を見ながら呟いた。
「人の運命を変えるのだ、軽々しく変えてよいものではない」
ゾーンが厳しい顔で言った。
「場所はここだな」
修二とゾーンの前には多くの煙を吐き出しながら稼働している工場が建っていた。
「あの……何か御用ですか?御用なら工場長を呼んできますが」
気づくと修二達の前に青年が立っていた。
「いえ、結構。たまたま通りがかっただけですから」
ゾーンはそう言って、修二を連れて工場の敷地の外に出た。
二人は工場の脇にある社宅にあるベンチに腰掛けた。
「今の時刻は午前十一時四十九分、事故が起きるのは五十五分だ」
ゾーンが時計を見ながら言った。
「手帳になんて書けばいいんだ?」
修二は手帳とペンを持ちながら、ゾーンに尋ねた。
「それぐらい自分で決めろ、結局は生き残ればいいのだ。病院に行っても、かすり傷で助かっても、
運命の歯車はきちんと動くからな」
「でも入院している間に運命が変わることはないの?」
「そのような場合もある、そのときは事故が起こる前に無傷で助かるような運命にしておくんだ。手帳を見れば、だいたいのことは分かる。
さあ、時間だ。工場に戻るぞ」
修二の額に汗が流れる。人の運命を変えようとしているのだ、無理もない。
医者は人の命を預かる仕事だとよく言われる。今の修二は医者の手術と同じようなことをしようとしているのだ。
ペンを持つ手が震える。事故まで後一分、ゾーンが修二に準備をするように促す。
深く深呼吸をする。心臓が狂ったように早鐘を打つ。瞼を閉じ、自分にできると言い聞かせ、目を開けた瞬間、
物凄い爆発音とともに、辺りに地響きが起こった。修二は思わずペンを落とした。
工場内でサイレンがけたたましく鳴り、職員が修二達の前を走り回っている。
修二はペンを落としたまま拾い上げることも出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
マンガのように、目の前の景色が極端にゆっくりに感じられ、自分が夢でも見ているかのような感覚に陥った。
ゾーンの呼ぶ声がはるか遠くから聞こえる。人の生死を操るゆえのプレッシャー。修二はそのプレッシャーに飲み込まれてしまった。
ゾーンは困惑していた。今まで自分が持った弟子は皆最初の試練を越えることができていたからだ。
弟子の資質だけでなく、自分にも教育の才があると自負していた。修二にも今までの弟子と同じように接してきた。
いや、むしろ今まで以上の接し方をしてきたはずだ。新たな弟子を持つたびに、今までの経験を活かし、育ててきた。
修二の精神が脆かったのだろうか? そんなことはない、一見危うく見える修二の精神だが、確かな芯の強さを
ゾーンは感じていた。ならばなぜ? どうして自分の弟子が試練に打ち勝てず、プレッシャーに飲み込まれ、立ち尽くしている?
己の心に問うてみても答えが出るわけがない。答えがでないからこそ、ゾーンは弟子の窮地にも関わらず、弟子と同じく立ち尽くし、
成功させようと声を掛けることしかできなかったのだ。
修二は立ち尽くしながら、必死にプレッシャーに打ち勝とうと必死だった。
俺が書かないと人が死ぬ。書かなければ、それ以外に選択の余地はない。
わかっている、わかっているって!! 書かない理由なんてこれっぽっちもない。
医者と似ていても、医者とは違う。ただ手帳に書けば人の命が救えるのだ。
それでも動けない。自分の心に問うてみる。
人を助けたくないのか? 自分のような目にあわせたいのか?香奈や達夫に負わせた心の傷を
今回の被害者、崎本大紀の家族にも負わせたいのか?
修二の心臓はさきほどより勢いを増し、はちきれんばかりの速さで早鐘を打っている。
呼吸が速く、荒くなる。目は大きく開かれ、額に流れる汗の量がさらに増す。
「手帳に書け!修二!!」
ゾーンのありったけの大声で修二は縛っていた鎖がはじけたかのように動き出した。
事故が起きた瞬間に落としたペンを素早く拾う。手帳によれば、事故が起きてから崎本大紀が死ぬまでは三分。
さっきまでのタイムロスで一分五十秒、残り時間は約一分。
修二はようやく回り始めた頭で必死に、崎本大紀の生き残り方を考えた。
救急車は間に合わない、既に事故は起きているから事故から逃れたこともできない、誰かに助け出してもらうにしても一分では死んでしまう。
頭の中で次々に出てくる新たな運命はどれも手遅れだった。
万事休す、動き出すのが遅すぎた。ゾーンはそう思った。工場内から次々に助け出されてくる人の中に、崎本大紀の名前は見当たらない。
失敗か、ゾーンは横に立つ弟子を見た。修二は工場をにらみ続けていた。
「行くぞ、修二。工場とにらめっこをしても崎本大紀は助からない。もう事故発生から五分以上経つ。
悔しいのは分かるが、ここで立ち止まっていたら他の命も……」
ゾーンは言葉を失った。事故発生から五分、崎本大紀の運命は既に死を迎えて二分以上経とうとしているはずだった。
しかし、担架に乗せられ、応急処置を施されて出てきた崎本大紀の姿だった。
ゾーンはどうしても驚きを隠せないようだった。慌ててもう一度修二の顔を見る。
「お前……手帳に書き込めたのか?……運命を」
「危ないところだったよ、工場の職員に応急処置をさせたのさ。後は病院に行って、
緊急手術で助かるようにしておいた」
「いくら運命とはいえ、その場にいた職員が応急処置できなければ崎本は助からなかったぞ」
「ここは俺の地元だぜ、父さんの友達がここで働いていてさ、その人が応急処置の研修を受けたって話を聞いたんだ。
それで、手帳にその人が応急処置をするように書いたのさ」
修二は汗を拭きながらニヤリと笑った。
「ここ最近、ここまであせったことはなかったぞ。心配を掛ける弟子だ」
ゾーンは苦笑をした後、ニヤニヤと笑い始めた。
「何だよ、何でニヤニヤしているんだよ、気色悪い」
「何でもないさ、フフフフ」
ゾーンは堪えきれないように声を出して笑い始めた。
「いつまで笑っているんだよ」
修二もつられて笑いかけたとき、修二の視界がぼやけ、そのまま倒れこんだ。
薄れてゆく意識の中で、ゾーンの声が頭の中で響いていた。
真っ暗な道、少女は辺りが見えているかのように進んでいた。少女が歩く脇には、ねずみが走り回っていた。
突如現れた大きく黒い門、並の大人十人でようやく開くほどの重さの門を軽く一押しすると、門が開き始めた。
「よく来たな」
闇の奥のほうから冷たい声が聞こえた。
少女はその声に慣れていたとはいえ、声を掛けられる度に背中に悪寒が走った。
「およびでしょうか」
少女は声の聞こえたほうに深く頭を下げた。
「例の少年だが、どうも人一倍正義感が強いらしい。このままだと我々の考えし『運命』に支障をきたすかもしれん。
今のうちに何らかの手を打たねばなるまい。その仕事を任せたいのだよ」
「具体的な内容は?」
「あのくらいの歳の小僧は自分が何でもできると高をくくっているやつが多い、あの小僧に己の無力さを
痛感させてやればよい」
「承知いたしました、失礼します」
少女は用件だけを聞くと、その場の空気に耐え切れなくなったかのようにそそくさと出口に向かって歩き始めた。
少女が門を出て、結構な距離を進んだ後、冷たい声は一人で笑い始めた。
「我々の『運命』のためには必要な犠牲なのだよ、谷崎修二君。
と言ってもこれは最初から決まっていた運命だ。君にも、我々にもどうしようもないことなのだよ」
夢、すぐに夢だと分かるような世界の中を修二は歩いていた。辺りは木々が茂り、花が咲き、虹色のボールのような物体が
プカプカと浮かんでいた。しかし、歩くにつれて美しい世界は消え、視界が暗くなっていった。
風の音が聞こえる、秋の風が遠慮なく吹き付ける。俺どうしたんだっけ?
そうだ、崎本大紀の運命を変えてから倒れたんだっけ。
起きないと、いや、やっぱりもう少し寝よう。
「起きろ、修二。いつまで寝ているつもりだ?」
修二がもう一度夢の世界に行きそうになったとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
仕方なく目を開けると、木漏れ日が目に沁みた。
起きてみると、公園にあるベンチの上だった。すぐ脇では、ゾーンが煙草を吹かしていた。
「起こすなよな、せっかくいい気分だったのに」
美しい夢をゾーンに壊されたような気がして、修二は少し不機嫌になりながら文句を言った。
「呆れたやつだ、一日中寝ておいてまだ寝足りないのか?」
ゾーンは煙草の煙を吐き出しながら答えた。
「一日中?一日中寝てたのか、俺?」
「お前が運命を変えてから二十二時間経ったところだ」
ゾーンは煙草を口にくわえ、腕時計を見ながら答えた。
「運命は?まだ運命を変えなきゃいけない人がいるんだろ?」
修二は手帳に書いてあった人の名前を思い出した。
「安心しろ、私が変えてきた。今回の仕事は終わりだ」
修二は安心して、体を起こした。
見覚えのある公園だった。小さな砂場とブランコがあるだけの公園。修二の色褪せていた記憶が蘇ってきた。
「あれ?……ここは……?」
「お前の妹が通っている高校の近くの公園だ」
ゾーンがブランコを眺めながら独り言のように呟いた。
そうだ。この公園は小さい頃、一度だけ母さんと遊びに来た公園だ。
体の調子がよくなったから家に帰ってきて、無理言って連れてきてもらった公園だ。
修二は立ち上がり、母との思い出に浸っていた。
「でも、どうしてここにいるんだ?工場からは近くないだろ?」
修二は急に思い出したかのように煙草を吸っている師に尋ねた。
「昨日自分で言っただろ?家族を見たいって」
「本当?見てもいいのか?」
修二は驚き、喜びを隠せずに辺りを歩き始めた。
「見るだけだぞ、絶対に見られてはいかん」
ゾーンは厳しい声で言った。
「分かってるよ、分かってるって。そうと決まれば行こうぜ」
修二は待ちきれずに公園を後にした。
ゾーンはため息をついて修二の後を追いかけた。
「今日は正弦定理の復習をします。教科書八十九ページを開いてください」
築三十九年、古くなった校舎の一室、1−Bの教室では数学の授業が始まっていた。
昼休み前の四時間目、全員の生徒が空腹を抱え、解放のチャイムがなるまで後何分かと時計を睨み付けている者もいれば、
近くの友人と会話をして空腹を乗り切ろうとする者もいる。ごく少数だが、寝ている者もいる。
そんな日常的な風景の中に、一人ポツンと教科書も開かず、下を向きながら座っている少女がいた。
谷崎香奈、修二の妹である。兄が交通事故で他界し、本来なら葬式のため欠席するはずだが、本人の希望もあり、葬儀の日程が決まるまでは
学校に出席することになったのだ。
「香奈、大丈夫?顔色悪いよ」
斜め後ろの席に座っている親友の菊池玲子が心配そうな顔で声を掛けてきた。
「うん……大丈夫」
本来の香奈なら、苦手な数学しかも四時間目の授業、玲子とお喋りをして時間を潰している。
しかし、修二がいない今、誰かと話す気が起こるわけもなく、ただ座っていることしかできなかった。
玲子の問いかけに答えたが、その答えは偽りだった。大好きだった兄がいなくなり、胸に穴が空いたような感覚だった。
その穴は消えず、常に吐き気を感じていた。
「大丈夫じゃないわよ、誰が見てもヤバイって」
玲子は立ち上がると香奈の手を掴んだ。
「先生、香奈の体調が悪いみたいなので保健室に連れてきます」
明るく、軽く、響くような声だった。
「分かりました。谷崎さん、大丈夫?」
先生も香奈の顔を見て、さすがに心配になったのか尋ねてきた。
「大丈夫です」
香奈は消え入りそうな声で答えた。
玲子は香奈を連れて教室を出た。教室を出るときの皆の視線が、香奈にとってたまらなく嫌だった。
(お兄さんが死んだんでしょ)
(谷崎さんかわいそう)
(トラックに轢かれたらしいぜ)
皆の心の声が聞こえてきそうだった。確かに修二が死んだのも、悲しいのも事実だ。
けれど、そんな目で見て欲しくなかった。哀れんで欲しくなかった。
香奈の心の声は誰にも届くことはなかった。
気づくとぼーっと歩いていた香奈の前に、玲子がこちらを見つめていた。
玲子はスポーツ万能だが勉強があまりできず、香奈とは正反対だった。
髪型まで反対で、少しクセ毛があり、長い髪を後ろで縛っている香奈とは違い、男の子のような髪型をしており、見るからに
スポーツ少女といった感じだった。
「お〜い、意識ある?」
一言も喋らない香奈が心配になったのだろう。玲子は少しふざけたような聞き方をした。
正反対の二人だが、性格だけは似ているようだ。
口を開けると吐いてしまいそうだったので、頷くだけにしておいた。
「ならいいや、早く保健室行こう。歩ける?」
玲子は何のためらいもなく話しかける。香奈にとって、玲子のいつも通りの接し方が嬉しかった。
少し遅れて教室に入ったが、皆ざわめくだけで、話しかけてはくれなかった。しかし、玲子だけはいつものように
「おはよう」と言ってくれた。嬉しかった。何の気遣いもなく話しかけてくれたことが。
いや、玲子にとってはそれが気遣いだったのかもしれない。クラスメートのような中途半端な気遣いは逆に傷つくだけだった。
香奈は気づかぬ間に保健室の前まで来ていた。
「後は先生に任せるね」
そう言って玲子が立ち去ろうとしたとき、香奈が喋りだした。
「待って、玲子。あのね……」
胸の奥にある、玲子への思いを伝えたかった。今伝えないと、永遠に伝えられないような気がして。
「ありがとう」
玲子は少し驚いた後、顔を真っ赤にして、早口で話し出した。
「べ、別にいいよ友達なんだし、また昼休み来るから」
それだけ言うと、教室の方へと早足で歩いていった。
香奈は玲子の反応に少し笑った。胸が楽になったような気がした。
少し気分が良くなった香奈は保健室のドアを開けた。
消毒液特有のツンとした臭いがした。
香奈は消毒液の臭いが嫌いだ。小さい頃から活発ではあったが、すり傷などを作ってくることはあまりなく、消毒液とはほとんど無縁
の生活だったからだ。
「あの……」
香奈はか細い声で先生を呼んでみる。しかし、返事はない。
「あの」
今度はもう少し大きな声で呼んでみる。
「はいはい、ちょっと待ってね」
奥から声が聞こえ、小柄な女性が現れた。
『保健室の先生』、皆からはそう呼ばれるのが普通だ。名前を覚えている生徒はあまり多くない。
胸の名札には木村と書かれていた。
「あの……木村先生」
「ん?あなた……もしかして1−Bの谷崎さん?」
木村先生は少し遠慮がちに尋ねた。
「はい、そうですけど」
「大変だったそうね、気分が悪いの?こっちに来なさい」
木村先生は早口で話し始めた。
またか。気分が悪くなる。この哀れみと同情の入り混じった目、この目を今日一日でどれだけみたことだろうか。うんざりだった。
「ベッドだけ貸してもらえればいいんですけど」
香奈は少し不機嫌な声で言った。
「ベッドね?はいはい、どうぞ」
木村先生がカーテンを開けたところにあったベッドは窓際にあり、保健室から遮断された世界のようで、居心地がよさそうだった。
「ありがとうございます」
香奈はそれだけ言うと、そそくさとベッドに入り込んだ。
「ゆっくり休みなさい」
木村先生の目は、カーテンを閉める最後まで、哀れみと同情を含んでいた。
いい加減にしてほしいという思いで、聞こえるほどの大きな声でため息をつきそうになった。
慌てて寝返りを打ち、なんとか堪えた。
ベッドに入ると、嫌な記憶ばかりが脳裏に蘇ってきた。
あの交差点、母や父とのやりとり。
気づくと涙がまた流れ始めていた。
会いたいよ、お兄ちゃん。心で呟く。
これが夢だったら、どれだけ幸せだろう。
笑いながら人に話せたら、どれだけ幸せだろう。
外を見ようと思った。自然の景色なら、いつもと同じように温かく揺らいでいるだけだろう。
この悲しみも少しだけ癒してくれるかもしれない。
そう思って起き上がり、外の景色に目を向けた。
香奈の心の声は、自然にも届かなかったらしい。
風にも、土にも、木の葉にも、太陽にさえも。
見える風景の自然全てが、哀れんで、同情しているように感じた。
やめてよ、もうやめてよ。
香奈の心の声は叫び続ける。親友にしか伝わらないのだろうか?
玲子以外には伝わらないのだろうか?
そのとき、ふと見た野球のバックネットの裏で、何かが動いたような気がした。
学校の用務員ではないだろう。さっき保健室に来る途中、中庭で作業しているのを見かけた。
動物?いや、違う。香奈の通う学校は、結構な都市にあり、野生の動物はほとんどいない。
いたとしても猫ぐらいだろう。見かけたものは立っていて、人間のようだった。
音がする、誰かが歩いてくる。香奈は不思議に思い、窓から乗り出し見渡してみた。
香奈のすぐ横には、死んだはずの修二が立っていた。驚いた顔で。
「お兄ちゃん……」
思わず声が漏れ、口をポカンと開けて見つめてしまった。
「香奈」
修二も口を開いた。
何があったの? 今までどこにいたの?
様々な疑問が湧いてくるが言葉にできない。ただ見つめることしかできなかった。
香奈が外に出ようかと、一瞬目を離した瞬間、修二の姿は消えていた。
香奈は慌てて、窓を乗り越え外に出た。
修二がいなくなったと思われる場所に行ったが、影も形もなかった。
「お兄ちゃん……」
香奈は不思議な出来事に、一人ポツリと呟いた。
香奈と修二が出会う五分前
修二は野球のバックネット越しに、必死に妹を探していた。
「おかしいな、あの辺りが1−Bだったと思うんだけどなあ」
修二は必死に自分の記憶と、今の校舎を照らし合わせていた。
「なあゾーン、こんなに遠くからじゃないと駄目なのか?」
救いを求めるような顔で、横に座って、二本目の煙草を取り出す師を見た。
「駄目だ、今回のは特別だからな。万が一、遺族と死者が出会ったら大変だ」
ゾーンは煙草に火を点けながら答えた。
「俺向こう行ってくる」
修二はそう言うと、生徒用の玄関へしゃがみながら走り始めた。
「おい、待て。行くな」
ゾーンは突然の行動に慌てて、煙草を携帯灰皿に入れ、弟子の後を追いかけた。
「落ち着け、修二。妹に見つかったらただじゃすまないぞ」
保健室の脇から様子を伺っている修二にゾーンは声を掛けた。
「お前を知っている人には誰とも会ってはいけないんだぞ、分かっているのか?」
反応を見せない修二に、ゾーンは苛立ちを隠しきれなくなっていた。
「静かに、保健室に誰かいる」
修二は口に指をあて、小声で喋った。
「馬鹿、帰るぞ。妹の様子を見ること自体が無謀だ」
ゾーンは苛立ちを抑え切れなかったが、小声で促した。
「少しだけ、一目見るだけでいいから。ここで待っててくれよ」
修二はそう言って、保健室の窓の外を、香奈の教室の方へと歩き始めた。
保健室に誰かがいるのは確かだ。しかし、香奈はここ数年風邪をひくこともなかったし、体調も崩さなかった。
そんな香奈が保健室にいることは恐らくないだろう。香奈でなくとも、修二のことを知っている生徒だったらまずいことになる。
素早く通り過ぎれば分からないだろう。
修二はそう思い、歩くスピードを上げて通り過ぎようとした。そのとき、保健室の窓から突然顔が出てきた。
しかも、よく知った顔だったから修二はさらに驚いた。香奈だった。
「お兄ちゃん……」
香奈は心底驚いた顔をしていた。
「香奈」
修二も予想外の出来事に驚き、妹の名前を呼ぶことしかできなかった。
しばしの沈黙が流れる。香奈が下を向き、修二が口を開こうとした瞬間、修二は腕を掴まれ校舎の陰に引きずりこまれた。
修二の腕を掴んでいたのはゾーンだった。
「走るぞ」
ゾーンはそれだけ言うと校門へと走っていた。修二も慌てて後を追った。
修二が門の裏に隠れるのと同時に香奈が現れ、さっきまで修二がいた場所に立ち尽くしていた。
「香奈……」
修二はうなだれる妹を見て、一言呟いた。
「一体何をやらかしたんだ?」
どうやらゾーンの堪忍袋の緒は限界のようだ。
「いや、その、保健室に香奈がいて、まさかいるとは……」
修二は今まで見たことのないゾーンの顔に慌てて、言い訳を始めた。
「言い訳を聞く気はない。とりあえず帰るぞ、説教は向こうでたんまりとやる。それから、お前はしばらく謹慎だからな」
ゾーンはそう言うと、早歩きで学校の角を曲がっていった。
「はぁ、最悪」
取り残された修二はポツリと呟くと、ゾーンが曲がった角に向かって歩き始めた。
修二とゾーンは、最初の交差点に来ていた。
「そういえばどうやって帰るの?」
ふと疑問に思ったことをゾーンに尋ねてみる。
「そこで見ていろ」
機嫌の直っていないゾーンはぶっきらぼうに言った。
ゾーンが、持っていたペンで空中に円を描いた。
すると、マンホールの蓋のようにパカッと円が取れたではないか。
「えっ、これって」
予想外の出来事に修二は驚き、うろたえた。
「このペンで円を描けば、どこからでも帰れることができる。今回は学校に近く、人目につかないこの場所を選んだがな」
ゾーンはそう言うと眩い光の中に入っていった。修二も戸惑いながらも入っていった。
中は来るときと同じように、乳白色の霧に覆われていた。
多少動き方のコツを覚えた修二は適当な方向に進み始めた。
前回の経験上、行きたい場所を想像しながら進めば、おのずとその場所に到着するようだった。
修二は輪廻の門を思い浮かべていた。
気づくと輪廻の門の前におり、目の前にはゾーンが立っていた。
「うわ、びっくりした」
修二はふざけて、大げさなリアクションをしてみたが、ゾーンは顔色一つ変えずにこう言った。
「ヴォルフ様の下へ行くぞ」
ゾーンは頭を下げていた。
「申し訳ありません、ヴォルフ様。もし、今回の出来事で世界の均衡が崩れたら……」
「もうよい、ゾーン」
ヴォルフは、頭を下げ続けるゾーンに、少し困ったような顔で答えた。
「大げさすぎるんだよ」
横で一緒に頭を下げている修二が、自分だけに聞こえるような声で呟いた。
「下がってよいぞ、ゾーン、修二」
ゾーンはヴォルフの言葉に礼を述べつつ、修二と一緒に部屋を後にした。
「危うく世界の危機になるところだったぞ」
自分たちの部屋に戻る途中も、ゾーンの説教は続いていた。
「もう少し、『白の司』という仕事に誇りを持ってだな……」
「ああ、ああ。もう十分わかったから、もういいよ。それじゃ」
耐え切れなくなった修二は早口で言うと、まだ言い足りないような顔をしたゾーンを置いて、走り出した。
「最後まで付き合っていたら何時間掛かるんだよ」
独り言を言いながら部屋の前に着いたとき、入り口の前には一人の少女が座っていた。
「君は……誰?」
少女はゆっくりとこちらを向いた。修二と同い年ぐらいだろうか。修二と同じような服装だったが、修二の服より灰色がかっているように見えた。
二重の瞼に、ウェーブがかかっている腰まで届きそうな長い髪。
そして何より、吸い込まれそうなほど綺麗な黒い瞳だった。
「谷崎修二君?」
少女はふっくらとした、柔らかそうな唇を動かした。
「はい、そうですけど」
修二は今までに彼女や仲の良い女友達ができたことはない。容姿は良い方だと言われているのだが、女子とお喋りするのが苦手だったからだ。
しかも、目の前にいる少女は、どこかの雑誌に載っていてもおかしくないほどの容姿だ。修二は緊張して、思わず敬語で返事をしてしまった。
「ずっと待ってたの」
鼓動が速くなる。さきほどのように気絶するのではないかと、一瞬心配になる。
(待ってた? 俺を? 誰なんだ、この子)
修二は以前に会ったことがないか、必死に記憶の糸を辿る。思い出せない。いや、もし会っていたら、こんな可愛い子を忘れることはないだろう。
「えーっと、どういう意味なのでしょうか?」
同い年ぐらいの子に言う話し方ではないとわかりながら、敬語で話してしまう。
恐らく、少女の周りに漂う大人の雰囲気が、修二が敬語で話してしまう理由だろう。
「あなたに会いたかったの」
少女はポツリと呟いた。
「俺に? どうして?」
修二の言葉遣いも直ってきて、普通に会話ができるようになった。
「それは……今は言えない、言わない方がいい」
少女は悲しそうな顔をして俯いた。
修二は何故かこの少女に惹かれていた。少女の雰囲気には悲哀、哀愁、そういった悲しみの全てが含まれているように感じた。
修二は少女を放っておくことができなかった。
「ねえ、明日空いてる?」
まさか死後の世界で女子を口説くことになるとは、夢にも思わなかった。
「どうして?」
少女は不思議そうに、俯いた顔を上げた。
「その、連れて行きたい場所があるんだ」
修二は慣れない会話につっかえながらも言った。どうして女子と会話するとこうなってしまうのだろう。
友達を遊びに誘うときは簡単なのに。これだから、女子と会話するのがあまり好きではない。
「いいの? 仕事。運命変えなくて」
少女は少し心配そうな顔で尋ねた。
「仕事は、謹慎中なんだ」
学校でゾーンに言われたことを思い出す。
「そうなの……。わかった、行くよ」
少女はホッとしたような笑顔で答えた。
「じゃあ明日の……あっ、この世界に時間ってものがないんだっけ」
修二はしまったなーと呟く。
「じゃあ、これ。置いとくね」
少女がそう言って取り出したのは二つの砂時計だった。
「片方をここに置いておくから、砂がなくなりそうになったら来てね。輪廻の門に」
少女はそう言って砂時計を修二の手に置いた。そのときに触れた少女の手はとても温かく、どこか懐かしかった。
「それじゃあね」
少女が帰りそうだったので、修二は慌てて引き止めた。もっと、少女と一緒に居たかった。
「君、何て名前?」
少女は振り向くと、柔らかな笑顔で答えた。
「羽田沙織」
それは、修二の淡く、儚き初恋だった。
修二はその後、部屋のベッドの上で、沙織に貰った砂時計をいじっていた。
細かい細工がしてあって、とても綺麗な品だった。
彼女の不思議な雰囲気と話し方が、修二の心からいつまでも消えなかった。
その感覚は修二にとって初めてのもので、なんだか嬉しいような、恥ずかしいような。
少女にもっと見ていてもらいたいような、目を合わすことさえもできないような、不思議な感覚だった。
そうか、これが恋というものか。随分と煩わしいものだな。
自分自身を冷静に分析してみても、心の火照りは治まらなかった。
そうやって考え事をしている間に、砂時計の砂のほとんどが落ちていた。
修二は起き上がり、外に出てみる。生の神殿は相変わらず明るい。何時間たったのかよく分からない。
輪廻の門のルールを考えると、二十四時間以上経っているのは確かだ。
「ん〜〜」
修二は伸びをした。さきほどの疲れは残っていないようだ。
「さて、行くか」
修二はそう呟いて、輪廻の門へと歩き始めた。
さきほどとは違い、輪廻の門にはあまり『司』集まっていなかった。
修二にとってはそちらの方がよかった。好都合だな。心の中で呟く。
数人しかいない『司』も、自分の手帳で運命を確認するのに忙しいようだ。
「修二君」
どこからか声が聞こえた。周囲を見渡すと、沙織が斜め後ろに立っていた。
「やあ、……それじゃあ行こうか」
女子と話すのが苦手な修二は、特に掛ける言葉も見つからず、門へと沙織を促した。
「うん」
沙織はそう言って、修二の横に並んで歩いた。
慣れていない修二にとって、その行動は驚きだった。
香奈以外の女の子と並んで歩くなんて、何年ぶりだろう。まさか、死んでからこんな事になるなんてな。
思わず、苦笑しそうになる。
門を開けて、二人で光に飛び込んだ。
気づくと、あの交差点に座っていた。OLのような格好になった沙織も横にいる。
相変わらずこの移動は難しい。ワープするわけでもないし、扉から出てくるわけでもない。
いつも気づくとそこにいる、といった感じだ。
「大丈夫?」
修二は沙織に手を差し出した。
「うん、だいじょうぶ」
沙織はそう言って、修二の手を頼らずに自力で起き上がった。
「そう言えばどこ行くの?」
沙織が辺りを見渡しながら尋ねた。
太陽は沈みかけ、綺麗な夕日になっており、交差点から見える、商店街の時計は五時四十分を指していた。
「ここから三十分ぐらい歩いたとこだよ」
修二はそう言って目的地に向けて歩き始めた。
「そういえば、どうしてあの交差点に“降りた”の?」
珍しく、沙織から話しかけてきた。
「降りた?」
理解できない単語があった修二は聞き返す。
「輪廻の門から“降りた”って言うの。導師様に教えてもらわなかったの?」
「いや、教えてもらってない」
修二はゾーンとの会話を思い出しながら答えた。
「そうなんだ」
沙織は一言だけ呟いた。
「さっきの質問なんだけどさ、俺あの交差点で死んだんだよ」
修二は沙織の問いに遅れて答えた。
沙織はへぇと言った。
「そういえばさ、沙織はどうして死んだの?」
死んだ者同士、それほどまずい質問だとは思わなかった。
しかし、修二の問いに沙織は怒りを覚えたようだった。
「別にいいじゃん。早く行こ」
そう言って、すたすたと歩いていってしまった。
「まずかったかな〜」
修二は頭を掻いた後、怒って行ってしまった沙織の後を追いかけた。
「ごめん、聞いちゃまずかったよね?」
走って追いついた修二は真っ先に謝った。
「もういいよ。私も最初に聞いちゃったし」
どうやら、沙織の機嫌は直っているらしい。
修二は安堵して、立ち止まって大きく息を吐いた。その間に沙織は曲がり角を右に曲がって行った。
「ああ、そっちじゃない。左だよ、左」
修二は慌てて沙織を呼びに走っていった。
ゾーンは一人の少女と一緒に、生の神殿を歩いていた。
「君は確か十九歳だったね?」
「はい」
少女が明るい声で答える。
「私にはもう一人弟子がいて、修二という名前でな、君と同い年なん……」
ゾーンが修二の部屋のドアを開けると、もぬけの殻だった。
「あいつは……本当にやらかしてくれるな」
ゾーンはイライラした声で言った。
「あの、もしよかったら私が探してきましょうか?」
少女が部屋を見渡しながら言った。
「ああ、そうしてくれ。恐らく人間界に行ったのだろう。説明はさっき言った通りだ。
私はヴォルフ様に報告した後、生の神殿を探してみる」
「はい、わかりました」
少女は元気よく答えると、歩き始めた。
「ああ、名前をまだ聞いていなかったな。名前は?」
ゾーンは思い出したように尋ねた。
「高西です。高西美里」
少女は振り向いて答えた。
「ここだよ、ここ」
修二が沙織を連れて来たのは、小高い丘の上の公園で、そこからは街が一望できた。
「うわぁ、綺麗〜」
沙織が初めて、女の子らしい素振りを見せる。修二は思わずドキッとしてしまった。
時刻は六時三十分頃で、ちょうど日も沈み、街に次々と灯りが灯っていった。
「あっちにベンチがあるから座ろうか」
修二は公園の奥にある二人掛けのベンチを指差した。
「うん」
二人掛けといっても小さいベンチである。修二と沙織は否応なしに、肩をくっつけなければならなかった。
修二は心臓の音が沙織まで聞こえるのではないかと不安になったほどだ。
普段の修二なら、沈黙を気まずく感じただろう。しかし今は、沙織と一緒に座っていられるだけで嬉しかった。
心地よい沈黙が数分経った後、沙織が口を開いた。
「聞きたい?私の死んだ理由」
修二はさっきの沙織の反応を思い出して、一瞬躊躇った。
「いいの?」
「うん。私ね、家族全員死んじゃったの、強盗でね。お父さんも、お母さんも……」
「君だけが『司』になれたの?」
「うん。お父さん達は“無”になってしまったの」
「“無”?」
修二は思わず聞き返してしまった。
「“無”はね、『司』になれなかった人達が行く場所なの。後は……導師様に聞いて」
沙織が言葉を濁したように聞こえて、修二は少し心に引っ掛かった。
「少し寒くなってきたね。そろそろ、帰ろうか」
修二が立ち上がる。九月の夜を過ごすにしては、二人の格好は薄着だった。
「うん」
そう言って沙織も立ち上がり、歩き始めたが、すぐに立ち止まってしまった。
「どうかした」
少し心配になりながら修二が尋ねる。沙織の目からは、涙がこぼれていた。
「えっ、どうした? 俺、また何か悪いこと言った?」
修二は目の前で泣く沙織に、思わず焦ってしまった。
「違うの。ただ、こんなに優しく接してくれたの、両親以外にいなかったから。
嬉しかったの。こんなに暗い私にも、優しくしてくれる人がいたんだって」
沙織は次々に溢れてくる涙を抑えられないようだった。
「沙織……!」
沙織の涙を見て、修二の心の何かが動いた。気づくと、沙織を抱きしめていた。
守りたい、守ってやりたい。この子を、この子の全てを。
何があっても、守ってやりたい。手放したくない、この温もりを。教えてあげたい、両親以外の温もりを。
溢れる気持ちが止まらない、抑えられない。
大丈夫だよ。安心していいよ、俺がそばにいるから。
伝えたい、今の気持ち全てを伝えてあげたい。
しかし何一つ言葉に出来ず、ただ強く抱きしめることしかできなかった。
「ありがとう、修二君」
落ち着いた沙織が、修二の胸の中で呟く。
「いやっ、別にそんな……男として当然のことを……」
普段の自分では考えられない行動に気づいた修二は、慌てて、自分でも何を言っているのかよくわからない言い訳のようなものをぶつぶつと呟いた。
「帰ろっ。早くしないとゾーンに怒られるかもしれないし」
まだ落ち着きを取り戻せず、修二は早足で公園の出口に向かった。
そのとき、一瞬だったが物凄い殺気のようなものを感じた気がして、後ろを振り返る。
後ろには沙織が首を傾げながら、立っているだけだった。
「気のせいか?」
修二も首を傾げたとき、後頭部に鈍い衝撃が走り、思わず地面に手をつく。
「あんたでしょ、谷崎修二って」
聞きなれない声が、しゃがみ込んだ修二に聞こえた。
「痛ってー、誰だよ? いきなり人の頭叩きやがって」
修二が振り向くと、そこにはショートカットの少女が立っていた。暗くてよく見えないが、恐らく髪の毛は茶髪だろう。
目は沙織よりぱっちりとしていて、鋭い眼差しに意志の強さが感じられた。沙織ほどではないが、世間一般で言う美少女だった。
「そうだけど……あんた誰だよ?」
不機嫌な声で、立ち上がった修二が尋ねる。
「高西美里、ゾーン様から聞いてない?」
「はぁ? ゾーンから? 何も聞いてないけど。沙織、行こうぜ」
修二がそう言って振り向いた瞬間、またもや頭に衝撃が走った。
「おい! いい加減にしろよ、頭ばっか叩きやがって」
修二が恨めしそうな顔で美里を睨む。
「ゾーンじゃない、ゾーン様! 私は今日からゾーン様の弟子になった美里よ。ゾーン様にあんたを探して来いって言われたの」
美里は大声でまくし立てた。
「わかった、わかった。それより、どうして俺がここにいるってわかったんだ?」
「ゾーン様から特徴は聞いてたし、輪廻の門に付いてる装置を見れば、誰がどこに“降りた”かわかるのよ。知らなかったの?」
最後の一言には、バカにしたような響きがこもっていた。
「最後の一言は余計なんだよ。帰ろうぜ」
修二は沙織と一緒に歩き始めた。
「ちょっと待って」
美里はそう言って、沙織の顔をじっくりと見つめた。
「あの……何ですか?」
沙織は少し驚きながら尋ねた。
「あんた……もしかして……」
美里が何かを思い出したような顔をした。
「何だよ? 沙織の顔に何かついてんのか?」
さきほどのやり取りで不機嫌な修二が、少し大きな声で尋ねる。
「そんなこと……あんた、私のこと知ってる?」
「いえ、知りません。その、人違いだと思います」
沙織は少し慌てた様子でそう答えると、逃げるように去っていった。
「あ、おい沙織。どうしたんだ? ……あんた何か変なこと言わなかったか?」
修二は疑わしそうな顔で美里を見る。
「えっ、私? 馬鹿なこと言わないでよ、何にも言ってないわよ」
美里も少し慌てた様子で答える。
「まあいいや、ご立腹ゾーン様のとこに帰るか」
修二は“様”の部分に、嫌味ったらしくアクセントを付けて言った。
「この馬鹿者が!」
周囲の『司』が振り向くほどのゾーンの怒鳴り声が響いた。
「掟破りをして、謹慎の処罰で済んだとたん、女とデートだと!? ふざけるな!」
ゾーンが怒鳴り散らしている前で、修二は正座をしていた。ゾーンの横では、美里がにやにやしながら、修二を見ていた。
「はい、すいませんでした」
修二はそう言って土下座をした。世間では、男が簡単に土下座なんてするな、と言うがそんなことは気にしない。
確かに、多少の屈辱はあるが、この状況では土下座したほうが簡単に、しかも穏便に済むだろう。
そんな修二の心を見透かしたようにゾーンは冷たく言い放った。
「土下座で済むと思うな。もう一回ヴォルフ様の下へ連れて行く。今回は、“白い審議会”が開かれるかもしれんぞ。
問題児修二についてな」
「マジかよ……」
去っていくゾーンを見ながら、修二は呆然と立ち尽くしていた。
白い審議会
普段は寿命が近い人間について、導師が集まり生かすか否かを決める会議である。
しかし、まれに例外もある。生の神殿内で、何かしらの問題が起きた場合だ。
その場合、問題を起こした本人がいるなら会議に参加させ、主張を聞く。
最終的には、ヴォルフと数人の導師が別室で話し合い、結論を出す。
つまり、修二は裁判を受けようとしているのだ。
「なあ、俺って犯罪者なのか?」
前を歩くゾーンに向かって情けない声で修二が尋ねる。
修二達は今、ヴォルフの部屋の脇にある“審議の間”に向かって歩いていた。
「人間界ではそう言うな」
ゾーンは振り向かずに答えた。
「俺どうなるんだよ?」
修二はもう一度、救いを求めるような声で師に尋ねた。
「有罪の場合は地獄に入れられるだろうな」
ゾーンは涼しい声で答えた。
「地獄? 牢屋とか監獄じゃないのか?」
「ここは死後の世界だ、死後の世界といえば地獄でしょ」
横から美里が可笑しそうな顔で飛び出してきた。
「何だよ、お前には聞いてないだろ」
修二はそう言って顔を背けた。
「何よ、せっかく答えてやったのに」
美里も顔を背けた。
「二人とも静かにしろ。もうすぐ着くぞ」
ゾーンが低く、重い声で注意した。どうやら本気で怒っているようだ。
そのことを察したのか、修二と美里は、“審議の間”まで一言も口を利かなかった。
重く、大きい扉を開ける音が部屋中に響いた。
“審議の間”には、すでにヴォルフと導師達が集まっており、残っている椅子はゾーンと修二の分だけだった。
「皆さん、よく集まってくれました」
修二の周りを円を描くようにならんだ椅子の、一つに座っているヴォルフが口を開いた。
他の導師達は、何故か哀れみを込めた眼差しで修二を見ているような気がした。
「今回は、掟を破ったゾーンの弟子、谷崎修二についての審議です。ではゾーン、説明を」
ヴォルフに促されたゾーンは立ち上がり、説明を始めた。
「我が弟子谷崎修二は、下界にて妹である谷崎香奈と会い、謹慎の処分になったが、こっそりと抜け出し下界へ“降りて”いました。説明は以上です、公正な判断をお願いします」
説明を終えたゾーンは、修二を見ることなく座った。
「それでは、谷崎修二に質問のある方はおられますか」
ヴォルフが柔らかい口調で呼びかけた。
「一つ聞いてもよろしいでしょうか」
ヴォルフの反対側に座る導師が手を挙げた。
「どうぞ、ガブリス導師」
ガブリスと呼ばれた中年の男が質問を始めた。
「あー、修二君だったね。下界に“降りた”とのことだが、目的は何だったのかね?」
「いえ、その……何というか」
修二は痛い所を突かれて返答に困った。
「デートですよ、彼女とデート」
いつまでも答えない修二を見かねて、ゾーンがぶっきらぼうに答えた。
「ゾーン導師、それはどういうことですか?」
ガブリスがゾーンを見た。
「そのままの意味ですよ、ガブリス導師」
ゾーンは目を合わさずに答えた。
「なるほど、結構。私の質問は以上です」
ガブリスはそう言って自分の席に座った。
その後も質問は続いた。どこに行ったのか、誰とも会わなかった等、様々な質問を浴びせられた。
「最後に一つ」
髪の毛から、髭まで白髪の老人が手を挙げた。
「誰と行ったのかね?」
「女の子です」
修二は下を向いて答えた。
「それは最初に聞いた。一緒に行った者の名前は?」
「……羽田、沙織です」
修二は顔を上げずに答えた。
羽田沙織の名前が出た途端、一部の導師の顔色が変わった。
「羽田沙織だと!?」
質問した老人とは別の老人が立ち上がった。
修二はその反応に思わず顔を上げてしまった。
「サムエル導師、何かご存知なのですか?」
恐らく審議会の中では、一番若いと思われる導師が尋ねる。
「……いや、なんでもない。多分気のせいだろう」
サムエルは知らない様子だったが、修二にはガブリスがサムエルに目配せをして、何かを隠しているように見えた。
「質問の時間は以上です。今から呼ぶ導師と私で結論を出します」
そう言って、ヴォルフは名前を呼び始めた。その中にはガブリス、ゾーン、さらに白髪の老人二人も入っていた。
数人の導師とヴォルフが隣の部屋に入ると、呼ばれなかった導師達は次々に“審議の間”を後にした。
一人きりになった修二は様々なことを考えようとしたが、最後の答えに対する反応で、頭が一杯だった。
あの驚き方、沙織の何を知っているんだろう? ゾーンも呼ばれたのだから、何か知っているに違いない。
そういえば、美里も沙織を見て何か考えていた。沙織って一体……。
そこまで考えたときに、ドアが開き、ヴォルフ達が戻ってきた。
「谷崎修二、今から結論を聞かせる。心の準備はいいかな?」
椅子に座ったヴォルフが尋ねる。
修二は小さく頷いた。
真っ暗な空間を“人”が歩いている。常人ならば何も見えないだろう。しかし、ここの住人にはよく見えている。
歩いている者もここの住人らしい。暗闇をものともせず歩いている。周囲から多くの人の気配が感じられたのか、その者は立ち止まる。
「何だ、あんたか。いい報せでも持ってきてくれたのかい?」
恐らく見張りのような役割の者が、闇の向こうから声を掛けてきた。
「谷崎修二についての報せだ」
“人”は短く答える。冷たい声だった。
「いい報せか?」
見張りが興奮した声で尋ねる。
「貴様に教えることではない」
「はいはい、相変わらずお堅いね〜」
見張りが茶化すような声色でふざける。
「見張りを怠って、“ラグナロク”の計画から外されないといいな」
痛い所を突かれたらしく、見張りは小さな舌打ちを一つだけして、本来の仕事に戻った。
「お前が情報を捧げ、俺達が仕えるのは?」
「世界の危機を救おうとする我らが主、ヘーニル様」
“人”は高らかに声を上げた。
「通れ」
見張りはそれだけ呟くと、気配を消した。
道、といっても暗闇で見えるものではない。そんな道を“人”は歩き始めた。やがて巨大な門が現れた。
「修二はどうなった? さっさとぶっ殺せよ」
また別の見張りが嬉しそうに声を掛ける。
“人”は失望したようにため息をついた。
「殺す? 貴様はまだ計画を熟知していないようだな。ヘーニル様に報告しておこう、“ラグナロク”における谷崎修二の重要性を
理解していない阿呆がいると」
冷たい声できっぱりと言い放った。
「よせよ、冗談だよ。俺だってそれぐらいわかってるさ。開けるぞ」
見張りが指を鳴らすと、門が開いていった。開いた門の向こうには、何もなかった。
門の向こうを見ると失明したように、何も感じられなくなってしまった。
「うへっ、相変わらず嫌だね〜この感覚。こんな中に何時間もいたら、おかしくなっちまうよ」
見張りが呻いた。
“人”は見張りの言葉を聞いていないように歩き始めた。
「あんたもさっさと出て来いよ、ヘーニル様の大事な人形だもんな、へへ」
見張りは可笑しそうに笑った。
“人”は振り向き、一瞬だけ殺気を放った。
しかし、その一瞬で見張りはどこかに退散した。
「おお恐い恐い、消されるところだったぜ。じゃあな、へへへ」
どこからか、見張りの笑い声が響いた。
「時間を無駄にした。急ごう」
“人”は一人で呟くと門の奥へと歩き始めた。
「谷崎修二、そなたの行動について、満場一致で無罪とす。今後もゾーン導師の下で精進したまえ」
ヴォルフはそう言うと、出口に向かって歩き始めた。修二は聞きたいことが山ほどあった。
その内の一つを思い切って聞いてみた。
「あの、沙織は……何者なのですか?」
「……それは、まだ知るべきではない」
ヴォルフは少し間を空けて答えた。
「それじゃあ、どうして俺は無罪に……?」
「焦らずともいずれ答えは出る。それまで辛抱をするのだ」
丁寧は言葉遣いだったが、有無を言わせぬ迫力があった。
「修二、行くぞ」
ゾーンが穏やかな顔で呼んでいた。
「失礼します」
修二は、疑問を抱えたまま“審議の間”を後にした。
「いいか、修二。仏の顔も三度までだ、私はもう一度お前を信頼しよう。しかし、三回目は容赦せんぞ」
“審議の間”から出た途端ゾーンが話し出した。
「はい、わかりました」
修二は下を向いたまま答えた。
「まったくお前は……ちょっと待て、美里はどこに行った?」
ゾーンが思い出したように周囲を見回す。
「白い審議会には参加してないから、“審議の間”の前にいると思うけど……」
修二もさすがに気になり、顔を上げて答えた。
「どうして私の弟子はこういう奴等ばかりなんだ?」
ゾーンが呆れ、疲れたようにため息をつく。
「修二、探して来い。私は……疲れた。見つけたら、輪廻の門に集合だ」
「は〜い」
修二は気の抜けた返事をした。
しかし、さすがのゾーンをそれを注意する気力はもうないらしく、ゆっくりと輪廻の門に向かって歩いていった。
「さて、探すとしてもどこを探せば……ん? 沙織……?」
修二の視線のさきには、沙織が歩いていた。
「沙織!」
会いたかった。別に好きだからってわけじゃない。ただ、心の奥に芽生えた疑問を解消したかったのだ。
「! ……修二君」
沙織は少し驚き、慌てた様子だった。この間もそうだった、沙織は何かをかくしているのだろうか?
「少し聞きたいことがあるんだけど」
修二は質問を切り出した。
「沙織って……誰?」
「えっ? どういうこと?」
「ごめん、わかりにくかったね。沙織って何者?」
「何者ってどういう意味?」
「その……どこから来て、誰なのかってことなんだけど」
しばしの沈黙が流れた。質問の意味がわからないわけではなさそうだ。どちらかといえば、返答に困っているように見えた。
「お〜い、修二」
美里の声だ。本来の目的は果たせたが、肝心なとこで戻ってきやがって。
「お前どこ行ってたんだよ」
思わず八つ当たりをしてしまう。
「何よ、その態度。暇だったから、トイレに行ってただけよ」
美里と口論になっている間に、沙織がどこかへ去ってしまった。
「あっ、……お前のせいだからな」
修二は不機嫌な声で美里に言うと、輪廻の門に集合することだけを告げて、歩いていった。
「ようやく揃ったな。今から仕事だ、三人で行けばすぐに終わる。今回は四人の運命を変える」
ゾーンが輪廻の門の前で説明を始めた。
「向こうに“降りた”ら別れて、一人で一人の運命を変える。最後の一人は全員で集合してやるぞ」
「はい」
美里だけが返事をした。
「修二、わかったか?」
「はい」
上の空のまま、修二は答えた。
修二が輪廻の門を通ると、駅の目の前にいた。
「俺の担当は冴島恭二さん、四十二歳。駅のホームにて自殺を図るか……、俺なんて生きたくても死んだっていうのに。
ちょっと一言言ってやりますか」
手帳を見ながら呟く。『司』が知り合いと会うのは掟破りだ。しかし、知らない者となら、多少会話しても大丈夫なはずだ。
修二は一人で納得し、頷くと、駅へと入っていった。
時刻は午前八時二十七分、通勤ラッシュの時間だ。ホームや切符販売機は人でごったがえし、あちらこちらに携帯電話で話しながら、
忙しそうに歩くビジネスマンの姿が見られる。
そうか、俺もスーツだから、この人達の仲間見られてんのか。まさか、死人がすぐ横にいるなんて思わないよな。
そんなことを考えながら、切符販売機の列に並ぶ。
スーツのポケットには、恐らくこの仕事のためだろう、一番安い切符が買えるだけの小銭が入っていた。
この仕事、手帳に書かなくても自分一人でやったほうが楽だな。
そう思った修二は、ホームで冴島恭二を探し始めた。ゾーンの言っていた通り、ホームに立つ一人の男性の頭の上に、ペンや手帳に描いてある金色の鶏がいた。
あれは目立ちすぎだろ、と心の中でツッコミながら冴島恭二に近づく。
何気ない動きで冴島の後ろに並び、腕時計で時刻を確認する。
今の時刻は八時三十五分、自殺するまでは後二分。とりあえず電車が来てから、俺が止めればいいや。
そう思い辺りを見回す。万が一、知人に見られでもしたら一大事だ。今度こそ地獄行きになるだろう。
電車が来るまで後一分、冴島が少し不自然な動きを始めた。それは、普通の人が見ただけでは、わからない動きだろう。
しかし、冴島のみを見ている修二にはわかった。落ち着かない様子で辺りを見回し、電車が来ないかどうか何度もチェックする。
普通の人でもすることがある行動だが、その頻度が普通ではなかった。
自殺するまで、後三十秒、二十五秒、二十秒。
「まもなく、三番線に電車がまいります。黄色の線の内側までお下がりください」
アナウンスが流れる。冴島が前に歩き始めた。
後十秒、五秒。電車が肉眼で確認できるとこまで来ていた。
冴島が人混みを掻き分けて走り始めた。修二もその後に続いた。
冴島がホームへ飛び降りようとする。周囲の乗客も気づいたのか悲鳴を上げる。駅員が慌てて走ってくる。修二が冴島の襟を掴んで、ホームへ引き戻そうとした。
電車が通り過ぎた。
「この野郎、なんで止めたんだよ」
冴島が修二の胸倉をつかんだ。
「あのまま死なせてくれればよかったのに」
「助けてやったのにそれかよ」
修二が少し馬鹿にしたような声で答える。この男の態度に段々腹が立ってきたのだ。
「俺に関わるなよ、もう死なせてく……」
冴島が全てを言い切る前に、修二は冴島を殴った。周囲の客からざわめきが起こる。
「お前……殴りやがったな」
どうやら冴島も怒ったらしい、修二に飛びかかって来た。いくら、喧嘩をしたことがなくても十九歳だ、四十二歳に負けることはあまりない。
修二は組み合った冴島を地面に伏させた。
「おい、おっさん。俺はな……あんたみたいな奴が嫌いなんだよ。死にたいだと? ふざけんな。生きたくても死んだ奴もいるんだよ。
もう生きれないとわかってても必死に生きてる奴だっているんだよ。それなのにあんたは……まだピンピンしてんのに死にたいだぁ? ふざけんなよ!」
修二は思わず大声で怒鳴っていた。
「生きろよ! 必死に、精一杯努力して、最後まで生きろよ! 許さねえからな、自殺するなんて許さねえからな!」
周囲は水を打ったように静かだった。本来なら止めなければならない立場の、駅員までもがそうだった。
修二は、掴んでいた冴島の胸倉を放した。
「ちくしょう……生きたかった奴だっているんだよ……ちくしょう」
思わず本音が漏れ、目には涙が溜まった。
修二は次の仕事が迫っていることに気づき、急いでその場を後にしようとした。
そのとき、どこからか拍手が聞こえてきた。それは次々に広まり、ホームにいる全員が拍手を始めた。中には泣いている人もいた。
修二は階段からその光景を見て、溢れ始めた涙を止められなくなった。
「……ちくしょう」
修二は涙声でそう呟くと、走ってホームを後にした。
美里とゾーンは病院の前に立っていた。大きな大学病院で、人が世話しなく出入りをしていた。
「修二はまだか?」
ゾーンが隣に立つ美里に尋ねる。
「まだ来てません、私達だけで十分じゃないですか?」
修二にこだわるゾーンに、少し苛立ちながら聞き返す。
「いや、あいつには必要な経験だ」
ゾーンはそれだけ言うと、一言も喋らなくなった。
「わりぃ、遅れた」
美里とゾーンの会話から数分後、修二が角を曲がって来た。
「遅い、時間が大事なのはわかってるでしょ?」
まるで学校の学級委員のような口調で美里が注意をする。
「謝ってるからいいじゃん、まだ時間に余裕あるし」
「……あんた、泣いてた?」
少し赤くなっている修二の目を見て、美里が尋ねる。
「べ、別に泣いてねえよ」
「無理しなくていいわよ。何があったかは知らないけど、あんたは嘘がつけない性格みたいだしね」
美里はニヤリと笑った。
「くだらん話はそこまでだ、どうしてお前等はすぐにくだらんことを始めるんだ?」
ゾーンがいい加減にしてくれといった様子でため息をつく。
「こっちが……」
「こいつが……」
一瞬目を合わせる。
「何よ?」
「そっちこそ何だよ?」
もしこれが漫画なら、二人の間に火花が走っただろう。
「いい加減にしろ、そんなことをしている間に、残り十分しかない。行くぞ。それから修二、これを被れ」
そう言ってゾーンはさっさと、病院の中に入っていった。
ゾーンに渡された物は、カツラだった。
「なあ母さんの様子見てくるの駄目か?」
修二は駄目で元々といった様子で、ゾーンに懇願していた。
「絶対駄目だ」
ゾーンは全く許す気はないらしく、廊下をズンズンと進んでいた。
「どうしたんですか?」
事態が飲み込めない美里がゾーンに尋ねる。
「こいつの母親が、この病院に入院してるらしい。知り合いに会ってもいいようにカツラを渡したんだ。母親ならすぐにばれるに決まってる。お前は前科一犯だしな」
ゾーンは冷たい目を修二に向けた。
「いや、あれは……運が悪かったというか」
茶髪で長髪のカツラを被った修二が、しどろもどろになって答えた。
「運も何も関係ない」
ゾーンはきっぱりと言い放った。
修二はため息をついた。背中を美里に叩かれる。
「集中集中、仕事なんだから。……あっ、そういえば、今回手帳に書くのは誰なんですか?」
「私が書く、お前達はその見学だな」
ゾーンは目的地に着いたらしく、歩くスピードを緩めた。
そこは病室の近くにある、関係者以外立ち入り禁止の倉庫だった。
「こんなとこ入れるのかよ?」
「問題ない」
そう言ってゾーンがポケットから取り出したのは、小さな鍵だった。
「準備がいいね〜、泥棒みたいだ」
修二はふざけてゾーンをからかったが、美里に睨まれすぐに黙った。
やがて時間になり、ゾーンは素早く手帳に運命を書き込み、見事に人を助けるのに成功した。
「見学するほどでもないでしょ、俺達だってわかってるんだから」
「念のためだ、何があるかわからんから――」
ゾーンがそう言いかけた瞬間、別の病室で騒ぎが起こった。
「えっ、失敗したのか?」
修二は驚いた。
「いや違う、確かに運命を変えた。それに違う病室からだ」
修二は嫌な予感を感じ、急いで倉庫から出て、医師達が走っていく後を追った。
恭子の病室に近づくにつれて、修二は更に不安になった。
医師達が集まっているのは、恭子の病室だった。
「母さん……?」
修二は急いで、病室の様子を見た。
医師が必死に心臓マッサージをしており、慌しく看護婦が出入りしていた。
「谷崎さん、聞こえますか? 谷崎さん?」
横にいる看護婦が必死に呼びかける。恭子は目を閉じたままだ。
修二は目の前で起こっている出来事に、何の反応も出来ず、ただ立ち尽くしていた。
医師の必死の治療も空しく、心電図の機械がリズムよく鳴らしていた音を止めた。
医師は首を横に振り、目を閉じた。
「谷崎恭子さん、九時十二分、永眠。君、御家族に連絡してくれ」
呼ばれた看護婦は、悲しそうな顔をしたまま出て行った。
「ちょっと待てよ……嘘だろ……?」
修二は魂が抜けたように、フラフラと立っていた。
「嘘だ……母さんが……そんなこと、あるわけない」
修二が恭子の所へ走り出そうとした瞬間、腕を掴まれた。ゾーンだった。
「落ち着け、修二」
「うるさい……うるさい……うるさい!」
修二は気が狂ったように騒いだ。
「修二、人にお前を見られる訳にはいかないんだ」
修二を必死に抑えながらゾーンは言った。
「うるせぇ! お前に何がわかんだよ? 落ち着け? こんな状況で落ち着いていられんのなんてあんただけだ!」
修二はゾーンの腕を振り払い、静かに横たわる、あれほど会いたかった母に駆け寄った。
「母さん! 母さん! 目ぇ開けろよ? どうすんだよ? 今死んだら香奈はどうすんだよ?」
もちろん恭子が目を開けることがないことぐらい、荒れている修二もわかっている。それでも、呼び続けることしかできなかった。
「ふざけんなよ! 何とか言ってくれよ? 起きてくれよ?」
修二の大声は、段々と泣き声に変わっていった。
「なあ……母さん? お願いだよ、目、開けてくれよ……」
「御家族の方……ですか?」
大人しくなった修二に、医師が声を掛けてきた。
「いや、違います。気にしないでください」
ゾーンが慌ててやって来て、うな垂れる修二を抱えて、病室を後にした。
「おい、修二? しっかりしろ」
力なく倒れこむ修二を、半分担ぐような格好になったゾーンが呼びかける。
「……母さん」
返ってきたのは、その一言だけだった。
「美里? おい、美里」
すぐ近くに美里の姿はなく、ゾーンは辺りを見回した。すると、廊下の奥から走ってくる美里の姿を見つけた。
「どこ行ってたんだ?」
「騒ぎが起きた後、二人とも走ってどこかに行っちゃうから、迷ったんです」
美里は大きく息をして答えた。
「帰るぞ。仕事は終わったし、修二もこんな状態だ。しばらく休みだろう」
「はい」
小気味いい返事をして、美里はゾーンの横に並んだ。
「沙織……?」
ゾーンの肩の上の修二が、呻くように呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「……沙織」
修二が見た方向に目をやると、スーツを着た少女が、廊下を通り過ぎたような気がした。
「ゾーン……ちょっと、降ろしてくれ」
「大丈夫か?」
ゾーンは修二を心配しつつ、静かに降ろした。
修二は、少女がいたと思われる場所まで小走りで行くと、右に曲がっていった。
「どうします?」
美里がゾーンを見上げながら尋ねる。
「行ってみよう」
そう言って、二人とも修二の後を追った。
「沙織、沙織」
名前を呼びながら、修二は少女の後を追った。
少女は逃げるように歩いていたが、やがて修二に追いつかれた。
肩に手をやり、振り向かせると、そこにいたのはやはり沙織だった。
「修二君……」
「沙織……こんなとこで何やってんだよ?」
「その……仕事」
沙織はうろたえながら答えた。
「この前の質問、聞いてなかったよな?」
そうだ、この前の質問が気になったからこそ追いかけたのだ。
沙織のあの反応を思い出すと、何かを隠しているようにしか見えない。しかも、修二には知られたくない何かをだ。
「……何者なんだ?」
少し間を空けてから尋ねてみる。
すぐに答えは返ってこない。答えが返ってくるまでの間が長ければ長いほど、修二は不安になった。
以前から抱いていた不安、戸惑い、疑惑。それらが修二の体の中で蠢いていた。
沙織は何者なのか? 時折見せる沙織の不可思議な行動が、一層この疑問を大きくさせていた。
「私は……」
沙織が口を開きかけた瞬間だった。
「あんたっ……やっぱり!」
美里だった。沙織の顔を見て驚いたようだ、目を大きく見開いている。
「羽田……沙織なのか?」
ゾーンも驚いた様子で尋ねる。沙織は小さく頷いた。
「修二、とんでもないことだぞ」
「何がだよ? どういう意味だよ?」
訳がわからず、修二は苛立ちながら尋ねた。
「こいつは……『無の司』だ」
ゾーンは一言だけ答えた。沙織は、小さく俯いた。
「『無の司』って何だよ?」
「詳しいことは私も知らんが、遥か昔に存在した、人の生死両方を司る『司』だったらしい」
「つまりどういうことだよ?」
「『司』の起源が無だったのだ。つまり生と死、両方を操れるんだ」
「それで?」
なかなか本題に入らないゾーンに苛立ちながら尋ねる。
「その中に、世界を思い通りに創ろうとしている集団がいてな、そこのメンバーの一人が羽田沙織だったらしい」
予想外の言葉に、修二は驚きを隠せなかった。
「危険な集団の一人が沙織? そんな訳ないだろ」
「お前にはまだ話さなくていいと思ってたんだが、私のミスだな……修二、すぐにそいつから離れろ」
「どうして?」
「『無の司』は危険な力を持っている。人間だけでなく、私達の生死をも操れる」
「は? 意味わかんねえよ、しっかり話してくれよ」
修二はこの展開に付いていけず、思わず大声を上げる。
「無の力を使い、我々を消滅させることができるのだ」
「何だよそれ、そんなテレビゲームみたいなことあるかよ? 嘘だよな、沙織?」
修二は乾いた声で笑いながら沙織を見た。沙織は俯いたままだった。
「嘘なんだろ? 沙織」
修二は懇願するような顔で言った。
「……修二君」
沙織は泣きそうな顔になって言った。
やめろよ、やめてくれよ。どうしてだ? どうしてそんな顔するんだよ? 嘘じゃないのか? 嘘だって言ってくれよ、俺を安心させてくれよ。
お前にそんな顔されたら、俺……
「……信じられねえよ」
修二は小さく呟いた。
「そんな顔されたら、信じきれねえよ」
修二は顔を上げて、沙織の目をじっと見た。会ったときと同じ、黒い瞳だった。いや、同じではない。目の前にいるのは、修二の知らない沙織だった。
沙織は一言も喋らなくなり、顔を上げなかった。
「なあ沙織? 俺……どうしたらいい?」
答えが返ってくるはずのない問いかけだとはわかっていた。それでも、問わずにはいられなかった。
「修二の母親を殺したのも、あんたなの?」
美里がゾーンの後ろから恐る恐る尋ねる。
沙織は俯いたまま動かない。
「それこそ嘘だろ? なあ、そんな訳……ないよな?」
修二は真っ白になった頭で必死に考えた。
沙織は母さんを……? それは可能なことだった。ゾーンの話によれば、『無の司』は生死の両方を操れるからだ。
「それは……違う!」
沙織は強く否定した。今までとは全く違う顔付きだった。
「証明できるの? あんたは殺すこともできるんでしょ?」
美里は大きな声で反論した。
「それは……」
沙織は返答に詰まった。
「嘘……だよな?」
修二は震える声で尋ねた。
「私じゃないけど……証明なんて出来ない」
「今ここにいて、殺せるのはあんたぐらいじゃない」
美里は声を荒げて言った。
修二は何とも言えない顔で沙織を見つめた。
なあ、違うんだろ? 証明出来なくても、違うんだろ?
信じたかった。沙織を信じてやりたかった。だが、この場の状況全てが、沙織にとって不利なものばかりだった。
「沙織……お前」
修二は俯いて呻いた。
沙織は耐え切れなくなったのか、廊下の脇の、階段の踊り場に入った。追いかけると、沙織はすでにいなくなっていた。
「不味いことになった。急いで帰るぞ、“白の評議会”を開かねばならない」
ゾーンは珍しく焦った口調で言うと、沙織と同じ場所にペンをやり、円を描いた。
美里はさっさと入り、ゾーンはうな垂れる修二を抱えて、円の中に入っていった。
その後、“白の評議会”は直ちに開かれた。
ヴォルフ達も集まり、まず、羽田沙織についての説明がされた。
それを踏まえた上で、どのような対応を取るべきかが話し合われた。まだ若く、血の気の多い導師は、戦いを仕掛けるべきだと言ったが、老いた導師に止められた。『白の司』達は、無の力に対抗する術をあまり持っていないようだった。白熱した議論が続く中、“審議の間”の扉が唐突に開かれた。
「何者だ? 審議の途中だぞ」
ヴォルフは扉を開けた青年に尋ねた。
「緊急の報告が……『無の司』が動き始めました」
「どういうことだ?」
“審議の間”に緊張が走る。普段は落ち着いているヴォルフさえ、深刻な顔をしていた。
「何名かの『司』が消されました。奴らはスパイとして、生の神殿に潜り込んでいたようです」
「何だと?」
「どうやら『黒の司』と手を組んでいるらしく、死の神殿からも奴らが……」
青年が言葉を言い終わらない内に、黒い球体が二つ、“審議の間”を飛び、直撃した。
青年は「グフッ」と声にならない呻き声を上げると、その場に崩れた。
修二が球体が飛んできた方向を見ると、ガブリスとサムエルが手を倒れた青年に向けていた。
「やれやれ、もう計画を始めるとは。ヘーニル様は何を考えているのだろうな」
ガブリスは唇を捲って、歪んだ笑みを浮かべた。
「ガブリス殿、ヘーニル様の思考は我等の及ばぬところ、ただ従えばいいのです」
サムエルは穏やかな微笑を浮かべていた。
“審議の間”にいた導師達と修二は、一瞬何が起こったかわからなかった。しかし、床に横たわり、煙を出しながら消えていく青年と、それを楽しそうに眺める二人を見て、全員の目が覚めたようだ。
「貴様等、気は確かか?」
最初に声を出したのはゾーンだった。部屋が揺れるほどの大声だった。
「ああ、よくわかっているさ。ゾーン導師。我々は、“ラグナロク計画”のために『白の司』なんぞに扮していたのだよ」
ガブリスは笑みを浮かべたまま答えた。
「もう君達は必要ない。ここで消えてもらおう」
そう言い放つと、またもや手に力を溜め、近くの導師二人に放った。一人はなんとか避けたものの、もう一人の老人には直撃し、叫び声を上げながら消えていった。
「君達が逝くべきところは“無”なのだよ、ゾーン導師」
そう言って、サムエルが放った球体はゾーンの脇に逸れ、壁に当たった。すると、当たった場所を見ても、目が見えなくなったように何も感じられなくなった。
修二は呆然と椅子に座り込んでいた。
「修二君、君は消えるべきだったな。“無”に還るがいい」
ガブリスが放った弾が三十センチまで来たとき、修二はゾーンに引っ張られ、何とか当たらずに済んだ。
「修二、急いでここから離れるぞ。ヴォルフ様の部屋に行けば安全だろう」
そう言って二人は、悲鳴や叫びが聞こえる部屋を急いで後にした。
「なあこれからどうすんだよ?」
走りながら修二は尋ねた。
「わからん、裏切り者がいるとなると、私達もどうなるか……」
ゾーンは返答に詰まったまま走り続けた。やがてヴォルフの部屋に着くと、そこには既に何人もの『司』が避難していた。
「修二、お前はここにいろ。私は他の『司』を助けてくる」
無謀だとわかっていたが、修二はゾーンを止めなかった。止められなかった。ゾーンは生半可な説得では止まらないだろうし、何より疲れていた。
部屋の隅に座り込むと、今まで感じなかった感情が湧いてきた。
母の死、沙織の正体、『白の司』と『黒の司』の裏切り。全てが重く伸し掛かった。ここで感情に任せて大声で泣けたらどれだけ楽だろう。修二は俯いたまま静かに泣いて、ゾーンの帰りを待った。
数十分後、ゾーンは一人を背負って帰ってきた。
「どこも酷い状況だ、そこらかしこで暴れたらしい」
ゾーンは息を切らして言った。
「美里は? 美里はどこに?」
修二はもう一人の弟子を思い出して尋ねた。
「わからん、この混乱だからな。無事ならいいのだが……」
「なあゾーン、美里ってどこから来たんだ? 新しく来たんじゃないだろ? いろんなこと知ってたし」
「美里は……『黒の司』との期間限定の交換で来た奴……まさか」
「そう、『黒の司』は裏切った。美里も……」
理由はわからないが、修二の頭は冴えていた。泣いてすっきりしたからだろうか。
「行くぞ、修二。まずはヴォルフ様に報告だ」
ゾーンは部屋の奥へと走っていった。
「なるほど、そうだったのか」
報告を受けたヴォルフは深刻な顔をした。
「よし、我々で死の神殿に行こう」
「でも大丈夫なんですか? 敵もたくさんいるだろうし」
「少しなら私の力でお前達を守ってやれる。それに敵の本拠地に行かねば、この戦いをやめさせることはできないだろう」
無謀と思われるこの計画には、ヴォルフとゾーン、修二だけで行くことになった。
死の神殿は暗く、ジメジメしていた。三人は見つからないように隠れながら、静かに走った。
やがて、ダスクがいる部屋の前まで来た。
「どうやって入るんですか?」
ゾーンがヴォルフに尋ねた。
「任せておけ」
そう言ってヴォルフが手を当てると、扉が静かに開いた。
「来たか、ヴォルフ」
扉が開いた途端、冷たい声が聞こえた。
ダスクだ。最初に見たときと変わらぬ姿、変わらぬポーズだった。
「貴様、よくもこんなことを」
ゾーンが怒鳴り声を上げた。
「黙れゾーン、貴様ごときがでしゃばるな」
ダスクはより冷たい声で、ゾーンを静めた。
「俺が話したいのは谷崎修二だ」
予想外の指名に、修二も含めて、全員が驚いた。
「俺に? 何の話だ?」
礼儀などは捨てて、修二は叫んだ。
「お前、自分が何のために生まれたか、考えたことあるか?」
「は? そりゃあ一度ぐらいは」
「考えたのか? フハッ、フハハハハ。そりゃあ傑作だな」
何が可笑しかったのか、ダスクは大声で笑った。
「何が可笑しいんだよ?」
修二は持て余す怒りをダスクにぶつけた。
「お前はな、修二」
「よせ、ダスク。そんなことを話している場合ではないのだ」
ヴォルフがダスクを制すように叫んだ。
「何故だ? 何故話してはならないのだ? ヴォルフよ」
ダスクは邪悪な笑みを浮かべて言った。
「彼は知るべきではない」
「いいや、知るべきだ。知って後にどうするかが問題なのだ。修二、お前は」
「よせ!」
今度はゾーンだった。しかし、二人の制止も振り切り、ダスクは一言だけ言い放った。
「生まれるべきでない命なのだ」
修二の思考は停止した。
生まれるべきでない命? ウマレルベキデナイイノチ? 何だよそれ。
「何だよ、それ」
心で思ったことをそのまま口にした。
「そのままの意味だ。お前は生まれてはならない存在だった。だから我々が殺したのだ」
ダスクは笑みを浮かべたまま言い続けた。
「何だよ、それ。二人とも知ってたのかよ」
修二は横にいる二人に目をやる。二人とも決まりの悪そうな顔をしている。
「もう一つ面白いことを教えてやろう」
ダスクはメインディッシュを味わうかの如く、舌で唇を舐め回した。
「これ以上何があるんだよ」
修二は蚊の鳴くような声で言った。
「お前の母親と妹も生まれるべきではなかったんだよ」
ダスクは一層邪悪な笑みを浮かべて言い放った。修二にとってはとどめの一撃だった。
「何、だって?」
「お前の父親しか存在を認められないのだよ」
「ふざけんなよ、だから母さんも俺も殺したってのか?」
「ようやく気づいたか、次は妹だな」
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。修二の中の怒りは蠢き、喚き、暴れ始めた。
殴れ、蹴れ、殺せ。目の前で笑うあいつを、殺せ。今までに感じたことのない感情だった。気づくと、修二は座っているダスクの足の上に乗っていた。
「ふざけんなよ、お前何なんだよ。生まれるべきでなかったから殺すのかよ? 生まれたのに殺すのかよ? 必死に生きてるのに殺すのかよ?」
ダスクの胸倉を掴んで喚き散らした。修二の力では、体格の大きいダスクはほとんど動かなかった。
「お前の、全部お前のせいなんだろ。ふざけんなよ!」
そう言い放つと、ダスクの頬を渾身の力で殴った。流石にダスクは顔をしかめ、口から血を出した。
「修二、お前は殴る相手を間違えてるぜ。お前が殴らなきゃいけないのは」
そこまで言い掛けたとき、ダスクに何かが当たり、修二と一緒にゾーン達の方へ吹っ飛んだ。
頭を打ったらしく、目眩と吐き気に襲われた。
「何だよ、どけよ」
力のない声でダスクに言うが返事はない。代わりに返ってきたのは、低い呻き声だった。
よく見ると、何かが当たった場所から煙が出ており、消えかけていた。
「おい、何があったんだよ?」
体を必死に動かすが、ダスクは重くビクともしない。
「あなたももう用済みなのよ」
冷たいが、聞き慣れた声が聞こえた。ダスクが何とか起き上がったので、修二も慌てて立ち上がった。
「美里」
そこにいたのは、美里だった。
「お前、やっぱりそうだったのか?」
修二の問いかけを無視して、美里は話を続けた。
「ヘーニル様からの伝言、今までご苦労、だって」
そう言って、美里は手に無の力を溜め始めた。
「へ、へへ……最後は俺をも消すか。とんだ疫病神だったな、お前は」
ダスクは朦朧とした意識の中で、何とかあの笑みを浮かべて言い放った。
「さようなら、ダスク」
美里の手から放たれた弾が当たると、ダスクはまるで霧のように消え去った。
「お前は……スパイだったのか」
ゾーンが恨めしそうな顔で美里を睨む。
「あの程度の芝居にも気づかないなんて馬鹿な人達よね」
そう言って美里は、修二の知らない怪しげな笑みを見せた。
「よくもダスクを……」
珍しくヴォルフが、怒りを込めた口調で言った。
「あら、消えた友達を心配している場合? あなた達も消されるのよ」
そう言って美里は、再び力を溜めた。
「何でだよ? どうしてお前も? どうしてなんだよ」
修二は必死に呼びかけた。美里が戻ってきてくれることを祈って。
「馬鹿ね、谷崎修二。自分が生まれてきてはいけないことも知らずに、人の命を助けられると思ってるの? あなたの妹も母親だってそうよ」
「お前、まさか……母さんをやったのはお前か?」
修二は震える声で尋ねた。
「今頃気づいたの? 本当の馬鹿ね。羽田沙織は関係ないわ、以前は確かに仲間だったけど、途中で裏切って逃げ出したのよ」
美里は冷たい口調のまま、嘲笑った。
「俺は……沙織を信じてやれなかった」
修二は独り言を呟いた。
あのとき、信じていれば未来は変わっていたのだろうか? 俺が……俺が信じてやれば……
「そろそろお喋りも飽きたわね。消えなさい」
そう言い放つと、美里は弾を放った。
「下がれ、修二」
ヴォルフが素早い動きで前に出ると、手をかざし、どからともなく大きな盾を取り出した。弾はそれに当たり、反射すると美里の脇に逸れていった。
「私には守ることしか出来ない。何とかしなければ……」
ヴォルフは眉間にしわを寄せて言った。
「次はないわよ」
美里はそう叫ぶと、さきほどより二回りほど大きい弾を作り出した。
「今度こそ」
そう言って弾を放つ瞬間、前からではなく後ろから弾が飛んできた。それが美里に直撃すると、美里は悲鳴を上げて後ろに吹っ飛んだ。
修二達が振り向くと、そこには沙織が立っていた。
「沙織」
沙織は何も答えず、にこりと笑った。
「沙織、ごめんな。俺」
沙織に駆け寄って謝ろうとしたが、言葉が出てこない。
「ううん、いいの。修二君を助けることが出来かたから」
そう言うと、またにっこりと笑った。
「沙織……あんた……」
美里がこちらを睨みつけながら、ほとんど聞き取れない声で言った。
「許さない……“計画”を……」
そう言い残すと、かつての仲間は無へと旅去った。
ホッと一息ついたとと思ったら、奥から拍手の音が聞こえてきた。目を凝らすと、何やら巨大な扉が見える。
「まだヘーニルと呼ばれている奴が残っているな」
ゾーンが呟くと同時に、扉が開いた。そこには五人の男が立っていた。真ん中にいる若い男が拍手をしていた。
「いや〜すごいすごい。僕の妹を消しちゃうなんて」
男は乾いた笑い声を上げた。
「妹? 美里が?」
修二は思わず聞き返した。
「そうだよ、ヘーニルなんて呼ばれてるけど、僕は日本人さ。高西佳樹、よろしくね」
そう言って微笑んだ。もしこの青年と学校で同じクラスだったりしたら、すぐに友達になれるだろう。それほど人懐っこい笑顔だった。
年は修二よりもやや上だろう。少しくせ毛のある髪が、顔とぴったり合っていた。
「妹が消えたのにそんな態度かよ」
同じ妹がいる兄として、修二は佳樹の態度に腹が立った。
「別に、お互い死んでるわけだし。それに彼女は僕の人形だった。人形がまともな最後を迎えられると思っているのかい?」
そう言って佳樹はまた笑った。
「人形だと?」
「そう人形。彼女は個人的な恨みで人間達に復讐したかったみたいだけど、僕は違う。ちゃんとした理由がる。その為に彼女を人形として利用したんだよ。彼女もそれを望んでいたしね」
「復讐? 理由? お前らの目的は何なんだよ?」
肝心なことを知らなかったことを思い出したらしく、ゾーンが問い詰める。
「簡単なことさ。僕らは死んで生死を操れるようになった、なのに君達は人類の発展の為だけにその力を使っている。どうしてだい?」
「そんなの同じ人間だからだろ」
「同じ人間? また人間の悪い癖だ。自分達だけ特別だと思っている。人間は確かに繁栄した、それは認めよう。しかし、決して地球の支配者ではないんだよ」
「は? 何言ってんだよ?」
「地球に棲む、一種の生物としてこの力を使うべきだ」
「わけわかんねえよ! どういうことなんだよ?」
耐え切れなくなり、修二が怒鳴った。
「君達に任せていると、地球は滅んでしまう。身勝手な人類だけを残してね。今地球で騒がれている温暖化も、君達が招いた結果じゃないか」
「確かにそうかもしれないが、人間は地球を滅ぼすまでは」
「いいや、滅ぼすに決まっている」
ヴォルフが反論しようとしたが、すぐに遮られた。
「そんな適当な理由で何をするつもりなんだ?」
「人類が爆発的に増えたせいで、地球の環境は悪くなった。一種の生物だけが増えては生態系全てが崩れるんだよ」
「回りくどいこと言ってないではっきり言えよ」
「人類は増えすぎた。増えすぎたものは……」
「まさか……」
「そう、減らせばいい。人類は一億人ほどいれば十分だ。むしろ地球にはいらないくらいだね」
俊二はまたしても笑った。
「ふざけんなよ!」
「ふざけてないさ。僕達は選ばれ者、そう、神になったんだよ」
佳樹は歪んだ笑みを浮かべて言った。
「何でそうなるんだよ? もっと別の方法があるだろ! いくら環境が悪くても、お前が人間を殺す権利なんか持ってるわけねえだろ!」
修二は今にも殴りかからんとする姿勢になって怒鳴った。
「やれやれ、君達とはもう少し上手く付き合えると思っていたが、仕方ない。ここで消すとしよう。“ラグナロク”計画は実行する」
佳樹がそう言うと、後ろにいた男四人が出て来た。そこにはガブリスとサムエルもいた。
「お前ら……!」
ゾーンが唸り声を上げた。
「ゾーン、ここまで来るとはな。ヴォルフ様まで来ていただけるとは」
二人は仰々しく頭を垂れた。
残りの二人は双子らしく、同じ顔をしていた。背が丸まっており、緩んだ口元からは汚い歯が覗いていた。
「へへ、羽田沙織。裏切り者だ」
双子の片方が言った
「裏切り者だ、殺せ」
もう片方が嬉しそうに言った。
「ロムルスとレメス、あんた達なんかには消されないから」
沙織は珍しく強気の発言をして双子を睨みつけた。
「“ラグナロク”計画なんてふざけた名前付けやがって」
修二は目の前にいる佳樹を睨んだ。
「まさか“ラグナロク”を知らないのかい? まったく、少しは教養というものがないのか?」
佳樹は嘲笑いながら言った。
「知るかよ、そんなもん」
修二は拳を握り締めて言った。
「“ラグナロク”は神話に出てくる神々の戦争さ、ヘーニルはそこで勝ち残る神の名前。つまり、勝者は僕だ。まあ君と僕じゃ最初から勝負は決まっているけどね」
佳樹はニヤリと笑い、手に力を溜めた。
「うるせえ、そんなもんやってみるまでわかんねえよ。それに、俺はお前の顔面をぶん殴ってやりてえんだよ」
修二は呻いた。
「来るがいい、無に還してあげよう」
佳樹は挑発するように手を動かした。
「皆、あの奥の扉を閉めれば、こいつらを封印することが出来る。チャンスがあったら閉めてくれ」
ガブリス達を睨むヴォルフが、傍にいる修二達だけに聞こえる声で囁いた。
「だが、長い時間あの扉の前にいると、無の力で消えてしまう。くれぐれも長い間前に立たないように」
ヴォルフが念を押した。
「わかった、あいつをぶん殴ってさっさと閉めてくるよ」
修二がそう言って佳樹に飛び掛ると同時に、全員が動き始めた。
戦い、といっても、実際問題まともに攻撃できるのは無の力を扱える沙織ぐらいだった。
ゾーンやヴォルフは、格闘技を少しやっていたらしく、何とか戦えるのだが、修二はそんな経験はない。せいぜい冴島との喧嘩程度だろう。
しかし、それは相手も同じことだ。相手は無の力を使うこと以外は、ただの人間、何とか戦うことが出来た。
実際にやっているのはただの喧嘩に近い、しかし、修二達が負ければ人間達は僅か一億人まで殺されてしまうのだ。
「お前なんかに、殺させるかよ」
修二は拳を振り回して叫んだ。拳は空を切った。
「フフ、よく吠えるじゃないか」
そう言って佳樹は弾を放ったが、修二は間一髪でかわし、扉に当たった。
修二達のすぐ横では沙織が双子を相手にしていた。沙織は無の力を上手く使い、確実に相手を追い詰めているようだった。
「う、裏切り者。へへ」
双子の片方、レメスと呼ばれた方が喚きながら弾を放つ。それは沙織の弾と衝突し、消えた。
沙織が左手で放った弾は見事にロムルスの腹に直撃した。声にならない叫び声を上げて、双子の片方は消え去った。
「許さん、許さないぜ。へへ」
口からよだれを垂らしながらレメスが呻いた。
「あんたなんかに消されないんだから」
沙織はそう言い放つと、再び力を溜めた。
ゾーンとヴォルフは半分決着が着いているらしく、ヴォルフに倒されたサムエルが横たわり、ガブリスを二人で倒そうとしているところだった。
今、最も不利な状況なのは修二だった。無の力を扱えるわけでもないし、盾が出せるわけでもないし、喧嘩も強いほうではない。対する相手は同い年の喧嘩慣れしている青年。しかも、無の力を扱える。圧倒的に不利だった。それでも修二は果敢に飛び掛って行った。
「うぐっ」
修二が呻き声を上げた。佳樹の蹴りが、腹にまともに当たったのだ。修二はその場に倒れこんだ。その修二を佳樹は何度も蹴り上げた。
「君もここまでだね、正義のヒーローを気取った修二君」
佳樹は冷たい笑みを浮かべると、修二に手を向けた。バトル漫画なら、ここで主人公がパワーアップして敵を倒すのだが、もちろんそんなことは無理だ。
這いつくばったまま何も出来ない修二は、ただ目の前にいる佳樹を睨むことしか出来なかった。
佳樹が今にも弾を放とうとしたとき、横からゾーンが現れ、佳樹を吹っ飛ばした。
「お前もここまでだな、ヘーニル」
ゾーンは息を切らしながら言った。修二以外の全員は勝ったらしく、沙織も駆けつけた。
「貴様等……」
佳樹は憎しみの篭った目で睨んだ。
「消えろ! 全部消えてしまえ!」
佳樹はそう叫ぶと、弾を放った。だが、ヴォルフの盾に阻まれ、当たることはなかった。
「私が」
そう呟いて、沙織が一歩前に出た。
「裏切り者も消えろ!」
佳樹と沙織が弾を放つのは同時だった。佳樹の弾が当たりそうになったが、修二が沙織の腕を引っ張り、なんとかかわすことが出来た。
沙織の弾は、ゾーンに吹っ飛ばされて倒れこんだ佳樹に当たった。
「うああ! 沙織……貴様」
佳樹は徐々に消えながら叫び続けた。
「哀れだな」
修二は佳樹に近づいて言った。
「哀れ……だと? ふざけるな、存在が許されない者が」
「例え存在が許されなくても、俺は生きた。母さんも、香奈も皆生まれて精一杯生きた」
「だから何だ?」
「存在が許されなくても……俺を認めて、愛してくれた人がいる。それが大切だろ」
「……つくづく馬鹿だな、お前は」
「お前はそんな経験ないんだろ? だからこんなこと……」
「黙れ……俺は、俺は……」
そこまで言うと、佳樹は不意に力を溜めた手を挙げた。
「さっきも言っただろ? 馬鹿だなお前はってな」
そう言って修二を消そうとした瞬間、修二は横から誰かに押され、倒れこんだ。誰かの呻き声が聞こえた。
「……沙織?」
修二のすぐ横には、沙織が横たわっていた。腹からは煙が出ており、苦痛で顔を歪めていた。
「へ、へへ……ざまあみろ。俺の最後の……ふく、しゅ」
佳樹はそれだけ言い残すと、消えていった。
「沙織!」
修二は急いで抱き起こした。ゾーン達も慌てて駆け寄ってくる。
「お前、何でこんなこと」
「修二君の力になりたかったの……」
「どうして? 俺をかばって消えるなんてやめろよ」
「私もね、修二君と同じなの」
「え?」
「私も存在が許されない命だったの。今まではそのことですごく悩んでた。私はどこにもいちゃいけないんだって。でもね、修二君を見てると、そんなことで悩む自分が馬鹿みたいに思えてきて……それで助けたかったの」
「居場所ならあるじゃねえかよ、俺の、俺の傍にいてくれるだけでよかったのに……」
「ありがとね、修二君」
「やめろよ、そんな最後の別れみたいな言葉やめろよ」
溢れる涙は修二の頬を伝い、地面へと落ちた。
何でこうなるんだよ? 沙織を守ってやるって言ったのに、何で? どうして?
涙が溢れるだけで、答えはなかった。
「ありがと……修二君」
答えなきゃ、何か答えてやらなきゃ。何だ、何を言えば沙織を笑顔に出来る?
「沙織」
口から出て来たのは、嗚咽に近い声だった。
沙織は消えた。抱きかかえた修二の手からスッと抜けるように。
「修二、扉を閉めよう。早くしないと、無の力が暴走を始めるかもしれない」
ヴォルフが修二の肩に手を置いて言った。その言葉を待っていたかのように、扉の奥が光り始める。
「始まってしまったな。急ごう」
ゾーンとヴォルフは扉を閉め始めた。修二もゆっくりと立ち上がり、それに加わった。
扉は重く、なかなか動かなかったが、少しずつ閉まり始めた。そのとき、奥から轟音が響き、風が吹き荒れた。
その突風により、ゾーンとヴォルフは吹き飛ばされてしまった。修二は扉に必死にしがみついた。
「くっ、修二、戻れ。一人じゃ閉まらない、そのままだと消えちまうぞ」
ゾーンが音に負けじと叫んだ。
「俺が閉める、二人はそこにいてくれ!」
修二も大声で答えた。なぜあのとき一人で閉めようと思ったのかはわからない。ただ、母親が死に、沙織も消え、これ以上誰かが傷つくのが嫌なだけだったかもしれない。一人で閉めれるかわからない扉を、修二は押し始めた。
ゾーン達も修二を助けに行こうとするが、突風によりなかなか前に進めない。そうこうしている間に、修二は片方の扉を閉め、もう片方の扉を閉め始めた。
「もういい修二、本当に消えるぞ」
ゾーンが叫び声を上げる。しかし、その叫びが聞こえないのか、無視しているのか、修二は扉を閉め続けた。
修二の体は限界を迎え始めていた。体のあちこちから消えかかり、前もよく見えなくなった。意識は朦朧とし、自分がどこにいるのかわからないほどだった。
扉を閉めると同時に、修二はその場に倒れこんだ。ゾーン達が慌てて駆け寄る。
「修二、しっかりしろ」
ゾーンの呼びかけが、遥か遠くから聞こえる。
俺、どこに行くんだろう?
もう死んでるしな、消えたらどこにいくんだろう。母さんや沙織に会えるかな。そんなことをぼんやりと考える。
やがて、修二の体は完全に消え去った。
暗闇、そこに修二はいた。
あれ、ここどこだろう? まいったな、ゾーンに最後の別れ言おうと思ってたのに。
死んだときと同じように、修二は歩き始めた。やがて仄かな二つの光を見つけた。
なんだか懐かしい。
そんな気持ちを抱いて、その光に近寄る。
「修二君も来ちゃったの?」
「久しぶりね、修二」
見えなくとも、会いたかった人だとすぐにわかった。
急いで光に駆け寄る。
「おかえり」
二つの光の声が重なる。
「ただいま」
修二は光と一緒に、暗闇の奥へと姿を消した。
「どこだよ、ここ」
暗闇の中で気づいた青年は呟いた。
「まいったな、友達待たせたまんまなんだけど。ここから出なきゃ」
「友達の心配はいらない、むしろ自分の心配をしろ」
どこからともなく、声が聞こえた。低い声だった。
「だ、誰だよ? どこにいるんだ? なあここはどこだ?」
「何も覚えてないのかね?」
「覚えてって……友達と遊びに行く約束してて、自転車に乗ってカラオケに行く途中だったんだけど」
「あそこの様子を見てみようか」
そう言うと、カラオケ店の近くの道路に人だかりが出来ていた。
「あれ、ここ、さっきのとこじゃん」
警察や救急車が来ている。見慣れた自転車が青年の目に映る。
「え? どういうこと?」
「君はあそこで死んだ」
声が冷たく言った。
「そんなわけ……まさか、あれ夢じゃなかったのか」
「思い出したか」
「……」
青年は目を見開いて立ち尽くした。すると、辺りが明るくなり、一人の男がいるのに気がついた。顎鬚を生やし、白いコートのようなものを着ていた。
「ようこそ、死後の世界へ」
ゾーンは青年に手を差し出した。
完
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2009/02/08(Sun)12:23:14 公開 / ケイ
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