『支配者、優香里様   第1章』 ... ジャンル:SF リアル・現代
作者:オレンジ                

     あらすじ・作品紹介
大日本国民党の独裁が始まった日本。前時代における衆愚政治の過ちから、国民は最も楽で無責任な国政、独裁者の出現を願った。かくして支配者、優香里様が生まれる。

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 〜プロローグ〜

 
 私の父は、私が確か五歳の時、和室の鴨居に縄を掛け首を吊って死にました。とても優しい父でした。当時大好きだったぷーさんのぬいぐるみも沢山買ってくれました。あまり家にはいませんでしたが、休みの時は常に私の為に時間を使ってくれる、かけがえの無い存在でした。
 父は住宅や店舗の設計を仕事にしていました。一時は建築家の先生、空間プロデューサーなどと持て囃されながら、日々忙しく仕事をこなしていたようです。父親が家でゆっくりしていた記憶は私にはありません。
 そんなある日、大きな社会問題になりました、心無い人間が行った耐震構造の偽装が発覚し、建設業界に規制の大波がやってきました。もちろん、父親はそのような不正は行っていません、むしろ、父親は正直で不正を心から嫌っておりました。
「申し訳ないが、お宅との契約は白紙にさせてもらえませんか。一体何時になったら工事が始まるのですか。もうお店のオープンは決まっているんです」
「はい、申し訳ありません。まだ建築確認が役所から降りて来ないのです。もうそろそろ降りてくるとは思うのですが……許可が降り次第すぐに着工しまして、何とかオープンまでには間に合わせたいと……」
「いやいや、私と同じ頃に別の設計士さんにお願いしたお店はずいぶん前に工事が始まっているんだよ……これ以上、私も待てないのでね、紹介してもらって、そちらの設計士さんにお願いする事にしましたよ。まあ、今まで掛った経費はお支払しますけどね」
 建築基準法の規制が強化され、建築確認申請の手続きや構造計算が複雑化された事により、建築工事の着工数は一気に少なくなり、建設業界は冷え込んできました。父親も、その渦中でもがき苦しんでいたようです。
 しかし、全く建物が建たなくなった訳でありません。Aという設計士が申請をした建物はあっという間に許可が下り、同じような建物なのにBという設計士が申請を出した建物はいつまで経っても許可が下りてこないなど、おかしな事態が起こっていたようです。
 父親はある日、知り合いの紹介ですぐに申請が下りるAという設計士のところへ「どうしてすぐに許可が下りるのか」聞きにいったそうです。真面目な父親の事ですから、書面等に書き方のコツでもあるのだろうと、そう思っていたようです。
 でも、実態はまるで違いました。
「調査費ってのを担当課長に払っているからね」
「調査費?」
「そう、だいたい設計価格の3%くらいかな」
「だけど、調査費なんて、そんなもの何処にも明記されていない、根拠の無いお金でしょう」
「調査してもらうんだよ、建物が合法か非合法か、そうすればすぐ確認申請が下りてくる。調査してもらわなければ、まだ構造計算のシステムも確立出来てないんだから、何か月も時間が掛かるのは当然じゃないですか」
「ですが、そのお金はあきらかに……」
「おっと、あなたも大人なんですからそれ以上は……」
「いや、しかし……」
「大学の先輩からのご紹介ですし、今度、窓口になってもらっている大橋課長と会えるように取り計らってあげますよ。なになに、客からは少し余分に経費を貰っておけばいいんです。そっちの方がスムーズに建物が建つんだから、客の事を考えたらこちらの方がいいに決まってる。それに、今までのやり方じゃこの厳しい世の中、生きていけないですよ」
 窓口の役人に幾らか黒い金を与えれば、すぐに確認申請は許可される、と言う訳です。しかし、不正が許せない父親は当然の如くその話を断りました。
 そして、それだけでは無く、その不正をマスコミや警察に通報したのです。
 残念ながら、マスコミも警察も一切動いてくれませんでした。
 それ以来、父親の仕事は無くなりました。

 私はその日保育園の庭にある満開の桜をじっと見つめていました。お迎えの時間はとうに過ぎ、園児は私以外誰もいません。みどり組の担任だったあい子先生がずっと私のそばで一緒に桜を見てくれていました。すっかり暗くなり、桜の花も薄ぼんやりとしか確認出来なくなった頃、警察がやって来ました、父親の自殺の知らせを持って。

 私は、今のこの国を絶対に許せません。いつか父親の仇を打ちます。あの優しかった父親の仇を。役人だとか官僚だとか呼ばれる特権階級の人間に必ずや天誅を下し、この国を変えて見せるのです。

 若林君、こんな私でも、好きでいてくれますか?

              *

 僕に全てをぶつける様に、その澄んだ瞳でじっと見つめながら僕にそれを告白した、あの時の君と何も変わっていない、と僕は思った。モニターを通しているからなのかも知れない、細かな違いには気がつかないのも仕方の無いことだ。たとえばあのきめ細かな白い肌を、この程度の液晶画面で表現出来る筈もない。
 今日も君は言葉を投げかける。
 君の言葉を待つ全国民に向かって。
 二人が付き合っていた、あの頃ときっと何も変わりはしない、そう信じている。
 だけど、モニター越しに写る、長い黒髪の凛とした少女はもう、僕の知る優香里ではない。
 そう、今液晶モニター上に画素の集合体として映っているそれは
 
 支配者、優香里様――

 
 プロローグ2


 僕が少年だった頃暮らしていた児童養護施設の近所に、ウナギを専門とした食品会社があった。従業員は十数名とパートで成り立つ、家族経営的な食品会社だ。軒先程のスペースでウナギの小売も行っていて、夕方学校帰りにはかば焼きの香ばしい香りが、育ち盛りの少年の胃袋に容赦のない攻撃を仕掛けてきたものだった。
 三代続く老舗の食品会社だが、丸顔の可愛らしい子どもが笑顔でウナギを掴んでいる柔和な看板が掲げられ、とても親しみやすく、またそのウナギの質や味付けも抜群で、近所からの評判は良好だった。
 僕の施設でもごく稀にこの店のウナギが夕食に出る事があり、その時は誰彼問わず、喜んで食べたものだ。もちろん優香里もこのウナギが大好きだった。
 だが、その会社も当時食の安全が騒がれていた頃、産地偽装が発覚し、潰れてしまった。輸入物のウナギを国産と偽って販売していたらしい。しかも、その輸入物のウナギから、基準値を超える農薬が検出されていたというから、もう何ともならなかった。
 世間からの非難の声、連日徒党を組んで押し寄せるマスコミ、完膚無きまでに叩き潰されたその会社は、謝罪会見を開いた翌日からシャッターが開く事は無かった。
 開かずのシャッターには、「守銭奴」だの「殺し屋」だの「恥さらし」だの心無い暴言が書き殴られ、マスコットの丸顔の子どもはスプレーで塗りたくられ、ドドメ色の醜い姿を晒し続けることになる。大日本国民党による新政府が誕生し、大規模開発令による市街地再開発で解体されるまで、マスコットの丸顔の子どもは晒しものにされた。
 
 後日、僕は知る事になるのだが、実はこの事件には裏があった。それは決して表に出る事の無い暗黒のベールに覆われていた。

                     *

「はーい、皆さん、手を止めて下さぁーい。はい、そこ、手を止めて。今からこの工場を監査します。どなたか社長さんを呼んできて下さい」
 南牟礼悠斗(みなみむれゆうと)は、十数名の部下を背後に従えて、この下町の町工場に突如現れた。
黒い細身の三つボタンスーツに股上の浅いパンツ、何故か裾はブーツカットでスカルバックルの太いベルト、髪には茶色のメッシュが入った凡そ霞が関の街並みには不釣り合いな姿。これでもこの男、農林水産省消費・安全局のキャリアであった。
「一体何ですか」
 奥の方から白い長靴を履き若草色の作業着を着た社長が社員に促されながら出てきた。
「あなたが社長さんですね。私、農林水産省、消費・安全局の南牟礼と申します。ぶっちゃけ言っちゃいますが、お宅の会社、偽装してるでしょ?」
「は? 何を……何を言ってるんですか、あなた」
 突然の事に社長は唖然としている。
「いやあ、実は密告がありましてね。お宅のウナギ、あれ国産じゃないね。でも、表示は国産だよね。しかも、抜き打ちでしらべさせてもらったらほら……これ、この成分、基準値オーバーだよ。こりゃあ大変な事になりましたねえ」
 南牟礼はそう言って数枚の紙を、自分とはまるで正反対な大柄で筋肉質な体格の社長に差出し、数値の部分を指で指し示した。
「ちょっと待ってくれ、これはとんだ言いがかりだ。だって、うちのウナギは鷲見商事から直で仕入れているからな。うちのウナギがダメってんなら鷲見商事さんが偽装してるって事だろ」
 鷲見商事は、日本を代表する巨大経営体鷲見グループの一角を担う総合商社である。
「はいはい、そう来ると思ってあらかじめ鷲見商事も調査してあるんですよ。お宅へ卸しているウナギに国産以外のものはありませんでした。それから、基準値を超える農薬なんて物騒なものは発見されませんでした。ざ〜んね〜ん! きっと鷲見商事を通さず仕入れたものがあるんでしょ。それが怪しいよね」
「な、何を……うちは鷲見商事さんとしか取引はない! 鷲見さんに問題が無いのなら、うちにも問題など無い筈だ。これは何かの間違いだ!」
 社長は、いちいち態度が鼻につく農水省のキャリアに資料をつき返して声を荒げた。
「おやおや〜、って事は我々を信用していないってことかな。我々の調査能力を疑っているんだ。残念だなあ」
 この時、社長は嘘を吐いていた。確かに、少し前に一度だけ他社からウナギを仕入れた事がある。最近、鷲見商事からのウナギの質がどうも落ちていると感じた社長は、たまたま飛び込みで来た営業マンに見積もりを取らせ、鷲見商事には内緒で一度だけ取引をしたのである。
「仕方がない、我々も全力を出さないといけませんねえ」
 そう言って南牟礼は工場の奥へとずけずけと入り込んでいく。黒の皮靴が踏んでいる場所は、今朝も早くから社長自らが消毒し、デッキブラシで丁寧に磨いた場所だ。
「今からお宅の工場、事務所、隅から隅まで調べ尽くしてあげましょう。丸一日かけてじっくりとね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、幾らなんでもそりゃ営業妨害だ。警察に訴えるぞ」
 社長は捲し立てる。
「どうぞご自由に、でもね、こんな事が世間に知れ渡ったらどうなるかな? 脳みそまで筋肉が詰まってて、分からないかな? 警察に言うって事は偽装やってましたって世間様に公表するみたいなもんだよねえ」
「うっ……」
「やってないんなら、我々が徹底的に調べてもいいんじゃないのかなあ……まあ、でも食品工場を抜き打ちで調査なんかしたら確実にヤバいでしょ。営業停止覚悟しなきゃいけないよね。まあ、でも仕方ない、君たち庶民の言いたい事は分かるよ。だって今の法律は、全く実情に合わない現場度外視のメチャクチャなものなんだから。すべて法律通りにやろうとしたら、とてもじゃないが仕事なんてやってられない。それに解釈の違いなんて事もあるし。まあ、それは良く分かるよ」
 南牟礼はにやりと顔を歪め、社長を睨んだ。
「そこで、取引だ」
「取引……?」
「そう、こちらの要求に答えてくれたらこの事は全て不問にしてあげる」
「その要求とは」
「まず一つ、これからは鷲見商事以外との取引は認めません。そして二つ、私に調査費として二本、包んで下さい。以上です。たったこれだけの事でお宅らの工場は安泰なのです。ああ、なんて広い心。我ながら自分の慈悲深さが恐ろしい」
 それを聞いて、社長は全てを理解した。これは、鷲見商事と農水省のキャリアがグルになって私たちを陥れたのだ。たった一回、他社で仕入れた事を鷲見商事は何処かで知って、これ以上取引を減らされないよう、農水省の役人を使って圧力を掛けてきたのだ。
 農水省と鷲見商事は裏で繋がっていた。それもとびっきり強く薄汚い絆で。
「こんないい条件の取引は他にはないでしょ。それじゃ、取引成立ってことで……」
「汚いな、あんたら」
「汚い? ははは、何が汚いのさ、この取引で誰が損をするの? 強いて挙げれば、わざわざこんな薄汚れた工場に足を運ばなきゃいけない僕がいちばん損な役回りだよ。お宅の商売も安泰、鷲見商事も安泰、僕はちょっとばかしのお小遣いが入ると。それだけのことだもの。お利口さんなら分かるよね」
 社長は言葉を失った。
 まるでヤクザのシノギである。それを国の官僚が臆面もなく堂々とやってのけているのだ。一体だれがこの状況から私を守ってくれるのか。
「……わかりました。では、そのように進めて下さい……」
 屈辱である。だが、今はこうする他、自分はもとより、家族や従業員を守る術は無かった。やましい事など何もしていない。決して偽装などしていないし、仮に記載に不実があったとしたら、それは誠心誠意対応するつもりだ。
 だが、昨今の風潮では、誠心誠意は伝わらない。事が発覚し表沙汰になったら最早手遅れだ。何をどうしようとマスコミの餌食と化し、徹底的に叩き潰される。
 それを理解した上での官僚主導の恐喝。この国は腐りきっている。
「いやはや、ただの筋肉バカかと思ったら物分かりいいじゃん。それじゃ、取引成立ってことで、ここに二本、振り込んでおいてね。二本って意味分かるよね。うん、この口座は大丈夫だから」
 南牟礼は、口座番号の書かれたメモ用紙を社長の掌に握らせた。
「三日以内だよ」
 チャラチャラした格好の霞が関のキャリアは、ぽんと社長の大きな肩を叩いて、にっこりほほ笑む。
 それを受け、社長はこれ以上無いほど目を吊り上げ、その優男を睨みつけた。
「さ、行こうか」
 南牟礼はそう言って部下数十名と共に工場を後にし、すぐ近くに待たせてあった運転手付き公用車に部下数名と乗り込んだ。
 車は静かに発進する。4〜5台の黒い高級車が列を成して去っていくその光景を近くの住人たちはこの時どのように見ていたのだろうか。
「やっぱり、取引や〜めた」
 車に乗り込んだ開口一番、南牟礼は部下に言った。
「あの筋肉バカ、最後に僕の事すっごい勢いで睨みやがるの。あの目、すっごいムカついたんだけど。だから、もうやめ、あいつの人生ここで終わらせてやる。全部マスコミに言ってやるんだ。ざまみろってんだ。まあ、二百万くらい全然惜しくないし、ああゆう反抗的な奴は懲らしめてやらなきゃね」
「はい、そうですね」
 部下の一人が相槌を打った。たぶん、形式的な相槌だろう。
「ああ、それから渡辺」
「はい、何でしょう」
 助手席の男は、南牟礼に名前を呼ばれ、振り向いた。
「鷲見商事には、お前が上手いこと言っておいてよ、よろしくね」
「かしこまりました」
「じゃあ、僕今から寝るよ。とりあえず20分は睡眠とれるかなあ。絶対、何があっても起こさないようにね」
 南牟礼は、目を閉じると数秒で寝息を立て始めた。

 翌日、新聞の一面にウナギの産地偽装と農薬の話題が大々的に報じられたのは言うまでもない。

             *

 優香里も好きだったあのウナギ、小食の優香里は3切れもあると、食べきれなくて、僕がいつも一切れ貰っていた。
 郵便配達のアルバイトで時々顔を合わせた社長さんは大きな体の割にすごく優しい人だった。朝早くから働き、たぶん夜遅くまで雑務をこなしていたのだろう。
「がんばれよ、少年」
 新聞配達の途中、そう声を掛けてくれた、あの社長さんは今どうしているのだろう。
 あの頃と何もかも変ってしまったこの日本で、優香里の支配するこの日本のどこかで、頑張っているのだろうか。
 そんな事を考えていたら、ふと、あのウナギの香ばしい匂いが何処からともなく漂ってきた様な、そんな気がした。


              *

 テレビ画面には優香里を一目見ようと「国立ふれあい公園」に集まった数万人の群衆が写し出される。集団が発する熱気でテレビが今にもとろけてしまいそうだ。
 初夏の刺さるような日差しを受けながら、人々は優香里の名を叫ぶ。国立ふれあい公園の中央広場はすでに人口のキャパシティーを超えており、広場から漏れ出てしまった人々の群れは公園周辺の幹線道路までをも占領し始めていた。
僕は、何度も何度もチャンネルを変えた。しかし、どの局に合わせても今日に限っては全く同じ映像が流れている。いつしかチャンネルを変える手も止まり、他にすることもないので仕方なく僕はテレビをぼうっと眺める。
 前日本時代の末期、に起こった暴動『平成日比谷一揆』今思えば大日本国民党支配の第一歩があの事件だったのかも知れない。
 あの時もこの映像と同様、今はもう無くなってしまった日比谷公園に集まった数千の群衆の熱気が画面から漏れ溢れる感覚があった。外出禁止が発令されたため、家から出る事も出来ず、僕はその日ずっとテレビの前にいた。
 平成のロペスピエールになり損ねた男「呉 伸一郎(くれしんいちろう)」、彼の演説を聞くために参集した失業者や低賃金労働者などが暴動を起こしたのである。
 政府の失策により、当時の日本は経済危機の只中にあった。増え続ける失業者の為、生活保護の費用が国の財政を圧迫するようになると、政府は生活保護費の大幅削減に乗り出した。仕事が無く蓄えもないものはこの国で生きていくことは出来なくなったのである。
「今まさに未曾有の経済危機のさ中、国には働かないものに対して援助を行う余裕がありません。身体的要因による労働困難を除く全ての生活保護を三カ月の猶予期を置いて打ち切る事にいたします」
 総理大臣のこの発言は、日本の困窮した状況を如実に表したものであった。事実、生活保護の大幅削減を行わない限り、日本の経済状況を打開する手立ては無いと思われるほど、当時の日本経済はひっ迫していた。これ以上の国債発行はただ借金を増やすだけで景気悪化の歯止めにはならないと判断された結果であった。
 国民は今までの自らの行動を省みること無く、政府に対して怒り狂った。
 呉伸一郎の呼びかけに参集した人々は、声高らかに国の体制を馬鹿にした。群衆のエネルギーはやがて一所へ向けられるようになる。今まさに現金が大量に存在する場所、銀行だ。集会に参集した人々は雪崩を打って日比谷の銀行を襲った。きっかけは、中年の男が大手都銀に2トントラックで突っ込んだことだった。銃器を持った数名の強盗団であればある程度は対応出来ただろうが、数千人もの強盗団に対しては最早なす術が無かった。強盗団はイナゴのように近くの銀行を飛びまわる。集会に参加した者以外でも便乗して銀行やら商店を襲うものが現れ、日比谷の近郊は混沌と化していた。
 当時の政府はこの初動対応にも失敗していた。すでに警察組織だけでは処理仕切れない状態に陥った日比谷近郊は、霞が関、永田町、兜町、桜田門など、日本の中枢すぐ傍である。治安の確保の為に当時の自衛隊を出動させざるを得なかった。刻一刻を争う状況の中、内閣では違憲だの合憲だの責任範囲だの武器の使用がどうだのと、体裁を整えるためだけの議論が繰り広げられ、その為に自衛隊は動こうにも動きようが無かったのである。
 いよいよ自衛隊が朝霞駐屯地より出動した時には、警察機動隊に5名、一般市民12名の死者が出ていた。自衛隊出動後、暴動はあっという間に鎮圧される、しかも発表によれば死傷者ゼロで。
 この初動対応のまずさと総理大臣の「生活保護削減」発言によって、与党は完全に失墜する事になる。
 この時、声高に自衛隊の迅速な出動を叫んでいたのは野党では国民党(現大日本国民党)だた一党であったことと、自衛隊の見事な活躍から、国民党の支持率はこれ以降一気に跳ね上がったのである。そして、これが自衛隊が防衛隊と名を変えるきっかけとなったのである。
 
             *
 
 平成日比谷一揆の事を振り返ると、百合草しのぶ(ゆりくさしのぶ)を思い出す。百合草しのぶは、僕が少年時代に住んでいた児童養護施設で仲の良かった4人組の一人だ。優香里と僕、そして斉藤陽人(さいとうあきと)と百合草しのぶ、施設では年齢が近い事もありほとんどこの4人で一緒に行動していたものだった。百合草しのぶは僕の二つ下で、兄弟姉妹のいない僕は、妹がいればこんな風なんだろうなと思いながら、ちょっとした兄貴気取りで彼女には接していた。向こうはどのように思っていたかは分からないが。
 百合草しのぶは極端に男性との接触を嫌っていた。話が出来るのも、僕と斉藤くらいのもので、施設の男性スタッフとは全くと言っていいほどコミュニケーションが取れないでいた。それも、その筈だったのだろう。彼女は義理の父親の虐待を受け11歳の頃、この施設に保護されてきたのだから。
 元々孤児院などと呼ばれ、身寄りの無い児童を保護する事を目的として作られた施設が、この当時は、児童虐待からの子どもの避難所になっていたのは紛れもない事実だった。僕のように本当に家族も親戚もいないので保護されていた者は稀で、大抵の場合、親の育児放棄だの暴力だのと言った理由で連れて来られる子供ばかりだった。今思えば、当時の親も子も社会も何もかもが病んでいたのだろう。前日本時代の末期、社会は余りにも不健全過ぎた。かと言って、今の大日本国民党の一党独裁社会が健全かと言えば、そうではないような気もする。国民は声高らかに優香里に讃美の言葉を投げかけるが、その光景が健全な社会かどうかは別問題だ。
 その日、百合草しのぶの保護者と称する中年男が彼女を引き取りに施設にやってきた。事前に百合草の出所が決まった事を知っていた僕と斉藤と優香里は、再び暴力の館へ彼女を引き戻させまいと、あれこれと計画を練っていた。
 僕らの中でも今思えば斉藤は特別な感情があったのだろう、まるで姫の護衛を仰せ使った騎士(ナイト)のように百合草の前で毅然と宣言する。
「百合草は俺達が絶対守ってやる、そんな男の処へなんか行かせるもんか」
 その宣言に対し、百合草はにっこりと微笑み「ありがとう」とだけ返した。百合草の微笑みは男を虜にしてしまう。小さな輪郭に堀の深いどちらかというとエスニックな顔立ち。見つめられたら目を背けることが出来ない、ぱっちりとした潤んだ瞳。可愛らしいという言葉がこれほどぴったり当てはまる女性を僕は知らない。テレビはあまり見ないが、そこいらのアイドルタレントなど比べ物にならないと僕は今でも思う。
 僕たちは百合草と一緒に施設の敷地の外れにある、ほとんど使われていなかった物置小屋に隠れて、百合草の保護者と名乗る中年男が諦めて帰るまで何とかやり過ごそうとしていた。だが、しょせんは十五、六の子供が考える事である。物置小屋に隠れて小一時間程度であっけなく僕らは発見されてしう。更に僕らは籠城を決め込む。しかし、ゴリラ―マンと呼ばれていた体躯の良い男性スタッフの手によって僕らの籠城は簡単に打ち破られてしまった。斉藤などは、ゴリラ―マンに四,五発は殴られていただろう。力尽きて、百合草の小さな手が斉藤の手からすり抜けていった瞬間が何故だか今も鮮明に蘇る。
 百合草を迎えに来た中年男は、全く普通の男だった。いやむしろ、服装や髪形などちょっと爽やかな家庭思いのお父さんのような雰囲気で、聞いた話とのギャップに驚かずにいられなかった。
 僕と斉藤は顔面を腫らしながら、戸の陰で百合草が引き取られて行く様子を見守っていた。施設を出たらもう二度と会えないかも知れない。こんな別離れ方をしなければいけない、僕らの今までの関係は何っだったのだろう。斉藤は、この光景をどう見ているのだろうか。何か僕の頭にもやもやが渦巻き、ぐらぐらと脳髄を引っ掻きまわす。
 男が、百合草の手を取った時、僕の中で何かが爆発した。今でも何故か分からないが、僕は頭とは無関係にその男に向かって走り出し、男の頬を力任せに拳でぶん殴った。男は倒れるどころか、バランスを崩す事もなく、きょとんとした眼で僕を見ていた。更に殴りかかろうとする僕をスタッフが取り押さえた。意味のない叫び声を上げ、僕は力任せに暴れた。そこまでは覚えているが、その先の事はどうも記憶があやふやで、きちんとした記憶があるのはその翌朝目が覚めたところからだった。目が覚めた時の何とも言えない虚無感、あの感覚は今でも忘れる事が出来ない。
 ところで、何故平成日比谷一揆を振り返ると、百合草しのぶを思い出すのかと言うと、彼女がその時のニュース画面に映っていたのである。警察の後ろを歩く小柄な女性、斉藤ほどでは無いだろうが、僕が百合草しのぶを見間違える筈がない。暴動に参加していたのか、偶然巻き込まれていたところを警察に保護されたのかは分からないが、確かに百合草しのぶは平成日比谷一揆の只中にいた。そして、彼女の隣に見知らぬ男が付き添っていたのも僕は見逃さなかった。
 施設を出てからその日まで、僕は百合草がどんな人生を送ってきたのか知らない。どのような経緯でその男と出会い、どんな関係にあるのかなど僕が知る由もないし、知らなければならない事でもない。
 百合草の隣にいる男が斉藤であったなら、ありふれた青春ドラマの一コマにもなったかも知れない。
 だが現実は、いつも冷酷だ。激動の世の中をわたって行く中で、百合草しのぶは今でもあの微笑みを忘れずにいるのだろうか。



                      *

「国立ふれあい広場」の特設ステージでは、大日本国民党の副党首、長谷目忠信(はせめただのぶ)が観衆の呼びかけに応えるように手を振りながら、中央の演台に立った。
「大日本国々民の皆さん、本日、この記念すべき日にこれだけ大勢の方にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
 良く通る、張りのある声だ。長谷目忠信は、前日本時代の末期、与党の党首にして内閣総理大臣を約二年務めあげた男である。また、彼は総理大臣を辞任すると、与党を離党し、まだまだ弱小勢力であった国民党(現大日本国民党)に鞍替えをして世間を騒がせた、かなり変わり者の印象が強い男でもある。優香里が現れるまで党首として国民党を引っ張ってきたり、国難の二年間、総理大臣を務め上げたというだけでも、その政治手腕は凡庸ならざるものであるのだろう。実際、彼が辞任をし、次の首相に選ばれた猪瀬太一郎(いのせたいちろう)は、就任後すぐに生活保護の打ち切りを宣言し平成日比谷一揆など数々の問題を起こし、遂には前日本時代最後の総理大臣という汚名を被ることになる。あと3か月長く総理を続けていれば、長谷目忠信がその汚名を被っていたに違いない。
「国民の皆さん、我々は幾多の困難を乗り越え、遂にこの日を迎えることが出来ました。太平洋戦争の敗戦から東アジア紛争、そして国内では平成日比谷一揆、5月7日の奇跡、東海事変と、次々襲い来る歴史の荒波を乗り越え、我々は掴み取ったのです」
 会場の歓声はスピーカーから溢れ出し僕の鼓膜と部屋の中の空気を大きく振動させた。その振動が僕の全身を更に小刻みに振動させる、びりびりとした感触が内臓まで伝わってきた。
「合衆国軍の完全撤退により、我々は今日、本当の意味で独立を成し遂げました。今日こそが我が大日本国の戦後からの脱却日であり、戦後合衆国占領下からの独立記念日として後世まで永久に語り継がれる日となるのです。それを成し遂げたのは、優香里様を中心とした国民の団結によって生み出された全世界に先駆けた技術革新にあります。言うなれば第二次産業革命の始まりと言って過言ではありません。
 元来物づくりにおいては他の国よりも秀でた能力を持つ我々がその能力を結集すれば、圧倒的な技術力を永劫に保持し続ける事が出来るでしょう。とりわけ、ミサイル迎撃システム『いわと』、そして二足歩行型参式戦闘車両『しらさき』の量産化など我が国が築き上げた最新鋭の軍事技術は近年他国の追随を許さないほどの発展を遂げ、合衆国軍完全撤退の大きな要因の一つとなっています。もちろん、今日の日があるのは、諸外国との長きにわたる粘り強い外交政策の賜物である事は言うまでもありません。
 我々は、新たな歴史の第一歩を踏み出しました。もう、前日本時代末期のような、国民総白痴政策を繰リ返す愚を成してはならないのです。無責任で、無気力で、極端な個人主義と全体主義の狭間に放置され、自分の将来に夢も希望も見出せない、そんな暗く寂しい、心の面で貧しかったあの時代に、我々は決別をしました。我が国は優香里様と共に更なる発展をし、誰しもが平和で豊かに暮らせる国へと生まれ変わります。
 さあ、国民の皆さん、優香里様と共に歩もうではありませんか。まだまだ我が国にも問題は山積しています。それらは我々と国民のみなさんが共に力を併せて解決していくのです。前日本時代末期の様に、他人事、政治任せでは何も生まれません。本日、この歴史的な日に改めて認識しましょう。優香里様と共に、我々の国は我々一人一人が創り上げていくものだと言う事を」
 そう言って長谷目忠信は、大きく両手を振りかざした。間もなく70歳に手が届く、眼尻や頬に深い皺が刻まれ、頭髪はいわゆるロマンスグレー、そんな円熟しきった男から湧き上がる濃厚なエナジーは「国立ふれあい広場」に集まった観衆に降り注がれる。轟音の様な拍手が湧き上がり、次第に「優香里」コールが何処からともなく起き始めた。
「ゆーかーり! ゆーかーり! ゆーかーり!」
「国立ふれあい広場」から起こった優香里コールは、やがて全国民的大合唱へと変わっていく。駅前の巨大ヴィジョンでこの様子を見ていた集団、家庭内テレビの前で全員で集まり視聴していた家族たち、やむを得ず仕事に出ながらも休憩室に集まり、同僚たちと放送を見守るもの、その他老若男女問わず、優香里コールは国中にあっという間に広がっていった。
 隣の家からも優香里コールが聞こえる。この国で、今優香里コールを叫んでいないのは、言葉の分からない赤ん坊と僕だけかも知れない。党首だろうが何だろうが、優香里は優香里だ。僕が、どうして画面に向かって優香里の名前を叫ばなければならないのか。優香里は、僕の昔の彼女であり、初恋の人、ただそれだけの存在なのだ。何故、国民は歓喜に声を震わせてその名を叫ぶ? 優香里には、支配者という肩書がついただけで、その他に何も変わっていない。そう、あの頃から何一つ、優香里が僕の前から居なくなったあの日から何一つ……聞きたくない。もう、うんざりだ……。止めてくれ!
 およそ一分程して、長谷目忠信が右手を挙げて「まあまあ」というように観衆のコールを抑えた。
「間もなくです、間もなく皆さま待ちに待った、優香里様のご登場です」
 そう言い残して、長谷目は舞台袖に引き込む。
 司会台の男の口が開く。
「続きまして、大日本国民党党首 優香里様から国民の皆様へご挨拶を頂きたいと思います」
 うおおおおんと地鳴りの如き歓声が沸き上がる。何か巨大なエネルギー体が爆発したみたいだ。
 舞台中央辺りの床が開き、そこから若く美しい、深紅のドレスを纏った女性が長い黒髪を靡かせながら、単身、せせり上がって来る。満面の微笑みを180度全てに振りまきながら、徐々にその姿を露わにしていく。
 再び湧き上がる優香里コール。
「ゆーかーり! ゆーかーり! ゆーかーり!」
 会場内全員の優香里コールに答えるかのように、その女性は手を振り笑顔を振りまくと、女性は、一息ついて口を開く。
「国民の皆さん!」
 その声は、まるで天から降り注ぐ鐘の音のように清らかで透き通っていた。女性のその一言で、観衆全てが一瞬の内に黙った。女性は、僅か一秒足らずで、しかもたった一言で会場の強大な動の空気を、べた凪の春の海の様な静の空気に変えてしまったのだ。静まり返る会場、地面に落ちる針の音一本さえも響きそうだ。
「国民の皆さん、今日は本当にありがとうございました。今日から、この国は新しい一歩を踏み出します。夢と、希望に溢れた、素晴らしい未来に向かって、私たちは手と手を取り合い進んでいきます。私は、皆さんが大好きです! 大好きな皆さんの為ならどんな事でも惜しみません。頑張りましょう、この国の為、愛する人の為、そして世界中の平和の為! 大好きな皆さん、さあ、手を取り行きましょう、私たちと共に」
 
 僕はそこで堪らずテレビのスイッチを切り、近くにあった座布団を頭に被りささくれ立った畳に額を付けてうずくまった。
「違う……あれは優香里なんかじゃない。あれは、唯の画素の集合体だ! もう一度、優香里に会えれば、もう一度、あの白く柔らかい肌に触れれば、別に今更寄りを戻すだの、そんな事じゃない。きっとあの日から止まってしまった僕の時間を取戻す事が出来るだろう。優香里……優香里に逢いたい」

                     *

 ステージから降りた副党首の長谷目は、その足でそのまま近くに停めてあった公用車に乗り込んだ。車の中には既に一人、黒いスーツ姿の男が座っていた。
「お疲れ様でした、先生」
 どうやら秘書か何かのようである。
「どうだ、もう一つの方は順調か、天同星」
「せ、先生、今その名前は……」
「大丈夫だ、車には何も付いていない。運転手も我々の仲間だ」
「そうですか」
「だから此処では先生とは呼ばぬよう、これは会の掟だ」
「わかりました、天機星」
「で、もう一つの方は?」
 長谷目は、懐から煙草を取り出し口に加える。
 もう一人のスーツ姿の「天同星」と呼ばれた男はすかさずライターを差し出しながら言った。
「はい、まだ連絡はありませんが武曲星が指揮しておりますので、間違い無いかと」
「あの男なら間違いないだろうな。式典を利用して、不穏分子を浮かび上がらせ、国全体が目を式典に奪われているうちに粛清する。なかなか良い作戦だ。さすがだな、天同星」
「恐れ入ります」
 長谷目は、頭を左右に倒しだるそうに首をコキコキ鳴らす。
「だが、まだまだ出てくるぞ、不穏分子は。まあ、仕方のない事だが」
「ですね、未だに我らの会に反攻する組織は存在します……」
 天同星と呼ばれた男は、スモークガラス越しに流れる車窓を見つめる。大通りには車は殆ど走っていなかった。
「第三次粛清計画を、もう一度審議する必要があるな」
「既に計画は整っています、あとは承認を待つのみと」
 天同星と呼ばれる男の電話が鳴った。電話を耳に当て、二言三言返事をすると、男は、少し寂しそうな顔で、天機星、長谷目に報告した。
「武曲星からの報告です。仙台の反勢力団体、粛清完了だそうです」
 しばらくの沈黙の後、長谷目は口を開く。
「まだ、我々の支配は始まったばかりだ……」
 長谷目は、白い煙を吐きながら備え付けの灰皿に煙草をすり付けた。
 静かな大通りを、二人を乗せた車がスピードを上げながら東から西へと走りぬけていった。


続き↓






                    *

 我ら二千年の悲願、あと僅かで我らが手中に
 悠久の時の流れ、二千年
 今この時から二千年前まで、この世で起きた全ての事象を記録に留めておけるとしたら、果たしてどれだけ膨大な情報量になるのだろうか
 宇宙の広さを認識するために、人はその為の単位を作った。全ての事象を記録可能なメディアが存在するとして、その容量を認識するにはあらゆる固定観念を覆すあらたな単位が必要なのだろうな
 それは今まさに我らが為そうとする悲願の一つ
 そう、間もなく我らが悲願の時
 もうあと僅かなのに……
 天相星の不穏な動き
 あ奴、いったい何を考えておるのか
 我らの邪魔立てをする者は何人たりともただではおかん、たとえ天相星であろうと
 我らが悲願、歴史を……時間という莫大なる潮流を、それらが内包する巨大なエネルギーを我々は統べる存在として、間もなく君臨する
 正念場、正に正念場よ

 我らが悲願まで、あと僅か

                    *





  第1章


 1


 更衣室のロッカーから、自分の名札が付いた白衣を取り出すと、若林恭太郎(わかばやしきょうたろう)はそれを無意識の如くに羽織った。ほぼ毎日行う動作であるからして、然程感慨を受ける事もない。ただ一点気になったのは胸元のシミ、一昨日の実験で薬品をこぼした時の名残だ。正直、まだ着られるから自分としては全くどうでもいいのだが、莉央に見つかり細かく世話を焼かれる事を考えると少々億劫ではある。昨日は休みだったのだから洗濯しておけば良かった、と今更ながらに思ってしまう。
 千賀莉央(せんがりお)は若林の会社の後輩であり、公私共に認める彼女である。世話好きの明るい性格をした事務室で働く若手OLだ。付きあいが始まり一年になろうとしている。きっと今日も顔を合わせる度に何かと世話を焼かれるだろう、と若林は思う、だが、それほど嫌ではなかった。
 更衣室を出て第2ラボへ移動しているところを若林は恋人に発見された。
「若林君、おはよー」
 背後から、いつもの挨拶が聞こえた。
「ああ、おはよう、莉央ちゃん」
 莉央は、いつもより随分と上機嫌のようだ。
「良かったよ、昨日。生の優香里様、すっごく綺麗だったなあ」
「へえ、そうなんだ」
 莉央は、昨日の大日本国民党全国大会に特別招待を受けており、「国立ふれあい広場」に女友達3人で出かけていた。
 彼女の父親は、防衛隊の隊員だったのだが、先の「東アジア紛争」出兵時に名誉の戦死を遂げており、今回の招待はその戦争遺児としての特別待遇らしかった。最初、彼氏である若林を誘ったのだが、「人込みは苦手」だの「ちょっと疲れてる」だのと断られたので、女友達を誘ったのだ。同僚の女友達は皆大喜びだった。何せ、優香里様と言えば、若い女性達にとっては我が国の首相でもあるが、それ以上に絶対的な美のカリスマである。誰しもが崇拝に近い憧れを抱く、そんな存在だ。
「若林君も来れば良かったのに。優香里様にすっごく近い席だったから、みんな興奮しちゃって……」
「それは良かったね」
「若林君もテレビで見たでしょ、あの真っ赤なドレス。素敵だったよねえ」
「うん」
 若林は適当な相槌を打ちつつぼちぼちと第2ラボへと歩きながら、興奮冷めやらぬ莉央の話を聞いていた。よほど生の優香里様を見られたのが嬉しいのだろう。
 しばらく歩いていると、事務所が見えてきた。莉央が働いている場所だ。
「じゃあ、此処で。また帰る頃連絡してね」
「わかったよ、それじゃ」
 莉央は、胸の前あたりでおもいっきり手を振り事務所へと入っていった。若林は再び歩き始める。第2ラボはもうちょっと先だ。てっきり世話を焼かれるだろうと思っていた胸元のシミについて全く弄られなかった事を少し期待外れに思いながら、彼は自分の持ち場に向かった。
 
 若林の今日の仕事は、モニターに流れ続ける関数を一日中チェックするだけの退屈なものだった。研究所勤務であればこんな日もざらである。
「御厨量子エレクトロニクス研究所」
 量子力学の分野では世界最高峰の研究所である。若林はその研究所の二次下請けの会社で、研究員見習いの様な仕事をしていた。
 御厨友義(みくりやともよし)の名は世界中に知れ渡っており、量子力学においてアインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレディンガーなど偉大な先人と肩を並べる存在と評価されている。
 彼の理論が実用レベルとなり、鷲見グループと組んであのミサイル防御システム「いわと」を造り出した。「いわと」の完成により、戦争の形が根本から代わってしまった。その点に関しては、彼の名は人類が存続する限り語り継がれる事になるだろう。どのように語り継がれるのかはその時代の歴史家に委ねる事になるのだが。
 若林自身は当然御厨所長に会った事は無い。二次下請けの研究員見習いが言葉を交わそうなど、おこがましいにも程があるというものだ。
 御厨の創造した世界の底辺で、言われた事を言われた通りにこなしていく、今はそれで十分だ。それに御厨の世界では言われた事を言われた通りにこなしていく事でさえ尋常なく難しいのだから。御厨という世界の、ほんの末端の部品の一部として活動させてもらえるだけでも幸せである。両親も無く児童養護施設で訳在りの仲間達と成長してきた自分にとって、此処まで来れた事は良くやったものだとつくづく思う。だが、まだ目指す場所は更なる上にある。いつかは御厨所長と肩を並べてやる。同じ研究室で同じ標本を共に語らいながら眺めてやる。
 
 やがて、若林の作業も一息つき、携帯電話にメールが届いている事を思い出し、内容を確認してみた。莉央からのメールだった。どうやら、若林の昼休みと自分の昼休みがうまく重なりそうなので、一緒に昼食でもどうかという誘いである。
 若林が「いいよ」と三文字だけ打って返すと、「じゃあ、たまには社食で」と返ってきたのでもう一度「いいよ」と三文字だけ打って返事をした。
 そうこうしているうちに、時間はあっという間に過ぎ、昼休みの時間となった。若林は莉央に遅れる事5〜6分くらいで、社員食堂までやってきた。正午を僅かに回った時間。社食は既に社員であふれかえっていた。仕事柄時間の不規則な若林は、会社の食堂がこれほど込み合っているところを見た事が無かった。この中で莉央を探し出すのは骨が折れるぞと思って落ち着かない風できょろきょろしていると、一際明るい窓際の白いテーブルで自分の彼女が手を振っている所は意外と簡単に発見できた。
 この社員食堂は食券制になっている。食券を買うと、自動的に厨房にオーダーが入り、出来上がったら番号を呼ぶので、食券の番号を見てカウンターへ取りに行くという具合だ。良く高速道路のサービスエリアにあるのと一緒だ。
 莉央は良く食べる。大食いだ。それなのに、皆が羨むほどウエストはくびれている。スタイルはかなりいい方である。これであと少し身長があれば、女優でもモデルでも職業選択の不自由は無いだろう。だが、莉央には全くそのつもりが無かったので身長の事で悩んだ事は殆どない。
「だけど、よく太らないよなあ、それだけ食べて……」
 テーブルには「日替わりパスタセット」のカルボナーラと野菜サラダ、かぼちゃのスープが一つのお盆に並べられている。また、それとは別に親子丼と味噌汁、お漬け物、単品のフランクフルトと売店で買ったハーゲンダッツのバニラとなめらかプリンが一個づつと、正に食の博覧会会場と化していた。若林の「きつねうどんセット」がかろうじて置けるだけのスペースしか残されていなかった。
 若林はテーブルに繰り広げられた食の博覧会会場を見渡して溜息を吐く。
「だって、おなかが減るんだもん……」
 莉央は満面の笑みで答える。
「全然、答えになってないよ」
 だが、莉央の笑顔ですべて許されてしまう。
「いただきます」
 そう言って、莉央はカルボナーラの真ん中に落ちている玉子の黄身にフォークを差した。何とも無邪気なその姿に、若林は思わず目を細める。

「ねえ、今日帰りはどうする?」
 テーブルの食事をほぼ平らげ、なめらかプリンを口に運びながら、莉央は若林に訊ねた。
「帰り?」
「遅くなるの?」
「いや、それほどでも無いけど、どうして?」
 若林の今日の仕事は緊急でもないし、今日中に完了するものでもないので、自分の意思さえあれば定時に十分切り上げることは出来る。
「本当に? じゃあさ、今日帰りにYukari Barに付き合ってもらっていい?」
「えっ」
 若林の動きが一瞬止まった。
「今日Yukari Barでね、昨日の集会のライブを放映してるらしいのね。昨日は一緒に見にけなかったから、今日は二人で行こうよ」
「Yukari Bar」とは、優香里様のオフィシャルショップのようなもので、国が経営をしている。バーでは優香里様の映像を見ながらお酒をたしなみ語らう場所として、ショップでは優香里様の着ていた服のレプリカや優香里様デザインの洋服やジュエリーなどが売られている。
 昨年、第一号店が新首都にオープンし、現在全国に7か所あるYukari Barは平日休日に関わらず、いつも客で溢れ返っていた。
「ぼ、僕はいいよ……」
「ええっ、どうして」
「仕事も残ってるし……昨日の友達と行っておいでよ。昨日の今日だから、話も盛り上がると思うよ」
「何それ……私は若林君と行きたいんだけどなあ」
「ごめん、やっぱり仕事を少しでも片付けておきたいんだ」
 若林は当時自分が優香里と付き合っていた事を話してはいない。もし話したらどう思うのだろう。多分つまらない冗談だと一蹴されて終わりだろう。それに、今のこの国では聞く人が聞けばツマラナ冗談では済まない事になるかも知れない。
 莉央は若林に食い下がった。
「さっき早く帰れるって言ったじゃん。何か行きたくない理由でもあるの?」
 優香里が突然自分の前から姿を消し、数年後、「5月7日の奇跡」で日本消滅の危機を救った国民的ヒロインとしてテレビに姿を現し、いつの間にかこの国の首相にまでなってしまった事を若林自身、受け入れられていない、昨日のテレビ中継を見て、それを再認識した。だがこれが現実だ。
 昨日から何か変だ。心のもやもやが膨れ上がってくるのが分かる。
「別に」
「気のない返事だね」
「ごめん、でも今日は一緒には行けない」
「生の優香里様を見られるチャンスなんて滅多に無いのに、昨日も誘ったの断られるし、ちょっと疲れてるんじゃないの」
「もういいよ、別に疲れてる訳じゃない。」
「良くないよ、ある意味それは優香里様に失礼でしょ。せっかく優香里様がご招待して下さったのに……」
「そんなこと無いよ」
 分かる、心のもやもやが増幅されていくのが。
「あーあ、『Yukari Bar』の大画面で優香里様のお姿を拝見出来ると思ったのになあ……。今日だけなんだって、昨日の映像流すの」
「見に行ってきなよ」
 さっきから優香里様、優香里様と騒がしい……その一言が心のもやもやを何倍にも増幅させていく。
「一人じゃいやだよ。だって、今日はみんな用事があるって言ってたし、由真ちゃんは彼氏と行くって言ってたし、一緒に優香里様の魅力を話し合える相手がいないとつまらないもん」
 また、優香里様……もう限界だ、爆発する……
「煩いなあ!」
 若林は思わずテーブルを平手で叩いた。テーブルの食器が一瞬跳ね上がりきつねうどんの残り汁が周りに飛び散った。
「何だよ、その言い方は、優香里を見れたら僕じゃなくても誰でもいいみたいだね」
 若林の声に力が込められていく。ヴォリュームが徐々に上がっていく。
「さっきから優香里様、優香里様ってしつこいんだよ、そんなに優香里の事が気になるのかい、もううんざりだ」
「若林君――」
 若林はテーブルを両手で叩きながら立ち上がる。
「僕と優香里と、いったいどっちが大切なんだよ!」
 若林の声は社員食堂全体に響き渡っていた。食堂内にいた人々は静まり返り、皆一様に窓際の男女を見つめていた。
「若林君……どうしたの……なんて事を言うの……」
 呆然とした表情で見つめる恋人。
 その顔を見て、若林は自分が発した言葉の大変さを認識した。
『言ってはいけない事を僕は口走ってしまった。優香里に敬称を付けずに呼んだ、比べてはならない存在と自分を比較した。この国では、あってはならない不敬である。しかも、社内とは言え公衆の面前で怒鳴り散らした』
 若林は、自分の座っていたイスを蹴り倒しながら、恋人を置いて走り去っていった。
 莉央は、しばらく呆然と彼氏が走り去る姿を見ていたが、おもむろに立ち上がり、その後を追って行った。
「若林君、待って!」
 二人の姿が消えると、ふたたび社員食堂は人々のざわめきが聞こえるようになった。



続く







2009/06/07(Sun)10:31:55 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
こんにちは。
お読み下さりありがとうございます。
久しぶりの更新です。久しぶり過ぎて多分忘れ去られているのではないでしょうか。
2ヶ月半かけてやっとこれだけです、更新できたの。この遅筆どうしたらいいのだろう。
皆様の忌憚のないご意見ご感想お待ち申しあげております。

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