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『マリア』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:いづる
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あらすじ・作品紹介
伝統ある女学園「マリア学園」に突如として現れた、蒼瞳、蒼髪、男装の編入生、片桐准。容姿端麗、頭脳明晰の謎の美少女、神津涼。学園に厳然として存在する「マリア」。三者が邂逅するとき、運命の歯車は狂い始める……。
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慈悲深きその御手に人々はこうべを垂れる
唯一絶対にして神聖不可侵
太陽よりも輝き 月よりも優しい
人でありながら神
神でありながら象徴
天上より見守り 地上に君臨する
それこそが───
第一章 出会い
「みなさま、おはようございます」
「おはようございます、美香さん」
「おはよう、舞」
今日も、校内は平和だった。
「あ、おはよう、幸子!」
「真理〜。宿題見せて〜」
「昨日、公園に参りましたの。そうしましたらね……」
都雀たちは、いつもと変わらずかしましい。
「そういえば、お聞きになりまして?」
「そういえば、聞いた?」
「この学園に」
「この学校に」
いつもと変わらず。───たったひとつ───
『編入生が来るのですって』
伝統ある「マリア学園」。清く正しく美しく。花も恥らう乙女たちは、輝きを内に秘め、高鳴りを胸に隠し、誇らかに咲く日を、我知らず待っていた。伸びやかに、軽やかに。その胸のうちは知らず、外目には楽しげに、ただただ青いその春を、彼女たちはこの学園で過ごすのだった。
新緑まぶしく、風が、こればかりは誰にも平等に季節を告げようという、五月の末。マリア学園には前代未聞の、編入生を迎えようとしていた。
もともとマリア学園は幼稚舎から高等学校までエスカレーター式の、純然たるお嬢様学校だった。中途で抜けるには、結婚するか、住所を変えるか、その二つであった。あとひとつ、あるにはあるが、これは、この潔癖な学園からは、最も恥とされ、誰も口にしたがらない方法だった。
───つまり、落第。
こうなったら、暗黙のうちに学園の人々の手と手は繋がり、できた輪の中からははずされ、教師からは名前も呼ばれず、ただ、その手にある名簿には赤い字で書かれ、自主退学を願い出ないかぎり、消されることはないのだった。
そのような閉鎖的な学園に、突如、編入生が来るという。これといった話題のない学園には、格好のネタであった。しかもその編入生というのが───
「それで、どんな方ですの?」
「それが、わからないのよ」
「あら。また、どうして」
「先生方も、知らされていらっしゃらないそうよ」
「厳重なのね」
「誰か、知ってる人、いないの?」
振り向いて問うた少女への答えは、全員の首振り。
「知らないわ」
「存じません」
「私も」
「いったいどんな方かしら」
「きっととても優秀な方」
「きっととても淑女な方」
「きっととても優美な方」
「きっときっときっと……」
憶測だけが少女たちの間を飛び交い、尾ひれえひれに胸びれが付き。けれども誰も真実には到達できなかった。少女たちの夢想は尽きず、しかしいつか、鐘は鳴る。
リンゴーン リンゴーン リンゴーン
鐘は告げる。戻る時が来た、と。はっと、胸を衝かれたように、少女たちは吾へと帰る。常世へ。うつし世へ。いつまでも夢の世界には、いられない。誰も。
朝礼の時間である。『マリア学園』と名乗ってはいるが、ここはカトリックでもプロテスタントでもない。宗教とは、無縁である。創始者の名が、「マリア」だったのだ。
だから、朝礼と言っても、朝のおつとめがあるわけではない。が。ある意味、おつとめよりも恐ろしいかもしれない。現在、社会で話題になっている事柄や、重要視されるべき事柄について、教師が質問をしてくるのだ。何を問われるのか、何について聞かれるのか、誰が当てられるのか、全くわからない。だが、この学園にいる以上、社会で問題となっていることくらい、承知していなければならず、それに関する問いに対し、的確な答え、あるいは意見を述べなければならない。
だからといって、朝になってから教室で新聞を広げたり、アンチョコを隠し持つような無作法ものはこの学園にはいない。既に家で勉強してきていて当たり前。常日頃から、変動激しい昨今の事柄なぞ、頭に入っていることが常識。しかしそれでも、たまに落伍者が出る。そのような羞恥を嫌えばこそ、今日も少女たちは、教卓に注意を向けるのであった。さて、今日の質問は……。
教室の扉が開き、淑女たちは背を伸ばす。いつもの通り、教師が現れ、いつもの通り挨拶を交わし、いつもの通り……
「今日は、皆さんにお知らせがあります」
───ではなかった。なにごとかと、少女たちは目と目を合わせる。もしかして。
「季節はずれではありますが、今日、この学園に、新しい生徒が入りました」
ああ、やはり。さて、どんな情報がはいるのか。少女たちの瞳は、期待に輝く。どんな生徒なのか。どの組に入るのか。
「ご紹介した方が早いでしょう。───入っていらっしゃい」
驚愕を口に出しかけ、慌てて硬くつぐむ。なんと、この組だ。みなの視線が、一斉に戸口に集まる。
どんな方?
さぞお綺麗な。
さぞ優美な。
さぞ優秀な。
「失礼します」
すっと扉が開いて入って声は、以外に低く。そう、少女にしては低すぎた。それを疑問に思う間もなく、現れた姿に、今度こそ本当に、少女たちは驚愕の声をあげる。
───蒼。
それが、最初に目に飛び込んだ。蒼い風が、教卓へと足をはこぶ。
「片桐 准。よろしく」
生徒たちは、呆気に取られた。そこにいるのは彼女たちが想像していた姿とはあまりに遠く。教師も、どこか苦い顔をしている。
さもありなん。
今日からこの学園で青春を謳歌するというその淑女は。
首まである黒いタンクトップに白のパンツ、両腕は肘から指の付け根まで黒い長手袋で被い、首、両腕、両足に、ベルトを巻きつけている。制服が間に合わなかったにしてもその姿。とてもマリア学園の生徒たるに相応しいとは言えなかった。さらに、その体格。すらっとした印象ではあるが、露わになっている上腕や、体に纏いつくように着こなしているタンクトップのラインからも、かなり鍛え上げられているのは確かだった。そう、女には見えないのだ。無骨なわけではなく、むしろ不思議な上品ささえ感じさせるが、それでもそれは、「少女」と呼べる代物ではなかった。
───しかし。
そんなことよりも。そう、「そんなこと」よりも。
───蒼。
それは、蒼かった。
切れ長に挑戦的ながらもどこか憂いを含んだ瞳も。背中までかかる豊かな髪も。それは彼女を象徴するかのように、ただひたすら蒼かった。
「青」ではない。「蒼」なのだ。
何処でも見たことの無い、しかし遠く何処かで見たことのある、そんな記憶を呼び起こすような、それは蒼だった。どんな者をも沈黙させる。どんな者をも魅了する。蒼い瞳、蒼い風───。
こころなしか、教室の空気さえ蒼く澄んだ気がする。
「では、一番後ろの、窓際の席につきなさい」
少々険のある無機質な声が、少女たちの夢想を切り裂く。編入生は、おとなしく従った。
蒼い風が通り抜ける───。
少女たちは、魅入られたようにその姿を追う。席につくや否や、その編入生は窓の外を向いてしまった。世俗になぞ興味は無いとでも言うように。その姿も様にはなるが、マリア学園には受け入れる器が無かった。教師のこめかみが、少しばかり引きつる。
「片桐さん。今は休憩時間ではないことよ。前をお向きなさい」
声が聞こえなかったはずもなかろうに、相変わらずそっぽを向いたままだ。
「聞こえなくて? こちらをお向きなさい」
今度は、その頭が教師の方を向き、心を入れ替え従うのかと思われた。
───が。
両足を上げると、どんっと机の上に乗せてしまった。そのまま両手を組んだ。余りの所業に、生徒も教師も、口が半開きだ。
「前を向きましたよ」
しゃあしゃあと、そんなことを言う。大言癖があるのか、単に莫迦なのか。教師の限界は、あっけなく突破された。
「片桐 准さん。あなたには、まず礼儀作法から教えて差し上げなければならないようね」
教壇から、准を見下ろすと、
「わが校では、朝礼が無い代わりに、毎朝ある質問をします。今日は、片桐さんに答えていただきましょう」
編入早々、災難が降りかかった。しかしそれもいたし方ない。この態度では。ここで恥をかけば、マリア学園の掟を身をもって知るだろう。
「昨今耳にする、ニートについて、その対策とあなたの意見を聞きましょう」
ああ、この編入生が、今日の人柱か。教師は、にんまりと、准を上から見下ろす。准は、整った顔を教師にじっと向け、見返した。
「まあ、あなたには無理で───」
「そもそも職に就かず学校にも行っていない若者という曖昧な定義を、『ニート』という言葉でひとくくりにすること事態が重大な過ちである。『職に就けない者』をも『働く意欲がない者』とみなすこと、『働くことができない状態にある者───例えば身障者もしくは精神障害者と診断されないがそれに近い者───をもただ単に『働く気が無い』と決め付け、『ニート』というレッテルを貼ることは、『ニート』を根絶する、という目的と相反するものである。何故ならば、『ニート』と呼ばれる彼らの根本的問題───先に述べた───を無視し、ただただ、数と値として統計をとっているだけであり、彼ら本人と直接話をしようともしない。そのような対応を政府がしている限り、『ニート』の数は増える一方である。『ニート』を減らそうとするならばまず、『ニート』としてくくられている彼らひとりひとりの事情を考慮し、『ニート』と呼ばれる若者をひとりでも減らすことである。この不況の時代に、就職は困難である。氷河期時代と呼ばれた昔の学生たちが、現在、おもに『ニート』と呼ばれている。彼らは当時職につけず、現在にいたり、今度は年齢の壁が彼らに職を与えない。アルバイトをすればいいという声も多々聞こえるが、これも年齢制限があり、過去のことを根掘り葉掘り聞かれ、結局断られる場合が多い。その繰り返しで精神的にダメージを受け、今度はうつ病や引きこもりへと発展していく。そうすると、就職支援、などという上辺の方法では解決どころか何の役にもたたず、彼ら『働けない者』をいよいよ追い詰めるだけである。では、本当の『ニート』とは何かというと───』
「もう結構!!」
疲れたように、教師が叫ぶ。
「……もう、充分です。席に戻りなさい」
言ってから、准が最初から席についていたことに気がつき、んん、と咳払いのようなものをすると、
「では、一限目の先生がいらっしゃるまで静かになさい」
そう言い置き、なんとか対面を保って教室から出て行った。
教室がざわめく。
「片桐……さん」
准の隣の席の生徒が話しかけた。
「素晴しいわ。先ほどのご意見」
「思ったまま言っただけだ」
答えが返ってきたことに頬を染め、
「あれほど素早く、あんな難しい質問にお答えになれるなんて」
「てきとーに答えりゃ、それらしくなる」
「あら、でもすごいわよ。私だったら、できないな」
「私も。新聞などで得た情報を話すだけならともかく、ご自分の見解まで述べられるなんて」
「ねえ、本当に、すごい!」
准が答えてくれたことで、三々五々、皆も話し始めた。
「それにしても───」
皆が一番気にかかっていること。
「片桐さん、素敵なおぐしね」
「瞳も同じ色。どなたかが?」
ブルーの瞳の人間と姻戚関係にあるのか、ということだ。
「いや」
答えはそっけない。
「じゃあ、コンタクト?」
「いや」
そっけないうえに謎が残ってしまい、困惑してしまう。話しかけるな、というジェスチャーなのだろうか。
「あの、片桐さ───」
がたんっ
急に准が立ち上がって、皆驚いた。なにか、気に障ったかと思ったのだ。が、別に気にした風も無く、意外と優雅な
身のこなしで椅子と机を整えた。
「あの……どちらかにいらっしゃるの?もう、一限目よ」
「ああ、そうだな」
そっけなく返すと、さっさと教室を出て行ってしまった。
女生徒たちは呆気にとられ、そして半分、ほっとしていた。准の醸しだすぴりぴりした空気に、少なからず緊張していたのだ。
「大丈夫かしら、おひとりで?」
「本当に」
「大丈夫でしょう。あの様子なら」
「そうね。先生もたじたじだったもの」
「怖いくらい」
「ええ。でも……」
「だけれども……」
『素敵なお方』
准は、廊下を歩いていた。───寮の、廊下だ。授業は、初っ端からさぼるつもりらしい。
なかなか、いい学園だ。環境も、人も。だが───
「所詮、女だ」
五月の風が緑の光を運ぶ。ときにいたずらに、青葉の香りをのせて、准の髪をなぜていく。
ここは学園と寮とを結ぶ中庭。遊歩道も自然に、緑豊富にあつらえてある。森林浴がしたければ、ここへくればいいだろう。と言っても、マリア学園は周りが全部緑で囲まれているが。
昼寝をする時はここへ来よう、と、新緑の香りを満喫しながら、寮へと歩いていく。振り仰げば全てみどり。うっそうとしているわけでもなく、燦燦と日が差すでもない。まこと木漏れ日が乾いた心を潤す、緑のオアシスであった。
それは、緑のベールを通して、突然現れた。
───少女。
唐突に眼前に現れたのは、紛れも無く少女だった。だが───
緑の風は、この少女に触れたくて、そよいでいた。しかし触れること適わず、ただその髪をいたずらに乱していくだけだった。木漏れ日も風も、木香も……。すべては、この少女の配下でしかなかった。この緑一色のキャンバスに、涼やかな、凛とした花の香を、彩るようだった。神は、この少女を選んだのだ。
「通していただける?」
選ばれし者は、そう、問うた。その時になって、ようやく准は、自分が少女の通行を邪魔していたことに気がついた。
「あ、ああ、すまん」
准は脇へ退いた。
「ありがとう」
少女は軽やかに、そして准が見た誰よりも優美に、准の横を通り過ぎた。───漆黒の髪が、准の瞳を惹きつける。少女は、准の胸の高さまでしかなかった。
緑の風に、香に、祝福を受けながら、少女は歩んでいく。少女は、ベールに包まれようとしていた。
─あなた、名前は?─
そう、問われた気がした。少女は風の中。
「片桐 准」
准は、そう、呟いた。少女には、聞こえたろうか……。
中庭を通り抜け、寮の入り口に差し掛かる。穏やかな風の女性がひとり、座っている。
「新入りです。片桐准」
窓越しに准がそう言うと、
「聞いています。どうぞ」
と、にこやかに扉を指差す。それに、あらかじめ貰っていたカードを通すと、ドアが開く。セキュリティがしっかりしているせいか、それとも山の中のせいなのか。この学園は人も雰囲気もいたって穏やかだった。
准は自分の部屋を探す。一年だから、一階だ。眺めのいい三階は、三年。
自分の部屋を見つけると、准はこれまた同じカードで部屋のドアを開ける。見た目だけがクラシックなのは、学園長の趣味か。
部屋に入ると、ごろんっとベッドに寝転ぶ。そして、このカードをくれた人物を思い出す。
(あなたを信頼する証として、このカードを渡します。これで、あなたもこの学園の一員。誰が文句を言おうと、堂々となさい)
無論、そのつもりだ。この学園だろうがどこだろうが、准は准である、ただそれだけ。
(その代わり───)
その人物はこう続けた。
(どうか娘を、お願いします)
これは、依頼だ。准がこの学園で過ごす代償。受けたからには、完遂する。
が。それと准が授業をさぼることとは話が別。依頼のために、品行方正な優等生になるつもりはさらさらない。それは、先方も承知だろう。だからこそ、他の誰でもない、准に、目をつけたのだ。
「娘……ね」
鼻で嗤うと、目を瞑る。眠りに落ちながら、准の思考はひとつにまとまった。
(……所詮は女だ)
三年のあるクラス。ここにもまた、編入生の話が伝わっていた。
「それが、風変わりなのですって」
「え?どんな風に?」
「まず、瞳が青いのですって」
「そんなの珍しくありませんわ」
「そーよ。私の親戚にも、うじゃうじゃいるわ」
「髪も、青いのですって」
「え!染めてるの?」
「まあ。風紀違反ですわ」
「よくもまあ、それで編入できたこと」
「ええ、本当に。なんでも、学園長直々のご推薦なんですって」
「なんでそんな子が?」
「相当、優秀でいらしたのかも……」
「優秀なだけで、この学園には入れませんわ」
「学園長のご親戚でしょうか」
「え!じゃあ、マリアの……」
「それじゃあ、仕方ないですわね」
「いえ、それが、違うらしいの。ご親戚筋でも、お知り合いですらないのですって」
「え。……うわあ。その子、そのうち風紀委員にやられるね。あ、その前に先生方か」
「それが、早速、朝の儀式の餌……こほん。……その方の番になられたらしいのです」
「あーあ。早速、洗礼を受けたか。んじゃ、その子もおとなしくなるさね」
「ちょっと、残念ですわ……」
「それが逆ですの」
「は?逆?」
「と、いいますと?」
「先生の出された問題に、淀みなく答えられて、しかもそれが小論文なみの出来栄えで」
「小論文って、国語の?」
「いいえ。大学の、ですわ」
「うそ、すご……」
人のうわさは広がりやすい。それが女ならなおさら。ぴーちくぱーちく、田舎雀もやかましい。───その時。
「あなたたち」
凛とした声が聞こえた。教師ではない。かといって、ただの女生徒のものとも思えなかった。事実、クラスの少女たちは、ぴたりと話をやめ、全員が直立している。
「お昼の鐘鈴がなってよ。いつまで無駄話をしているの」
教師とは違い、癇に障る声ではない。あくまでやわらかで品位があるが、言い方は厳しい。
「マリア。申し訳ございません。実は、編入生が入ったので、その歓迎のことで話をしていたところです」
雀のひとりがなんとか言いつくろう。
「編入生?私は聞いていなくてよ」
「わ、私たちもつい先ほど聞いたばかりです」
「なんですって?この組ではないの?」
「はい。一年桔梗組です」
「一年?……そう。わかりました。その生徒の歓迎のことは私が考えます。あなたたちは早く朱雀の間へ行きなさい」
「はい、マリア」
みな、そろって行儀良く食堂へ向かう。マリアと呼ばれた少女は、ひとりそこに残った。
「編入生?……学園長」
そう呟くと、静かに歩き始めた。あくまで上品に。
准は、昼の鐘鈴を寮で聞いた。ここは、本当に大きな鐘を使っているので、寮でも充分聞こえる。
「やべっ。食いっぱぐれる」
外見とあっているのかいないのか、そんな言葉を起きざま吐き出す。───そう、今の今まで、寝ていたのだ。勉強する気なぞ、さらさらないらしい。なにしにここへ来たのやら。慌てて校舎に向かおうとして、はたと気づく。
「……食堂って、どこだ?」
あほだ。仕方ないので寮の門番然としているおばちゃんに聞く。それから全速力で食堂───朱雀の間についたときには、もう全員が席についているようだった。
この朱雀の間は、全て洋風の長テーブルで、全員の席が決まっている。無論、料理も既に用意されている。だから、遅刻は厳禁。遅刻するということは、料理人に対して礼を失するからだ。そこまでは、まあ、わかる。しかし───
「ようこそわが学園へ。片桐准さん、歓迎いたします」
朱雀の間の最奥、和風に言えば上座にあたる場所に、ひとつだけ横に長いテーブルがある。そこから、声はした。
「さあ、片桐さん、私の横へ」
マリア、と呼ばれた、あの少女だ。美少女、という言葉がよく似合う。軽くウェーブした長い髪に、際立った目鼻立ち。それだけでも十分に目立つが、この少女は上品さと、威厳をも伴って持っていた。
「遅刻しといてなんなんだが……。あんた、誰だ?」
「あんたとは、なにごとです!」
マリアと呼ばれた少女の脇、同じテーブルについていた少女が、金切り声をあげる。ショートカットの、つり目の、これも美少女だ。
「知らないもんは、仕方ないだろ」
「なっ」
怒りのあまり目を白黒させているつり目の少女に、
「今日ここへ来たばかりなのですから、しかたございませんでしょう」
やんわりと、マリアを挟んで反対側の席についていた少女が、やんわりと遮る。髪が明るく、カールした髪が似合う、優しい雰囲気の美少女だ。
「片桐さん、麗が失礼をいたしました。けれど、この学園にいらしたからには、知っていていただかなければならないことです。こちらは、マリア。このマリア学園の生徒会長です。この学園の経営も管理も、マリアがすべてなさっていらっしゃいます。くれぐれも、失礼のないように」
「そう、でないと───」
つり目がくすりと笑い、あらぬ方を見る。そこには何もなかった。───いや。なにか……誰か、いる。少女だ。朱雀の間の隅、電燈も届かず、壁も崩れかけたそこに、その少女は座っていた。まるで、見せしめのように。
「麗、おやめなさい。片桐さん、見苦しいものをお見せしました。お気を取り直して、どうぞ私の横に───」
「断る」
一瞬、みな、准が何を言ったのか理解できなかった。それは、『マリア』も同じようだった。
「片桐さん、今、なんとおっしゃって?」
「二度言わせるな。それに、なんで俺の名前を知ってる」
「私はこの学園の生徒会長。それくらい、存じております」
「なら、あんたも名乗れよ」
「片桐さん!マリアになんという───」
それを手で制し、
「失礼いたしました。私は、薔薇葉 美散。こちらが安藤 麗と大須賀 留衣」
先ほどから准を睨むように見ているショートの少女が麗、カールの少女が留衣、と紹介した。
「美散?『マリア』が名前じゃないのか?」
「『マリア』は、いわば称号ですわ。この学園の生徒会長が、代々襲名いたします。私が、現在のマリア」
「称号ね」
鼻で笑ったようなその言い方に、かちんときたのか、安藤麗が、
「片桐さん。くれぐれもマリアには敬意をはらって接するのですよ。そして、名前ではなく、『マリア』とお呼びすること。よろしいですわね」
「嫌だ」
また、だ。これには朱雀の間の全員が硬直した。麗なぞ、怒りで震えている。
薔薇葉は静かに准の瞳を見つめた。
「なぜですか?」
准はその視線を受け止め、
「嫌いなんだよ、そういうの」
「そういうの?」
「上から見下ろされて、命令されること。女がふんぞり返っていること。そいつが陰湿ないじめをすること」
「……なんのことでしょう?」
「おいおい、やめろって。隠すなら徹底的に隠せよ。それともご存知ないか?───なら、あれはなんだ?」
准は部屋の隅を指差した。そこにあるものは、崩れた壁、机、そして小さな人影。
「あれが、見えないとか言わないよな。説明してもらおうか」
くすり、と笑いが聞こえ、これには大須賀留衣が答えた。
「マリアにたてつき、学園の風紀を著しく乱した落ちこぼれの成れの果てですわ」
顔は可愛いが、言うことはきつい。
「マリアにたてつくと、こうなるわけか」
「そう。ですから片桐さんもくれぐれも───」
「んじゃ、薔薇葉。俺もあの席に着くぜ」
言うと、准はすたすたと部屋の隅に行き、
「俺もここに座りたいんだが、いいか?」
と、成れの果ての少女に聞いた。
「どうぞ」
と小さく声が返ってきた。俯き加減で、おまけにここは暗いので、顔がよく見えない。
「ええと、俺の分はあっちにあるのか」
准は薔薇葉たちのところに行くと、料理を手に持ち、さっさと戻っていく。適当に椅子を用意し、机は片隅の少女と同じ机だ。───つまり、授業で使っている机。しかもどこから持ってきたのかと思われるほど、古く、小汚い。そうされるほどの、この少女はいったい何をしたというのか。
ともかく准は席につく。
「よろしくな」
挨拶をすると、少女はその面をあげた。そのかんばせたるや。白雪もかくやと思われるほど白い肌に、黒曜のひとみ。唇は紅玉の如く、玉の言葉がつむがれるかと思われた。そして、それらを覆う、緑の黒髪。あごのラインで切りそろえられているのが、またこの少女によく似合った。
「私の顔に何かついていて?」
凝視してしまったらしい。が、その凛としつつも優しさと上品さを兼ね備えた声音に、准は意外に思った。その顔からも、いじめられている卑屈さなぞ微塵も感じさせなかった。
「よろしいの?私といて。あなたまで、仲間はずれにされてよ」
ちっとも苦痛でないように、少女は言う。
「そうでなかったことなんざねーよ」
「そう」
同情してるでもなさそうなこの少女に、准は興味を持った。
「お前、名前は?」
「神津涼」
「すずみ?変わってるな」
「そうかしら?准さん」
名前まで、言ったろうか。薔薇葉は片桐、とだけ言いはしなかったか。
「……なぜ、俺の名を?」
「マリアが呼んでらしたわ」
「あいつは、片桐としか言ってない」
「あら、そうだったかしら」
金糸の旋律を奏でるように、少女───涼は答えた。なにかしら、不思議な感じの少女だった。卑屈でもなく、さりとて高慢でもなく。薔薇葉のように人を圧するような威厳や威圧感があるでもない。楚々というのも違う気がする。しかし日本女性らしいたおやかさといったものは多分に持ち合わせているようだった。しかし、なんでこんな少女がこんなところに……。
「お前、何をした?」
「何って?」
「ここにいる理由だよ。何かしでかしたんで、あの女に追いやられたんだろ」
くすりと涼は笑い、
「なにも」
「嘘はいい」
「嘘は言ってなくてよ。本当に何もしてないの。ただ───。マリアは私がお嫌い」
「ほう」
「それだけよ」
「まあ、そういうことにしておこう。それより───」
准は涼をじっと見つめて
「お前、俺のことを何も聞かないな」
涼はくすりと笑い
「さきほどから質問責めでしたもの」
「なら、今、聞いたらどうだ?」
「あなたの瞳は何故蒼いの?異国の血が混じっているの?髪は何故蒼いの?染めているの?なぜあなたは男のようななりをしているの?」
「おい───」
「───って、聞けばいいのかしら?」
「気にならないのか?初めて会う奴はみんなそう聞くぞ」
「そうでしょうね。だから嫌なのよ。大勢と同じなんて芸のないこと」
「お前、変わってんなー」
「あなたに言われたくないわね」
「それもそうだ」
少しくふたりは笑いあった。そしてその存在を失念していた。
「片桐さん。私、まだご挨拶も済んでおりませんのよ」
痛いような静寂の中、威厳に満ち満ちた声が響く。
「片桐さん。私は、あなたのその自由な個性を尊重したいと思っています。ですが、礼節を軽んじるのと、自由とは、違うのではないですか?」
理路整然。薔薇葉の言うことにあやまりはない。そして、准がやっていることはこの学園のルールに反する。どう、反論するのか。みな、固唾をのんで見守った。
准はじっと薔薇葉を見つめた。そして。
「薔薇葉。『礼儀を求めるのならまず己から』という言葉を知っているか?」
薔薇葉の傍に控えている麗と留衣は青ざめた。これはあきらかに、『礼儀がなってないのはお前のほうだ』という意味だ。
「……私が、なにか無礼を?」
「態度が不遜」
は?という顔で、みな准を見る。だって、薔薇葉は生徒会長で、この学園の総取締役兼経済担当で。代々襲名制の「マリア」を現在継ぐもので。それにしてはこの准という異分子を文句も言わず受け入れようとしている。その薔薇葉に対して「不遜」とは。
「理由をききましょう。私は、あなたにできる限りの礼儀を持って接してきました。私のどこが、不遜だと?」
「じゃあ聞くがな。こいつは何でここにいる?」
「こいつ?」
「今、俺が喋ってた、こ・い・つ」
准は、涼を指差した。すっと、ひとりの少女が立ち上がる。
「片桐さん。それは先ほど、私たちがお話したでしょう」
ショートの少女、安藤麗だ。
「マリアに逆らった者の成れの果て、か?」
「そのようなこと。私どもが言うはずないでしょう?」
にこやかにいけしゃあしゃとそう言うのは、緩いウェーヴの少女、大須賀留衣。
「なんだ。自分で言ったことも忘れたのか。ま、いいや。で?こいつは何でここにいる?」
「マリアのご忠告を何度も聞き流し、この学園の風紀を乱し、規律を破り、悪しき風潮を伝統あるこのマリア学園にもたらした、その罪によって」
「大須賀留衣、だっけ?具体的に言ってくれ。俺は頭が悪いんでな。莫迦にもわかるように説明してくれないか?」
「今、申し上げたとおりです。他に、なにもございません。おわかりにならないのなら、仕方がございません」
「やっぱりな」
はっと、朱雀の間が緊張する。
「つまり、なにもしてないんだろう、こいつは? だから、説明できない」
「はっきり申し上げてしまったら、神津さんの名誉に関わると思うゆえです」
「へえ。名誉だってよ、神津」
准は、神津を振り返って、答えを促した。なんと答えるのか、この少女は。おそらく長い間、この暗く崩れた牢獄にいたであろう、この少女。みなの前でこうされるということは、みなの見ていない場所ではそれ以上のことをされているのだ。准は嫌というほど知っている。薔薇葉の威光を恐れて、押し黙るのか。それとも。全員が、見守った。
「私が罪を犯しました。マリアのご威光をけがしました。私の責任です」
罪人は屈した。ほっとした空気が流れる中、准だけはその少女をじっと見ていた。
隔絶された学校という社会の中では、とかく小さなことが大きな問題となる。准の場合もそうだった。きっかけは、ささいなことだった。「うまく返事ができない」。しかしそんなものは言い訳に過ぎない。要は、自分より弱いもの、目に付いたおどおどしたもの、最も攻撃しやすいものが標的にされるのだ。「やられるほうにも原因がある」。では、努力して努力して、それでも攻撃され、少しでも反撃すれば倍以上に返され、誰も助けてはくれず、攻撃を跳ね返せない方が悪いと知らん顔をするやからばかりの中で、たったひとり戦い続け、それでも攻撃がやまず、熾烈化するのは、その個人に責任があるというのだろうか。ならば、己も力を失ってみるがいい。すべての言葉を封じられ、ただ萎縮し、相手がどんどん大きく強くなっていく様を、味わってみるがいい。そのもの自身で無い限り、その個人を批判する権利など誰にもありはしないのだ。
しかし───。あの神津とかいう少女には、そのような萎縮した態度は見られなかった。それでも、薔薇葉が怖いのかもしれない。この学園のことを、あまりにも准は知らない。准は寮の部屋でひとり物思いにふけっていた。と、扉がノックされる。
「誰だ」
誰何すると、上品ななかにも威厳がある声が答えた。
「片桐さん、こんばんは。薔薇葉ですわ」
意外な訪問客だ。
「何の用だ」
准の返事は冷たい。
「ご挨拶に参りましたの。今朝がたは何も存じ上げなくて、機会を逃してしまって申し訳ありません。その、お詫びも兼ねて」
准は少し考えて、
「入れ」
「失礼いたしますわ」
扉を開けた瞬間、薔薇の香りがしたような気がした。本人が入ってきて、准は確信を強めた。───この少女は、薔薇だ。大輪の薔薇の花。名前は、この少女を飾るに過ぎない。ゆるいウェーヴは、陽光にさらせば金色にも見えるだろう。
「それで?」
准の態度は、あくまでも冷ややかだ。だが相手は意に介することもなく微笑むと、
「そう、冷たいことおっしゃらないで。お詫びにあがったのですもの」
「今朝の、か?」
「ええ。私、本当に存じ上げませんでしたの。片桐さんがわが校に入られたなんて。この学園の生徒会長として、お詫びいたします」
薔薇葉は少し頭を傾けた。頭をさげたのだろう。
「───それだけか?」
意外な返事が返ってきた。薔薇葉は予想していなかったらしい。
「それだけなら、もう帰れ。俺はあんたが好きじゃない」
薔薇葉は表情を変えなかった。が、あまり見景色麗しくないのは、空気が冷たくなったことで知れる。
「理由をお聞きしてもよろしいかしら?」
微笑みながら、薔薇葉は問う。
「好き嫌いに理由がいるのか?」
また、空気が凍った。伝統的といえば聞こえはいいが、つまりは閉鎖的な環境で権力を持つ、生徒会長。その薔薇葉に向かってあまりに反抗的な態度だろう。だが、准本人は大したことと思っていないようだった。
「もういいだろう。俺は疲れてる」
退室の合図。これ以上の長居はただ「マリア」の価値を下げるだけだろう。
「また、ご機嫌のよろしいときにでもお話したいですわね」
准はもう答えない。失礼、と言って、薔薇葉は退去した。
しばらく准はベッドに寝転がってぼーっとしていたが、ふいに気になって、ある部屋を訪った。ノックをするが、すぐには返事がない。しばらく待って、もう一度ノックしようと手を挙げたとき、声が聞こえた。
「どちら様でしょう」
目的の少女と声が違う。部屋を間違えたか。
「神津涼の部屋はここか?」
また妙な間があり、
「はい。ですが、涼様はご気分がすぐれないので、お休みでございます」
おつきの者だろうか。
「俺は、片桐准。休んでるとこ、悪かったな。また、出直すよ」
踵を返そうとすると、
「あ、少々お待ちください。涼様が、お会いになるそうです」
「いや、気分が悪いのだろう? 別に急用じゃない」
断ろうとそういうと、
「どうぞ。お入りになって」
凛とした涼やかな声が優しく響いた。
言葉に甘えてというより、その声音に惹かれるように、准は自動的に開いた扉の内側へと入っていった。
ぬばたまの黒髪。紅玉の唇。白磁の肌。そこにいたのは、紛れもなく神津涼だった。ただし、ベッドに上半身だけ起こして、病人のようなスタイルだった。
「やっぱり出直したほうがいいんじゃないか?」
問うと、
「ああ、お気になさらないで。ちょっと、寛いでいただけ」
「でも、気分が悪いんだろ?」
涼はくすっと笑うと、
「それは、嫌な相手を拒む口実」
歌うように言った。
准はまた思った。この少女からは、いじめられている卑屈さが微塵もない。それどころか、美しく、輝いてさえいる。こんな口実をもうけられるくらい処世術を心得ているなら、いじめられもしなさそうだが。それとも、薔薇葉は別なのだろうか。
後ろで扉が閉まった。そこには、同じくらいの年頃の少女がいた。准の視線の先を読み取ったらしく、涼は、
「こちらは、遠藤幸(さち)さん。私の、大切なお友達」
「友達?」
その割りに、傍仕えのような態度だが。
「学業がとても優秀で、常に学園二位なのよ」
「そりゃすごいな。大変だろう?」
「いえ、それほどでも」
素っ気ない。なんだか警戒されているような気がする。それは、幸自身に関することというより、涼になにごとか起こらないように気を配っているように見えた。これでは、まるきり傍仕えだ。
「常に二位ってことは、一位は薔薇葉か?」
「あら」
涼は大きな瞳をくりっと輝かせて、
「ご期待に添えなくて残念だけれど、一位は私」
准は驚いた。この可憐な少女が学園トップとは。
「いつも一位なのか?」
「ええ。それも、マリアにはご不快」
少女はまた、くすくすと笑った。いったい、こいつは――
「お前、平気なのか?」
「あら、何が?」
「薔薇葉だよ。いじめられてるんだろ?」
「ええ、そうよ。でも、仕方ないわ。マリアは私がお嫌い」
またも少女は歌うように言った。
不思議な少女だ。卑屈さもなければ、傲慢再もない。威厳はないが、上品で優美。誰をしも惹きつけてやまないだろう。ああ、そうか。
「薔薇葉は、それが気に食わないんだな。お前が目障りなんだ」
涼はにこりと微笑むと、
「ええ、そう。だから、マリアは私がお嫌い」
それより、と、涼は話を続けた。
「何か、お話してくださらない? 私、あまり外のことを存じませんの」
「外のこと、か。それなら俺の得意分野だ。そうだな、なにが聞きたい?」
「なんでも。あなたのお話ならなんでも」
そう言って微笑む少女は、紛れもなく、あのときの少女で。准が寮に向かう途中、中庭ですれ違った、あの少女。ああ、なぜ今頃気づいたろう。なぜ、忘れていたろう。あのときの出会いは、夢のようだった。あのときから准は、この少女に惹かれていたのだ。
その夜、准は涼と長いこと語り合った。
第二章 起
薔薇葉美散の朝は早い。朝日が昇る前に起きる。そしてバスルームでシャワーを浴び、汗を流し、丹念に体のケアをする。シャンプーもボディクリームも、すべて薔薇の香りで彩られている。洗顔は、薔薇の香料を垂らした、ぬるま湯で。その後、長く美しい髪を、セットする。これは、自分ではやらない。専属美容師がついているのだ。髪のセットと同時に、ネイルケアもする。無論、専属の人間が。
髪の毛のセットが終わると、今日の気分で、着て行く服と靴を選ぶ。その後、化粧にとりかかる。これらも、すべて薔薇のモチーフで揃えている。薔薇葉は、自分の名前でもある、薔薇が、ことのほか好きだった。己を表わすのに、これほど相応しい花はないと思っている。部屋も、むせ返るほどの薔薇の花が飾られている。華やかなことこのうえない。
そうして、ようやくすべての支度が整う頃には、朝日はしっかりと昇り、始業のチャイムを待つのであった。
誰よりも遅く教室に行くと、組の生徒たちは、みな立ち上がって、薔薇葉に朝の挨拶をする。それに鷹揚に頷き返しながら、席に着く。あくまで優雅に。姿勢正しく。威厳をもって。それを見る生徒たちの目には、尊敬と畏怖と憧憬。神津涼が人気があるのは、あくまでも一年生のみである。上級生からしたら、ただの生意気な小娘だ。しかもマリアに立てつく。上級生にとって、薔薇葉美散こそ、この学園の最高位の人間であり、『マリア』なのである。
教師が、入ってきた。さあ、今日も、一日が始まる。
「……さて、今日のお題は『飲酒運転』です。飲酒運転についてどう思うか、自由に論じてください。では、斉藤さん」
「はい。ええと……」
その生徒は、しばらく黙り込んでしまった。そしてようやく口にした言葉は、
「……飲酒運転は、いけないこと、だと、思います……」
組が沈黙する。
「それだけ、ですか?」
「あ……はい。ごめんなさい……」
最後のほうは、消え入りそうであった。
「では、なぜ、飲酒運転がいけないことなのでしょう?」
「えっと。法律で禁止されているから、です」
「法律で禁止されていなければ、いいわけですか」
生徒はうろたえた。
「え……そ、そうじゃなくて……あの……」
可哀想に、今にも泣き出しそうに、おろおろしている。まあ、この学園にいる以上、それくらいのことが考えられなくては、自業自得と言われてしまうが。
「先生」
「なんですか? 薔薇葉さん」
「私が代わりに答えても、よろしいでしょうか?」
あからさまに、先程の生徒はほっとしていた。
「仕方ありませんね。では、薔薇葉さん、お願いいたします」
「はい。まず、飲酒をするとどうなるか。これを、しっかりとしたデータをとり、統計を出すべきなのです。数値化することで、飲酒というのがどのような行為なのかを、明白にすべきです。そして、飲酒運転をしたとき、しないときのデータもとり、統計も出すべきです。
なぜかというと、『飲酒運転』というものが、いかに危険なものなのかを教えるのに、数値化、というものが、最もわかり易いからです。そして、そのデータというものは、あらゆるところで、説得力を持ちます。それは、裁判所で、でもです。
昔日、危険運転致死罪というものについて問う裁判が、注目されました。ところが、その結果は、惨憺たるものでした。たとえ飲酒していたとしても、本人に自覚がなく、正常な運転ができさえすれば、危険運転致死罪にはあたらない、というのです。これは、とんでもないことです。『正常な運転』ができていたなら、事故など、そもそも起こっていないではありませんか。本人に自覚がない? では、事故直後、大量の水を飲んで、隠蔽を図ったのは、何故ですか? 自覚があったからでしょう? それが、本人が『自覚がなかった』と言っただけで、通ってしまった。
これでは、裁判所が、自ら、飲酒運転を奨励しているも同じです。これが、どれほどの人命を、これから奪うことになるか!
酒を飲んで車に乗っても、まあ、いいじゃないか、『これくらい』。 その『これくらい』のせいで、あまりにたくさんの尊い命が奪われてきました。それをもう、させないために、危険運転致死罪という法律ができたはずです。それなのに、この判決。この法律が、最初から形骸化していることを、示したのです。これでは、だれも飲酒運転なんかやめません。この法律の、さらに細かい取り決めの見直しを、望みます」
教室内は、しんとしていた。厳かな、という雰囲気がぴたりとくるだろう。その静寂の中で、話し終えた薔薇葉は、先程、答えにつまった生徒を、ちらと見ると、
「これくらいのことは、把握できてなくては、生徒の模範になれませんよ。私たち三年は、全校のお手本なのですから」
その生徒は真っ青になり、
「申し訳ございません!」
薔薇葉に頭を下げた。教師も、満足そうに頷いた。
次の授業までのわずかな休み時間。薔薇葉の周りには、組中の生徒が集まっていた。全員立っていたが、薔薇葉だけは、椅子に座っていた。
「大田さん、妹さんはその後いかが?」
「はい、マリア。お気遣いくださって、ありがとうございます。おかげさまで、熱が下がりましたわ」
「そう。良かったわ。鈴屋さん、先日の小テスト、満点だったそうね」
「はい、マリア。私もマリアを見習って、予習復習をしっかりやりましたの。そのお陰ですわ。ありがとうございます」
薔薇葉は、にこりと笑って、特になにも言わなかった。
「斉藤さん」
薔薇葉の声音が変わった。冷たく、変わった。
「先程は私が変わりに答えたからよろしかったですけれど、あのような失態、今後は許しませんよ。明日も、あなたに答えていただくよう先生に申し上げましたから、今からでも、新聞をお読みになることをお勧めいたします」
朝の質問に、答えられなかった生徒だ。真っ青になりながら、ようやく頷くのみだった。そうこうしている間に、予鈴が鳴る。次の授業が、始まるのだ。
鐘鈴が鳴る。昼食だ。だが、薔薇葉は席を立とうとしない。ゆっくりと、支度をしている。その間に、組の生徒たちは、続々と朱雀の間に急ぐ。
「マリア、お先に失礼いたしますわ」
「マリア、後ほど」
軽く会釈をしながら、皆、薔薇葉の側を通り過ぎていく。それらの波が、なくなって。組には、三つの人影だけがあった。
「そろそろ、いいかしらね」
薔薇葉が聞く。
「はい。もう、よろしいかと」
答えたのは、つり目のショートカットの美人、安藤麗である。
「ほかの組の者も、皆、朱雀の間に向かったと思われますわ」
柔らかに付け加えたのは明るくカールした髪を両脇で結っている、大須賀留衣。この三人が、残っていたのだ。
「では、そろそろ参りましょう」
「はい、マリア」
「はい。マリア」
薔薇葉はようやく席を立ち、三人は、朱雀の間──食堂へと向かった。
食堂の扉の前に着いた。薔薇葉・安藤・大須賀の三人だけは、入る扉が他の生徒たちとは違った。その扉から、薔薇葉を先頭に、入っていく。
全生徒を見渡せる場所に、薔薇葉たち三人のテーブルはあった。他の生徒たちが縦長のテーブルについているのに対して、薔薇葉たちは、巨大な壁画を背に負い、横長のテーブルに席着いた。その様はまるで、皇室のまねごとのようだった。
薔薇葉が席に着くと、食事が始まる。───いつもなら。薔薇葉は、じっと、ある一角を見ていた。そこは、忘却の彼方。忘れられし孤島。神津涼のいる場所だ。本来なら、涼は、たったひとりで、惨めな食事をしなければならないのだった。だが、ひとりの不調法者によって、惨めどころか、毎日楽しそうに食事をしている。これでは、意味がない。
片桐准は、まだ、この学園の規則、そして、この学園における薔薇葉の存在がどういうものか、まだわかっていないのだろうから、しばらくすれば、その傍若無人も収まると、薔薇葉は思っていた。
ところが、収まるどころか、日増しに准の噂は広まっている。しかも、いい意味で。そして、その破天荒なスタイルが、生徒たちに認められ、あまつさえ、影響を受け始めている。これでは、風紀の乱れ、甚だしい。薔薇葉は、こころを決めた。かたん、と席を立つ。皆、何事かと薔薇葉に注目する。
「皆さん、少し、お食事をお待ちいただきたいのです」
そして、准の方を向く。
「片桐准さん」
准は、椅子に腰掛けたまま、上体だけ薔薇葉の方に向けた。なんだ、とも聞かない。その横柄な態度に安藤麗が叱責しようとしたが、それを目で制し、
「私は、これまで、あなたが朱雀の間で身勝手に行動しているのを、黙認してきました。それは、あなたが、いずれ、節度というものを学んでくださると思ったからです。ところが、あなたは一向に態度を改めることをしない。寛容な私でも、限界があります」
准は黙って聞いていたが、
「自分で自分のことを『寛容』なんて言う奴に、ろくな奴はいないけどな」
朱雀の間が凍った。みな、直視するようなことはないが、薔薇葉の様子をうかがっている。薔薇葉は怒った様子もなく、平然としている。この答えを、予期していた、とでもいう風だ。もしかしたら、薔薇葉は、准を許そうというのだろうか。そんな風に生徒たちは思った。
「片桐准さん。あなたには何を言っても無駄なようですから、もう構いません。自由に行動なさい」
ああ、やはり、そうか。生徒たちは、ほっと息をついた。
「その代わり、すべての責任を神津さんにとっていただきます」
……え? 今なんて?
「片桐さんは、神津さんとはとても親しいようですね。神津さんにこの学園のことなど、いろいろと教えてもらっているのでしょう。と、いうことは、片桐さんの異常な言動はすべて、神津さんの監督不行き届きということ。ですから、これからの片桐さんの行動は、全て神津さんに責任を負ってもらいます」
許すどころか、薔薇葉は准に枷をかけたのだ。涼をこの学園から追放したくなければ、おとなしくしていろ、と。しかし。
「そんな無茶苦茶、通ってたまるかよ!」
声を荒げたのは無論、片桐准である。
「だいたい、なんで俺の失態が、全部神津の責任になるんだ!? 俺が悪いことをしたなら、俺を責めればいいだろう!? なんで神津なんよ!?」
「あなたには、そのほうが効果的なようですから」
「な……」
なんという無法な。神津は、なにも関係ない!
「……俺は認めないからな。自分の始末は、自分でつける」
「あなたが認めようが認めまいが、責任を被るのは神津さんです。よく、憶えておおきなさい」
「そんなの、教師たちが黙ってるかよ!」
「先生方も了解済みです」
「……なんだと」
薔薇葉美散。これがマリア。この学園の女王。
「では、早速ですが片桐さん。そのようなところでお食事をなさらないで、ご自分の席にお着きなさい」
准が、薔薇葉の隣に、と言われたのは、初日だったからだ。今は、他の生徒と同じところに席が設けてある。
(どうする。俺が動かなければ、涼が責任を取らされる。だが、薔薇葉の思い通りなんて冗談じゃない)
自分のことならどうとでもできるが、連帯責任を組まされては勝手なことをするわけにもいかない。准は、葛藤した。
「私はかまいません」
その玲瓏たる声は、ぬばたまの少女であった。しかし今、この少女はなんと言ったのか。
「神津さん。かまわないとは?」
薔薇葉が聞く。涼は、あら? という表情で、
「今、私の責任問題について仰られていたのではないのですか? 私は、マリアのやり方に従うと、申し上げたのです」
「……」
薔薇葉は黙り、涼を見つめた。両脇の安藤麗と大須賀留衣は、驚愕の表情だ。他の生徒たちは、どうなることか、動揺と期待でざわついている。
「では、片桐さんが異常な行動をしたとき、あなたは責任をとると言うのですね?」
薔薇葉が口を開く。
「今、申し上げたとおりです」
言葉は丁寧なのだが、なぜか、馬鹿にされたような気が、薔薇葉にはした。
「でしたら、もう言うことはありません」
「だそうよ、准さん」
こんな場面なのに、いたってにこやかに、涼は笑いかけた。
「おい、いいのかよ」
「いいから、あなたの好きなようにしてご覧なさい」
准は言われたとおり、今の席で涼と一緒に昼食を食べ始めた。すると。三年の席の生徒たちが数人立ち上がり、准たちのところへやって来た。そして、何も言わず、食事の皿を、次々奪っていく。涼のだけ。
「ちょっと待てお前ら! なにしやがる!」
「責任をとっていただいたのよ」
薔薇葉が上座から声を発する。
「食事の席でふさわしくない行為が行われたとき、その者はここで食事をする権利を剥奪されます。そうね? 神津さん」
准は涼を見る。
「はい、マリア」
なんの抵抗も抗議もするつもりはないようだ。
「ここ以外で、食事ができるのか?」
准は薔薇葉に問うた。薔薇葉はおかしそうにくすりと笑うと、
「できるわけないでしょう。だから罰なのです。大丈夫。お昼一食抜いたからって、死にはしません。ああ、それと、そのせいで具合が悪くなったから、午後の授業はお休みなんて、許しませんよ」
這いつくばってでも、授業に出ろ、と。そういうことだ。
「てめえ! こいつが体弱いこと知ってて───」
「准さん」
涼の、制止の声に、逆らえないものを感じて、准は黙った。
「片桐さんは、そのままお食事を続けて結構。……もし神津さんにお食事をわけてあげようとしたら、明日の昼食も神津さんは抜きになりますから。では、みなさん、お食事をつづけましょう」
薔薇葉は、なにごともなかったように、優雅に席に着いた。准は、はらわた煮えくり返っていた。
「畜生……。そうくるなら俺も考えるぜ。神津、俺も飯いらねえ」
神津にだけ聞こえるようにそう言うと、涼はくすりと笑い、
「あなたが一食抜いたら大変でしょう。飢えた狼の番なんて嫌よ」
「だが、俺だけ食うなんて気分が悪い」
「あら。意外と繊細なのね。大丈夫。私にも考えがあるから、あなたは美味しくいただいて頂戴。この学園の食事はなかなか手がこんでいるのよ」
准はなおも言い募ろうとしたが、その前に腹がぐう、と雄弁に語った。真っ赤になりながら、おずおずと食事に手を付ける。実を言えば、このいかにも美味しそうな食事を目の前にして我慢しているのは、かなりの努力がいったのだ。
もともと、准はよく食べる。その運動量から言えば、当然だが。ここで一食抜けば、飢餓で相当苦しむことになるだろう。両手を膝に置き、にこやかに微笑んで見守っている少女を目の前にしながら、とにかく急いでかきこむしかなかった。
「で」
昼休み、准は、涼の部屋に来ていた。
「俺の苦労はなんだったんだ」
「あら。あなたがいつ、苦労したの?」
「飢えてる人間の前でたらふく食う方の身にもなれ」
「普通、逆だと思うけど?」
准がぶんむくれるのも、むべなるかな。部屋のテーブルには、先程の朱雀の間の食事より、さらに上等な食事が並べられていた。それを何事もないかのように、粛々と遠藤幸が運んでいる。
「食いもんあるなら、先に言え!」
「言ったらあなた、顔にでてしまうのだもの」
う。と准は詰まった。その通りだったからだ。
「薔薇葉に、あそこは『勝った』と思わせることが重要なの。面目潰したら、さらに悲惨な仕打ちが待っているわ。別にいいのだけれど、わざわざ難易度の高い問題をやりにいくこともないでしょう」
准は、はあ、と溜め息をつき、
「わあったよ。さっさと食え。時間ないだろう?」
部屋に帰ったらもうあった、というわけではない。それから、電話し、食事が運ばれて来たのである。どこに、どういう内容を電話したのかは、幸と涼のみ知るところだが。なにはともあれ、食事の心配は最初からいらなかったのである。だから、ああまでのんびりと涼は構えていたのかもしれない。
食事を終えると、午後の授業開始を知らせるゴング──もとい、鐘が鳴った。教室に入ると、組の生徒たちが一斉に涼のところに集まってきた。
「神津さん! お加減は?」
「私、今日、お菓子作って参りましたの。よろしかったら召し上がって」
「これ、ちょっとしかないけど、食べて!」etc,etc……
それらに、愛想よく返事をし、ひとつも受け取らず、澄ました顔だ。生徒たちは、教師が来るので、それぞれ席に戻った。だが、あちこちで、囁きが聞こえる。
「神津さん、すごいわね」
「ええ、本当!」
「お食事抜いていらしてるのに」
「平気なお顔」
「きっと、とてもご無理なさっていらっしゃるのよ」
「でも、表に出さないなんて、すごい」
「お体に響かないかしら」
「ええ、心配ですわ」
その囁きを聞いて、准は苦笑していた。なにしろ、知っているのだから。涼が、満腹だということを。そんなこととは知らず、生徒たちは、涼を讃える。まったく、あまのじゃく。
准は、幸の方を見た。どんな顔をしているのかと思って。
幸は、いつもどおりだった。ポーカーフェイス。こんな部下、確かにいたら便利だろう。
がちゃり、と、教室の扉が開く。始業、である。やれやれ、本でも読もうかな。
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■作者からのメッセージ
前回の『新鐘真衣』はつまらないと思ったので、書き直しました。
おかしなところ、変えたほうがいいところなど、ご指摘いただけましたら嬉いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
また、私の態度が悪かったら、どうか教えてください。
改めたいと思います。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。