『ベルゼブブ−蝿の王−』 ... ジャンル:ホラー リアル・現代
作者:kanare
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どこからか聞こえてくる、耳をつく嫌な音。まるで内臓をかきむしられるような、気持ち悪い音が……。
気がつくと、黄土色の景色に僕は立っていた。遠くには恐ろしいほど背の高い真っ黒なビル群が、いくつもいくつも並んでいる。目の前には、見上げても全貌の見渡せない巨大なビルがある。恐らく、ずっと使われていないのだろう。どの階も暗く、窓ガラスはひび割れ、塗装も禿げかかっている。何より、人の気配が全くしない。僕は、よろよろと目の前のビルへと向かった。ひどく身体が重い。一体ここはどこなのだろう? 全く見当がつかない。
ようやく、大きなビルの入り口まで来ると、眼前に誰か倒れている。どうやら女性のようだが、黒ずんだ影に包まれておりよく見えない。誰かいるのか?……近寄ってみて僕は後悔した。女を覆っていたのはただの影ではなかった。信じがたいことだが、無数の黒々とした「蝿」に、体中を集られていたのだ。数え切れないほどの蝿が、ブブ、ウブブとおぞましい羽音を立てている。僕は、恐る恐る目の前の気味の悪い塊に近づいた。ほとんど地の部分が見えないほど、何億匹もの蝿に身体を覆われ、まるで黒いカーテンが蠢いているようである。どうして、こんなことに……僕は、不思議な気持ちで立ち尽くしていた。その時である。急に女の頭と思われる部位がもぞもぞ動いたかと思うと、すばやい動きでぐるりとこちらを向いたのだ。僕は、そこから動くことができなかった。僕の目は、彼女に釘づけになってしまったのだ。それは見覚えのある顔だった。冷たく光る、その眼差し。銀色に輝く瞳。
「ああ……君は……」
枕元にある置時計をみる。時刻は七時半。なぜだろう、まるで寝た気がしない。朝倉政博(アサクラマサヒロ)は、ボサボサの頭をかきむしりながら、だるい身体を起こした。その姿のまま、キッチンへ向かい、冷蔵庫のオレンジジュースを一気に飲み干す。彼は、すぐれない気分に苛まれて、昨晩のことを考えていた。……ひどく気味の悪い夢を見たような気がしてならない。まるで、身体中を虫にでも這われたような、寝覚めの悪さが拭えないのだ。
政博は焼きあがったトーストをかじりながら、テレビの電源を入れた。なに、たかだか夢のことじゃないか。政博は興味のない朝のニュース番組を見ながら、大きく背伸びをした。……忘れよう。それよりも仕事だ。シャツをはおり、ネクタイを締めながら、ふと寝室の彼女を横目にする。穏やかな眠りについている妻。政博と妻の葉子は共働きだが、今日のような非番の日に妻は、決まって遅くまで寝ている。寝かせておこう……政博は、寝室の葉子には声をかけず、カバンを持って、玄関の扉を勢いよくあけた。
六月も終わりを迎えようとしている。朝だというのに、すでに外は蒸し暑い。エレベーターが回数をカウントする。5……4……3……2……1。階下に出て、空を見上げると、今にも雨が降りそうな、厚い雲に覆われていた。政博は憂鬱な顔で、マンションの入り口から前の通りに出ようとした。その際、自分のマンションの隅にあるゴミの集積場が目に付いた。溢れかえるゴミの山と、ゴミ袋の上を飛び交うどす黒い蝿の群れ……政博は慌てて目を逸らした。政博はこんな光景が大嫌いだ。朝から嫌なものを見てしまった、と彼は後悔した。こみ上げるような嫌悪感を抑えつつ、足早に駅へと向かった。
緋色の太陽が、西方の遥か彼方に姿を消そうとしている。ただいま、と言って重たい玄関の扉をあけた。辺りは暗く、すでに七時を過ぎている。政博は、滲む汗をハンカチで丁寧にふき取った。蒸し暑い外とは違って、室内はエアコンが効いており、生き返るような気持ちだ。
「おかえりなさい」
葉子が笑顔で迎える。小柄な彼女には、エプロン姿がよく似合う。
「ふぅ、今日も疲れたよ」
ぼやきながら彼は、すぐさまスーツを丁寧にクローゼットにしまい、シャツを洗濯機に入れた。
「……今日はなにをつくったの?」
「鶏肉の香草焼きよ」
葉子は、目を細めながら、後ろ手でエプロンをほどく。料理上手なかわいい妻が出迎えてくれる部屋。こういう瞬間、政博は結婚生活の喜びを感じる。
ダイニングキッチンのテーブルに、二人は向かい合わせに座った。
「今日もお疲れ様」
「やれやれ、お互い残業のある仕事はしんどいよな」
彼は、鶏肉を口に頬張った。妻のつくる上品な料理は、彼の心を穏やかにする。
「そうね」
「……これ、おいしいね。また、つくってよ」
「……ふふ、ありがと。そういわれたら、がんばらなくっちゃ」
彼女は、彼の様子に満足げな表情を浮かべた。
「……明日も仕事だよな?」
彼は、そっとナイフとフォークをテーブルにおいた。
「ええ。明日は遅くなるから、先に食べててね。私は向こうで済ませるから」
葉子は、澄ましたままだ。
葉子は、政博と結婚する前から今の仕事に就いており、政博以上に働いている。
「なぁ……」政博は何か切り出そうとした。
「なに、政博?」
無邪気な笑顔が返ってきた。政博は今日こそ、そろそろ仕事を辞めて家で主婦でもやったらどうかと言おうとして、飲み込んだ。
「いや、なんでもない。夕飯おいしかったよ。……片付けは俺がやるから、休んでて」
ガチャガチャと食器を洗いながら、政博は考えていた。葉子は製薬会社の研究部門で、遺伝子の研究をしているらしい。政博は、今の共働きをやめ、妻にのんびりとした生活をしてもらいたいと考えていた。しかし、結婚前から続けている今の仕事に彼女は誇りをもっている。下手な言い方をして、プライドを傷つけてしまってもいけない。だから、いつもなかなか言い出せないのだ。素直そうに見えて、葉子は頑固で凝り性なところがある。政博は、食器洗いの手を休め、肩をグルグル回した。お互いに残業も多く、すれ違う日々だ。それほど生活に困ってるわけでもなく、貯えもあるのに、これ以上共働きにメリットがあるのだろうか、というのが政博の本音だった。
――その時、彼の目の前を、一瞬黒いモノが横切った。
なんだ? 政博の動きが止まる。とたんに、不穏な気配が辺りを包んだ。政博はすぐ異変に気がついて、黒い物体の正体を探った。
それは大きな蝿だった。機械仕掛けのように、けたたましい羽音をたて飛び回る黒い影に、政博はうろたえ、慌てた。なぜ、台所にこんな大きな蝿がいるのか、考えている余裕もなかった。しかし、そうこうするうちに、たまたま開け放たれた台所の窓から、蝿は外へと逃げ出していった。
政博は安堵して、思わずため息をもらした。それから、台所をあちこち眺めた。まさか自分の家にこんな大きな蝿がいたなんて、信じられない。いったいどこから迷い込んだのだ。もしや、湧いてでたのか……彼はすぐに自身の考えを否定した。普段から、葉子も政博も清潔には気を配っているからだ。
「……どうしたの?」
葉子が心配そうな顔で、台所を覗き込んでいる。「いや、なんでもないよ」政博は頭をふって、苦笑いをした。
翌日も、外はどんよりとした鉛色の空だった。
5……4……3……2……1。エレベーターの中で時計を確認する。少し寝坊してしまった。急がなくては、と思いマンション一階の玄関にある自動ドアをくぐる。外はすでに小雨が降っていた。すこしも雨に濡れたくないと思い、政博は素早く右手に携えた傘をさした。水溜りに、止むことなく雨が落ち、波紋をつくっては吸い込まれていく。今日はこのままずっと雨なのだろうか。陰鬱な気持ちを抱きながら、外にある駐輪場の隣の、ゴミ集積場を横切っていった。
「ん……?」政博の嗅覚を何かが刺激した。気のせいかと思い、立ち去ろうとする。しかし、やはり気のせいではなかった。明らかに卵の腐ったような異臭がするのに気がついた。それと同時に、臭いの原因もすぐにわかった。黒っぽいひどく薄汚い服を着た初老の男が、ビールの空き缶と思われるゴミでいっぱいになった袋を両手に二つ抱え、よろよろと横切っていくのが見えたのだ。そして、男の後を追うようにして、異臭が通り抜けていった。
政博は眉間に皺を寄せ、嫌悪感を顕にした。自分のマンションにあんな男が住んでいるのか。いや、そんなはずがない。きっと近所の性質の悪い住民が、うちのゴミ置き場を勝手に利用しているに違いない。まったく不愉快だ。政博は駅までの狭い路地を急いだ。
夜になっても、今朝から降り続いた雨は止むことを知らず、外は依然蒸し暑いままだった。スーツの上着を脱いで、シャツの袖をまくっても、じんわりと汗が滲んでくる。皮膚にまとわりつくような湿気に、政博は苛立ちを覚えた。嫌な季節だ。
「ただいま……」がらんどうの部屋に、帰ってくる声はない。帰宅する頃には、時計の針も八時を過ぎてしまっていたが、家には誰もいなかった。葉子はまだ仕事のようだった。残業ともなると、彼女の帰りは夜十時を過ぎることも珍しくない。やれやれ……少し寂しい気もするが、仕方ない。政博はネクタイの結び目を緩め、ソファに身体を任せた。何か食べよう。スッと立ち上がり、台所に行こうとして、彼は違和感に気がついた。――どこかから漂ってくる臭い。何の臭いだ? 何かひどく生臭いような……。政博は一瞬今朝の出来事を思い出して、慌てて頭をふった。しかし、事態は政博が想像したより深刻だった。
台所は、変わり果てた姿となっていた。
彼を迎えるように漂う、悪臭。そして、目の前を無数に飛び交う、何か。
「……蝿だ」
政博は愕然とした。妖しい光沢を放つ、黒く醜いからだは、まさしく厭らしい蝿に他ならなかった。蝿は、不気味な羽音を立てて、うじゃうじゃと、縦横無尽に飛び回っている。あるものは彼の目の前を高速で横切り、あるものは汚れのない白いタイルを這い回っている。見ると、黒山の蝿たちは、本来の宿主を食い尽くすほど増殖した寄生虫のように、食べかけのリンゴに集っていた。
黒い塊となって蠢く蝿と、腐敗集のような、強烈な生臭ささ……。昨日とはまるで変わってしまった台所の中で、政博は呆然と立ち尽くした。しかし、蝿の一匹が、彼の頬に止まり、厭らしい舌を彼の皮膚に延ばしたとき、ようやく政博は、我に還った。
政博は、声にならない声をあげ、急いでベランダに向かった。確か、観葉植物に使う殺虫剤があったはずだ。政博は殺虫剤を手にすると、慌てて台所に乗り込み、リンゴめがけて思い切り殺虫剤を吹きかけた。うようよとたかっていた黒い虫達は、慌ててリンゴから飛び立つも、すべて殺虫剤の餌食になってしまった。政博は、なおも声を上げながら、台所に飛び交う不穏な影を追って、執拗に殺虫剤を撒き散らした。……数分して、ようやく辺りは静けさを取り戻した。
政博は、頭を抱えたままその場に座り込んだ。なんてことだ、まさか、我が家で蝿が湧くとは。しかも、あのような、どす黒い汚らしい蝿……政博は、嫌悪感と不快感のあまり眩暈がした。同時に、無性に腹立たしさがこみ上げてきて、いてもたってもいられなくなった。政博は勢いよく立ち上がると、シンクの上に放置され、無残に変色したリンゴを、皿ごとゴミ袋に放り込んだ。それから、綺麗に磨かれた台所のフローリングに残る、黒い死骸を、丁寧に一つ一つティッシュで掴み、ゴミ袋に捨てた。さらに、台所の床、それから壁のタイルを雑巾で磨き、台所に置いてあった食器の一つ一つを丁寧に洗った。そうでもしなければ到底気がすまなかったのだ。
一連の作業を終え、大きなため息をついた。台所に残る生臭さと殺虫剤の臭い。政博は異様な疲労を感じ、そのままリビングのソファに横になった。
「……政博?」
ぼんやりと、誰かの声が聞こえる。
「…………」
「政博、こんなところで寝てちゃダメよ」
葉子だ。
心配そうに政博の顔を覗きこんでいる。
「……ん、ああ、うん……」政博は、ゴソゴソとソファから起き上がった。壁の時計を見ると、いつの間に十時半を過ぎていた。政博はひどく重たい身体を持ち上げた。
「……今帰ったのか?」
「ええ、ついさっき。それよりも、あなたそんなに汗だくになって、一体どうしたのよ? どこか悪いの?」
頭に手をやると、額にはじっとりと汗をかき、帰ってから着替えたTシャツも汗で随分湿っているのがわかった。
「……ああ、いや、なんでもないんだ……」
「……仕事で疲れてるんじゃない? シャワー浴びてきたら?」
そういって葉子は、そっとバスタオルを渡した。
「……すまん。ありがとう、そうするよ」
「明日も仕事なんだから、無理しないでね」葉子は、大きな瞳を細めてにっこりと笑ってみせた。優しいその言葉に、政博の気持ちも安らいでいった。
暖かいシャワーを全身に浴びながら、政博は虚ろな考えを巡らせた。……きっと、朝食べたリンゴをそのままにしておいたのがいけなかったのだろう……これからは気をつけなければ……そうすればこんなことにはならないはずだ……。暖かいシャワーの湯が、悪夢のようにまとわりついた感覚を、爽やかに洗い流していった。
外は薄暗く、今にも雨が降り出しそうである。気温も高く、蒸し暑い日が続いている。
「……ええ、ですので、この用紙のここに記入してください……」
金曜日ということもあって、市役所の窓口はいつになく込みあっている。息つく暇もなく、次から次へと市民の要望を聞き、事務処理をし、新しい来訪者の対応をこなす……それの繰り返しだ。政博は、つくづくクーラーの効いた室内での仕事に就けてよかったと思った。
梅雨も半ばを過ぎ、やがて夏を迎えるこの忌まわしい季節。蒸し風呂のような中で、一日中汗にまみれながら外で働くなど、自分には到底考えられない。たとえ一日中パソコンの画面に向かう日が続いても、たとえクレームの対応に追われようと、外での作業に比べらたら何十倍もマシだ。そういう意味で、役所内での業務は政博の性に合っている。
政博が書類をまとめて、課長の元へと向かおうとした。ところが、一瞬手元が狂い、バラバラと書類が下へ落ちてしまった。彼は、眉をしかめ思わず舌打ちをした。
「大丈夫? 朝倉君、疲れてるんじゃない?」
膝をついて屈んでいる姿勢のところへ、先輩の女性職員が声をかけてきた。
「いえ、大丈夫です」政博はにこやかに会釈し、素早く書類を拾いなおし、立ち上がってスーツの埃を払った。週末の疲労、人の多さ、それから天気、温度、湿度……これらとフラストレーションは密接に関係しているらしい。政博は気を引き締めて課長のデスクに向かう。
「すまないね、朝倉くん」課長はいつもの澄ました表情で書類を受け取った。
「失礼します」軽く会釈をして立ち去った。自分でも、神経が苛立っているのがわかる。落ち着いて、冷静に行動しなければ。
正午を過ぎ、政博は休憩をかねて自分のデスクに戻ることにした。気分を変えて、弁当でも食べよう。そう思い、カバンに手を延ばす。ふと、隣の机が目に付いた。同僚の、澤木のデスクだ。様々な書類がなすすべなく散乱している中に、食べっぱなしのコンビニ弁当の容器と割り箸がそのまま放置してあった。
政博は、またも舌打ちした。まさしく惨状としかいいようがない。政博は、無視をして、自分の昼食に取り掛かろうとしたが、どうしても隣の机が視界に入ってしまう。ついに我慢ならず、彼はデスクの上に無造作に投げ出してあるゴミを掴み取り、急いで給湯室までいき、流し台で容器をザブザブと洗った。そして、自分の部署に戻ってくるや否や、弁当の容器を「プラスティック製容器包装」のゴミ箱に、割り箸を「燃えるゴミ」のゴミ箱に投げ入れた。
さて、これでようやく一息つける。彼は再び弁当を広げた。
政博のきれい好きは今に始まったことではない。机には余計な書類、書籍、紙、文房具など一切のっていない。必ずそれぞれ所定の場所に整頓している。書類なら、プラスティック製のトレイへ、文房具なら引き出しの一番上へ、書籍はブックスタンドへ……癖といえばそうだが、それらが、きちんとあるべき場所にないと気になってしまう。日に二、三度は自分の机周りを整頓をするように心がけている。そのため、嫌でも隣接しいている澤木の机の乱雑ぶりが目につく。特に、食べ散らかしたゴミが置いてあるなど、政博の感覚からすれば、到底理解できない。
しかし、そうこうしているうちに、額の汗をハンカチで拭いながら、息を切らせた大柄な男がやってきた。澤木だ。
「やあ、やあ、朝倉くん」
右手をちょいと挙げて、その家畜のような巨体を左右に揺らしながら政博の目の前にやってきた。政博が呆気にとられているのを他所に、そのまま、ドシンッ! 隣の椅子に大きな音を立てて腰掛ける。澤木は、よく言えば、鷹揚としているというか、おおらかというか、そういった表現になるのだろうが、政博にとってはそれが許せないときがある。特に今日のような日には。
「あれ? 昼食のゴミがなくなってるなぁ……あはは、いつの間に片付けたんだか」
今もこんな調子である。
政博は軽く咳払いをして、弁当を包んでカバンに戻し、席を立った。
「あれ? 朝倉くん、まだ途中じゃないの?」
「今日は気分が悪いんだ」政博は俯き加減に答えた。
澤木は決して悪い男ではない。ましてや、ここは同僚をも蹴落とさんばかりに業績を上げようとする民間企業とは違う、公務員の職場。同僚とは和気藹々と仕事をすることが望ましい。確かに政博はきれい好きだが、それを他人にまで押し付けようとは思っていなかった。そういう類の人間は、たいがい他人から疎まれてしまうものだ。だが、今日のように神経が逆立っている日には、澤木の行動がいちいち癇に障る。
「いらないなら、僕が食べてあげようか。あははは……」
政博は澤木に一瞥食らわせて、洗面所に向かった。到底、澤木の相手をする気分になどなれない。洗面所でバシャバシャと顔を洗う。
政博の神経は、過敏になっていた。
土曜日の朝は、振り止むことのない雨模様になっていた。小鳥のさえずりの代わりに、雨音が彼の目覚ましとなった。政博は、灰色の鈍い外の日差しを浴びながら、憂鬱な気持ちで、ベッドから起き上がった。時刻は十一時。もうこんな時間か。いくら休みだといえ、こんな時間まで寝ているのは、だらしがない。少し後悔して、鏡の前で身支度をしながら、自分の顔を眺めた。目の下が少し黒ずんでいる。やはり、疲れているのだろうか。
政博は急いでパジャマからジーンズとTシャツに着替えた。裾をたくしあげ、雑巾と洗剤を両手に持つ。準備は万端だ。キッチンのシンク、排水溝、トイレの床と便器、浴槽、フローリングの床の隅から隅まで、きっちり磨き上げる。それこそ、塵ひとつ、残らないように。きっと気づかないところに、残飯や汚れが残っているから、おぞましいものが湧くに違いない。まだ新しいリビングも、キッチンも、何もかも自分達の空間であり、領域だ。完璧でなければならない。異物が紛れ込む隙など、あってはならない……政博は憑りつかれたように部屋の隅々を見て回った。
雲間から、うっすら月明かりが差し込んでいる。
政博は、誰かの声で目が醒めた。
白濁した意識のまま、仄暗いリビングに向かう。声だと思っていたのは、テレビから流れている音だった。
「……葉子?」
政博は呟いた。室内は灯りもついておらず、ただ青白いテレビの液晶画面だけが、存在を主張していた。
テレビの画面には、荒涼とした風景の中をひたすら歩く、中年の男女が写されている。
「……葉子」
聞こえていないのかと思い、政博は、テレビの前で膝を抱くように座る彼女にもう一度声を掛けた。
「……何?」
そっけない返事が返ってきた。政博は、やり場もなく、彼女の後姿を眺めた。
テレビからは、外国の言葉が聞こえてくる。
「何を見ているの?」
政博は、ためらいながら尋ねた。「……フランスのね、映画よ。」葉子は膝を抱えたままこたえた。時計の針は、すでに二時を過ぎていた。
「映画……?」
なぜ、こんな時間に一人で見ているのか聞こうとして、飲み込んだ。葉子は、容易には踏み込めないような雰囲気を漂わせていた。
映画はクライマックスのようだった。男性と女性が向かい合い、何かを話している。栗色の長い髪を棚引かせた女は、真に迫る表情で男に食いついているが、白髪交じりの男は、あくまで淡々としている。
政博は、ソファの横を通ってテレビの前まで来た。
「いったい、何の映画……?」
葉子は、前を向いたまま、ぼそぼそと呟いた。
「……これは、ある夫婦の物語なんだけど……十数年連れ添ったこの夫婦はね、それなりに幸せな生活を送っていたの。でも、妻のニコールは不満だった。親切だけど、口数が少なく、いつも本音を見せない夫に、彼女は嫌気が指したのね。それで、別れようと決意していた。でも、そんなとき、危機が迫ったの。自分たちの国で戦争が始まったんだ。それで、二人は故郷を捨て、亡命しようと試みたの」
ちょうど画面には、上空から戦闘機が激しい爆撃を加えているシーンが映されている。木々はなぎ倒され、街はあっという間に吹き飛び、人々は跡形もなく命を散らしてく。
「……ニコールは、いよいよ自分たちの命が危ないというときになって、最後の気持ちを夫にぶつけたの……でもね。そんな妻の気持ちを察したのか、それまで、まるで妻には無関心かのように振舞っていた夫も、自分の真実を話したのよ。」
葉子は独り言のように、話を続けた。
「……彼には、隠していたことがあった。数十年前、妻ニコールのもとに現れたときからね。それは、彼が人間ではないという事実。彼は、この人間の世に降り立った地獄の主、ベルゼブブだったのよ。」
地獄の王、ベルゼブブ――聞いたことがある。聖書に出てくる、蝿を統べ、人間の魂を支配する悪魔だ。
「……いままでの生活、いままで彼女が知っていた夫の人間の姿は、すべて仮の、偽りの姿だったの。すぐそこまで迫り来る爆撃の中、ニコールは立ち尽くした。……でも、彼は続けた。」
長針の音が、妙に場違いに大きな音を立てている。
「……自分は、この目で、この世界の実情を見た。わたしは地獄からやってきた悪魔の王だ。地獄には罪深い人間たちの魂で溢れている。だが、気がついたのだ。人間同士が、自らの欲望のためだけに殺しあうこの世界。この現世こそ、まさしく、地獄だ。欲望と破壊に塗れた、地獄そのものに違いない……。」
政博は、ただ黙って彼女の横顔を眺めていた。
「……ニコール。君のことをだましていて、本当に済まなかった。だが、今言ったことは、わたしの真実だ。そして、君には感謝している。今までのことはすべて忘れて、どこへでも行くがいい。……彼は言い放って、背中を向けたの。でも、ニコールはそっと彼の後についていった。そして言ったの。……今になっては、もうあなたが地獄の王だろうと構わないわ。……どうせ、行くところなんてないんだから。地獄でもどこでも連れてってよ……って。」
ちょうど、瓦礫の山を歩く二人の男女をバックに、淡々とエンドロールが流れていた。
「……あなたは、この世が地獄だと思う?」
唐突に、葉子が月明かりに照らされた白銀の瞳をこちらにむけた。政博は、心臓を握られたようにその場から動けなかった。
「僕は……」
政博は戸惑い、思わず彼女から目を背けた。
「ふふふ、うそ。冗談よ。……ごめん、起こしちゃって。さ、寝ましょう」
そういうと、葉子はいつもどおりの笑顔を彼に向け、寝室に向かった。
政博は、あっけにとられて、しばらくテレビの青い画面を食い入るように眺めていた。
――翌週
季節は一段と夏に向かい、地の底から這いだしてくるような蒸し暑さに包まれていた。まるで、灼熱の地獄の蓋が開いてしまう前触れであるかのように。政博は早々に仕事を切り上げ、家路を急ぐことにした。市役所から駅までは、歩いてもそう遠くない距離だ。しかし、たかだが十分足らずビル街を歩くだけで、体中から汗が噴出してくる。政博は、ハンカチで額や首筋を何度も拭いながら、急いで自宅方面の電車に乗り込んだ。
青緑のシートに腰掛け、クーラーの風を浴びながら、ため息をついた。いつまでこの暑さと嫌気のする湿気が続くのだろう。考えていると尚更気が滅入る。ようやく汗もひいてきたところで、政博は窓の外を眺めた。電車は混沌としたビル郡の間を縫うように走り抜ける。そんな街並みも、現れたかと思うとすぐに遠くの暗闇に流れ、吸い込まれていく。もうじき夜が訪れようとしていた。
夕暮れの空を見上げると、燃えるような深紅から濃い藍色に染まりつつある。政博は、車や人の群れでごった返す大通りを抜け、自宅への近道となる裏路地に入った。華々しい大通りとは趣が異なり、裏路地には、古い平屋や商店、くたびれたアパートなどが、ひっそり立ち並んでいる。夜ともなれば辺りは暗く、人家の明かりと街灯がぼんやりと燈っているだけで、あとはどこまでも深い闇だ。
当然、人通りもなく、時々、周辺の住民と思われる人影と無言ですれ違うだけである。政博は、少し早足で歩いた。人々の家からは橙の白熱灯の明かりが漏れているが、まったく頼りにはならない。すでに、辺りは漆黒の世界である。電信柱の影、塀の隙間、公園の街路樹……きっと、あの光の当たらない部分には、何か得体の知れないモノが潜んでいるに違いない。そう思うと、言い知れぬ不安が込みあげてくるのだ。
ガチャン、重い扉を開く。「ただいま……」その声も空しく響くだけだった。葉子は、今日も残業のようだ。葉子の勤めている製薬会社は、もともと残業の多い会社で、普段から家を空けていることが多かった。だが、ここ最近は、残業も長引いているようである。葉子は「今ある画期的な薬の試験段階で、主に遺伝子操作の実験をしている」と話していた。おそらくそれが原因なのだろう。少々気にはなったが、お互いに仕事のことだ。あまり詮索するのもよくない。政博は、考え事をしながら、自分の夕食に取り掛かった。今日は、鮭のムニエルだ。葉子はすぐには帰ってこないだろう。二人分用意したもうひとつのムニエルをラップに包んで、静かにテーブルに置いた。
政博は夕飯の片付けを済むと、リビングの白い革製のソファで横になった。仕事の疲れからなのか、そのままうつらうつらとしていた。彼は完全に油断していた。気がつくのが遅すぎたのだ。
心地よく寝ているその足に、妙な感覚が走る。何だ? 政博は一瞬にして目が覚める。くすぐったい。何かが、足を触れている? 何だろう、一体……。
政博はようやくその事実に気がつくと、慌ててソファから飛び起きた。恐る恐る、寝ていた場所を注視する。すると、白い革製のソファに、一点だけ大きな黒い染みがある……何だろうか? いや、染みではない。むしろ、染みならばまだ救われたのに。確かに、それは動いている。カサカサと気味の悪い、おぞましい音を立てて。
政博は、今まで出したことのない声を上げ、白いソファから飛び降りた。
大きなゴキブリだ。
「嘘だ……」声は震えていた。信じられない。まさか、自分の部屋にゴキブリが出るとは。途端に脂汗が噴出してくる。ゾワゾワと猫の毛のように皮膚がささくれ立ってくる。どうする? なんとか殺してしまわなければ。もう直視するのも御免だが、あのような黒くて嫌らしい虫がいつまでも部屋を徘徊しているなんて、今にも気が狂いそうだ。政博は、音を立てないように、恐る恐る近づいた。憩いの場所だったはずの白いソファも、今では呪いの儀式が行われた祭壇のように、忌々しく、近寄りがたい。
政博はなんとか、ソファのすぐ手前まで忍び寄った。そっと、彼が先ほどまで寝ていたところを眺める。……いた。見間違いではなかった。黒い虫は、蛍光灯の光を反射し、黒々と鈍く輝く翅を携え、長くたなびく触角を、まるでそれ自身が独立しているかのように動かしている。政博は、戦慄が走り、身体を震わせた。しかし、このままほっておけば、今にもソファのクッションの隙間に入り込んでしまいそうだ。それだけは何としても避けなければ、と政博は焦り、辺りを見回した。何か、奴の息の根を止められるものは……ちょうど、ソファの前に置いたガラス製のローテーブルの上にある、週刊誌が目に付いた。政博は考える間もなく。右手で週刊誌を掴んだかと思うと、ゴキブリ目掛けて投げつけた。
破裂するような音が響いた。ソファの上で蠢いていたゴキブリは、見事に雑誌の下敷きになったのだった。
投げつけられた雑誌の下で、黒い虫はまだピクピクと触覚や足を動かしていたが、やがて動きを止めた。黒く扁平だった虫のからだは、雑誌の圧力で四散し、黄色い汁を飛び散らせていた。もし、これが人間だったらとっくに事切れてしまうだろう状態なのに、黒い扁平な生き物は、まだ触覚や足先を小刻みに動かしていた。こうなると、とてもこの世の生き物とは思えない。
政博は、吐き気を催して、慌ててトイレに駆け込んだ。狭い空間の中で、朦朧とした頭を抱えながら考えていた。きっと、あいつらは人間の立ち入れない暗黒の世界からやってきた悪魔なのだ。政博の頭にそんな妄想が過ぎり、両手で口を塞いだ。まるで酷い悪夢でも見ているようだ。いや、まだ悪夢の方がマシかもしれない。
数分後、政博はこみ上げる不快感と吐き気に襲われながら、両手にゴム手袋をして、さらにティッシュペーパーを何枚も重ねて、真っ黒な死体を掴み、すぐさまティッシュごとゴミ袋に投げ入れた。さらに、ゴミ袋を何重にも結び、二度と出てこられないようにした。政博はぐったりとしながらフローリングを見渡した。もしかしたら、またアレが……そう思うと、気が気でない。彼の神経は依然逆立ったままだった。血走った目を見開いて、少しも見逃さぬように周囲を見張る。もはや部屋に安心できる場所はなくなってしまった。政博は疑いの目をもって、テレビの陰、オーディオの裏、本棚の脇などなど、隈なく確認した。
しばらくして、政博はおずおずと廊下へ移動した。リビングと同じくフローリング張りだったが、ここなら影になるような物も置いていないし、何かいたとしてもすぐにわかる。政博は、廊下の白い壁を背にしてへたり込んだ。絶望的な気持ちのまま、虚ろに廊下の蛍光灯を眺めていた。
その時、廊下の向こうにある玄関で大きな音がした。政博は一瞬身体をびくつかせた。「ただいま」と小さな声がする。葉子の声だ。
廊下の真ん中でぐったりとへたり込んでいる夫の異変に、彼女はすぐに気がついた。濃灰のパンツスーツにハンドバッグを片手にしたまま、政博の顔を覗きこんだ。
「どうしたの? こんなところで」葉子は、ショートカットの茶色い前髪をそっと左手でかきわけながら、小首を傾げ心配そうな目をした。政博は、呆然と彼女の顔を見上げながら、口を動かす。しかし、うまく声が出ない。
「こんなところで座ってないで、向こうで休みましょうよ」
葉子は政博の顔を覗きこんで、そっと左手を差し出した。
政博は、震えたまま葉子の手をきつく握って、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、彼女のか細い両肩を掴んで揺らした。
鬼気迫る表情で葉子に食いついた。
「……どうしたのよ?」
彼女はきょとんとしたままだ。
「……ゴキブリがいたんだ! あのソファのところに!」
政博は明らかに狼狽していた。二つの目は飛び出さんばかりに見開かれ、顔はひどく歪んでいるように見える。まるで、目の前で人が殺されるのを見てしまったかのように。
「……あら、そうだったの。嫌ねぇ」
しかし、そんな政博の様子をよそに、彼女はあくまでマイペースに頬を摩った。
「どうにかしないと!」
「どうにかって、どうしようもないじゃない。夏なんだから虫くらい出るわよ」
葉子はあっさりと微笑み返して、リビングに行こうとした。しかし、政博の過敏な神経はショートしたままだった。
「……おかしいじゃないか、ゴキブリがでるなんて!」
政博は大声を出した。葉子は驚いて、身体を硬直させた。大きくて、印象的な瞳は見開かれていた。
政博は、妻の様子にすぐ我にかえった。
「すまない、つい、その……」気まずい空気が二人を包んだ。政博は、俯いたまま口を噤んだ。
「……もう、しょうがないわね。気持ちはわかるけど、あなたは、ちょっと気にしすぎるのよ」
葉子は腰に手をあて、ため息をついて、政博の肩を優しくさすった。
そのまま彼女は、うなだれた姿勢でいる政博をダイニングに連れていった。
「ムニエル作ってくれたんだ。ありがとうね」
葉子は、レンジでムニエルを温めながら、ダイニングの椅子でうなだれたままの彼に暖かいコーヒーを注いだ。
「あんまりカリカリしたらダメよ?」妻はあくまで優しい口調だった。これで落ち着いてね、と政博の前にコーヒーが置かれる。
「ごめん……」政博はマグカップを持ちながら、少年のように小さくなった。
「いいのよ」
葉子は微笑んで、彼の目の前に座った。
政博は、いくら切羽詰っていたとはいえ、妻に大声を上げてしまったことを心底後悔した。確かに、自分は細かいことを気にしすぎるのかもしれない。
神経質なことは自分でも自覚があった。部屋を含め身の回りはいつも清潔にしていたし、付き合う人間も、注意深かく選んでいた。一方、葉子は政博とは正反対の性格をしていた。おおらかであり、あまり細かいことは気にしない。そして、誰とでも分け隔てなく付き合うタイプである。葉子は、神経質な政博の正確をよく知っており、いつもフォローしてくれていた。
葉子のおかげで、政博の過敏になりがちな神経の苛立ちも、和ぐのだった。葉子は、政博の拠り所だった。
外は、雨の後の分厚い雲がようやく東の方角に流れ、雲間には赤々と燃えるような空が見える。美しいはずの夕焼け。だが、今日は鈍色に見え隠れする鮮やかな赤が、不吉な予兆に思える。仕事帰りのだるい身体をひきずって、政博はようやくマンションに着いた。
憧れの一等地に借りた十五階建てのマンション。しかし、誇らしい姿も、今はなんとなく不気味に感じる。政博は後ずさりしながら、エントランスにある自動ドアの前で、空に吸い込まれそうなほど巨大な黒い建物を見上げた。最上階の方は、夕闇に隠れ地上からでは眺めることすらできない。徐々に視線を下に戻していくと、壁面にそって規則正しく並んでいる突き出したバルコニーと、その奥にある部屋の窓がみえる。窓の奥は暗くて何も見えない。そんな黒くて深い穴が最上階から順にいくつもいくつも開いている。そして、ひとつひとつが異界の入り口であるかのように、無言で口を開いている。「禍々しい光景だ……」政博は一人呟き、自動ドアをくぐった。
エントランスは、まだ電気も燈っておらず薄暗い。政博が自動ドアをくぐったのと同じタイミングで、エレベーターの脇の階段を、誰かが下りてきていた。彼は気にせずにエレベーターの前に立っていた。やがて上階からやって来た影と、政博の背中とがすれ違う。その瞬間、異変に気がついた。
異臭だ。異臭がする。まるで、生ゴミに頭を突っ込んだような、耐え難い臭い……政博は慌てて、その人影を目で追った。ひどく薄汚れ、黒ずんでいる中年の男。数日前、マンションのゴミ捨て場にいた男だ。政博は、見てはいけないものを見たような気がした。信じがたいことに彼もこのマンションの住人だったのだ。政博は思わず身震いをした。
1……2……3……エレベーターは何も言わずに階数だけをカウントしている。仕事も終わり、すぐに部屋に着くというのに、政博の気分は一向に晴れない。些細な日常の変化は、着実に彼の精神を蝕んでいた。
「505号室」にたどり着き、まずはドアノブを握る。ガチャリ。ドアノブは彼を拒否した。妻が帰ってきているなら、ドアが開いているはずだ。政博はおもむろにスラックスのポケットに手を突っ込んで、家の鍵を取り出した。
誰もいない、真っ暗な部屋。
また、あの虫がいたら……そう思うと、無防備に部屋に侵入するわけにはいかない。まずは、玄関と廊下の電気をつける……艶めいた栗色のフローリングも、白い壁紙も、いつもの調子だ。続いて、廊下側からリビングの電源にそっと手を延ばし、スイッチを入れ、明るくなった室内の全体を見回した。見たところ、何の異常もない。しかし、これだけでは安心できない。次に衣類棚と本棚の下、ローテーブルの下、椅子の陰、床の隅から隅、そして、ソファの周囲まで、一切漏れがないように見て回る……とりあえず悪夢の再来はないようだ。気が済むまで部屋を見回った後、彼はようやく安堵した。一挙に疲れが押し寄せてくる。政博は、勢いのまま、ドサッとカバンを床に置いた。
「……なぁ、葉子」
政博は寝室から顔を出して、スーツ姿のままダイニングでコーヒーを飲んでいる妻に話しかけた。
「なぁに? 寝てていいよ?」
「今日も随分遅かったんだね」
「ええ、仕事が重なってね」
葉子はコーヒーの渦を眺めたままこたえた。
「……前から聞こうと思ったんだけど、君は何の研究をしているんだ?」
政博は、戸惑いながら尋ねた。
「今はね、ある画期的な薬の試験をしているの。……もし、その製薬が完成すれば、人類にとって最大の功績を残すかもしれない……」
「そんなに、すごい研究を?」
「ええ、もう少しなの。あの実験が臨床段階で成功すれば、もう少しで、すべてが……」
葉子はとり憑かれたように、話した。
政博は、彼女の様子に、何か異様なものを感じた。
黄土色の景色の中で、僕は一人佇んでいた。
遠くには、黒山のビル郡がいくつも聳え立っている。どこからか、工事の音がしている。
僕は辺りを見渡した。瓦礫の山があちこちに積み重なっている。ただただ、荒涼とした場所だ。まるで人の気配がしない。
いったい、ここはどこなのだろう?
僕は、歩き出そうとした。だが、身体が重く、思うように動かせない。何かを告げるような工事の無機質な機械音が響いていた。僕は、まったく途方にくれてしまった。一体、ここは……。
僕は、絶望した。そして、芋虫のようにあてもなく歩いた。しばらく、黄土色の景色を彷徨って、ようやく瓦礫の山の向こうに誰かが佇んでいるのが見えた。黒っぽい髪を肩まで伸ばした、少女と思しき人影だった。僕は歓喜して、影のもとに急いで駆け寄った……つもりだったが、思うように身体を動かすことができない。よろよろと、すがりつくように少女の影のもとへ向かった。
「……ここは……どこですか?」
僕は精一杯話しかけた。
「…………」
聞こえているのかいないのか、少女は俯いたままだった。
「あの……」
少女の横顔は、暗くてよく見えない。
「……そんなこと、どうだっていいわ」
投げやりな言葉が返された。黄土色の月光が周囲をぼんやりと照らし、二人分の黒く長い影が延びる。遠くで、一際大きな機械音が響き渡る。
「……それよりも、もっとわたしを見て」
少女は、華奢な黒髪を靡かせて、こちらを振り向いた。それまで顔に掛かっていた深く暗い影が移動する。政博は、月の光によって浮かび上がった顔を見て、思わず声をあげた。
「ああ……君は…… 」
冷たく輝く、銀色の瞳。
そのときだった。足元から、何かが這ってくる感覚がする。全身の神経という神経がいっせいに反応し、警報を鳴らしている。何かがいる。何かが集まってくる。つま先から、膝から太もも、手指、腕と肩、胸、そして首……ギラギラとした厭らしい玉虫色の光沢を携えた黒い虫……蝿だ。蝿が、僕の身体中を覆っているのだ。僕は恐ろしくて、すぐに逃げ出そうとした。だが、その場から一歩も動くことができない。無数の黒い虫は、溢れかえり、瞬く間に身体を占領した。僕は全身を震わせ、対抗しようとした。だが、ついに蝿たちは、顔にまでたかりだした。もはや、逃れることはできない……。
(……止めろ! 止めてくれ!……)
政博は飛び起きた。
全身が汗にまみれ、動悸が治まりそうにない。深呼吸をし、心臓に手を当ててみる。呼吸が荒く、喉も渇いていた。政博は慌てて、自分の寝ていた周囲を確認する。乱れた寝具は、自らの汗でぐっしょり濡れていた。ようやく先ほどまでの体験が夢だということに気がついた。隣では葉子がすうすうと寝息をたてている。……何もおかしいところはない。
ただの夢だ。ただの夢に違いない。しかし、目が醒めたというのに、夢の中のリアルな感覚に脅かされていた。そして、政博の脳裏には、ある言葉が浮かんだ。
(蝿の王、ベルゼブブ……)
市役所は正午を過ぎ、訪れる人も疎らだ。空調の無機質な音が静かに響き、市政をアピールするイメージビデオの映像が延々と流されている。政博は、受付のカウンターから立ち上がり、自分のデスクに戻る。黒縁眼鏡によくセットされた髪、痩せた身体、アイロンのきいたシャツに細いスラックスと、いつもどおりの格好だったが、目には一際大きくて深い隈が刻まれていた。結局、あの晩はあの夢を見てから一睡もできなかったのだ。休憩を兼ねて、昼食用のパンとジュースをカバンから取り出す。ひとつ手にとって、袋を開けようとしたが、ポトンと机に置いた。到底食欲が沸きそうにない。ただの夢の話じゃないか。夢見が悪いというだけで、これほど追い詰められているなんて、我ながら情けない。しかし、昨夜のあの夢には、何か異様な現実感が伴っていたことも確かだ。
ため息をつきながら、横目で隣のデスクを見る。同僚の澤木が、椅子からはみださんばかりに肥満体のからだを椅子にめり込ませて、ガツガツと弁当をかきこんでいる。暴食という言葉がよく似合う男だ。政博は、心底嫌気がして、咳払いしながら席を立った。
「おーい! 朝倉君。お昼食べないのかい? 身体に悪いよ!」
デスクから離れようとした政博に、澤木が呑気に話しかける。
「……いいんだ。よかったら、君にやるよ」
そういって、政博は彼にお昼のパンを投げるように渡して、スタスタと歩いていってしまった。澤木は呆気にとられた顔で、彼の後姿を眺めた。
通りかかった同僚の女子職員も同じように首を傾げていた。
「朝倉君、最近なんだか変だと思わない?」
「うん、僕もそう思うよ。なんだか、カリカリしてるっていうか……」
澤木は丸っこい両手を胸の前で組んで、うんうんと頷いた。
「何かあったのかしら?」
そんな同僚の会話をよそに、政博は管内から外へと出た。
いつのまにか、あんなに分厚かった雲もどこかへいき、無防備なアスファルトの塗装に、容赦ない夏の日差しが降り注ぐ。もうすぐ梅雨が終わり、灼熱の季節がやってくる。もしかしたら、夏という季節はどこかで地獄と通じているのかもしれない。人々をその炎でいたぶり苦しめる。もちろん、あの灼熱地獄を逆手に楽しんでいる人間は大勢いるが、政博はそういった部類ではない。政博は、澄み切ったコバルトブルーに燦々と照りつける太陽を、忌むべきもののように睨みつけ、また建物へと戻った。
夕方ともなれば、幾分暑さも和らいでくる。しかし、快適というには程遠く、いまだ居座っている夏の空気がじわじわと人々を苦しめていた。政博は、ようやく仕事を終え、急いで電車に乗り込んだ。電車の車窓からは、もうすっかり闇に包まれたビル街。ギラギラしたネオンの妖しい光が夜の街を照らしている。
前を見ると、車窓のガラスには、ひどく疲れた顔をしている男が映し出されていた。
完璧だったこれまでの日々。立地条件のいい、清潔で、広い我が家。美人で評判の妻。ミスひとつなく処理してきた自らの仕事……しかし、あの日見た不気味な夢をきっかけに、すべての歯車が狂ってきている。なぜだ? なぜこうなる? 政博はガラスに写った自分の顔から目を背け、頭をくしゃくしゃと掻き毟った。
「明日も全国的に梅雨の晴れ間が続き、蒸し暑くなるでしょう。それでは各地の天気を見ていきます。関東地方……」
テレビをつけてから、ソファに腰を掛けようとして躊躇した。すっかりいわくつきとなってしまったこのソファでは、もはやリラックスすることはできない。政博はソファを離れ、浴室へと向かい、スライド式のガラス戸に手を掛ける。
しかし、政博は異変を感じた。なぜだろう?何かすえたような臭いがする。嫌な予感がして、そっと浴室のドアを開けた。風呂場からは、何日も掃除をせず、湿気がこもり、青黴があちこち繁殖したような、鼻腔を刺激する異臭が充満していたのだ。
(……何だこれは?)昨日入浴したときとは、まったく様子が変わっているではないか。政博はたまらず、慌てて浴室内の窓ガラスを開け放った。5階からの景色がやけに煌いてみえる。浴室にはまだ臭いが立ち込めていたが、幾分マシになった。
「なんだっていうんだ……」
思わず声に出してしまった。なぜ、こんなにも不気味な事態が次々に起こるのか、まるで理解できない。政博は、ムシャクシャしたまま浴室を出て、シャワーも浴びずに布団に包まった。
布団に入っても、しばらくは眠ることができなかった。
異常な変化が起こっている。
何かが起こる前触れ、「兆し」であるかのように。
自分の周囲で起こることは、すべて気のせいなのだろうか。ただの偶然の連続なのだろうか。政博はぼんやりと天井を見上げた。ただの偶然……そう思いたかった。
しかし、それにしても、葉子が遅い。時刻は十二時を回っている。ここのところ毎日だ。ともすれば、夜中の一時になることだってある。以前話していた例の研究のことだろうか。葉子は何を熱心に研究しているというのだろう。一体、葉子は……。
誰かの気配がする。半ば落ちかけた意識のまま、政博は目をすこし開けた。
葉子がこちらをのぞきこんでいた。彼女は何も言わない。冷たく光る銀色の瞳で、こちらをじっと見ている。
「……葉子帰ってきてたのか……」政博がボソボソと呟いた。しかし、彼女は無言のままだ。
「葉子……」
政博は、再び眠りについた。
……何の音だろう……どこかから聞こえてくる音……脳が蝕まれるような……不快な音……。
政博は、飛び起きた。部屋中に何かの音が響き渡っている。沸き起こるような音と立ち込める異臭。身体の不快感。すべてが一体となって彼を襲った。この音は? それに、この臭い……? しかし、考える間もなく、あまりのむず痒さに自分の両手を見てみた。政博は我が目を疑った。黒々とした大きな蝿が肌を隠すようにうじゃうじゃと、数え切れないほど蠢いている。
もはや声にならない。慌てて両手を振り払うと、蝿の一団は、大きな羽音を立てて飛び立った。だが、悪夢は始まったばかりだった。
地獄の底の呻き声のような「音」は、なおも止むことはない。目を凝らしてみれば、部屋中が黒い小さな影に埋め尽くされているではないか。そこら中に蠢く黒い点。信じがたいことに、一つ一つが、黒い蝿だったのだ。
政博は、あまりのおぞましさと不可解さに途方にくれてしまった。まるで、地獄の光景が、そのまま目の前に出現したかのようだ。しかし、同時に政博は今まで感じたことのない危機感と焦燥感を覚えた。それは、おそらく人という生命としての危機である。政博は狂いそうになりながら、蝿の大群から逃れようとした。だが、振り払っても振り払っても、蝿は彼のほうに集まってくるようだった。大多数の蝿の中で、明らかに彼は異端であり、無力だった。なぜこんな事態が起こっているのか全くわからずに、政博はよろよろと立ち上がった。恐ろしい数の蝿が、いっせいに彼に集り、群がる。次第に彼は、ただの黒い塊へと変貌していく。薄れゆく意識の中、隣で寝息を立てているはずの妻を見た。そして、政博はようやくすべてを理解した。
葉子の小さな口から、何万、何十万匹もの蝿が、蠢きながら、這い出していた。
「……そうか……君だったんだね……」
政博は、そのまま暗闇の淵へと、深くどこまでも、沈んでいった。
2009/01/05(Mon)21:16:04 公開 /
kanare
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■作者からのメッセージ
以前からホラーが好きなので、挑戦してみました。稚拙な部分も多いと思うので、いろいろ指摘してください。正体のわからない不安、先の見えない恐怖を感じていただければ、作者冥利につきるところです。それでは、よろしくおねがいします!
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。