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『胡蝶は何を夢みるか/5』 ... ジャンル:リアル・現代 SF
作者:ポマーズ
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あらすじ・作品紹介
ある出来事を境に、同じ内容の夢を見続けるようになっていた本多は、夢の内容がはっきりしていくに従って、自分の中で変化が起きていることに気づく。
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オレンジ色に染まった不気味な雲の下で、にわか雨を気にしていたのを、本多は思い出した。
真夏だというのに、すっかり暗くなった街並みを見下ろす屋上で、本多と少女は二人きりだったということも。
誘ったのは相手で、自分ではない。
それは覚えているのに、どうやって屋上までやってきたのかは、本多には定かではなかった。
そもそも、どこの屋上だったのだろうか。
疑問はたくさんあったが、別に不思議は感じていなかった。
それもそのはずで、高校の制服を着ていたのは三年以上前の話であり、これは夢だと、なんとなく思ったからだ。
しかし、やがて記憶を回想しているのではなく、本当にその場に立っているような感覚を覚えた時、本多に好奇心が湧いてきた。
声を掛けることができれば、彼女と話すことができるのだろうか。
本多が口を開こうとした瞬間、少女の姿が消え、驚いている自分の姿が見えた。
少女が消えたと思った本多は、気付いた。
華奢になった自分の体に、見覚えのないセーラー服とエナメルの靴。
自分が少女になったのだと気付いた時、思わず叫んでいた。
その声も、もちろん女性特有の甲高いものだった。
「青だよ、青」
信号機が青になったことを知らせる、唐突に響いた声にびっくりして、本多はクラッチから足を離してしまった。
車体を前後に揺らして車のエンジンが止まり、本多の後ろに付けていた車から、クラクションを鳴らされる。
本多はキーを回し、スターターを動かしてエンジンを始動させると、再び車を走らせた。
そして、助手席に座った中野がムスッとした表情を浮かべて、書類の入ったダンボールを抱えているのに気付くと、慌てて謝った。
「す、すみません」
「ああ、ほんとうに」
深呼吸した息を吐き捨てて、中野は本多に訊ねた。
「何か、考え事?」
「いいえ」
気付いているかもしれないが、居眠りをしてしまったとはいえず、本多はとりあえず問題なさそうに振舞った。
「大丈夫です」
「そう、安全運転をよろしく」
しかし、あれだけ現実味を帯びた夢を見たのは、本多は初めてだった。
頭の中で起きた事とはいえ、空気まで真夏の蒸し暑くなるようなことがあるのだろうか。
今は、もう紅葉も散った冬だというのに。
気になった本多は、暇つぶしも兼ねて中野に訊ねてみた。
「そういえば、かぎりなくリアルな夢って、見たことありますか?」
「何を持ってリアルなんだい」
「えっと。どっちが夢なのか現実なのか分からなくなるぐらい、空気を感じられるような夢です」
「君の表現は、あいかわらず詩的だな」
曖昧な表現に苦言を呈しながらも、苦笑いを浮かべる本多に、中野は答えた。
「それは、胡蝶ってヤツだな」
「胡蝶、ですか?」
「自分が胡蝶なのか、人間なのか分からない夢を見た人の話だ」
本多は少し驚いた。
完全な理系オタクぐらいに思っていた、中野の口から核心を突かれるような、話を出されたからだ。
「私は見た夢を覚えている事はほとんどないが、夢の仕組みぐらいは分かっている」
それでも、やはりオタクらしく、中野は語りだした。
「人は、時間の流れを遅く感じる時がある」
膝の書類が入ったダンボールを抱えなおして、続ける。
「しかし人間の頭が鈍っているのではなく、周りの事象が遅く感じるくらいに回転が速くなっている。状況を理解しようと、頑張っているわけだ。人の夢も、そんな一瞬のうちの思考の高速回転の産物。違う次元を体験しているといえる。君は、少しだけ人生を得したのかもしれないね」
何が得なのかは良く分からなかったが、本多はとりあえず相槌を打つことにした。
「それが本当なら、夢の中では仕事が早く済みますね」
「本多君」
「はい?」
「そういうのを、一言多いっていうんだよ」
中野に釘を刺されて、本多は口を噤んだ。
「まあ、夢なんて現実にならない方がいい」
中野は呟く。
「寝ている人間だろうが、飛んでいる蝶だろうが、私は私だからな」
その言葉に、なんとなく中野の悲しさを感じた本多だったが、刺されたとおり、黙って運転することに専念することにした。
その後、車から降りる中野から「さっきの言葉だが、付け加えておこう」と、嫌みを言われた本多だった。
「私は、寝ている人間より、無事にここまで運んでくれる人間の方が好きだから」
「あれで間違いない?」
「たぶん」
車の中から、二人は確認した。
見た目は小型車だが、中身は四輪駆動のイタリア製の古い車。
二人が確認した、その車が裏道に入って止まったのは、大学の裏門が通じている場所だった。
本多がその裏門の手前で車を止めるのも、中野がダンボールを抱えて、大学の裏門に入っていくところも見えた。
「あの車を運転しているのが、マルタイ(対象)です。ナンバープレートも割り出したとおりです」
「もう一人は誰?」
「分かりませんが、ここまで送ってくるのにマルタイが車を走らせたみたいですね。調べておきますか?」
ハンドルを握った一人が尋ねる。
「急ぎで調べる必要は、ない」
助手席に座った一人は断った。
「とりあえず、彼に接近することを優先しましょう」
「了解」
走り出した本多の車を追って、二人を乗せた車も走り出す。
本多は、家を出て、大学まで中野を送った時から、後ろから白塗りのセダンが追ってきていることには、気が付いていなかった。
文学部には実力よりも、地位を重んじる人間が多い。
なぜなら、試験に最低限の知識を、頭に詰め込まれているかが問題で、実践と試行錯誤を繰り返し、学んでいく姿勢は、昇格していく上ではほとんど無いからだ。
医学部出身でありながら、思想文化の修士課程を選んだ時、周囲は疑問を呈するか、でなければ、中野を引きとめようとした。
今まで学んできた全てを捨てて、未知の領域に身を投げようとするのは、酔狂以外に思えなかったからだろう。
そんな中野が無事に博士号を修得し、人文学部の教授に若くしてなれたのは、周囲の力が大きかったといえる。しかし古株の教授陣からすれば、中野が異端であることには変わりはなく、それに関わるトラブルも度々あった。
中野が教員専用の棟には入らず、社会学の研究室に隣接する、資料室を間借りしていたのも、そうしたトラブルを避ける意味合いも含んでいた。
文学部専用の校舎を貫く、中央階段を二階まで登ったところに、中野が拠点としている部屋はある。
縦に長い、十畳ぐらいの広さ。北向きで、日当たりの悪い作りだった。
そんな資料室も名ばかりで、めぼしい資料は置かれていない。
大学付属の図書館が、蔵書の大部分をデータベース化し、ネットワークに繋がれたパソコンが一台あれば、事足りるようになったからだ。
便利にはなったといえ、中野は論文や資料を、電子画面を通して読む気にはなれなかった。
もちろん、インターネットの情報も調査対象ではあるが、それでも熟読する際は、わざわざ印刷しないと、中野は気が済まない。
扉を開けると、二つある事務机の一つを占領している同居人の木村が、ダンボールで抱えて持ってきた中野に気付いて立ち上がった。
「先生、自分が持ちますよ」
「大丈夫だ」
恰幅の良い木村は、まだまだ体力が有り余っているらしい。
「それに、まだ若い」
そういった後に「どっこらしょ」とダンボールを机の上に載せた中野を、木村が笑った。
「それ、若い人の掛け声じゃないですよ」
「そうだな」
素直に認めつつ、照れを隠すように中野は胸ポケットから煙草を取り出し、窓に向かった。
「それ、全部資料ですか」
「ああ」
「物好きですね」
こんな狭い部屋に先に住み込んでいた木村には、言われたくない。
百円ライターに火を点して、中野は一服する。
木村は資料のデータベース化に伴い、空きになったこの部屋を中野よりも先に見つけて、自分の住処としていた大学院生だった。部屋においてある冷蔵庫も、携帯ガスコンロにテレビ、事務机にいたるまで、全て木村が調達してきたものだ。
そんな彼も、まだまだ二十代半ばであるはずだが、会った当初、中野は同業者だと思い、敬語を使っていた。
腹回りもそうだが、とても歳相応に見えない空気が、彼の周りには取り巻いている。
口ぶりは確かに穏やかそのものだが、大学の一室を私物化してみせるほどの能力は、油断ならないものがあると、中野は考えていた。
「また本多に頼んだんですか?」
「ああ、居眠り運転は勘弁してもらいたいな」
「若いですからね」
パソコンの前の木村は、目薬を注しながら言った。
「夜更かしでもしているんでしょう」
そんな木村はどうなのかとは、中野は問わなかった。
「本多君、先生大好きですね」
「車も出してくれるしな」
「厳しいですね」
目をシバシバさせて、木村が苦笑いする。
軽口を叩きながらも、たしかにそうだと、中野は気付いた。
ゼミには三十人ほどいたが、その中で名前と顔が一致するのは、本多のただ一人。
別段、気が利くわけでもなく、優等生でもない。服装も趣味もマイペースなところが、今時の大学生には珍しくはあったが。
とにかく、頼みごとの大半を気付かないうちに、本多に任せるようになっている。
レポートの出来は他の学生のものに比べても、読むべきところが多く、たしかに興味深い部分もあるが、自分から話をするのは、苦手らしく、議論はあまり好まない傾向にある。
そう、苦手なのだ。
その本多は、なぜあんなことを言い出したのだろうか。
ちょっとした暇つぶしの割には、微妙な空気を感じ取っていた中野は、ある事に思い至って、懐かしいが、良い感じの響きはしない単語を思い出した。
二四三。そうだ、たった三つの数字にしか過ぎない。
しかし、そのくだらないと思う冗句に、吸い始めの煙草を携帯灰皿に押し付けて消してしまった中野は、苛立っていた。
タイル張りの床に、長い黒髪が次々と落ちていく。
「もったいないなあ」
ハサミを動かしながら、塩田は率直な感想を述べた。
いつものように整えるだけだと思っていたが、短くしてくれと頼まれたからには、切らないわけにはいかなかった。
「最近は付け毛とかは多いけど、本当に伸ばしている人って少ないからね」
失恋の時には髪を切るとはよく言ったものだが、実際にそうなのかは、塩田には分からなかった。
しかし、年頃の女性が伸ばしていた髪を切ると言い出せば、確かに尋常には思えない。
塩田はまずいかもしれない、とは分かっていたが、訊ねてしまった。
「なに、ひょっとしてフラれたとか?」
塩田の問いに、女は答えない。いつも静かな散髪だったが、さらに拍車が掛かってしまったようだった。
「まあ、別にいいんだけど」
「暑くなったからです」
あわてて取り繕ろう塩田に、女は助け舟を出すように答えた。
「へ?」
「暖房とか」
「あ、ああ」
塩田はとりあえず納得する。
「たしかに、熱がこもってしまうからねえ」
そう相槌を打ったあとは、塩田も黙って女の毛先を整えることに専念した。
女が理髪店から出てきたのと同時に、縁石に乗り上げて一台の車が止まった。
ベージュ色で丸っこい車体は、女の見覚えのある車だった。
「迎えに来ましたよ」
運転席の窓を開いて、福田は顔を覗かせた。
「どうです、時間通りでしょう」
「当たり前でしょ」
得意げな顔を浮かべた福田だったが、女の言葉にシュンとさせられる。女の方は、まったく意に介さないといった感じで、黙って助手席に乗り込んだ。
「仕事用の車はどうしたの?」
「署に戻ったら別の案件で持っていかれました。仕事に僕の車を使ったら、ガソリン代出ますかね?」
「ケチケチしないの」
相原は、涼しい顔で窘めた。
「相原さん、短くしたんですか」
短くなった相原の髪に気付いた、福田はハンドルを握り、アクセルを踏み込んで発進する
「まあね」
そう答えた相原の髪は、助手席の開いた窓から吹き込んでくる風に、静かに揺れていた。
以前のように、目に入ってくる長い髪が無くても、右手でかき上げる癖は、変わっていなかったようだ。
「似合ってますよ」
福田は正直な感想を述べる。
「なんか、もったいない気もしますけど」
その言葉に、相原は思わず笑みを浮かべた。
「散髪屋も、そんなこと言っていた」
「は?」
「失恋したん、ですかって」
それを聴いて、福田も笑った。
「まさか、相原さんが恋している―なんて有りえませんよね」
「何、それ」
急に相原は真顔になる。まるで心外だといわんばかりに。
「私に色恋沙汰が無いみたいじゃない」
「え?」
相原の意外な反応に、福田は戸惑った。そして少し間をおいて、あらためて訊ねた。
「付き合っていたり、するんですか?」
「うん、無いけど」
安心すべきなのか、落胆すべきなのか。あまりに軽い返答に、ともかくも溜め息を、福田は吐く。
「そういうのは止しましょうよ」
「そんな暇あるなら、仕事なさい」
胸ポケットから取り出したタバコをくわえて、ダッシュボードのボックスから紙の束を手に取った。
「火は点けないでくださいよ。車に煙草の臭いが移ったら嫌ですから」
「分かってる」
相原の生返事に不安になりながらも、福田は仕事の話を切り出した。
「今日から行動するんですか?」
「まあ、ね」
「それじゃあ、今から向かいますか」
「そうだけど、相手の名前はなんだっけ?」
仕方ないですね、と福田は答える。
「本多、ですよ」
相原は教えられて、ようやく思い出した。大学で学生をやっている以外に、取り柄らしい取り柄は見当たらない青年。
手に取った書類の束に書かれた、下調べの中では、これといった兆候が捉え切れなかったので、早めに接触する必要があった。
“あれ”だけ衝撃的な出来事だったはずなのに、なぜ彼は何事もなかったように生活しているのだろうか。
「不審なところは、見当たりませんけどね?」
その不審ではないところが、相原にとって不審だった。
「ああいう手合いが、一番怖い」
「そうなんですか?」
理解できていない本多に、相原は断言した。
「空から落ちてくる爆弾より、地面に埋まっている地雷の方が厄介なものよ」
相原と福田の車が、本多の住むアパートまでやってきたと、本多の車がその駐車場に入っていくのは同時だった。
「あの車ですね」
福田が確認して、呟く。
「フィアットのパンダか。あいつ、いい趣味してますよ」
「あなたの車もフィアットなんとか、とかいうからでしょ?」
車に関する知識はほとんど持ち合わせていない相原に対して、福田はムキになって補足した。
「チンクェチェントの新型ですよ」
どうでもいい、と相原は表情で答える。
「ともかく、ここで降ろして」
アパートの駐車場に車を停めて、自分の部屋の扉の前に来た時、本多を呼び止める声があった。本多が振り向いた時、そこにいたのは、尾行していた後ろめたさも感じさせない、仕事用の笑顔を浮かべる相原だった。
「私、相原と申しますが」
黒いスーツを着込んだ相原に、本多は条件反射的に会釈した。典型的な若者だな、という感想を抱きつつ、相原は本多に、ズボンのポケットから二つ折りの手帳を取り出し、開いて見せた。
「警察の者です」
目の前に立っているのと変わらない、無表情で小さな相原の顔が、金色に輝く記章の上で名前と共に記載されていた。
凛とした美人である写真の彼女は、長い髪を後ろで束ねていたらしい。
今のショートヘアーも、似合っていると、のん気なことを本多は思った。
「こちらが本多さんのお宅で、よろしいでしょうか?」
「ええ」
相原は、事も無げに持ってきた鞄を持ち上げて見せた。
それは、本多にとって見覚えのある、赤色のメッセンジャーバックだった。
「財布と鞄を、紛失されたでしょう?」
強い衝撃でも与えられたのか、メッセンジャーバッグはひどい有様だった。
その表面は、半分以上が引き裂かれ、化学繊維が焦げて、ところどころが黒くなっている。
本多が忘れようとしていた、“馬鹿らしい現実”が、そこに存在していた。
「いくらか、話を伺いたいのですが」
悪い事をした、わけではないのは分かっている。
「はい」
それでも、本多は悪戯がばれた子供のような面持ちで、相原を家の中に招き入れたのだった。
普通の学生なのだと、部屋の中を見渡して相原は思った。
男子が住んでいる部屋としては片付いているというか、ベッドとテレビ、コタツ以外に家具がない。
ややリビングが、殺風景すぎる。
「あの」
部屋を眺めていた相原に、本多が声を掛けた。
「座ります?」
催促のまま、相原は座った。
目の前のコタツに置かれたペットボトルのお茶が、台所から持ってきたコップにそのまま注がれる。
「お茶です」
「どうも」
礼は言ったものの、相原はコップには手を付けなかった。
気まずい空気が、部屋を包む。
本多としては、相原の隣に置かれた鞄のことが気がかりだった。
「本田さん」
「はい」
意識を相原に移した時、思わず声が裏返った。
本多は緊張していた。
「あなた、事故に遭われましたね?」
鞄を持ち上げてみせる。見たくはなかったが、真実は真実だった。
「はい」
「大事故のはず、でした。死んでてもおかしくないぐらい」
相原の言葉に、本多は頭の中が、急激に冷えていく錯覚を覚えた。
「自分でも、混乱されているのではないでしょうか?」
「知りたいことが、いろいろとあるでしょう」
相原が訊ねると、横に首を振られた。
「あまり」
言葉足らずだと思ったのか、本田は付け加えた。
「いや、できれば、知った方がいいかもしれないとは思ってましたけど、ほとんど夢のような話でしたし、逆に知らないままの方がマシだと思っていました」
なるほど、と本多の反応をみて分かった。
わりと保守的な性格だが、ものごとに執着心はない。競争よりも、安寧の地を求めていく方が好きそうな、マイペースな人物だと、相原は本多の事を、そう想定した。
だからこそ、警察にも通報せずに、やり過ごそうとしてきたのだろう。
それならば、さっさと片を付けてしまうのも良いかも知れない。
「そうですね」
相原は真剣な顔つきを作る。
「しかし、これは知った方が、あなたのためにもなると思いますよ」
あまり乗り気ではない本多を見越した相原は、実力行使に移る事にした。
「ええ。ちょっと、立ってもらっていいでしょうか?」
言われたとおりに立ち上がった本多に、相原は抱きついた。
突然の出来事に驚いたが、本田は何もできなかった。驚いたからではない。体が、まったく力を失っていた。
そんな本多を支えて、相原は耳元で囁いた。
「分かったでしょう?」
鳩尾から入った右手のナイフの切っ先が、本多の心臓を完全に貫いていた。
天国ではない。
地獄でもない。
しかし、相原に殺された自分の部屋はすでになく、あの屋上に本多は倒れていた。
夢で見続けてきた、あの場所に。
「起きた?」
そんな不可解な出来事を、全て分かっているような口調で訊ねる声に、本多は起き上がった。
振り向いたそこに、あの少女はいた。
「こうして話をするのは初めてかもね」
季節はずれのセーラー服に包まれた、華奢な体。
目が悪いのか、白い肌に浮き出るような、四角い黒縁眼鏡が印象的だった。
「とりあえず、よろしく」
愛想よくする彼女に、本多はまったく笑えなかった。
ああ、これは夢なのか。再び眠り込もうとした本多の頭を、少女が蹴り上げた。
「目を覚ますには、まだもうちょっと早いよ」
なんて理不尽な夢なんだろう。頭の痛みに悶えつつ、本多はそう思った。
無意識に自分の鳩尾を撫でながら、ファミリーレストランのコーヒーを本多は啜る。
その様子を向かいに座って相原は不思議そうに眺めていた。
「コーヒーだけでいいの?」
「本当は」
相原の質問に、本多は顔を顰めて、コーヒーカップをテーブルに置く。
「言いたい事が、山ほど」
「でしょうね」
あっけらかんと、相原は相槌を打った。
「でも、まずは私の話を聞いてからでも遅くはないと思う」
胸ポケットから取り出したタバコが、唇にあわせて上下に動く。
家を訪れた時の、相原の携えていた冷静な警官像は、完全に失われていた。
ネクタイはいつの間にか解いたらしく、シャツの襟はクシャクシャになってしまっていた。
こうして顔を向かい合わせると、割と自分の好みであることに気づいたが、今の本多にとってはどうでもいい事だった。
「ええっと、私の職業は警察官。それは知っているわね」
本多は黙って、コーヒーを飲んだ。そんな無言の返答も意に介さず、相原は続ける。
「昨日、奇妙なひき逃げ事件が発生した」
相原はライターに火を点す。
タバコを燻らせながら語られた話に、本多は冷静を装うとしたが、再び手に取ったカップを持つ手は震えていた。
「優しいひき逃げ犯が出頭してきて、矛盾が起きた。ひき逃げされたはずの死体が存在しないこと」
それが自分である事は、ここにいるその死体が良く分かっていた。葬り去ろうとした夢は、やはり現実だった。
あらためて、逃げ切れないことを本多は確認した。
「死体が無くて、遺留品だけが残されていた事実。本部は特別事案二四三号に該当すると判断した」
「にひゃくよんじゅうさん?」
「まあ、事件を区別するための識別番号みたいなもの」
いったん煙を口から吐き出し、再び吸い続ける。
「その指令を元に、私が派遣されてきたってわけ」
酸素を送り込まれて、赤く光る炎。崩れた灰が灰皿の上に落ちて、小さな山を作った。
「現場に落ちていた、あなたの鞄に入っていた財布。その中に入っていた学生証を元に、あなたの住所を割り出してやってきた」
「なるほど」
つまり、自分が知らなかっただけで、世の中にはそういう事例が確認されていたのか。
まるで未知の世界に放り出されたような心地で、不安であっただけにホッとしたが、同時に所詮は小さな存在のように思えて、本多は寂しい気分になった。
「それじゃあ、僕は」
「そう、あなたはアンデッド。簡単には死なない」
もし、自分がそうでなかったら冗談にしか聞こえなかっただろう。
あの少女が、言ったそのとおりだった。
「まあ一発で分かってもらえた、かな?」
「ええ」
本当に死んでいたらどうするつもりだったのかは分からなかったが、本多はそれを無視して話を進める。
「でも、わざわざ刺す必要はあったんですか?」
「いいや」
ひどい話だ。思わず、本多の指先が怒りで震えた。
「あと不死っていっても不老ではないし、普通に生きる分には問題ないわ」
相原はスーツの下に手を入れると、小さな紙切れを机の上に投げた。警察の星のマークが印字された、名刺だった。
「連絡先を教えておくから、もしもの時は名刺の番号によろしく」
「ちょ、ちょっと待ってください」
去ろうとする相原に、慌てて本多は訪ねた。
「もしもってなんですか?それに、これからどうすれば」
必死に縋ろうとする本多を振り払うように、相原は答えた。
「普通に生活していればいい」
簡単に言ってみせたが、その口ぶりは重かった。
「しばらくの間、になるかもしれないけど」
「しばらくって、僕はどうなるんですか?」
相原は請求書を手に立ち上がった。
「たぶん、そのうちに分かるよ」
さっき出会った、自分の中に住んでいるという少女にソックリだと、本多は思った。
まるで分かったような口ぶりだが、肝心なことは何も口にしてくれない。
内なる問題どころか、こうして生きている現在ですら、自分には何らかのデメリットが生じているか、これから生じるに違いない。
問題は、何ら解消されていないのだ。
しかし、相原を追いかけようとはしなかった。
無闇に後を追ったところで、何らかの転機が待っているとは思えなかったし、むしろ、さらに疲れるような出来事を招きそうな予感がした。
残された灰皿と燃え尽きた煙草を見つめて、本多は静かに思った。ひょっとしたら、すべて白昼夢だったのかもしれない。
外を見ると、朝日で白んでいく木々を見下ろすことができた。
相原という刑事に刺されたのには間違いない。同時に、夢でみた世界と、少女が現れた。
本多はそれはが間違いである事に気づいた。
夢の世界に、自分が現れたのである。あの夢を見るように。
すると、これは夢か。現実だとすれば、相原に刺されたのが夢なのか。
考えるほど、混乱してしまった本多は、ともかくも目の前の“現実”に素直に向き合うことにした。
「で、どなたなんですか」
少女に付いて行きながら、本多は訊ねた。
あの屋上から階段を下りて、少し広い通りに出た。
振り返って見上げたビルは見覚えのあるようだったが、取り立てて特徴がなさすぎて、何のビルかは分からなかった。
「どう見ても年下でしょ」
歩みは止めずに、振り返った少女の怪訝気な表情が本多に向けられる。
「デスマスで喋るなんて、変なやつ」
年下かどうかは、本多には判断しかねた。
たしかに見た目は女子高校生だったが、年齢をはっきりと訊くのはタブーだともよく言われている。
少女はそんな本多を笑った。
「相変わらず、なんだね」
「あいかわらず?」
「私はさっき生まれたかもしれないし、もっと前から生きていたかもしれない」
本多には意味が分からなかった。
「いいから黙って付いてくるなら付いてくる、帰るなら、さっさと帰ってよ」
納得のいかない言われ様だったが、帰り方も良く分からない本多は、少女に黙って付いていくしかなかった。
通りをしばらく行くと、アーケード街に入り込んだ。軒並み閉められたシャッターを横目に進み、細い路地に曲がる。
本多は少女を見失わないように、しかし辺りを見渡しながら、後を追った。
最終的に、路地を抜けて、たどり着いた先は四階建ての、アパートのような建物だった。
階段を上り、二階の扉を開けて入る。部屋に入り、リビングを見て、本多は思わず声を上げた。
お世辞にも、広いとはいえない空間に、ひしめき合う本と様々なメディアの記憶媒体。
崖のようにそびえ立つ棚に押し込められている他、無造作に床に散らばって海を越え、山を成していた。
どこからともなく伸びてきているケーブルが、再生機やテレビに電気を送り込んでいるらしく、待機を示す赤い発光ダイオードの光が、夕暮れの暗い部屋の中に浮かんでいた。
そんな部屋の中で、まるで大海に浮かぶ島のように中央に、真っ赤なソファがあった。
「どう?」
少女は自慢げな顔になる。
「これは、すごいな」
本多の素直な感想に、少女は満面の笑みを浮かべた。
「でもなんか、まとまりがないような」
「本棚のは私が集めたから綺麗でしょ」
割れそうなディスクを踏みつけないように、真っ赤なソファに近づくと身を躍らせて、それに少女は飛び込んだ。
そして、抱きかかえるようにソファに埋もれながら、床を指差して言った。
「適当に床に転がっているのが、あんたの」
本多に集めた覚えは無いが、たしかに言われてみれば見覚えのある題名のものばかりだった。
「ここは、普通はあんたが来るところじゃない。致命傷だから、一時的に避難してきているんでしょ」
「それは」
やっぱり、と本多は訊ねた。
「僕が死んだってこと?」
「死んでない。普通なら、死んでるけど」
つまり、外の自分は死んでいるような状態なのだろうか。
「ここは、天国の一歩手前みたいな場所なのか?」
「似たようなもんじゃない?帰ろうと思えば、帰ることはできるけど」
口ぶりからすると、少女も完全に理解しているわけではないらしい。
「君もはっきりは分からないのか?」
「さあ。自我が芽生えたの、最近だから」
相変わらず軽口な少女だったが、最近というと車に轢かれた時に違いない。
だとすれば、少女は自分の意識の一部なのだろうと、本多は推測した。
「そのわりに、大人びているね」
「それ、言葉の使い方間違っているでしょう?」
仕方ない、といった風情で少女は話を始めたのだった。
車の窓を叩く音に、福田は目を覚ました。
それが相原によるものだと気づいて、慌てて窓を開けた。
「話をしてきた」
「そうですか」
寝ぼけているのを誤摩化すように、シートに座り直しながら、福田は返事をする。
「あとの監視は、まかせてもいいわね」
「了解しました」
ハンドルを握りしめて、福田は車を発進させようとしたが、ふと思い立って相原に訊ねた。
「いまさら、こんな事を訊くのもどうかと思うんですが、どうして、相原さんは彼らにチャンスを与えるんですか?」
「どうしてだと思う」
この人は、相変わらずハグラカすのが好きらしい。
福田は負けじと、相原に言い返した。
「分からないから訊ねているんじゃないですか」
「分からないから考えないといけないんじゃないの?」
次の言葉を見つけられない福田に、相原は意地悪が過ぎたのかと思ったらしく、一拍おいたあとで答えた。
「チャンスを与えている、わけじゃない」
寄りかかった頭が、窓と軽い音を奏でる。
「それなりに、私にも覚悟が必要だから」
福田にとって、それは意外な言葉だった。
いつも気丈に振る舞っている、相原が漏らした初めての弱音のように聞こえたからだ。
「それなら、それは別に相原さんじゃなくても」
「手間とヒマを増やしているのよ。そんな余分なものを、他の人に回すほどデリカシーがないわけじゃないのよ」
そうなのか、と眉唾な話だと福田は思った。
「いま、絶対に違うと思ったでしょう?」
「いえ、絶対だとは」
気まずくなった空気が、車内に立ちこめる。
そんな時、その空気を断ち切るように電子音が鳴った。
「もしもし」
胸から振動する携帯電話を取り出す相原の横で、福田はホッとした。
「はい、分かりました。いまから戻ります」
電話を切ると、相原は車を出すように福原に言った。
「こんな朝から、誰です?」
「菅原さんから呼び出し」
その声音は、どことなくうんざりとしていた。
「なんですかね?」
あえて福田は訊ねた。
「たぶん、説教」
予想通りだった。
ファミリーレストランで朝食を食べてくれば良かったか。
空腹を感じたまま、神田警察署に戻った相原は、福田の車から降りた駐車場で一服した。
それからエレベーターで相原が目指した狭い会議室の中には、すでに三人の男が腰を据えていた。
一人は相原の直接の上司である菅原。
さらに、警視庁警備部の部長である田村と、警察庁の牧本を交えての会合が、楽しい内容ではないのを、相原は悟った。
「座りたまえ、警部」
相原の姿を確認して、牧本が指差して命令した。
「失礼します」
パイプ椅子に座ると、机の上におかれた資料に目が行った。
二四三事案に関連する刑事事件の発生率、と題うった分厚い紙の束は、相原の机にも届いていたのを思い出した。
「この資料に目を通したかね?」
「読みました」
そうか、と牧本に浮かんだ笑みはすぐに消えて、神経質そうに、資料を開いてみせて言った。
牧本の手に握られた資料の間に見える、いくつもの付箋が、わざわざ粗を指摘するために調べ上げた跡に違いない。
その方向性を間違えたような努力に、相原は溜め息を吐きたくなった。
「なら分かるだろうが、二四三の起こした凶悪事件の発生数は年々増加している」
ずれてもいない眼鏡を押し上げて、相原を睨みつける。
「何のために、君に特別な権限を与えていると思っているんだ?」
「私の担当した二四三の大半は、問題なく社会生活に適応しています」
相原は冷静に答える。
「そういう問題ではない。上が要求しているのは、カウンセリングのような生温いものではなく、積極的な介入だ」
牧本はさらに声を荒げて、資料を机の上に投げ捨てた。
「こんな事は言いたくないが、君のために警備部の人員を割いて特別班を編成しているんだ。その訓練費用も馬鹿にはならんのだぞ。わざわざ警部部長殿にお越しいただいたのも、あまりにも不効率きわまりない、君の行動に問題があると考えているからだ」
「お言葉ですが、警視殿」
菅原の顔が強ばる。
「私が要請した事ではありません」
その言葉に唇を震わせながら、牧本は訊ねた。
「なんだ、その言い草は?」
「警備部の手を、煩わせるつもりはないということです」
相原は、はっきりと言い切った。
「死体と遊ぶのが、そんなに好きなのか、君は」
牧本のなりふり構わない言動に、相原よりも菅原が困惑した顔になった。
分かってはいる。だからこそ、さらに挑発するような言葉を相原が漏らすのだけは、上司として避けて欲しかった。
「それとも、手柄を全て独り占めにしようという、魂胆か?」
それが牧本の思いつく、精一杯の皮肉らしい。
本気とも冗談とも思えない、馬鹿げた言葉だと思った相原の顔は、図らずも笑みが浮かんでいた。
「それは思いつきませんでした。さすがはキャリアですね」
菅原が、ああ、と弱々しい声を漏らす。あからさまに馬鹿にした物言いだった。怒りを隠せず、牧本は声を張り上げた。
「貴様!」
「落ち着いてください、管理官」
菅原が宥めようと口を開いたときに、場を制したのは田村だった。
「私も、警部補がそのような意図で、我々に要請をしないとは思ってはいません」
冷静沈着を思わせる、整った顔立ちの田村は、その容姿に劣らない態度で、相原に忠告した。
「だが警部補、警察は組織として、社会に対して体面を維持する事も大事なのは分かっているだろう。一人だけで事案を解決している内は問題ないが、想定外の事態に遭遇する事も視野に入れておいてほしい」
厳しげな顔が、優しい笑みに変わる。
「だから、もしもの時は遠慮せずに、私を頼りたまえ。あくまで、警部補の捜査に介入するつもりはない」
「ええ、分かりました」
相原も仰々しく、頭を下げる。
「それで、話は以上ですかね?」
顔を上げた相原に、牧本がわめき散らそうと息を吸ったのを遮って、田村が認めた。
「ああ、行っていい」
愛想笑いを浮かべて、失礼しますと立ち上がり、扉を閉めた。
事の張本人がいなくなり、今度は菅原が牧本の嫌みを聞く事になるだろう。
まるで他人事のように、相原は廊下で笑みをこぼした。
少女はソファーに座り直す。
「もともと、ここは次元が違う。あんたの考えている時間よりも、はるかに遅かったり、速かったりする」
ふふんと、鼻を鳴らす様子の少女は自慢げだった。
「あんたは、もちろん自分が本体とか考えているんでしょうけど、この世界では、私が神様みたいなもんよ」
「信者もいないのに?」
「一言多いのは、本当になおしなさいよ」
どこかで言われたような小言に、本多は返す言葉が見つからなかった。
「中野からも言われたでしょ。夢ってのは長いように思えて、実は一瞬の出来事だったりする。あなたの世界が有限なものだとすると、無限なのがここ。体感時間は一緒だけど、元の世界に戻った頃には、刺された傷も治っているでしょ」
中野教授。それはまさに、その小言の主だった。
「中野先生に会った事があるの?」
「実際に会ったわけないじゃない」
少女は首を横に振った。
「あんたの記憶から、って言った方が良いかも。印象的な記憶は、自然に私の中にも流れ込んでくるから」
それは常に盗み見されているようで、本多の気分があまり良くなる話ではなかった。
げんなりとしている本多の事は意に介さず、少女はソファの上で寝返り、仰向けになって続けた。
「世の中には自分の領域だと思っていることにも、多少なりとも他人の意思が働いているものよ。例えば、自分の存在とか」
「自分は自分じゃないのか」
「それは何が保証してくれるの?」
そう言われて、本多はしばらく悩んで首を振った。
「考えたこともない」
「ほんと、無頓着ね」
飽きれた顔を隠さない少女は、本多の頭に人差し指を向けた。
「人間の脳って二割も使っていないって話は知ってる?」
「ああ」
「じゃあ、残りをフルに活用したら、人の知能は発展するのかな?」
「発展する?」
「あなたの頭の中に住む私に言わせれば、それはノー」
少女は否定する。
「コンピューターのハードディスクは、満杯になると性能は低下するでしょ。あれと一緒で、処理するために必要な空き容量だって考えれば、人間の脳にも同じ事がいえるんじゃない?」
本多も、なんとなく納得した。
「それで、その話が人の存在とどういう関わりが?」
「存在しないものが、存在という意識を支えているってこともある。私は、その八割に住んでいる存在だって考えれば良い。私もあんたも、お互いを必要としているわけ」
よく分からないといっていた割には、断言するように少女は話す。
「なんか、互いに利用し合っているようで嫌だな」
「それに不満が?」
本多は、横には振れなかったが、縦にも首を振れなかった。
「いや、別に」
「そういう部分も、あるってこと。あまり深く考えない方が、楽で良いわよ」
「さっきは無頓着すぎるとかいって、今度は深く考えない方が、いいか」
無言で睨みつける少女に、失言に気づいた本多は「ごめん」と付け足し、話題を変えるように、夢の中で少女に会った話を切り出した。
「そういえば、前に君を見たことある」
「へぇ、どこで?」
少女の方には覚えはないようだった。
「夢に、でてきたんだ。僕が、君になってしまう夢で」
本多は足下の本を物色していて気づかなかったが、少女は、その言葉を聞いて顔を険しくした。
気づかない本多は、その本の群れに見覚えのない一冊があることに気付いた。
「ねえ、さっきの話だけど」
少女が顔を上げても、返事はなかった。代わりに、本が床に落ちて転がって音を立てた。
ソファから起き上がり、徐に少女は本多が立っていた場所まで歩いて、その本を手に取った。
「ふん」
そして表紙を一瞥して、壁の本棚へと片付けたのだった。
「くそ、どう思いますか、あの不敬な態度は!」
相原が出て行ったあと、菅原に散々わめき散らした牧本だったが、苛ついて強く閉めたセダンのドアが音を立てた。
「だいたい、なんで弱腰なんですか。相原に肩入れするような発言をするんです?」
「相原警部補は、優秀な警官です」
「どうだか」
ふて腐れる牧本に、田村は微笑んだ。
「しかし、管理官。我々としても手をこまねいているわけではないですよ」
「何です?」
「事案二四三号に関係して不穏な動きが見られます」
牧本がその言葉を聞くと、しかめっ面は一気に柔らかくなった。
「スキャンダルですか?」
田村は静かに頷く。
「それどころか、不祥事という範囲内では済まなさそうです。証拠は掴めていませんが、相原警部補か、それに関連した人物の内偵を進めているところです」
どうやら、警察内部での大きな不祥事であり、相原はその一端でしかないのは理解できたが、牧本には関係なかった。
「どっちにしろ、それが明らかになった時には相原はお払い箱にできるわけですね」
「ええ、管理官にもいくらか協力をお願いすることがあるかもしれません」
「もちろん、協力しますよ」
意気投合したかのように、笑みを浮かべる二人。しかし、笑顔の意図は二人とも違っていた。
雨が降る中、相原は公園のベンチに佇んでいた。他には誰もいない。
羽織ったトレンチコートが、雨に濡れてベージュの色を濃くしていた。
思い出の場所と言えば、そうなのかもしれない。相原は湿ったタバコを地面に吐き捨てると、靴の踵で潰した。
初めてここに来たのは、両親の葬式の時だった。
棺の小さな扉を開けて両親の顔を覗き込んだ時の事は、相原の記憶では定かではない。
どっちが母親で、父親なのか。それすら判別もできない程に痛んだ遺体に、物心がつき始めた子供だった相原には、あまりにも受け取りがたい現実だった。
気が付くと、葬式会場はすでにそこにはなく、相原は雨に涙を混じらせてベンチに座っていた。
「濡れると、寒いよ」
相原の体に降り掛かる雨を遮り、傘が差し出された。
顔を流れていた雨水は、雨粒になって相原の頬に残った。
「あなたは、変わらないんですね」
「そうだね」
細く長い腕を、相原のために伸ばした森崎は、素直に同意した。
「だけど、それは君も一緒だよ。変わろうと思えば、いつでも変われたはずなのに」
森崎は、霞んだ風景を振り返った。
「ここは、昔と変わらない雨で満ちている」
「私は、現実を無視してまで生きていたいとは思いません」
濡れた前髪をかきあげて、相原は言った。
「思い通りにならないのを嘆くぐらいなら、死んだ方がマシです」
「寂しい事を言わないでくれよ」
「大丈夫。私は死にたいとも思っていません」
「まあ、分かっているけどね」
相原は思わず吹き出した。森崎は、悲しければ悲しい顔をするし、嬉しければ嬉しい顔をする。
小さな相原が、森崎の胸に飛び込んで泣き叫ぶ事ができたのも、両親がいなくなったあの時、同情するのではなく、哀しみを真っ向から受け止めてくれたからだった。
「また、危ないことをするのかい?」
「駄目でしょうか」
相原が大きくなった今でも、森崎は変わらずに頷く。
「駄目だなんて事はない。君の好きにすれば良い」
ひょろっとした体を屈めて、相原の瞳と視線を交じらせる。
「ありがとうございます」
子供の時とは違い、気恥ずかしくなって相原は視線を逸らしてしまった。
「ませたね」
「それは余計なお世話です」
妙な沈黙が包んだあと、二人はひとしきり笑い合った。
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2009/03/22(Sun)00:22:15 公開 / ポマーズ
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■作者からのメッセージ
ほとんど試作品ですが、厳しく評価してもらえると嬉しいです。様々なコメントも頂き、ありがとうございます。大いに作品の参考にさせてもらっています。時間軸をずらしている部分もあるので、短編集のように思われている方もいるかもしれませんが、いちおうは一つの作品です。
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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