『沈黙の彼』 ... ジャンル:ショート*2 恋愛小説
作者:かめくん                

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 彼の仕事柄、お互いに顔を合わすのは、一日の内でも朝くらいのものでした。もちろん、彼がいつも忙しいのは分かっています。でも、このところ私は彼が新聞を読む姿しか見たことがありません。彼と会話らしい会話すらしていないのです。それはまるで、私には興味がないという彼の無言の意思表示のようにさえ思えます。ついに耐え切れなくなった私は、
「最近、仕事の方はどうなの? うまくいっているの?」
 などと、つい当たり障りのない話題を思いついたように切り出します。しかし彼は新聞から顔を上げることもなく、
「ああ」
 と短く答えるのです。しばらくの沈黙。ほんの一瞬だったかもしれませんが、とにかく次に続くはずだった私の言葉は、そこで途切れてしまうのです。私の彼に対する疑問が不満に変わり、そしてそれが解消されないとなるとそれが怒りに変わるのも自然の流れでしょう。しかし結局、その怒りは不発のままに終わってしまいます。ええ、分かっています。それは、不満を彼にぶつけられない私の意志の弱さが原因だということは。
 ふと気づくと、彼はテーブルに新聞をたたんで置き、すでに席を立っていました。開け放たれたドアからは、玄関で靴を履く彼の姿が見えます。無言で玄関の扉を開けて出て行く彼の背中を、今日も私は黙って見送るのです。一体、何時からだったでしょうか。私まで『行ってらっしゃい』の一言を言わなくなったのは。

「なんにもないけど、コーヒーでいい?」
「ええ、お願い」
 ひょこっと台所から顔を出して尋ねる彼女に、私は極力笑顔で答えようとしました。ですが、そんな上辺だけの笑顔で平気を装えるような間柄でもありません。彼女はすぐに何かあったのかと尋ねます。私はつい、黙り込んでしまいました。
「……彼のことでしょ?」
 彼女は昔からそうでした。私のことなら何でも分かっているかのように、ずばり当ててくるのです。もう十年からの付き合いなので、当然といえばそれまでなのですが、彼女は私にとって何でも相談できる唯一の存在だったのです。私は下の方を見ながら、そうだと答えました。台所でお湯を注ぐ音が聞こえます。彼女は無言で私の話の続きを促しているようでした。しかし、いざ話すとなるとどう言って良いのか分からず、結局しばらくの沈黙の後に話し始めました。ゆっくりと落ち着いて、おおよそ不満を打ち明ける人間の言葉とは思えないほど淡々と話すのです。自分でも不思議でなりませんでした。それは、彼に対する諦めからでしょうか。私の心はそこまで冷え切ってしまっていたのでしょうか。私は終始、自分の左手の薬指にはめた銀色のリングをさすっていたように思います。
「そっか、それで久しぶりに私のところに顔を出しに来たってわけね」
 話し終えた私の前にはいつの間にか熱いコーヒーが置かれていて、彼女も自分の前にコーヒーを置き、向かいのテーブルに座っていました。ほのかなコーヒーの匂いが鼻をくすぐり、ゆらゆらと立ち昇る湯気が私を誘います。私はカップの脇に並べられたスティックシュガーを取って口を切り、カップの中へと傾けました。雪のように白い小さな粒子が水のように注ぎ込まれ、漆黒の底へと吸い込まれていきます。私はただぼうっとその様子を見つめていた後、スプーンを手に取り、徐にかき混ぜ始めました。
「まあ、結婚もしたことのない私が言ってもなんだけどさ、会話が無いからって愛されてないとかいうのは考え過ぎなんじゃない? とくに彼の場合、無口なのは昔っからだったでしょ?」
 元気付けようとしてくれている彼女の心遣いが痛いほど伝わってきます。でも、私の求めている答えを彼女が与えてくれないことは明らかでした。
 その後、彼女と何を話したのかはあまりよく覚えていません。ただ、お互いに他愛も無い話をしていたように思います。夕方、私はコーヒーのお礼を言って彼女のマンションを出ました。空を見上げると、鉛のような色の分厚い雲が覆っていました。ちらほらと振ってきた小さな白い粉が私の頬にあたって溶けた時、私はやっと身を貫くような寒さに気づいたのです。

 それから数日が経ったある日の朝、ついに私は彼に怒りを爆発させました。原因は、その数日後に控えるとある記念日のことでした。そう、その日は私たち二人の結婚記念日だったのです。私はその日に二人で外食にでも行かないかと提案しました。もちろん私は、はっきりとその日が結婚記念日だからとは言っていません。彼がそれを覚えていたのかどうかは分かりませんが、どちらにせよ彼はその日も早く帰ることができないと言ったのです。私は悲しくて堪りませんでした。と同時に、嬉しくもありました。彼に対する私の心は、決して冷え切ってなどいなかったのです。彼に対しての想いがあったからこそ、今こうして怒りを爆発させることができたのですから。
 しかしそれは、両者を天秤にかけたとき、嬉しさよりも悲しさの方が勝っていたことに他ならないのです。私は手に持っていた皿を、座っていた彼に投げつけて家を飛び出しました。走りながら後ろを振り返っても、彼が後を追いかけてくる気配はありません。私は涙を流しました。朝の冬空でさえ、風に温度を感じることはありませんでした。

「まったく驚いたわよ。ドアを開けたら、いきなりあなたが泣きながら立ってるんだもん……」
 気づくと私は、彼女の家の前に立っていました。彼女に温かいコーヒーを出してもらった私は、ようやく落ち着いて考えられるようになりました。それでもやはり、彼に対する悲しみは消えることがありません。彼女はとても驚いているようでしたが、深く事情を聞こうとはせず、さらに私の気の済むまで居てもいいと言ってくれました。本当に彼女には、お礼の言葉もありません。私は彼女の言葉に甘えて、何日か泊めさせてもらうことにしました。今はとても、彼に会えるような心持ちではありません。

 それから数日の間、私は彼女の家から一歩も外に出ることはありませんでした。いつもは会社に出勤している彼女も、今日は日曜なので朝から家にいます。いつものようにぼうっとコーヒーをかき混ぜていた私は、徐に口を開きました。
「男の人っていいわね。私がいなくても生きていけるんだから……」
 そう、彼は私がいなくても生きていけます。生きていけないのは私の方なのです。彼はもう、私のことなど忘れてしまっているでしょうか。私はぎゅっと左手の銀色のリングを握り締めました。しばらくの沈黙。耐え切れなくなった私の目からは、今まさに涙が零れ落ちようとしています。すると突然、パタンと読んでいた雑誌を閉じると、彼女はこっちに向かって優しく笑いかけました。
「ちょっと、気晴らしに外に出ない?」

 ここへ来るのは、彼と付き合い始めた大学時代以来でしょうか。その頃はよく、彼と彼女の三人でここへ来たものです。ここは、私たちの住む町が一望できる丘の上にある森林公園で、今日は日曜ということもあって、多くの家族や恋人たちで賑わっています。私は木にもたれかかり、走り回る子供たちや、幸せそうに笑う恋人たちを見ていました。男女三人組の学生たちを見ると、昔の自分を重ねて見たりもしました。吹き抜ける肌寒い風が私の髪を揺らし、それと共に少しずつ心が安らいでいくのが分かります。
「懐かしいでしょ、ここ」
 声の方を見ると、彼女は私の隣に立って、笑顔で温かい缶コーヒーを差し出していました。
「ええ、本当に……」
 私はゆっくりと笑ってそれを受け取り、彼女と一緒にその場に腰を下ろしました。
「ほら、あそこ。覚えてる?」
 缶を持ったまま人差し指を立てて彼女が示す先に、小さな噴水がありました。……忘れるはずがありません。私と彼はあそこで夫婦になる約束をしたのです。
「……彼ね、ずっと待ってたんだよ。あなたのこと。あそこでずーっと」
 噴水の方を見ながら、彼女は目を細めて穏やかに話しました。
「実はね、あたし、彼のことが好きだったんだ……」
 ぎゅっと膝を抱え込んだ腕に、顔をうずめながら言った彼女の言葉は、風とともに灰色の空へと吹き抜けていきました。
「知らなかったでしょ? でも、あなたに取られちゃった」
 悲しそうに笑う彼女の笑顔。私はとても複雑な気持ちでした。何となくですが、当時の私も彼女の気持ちには気づいていたのです。でも、彼のことが好きだった私には、それを彼女に問いただす勇気はありませんでした。結局、彼の方から告白された私は、彼と二年ほど付き合った後、大学の卒業に合わせて結婚しました。彼からのプロポーズの時、この噴水の前に呼び出された私は、行くべきかどうか迷っていたのです。それは、無二の親友である彼女への気後れがあったからに他なりません。結局私は、約束の時間を何時間も過ぎた後にここへ来ました。
 それでも、彼はずっと待ち続けていたのです。
「ホントはね、あの日、あなたが来る前に一度ここで彼に会ってるの」
 地面に置いた缶コーヒーの空き缶を指でつつきながら、彼女はぐらぐらと揺れる空き缶を穏やかな目で見つめていました。一瞬の沈黙の後、彼女は話を続けました。
「正直、チャンスだって思った。いつまで待っても来ないのなら、あなたのことを諦めてくれるかもって……」
 缶をつついていた指を止め、再び腕に顔をうずめて彼女は言いました。
「でも、彼は言ったわ。『あの人が来るまでここで待ってる。それまではここから絶対に動かない』って。……完敗だったわ。あたしには勝ち目が無い。そう思ったの。だから彼にも諦めがついた……」
 突然、すっくと立ち上がると、彼女は私の前に一歩出て振り返りました。彼女の目と頬が、微かに赤くなっているように見えます。
「だからさ、多分、彼はあなたが帰ってくるのをずっと待ってると思うよ。私のことなんて気にしなくていいからさ、今からでも帰ってあげなよ。ああ見えても彼、意外と寂しがりやなんだから」
 そう言って笑った彼女の笑顔が、沈みかけた夕日に輝いて見えました。私もその笑顔に負けじと立ち上がり、できる限りの笑顔で答えました。
「私、家に帰るわ。……今まで本当にありがとう」
 私は夕日に背を押されるようにして公園を後にしました。振り返って見た彼女の顔は、夕日を背にしていたために真っ黒で見えませんでした。私は軽く手を振るとまた家に向かって歩き出しました。灰色だった空がいつの間にか真っ赤に染まり、道端ではほんのりと降り積もっていたわずかな雪がキラキラと赤く輝いていました。

 私は無言で玄関を開けて中に入り靴を脱ぎました。そして頭を上げた私の目に飛び込んできたのは、紛れも無い彼の姿でした。開け放たれたドアの奥の食卓でいつもの席に座り、こちらに背を向けて新聞を広げる彼の姿がそこにありました。私が出て行ったままの姿で静かに座っています。彼は私に何も言おうとはしませんでした。私はゆっくりと近づき、彼のすぐ後ろに立ちました。
「ただいま……」
 震える声で言いました。何度も何度も涙が頬を伝います。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ずっと、ずっと私のことを待っていてくれたのね。私が馬鹿だった。もうどこにも行かないから。これからはずっと一緒よ……」
 風呂にも入らずにずっと待っていたようで、彼からはひどい臭いがしていました。それでも、私は彼がずっと待ってくれていたことが嬉しかったのです。私は後ろから彼を抱きしめました。

 その時、ボロッと彼の腕がちぎれて床に落ちたような気がします。
                                                      

2008/12/11(Thu)11:36:27 公開 / かめくん
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■作者からのメッセージ
 こんにちは。かなり以前に一度、別の作品をここに作品を投稿させて頂いたことがある者です。
 今回の作品は、「落ちは何パターンかの解釈ができるように」と考えて書かせて頂きました。ジャンルに関しては、色々と悩んだのですが、恋愛ものという形にさせて頂きました。これは違うだろうと思われた方もいらっしゃるでしょうが、どうぞご容赦下さい。もし、少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。
 それでは、また次回作でお会いしましょう。

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