『名探偵の才能』 ... ジャンル:ミステリ サスペンス
作者:暴走翻訳機                

     あらすじ・作品紹介
気付いたときには既に遅く、事件は起こってしまっていた。脱サラして始めた私立探偵の浮気調査中に、功輝は調査対称の側で目を覚ます。支持率ほぼ0の刑事、優子と犯人の対決。暴走翻訳機が送る、本格派ミステリ小説。

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 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 目の前の光景を目にして、最初に考えたのはそれだった。
 どうして、と男は心の中で反芻する。
 幾ら考えても、答えには至らない。仕方なく、これまでのことを思い出そうとした。
 ビデオを巻き戻すというより、バラバラになった欠片を集めるようにして記憶を構成してゆく。出来上がった記憶は、どこかピースの欠けた穴だらけのジグソーパズルだ。
 男はもう一度、目の前を見つめて溜息を吐いた。
 赤い液体に塗れた掌。床に転がる赤く染まった銀のナイフ。そして、力なく倒れている赤と白の斑の裸体。
 その状況だけで、何が起こったのかは明白だ。
 倒れているのは、女性だろう。一糸纏わぬ生まれたままの姿で、強いて言うならば赤いボディーペイントをしているぐらいか。
 それもまた、床のナイフや男の手を濡らすものと同じなのだが。
 血だった。
 紛れもない、赤い鮮血。
 なぜか服を纏っていない男の体には傷一つ見当たらないので、血は倒れている女性の物だろう。
 確かめるために、うつ伏せの女性をゆっくりと仰向けに返して、首筋に手を当てて脈を取る。触れるだけでゾッと背筋を駆け上る冷たさ、微動だにしない脈。
 既に死んでいる。
 床に真紅のカーペットを広げるだけの出血だ、生きているわけがないのは当然だろう。自分を驚かせるための演技というわけでもない。
 何せ、死体の女性と男はある一点を覗けば全く接点がないのだ。わざわざ自分を驚かせるために、演技をする必要など無かろう。
 確か女の名は嘉納 美貴(かのう みき)。職業は専業主婦。
 容姿は軽くウェーブのかかったロングヘアーに、女優を思わせる整った顔立ちをしている。そんな主婦とは思えぬ美貴は、死して尚、情欲を誘う美しい裸体を晒していた。もし生きていたのなら、この場で襲い掛かっていたとも限らない。
「……調査対象は死亡? 冗談じゃない!」
 男は、沸きあがり掛けた欲望を吐き捨てるように声を荒げる。
 まさか、こんな場面に出くわすなど男は微塵も思っていなかったのだろう。何せ、男の職業はしがない私立探偵なのだ。
 一般に探偵というのは、偶然に出くわした謎めいた事件を解決したり、世界を騒がす泥棒と対決したりする。そんな想像があるのだろうが、実際のところそんなものは小説やドラマの中だけの話だ。シャーロック・ホームズが何だ。明智小五郎が何だ。
 本来の探偵の仕事と言えば、卑屈に人をつけて身元を調査したり、浮気調査という冴えないことをやるものだった。かく言う男も、死体の女性との接点は浮気調査の調査する者とされる者である。金田一耕助のような、冴えない顔立ちの男が人の背中を付回すだけの、ネクラな職業と言えた。
 男は大野木 功輝という、単なる私立探偵に過ぎない。平々凡々とした商社マンとしての生活に希望を見出せず、創作の世界で憧れた名探偵達の真似事をし始めたのが始まりだ。かくも現実とは創作の世界ほど甘くは無かった。汗水垂らして得た平凡な人生から外れ、こうして想像を裏切られるような現実に打ちのめされながらも、どうにかやってきた。三十を過ぎた今になっても結婚せず、女に現を抜かすことも無く。
 それが、何故こんな目に合わなければならないのか。功輝は当たり所の無い怒りを胸に押し込めて溜息を吐く。
 簡単な浮気調査だったはずなのに、気付けば目の前で調査対象の女性が死体になっている。気付いたら、などと警察に話したところで信じてはもらえないだろう。直ぐに取調室に放り込まれ、しつこく追求されるのがオチだ。
 現状が現状なのだから仕方が無い。血塗れになった功輝と、赤く染まったナイフ。誰がどう見ても、美貴を殺したのは功輝本人だと思うはず。弁解の余地などあろうはずが無い。
「どうしたら良い……。警察に? そんな馬鹿なこと出来るわけが……」
 独白するも、良い手立ては見つからなかった。
 このまま放っておくのが、最良の手段だと思った。
 それにしても、どうしてこうなってしまったのか。頭を抱えながら、穴抜けのパズルを読み取っていく。
 美貴の夫、拓也に浮気調査を依頼された。
 とある大企業の商社マンである拓也は、同じ会社のOLだった美貴と結婚した。が、普段の素行に疑問を抱いた拓也に美貴の調査を依頼されたわけだ。
 そして、三日ほど調査を続けていたところに、見知らぬ男とホテル――もちろん男女が愛を営むホテル――に向かう美貴を見つけて後をつけた。
 男一人でホテルに入ることを憚られた功輝は、
「後で連れが来るから、水宮という男のことを聞かれたら部屋に通してくれ」
 などとフロアの係員に嘘を吐いてホテルに侵入した。
 今になって思えば、どうしてホテルの中まで美貴達を追ってしまったのだろう。ホテルに入るところを写真にでも写せば、それで調査は終わっていたはずなのだ。
 今更になって、自分の浅はかさを呪う。
「俺も馬鹿だよな。男とこんなところに来れば、言い訳なんてできないのに。そう言えば、男の方はどうしたんだ……?」
 自嘲していると、フッと重大なことに気付く。
 美貴と一緒に入ってきたはずの男がいない。どこかに死体となって転がっていないか、も確かめてみたが姿は見当たらなかった。
 逃げたのだろう。全てを終わらせて、姿をくらましたのだ。
 こうなってしまっては、功輝も逃げるしかなかった。
 しかし、驚くべきは手口だ。ホテルのシャワーで返り血を洗い流し、排水溝や部屋の隅々から頭髪を消して、指紋さえ綺麗にふき取る。もう、ここに別の男がいたことさえ誰も気付かない。
 係員の誰かが死体に気付いて、警察に通報しても犯人の身元は割れないだろう。
 長居はしていられない功輝は、部屋の入り口に脱ぎ捨ててあった服を着てホテルを出る。
 ホテルを出るところで、フロアの係に呼び止められてしまう。
「あの、お連れの方がまだ来ていないのですが?」
「……あぁ、もう良いんだ。直前でドタキャンされたよ」
 出来る限り平静を装い、フロアを通り過ぎる。係員はそんな言い訳を信じてくれたのか、哀れみの視線を向けながらアッサリと通してくれた。
「今日は恵まれない人が多いなぁ〜」
 係員の男の呟きを背に、功輝は昼過ぎの初夏の日差しに手をかざす。
 さて、どこへ向かえばいいのだろうか。
 ホテルを出た功輝は、心の中で誰とも無く問いかけた。
 その時、ポケットの中で携帯電話が騒ぎ立てる。誰からだろう、と液晶画面を見ると、依頼主からの電話だった。
「はい、大野木です。どうか、されましたか?」
 少々戸惑いながらも電話に出る。
『あ、いえ……調査の方は?』
 功輝と変わらぬぐらいの、若い男の声が電話口から聞こえてくる。落ち着きのない声だ。
 こうしたやり取りはこれまでにもあったので、大して気にせず先を続ける。
「そのことでしたら順調に進んでいます。まあ、結論から言って、奥さんは浮気をされていますよ」
『ッ!』
 功輝の単刀直入な物言いに、拓也の息を呑む声が聞こえた。
 まあ、前振りもなくストレートに結果を伝えられては、夫も気が気ではなかろう。もしかしたら、どう妻を問い質そうかと思案しているのかもしれない。
「報告書の方は後で送りますので、しばしお待ちください」
『わ、わかりました……ところで……』
 妻の浮気に戸惑っている、狼狽した歯切れの悪い声音。
「何でしょう? 今すぐには、無理ですよ。ちょっと、証拠を撮り損ねてしまいましたので――」
『あ、いえ……その、何でもありません。ホテルから出てきたら、報告書の方をお願いします』
 それだけを言い残して、電話は切れてしまう。
 功輝は携帯をポケットにしまって、これからのことを思案する。
 電話ではそう言ったものの、確かな証拠など送れるわけがないのだ。二度と、生きて出てこない人間を撮影するなど、時間を戻らなければ不可能な話。
 自分の置かれた立場が探偵としての物ならば、もう少し気の利いた返答が出来たというのに。
 そこまで考えて、功輝は何度目かの溜息を吐いた。


 風俗街のとあるホテルから通報があったのは、初夏の日が暮れ始めた夕方の六時だった。
 当惑しながらも、
『部屋に女性の死体がある』
 というような簡潔な内容。
 第一発見者は、部屋の掃除に入った清掃員の男である。禿頭を撫でる初老の男性。通報してきたのは、清掃員ではなくフロア係の男性だろう。
「そりゃたまげたもんだよ。『未使用』の札が掛かっていたから中に入ったら、血塗れで倒れてるんだもんな。しっかし、美人さんが台無しだね。しばらく立たなかった息子が、ついつい喜んじまったてぇーのに」
 死体を発見したにしては、余裕のある口ぶりで清掃員が話す。
 フロア係の男性は死体を見たショックか、言葉少なく状況を証言するだけで清掃員に聞くしかなかった。
 呆れたものだ、と証言を聞く若手の刑事は内心で呟く。
 まさか、この清掃員が殺人犯でもあるまい。堂々としすぎているし、年齢から考えても女性にさえ返り討ちにされそうな痩躯をしている。
「柳谷、そっちはどうだ?」
 柳谷と呼ばれた若手の刑事が、呼び声に振り向く。
 呼びかけてきたのは、三十路ごろの婦警。歳の割りにはそれほど厚い化粧はしておらず、見方によっては二十台前半と言われても遜色はない。
 威張った感じの口調に似合わぬ、日本人特有の黒髪のポニーテールを振りながら、柳谷に歩み寄ってくる。
「どうも、こうも、発見時の現場の様子ぐらいしか聞けませんよ。しかも、話す内容が卑猥で聞いてられません……。黒霧先輩こそどうなんですか、フロア係からは?」
 柳谷が黒霧と呼ぶ婦警、黒霧 優子(くろぎり ゆうこ)は僅かに顔を顰める。優子も、戸惑ったフロア係からそれほど重要な証言を聞き出せなかったのか。
 そう危惧していると、
「柳谷君は、福祉のお勉強をしてこなかったのかなぁ。お年寄りと話す時は、冗談の一つや二つ軽く受け流せないと駄目ですよぉ」
次に優子の口から突いて出た言葉に柳谷は二の句が告げなくなる。
 子供をからかうような、大人気の無い台詞。
 中学を卒業してから刑事を夢見て勉強してきた人間が、どこで福祉の勉強をするのか。相変わらず、脈絡の無い頭の回転をしている優子をどう黙らせようか。
 色々な疑問が頭を駆け巡る。
「皆まで言うな。今の若者には儒教の考えが浸透していないのは、重々承知の上だよ。けどね、年功序列というのはどこの世界にもあるものさ。警察にだって、階級もあれば年齢という格差があるのだから、早いうちに身につけて置いた方が良いと思うわけよ」
 柳谷が何も言わないうちに、優子が一方的に捲くし立ててくる。
 言っていることは正しいのだが、どこか説得力がない。たぶん、それは普段の優子の言動とそぐわないからだろう。
 女らしからぬ口調と、相手に構わず苛立てば暴言を吐き捨てる人間に説教されたところで、素直に肯けない。
「部長が聞いたら、溜息ものですよ、それ……」
 とりあえず、突っ込んでおく。
「はて、何のことでしょうか? 私は何も見てない、聞いてない」
 やっぱり、大人気なく耳を手で塞いで、目を閉じながら誤魔化そうとする。普段から、忘却は人間の叡智だ、などとのたまう優子に反論など馬の耳に念仏だった。
「それより、フロア係の証言はどうなんですか? 怪しい人物を見たとか、異常に挙動不審だったとか」
 尋ねている柳谷にも、どちらが先輩なのかわからない。
「そのことなんだけどね、身元のわからない怪しい男が三人も浮かび上がっちゃったわけよ。犯行時刻と思われる三時前後、ホテルを一人で出てきた三人。こんなところで、男が三人って言われても見当がつくわけないじゃない。ちゃんと顔を覚えておきなさいよね!」
 勝手に怒って、勝手に嘆く優子。
 忘却は人間の叡智、なのでは、と言葉に出して突っ込むのも億劫になる。
 しかし、優子が言うのもこればかりは肯ける。何せ、現場検証がほとんど終わった今になっても、犯人の物と思しき物証が何も出てきていないのだ。
 頭髪の一本どころか、そうした場所でありながらそうした行為をした形跡さえない。指紋も綺麗に拭き取られており、照合する対象すら特定できない。
「監視カメラとか、何かには映って……ませんよね」
 柳谷が全てを言うよりも早く、自分の発言が無意味であることを悟る。
 こうした施設に入った経験のない柳谷にも、一目でこれらのホテルの秘匿性が理解できた。
 客のプライバシーを守るため、と言いながらも経費削減が主な理由で監視カメラなどをつけておらず、面倒ごとを避けるために名簿も客の自主的な氏名のみを書かせるだけ。要するに、客の身元を探るものが全くないのである。
「一人は、サングラスとマスクをつけたいかにも怪しい男。二人目は、被害者と一緒に入ってきた交渉相手の男。もう一人は、寸前で女に逃げられた三十代の男。フロア係の証言で似顔絵“モンタージュ”を作成してるけど、どこまで信じられるかは測定不能よ」
 ブツブツと証言の男の容姿を羅列して行く優子。
 人間の記憶力とは曖昧で、一人目を除けば残りの二人の容姿をどれだけ性格に覚えていられるものか。
 一人目と三人目は、交渉相手は後で来ると言い残してそそくさと部屋を取り、なぜか二人とも女に逃げられて手ぶらで出て行ったという。
「被害者の交渉相手が一番怪しいわね。うん、痴情の縺れによる突発的な犯行。被害者の身元が判明し次第、周辺を洗えば見つかるでしょ。これで捜査終了、めでたしめでたし、と!」
 そんなに捜査がしたくないのか、面倒臭がり屋の優子らしい投げ遣りな推理を残して外へ出て行こうとする。
 捜査本部も優子の推理を推進するだろうが、他の二人の身元が割れるまでは決め付けられない。それに、物証が出ていない今、残りの二人ではないという可能性を否定する要素がない。
「一応、被害者の近辺から三人の身元を洗って見ます。マスコミに似顔絵を流せば、目撃情報も得られるでしょうからね」
 優子が役に立たない今、捜査を引っ張っていくのは自分しか居ないと意気込む柳谷。
 いつもは疎ましい報道関係も、こうした時には役に立つのだ。優子よりは。
 優子は捜査一課内でも多くの関係者から疎まれている。若くして警部の階級を持ちながら、それから一向に昇進する様子が見られない『万年警部』のレッテルを持つ。
 警部という肩書きさえ捜査の才能やら有能性を示しているわけではなく、単なる国家試験に合格して巡査部長から年功序列式に昇進しただけの俗に言うサラリーマン刑事だ。
 気紛れに捜査しているだけならまだしも、自分の勝手な感傷で捜査を掻き回し、気に入らない人間にはすぐさま暴言を放つ。自由奔放で身勝手な性格は、捜査一課の隠れざる汚泥として警視庁でも有名になった。
 その辺りは、まだ普通のサラリーマン刑事の方が幾分かマシだと言えよう。
 きっと学生時代も、友人の少ない青春を送っていたのだろう、と柳谷は邪推しつつ被害者嘉納 美貴の身辺捜査に乗り出す。もちろん、優子が役に立たないのでほとんど一人で聞き込みをしなければいけなかった。
 そして、怪しいサングラスの男を除いて、二人の容疑者の身元は二、三日で調べられた。
 マスコミが報道した似顔絵の目撃情報と、柳谷の頑張りの賜物だ。

2008/11/05(Wed)00:13:39 公開 / 暴走翻訳機
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■作者からのメッセージ
はい、なんとなく『ラスト パートナー』の執筆を休止して書き始めてしまったミステリ物です。いえいえ、せっかく脳内で出来始めたネタなので、これまで感想を下さった読者の皆さんのご要望にお答えしたいと思っただけです。
忙しい季節ですが、二作同時進行を頑張りたいと思います。どうか、犯人逮捕までお付き合いいただければ幸いです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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