『遠藤優二のメヌエット。』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:榛名水木                

     あらすじ・作品紹介
 妹ばかりに愛情を注ぐ両親のもと、遠藤優二はつまらない日々を過ごしていた。三度の食事さえまともに食わせてもらえない生活の中、きっかけは突如、彼を訪れた。その日から数えて三日間、その最終日に、彼はついに“終曲”を奏でる。

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遠藤優二のメヌエット。


「お帰り、優奈!」
「ただいまぁ!」
 その日も、母親の暖かな笑顔に迎えられて家に入っていく遠藤優奈、小学一年生になったばかりのまだ幼い少女。その後ろから、高校一年の兄、遠藤優二が入ってくる。学校からの帰宅途中、玄関の手前で、二人はたまたま一緒になったのだった。
「ただいま」
 呟くように挨拶をして部屋へ向かう優二。優奈につきっきりでリビングへと入っていってしまった母親は、彼の声が聞こえているのかいないのか――おそらくは聞こえているのだろうが、笑顔を見せなかった。いつものこと、だ。
 優二は特に気にする様子もなく、もう慣れたように部屋に入り、ドアを閉めた。鍵はかけない。というのも、この部屋の鍵は外側からしか開け閉めが出来ないように父が改造したため、普段、何事もないときは開いている。
 机の横に鞄を放ると、優二はベッドに寝転んだ。
「ふぅー……」
 彼は公立の、そこそこ頭のいい高校へ通っていた。あまり馬鹿だと叱られるし、かと言って極端に優秀だとねたまれるため、なるべく妹と同じくらいの学力を保ち、そこそこの高校を選んだ。友達は沢山いるが、一緒にいるとなぜか決まって怒られる。最近ではその仲も、それぞれ薄れていた。
「お兄ちゃーん」
 ドアを小さく開けて、優奈が顔を覗かせた。優二が頭を浮かせると、何やら沢山の教科書とノートを持っている。これも、いつものこと。幼いなりに気を使っているのだろうか、若干言い出しにくそうな優奈のために起き上がって、尋ねてやる。
「今日は何?」
「えっとね……算数と、漢字練習と、理科の実験」
 理科の実験、と優二が聞き返すと、優奈は微妙な顔をして笑いながら、
「結果、友達と話してたら聞き逃しちゃったの」
「そう。何の話、してたの?」
「えーっとねぇ……」
 聞かれて嬉しそうに口を開いた優奈に、
「優奈、ケーキあるわよー!」
「あ、はーい!」
 リビングから、母の甘い声がかかった。ドアから顔を出して返事をした優奈が、また部屋に顔を覗かせて、優二に声をかける。
「ケーキだって! お兄ちゃんも食べたら?」
「俺ァいいよ、さっき友達とケーキ食べちゃったから」
 優二は宿題を受け取って、そう嘘をついた。なぁんだ、とつまらなさそうに呟いた優奈は、ちらりとリビングの方を振り返り、母が見ていないのを確認すると、部屋に入ってきた。
「ダメだよ、母さんに怒られるだろ?」
 優二がすかさず言ったが、優奈はベッドの上にまで上がってきて、困ったような顔をする優二の首に両腕を回して、抱きついた。
「お兄ちゃん……」
 小学一年生の彼女でも、両親の態度が自分と兄とで随分違うことには薄々感づいているらしい。時々彼女はこうやって、優二の部屋に入ると怒る両親の目を盗んで、抱きつきに来る。
 一瞬寂しそうな顔をした優二は、その後わざと笑って、
「どした、優奈? 俺ならなんともないから、ほら、ケーキ食べといで」
 そう言って優奈の体を離し、部屋の外へ送り出してやった。ぱたぱたと足音が聞こえて、母の優しい声が聞こえる。――さて。
 早いところ片付けてしまおうと、優二はまず、算数のノートを開けた。ぱらぱらと今日のページを探す間、宿題のところだけ字体が違うのを、優二は何ともくだらないといった顔で見ていた。優奈の字と似せて書きなさい、と母によく言われるが、限度というものがある。
 小学一年生の初期の算数、“1+1”から始まるそれは、優二にとってはまさにお手の物だった。しかし、気は抜けない。ついこの間、自分の課題もあって徹夜でそれを終わらせた日には一問間違いがあって、確か“6−4”の記号を見誤って“10”と回答してしまったのだったが、その日の夕食と、次の日の朝食を抜かれた。
「腹減ったな……」
 優二は思い出したようにそう呟いて、家がパン屋を経営している友人にもらった、賞味期限の切れたメロンパンの残りをこっそりと頬ばった。

――「弁当足んねぇ! 腹減った! 何でもいいから食えるもんくれ!」

 そう言って、昼休みに馬鹿みたいに騒ぎ立てていたら、“だったらこれ、もらってくれない?”と、隣の席の友人が差し出したのがそれだった。一日くらい平気よ、と母親から渡されたらしいのだが、食べる気になれず、こっそり捨てようかと思っていたらしい。優二はそれに食いついたのだ。半分残しておいてよかった、と思う。
「うま……」
 算数を解きながらパンを噛んでいると、リビングから、優奈の練習するバイオリンの音が聞こえてきた。まだぎこちなさの残る“メヌエット”だった。
 音が耳に入るや否や、びく、と体を震えさせた優二は、必死の形相でかばんの中からCDプレイヤーを取り出し、ヘッドホンをすると、普段は聞かないロックを大音量で流した。息が荒くなって、頭の中に嫌な記憶が流れて、そのまま机に顔を突っ伏す。

――「あんた、才能ないのよ」

 幼い頃、どんなに練習してもそう言う母が、それでも優二は好きだった。愛して欲しくて、認めて欲しくて、ピアノもバイオリンも勉強も、習わされた稽古事は必死に頑張った。中でも一番苦手だったバイオリンは、稽古の時間が終わっても練習した。母からうるさいと言われてからは、木の板に輪ゴムを五本はって、それで練習した。
 学校の音楽の先生から太鼓判を押してもらったある日、稽古が始まる前に、優二はバイオリンを持って母の部屋へ向かった。頑張った成果を、彼女に認めて欲しかったのだ。
「母さん、僕、頑張って練習したんだ。見てて!」
 優二はそう言って、バイオリンの綺麗な音色を奏で始めた。弾かれているのは彼が一番苦手だった課題曲“メヌエット”で、その仕上がりは完璧に近いものだった。
「…………」
 始めこそなんとなく聞いていた母だったが、たいして弾かないうちに、曲を遮るように優二の髪をわしづかみにした。小さく悲鳴を上げた彼の手からバイオリンを奪い取って、それを突然、床に叩きつけた。
「あっ!!」
 思わず声を出した優二の目の前で、ばきっ、と鈍い音を立ててバイオリンが割れた。弦が弾け飛んだ拍子に足に短い切り傷ができたが、
「あ……あっ……!!」
 そんなものにはまるで構わず、目の前で壊されたバイオリンを凝視して、嗚咽しか出てこない。母はふん、と鼻で笑って、
「あんた才能ないのよ」
 髪を引っ張って引き寄せた耳元に、冷たく言った。目を見開いたまま絶句している優二に、
「もうやらなくていいから」
 そう言い放って、母は部屋を出て行った。その日、彼の夕食は無かった。

――「もうやらなくていいから」

「――っ!!」
 ぞく、と全身を駆け抜けた酷い寒気に、机に突っ伏していた優二は突然体を起こした。がんがんと頭に響くロックも聞こえなくなり、机の上のペン立ての中からカッターナイフを取り出した。ワイシャツの襟元を大きく開けると、
「っ、あ!!」
 押し殺した悲鳴に合わせて、鎖骨の下あたりに刃を滑らせた。震える手で傷を押さえ、だらだらと流れてくる血を見てきつく目を瞑る。そこには、もう治りかけているものからまだ新しいものまで、数え切れないほどの傷跡があった。
 息を荒げる優二は、頬を伝った冷や汗を拭って、
「……ぁ」
 優奈のノートに、血が垂れているのに気づいた。青くなった優二は、どうしようと数秒考えたのち、その丸い血の周りに、赤いペンで短い直線を数本書いた。太陽を、書いたのだった。丁度そこは反省を書くスペースだったため、彼はその太陽から吹き出しを作り、きちんとがんばれました、と書いた。
 痛みを紛らわすように大きく溜息をつくと、だらだらと血の流れてくる傷を片手で押さえながら、彼は算数の続きにかかった。


 ただいま、と低い声が聞こえた。お帰りなさい、と高い声も聞こえる。

――来たか。

 最後の宿題である漢字練習の最後の漢字、“赤”の八回目を書き終わったとき、優二は目線を宙に泳がせた。素早く残りの二回を書き、おもむろに立ち上がると、制服をかけているクローゼットの中から、ブイネックのセーターを取り出した。血に染まったワイシャツの胸元を隠すようにそれを着て、ネクタイを締める。こうすれば傷も見えない。
「ふぅー……」
 優二は机に戻って、シャーペンを握って再び溜息をついた。彼の緊張の時間は、いつもここから始まる。
「お帰り、パパ!」
「ただいま、優奈」
 片手でネクタイを緩める彼は、大層な“教育パパ”だった。おかげで、優奈は義務教育が始まった一年目から、早くも塾に通わされている。高校一年の優二も通わせてよさそうだが、養子のお前にかけてやるような金は無い、と言って、彼には独学で勉強させている。――そう、優二は優奈と、遠藤家と血がつながっていない。両親が病死した家庭からやってきた、養子だった。
「今日は成績が出る日だな。勉強、頑張れたか?」
 父に尋ねられて、うーん、と曖昧な返事をする優奈。彼女が背中に隠すようにして持っているのは、今日、小学校で初めてもらった内申書だった。その結果に満足しているのかいないのか、優奈は照れ笑いをしている。
「どれ、見せてごらん」
 父が内申書を受け取り、開いてざっと数字を見る。合計点数に目を留めること数秒、ゆっくりと口を開くと、
「初めての成績とは思えないな。上出来だ」
「……うん!」
 笑顔を見せた。ほっとした顔をする優奈が頷き、彼らは食事を始めた。空腹で敏感になった優二の嗅覚から推測すると、今夜はカレーライス。是非食べたかったが、いつまで経っても呼ばれない。内申書についての会話自体は彼にはよく聞き取れなかったが、ダメだったんだな、と思った。
 完璧に終わらせた宿題を紙袋に入れて、部屋のドアノブにかけておく。食事を終えた優奈が自分の部屋に戻っていく途中に、宿題を受け取れるようにするためだ。
「……ぁっ、くしゅん!」
 優二は一つ、大きなくしゃみをして、噂されてるな、と鼻をすすった。


 “緊張の時間”は、思っていたより早くにやってきた。
 ばん、と乱暴にドアが開き、眉間にしわを寄せた父が入ってくる。机に向かって自分の課題を進めていた優二が振り返るや否や、父はその頬を思いきり殴った。
「っ!!」
 あまりの衝撃に椅子から落ち、床に頭をぶつけた。しかし、優二にさほど驚いた様子はない。彼はむしろ冷静なほどで、父の向こうで開きっ放しになっている内開きのドアノブに、ちらりと目をやった。かけておいた宿題は、もうなくなっている。優奈がこの部屋の前を通る心配もなく、それならいいや、とぼんやり思う優二。そんな彼のワイシャツの襟を掴んで、起こすと、父は問う。
「優奈の成績、いくつにしろと言った?」
「……四十五」
 答えた優二の、今度はこめかみを殴って、父は言う。
「四十三だった。どういうことだ」
 優奈に聞こえないよう、父は大声こそ出さなかったが、その鋭い目は恐ろしかった。がんがんと響く頭痛に耐える優二が黙っていると、父は彼の頭を椅子の背に叩きつけた。悲鳴が上げられないよう、鼻と口を手で覆って。
「んうっ――!!」
「どういうことだ」
 激痛と息苦しさに、うっすらと目に涙を浮かべる優二に問いただす父。数秒して手を離すと、優二は床にうずくまって、むせ返るように息を吸った。
「げほっ、ぇほっ……!!」
「どういうことだと聞いてるんだよ」
 床に両手をつき、肩で息をする優二の首をつかんで、父は椅子の背に押し付けるように締め上げた。あまりの力に喉が押し潰されそうになって、
「ご……っめ……な、さぃ……!!」
 ろくに空気が吸えない中、やっとそれだけ言った。父は手を離さない。
「謝罪など聞きたくない。次はどうするんだ」
「つ、ぎ……っ、よんじゅ……なな……取ら、せ……っあ……ぅ」
 必死に息をつなぎ、誓いを立てる優二の唇が、酸欠で紫っぽく変色している。そして唇の端から唾液が漏れたのを見て、父はようやく手を離した。
「――っは!! ごほ、げほっ、ごほっ!!」
「次、言った通りの成績で無かったら……分かってるな」
 四つん這い状態で喉を押さえる優二を見下ろす父が、
「……何だ、それは」
「はぁ、はぁっ……?」
 尋ねられて力無く父を見上げた優二の胸、丁度開いた隙間に赤いものが見えて、父は優二を蹴って仰向けにさせると、そこへしゃがみ込み、するりとネクタイを解くと、彼のワイシャツの襟をぐっと下げた。
「はぁっ……!?」
 まずい、と優二は血相を変えた。恐る恐る父の顔を見上げると、見開かれた目からは怒りの色が滲みだしていた。
「そんなに死にたいか、お前は」
「――っ、ちが」
 優二の声など聞きもせず、おもむろに立ち上がった父が机の上から取ったのは、その傷を作ったカッターナイフだった。無論、血は拭き取ってあったが、柄の部分には若干量の血が残っている。
 父は片手でその刃を長く出すと、開いている手で彼の腕を、丁度彼の頭のすぐ上の床に押さえこみ、動けないように彼の上に跨るように膝をつくと、
「どうせならもっと深く切って、死んでしまえ」
「むう!?」
 優二の口に解いたネクタイを丸めて詰め込み、じくじくと乾ききっていない傷口に、刃を押しあてた。
「う……っ、んぅふっ!!」
 目を見開いてもがく優二だが、父の力を跳ね返すことは出来ず、逃れる術を持たない彼の傷口は、見る見るうちに血を噴き上げ、深くなっていく。
「うーっ!! ふ、ぅ、んぅぅうっ!!」
 狂ったようにうめき声を上げる息子の有様に、父は快感すら覚えているような顔で、にやりと笑った。胸に浅く刃が突き立ったままの状態で手を離し、口の中のネクタイを取り除く。
「ひっ……ぁ、は……はぁ、っ……!!」
 無意識のうちだろう、妹に聞こえないように声を殺し、過呼吸を起こす彼の顔は、真っ青になっていた。たまたま通りがかった部屋の向こうに、尋常でない息使いを聞きつけた母が入ってきて、
「きゃあぁぁぁあぁあっ!!」
 家中に響き渡るような、甲高い悲鳴を上げた。それではっとした父が慌てて刃を抜いたときには、優二は半開きの目をあらぬところへ向けたまま、時々体を痙攣させ、気を失っていた。
「うわぁあ……!」
 父が情けない声を上げたところへ、
「ママ、どうしたのー?」
 てとてととおぼつかない足音と共に、寝ぼけ眼の優奈がやってきた。ぎょっとした母が優奈の肩を抱えてその部屋から遠ざけ、奥でおろおろと優二を抱えている父に叫ぶ。
「あっ、あなた、早く病院へ!! 救急車よ!!」
「きゅうきゅうしゃぁ……?」
 何でもないのよ、優奈はいい子で寝ようね、と促しながら部屋へ戻す母。言われたとおり、父は携帯電話で素早く“119”をかけた。


 優二が退院したのは、それから三日後の朝のことだった。
 救急車で病院へ運ばれた日に緊急手術をし、胸の傷を十針縫って、丸二日間は絶対安静、とベッドの中で過ごした。そして今日の午前中に退院、その足で学校に寄って三日分の授業の補習を受け、今、帰宅しようとしている。
 病院の中は、なにより安全だった。殴られないし、怒鳴られないし、おかげで体に残っていた沢山の傷も、もうほとんどが目立たなくなった。もっとここにいたい、むしろ一生をここで暮らしてもいいと、本気で思ったくらいだ。
「ただいま」
 玄関の前で少し躊躇した優二だが、思い切ってドアを開けた。
「お兄ちゃん!」
「うわ!」
 帰宅した優二を始めに迎えたのは、優奈だった。優二が玄関のドアを開けた瞬間、待っていたかのように跳びついて来て、しがみついて離れない。たった三日とは言え、やはり兄がいないのは寂しいらしい。
「くすぐったいって!」
「お兄ちゃん……」
 もうどこへも行かないでね、と無邪気に見上げる優奈に、うん、と頷いた優二は、とりあえず鞄を開けて、その日の彼女の宿題を手渡した。昨日も“お見舞い”として母から渡された優奈の宿題、丁度、提出期限が明日のものを、彼は家路を走るバスの中でやっていたのだった。
 優二を迎える優奈に向けて、早くリビングに戻ってらっしゃい、と決まって聞こえてくる母の声が、今日は聞こえない。怪訝に思った優二は尋ねる。
「母さんは?」
「今日は二回目の金曜日でしょ、パパとママは二人でお出かけよ」
 当たり前のように答えた優奈に、あぁ、そうか、と優二は呟いた。毎月第二金曜日、両親は決まってどこかへ行く。家のことを全て優二に任せて、“息抜き”をするのだという。何をしているのか定かではないが、脱ぎ棄てられたコートのポケットの奥にラブホテルの会員カードを見た時から、優二は何となく分かっていた。
 久しぶりに入った台所でコップに麦茶を二人分注いで、部屋へ向かう。その途中で、優奈が優二のセーターの裾を引っ張った。どした、と優二が振り返ると、優奈は少し考えるように目線を泳がせてから、小さな声でこう言った。
「ねぇ、今日はね、お兄ちゃんにお願いがあるの」
 何、としゃがんで優奈と目線を合わせる優二に、彼女は言う。
「バイオリン、弾いてほしいの」
「!?」
 目を見開き、優二は顔を強張らせた。半開きの口から、言葉が漏れる。
「……ど、して?」
「お兄ちゃんがバイオリン上手なの、優奈、知ってるから」
 優奈は照れたように手を後ろで組んで、床を見てはにかんでいる。優二はバイオリン、という言葉をそもそも久しぶりに耳にして、胸の傷にそっと手を当てた。手持無沙汰になって、きゅ、とセーターを掴む。
「優奈のバイオリンじゃ、ダメ?」
「……いいよ」
 咄嗟に頷いてしまった。言った後で酷い焦燥感に襲われたが、優奈はそれまでぎこちなかった表情を一気に明るくして、
「やったぁ!」
 とても嬉しそうに笑った。


 ほとんど入ることのなかった優奈の部屋で久しぶりに目にしたバイオリンは、なんだか少し小さいように感じた。
「メヌエットがいいなぁー」
 優奈がリクエストしたのは、優二が一番苦戦して、一番練習した課題曲。その曲名も、随分久しぶりだ。学校の授業で、リコーダーか何かで演奏したきりだ。
 ケースの中から取り出したバイオリンを、優奈は優二に差し出した。過去に母から言われた言葉が頭をよぎり、思い切りよく手が伸ばせず、優二は困ったように言う。
「もう、何年も弾いてないから、俺、きっと下手になってるよ?」
「いいの! お兄ちゃんが演奏してるとこ、見たいの!」
 優二の苦し紛れの言い訳は、間髪入れずに跳ね返されてしまった。
 震える手で、言われるままにバイオリンを受け取って、正面から見つめる。母に壊されて見る影もなくなった“あいつ”、それはまさにその形だった。母への恐怖が寒気となって体を襲い、危うくそれを落としそうになる。
「……っ……」
 三日前、優奈が弾いていたときの音色を、ふと思い出す。彼女のそれはまだまだぎこちなかったが母は怒らず、むしろ褒めていた。

――俺も、もっと沢山弾きたかったよ。

 今更ながら、優二は胸中でそっと呟いた。
 幼い日、壊された楽器をビニールに入れて、泣きながらゴミ捨て場に置いてきたときのことを思い出す。朝早くに捨てに行ったのだが、そこにしゃがみこんで延々泣いて、帰宅したのは正午を過ぎていた。ゴミを捨てに来る大人から何度も声をかけられて、その度に首を振ってやり過ごしたのを覚えている。

――俺も“あいつも”、何も悪くないのに。

 そう思って、ふと気づく。それでは、どうしてこんな生活を続けている? ぶたれながら、叱られながら、どうしてなお、それを続ける――?

――いっそ、いらないじゃない。そんな“生活”。

 なんだか無性に馬鹿馬鹿しくなってきて、気がついたら笑い声が漏れていた。いつの間にか手の震えも止まっていて、なんだかバイオリンが指先に馴染んだような気がする。
「……お兄ちゃん?」
 バイオリンを見つめて、突然笑い出した優二の腕をつついて、優奈が心配そうに声をかけた。優二は彼女に優しく目をやって、
「ふふ、メヌエット、だっけ?」
 怪訝な顔をする優奈の前で、バイオリンを構えた。長年触っていなかったとは思えないほど、それはぴたりと顎の下に収まった。久しぶりに感じる楽器との一体感に、優二は気味が悪いほどの快感を覚えていた。
 五本の弦を端からリズム良く弾いて音を確かめると、
「弓、貸して」
 そう頼んで優奈から受け取った弓を、そっと弦に滑らせた。
 ――曲が終わるまでは、あっという間だった。間違えもせず、つっかかりもせず、特にリズムも乱さないで、優二はほぼ完璧なメヌエットを奏でた。それは母に愛されたいがためのメヌエットではなく、優二が弾きたくて弾いた、言うならば“優二のメヌエット”だった。
 美しい音色に終始聞き入っていた優奈は、曲が終わると大きな目を輝かせて拍手をする。
「すごい、お兄ちゃん!」
「ふふふっ……」
 優二はおかしさを堪えるように笑って、
「あー、馬鹿馬鹿しい」
「え?」
 天井を見上げて、そう言った。優奈が聞き返したが、もうそんなものは彼の耳には入って来ない。彼はバイオリンの弓をくるりと指先で回して、優奈を見やった。
「ねぇ、もう一曲弾いてもいい?」
「え、もっと弾いてくれるの? じゃあ、カノンがいい!」
 カノンも、課題曲の中の一曲だった。早いテンポに弓が追い付かず、演奏の途中で何度もぶたれたのを思い出す。優二は一層おかしそうに笑いながら、今度は体を揺らして、これもまた、完璧なカノンを弾いて見せた。もう、止まらない。
 七時を回り、お腹が空いた、と優奈が言ったので簡単なシチューを作って食べさせ、風呂を沸かし、洗濯を終えた後も、優二は再びバイオリンを握って、弾き続けた。優奈は、何をするにも綺麗なバックミュージックがついて回るのに喜んで、次々と曲をリクエストした。
「ただいま」
「優奈、いい子にしてたぁー?」
 ほろ酔い状態の両親が返ってきたのは、夜中の十二時を回った頃だった。聞こえてくる美しい音色に耳を傾け、心地よさそうに優奈の部屋へ入ってきた両親は、優雅にバイオリンを演奏する優二の姿を見るなり、
「何やってんのよ!?」
「誰が優奈の部屋に入っていいと言った!?」
 子守歌代わりに演奏を聞き、うとうととしている優奈がいることも忘れて大声を出した。うーん、と優奈が目を覚まして、
「あ、パパ、ママ、お帰りなさい! ねぇ、すごいのよ、お兄ちゃんがね、」
「優奈。あの人にバイオリンなんて貸すことないわ」
 楽しそうに話そうとするのをきっぱりと遮るように母が言って、
「今すぐそれを返しなさい。それからここを出て行け!」
 父が優二に怒鳴った。びく、と優奈が不安そうな顔で肩を上げる。優奈はもう寝る時間よ、と母がなだめにかかって、父は優二の持つバイオリンに手をかけた。優二はまだ、音色に酔ったように笑っている。
「っ――何がおかしい!!」
 眉間にしわを寄せた父が、優二のこめかみを殴りつけた。バイオリンを離し、開いていたドアから廊下に倒れた優二。父が歩み寄って胸倉を掴み、再び殴ろうと振り上げた拳を、
「ねぇ」
「っ!?」
 ぱん、と乾いた音を立てて、優二の手が止めた。久しぶりに見た息子の抵抗に一層腹を立てた父は力任せに彼の首を締めたが、彼の笑い声は止まらない。
「ひっ……あっ、はは……!」
 にい、と白い歯を見せて笑う優二の顔にただならぬものを感じて、父は思わず手を離した。少し咳をした優二はふらりと立ち上がると、
「これが、“俺のメヌエット”の終曲だ――!」
 そう言って、普段は立ち入ることを禁止されている二階、両親の部屋がある階への階段を駆け上がった。
「待っ」
 まさか、と思って目を見開いた父が優奈の部屋の窓へ駆け寄り、窓を開けて見上げようとした瞬間、どさっ、と何かが落ちた。音が鳴る一瞬前に、遠藤家の両親は、狂ったように笑った優二の顔を見た。
「お兄ちゃんねぇ、メヌエットがすごーく、上手だったのよー?」
 寝ぼけ眼の優奈が、ベッドの中で母にそう笑いかけた。

(終)

2008/10/15(Wed)22:53:39 公開 / 榛名水木
■この作品の著作権は榛名水木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 こんばんは。こちらには初投稿の短編物語です。
 長編でしかお邪魔したことがなかったので、ちょっと緊張しております(笑

 短編がものすごく苦手で、いつもダラダラと長くなって長編に逃げる、という悪循環から抜け出すため、最近は長編をストップさせ、短編に挑戦中です。短い中で上手く終わりに持っていかなければならないので、長編よりも難しい感じがしました。
 短編挑戦への第一歩として、実は今回の作品は字数制限から入りました。そのため、とりあえず10000字以内に収まっております。字数だけ見たら成功ですね。こんな書き方は良くないのかもしれません、慣れてきたら徐々に改善していくつもりです。;;

 全体が短い分、描写数が減りそうだったので、なるべく意識して背景・心理状況を書くようにしたつもりなんですが、短編の具合がわからないのでなんとも。過不足の指摘をいただけると大変参考になるので、もしよかったらお願いします。
 話の進行速度や度合(もっと長い期間を書け、あるいはもっと短い期間でいい、等)についての感想も同様にいただけると嬉しいです。

 率直な感想、批評をよろしくお願いします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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