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『神様の絶対領域―第四章・上―』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:夢劇場
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あらすじ・作品紹介
田舎町「桜海(おうみ)」は【紅子神(こうこじん)】と呼ばれる神様によって護られていた。その姿は神秘的で、その力は絶対的――だった。 一匹の化け物が願いを叶えた時、静かに均衡は崩れる。
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朧月に照らされた巨大な桜木の下で、和やかにその対談は行なわれていた。
『女』は桜の影で楽しそうに口角を歪め、目を細めると何度目かの笑い声を漏らし始める。
「ねぇ……さっきからボクの話、聞いてる?」
すると拗ねた様子の『化け物』が口を尖らせて女に尋ねる。
化け物は天を突く様なその長身を精一杯丸め、女をほぼ真下に見ていた。対する女は至って悠長で、地べたで胡坐を掻くと事の成り行きを面白がる様な表情で化け物を眺めた。
女のそんな表情に化け物が微かに唸る。
「む〜。キミ、さっきから失礼だよ?」
化け物の一言に女は目を剥き、とうとう声を上げて笑い出す。
「あっはははっ。私? 私が失礼かぁ〜。あははっ……うわっと! ごめんごめん、怒らないで。私が悪かったから!」
「次、失礼な事したら、本当にパンチだからねっ!」
化け物の振りかざした掌は柔らかそうな肉球に覆われてこそいるが、その先端にはそれぞれが人の赤ん坊程の大きさもある五本の鉤爪の姿があった。
「ぅふっ……はぁい」
獰猛な掌を振りかざす化け物に、女は必死に笑いを噛み殺しながら頷いた。
「まったくもうっ……それで、ボクのお願いなんだけど……」
盛大なため息の後、振り上げた掌を静かに下ろすと、化け物は改まった様子でそう切り出した。
「ん。言ってごらん」
女は平静のままで、頬杖を付くと楽しそうに化け物の話に耳を傾けた。
しかし――。
「ボク……■■■■■■■■んだ」
化け物がその言葉を発した刹那、女の顔から笑みが消えた。
ざわり、と肌寒い風が二人の間を駆け抜け重い沈黙を齎す。
途端に重苦しくなった場の空気に化け物は思わずその巨体を縮め、ごくりとつばを飲み込んだ。
「本気で言ってるの?」
女の声は痛いほど精悍だった。
化け物は、雰囲気の一変した女にびくつきながら小刻みに何度も首を縦に振った。
それを見て、女は溜息を漏らしたかと思うと不意に立ち上がった。
女の艶やかな黒髪は風に曝されて生き物の様に踊り、青白い月光に照らされた肌は不気味なほど白かった。
「あなた」
女の呼びかけに化け物の肩がびくりと跳ねる。
「な、なぁに?」
緊張気味に化け物が答えると、女は――。
「可愛いわね」
頬を赤らめてそう言った。
「…………ん?」
話の流れが掴めず首を傾げる化け物。
その姿を紅潮して見上げる女。
暫し訪れる沈黙。
やがてそれを破る、女の微笑。
「あなたのお願い、叶えてあげる」
歓喜に踊る化け物とそれを肴に遅めの晩酌を始める女の姿を、朧月だけが柔らかに照らし続けた。
始まりの旋律
T
眼下に広がる『桜海町(おうみちょう)』という町は、今まで見たどの町よりも静かで綺麗だった。町はその名の通り、春の山脈に広がる桜の海にぐるりと取り囲まれ、まるで外界から隔離されているかの様だった。そんな閉塞感からか、町はひっそりとした雰囲気に包まれ、遠くからでも見える古臭い町並みは懐かしさと寂しさを併せ持っていた。
「おっし」
俺は小さく気合を入れると、ぱんぱんに膨らんだボストンバックを背負い直し、桜海町を目指して山を下り始めた。
荒れた山道には桜の花びらが敷き詰められていた。
俺がここ一ヶ月、欠かさずに記し続けている日記によれば、今日は四月の二十日だ。そろそろこの辺りの桜も散りだす頃のはずなのだが、辺りには散りかかった桜木と同数ほども、今から蕾を広げようといている桜木が見えた。
「不思議だな」
俺は深くも考えずに、そう呟いた。
桃色の天蓋から垣間見える空は透き通る様な青色で、流れる白雲は穏やかだった。茂った山道には山桜のざわめきと小鳥の囁きが折り重なって響き、彩りを添えている。
道は遠く、人影は無く、辺りは穏やかで、心は躍っている。
俺は意気揚々とポケットからイヤホンを伸ばすと耳にはめ、音楽プレーヤーの電源を入れた。
次の瞬間、イヤホンから耳に流れ込んできたのは明るくも激しいグルーヴと、その中で響く琴の様な余韻を残す神秘的なギターサウンドだった。それは『旅烏(たびからす)』というアーティストが作った柳緑花紅(りゅうりょくかこう)というインスト曲で個人的に今、最も気に入っている曲の一つだった。
好みの曲を聞いて更に気分の上がった俺は、殆ど小走りになって山を下った。すると直ぐに視界が開け始め、桜海の町並みが明確に覗けだす。
地上にむき出しになった旧式の駅、そこに停まる四角い、滑稽な形の電車。初めて生で見る田畑、綺麗な川、瓦屋根の家。
嘘の様に古臭いそれらに近付こうと更に足を速めると、俺は視界の端に不思議な空間が広がっている事に気付いた。
それは山桜に取り囲まれ、山道から微かに外れた場所にひっそりと佇んでいた。
朱色に染められた、上部が横木で繋がる二本の柱。その間に申し訳程度に造られた石段。先に広がる砂利の敷き詰められた庭。そして、その中央を貫く様にして奥まで伸びる均された石の道。
その奥に鎮座するのは、神様を祀る為に建てられた神殿だった。
平屋造りのそれは正面に玄関がなく代わりに木箱が置かれ、その上には大きな鈴が吊るされていた。
俺は不思議な造りのそこに駆け寄った。
「桜海神社」
近付いてみて、俺は吊るされた鈴の上にそう書いてある看板(表札?)の存在に気付いた。
桜海神社。それがこの不思議な空間、全体の名だった。読んで字の如くなら、もう目と鼻の先にある桜海と言う町と、関わりの深い場所という事だろうか。その割には少しばかり町から離れているが、この古びた感じと山桜に囲まれた神秘的な雰囲気は明らかに、さっき目にした桜海の町の一部だった。
黒ずんだ木材で造られた神殿を見渡そうと数歩後ろに下がると、不意に神殿の真後ろに一際大きな桜が見えた。
その桜はあまりに大きくまるで神殿に傘を差している様だった。
俺はそんな桜木の、隠れた全貌まで見ようと神殿を迂回した。ただ雑草を刈り取っただけの細い脇道を抜けると、直ぐにそれは俺の視界を埋め尽くした。
「でかぁ」
曲は陰旋法(和風の音階)を基調にした緩やかなギターソロに入り、震えながら響くメロウな旋律は目の前のそれと良く似合って聞こえた。
その桜木は近くで見ると一層巨大で、神秘的だった。神殿を覆う重厚な傘の様に見えた花々は近くで見れば、微風にさえ靡く薄くて華奢な花びらの集まりである事を実感させられ、それを支える縄の巻かれた幹は猛々しく捻じ曲がり、隆々とした様はその頭に被った花々とはあまりに対照的な面持ちだった。
俺はその場で暫く目を見開き、眼球にその光景を焼き付ける。すると自然と、留守になった聴覚から曲が流れ込む。
流れる様なギターソロはいつのまにか静と動の行き交う角張った様相を呈していた。
美しい和音が伸び、不意に止まる。
静が訪れたその瞬間、外界から微風に靡く花々の声が届く。
それを飲み込むように和音が伸び、ギターが音階を駆け上り、止まる。
花々の声が消え行く。
苦しそうな高音から開放される様に、グルーヴが高音から低音へと滑っていく。
「むにゃ、……ちゃん……」
一斉にメロディが紡がれ、遂に曲はクライマックスへ………………ん? 今、おかしな声が……。
まさかとは思いつつ、俺は曲の音量を絞った。
「ボク……んん、どんな体が……にゃう……」
それは、確かに花々の声に紛れて直ぐ近くから聞こえていた。
俺はその声の主を探して辺りを見回した。しかし、近辺には桜が一本、威風堂々と立っているだけだ。
「まさか……」
流石に俺は戸惑い、苦笑交じりに目の前の桜木を見上げてみた。勿論、どこかに顔がついてたりする訳は無い。しかし、辺りに人気は無く、俺の思考回路は否応なしにこの事態を一つの結論へと辿り着かせた。
「……お前、喋った?」
俺の問い掛けに桜は無反応だった。そりゃそう……。
「ぐぅぅ……」
……いびき?
「ん……もう飲めないよぅ……」
桜のくせに微妙にベタな寝言……。
寝言をいう桜なんて見た事も聞いた事もない俺は、対応に困り思わず視線を落とした。すると――。
「むにゃむにゃ……」
足元に、気持ち良さそうにいびきを立てる少年が一人、転がっていた。
「……ボクはぁ……んぐ……」
さっきから聞こえていた声も、いびきも、明らかにその少年が発信源だった。
「……そりゃそう、か」
俺は、桜と本気でコミュニケーションをとろうとしていたちょっと前の自分を恥らってそう呟くとしゃがみ込んで、眠りこける少年を眺めた。
その少年はせいぜい十歳前後で、浅黒く焼けた顔は、低くて小さい鼻と前を向いた大きな耳が特徴的で、柔らかそうな黒い短髪はそよ風にあおられそよそよと靡いていた。藍色のダッフルコートに覆われた体躯は小柄で、そこから申し訳程度に伸びた足は驚くほど華奢だった。
「地元の子、かな……?」
何処と無く異質な感じのするその少年に俺がそんな疑問を覚えると、不意に辺りを一縷の強風が駆け抜け、桜吹雪を舞い上げた。
俺は突然現れた春の吹雪に思わずイヤホンを外すと立ち上がっていた。
桜吹雪は青空で踊ると、やがて雨の様に辺り一面に降りしきる。
この景色をカメラにでも収めて持って帰ったら、あいつ喜ぶかな。
不意に浮かんだそんな思いは直ぐに自己嫌悪へと変わった。
あいつとの関係を改める為に、ここまで来たのに今になって何を考えて……。
「んがっ」
「…………」
俺の自己嫌悪の念は少年の鼻を鳴らす音で簡単に遮られた。
少年は鼻の頭に乗った花びらを寝返って振り落とすと、くすぐったそうに鼻の頭を掌で擦った。
「なんか、アホっぽいなぁ」
その姿が妙に面白くて、俺は笑った。
「ん……ぅん?」
すると俺の声で目が覚めたのか、ゆったりと少年の目が開かれ、暫く虚空を見つめた後で俺の方を向いた。
眠気で半開きになった少年の瞳は、鮮烈な血の色をしていた。
俺はその異質さに一瞬、戸惑った。すると少年の方が俺の存在を不思議に思ったのか、のそりと上体を起こして俺に直った。そこではっとした俺は慌てて笑顔を浮べると、少年に手を振った。
「やっ」
「うん……?」
寝ぼけ眼の少年の反応は芳しくない。
「おはよう」
「ん……おはよ」
もにゃもにゃと返事をすると少年は、視界がぼやけているのか自分の両目を手で擦りだした。
俺は黙って、その作業が終わるのを待つ。
「…………」
ごしごしと随分と入念に擦るな、と俺が思っていると不意に、少年はその手を止めた。
「……あれ?」
少年の声には微かな戸惑いが感じられた。
それはそうか。寝起きでいきなり知らない男に話しかけられたんだから。
「あ、俺は――」
「うわっ〜〜〜〜!?」
少年は俺の自己紹介を飲み込んで、絶叫を上げた。その声は何故か歓喜に満ちていた。
「ど、どした??」
俺の方が戸惑ってそう尋ねると、少年は跳ねるように立ち上がって俺にその小さな両手を見せてきた。
「これ、人間の体だよねっ!?」
「…………はい?」
意味不明な事を尋ねる少年に俺は思わず不審の目を向けたが、少年の方はそんな事まるで気にならない様子で自分の両手に愛おしげに頬ずりを始めた。
「うへへっ、体、ボクの体かぁ〜」
……大丈夫か、この子……。
「あ、ねぇ、キミ、キミッ!」
「き、きみ……?」
少年は急に俺に接近してきたかと思うと、明らかに俺より年下の癖に俺を君呼ばわりして、むんずと袖を掴んできた。
「かがみ無い!?」
「かがみって……鏡?」
さっきから素っ頓狂な事ばかり言う少年に全く付いていけない俺に、少年は少しも猶予を与えない。
「鏡、鏡っ! あるの、無いの?」
「手鏡ならあるけど……」
「うほ〜いっ」
すると少年は迷いも無く俺のボストンバックに手を突っ込んだ。
「あ、こら!」
流石に焦った俺がその行動を窘めようとすると、少年はバックから持てる限りの荷物を引っ張り出して地面にばら撒いた。
「あった〜っ!」
そして、ばら撒いた荷物の中に手鏡を見つけると少年はそれを手に俺からみるみる遠のいていった。
「おいおいっ、どこやる気だよ!?」
俺の声もまるで聞かず、少年はさっきまで寝ていた桜木の根元まで駆けると俺に背を向け、両手で大事そうに手鏡を握ってしゃがみ込んだ。
「何なんだ、この子……」
ひっくり返された荷物の山をバックに戻しながら、俺は呆れるしか無かった。
こんな変な場所で寝てると思ったら、起きた途端に意味不明なことばっかり言いだして――。
「うひゃ〜〜〜っ!」
「今度は何だよ……」
いい加減、耳に残りそうな少年の絶叫に俺はうんざりしながら、その方向に目をやった。するとそこには、
「カワイイッ! ボク、超カワイイじゃん!」
「…………」
手鏡に映る自分の顔を、体をくねらせながら絶賛する少年の姿があった。
「見てよっ! ボク、すんごく可愛いっ!」
「自分で言うなよ。てか可愛いて……」
確かに、女の子っぽい顔立ちではあるけど……。
少年のテンションに完全に振り切られた俺は頭を掻き毟りながらそうとだけ突っ込むのが精一杯だった。
「キミ、ボクにほれた?」
少年はまた俺に駆け寄ってくると、悪戯な笑みを掌で隠しながらそんな事を聞いてきた。
「ちょっと俺の趣味と違うかな」
「ボクのカワイさは世界共通だよ!」
嗚呼、なんて清々しいアホだ。
俺は目の前で忙しなく動き続ける少年を見つめている内に、徐々にくすぐる様な楽しさが込み上げてくる事に気付いた。
「ははっ……ああ。確かに可愛いかもな」
少し経ってからそう答えると少年は不思議そうに俺を見上げ、やがてにこりと温かい笑みを浮かべた。そして直ぐに、そこに悪戯っぽさが加わる。
「キミ、ほれた?」
「前言撤回だ」
笑って即答すると、俺は少年の頭をぽんぽんと叩いた。少年の髪はふわふわでまるで解した毛糸の様だった。
「俺は『三上・優也(みかみ・ゆうや)』。これでも二十歳なんだからな。君って言うのはやめてくれ」
「ん……? ん! ゆうや! ボクは『まき』だよ」
少年はそう名乗ると、ちょこんと小さな手を俺の方に伸ばしてきた。俺はそれを加減して掴むと、握手とした。いや、実際にはまきと名乗った少年の手はあまりに小さく、掴む言うよりかは包み込む、という表現の方が適切だった。
「まき、ねぇ。名前まで女の子っぽいのな」
思わず俺がそう漏らすと、不意にまきは真顔になって手を離した。
怒ったのかと不安になる俺をよそに、まきは自由になった手でコートの上二つのボタンを外すと、徐にその中を覗き込んだ。
開けた胸元から微かに焼けていない粉雪の様な肌が垣間見える。
「……何してるか聞いていいか?」
「ん〜? 体のかくにん」
「なんで?」
「ボク、女の子だった気がして。あ、ほら」
「…………は?」
「ん?」
まきが自分の胸元に手を突っ込もうとした途端に、俺とばちりと目が合い互いに動きが止まった。
「まき……お前……女の子?」
「うん」
俺は目頭を押さえた。
いや……確かに、決定的な情報は無かったし、顔立ちだって可愛い系だ……けど……。
「髪の毛、短すぎだろ!」
「そう?」
「眉毛だって太いしっ」
「駄目?」
「いやっ、似合ってはいるけど……女の子があんな所で、イビキかいて寝たりするかっ!」
「なんで?」
「…………」
……嘘だろ……。今更、こんなアホが女の子だなんて……信じれる筈が無い……。
俺は思わず、自分の中で典型的な『女の子』としての印象が強いあいつの姿を思い出していた。
「女の子、って……もっと、こう、静かなもんじゃなかったか……?」
「あ、分かった!」
俺が今までの二十年の人生では出会った事のないタイプの女の子の存在に戸惑いを隠せないでいると、不意にまきがそう声を上げた。
「なにが?」
どうせろくな事じゃないだろうけど、と思いつつ無視するのも可哀想なのでそう尋ねてみると、まきは俺に満面の笑みを浮かべて言った。
「ゆうやは女を知らないんだっ!」
俺は、目一杯の笑みを返してやった。そして。
「あでっ!?」
まきの脳天にチョップを一つ落としてやると、ある事を決断した。
「そんな台詞、どこで覚えたんだ」
本気で、こいつに説教しよう。
U
「うわ〜んっ。ゆうやなんか嫌いだぁ〜」
「まきが悪い」
「ボクはゆうやが女を知らないと……」
「まき」
「……ごめんなさい」
まきの出会い頭の行動と言動について俺が一通り説教し終えると、まきはすっかり意気消沈の様子で入り口にある石段で膝を抱えていた。
こいつ、変な奴だけど悪い奴では無いんだよな。
俺はまきの隣に腰掛けると、ボストンバックからペットボトルのジュースを取り出してまきに渡した。
「ん……?」
しかし、まきはそれを見ても首を傾げるだけで、一向に受け取ろうとはしなかった。
「あげるっての。喉渇いてない?」
「……ううん。でも、ゆうや怒ってるから……」
俺は凄く優しい気持ちになって、まきの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「もう怒ってない」
「……本当?」
「ああ。まきは悪い子じゃあ無いし」
「ゆうやっ……」
「女の子には見えないけど」
「ぶぅっ」
不満の声を上げたまきだったが、俺がジュースをまきの膝の上に落とすと「ありがと」とお礼を言った。
俺が自分の分のジュースを飲み始めると、おずおずとまきも自分の分に口を付けた。
「ぷはっ……ボクも、ゆうやは悪い人じゃないと思うなぁ」
「はは。説教されたのに?」
俺がそう尋ねると、まきはぐっと親指を立てて見せた。
「大丈夫。ボクはゆうやの説教の中にしっかり愛を感じたから」
「そんな成分は含まれてないっ」
まきの額をこつんと小突いてやると、不意にまきの腹から豪快な唸り声がした。
はぁ、女の子が恥じらいも無く腹なんて鳴らしちゃって……。
それに対して突っ込む気力も失せて苦笑する俺をよそに、まきは腹に手を当てると表情を曇らせて俺を見上げた。
「ゆうやぁ……おなか減った?」
「俺に聞くな。……って言っても、そうだな。もう昼飯時だしな。飯でも食いに――」
「やった〜」
「……念の為言っておくけど。お前はちゃんと自分の家で食べろよ。両親が心配するだろ」
俺が言うと、まきは急に真顔になって俺から視線を逸らした。
「……やだ」
「まき?」
「ボク、家に帰りたくないの。だから、嫌。ゆうやと食べるっ」
俺は深い溜息をつくと、とうとうまきの正体に気付いて頭を掻き毟った。
ああ、これはもしかして、こいつ……家出娘か。……だよなぁ、じゃなきゃ普通、女の子があんなところで寝たりしないよなぁ……。
「お前な……その、さ……」
俺が困り果てて上手く言葉の紡げないでいると、まきはずいっと顔を寄せて来て言った。
「ごはん、連れてって」
赤い瞳が揺らぐ事も無く真っ直ぐに俺を見る。
強い、実直な瞳。
俺と似た境遇の癖に、その目付きはまるで俺とは対照的だった。
俺は、あまりにそれに魅入られ過ぎて否定の言葉を忘れてしまった。
「……分かったよ。ただし話聞くから、ちゃんと午後には家に帰るんだぞ」
まきは微笑すると無言で頷いた。
V
桜海神社を出て、緩やかな残りの山道を下ると直ぐに桜海町は見えた。
桜海町は遠目から見た時は田畑と民家以外には何も無い様な印象しか覚えなかったが、いざ踏み入ってみると目抜き通りが直ぐに広がっていて小さな専門店やチェーン店が十二分な数、軒を連ねていた。
俺達はそこで、最初に目に付いた小奇麗なファミレスに入った。
「すいません。ここ、現金使えますか?」
迎えたウェイトレスに俺が真っ先にそう尋ねると、ウェイトレスは一瞬、俺に不審の目を向けてから「少々お待ち下さい」と店の奥に引っ込んでいった。
はぁ、こんな田舎町でも、流石に現金は流通してないか……。
このご時勢、世間に現金なんてものは殆ど出回っていない。それもそうだろう。電子マネーを使えば紙幣や硬貨で場所を取る事も無いし、会計時にいちいち現金を数えなくても済むのだから。ただし、そんな電子マネーには当然の事ながら住所と預金口座が入力された専用のカードが必要なのである。逆を言えば住所と口座番号さえあれば、誰でも電子マネーを使用出来るのである。
つまり「現金使えますか?」という問いは「自分は流浪人です」とみすみす自白している様なものなのだ。
「お待たせ致しました。申し訳ありませんが、釣り銭の準備がありませんので……」
「いえ、お釣りはいいですから」
本当は一円残らず釣りを返してもらいたい所なのだが、そんな事を言っていたらまず、まともな店では飯が食えない。
「……では、先払いでもよろしいでしょうか」
「はい」
すると渋々、と言った様子でウェイトレスが漸く俺達を席に案内し始めた。
まきは俺とウェイトレスのやり取りに小首を傾げただけだった。
まきは箸をとても綺麗に使った。
どうせまきの事だから、鷲摑みとまでは言わないがそれに近い乱雑な持ち方で突き刺す様な形で食べるだろう、と俺は予想していた。しかしその予想は大外れで、まきは神妙な顔で「いただきます」と呟くと緊張した様子で箸を使い、驚くほど丁寧にハンバーグセットを食べ進め出したのだった。
「なんかイメージと違うなぁ」
その光景に俺が思わず呟くと、まきは戸惑った顔をして箸を止めた。
「ボク、食べ方ヘン?」
その戸惑い方が意外と本気だったので、俺は直ぐに答えた。
「いいや。俺より上手いぞ」
するとまきは心底ほっとした様子で味噌汁を手に取って、ぽそりと呟いた。
「……よかったぁ。前に見たので合ってたんだ……ずずっ」
「ん? 何か言ったか? まき」
「ううん。独り言」
まきはほくほく顔で味噌汁を啜ると、緊張もほぐれた様子でさくさくと食事を再開した。そこで俺は影ながら財布の中身を確認すると、キンキンに冷えた水を一杯飲んで、大きな窓の外に広がる町並みを眺めた。
桜海の町並みは古臭くも綺麗で、俺の冒険心を擽っていた。しかしそれと同時に、俺は一抹の不安も抱えていた。
もし、この町を探索し終えたその時に、俺が何の結論にも達せていなかったら……。
それは、俺のここ一ヶ月の行動の全てを無意味だったと断定する事に他ならない。もし、そうなってしまったらきっと、俺の元には何も残らないだろう。
全てを失った時、俺に生きる意味は残されているのだろうか。いや、生きたいと思う事が出来るのだろうか。
俺は土壇場に立っているのかも知れない。
「ゆうや、あ〜ん」
それなのに、恐怖の様な感情は微塵も生まれては来ていなかった。
ぱく。
「えへへっ。おいしい?」
それは、こいつと出会ったお陰なのかも知れない。
「ああ、美味いよ」
まきは照れ笑いを浮べるとまた、『ハンバーグの隣に並ぶ人参』の一つを、箸で掴んで俺の口元に寄せた。
「あ〜ん」
ぱく。
「あ〜ん」
「……まき。お前、人参嫌いだろ」
途端にまきの目が泳ぐ。
「そ、そんな事っ。ボクはただ、ゆうやもお腹減ったんじゃないかな、って思って……」
「まき」
俺がちょっと真顔になって名前を呼ぶと、まきはおずおずと箸を下げた。
「だって……」
「ほら、あーん」
そこで俺が脇に備えてあったフォークで人参を刺してまきの口元にやると、まきは大慌てで口を両手で隠した。
「まーきー」
「んん〜っ!」
「口開けなきゃ、何言ってるか分かんないぞ」
「ん……あっ。ボク、ボク……別に嫌いじゃないんだけどさ、その――むぐっ!?」
俺は、まきの喋る内容に予想が付いた時点で、その口に人参を放り込んだ。無理矢理なのでどうせ直ぐに吐き出すだろうと思っていたのだが、意外とまきは律儀で「口に入っちゃったら仕方ない」と言った様子で懸命に人参を飲み込んだ。
「おお、頑張ったな」
「んぐっ……ひ、ひどいよ、ゆうやっ! ボクはにんじんなんか大っ嫌いなのにっ!」
涙目で声を荒げるまきに俺は肩を竦めて見せた。
「だろうと思ったよ。しょうがないな」
俺はひょいと残りの人参を平らげてやった。
「あ……ありがと」
「おう。もう、誤魔化そうとなんてするなよ?」
「っ――、うんっ」
まきは少しだけ嬉しそうに頷いた。
「まきの両親は、食べ物を残したりすると怖いのか?」
頃合いだと思って俺が両親の話を切り出すと、途端にまきは微妙な顔をした。
「ボクの親は、そんなんじゃないよ」
まきは呟いた。
「そんなんじゃない、って? 何が?」
「…………」
「あのな、まき。色々と思いつめてるのは分かるけど、家出なんて後で絶対後悔するぞ。思ってる事があるなら口に出したら良いじゃ――」
「ゆうやはどうなの?」
俺の言葉を遮って発せられたその一言はあまりに鋭利で、俺を動揺させた。
「ゆうやはどうしてここに居るの? キミの家も、ここじゃあないんだよね?」
赤い眼光が俺を直視する。
それは、有無を言わせない強さを持っていた。俺は思わず視線を落とし、沈黙を企む。しかし、見ずともまきの視線を感じてしまい、沈黙を維持できなくなる。
「俺は……居場所を失くしたんだよ」
子供に何を話してるんだ、俺は。こんな話……。
「ゆうや、一人なの?」
「……そうだよ」
結局、まきの不思議な眼力を前に俺は口を閉ざす事が出来なかった。しかし鋭かった赤い視線は、俺の肯定を受けて急に丸みを帯びた。
「じゃあ、ボクと同じだ」
「え?」
見上げるとまきが静かな笑みを浮かべていた。
「一人は寂しいよね。けど……ボクはやりたい事があるんだ。だから、一人になろうと思ったんだよ」
思いもよらない言葉に俺が絶句していると、まきは恥ずかしそうに頭をかきながら再度、口を開いた。
「思ったんだけど、さ」
俺が徐に視線を向けると、やがてまきも俺に視線を返してきた。その視線はどこか気色ばんで見えた。
「もう一人じゃないね、ボク達」
なんだろう、この感じは。
愛情とも友情とも違う、温もりさえ感じるこの思いの名前を俺は知らない。
「ああ」
俺が笑うと、まきも屈託の無い笑みを浮かべてくれた。
「変なやつだな、ほんと」
俺は照れ隠しに呟くと、まきの頭をそっと撫でた。
「ん……」
それをまきはくすぐったそうな顔で受け入れる。
「まき。お前のやりたい事って何なんだ?」
まきは、やりたい事があって一人になる道を選んだと言う。それが本当なら、きっと大きな目標があるに違い無い。しかし、帰る場所を投げ打ってまでやりたい事など、俺には想像もつかなかった。
「えへへっ。ボクはねぇ――」
まきは満面の笑みを浮かべ、誇らしげに話し始めたが、その言葉は途中で不意に止まる。
「まき?」
気付くとまきは目を見開いていて、うわ言の様に何かを呟いていた。
「忘れてた……」
まきは小さな声でそう呟いていた。
「ど、どうしたんだよ?」
その挙動に俺が不安になって尋ねると、まきは勢い良く俺を見て、叫んだ。
「忘れてたっ、忘れてた! 行かなくちゃ!」
まきは急に立ち上がったかと思うと、俺の腕を乱暴に掴んで何処かに向かおうとした。
「お、おい、まきっ! ハンバーグは!?」
するとまきは俺を掴んだまま、もう片手で残りのハンバーグを口へと押し込みだした。
「もう少し落ち着いてだな……」
「ごくっ! 早く、ゆうや行くよっ!」
ありがたみも無く一瞬でハンバーグを飲み込むと、まきは再度、俺の腕を掴み上げファミレスの出口に向かった。俺は引きずられる様にしてついて行く。
「こら、こらっ。何処に行く気だよ!?」
戸惑う俺を、まきはぴょんぴょんと跳ねる様に駆けながら引っ張る。
「詩臣(しおみ)ちゃんの所だよっ!」
その声は、焦りながらもどこか楽しげだった。
W
桜海町は目抜き通りを過ぎると、『異世界』に繋がっていた。
真っ平らで開けた視界。
あるのは田植えが行なわれる直前の綺麗に均された田んぼと、電線の通っていない電柱とそれらの左右をぐるりと囲う春の山脈。そしてその麓に並ぶ木造の民家。
紛れも無くそこは異世界だった。
「すご……映画のセットみたいだ」
俺はまきに手を引かれ、田んぼの中央を突き抜けるコンクリートの細道を駆けながらそう呟いた。
「詩臣ちゃんの趣味は変わってるからねぇ」
……また、こいつは脈絡の無い事を。
「誰なんだ? その、さっきから言ってる『詩臣ちゃん』てのは」
まきに引っ張られるままあぜ道を抜けると、視界の片隅に水量の多い穏やかな川が見える。その上に架かる鈍色の橋を駆け抜けると、まきは呼吸を整えるように走る速度を徐々に緩め出した。
「詩臣ちゃんは誰、って聞かれてもなぁ……」
早足で辺りを見回しながらまきは困った様に言った。
「ボクも、よく分かんないし」
川沿いのガードレールを指針に麓の民家を一軒、一軒、確認しながら進んでいると、やがてまきは立ち止まり俺に振り返った。
「あったよ」
にこりと微笑み、まきが指差す先には――。
「なっ――」
山の傾斜に沿って伸びる長大な石段と、その天辺に聳える『豪邸』の姿があった。
真っ先に目に付いたのは歴史の教科書に載っていそうなほど古く歴史を感じる木製の巨大な正門で、そこから敷地内をぐるりと取り囲む様に正門と同色の重厚な壁が聳えていた。それらのせいで肝心の家屋は殆ど見えないが、背の高い蔵と松の木が敷地内に覗ける点で、豪邸と言ってしまって語弊は無いだろう。
「やっとご到着? まき」
茫然と豪邸を見上げていると不意に近くからそんな声がして、俺は弾かれる様にその声の方を見た。
「あ〜っ、詩臣ちゃん!」
そこには。
「ふふっ。その格好、良く似合ってる」
道の反対側から細長いハードケースを背に悠然と歩み寄ってくる一人の美女の姿があった。
その美女は、年齢で言えば二十二〜三位の感じで、まきとは対照的な透き通る様な白い肌と切れ長の双眸が特に印象的だった。
百七十以上はある長身とその背に流れる一切の癖の無い黒髪は神秘的でその上、強弱の付いた(出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる)体は驚くほど魅力的で、俺も男の端くれとして見ているだけで立ちくらみが……。
しかし。
「あれ、あなたは?」
残念ながら、その美女はジャージにサンダル姿だった。
「あ、三上・優也って言います」
俺が、その顔と服装のギャップに複雑な心境になりながらそう名乗ると、美女は楽しそうに笑った。
「ジャージは駄目? これで喜ぶ男も結構居るんだけどね」
「えっ!? あ、いやっ……」
心を読まれた!?
「心なんて読んでないわよ。だってあなた、随分と熱心にジャージを見てるんだもの。あ、それとも逆で、実はあなたジャージ大好き君だとか?」
「いやいやいや、はっはっは……」
……なんか恥ずかしいっ! 穴があったら入りたい! 川があったら飛び込みたい! あ、川だ……。
「まだ、この時期の川は寒いわよ?」
「ははっ……ですよねぇ……」
この人、絶対、俺の心読んでるっ!
俺はどうしようも無くなって、紅潮した顔を抑えてその場にしゃがみ込んだ。
「ま、挨拶はこれくらいにして、と」
「…………」
そんな俺を寂しいくらいあっさりと無視してその人はまきに直った。
「まき。あなたがあんまり遅いから、私一人で取ってきちゃったわよ。『これ』」
そう言ってその人が背負っていたハードケースをごとりとまきの前に置くとまきは不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
「開けてごらん」
その反応をみて、その人は楽しそうに言った。
「うん」
するとまきは頷いて、何の疑いも無くそのハードケースを開いた。そして。
「うわ〜〜〜〜っ!」
歓喜の悲鳴を上げた。
「凄いやっ、ありがとう! 詩臣ちゃん!」
興奮しながらまきがハードケースから取り出したのは――一本のアコースティック・ギターだった。
そのギターのボディは殆ど白に近い色の木材が使われていて、まきが持つとその色が一層映えて見えた。
しかしそれは紛れも無い大人用のギターで、まきの体格では余りに弾きづらそうに見えた。
「まき、適当に弾いていいわよ」
しかし、その人がそう言うとまきは、そんな事まるで気にならない様子でぽろん、ぽろんと弦を指で弾き出した。
始まりは本当に児戯の様で、ただ笑いながら音を出しているだけで幸せそうだった。しかし暫く経つとまきの顔から笑みが消え、遂には弦を弾くのを止めてしまった。
流石に適当に弾く事に飽きたのだろう。
「よぅし」
俺はこれでも昔、それなりにエレキ・ギターを弾いていた経験がある。コードの一つ位なら教えてやれるだろう、と俺がまきに近付こうとした、その時だった。
「放っておきましょう」
その人はそう言って半ば強引に俺を石段に座らせると、自身も俺の隣に腰掛けたのだった。
途端に二人で硬直するまきを眺めるような形になった。
「あの子はね、ギターが弾きたくて、ここに来たのよ」
「え?」
不意に出たその人の言葉に俺は耳を疑った。
まきは、やりたい事があって一人なった、とさっき話していた。それが『ギターを弾く事』だと言うのだろうか? そんな小さな事の為にあの子は一人になったと言うのか。そもそも「ギターなんて何処でだって弾けるじゃないですか」
俺が思わず憮然としてそう言うと、その人は微笑を浮かべ頬杖を付きながら答えた。
「まきはちょっと変わった境遇にあるのよ。彼女にとって、ギターを手にした今は紛れも無く、最も幸福な時間なの」
「はぁ」
言っている事がいまいち釈然としなくて、俺がそんな気の抜けた返事をすると不意にその人は俺を見て、微笑のまま目を細めた。
「あなたも変わった境遇の様だけど」
その言葉に、俺は驚くしかなかった。
「え――」
しかし俺の驚きの声は、不意に発せられた力強いギターの『和音』によってかき消された。
「始まった」
その人の言葉で咄嗟に目をやると、そこには――。
道の真ん中で踊るようにくるくると回りながらいつの間にか手にしたピックでギターを掻き鳴らすまきの姿があった。
強烈な和音は、徐々にその音数を増やして良く。
やがてまきの奏でる和音は時折ちゃかちゃかと子気味のいいカッティングに挟まれ、跳ねるような軽快なリズムを刻み始める。
その姿には間違いなく手馴れた雰囲気があった。
「な、なんだ急に……」
戸惑う俺をよそに和音は旋律を辿り、痺れるような高音を発する。そこから単音に切り替わったかと思うと、ロック風の旋律を駆使した琴線を震わせる様な叙情的なギターソロが展開される。
俺はもう、阿呆の様に口を開けてただただ茫然とそれを見て、聞くしか出来なかった。
まきは楽しそうにしかし真剣に、回りながら、頭を振りながらギターを弾き続ける。
感情豊かなソロは低音へと流れると、途端に冷酷無慈悲な速弾きへと変貌し粒の揃った音をマシンガンの勢いで発する。一弦から六弦までをピックと左手が忙しなく上下し、それと同期して音もうねる様に音階を上下する。華麗なピック捌きに唖然としていると、不意にまきはピックを口でくわえ、両手で弦を叩いて音を奏で始める。その音はさっきまでのピック音とは全く異なり音の粒には意図的に強弱が付けられていた。そして、ピックを手放した事で更に高速で旋律を奏でていた。
スラッシュ・メタルやスピード・メタルで多用される様な高速フレーズをまきはアコースティック・ギターで弾き続け、やがて燃え尽きたかの様に道の真ん中で膝立ちになった。
「どうなってるんだ……」
それ以外の言葉が思いつかず、そう茫然と呟くと、待っていましたと言わんばかりに隣のその人が笑い声を上げた。
「あははっ、正しい反応ね。けど、『私達』と知り合うんならもうちょっと神経を太くしてね、優也」
その人は徐に立ち上がると俺に直った。
まきの柔らかなアルペジオを背に、その人は笑う。
「そう言えば自己紹介がまだだったわね。私は詩臣。一様、あの子の親をやってるわ。まだ、二十歳だけど」
始まりの旋律は、俺の驚愕の声でかき消された。
嵐の前の休日
T
石段を登った先に構える詩臣の家は、豪邸と呼ぶには少しだけ質素だった。正門を開くと予想通り庭園が広がっていた訳だが、そこには鹿脅しのくっ付いた池だとか、跨げば行けるだろ、位に短い洒落た橋だとか、庭師が毎日手入れしている芸術的な形をした樹木だとか、そんなものは一切無く、あるのは庭の真ん中を突っ切る平石の道を中心に、左に伸び放題の松の木と小さな畑、右に背の高い蔵とビニールシートの張られた畑。……畑ばっかだ。
「私を見れば分かるでしょう? デザイン性より機能性よ」
ジャージ姿の詩臣は誇らしげにそう言った。
「お茶に誘ってなんて来るから、どれだけ自慢の豪邸かと期待してたんだけどなぁ」
詩臣が同い年だと知ったその時から、俺は意識して敬語を使うのをやめた。どう考えたって年上のオーラが漂っている詩臣には、意識しないと何時までたっても敬語を使ってしまうと直感したからだ。
「優也、あなた急に態度が大きくなったわね」
「打ち解けたんだよ」
何となく、敬語をやめると詩臣のペースにも巻き込まれずに付いて行けている気がした。しかし。
「へぇ。ふ〜ん、そう」
詩臣の口角を歪めただけの様な微笑には、どぎまぎせずには居られなかった。
「……それより、俺。あんたに聞きたい事が沢山あるんだけど」
さっき詩臣は「一様、あの子の親をやってるわ」と言った。あの子とはまき以外の何者でも無い。つまりは詩臣がまきの親であると言うのだ。けど、それは色々とおかしい。まきは家出をしていて、家には帰りたくないと言っていた。親に対しても口にこそしなかったが良くない感情がある様で、その根はとても深いものに見えた。それなのに、詩臣が親だと言うのなら、自ら望んで家に帰ってきた事になる。それは幾ら天真爛漫なまきの行動とは言え、おかしい。それに詩臣も、まきがギターを弾いてる時に、「あの子はギターが弾きたくてここに来たのよ」と言った。帰ってきた、ではなく、来た、と言ったのだ。そんなのは明らかに親の口ぶりでは無い。そもそも、詩臣が二十歳だと言うのなら、まきを生んだのは十歳か、それよりも下の時と言う事に……。
「質疑応答はお茶しながらにしない?」
俺の馬鹿げた想像は涼しげな詩臣の言葉によって遮られた。
「ボク、お腹へったなぁ……」
さりげなく空腹を訴えるまきは、石段を登ってここに来るまでギターを弾きっぱなしである。
てかお前、さっきハンバーグを丸飲みしたばっかりだろっ!
「そうねぇ。なら、何か作らせようかしら」
詩臣は大して考える仕草も見せずにそう言うと、広大な敷地に横たわる母屋の前まで来て足を止めた。
母屋は一階建ての建築ながらも広大で、開け放たれた縁側からは入った風がそのまま中の仕切りの無い各部屋を通って対面へと突き抜けていく、和風建築独特の開放感に溢れていた。
「寒そう……」
まきの意見も尤もだ。
「障子と襖を閉めれば風なんて入ってこないわよ」
楽しそうに答えると、詩臣は入り口の引き戸を引いた。からからと気持ちの良い音を上げて戸が開くと玄関から木造建築独特の香りが漂ってきた。
俺とまきが詩臣に倣って敷居を踏まないようにして玄関へと踏み入ると不意に「お帰りなさいませ」
と静かな声が聞こえた。
そこに視線をやると、一人の少年が跪いてうやうやしく詩臣に頭を垂れていた。
その少年を見た途端、詩臣は常に張り付いた微笑を殺し、無表情でサンダルを脱ぎ捨てると憮然とさえして家に上がった。すると少年は何も言わずに詩臣のサンダルを整え始めた。
「……あ。いらっしゃいませ」
その最中に立ち尽くしている俺とまきの存在に気付いた少年は、俺達に直って丁寧に頭を下げたのだった。
その少年は小柄で、まきと似た体格をしていた。しかしその外観はまきとは余りに対照的だった。一切の癖の無い、首元で切りそろえられた白銀の髪。一度たりともこっちの目を見ようとしない深遠な蒼い瞳。微動だにしない鋭い唇。
少年は余りにも浮世離れした空気を漂わせていた。
「や、やあ。俺は三上・優也。こっちはまきだ。よろしく」
たじろぎながら俺が自分とまきの紹介をすると、少年は無表情のままもう一度、頭を下げた。
「俺は『郡(こおり)』と言います。何かありましたらお申し付け下さい」
郡と名乗ったその子は、まるで劇中の小間使いの様に人格を押し殺し奉公に徹している様だった。このご時勢に、これ程ナンセンスなものは見た事が無かった。
「君は……」
「郡。早く二人を居間に案内なさい」
遠くからそんな詩臣の声がしたかと思うと、郡は見えない詩臣に対して頭を下げ、俺達を居間に案内し始めた。
「こっちです」
俺が困惑しながらも言葉が思いつかず、黙って郡の背に付いて歩くとまきが小走りで俺の隣に並んだ。
「静かな子だね。仲良くなれるかな?」
「ああ……多分、な」
曖昧な返事を返してから、俺は暫く沈黙した。
木の床が歩く度にぎしぎしと軋み、それが三人分のリズムを刻む。
廊下の左右には障子が伸び、貼られた薄手の紙から十二分な光が差し込む。低く細長い天井には行灯をひっくり返した様なデザインの照明が提げられ特異な彩りを添えていた。
「どうぞ」
そう言って郡が開けた障子の奥には、燦々と日の差し込む居間が広がっていた。
敷き詰められた敷畳の中央には十人は囲って座れる長大なテーブルが置かれ、部屋の奥からは温かそうな縁側が覗け、その先には春の山脈が広がっていた。
「詩臣様も直ぐにお出でになります。寛いでお待ち下さい」
淡々とそう言うと、郡は音も無く部屋と部屋とを仕切る襖の向こうに姿を消した。
「変だよな、あれ」
「ん? そう?」
まきは俺の零れるように出た言葉に無頓着そうに応えると、さっさと座布団の上で胡坐を掻いてまたギターを弾き始めた。
「やれやれ」
一人で釈然としない点を尽きるまで挙げていっても楽しくも無いので、俺は壁に凭れて窓の向こうの景色を眺めている事にした。
静かな時間が過ぎる。まきも空気を察した様に静かな旋律を奏でている。
そんな空間に暫くいたら、意識せずとも瞑想に耽ってしまうのが人の性と言うものだろう。特に、今の俺は特異な状態にあるのだから。
……今まで旅して来て、こんな展開は初めてだ。当たり前の様に古くて綺麗な町で、桜木の下で女の子と知り合って、変な美女と会って、それで、とんとん拍子に家まで上がり込んで……こんな経験、他の町じゃどれ一つした事が無い。それがさも当然の様に、波の様に次々と訪れてくる。どうにも奇妙な感覚だ。
「運命、ってやつなのかなぁ」
ごろりと敷畳に横たわると何ともいえない草っぽい香りがして、俺はそれに意識を傾けて目を閉じた。
運命……そう。俺は運命に巻き込まれだしてるんだ、きっと。あの時とは違う、あんな最後とは違う、本当の、一生に一度の大転機が今、俺に訪れようとしてるんだ。
俺は、そう、俺は――。
「ゆーうーやっ!」
「!?」
嬉々とした叫び声と共に訪れた突然の腹への衝撃に慌てて目を開くと、そこには俺の腹の上に満面の笑みでのし掛かる少女の姿があった。
「……何してるんだ、まき……」
ちょっとした呼吸困難に陥りながらも平静を装って俺がそう尋ねると、まきは「ん〜」と口元に指を添えて数秒考えた後に、また満面の笑みを浮かべ、俺にのし掛かったまま言った。
「ひまなの」
「…………」
「ひ・ま」
微妙に気色ばんだ言い方に切り替えるまき。
「……お前、ギター弾いてたんじゃないのかよ?」
「弾いてるよーん」
するとまきは、俺に跨ったまま悠然とさえしてギターを弾き始めた。
はしゃぐ様なメロディが俺の腹の上から響く。
「お前な……」
「だってボク、ギターは弾いてたいけどユウヤとも遊んであげたいんだもん」
飄々と話すまきだが、その手は絶えずギターを引き続けたままだ。
「……まき。お前、いつからギターを弾き始めたんだ?」
その余りに優雅に弾き語る姿に、俺は尋ねずには居られなかった。
俺も昔にギターをかじった事があるだけにまきの突然の超絶技巧には信じ難いものがあったのだ。どうか「生まれた時から、親の躾で弾いてるの」と言って貰いたい。それならばまだ、納得も出来る気がするのだ。しかし。
「え、そんなのついさっきに決まってるじゃん」
純朴なまきは迷いも無く即答した。
「けど、あんな色んな奏法、知ってなきゃ弾ける訳ないだろっ」
俺はまきを腹からどかすのも忘れて質問を重ねた。
「ん? だってボク、前からギターは好きだったから、色んな人のライブを内緒で沢山見てたし」
「……見て、奏法を学んだって?」
「うん」
……そんなのありか? 天才にも程があるじゃないか! 見て、記憶するならまだしも練習も無しに出来ちまうなんて……もし、本当なら天才どころの騒ぎじゃないだろ……。
「でも、思った通りには中々弾けないんだよね。ギターってやっぱり難しいや」
まきは楽しそうに呟いた。それは純粋にギターの深さに気付いて喜んでいる様だった。
「……まき」
「ん?」
俺はとても少女のものとは思えない大人びた表情を浮かべるまきに、一つだけどうしても言いたい事があった。
不思議な言動、あり得ないギターテク、謎に満ちた詩臣との関係。全てをひっくるめて今、俺はまきに言いたい。
「お前、意外と重いのな」
実は、さっきからどんどん呼吸が細くなっていて、質問は出来ても話なんて殆ど頭に入っていなかったのだ。それでも余裕ぶってそう言ったのは、男の最後の意地だ。しかし、それも限界が近い様だ。さぁ、まき。自分の重さに気付いたら、申し訳なさそうにそっと俺の腹から降りるんだ――って。
「まきさん、何しようとしてます?」
見上げたまきは俺にどっしりと腰を下ろしたまま、伸びを打つ要領で高々とギターを振り上げていた。
「キミ、凄く失礼」
やばい。まきが何か異様に落ち着いてる。ヘンなスイッチでも入ったか?
「あ、はは…………まきも、体重とか気にするんだな」
「……謝るかなぁと思って、待ってたのに」
赤い目が、静かに伏せられる。
「ちょ、まき、ま――」
「せーばいっ!」
俺は、まきも女の子なんだ、と初めて痛感した。
そう言えば、昔はあいつの事もよく身長だとか体重だとかでからかってたな。その度にあいつは落ち込んで、それなのに、それがバレて母さんに拳骨食らった俺をあいつは懸命に慰めてくれて……本当、どこまで優しい奴だった。それは歳を重ねて、俺との関係性が変わっても一向に変わらなくて、いつでも俺の傍にいてくれて、俺はその代わりに、この先もずっと楽しい思い出を沢山、作ってやるって約束して…………それなのに。あの時。あの時だけだ。どうしてあいつは俺を……あんな時に限って俺をっ。どうしてっ。俺は、俺は必死で――。
「俺はっ!」
「きゃわっ!?」
気が付くと俺は、肩で激しく息をしながらまきの両肩を鷲摑みにしていた。
「あ……まき……?」
「な、何なんだよ、急にぃ」
突然の事にまきは微かに怯えている様だった。そんな反応から、自身が今、どんな血相でまきと向かい合っているかは容易に想像が付いた。
「いや……なんでもないよ。ごめん」
そんな自分を落ち着かせようと、俺は深い溜息を付くとそっとまきの肩から手を離し、その手で少しだけ混乱の続く頭の毛を掻き毟った。
「打ち所でも悪かったのかしら?」
するといつの間にかテーブルの対面に、湯飲みを片手に腰掛けた詩臣がからかうような調子でそう尋ねて来た。
「ああ。カート・コバーン張りのギタークラッシュを『直に』体験出来たんだからな。それはもう――」
「ぐっすり眠れた?」
「やかましいっ。ギタークラッシュなんてこのご時勢に流行らないんだよっ」
俺が微かに声を荒げると、詩臣は小さく笑い声を漏らす。
「クラッシュなんてしないわよ? まきのそのギターは特注なんだから」
そう言って指差す先には、傷一つ付かず深遠な輝きを帯びて横たわる一本のギターの姿があった。
「なるほどなぁ。確かに、まるで鈍器で殴られた気分だったもんなぁ……って、どんな強度のギターを発注したんだよっ!」
乗り突っ込み気味で声を荒げると、今度は不服そうな素振りのまきが言った。
「む〜、何でユウヤが怒ってるんだよぅ。今はボクが怒る番なの!」
「卒倒した俺を見て『やり過ぎた』とか、そんな事を一つも思わなかったのかお前はっ」
「なんだよーっ。れでぃに体重の事を言うのは、『グシャ』ってされても仕方ない位、失礼な事なのっ!」
「そんな訳あるかっ! そもそも、気にしてるなら、人の上になんて乗らなけりゃいいだろっ。俺は危うく窒息する所だったぞ!」
「そ、そんなに重くないもんっ。ユウヤのばか〜っ!」
「ふん、デブチン」
「んなっ、ユウヤの怒りんぼっ!」
「挙動不審っ!」
「ホームレスッ!」
「男っ!」
途端にまきははん、と鼻で笑って見せる。
「ボクみたいな超美人が男に見えるなんて、ユウヤは痛い子だねっ!」
「なに〜っ」
「なんだよぅ」
俺とまきの論争は平行線を辿り、そのままにらみ合いに突入した。
「はいはい、そこまで」
そこですかさず詩臣が俺達の間に割って入った。
「まったくもう。二人は似た者同士ね。ほら、優也はこれでも飲んで落ち着きなさい」
そう言って詩臣が俺に手渡したのは、微妙に歪んだ形状の湯飲みだった。
俺はまきに睨みを利かせたまま、疑いもせずそれに口を付けた。
「どうも…………って、何だこれっ!?」
途端に俺は口に流し込んだ何かを吐き出した。
「濁酒よ?」
「濁酒!? 濁酒って酒か!? ここは昼間っから客に酒を出すのか!?」
道理で、喉が焼け爛れたみたいに熱い訳だ。
「あっははっ。落ち着くかなぁ、と思って」
詩臣は楽しそうに笑う。その笑顔に、俺は脱力するしかなかった。
「あんたって人は……」
「あ、落ち着いた?」
「…………」
俺はもう、この言い表しようの無い気持ちを酒にぶつけるしか無かった。
「っくは」
俺は湯飲みの中の濁酒を一気に飲み干すと、そんな親父臭い声と共に、湯飲みをテーブルに置いた。
そう言えば、酒なんて二十歳の誕生日以来だ。……超マズい。
「お、いけるねぇ」
そんな俺を見て、詩臣は自分の湯飲みも空にするとテーブルの下から一杯に酒の詰まった一升瓶を二本、取り出した。
それが何を意図しているのか察した俺はもう、固まるしかない。
「あ〜、ボクも飲みたい〜っ!」
「まきは演奏して。私と優也の『勝負』を彩る為に」
今までで一番、しゃきしゃきとした口調でそう告げると詩臣は俺に直った。
「さぁ、いきましょうか」
一本の一升瓶が俺の前に立ちはだかる。
「……質疑応答の時間は?」
「『お茶』しながら、ね」
馬鹿か、馬鹿だろ。馬鹿ですね。
昼真っから酒なんて付き合ってられっか!
「うひゃ〜……ぐあ〜……○☓☆%@っ!」
視界がぐるぐる回る。ここどこだ? 俺、何してたんだっけ?
「優也、何言ってるか分かんないわよ」
あ、誰だこの美人。ジャージ姿で一升瓶ごと酒飲んでやがる。あははっ。親父かっ。
「幸せそうねぇ」
あははっ。は、あれ、何か、眠い。
「う……ぬ……寝る」
美女が俺の横に来た。
「でしょうね」
美女の膝枕で寝れるなんて、超幸せぇ……。
「お触りは禁止よ。…………あれ? まきが居ないわ」
U
まきはどかどかと乱暴な足音を立てながら、長大な廊下を突き進んでいた。
「まったくもうっ。二人とも失礼しちゃうんだからっ。ボクだけほったらかしで楽しんじゃってさ〜っ! いいよ〜だ。ボクはもう、好き勝手にしちゃうんだからっ。あ〜、ご飯、ご飯! 冷蔵庫カラッポにしてやるんだっ!」
「それは困ります」
「きゃうあ!?」
突然の声にまきが飛び上がって振り返ると、そこには先ほど『郡』と名乗った銀髪の少年の姿があった。
「あ、え〜っと、こおりちゃん? だよね」
まきの言葉に郡は無言で頷く。その目は露骨に面倒くさそうだった。
「どしたの? こんな所で」
「こんな所って、ここは詩臣様の家ですけど……三上さんが寝てしまった様なので毛布をお持ちしたんですよ」
そう言って郡はその両手に抱えた毛布に視線を落とした。
春も終わりが近付き、大分温かくなってきたとはいえ、夜はまだまだ寒かった。現に今も、隙間から吹く風に当たれば直ぐにでも肌が粟立った。
「へぇ……え、もう夜なの!?」
まきが大声を出したので、郡は露骨に嫌な顔をした。
「六時半です。あなた達が来て五時間強。一升瓶五本をお二人が消費する間、あなたはずっとギターを弾いていました」
淡々とした郡の言葉に、まきはオーバーリアクションで声量だけ搾る。
「うわぁ……こおりちゃん、その間、暇じゃなかった?」
「いえ……俺はつまみを作って、掃除して、洗濯物を取り込んでましたんで」
つまらなさそうに答えて、郡は小さく会釈をした。それは勿論『これで失礼します』という意味合いのものなのだが、そんなジェスチャーをまきが察せる筈は無かった。
「すごいっ。すごいーい! こおりちゃん、何でも出来るんだねっ」
何故かテンション急上昇のまきに、郡は心底、険しい顔をした。それは下手な言葉よりもよほど露骨で、遠慮が無かった。相手が、まき以外だったならば。
「ボク、お腹へっちゃったんだ。何か作ってよっ!」
「…………」
「あ、お風呂ってあるの? ボク、入ってみたいなぁ〜」
「…………っ」
小さな舌打ち。
「ボクはお酒飲んじゃ駄目って言われたんだけどさ、こおりちゃんもなの?」
「っ……っ……」
「ね、ねっ。こ・お・り・ちゃ――」
「知りません。失礼します」
強引にまきのマシンガントークを遮ると、郡をくるりと背を向けて歩き出した。
「あ、こおりちゃん。待ってよぅ」
まきの甘えるような声にも、郡は微塵も反応しない。早足で居間へと向かう。
「待〜ってってば〜っ!!!!!」
しかし、途端に浴びせられた耳を劈くような絶叫に流石の郡も足を止めざるを得なかった。
「……夜ですから。お静かに――っ」
そう言って、郡はちらりとまきを見た。見たら――動けなくなった。
「いいじゃん。少しくらい質問に答えてくれたって」
ほの暗い廊下で、まきの深紅の瞳が微かに輝きを帯びていた。
――体が動かないのは、恐怖か、『まやかし』か。どちらにしても。
「無駄な力は控えて下さい。まきさん」
郡は、一向に体が動かずとも冷静だった。
辺りの空間だけ隔離されてしまったかの様に、二人の間に暫く無音が広がっていた。まきは微動だにせず、郡は微動も出来ない。
「……ふんだ。じゃあさ、一つだけ、質問に答えてくれる?」
やがて深紅の目のまきは、ゆっくりと郡に近付きながらそう尋ねる。
「……質問によります」
郡の返答にまきは『やった』とはしゃいで見せると、その耳元にまで顔を寄せて、言った。
「あれって何処にあるの?」
郡の目が大きく開かれ、震えた。
V
長く長く、時間がまどろんでいく。
眠りこける優也に毛布が掛けられると、広大な自室の中央に敷かれた布団で詩臣も眠った。今日は客が来たので酒を普段よりも多く飲み、お陰で何時もの頭痛に眠りを妨げられる事も無い。
しかし、深い眠りにつくその顔は、苦しみに満ちている。絶望に似た思いを胸に、詩臣は夢を見る。その夢に、夢は無い。
だから。
音も無く、その子は詩臣の足元に立っていた。
その手には、微かな月光に輝く一本の『刀』の姿があった。
その刀は凶暴で、美しく、冷酷だった。
その子はそれをそっと振り上げる。
苦しむ詩臣の寝顔を見て、その子はくっと歯軋りをした。
全てに恨みを込めて、その子は刀を振り下ろす。
人?
T
あの日、あの時。俺は病床で全てを呪った。俺と母さんに降りかかったこと。体の苦痛、それ以上の心の苦痛。そして、あいつからの電話。死にたくなった。あいつの言葉なんて、その第一声しか覚えていない。その後の言い訳がましいフォローなんて聞きたくも無かった。その時、俺は全てを失ったんだと悟った。それから、俺は泣いた。どうすればいいのか分からずに。初めての孤独をどう耐えればいいのかも分からずに。死にたい、と何度呟いたか分からなかった。それでも自分で自分の命を絶つ事は出来ず、ただ茫然と、繰り返される手術の中で、俺の心臓を引きちぎってくれと願う事しか出来なかった。
何で、あんな事が起きた。
何で、あんな事を言った。
何で、――。
「気持ち悪い……」
気付くと俺は居間の畳の上で、座布団を枕にして横たわっていた。体の上には丁寧に毛布がかけられ、頭だけがひんやりとして涼しい。
「う……何処だ……ここ」
起き上がろうとすると、急に頭痛が襲って来たので俺は諦めて仰向けになった。見上げた先の、木造の低い天井には見覚えがあった。
「ああ……詩臣の家、な」
そうだ。俺はまきと出会って、詩臣と出会って、それで詩臣の家で『お茶』したんだ……。
縁側の方に目をやると、薄暗い空が見えた。どうやら早朝らしい。ヒンヤリとした空気の中で毛布に包まっているのが心地よかった。ただ欲を言うならば、頭痛と吐き気が邪魔だ。
「お目覚めですか?」
「ん……あ」
静かな声に俺が目をやると、郡が湯飲みを手に居間に上がってきたところだった。
「水です。飲みますか?」
郡は俺の横で正座すると、水の入った湯飲みを差し出してきた。気付くと喉がからからだったので、俺は頭痛と戦いながら上体を起こしてそれを受け取った。
「さんきゅ……ん? 郡、それ」
その時、俺は郡の右手の甲に昨日は無かった包帯が巻かれている事に気付いた。
「あ、これは……ちょっと……」
郡は珍しく言い淀むと右手をそっと左手で覆い隠した。
「? ……いてっ」
そんな郡を不思議に思いながらも、俺は水を飲もうと右手に持った湯飲みを傾けた。
痛みが走ったのはその時だった。
「三上さん、それ……」
「え?」
痛みのした所を見てみると、右手の甲が赤く腫れ上がっていた。その位置は郡が包帯を巻いている場所と全く同じだった。
「何だ、これ?」
酔っ払って、どこかにぶつけたか? いや、それにしたって郡と同じ場所をそろって怪我するなんて……まぁ、大した怪我じゃないから良いけど。ちょっと不思議だよな。
「おっはよ〜っ!」
頭にがんがんと響く絶叫と共に、今度はまきが姿を現す。
そして、その姿を見て俺と郡は揃って目を丸くした。
「まき……お前、その手どうした?」
そう。まきもその右手の甲を赤く腫れ上がらせていたのだ。
「え? う〜ん……分かんないっ」
大して考えもせずにそう答えると、まきは俺の湯飲みをとって、ごくごくと喉を鳴らして水を飲み干した。
「……不思議ですよね、これ」
郡の言葉に、俺は苦笑して頷いた。
「だな。ま、大した怪我じゃあ無いみたいだし」
「ですね」
無表情な郡の口元が、微かね跳ねた気がした。
「ユウヤ、寒い〜」
すると突然、まきが俺の包まる毛布に入って来た。
「こらっ、まき」
「えへへ〜…………うわっ、ユウヤッ! お酒くさい!」
「……だったら離れろ」
「やだっ! ユウヤが出てっ!」
はぁ。まきは朝っぱらからまきなんだな。
「ユウヤ、息くさいっ!」
「…………はぁ〜っ」
「ぎゃああああっ!」
まきはオーバーな(そうであって欲しい)悲鳴をあげると鼻を押さえて毛布から飛び出した。
「くさいぃ〜、寒いぃ〜、死んじゃうよぅ……」
「…………」
まきの反応に結構、本気で傷つく俺を見て郡がそっと尋ねてきた。
「シャワーだけでも、浴びます?」
なんて気の利いた子だ。その気遣いを、爪の垢ほどでもまきに分けてやってくれ。
「それじゃあ……って、あれ? そう言えば、詩臣は?」
ふと思って辺りを見回してみても、そこに詩臣の姿は無い。いくら早朝とは言え、あの詩臣がこれだけの騒ぎの中に姿を見せないのは少し不自然に感じたのだ。
「……いえ、詩臣様は……」
するとまた、郡が言い淀む。今朝の郡はいやに歯切れが悪かった。朝に弱いのか?
「その……まだお休みに……」
消え入ってしまいそうな声で、もにゃもにゃと郡が喋っていると。
「私なら、起きてるわよ」
不意に、勢い良く襖が開け放たれ、その向こうに仁王立ちする詩臣が見えた。突然の詩臣の登場に、郡は随分と驚いている様だった。
「詩臣……もうちょっと静かに登場してくれ」
襖が開け放たれた瞬間の『スパーン』という爽快な音は、漏れなく俺の頭に響き頭痛を悪化させていた。
「全く、情け無いわね。男のクセに」
また、何時もの微笑でそう言い放つと、詩臣はさっさと居間に上がってきて座布団に腰を下ろした。
「うっせぃ……あ、詩臣」
そこでふと、俺は右手の甲の事を思い出して、詩臣の手をとった。
「やん。何?」
妙にテンションの高い詩臣は放っておいて……。
「あり?」
詩臣の右手の甲は、綺麗な白色をしていた。
「何よ?」
流石にずっと手を握られて、詩臣がうざったそうな顔をしだしたので俺は急いで手を離して弁明に回った。
「いや、それがさ。今朝起きたら俺等三人共、手の甲が腫れてたんだよ」
そう言って俺が右手の甲を見せると、まきも元気に右手を上げ、郡は控えめに包帯を見せた。
それらを見て、詩臣は口角を歪めた。
「ふぅん、不思議ね」
その口調は、どこか不気味だった。
「まぁ、良いんじゃないの? 死人≠ェ出た訳でもないんだし」
「……物騒な事言うなよ」
「あははっ。そうね、ごめん」
直ぐに謝ると、詩臣は口角を歪めたまま、郡が慌てて持ってきた湯飲みに手を伸ばした。
「なるほどねぇ」
熱い茶を啜りながら、そう呟いたかと思うと、詩臣は勢い良く湯飲みをテーブルに置ききりっとした表情で言った。
「犯人はこの中に居るわ」
突然、そう断言したかと思うと、詩臣は『着替えてくる』と言い残してさっさと自室へと戻って行ったのだった。
「…………はい?」
俺もまきも郡も、きょとんとするしか無かった。
するしか無かった筈だ。
しかし。
その子は、腹の中で呪いの言葉を吐き続けていた。
◎
昨夜。詩臣は突然の殺気に目覚めた。目を開くと、そこには白刃を振り上げる小さな影の姿があった。咄嗟に詩臣は力でその影の動きを止めようとした。しかし、力を使った瞬間、白刃の刀が青白い輝きを帯び、詩臣の力を無効化してしまったのだった。驚いた詩臣は力で毛布を影にぶつけ、その間に刀の射的範囲から逃げ出した。影は苛立ちながら毛布を切り裂くと、再度、詩臣に襲い掛かった。すると体勢を立て直した詩臣は、力も使わずに、俊敏な動きで影の懐に潜り込み体を回転させながら肘で影の脇腹を突いたのだ。それを影は右手の甲で何とか受け止めたが、その拍子に影は右手を痛め、刀を両手で握れなくなってしまう。それを好機と詩臣が更に攻撃の手を加えようと拳を構えたが、影は勝機が無いと悟ったのか、刀を収めると一瞬で姿を晦ませたのだった。
その影の顔を、詩臣は一瞬たりとも見る事が出来なかった。もしかしたら『まやかし』で隠されていたのかも知れない。しかし。
小さな影の右手の甲には、間違いなく傷跡が残っているだろう。
◎
「あ〜あ、楽しくなってきたわね。本当に」
詩臣は久しぶりに、ジャージでもスウェットでも無い服を着る事にした。
U
肌寒い気温の中で、温かなシャワーを浴びる事がこんなに心地良い事だとは知らなかった。
詩臣の家の風呂は、意外にもバスタブでシャワーもしっかりと付いていた。てっきり、五右衛門風呂に桶が置いてあるだけのものだと思って俺は、その光景を見て安堵した反面、少し残念だったりもした。
「三上さん。バスタオル、ここに置いておきます」
曇りガラスの向こうで郡のそんな声がする。本当はバッグの中にちゃんと自分のバスタオルがあるのだが、ここ二〜三日は洗ってないものなので、このまま借りてしまおう。
「お〜、さんきゅ」
「それと折角なので、三上さんの鞄の中のタオルや衣類は洗濯しておきます」
「…………どうも」
本当に郡はしっかりした子だな。その爪の垢、俺にも分けて下さい。
温かな雨が、徐々に酒気を洗い出していく。俺はそれを静かに感じながら、目を閉じた。
結局、昨日は飲まされるだけ飲まされて何も聞く事が出来なかった。酔いつぶれて、そのまま流してたけど、やっぱり腑に落ちない事が多いよなぁ……何泊もする訳にはいかないし、この後、直ぐ聞いて直ぐおいとまするかな……いや、別れる直前に身内の事を根掘り葉掘り聞くのは流石に失礼か? でもなぁ……気になるしなぁ……。
そんな事を考えながら目を開くと、不意に右手の腫れが目に付いて俺は決断した。
やっぱ、聞こ。気になるし、何か変な感じがする。三人と別れるにしてもこのままじゃすっきりしなさ過ぎる。そう、三人と別れるにしても……………………どうしてここは、こんなに心地が良いんだろう。
三人との別れを考えた時、俺が少しだけ泣きたくなったのはきっと、長旅に心身共に疲弊していたからなのだと思う。そして、肉薄する『運命』の音を聞いた気がしたからなのだと思う。
俺は、暫く上向きにシャワーを浴び続けた。
「すいません」
郡は、俺の前で土下座を決め込んでいた。対する俺は半裸にタオル一丁の格好で、そんな郡の対応に困ってたりする。
「いや、まぁ……しょうがないさ」
俺が何とかフォローしようと発した言葉に、郡は機敏に反応して、額を畳に打ちつけた。
「俺とした事が、『全部』の衣類を洗濯してしまうなんて、弁明の余地もありません」
そうなのだ。この子ったら、俺が風呂上りに服を着る事も忘れて、バッグの中のありとあらゆる洗えるものを洗濯に出してしまったのだ。そりゃあもう、バッグの中はもぬけの殻だ。強盗だってこんなに持ってかないだろう、ってぐらい大胆に抜き取られている。それにしても、まさか。
「へっくしょん」
念の為に持ってきていたコートまで洗濯されるとは思わなかった。確か皮製だった気がするんだけど……。
「うきゃ〜っ。ユウヤ、せくし〜っ!」
「うるさいぞ、まきっ」
俺の醜態を見て悲鳴にも似た笑い声を上げるまきを一喝すると俺は、俺の足元で一向に頭を上げようとしない郡を見た。
この子……最初会った時は、なんでもクールにこなす機械見たいな子だと思ったんだけどなぁ……どうも今朝は様子が変だよな。いやに落ち着きがないし、空回りしてる感じだ。実はこれが本性で、普段は必死にそれを隠してるとか?
「ま、そんな気にするなって。……と言っても、乾くまでこの格好ってのは流石になぁ……」
「ユウヤ、ユウヤッ! こっちにコタツあるよ、コーターツーッ!」
「やかましいっ! 裸でコタツとか、俺は新手の変態かっ!?」
テンション急上昇でギターまで弾き始めたまきは放っておいて、俺は郡に対処法を求めようと視線を向けた。すると、直ぐに返答があった。
「でしたら、三上さんと同じくらいのサイズの服がありますので今、お持ちします」
「え?」
戸惑う俺をよそに、郡は小走りで障子の向こうへと消えた。
……俺と同じサイズの服って……誰の?
少しだけ不気味な感じはしたが、後で聞けば良いか、と俺は座布団で胡坐を掻いて郡を待つ事にした。
「あはははっ! ユウヤ、裸、裸〜っ!」
「…………」
改めて感じた事だが、絶対、まきは女じゃないと思う。女なら、十人が十人、この状況には恥らう筈なのだ。
そんな事を考えていると、不意に隣の部屋に繋がる襖が開け放たれた。
「おまたせ」
そこから姿を現したのは、洒落た格好に着替えてきた詩臣だった。
詩臣の格好は半袖の黒いブラウスに段染めのロングスカートの組み合わせで、恐ろしい程、詩臣という存在を引き立てていた。その上、詩臣は髪に櫛を入れほんのりと化粧もした様で、その姿は『美しい』以外に形容の仕様が無い程、美しかった。
「あら、優也」
そんな美女が、半裸の俺を見て坦然と言う。
「あなた、そんな所にホクロがあるのね」
俺は、もう。
「……恥ずかしいっ……」
恥らうしか無かった。
「全く、早く服を着なさい。今日はこれから町に出るんだから」
続けて詩臣はくしゃっとした笑みを浮かべてそう言った。
詩臣のそんな笑い方、今まで見た事が無かった。お洒落をして、そんな笑顔まで見せられたら俺はもう……。
「……って、町に出る?」
危うく笑顔に流される所だった。こいつ今、これから町に出るって言ったよな?
「そうよ。優也もまきも、ここ(桜海町)には来たばかりでしょう? 折角だから案内してあげるわ」
詩臣は俺達の意見も聞かずにそう言うと、ふふん、と自慢げに肩に掛かる黒髪を払った。
「わ〜い。やったね、ユウヤッ!」
勿論、まきも乗り気である。最早、俺に異論を唱える場は無い。
「ああ、そうだな」
結局、俺は別れを告げられずに居た。
そもそも、焦る必要なんて無いんだ。あそこに俺を待つ人はもう居ないんだから。
俺は半裸もだんだん板に付いてきたので、そのままお茶を一口啜った。
「寛いでんじゃないわよ」
すると詩臣がこつり、と俺の頭を小突く。
「いてっ……今、郡が服を持ってきてくれてるんだよ」
「あいつが?」
郡の名を出した途端、詩臣の顔が険しくなったのは見間違いじゃないだろう。よく分からないが、良い感情を抱いていないのは明らかで、俺は慌てて事情の説明を始めようとした。
郡が戻ってきたのは、そんな矢先だった。
「すいません。三上さん、この服なら……」
郡は男物の明るい柄のティーシャツと黒いチノパンを手に、駆け寄ってきた。
「郡。そんなに焦らなくても――」
良かったのに。
俺がそんな労いの言葉の一つも掛けてやろうとした、その刹那。
郡は、鈍い音を上げて吹き飛んだ。
何が起きたのか理解も出来ない俺の足元に、ぱさりと郡の持ってきた服が落ちる。
「郡っ! 誰の断りを得てそんなものを持ってきた!?」
酷く殺気立った声を上げたのは、詩臣だった。
詩臣は自身の目の前を小走りで通過しようとした郡を突然、真横から蹴り飛ばしたのだ。
「う……ぁ……」
蹴られた郡はその衝撃で壁に叩きつけられ、軽い脳震盪まで起こしていた。
「ここは私≠フ家だ! お前にそんな資格は無い! うぬぼれるなよ!」
それでも詩臣は容赦せず、今まで聞いた事も無い声を上げながら郡の髪を乱暴に掴む。
「ま、待てよ、詩臣! どうしたんだよ!?」
突然の事に事情も分からない俺だが、これは明らかに常軌を逸している。
俺は詩臣の腕を掴んで無理矢理、郡と詩臣の間に割り込んだ。
「退きなさい、優也! 私達の問題よ!」
詩臣は信じられないほど殺気立っていた。しかし、ここで退いたら詩臣は郡に何をするか分からない。
「そうはいくかよ! 郡は俺に服を貸そうとしてくれたんだ! 俺も無関係じゃない!」
「無関係よ、退きなさい!」
「絶対、退かない!」
俺が断固として退かないでいると徐々に詩臣は落ち着きを取り戻し始め、やがて盛大な溜息をつくと「おせっかい」とかと呟きながら、畳に落ちた服をそっと拾い上げて俺に差し出してきた。
「貸してあげるわ。下着は自分ので我慢なさい」
「え、あ……」
詩臣は俺の胸にぐい、と服を押し付けると憤怒を押し殺す様な表情で俺と郡に背を向けた。
「それを着たら早く町に行くわよ」
そう言ってさっさと居間を出て行ってしまった詩臣を、まきが俺達に不安な視線を向けながら追いかけた。
「どうなってんだよ……」
俺は思わずそう呟くと、へたりとその場に腰を落とした。
詩臣が一瞬で別人に、遠い存在の人になってしまった様だった。
「ぅ……すいません。三上さん」
「あ、郡っ。大丈夫か?」
気付くと背後では、郡が蹴られた脇腹を押さえて立ち上がろうとしていた。
「はい……平気です」
すると郡は痛みを忘れようとするかの様に一度、大きく深呼吸し立ち上がった。その顔には脂汗が滲んでいた。
「辛そうじゃないか。腹、見せてみろよ」
それを心配した俺が郡の服をめくろうとすると、途端に郡は俺の手を弾いた。
「結構です。これ位、珍しくは無いですから」
無表情に戻ってそう言うと郡はちらりと俺を見上げて、それから居間を後にしようとしたのだった。
「そんな……おかしいだろ、そんなの! そんなの、まるで奴隷じゃないか!」
郡の諦めたような言葉に俺が思わず声を荒げると、郡は障子に掛けた手をするりと落として俺に直った。
その顔には、怒りが見えた。
「俺は、自分の存在に誇りを持っています」
蒼い瞳が、揺らぎもせずに俺を見る。俺はもう口籠るしかなかった。
「釈然としない事があるなら、詩臣様に尋ねてみればいい。あの方は、全てに答えてくれるでしょう。その答えをあなたが信じられるかどうかは、甚だ疑問ではありますがね」
そう強い口調で言うと、郡はぺこりと頭を下げて居間を後にした。
「……何だってんだよ……」
意味が、分からなかった。
V
用意してくれた服に袖を通すと俺は、湿った財布だけポケットに突っ込み、何と言っていいのかも分からず無言で詩臣宅を後にした。外に出ると昇りたての朝日がその微光で俺を迎えた。それに目を細めながら辺りを見回すと、右の畑でまきが詩臣の監視の下、土いじりをしていた。
「ようやく来たわね」
詩臣は見慣れた笑みを浮かべていた。それはまるで、さっきの出来事を無かった事にしようとしている様だった。しかし、それで釈然と出来る程、物分りのいい俺では無い。
「詩臣。さっきのは――」
真っ先にさっきの話に触れようとした俺の口を、詩臣の人差し指が封じた。
「幾らでも話してあげるわよ。ただし、ここでは話さない」
すると詩臣はまきを立たせ俺に背を向けると、飄々と開かれた門の先の石段を下り始めた。俺は憮然としながらも二人について行く。
石段の上からは桜海の町が一望出来た。
考えてみれば、俺はこの桜海町という町を殆ど見てはいなかった。町に入る前は、その映画でしか見た事の無い様な町並みと神秘性に、不思議なほど心を躍らせていたのだが、町に入る直前でまきと出会い、それから目抜き通りに入ると最初に目に付いた飲食店に入り、そこを出るとまきと一緒に走ってここまで来てしまった。色々な町の散策も兼ねた旅だったのに、その中で最も興味を引かれたこの町をまともに歩いてさえいないのは、流石に寂しい事だ。
詩臣との話が終わったなら、一度、この町をゆっくりと散策しよう。詩臣も町を案内してくれると言っていたし。
その為にも、詩臣には容赦なく質問を浴びせよう。
「そう言えば、優也」
殆ど車の通らない道路を悠々と横切りながら、詩臣がふと俺に尋ねてきた。
「あなた、まきとは何処で出会ったの?」
俺は左右から車が来ないか確認しながら道路を横断すると、詩臣の横に並んで歩いた。まきは俺達の前で一人、歩きながらギターを弾いている。
「ああ……なんて言ったっけな。目抜き通りの先の山ん中にある神殿だよ」
無関係な問い掛けに俺は、顔を顰めながら答えた。
「神殿、ねぇ……桜海神社でしょう?」
「ああ、そこ。それがどうしたんだ?」
頷いて俺が尋ねると、詩臣は楽しそうな笑みを浮かべ桜海神社の方を指差した。
「あそこには、神様が住んでるって言われてるのよ」
突然、詩臣は語りだした。
「その神様はね――」
「待て待てっ。俺は、そんな話を聞く気は無いぞっ!」
話を逸らされると思った俺は慌ててその言葉を遮った。すると詩臣は目を細め、神社の方に向けていた指をそっと下ろした。
「大事な話なの。聞きなさい、優也」
それは表情とは裏腹に、聞き分けの無い子供を窘める様な強い言葉だった。
俺は閉口するしかなかった。
「良い子ね」
歩を進めながら川に沿って伸びるガードレールに指を這わせ、詩臣はそっと視線を落とした。
「その神様は紅の神の子……【紅子神(こうこじん)】と呼ばれ、この町はその【紅子神】によって守護されている、と言われているの」
それは、ずっと昔にこの国を席巻した神話の一部の様だった。
全てのものには神様が宿り、八百万を超える神様が人を護ってくれている。
確か、そんな概念の元で神様が国を創っただとか、歴代の権力者達は神様と関わりがあったのだとかと語られる話で、そこから派生した多くの神様の話が地方では今も語り継がれている、と授業で聞いた事がある。しかし神様の住まいの殆どは国の近代化に伴って取り壊されていたので、そんな話、現代人の殆どが御伽噺としか捉えていないのは明らかだった。だから、詩臣の話は俺にとって宗教の勧誘の様で、少し不気味にさえ聞こえてしまった。
「【紅子神】は宗教でもなんでもないわよ。御伽噺でも聞いてるつもりでいて」
分かったよ。だから俺の心を読むなっ。
俺は肩を竦めて、無言で詩臣に話の続きを促した。
「【紅子神】は人に紛れ、人の声を聴くの。そして町を、自然の摂理の中で護り続ける。……だから桜海は、この世界において自然と共存し続ける事が出来ているのよ」
そして詩臣は春の風に髪を躍らせた。
「ほら、あれをご覧なさい」
そう言って詩臣が指差した先には、電線の通っていない電柱の一つが立っていた。その側面によく目を凝らしてみると、広告の他に一枚の小さな張り紙が貼ってある事に気付いた。
その張り紙は掌にすっぽりと収まってしまいそうな小さなもので紅い紙に黒字で何か古語の様なものが書かれていた。
詩臣はそれに近付いて足を止めると、その張り紙を撫でながら、また口を開いた。
「これは、紅護符(こうごふ)。またの名を――、紅耳(あかみみ)」
「……紅耳?」
暫くは黙っていようと思った俺だったが、その何処と無く物騒な異名に思わず口を開いてしまっていた。
「そ、紅耳。さっき言ったでしょう? 【紅子神】は人の声を聴く、って。これが【紅子神】の耳≠ネのよ。紅耳は桜海町中に貼られ、そこに届いた人々の願いを【紅子神】が聴くの」
話しながら詩臣はまた歩き出す。
「へぇ……」
「じゃあ、いっつもボク達の話を盗み聞きしてるんだ?」
突然、まきは話に入ってきたかと思うと、真顔で詩臣にそう尋ねた。
盗み聞きとは言葉が悪いが、確かにそう言えるかも知れない。
すると詩臣は擽ったそうに笑って、まきの頭を撫でながら答えた。
「その心配は無いわ。【紅子神】にはその身の回りの世話をする『人形』が居て、人々の声は必要なものと不要なものとをその人形が選別して【紅子神】に伝えるのよ」
「ふぅん……」
「けど、ここの人間は皆、子供の頃に『人の悪口を言うと神様が本人に知らせちゃうぞ』って脅かされながら育ったわよ。【紅子神】がそんな事する暇人かどうかは別にして」
詩臣は楽しそうに話したが、まきは感慨に耽った様に紅耳を見つめているだけだった。
「さて、昔話はこんなものかしらね」
俺達は、気が付くと目抜き通りの入り口まで来ていた。目抜き通りは早朝でもこの町にしては多くの人々が行き来していた。
すると、さっきまで上の空だったまきが急に忙しなくあちこちを見回しだす。
「どした? まき」
「ん……音がするの」
まきは俺の方を見もせずに答える。
「音?」
「うん。ギターの音」
言われてから俺も耳を凝らしてみたが、それらしい音は一切聞こえない。それをまきに伝えようとまきの方を見ると、不意にまきは何処かに向かって駆け出してしまった。
「あ、まきっ」
まきを追いかけようと俺が走り出すと、詩臣の手がぐん、と伸びてきて俺の襟首を引っつかんだ。喉からぐえ、と変な音が漏れ、俺はやむなく足を止める。
「場所は分かってるから。私達はのんびり行きましょう」
飄々と詩臣は言う。
「うぃ……」
まきの姿が人ごみに消えたのを見届け、俺は喉を押さえ詩臣に恨めしげな目を向けた。勿論、詩臣はそんな事、まるで気にしない。
「あの子は本当に可愛いわね」
「……まきがか?」
俺の問いに詩臣は目を細めると、そっとその口元を手で隠した。
「ええ。あの子は幼くて、真っ直ぐな子だもの」
その口元は、きっと笑っているのだろう。本当に嬉しそうに詩臣はそう答えた。
目抜き通りとは言え、その道は一本では無い。各専門店の脇には小道が伸び、その先にも俺達が今いる場所程では無いがそれなりに大きな通りが広がっている。まきがどこに向かって駆けていったのか、俺には皆目見当がつかなかった。
「あの子の行き先は、この町で唯一の楽器店よ」
すると詩臣は俺をリードする様に、率先して目抜き通りを歩き始める。俺は小走りでその横に並んだ。
桜海の目抜き通りは、小さいながらも多くの専門店が軒を連ね、朝から多くの人々が行き来していた。通学途中の学生、サラリーマン、犬の散歩をする主婦。
そんな光景は他の町となんら変わり無かった。ただ、少しだけ違和感があるとすれば、この町のその光景は他の町と比べ和やかで明るい雰囲気に包まれている事だった。
早朝の忙しない時間帯になんで? そんな俺の疑問を察したかの様に詩臣が話し始める。
「この町はね、その閉塞的な土地柄から、多くの町民が友達みたいな関係なのよ」
右手先にある八百屋では、店の主人と通り掛かりの通行人が挨拶を交わしていた。目の前では犬の散歩をする主婦とジョギングをしていた若者が何やら世間話をしている。
そうか、俺はこんな『開けた世界』を見た事が無かったから、心躍るような好奇に襲われたのか。
「だから私は、まきにここで生活して貰おうと思ったのよ」
何かを懐かしむかの様に詩臣は言う。
「……そもそも、お前とまきはどんな関係なんだ?」
すれ違う人々に気を配りながら、俺は隣を行く詩臣に尋ねてみた。
それは出会ったその時に最初に覚えた疑問であり、何となく触れずらかった事だった。だからこそ、聞くなら今しかないと思った。
「お前は自分の事を『まきの親』って言ったけど、まきは親の事を凄く嫌ってたんだ。けど、まきはお前とめちゃくちゃ仲が良いだろ?」
「あはは、そうね」
すれ違った人の一人が「あら、朝からデート?」と俺達をからかう。勿論、全く見覚えの無い人だ。
「でも、嘘ではないわ」
その人に笑顔を返すと、詩臣は不意に視線を落としてそう言った。
「あの子が、どっちの親の事をそう言ったのかは分からないけど……紛れも無く、私はあの子の親よ」
詩臣の言葉が暗示している事に俺は気付いた。考えてみれば当然だ。詩臣は二十歳。どう考えてもまきの生みの親というのはありえない。詩臣はまきを引き取った『育て親』の様な存在で、まきが嫌っているのは生みの親の方なのだ。それならば全ての辻褄が合う。
「……そっか」
それに気付いてしまったら俺はそれ以上、質問を重ねる事が出来なくなってしまった。
するとそんな俺を見た詩臣が笑った。
「別に気を使わなくていいのよ? 私はこういう話をするのも好きだし」
明るい調子で詩臣は言ったが、俺はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
「そうは言っても、まきの事でもあるしな……あいつの知らない所でこれ以上は聞けないよ。よし。この話はこれで終わり」
俺がそこで一旦、会話を終わらせると不意に詩臣は擽ったそうな笑い声を上げた。
「なら、何を聞きたい?」
上機嫌に詩臣は尋ねる。
俺は頷いて、ふと前を見た。
そこには地上にむき出しになった駅の近くにひっそりと佇む、小奇麗な楽器店の姿があった。
それは昔の家を洋風に改装したかの様な長方形の店で煉瓦の壁の合間、合間に黒っぽく変色した支柱が顔を覗かせていた。それでいて入り口はスモーク張りがされたガラスの引き戸で、手動の様だった。そんな店の屋根に取り付けられた『月島楽器』と書かれたギターを横たえた様な形の看板の真下まで近寄ると、店内から徐々に荒々しいエレキ・ギターの旋律が微かに聞こえ、俺達は入り口の引き戸の前で足を止めた。
「一つだけ聞きたいんだ」
俺は看板を見上げながら、小さな声で言った。
「何かしら?」
入り口の引き戸に手を掛けながら、詩臣が俺を見る。
俺はごくりと、唾を飲み干した。
引き戸が開かれると、壁越しだったギターサウンドが途端にクリアになって聞こえる。
俺達は順番にそこに踏み入った。
月島楽器は七〜八畳ほどの玄関を店にしていて、その店内には所狭しとギターとベースが置かれていた。逆に、それ以外の楽器は一切無い。ギターとベースだけが棚と壁を占領していた。そんな店の真ん中で、一人の老人が鋭く尖った稲妻型のギターを巧みに鳴らしていた。それを食い入るように、その足元ではまきがしゃがみ込んで居た。
「いらっしゃい」
老人は俺達に無愛想な調子で言うと、また歪んだギターサウンドを狭い店内一杯に響かせ始めた。
老人は腰も曲がり、髪は豊かではあるが真っ白で顔もしわくちゃで痩せこけていた。しかしその眼光は鋭く、ギターを操るその手は俊敏で華麗だった。
老人はまきの様に高速なピッキングこそ見せないが、重厚なサウンドを響かせ見たことも無いコードを用いたかと思うと、足元に並ぶエフェクターの一つのスイッチを足で入れクリーンな音が二重に遅れて聞こえる効果の中で、高音と低音を交互に用いた複雑なメロディを奏で始めた。
俺はそれに暫く聞き入ってから、意を決して詩臣の真横に立った。
そして、詩臣に尋ねた。
「……お前は、何者なんだ?」
俺の問いかけに、詩臣はそっと目を閉じた。
老人のギターにまた歪みが加わり、サウンドがバリバリと辺りを振動させる。重厚なサウンドは老人の手によって震えたり、小刻みに止められたりしながらメロディを紡ぐ。時折、ハーモニクスという手法で奏でられる、叫ぶような超高音が俺の耳を劈く。穢れた凶悪なサウンドは刻々と激しさを増し、地鳴りの様な低音と雷鳴の様な高音を併せ持ち、場を支配する。ふと、それが弱まったかと思うと、不意に神秘的なメロディが紡がれる。それはまるでエルフの森にでも迷い込んだかのような神秘的で、滑稽なほど美しいメロディだった。それは展開するにつれてミサ曲かと思うほどの荘厳さを帯び、パイプオルガンをギターアレンジしたかの様な様相を呈し始める。
そして、そんな神々しい曲を背に、詩臣は告げる。
はっきりと。自らの存在を。
「私は【紅子神】・天津詩臣(あまつしおみ)。この地を収める神よ」
荘厳なメロディは、徐々に発生していたハウリングに包み込まれた。
W
初めて詩臣を見たその時から、何か『違う』感じはしていた。全てを客観視しているかの様な立ち振る舞い。全てを見透かしたかのような言葉。全て異質だった。しかしそれは、この土地と詩臣の『地位』がそうさせるのだと思った。
俺は詩臣を上流階級の人間だと思っていたのだ。いや、元上流階級か。落ちぶれた名家の様なものでその血を汲んで彼女はこうなのだろう、と予想していたのだ。そうすれば、あの何も無い広い家も、流浪人を不用意に居間にあげる警戒心の無さも、郡に対する態度さえも、説明がついたからだ。
その予想に多少の違いはあっても大筋は合っている筈だと思って、俺は詩臣に尋ねたのだ。名家の出だと知った時、俺にどんな対処を施すのかと、恐れていたのだ。
それなのに、詩臣の返答はまるで違い、あまりにぶっ飛んでいた。
「……神様?」
俺は、耳に届いた言葉が誤りなのだと思って、聞き返した。
「そうよ」
それを詩臣は、真顔で即答した。
気がつくと老人はハウリングに手を焼いてギターを弾くのを止め、まきと共に俺達に歩み寄ってきていた。
「ワシの店で面倒な話をしてくれるな」
老人はさっきまでのギターサウンドの様に重苦しい声で、そう詩臣に言った。すると詩臣は肩を竦め俺を真っ直ぐに捉えていた視線を老人に移す。
「そう言わないでよ、月島。面倒な話だからここに来たんじゃない」
すると月島と呼ばれた老人は、やれやれ、とため息をつきながら店の椅子に腰掛けた。
「面倒と言う時ほど、お前さんは楽しそうだがな」
「どうも」
月島の言葉に短く答えると、詩臣はそっと視線を俺に戻した。今度は俺が視線を外す。床を睨む様に見つめた。
「ユウヤは、詩臣ちゃんが人間だと思ってたの?」
それは、本気で驚くまきの声だった。
……なんだ、こいつら。
俺の中にどんどんと恐怖に似た思いが込み上げてくる。
「人間が一日中、酒飲んで遊んでられっかよ」
月島と呼ばれた老人の声は嘲る様だった。
……本気で言ってるのか? 詩臣が、神様だとか、そんな事を……。
俺はじわりと後退した。
……これは何かの宗教か……?
「優也。まずは落ち着きなさい」
詩臣の声は至って冷静だった。今となっては、それほど怖いものも無かった。
……これは、何かの冗談か……?
俺は誰の顔も見れないまま、乾いた口を開いた。
「冗談だろ……」
「ユウヤ?」
俺の反応を疑うかの様に、まきが小首を傾げる。
この子も、詩臣やこの老人に洗脳されたのか? 神様だとかそんな……。
「そんなものは実在しない……」
「おいっ、小僧」
俺の言葉をかき消そうとする様に、月島が声を荒げる。それが更に俺の恐怖を掻き立て、興奮させた。
俺は顔を上げ、目の前の詩臣を睨んだ。
「お前らはどうかしてるっ!」
詩臣は、泣いていた。
「三上・優也……眠れ」
震えるその声を聞いたかと思うと、俺は意識を失った。
拘束
T
恐ろしいほど美しく静寂に包まれた都は、穏やかな朝日に照らされ輝きを放っていた。
人に害をなさない、人が不快に思わない生物だけを最適な数だけ繁殖させた林。電線と線路を地下に隠し、道路さえも地面に半分ほど埋まった透明のチューブの中に押し込んだ事で実現した、人工芝の敷き詰められた広大な広場と汚れを知らない澄んだ空。法によって整えられた白銀の集合住宅。ガラス張りの超高層ビル群。それらを見下ろすように、都の一番高いところに並ぶ権力者達の住まい。四季によって変わるその外観は、今は春を連想させる桜や鶯の彫刻で彩られていた。目標があるから人は頑張れるのだ、と子供が掲げるようなコンセプトを大真面目に掲げて造られたその権力者達の住まいは今日も都を見下ろし、都民に『ここが楽園である』と言いふらしているかの様だった。
しかし、その姿に文句を言う者は居ない。その外観とは裏腹に連立政権で成り立つ政府に独裁者はおらず、権力者達は皆、国民を第一に考え、と声を張り上げてそこに住まう。国民の生活も豊かで政府への不満は些細なことしか無い。暴動や反政府的な運動など、ここ数十年起きてはいなかった。
穏やか過ぎる時間が、そこには流れていた。
そんな穏やか過ぎる場所が、女を更に憂鬱にさせていた。
女は白を基調にした部屋の窓から都を見下ろしていた。そう、女は権力者の家系に生まれその生涯を保障された者の一人だった。部屋の中には自動掃除機器や3Dモニターが設置され、備え付けの人工知能が室温や女の体調まで全てをチェックする。勿論、その情報は女の私的なコンピュータにしか行き着かない。
そんな潤沢な生活に女は何一つ不満が無かった。退屈もしてはいなかった。毎朝、六時に起き家族と朝食を共にし都内の国立大学に向かう。厳しい授業をこなし空き時間には図書室で変色した本を読み漁る。支給される昼食もバラエティに富んでいて文句のつけ様が無い。夢もあった。パティシエになりたいという夢が。殆どのものが人工知能と自動機器によって管理される都で、料理とは市場を機器に独占されずに人の手で保てている数少ないものの一つだった。女はその夢に向かって邁進の日々を送っていた。数年前から一日一食は母に頼んで一から手作りで料理を作らせてもらっていた。今日は、朝食を作らせてもらえる日だった。
それでも、女は憂鬱だった。
明るい栗色に染められた柔らかなショートヘアにいつまでも眠そうに垂れ下がった双眸。身長は人並みよりも少し低いが、胸部はそれなりに育ち、足も存外長い。
女の名は杉菜・灯(すぎな・あかり)。今年で二十歳を迎える、杉菜議員の一人娘である。
灯は肌蹴た寝巻きもそのままに、窓の外を眺める。
白銀と黄緑の都は、今日も美しい。
「灯。朝よ」
すると不意にノックの音がし、扉の外からそんな声がする。それは灯の母・郁美(いくみ)の声だった。
「……起きてます」
灯は静かに答えると、音が鳴らない様にそっと手で窓を閉じた。
「また、寝てないの?」
すると丁度、灯が窓を閉じたタイミングで郁美が入室して来た。人工知能は特別な命令を下さない限り、家族の入室を拒まない。
郁美はとても二十歳の娘がいるようには思えないほど若作りで、気品に溢れていた。
そんな母親を見て、灯はそっと笑う。
「いえ、起きたのはついさっきです。朝日が綺麗だったので」
灯の返答に郁美は直ぐに人工知能の確認を取ろうとしたが、その動作の途中で灯の顔のあるものに気付き動きを止めた。
「……灯。目の下が黒いわよ」
「え、あ……これは」
慌てて目元を擦る灯を見て、郁美はため息をついた。
「……ごめんなさい」
そんな母を見て、灯は頭を下げる。
すると郁美は早足で灯の前を通り過ぎ、マシュマロを横たえて木枠にはめ込んだ様な純白のベッドにその腰を落とした。
「あの……」
「彼が失踪して、もう一ヶ月になるわね」
郁美の突然の言葉に、灯はきゅっと口を結んだ。それを見て郁美は続けて言う。
「そろそろ話してくれても良いんじゃない? あの、彼が消える前の日の夜。貴方が彼と電話で何を話したのか」
郁美の言葉は優しく、微笑みかけているかの様だった。しかし一方の灯は今にも泣き出しそうな形相でくっと口元を結び、寝巻きの裾を握り締めていた。
「私は別に……」
言いよどむ灯に、郁美は意を決した様に目を伏せた。
「こんな事言いたくはないけど……都の外の環境は苛酷なのよ。十分な統制の執られていない自然と社会の中で彼は……長くは生きられないわよ」
その言葉は激しく灯を動揺させた。外の世界を知らない灯にそれを疑う術は無い。
「そんなっ……」
思わず声を荒げようとした灯を、郁美は視線一つで黙らせる。
「何か知っているなら話せばいいじゃない。彼にまた会いたいんでしょう?」
母の言葉は強く、優しく、的確だった。だから、口下手な灯は口元を結ぶしかなかった。しかし、今となってはそれさえも全身の震えで解けてしまう。
「……何を怖がっているの? 何を伝えたの? 灯」
切迫する母の気に、灯は震える口を開いた。誰にも知られたくなかった言葉を、あの日、彼に浴びせたその言葉を、灯は言わなくてはならないと思った。
だから灯は深呼吸をして、それから母を見た。
「……私は言ってしまったんです……」
郁美が大きく息を呑んだ。この時を、一ヶ月待っていたのだ。
「私は言ってしまったんです! 『貴方の面倒は見れない』って! 両腕を再生する手術に成功したばっかりの優也に!」
郁美は絶句するしかなかった。呑み込んだ息を吐き出す事も忘れて、ただ唖然と目の前の愛娘を見つめる。
「ですから……ですから、ママ……」
そんな郁美を真っ赤な目で見つめ返し、灯は震える声で言う。
「少しだけ、大学を休ませて下さい」
灯は精一杯、息を吸い込んだ。その反動に肩が震える。
「あの日の事を……私の事を……優也に、ちゃんと伝えたいんです」
この一ヶ月、思い続けていた精一杯の感情を叫んだ灯に、郁美は冷酷に言う。
「もう話さなくていいわ。必ず、優也君は私達が見つけてあげるから。貴方は大人しくしていなさい」
そして郁美は早足で部屋の出口に向かう。
「ま、待って下さい!」
それを引きとめようとして、灯は崩れる様に転んだ。その姿を郁美は痛々しげな目で見つめたが、決して足は止めなかった。
「灯……暫く、大学は休んでいいわ。アル、この子を私の許可があるまで部屋から出さないで」
「え……」
「リョウカイシマシタ」
絶句する灯を他所に、アルと名づけられた人工知能が主人(マスター)である郁美の言葉に無機質な返答をする。
そして郁美は部屋の外へと消えていく。
「待って下さい、待って下さい!」
必死に叫ぶ灯だが、その足は一度横たわると中々立ち上がらない。そんな灯を更に絶望の淵に追いやる様に、扉が音も無く閉じられた。防音の扉は、郁美の気配までも完全に遮断した。アルもその息を潜める。
途端に沈黙が広がり、灯の衣擦れの音さえ響く。
「待って、待ってよぅ……」
灯は埃の一つも無い綺麗な床に這い蹲って、嗚咽を漏らした。
U
「う……ん……」
気がつくと、俺は所々に染みの目立つ木造の床に突っ伏していた。
頭がうまく働かず、俺はぼんやりと辺りを見回した。
そこは小さな居間の様で、目の前にはちゃぶ台と小さなテレビが見える。
立ち上がろうとすると、不意に腕が痛んだ。俺の腕は背中で組まれ固定されていた。
「……くそっ……」
俺は小さく悪態を吐くと、起き上がるのを諦めて大人しくうつ伏せになった。
そのままどうする事も出来ず暫く時が経ち、徐々に頭が覚醒していく。
そうだ……俺は、詩臣と一緒にまきを探してここに来て……詩臣に質問を……。
――私は【紅子神】・天津詩臣(あまつしおみ)。この地を収める神よ――。
詩臣の言葉が、悪寒と共に蘇る。
「……神様……」
俺は脳内でその言葉を反復させた。
神様、神様、神様……神様、か。『私は神よ』って正面切って言われる事が、こんなに気持ち悪い事だとは思わなかったな……。
俺は都に住む人々の様な思想を持ちたくは無かった。化学に没頭し、それを信じ、それと同調していく。全ての事柄には科学的根拠があり、根拠の無いものは議論の対象となって科学者達に遊ばれるか、空想だと笑われるかだ。勿論、都民の全てがそんな人間な訳では無い。むしろそんな偏屈な人間は極少数なのだろうがしかし、そんな偏屈な人間の影響を受けていない都民というのも、また極少数なのである。神様というワードに極端な反応を示してしまったという事は、俺も結局、影響を受けていたのだろう。神社や御伽噺の様に『文化』という観点で見たり聞いたりする分にはまるで抵抗が無かったのに、さっきの詩臣の言葉には自分でも驚くほど抵抗があった。
「全く。何を考えてあんな事言ったんだか……」
冗談ではないにしても、詩臣は何かを比喩してあんな事を言ったに違いない。それをそのまま真に受けて、動揺して、気まで失っちまうなんて、俺……格好悪……。
「成程な。お前さんは詩臣の話をハナッから受け入れる気は無ぇ訳か」
「!?」
いつの間にか、その老人は俺の背後に、稲妻型のギターを杖に立っていた。
老人の声は低くしわがれてこそいたが、口調は面白い具合に砕けていた。
「あんたは……」
その老人は鋭い眼光で俺を見据えると、どかりと俺の前に腰を下ろした。
「ワシは月島・左右吉(つきしま・そうきち)。お前は?」
月島は無愛想にそう尋ねてきた。
「……三上・優也。俺の腕を縛ったのは、あんたか?」
「そうだ」
イラついた俺の問いかけにも月島は何食わぬ顔で即答した。
「……俺を洗脳して、宗教にでも入れる気か? 月島、おま――へぶっ!?」
刹那、俺の側頭部に毛むくじゃらの拳骨が突き落とされた。
「月島さん、だろうが。ったく餓鬼が」
「……ぅぃ」
月島さんの拳骨は半端な威力では無かった。そのせいで俺は囚われの身である怒りも忘れて大人しく返事をしてしまった。
そんな俺を見て、月島さんは微かに目を細めると杖にしていたギターを寝かせ、乱暴にではあるが俺の上体を起こしてくれた。
あれ、今の表情……。
「なにじろじろ見てんだ。気色悪ぃ」
何となく月島さんの表情に既視感を覚え、俺が抱き起こされるついでにその顔を凝視していると、月島さんは俺の眉間に手刀を落としてきた。
「……すんません……」
何て手の早い奴だ! 親父にも手刀なんて落とされた事ないのに!
俺は眉間と側頭部の鈍痛を涙目で堪えながら、何とか胡坐を掻いて月島さんと対峙した。
「ったく、詩臣は何でこんな奴に話そうと思ったんだか」
すると真っ先に口を開いたのは月島さんで、面倒くさそうにそう呟くと豊かな白髪を乱雑に掻き毟った。
「何回後悔すれば気が済むんだか」
月島さんの言葉に、俺は眉を顰めた。
「……詩臣は?」
「あいつなら、奥でわんわん泣いてるよ。あの嬢ちゃんに慰められてやがる」
俺は思わず部屋の奥を見た。閉ざされた木製の扉の先で、あの詩臣が泣いているのだと月島さんは言った。
俺が記憶を失う寸前。詩臣は一縷の涙を流していた。しかし、俺はそれを見間違いだと信じて疑わなかった。あの詩臣が泣くはずは無い、と。心のどこかが決め付けていたのだ。
「……なんで、あいつは泣いてるんだ?」
「おめぇが【紅子神】を否定したからだよ」
また即答して、月島さんは俺を見た。
その目はまるで俺を咎める様で、また哀れむ様でもあった。
それでも、そんな目で見られた位で簡単に『神様』なんてものの存在を信じられる筈も無い。
「月島さん。アンタは本当に詩臣が神様だと思ってるのか?」
俺の問いかけに、月島さんは目を細め暫し沈黙する。
その表情、その目は、やはり見覚えがあった。しかし一体どこで……。
「神様ってぇと誤解はあるが、あいつは紛れも無く、この地を収める神【紅子神】だ」
余りに月島さんが迷いも無く断言するので俺の方が戸惑ってしまった。しかし、【紅子神】とは詩臣が直前に話した御伽噺の中の存在だ。それが詩臣本人だと言うのだから、そんな話を信じる根拠はどこにも無い。
「そんなもの、どこにも根拠が無いだろ。【紅子神】てのが地主かなんかの異名だってんなら信じるけど」
俺の言葉を受けて、月島さんはその口角を歪めた。
だーかーら、その表情! 誰だ、お前!
「お前、何で急に寝ちまったと思う?」
「……ん?」
最初、急に飛んだ月島さんの質問の意図が掴めず俺は体の動きを止めた。すると直ぐに眠る直前の光景が蘇る。『三上・優也……眠れ』――そうだ。詩臣が泣きながらそう呟いて、そしたら急に意識が。
「思い出したか?」
「ああ、けど……」
何で眠ったのかは分からない。そう続けようとすると、それを遮って月島さんが言った。
「神の人に対する命令はその領内≠ナは絶対だ。……お前は、詩臣に『眠れ』って命令されたから、寝ちまったんだよ」
俺は直ぐに半笑いになって「そんな馬鹿な」と口にしていた。
「否定できるのか? お前の身に起こった事だぞ? 何なら今、詩臣を呼んでもう一度、眠ってみるか?」
「…………」
たちまち、俺は何も言えなくなった。確かに、あれは異常だった。立ち上がって興奮した状態なのに、急に意識が遠のいた。それは立ち眩みとか失神なんかとは違う感じで、そう、まさしく『眠る』感覚だった。一瞬にして膨大な睡魔が襲ったかの様な、異常な感覚があの時、俺の身に起きたのだ。
「信じたか?」
「……二割くらい」
微かな声で答えると、途端に月島さんは濁った笑い声を上げて俺の背に手を伸ばしてきた。
「取り合えず、もう落ち着いてるよな? 腕のガムテープ外すからな。暴れんなよ」
「あ、ああ……って。ガムテープなんかで縛ってたの――いででっ」
月島さんが俺の腕から乱暴にガムテープを引っぺがそうとし、俺の皮膚がそれに引っ張られる。それでも月島さんはお構いなしでガムテープを全て剥がすと、それをくしゃくしゃに丸めて部屋の端に投げた。
開放された俺の腕は赤くなっていた。
「悪かったな。暴れられたら面倒だったんでよ」
そんな事を少しも悪びれた様子を見せずに言う月島さんを一瞥して、俺は部屋の奥へと繋がる一枚の扉を見つめた。
「詩臣に会いたい」
それが一番手っ取り早いだろう、と俺はそう言った。しかし、それを聞いた月島さんは驚いていた。
「てっきり、自由になった途端、走って逃げ出すのかと思ってたぜ」
「あ〜……それもありか。あ、いや……すいません。それもあり『ですね』」
俺はふと、今になって敬語を使っていなかった事に気付き言い直した。
本気で今、気付いたので直しただけなのだが月島さんはそんな俺の反応が相当面白かったらしく、また笑い声を上げた。
「今更、遅ぇよ。タメ語でかまわねぇさ。呼び捨ては許さねぇが」
その声はどこか嬉しそうだった。
すると月島さんは詩臣に繋がる扉の方を向き、それから俺に尋ねた。
「お前、詩臣の事、どう思う?」
月島さんは背中を向けたままで、俺に表情を見られたくない様だった。
質問の意図は分からないが、俺は素直に答えるのが一番だと思った。嘘を言ってもどうしようも無いし。
「黙ってれば美人だと思う」
言った途端、辺りの空気が止まった。
あれ、俺なんか間違えた……?
不安になって月島さんの方を窺ってみるが、月島さん扉に手を掛けたまま俯いて動かない。いや、よく見ると肩が小刻みに上下している。
「えぇと……月島、さん?」
その状態の意味が分からずに尋ねようとすると――。
「ぐあっはっはっはっはっ!!! だってよ、詩臣! 聞こえたろ!? 黙ってたら美人だとさっ!」
不意に月島さんは爆発したかの様な勢いで笑い出し、扉の向こうにそう叫んだのだった。
すると――。
「聞こえてるわよ、月島」
静かに扉が開き、一人の女性が俯きながら姿を現したのだった。
「……詩臣」
それは紛れも無く、詩臣だった。
「あっ、ユウヤ。起きたんだっ」
その背後にはまきの姿もあった。
俺は何となく、笑った。理由は無かった。
「何、笑ってるのよ?」
すると、俯いていた詩臣が急に顔を上げ、俺を睨みながらそう言った。
その瞼は、微かに赤らんでいた。
「お前が泣いてるからだよ」
「泣いてないわよ」
すると詩臣は眼光を鋭くしたまま、俺の横を抜けぶつぶつと文句を言いながらギターとベースで埋め尽くされた玄関に向かって歩き出した。
「どこに行くんだよ?」
俺は詩臣が本気で怒ってしまったのかと思い慌ててその背を追った。すると途端に詩臣は足を止め、振り返ると恨めしげに俺を睨んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「な、何だよ。なんか喋れよ……」
そのまま詩臣は無言で俺を睨み続けて来たので、俺はとうとう耐えられなくなってそう切り出した。
すると詩臣は表情も崩さず静かに口を開いた。
「あなたが言ったんでしょう。黙ってれば美人だ、って」
「な……」
詩臣の奴、意外と根に持つタイプだったのか?
予想だにしていなかった詩臣の言葉に、俺はあんぐりと口をあけたまま立ち尽くしてしまった。
すると突然、詩臣は笑い始めた。
「ふふ、馬鹿な表情(かお)してる」
睨んだり笑い出したり、意味分からんぞ! お前!
「そもそも、お前は言う事やる事がいちいち突飛なんだよっ」
黙って笑われてるのも癪なので、俺はそう言い返した。すると詩臣はすっかりいつもの調子に戻って口角を歪めた。
「何よ。私が【紅子神】だって話も二割しか信じてない癖に」
「あ、盗み聞きしてたなっ。そりゃあ、ちょっと人を眠らせられるからって『はい、そうですか』って信じられる訳ないだろ!」
「何? じゃあ、もっと凄い命令をすれば信じるわけ? 命令してあげましょうか? 『私の靴を舐めろ』って」
「ふざけんなっ。この根腐れ女っ!」
俺の言葉にずい、と詩臣が身を乗り出してくる。
「なら、あなたはお坊ちゃんね。常識に縛られて少しも発想の転換が利かない可哀想なお坊ちゃん」
「なにぃ〜っ」
「そうやって凄むばっかりで、何も言い返せやしない癖に」
「っ、この――」
「第一、まきにしても郡にしても普通じゃないのは一目瞭然じゃない。それを今更、私が【紅子神】だったってくらいで馬鹿みたいに動揺して」
「いや、そりゃ驚くだろ……」
たじろぐ俺に対し詩臣は更にヒートアップして行く。
「あなたは人間として小さ過ぎるのよ! だから最初に会った時、神経を太くしてね、って言ったの! このグズのどん!」
「グ、グズのどん……」
正論かどうかは分からないが、とにかくその酷い言われように俺は打ちひしがれ、崩れ落ちるように両膝を付いた。
「悔い改めなさい、優也」
そんな俺に、駄目押しの一言。
「はい……すいません……」
俺はもう、何か謝罪の言葉しか出てこない……。
「……でも……もう一度、私と接しようとしてくれて嬉しかったわ」
なんの脈絡もなく浴びせられたその言葉は、湿り気を帯びていた。それに驚いた俺が慌てて顔を上げようとすると、途端に詩臣は踵を返しまた玄関へと歩き出したのだった。
俺はたった今、発せられた詩臣の言葉を思い返しながら立ち上がる。
「詩臣。お前……」
「な、何してるの、優也、まき。もうお昼よ。早くランチに行くわよ」
振り返りもせずにそう言うと詩臣は足早に居間を出て行ってしまった。
「……何だったんだ……」
俺はもう、呆けるしか無かった。
今ほど人が何を考えてるか知りたいと思った事は無いだろう。あ、詩臣は人じゃないんだっけ?
「ほら、ユウヤ、ユウヤッ。ゴハン行こうよ?」
そんな俺の腕にひし、とまきが抱きついてきてそんな事を言う。
「え、けど……」
「早く行こうよ。あんな嬉しそうな詩臣ちゃん、初めてなんだからっ」
「え……」
俺が一瞬、脱力した隙を突いてまきは目一杯俺の腕は引っ張った。
俺は体勢を崩され、自然と駆け出した。過ぎ去り際に視界の片隅で口元を歪める月島さんに会釈をする。
そうか。詩臣は喜んでたのか。
ギターとベースの取り巻く玄関口を出ると、南中の日の下で神様が大きな伸び≠うっていた。
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2008/09/13(Sat)23:59:31 公開 / 夢劇場
■この作品の著作権は夢劇場さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
第四章「拘束」の上を投稿させて頂きました。今回は文章の重いところと軽いところの差をつけて話にメリハリをつける事を意識しました。徐々に平均的な背景などの文章量は増えてきてる気がするので、ライトノベルとして違和感が無いか不安です(それらの文章量が多いライトノベルもありますが、私のイメージするものとは少し違うので)。
手軽に読めて、話やキャラもイメージしやすい。
そんな文章が理想です。
次回から結構、視点が行き来するのでごちゃ混ぜにならないよう意識しようと思います。
添削致しました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。