『りんご、なし、夏みかん   一〜五 (微修正) 』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:夢幻花 彩                

     あらすじ・作品紹介
 洋ちゃんとわたしで過ごす、いつか忘れる夏のきおく。今年の夏は、少し時間がゆっくりだ。

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 台所でりんごをかじっていると、鍵のガチャガチャした音と一緒に洋ちゃんが帰って来た。
「おかえりなさい」
「うわ、クーラーつけてねぇの?」
洋ちゃんは顔をしかめ、窓とカーテンを閉め冷房のスイッチを押して、電気をつける。それから近付いてきて、わたしからりんごを取り上げた。
「行儀悪い。切って食え」
「だって、この方が美味しいんだもん」
それに面倒だし。
 そう言うと洋ちゃんはしかめっ面でくるくると器用に皮を剥いた。ボールに塩水を作って浸してくれる。
「今日はちゃんと飯食ったのか」
「うん」
「何食べた?」
「それ」
洋ちゃんの手の中にあるりんごを指差す。彼はうっかり煙草を切らした時みたいな顔をした。
「もっとちゃんとしたもの食わねえと、お前ただでさえ痩せぎすなんだから」
「だって」
「だっては無し」
時々洋ちゃんは、本の中に出てくる古き良き日本のお母さんたちみたいなことを言う。――だいたい、もうこんなに暗いのに電気もつけないで何やってんだよ。まさか朝からずっとそこに座ってた訳じゃねぇだろうな。夏休みだからってだらしない生活してたらすぐにバテるって俺言っただろう――今度の誕生日、割烹着をプレゼントしたら喜んでくれるだろうか。 
「今なんか飯作るから、それ食って待ってろな」
わたしは大人しく頷いて、綺麗に剥かれたりんごを齧る。

 しゃり。
 薄い塩の味と、ぼんやりした甘さが口の中に広がった。






   一 



 

 夏はどうしてこんなに暑いんだろう。当たり前のことだろうって洋ちゃんは笑うけど、わたしは毎年必ずびっくりする。だって、ほんの数ヶ月前はコートを着込みマフラーをして、しかも震えながら同じ往来を歩いていたはずなのに。むき出しの腕にぶつかる日差しはたまらなく痛い。
 近所のスーパーマーケットは歩いて十分ほどのところにある。平日だというのに、店内は人でごった返していた。その辺を好き放題走り回る子供にぶつからないよう気をつけながら歩き、必要なものをカゴに入れてレジに並ぶ。台所用せっけん、ゴミ袋、豚バラ肉、にんじん、茄子、ぶどうジュース、ペリエ、それにりんごとももを三つずつ。
 わたしの順番が来て、台にカゴを置いた時、店員と目が合った。安西、と名札に書いてある。えっと、
「遼子?」
わたしが訊くと、彼女は顔をほころばせる。日焼けした健康そうな顔で。
「わ、卒業以来だよね、久しぶり」
ピッ、せっけん三二五円、ピッ、豚バラ肉四八〇円、ピッ、ジュース一四八円。
「ここでバイトしてるの、知らなかった」
「先月始めたばっかりだよ。まだ研修中」
「そうなんだ」
ピーッ、合計二九六四円。千円札を三枚出して、レジ袋を二つ貰って、そのうち皆で遊ぼうねと言い合って、レジを離れる。

 自動ドアが開く瞬間のむあっとした空気のせいで眩暈がする。うちに帰ったらお昼ご飯にももを食べよう。


 剥いたももをガラスの器に盛って、それだけだと洋ちゃんに怒られるからちゃんとサラダも作って、さっさとお昼ご飯を済ませてしまう。それから押入れに頭を突っ込んで中学校の卒業アルバムをひっぱりだした。わたしは何組だったっけ。昇降口から一番離れた教室だったんだから、五組かな。あったあった。髪の毛の色以外ほとんどさっきと違いないように見える遼子の写真と、今よりは少しふっくらして幼い感じのわたしを見つけて、充分満足してアルバムを閉じる。よく覚えていないけど、確かに友達だったような気がした。
 わたしの記憶というか、思い出というものは人に比べて希薄らしい。わたしは別段気にならないけど、洋ちゃんはそれをすごく気にする。「人は過去に依存する生き物だから」と主張する。依存。変なの、ヤドカリみたい。
 することが無くなったので、マニキュアを塗ることにした。可愛いボトルに惹かれて買ったものがいくつかあるはずだ。部屋の中をすこし探して、二番目の引き出しの奥でやっと発見した。その中でも一番色の濃い、おもちゃみたいなピンクのものを選んで、右手の小指から順に塗っていく。なかなかうまく塗れない。はみだしたり、ムラになったりしながら、それでもなんとか両手の爪を染めることができた。でもあんまり似合ってない。わたしの肌がなまっちろいせいだろうか。遼子の日焼けした肌が脳裏に浮かんだ。
 息を吹きかけて乾くのを待つ。夏休みに入ってから、時間が経つのが遅くなった。信じられないくらい暇なのだ。わたしは市内の進学校に通っている。結構真面目な学生だ。でも、今年は三年生だから課題は特にでなかったし、進学する気がなかったから夏季課外にも出席しなかった。友達はみんな大学に合格したいのだという。だから、わたしみたいにのんきな夏休みを送っている子はいない。
 洋ちゃんはわたしより一つ年上だけど、働き始めて四年目の、立派な社会人だ。「そういうのは立派な社会人って言わねぇよ」って、彼は言うけど。
 知り合ったのは二年前。わたしたちは戸籍上兄妹にあたる。淳子さんの再婚相手の息子さんとして出逢ったからだ。淳子さん、っていうのはわたしを産んでくれた人。でも、うちではお母さんなんて言葉は使わないことになっている。淳子さんに言わせれば、「しみったれてて嫌」なのだそう。彼女は今、父と一緒に東京で働いている。
 ふいにチャイムが鳴った。マニキュアはまだ乾いていない。わたしは爪がどこにも当たらないよう気をつけながら玄関に向かった。階段を下りているところだというのに、二回目のチャイムが鳴る。はぁい、ちょっとまって、今出ます。焦っている時のこの家は広い。
 三回目のチャイムと同時にドアを開ける。
「どちらさま?」
小学生だろうか、だいぶ小柄なわたしより、あたま二つくらい小さな女の子だった。うんと日焼けしている。長い髪の毛を二つに結び、今時の子には珍しく、麦わらぼうしをかぶっている。
「あの、どうしたの?」
わたしは怯む。子供はあまり得意じゃない。女の子は何も言わずにわたしの顔をじっと見る。しばらく二人でにらめっこしていた。
「…………えっと、」
沈黙に耐え切れなくなって、でもどうしていいか判らずに、とりあえずどこの子か聞こうとしたその時、女の子が口を開いた。
「ヨウスケは?」
ヨウスケ? ヨウスケって誰だろう。もしかして洋ちゃんのことだろうか。でも洋ちゃんの名前はヨウスケじゃなくて、洋一だ。父の名前にはヨウの音すら入っていない。確か隣のクラスに陽介君という男の子が一人いたけど、わたしは話したことすらないし、それに彼はここにはいない。
「あの、ヨウスケなんて人、いません」
「いるよ」
「…………」
女の子は値踏みするような目をした。子供のくせに。
「じゃあいい。また来ます」
女の子は踵を返した。スカートがふわりと広がる。それがすごくカッコよく見えた。
「さ、さよなら」
もう来ないで、と言えば良かったのに。少し後悔しながらそっとドアを閉める。マニキュアは乾いていた。





 鍵をガチャガチャさせながら、洋ちゃんが帰ってきた。いつのまにか外が薄暗くなっている。部屋に入るなり洋ちゃんはやっぱり顔をしかめ、窓を閉めて冷房をつけた。
「お前、クーラーつけないで日中暑くねぇの?」
わたしは頷く。夏は好きなのだ。洋ちゃんは肩をすくめる。
「今日は飯食ったのか」
「うん」
「何食った?」
「もも。あとサラダも食べた」
洋ちゃんは大きな溜息をついた。どうしてだろう。一昨日、夏休みに入ってからお昼ご飯を食べる習慣が無かったのがバレて、凄く怒られた。だから昨日はりんごを食べたし、今日はサラダまで食べたのに。洋ちゃんはなかなか褒めてくれない。
「もっとちゃんとしたもの食えって言ってるだろ。お前、それ以上痩せたらいなくなっちまうぞ」
ちゃんとしたもの。りんごやももやサラダはちゃんとしたものではないらしい。
 洋ちゃんがテレビをつけたので、部屋は急にがやがやとうるさくなる。芸人さんがいっぱいでているバラエティだ。洋ちゃんはそれを見て笑いながら、夕ご飯のしたくを始める。手伝おうとしたら、不機嫌な声でいいから座ってなと言われた。TVには笑っていたのに、怒ってるんだろうか。わたしは少し不安になる。
 一瞬躊躇ってから、
「洋一くん」
と、呼んだ。洋ちゃんは面食らった顔で振り向く。
「なんだよいきなり」
「なんでもない。言ってみたかっただけ」
どうしてか、声がかすれた。洋ちゃんは苦笑する。ブラウン管の向こうで、ひときわ大きな笑い声が聞こえた。洋ちゃんはくしゃりとわたしの髪を撫でて、また背を向ける。洋ちゃんがコトコト包丁を使う音が心地よい。
 お味噌のいい香りが漂いはじめて、なんだか少しお腹がすきそうな気がした。











  二





 喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。パッケージ裏に印刷された、悪趣味かつ無粋な日本語をしばらく眺めた。それから箱を開けて、そうっと一本手に取り、香りを確かめてみる。煙草とウイスキーの香りはどこか似通ったところがあると思う。香ばしいような、でもしなびた感じの優しい匂い。火をつけた後の煙は好きになれないけど、こうやって手に取ると、とても好ましい。
「お前は吸うなよ。身体弱いんだから」
いつの間にか後ろにいた洋ちゃんが、眠そうな声で言った。わたしの手から煙草を抜き取り、テーブルの上のライターに手を伸ばす。
「吸わないよ。吸う前の煙草が好きなの」
そもそも、洋ちゃんだって未成年なんだから、本来煙草を吸ってはいけないと思うのだけれど。
「ふーん」
投げやりな返事をして、火をつける。そして美味しそうに煙を吸った。わたしは洋ちゃんの側を離れて窓を開ける。朝の新鮮な空気が部屋に入ってきて、とても気持ちいい。
「今日も暑くなりそうだな」

 洋ちゃんの声が、せみの鳴き声とかさなった。
 夏休み最初の、土曜日の朝。






 お休みの日くらいゆっくり家で寝ていれば良いのに、洋ちゃんはお休みの日に何かをするのが好きだ。何かって言うのは、例えば車で三時間もかけて海に釣りに行ったり、上等なワインと良いお肉を買ってきて丸一日煮込み、とても美味しいビーフシチューを作ったり、日曜大工で立派なテーブルを手作りしたりすること。多分、何かをすること自体よりも、有意義だと思える時間を過ごすことが好きなのだと思う。
 私には考えつかない時間の使い方だけど、わたしは洋ちゃんに不必要な干渉をしたりしないし、洋ちゃんもご飯のこと以外、わたしの怠惰な生活に干渉したりはしない。だから、昨日の夜「明日はバーベキューに行く」と言われたとき、わたしも連れて行かれるのだとは、まさか思ってもみなかった。今朝になって、出かける準備をするようにうながされるまでは。

「バーベキュー?」
わたしはびっくりして、思わず訊きかえした。
「どうして? だれと? わたしも?」
「矢島たちと。お前、普段ろくにもの食わねぇし、あんまり外出もしてないみたいだから、良いかと思って」
わたしは困惑する。
「わたしのためなの?」
「いや、別にそういうわけでも無いけど……」
洋ちゃんはどうしてそんなことを訊かれるのか分からないという顔で、歯切れの悪い返事をした。
「行きたくないのか?」
「そういうことじゃないの」
「じゃぁ、何が嫌なんだよ」
「嫌とか、そういうんじゃない」
洋ちゃんは溜息をついた。どうして溜息をつかれてしまったのか、わたしには分からない。多分、洋ちゃんにもわたしが分からないと思う。
「ごめんなさい」
わたしはあやまった。洋ちゃんは、少しきまずそうな顔をした。






 途中、駅で矢島さんたちを拾って、ホームセンターで買い物をしてからキャンプ場に向かった。洋ちゃんが運転しているので、わたしは助手席に座る。洋ちゃんの車は、いつも濃く甘い香りがする。男性用の香水と、煙草の混じったような匂い。
「音楽、かけても良い?」
洋ちゃんが頷いたので、グローブボックスの中にあった、一番上のCDをとりだしてセットする。
 後ろにいる矢島さんが、
「誰の曲?」
と、身を乗り出してきた。わたしはジャケットを見せる。マドンナのベストアルバムだ。
「あぁ、洋一はそういうの好きそう」
矢島さんは、なんの含みももたない、ごく自然な感想を述べる。すると今度は後ろから伸びてきた手がCDケースを掴み、
「誰これ」
と、言った。驚いたことに啓祐さんはマドンナを知らないらしい。
 あ、それ知ってる、うちのお母さんが聴いてるやつ、と美樹さんが言って、お母さんとか何それウケる、と里佳さんが笑った。
 ウケる。一体何が。この人はなんて斬新な言葉の使い方をするんだろう。
 今日一緒に来ている人たちは、洋ちゃんが中学生だった時の友達だ。この人たちは明るくて快活で、とても好もしい。美樹さんがポテトチップスの大きな袋をわたしに差し出してきたので、一枚もらって口に入れる。ポテトチップスはとても美味しかった。油の、いかにも身体に悪そうな、じわっとしたあじ。お礼を言って袋を返す。みんなは既にマドンナからは興味を失ったようで、今は大学の教授の話で盛り上がっていた。変わった人がたくさんいるらしい。啓祐さんが奇妙なこわいろと不思議な手つきで、おそらく、物まねをした。似ているのかどうかは、残念ながらわからない。
「お前ら小学生かよ」
洋ちゃんが呆れた。
「でも楽しそう」
わたしが言うと、洋ちゃんは不機嫌そうに缶入りコーヒーを飲み干す。




 そのまま走って、ようやくキャンプ場についた。みんなが車から降りる。洋ちゃんはさっきのホームセンターの袋をごそごそと探り、日焼け止めをわたしにくれた。本当は少し焼きたかったのだけど、洋ちゃんに「皮膚ガンの原因になる」といけないと真面目な顔で諭された。日差しは確かに強く、わたしは木陰でそれを塗る。甘いような、からいような、つんとしたにおいがする。塗り終えると、手が少しカサカサした。
 風がさやいで気持ち良い。しばらく休んでから、里佳さんがあらかじめ切って持ってきてくれた野菜やお肉をじゃんじゃん焼いて食べた。
 野菜を焼く、里佳さんの爪に目がとまる。根元は透明なのに、先端がやわらかいピンクで、グレデーションになっている。星やハートの絵が描かれていて、すごく可愛い。
「爪、素敵ですね」
「これ? 駅前のネイルサロンでやってもらったの」
ネイルサロン。わたしは自分の手に目を落とす。マニキュア、落としてくればよかった。
 
 お腹がはじけるまで食べて、みんなで後片付けをした。たくさんおしゃべりもして、すごく楽しかった、と思う。




 太陽がかげり始め、再び車に乗り込んで帰る。こういうことは、日帰りの方が楽しい。帰路、矢島さんたちは眠ってしまっていた。洋ちゃんはコーヒーを飲みながらなめらかに運転する。いつも思うのだけど、洋ちゃんの運転は、洋ちゃんの料理にも、言葉にも、呼吸にも似ている。
「お前も寝れば?」
唐突に優しい声が言う。
「だいじょうぶ」
そう返事をしたけれど、わたしの声はとてもねぶたげに響いた。久しぶりに積極的な活動をしたせいかもしれない。小さくあくびをした。
「お前やっぱり食わなかったな。それで腹減んねぇの?」
「すごくいっぱい食べたつもりなんだけどな。いつもの三倍くらい」
「元が少ねぇんだよ」
洋ちゃんが、少し笑う。
 途中、洋ちゃんはコンビニによって、わたしに温かいお茶を買ってくれた。助手席は冷房がじかにあたるから、確かにわたしの腕はすっかり冷たくなっていた。でもどうして分かったんだろう。何故だか泣きそうになる。洋ちゃんは、また笑った。
「そんな顔すんなよ」
「そんな顔って」
洋ちゃんは、笑うばかりで答えない。
 温かいお茶は美味しかった。喉を通って、胃ぶくろに落ちていくのがわかる。
「怒ってないから、心配しないで寝てな。近くなったら起こすから」
「うん」
怒ってるなんて思ってないよ、と言おうとしてやめた。わたしはおとなしく目を閉じる。
 このあと。
 駅に着いたら、洋ちゃんはきっとわたしを起こさないように気をつけながら矢島さんたちを降ろすだろう。重い荷物や、かさばるゴミは全部置いていかせるはずだ。しかも、矢島さんたちがそれを負担に思わないように、でも不器用に。うちについて、きっと荷物を全部家に入れてから、わたしに声をかける。二、三、わたしにお小言を言って、それから換気扇の下で、ゆっくり煙草を吸うだろう。運転中、煙の苦手なわたしの為に我慢した煙草。
 洋ちゃんはすごく優しい。わたしのお兄さんになってから今までずっと、わたしを気遣ってくれる。
 一気に眠気が押し寄せてくる。マドンナの歌声を耳に、そのまま少し、眠った。










  三


 今日は朝から雨が降っていた。だから洋ちゃんは機嫌がわるい。雨だと道路が混んで、会社に行くのが大変なのだそうだ。わたしが起きた時はもう朝ごはんを食べ終えていて、憂鬱そうにコーヒーを飲んでいるところだった。
「おはよう、今日、早いね」
「おう」
部屋は電気がついていて、そらぞらしいほど明るい。わたしが顔を洗い、歯みがきをしてテーブルにつくのと同時に、洋ちゃんは立ち上がった。
「もう出掛けちゃうの?」
洋ちゃんは頷く。カバンを掴んで、
「昼飯、冷蔵庫に入ってる。十二時にはちゃんと食えよ」
と言った。そして、鍵も閉めずに行ってしまった。がっちゃん、ドアが閉まる派手な音。わたしはひとり、取り残される。





 雨なのでさんぽに行くことにした。小さな手提げのバックにお財布だけ入れて、傘を差しておもてに出る。もう何十年も舗装し直されていない道なので、大きな水たまりがいくつもできていた。雨ぐつがあればよかったのに。それにレインコートも。心もとないスニーカーで、ぬかるんだ道を注意しつつ歩く。歩きながら、思いっきり息を吸った。不思議なにおいがする。雨の日だけの、濡れたアスファルトのにおい。ざあざあざあ、雨の音がうるさくて、町はとても静かだ。だけど、いきものの気配もした。
 少し歩いたけれど、自動車以外、誰にもすれ違わなかった。みんな、折角の雨なのに外の空気を吸いにいかないのだろうか。雨の日の陰鬱な空気は気持ちが良いのに。思ってから、そういえばわたしも雨の日のさんぽは何年かぶりだと気がついた。いつが最後だったのだろう。小学校の、多分四年生くらい。風邪を引いてしまい、淳子さんにひどく怒られたことを、おぼろげに思い出す。
 本当に誰もいないので、雨が傘を叩く音に合わせて、わたしは歌を歌ってみた。あーめあーめ、ふーれふーれ、かーあ、さーん、がー。雨にかき消されるせいか、あまり声が響かないので恥かしくなかった。向こうからトラックがやってきて、どどどど、という大きな音を残しあっと言う間に通り過ぎていく。じゃーのめーで、おーむかーえ、うーれしーいなー。
 自動販売機の前を通りかかったとき、いらっしゃいませ、と澄ました女の人の声が言って、わたしは少しびっくりした。しゃべる自動販売機。初めて見たわけではないのに、どうしてか、とてもドキドキした。そういえばわたしには心臓があったんだっけ、と思い出す。
 急に、ずっと前から喉が渇いていたような気がして、わたしはペットボトルのお茶を買って、ごくごく飲む。自動販売機が、ありがとうございました、とまたしゃべった。どういたしまして。 



 公園につく。ここが目的地、という訳ではなかったけど、疲れたので少し休みたかった。誰もいなくて、少し異様な雰囲気。ぬかるんだ土の上にできた大きな水溜りが、小さな公園の中で池のよう。ブランコに乗りたいな、と思ったけど、お尻が濡れるのは嫌なのでやめた。そうか、雨の日にお散歩しないのは、こういう誘惑に出くわさないためだったのか。
 しかたなく、とたん屋根つきのベンチに座って、そのまましばらく雨を見ていた。気をつけて歩いたつもりなのに、スニーカーはぐちゃぐちゃだった。

 さんぽはとても楽しいということを、思い出せてよかったな、と思う。



  



 ごろごろ、というかみなりの音を聞いたので、慌ててうちに帰って、お風呂に入った。身体をごしごし洗い、ぬるいシャワーを全身に浴びてから、湯船につかって目をつぶる。雨音。雨は好きだけれど、雨の日に家の中にいるのは好きじゃない。こと浴室。昼間なのに電気を使うのが感じ悪いのだ。いくら訴えても、淳子さんも洋ちゃんも、とてもへんな顔をするだけだったけど。
 お風呂からあがり、時計を見ると、十二時を三分過ぎたところだった。気乗りしないまま開けた冷蔵庫の中には、サンドイッチが入っている。「ちゃんとしたもの」だ。たまごやハム、チーズ、それに野菜がたくさん挟んであってとても健康的だ。けど、実のところあまりおなかは空いていない。こんなに食べられるだろうか。
 冷蔵庫に入っていたので、パンの口当たりは冷たく、表面はすこしパサついている。一口食べて、もう一口食べて、さっきの残りのお茶で流した。たねを抜いたトマトのにおいが、喉に残る。
 洋ちゃんの名誉のために言っておくと、サンドイッチの味はすごく美味しかったのだ。でもわたしは実のところ、サンドイッチにトマトを入れるのは好きではないし、一口でもう、おなかが一杯になってしまった。バターを塗ったパンにはさむのは、薄切りハム一枚でいいんだけどな、と、ちらりと思う。
 それでも頑張って一つは食べて、残りを冷蔵庫に入れておく。一人きりで、ちゃんとした食事をするのはとてもむずかしい。



 おとなりに回覧板を持っていって、そのついでに、ひょいと郵便受けを覗くと、何通か手紙がきていた。洋ちゃん宛てに、はがきが二枚、銀行からのお手紙が一通。それとわたし宛てのダイレクトメールが一通、近くのデパートが、バーゲンセールをするらしい。
 同じことが書いてあるものがもう一通あったので、これも洋ちゃん宛てだなと思いつつ、何気なく、宛て名をあらためる。
 洋一様、ではなく、洋介様、と書いてあった。 
 










 ガチャガチャ、という音がしたので一階に下りていくと、洋ちゃんがすいかをかかえて立っていた。
「おかえりなさい」
わたしがそれを受けとろうとすると、洋ちゃんは片頬で笑って、落とすなよ、と言った。
「小玉だし、食いきれるだろうと思って帰りに買ってきた」
「そうなんだ」
すいかは、いかにも陽を浴びて育ったのだ、という色をしている。
「あれ、お前、すいか好きだったよな」
「うん」
洋ちゃんが靴を脱ぎ、玄関にあがる。あぁ、それ俺が持つからよこしな。わたしは洋ちゃんの腕に、すいかを返した。
 あれ。
「洋一くんは、すいか嫌いじゃなかった?」
台所に足を向けていた洋ちゃんが、こっちを振り返る。一瞬、視線が宙に浮いて、
「嫌いじゃねぇよ」
と言った。
 洋ちゃんは、いつだって優しい。




 お昼ごはんをきちんと食べなかったことで、洋ちゃんはわたしを叱った後、夏バテの疑いがあるという診断を下した。夏バテ。というより、わたしは一年中バテているような気がする。
 夕ご飯はそうめんだった。すいかはまだ冷えていないから、明日にしようと洋ちゃんが言い、わたしは頷く。食器を洗って、もう一度お風呂に入って、洋ちゃんにおやすみなさいを言ってから、わたしは部屋に戻った。


 古いシーツ、針、糸、はさみ、ちゃこえんぴつ、綿、ワイヤー、それにボタン、ビーズ、モール、油性ペン五色セット、お菓子のリボン。押入れの奥から引っ張り出して、テーブルの上に並べる。シーツにじょきじょきハサミをいれて、おりがみより、ひと回り大きいくらいに裁つ。シーツはとても大きくて、線がぐにゃぐにゃ曲がってしまうけれど、あまり気にしないことにする。かがったあと、綿をつめて、ワイヤーでぐるぐる巻きにして、ビーズの目をつけてあげた。赤いほっぺと、にっこりした口を描こう。あとはボタンをつけたり、リボンを巻いたりしてあげれば完成だ。たったこれだけの作業に、一時間以上もかかってしまったけれど、なかなかうまくできたと思う。
 全部で四人のてるてる坊主を作って、窓際に吊るした。明日、洋ちゃんが、洋一くんが、楽しく会社に行けますように。











 

「あのう」
振り向くと、ほおかむりをしたおばさんが立っている。
「お掃除をしたいので、少しのあいだ、そこを退いてくれないでしょうか」
よく見ると、彼女は確かにうすみどり色の作業服をきていて、大きな掃除機のような機械を持っていた。あたりを見回すと、そこはデパートの階段だった。
 あぁ、そうだ。ようやく思い出す。わたしは、このだいだい色をした階段の踊り場に住んでいるのだった。もうずいぶん前から、一人きりで。
 お掃除が終わると、おばさんはわたしに小さく会釈をして向こうに行ってしまった。わたしも会釈を返して、ぺたんと隅っこに座り込む。いつもご苦労様です。床は冷たく清潔で、ひんやりとした感触が気持ち良かった。
 少しばかり珍しいかもしれないけれど、わたしはデパートの階段の踊り場に住んでいる。多くの時間はそのまま地べたに座りぼうっとしていて、眠るときだけ御座を引く。通行の邪魔にはほとんどならない。たいていの人はエレベーターかエスカレーターを使うから。だけど、ときどき知らない人が通りがかって、わたしを見てびっくりした顔をする。どうしてこんなところに住んでいるの、と訊いてくる人もある。どうして。どうしてだろう。そう言われてみれば、わたしはどうしてこんなところに一人きりで住んでいるんだったっけ。わかりません、と答えるほかない。訊ねた人は釈然としない顔で首を傾げたり、あるいは訳知り顔で頷くこともある。どちらにしても同じことだ。
 それから時々、藍色の制服を着たデパートのお姉さんが、わたしをお客さんと間違えて「閉店」の時間を告げにやってきたり、迷子と勘違いされることもある。わたしはその度にこの生活について、きちんと説明しようとして、だけどわたし自身にもよく判っていないことが多すぎるので、それはとても骨が折れる。
 そんな風に、ちょっと戸惑うこともあるけれど、ここでの生活は快適だ。ずうっと座っていられるし、気が向いたら身一つでデパートの中を好きなように見て周れる。疲れたらすぐに踊り場へ帰ることができる、と言うのもいい。天井がうんと高いのも気に入っている。閉じ込められている、と言うより、匿ってもらっているような気持ちになる。夜、誰もいないデパートで不意に目をさましたとき、うんと神秘的な場所に迷い込んだような錯覚に陥るところも魅力的だ。
 それに、買い物のついでに淳子さんや洋ちゃんがわたしに会いにきてくれることもあるから、ちっとも、寂しくはならない。








 目が覚めると、なんだか身体全体がだるくて重かった。寝返りを打つと、くわんと頭が鈍く鳴る。風邪を引いたのかもしれない、と思う。夏なのに。あるいは洋ちゃんの言うように、やっぱり夏バテなのかも。窓の外からバイクのエンジン音が聞こえる。くしゃくしゃになったシーツの、ぬるまった柔らかい肌触り。カチ、カチ、鳴る時計の音。今、何時だろう。首だけもたげて時計を見ると、もう午後の一時を過ぎていた。おもてが騒々しいわけだ。 
 階段を降りてリビングに行ったけれど、洋ちゃんはいなかった。そうか、お仕事に行ってるのか。台所には、焼きそばを盛ったお皿と「食えよ」という書置きが残されている。お皿としばらく見つめあった。おそるおそるラップをはがしてみると、かすかに熱を残したままの油のにおいが鼻をついた。キャベツと人参がくたっとして、たくさんはいっている。あぶらみがついたままの豚肉も。
 わたしは見なかったふりをして、冷蔵庫からぶどうジュースをとりだして、コップにあけ立ったまま飲んだ。目をつむって、ひらく。三回繰り返した。シャワーを浴びたいな、と思う。身体中汗でぺたぺたしていたし、鼻先に残った焼きそばのにおいがすこし、つらい。洋ちゃんには悪いけれど。
 わたしは意地が悪いのだと思う。
 











 午後、矢島さんとデートをした。
 待ち合わせは近所のバス停で、矢島さんは十分ほど遅刻をしてきた。午前の授業がすこし、長引いたのだという。
「ごめん、誘ったのは俺の方なのに」
「だいじょうぶです」
人を待つのは好きなのだ。待たせるのは苦手だけど。
 どこに行きたい、と訊かれたけれど、別に行きたいところなんて無かった。ともかく、まもなくやってきた駅前行きのバスに乗って、わたしと矢島さんは一番後ろの席に腰をおろす。
「暑いね」
バスの中は冷房が効いているし、おもてだってそれほどでもない、と思ったのに、なんとなく頷いていた。どうしてだろう。矢島さんは応えるように片頬で笑う。
 矢島さんは話し上手だ。いろんな話題がぽんぽん出てくるし、それがいちいち面白いので半ば感心してしまう。わたしはあまり口数の多い方ではないので、こういう人と一緒にいると気が楽だ。さっきからずっと黙ってるけど、とか、この話面白くなかった? と言わないのもいい。その上滑らかで聞き取りやすい発音で言葉を話すため、聞いているだけで心地よい。
 矢島さんはシャツのボタンを二つあけ、茶色い髪を無造作に掻き揚げて手で顔を仰いだ。本当に暑いのだ。ふう、と大きく息を吐く。
 使いますか、とハンカチを渡したら、意外なほどうれしそうに笑ってから、
「ありがとう」
と言った。
 この人には夏と汗がよく似合っている、と思う。




 ゲームセンターはことさら騒々しかった。洋ちゃんがいたら、顔をしかめて「こんなところにいたら難聴になる」と言うだろう。けれど矢島さんはそうは言わなかったし、実のところわたしもこの騒音が好きだ。近くにいるのに大声じゃないと話ができないだなんて可笑しい。ガー、ジャラジャラジャラ、ビー、ビー、ピー、というゲームの音も、映画にでてくる未来の工場に迷い込んだようでわくわくする。洋ちゃんが聞いたらびっくりするだろうから、言わないままにしておくつもりだ。秘密というほどでもないけれど。
 矢島さんはバスケットボールのゲーム、私は和太鼓のゲームをやりたいといって、順番に遊んだ。矢島さんは両方とも上手だった。
「よく来るんですか」
ゲームセンターに。
「そんなでもないよ。月に三、四度くらい」
ずいぶんたくさんだ、と思う。わたしなんて、今年に入ってから二度目くらいなのに。伝えたら、
「そりゃ、洋一と一緒に暮らしてる子だもんなぁ」
感心したような口調で言われてしまった。わたしは少し困惑する。普段、洋ちゃんとは買い物ぐらいにしか出掛けないのだけれど。

 そのあともしばらく遊んだ。射撃ゲームのグロテスクな映像は好きになれないけれど、矢島さんの選ぶゲームはどれも面白かった。この辺りはあまり遊ぶところがないせいか、矢島さんの大学の友達に会った。三人ほど、わたしの高校のクラスメートにも会った。一瞬、名前が浮かばずに、五秒もかけて思い出す。右から、咲ちゃん、朋美ちゃん、遙ちゃん。
 三人とも矢島さんを見て、かっこいい、とはしゃいだ声をあげた。どうして彼女たちがはしゃいだ声を出すのだろう。
 矢島さんが自動販売機でジュースを買いに行ってくれているあいだ、手持ち無沙汰なので近くにあったUFOキャッチャーをやった。赤いハートを抱えたうさぎがなんとなく可愛らしかった。百円を入れて、ボタンを押す。縦の位置を調整するのだけれど、少しタイミングがずれた。もう一回。今度はバーを横に動かすボタン。あ、取れるかもしれない。一瞬、耳が持ち上がって、
「あ、」
落ちた。バーだけがゆっくり動いて、取り出し口のところへ向かうのが、ほんの少し恨めしい。
 もう一回だけやろうかな、どうしよう、と考えていると、いつのまにか側にきていた矢島さんがお金を入れた。ボタンに手をかける。凄く真剣な表情だった。バーがうさぎを掴んだ。少し持ち上がって、でも落ちる。その手は迷いのない動作でもう一度百円を入れ、バーを操作する。さっきより少し取り出し口に近づいたうさぎを、掴み、今度は取り出し口に落とした。
 ことん。
「取れた」
矢島さんはにっこり笑った。手渡されたうさぎをひっぱると、元から細い目をにゅうっと細くする。紐がついているから、携帯電話に下げられる。
 うさぎのプレゼントは、わたし自身思いがけないほど、なぜだか嬉しかった。








 そのうちまた誘っても良いか、と訊かれたので頷いた。家まで送ってくれると言ったけれど、バス停までで充分だと答えた。
「おれ、今度車買うんだ」
だから一緒に遠出しようよ。
 考えておきますと答えたけれど、それは空々しく響いた。それならこの間のバーベキューの時みたいに、洋ちゃんたちとみんなで行きたい、と思ったのだ。たぶん、お互いにその方が楽しい。考えていることが伝わったのかは判らないけれど、矢島さんはそれ以上強く言わなかった。
 バスが、もうすぐわたしの降りる停留所につく。ゆっくり速度を落としていく。
「それじゃ、さよなら」
矢島さんは笑いながら手を振った。それにしても、この人はよく笑う。
「うん、ヨウスケにもたまには連絡寄越せって言っといて」

 そのとき、バスがごとんと揺れたので、たぶん聞き違えたのだと思う。
 わたしは逃げるようにバスを降りた。矢島さんは、変に思ったかもしれない。


 



 




「ただいま」
鍵のガチャガチャした音と一緒に洋ちゃんが帰って来た。わたしは立ち上がって、玄関で出迎える。洋ちゃんの疲れた顔。
「おかえりなさい」
あ、焼きそばのお皿、どうしよう。
 洋ちゃんは居間に向かい、窓を全部閉めてから冷房のスイッチを入れた。お小言は言われなかった。でも、テーブルの上を見て、諦めたような悲しそうな表情を浮かべたのを見た。ずきん、と胸が鳴った。洋ちゃんは、わたしのことを気遣ってごはんを作っていてくれるのに。
 今日はわたしが夕ご飯を作った。なすのおひたしにおかかをたくさんかけたのと、なめこのお味噌汁と、大根のひきないりと、塩サバ。焼きそばも半分ずつ食べたので、おなかいっぱいでわたしは残した。メシ自分で作ったくせに、と洋ちゃんが笑う。お皿はからっぽになっていた。
 ごちそうさまでした、と言って立ち上がろうとすると、洋ちゃんが
「ごめん」
と言った。わたしは意味が判らずに洋ちゃんの顔を見つめる。
「ほんとは、お前が作った方がいいの、知ってるんだけど」
それっきり、黙った。わたしたちは二人とも途方に暮れる。







 お風呂からあがると、洋ちゃんが洗いものを済ませて、すいかを切って待っていた。
「四分の一、食える?」
「そんなに食べられない」
「じゃあ八分の一」
「……がんばる」
すいかはみずみずしく、うすあまい、瓜らしい味がした。わたしは熟しきったすいかより、こういう少し青くさいようなすいかが好きだ。ぼんやりしたものが好きなのだと思う。りんごにうつった塩味だとか、しゃぼんだまの模様だとか、煙草の香りだとか。
「おいしい」
洋ちゃんは何も言わず、ただ黙って食べている。好きではないはずのすいかを。



 
 今日。

 今日、矢島さんとデートをしてきた。矢島さんは時間に少しだけ遅れてきたけれど、わたしは全然気にならなかった。わたしや洋ちゃんと違って、この人には汗が似合っているなと思った。ゲームセンターは楽しかった。ゲームも面白かったけど、うさぎを取ってもらって嬉しかった。うさぎは目がにゅうっと細くて顔が横にのびていて、赤いハートを持っていて、可愛い。
 そんな風に報告したら、洋ちゃんはどういう顔をするんだろう。
 


 あるいは。
 
 このあいだ、変な女の子が訪ねてきた。日焼けした、格好良い女の子だった。ヨウスケという人を探しているみたいだった。はがきも届いた。「洋介」宛てだった。矢島さんも、聞き間違いかもしれないけれど、ヨウスケと言った。でも、わたしはヨウスケという男の人を、知らない。
 洋一君には、もしかしてヨウスケ、というあだ名があるの? それとも、ヨウスケが誰なのか、知ってる?
 訊ねたら、洋ちゃんは笑ってくれるだろうか。





 結局すいかは食べきれず、洋ちゃんはためいきまじりに残すことを許してくれた。小玉なんだから、と言われたけれど、おなかがいっぱいのところにすいかなんて入るわけがない。わたしは洋ちゃんがどこに食べ物を収めて言っているのかが不思議だった。わたしほどではないけれど、痩せているのに。
「夏休み、あとどのくらい?」
「まだ、一ヶ月近く残ってる」
いいな、と言って洋ちゃんは笑った。
「俺も風呂入ってくるわ。お前はもう寝ろよ」
「うん。おやすみなさい」
わたしは二階にあがる。部屋のドアをあけようとして、ノブに手をかけたとき、剥げたマニキュアに気がついた。そういえば、すっかり忘れていた。
 除光液は、多分棚に置いてあったはずだ。これを落としたら、今日はゆっくり眠ろう。











  五


 鉢植えに水をやっていると、電話が鳴った。じょうろをテーブルに置いて、受話器を取る。
「もしもし」
淳子さんだった。
「元気にやってる?」
「うん」
「洋一君とは仲良くしてるの?」
「うん」
「ちゃんと食べてる?」
「うーん」
「何か変わったことはない?」
「うん」

 訊かれたことにはきちんと返事をしていたつもりなのに、淳子さんは「久しぶりの会話なのにあまりにも素っ気無い」、わたしの態度が気に入らないらしかった。何かもっと言うことは無いの、と小さく責められたけれど、そんなことを言われても困ってしまう。
 しかたなく、
「淳子さんたちは元気?」
と、尋ねてみた。
「元気よ」
えっと、
「なら、よかった」
「……なぁに? 変な子」
淳子さんがくつくつ笑う。わたしも少し笑ってみたけれど、なにがどうしてわたしを変な子だと思ったのか、そしてそれの一体何が面白かったのか、わたしにはちっともわからない。でも、淳子さんの機嫌が直ったので、まぁ、よかった。

 そのあと、淳子さんはとりとめのないこと――哲也さん(と、淳子さんが呼ぶので、わたしもそう呼ぶことにしている。わたしたちの父のことだ)が、最近しきりにネコを飼いたがっていること、彼女の職場にいる、わたしより二つ年上の女の人が、毎日まるでひと壜もの香水をふりかけているかのような匂いをさせて会社にくること、淳子さんの住む家の側にある公園で、子供がブランコから落ちて足の骨を折ってしまったことなど――を、話したあと、自分は接客業だから、お盆には休みを取ることができないのだ、と忌々しげな口ぶりで言った。どうやら、お盆の少し前にこっちに帰る、ということを伝えるための電話だったらしい。
 話が一瞬途切れたので時計をみると、電話がかかってきてから一時間も経過していた。わたしは回線には乗らないような、小さな溜息を一つつく。と、東京はどんなに空気が悪いか、ということについて淳子さんが説明をし始めたので、慌ててそれを遮った。
「ごめんなさい、これから友だちと会う約束してるから」
淳子さんは、それなら早く言えばいいのに、と意外なほどさっぱりした声で言った。でも、今思いついたのだから仕方ない。
「それじゃあまたね」
「うん、元気でね」
「ヨウスケ君と、仲良くね」
え?



 ピッ。
 ツー、ツー、ツー、ツー。
 淳子さんが、電話を切った。




 いいお天気だし、友だちと会う約束はしていないので、掃除をすることにした。
 わたしは掃除の中で、断然床の水ぶきが好きだ。部屋の中の空気がさっぱりするし、真っ白な雑巾とバケツの中の清潔な水がどんより濁っていくのを見るのはとても面白い。ところが洋ちゃんには、床を水ぶきするという発想が無い。そのため一緒に暮らし始めた頃は、ずいぶん戸惑った。床は掃除機をかけておけば、それで良いのだという。以前は和室しかない家で暮らしていたというから、そのせいだろうか。にわかには信じられない話だと思ったけれど、この世界には床の水ぶきの無い生活も、あることはあるのだろう。
 わたしの知らない、洋ちゃんたちの暮らし。


 丹念に床を水ぶきして、乾いた雑巾で拭きなおす、ということをしていると、時間がどんどん遠ざかるような気がする。頭の中はただ床の木目と、少しずつ減ってゆく雑巾の白い部分に埋め尽くされる。おそらく、床が永久に続けば、わたしは永久に拭き続けられる。
 だから拭くべき床が途切れた瞬間一瞬呆然となった。浦島太郎になったきぶん。目の前にそびえたつのが食器棚だと気づいてようやく、居間と続きになっているキッチンの床を拭き終えたことを知る。ふと時計を見上げると、いつの間にか時計の針が一時を指していた。一旦集中力がとぎれると、もうそこには戻れない。身体中が汗でベタベタして気持ち悪い。膝もじんじん痛いし、手首より先がうんとだるく、しびれている。わたしは仕方なしに立ち上がり、シャワーを浴びることにした。

 
 新しい服に着かえてから、近所のパン屋さんに行った。
 チョコレートコロネとコーヒー牛乳を買う。パン屋さんは遼子がいるスーパーの隣にあり、そのはす向かいには子供のたくさんいる公園があって、更にその中には木陰のあるベンチがあった。わたしはそこに腰かけて、小さな紙パックのコーヒー牛乳をのみ、渦巻きを少しずつ剥がしながら食べる。こっくりしたチョコレートがつまっていて、美味しい。
 その後、通学用の定期券がまだ切れていなかったので、電車に乗った。
 夏休みだと言うのに電車はとても空いていて、同じ車両には、お婆さんが数人いるだけだった。古い車両なので、電車の窓はガタガタ鳴るし、お尻に直接振動がくる。淳子さんは「昭和の遺物」と嫌うけれど、わたしはこの電車が結構好きだ。線路を走るものが好きなのかもしれない。
 



 駅に着く。駅員さんに定期券を見せて、ホームを出る。ここからデパートまでは、道なりに歩いて五分とかからない。
 その短い距離で、女の子とすれ違った。
 小麦色の腕と、麦わらぼうしに見覚えがあった。

 女の子は髪の毛を二つに結わえて、ひまわりもようのワンピースを着ている。この暑いのに、しゃんと背筋を伸ばして、不機嫌な顔で歩いていた。
 「あ」
思い出した。
 この間、ヨウスケを探しにきた子だ。

 思わずわたしが声をあげると、女の子は立ち止まって、こちらを見上げた。訝しげな表情。
「こんにちは」
はきはきした発音に、わたしは気圧されてしまう。
「……こんにちは」
視線を斜めにそらす。女の子が、じっと見ているのが解る。額に汗が浮かんだ。どうしてこの子と挨拶なんて交わしているんだろう。
「えっと、今日、暑いね」
「アメ、食べる? あげる」
会話がかみ合わない。
「……えーと、名前なんていうの?」
「なにあじ? ソーダとぶどう、どっちが好き?」

 …………。
「……ソーダ」
水色の飴を差し出され、しかたなしに受けとった。顔をあげると女の子はもう、わたしに背を向けて歩きだしてしまっていた。
 
 へんな子。





 自動ドアが開くと、冷たい空気がすうっと押し寄せてくる。涼しい。
 平日のま昼間なせいか、デパートにはあまり人がいなかった。可愛い服屋さんや大きなゲームコーナーなど、遊ぶところがないせいだろうか。人ごみは嫌いじゃないけれど、やっぱりすいているとうれしい。
 デパートにはエスカレーターも、階段もあるけれど、わたしはたいていエレベーターを使う。エレベーターガールがいるからだ。彼女たちがエレベーターにいると気詰まりだけど、特別な感じがして、なんとなく乗りたくなってしまうのだ。
 階をつげると、エレベーターガールは相変わらず無表情にボタンを押してくれた。白い手袋をした手。真夏なのに。建物の中だけれど。
 三階につく。書店でほんを一冊、それと文具売り場で洋ちゃんの誕生日プレゼントを買った。オルゴールつきメッセージカードと、万年筆。光沢のある黒に、金色のラインが入っていて、洋ちゃんに似合うと思った。
 本当は割烹着にしようかとも思ったけれど、洋ちゃんに似合いそうな、真っ白くて形の綺麗なものが売っていなかったし、洋ちゃんが喜んでくれるかどうか、判らなくなってきたのでやめた。もしかしたら、ふざけていると思われてしまうかもしれないし。


 売り場を出て、エレベーターガールのいるエレベーターの方に向かい、途中で足をとめた。
 クレーンゲームの隣、自動販売機が二台連なったその向かいに、階段があった。
 冷たく清潔な、オレンジ色の階段。小さい頃、このデパートに、淳子さんに連れられて来ていた頃から見慣れた階段だ。
 わたしは、この階段をとても親しく思っているのだけれど、たぶん、この階段を利用したことは一度も無い。しばらく眺めて、一度だけ深呼吸をして、やっぱりいつもの通り、エレベーターに向かった。
 地下のアイスクリームショップに寄って、詰め合わせを一つ買い、デパートをでる。ここのアイスクリームは、わたしと洋ちゃんの共通の好物なのだ。
 保冷剤をたくさん入れてもらったけれど、うちに着いたときには、ひたひたと汗をかいて、柔らかくなってしまっているようだった。溶けていないのが救いだ。急いだのに。











 ガチャガチャガチャ、

「ただいま」
洋ちゃんが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「あっついなこの部屋、クーラーつけるぞ」

 ピッ、ガガガ、ジー、

「今日は昼飯食ったのか?」
「うん」
「何食った」
「チョコレートのコロネと、コーヒー牛乳」
「……お前、カロリー高いもん食えたんだ」
「うん」
あれ、知らなかったの?




 夕ご飯は野菜炒めとお味噌汁、それに冷ややっこだった。わたしが洗いものをしている間に、洋ちゃんがすいかを切ってくれて、二人で一緒に食べた。夕ご飯を少なめにしたせいか、すいかもすいすい入った。
「昔さ」
 それを見ながら、洋ちゃんが言う。
「いつか植えようと思って、すいかの種をあつめてたんだ。食った後のを、洗って乾かして、缶にしまってた。ディズニーランドで買ったクッキーのやつ、かーさんにもらって。それに半分ぐらいかな、結構溜まってたよ」
わたしは、すいかの種を集める子供を想像してみたけれど、目の前の洋ちゃんとは結びつかなかった。
「どうしてすぐに蒔かなかったの?」
「いつ植えればいいのか判んなかったから。すいかは夏に食うもんだけど、植えるのも夏とは限らないだろ? だから、図鑑で調べてから植えようと思って」
子供のくせに、ちゃんとそんなことに頭が回るのは、洋ちゃんらしいような気もした。
「でも」
「でも?」
「その種、虫が湧いちゃったんだ。洗ったから大丈夫だと思ってたんだけど。俺、虫は好きだけど、すげぇ気持ち悪かったな。白い、」
「やめて」
虫は苦手なのだ。話を聞くだけで鳥肌が立つ。
「……あぁそうか、ごめん」
わたしは急速に食欲がなくなって、げんなりした気持ちで二切れ目のすいかをお皿に置いた。もう食べられない。洋ちゃんは咎めなかった。

 今日の洋ちゃんは変だった。無口な人ではないけれど、こういう風に、一方的に話をする人ではない。しかも、わたしが嫌がるような話を。そのあとも洋ちゃんはテレビを見ながら残りのすいかを平らげ、わたしが買ってきたアイスクリームまで食べ、珍しいことにビールを飲んだ。二缶も。なにかあったのかもしれない、と思ったけれど、訊ねることはできなかった。
 


「今日、矢島に会ったんだ」
やっと洋ちゃんがそう言ったのはわたしがおやすみを行った後だった。
「そうなんだ」
「うん」
何が言いたいのかまったく判らず、わたしは困惑して洋ちゃんを見つめた。どうして洋ちゃんはこんな顔をしているんだろう。また、バーベキューの約束でもしたのだろうか。それで、わたしも行くことになったのだろうか。
「お前、この間矢島と二人で遊びに行ったんだって?」
ようやく、あぁ、と思った。洋ちゃんは、視線を斜めに落とす。

「うん、デートしたの」
「そっか」
「それで?」
「うん。なんでもない」



 すこし、嫌な想像をした。
 今日の洋ちゃんの様子がおかしかったのは、わたしを心配してくれたからだっただろうか。
 洋一くんじゃないのだろうか。
 洋一くんだからなのだろうか。
 ただ、わたしたちが、お互いに何も知らないから、そう思うだけなんだろうか。


 たぶん、わたしが意地悪なだけだ。

 
 あらためておやすみなさいを言って、わたしは洋ちゃんに背を向ける。つまらないことをしたくなった。
「ヨウスケ君、おやすみなさい」
聞こえるか聞こえないか、うんと小さな声で呟いて、今度こそ部屋にもどった。ばたんとドアをしめた時、突然心臓がばくばくと音を立てはじめた。
 
 
 ベッドに入ってしばらくすると、カーテンの向こうから、ざぁ、という音と共に、少しずつ、水の気配が漂ってきた。
 雨だ。ほんの少しだけカーテンを引いて外を見ると、濡れた街灯や、その光に照らされた木の、つやつやとした枝ぶりが見えた。生ぬるくて、しっとりした空気。わたしはしばらくそれを見ていた。雨はだんだん強くなっている。朝には、晴れるだろうか。やっぱり、降り続けるのだろうか。
 吊るしっぱなしのてるてるぼうずに一度目をやった。にこにこ顔。あの日の翌日は、良いお天気だったっけ。







 でもたぶん、明日は一日中、雨だ。







つづく





2010/01/27(Wed)18:26:15 公開 / 夢幻花 彩
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■この作品の著作権は夢幻花 彩さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
少し時間がゆっくりだ、じゃねーよどう考えてもゆっくりすぎるよ、っていう声が聞こえてきそうです。すすすみません。
 2008年に夏を書き始めたのに、すでに2010年です。最終更新は夏休み前だったよね……冬休み今日で終わるんだけど。え、まだ5話? まじで? いくら遅いったって、ものには程度というものが……。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。そして、読んでくださってありがとうございます。 
 生ぬるく生暖かく見守っていただけると嬉しいです。さらに感想をいただけると狂喜乱舞します。めっちゃ有難いです。
 でも、実は過去ログにあって、こんなタイトルで、ちゃちな文章に内容でそれでもここまで読んでくださったことがいちばん嬉しいです。本当にありがとうございます。



誤字、脱字等ございましたら、大変お手数ですが、教えていただけるとすごく助かります。


1月27日、ちょこっと修正しました。もっとしっかり推敲してから投稿すればいいのに。申し訳ありません。
あっでも、今回まだ誤字脱字は見つけてません! やったね!(って、それが本来だと思うのですが、いかがなものでしょう)


作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。