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『苦悩と解放』 ... ジャンル:リアル・現代 異世界
作者:Yosuke
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あらすじ・作品紹介
自己嫌悪から、生きることを苦痛に感じている少年。彼は自分の中に存在する『自分』と対峙する。
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朝日が窓から差し込む。眠気を誘う振動や、生温い空気。
12月某日、市川昌明という名の少年は、人気のない電車の中、ひとり座席に座り、中空を眺めていた。
歳に似つかわしいとは言えない、いくらかの白髪が、耳を隠す程度の長さの黒髪の中に混じっている。顔にはいくらかにきびのあとがあり、お世辞にも『美少年』とは言えない風貌の持ち主だった。
電車は都心部から遠ざかる下り電車で、窓の外には住宅街が広がっている。
自分というものは何者なのだろう。一体どのような人種の血を受け、どのような思想のもとに生まれてきたのだろう。もしもそれが解るようなら、今、自分の心のなかに渦巻くこのやりきれない何かが少しは晴れるような気がしてならない。自分は自分というものがよくわからず、多少なりともそれに恐怖を覚えているのだ。
街にあふれる、たくさんの人々の中で生まれ、これからその中に溶け込んでいくのだろうか。だとして、自分はその中でどのような役目を果たしていくのか。それは自分で決めることのようだが、半分以上は他人が決めることだ。自分の意志というものはそれほど大きな力を持っているわけでもなく、たとえ自分が何かを望んだとして、それを叶えるのは自分の力ではなく、他人の力なのであるということなど、たとえこの世に生を受けて20年も生きなくたって解る。
しかしそれも誰か、もしくは誰かの集団が自分を必要とした場合なのではないだろうか。自分の能力や思想を受け入れる人間がいなければ、何かを望んでも叶えられることはない。果たして自分に受け入れてもらうだけの能力や思想を持ち合わせているのかどうか、わからない。
振動が止み、聞き慣れたあの空気の抜けるような音とともに、電車のドアが開く。数人が、市川のいるこの車両に乗り込み、無言で適当な場所に座っていく。それでも殆ど混雑していないので、お互いに一定以上の距離を置いている。電車が動き出すまでの短い間、誰かのイヤホンから漏れる音楽のようなものが市川の耳にも届いてきていた。
ドアが閉まり、きしむ音と共に電車が動き出す。またもとの振動がはじまり、電車は加速していく。
才能という言葉にはいつも迷わされる。
自分に何の才能もなく、単なる人間の形をした生き物である、ということしかなかったとする。そうなればきっと自分はこの世界で生きていく力を持たないことになり、何が何だか理解する前にこの世を去るのだろう。しかしそれはある程度納得できる。問題は、自分に何らかの才能があった場合。それを開花させ、何不自由ない生活をこれから送ることになるとする。しかしそこで疑問が発生する。「どうしてこの才能は自分に与えられたのか?」ということだ。あの父親と、あの母親がつくった子供だからか? だとして、どうして自分はあの父親とあの母親の間に生まれてきたのだろう。人はおそらく、生まれてくる環境を選ぶことはできない。しかし生まれてみると、才能があったりなかったりする。才能を持って生まれてきたということは、生まれる前の行いがよかったということなのだろうか。もしも才能というものが、無差別に、ランダムに、生まれてくるものに付与されるものなのだとしたら、才能を持っているということは何も誇れることではないような気がしてくる。たまたま、才能を持って生まれてくる子供、という風に選ばれたがために、その人間の一生はそれなりのものになる。たまたま、それがなかったためにその人間の一生はそれなりのものにはならない。もしも才能というものがやることなすこと全てに関わっているということになれば、その人間の人生は努力云々を全く無視した、運だけのものになってくるということだ。
気が付くと、一番記憶に新しい駅からいくつか離れた駅に電車は停車し、ドアを開けたままにしていた。考えている間に眠ってしまったようだ。いつの間にか空は雲に覆われ、先程よりも肌寒くなっている。
市川は自分の身の回りを確認した。財布も携帯電話も眠る前と何ら変わりない。電車の中で寝ている人を見て、外国人は驚くという話を聞いたことがある。日本という国は電車の中で寝てしまってもスリに遭う心配がないのか、ということらしい。これを聞くと自分の祖国はいかにも平和なようだ。実際のところもっと見えないところで何かが起きているのかもしれないが、自分はそれを知らない。知らないということは、無いようなものだ。
しかし、そんな『平和』な国に生まれたということも運である。結局のところ、世の中全て、運という曖昧なもので成り立っているのだろうか。
「あ」
「お」
ドアから見知った顔が入ってくる。もう知り合って5年近い友人、北野だった。北野は多少の驚きを交えつつ笑い、市川の隣に座った。
「奇遇だな」
「そうだな」
街中で、会うべくして会ったわけではない場合、このやり取りは2人にとってもはや決まり文句に近いものになっていた。多くの場合、奇遇だと言うのは市川で、それに応えるのが北野である。
普通なら、お互いがこれからどこに向かおうとしているのかを尋ねたりするだろうが、市川はそういう気にならなかった。これもいつものことなのだが、2人の、世間的に言うならば『友情』というものはある一定の段階を越えて、お互いに対して無関心であるというところに来ている。記憶は曖昧だが、2年ほど前は『親友』と呼べるような付き合い方をしていたような気もするが、近頃はそれほど頻繁に口をきくでもない。
市川は、それには理由があるような気がしていた。そしてその理由が自分にあるような思いもあった。端的に言えば、自分はこの北野という少年に対して、多少の畏怖の念を感じているのだ。普段、冷静な状態であれば互いの立ち位置は同じかもしれないが、もしも何らかのきっかけで冷静さを失った場合(本気で意見をぶつけ合わせたりするときなど)、確実に自分は北野に勝つことができないであろうという気持ちが常にあった。だから、市川は北野の性格などについて口出しすることは極力避けた。そしてこれは単に市川の憶測でしかないのだが、その態度こそが2人の『友情』をここまで長続きさせた理由であるような気がするのだった。
その後、途切れがちな会話でお互いの近況などについて言い合い、そのうち停まった駅で北野は
「それじゃあ、またな」
と、いつも通りに言ってからいなくなった。
相変わらずの曇り空で、あまりはっきりとしたことは解らなかったが、市川はもうそろそろ正午過ぎかな、と考えていた。
鼻にかけたような、お決まりの声が車内に響く。それは市川の乗るこの電車が終点に到着したことを告げていた。市川はゆっくりと立ち上がり、それ以上にゆっくりと歩き、ホームに降りた。冷たい空気が鼻から入ってくる。目の前に海が見えた。田舎だった。質素なホームの両側に一本ずつ線路が敷かれ、それを海と山が挟んでいる。海側は低く小さい建物が無数に立ち並び、住宅街を形成していたがそれがまたその風景を物寂しいものにしていた。
市川はホームのベンチまで歩き、海側を向いて座り込んだ。ホームに人の気配はほとんどなかった。
それから、しばらくは何も考えていなかったような気がする。
「いっちゃん?」
問いかけるような声が市川の意識を復活させた。はっとして、首を左右に振る。
「塚原……」
この田舎町に住む少女。塚原由紀恵だった。『いっちゃん』というのは市川のあだ名のことだ。とても間抜けな、センスのない、ストレートなあだ名だと市川は嫌っていた。
「何やってんの、こんな所で?」
「いや別に……塚原は?」
自分が何をしているか、さらに問いつめられるのが嫌で市川は質問した。
「これから遊びに」
「そっか……じゃあ、この電車?」
自分の背後、さっきまで自分が乗ってきた電車を指差して訊く。
「うん」
「乗る?」
「うん」
市川は立ち上がり、塚原と連れ立ってその電車に乗り込む。ホーム同様、殆ど人はいなかった。市川が先に適当なところに腰掛けると、塚原はその隣に自然に座った。
塚原由紀恵。
市川にとって、彼女のその名前は重要な単語だった。よく言えば無垢。悪ければ地味とでも言うだろうか。そんな彼女の容貌、性格は、市川を純粋に惹き付けた。彼女と仲良くなりたい。彼女に好きになってもらいたい。強くそう思った。
しかし、その気持ちはある出来事によって一瞬で消え去った。少し前、塚原は市川を呼び出し、思い詰めたような顔で、市川のことを好きだと告げたのだった。
多くの男性、いや人間が、そのような立場になってみればそれに対する対応というのは言わずもがなだ。市川も最初は異様に舞い上がり、彼女にそれ相応の返事をしようと思っていた。が。市川の脳はおかしな方向に動き始めた。
『待て。冷静になれ。よく考えろ』
厳格な口調で、市川自身に囁いたように思えた。
冷静になれ。よく考えろ。お前は誰だ。市川昌明。暗い、悲観主義者。誰がお前を好きになる。お前自身でさえ好きになれないのに。どこに魅力があろうか。どこに魅力があろうか。冷静になれ。考えろ。お前ならきっと解る。
市川は、塚原の告白に対して何も返事をしなかった。
もう、彼女の顔を見る気にもならなかったからだ。そのときは「考えさせてくれ」と言っただけだった。
「ねぇ」
「えっ」
「ぼーっとしないでよ。隣に女の子がいるのに」
ちょっといたずらっぽく彼女は言う。その仕草は市川の心をくすぐった。だが同じように、市川の気持ちを傷つけた。俺は彼女の相手ではない。
「ごめん」
市川は努めて明るい調子で謝った。塚原は笑っただけだった。
自分が本当に嫌だった。塚原が勇気を出し、傷を負うリスクを覚悟で口にしたあの言葉に、自分は応じなかった。その上、彼女に何も言わないでいた。ひょっとしたら、塚原はまだ自分の答えを待っているのかもしれない。それでもこうして普通に接してくれている。吐き気がした。
塚原はそこから3つ目の駅で電車を降りた。「じゃあね」と市川に笑って手を振った。市川にはどうしても、それが本心からの笑みとは思えなかった。
先程よりは多少人の乗っている電車の中、市川はひとりになった。何か大きな、暗いものが心の中に去来しているのが自分にもわかった。
それから少しして、また電車が停まる。市川はさっさとその電車を降りた。すぐに電車はドアを閉じ、走り出す。市川はホームの中程で立ち尽くした。頭の中がごちゃごちゃになって、何かを考えてもまた別のものがそれを邪魔する。悩んでいるとも、考えているとも言えない状態だった。
簡単なメロディの後、下り電車がホームを通過することを告げる声が聞こえる。ふと考えるのをやめ、その声に聞き入った。それが終わった後、市川は線路近くまで歩く。
少しすると、遠くに走ってくる電車の姿が確認できた。はじめは小さく見えたそれは、段々と大きくなりながら勢いを増していくように見えた。
そのとき、突然時間の経過が遅くなった。電車はゆっくりとこちらに向かってくる。市川の心の中はさっきとは裏腹に静まり返っていた。ただひとつの声が響いている。
『このまま飛び込んだらどうなるのかな?』
子供のような声だった。
時間は相変わらずゆっくりと流れている。もう何の音も耳に入ってこない。
頭の中に響く疑問に素直に答える。特に何とも思わなかった。
市川はそこで前に進み出た。
『ぶん』だったか『どん』だったか。はたまた『ごん』だったか。何かしら聞いたこともないような効果音とともに、見えない力で世界中が揺るがされたようだった。体勢を崩し、倒れそうになったところをなんとかこらえ、市川は踏みとどまる。するとそこで、とてつもない違和感を覚えた。
静寂。
ホームには誰もいなくなっていた。目の前まで迫って来ていた電車も見当たらず、そこにはただ古びた線路があるだけだった。風の吹く音、自分の心拍音ばかりが聞こえる。辺り一帯にある全てのものが、無言で自分を見つめているような気がした。
「なんだ」
意味のない一言が口から漏れる。それに答えるものは誰もいない。何度首を振ってみても、そこには誰もおらず、世界は自分を見つめている。脈が速くなり、心拍音が異様にうるさく感じられた。
何があった? 何がどうした? 何故? クエスチョンマークは止めどなく生まれて来る上に、全く解決されていかない。
「…………」
何をどうすればいいのかがわからない。ただここにいてもどうしようもないことはわかる。市川はゆっくりと歩き始めた。ホームの端を出口に向かって。ただただ自分の足音だけが聞こえ、それが嫌で足音を立てないように歩いてみたが、それでも完全に無音にはできないようだ。スニーカーの裏のゴムと地面がこすれる音がする。どうしようもないので普通に歩くことにする。
突然、視界の端に人間の姿が映った。先程いた位置からでは、背中合わせの2つのジュースの自販機の影になって見えなかった、ところどころペンキのはげた質素なベンチの一番端にそれはいた。男だった。身体を丸め、悩んでいるようだった。市川は立ち止まり、声をかけようとして近づくと、その男は顔を上げた。
鳥肌がたった。
その男の顔は、毎日見ている人間のものだった。見るたびに、何とも言えない嫌悪感を覚える顔。それはいつも、鏡の中にある自分の顔だった。
自分が、そこにいる。
「あ……」
市川は吐息のようなその声をこらえることができなかった。
顔を上げたその人間の表情は暗く、やはりまだひたすら何かを悩んでいるようだった。市川の顔を見てもその表情は変わらず、一瞬だけ見つめ合うとまた顔を伏せてしまった。
「どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
小さな声で何度もそう呟いている。
「ちょっと……」
「んだよ、ちくしょう!」
がつん。
悩んでいるその人間に声をかけようとした瞬間、突然聞こえた怒鳴り声と激しい音に、市川は首をすくめた。声はベンチの横にある自販機の向こう側からだった。誰かが自販機を蹴り跳ばしている。
おそるおそるそちらを覗いてみて、息を呑んだ。
激しく癇癪を起こし、自販機を蹴り跳ばしている人間もまた、自分と同じ姿をしていた。それは自分に目もくれず、ひたすら自販機を蹴っている。さっきまでは絶対にそこにはいなかったはずの人間だった。やがてそれは蹴るのをやめ、今度は拳を叩き付けて自販機を破壊しようとした。しかし自販機よりも柔らかい彼の拳の皮膚は傷つき、血を流す。それでも破壊をやめようとはしなかった。
ふと見れば、先程まで自分が立っていた位置、突然あたりから人が消えた瞬間にいた位置にも同じような人間が立っているのが確認できた。
「死ぬぞ! 俺は死ぬぞ! 見てろ! 死ぬぞ!」
だがそれはそう叫ぶだけで、動こうとはしない。
今度は遠くで暴れる自分、後ろで死んだように眠る自分、自販機を破壊するものを止めようとする自分…それらは次々に現れ、瞬く間にホームをいっぱいにした。
ただ、気持ちが悪かった。自分の顔が大量に見えた。
直感的にそれが気味の悪い光景であると判断できた。逃げ出したかったが、足が動かない。
『お前もこの中のひとりでしかない』
聞き覚えのある声がどこからともなく聞こえる。塚原との一件で、自分に冷静になれと囁いた声だった。
「ここはお前の心の中だよ」
囁く声が急に実体を帯びたように現実的なものになった。その声は背後から聞こえてくる。
「お前はついに決心した。ありがたいことに」
さっきよりも音源は近い。少しずつ近づいて来ていた。
「ようやく解放だ」
声の主は自分の後頭部に口をつけて囁いているかのようだった。ふいに右肩に手をかけられ、ぐいと引っ張られる。
よろめいた拍子に見えた顔は、やはり自分のものだった。それは無理に市川の体を回転させ、全く同じ姿の2人は至近距離で向かいあう。
「あっ……」
また、声が漏れた。
さっきまでそこら中にあふれかえっていた自分の姿は、いつの間にか消えている。そして目の前の自分はまっすぐに市川の目を見据え、その奥にある脳を見つめているかのようだった。
「ここは……どこだ」
市川はようやく声を絞り出し、自分自身に尋ねる。
「市川昌明の心の中。頭の中だ」
それは自分のこめかみあたりに人差し指を押しつけながら言った。
「…………」
返す言葉が見当たらず、市川は黙る。相手も、何も言うことはないと言うかのように黙り、ただひたすら目の奥を見つめていた。しかし
「じゃ、また」
唐突にそう言って、それはふっと消えてしまった。
再び市川は静寂の中にひとり放り出された。
「…………」
「……ねぇ」
「うわ!」
静寂は数十秒だったか、数分だったか。突然背後から聞こえた声は、市川を飛び上がらせるためには充分すぎるものだった。あまりにも激しい鼓動が、胸を痛くする。右手で胸を抑え、見るとそこにはひとりの少女がたっていた。
「……塚原……」
塚原由紀恵は不安げな表情でこちらを見ていた。
「いっちゃん……ここ、どこ?」
一瞬前に会った、自分そっくりの人間の言うには、ここは市川昌明の頭のなからしい。…と言った所で、普通の人間が素直にそれを受け入れるとは思い難い。少しだけの沈黙が2人の間に流れたあと、市川はようやく口を開き
「わかんね」
とだけ言った。
塚原は「だよね」と小声で呟き、自分の足下を見て黙ってしまった。
2人でいるときの沈黙は、ひとりでいるときの沈黙よりもっと暗く深く感じられた。自分そっくりの人間達がこのホームを埋め尽くし、騒ぎ回っていたことが、ずっと前の事のようにも感じられる。
相変わらず、解らないことだらけだった。
突然自分が大量発生したり、ここは自分の頭の中だと言われたり。ついでに塚原まで登場した。ただでさえ理解不能な出来事が、理由もわからないままに起こる。そんな中で自分にどうしろというのか。元に戻るにはどうしたらいいのか。
塚原の顔は相変わらず不安げで、それがとても市川を申し訳ない気持ちにさせた。彼女は自分以上に何が何だか解らないはずだ。
「とりあえず……」
どこに行ってもどうしようもない気はするが、ここにいてもどうしようもない。何かの手がかりがどこかにあるかもしれない……漠然とした希望を込めて、ここを出てみよう、と言おうとした。
が、言えなかった。
塚原の背後に、突然何者かが現れたのが見えたのだった。文字通り瞬く間に、瞬きの間に現れ、その情報が市川の脳に届く頃には、それは塚原の右肩に手をかけようとしていた。
「おい!」
口から出たのは、そんな言葉だったかもしれない。とにかく何かを叫びながら、市川は塚原の腕を強引につかみ、思い切り引き寄せた。
「えぇ!?」
市川の声と行動に驚いた塚原は裏返った声を出しつつ、よろけながら市川の背後に移動した。
「…………」
あと数センチの差で塚原の肩に手が届かなかった、市川の姿をした人間は、無表情のまま市川の目を見つめた。持ち上げていた右手をそのままゆっくりとおろす。
「なんだお前は」
頭に血が上り、冷静さを失っていた。もっと的を射た質問があったかもしれない。だが口が脳との連携を断ち、自己判断でものを言っているかのようだった。
「お前こそ、どういうつもりなんだ?」
自分の声。喋っているときに聞こえる声ではなく、自分を映したビデオを見るときに聞こえてくるような、多少の違和感を覚える声だった。それこそが本当の自分の声、客観的に聞こえる自分の声であるということを知ったのは小学生くらいの頃だったか。
「はぁ?」
「塚原を引っぱっただろ」
「お前が何かしそうだったからだ」
「…………」
それは黙り込むと、市川の目から視線をそらし、その後ろで状況を飲み込めずに、2人の『市川昌明』を見比べておろおろしている塚原を見た。
「な……なに?」
震えた小さな声が市川の背後から聞こえた。
それは再び市川へと視線を戻す。
「お前、塚原をどうしたいんだ?」
「なに?」
「好きなんだろ」
「……ふざけんな」
素直に、そうですとは言えなかった。だが否定はできない。まるで中学生だな、と一瞬思う。
「どうなんだ?」
「今は関係ないだろ!」
「……俺は好きだ」
「…………」
「だから、塚原の手を離せ」
そこで、まだ自分が塚原の腕をつかんだままであることに気がついた。かなり力を込めて握りしめていた。はっとして、その力を弱める。掌に汗がにじんでいる。
「……どうするつもりだ?」
それは無表情のまま、口を開いた。
「犯す」
耳を疑った。
「え」
塚原がぴくりと動き、短く声を出した。
「……はぁ?」
聞こえなかったわけではない。だが全く理解ができなかった。
「お前だってそう思うだろ」
「思うわけねぇだろ!」
「嘘だ」
「うっせぇ!!」
市川は叫びながら踵を返し、塚原の腕をつかんだまま大股で歩き出した。もう自分そっくりのそれと話したくなかった。というより、その場からひたすら逃げ出したかった。塚原はよろめきつつ「あっ、ちょっと……」と言いながら市川についていく。
「待て」
そんな声が背後から聞こえたが、市川はそのまま歩を緩めることなく進み続けた。
(どうなんだ)
異性を好きになるというのはどういうことなのか。まだ自分にはよくわからないが、それが生物の本能に深く関わっている感情なのだろう。誰に教えてもらったわけでもないが、それが間違っているという気もしない。そうしなければいけないというわけでもないのに、やたらと人は人に恋をしたりする。それは結局の所、最終的には生物として『生まれて来た理由』を果たすためなのだろうか。いつもその人のことが気になって、食事も喉を通らなくなったり、夢の中にその人が出て来たり、その人と親しげに接する同性に嫉妬したりするのは、完全に本能の言いなりなのだろうか。
数分前の記憶が映像として思い出される。目の色ひとつ変えずに、自分の姿をした奴が冗談としか思えないようなことを言っている。それが自分そのものの姿であるような錯覚を起こしそうになって、一瞬、胸の辺りが気持ち悪くなった。
「……ね、ちょっと……」
控えめな声が背後から聞こえて、市川は我に還った。塚原の腕をつかんだまま、何も考えずに歩いて来てしまったようだった。
「あ、ごめん」
すぐに塚原を解放する。塚原は腕の握られていたところを軽くさすった。随分強く握ってしまっていたかもしれない、と市川は申し訳なくなった。
今ここには『気まずい空気』が流れている。敏感な人間でなくても、ともすれば小学生や、飼い犬でさえ気付きそうなほどに解りやすく、重苦しいものだった。しかしそれらを霧散させる術を市川は知らなかった。
「…………」
目を合わせるのも気まずいとは思ったが、ちらと塚原の方を見ると、彼女は何かをひたすら考えているように見える。やはり先程のことで色々考えているのかもしれない。
「あのー……ね」
今度は市川が考え込み始めたころ、不意に塚原は自分と市川の間の地面あたりを見ながら口を開いた。
「えっ?」
「うーん……さっき、ね」
やっぱり。一体何を言われるのだろう。どうして俺が俺でない人間の言ったことで責任をとらなきゃいけないんだ。市川の中に多少の怒りも生まれ始める。
「……に……」
「え?」
不意に風が吹き、塚原の声を遮ってしまった。はっきりと聞き取れなかった市川は、怒気の混じった声を出した。その声に敏感に反応した塚原は、びくっとして顔を上げ、それによって市川とまともに目が合った。
「あ……前にさ」
「うん」
「あたし、言ったでしょ」
「…………」
「いっちゃんのこと……」
「……きいたよ」
最後まで言わせるのがしのびなく思い、途中で市川が口を挟む。
「……それで、さっきの人が、好きとか、なんとか……」
あのホームから、辺りが異様に静かだった。駅を出ても、人の気配がなくて、風の音と自分と塚原の足音くらいしか耳に入ってこなかった。今ここで独り言くらいの音量で喋っている塚原の声が、頭の中で響いているように大きく聞こえるのは、それが理由なのだろうか。自分たちを、今こそは本当の無言で見下ろす建物たちは、それを見守っているのか、見物しているのか…だが何故か、市川には大量の視線が浴びせられているような気がした。
ここで自分が何を言うかが大事だ。
「…………」
塚原は俯いていた。言うべきことは言った、ということなのだろうか。
(どうなんだ?)
市川は考えていた。
塚原は自分のことが好きなのだと言っているのだ。だから自分はどう思っているんだと訊いているのだろう。どう思っているのか? 自分にとっても、塚原は好意を抱いている相手だ。彼女の気持ちを踏みにじったりする理由はどこにもない。できることならここで『俺も好きだ』とでも言ってしまいたい。
……言ってしまいたい? 言ってしまいたい……が、言えないのだろうか。ただ一言、そう告げればいいだけなのに。それは本心からの言葉であり、何者もそれによって傷つくことはないというのに。なぜできないのか。
ずっと前に聞こえた声が、また聞こえそうな気がしていたのだ。
厳格な口調。待て、冷静になれ。さっきホームでもきいた声。
もしまたその声が聞こえたら、自分はどんな行動をとってしまうのか。
『……市川昌明』
「うわ!」
ふいに頭の中に聞こえた声に、全身が反応した。「えっ?」という声とともに塚原も全身を強張らせる。
『どうした』
うるさい。
市川はその声に断固として反抗しようと身構えた。しかし、次に聞こえた言葉は市川を拍子抜けさせるには充分な言葉だった。
『素直になれ。好きだと伝えれば良い』
なに?
『素直になれ。塚原ならお前を受け入れてくれる』
本当か?
『本当だ』
「…………」
「塚原」
「……うん?」
その瞬間、市川に自我があったかどうかはわからない。ただ、うっすらと頭の中に響く声の主が笑ったような気がした。
人、特に異性に好かれる、というのはどんな気持ちなのだろう。嬉しいのだろうか。楽しいのだろうか。なんだかソワソワして、居ても立ってもいられないような気持ちなのだろうか。『俺は人に好かれたことがない』とまでは言わないが、しかしそれでも、誰かに好かれている、という実感を持ったことはあまりなかったような気がする。
逆に、自分が誰かを好きになる、ということもあまりなかったかもしれない。それは自分が「もしかしたら、俺なんかが好きになったら迷惑かもしれない」と思い、自分の想いを封印することが多かったのが原因なのだろう。
……塚原は今どんな気持ちなのだろうか。依然、何だかよく解らない状況(『市川昌明の頭の中』らしいが)に立たされていることに変わりはなくても、自分の想いが伝わったということを嬉しく思っているのだろうか。
駅から少し歩いた所に、小さな公園がある。そこは小さな子供が駆け回って遊ぶ…というようなことはほとんどなく、それよりは、世間的には『不良』とされている人々が集まり、深夜まで何やら語り合ったり大声で笑ったりしているような場所だった。遊具は殆ど壊れており、もはや公園としての機能は失われていたようだった。
しかし今その公園に屯する人間はいない。珍しい光景だった。あまり綺麗な印象を受けることはできない木造のベンチに、市川と塚原は腰掛けた。
「……なんていうか……」
市川は腰掛けてすぐに口を開いた。
「今ひとつ実感が湧かないよ」
「しつこいよ、もう」
塚原が苦笑しながら答える。市川はこの公園までの道すがら、何度も同じようなことを言っては塚原を苦笑させていたのだった。
「いや、でも、本当にわからない。こんなことは生まれてこのかた一度もなかったんだ」
はぁ、と塚原が小さくため息を吐く。
「……でも、あたしもこういうのははじめてなんだ」
どこか遠くを見ているようだった。
「そうなのか?」
意外だった。明るい性格で、容姿も整っている彼女にとっては、今の状況など何度も経験しているものだと市川は勝手に思い込んでいたのだった。
「うん。ていうか、あんまり誰かをすごく好きになったりしなかったかなぁ」
そう言って、首を回して市川と目を合わせて微笑んだ。その微笑みは、何か不思議な力を市川の中に発生させるようだった。
それから一息ついてから、塚原は続けた。
「……あたし、みんなの前では明るく振る舞うようにしてるけど…実は結構ネガティブでさ、気になる人ができても、その人に告白なんて絶対できなかった。どうせふられるよ、って。自分にそんなことをする権利もないような気がした」
塚原の声はいつになく真剣で、必死に気持ちを伝えようとしているのが市川にもわかった。
「でも、いっちゃんは違ったんだよ。知り合ってすぐ…違ったら悪いんだけど、自分と同じ何かを感じたんだよ。それでどんどん…ね。うん」
「…………」
思いもよらなかった。
自分も塚原も似たもの同士だったのか。
市川の中でひっかかっていたものが、一瞬にして砂と化して流れていったようだった。
後で冷静に考えてみると、何故こうも簡単に彼女の言葉を信じたのか、よくわからない。とにかく、彼女のその言葉で悩みがどこかへと消え去り、妙に幸せな気持ちでいっぱいになったのだった。
よかった。本当によかった。塚原がいてくれて。俺は愚かだった。勝手に思い悩んで、ホームから跳ぶような真似までした。でももう大丈夫なんだ。
塚原のおかげで、すべてが解決したかのようだった。
「塚原、ありがとうな」
「へ?」
「塚原がいてくれてよかった。……好きだ」
一瞬面食らったような表情をしたあと、顔を赤らめて、あたしも、と塚原は嬉しそうに笑って答えた。
しかし、次の瞬間、市川と取り巻く全てのものが消え失せた。砂と化し、風に飛ばされて見えなくなってしまった。もちろん、市川の目の前にいた塚原も同じように。
空に浮かんでいた雲も、太陽までもが消え去る。辺りは闇に包まれた。腰掛けていたベンチも消えてしまったため、市川はそのまま尻餅をついた。
妙に落ちついていた。どういうわけか、こうなることを全く予想していなかったわけではなかったからだ。ゆっくりと立ち上がってみると、暗闇の中にひとつの景色が浮かび上がった。それはとても長い廊下のようだった。左側には等間隔におびただしい数の扉があり、扉の向かい側の壁にもまた等間隔で、こちらは古くさいランプが高い位置にとりつけられていた。それらは市川の前後に延々と続いている。床には赤っぽい色の絨毯が敷いてあり、もう少し明るければそれなりのホテルの廊下に見えなくもなかったが、見たこともない光景だった。
ふいに、一番近くにある扉の取っ手が動き、扉がゆっくりと、音もなく廊下側に開いていった。吸い込まれるように市川がその開け放たれた扉をくぐる。
中は見覚えのある映画館だった。最近ではほとんど行かなくなってしまったが、かつては月に何度も来ることもあった、隣町の映画館。独特の匂いが市川を包み込む。スクリーンは白く、そこから無意味な光を放出している。
その光の一部だけを、小さなシルエットが遮った。客席から誰かが立ち上がったのだ。その空間の、市川を除いた唯一の人間だった。市川はそれが誰だか、顔を見なくても把握した。
「よう」
シルエットは振り返ると、いつものように挨拶をした。
北野。冷めた友情で繋がれた相手。
スクリーンが突然暗転し、今度は中心に白い文字が映っている。
『劣等感』
ただそう書いてあった。
それまで北野の背後を照らしていた光が弱まり、今度は映画館のうすぼんやりとした光が彼の顔を浮かび上がらせた。
その顔には何の表情もなかった。無表情だけが彼の顔面を支配している。
「うまくいったのか、あのコのこと」
無感情な北野の声だった。
「お前には言ってなかった気がするな」
冷静な声を装う。
「どうでもいいだろ」
「……そうか」
北野は一瞬、鼻先だけで笑うと、ゆっくりと市川に背を向け、それまで座っていた席に腰掛けた。
「座れよ」
北野の命令に従うのも癪だったが、立っている必要もないと思い、市川はスクリーンから一番離れた列の、一番手近な席に腰掛けた。
するとスクリーンの文字が別のものに変わった。
『市川昌明』
「……猫背……白髪……悲観主義者……不快なオーラまで出してるな……」
北野はスクリーンを見ながらぼそぼそと喋っている。
「放っとけ」
『塚原由紀恵』
スクリーンの文字が再び変わる。
「可哀相にな、お前の勝手なネガティブ・ワールドに巻き込まれて」
「…………」
『市川昌明と塚原由紀恵』
「身の丈に合わないことはやめた方がいいと思ってたんじゃなかったのか?」
「おい!」
妙に癇に障る一言だった。市川は立ち上がり、北野の座っているところまで歩いていこうとしたが、すぐに足が止まってしまった。先程まで北野のいた席に、彼はいなかった。首を振って辺りを探したが、見当たらない。
ふいに、背後から左肩に手をかけられる。全身がぎくりと反応し、瞬間的に振り返ると、北野が先程と同じ無表情で立っていた。
その一瞬、市川が感じたのは恐怖以外の何でもなかった。
「怖いか? 俺が」
表情を変えずに北野が尋ねる。
「怖くない」
「どこが怖い?」
「怖くない」
「お前より背が高くて、力も強いからか?」
「…………」
ふいに北野の視線が市川の目から逸れた。北野はスクリーンを見据えているようだった。市川もそれにつられてスクリーンを振り返る。
『人間としての』
『レベルの差?』
「お前は俺を怖がってる」
背後から低い声が聞こえる。
「全てにおいて勝てないと思っている」
「…………」
「もし、塚原と出会ったのが俺だけではなかったとしたら? 北野も同時に塚原と知り合っていたら? 塚原の気持ちは北野に行っていたかもしれない。勝てるはずがない。…とか考えてるんだろ」
図星だった。
「塚原が俺を好きだと言ったのも、塚原にとって俺よりも上な人間が偶然いなかったというだけのことだ、とも」
「…………」
「そうなんだよ。お前が正しい。真実を見抜いてるんだな」
反論しようという気も起きなかった。もうどうにでもなれ、という気持ちさえ生まれ始めていた。
「お前が偶然いたから、塚原はお前を選んだ。しかしお前は弱い。頼りない。魅力もない……」
いつの間にか、北野の姿はホームで見た自分自身の姿になっていた。
「お前は必要とされていたわけじゃないんだ」
「…………」
「じゃあ、お前がここにいる理由は? 何の取り柄もないお前が生きている理由は?」
「理由……」
それまで黙ることしかしていなかった口から、言葉が漏れた。
理由。自分は何故、何のために生きているのか?
生まれたから。生まれたから生きている。生きろと教育されたから生きている。
「……理由は……わからない……」
「わからないわけじゃない。お前は知ってる」
「俺が?」
「生まれたものは全て死んでいく。死に向かって歩いていく」
「つまり……」
「死ぬためだ」
「死ぬため……」
それを否定しようと、市川の中にある何かが奮闘している。悪戦苦闘している。否定の理由を探せ。反論しろ。生まれたときに植え付けられた、『生きたい』という欲求が、それを破壊しようとする大きな力に反抗しようとしている。
目を開いているのに、何も見えていない。息をしているのかもはっきりしない。
「俺は……」
しかしそれでも、生に対する欲求は消滅していなかった。その理由は他でもない塚原だった。塚原の気持ちを尊重しなければならない、という考えが、まだかろうじて生き残っていた。どんな理由にしても、彼女は自分を選んだのだ。もしかしたら、彼女と一緒にいることで自分自身が変わることも可能かもしれない。まだ希望は完全に消えたわけではない。
自分がどうなるかは、彼女に託してみよう。
暫定的な結論が出た所で、市川は我に還った。
静寂に包まれた映画館の、一番後ろの列の真ん中の席に市川は腰掛けていた。辺りには誰もいない。
ひどく疲れていた。
ふとスクリーンを見ると、やはり先程と同じように黒い背景に白い文字が映っている。
『苦悩』
静寂の中で、とても小さな音がすることに気がついた。それは徐々に大きくなっているようだった。
女の声。
何かを叫んでいる?
音はとても少しずつだが、はっきりと大きくなっていく。
1分ほど耳を澄ましただろうか。正確な時間はわからないが、その声が少女のものであることはわかった。
泣いているのか。叫んでいるのか。声と共に、何かの雑音も断続的に入っている。
音に気をとられて気付かなかったが、スクリーンの文字はいつの間にか消えていた。ただただ闇だけを映し出すスクリーンは、何かを言いたそうにしているように市川は感じた。
突然、スクリーンから光が溢れ出た。まぶしさに目を覆う。
少しして光に慣れた頃、市川はそれが何かの映像を映していることに気がついた。
人間が数人映っている。
同じような格好の3人が立っていて、1人が地面に横たえられていた。3人は無言で1人を見下ろし、倒れている1人は傷だらけだった。
すると先程まで小さかった音が突然大きくなり、市川に覆いかぶさるような音量にまでなった。
少女が苦しそうに泣いている声だった。
スクリーンに映っていた、立っている人間がふいにしゃがみ込み、倒れていた人間の髪を掴んで顔を持ち上げる。見たところ倒れていたのは女で、立っていたのは男のようだ。
「イ……イタイ……ヤメテ……」
恐怖をはらんだ、喘ぐような泣き声がそう言っている。
市川の全身に戦慄が駆け抜けた。それと同時に、バシッという鋭い音と共に、男は女の頬を思い切り平手で打った。
倒れているのは塚原だった。
3人はすべて自分だった。
バシッ
バシッ
バシッ
何度も何度も同じ音が聞こえる。
塚原は最早声ともとれないようなうめき声を上げていた。
市川の全身は硬直し、その座席に縛り付けられているかのようだった。
スクリーンが暗転する。
黒い背景に、白い2文字。
『解放』
の2文字だった。
白い『解放』の文字は、しばらくして背景の闇に飲まれるように消えていった。それと同時に、辺りをぼんやりと照らしていた薄明かりも消え、辺りは真っ暗になってしまった。自分の手を目の前に出してみても、それを視認することはできない。
まるでそこには何もないかのようだった。自分の身体も、スクリーンも、座席も、空気でさえ存在していない、ただひたすら『無』に支配された空間に思えた。
灯りは消えた。光は失われた。
苦悩が終わり、解放は始まる。ようやく始まる。
市川の頭の中で、そればかりが繰り返されている。
それは現れては消え、同じ所をぐるぐるとまわり、あっちへ行ってはこっちへ帰って来たりしているようだった。市川の思考は、その繰り返し以外のすべてを放棄している。何も進展はなかった。
どれくらいの時間が経ったかはわからなかったが、次第にまぶたが重くなり、自分が目を開いているのか閉じているのか、その判断もあやふやになった頃、市川は眠りに落ちた。
まぶしい。
赤い光がまぶたを通り抜けてくる。手で光を遮りながら、市川は目を開けた。嫌みなほどに赤い光をこれでもかと放出する赤い夕日が見えた。一部はもう街の建物の影に沈みかけている。
市川が座っていたのは映画館の最後列の座席ではなく、駅近くにある公園のベンチだった。
まだはっきりとしない意識の中、眠りに落ちる前の出来事が思い出される。それにつれて身体がどんどん重くなっていくような感覚もあった。
「……いっちゃん?」
ふと弱々しい少女の声が聞こえた。ベンチの前に、その声の主はいた。何故すぐに気付かなかったのかはわからない。彼女は目の前にいた。
彼女は殆ど裸に近い格好をして、地面に横たわっていた。彼女の着ていた服はもはや服としての役割をしておらず、びりびりに破かれ、砂にまみれていた。彼女の顔や、服の破れ目から覗く白い肌にはたくさんの傷がうかがえる。
塚原由紀恵は震えていた。彼女の瞳には、『恐怖』という文字が書き込まれている以上にわかりやすく恐怖の色が浮かんでいる。その瞳は市川の瞳に向けられていた。
市川はゆっくりと立ち上がる。塚原はそれにぎくりと反応したあと、さらにその身体の震えを大きなものにさせた。市川は上着を脱ぐと、しゃがみ込んでからそれを塚原に黙って羽織らせた。塚原の視線は市川の目をしっかりと追いかけ続けている。
市川は彼女に微笑みながら話しかける。気味の悪い微笑みだった。
「これが……」
「……ぇ……?」
塚原からはとても嫌な匂いがするのに市川は気がついた。一瞬沈黙したあと、言葉を続ける。
「これが、塚原にとって単なる悪い夢であることを祈るよ」
「…………」
市川はそれだけ言うと立ち上がる。
どこへ向かうかはわからないが、結果的に行き着く先は解っている。
……いや、そんなことは生まれた時から誰だってそうだ。ただ、今の自分は積極的にそれに向かって歩いているだけだということでしかない。
「ま……って」
歩き出そうとした市川に、塚原が弱々しい声をかけた。
「……あたし、信じるから……」
震える声だった。
市川は一歩を踏み出した。続けて二歩目も踏み出す。塚原の横を通り、公園の出口へ向かおうとしていた。
背後からまた声が聞こえる。
「お願い……大丈夫だから……」
塚原はその言葉を最後まで言い切ることができなかった。最後は声にもならない悲鳴によって発することができなかったのだ。
彼女の目の前に、新たに5人の『市川昌明』が現れたのだった。彼らは塚原を無言で数秒見下ろしたあと、ひとりがしゃがみ込み、数分前と同じように彼女の髪をむんずと掴んだ。
「黙れ」
鋭い一言が、塚原の耳と心を貫いた。
どうにもならない恐怖が彼女を駆け巡る。しかしその5人の向こう側に、同じ顔をした男の去っていく姿が目に入り、彼女は意を決した。
「好きだから……」
言い終わる前に、平手打ちが彼女の頬に浴びせられた。
「信じて……」
もう1人が彼女の腹を拳で殴った。
「……行かないで……」
再び彼女を虐げようとした男の右手が止まった。男は首を回し、背後を見ている。その先にいる、同じ顔の人間は歩を止め、こちらを振り向いている。
沈黙が流れた。見ると、5人と1人は完全に停止したままお互いを見つめ合っている。
「俺が消えれば、そいつらも消える」
遠くの1人はそう言ったようだった。
塚原は震える顎をなんとか動かし、それに反論する。
「いっちゃんに消えて欲しくない……」
「どうして?」
「好きだから……」
「……なんで……?」
市川は塚原と自分と同じ顔の5人のいるところへ駆け寄った。5人をどかし、塚原の前で膝をつき、ほとんど土下座のような体勢になった。
「俺はもう、どうしようもないんだ」
「そんなことないよ……」
「……もうダメなんだ。もう何にもないような気がして……」
市川の声も震えていた。
「もう嫌なんだよ。辛いし、怖い。自分だけじゃなくて、塚原まで巻き込んで……」
「大丈夫だよ……大丈夫だから」
「……ごめん。本当にすまない」
市川はその場で泣き崩れた。
塚原はまだ震えの止まらない腕を伸ばし、市川の頭に触れるとそれをゆっくりと自分の胸に抱え込んだ。
「解放が……」
市川の背後に、激しい怒りに震えるもうひとりの市川が現れた。先程までいた5人は消えている。
「ついに解放されるはずだったのに。長い苦悩の日々から……」
「……でも」
「いい。もういいよ。俺はもう疲れた」
不意に彼の顔から怒りが消え、脱力したような表情になった。
「……もっと早くこうするべきだったかもな」
彼の手にはいつのまにか包丁が握りしめられていた。それは夕日の赤い光を浴びて、真っ赤に輝いている。
「ちょっと……!」
塚原が声を出した頃には、包丁は彼自身の喉に突き刺さっていた。
今日も蒸し暑い。ひっきりなしに聞こえるアブラゼミの鳴き声が、より一層うんざりさせてくれる。
塚原由紀恵は待たされていた。
住宅街の一角、何の変哲もない一軒家の前に塚原はいた。
今、彼女を待たせている人物は、ここ数ヶ月間ずっと家から出ていなかった。ただひたすら部屋にこもり、眠ったり考え事をしたり、時には大声で泣いたり高笑いをしたりしていた。
はじめの頃は手のつけようもなかった。
部屋に塚原が入り、なんとか会話しようとしても耳を貸そうともせず、というよりそこに彼女がいないかのようにぶつぶつと独り言を延々としたり、時には彼女に暴力を振るおうとすることもあった。
それでも彼女は定期的に電話をし、この家に足を運んだ。
次第に彼は彼女の言葉に耳を貸すようになり、ぽつりぽつりと彼女に向けてしゃべるようになった。
彼が引きこもって以来、初めてまともに口をきいた日、その家族が涙ぐみながら塚原に何度もお礼の言葉を繰り返していたことが思い出される。
彼はそのうち笑うようになった。その笑みはかつてよりも明るく、優しい雰囲気を帯びたものだった。
最近では、以前よりもよく喋るくらいにまでなった。一週間ほど前、彼は塚原に、「ありがとう」の一言を述べた。
不覚にもそれには塚原も目頭が熱くなるのを感じたものだった。
今日、彼はようやく外出することになった。
引きこもっている間、ぼさぼさの髪の毛は伸びていき、口のまわりや顎には多少見苦しいほどの髭が蓄えられていった。
彼は今日、まず美容院に出かけるのだ。
ようやく一歩を踏み出すのだ。
何度もこの家に通っているうちに、彼の家族と話す機会は何度もあった。彼の家族は皆一様に彼のことを心配し、彼の回復を願っていた。
彼の親しい友人も、何度かこの家に来ていたらしい。北野という、自称『無二の親友』もかなりの回数ここに足を運んでいて、何度かここで会うこともあった。
彼は孤独ではなかった。必要とされていた。
それが自分のことのように嬉しかった。
ドアが開く。
「じゃあ、行ってくる」
という彼の声と、それに対する家族の応答も聞こえた。
髭は剃られていたが、やっぱり髪の毛はぼさぼさだった。
「遅いよ」
塚原がちょっと怒ったように言う。
「ごめん」
市川昌明はそれに素直に謝った。
「それじゃ、行きますかぁ」
「おう」
苦悩から解放されることはなかった。今でも悩むことはたくさんある。
しかし、苦悩する機会を与えられたことを嬉しく思う。
市川昌明はまだしばらく生きていく。
(終)
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2008/08/01(Fri)23:23:52 公開 / Yosuke
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■作者からのメッセージ
なんとか書けました。
納得できないところがあっても、自分でうまく直せないのが苦しいです。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。