『計算機と凧』 ... ジャンル:リアル・現代 リアル・現代
作者:プラクライマ                

     あらすじ・作品紹介
私の家は貧しかった。それでも両親は精一杯私を愛し育ててくれた。たゆたう光のなかにぼんやりと思い出される幼い日の記憶。

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 子供の頃から電気が好きだった。将来はエジソンのようになりたいと思っていた。
 幼い頃、私はゴミ置き場からテレビなどを拾ってきては父に叱られていた。父は化学工場に勤めていたから、電子部品に有害な物質が使われることがあるのを知っていたのだろう。電気製品がどのような仕組みで動くのか不思議でしかたなかった。家にあった目覚まし時計や電卓を分解して叱られたこともある。
 小学三年生の頃、私は計算が苦手だった。そそかしいところがあって、いつも単純なミスでしくじった。じっと座ってなにかに集中するのも苦手だった。ちょうど自転車に乗れるようになり、世界が広がったばかりだ。算数ドリルなんか放っておいて、外で遊ぶ方が良かった。
 ある日、私は電卓を使って宿題を片付けようとした。しかし、母に見つかり叱られてしまう。そこで、私は計算機を作ることにした。自分が作ったものなら叱られないだろうと考えたのだ。
 まずは一桁の足し算から始めることにした。1から9までの足し算を全てノートに書き出した。そして全ての組み合わせを電気の配線で実現しようとした。配線で実現するというのは、1と1のスイッチがオンになったら、2の豆電球が光るように乾電池をつなぐことだ。これを全ての足し算について配線する。小学生らしいアイデアだと思う。
 当時の小遣いは月に二百円ぐらいだった。私はそれを全て計算機につぎ込んだ。記憶はあやふやだが、豆電球が二十円、リード線が一メートル五十円、リード線付きの豆電球ソケットが五十円、スイッチが七十円ぐらいしたように思う。当然、小遣いだけでは足りない。リード線はごみ捨て場から拾い集めた。スイッチは高いので自作した。カマボコの板、画鋲、ガスコンロの周りに立てるアルミの油ガードが材料だ。ゴミや自作したものを総動員して、やっと1+Xが計算できるようになった。1+1のスイッチを押すと、2の豆電球が点灯した。思わず「やったー」と叫んだ。とても興奮したのをおぼえている。きっと電卓もこのような仕組みで動いているに違いない。私は電卓の中を見たいという衝動を抑えられなくなった。そして、家にあった電卓を分解することにした。
 分解するといっても子供にとってはちょっとした作業だ。まず手当たり次第、目に付くネジを外していく。全て外したはずなのに電卓は開かなかった。カッターナイフをすき間に差し込んで無理矢理こじ開けようとした。するとカッターの刃が折れてしまった。困り果てた私は、庭にあったブロックの上に電卓を置き、上から石を落とした。完全に分解するまで何日か費やしたと思う。毎日、少しずつ電卓は壊れていった。そして、一カ所壊せば蓋が開くというところまでこぎつけた。ようやく計算機の秘密を知ることができる。私は石を振り下ろした。バキッという音がした。おそるおそる蓋を外すと、ごみ捨て場のテレビ同様、良くわからない部品が並んでいるだけだった。ひときわ大きくて目をひくのが、黒くて四角いプラスチックから足が何本も出ている部品である。もっと分かりやすいものを想像していたのでがっかりした。私は、ガラスの表示部分が割れ、ぼろぼろになった電卓の中身を父に見せた。
「お父ちゃん、これはなに?」
「…………」
「ねえ、おしえてよ」
「コンデンサだ」
「じゃあこれは」
「それもコンデンサの一種だよ」
 ずっと後になって知ったのだが、父はコンデンサ以外の部品を知らなかった。抵抗、コイル、トランジスタ、全てをコンデンサの一種だと教えられた。電気製品はコンデンサだけで作られている。小学生ながらコンデンサというのは凄いものだと感心した。
 私が目を輝かせている横で、父は基板を眺めながら、割れたガラスの表示部分を指で触った。突然、父の顔が真っ青になった。そして、タンスの引き出しを乱暴に開けた。
「無い! おい、かあちゃん。ここに入れておいた電卓は?」
 母が台所から出てきた。
「知りませんよ。大体、私は電卓なんか使いません」
「…………」
 父は怒りっぽい人だった。そして手を出すのも早かった。みるみるうちに真っ赤になり、次の瞬間、強烈な平手が繰り出された。私は部屋の隅に飛ばされた。父はさらに殴り続けた。何度も何度も目から火花が飛び出す。とばっちりを食うのが嫌だったのだろう。母はそっと台所へ下がった。やっと電卓を開けたのに、なんでこんな目に遭うのだろう。私は外へ放り出された。夜遅くなってから、母がこっそり引き入れてくれた。
 私の家は裕福ではなかった。電卓は、今なら百円ショップにも並んでいるが、当時は高価だった。父の電卓は相当古いものだった。わり算をすると数字がパラパラと表示され、一呼吸置いてから結果が表示された。LSIが使われていたから一九七〇年頃の製品だと思う。私が生まれた一九七二年に発売された「カシオミニ」が一万三千円ぐらいである。今で言うと数万円の価値だ。何故そんな高価なものが家にあったのかは良く分からない。母はそろばんを使って家計簿を付けていた。無理に電卓を購入する必要はなかったのである。時々、父が眺めていただけだったように思う。
 祖母から聞いたことがある。中卒で働き始めた父が最初の給料で買ったものは計算尺だった。成績の良い同級生が工業高校の電気科に進んだ。進学した同級生が持っていた道具をこっそり買ってきたのだ。祖母は、
「あの子は高校へ行きたかったんじゃろうなあ」と言った。

 私の祖父は、戦地から帰ると、すぐに亡くなった。祖母は生活保護を受けながら、父たち三人の男の子を育てた。夜遅くまでミシンの内職をしていたらしい。父は末っ子だった。父の兄たち、つまり私の叔父たちは子供の頃から相当苦労したようである。長男は中学卒業と同時に北海道の炭坑に就職した。次男はまだ幼い時に親戚に預けられた。父だけが祖母の元に残された。祖母は大変美しい人だった。子連れでも良いという縁談もあったが再婚しなかった。祖母は父を溺愛したらしい。
 父は中学を出るとすぐに化学工場に就職した。そして、働き始めて十年ほどした頃に結婚した。一年後に私が生まれる。生き抜くだけで大変だった時代があったのだと思う。そういう時代を、父を含めた多くの人たちが耐え抜いてきたのだ。

 さて、次は2+Xだ。ここで問題が起きた。2+2を配線すると、4だけでなく3の豆電球も点灯した。電流が想定外のルートで回り込むのが原因だ。どうすればいいのだろう。図書室にある本を読んでも答えはなかった。
 私は父に相談することにした。まず動いているところを見せた。1と4のスイッチを押すと5の豆電球が点灯する。父は驚いた。そして自らスイッチを押して試した。すぐに、1と1と4のスイッチを押すと2と5の豆電球が点灯すると言った。私は、自分のやったことを良く理解していたので、
「1+1と1+4を同時に計算しているんだよ」と答えた。
 父はすっかり感心した。
「でもね、2+2を配線して、スイッチを押したら3の電球も点いちゃうんだ。どうすればいいのかな?」
 父は考え込んだ。そしていろいろな配線を試した。しかし、配線をどんなに工夫しても上手くいかなかった。
「ねえ、おしえてよ」
 私はただ無邪気に父を信じていたのである。
「コンデンサだ」
 父はそう言って立ち上がると、私のがらくた箱をひっくり返した。そして、いろいろな部品を取り出しては、回路に挿入したり、置き換えたりした。何の部品を取り出したのかは良く憶えていない。前にも書いたとおり、父にとっては、どんな部品でもコンデンサなのだ。夜遅くまで、父はあれこれと試していたが、解決できないようだった。そのうち、私は眠ってしまった。
 翌朝、私が起き出すと、父は逃げるようにさっさと出勤した。私の机の上には、ぼろぼろだったリード線が真新しくなった計算機が置かれていた。4の豆電球には、並列に大きな円筒形の部品がつながれていた。今から思い返してみると、容量の大きい電解コンデンサだったと思う。早速、2+2のスイッチを押してみた。やはり、4と3の豆電球が点灯する。私は落胆した。
 しかし、スイッチから手を離すと面白いことが起こった。二つの豆電球がじわっと消えたのだ。コンデンサは電気を蓄える部品だ。だから、スイッチを切ってもわずかな時間だけ電流が流れる。息子が光らせたいと言った4の豆電球。それが少しでも輝くようにと願って、コンデンサをつないだのだろう。父は、持っている知識を総動員して、なんとか息子を喜ばせようとしたのだ。それでも上手くいかなかった。リード線が新しくなっていたのは、せめて、外見だけでも良くしてやろうと考えたのだと思う。
 私は、それきり計算機をあきらめてしまった。

 翌年の正月、私は生まれて初めてお年玉をもらった。それまでは、親戚からもらっても、親が代わりに受け取っていたように思う。その年、叔父や叔母からもらったお年玉は二千円以上になった。一度にそんな大金を手にしたのも初めてのことだった。
 早速、私は近所のおもちゃ屋に行った。当時は電子ブロックというのが売られていた。私はガラスケースに飾られたそれを垂涎の思いで眺めた。しかし、一万円近くする電子ブロックには、どんなに頑張っても手が届かない。私は代わりにFMワイヤレスマイクの電子工作キットを買った。当時は、おもちゃ屋でそのような物が売られていたのである。
 私は家に帰りキットを両親に見せた。父は喜んでいるようだった。
「今度一緒に作ろう」と言ってくれた。
 母は不機嫌だった。
「本とか、ノートとか、鉛筆とか、他に買うものがあるでしょ」と言った。
 初めてまとまったお金を手にした息子が、訳の分からないものに無駄遣いしてしまったと思ったのかもしれない。
 キットのパッケージには新品の部品が宝石のように並べられていた。ゴミ捨て場のテレビから取り出した部品と違い、きれいで足が長いのが嬉しかった。私は取り出して、部品を眺めた。説明書は全く理解できなかった。父はそれをタンスの引き出しに大切にしまった。私が壊した電卓が置かれていた場所である。
 数日が過ぎた。一緒に作ろうと言ってはくれたものの、父はなかなかFMワイヤレスマイクを組み立てようとはしなかった。私がせがむと、
「半田ごてがないと作れない」と言った。
 ある日、いつものように、私はキットの部品を眺めていた。そして、部品を固定する台紙に戻そうとした時、大変な間違いを犯したことに気付いた。キットにはトランジスタという部品が二つ付いていた。そして台紙には、それぞれに「TR1」、「TR2」という記号が書かれていた。二つを同時に台紙から外してしまったので、どちらが「TR1」、「TR2」なのか分からなくなったのだ。二つが同じものなら問題はない。しかし、刻印された型名は明らかに違っていた。他の部品にも記号が与えられていた。例えば、抵抗には「R1」、「R2」といった具合だ。ただ、抵抗の場合は、「R1」は何キロオームと説明書に書かれていた。トランジスタだけは、型名と記号の対応は書かれていなかった。
 私は父に相談した。父はいつもの癇癪を爆発させ、
「もう組み立てることはできないからな」と言った。
 私は泣き出してしまった。殴られるよりも痛かったと思う。いつ作ってくれるのだろう。ワイヤレスマイクで話した声が、FMラジオから聞こえる日を、私は夢に見ていたのである。

 当時、私が住んでいた社宅には、課長社宅が併設されていた。平社員のものよりかなり広く作られており、庭だけで平社員社宅ぐらいの大きさがあった。私は課長社宅に住んでいたYと仲が良かった。子供だったので親の役職の違いなどは頓着しなかった。Yの父親はT大学の工学部を出ていた。昔の高等工業学校の流れをくむ伝統校だ。父よりも二歳ぐらい若かったが、すでに課長になっていた。遊びに行ってもよく面倒を見てくれたことを覚えている。
 ある日、私は、記号の対応が分からなくなったキットをYの家に持って行った。私は、
「半田ごてがないから作れないんだ」と言った。
「うちにあるよ」
 そう言うと、Yは彼の父親のところへキットを持っていった。
「ねえ、パパ。こうじがこれを作って欲しいんだって」
「おう、そうか。じゃあ、こうじくん一緒に作ろうか」
 私は赤面した。トランジスタのことを話すのはなんだか恥ずかしいと思ったので、Yにも言ってなかったのだ。私は、おそるおそる、入れ違えになってしまったことを話した。Yさんは、
「多分大丈夫だよ」と言った。
 Yさんは回路図を眺めた。
「学生の頃はほとんど真空管だったからね。トランジスタはあまり知らないんだ。うーん、両方ともNPNトランジスタか。これでは区別できないね」
 説明書には製造元の住所が書かれていた、Yさんはそれを持って玄関の方へ行った。そして電話をかけた。電話番号を調べているようだ。
「04……はい、ありがとうございます」
 Yさんが戻ってきた。
「この会社の電話番号が分かったよ。ここに聞くと教えてもらえるかもしれないね。その前に、他に聞くことがないか見ておこう」
 Yさんは、部品が全て揃っているかを確認した。そして、もう一度説明書に目を通した。
「大丈夫だね。じゃあ電話をかけてくるよ」
 Yさんは、再び電話の方へ向かった。少しずつ、しかし確実に物事が進んでいく様子に、私は興奮した。
 Yさんが戻ってきた。どうやらトランジスタの対応は分かったようだ。Yさんは基板に部品をひとつひとつ挿していった。半田ごての先から白い煙が出て変な匂いが広がる。私は初めて見る半田付けを、身を乗り出すようにして眺めた。Yさんは、
「熱いから。手を出しちゃ駄目だよ」と言った。
 三十分もしないうちにワイヤレスマイクは完成した。Yさんはステレオセットが置かれた部屋へマイクを持っていった。そして、FMラジオのスイッチを入れて、チューニングのつまみを回した。シャーという雑音がしていたスピーカーから、突然「キーン」という音が聞こえた。Yさんはステレオのボリュームを落とした。すると、スピーカから、
「アー、アー」と声が聞こえるようになった。
 Yさんは小さなマイナスドライバで、基板のコイル部品を回そうとした。突然、スピーカから雑音が聞こえた。
「そうか、鉄だと駄目なんだな」
 Yさんがドライバを離すと、再びスピーカから声が聞こえるようになった。
「ここを回すと周波数が変わるんだが、鉄のドライバじゃ調整できない。でも、無事完成したようだね」
 そう言うと、Yさんは蓋をしめて、マッチ箱ぐらいの大きさのそれを渡してくれた。私は飛び上がりそうなほど嬉しかった。トランジスタの対応が分からなくなった時には目の前が真っ暗になるような気がした。それが今、完成して自分の手の中にあるのだ。Yは、得意そうに、
「パパは凄いだろう」と言った。
 私は小さな顔で何度も頷いた。父も喜んでくれるだろうと思った。

 私はワイヤレスマイクを持って家に帰った。一刻も早く父にこれを見せたかったのだ。
「Yさんが作ってくれたよ」
「ほう」
 父は興味津々だった。私は押し入れからラジオを出した。大判本ぐらいの大きさで、持ち手があるタイプだ。母が紡績工場の寮にいた時に使っていたものらしい。私の家にはYの家にあったようなステレオセットはなかった。当時、私の家にあった音響機器はテレビとラジオだけだ。小学校六年生になった頃、はじめてラジカセが家にやって来た。使い古しでぼろぼろのものを、父が同僚から譲ってもらったのだ。
 さて、私はFMラジオを点けてもらい、ワイヤレスマイクのスイッチを入れた。ラジオのチューニングを合わせると「キーン」という音がした。父が音量を小さくすると。スピーカから私の声が聞こえた。父も母も大変な喜びようだった。私は意味の分からないことを言ったり、音楽の授業で習ったのを歌ったりした。母の機嫌が良いのも嬉しかった。キットを買った時の反応が気になっていたからだ。
 家族三人が小さなラジオを囲んだ。父は母に無理矢理マイクを渡した。母は嫌がっていたが、何度も請われ、仕方なく歌い始めた。
「あなたのリードで島田もゆれる。チーク・ダンスのなやましさ。みだれる裾もはずかしうれし。芸者ワルツは思いでワルツ」
 母は歌謡曲が好きだった。
「Yさんはなかなか立派な人だ」父はしんみりと言った。私は、
「お父ちゃんは組み立てることができなかったね」と言った。
 その瞬間、父の顔色が変わった。
「トランジスタが分からなくても、大丈夫だった……」
 私が言い終わらないうちに、父の平手が飛んできた。目の前に火花が散った。私は飛ばされて、障子に身体をぶつけた。一体何が起こったのだろう。ついさっきまで、父も母もあんなに喜んでいたのを台無しにしてしまったのが辛かった。畳の上にうずくまって泣いている私を、父はさらに殴ろうとした。すると、怯えて見ていた母が割って入って、
「なにするのよ」と叫んだ。父は母の頬も打った。
 その後のことは良く憶えていない。怒った母が、部屋中のものを、手当たり次第投げ付けたので、家の中がめちゃめちゃになったのだ。私は家の外へ逃げ出した。騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まってきた。
 最後は、隣に住んでいた年配の夫婦が父をなだめてくれてた。あれほど怒った父を見たのは初めてだった。しかし、母の怒りも相当なものだった。騒ぎが落ち着くと、母は私に上着を着せた。そして、自転車の後ろに私を乗せて家を出た。
 その夜は、母の友人のところで泊まった。久しぶりに母が寝床に私を入れてくれた。私は父がどうして怒ったのか尋ねた。母は何も言わずに私をそっと抱きしめた。幼児のころの微かな記憶がよみがえり、不思議な心地よさを感じた。私は恥ずかしくなり身をよじった。翌日、母は私を連れて家に戻った。

 一週間ほどしたころ、父が大きな竹を持って帰ってきた。工場の門松に使っていたものだそうだ。二月の終わりに町内会主催の凧揚げ大会がある。父はそれに参加しようと言った。早速、父は竹を縦に割って、幅が一センチぐらいの棒を何本も作った。そしてそれを私に削らせた。その日から、学校から帰ると毎日のように竹を削った。ただ削れば良いというものではない。できるだけ均等な厚さにしなければいけない。そうしないと、バランスが悪い凧になるのだ。竹を削るのは骨の折れる作業だった。母も家事の合間を見て手伝ってくれた。竹ひごを買ってくれば簡便だが、長くて真っ直ぐなものは高価だった。
 削り上がると、父はそれをろうそくで炙り、形を整えた。曲がっているところがあれば真っ直ぐにする。二週間ほどでようやく骨組みが完成した。父はそれに障子紙を貼り、たこ糸をつけた。大きな長方形の角凧だったと思う。私は嬉しくなり、それを抱えて走り回った。
 週末、近くの公園で飛ばしてみることにした。父と私が公園に行くと、Yが父親と一緒に来ていた。Yも凧揚げ大会に出るようだ。Yは凧を私に見せた。きれいな模様が描かれた角凧だった。今日のような青空に良く映えるだろう。なんだか、自分たちの真っ白な凧がみずぼらしく思えた。
 Yさんが両手に持った凧を差し上げた。十メートほど離れたところで、Yが糸巻きを構えた。Yさんがタイミングを見計らい合図すると、Yは真っ直ぐ走った。鮮やかな模様の凧がすーっと登っていく。父が駆け寄って糸を繰り出すのを手伝った。凧は、みるみるうちに高く登り安定飛行に入った。あとはゆっくり糸を繰り出すだけである。父はYさんに揚げ糸を渡した。
 今度は私たちの番だ。私が糸巻きを構えた。父の合図で走りだすと、凧は大きく右に回転して地面に激突した。今度が父が糸巻きを持った。Yさんが凧を差し上げてくれたが、今度も回転して地面に落ちた。何度やっても同じだった。手削りの竹なので左右のバランスが取れていなかったのだろう。
「尻尾をつけてみたらどうでしょうか」
 そう言うと、Yさんは修理用に持ってきていた和紙を細長く切った。そして、私たちの凧につけてくれた。今度は真っ直ぐ上がった。父は揚げ糸を器用に手繰り、高度を稼いでいった。しかし、かなり上空にあっても時々急旋回して落ちそうになった。なによりも、左右非対称の尻尾が付いているのが不格好だ。今から思うと骨組みが重すぎるのが悪かったのだと思う。凧揚げ大会はまず高さを競う。それにデザイン点が加えられて総合得点が決まる。どう考えても、私たちの凧はYのより劣っていた。
 私たちは公園を後にした。家に入ると父は凧を放り出してしまった。心配そうに見守る母に、私は公園でYたちに会ったことを話した。母は、
「バランスを取るために少し骨を削ったらいいんじゃないの」と言った。
 早速、私は削り始めた。すると、父は、私から凧をひったくり、ビリビリと破った。そして力任せに二つ折りにしてしまった。母は、「仕方ないわね」といった顔で台所に引き上げた。公園にいた時も父はずっと無言だった。悔しかったのだろう。父は凧揚げ大会で優勝したかったのだと思う。

 数日後、学校から帰ると、母が凧をくれた。図書館で借りた本を見て作ったらしい。壊した角凧から使える竹を取って作ったそうだ。ダイヤ型のもので、十字に組み合わせた二本の竹に、スーパの袋を切って貼り付けてあった。早速上げてみると、右や左に回転して安定しなかった。私は母に頼んで尻尾を付けてもらった。今度は真っ直ぐ上がった。しかし、引くのをやめるとすぐに落ちてしまう。凧が小さかったので、普通の風では自重を支えるほどの揚力を得られなかったのだろう。
 父が仕事から帰ってきた。私は母の凧を見せた。
「こんな小さいのじゃだめだよ」
 父は本を開いた。
「ほら、こうやって連凧にするんだよ」
 本には、同じダイヤ型の凧を五つぐらい連ねた絵が載っていた。
「たくさんあったらきれいでしょうね」
 当時、私の住んでいた所では、ゲイラカイトと呼ばれる三角形の凧ばかりが飛んでいた。角凧や連凧を見ることはほとんどなかった。
「連凧か。これなら勝てるかもしれない。でも今から竹を削るのはなあ」
「買ってきたらどう。いざとなったら貯金をおろすから大丈夫よ」
 母はにっこりと笑った。
「買ってくる」
 父が立ち上がった。母がお金を渡しているのが見えた。しばらくすると、父が大量に竹ひごを抱えて帰ってきた。それから、家族三人の凧作りが始まった。骨組みが簡単なので角凧よりはずっと楽だった。しかし数が多い。大変なのは凧の帆を切る作業だ。母は型紙を作り、布を裁つ時の要領で切り取っていった。材料には、白い大きなゴミ袋を使った。私はほとんど見ているだけだった。父が横の骨を絞る時だけ手伝った。凧揚げ大会までに二十枚の凧を作った。

 大会当日、私たちは連凧を持って会場を訪れた。母もよそ行きの格好で付いてきた。良く晴れていて、ちょうど良い具合に風が吹いていた。すでにたくさんの凧が、色とりどりに上空を飛んでいた。Yが私を見て駆け付けてきた。私が連凧を見せるとYは驚いた。私は得意になった。
 連凧は揚げるのが大変だった。Yさんや周りにいた人が手伝ってくれたと思う。三人ぐらいの人に持ってもらった。かけ声を合図に、父が走って引っ張ると、ふわりと浮き上がり、竜のようにうねりながら登っていった。驚きの声が上がった。白いビニールだが、結構目立っていたと思う。安定したところで糸を持たせてもらうと、私のような子供では保持できないほど引く力が強かった。角凧の時より太くて丈夫な揚げ糸が使われていた。Yの凧も青空に映えていた。私たちの連凧とYの角凧が群を抜いて高度をかせいでいる。
 始まってから三十分ほどした頃、騒ぎが起こった。揚げ糸を切られたという声が聞こえてきた。
「俺の凧は喧嘩凧だ。近寄る奴が悪いわ」
 ひときわ大きな声を上げている男がいた。町内で職人をやっているKだ。背中に彫り物を入れていて、なかなか威勢が良かった。気のいい人物なのだが、少し乱暴なところもあった。祭りや凧揚げ大会といった、地域で行われる催しでは熱が入るようだ。この凧揚げ大会にも、大きな角凧にみごとな絵を描いて参加していた。
 Kの近くで揚げていた人が、Kの凧に糸が絡まって切れたらしい。騒ぎはそれだけでは収まらなかった。また切られたという人が出てきたのである。どうも、Kの方から近寄っていき、糸を絡ませているようだ。良く揚がり、目立つ凧が標的になっていた。Kが近づいてくると揚げ糸を巻き取る参加者もいた。
「あの野郎」
 父の顔が赤くなってきた。そのうちKの凧が私たちの連凧に近づいてきた。Kは糸を絡ませようとした。
「てめえ、何しやがる」
 父は本気で怒り出した。お互い揚げ糸を持っていなければ、つかみ合いになっていたかも知れない。父は巧みに糸を緩めたり引いたりして、Kの凧を避けた。
 町内会長をしている、お寺の住職さんがやって来た。
「おい、Kよ、子供じみたことはやめろ。これは喧嘩凧じゃないぞ」
「先生、弱い凧が一番になるのはおかしいだろ」
 住職さんは、若い頃小学校の先生をしていたらしい。Kがあまりに強く言うので、住職さんは、
「じゃあ、喧嘩凧をしたい人同士でやればいい。わしが特別に賞を出すよ。その代わり、それ以外の人の邪魔をするな。分かったな」と言った。
 Kは納得したようだが、喧嘩凧をしたいという人は一人もいなかった。すると、Kは、再び私たちの連凧に近づいてきて、糸をからめようとした。父は上手くかわしていたが、Kが揚げ糸を思いっきり引っ張ると、凧がぐいっと近づいてきて絡まった。そして、連凧の真ん中あたりを切られた。先の方の十枚がふわりと浮いて、飛んでいってしまった。
「これを持ってろ!」父は真っ赤になり、大声で叫んだ。
 母と私は揚げ糸を受け取った。父はKに掴みかかった。Yさんが駆け付けてきて、父をおさえた。住職さんが騒ぎを聞きつけてやって来た。
「いいかげんにせい。なにをしとるんじゃ」
 Kはにやにやと笑った。
 Yさんになだめられて、父はなんとか落ち着きを取り戻したようだ。私と母のところに戻ってくると、
「ガラスの粉を仕込んでやがる」と言った。
 喧嘩凧ではお互いに揚げ糸を絡ませて摩擦により切断する。切られる糸は一点を擦られるので切れてしまうのだ。また、糸の表面にガラスの粉末を付着させておくと、切れ味が良くなる。Kの糸にはガラスの粉が仕込まれているようだ。
 父が喧嘩凧をすると言い出した。
「無視したらいいのよ。調子づかせるだけよ」と母は言った。
「いいや、やる」
 そう言うと、父は住職さんのところへ行った。私と母は揚げ糸を巻き取り始めた。住職さんが喧嘩凧をやることを告げると、大変な盛り上がりになった。みんな一斉に凧を下ろし始めた。
 Yさんが角凧を持ってきてくれた。
「これを使ってください。連凧じゃやりにくいでしょう」
「ありがとうございます」
 父は連凧に使っていた太くて丈夫な揚げ糸を、Yさんの角凧に付け替えた。そして、ポケットから釣り用の大きな噛み潰し錘を取り出した。連凧のウエイト用に持ってきていたものだ。父は錘を糸につけると力強く噛んだ。
 Kがニヤニヤしながら近づいてきた。そして、おどけたように、
「つぶしてやるわ」と言った。
 父は凄い形相でKを睨み付けた。
「あとで吠え面をかくなよ」
「なんだと、この野郎」
 Kは父の襟元をつかんだ。
「やめんか。ばかもの」
 住職さんが駆け寄ってきて止めた。

 勝負が始まった。まずは凧を揚げるところからだ。父はYさんに手伝ってもらって揚げた。凧がすーっと登っていく。Kの凧は一回り大きいので動きは緩慢だった。十分な高さまで登ったところで声がかかった。
「それでは、始め」
 住職さんが言い終わらないうちにKの攻撃が始まった。糸を緩めたり引いたりしながら、父の凧に迫ってくる。父は走りながらそれを避けた。Kの糸にはガラスの粉が仕込まれている。うかつに接触できない。大きな公園だったが、そのうち、父の凧が公園の端まで追い詰められた。
「もらった」
 Kは叫びながら、揚げ糸をぐいっと引いた。Kの凧が急上昇し迫ってきた。その瞬間、父は大きく揚げ糸を繰り出した。父の凧がフワッと浮き上がり、揚げ糸が大きくたわんだ。この動作をさせるために噛み潰し錘を着けていたのだ。そのたわんだ糸の上にKの凧が飛び込んだ。父は、勢いよく走って糸を引いた。たわんでいた糸がぴーんと張り、Kの揚げ糸を擦った。何本も糸を切っていたので、もともと糸が弱っていたのだろう。Kの凧が空中にふわりと舞って飛んでいった。会場から大きな拍手と歓声があがった。

 今でもあの時のことを思い出すと、興奮で手のひらが汗ばんでくる。
 凧揚げ大会の帰りに、住職さんにもらった賞金でごちそうを食べた。母も誇らしげだった。
 帰り道、私たちは手をつないで歩いた。
「お父ちゃん、凧揚げ一番だったね」
 父は照れくさそうに笑った。
「糸切られなかったね」
「切られてたまるか」
 父は力強く答えた。あの時作った計算機も凧も、今は残っていない。

 (了)

2008/06/12(Thu)19:31:53 公開 / プラクライマ
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