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『翠を望む場所』 ... ジャンル:ファンタジー アクション
作者:レイン
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あらすじ・作品紹介
最近、父親と祖父の不審行動に少しだけ頭を悩ませていた一介の高校生、雛鳥蒼矢。ある日彼は明日に迫った期末テストに向けて徹夜で勉強するためにコンビニへ夜食を買いに行くが……その道すがら、何のフラグもなく『それ』は起こった。ボーイ・ミーツ・ガールから始まるハイテンポ、本格ファンタジーバトルアクション!!
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◆【序章 『自分で行動する』】◆
凍りついた湖面が割れるように滑らかな音で窓ガラスは割れた。
辺りにダイヤモンドダストのごとく破片は散布し、ぼんやりと赤く映る絨毯の上にボコボコと鈍い音を立てて落ちるのだった。
「いたぞ、こっちの廊下だ!」
体格の良い、黒服の男が叫び、仲間を引き連れて駆けつけてきた。
破片を踏むと、窓ガラスを派手に割って侵入したその少女はその男達数人に向かって強く、爛々とした雰囲気で言い放つ。
「出口はどこだ? この広い屋敷の庭、どこか一つくらい外と繋がっている場所はあるだろう?」
少女は黒服達に比べれば小柄で、せいぜい年は十六、七ほど。それにも関わらず大の大人達は臆していた。明らかに恐怖していた。
それは正しい判断だった。少女を知る人間ならば、この反応がちょうど良いのである。
「答えろ」
月明かりのみに照らされた少女はその美しい銀の髪を肩までなびかせ歩を進めた。徐々に、その間合いを突き詰めていく。
今は夜で屋敷全体は沈んでおり、光も月からのものしか存在しない。極端な視界の悪さもあって数の利を持つ黒服達が余計に怯えるの様をゆっくりと堪能できた。
少女は自分でそこまで残酷な性格ではないと思っている。こうして男達のある返答を待っている心の余裕もあるのだからそれは間違いでないだろうと自分でも今この瞬間感じていた。
だが、時には急ぎの用というものがある。
少女は段々じれったくなってきて、もう言葉で脅しただけではだめだと判断した。
「頼む、私達は、君をどうこうしたりはしない。ただ純粋に研究をしたいだけなんだ。そうすればナンバーXIIIも早く目覚める手立てが見つかるはず――」
「黙れ!」
男達の言葉を続けさせない勢いで少女は大声を張り上げた。その綺麗な翠の眼は一心に男達を貫いていた。
「私がどれだけ待ったと思う? 世界にとって特別な存在である私は彼が目覚めるまで孤独なんだ。もう、お前達に頼ることはやめた。自分で行動する」
黒服達はこれでもかというほど肩の力を入れて身じろぎをするが、それでも使命感に燃えた眼で、
「何を、何をどうしようと?」
「君が行ったところで、特別状況は変わりはしない」
「それにもう後少しなんだ。本当に少しで、ナンバーXIIIは覚醒する」
口々に怖がりながらもなんとか説得してくる。
少女はその様子がなんとも気に入らなかった。
「……なんだ、やっぱりダメだ」
少女は暗闇の中、左手を九十度に曲げたまま上げ、何かの武道のような独特の構えを取った。右腕は前に出し、足の形は腕の向きとは真逆だった。
「力づくでも、出口を吐いてもらう」
言葉を言い終えると同時に少女は人にあらざるスピードで駆け出した。腰を極度に低くし、そのままの構えで。
少女が通った軌跡には透き通った銀色の、鳥の羽と認識できるものが点々と落ちていた。
◆【第一章 『彼女はナンバーVIIIではなく銀翠だ』】◆
「言っておくが彼女はナンバーVIIIではなく銀翠だ。決して我々の道具ではない」
頭は白髪で覆われているのに、顎鬚だけは新鮮な黒だった。その細かい顎鬚をジリジリと掻きながら雛鳥金次は怒を交えた声で言い放った。
受話器には力が篭り、本気の握力を解放すれば粉々に破壊できてしまう勢いである。
『申し訳ありません部長、銀翠の向かった先は恐らく日本の雲越市、つまりナン――雛鳥蒼矢さんの所だと思われます』
受話器越しの相手は焦った様子で英語を高速で操っている。
金次はただ上司に怒られたからなだけで、実際は心の底から謝っているわけではないということが手に取るように分かっていた。
こういうことは、日常茶飯事だということも同時に思い出す。後何回部下を叱るのだろうと気を落とすこともしばしばだった。
「そうか、もうそれだけ聞ければ充分だ」
と、溜息をついて、携帯電話の通話を切って折り畳み、パジャマのポケットに偲ばせるのだった。
「ふぅ」
そして、もう一度溜息をつく。
右手をかけた壁は無数の小さな穴が開けられていて、完全防音素材となっていた。その壁が構成する空間は比較的狭く、家具はオフィスにあるような金属製の机と椅子、本棚が一つだけしか置かれていない。
内装も全体的に銀色を基調としているため、益々オフィスのそれである。
ありふれたいつもの風景を見て、金次は不意にゆっくりと動き始めた。年齢六十台を感じさせる貫禄のある歩みは、明らかに行き止まりの方へ向かっている。
それ以前に、この部屋に扉も窓も、出口となるような場所は存在しなかった。
そうであるにも関わらずうんともすんとも言葉をなしに、金次は両手を穴だらけの壁に触れようとした。
すると、
壁が歪んで波打ち、トイレの排水音のようなものが響いて、波が発生する中心から人の右手がぬるりと飛び出してきた。
波は少し離れた――ちょうど成人男性の肩幅ぐらいの――位置にもう一箇所発生している。同様に中心からは左手が出現した。
金次はいつものことだとゆっくりと事を促す。約一秒後には腕は壁から抜け、肩が現れ、顔が、下半身が、最終的には人の形を作っていた。
「父さん、またこの部屋に篭って……また連絡?」
金次と向き合うのは黒いスーツに身を包む我が息子、紅輝だった。短く刈り上げた髪の型と色を除けば金次を若くしたバージョン、という表現がピッタリくる。
「そうだ。ロシアの《施設》で銀翠がガードマンを半殺しにして結界の出口を聞き出し、逃走したという情報が入った」
話を聞くと紅輝は一瞬目を大きく見開き、少し考える素振りをしてから、
「遂にそうなってしまったか」
黙想しながらそう言った。
「向かう先はやはり」
「ここの確率が高いと《施設》のヤツは言っていたな」
「蒼矢に会いに来る、ということか」
紅輝は辛辣な顔を見せていた。
「しかし蒼矢の覚醒率はまだ八十を越えていない。銀翠でも見つけることは不可能だろうな……かわいそうだ」
ここが金次の悩むところだった。もし銀翠が目的を達成できなかったらどんなに落ち込んで《施設》に帰ってくるだろうか。考えただけで胸が痛くなる。
「つまり銀翠はこちらが何もしなくても自分から帰ってくるということになるのか」
「そういうことだ。だがな、《施設》の所長は銀翠が何かやらかすかもしれないから俺達に捜索依頼をしてきやがった。今日辺り人を向かわせると言っていたな」
「今日って、誰だよソイツは」
「知らん。時間も何も未定とのことだ」
そうなのか、と紅輝が呟いてからそれっきり会話はなくなった。
話すことがなくなったし、何より金次はこれ以上話を続けたくなかった。テレビでも見て、嫌なことを全て忘れたい気分だった。
少し感傷的になっているとふと習慣的に腕時計を見た。針はちょうど七時を差している。
「もう蒼矢が学校に行く時間だな」
「仕方ない、起こしに行くか」
親子二人は何もない壁に隣り合いながら両手をつけた。紅輝が現れた時と同じように二人の手は壁の波打ちと共に吸い込まれていく。
体を全て壁に溶け込ませると二人は柔らかい絨毯を靴下で踏んでいた。
小さな窓の手前に置かれた消臭剤と詰まれたトイレットペーパー。狭い部屋の中心にあるのは便器だった。
いつの間にか金次と紅輝は仕事部屋のような場所からトイレへ移動していた。
「……いつも思うが、あの部屋の出入り口をトイレに作るんじゃなかったな。いつも転びそうになるよ」
金次はここで話す言語を英語から日本語へ入れ替える。途端に、笑顔を取り戻した。やはり自分達の言語を自由に話せるということは喜ばしいことなのだ。
「その通り」
息子紅輝も日本語に変えて父親の顔を一望する。
「蒼矢のヤツ、また寝坊でもしてるんだろ」
金次はクスクスと小笑いしながらトイレのドアを開ける。
今日は用事が入るまでゆっくりと休憩を楽しもうと心に決めたのだった。
● ●
雛鳥蒼矢はある時パッチリと目が覚めた。
いつもは寝坊して父親に起こされるというのが典型パターンだったが、今日はなぜだか蒼矢の前では無意味と化してはいるが目覚まし時計さえ鳴っていないのに起床を成功させたのだった。
珍しいことだが、決して不自然なことではない。人間何も起こっていないのにふと目が覚める時もあるし、蒼矢だってそういう体験はこれで二、三回目である。
「ふあぁ……七時、ちょっと前……早いな」
目覚まし時計は七時ちょうどにセットしたはず。この目覚まし時計は五分前からベルが鳴り始めるのでもうとっくに目覚まし音は鳴り響いているはずだった。
どうしたものかと思ったが、よく見ると上部にある大きなスイッチをオン状態にするのを忘れていた。これがオフの状態であるとセットされた時間が来ても音は鳴らない。
蒼矢は自分のマヌケさを痛感したところで溜息をつき、ヨロヨロと布団をめくってベッドを降りた。
まず、一日の始まりはトイレからである。十六年間こうして生きてきたわけだが物心ついた時から起床時の排泄を怠ったことは一度もないように思える。
ダラダラと六畳半の部屋を出て、廊下に差し掛かった。
「……なんとまぁ、綺麗なことで」
フローリングは見事にワックスをかけた直後のようにツルツルで、天井の蛍光灯やら豆電球の光を反射している。
これは蒼矢の父、雛鳥紅輝の仕業だった。
蒼矢は生まれて間もない頃、母親を交通事故で亡くしているため家は父子家庭となっている。当然のごとく残された家族は家事がうまくなってしまい、それが過ぎると潔癖症になるらしい。
蒼矢も料理を作るが、その際も栄養に拘るのはいいとして見た目にまで重きを置いてしまうことも今となっては珍しいことではない。
また、定年退職したてのほやほやである祖父も居候しているのでその影響もあるのかもしれなかった。
(今晩のおかずは何にするかな。いつものことながら、考えんのめんどくせー)
ボーッとそんなことを考えながら力なく歩き出し、トイレに向かった。自室を出てすぐそこにあるので到着時間はおよそ五秒。
その道すがら、ドアノブに手をかけようとした瞬間に、
「その通り」
通りの良い男声が聞こえてきた。蒼矢はすぐに父紅輝のものだと分かった。
雛鳥家は代々声の通りが良い者が多く、蒼矢も例外ではない。紅輝は家庭を持つ身でありながら新聞記者の仕事を捨て、声優になりたいと半ば本気で言っていた時には蒼矢も本気で驚いた。
「蒼矢のヤツ、また寝坊でもしてるんだろ」
今度は別の声が耳に入った。老年を感じさせるその声の主はこの家に雛鳥金次以外の誰でもない。
「!?」
蒼矢は眠気が吹っ飛ぶほど驚嘆してから急いで耳をドアに押し付けた。
最初はただ父親の独り言だと笑い飛ばしていたが、更に祖父までトイレの中にいるとは蒼矢にとって一大事である。
次の言葉を今か今かと待ち焦がれること約一秒、無残にもドアは開け放たれ蒼矢は床に倒れることとなる。
昔から気になっていたのだが、父親は時折もの凄い力の入れ方をしてくる場合がある。まるで自衛隊訓練の経験者のように。
「そ、蒼矢!?」
父親は授業中に携帯ゲームをやっていたところを先生に発見された生徒のような顔で蒼矢を見下ろしてくる。
その後ろには全く同じ表情を浮かべた祖父の姿があった。
「いやあ、あはははは」
紅輝は笑って頭を掻き、金次もそれに倣う。
まったくこんな不自然な状況でよくも笑っていられるものだ。父親と祖父が一緒にトイレの個室に入っていただなんて、どこでそんな話を聞いたことがあるか。
この対応には少し、カチンときた。
「何やってるの、二人して、トイレで」
蒼矢は崖っぷちに追い詰めているつもりだった。だが、紅輝は一発目のヘラヘラ笑いをやめて妙に真剣な顔を作っていた。
「父さんとじいちゃんがトイレで何をしていたか……知りたいか?」
その真面目な顔で、しかもクールに決めているつもりであろう声でこんな質問をしてくる。
いつものかわされ方だった。もう、しつこく追求する気も起きない。
「知りたくない」
「そうか。ところで、今日は早いな」
「別に」
蒼矢は紅輝が差し出す手を無視して立ち上がり、尻を軽く叩いた。
「さて、朝食当番の父さんは腕を振るうかな」
紅輝は苦笑いをした後鼻歌混じりに言うのだった。スーツ姿でそんなことを言われても気が引けるが、これも毎度のことである。
金次は蒼矢のことをそっちのけで歩き始め、すぐ近くの階段を降りて一階へ向かっていた。紅輝も意気揚々とそれに続いた。
(アイツら……なんなんだよいつもいつも)
蒼矢は物心ついた時から思っている。この家には何か秘密がある、と。
一番古い記憶で七歳くらいの時、さっきのように父親と祖父が二階のトイレに一緒に入っていたのを発見したことがある。後に同じようなことが今日のものを含めて三回ほどあった。
また、家に帰ると突然紅輝と金次がいるはずなのに人の気配が全く感じられない時がある。余程鈍くない限り家に人がいるいないか、はっきりとではないが感覚的に分かるはずだろう。
連絡なしに黙ってでかけたのだろうと思ってリビングに行けば二人は悠々とテレビを見ていたりと、何度驚かされたことか分からない。
二人一緒にトイレに入っていたり、いきなり家から気配が消えたり、とにかく二人と同じ屋根の下で暮らす人間だからこそ言えることかもしれないが、蒼矢は不審極まりないと思っていた。
もしかしたら家に隠し部屋があるのかもしれない。蒼矢は本気でそう思っている。
「あっそうだ、俺近いうちにじいちゃんと仕事で海外行って、家しばらく空けるかもしれないから、よろしくな」
蒼矢が階段を降りている最中に紅輝は叫んだ。
仕事で海外へ行くというのにこんな軽く連絡をすませてしまうのはこれも毎度のことだからである。
紅輝と金次は年に三、四回も海外へ行くことがある。金次まで着いていくのは仕事でどうしても少し名の知れた記者だった祖父の力が必要だとのこと。
毎回帰ってくる度にお土産を買ってきてくれるのだが、どうも本当に新聞記者の仕事をしにいっているとは思えなかった。
新聞会社は海外のニュースも積極的に放映しているため父の海外出張が多くなるのは納得できるが、何か怪しい気がする。
「分かった」
蒼矢はそっけなく返事をした。
というのは海外出張が多いからむくれているというわけではない。母親の姿でさえ写真でしか見たことがないくらいなので今更寂しがったりはしない。
ただ、こそこそ自分に隠れて何かやっているのが気にくわないだけだ。
子供の蒼矢には話せない事情なのかもしれない。だけど一緒に生活するに当たって隠し事ができる範囲は限られている。
二人の隠していることはその範囲外だ。思い切って教えてくれても何も驚かない自信がある。
とはいっても一向に話してくれる気配はない。向こうも蒼矢が隠し事をしていると見破っていることくらい、承知しているはずなのに。
だから蒼矢はゆっくりと真相を確かめようとしていた。
しかし、これまでに家中探し回って隠し部屋を探したが見つかりはしなかった。地下室への入り口も見当たらなかった。
父、祖父の部屋に忍び込んで部屋を漁り回しても不審な点は見られなかった。
今度二人が家を空ける時もきっと何も分からずに終わるだろう。だがそれでも、蒼矢はがむしゃらに頑張っていこうと思っている。
もしかしたら警察に頼んで家宅捜査でもすれば何かみつかるかもしれないと何度も考えたが、それ以前に一介の高校生である蒼矢の話を聞いて行動を起こしてくれるとは到底思えなかった。
「明日から期末テストだよな」
「うん、まあ」
「勉強は順調か?」
紅輝が三人分の朝食を作り終えてそれぞれがダイニングテーブルに就くと、一発目の会話はこれだった。
紅輝はマシンガントーク気味に質問を浴びせ、金次は優しげな笑顔でそれを見守る。これもまたいつものことだった。
「まあまあ勉強しているよ」
いつもテスト期間になると蒼矢はちゃんと勉強するが、成績は下がることこそないが思うように伸びない。
常に面白いほど中間地点にいるのだ。確かに授業はまともに聞いているとはいえないが、しっかりとテスト前には勉強しているというのに。
もしかしたら紅輝と金次の隠し事の件が無意識のうちに気になって、勉強したことが頭に入っていないのかもしれない。
「ごちそうさま」
と、蒼矢は一番に朝食を食べ終え、無気力に洗面台へ向かった。
そこから櫛を取り出し、髪をすく。
蒼矢は男子の中では髪が長い方で、皆とは違って寝癖が激しいため櫛を使って髪を整える必要がある。
ワックスを使って髪を固めたりもできるが、それをやってしまうと教員達による言葉の鉄拳がお見舞いされてしまう。
「ふう」
溜息を吐くと同時に櫛を洗面台に戻し、再び自分の部屋に向かう。
ロッカーを開けて手に掴んだのは学校の制服だった。華麗にパジャマを脱いだ所で校章入りのワイシャツを着て、その上から黒のセーターを被った。
上下黒のブレザーを着込んで銀色のネクタイを締めれば普段不真面目そうな蒼矢でも立派な高校生となる。
学校ではあまり荒れ事はないが、一応まだ一年生だし先輩に悪いので、だらしない着方はブレザーの第三ボタンを外すのとネクタイを緩めるのだけに留めていた。
最後に学校指定の靴下を履き、学校指定のスクールバックを引っ提げて、スローペースで階段を降りた。
「行ってきまーす」
「おう」
「ああ」
父と祖父の短い返事を背に受けて玄関を潜った。
短い庭を横切って門を出る。
冬の風が寒いが、太陽は元気に輝いている。
それとは反対に蒼矢の心は沈んでいた。朝から父と祖父にああやってコソコソされれば、気力も自然と失われるというものだ。
● ●
「いやっほぉー! おっはよー」
女子の中でも一際高い声が飛んで来た。
朝学校に来て一番にこれ。蒼矢は朝に弱いタイプなので元気な声で話しかけられるのは正直辛かった。
「おはよう」
蒼矢はひとまず着席し、薄っぺらな鞄を机に置いてから返事をした。
ここの席は教室の最後列で授業中隠れてゲームに興じたり漫画を読むのに便利だし、こうして大きな声で話しかけられてもあまり目立たず何かと便利な位置だった。
「相変わらずいつも朝はローテンションだねぇ」
悪戯笑いをしている黒井麗とは腐れ縁のような仲で、蒼矢とは中等部の頃から今までの四年間、ずっと同じクラスだった。
名前の通り多少腹黒い一面もあるが基本的には気のいいヤツで会話も結構弾んだりする。
「はいこれ、借りてたCD」
何の用かと思えば、差し出されたのは一枚のCD。
そういえば昨日好きなアーティストの新シングルを麗に貸し出していたことを不意に思い出した。
「ああ、そういえば忘れてた」
「忘れてたって……あんた酷いねぇ、それ」
上目遣いならぬ下目遣いのクリクリした目は美人の証だ。
麗はスカートの丈も短くリボンも下げ、ブレザーのボタンは全開で身だしなみ注意の常連で不良っぽい要素もあるが、よく見るとボブカットの似合う美少女タイプなのだ。
男子からの告白もこれまでに二回経験してきたようだし(ただし、どちらもあっさりとフッてしまったらしい)、比較的仲良くしている蒼矢の立場を羨む者もいるらしい。
とにかく男子からの人気はある麗だが、蒼矢は近くにいるのに決して恋愛感情を抱いたことはなかった。
自分達は仲の良い異性の友達同士であって互いに複雑な想いを持ったりはしない。それが二人にとっての自然の節理だと蒼矢は感覚的に分かっていた。
まして蒼矢は十六年の人生でまだ誰に対しても恋愛感情を持ったことがなかった。恋の経験がないわけであって、友達とか恋人とか、深い意味は理解できていなかった。
「ごめん。後、サンキュー」
蒼矢は軽く頭を下げてCDに手を伸ばした。
だが、この構図を勘違いした者がいた。
「あれえ、もしかして麗ちゃん手を繋いじゃったりしてるの〜?」
アングルが斜め後ろからであるならばそう見えなくもないだろうが、普通は雰囲気的に違うと分かってしまうだろう。
「亜李」
横槍を入れてきたのは麗の親友、齋藤亜李だった。麗とは対照的にサラサラの長い髪で、服装は別として見た目は清楚である。
その亜李が蒼矢と麗の前に姿を現す時、決まって言う言葉がある。
「やっぱり仲いいのねー、二人とも」
「あのなぁ」
溜息を一つ。呆れた様子で蒼矢は答えた。
「…………」
一方麗は無言でそっぽを向いてしまった。もう相手にするのもバカバカしい、ということなのだろう。
「齋藤さんさあ、そのネタもう飽きたよ」
「ふふ、だって、ねえ、何度も言いたくなっちゃうのよ」
亜李は少し妄想癖がある。二人が影で交際をしていると、本気で考えているのかもしれない。
「ところで蒼矢君、今日は早いのね」
「そういえば蒼矢、今日は早いね」
教室はまだ半分も埋まっていない。いつもならもう二十分遅く来ているところだが、今日は何故か目が覚めてしまったのだ。
「おぉー蒼矢、今日は早いな。黒井さんと齋藤さんもおはよー」
蒼矢が文句を言おうと、口を開きかけた瞬間肩を両手で鷲掴みしてくるヤツがいた。
少し長い感じのスポーツ刈り男子、不動秀一だった。
「あ、あのな、どうしてみんな俺が少し早いからってそうやってすぐ突っ込むんだ!?」
蒼矢の愚痴は親友の不動秀一の襲来によってオーバーヒートしてしまった。
「答えはただ一つ! それは、お前が、いつも、遅いからだあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
無駄に熱いのはいつものこと、なのだが、今日のそれは通常を逸している気がした。
全く、といつも思ってしまう。名前が秀一なのにちっとも勉強ができないのはこの無駄に熱くなる癖が原因なのかもしれない。
「うるさいぞ、朝からそんなはしゃいで。何かいいことでもあったか?」
蒼矢は頬杖を突いて秀一のニヤけた顔を拝んだ。
「くくく、よくぞ聞いてくれたな蒼矢! 実は朝、オナチューの友達から耳寄りの情報を手に入れちゃったわけだぁ!」
「あそ。で、どんな情報だよ」
蒼矢は興味本位で聞いてみた。
どうせくだらない話だと容易に想像できるが。
「友達が今日の朝、この街、雲越で、外人のコスプレ美少女を見つけたらしいぞ」
「……はぁ?」
「えっ」
「何それ」
蒼矢、亜李、麗と順に気の抜けた声を出した。
「お前、何言ってんだ」
「だぁーかぁーら! とにかくかわいい美少女を見つけたらしいの」
「で?」
蒼矢は冷たい視線を送った。
まさか、ここまでくだらない内容だとは。
「で、ってさぁ」
秀一は肩をすくめた。きっと喜んではしゃぎ回り、放課後一緒に探しに行こう、というような展開を期待していたのだろう。
少し秀一がかわいそうになってきたが、それでも情けをかける気は起こらなかった。
「友達は遠目で見てもめっちゃかわいいとか言ってたんだよ。だから放課後暇だしちょっと探してみようって話になってさ――」
「生憎、俺は暇じゃない。放課後はバイトだ」
「あっ、そうか」
蒼矢はどこの部活にも所属しておらず、週に二回のペースでアルバイトをしている。
確かに母親はいないが父だけの収入でもなんとか生活はしていける。だが蒼矢個人としても新しいギターや大型液晶テレビが欲しかったりもするので学校側に隠れて金を稼いでいた。
だが、リスクも大きい。もしもこのことが学校側に知られれば少なくとも停学は免れないだろう。
「じゃあさ、明日お前も一緒に探してみようぜ」
「だからいいってば。つーかなんでお前はそこまで拘るんだよ。友達に聞いただけで、実際は見たことないんだろ!?」
「まあ、俺一応暇だし……だけど! それだけじゃないぞ! だって気になるじゃん。町中をコスプレ姿で歩くなんて」
「なんでそこまで熱くなれるんだよ。確かに気にはなるけど、だからって放課後に探そうとは思わない――」
この瞬間、蒼矢の首筋に何の前触れもなく激しい衝撃が走った。
蒼矢の言葉は、いきなり途中で途切れた。
ハッとなって一瞬硬直し、蒼矢は左を向いた。
そこには開け放たれた窓があって、ちょうど大きな樹木の枝が見えていた。人一人が座れるくらいの大きさの、太い枝が。
「…………」
「蒼矢?」
秀一はきょとんとした表情で訪ねた。
「ちょっと蒼矢、どうしたの」
麗が体を揺すってくる。この衝撃で蒼矢はようやく我に返った。
「いや、なんかさ」
蒼矢は言うべきか言わないべきか、迷っていた。さっき感じたあのことを。
正直に話せば場は白けるだろうし、話さなければ秀一が色々と突っ込んできて面倒なことになるだろう。
数秒考えた結果、話してみることにした。
「あそこから、強烈な視線を感じたんだよ」
蒼矢はすぐ左にある窓の奥に佇む、樹木の枝を指差した。
「誰も、いないな」
秀一は素朴に呟いた。
「ちょっと亜李」
不意に麗は隣にいた亜李の袖を掴み、蒼矢から少し離れた位置まで引っ張り出していった。
蒼矢の耳に小さく会話の内容が流れ込んでくる。
「今日の男二人、なんだか変じゃない?」
「そうね〜……一気に失恋でもしちゃってたりして」
麗は少し、むすっとした顔になっていた。
● ●
少女は人知れず太い樹木の枝に座っていた。
木は都合がよく後ろ側に、ドーム状に枝を広げて葉を生やしており、人を隠れて眺めるにはうってつけだった。
視線の先にあるのはちょうど窓際の最後列に座った男子生徒。数人の友人達に囲まれて楽しそうにしている。
それを僅かに羨ましいと思ってしまった。
「その幸せも、すぐに崩れるのだ――それが私達の運命なのだから」
しかし、すぐに思い出す。
あの少年もまた、自分と同じ孤独を味わうのだと。
少女が持つその綺麗な翠の瞳に宿るのは、憐れみの色だった。
「役に立たない《組織》の連中より先に、私がそれを教えてやろう。親愛なる、この世で唯一となった同胞よ」
小さく呟くと少女はその流麗な銀の髪を揺らし、人にあらざるスピードで跳躍してその場を去った。
不在となった、誰もいない枝を、窓越しにその男子生徒は見つめていた。
● ●
「じゃあな蒼矢」
「うん、また」
レンガ造りの、無駄に豪華な校門を出たところで蒼矢は秀一に別れを告げた。
二人の家は校舎からちょうど反対方向であるため気の合う親友と僅かしかくだらないお喋りができないのは非常に残念だ。
とはいえ、二人ともわざわざ立ち止まってまで会話に興じようとは思わない。友達関係において暗黙の了解のようなものだろう。
(それにしても、な。ホント、無駄に綺麗な学校だよ)
蒼矢は一人で少し歩いたところ、下校中高確率で頭に思い浮かぶ疑問を感じた。
校舎は大小二つの美術館のような外観で、大きい方は高等部、小さいのは中等部だった。
それが一般市民には少なくとも偏差値の高い者だけが入れるであろうハイレベルの学校に映ってしまっていた。
実際はこの私立雲越中学高等学校は頭がいいのかと聞かれれば素直に首を縦に振ることはできない。生徒の偏差値は決して低くはないが特別に高いというわけでもないのだ。
いわゆる普通の学校である。
下校中地元の人達に噂されることがあるのだが、正直胸が痛む。自分は本当は、別に頭が良いというわけではないのに。
「あの制服、あそこのデカイ学校のとこじゃね?」
「すげー」
生憎と今日も噂された。
心の中で溜息をついて愚痴を零したいところなのだが、今日の蒼矢には下校中考えるべきことがあった。
今日の朝感じた、あの視線のことである。
(あれは気のせいなんかじゃない。絶対に誰かに俺は見られていた)
蒼矢は父と祖父の隠し事もあって色々と疑り深い性格に成長してしまった。
それゆえにたまに疑心暗鬼気味になったり、いきなり人の視線を感じたりしてしまうこともある。
だが大抵の場合それらは勘違いで終わる。世界は蒼矢が思っているほどスリルはなく、自分を監視している人間や謎の組織なんているわけがない。
第一、全く以って普通の高校生である自分を監視する目的などないだろう。
(そう、朝感じたあの視線だけは……本物だった……!)
しかし、蒼矢は現に誰かの強烈な視線を感じてしまった。あれは勘違いや気のせいではなく、リアルだったと断言できる。
授業中他の教室にいた生徒がたまたま蒼矢を見つめていたとか、実は蒼矢のことが好きな女子がいて、その人に見られていたとか、そういう問題ではない。
あれは完璧に蒼矢のことを目的があって観察していた視線だ。
決して考えすぎではない。確信があった。
秀一や麗達は散々笑っていたが、この命に賭けてもでたらめではないのだ。
(でも、なんだろう。あれは俺をどうこうしようとかじゃなくて――)
視線を感じた時あまりにもそれが激しすぎて恐怖してしまったが、その中に哀れみや慈しみの感情が入っていたような気がする。
自分でも流石に妄想がすぎたかと思ってしまうが、視線の主は少なくとも自分に愛情のようなものを抱いているのではないか? そう思ってしまった。
「何なんだ、いったい」
必死に考えてはいるが蒼矢は分かっている。
視線を受けたことは事実。だがきっとそんな大きなことではないのだろう。
感じた視線は尋常ではなかったが蒼矢の私生活を覆すような大事に発展したりはしない。考えた末に真実を掴み取ってもきっと面白いことではないだろう。
世界は常に面白くないのだ。日常からかけ離れたことなどそうそう起きはしない。
「もう、どーでもいいや」
と、蒼矢はこの件に関して終止符を打った。
考えている間に我が家も見えて来たしタイミングも良好だった。
蒼矢の家と学校の距離は長くはないので、徒歩でも十分あれば到着するのに充分だった。
(帰ってあのこそこそしてた父さんとじいちゃんの観察でもするか)
蒼矢にとって特別なのは紅輝と金次の隠し事だけだ。
肝心の隠している内容は自分にとって衝撃の事実なのか否か、蒼矢はそれを自分の力だけで確かめることを生きがいの一つとしていた。
要は単なる遊びだった。擬似的に探偵になって、その気分を味わっている。そんな子供染みた遊び。
結果に興味はない。過程が大事だった。
そんな軽い気持ちだったのだが、
「ん?」
蒼矢は我が家の塀に沿って歩き、突き当りを曲がって門まで行こうとすると、そこには先客がいた。
反射的に身を後退させ、蒼矢は電柱の陰に隠れてしまった。
(な、何だアイツ)
家の前に佇むその客が見慣れない者だったからだ。
ソイツは門の近くまで出て来ている父、祖父と一緒に何か話している。
しかも、三人とも使っている言語は紛れもなく英語だ。学校で聞くリスニングテストに登場する人物のように早口で、ネイティブの発音だといえるだろう。
二人は海外で仕事をすることも多いため英語を話せてもおかしくはない。朝に海外へ出張になるかもしれないと言っていたし、相手は仕事関係の人間だと捉えるのが妥当なのだろうが、
「あ、怪しい?」
その客の姿は明らかに怪しい。不審者だった。
全身黒ずくめで頭をバイク運転用のヘルメットで覆い隠し、ジャケットとジーンズ、手袋を着込んだ姿。まるで自分の不審ぶりをアピールしているかのようだ。仄かに犯罪者の臭いもする。
それに、普通人と話す時くらいはヘルメットを取るだろう。
だがそれ以上に怪しかったのは異常なまでの父と祖父の真剣な表情だった。何か超重要な取引をしている最中の時のような、緊張感が漂っている。
この瞬間遊び感覚の軽い気持ちが、その重量を高めたのだった。
● ●
「《施設》がよこした人ってのは、お前のことだったのか、レギル」
金次は開け放たれた門の所まで身を乗り出し、目の前のヘルメットを被った男、レギルに握手を申し出た。レギルもそれを受けて熱い握手を交わした。
「父さん、知り合いか?」
隣に立つ息子、紅輝が僅かな警戒心を覗かせながら金次の肩を掴む。
「ああ、お前が《組織》に入る前からの、俺の親友だ」
金次とレギルは三重年前以来の親友だ。
レギルは金次より十歳ほど若いが、二人の間で先輩・後輩のような関係は全く築かれてはいなかった。
任務を通じて互いの心を理解し合い、徐々に打ち解けていったのだった。
金次はレギルと過ごした日々を今でも昨日の出来事のように思い出せなくもない。
「レギルだ。よろしくな、雛鳥紅輝」
紅輝は少し驚くような顔をしていた。
別に《組織》の仲間同士が顔を会わせたことがなくとも、行く先にいる仲間の情報を知っているということは珍しくもなんともないのだが。むしろ、それは必須事項だ。
それを分かっていても多少は驚いてしまうというのが人間なのだろう。
「お前の噂は耳にしているぜぇ。雛鳥蒼矢を十五年近く守り抜いてきたその戦闘の腕前は確かだとな」
「これは……恐れ入りますね」
紅輝は右腕を折って軽く一礼した。
表面上は感謝しているようだが実際、褒めてもらっても特に嬉しくはないという感じだ。
「……さて、話はこれくらいにして本題に移ろうか」
紅輝の一礼が終わったちょうどその瞬間を狙ってレギルは切り出した。
急にレギルの雰囲気が変わり、金次の表情も恐ろしく真剣になった。
「俺はこの後十二時からこの街にある《組織》の支部で会議がある。説明は三分で済ませるぜぇ」
最初の無駄話はなけなしの時間を削ってまでしてくれたようだ。
少し、申し訳ない気分になってくる。
その最中、次第に紅輝も場の空気に慣れたのか、表情を真剣なそれに変えていく様が伺えた。
「知っての通り銀翠が《施設》を抜け出したのは二日前だ。彼女ならもうモスクワから雲越市内に来ている可能性が高い。少なくとも日本国内には来ているだろうな」
金次は唾を飲み込んだ。
頭の中で銀翠が必死になって木々の間を、硬いコンクリートの上を、夜の摩天楼を必死に駆け回る姿を想像してしまった。
モスクワから雲越市までは相当離れており、時差約六時間。しかも銀翆は飛行機や鉄道の利用方法も分からない。
いくら彼女が特別だとはいえたったの二日間でここに到着するには相当な体力を使うはずである。慢心相違、疲労困憊は避けられまい。
「ここでもう一度確認だ。銀翆はナンバーXIIIの名前が雛鳥蒼矢だということ、加えて雲越市在住だということを知っているが雛鳥蒼矢個人を特定する情報を一切知らない」
「しかも蒼矢の覚醒率は八十を越えていない。今は銀翠どころかヤツらでさえも感知できないレベルだ」
「その通りだ。つまり、銀翠は今必死こいて雲越市の場所を調べ上げ、来たのはいいがどうすればいいのか全然分からない、っつうことになってるだろうな」
そうなった銀翠は自分から《施設》に帰ってくるはずだ。彼女には、そこしか帰る場所がないのだから。
しかしショックで精神が崩壊し、暴走してしまう危険性もある。それを未然に防ぐために金次達に緊急の任務が与えられたわけだ。
「俺としては銀翠が何の収穫もなく、がっかりするところを慰めてやりたいな」
「ふっ、お前らしいぜぇ」
レギルはヘルメット越しに笑った。
「で、それで私達はどこを捜索すればいいと?」
「お前は雲越市周辺。金次は雲越市内のみ。日本各地とその周辺の国は格エージェントが当たっているな。銀翠を発見したら、金次、お前と紅輝を呼ぶんだとよ」
「それは正しい判断だな、レギル。お前が決めたのか」
「いや。《施設》のお偉いさんだよ」
銀翠のことをよく理解し、彼女が辛うじて心を開いたことのある存在は今のところ金次だけだった。
そして護衛として紅輝をつける。中々の良コンビだ。
「詳しい連絡は後からあるはずだ。じゃあな」
レギルは時計をチラチラと何度も確認し、やがて二人に軽く手を振り、家の塀沿いに停めてあった愛車にまたがった。
服に合わせた黒フレームを基調としたバイクで、一般のバイクより一回りも二回りも大きい。
素人の金次の目から見ても性能がずば抜けてよいバイクだと分かった。
「金次!」
ブロロオォォォォンン! と鳴り響くエンジン音に混じってレギルは声を張り上げた。
「銀翠を説得できるのは今のところお前だけだ。気張れよ。俺も仕事が片付いたら加勢にいくぜぇ」
それだけ言い捨てると金次が答える間もなく、レギルは一丁前に走り去ってしまった。
前々から思っていたが、レギルはやはり風のような男なのだ。
「レギルは最後までヘルメットを取らなかったな。失礼なヤツだ」
塀越しからは姿が見えないが、エンジン音を合図にレギルが姿を消したのを察知すると紅輝が細々と口を動かした。
「はは、紅輝、それは違う。取らなかったのではなく、取れなかっただけだ」
「は?」
と、紅輝は言ってみせているが、本当は大方の理由は察しているのだろう。
完璧な理由こそ見つからないだろうがある程度の範囲まで想像を巡らすことはできる。
「アイツのプライバシーに関わることだから今は言えんが、いずれ関係が深くなったら話せる時か来るかもしれん」
「気になるな」
「じゃあ忘れてくれ」
「そうするよ。私だって、父さんの親友を詮索したりはしない――」
紅輝の話はここまでだった。
話している最中も真剣だったが、この瞬間ではまた違った真剣さを見せている。
それは紅輝の専門分野。つまり戦いにおける真剣さだ。
「どうした? まさか――」
金次は家の外に出ようとするが紅輝の腕がそれを制する。
こんな真昼間に襲撃は考えられないが、紅輝の気配察知能力に狂いはないはずだった。
もしかしたら知らぬ間に結構な状況になっていたのかもしれない。
紅輝は慎重に門を出て、塀沿いにカニ歩きをしている。どうやら掴んだ気配は突き当たりの角にあるようで、紅輝はそこに向かっている。
曲がり角まで来ると紅輝は電柱を掴み、そっと顔を奥へ突っ込ませた。
すると、
「うわっ!?」
「うげっ!?」
マヌケな二つの声が聞こえてきた。
(これは……蒼矢の声か? その次は紅輝……なんだ、そんなことか)
金次は一瞬家を飛び出すかどうか迷ったが、その一秒後にそれが愚かな迷いだったと気づいた。
悠々と門を出、突き当たりを曲がるとそこには蒼矢と紅輝の親子がいた。
(こんなことだ。だが、状況によってはマズいかもしれん)
紅輝も考えていることは一緒だろう。
もしかしたら、蒼矢に会話を聞かれていたかもしれない。あの距離ならその可能性は限りなく低いが、ゼロではない。
会話を聞かれていなくとも、レギルの姿を見られただけで何か疑いを持つだろう。
それに蒼矢には今まで自分達が何か隠し事をしている雰囲気を何度も見せてしまっている。完璧に隠すことはできないと、それで済ませていたが、そろそろ危なくなってくる。
「あ、蒼矢」
「ただいま、じいちゃん……父さんも」
「おう。今日は、早いんだなまだ十二時五分前だぞ」
「明日テストだから、今日は早いんだ」
「そうか」
ここで紅輝は蒼矢に背を向けて、家に入ろうとしている様子だった。
今は変なことを気にされる可能性があるため、それが最良の判断だろう。
「ねえ」
とはいえこの状況では最良の判断でさえ分の悪いものとなる。
何故なら蒼矢にレギルの姿が見られていた可能性があるからだ。この様子ではずっとこちらを隠れて観察していたという節があった。
「あのずっとヘルメットを被ってたヤツは、人は、二人の仕事関係の人とか?」
「ああ、そうだ。俺達は今夜朝言っていた出張に行くことが決まったんだ」
「ふーん」
案の定、ワースト・ツーのパターンだったようだ。
金次は溜息をつかざるを得なかった。
● ●
「それじゃあ、俺達はちょっくら韓国に行ってくるから」
「私達のいない間、留守を頼んだぞ我が息子!」
そんな軽い挨拶で金次と紅輝は玄関を飛び出していった。
二人が仕事で海外に行くのは珍しいことではない。だからってこんな呆気なく去らなくてもいいと思う。
家で独りになるのは慣れっこだが、寂しさはいつだって辛いものなのだ。
父親と祖父はまた今日も怪しい動きを見せていた。
あのヘルメットの男……仕事関係の知り合いとは到底思えない。会話中一度もヘルメットを外さなんて礼儀知らずもいいところだ。そんな常識を知らない人間が働けるものなのか。
明らかに不審だ。いったい二人はどんなヤツと関わっているのか。
危ない臭いが漂ってくる。
(何を隠してるんだ……? 俺意外に世界中で、親にこんな仕打ちを受けているヤツがどんなけいるか)
誰かに相談したいが、それはいけない気がする。
蒼矢の第六感が告げていた。
「……そろそろ、ヤバくなってきたのか?」
リビングのソファーにずっしりと座り込み、腕を頭の後ろで組むと独り言を洩らした。
この時ふと、いい加減何を隠しているのか教えてもらいたいと強く思った。今までこんな強く望んだことは一度もない。
とにかく蒼矢の中で隠し事が、実は途方もなく重大なことになっていた。
高揚感に襲われる。
妄想がすぎているのではないかと心配になってきた。
全てが蒼矢の妄想でも、問い詰める権利はあるはずだ。
(帰ったら直接聞いてみよう。今までなんとなくいけない気がしてそうしなかったけど、もうここで限界だ)
蒼矢は腹を決めた。
二人が帰ってくるのは三日後で、インターホンを鳴らし玄関に入ってきたその瞬間に聞いてやろうと。
もう状況が違ってきているのかもしれない。
二人がしている隠し事というのは、きっと知らなければいけないことなのだ。いつか絶対に知らなくてはならない。
今まで遊び感覚で隠し事の正体を推理し、二人の怪しい行動を見て楽しんだりもしていたが、それももうお終いだ。
遊びではなく、本気でかかろう。
「ふぅ」
こうして本腰を入れるとかえって安心感が募ってきた。
気が抜けてしまって腹が鳴った。
「さて、と」
明日は二学期末テストがある。この峠を越えれば後は楽しい冬休みが待っている(最も、その休みも、特にクリスマスはバイトで忙しいことになるのだろうが)。
なんとしてでも補習は免れたいところだ。
そのために蒼矢は、今日だけは徹夜で勉強するつもりだった。テストは四日に分けて行われ、何を隠そう明日は英語と数学なのだ。
一番赤点を取る確率が高いやっかいな教科だ。これを乗り切れば後は徹夜せずともなんとかなる。
(コンビニに夜食を買いに行くか)
蒼矢はおぼつかない足取りで立ち上がった。
徹夜しての勉強を迅速且つ効率的且つ諦めないで実行するために夜食はかかせないというものだ。
風呂に入ったばかりで、外に出て体を汚すのはしんどいが仕方がない。
まず自分の部屋に戻って温かい冬服に身を包み、ダッフルコートを羽織って首にマフラーを巻くと急いで玄関へ向かった。
現在時刻は十二時半。今まで勉強をサボッていた自分が悔やまれる。
「うわ、寒っ」
玄関を開けると冷たい北風が吹きつけてきた。マフラーをしていなかったら今頃、首筋が凍てついて声をほとんど出せなくなっていたかもしれない。
蒼矢は夜遊びこそしたことがないものの、仕事で保護者がいないという場面が多々あるので真夜中にコンビニへ行くという行動を取ったのはこれが初めてではない。
家に文句を言う人間は一人もいないので好き勝手し放題である。
その度に夜空を見るのだが、それはいつも真っ黒で星のない映像だった。
「…………」
蒼矢は口をあんぐり開けて絶句してしまった。
夜空に、星がまたたいていたのだ。
こんな都会で星が見られるとは。もしかしたら明日ニュースになっているのかもしれない。
「凄いな……綺麗だ」
星は空気が綺麗なところでしか見られないと聞いたことがある。確か小さい頃、誰かにそう教わった。何分記憶が曖昧で実は嘘の情報かもしれないが。
少なくとも蒼矢は今までそう思っていた。現に都会であるこの街でも星は見えないのだから。
何故空気の良いところでしか見られないのかは分からない。この時、今度暇だったら調べてみようと思った。
「……あっ……」
少しの間家の前で我を失っていたが、ふと自分が外に出た理由を思い出して走り出した。
夜は危険なのだ。長居無用とはこのことだ。
星も気になるが不審者や不良学生の方がもっと気になる。確率は低いが、出くわすと非常に危険だ。
特に前者の方は昼間見かけたばかりだ。
帰宅するなり父親、祖父と話しをしていた謎のずっとヘルメットを被り続けていた男。アイツからは不審者のみが出す特有の気配が感じられた。
とにかく用心はした方が身のためだ。真夜中に外出するだけでトラブルに巻き込まれるということは早々ないのだろうが、備えあれば憂いなしである。
父と祖父による隠し事のせいで蒼矢は常に考えられる限りの危険を用心する性格になってしまったようだった。
(あれ?)
ところで、もう二分ほど走った。最寄のコンビニはもう見えてきてもいいはずだった。
おかしいことにそのコンビニの影も形も見えてこない。
それどころか蒼矢は全く別の場所に来ていた。
路地裏だ。
「どこだ、ここ……?」
蒼矢は確かにコンビニへ向かう道を通ってきたはずだった。
家を出て、通りに出て、横断歩道を渡って、並木の横を走り抜けていたはずだった。
なのに、気づけば自分が立つ場所はどんよりした暗い場所。
雰囲気は蒼矢が住む雲越市のそれではなかった。この街にこんな摩天楼の裏側のような、ドロドロした場所は存在しない。
だが上を見れば、先程と同じ星空が見えた。
(ボケが始まったのか……俺……)
帰ってきてから昼寝をしすぎたせいかもしれない。どうやら頭が鈍くなっているようだった。
こんなところで油を売っている暇などない。明日は試験なのだ。
英語と数学。なんとしても勉強をしなければならない。
最悪の場合仮病を使って休むことも可能だが、流石にそれをやる気にはなれなかった。あまりにも卑怯すぎるというものだ。
とにもかくにも早くコンビニで夜食を買わなければならないのだ。
下手を打てば今日は睡眠時間ゼロで過ごすのだから。
蒼矢は溜息を一つ、そして何故か来てしまった――不意に現れた――路地裏を後にした。
建物と建物の間を進み、通りへの道を探す。きっと並木沿いに走っている時に寝ぼけて路地裏に入ってしまったのだろうから。
だが、一向に元の道への抜け穴は見つからない。
洞窟で出口を探しているような気分だ。
しばらくの間ウロチョロしていると、
「は?」
元の場所に戻っていた。
あの路地裏に。
これはどうしたことか。
「あ、ぁぁ……――」
少し、怖くなってきた。
そういえば車の走行音も人々の足音も聞こえてこない。まだ十二時四十分くらいのはずだ。
それ以前に人の気配さえ感じない。
益々怖くなってきた。
それを紛らわすために再び走り出した。建物と建物の間を進み、通りへの道を探す。
が、
「くそっ!」
また同じ場所に戻ってきてしまった。
「な、何だよこれ……」
蒼矢は本格的に焦った。
分かる。これは今までのものとは違う。
父と祖父に隠し事をされていると知った時とも、今日の朝に感じたあの強烈な視線とも、ヘルメットの男が放っていた雰囲気とも違う。
本当に自分は危ない状況下にいるということが、本能的に分かった。
「だ、誰かっ!」
蒼矢は叫ぶ。するとその言葉に合わせたかのごとく足音が木霊した。
ただしそれは人のものではないことが明白だった。コンクリートを強く蹴る、何か巨大なもの。
蒼矢は息を呑むと、そのままゆっくりと後退りした。
遠くの暗闇から大きな影が近づいてきた。二メートル半を越えるその身長に、ガッシリした体型。更に顔と思われる上部の箇所に紅く光る豆電球のようなものが二つ。
直立してはいるが、人間ではない。
そう、これはクマだ。
涎の臭い、唸る獣の声。暗闇の中で揺れる毛並みの感覚。それら全てが蒼矢の脳にクマが出たと訴えかけていた。
どこかの動物園で集団脱走があったのか。朝のニュースでも夜のニュースでも聞かなかったことだ。
(何か、理不尽だろ)
クマはその巨体からは想像もできないスピードで走ることができる。
この路地裏には樹木、つまり障害物はないし広さもそれなりに保障されていた。クマが本気を出すのに申し分ないわけだ。
目の前の敵は容赦なく二足歩行に移り変わり、もの凄いスピードでこちらに向かって来た!
蒼矢は足がすくんで動きが鈍っていた。これが本当の戦慄というものなのか。
今までの出来事がポツポツと頭に浮かんできた。
幼稚園で笑った時、小学校で楽しかった時、中学生になって学校が面倒臭くなり始めてきた時、高校に入ってから勉強が難しくなって絶望した時。
小・中学校の卒業式で、思い出が走馬灯のように駆け巡りますという言葉は最早お約束だったが、実際卒業生は思い出を走馬灯のように駆け巡らせているわけではないだろう。蒼矢自身もそうだった。
蒼矢はたった今、走馬灯云々のくだりを理解できたのだった。
それは、死を予感したから。
クマに襲われる最期を迎える人なんて、実際にいるものなのだ。
「…………!?」
蒼矢は恐怖で何も考えられなくなり、死を直感した……のはいいが、どうやら人間の体は本人の心が支配しているというわけではないらしい。
いつか国語の授業で、心と体は別だ、と訴えかけている論文を見たことがあるが、それは本当だったのかもしれない。
ヒュンッ! と突進してきたクマの鋭い爪が空を切った。
というのは、今までそこにあったはずの蒼矢の顔がなくなっていたからだった。
(生きてるのか?)
脊髄反射、というものがある。中学校の理科で習ったことがあった。
人間は脳で指令を出して体を動かしているらしいのだが、脊髄反射は自分の身に危険が迫った時脳からの命令なしで体が勝手に回避行動を取るという画期的なシステムなのだ。
蒼矢は恐怖で脳の命令によって足を動かせなかったが、どうやら足の独断で一命をとりとめたようだ。
(俺、生きてるよ)
だが安心するのはまだ早い。
クマの一撃を避けたことによって蒼矢は尻餅をついてしまっていた。脊髄反射はどうやら体を後ろに倒してしまったらしい。
次の一撃が来る。
「グル、ルルルルルゥ」
犬のように唸りながらクマはその紅く光る目をこちらに向けた。
そういえば、クマはネコのように暗闇で目を光らせる性質を持っていただろうか? と、そのような考えは一瞬で消し飛んでしまった。
巨大なクマの一撃が蒼矢を襲ってきたのだ。
蒼矢は段々恐怖に慣れていたのか、体を自由に動かせるようになっていた。
ガンアクション映画の登場人物のように蒼矢は地面で体を横回転させ、クマの爪攻撃を間一髪で避けることに成功したのだった。
ただし、耳から数センチ離れた所には体毛に覆われたクマの太い腕がある。その下のコンクリートは、少し凹んでいた。
(マジかよ、コンクリだぞ……?)
クマに素手でコンクリートを凹ませるほどの力があったのか。
冷静になればクマの目が暗闇で紅く光っているのもおかしい。
コイツ、本当にクマなのか?
「畜生!」
敵はすぐに態勢を立て直してきた。蒼矢は走るが、追いつかれるだろう。
一工夫必要なようだ。
「これでも、くらえっ!!」
蒼矢は敵が走ろうと身構えた瞬間に壁沿いにあった空のビール瓶を、一本掴んで投げつけた。
敵は意図も簡単に瓶を爪で割るが、その瞬間周囲に破片が飛び散った。
瓶の破片で敵はうろたえている。これこそ蒼矢の狙いだったが、まさかこんなにうまくいくとは思わなかった。
「へ、へへ」
蒼矢は笑っていた。
敵に一発かましてやったという爽快感。アクションゲームの主人公になったような気分だ。
「もう終わりかよ」
蒼矢は少し調子に乗っていた。あれほど怖かったのに、少し反撃できればかえって楽しくなる。
日常では経験できない、命を賭けた猛獣との戦い。危険だと分かっていても憧れてしまうだろう。
蒼矢はそれをやってのけたのだ。今まで感じたことがない高揚感が心を支配していた。
だから逃げる途中、前を向くことを忘れていたのだ。
もう一匹来ていることに、気づかなかった。
「えっ」
いきなり前方から気配を感じ、前を向くとそこには地獄が待っていた。
どうやら敵は一体だけではなかったようだ。
突如現れた第二の敵は容赦なくその爪を蒼矢に振るう。
この距離では脊髄反射も限界というものだ。
「くあっ」
蒼矢は爪を避け切れなかった。体を少し動かせたものの後ほんの少し、極僅かな時間が足りなかった。
爪は蒼矢の左肩を派手に裂いていた。
バランスを失って地面に倒れた時、あの高揚感は絶望に変わっていた。
肩から溢れ出る血が、尋常ではない。
傷は相当大きかった。痛いを通り越して感覚がなくなっている。
蒼矢は傷口が地面と擦れていることが分からなかった。大怪我をした時あまり痛くないものだと聞くが、こういうことだったのか。
(血って、こんなにドロドロしていたのか)
肩の出血は酷い。このままでは出血多量で死に至ってしまうかもしれない。
見ればコンクリートの上には血液の水溜りができていた。
(……逃げなきゃ)
とは思うものの、蒼矢の体は動かなかった。怪我は大きいといえども肩を引き裂かれただけなのに。
まるで麻酔を打たれた時のようだ。あるいは、朝金縛りに遭った時。
出血量が多すぎて体が麻痺してしまったのか。また恐怖がぶり返してきたのか。
どっち道蒼矢はもうお終いだ。
二匹のクマが歩み寄ってくる。蒼矢に止めを刺すために。
(どうして、こんな、目に――)
そういえば逃げられたとしても家に帰れる保証はなかった。路地裏を引き返してもさっきのようにまた戻されてしまうのだろうから。
いったいどういう原理でそうなってしまうのだろう。
誰かの陰謀か? どうやって?
分からないことだらけで死んでいくのか。
(どうして――)
蒼矢が心の底から絶望した、その刹那だった。
――天使を見たのは
◆【第二章 『お前と私は、世界でたった二人だけの同胞なのだ』】◆
天使といっても別に背中から羽が生えているわけではない。
そもそも人間に翼があったとしてもその重さゆえ、宙を舞うことは物理的に不可能なのだ。つまり、背中に羽を持つ人間などリアルに存在するわけはない。
では、何故天使なのか。
それは、月明かりと薄く光る街灯に照らされた彼女の姿が天使のように美しかったからだ。
ザシュッ――という惨い音に混じって、肉が糸を引いて千切れる音がしたのは蒼矢が本気の本気で死を覚悟したその刹那だった。
頬に血が飛び散り、その生暖かさに目を開けるとそこに敵の姿はない。
代わりにあるのは、
「…………」
見事な半月をバックに夜空を舞い踊る、少女の姿だった。
肩を越え、背中を半分まで覆う流麗な銀色の髪。
遠くからでも分かる、街灯の光を受けて輝く、澄んだ緑色――翠の瞳。
その二つの要素が破壊的に印象に残る、ガラス細工のような美しい少女だ。
どうやら彼女が蒼矢を助けてくれたらしい。敵の返り血をいっぱいに浴びたロリータドレスがそれを告げていた。
(誰、この……)
スタン、と裾のフリルを棚引かせて少女は優雅に宙より地に降り立った。
「私を見ても、臆さぬか」
彼女は見たところ十六、七歳くらいの外国人で、決して容姿は日本人のそれではない――はずなのだが、その無垢な口から放たれた言語は紛れもなく日本語だ。
しかもカタコトの日本語ではなく、まるで幼少の頃から使い慣れているような、極自然な喋り方だった。
「《DOG》の犬であるお前達も私のことは知っているだろう? この左腕の翼を見ても、まだ戦うというのか?」
その凛とした声を聞いてようやく気づいた。
目の前の少女の、“異形”に。
彼女は暗闇と一体化できるような、黒光りするドレスに身を染めている。その甲斐あって袖、裾、腰、首元に加えて胸元にクロスした状態で備わっている純白のフリルが非常に目立っていた。
いわゆるゴシック・アンド・ロリータ・ファッションに近いものだろう。
秀一が言っていたコスプレ美少女とは、この少女のことだったのかもしれない。チラッと誰かが見かけた、見かけてしまったのだろう。
彼女の正体は全く分からない。それどころか蒼矢はようやく自分が助かったのだと理解できたばかりで、事態の状況をまるで把握できていない状態だった。
自分を助けられた少女のことを考える必要は全くなかった。特に彼女が普通ではないファッションをしていても気に留める必要も全くないのだ。
それでも蒼矢はどうしても考えざるをえない要素を発見してしまった。それを見て感じたのは、戦慄だった。
(あ、あれ……?)
目の前の少女には左腕がなかったのである。
変わりにあるのは鷹か鷲のような、巨大な翼だった。
長さは肩から地面につくほどで、多少コンクリートと擦れているといってもいい。更にびっしりと覆うのは刺々しくも美しい銀色の羽。ちょうど彼女の髪と同じ色だ。
その先にあるのは金属で作られたような羽の色に比べて多少見劣りする銀の大きな爪だった。
この部分だけ機械的な感じがして、明らかに違和感があった。
言ってしまえば、半分サーボーグという言葉がうってつけなのだろう。もしかしたらあの綺麗な翼は、銀羽の下も鉄製なのかもしれない。
蒼矢にとって何もかも分からないことだらけだが、今のところ自分が助かったということ意外にも一つ、判明した事実がある。
それは少女が人にあらざる者だということだ。
だったら人ではなく何なのか?
蒼矢は考えるだけで頭がパンクしそうで、同時に恐ろしかった。
でも何故だろうか。このありえない光景を見ても奇異さを感じる一方で説得力を持っていると思ってしまう。
それが何についての説得力であるかは分からないが……。
少なくとも異形の姿を見て、これは夢だと思わない時点で上出来だろう。
「……そうか、戦うのか。いいだろう」
蒼矢が色々と考えているうちに少女は強い口調で目の前の敵に宣戦布告していた。
悠然とコンクリートを踏む少女の先には暗闇に紛れてあのクマがいた。愛も変わらず目を紅く光らせて、蒼矢を睨んでいた。
(そういえば、もう一匹)
蒼矢は一匹目の敵に引き裂かれようとしていたところを少女に救われたのだった。
しかし、少女が仕留めそこなったという可能性もある(彼女の翼と爪を見ればそれはないと思うが)。
蒼矢は急に不安に駆られ、首を右往左往させながら両手を地面に這わせた。すると、蒼矢の手に何か冷たさを持つものが飛び込んできた。
背筋に悪寒が走り、後ろを見れば自分の手の中にあったのは銀色の羽だった。
鳥のそれと同じような形で掌の二倍くらいの長さがある、金属のように冷たいけど柔らかい毛並みを持つ羽。
これは少女の左腕から抜け落ちたものに違いない。敵を引き裂いた時に舞い散ったのだろう。
だったら敵の死体は近くにあるはずだ。
完全に死んでいることを確認しなければこの恐怖は冷めない。
「行くぞ!」
少女が掛け声を出して駆け出した、その時だった。
蒼矢の手に生暖かい液体の存在を感じたのは。
銀色の羽が落ちていた地点から少し手を動かした先にそれはあった。
暗闇で色は確認できないが、感覚で分かる。
これは血だ。
少女に殺されたであろう一匹目の敵の。
「――――ッ!」
血という言葉を思い浮かべると、同時に蒼矢はあることを思い出した。
自分の肩である。敵に傷つけられ、それから妙に体が動かなくなったことを。
今になって傷がまた疼いてきた。
その痛みは疾風の如く進行し、傷口を手で塞ぐことさえできなくなった。
体中が悲鳴を上げ、次々に動かなくなっていく。意識も朦朧としてきた。段々瞼が重くなってくる。
(あ、れ……?)
蒼矢はわけが分からぬまま、意識を失って倒れた。
その最中に見たものは、少女が敵を鋭い爪で引き裂き、盛大に血液をぶちまけている映像だった。
● ●
いきなり背筋に寒気を感じて、蒼矢は目を覚ました。
途端、鼻が潰れている気持ち悪い感覚に襲われた。
目に見える光景全てが青い……色を持った毛布だ。蒼矢は今、毛布を度アップで見ているのだ。
蒼矢はベッドの上にうつ伏せになって眠っていたようだ。布団の一枚もかけないから、冬のこの時期では相当寒いだろう。
その状態から少し顔を傾ければ頬に柔らかな毛先が当たって、気持ち良い。陽気な太陽の光も差し込んでいる。
これでベッドから落ちている毛布をもう一枚かければ睡眠に適した完璧な環境となる。
「ふわぁ……」
欠伸をし、再び心地よい眠りへと自分を再び落とし込むべく、毛布を被った。
とにかく今は無性に眠りたい気分だった。時間は気にしない。とにかく眠る。それだけだ。
「…………」
とにかく眠る。それだけなのだが、どうにも寝付けない。
こんなに眠いのに、脳が眠ることを拒んでいるかのようだ。
何かが心に引っ掛かっている気がする。
何だ? 何だった?
蒼矢は目をパッチリと開き、考えてみた。
そうすればすぐに答えは導かれた。
考えてみれば“あのこと”を忘れていた自分がどうかしていた。あんな突拍子で現実味がなくて恐ろしい出来事を忘れるはずがない。
蒼矢はいきなり毛布を散らしてベッドから飛び起き、机から手鏡を引っ張り出して自分の顔を見た。
鏡面にあったのは期待通り映像だ。
寝癖だらけの蒼矢の顔が鏡に映っている。
どこもおかしいところはない。
安堵して、自分の髪を撫でてみる。流れる動きをするその髪は一般的な女子生徒よりもサラサラだ。
蒼矢は髪の中から上手に耳を出してはいるが、本来ならば耳を完全に覆ってしまうくらい髪は長い。近々切りに行かなければ学校の頭髪検査に引っ掛かってしまうだろう。
「はぁ」
安心した時のため息をつき、蒼矢はとりあえず手で軽く髪を整え始めた。
本格的に櫛をかけるのは一階の洗面台で、蒼矢は起床すると決まって酷い寝癖をほんの少しでも手ぶらで直す努力をするのだ。
蒼矢は一応その端正な顔つきから美形の部類に入るのだろうが、今は寝癖のお陰で顔が台無しだった。
(あれは……夢だったのか)
夢であってほしいと勿論思っている。
だが昨日の出来事ははっかりとい覚えている。コンビニへ夜食を買いに行くつもりが、どこで間違ったのか、あんなことになってしまった。
あのクマに睨まれた時の感覚は今でも鮮明に覚えているし、まだビール瓶を投げつけた感触まで残っていた。
「助かった、のか……?」
怖かったが、こうして生きていて本当によかった。
鏡の中に存在する自分の顔もそう言っている。
昨日クマが出たことも警察などに通報しなくてはならない。いや、もうとっくに他の人が通報しているのかも。
(でもあのクマ……どうして目が光っていたんだ)
そこが腑に落ちなかった。クマには暗闇で目を紅く光らせる性質を持っているはずがない。
蒼矢はあの鋭い眼光を脳裏に描いた、
その瞬間、
ある少女の姿を思い出す。
(!)
月光の下に輝く翠の瞳と銀色の髪をした美しい容姿のあの謎の美少女だ。
そして蒼矢の命の恩人でもある。
(そういえば――)
今になって気づいたが、蒼矢は少女に助けられたあと気絶してしまったのだ。本来自分の家、しかも自分の部屋に戻っているのはおかしい。
考えられる理由は、無論あの少女しかない。
華奢な体で男一人を引っ張り上げてきたという構図は想像し難いが、彼女は確か異形の左腕を持っていたはずだ。蒼矢は細身で体重も平均より少し下という程度なので、持ち上げるのに造作もないだろう。
(まさか、いるのか……? この家に?)
蒼矢は恐る恐る扉の方を視界に入れた。
まったく変化のない木製の扉だが、なんとなく他人が開けた形跡があるような気がしてならなかった。
多分考えすぎでそう感じてしまっているのだ。
そう自覚してはいるが、見れば見るほどあの少女がこの扉を開けて、自分をベッドに放り投げる場面を想像してしまった。
(いたら、どうする?)
正直蒼矢は怖かった。
ちょうど不思議体験をして気絶し、目を覚ましたばかりなのだ。
いくら命の恩人といえどもあの左腕は反則だ。明らかに怖すぎる。
こういう時、いったいどうすればいいのだろう? まず警察に全てを話すという選択肢が浮かんでみた。
しかし、頭の中でシュミレーションすれば自ずと分かってしまう。
いきなり路地裏でクマと思しき怪物に襲われて、帰ろうと思っても何故か同じ場所に出てきてしまって間接的に隔離された。最大ピンチのところを、左腕が巨大な翼に変貌している少女に助けられた。
警察にこんなことを言っても叱られるだけだろう。
マンガやアニメの主人公はこういう時、きっと誰にも言わずにパニックに陥ることもなく、果敢に行動するお決まりになっていた。
最早それに倣うしかあるまい。
こうなったらやけである。
(その時は、その時だ!)
蒼矢はあの少女に恐怖心を抱く一方で、再び会って話がしたいとも思っている。
とにかく昨日、自分の知らない未知の事件に遭遇してしまったのは明らかだった。そのことについて聞いてみたいし、何より男として美しい少女の姿をもう一度拝みたいと思ってしまったからだ。
全く、非常事態に何やってるのやら。
そう思いながら蒼矢は部屋の扉を開けた。
まず目に飛び込んでくる光景はピカピカに磨かれたフローリングだ。紅輝が帰ってこない間も、光を絶やさないだろう。
「よし」
小さく掛け声をすると、蒼矢は夜の摩天楼で銃を持った誘拐犯を探しているような気分で階段付近まで足を進めた。
少しの距離なのにもの凄く神経を使ってしまった。
雛鳥家は二階から一階まで階段の部分は吹き抜けになっている。
今はそれが都合がよい。もし少女がまだこの家にいて、リビングに身を置いているのならばこちらから一方的に覗けるはずだ。
ストーカーな気分で悪い気はするが、これが一番安全な選択である。
蒼矢は手摺から顔だけを出し、下界を観察してみた。
「……いない、か……」
リビングには人影一つなかった。少女の姿はどこにも見当たらない。
安心したような、残念だったような。
とにかく少女は命を助けてくれた。だったら自分に用があるということではないか?
その考えでいけば必ず少女はこの家のどこかで自分の眠りが覚めるのを待っていることになる。
蒼矢は周囲を十分に警戒しながら階段を下りて、一階全体を探し回った。
リビングをもう一度見て、ダイニング、水周り、玄関、父の部屋、祖父の部屋、物置部屋。
どうやら一階にはいないようだ。
続いて二階へと差しかかる。
一応再度自分の部屋も見て、空き部屋二つ、トイレまでも探してみた。
その結果、少女はどこにもいなかった。
「いない、か」
蒼矢はいつの間にか必ず少女が家のどこかにいると決めつけていた。
このとき感じた気持は、間違いなく“残念”だ。
力が抜けてきて、昨日の夜に起こった事件は、実は全て夢だったのでは? とさえ思えてきた。
でもあの感覚・感触は覚えている。それが夢ではないことを告げていた。
「俺、どうなったんだ」
考えて考えて、頭が混乱してきたその時、
ガチャリ。
「!」
玄関の扉が開く音がした。
蒼矢は慌てて階段を駆け下りて、期待感に満ちた足取りで玄関へ向かった。
その道すがら、いつの間にかあの少女にもう二度と会いたくないという方の気持ちを完全になくしていた。
彼女が異形を成していようがいまいが関係ない。
知らないうちに、こんな短期間で蒼矢の心は彼女に惹かれていった。
これは、恋というヤツなのか――チラリと思ったが、今はとりあえずそれは置いておくことにしよう。
会って、話をしなければならない気がする。
玄関に佇んでいるであろう、その正体不明の少女と。
蒼矢は期待感で胸がいっぱいだったが、
「…………」
これは神罰の類なのか。見事にその期待感は裏切られてしまった。
玄関に到着すれば、そこには誰もいなかったのだ。
太陽の光が小さな窓から差し込み、靴箱の上には一輪の花が。何も、変わった点は存在しない。
確かにドアが開く音はしたはずだ。おかしい。ありえない。
あの少女が、きっと鋭い眼をして待っていたはずなのに。
「なん、だよ……」
この瞬間、蒼矢の体から一気に力が抜けていった。
ロマンチックな展開になるのならば、ここで運命の再開があってもいいだろうに。
やはり現実はドラマとは違う。
それどころか、あの少女も、昨夜の事件も全て夢だったのではないか。手に残っている様々な感触も実は勝手に自分が無意識に捏造してしまったのではないか。
確かに同じことの繰り返しの日常に飽き飽きしていると少し思ったことはあったが、まさかこんな夢を見てしまうとは。
残念だ。
心が沈んだその直後のことだった。
「まさか唯一無二の同胞が、こんな無様だったとはな」
後方から凛とした声が飛んできたのは。
蒼矢は取り乱していたものの全くその気配を掴めなかった。直感的に人間業ではないと分かった。
これだ。求めていたものは。
再び期待感に満たされた状態で振り向くと、廊下の向こうに蒼矢の描く少女の姿があった。
ただし左腕は異形ではない。普通の形をしている。それを見せびらかすかのように、彼女は腕組みをしていた。
それでも着込んでいる洒落たドレスは一部ボロボロになり返り血を浴び、昨晩の状態と何一つ変動はなかった。
玄関の扉が開く音がしたのはちゃんと彼女が家に入ってきたからであって、きっと蒼矢が駆けつけるまでのタイムラグですれ違ってしまったのだろう。
「せっかく見つけられたのに……全て、妄想だったということか」
さて、期待通り少女に会えたのはいいが、実は会ってから後のことをよく考えていなかった。
とりあえずお礼を言ったり、昨夜のことを詳しく聞こうとはぼんやり考えていたが、実行しようとすると頭が痛くなってそれを拒んでしまう。まだ心のどこかで恐怖を抱いているという証拠なのだろうか。
しかも困ったことに何故だか目の前の少女はご立腹のようだ。
理由は分からないがその怒りの矛先は蒼矢。そして自分自身も許せないといった感じだ。何を許せないのかは勿論知る由もない。
さっき唯一無二の同胞が無様で、妄想云々と言っていたが……少なくとも彼女とこうして再会を果たし、新たに得た情報はどうやら自分は彼女の同胞で、無様だったらしいということである。
つまり、幻滅されたということか。そう考えれば妄想という言葉にも繋がる。
未だに自分の置かれた立場が理解できないが、とにかく一人の男として女子に幻滅されたとなれば結構ショックなことだ。
「……そりゃ、普通の人間ならクマを二頭倒すことなんて無理だって……普通の人間なら……」
蒼矢は少女と顔を合わせないで、ボソッと呟いた。
初めて彼女に話しかけたというのに、その最初の台詞がこれでは男としてタヴーな気がした。
それ以前にこれは初対面の者同士がする会話ではないだろう。
蒼矢も少し馴れ馴れしい態度で話しかけてしまったが、不思議と違和感はなかった。
自分はこんな感じのシーンを知っている。ある日突然夢で見たことが現実に起こる――デジャヴというものに近い。
もしくは、体が彼女と過ごした長い時を覚えているような、そんな気がした。
顔をあげて少女の顔を直視すると、蒼矢はずっと前から彼女を知っているような感覚に襲われた。
頭の中で、さっき言われた同胞という言葉がぼんやりと浮かんできた。
「そうではない、いや、そうではあるが……」
少女は今まで真っ直ぐに向けていた顔を初めて逸らした。失言に恥ずかしがっているのだろうか。
とにかく何も分からない蒼矢にとっては意味不明を通り越して聞く耳も持たないが。
「とにかく! 私は《施設》の者達の言葉を疑っていたが、これでその疑いも晴れたわけだ」
今度は残念そうに言う。
「期待した私がバカだった。実はもうお前は目覚めていて、ヤツらは私を騙しているのだと」
「目覚めてるって……何だよ」
「これで分かった。お前を管理している者達は、無能だ。私が自分でお前を目覚めさせてやる」
蒼矢の言葉も聞かずに少女はドレスを揺らし、歩み寄ってくる。
その姿は威圧感に満ち溢れている。
「先に言っておく」
少女は弁当箱一つ分くらいの距離まで顔を近づけ、睨みを利かせた。
こうして近くで見れば身長は蒼矢より数センチ低い程度なので、もしかしたら同い年かもしれない。
視線の先には綺麗な銀髪が伸びる頭があって、少し下を向くだけで自分のよりも細い肩があった。
たとえ服に昨夜敵を引き裂いたときに付着した返り血を髪や服に点々とさせていたとしても、男ならば赤くならずにはいられまい。
「私の名は銀翠。世界の守護を司る《世界の僕》」
蒼矢がデレデレしている隙に、また理解不能な話を始めていた。
「そしてお前は雛鳥蒼矢。私と同じ、《世界の僕》だ」
ん? と思わずにこの状況を切り抜けるには困難だろう。
蒼矢の知らない世界があるということは薄々分かるのだが、いきなり固有名詞を出されても本当に理解に苦しむ。
それに追い討ちをかけるように、銀髪の少女――銀翠は言葉を付け足した。
「今となっては、お前と私は、世界でたった二人だけの同胞なのだ」
● ●
銀翠の整った顔は常に崩れることなく凛としていて、非の打ちどころもない真剣さだった。
到底適当な嘘を言っているようには思えない。
恋愛小説などに登場する、いわゆる“不思議ちゃん”タイプの人間でもなさそうだ。
しかも蒼矢は昨晩に銀翠が普通の人間ではないこと、自分自身が知らなかった世界があること、この二つの事実を証明できるような光景を見てしまっているのだ。
疑いようもない事実だ。これは。
蒼矢は、ファンタジーな世界に巻き込まれてしまったのだ!
未だに実感はないが、こうなったらとことん銀翠に質問するしかない。きっとそんな前向きなポジティブ・シンキングを身につけなければやっていけない世界なのだろうから。
確か物語で異能者達の戦いに巻き込まれた主人公はこういう行動をとるはずだ。
「同胞って、どういう同胞なんだよ」
蒼矢は少しニヤリとしながら強気で攻めていくことにした。さっきまでオドオドしていたのに、急に落ち着いて表情をキリッとさせた。
銀翠はその変貌ぶりに一瞬目を丸くして、素っ気なく答えた。
「さっき言った、《世界の僕》だ」」
「その《世界の僕》って何なんだよ」
「……分かっている。一からちゃんと説明するから黙って話を聞け」
蒼矢が何を求めているのか、銀翠にちゃんと伝わったようだ。
それは蒼矢が今まで知らなかった、“この世界”のこと。
ファンタジーマンガで主人公に世界観を説明する役は、えてして説明上手なのだ。銀翠も恐らくそうであるはずだ。
「どうせ覚醒すれば全て理解する、いや思い出す。だがそれまでにはきっと時間をそれなりに要するだろうし、お前も今すぐに知りたいだろう?」
蒼矢は俊敏に首を縦に振りながら、
「覚醒って?」
とアホキャラを気取って質問していた。
「そうだな……お前はSF小説などを読んだことはあるか?」
見事に蒼矢の質問は無視され、銀翠は右手を口元に当てながら目を細めて語り始めた。
「ああ、あるよ」
SF……サイエンス・フィクション。空想科学のことだ。
そのジャンルに類する小説や映画の中では科学が魔法のように発達しており、不可思議な要素も全て科学で解明されている。
カッコいいデザインの巨大人型ロボットが横行していたり時間と空間を超越できたりと何でもありの世界だ。
まさか、この現代は実はSFの世界だ、とでも言う気なのだろうか。
そう考えていると蒼矢は無性にワクワクしてきた。
だがその一方で恐ろしさも感じてしまう。昨晩襲ってきた、あのクマのような怪物。ヤツらがいる世界の話を、今蒼矢は聞こうとしているのだから。
「そこに並行世界というものはあったか?」
「…………」
「要はパラレルワールドのことだ」
「ああ」
横文字を使ってもらえばしっくりくる。
この世界と似ているが、何かが違う異世界がどこかにある、というヤツだ。
「この世にパラレルワールドが存在する、ってわけか」
「イメージはそんなところだ。厳密にいえば“異界”と呼んだ方が正しい。パラレルワールドではなく異界だ。混同せぬように」
蒼矢には両者の意味の違いが分からなかった。しかし銀翠にとってはとてつもなく意味が違うものに聞こえるらしい。
「まあフィクションになぞらえるのならばこんなところだ」
銀翠はいささか得意そうだ。
そう見えたのだが、それはきっと自分の考えすぎだろうと、蒼矢には分かっていた。クールっぽい彼女に限ってこんなことで気分が高揚するとは考えにくい。
「極々一部の人間がその異界の存在を知っているのだ」
話が飛躍してきたが、それでも蒼矢が銀翠の言葉を信じられるのは彼女の異形を見てしまったからだ。
大きな爪を備えた巨大な翼。その映像が鮮明に残っていて、旋律はまだ消えていなかった。蒼矢がこうして銀翠と会話をするのに少し不都合な距離をとっているのもそのためだった。
「ちなみにその極々一部の人間が観測できた異界は一つだけだ」
唯一観測できたその異界に昨晩現れた怪物が棲んでいるということになるわけか。
それにしても、異界の存在を知る者達が極々一部だけとは考えてみれば滑稽な話だった。
例えば世界の命運を担う国際連合のお偉いさんの大半が異界の秘密を知らず、のうのうと生きていること。
世界全体では重要人物でも銀翠が知る裏の世界のことを視野に入れれば彼らなんて普通の人間と変わりはしないのだ。世界の平和を守るため? に日夜戦う人間達に比べればちっぽけな存在に見えてくる。
「ある者は、異界は星の数ほど存在し、本来ならば互いに交えることなくそれぞれの時空に孤立して存在している、と言っている」
「へぇ」
蒼矢は棒読みで返事をしてしまった。あまりにも話が壮大であったためだ。
この理論でいくと、自分の知らない世界が無数に存在しているということになってしまう。
「どういうわけか知らないが、その異界とこの世は繋がってしまったらしい。いつの時代からかは分からないが、相当古い時代からだろうと私は聞かされている」
「……それで、一部の人類達がそれに対応してきたわけか」
「うむ」
段々分かってきた。
異界を発見した人間達は蒼矢と同じようにあの怪物に苦しめられたのだろう。
それが危険だと分かって、何とかして対応策を編み出し、危険だから・パニック回避・兵器などへの悪用の阻止。大方そんな理由で異界の存在が秘匿されてきたのだろう。
(じゃあ、銀翠の目的は怪物の退治か?)
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2008/07/28(Mon)04:17:19 公開 / レイン
■この作品の著作権はレインさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
こんにちは、レインと申します。
ネット小説歴はもう一年と七ヶ月近くになります。
私は今まで二次創作モノを書いていたので、完全オリジナル小説はこれが初めてです。日々生きる中で、私が心に温めていた妄想(?)を文章化させてみました。
力を入れて執筆してみましたので、感想をくださればこの上ない喜びでございます。
その際は悪い点・修正すべき箇所などを中心にお願いします。
滅茶苦茶久しぶりの更新です。
今回は結構重要な回だったりします。ぼんやりと、全体的な世界観の説明があります。
皆様のアドバイスをふんだんに取り入れさせていただきました!!
今までの文章も微妙に遂行されていたりします。
●【最終更新】07/28 「第二章」を途中まで追加
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。