『<ある>から<なる>へ』 ... ジャンル:ファンタジー ホラー
作者:鈴村智一郎
あらすじ・作品紹介
15世紀の魔女狩りの時代が舞台です。
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1610年11月7日、スペインのバスク地方、ログローニョで行われた公開処刑で、若干九歳であった少女マリア・デ・イトリアは、火が顔に上がる前に以下のように叫んだと記録されている。「悪魔は黒い雄山羊だった……それは人間の顔をしていた……」。ある記録に依拠すれば、ドイツ南西部で1562年から1684年までの約120年間に、「魔女術/魔法」の名目で告発された人間の割合は、男性が238人、女性が1050人である。魔女学に関する一級資料として悪名高いハインリッヒ・クレーマーとヤーコプ・シュプレンガーの共著『マレウス・マレフィカルム(魔女の鉄槌)』(1486年)には、「あらゆる魔女術は肉慾に由来し、女の肉慾は飽くことを知らない。…肉慾を満たすために、女どもは悪魔とさえ交わるのである」と記されている。
ある研究者の説に依拠すると、嬰児供犠、秘薬、乱交の三要素を持つ魔女集会、通称「サバト」は、1390年代のイタリアで少なくとも既に発生していたとされる。ヨーロッパに蔓延していたサバトの共通点は、これらがペストのように集団で拡大するのではなく、むしろ閉鎖された村、地方といった小さなコロニーで隠密裏に行われていたということである。
我々がこれから報告するのは、セイラムの魔女狩りと並びつつも、既にほとんどの記録から抹消された、ある恐るべき魔女狩りの断片的記録である。
時はローマ・カトリック教会がエウゲニウス四世を法王に迎えた時代である。この法王は、当時の西欧に広がっていた「悪霊憑き」に見かねて、世に名高い「エウゲニウス勅書」という非常事態宣言を発令した。そこには、「悪霊に生贄を捧げ、悪霊と別の種類の契約を交わしている」人間たちに関する記述が確かに見られる。現代のヴァチカンの最高権威であるベネディクト十六世が、世界召命祈願の日に「霊的な土壌をよく耕すことにより」と冒頭文メッセージで平穏に全世界へメッセージを発信できる時代とは、およそ考えられないほどの危機が15世紀初頭のヨーロッパには広がっていた。エウゲニウス四世は、彼ら悪霊と契約した者たちが、「多くの魔法を行っている」と書き記している。
エウゲニウス勅書が発令された1437年のライン川右岸の小村に、アピスという霧に包まれた寂しい小村があった。この村の住人たちは、全く外部との関係を絶っていた。
アピスで生まれた少女エレオノーラは、生まれながらに圧倒的な美しさを宿している子供だった。現在彼女は十五歳であった。しかし、彼女は自分の街が奇妙な風習を持っていることに気付き始めていた。今、彼女は女性だけが集まる地下の聖堂で、玉座のような場所に座らせられていた。彼女の周囲を取り囲むのは、総勢七十人の女性たちで、その大半が二十五歳前後の若く美しい女性であった。
――時期が来た。この日をどれほど待望していたことでしょうか。エレオノーラ、今から貴女に素晴らしい真実を告げます。貴女は女王です。貴女の母親も女王だった。アピスの村には、古くから特別な慣習があるのです。十五歳を迎えた「新女王」は、新しいコロニーを形成するために結婚旅行に出かけると。この意味が御理解できますでしょうか?
エレオノーラはぼんやりと眠たげに首を傾げた。彼女には実は、この村で暮らしているわずか五人の男の子の一人、アルノーという十五歳の許婚がいた。類稀なる美少年だったが、常に洞窟の掘削の仕事ばかりを担当していた。この村にいる全ての人間は、分担してそれぞれの仕事を担っていた。それは、エレオノーラを女王蜂とする巨大な蜜蜂のコロニーにも等しかった。
――ねえ、アルノーは?と、エレオノーラが寂しそうに周囲を見渡した。聖堂は数知れない働き蜂たちの熱気に包まれていた。これら働き蜂の95%は女性である。これは蜜蜂のコロニーの平均的な雌雄の比率と完全に同一である。ある少し身長の高い女性が立ち上がり、エレオノーラの前に立った。新しい女王は女性たちに衣服を全て脱がされ、生殖器の上部に、「女王蜂」を象った紫色の模様を刻印された。
――女王様、この村の名前の由来を御存知でしたか?アピス(Apis)とは、蜜蜂のことでございます。蜜蜂の女王は、羽化してから二週間以内に、好きな男性と交尾しなければならない。女王様の生殖器だけは、我々働き蜂の生殖器と異なり、「受精卵」を営む機能を持っております。女王様は今夜、ドイツ、フランス、スペイン、果てはイギリスと、我々の中から選抜された助成軍を伴って、精子獲得の旅に出かけねばなりません。
だが、この発狂したような意味不明な言葉の数々に、エレオノーラは思わず笑ったのだった。次の瞬間、期待と羨望の熱い眼差しを向けていた働き蜂たちが、一瞬にして怖い顔をした。
――馬鹿じゃないの?私がそんな退屈な旅行に出ると思うかしら?私には大好きなボーイフレンドがいるの。アルノー。私の将来の旦那さんよ。もう結婚して、このつまらない村から巣立つって二人で決めたんだから。あんたたちは置いてけぼり。残念だったわね?
エレオノーラがそう笑いながらいうと、三人の働き蜂が、変わり果てた姿のアルノーを持ってきた。それは、皿の上に乗っているアルノーの頭部、胴体、足である。それらは全て、凄惨な拷問を受けた痕跡を留めていた。エレオノーラは絶句した。
――女王様、実はアルノーも我々働き蜂の中の一匹でございました。ただ、この働き蜂は運動能力に問題があり、おまけに女王様との近親相姦を狙っていたので、我々がコロニーにとって不必要と判断して処分いたしました。
エレオノーラは滅茶苦茶に傷付けられた、ズタ襤褸のアルノーの顔を皿から持ち上げた。涙が洪水のように溢れ出てきた。かつての愛らしい天使のような美少年は、今や唇の垂れ下がって眼球を二つとも刳り貫かれた、可哀想な死骸と化していた。エレオノーラは何度もアルノーの唇に唇を重ね、そして自分の運命を直観した。「働き蜂たちに逆らえば殺される」、そう確信した。自分という存在は、女王蜂という「機能」を持って生まれてきた。働き蜂たちは、いわば生殖機能を喪失してまで、女王の座を自分に譲ったのだ。もしも、出産の意志なき女王蜂であると判明すれば、働き蜂の中から一部の生殖機能を快復させた者が、新しい女王へと戴冠するであろう。エレオノーラは、種的本能によってこれらの、呪われた遺伝的な運命を一瞬で悟った。彼女は涙を拭い去り、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
――働き蜂ども、私が女王だ。今後、私に無礼な発言をした者、効率の悪い動きを見せた者は全て、私の命令によって処分する。私が女王だ。女王蜂はここにいる!出発する!狙うのは、若く逞しい美青年、十五名!
新女王エレオノーラがそう宣言すると、働き蜂たちは熱狂の渦に包まれた。三日後には、およそ三万人の働き蜂たちが新女王の足元に集結した。この30000という数字は、蜜蜂のコロニーの総数であり、その頂点に君臨するのが女王蜂である。
エレオノーラを中央に囲んだ、総勢三万もの女性たちの大行進が始まった。それは、驚愕すべき光景であった。まるで巨大な一つの悪霊のように、蛇のように、長い道中を、ただ選りすぐりの交尾相手の男十五名を捕獲するためだけに、彼女たちは夜通し歩き通した。
だが、実は既に交尾期間特有のフェロモンの分泌が開始されていた。エレオノーラの身体からは、全ての男性を圧倒的に虜にする独特の性フェロモンが空気中に撒かれていた。それは、女王蜂が同じく、交尾期間に発して、異種の雄までをも誘惑する「9―オキソデセン酸」の人間への生成変化である。この特異な魅惑フェロモンによって、女王蜂を中心に、彗星のような塊となった雄蜂たちが寄り集まる光景が自然界には見受けられる。このエレオノーラの刺激的なフェロモンにかかれば、どんな有能な神学者であろうと、たちどころに彼女の下僕と化し、精液を贈る側にならざるをえなかった。
アピスの村での伝統では、新女王が一回の交尾旅行で行う交尾の相手数は平均して15名である。新女王であるエレオノーラは、実は彼女の母である旧女王の命令によって、幼子の頃から特別の「ロイヤルジェリー」を与えられてきた。その他の働き蜂が、生殖機能を衰退させているのは、彼女たちには「ワーカージェリー」が付与されていたためである。これは事実、自然界の蜜蜂においても見出される。例えば、働き蜂の一匹に、人工的に作成した「ロイヤルジェリー」を投与すると、何と「女王蜂化」するのだ。このように、エレオノーラの背景には、数知れない女性が己の子宮を殺してまで、種を保存しなければならないという切実な希求が存在していた。蜜蜂は社会的昆虫であるため、個よりも集団を優先させる。すなわち、たとえ女王蜂のために利他主義になっても、それが逆説的に未来の子孫の繁栄に繋がることを、働き蜂である彼女たちは熟知しているのである。
エレオノーラの生殖器は、これによるのか、或いは古き時代の悪霊との契約の賜物か、処女膜、輸卵管、子宮などと並んで、「受精嚢」という特別な器官が内部に存在していた。これは、複数の男性の精子をカクテルの状態で温存するために発生した新しい器官である。この受精嚢の精液貯蔵の最大容積が、男性の一回の射精量の約15倍であるため、15人と乱交しても、彼女は自由自在に各々の好きな精液を選択できるのである。これは、コロニーの血縁関係があまりにも濃密で近親的にならないようにするための処置であり、無論、蜜蜂社会の交尾もこのようにして行われている。
エレオノーラの子宮が疼き始めた頃には、既に数知れない誘惑された若いハンサムな男性たちが群れを取り囲んでいた。助成軍の何千かは、一時的に女王から離散して、様子を監視していた。常軌を逸した数の男たちは、皆興奮し切って、地面に腰を叩きつけたり、狂ったようにエレオノーラに近付こうとした。だが、女王は沈黙していた、否――焦らしていたのだ。彼女はこの世界に存在する最高の男性15名を全て自分唯一人で独占するつもりであった。見栄えの悪い、或いは肉体的にも優れていない男性はエレオノーラの眼中にすら無い、ただの蚤にも等しかった。
その頃、付近の街にはシトー会のハイステルバッハ僧院でも騒動が起こっていた。街道で、まるで「悪霊」の仕業としか表現不可能な異常な事態が生起している、と修道士たちまでもが困惑を露にしていた。そこに、まだ十五歳ではあるが、器量のよさと敬虔な信仰心でいずれは修道長になるだろうとの名声が高かった、一人の少年がいた。カエサリウスである。
カエサリウスは、数人の修道士たちと共に、悪魔祓いのために、今まさにエレオノーラのいる群れの辺りまで来ようとしていた。だが、カエサリウス以外の修道士、それに武器を手にした多くの兵士、観衆までもが、女王蜂の特有なフェロモンに一撃されて錯乱を来した。彼らは皆、イエズス・クリストを冒涜する言葉を口汚く発しながら、裸体になって小躍りし、「女王を!我等に女王の乳房を!唇を!子宮を!」と何度も絶叫し続けた。
カエサリウスはしかし、全く動じなかった。むしろ、彼は驚愕し、戦慄した。目の前で、ヨハネの黙示録に登場し、バビロンの暗喩に過ぎなかったかの大淫婦イザベラの化身ともいうべき少女が、無数の男たちに囲まれて自分を見つめていた。エレオノーラがカエサリウスを初めて目にした時の衝撃は大きかった。カエサリウスは、かつての恋人アルノーと瓜二つの美少年だったのだ。女王の中で、運命を呪う悲哀と粘液のように強烈な欲望が入り乱れた。
――見つけた!あの少年を捉えよ!捕獲せよ!全身全霊であの少年の精液を奪取する!
女王はヒステリックな声で天にも轟く大声を張り上げた。次の瞬間、無数の働き蜂たちが、カエサリウス目掛けて洪水のように押し寄せてきた。少年修道士は緊迫感で思わず身を構えた。これが最期になるかもしれない。少年の意識裡に、かつて学んだアクィナスの『神学大全』第一部第五十一問の言葉が蘇った。「悪魔は人間と性交することができる。悪魔は天使と同じく霊体である」。だが、直後に、カエサリウスは目を見開き、かつてカルワリオを上られた主が、罵倒と投石を浴びながら御受難へ向われた姿を想起し、口を開いた。
――主よ、彼らを御赦しください。ぼくは全てを主に任せます。あの少女の穢れし罪を取り除いてください…。
そして、少年は圧倒的な速度で押し寄せてくる働き蜂たちの奥に、改心したのか、涙を流している平凡な少女の姿を確かに見た。
元より、エレオノーラにアルノーという少年の許婚が存在し、彼の容貌がカエサリウスと双子のように類似していること――これは主の御計らいではなかろうか。蜜蜂の社会で、最も戦慄すべきなのは、女王という組織の「頭」ではない。そもそも、蜜蜂は女王中心主義的ではないのだ。彼らは、女王蜂が機能不全で、生殖能力に欠損ありと認識すれば、彼女を平然と処理する。それは産卵を終えた女王に対して、働き蜂たちが一斉に「シェイキング(揺すり)」という攻撃を加えて体重を激減させる行動に如実に反映されている。すなわち、真の女王とは個にあらず、蜜蜂という存在そのものなのだ。今、働き蜂の女性たちは、一斉に「女王が<いる>!」という女王健在信号から、「女王が<いない>!」という女王不在信号へと変化していることを察知した。
カエサリウスは、悪霊化した女性たちの洪水の下方を縫って、素早くエレオノーラのみを救出し、辺り一帯から脱出していたのである。これに働き蜂たちは大いなる怒りを覚えた。「女王が<いない>!」という凄まじい掛け声が響き渡り、辺りは暗雲が立ち込め、やがてアピスの村に覆うような不気味な霧が支配し始めた。カエサリウスは、エレオノーラの瞳を、馬上で見つめた。澄んで、その瞳は穢れが無かった。悪霊は去り、彼は自分の祈りが女王唯一人にだけ伝わったことを、主に感謝して涙を流した。
――どうして私を助けてくれたのですか?
――貴女に罪がないからです。罪があるのは貴女に憑いていた蜜蜂の悪魔だった。でも、それはぼくが祓った。
他方、女王を喪失した働き蜂たちは存続の危機に瀕していた。彼女たちは群れを成して近隣の川辺に集結し、口々に嘆きの言葉を発した。蜜蜂のコロニーが消滅するためには、ある二重の条件が生起しなければならない。一つ、現在の女王の死、二つ、未来の女王となる幼子の死。この二つの悪条件が重なり、初めて蜜蜂のコロニー全体は死滅へと至るとされる。が、エレオノーラは女王へ戴冠してまだ間もなかった。働き蜂の中の最も狡知に長けた者には、女王の死を想定して、あらかじめ生殖機能の衰退化を極限まで抑制させている者たちも存在した。その中に、ハラウェイという極めて好戦的かつ好色な働き蜂の筆頭がいた。
――おお!子宮が疼く!同胞たちよ、慌てるな!女王は死んだ!女王は人間どもの手に堕ちた!だが、今後は私が新しい女王へと戴冠する!我が生殖器の奥を見よ!受精嚢が発芽しつつあるのだ!安心せよ!安心せよ、同胞たちよ!
ハラウェイの生殖機能には確かに受精嚢が急速に発生しつつあった。一同はコロニーの危機を防ぐために、この新しい女王の誕生を甘受した。七度太陽が昇り、沈むまでの間、アピス派の悪霊たちは大地に住まうあらゆる優雅な、そして逞しい青年たちを物色した。やがて、総勢三十名の、特別な選別方法によって抽出された類稀なる美青年たちが、暗い洞窟の深奥まで連行された。美青年には高級男娼から、美貌の没落貴族の貴公子、それにある地方の双子の美少年の王子までもが含まれていた。彼らは皆、ハラウェイが発出する性フェロモンの魔性に堕ちて、瞬きもせずに虚ろな顔をしていた。
元より、コロニーで最も男根好きな働き蜂であったハラウェイは、舌なめずりしながら美青年、美少年たちを素っ裸にして一列に並べあげた。洞窟の入り口は閉鎖され、内部には不気味な蝋燭の火が揺らめいていた。ハラウェイは薄い純白の衣装をはらりと脱ぎ捨て、両腕を洞窟の天井にまで突き上げた。
――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!大淫婦が焼かれる火は、世々限りなく立ち昇る!
こうして、かつてソドムで行われた最も忌まわしい大乱交が閉鎖的な暗澹たる洞窟の奥で始まった。それは男根と大陰唇の口づけ、恐るべき饗宴であった。ハラウェイは肛門、膣、口唇、と三つの穴を男根で埋め尽くされ、激しいオルガスムの果てに泡を吹きながら賛美歌を口走っていた。ハラウェイの受精嚢も膣内も、既に溢れかえらんばかりの艶かしい精液の洪水で満たされていた。女王の膣内から溢れ出した余分な精液は、働き蜂の女性たちの複数の舌によって機械的に舐め取られた。
ハラウェイは急速に妊娠した。彼女の子宮は宇宙的に膨張し、下腹部は滑稽なほどの瓢箪型と化した。出産の開始である。ハラウェイは出産する時も、けして男根を手放さなかった。彼女は次々と大量に、自分とよく似た圧倒的多数の娘たちを洞窟のいたるところの穴に産み落とした。それは一人の母親ではなく、正確にいえば産卵機械であった。最も戦慄すべき異端思想の内部にも、未だ人間的な側面が残っている。全ての異端といえども、それは所詮、人が発案したものに過ぎない。だが、究極の異端とは、人間ではなく、昆虫の思考回路によって発案されねばならない。徹頭徹尾、蜜蜂社会の女王を中心としたコロニーこそが、全世界の縮図であり、全宇宙の真理であり、あらゆるグノーシス主義の最高形式である。人間は昆虫化しなければならないのだ。
洞窟内には、ハラウェイの流した愛液と精液射出機械と化した美青年、美少年たちの噎せ返るような精子の香りで満たされた。女王が何度も何度も新しい赤子を産み落とす傍らでは、働き蜂の女性たちが裸体で、かつ画一的な単純作業を繰り返している。
――おお!増えよ!満ちよ!いと愛らしき我等の娘たち!人間どもを根絶やしにせよ!人間どもを殺戮せよ!我こそは世の終わりたまう日に讃えられる新女王イザベルである!
やがて閉鎖されていた洞窟の入り口の岩場が蹴破られた。出産を終えた女王イザベルは、既に疲労困憊と体力の激減によって、皮膚は変わり果てた老婆のようになっていた。浴びるほど快楽を貪った女王の成れの果てが、今、美しい朝陽に両手を差し伸べた時、働き蜂たちが背後で大きく笑った。振り返ると、これまで人形も同然だった、黙り込んだ手下たちが、皆同じように薄気味悪い微笑を浮かべて女王を見つめていた。やがて、役立たずになった女王は働き蜂たちの手で嬲り殺された。「シェイキング(揺すり)」である。出産を終えた女王蜂は、働き蜂たちに小突き回され、体重を激減させ、やがて強制的な巣立ちを命じられるのだ。ハラウェイの娘たちの中から、やがて次の新しい女王が生まれるのである。そのために、働き蜂たちはロイヤルジェリーを製造し、支配階級と奴隷階級の差異化を図る。女王とは、コロニーのための一つの必要不可欠な、それ故道具に過ぎないのだ。
エレオノーラとカエサリウスは修道院で慎ましい生活を始めていた。無論、かつての女王の存在が人に知られてはならないと、彼は細心の注意を払って修道院の小部屋にエレオノーラを匿っていたのだ。夕暮れ、カエサリウスは白薔薇を携えてエレオノーラの元へ足を運んだ。彼女は沈んだ面持ちで、神聖な夕陽をその白い頬に浴びていた。やがて、ガラスのように美しい涙が頬を伝った。少年修道士は胸を締め付けられた。
――洗礼前だというのに、どうして涙を流されるのです?
彼が傍に寄ってそうやさしい声色で尋ねると、エレオノーラは思わず彼の顔をまじまじと見つめた。本当に、アルノーの生き写しだった。
――自分の血の中に流れている呪いが怖いのです。私はきっと、貴方さまと同じアダムの子孫ではありません。
――何をいうかと思えば、そんな小さなことを。貴女の出生がどのようなものであれ、そんなことはかまわないではありませんか。明日は洗礼式です。貴女はぼくらと同じ、主イエズス・クリストの福音を伝える信徒となる。ぼくはそれが嬉しいのです。
――カエサリウスさまはどうしてそれほど私にお優しくしてくださるのですか?私は貴方さまが最も忌み嫌う、悪霊に身を染めた女…。
――こんな愛らしい悪霊がどこにおられるのでしょう。ぼくは貴女を魔女などと貶める全ての人間と、今後闘うつもりです。貴女は魔女ではない。今では、ぼくの心の大切な支えになっているのですから。さあ、元気を出してください。
エレオノーラの頬が美しい朱色に輝いた。かつての女王は、今や平穏で清楚な美しい少女に戻っていた。二人は安心し、そして静かな沈黙が訪れた。
――ねえ、カエサリウスさま。教えてください。私とは、一体誰だったのでしょうか?私が生まれたアピスの村とは、一体何だったのでしょうか?
カエサリウスは冷静な面持ちで瞼を閉じた。
――おそらく、グノーシス主義の一派だと考えられます。
――グノーシス?
――gnosis、ギリシア語で「知識」を意味しています。彼らの宇宙生成論は非常にユニークです。世界は女性の巨大な「子宮」だとイメージされた。おそらく、揺籃期のグノースティコイ(グノーシス主義者)たちは、非常に苦悩に満ちた人生を歩んでいた。彼らは、神は最善であるのに、どうして世界に悪徳が栄えるのか理解できなかった。その葛藤から、ある双子の神が創造されたのです。ヤルダバオート(反逆する者)と、サクラス(愚かな者)という、アイオーンが。アイオーンというのは、最高存在の72人の子供たちで、全員が神的存在だとされています。実は、旧約聖書の神も、エルという名のアイオーンの一人に過ぎない、と彼らは考え始めた。これらアイオーンの中で、最もグノースティコイたちに崇拝されたのが、女性的な神的救済者である、バルベーロー・プロノイアという存在です。プロノイアとは、「処女なる霊」を意味しています。グノーシス・セツ派の文献として悪名高い『シェームの釈義』には、「ピュシス(自然)は四つの部分に分かれた。…それらは処女膜、羊膜、力、水と呼ばれた」という記述があるくらいです。バルベーロー・プロノイアは、父性原理よりも母性原理を強く宿し、同時にイエズス・クリストでもあると考えられました。アンセルムスが糾弾している『ユダの福音書』には、イエズスが「バルベーロー」という不死の王国から来たという記述があります。イスカリオテのユダだけが、使徒の中でこれを知り、イエズスはユダに「最後の日々には、聖なる世代のもとに引き上げられるお前を、彼らは罵ることだろう」と予言したと伝えられます。つまり、ユダは裏切り者ではなく、イエズスの大いなる使命を完全に理解していたが故に、裏切り者という最も低い役柄を自ら勇敢に演じた、とされています。これは正統派から徹底的に論駁されていますが、ぼくは真の信仰は、異端とは何かをきっちりと学んだ上にしか成立しないと考えています。
――もしかして、私の故郷のアピスも、そのバルベーロー・プロノイアを崇拝する人々と関係があったのでしょうか?
カエサリウスは深刻な面持ちで掌を握り締めていた。
――おそらくは。ただし、グノーシス主義にはカイン派、アダム派など幾つも諸派があるのですが、「アピス」と名がつく一派はぼくが知る限りでは見いだされない。7世紀のローマの石版に、昆虫の蜜蜂の姿をした巨大な悪魔が描かれているのは見かけたことがありますが…。
エレオノーラは思わず震え上がり、カエサリウスの傍に体を寄せた。
――ああ、カエサリウスさま!私は蜜蜂が怖い!怖いのです!たまらなく怖いのです!一体何度、自分が暗い洞窟の奥深くで、女王蜂として出産する凄まじい悪夢に魘されたことでしょう!
カエサリウスは怖がる少女の背中をそっと抱いて、髪を撫でてあげた。
――もう怖くはありません。なぜなら、ぼくがいるから。ぼくはいかなる悪霊にも、最早恐怖を感じない。貴女が傍にいる限り。
まだ慄く少女を、少年修道士は力強く抱き締めた。二人の身体がぴったりと触れ合うと、二人の心にはそれだけ強い安らぎが生まれた。もう二度と、エレオノーラはアピスの村に戻りたくなどなかった。このまま、ずっとカエサリウスと二人だけで静かな海辺へ越したかった。
魔女狩りの本質とは、人を焼き殺すことである。キリスト教以前の諸神信仰の中には、無論「頭に二本の角を生やした精霊」たちも存在していた。だが、浄化に躍起になっていた当時のローマ・カトリック教会は、人間の本質が多様性であり、宗教も民族も異なるが故に素晴らしいということを見誤っていた。教皇直属の異端審問所は、少しでもサバト的な香りを覗かせる街外れの怪しい老婆が存在しようものなら、彼女の娘、孫娘までをも告発し、容赦なく火炙りにした。それは、「イエズス」の名を乱用した紛れもなき宗教的暴力である。
無論、アピス派とてその例外ではなかった。ハラウェイが死に、洞窟で子供たちの羽化を待ち望むために密かに活動を続けていた働き蜂たちの存在は、地元の村人のありふれた小言から、果ては異端審問所にまで伝播した。多くの女性たちが、数知れない赤子を洞窟の奥で、暗い蝋燭を頼りに育てていた。異端審問官たちは、洞窟を見出すと、何の確認もせずに大量の火を投げはなった。熱さのあまり飛び出してきた女性たちは即座に捕獲され、頑丈な獣用の檻へ押し込められた。
だが、事態はそれで終わりはしなかった。カエサリウスがエレオノーラを匿う修道院の中にも、彼女に疑念を抱き始めた修道士たちがいたのだった。やがて密告がなされ、異端審問官が修道院にまでやって来た。カエサリウスに、未だかつてない激震が走った。このままでは、大切なエレオノーラまでもが「残党」として火刑に処されてしまう!異端審問官が修道院の屋根裏部屋から、地下の書庫までくまなく探索している期間、二人は近隣の風車小屋の傍で身を隠していた。
――カエサリウスさま、何ということをされたのでしょう。貴方さまが私と共にこうして逃げれば、貴方さまも疑われることになりましょう。二人が見つかれば、火炙りにされるのは私だけではなくなってしまいます。
カエサリウスは、覚悟を決めていた。既に洗礼を受けて、清楚な生活を慎ましやかに始めていたエレオノーラを密告した者が、自分の仲間の内にいたことに悲嘆していた。彼は聖職を捨ててでも、彼女を守り抜くことを主に誓約したのだ。修道長や司教、教皇が何をしてきたというのか?彼らはひたすら、罪のない辺境の村人たちを血祭りにあげ、全世界をキリスト教一色で塗り固めようとしているだけではないか!カエサリウスは自分が属する時代の哀しさを呪った。いつか、平穏に信徒がミサに与れる日は到来するのであろうか?もし、そのような未来があるとすれば、彼らは今日、行われている異端審問のことなどには気にもとめないほど、幸せで従順であって欲しい。少年修道士の悲痛な願いは、心底からエレオノーラという白薔薇を愛する気持ちに源を発していた。
――荒地です。荒地を越えましょう!ぼくは知りました。人間の暮らすところ、そこに荒地が生まれる。たとえヴァチカンに近い教区であれ、それは変わらない。行きましょう!ぼくは貴女と真の楽園を目指します!
――ああ、カエサリウスさま!でも、でもどうやって?どこに楽園などあるというのです!
カエサリウスは繋がれていた馬に飛び乗ると、エレオノーラを抱き上げた。
――とにかく、ここから離れるのです!ここにいては、貴女は確実に火刑に処される!異端審問官の拷問がどれほど凄惨を極めるか、貴女に話したくもありません!さあ、逃げるのです!
こうして、二人は草原、森を越えた。二人がヨーロッパを横断し、真の楽園を求めて疾駆している期間にも、火炙りの果てに轟く断末魔は後を絶たなかった。カエサリウスは、食料を維持するために、野原を走る兎などの動物を見つけては狩をした。その度ごとに、二人は主に祈りを捧げた。森の中では、隠遁者の老人が親切に果実を与えてくれた。二人は涙を流しながらそれらを食べた。いつしか、カエサリウスとエレオノーラと馬は、心を一つにしていた。彼らは、疾駆する祈りとなっていた。満天の星空の下でも、勇敢なる馬は二人を乗せて走り続けた。
――エレオノーラ…。ぼくは今、ようやく解ったよ。なぜ、君が蜜蜂の悪夢に魘されていたのかが。
だが、可愛い乙女はすやすやと少年の背中を枕にして眠っていた。カエサリウスは微笑み、馬に対して静かに語り始めた。
――これは、「生成変化」だったんだ。人間は、「人間で<ある>」という自覚を当たり前のようにして生きている。「私は人間で<ある>」ということに束縛されてきたんだ。でも、君の村はそうではなかった。君たちは、「私は蜜蜂で<ある>」という存在論的な変化を体現していた。「私は馬で<ある>」。「私は蝶で<ある>」。「私は渡り鳥で<ある>」。ごらん、人間にはまだまだ数知れない神学的な「変身」が待っている。でも、エレオノーラ、君はそれのせいで、こんなにも苦しんできたんだね。ぼくらは何になれるだろうか?ぼくらは、愛し合う、二匹の夢見る夢幻の蝶に<なる>ことは可能だろうか?きっと、できるんだ。ぼくらは最早、人間ではない。それは、悪霊になることを意味しない。ぼくらは、<なる>存在だったんだ。そうだろう?ねえ、エレオノーラ?
その時、草原の上を流星雨が滑り落ちた。カエサリウスの胸の裡に、イザヤ書の言葉が蘇ってきた。「狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏し、子牛と若獅子と肥えた家畜は共にいて、小さな少年がそれらを導く」彼はエレオノーラの頬の体温を背で感じながら、やさしい安堵の表情を浮かべた。
2008/05/19(Mon)20:13:44 公開 /
鈴村智一郎
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