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『消えていく!』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:藤野
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あらすじ・作品紹介
不条理な目にあった男の話です。
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平凡な人間である。平凡な職にて年相応の平凡な昇進を無し、平凡な家庭、そして平凡な名前を持っている。
会社ではおもねられる事もないが無為に蔑まれることもなく、歯車の一つとして平凡に機能し、そうして定時になればたった一人の家族の元へ帰る。二階建ての我が家では望んだが結局授からなかった子供の賑やかさはないが、二十年連れ添った妻が穏やかな微笑と共に迎えてくれる。けして華やかな美しさもないし、驚くほどの醜女でもないが、「あなた」と呼んで私を慈しみ心から愛してくれる妻。その優しい表情に人並みに癒されまたあるときは鬱陶しく思いながら夜をすごし、手料理を食べ、機嫌の悪い時には喧嘩をしながら、しかし翌朝にはまたいつもとおりに会社に向かう。
大きな満足もないが、心を抉られる不幸も無く、ルーチンワークを繰り返し日々を生きていく。私は平凡な人間である。平凡な男だ。義務と権利を淡々とこなし、心許した妻に優しく添われ、平凡に生きてきたのだ。
平凡に生きてきたはずなのだ。
どうにもこうにも名前が減っていく。最初私の名前は山田大輔であった。実に平凡な名であったが両親が大きな人間になるようにと祈って付けてくれた大事な名前だ。それが二週間ほど前からどんどん減っていく。真綿で首を締め付けるよう一文字ずつ。
「山田ダイスさん」
始まりは不惑に相応しく背負わされた四十肩を治しに行った整体である。私の名前を受付で呼んだ四十代後半の看護婦は、白粉の上に実にくっきり自分の目鼻を書いていると同じく滑舌もはっきりしていて大変聞き取りやすい。しかしまさかそれがこれから珍事の発端だと思いつきもしない可哀相な私は、え、と首を傾げる。そこでもう一度。「山田ダイスさん」。
やはりはっきりとそう呼ばれた。ダイスって、お前、ダイスなんて珍妙な名前があるか、漢字を書いてみろ。私は一瞬ムッとしたが、わざわざ言い直すまでもあるまい。看護婦に応えは返さず、無愛想な顔でぎしぎしと木造の床を踏みしめながら診察室に入った。
そこには顔見知りの初老医師が座っている。
「やあこんにちは」
皺の刻まれた顔をにこにことして笑う愛想のいい医師は人当たりもいい。やあ先生、この前もらった湿布のお陰で少しは楽ですよ、気を取り直した私は笑顔を取り繕ってそう告げようとした。しかしそれは結局喉から出ることはなかった。
「その後は如何ですかな、山田ダイスさん」
私は愕然とした。それが始まりである。
その後も名前は順調に消えて行き、「山田ダイ」「山田ダ」うんたら「山」さん、二、三日に一回、一文字ずつなくなるのだ。職場でも幾ら私は山田大輔だと説明しても、首を傾げて何言ってるんですかと笑うだけだ。
あまりしつこく言えばふざけないでくださいよもう、と怒鳴られる。私は山田大輔を名乗ってはいけないのだ。何故こんな不条理な事態に陥ったのか私には推論の仕様もなく、混乱する頭の中名前だけがどんどん消えていく。そうして今日はとうとう「や」だけに成ってしまった。
四月二十日昼食時の事である。
「起きて下さい、どうしたんですか遅刻しますよあなた」
四月二十一日は布団から出なかった。心配した妻が私を揺り起こすが私は頑として出なかった。粘ったが、結局妻は何も言わない私を無理に起こすことはせず、そのうち手は離れた。
「会社に電話しておきますね」
その言葉だけを残して妻の気配も離れる。二十年苦労を共にした彼女は私の怯えた気配をちゃんと読んでくれたんだろう。優しい女だ。
二十年間私を「あなた」としか呼ばなった彼女が私を呼ぶ呼称だけが一貫してこの二週間変わらない。減りもしないし増えもしない。いつもとおりに「あなた」、怯える私が日々狂乱していくのを心配そうに見つめていた。彼女だけが変わらない。その心強さは私を救い続けたのだ。
不安と恐怖にしっかりと布団の中丸まっていた私に、私には彼女だけだ、そんな気持ちがふと湧いてくる。心はどんどん大きくなる。私の名前が消えても、彼女だけは私をあなたと呼んで、今までどおりにこの家の中で傅いてくれたらいい。いや、そうに違いない。この二週間何の変化も起こさなかった彼女だけが私の味方なのだ。
私には彼女しかいないのだ。そう思えば妻の消えたこの部屋がいやに広く思えてどっと寂しさが迫った。
私は思わず起き上がった。今すぐ、彼女のそばに行って、また言われたい。そう思った。「あなた」、私をそう呼ぶ彼女だけが、この二人だけの寂しい家庭が、名前の喪失によって砂のように崩れ落ちて行く私の世界の中、空中楼閣のようにしっかりと佇み私に希望を与えてくれた。
妻に会いたい。私を呼んでくれ。私の名前を正しく呼んでくれなんて思わない。私を、二週間前と何ら変わらない男として、呼んでくれ。 彼女の背中を追う。
電話のあるリビング。どたどたとかけおりた階段の向こう、リビングのドアを開けた。
そこで私は気づいたのだ。人は人を区別し認識する為に名前を付けるのだ。名前を失えば、どうなるのか。
いつかできるだろう子供のために身を粉にして働いて立てた一軒屋。結局二人だけで過ごす事になったこの家。二人暮らしにしては広いリビングの中央、妻は軽やかに荷造りをしている。彼女が日々私たちの暮らしのために磨き上げているフローリングの上で、彼女の家はここではないとでもいうかのように、いるべきでないところからでていく気軽さを持って、荷物を纏めていた。
私は驚いて声も出ない。何をして居るのだ、そう問いたくてもここ最近の不条理で訓練された頭は恐るべき推察を即座にはじき出してしまったからだ。分かってしまった。二、三日に一度消えるはずだった私の名前はどうしてだか今、死を急いだのだ。
ああ、私の名前は今、消えたのだ。
名前は全ての関係性の根源である。認識されるべき名があるからこそ、私達は婚姻し夫婦となった。なら名前が消えたらどうなるのか。簡単である。
私達はもう夫婦でない。夫婦でないから、彼女はこれから出て行くのだ。リビングの入り口で立ちすくんでいる私など気配すら知らないと彼女は身支度を急いでいる。彼女が好むパステルカラーの洋服がどんどん大きなトランクに詰め込まれて行く。私と妻の生活の痕跡を彼女がけしていく。名前のない私は、もう彼女の妻ではない。彼女の妻の山田大輔ではないのだ。
私は立ち竦む。
「……、」
私は声をかけられない。魯鈍のように立ちすくんでいる。私は立ちすくんでいる。彼女はこれから何処に行くのか。しかし居るべきどこかへと出て行く気軽さを持って彼女は微笑んでいる。
穏やかな横顔。パステルカラーが詰め込まれる。白い掌にダブルベッドのベッドヘッドに置いてあったハンドクリームを思い出した。それはもう、恐らくは使われる事はない。ここはもう、彼女の家ではないのだ。彼女の夫の名前は消えたのだ。名前が消えたなら私の存在は無になるのか。彼女はもう、この家には居てくれない。荷造りをする彼女を深い絶望と共に凝視する。お前、ああ、私の名前……、
……果たして私たちの関係が消えたから、彼女は出て行くのだろうか。
怖い、怖すぎる想像がたちぼうけの私の脳にふと浮かんで、私の絶望は絶句に変わった。それも同じく、いやもっと深い絶望によるものであったが。果たして、消えたのは関係性だけなのか。名前は全ての関係性の根源である。それはつまり、すべてのものは名前を持つからで。名前を持たない存在などこの世には存在しない。それはつまり、名前が消えたら、存在としての前提がなくなるのではないか。私は存在しているのか。私は気付いてしまった。彼女は果たして、私の気配に気付かないだけなのか?
名前が消えた私は今、存在として、認められているのだろうか?
私は彼女にますます声をかけられなくなって、妻の横顔を見つめ続ける。その横顔が、私の如何なる怒鳴り声も気付かずに、私の存在に見向きもしなければ、私はどうすればいいのだ。
私は怯えて、彼女の横顔を眺める。私の名前、私の名前。誰が奪ったのだ。私の名前は何処だ。妻の鼻歌が聞こえる。私の耳には彼女の声が聞こえる。彼女の耳に私の声は聞こえるのか?二十年連れ添った私の声も最早、彼女の中ではなくなってしまうのか?
その唇から「あなた」と私を呼ぶ声が聞こえる事はもう、なくなったのか?
私は全ての存在から消えてしまうのか?私は怯える。それは絶望だ。私には耐えられぬ絶望だ。怯え、祈り続ける。返してくれ、私の名前。私はまだ消えたくない。出て行く彼女を止めたくて仕方がないのに、彼女に声をかける踏ん切りがどうしてもつかずに立ちすくんだまま、私の名前、私の名前、私は、もうどこにも、いけないのか。
手を緩める事のない妻の横顔を見つめ、私は目を見開いて阿呆のように呟き続ける。
私の名前、わたしのなまえ、私の名前……、
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2008/03/10(Mon)14:09:29 公開 / 藤野
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■作者からのメッセージ
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