『いつかブラジルの空に』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:プラクライマ
あらすじ・作品紹介
会社に入社したばかりの頃、僕は彼女に出会った。彼女は絵を描く人だった。抱きしめたくなるような青空をキャンパスに閉じこめた。そして親友の西山君は彼女のことが好きになった。二十代のほろにがい思い出。
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今から考えると、あれは恋だったのだと思う。
「おもしろそうね」
僕は彼女の口ぐせをつぶやいてみる。彼女はひと月前に会社を辞めた。そして、なんだかつまらなくなった。この高層ビルから眺める都会の街並みにもいい加減飽き飽きしている。風景のずっと先に、真夏の太陽に輝く積乱雲が浮かんでいる。
彼女もこうやって、外ばかりを眺めていた。絵を描く人で、抱きしめたくなるような青空をキャンバスに閉じ込めた。
「おい、ブラジル。ハイアンドドライ手配したか?」
先輩が怖い顔で睨んでいる。僕は頭をかきながら謝った。先輩は舌打ちすると、
「ぼーっと、空ばかり見てんじゃねえよ」と言った。
加入者原簿を確認しマトリックススイッチが入ったコンソールに向かう。通話していないことを確認した上で、加入者線を提供している通信事業者に確認を依頼する。ハイアンドドライというのは電話線が持ちきりになった状態のことだ。通話していないのに、受話器が外された状態が続くと、交換機は電話線への給電を止める。陸に捨てられた魚の様子から来た言葉。うち捨てられ、自分ではどうしようもない状態。
僕は「ブラジル」と呼ばれていた。会社へ入ったばかりの頃、自己紹介で「ブラジルに行きたい」と言ったのが始まりだと思う。「生意気だ」と叱られた。なんだか会社というところは窮屈なものだと思った。
同期の西山君が運用室にやって来た。彼は施設部で課金設備の開発をしている。西山君は環境問題に並々ならぬ関心を持っている。入社早々、資料を片面コピーした上司に文句を言ったことで有名になった。ただ両面コピーを奨めただけではない。宇宙から見た地球の青さと、木が自然の中でどのような役割を果たしているのかを、得々と語り続けたのだ。いい歳をした管理職が、入社したばかりの若者に、躾めいたことを言われるとは、夢にも思わなかっただろう。
西山君は、こちらを一瞬見ただけで、黙ってマシンルームに入っていった。ちょっと前なら「やあ、元気?」と声をかけてくるところだ。でも、最近彼は元気がない。当然だろう、恋人と別れてまだひと月しか経っていないのだ。
僕は、西山君にあえて冷たく接している。彼女のことで腹立たしい思いがあったのと、僕が慰めても効果がないと思ったからだ。でも、本心は、早く立ち直って欲しいと思っている。
── Don't leave me high, don't leave me dry. ──
先輩が、少し前にラジオで良く流れていたレディオヘッドの歌を口ずさんでいる。僕は窓の方に目をやった。彼女が作業で使っていた窓際の机に、局データのキングファイルが残されている。
「本気で絵の勉強をすることにしたの」
そう言って彼女は旅立っていった。キングファイルは、いつもさびしい思いをしていたに違いない。
入社したばかりの頃、僕には友達がいなかった。西山君も同じだった。類は友を呼ぶ。いいや、僕は、こんな奴とつるむのはごめんだと思っていた。でも、一人だとなにかと不便なので、嫌われ者同士行動を共にすることにした。
西山君は周りの評判なんかお構いなしに、自分のスタイルを貫き通していた。僕がどんなに「ブラジル」と呼ばれからかわれても、卑屈にならずにすんだのは、近くに西山君がいたからだと思う。
最初の盆休みに二人でドライブに出かけた。西山君は、初めてのボーナスとローンで、中古車を購入した。車内はきれいに磨かれていた。土足禁止でもちろん禁煙だ。西山君は信号待ちでは必ずエンジンを切った。
「ぼくたちは、限りある資源をできるだけ有効に使う義務があるんだ。それに、無駄な二酸化炭素を排出しないように心がけないとね」
「はいはい」
僕は半分あきれたように言った。車は混雑した都内の道路を走り続ける。一時間ほどしてようやく練馬ICに着いた。高速道路に入ると帰省の車で大渋滞だった。
「うげ、混んでるじゃねえか」
「まあ、ゆっくり行こうよ」
「でも大変だぜ、これは」
西山君は不満げな僕の方を見て、にっこりと笑った。そして、軽く伸びをした後、ハンドルを握り直した。しばらく走っても渋滞が解消される気配は全くなかった。進んだり止まったりを延々と繰り返す。そのうち、僕はトイレが気になり始めた。
「でもさあ、女の子の気持ちっていうけど、男も言いたいことがあるよね」
僕は適当に返事をしながら、尿意のやり場を考えていた。渋滞二十キロ。とても次のパーキングまで我慢できそうにない。車から降りて路側帯でやるか。でも、目にした人が不快な思いをするだろう。そのうち進退きわまる状態になってきた。もう迷っている暇はない。僕は目の前にあったペットボトルを手に取った。そして、その中にほとばしらせた。
「えー」
西山君は信じられないといった顔でこちらを見ている。
「もう二度と乗せないからね」
西山君がわめくのをなだめながら、僕はそっと窓を開けた。真夏のムッとするような空気が車内に入ってきた。僕は排気ガスの匂いを楽しむように深呼吸した。
入社二年目の春がやって来た。西山君は恋をした。彼女は運用部門の先輩だった。背が高くきれいな人だ。西山君は、交換機室で初めて彼女を見た瞬間、魅了されたらしい。僕も西山君も彼女と話したことがなかった。時々、交換機室に現れる彼女を少し離れたところから眺めていただけである。
彼女の評判は悪かった。部署内では仕事ができない人ということになっていた。時々、先輩のGが彼女の悪口を口にしていた。作業予定を出さずにアラームを出したとか、回線を閉塞せずに試験をしていたとか、実にくだらないことばかりだ。噂によると、Gは彼女に言い寄ったことがあるらしい。たぶん、相手にされなかったのを根に持って、仕事で仕返しをしているのだろう。
しばらくした頃、社内報に彼女の絵が有名な展覧会で入選したと紹介された。僕と西山君は彼女の絵を見にいった。そこには、吸い込まれるような青空が描かれていた。丘陵地帯のなだらかな草原。その中に一本走る道を赤い自転車が走っている。銀杏の木は色付いていた。その日から、西山君はさらに元気がなくなった。そして、毎日のように、僕に眠れない夜のことを語るのだ。
ある日、僕は『ジョアン・カエタノ劇場のエリゼリッチ・カルドーゾ』を聴きながら、机の上に広げた南米の地図を眺めていた。僕は、ショーロが響く町を歩いている自分を想像した。
「おもしろそうね」
突然の声に驚いて振り返ると、彼女がのぞき込んでいた。僕はヘッドホンを外した。
「南米が好きなんだ?」
そう言うと、彼女はにっこりと笑った。トワレのやわらかな香りがひろがった。僕は胸の鼓動が速くなるのを感じた。
「あなた、新入社員紹介の時に、ブラジルへ行きたいと言った人ね。面白いことを言う人が来たなあと思っていたの」
「ブラジル好きなんですよ」
「ふーん。ねえ、何を聞いているの」
私はヘッドホンを彼女に差し出した。彼女はそれを耳に着け、両手で耳を覆った。
「あの……」
僕はおそるおそる話を切り出した。彼女はヘッドホンを外すと「何?」と言って首をかしげた。
「実はあなたのことが好きなんです」
一瞬、彼女は怪訝な顔をしたが、すぐに笑い出した。
「あなた、やっぱり面白いことを言う人ね」
「えー、というか、西山って奴があなたのことを好きなんです。すいません。突然、こんな話をして。ずっと前から憧れていたみたいで、最近は眠れないほど思い詰めてます。はっきりふられたら、あいつもあきらめがつくと思うんです。一度だけ話を聞いてやってもらえませんか」
「いいわよ」
彼女はあっさりと承諾した。
次の日は雨だった。僕と彼女と西山君は会社の近くにあるカフェに入った。店内にはピアソラが流れていた。僕は彼女と並んで座った。西山君は見ていられないぐらいに舞い上がっていた。そして、どれほど彼女に憧れているのかを懸命に説明した。
「宇宙から眺めると地球はあの絵のように空色に輝くはずです……」
西山君はほとんど泣き出しそうだった。
彼女は、
「少し、外を歩きましょう」と言った。
僕たちはカフェを出た。まだ雨は降り続いていた。色とりどりの傘が行き交う夕暮れの街に、西山君と彼女の傘がまぎれ混んで行くのを、僕はひとりで見送った。
しばらくした頃、僕たちは一緒に昼食を食べた。会社から少し離れた場所で待っていると、彼女と西山君がやって来た。並木道にみどりいろの風が吹いた。もうすぐ夏である。西山君は幸せそうだった。週末になると二人で出かけているらしい。
僕たちはイタリア料理店に入った。
「最近、Gさんが親切なんだ」西山君が言った。
僕は顔をしかめた。彼女はにこやかな顔でメニューを広げると、
「さあ、何にする?」と言った。
僕はリングイネのシーフードソースを注文した。新緑の頃よりも濃い緑色に落ち着いた街路樹が風に揺れている。その下を半袖のシャツを着たサラリーマンが行き交っていた。
西山君が再びGの話をしようとした。
「Gなんてのはくだらない人間だと思うぜ」僕は遮るように言った。常日頃、Gに「ブラジル」と揶揄されていることを面白くないと思っていたのだ。
「そんなことないよ。親切な人だよ。今週末テニスの合宿に誘われたんだ」
「お前、行くつもりかよ」
西山君は頷いた。僕は彼女の方を見た。
「おもしろそうね。でも、私は行かない。家で絵を描いてようと思う」
そう言うと、彼女はサーブされたスパゲティを静かに食べた。僕は、この変わり者トリオに居心地の良さを感じていた。だから、西山君が、普通の人たちと交わりを持つのを喜ばなかった。
僕の思いとは裏腹に、西山君はGに近づいていった。そして、Gと親しくなるにつれ、彼女によそよそしくなった。気が付くと、にぎやかだが、どことなく軽薄さが漂う集団の中に彼を見付けることが多くなった。あんなに馬鹿にされていたのに、今では仕事ができるということになっている。
僕は勝手にしろと思った。もう、会社を辞めてブラジルに行くしかない。
ある日、サンバの起源について考えながら、僕は南アメリカの地図をうっとりと眺めていた。
「おもしろそうね」
驚いて振り返ると、彼女がのぞき込んでいた。おかしくて仕方がないといった風に笑っている。
「ブラジルに行くことにしました」
「私も会社を辞めることにしたわ」
「え?」
「本気で絵の勉強をすることにしたの」
彼女はいつものように窓の外を眺めた。高いビルが並ぶ風景のずっと先に、積乱雲が銀色に輝いている。
「西山が…」と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
しばらくして、彼女は会社を辞めた。簡単に「イタリアへ行きます」とだけ書かれた挨拶メールが届いた。僕は返信に「アテ・アマンニャ」と書いた。そして「メウ・アモール」と呟いた。
数日後、西山君から電話がかかってきた。Gはことあるごとに、彼女はろくでなしだとふきこんだそうだ。西山君はGに担ぎ上げられ、その信頼を裏切ることができなかったと言った。どんなによそよそしい態度をとっても、最期まで彼女は笑ってくれたそうだ。西山君は泣いていた。僕は何も言わずに一方的に電話を切った。でも、ブラジル行きは延期することにした。
あれからひと月が過ぎた。ブラジルの空は彼女の絵のように輝いているだろう。僕はいつかブラジルへ行こうと思っている。
(了)
2008/02/16(Sat)10:29:32 公開 /
プラクライマ
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