『仮初』 ... ジャンル:ミステリ 未分類
作者:ジョブ男                

     あらすじ・作品紹介
何もないことが、何かを感じさせる。虚無=真実なのか。犯人の目的は?ロンドンを舞台に若き弁護士が虚無の中でもがき、真相にたどり着くことができるのか?

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第一章     虚無

 ここを訪れたのはたった一つだけ、違和感があったからだった。真実だが真実ではない。虚偽のようで虚偽ではない。矛盾……いや、矛盾は存在しなかった。ただ呆気ない終幕が腑に落ちなかっただけのことであった。
 リッチ・リバーは今もなお殺伐とした空気を放つエッジウエア通りを走行し、マーブル・アーチ駅の砂利の浮いた路肩にトヨタ・カローラを停めた。上司の命令だったわけでも、公的な刑事捜査だったわけでもなく、違和感という単なる好奇心が彼をここへ導いたのだ。彼の思い描いた不謹慎とも思える好奇心は、胸を躍らせる期待感とは異なった質のものであったが、何かの始まりを告げる予兆のような気がして、ここへ足を運んだのだった。朝四時のマーブル・アーチ駅は静寂のみを纏い、流動性や活気が欠如しているように思える。電車の走らない駅は他の何よりも異彩を放っており、始発電車をただ待つのみだった。リッチ・リバーはマーブル・アーチ駅の脇を通過し、目的地であるハイド・パークを目指した。
 マーブル・アーチ駅の目と鼻の先に位置するハイド・パークは一年中緑を提供しているロンドン最大の公園である。一四〇万uの敷地を有し、芝に覆われた園内には散策路が長く敷かれている。水鳥の宝庫サーペタイン池や騎馬専用の道ロットン・ロウがあり、数々のモニュメントが配されている。
 予想していた通り園内には人はおらず、それと同時に公園として必要な和気藹々としたイメージも感じられなかった。あるのは「立ち入り禁止」と書かれた黄色のテープのみ。公園は封鎖され、その存在意義を失った姿を虚しく露呈させていたのだった。リッチ・リバーは「立ち入り禁止」の枠をこえて封鎖地区へと入っていく。
 ポケットに手を入れた姿は二五歳とは思えないほど大きく見える。彼の好奇心は次第に強くなっていく。二日前に体験した好奇心を確認する時はだんだんと迫っていく。そしてそこから何かが始まる気がして彼は身震いをした。周辺に咲くキキョウやコスモスの花もさらりと揺れる。まだ朝日を受け入れていない夜空が空ではなくただの闇に見える。何もない闇。彼は近づいてはいけない場所に近づく。終幕はこんなにも簡単なものなのだろうか。若き弁護士リッチ・リバーは、終幕を迎えた殺人現場を訪れた。

――五日前

 娼婦メアリ・シグマンズは家路を急いでいた。彼女は毎晩午後一〇時には帰宅していたのだが、八月一一日は客と話しこんでしまい、マーブル・アーチ駅に到着したのが午後一一時五五分。メアリはイギリス各地を移動して営業を行う娼婦であったため、この週はメイフェア地区のグロヴナー・ハウスと呼ばれる中級ホテルに滞在していた。メイフェア地区は西側がハイド・パークに隣接しており、グロヴナー・ハウスへ行くにはハイド・パーク内の園路を通るのが一番の近道であった。ここ数日はそのようにして帰宅していたため、八月一二日という後に彼女の命日になることとなった日も同様に園路を歩いていた。
 彼方遠くから聞こえる鐘の音、ビックベンが一二時を刻んだ印である。闇の中での音色は何故こう不気味なのだろうかと彼女はふと考え、同時に身震いをした。ただの身震いだったのかもしれないし、身震いではないかもしれない。メアリ・シグマンズの目の前から光がなくなった。今までチラついていた微かな街灯さえも。手には僅かに生暖かい感触があったが、その触覚すらも薄れていく。
 メアリ・シグマンズの遺体は午前六時まで夜風に晒され、それまで誰の目にも触れなかった。早朝ランニングでハイド・パークの園路を走っていた会社員が遺体を発見し、警察と救急車を呼んだ。事件はあくまで一つの殺人事件として扱われ、殺人現場が保存されただけで、公園全土が封鎖させるような影響力は有していなかった。勿論、警察は被害者の身元調査や犯人逮捕に全身全霊をかけたが、一日では容疑者を特定することさえできなかった。そして「ハイド・パーク殺人事件」と名づけられた悲劇の捜査は、この一日で改名されることとなる。リッチ・リバーが衝撃を受ける二日後までの被害者人数は四人、「切り裂きジャック」と呼ばれたかつての惨事が「ハイド・パーク連続娼婦殺人事件」として現代に蘇り、ロンドンの街を悪夢へと変えていった。


メアリ・シグマンズ
 享年 二四歳 
出身地 ランカシャー
職業 娼婦  
家族 未婚 父母はランカシャーに在中 兄は現在日本に滞在中
凶行現場 ハイド・パーク西側園路 
死亡推定時刻 二〇〇五年八月一一日午後一一時四五分〜八月一二日午前〇時一〇分
犯行手口 咽喉に二箇所の切傷 胸部に一箇所の深い刺傷
発見者 トマス・ロード 会社員


キャシー・ルイスウッド
 享年 三〇歳
 出身地 ケンブリッチ
 職業 娼婦
 家族 未婚 父は三年前に肺がんで死去 母はケンブリッチ在中
 凶行現場 ハイド・パーク最奥サーペタイン池周辺
 死亡推定時刻 二〇〇五年八月一二日午後一〇時〜八月一二日午後一〇時半
 犯行手口 腹部に数箇所の深い刺傷
 発見者 ジョージ・ランカスタン 会社員


キアス・セリダー
 享年 二十八歳
 出身地 ロンドン
 職業 娼婦
 家族 既婚 夫はロンドン在中 子供なし 父母はロンドン在中
 凶行現場 ハイド・パーク東側園路
 死亡推定時刻 二〇〇五年八月十二日午後十一時四五分〜八月十三日午前〇時
 犯行手口 胸部に一箇所刺傷 腹部に二箇所の深い切傷 背中に暴行の痕
 発見者 シンジ・サイトウ(斉藤進二) ヒナ・サイトウ(斉藤陽菜) 旅行者

リリー・メイブリック
 享年 三十二歳
 出身地 ハンプシャー
 職業 娼婦
 家族 未婚 父母は現在リヴァプール在中 弟は現在アメリカに滞在中
 凶行現場 ハイド・パーク南側入り口付近
 死亡推定時刻 二〇〇五年八月十三日午前三時〜午前三時半(第三の被害者キアス・セ
リダーと同時期に発見)
犯行手口 咽喉に数箇所の切傷 内二箇所は深い傷
発見者 チャールズ・クリーク 警察官


「理由は何もない。ただ生を与えられた人間はいずれ死を与えられる。それだけのことだ。」
殺人鬼カール・ジャック・ネイルシガーズは、八月十四日午後四時、王立裁判所第七法廷でそう呟いた。

――二〇〇五年八月十三日午後一二時二十五分

 突発的に起こった天災は突発的に去っていくものなのかもしれない。ほんの数日の悪夢から目が覚めたように、ロンドン警察所に一人の男がやってきた。
 警察署は「ハイド・パーク」関連の事件にある共通点を見出し、連続殺人だということを念頭において捜査を進めていた。ロンドン各地を点々として営業している娼婦。しかし現場に証拠は何一つなく、捜査は難航していた。目撃者もいないため犯人像がつかめず、娼婦に恨みを持っていること以外に何の突破口も見つからずにいた。
 警察署に尋ねてきた男は二五歳くらいの若者で、背丈は高くがっしりとした体格をしている。高貴とは感じられないぼてっとした服装が彼に不潔というレッテルを貼ってしまう契機となった。それでいて不気味とは思えない顔立ち、髪はきちんと整えられており、眼もパッチリとしている。
 男は慌しい警察署に入ると、受付へと向かった。
 男は殺人事件に関して重要なことを知っていると言った。
 男は受付係によって署長室へと案内された、必然的に。
 男は自らをカール・ジャック・ネイルシガーズと称した。
 男は自らに不利な確固たる証拠を持ち合わせていた。
切り裂き事件は実に呆気ない幕切れとなった。そしてこの一日後、急遽王立裁判所で彼の裁判が行われることとなる。刑期の確定でも、賠償金の確定でもなく、ただ純粋に男が「犯人」なのかどうかという見極めが議題だった。


 二日前に裁判を見てから彼の感性はどうも鈍っていた。終幕を迎えたはずの殺人現場を訪れても不安感のみが心を満たした。彼は納得していない。殺人鬼が裁判所で呟いた一言が頭を離れない。
「理由は何もない。ただ生を与えられた人間はいずれ死を与えられる。それだけのことだ。私は死刑でも構わない。ただ私が四人の娼婦を殺害したのは紛れもない真実だ。君たちが虚無感に苛まれ、動機という稚拙なものを探しているのだとしたら、それは無駄。何故なら理由など何もないから。仮初の理由があったとしても。」
 リッチ・リバーは最後の一言が頭に引っかかっている。その発言後、殺人鬼は黙秘を続け結局最後まで何もしゃべろうともしなかった。
 弁護士事務所の先輩であるジョージ・ブックマンが殺人鬼を弁護することとなっていたため、彼はこの事件に関して詳細を知ることを許されていた。詳細なんてものがあるとすれば、それは「仮初」の詳細だったのだろう。故に彼は一人で公園を訪れることとなったそうでもしなければ、事実が真実になり、真実が事実になることは永遠になくなってしまうからである。
 

2008/02/04(Mon)01:26:04 公開 / ジョブ男
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