『悲しみと憎悪の華(仮)』 ... ジャンル:未分類 異世界
作者:烏丸 緋禽                

     あらすじ・作品紹介
史実とは全く異なる異世界での戦国の世の物語。 尾張国主・織河信芳の妹である千代は、佐渡国主・白崎長政へ嫁ぐことが決まっていた。 しかし、その婚姻には、同盟国である両国の同盟強化と言う見せ掛けの目的の裏に、もうひとつの恐ろしい真実があって……

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 序章 


 時は乱世。
 弱き者は死に、強き者は己の一つの志とともに、戦に明け暮れた時代。
 
 ―― 尾張・壬生城

 梅雨前のどんよりとした暗い雲が、空を覆っている。
 千代は壬生城の中心とも言える場所に位置する庭を眺めることができる廊下にいた。
「姫様、そろそろお部屋に戻りませぬか」
 侍女の槙乃が、その儚げな背の内掛けを掛けなおしながら、千代の横顔を覗いた。
「まだ、ここにいたい」
 千代がそう言うと、槙乃は苦笑混じりに軽いため息を吐く。
「姫様がそう言うのなら、いいですけどね」
 昨夜降った雨のせいで、庭の木や花は、地に落ち損なった雫を乗せて、重そうに地面に垂れている。千代の足元の床板も湿気を帯びているようだった。
 やがて、槙乃が何か思い出したような表情を浮かべ、千代の白い手を取った。
「けれど、やはりお屋形様に気付かれてしまう前に、部屋に戻られたほうがようござりませぬか」
 千代の兄、お屋形様と家臣から呼ばれる信芳は、女が城内をうろつくことを極端に嫌がった。それは城内では知らぬ者がいないほど有名で、千代も勿論それを知っている。
 槙乃の言葉を聞いて、同感だと思ったのか、顔をしかめながら、振り返った。
「やっぱり、部屋に帰る」
「では、戻りましょうか」
 槙乃が頷いて、千代はその場を立ち去ろうとした、そんな時だった。
 二人がいる場所の向かい側の、天守へと続く長い渡り廊下から、鋭い声が上がったのは。
「其処で何をしておるか!! 」
 その声に千代と槙乃がびくっと、身を奮わせる。そして、その声の持ち主へ視線を移した。
「兄様……」
 信芳は、千代達のいる場所へ、足音荒く向かってくる。その顔には、凄まじい怒気が浮かんでいた。槙乃は慌てて、信芳に伏礼したが、信芳はそんな槙乃には構わず、千代の目の前で立ち止まると、表情とは裏腹の、低い静かな声音で言った。
「ここで、何をしておるか」
 千代が、ゆっくりと信芳を見上げる。
 しかし千代は黙ったまま、口を開こうとしない。そんな千代の態度に、信芳は何を思ったか、腰の太刀に手を掛けた。
「この城の主は誰ぞ……」
 獣の様に低く唸ると、腰から太刀を引き抜いた。
 その時だった。
「おやめくださいませ!! 姫様は、御庭を眺めていただけで御座いまする!! 」
 それまで黙って脇に控えていた槙乃が、声を張り上げてそう叫んだ。そして千代を庇うようにして、二人の間に割り込むと、信芳に向かって、額を湿気を帯びた床に擦り付けんばかりの勢いでひれ伏したのだ。
「何故…」
 槙乃は誰にも聞こえぬ様に、呟いた。
(恐ろしい御方……何故、たった一人の肉親にこう辛くあたられるのだろう)
 恐怖と怒りに体を震わせながら、そう思った。
 そう、千代にとっても、信芳にとっても、肉親と言える存在はお互いだけなのである。

 十年前、織河家は重臣・野間昌運の謀反によって滅亡の危機に陥った。昌運が織河家の血を引く者は全て殺そうとしたからである。しかし、当時元服したばかりだった信芳は、幼い千代とともに、命からがらその刃から逃れることができた。
 信芳は昌運に復讐を誓い、その翌年には山崎の地にて、その誓いを果たすことに成功した。その後は、混沌に陥っていた尾張を平定し、その力を見せ付けるかのように、壬生城の築城に着手し始めた。
 そして二年前、この壬生城が完成したのである。それと同時に、信芳の視点は尾張という一国から、乱れた世に移っていった。

(思えば、あの頃からだったかもしれない……)
 信芳の千代に対する態度が変わり始めたのは。
(姫様は気づいているのだろうか。いや、きっと気づいているに違いない。)
 千代は、年を増すごとに、女の槙乃でさえ時折見惚れてしまうことがあるほど、美しい娘に育っていた。現に噂を聞きつけた佐渡の白崎氏から、縁談もきており、その輿入れも決まっていた。
(戦国の常とは言え、実の妹を他国との同盟に利用するのだ……ああ、昔はあんなに仲の良い御兄妹でしたのに!! )
 槙乃は心の中で、嘆いた。
 十年間侍女として、常にその傍に控えていた槙乃にとって、千代が辛い思いをするのは、我慢できない。
(姫様が、何かしたというのか! )
 槙乃には、千代が信芳に対して何かしたようには思えなかった。

「女が! 邪魔立てするな!! 」
 信芳の怒鳴り声で槙乃は、はっと我に返る。
「兄様!! 止めてっ!! 」
 千代が悲鳴に近い声を上げるのと同時に、信芳の刀が槙乃を目掛けて振り下ろされた。
 槙乃は反射的に目を閉じる。恐怖に陥る間も無かった。
 金属と金属がぶつかりあう音が響いた。
 いくら待っても振り下ろされてこない太刀。槙乃が恐る恐る目を開けると、千代が己の懐にしまっていた脇差で、信芳の刃を受け止めていた。
「姫様!! 」
 槙乃は驚いて、悲鳴を漏らす。しかし二人は槙乃のことなど、最早眼中にないかのようだった。
「兄様……いくら兄様でも、槙乃を殺すというのなら、千代が兄様を殺します」
 千代の、信芳を見る眼差しは真剣そのものだ。その瞳のなかには、静かな怒りと、実兄に対する殺意さえ、少なからず混じっていた。
「ほう……貴様如きが、余を殺すと言うのか」
「はい」
 千代は迷わず頷いた。
「囀るなっ!! 」
 怒鳴り声を発するとともに、信芳は太刀を弾いた。千代の脇差はいとも簡単にその手を離れ、弧を描きながら、庭の湿った地面に突き刺さる。
 信芳は太刀を鞘に納めると、脱力した様に膝を突いた千代を冷たく見下ろした。
「貴様如きに、余を殺すことが出来るとでも? 」
「できます」
 千代は尚も引き下がらなかった。信芳はそんな千代を見下ろすばかりである。
 束の間の沈黙の後、信芳は羽織を翻し、千代と槙乃に背を向けた。
「千代よ……今宵、余の部屋に来い。無論、一人でな」
 そう言い放つと、早足に去っていった。

 ――夜
 どんよりした暗い雲の間から、満月が微かな月光を放っている。
 信芳の部屋には、千代と信芳、そして織河家忍部隊・饗談衆の頭である凛の三人が、暗い影を落としていた。
 わずかな蝋燭の灯りに、照らされた部屋は、暗い。
 千代が部屋を訪れてから、始めに口を開いたのは、凛だった。
「姫様、このような夜分にわざわざ来て頂き、真に申し訳ありませぬ」
 そして深々と頭を垂れる。千代はそんな凛を見て、首を振った。
「凛が謝ることではないわ…千代を呼んだのは、兄様だもの」
 そして、真正面の上座に座る無言の信芳を振り返る。
「ねえ、兄様」
 信芳は鼻を鳴らしただけであった。

「長政を殺せ……千代」
 千代は、己の耳を疑った。否、信芳の口から発せられた言葉を疑った。
「何故?」
 思わず、問い返していた。千代は、戸惑いを隠せない。
 信芳はそんな千代に、冷たく言い放つ。
「知れたことを聞くでない。この織河信芳が天下を獲る為よ」
 千代は脇に控える凛を見た。凛の表情は石のように動かない。千代は、静かに首を振ると、信芳へ視線を戻した。
「何故、千代が殺さなければならないの……殺すのなら、千代じゃなくても、この織河には暗殺の手練れがいるじゃない! 」
 取り乱す千代とは反対に、信芳は落ち着いた静かな声で、言った。
「殺すか、死ぬか。貴様の選択肢はこのふたつだけだ」
 だが、千代もこればかりは、と引き下がらない。
「殺すのなら、千代が嫁ぐ必要なんて、ないじゃない。……兄様は、いったい何がしたいの? 」
 千代が更に言い寄る。言い始めたら、自分でも止めることができなかった。
「兄様はっ……」
「選べっ!!! 」
 信芳の怒鳴り声で、千代は思わず口をつぐんだ。そして、己のいかにも頼りなげな白い手を見た。
(この手で、夫を殺せと……)
 別に千代が武技に優れていなくてもその妻となるのなら、方法はいくらでもあるだろう。
 だが、千代は怖い。生まれてこのかた、己の手で人を殺したことなど一度もない。あるはずがなかった。
(何故、兄様は……)
 湧き上がる疑問は、今までは千代の中で、確信とまでは届かなかったある一つの思いへと繋がった。
(兄様は本当に、千代を憎んでいるのだわ)
 そして、次には心の奥底から悲しみが溢れ出してきた。
 両親を始め、一族全ての者が殺されていく中、信芳は物心ついたばかりの千代を抱いて、自分もその地獄から逃げ出した。
 千代はその時のことを、十年もの歳月が経った今でも、鮮明に覚えている。
 覚えているが故に、この時余計に悲しくなった。
(いったい千代は兄様に何をしたというの!? )
  兄を見た。
  何の表情も無い顔。
 昔、千代に見せてくれたあの優しげな顔はもう何処にも無い。
(いいえ、千代が何かした訳じゃない。兄様が変わられてしまっただけ )
 一度、そう思ってしまうと、それが激しい思い込みへと変わって行ってしまう。
「兄様は、変わられたのね」
 知らず知らずのうちに、思いが、言葉となり、その暗い場に響く。
「…………」
 千代の言葉に、信芳はわずかに顔をしかめただけであった。
(もう、……もういいわ)
 千代のその美しい顔には、薄っすらと気味の悪い笑みが浮かんでいた。
「殺します」 
 千代は一言、そう言っていた。
(兄様……夫の次は兄様も、千代が殺してあげるね)

 この時、千代は心の奥底では抱いていた、輿入れへの憧れも何もかも捨て去っていた。
 静かな殺意とともに――

 そしてその夜から三ヵ月後の木々の紅葉が始まる頃、千代は佐渡の小浜城主・白崎長政へと嫁ぐ。


 
 第一章

  ―――佐渡・小浜城 
 今日の小浜城は慌ただしい。
 普段は賑やかなのだが、今日に限っては賑やかというよりは、ただ慌ただしいのである。
 小浜城内では、人が行き来する足音が絶えず、時折誰かが大声を出しながら走り回る。そして忙しさの中にかい間見せる緊張と不安の混じった空気が時折、城内を包み込んでいた。
 ―――そう、今日は尾張の織河信芳の妹・千代の方がこの小浜城主・白崎長政に輿入れする日なのだ。
 織河信芳といえば、尾張の地に壮大かつ、強固な平城・壬生城を昨年の秋に五年の歳月をかけて築き上げた東海の風雲児である。
 余談ではあるが、壬生城は信芳自身が設計し、築城の際も自ら指揮を執ったそうだ。
 そしてその信芳の実妹・千代の方は絶世の美女と称されていた。年の頃はまだ十五だそうだ。夫となる長政より二つほど年下の、まだ幼さが残っているであろう少女だ。
 また、そんな千代の嫁ぎ先である佐渡の白崎長政自身も、千代の風評に負けぬほどの美男子である。彼が治める佐渡の民からは、正義の名君と崇められていた。
 今現在、織河と白崎は同盟を組んでおり、その同盟をより強固なものとするという名目で千代は嫁ぐことになっていた。家中の者の中には、兄・信芳のわずかな肉親への情が入り込んでいるのではないか、と言う者いたが、その実情はかなり違っており、そんな微笑ましいものではない。
 また、そのことについては尾張やその近隣の国に隠者を放っていた長政が、気づかぬはずが無かった。
 長政は家内の紛争を避けようと一部の重臣たちのみにしか、そのことを明かさなかった。
 勘の鋭い城内の者は、そのわずかな空気の変化にすぐに気付いたに違いない。噂が流れ始めていたのだ。
 ―――――千代の方の輿入れの、本来の目的は長政暗殺であると。

 明石内海から吹き抜けて来る、肌寒い風に呼応するかのように、小浜城内の木々は秋の色に染まりつつあった。
 今日の祝言の主役の一人である長政は挙式の準備を済ませ、小浜城の天守にいた。
 切れ長の鋭い瞳はどこか遠くをみているようで、流れるような細い黒髪は、首の後ろで丁寧に束ねられている。天守の開け放たれた一角から吹いてくる初秋の風にわずかに揺られ、靡いている。
 どこの誰が見ても、何一つ欠けることの無く整ったその顔に、今日はわずかに疲れが滲み出ているようであった。
「長政暗殺か……」
 深いため息とともに漏れたその言葉を何度聴いたことか。
 長政が尾張に送っていた信頼の篤い隠者からの告発であったから、その事実は最早疑いようもない。
 だが、それを聞いたとき、長政は不思議にも憎悪は覚えなかった。むしろ、実兄にそう諭されて自分に嫁いで来る、まだ会ったことも無い千代が哀れに思えてならなかった。
 無論、信芳の考えなどわかるはずも無い。
  何故、血を分けた妹に……
 自分ならば、腕の立つ暗殺者にやらせるものを、何故、信芳はまだ十五の娘である千代にやらせようというのか。
 長政には理解できない。
  こうしてこの輿入れの実情を知った俺は千代にどう接すればよいのか……
 室内に戻ると、先日換えたばかりの畳の上に腰を下ろし、膝に腕を乗せ、其処に出来た空間に顔を埋めた。
 長政とて、まだ十七の少年なのである。

 ―――――遡ること五年前。
 紀州・白崎家は先代の咲政が半年前に病死し、家督争いが起こっていた。
 咲政と正妻である仲之殿には子がいなかった。しかし、咲政は側室との間に長男である紀政と次男の明政がおり、そして三男の長政がいた。
 紀政と明政は側室の葉月を生母とし、三男の長政だけは、仲之殿の侍女であった於徳の子であった。
 咲政は遺言を残さなかった為、武家の常として、室の腹ではあるが長男である紀政が家督を継ぐものと見られていたが、その紀政が一週間ほど前に病で急死してしまったのである。
 一時期は次男・明政が毒を盛ったのではないかという噂が家内に飛び交ったが、今はそれ所ではなくなっていた。
 ――――突然、正妻の仲之殿が三男の長政を当主にと、長政を担ぎ上げたのである。
 この時、長政はまだ十二歳で、生まれてすぐに母の於徳がこの世を去ってしまい、それを不憫に思った心優しい正室の仲之殿が、養子として長政を引き取り、亡き母である於徳の代わりになるのなら、と長政を教育し育てていた。

 戦国の正妻といえば、夫が側室にばかりかまっていたら、正室は嫉妬をするもの、と思われていたこの時代には仲之殿は珍しい女性のようであった。
 仲之殿としては、長政を産んで死ぬまで、自分に誠心誠意を尽くしてくれていた於徳を哀れむ気持ちもったのだろう。
 また、夫である咲政の女好きは理解したうえで、於徳は目も眩むほどの美女であったことも考えてから、引き取り手も無い、このままでは肩身の狭い生涯を送るであろうこの赤子がいとおしく、哀れでならなかったのかもしれない。
 だから、咲政がこの哀れな三男の行き場所をどうするか悩んでいたとき、自ら、自分の養子にする、といったのである。
 そして、正室の権限を使い、長政を一人前の武将となるよう一から教育した。
 長政も子の養母を慕い、その期待に応えられるよう、学問・武術と何にしても一生懸命に励んだ。
 そして、仲之殿の教育と長政自身の努力で、長政は十二歳ながらも、二人の兄を凌ぐ剣の腕と武将としての資質を兼ね 備える才色兼備のものとなったのである。
 そして仲之殿はその長政の成長を待っていたかのように、長政を白崎家の当主にと、推したのである。
 仲之殿のこの行動に長政のみならず家中のもの全てが驚きを隠せなかった。
 長政は、三男でしかも正妻の実子でも、側室の子でもないのである。そんな長政を当主にというのだから驚かないはずが無い。
 特に次男の明政に限っては、自分の地位が危うくなっているのにいち早く気づいた。
 しかもこの次男の明政は非常に気性が荒く、長政のことを聞いた途端激怒し、刀を持って長政の居室を訪れると、師である藤戒和尚と孫氏の兵法を学んでいた長政に向かって、いきなり太刀を振り下ろしたのである。



 長政は紙一重のところで明政の太刀を避け、傍に置いてあった己の刀を掴み取る。
「兄上!!突然、何をなされるのです!!」
 長政はまだ声変わりもしていない甲高い声で叫ぶと、怒りの形相を浮かべている腹違いの兄を見上げた。その身長は大の大人の頭三つ分ほども違う。この時、明政は二十歳になったばかりで、身の丈・六尺はあっただろうか。
 美男の長政には似ても似つかない、醜い容貌をしたこの兄の顔は、明らかに憎悪と嫌悪、怒りを湛えていた。
「黙れ、小童!!貴様などに兄などと呼ばれたくも無い!!!この痴れ者が!!」
 そして、次こそは斬り殺してやろうといわんばかりに、太刀を構えなおす。
 その時だった。
 長政の師である長身の藤戒和尚が巨漢の明政の前に立ちはだかった。
「お止めくだされ。明政殿。貴殿は何の理由があって、血の繋がったまだ幼い弟君を手に掛けようとなさる」
 和尚はその両の瞳に強い光を湛えて、明政を見た。
その瞳に、明政はわずかに身を震わせ、太刀を片手に自分を見上げてくる義弟の顔と自分の前に立つ和尚を見比べた。
「おぬしも、こやつをかばうのだな……」
 わずかに悲哀を滲ませた顔で、明政は呟いた。和尚は、昔勉学の師として明政についていたのだ。和尚もそれを忘れたわけではなかろう。だが、長政を庇うことは止めなかった。 
 明政は目を伏せる。
 一体何を考えているのだろうか。
「兄上……?」
「くくく……」
 そして突然、狂ったような笑いを漏らすと、嘲る様に長政を見下ろした。
「もうよいわ……貴様に一つ教えてやろう…兄者を殺せと命令したのはこの俺なのさ」
「「!!」」
 長政と和尚は瞠目した。
 噂こそ流れていたものの、長政にとってこの兄は、そんな卑劣な真似をするような男だとは思いもよらなかったのだ。
 明政は何事にも、正面から受けて立つ男だったからである。
 例え、実の兄でも当主の座が欲しければ、今このときのように自分で直接命を奪いに来るのであるはずだった。
「何故……?」
 青ざめた顔の長政が、明政に問う。
 明政は何の頓着もせず、淡々と物語でも語るように話した。
「貴様の義理の母親にそそのかされたのよ……くくく」
「…嘘だ!!」
 長政は声の限りに叫んだ。
 そんな長政を明政は目を細めながら、見詰める。もうすでに、嘲笑はしていなかった。
「……貴様も哀れよの。結局は貴様も、あの方に弄ばれただけなのだから」
「違う!!嘘だ!嘘だ!嘘だ!」
 今にも明政に掴み掛からんばかりの勢いの長政を、和尚が引き止める。和尚は無表情のまま、明政の話を聞いていた。
 明政は長政に構わず、更に話続ける。
「嘘ではない。あの方は、貴様を当主にして己の権力を高めようとしたのだ」
 明政の顔は無表情だった。
 瞳には、憎悪も怒りも嫌悪も浮かんでいない。それはその瞳にわずかに映るのは、長政に対しての哀れみのみだった。
「まあ…もう俺には全て関係ない……」
「兄上……?」
 長政は涙を流しながら、兄を仰ぎ見た。
 明政は一度遠くを見詰めるように目を細めると、長政を一瞥し、その腕を引いた。
「長政…介錯をしてくれ……」
「え……」
 明政は、動こうとしない長政の腕を強く引く。もう、和尚は明政を、長政を引き止めなかった。一方の長政は呆然としたまま、兄の大きな背中を見上げる。明政は半ば我を忘れた長政を一度も振り返らず、そのまま中庭に引きずり出した。
 廊下には、騒ぎを聞きつけた侍女や家臣たちが序序に集まりつつあった。
「あ、兄上……」
 中庭の中央の池の側まで来ると、明政は徐に地面に腰を下ろし、腰の脇差を引き抜いた。
「長政。自分の刀を抜け」
「え…」
「抜くのだ!!」
 兄の気迫にこの時ばかりは負け、片手に握っていた己の刀の鯉口を切ると、鞘から一気に引き抜いた。
「作法やら何やらは、最早致し方あるまい」
 苦笑がちに明政はそれを確認すると、わずかに頷いて長政を見た。
「俺は腹を切る……お前の役目……わかるな?」
 長政は困惑したように兄の眼を見た。
 ――人など、斬ったことは無い。
「…何故?」
 消えるようなか細い声で長政は尋ねた。刀を持った手はわずかに震えている。
「…俺はあの世に行って、兄者にした非道を償うつもりだ」
 一呼吸置いて、明政は続ける。
「今では何故、あのような血迷い事をしたのか…自分でもわからん。だが……許せなかった。兄者を殺してまで手に入れようとした当主の座を…あの方は…あの女は」
 明政はその大きな拳を握り締めた。
  己の犯した罪の重さを感じているかのように……
「今更だと思うが、俺はお前が憎くて、斬ろうとした訳ではないのだ。ただ、あの女が許せなくて、弄ばれたことが許せなくて…あの女の大切な者を奪ってやろう。と思っただけなのだ……だが、今考えてみれば、お前のほうが哀れだった…すまん」
 最後に、明政は悲しみを湛えた微笑を浮かべると、着物の襟を開き、間髪入れずに、己の腹に脇差を突き刺した。
 そして、そのまま右に刃を仰け反らせ、その方向のまま引いた。
「な、長政……く、首を落とせ。」
激痛に声を震わせながら、明政は長政に言った。
「で、でも……」
「早く!!!」
 苦痛に顔を歪めながら、明政が長政を振り返る。その強い意志を宿した目を見た長政は身を震わせ、無意識のうちに刀を振り上げていた。
「さ、最後に…あの女に伝えておいてくれ…」
 あの女とは、仲之殿のことであろう。
「…近いうちに迎えにいく、とな……」
「はい……」
 長政は刀を一気に振り下ろした。
 首はごとん、と重い音を立てて、体から落ちた。噴出した血が長政の全身に掛かる。一瞬のうちにして、中庭が血の海に変わった。
 そしてその時にはもう、家中のもの全員がその場に居合わせていた。
             

「長政様!!」
 誰かが、長政の名を呼んでいた。

「長政様!!」
 ゆっくりと目を開いて、膝の空間から顔を上げると、目の前には二ノ宮晋蔵実晴がいた。
 晋蔵は、長政の傅役で、今は側近として、長政に仕えている二十代半ばの好青年だ。
「…晋蔵?」
「ああ、お起きになられましたか」
 晋蔵はそう呟くと、長政から一歩離れて頭を下げた。
「…俺は、眠っていたのか?」
 額を押さえながら、長政は晋蔵に問うと、晋蔵が顔を上げ、首を傾げながら長政を見た。
「はい……昨夜はよく眠れなかったのですか?」
「いや…」
 長政が緩慢に首を振って外を見ると、良く晴れた空の真上に太陽が昇っていた。
 ふと、何かを思い出したように長政が晋蔵を振り返る。
「織河の姫は……?」
「ああ、先ほどお着きになられましたよ。後は、長政様が向かえば、式はいつでも始めることが出来ましょう」
「そうか、……ならば、行こう。晋蔵、共をせよ」
「御意」
 長政は立ち上がって、わずかに乱れた衣服を自分で整えると、下へと続く階段に向かう。
 ――――あれから、半年も経たないうちに養母様まで、逝ってしまわれた。
 長政には、養母の本当の姿がどちらなのか、未だにわからない。だが、おそらくは、兄が正しいのであろう。養母がこの世を去って、家中の空気が以前とは比べものにならないほど落ち着いたのだから。
 だが、それでも長政はあの養母の笑顔が忘れられないでいた。
(いずれは、忘れなければならないことなのかもしれない)
―――十七という歳にもなり、妻を娶るからには、あの養母への想いは消し去るべきであろう。
(……千代は、どんな娘なのであろうか)
 天守の急な階段を静かに降りながら、今更にそう思った。
 晋蔵もわずかに遅れて、長政の後を静かに、無言のまま歩いている。

 千代は、わずかに俯いて自分の細い指をじっと見詰めていた。
「姫様。そう緊張なさらずに……」
 千代の傍に座している、実家から付いてきた馴染みの侍女の槙乃が、千代の背をさすった。
「……槙乃」
「はい。姫様、何でしょう」
「手、握ってて……」
 そう言って雪を思い出させるほどに白い手を槙乃の手に伸ばしてきた。
「わかりました」
 槙乃は優しく微笑んで、千代の小さな手を両手で包み込んだ。
 千代は暖かい感触を得て、ほっとしながらそっと隣の空いている席を見た。
 ―――其処にはまだ、誰も座っていない。
 千代は恐ろしかった。
 れから夫となる男が恐ろしかった。否、その男を暗殺するように兄に命じられ、それを承諾した自分が恐ろしかった。
(何故あの時、自分は否と言わなかったのだろうか)
 今更ながらに、そう思った。
 今この場で考えてみると、いっそ兄の刃に掛かって死んだほうがましだったのではないか。
 ――そう思えてならない。
 千代は、そんな心中を誰にも悟られまいと俯き、この城の家臣や侍女の視線を一身に受けながら、いつからか始まった、胸の奥底の痛みに耐えていた。
 ―――千代の夫となるのは、どんな人だろう。
 夫となる男は美男だという。
 それを聞いたとき、千代は何とも思わなかった。美男だろうが、醜かろうが、名君であろうが愚者であろうが、千代は関係ないと思った。
 ただ、会ったことも無いその男が恐ろしくて、自分が恐ろしくて……
 ――――その人を愛してしまったら、千代はどうすればいいの。
 槙乃でさえ、この輿入れの本当の意味を知らない。教えることも出来ない。千代がもし口を滑らしてしまったら、槙乃の命はないだろう。
 誰にも話せない辛さが、千代には苦しかった。
 槙乃は千代の体が震えているのに気がついたが、それ以上千代に何も言うことが出来ず、本来自分がいるべき席へ静かに戻ることしか出来なかった。
 部屋の奥の襖が開いて、一人の美しい顔立ちの少年が入ってきたからである。
             
 
第二章

 
 千代が佐渡の白崎長政のもとへ嫁いで来て、早一ヶ月が経とうとしていた。
 佐渡の木々という木々は、すでに紅葉し、その鮮やかな色合いを人々に魅せている。時折吹く風も、かすかに冷たさを帯びていた。
「千代!…千代はいるかっ?」
 先ほどから、まだ年若いこの城の城主が、先日嫁いで来たばかりの姫を探す声が響いている。
 しかし、長政が千代を探し始めて半刻は経とうとしているのに、とうの千代が姿を現さない。実家からともについてきた侍女の槙乃に問うても、彼女でさえ首を横に振るばかりだった。
 そろそろ苛立ち始めた長政が、天守に続く廊下に居ると、ひとりの少年が、長政の前に、影の様に現れた。
 白崎家に代々仕えている風間党の若頭のひとりだ。
 今は隠居の身となっている先代の跡を継いで、まだ日が浅い。しかし、その座に見合うだけの実力は持っている。
「空(くう)か…千代は見つかったか?」
「はい、姫様は三の丸の安寿(あんじゅ)様のお部屋にいらっしゃいました」
「姉上のところに?」
 どうりで、見つからないはずだった。
 長政の異母姉・安寿姫の居室は、三の丸の最も奥まったところに位置しているのだ。しかも、長政でさえ、本人の許可がないと、立ち入れないときている。
(この広大な小浜城の本丸でさえ、広すぎて人を探すのに苦労するというのに…)
 三の丸にまで千代の足が伸びているとは、長政は思ってもみなかった。
 長政がどうしたものかと思案を巡らせていると、いつの間にか、目の前に控える人物が一人増えている。
 長政よりも先に、空が反応して隣を見ると、三つ子の姉がかすかに微笑している。
「山(さん)…」
「長政様、差し出がましいとは思いましたが、安寿姫にはすでに許可を貰っておきました。心置きなく、姫様のもとへ行って下さいな」
「ああ、それはすまない…」
 長政は顔を綻ばせると、不意に頭上を見上げた。
「海(かい)、晋蔵に三の丸まで行ってくると伝えておいてくれ」
 長政がそう言うと、
「はいよ!」
 天井から軽快な声が降ってきた。そして、同時に今まで天井に控えていた海の気配が消えて、残ったのは長政と、三つ子のうちの二人となった。
 長政は天井から顔を戻すと、空と山を交互に見た。
「では、付いて来い」
「「御意」」
 長政は安寿姫の居室へ向かうべく、ひんやりとした廊下を歩き始めた。










2008/03/15(Sat)11:57:45 公開 / 烏丸 緋禽
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■この作品の著作権は烏丸 緋禽さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
この物語の主要人物である千代と信芳は、もうお分かりだとおもいますが、本来の日本の歴史に登場する織田信長とその妹の市をモデルにしています。
 ですが、この物語が全く日本史とは関係無いです。
よろしくお願いします!!

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。