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『666-remember-』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:綸子
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あらすじ・作品紹介
ある時代の、機械と人間の話。
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序
機械の単調な音と、誰かが時々小声で話す声しか聞こえない狭くて暗い部屋。そこにはコンピュータが隙間なく並べられ、床にはコードが散乱している。その部屋の西側の壁は分厚いガラスになっていて、そこには人間が一人入れるくらいの広さしかない小さな白い部屋があった。
白衣に身を包んだ妙齢の女性が、先ほどからずっとコンピュータに向き合っている中年の男性に近づいていった。彼女の黒いハイヒールが磨き上げられた床を叩く。
「第三型人工知能C&A・M666試作一号、第八回目の精密メンテナンス終了致しました。異常はありません」
「御苦労」
「予定されているメンテナンスはこれで全て終了です。後は残っている初期設定データのプログラミングのみとなりました」
「順調だ。このまま行けば今夜中には終わるだろうね」
彼はディスプレイから目を離さずにぼそぼそと答えた。その黒い画面には、緑や黄色の細かい文字がびっしりと並べられている。女性はうっとりとした表情でガラスの向こうを見上げた。
「ようやく成功、ですか」
「ああ、これで戦局も変わるだろうなあ。こいつは現代科学の結晶さ」
「そうですね」
女性はコンピュータの横で山積みになっている書類を取り上げた。
「行動と言動の基礎パターンは入力済みですか?」
「そうだ。細々としたデータは大方処理したよ。ここのパターンが終われば、感情の基礎パターンに移れる」
そう言うと、男性も少し顔を上げた。
彼らの視線の先には、整った顔立ちのひとりの少年が大量のコードに繋がれて、静かに立っていた。艶のある銀色の髪がさらりと滑る。
「完成が待ち遠しいわ。この子が――私たちの研究の成果が、ひとりで歩き出す時がもうそこまで来ているなんて」
「まあ、そう焦らないで。明日には言葉を話すC&Aに会えるでしょう」
男性は口元で笑うとまた画面に目を戻した。
「それにしても、皮肉なものですね。通し番号とはいえ、サタンのナンバーが初の成功例となるなんて」
「ははは。まあ実際彼には――悪魔となってもらうのだが、な」
「それは言わない約束ですよ。……失礼致します」
しかし、女性が軽く会釈をしてその場を離れようとした、その時だった。突然、耳をつんざくような爆発音と共に建物が激しく揺れたのだ。ガラスが吹き飛び、何かが壊れる音。それから銃声が続いた。いくつかの悲鳴が上がる。
「何事ですか!」
反動で壁に衝突した肩を押さえながら、女性が叫ぶ。
「静かに! 身を隠しなさい!」
言われて、素早く机の下に滑り込む。その間にもうひとつ爆発音が響いた。
「何事ですか……」
女性は消え入るような声で尋ねる。男性は目を伏せた。
「……これは憶測だが……我々の恐れていたことが起こったんだ。信じたくはないがね」
「と、言いますと……」
「ああ、恐らく東軍に感づかれたのだろう。ただ、こんなに早いとはな……」
「……ゲリラでしょうか……」
ぽつりと呟くと、それっきり両手で口を覆ってしまった。
銃声と爆音が続く。叫び声が次第に近づいてきて、そしてそれらが次々と掻き消されていくのが分かる。バン、と大きな音がして蛍光灯が割れた。机の下で膝を抱える二人の前に、破片がばらばらと落ちてきた。
もともと薄暗かった部屋が一気に闇へと変わる。電源が落ちたのか、コンピュータの画面も暗くなった。部屋の中に、音や光を発するものはなくなった。ただ少し遠くから、騒がしい人間の音が聞こえている。
「C&Aは、無事でしょうか」
女性は声を震わせて尋ねたが、空気は沈黙したままだった。
時間がゆっくりと流れていく。息を殺すということがこれほどまでに辛いとは知らなかった。
乱暴な足音が近づいてくる。人の声が少なくなっていく。男性は机からほんの少し顔を出して部屋の入り口を伺った。四角く切り取られた空間は、薄暗い廊下を無機質に、そして不気味に浮かび上がらせていた。
やがてそこに黒い重厚な影が飛び込んだ時、彼はそっと目を閉じた。銃声が連続した――すぐ後ろにあるあのガラスを狙ったらしい。銃弾が機械に当たる音がした。それから鼓膜を貫き通すような轟音を聞き、そして薄い目蓋の向こうが赤くなるのを感じた。同時に、頬が熱くなった。
西軍第五十六区研究所の時間が、永遠に停滞した。
人間はそれがどんな形であれ、戦うことだけは忘れない。
地球という大地が再び戦禍に巻き込まれたのは、丁度七年前のことである。
世界が東西に分かれて戦う、かつてない大戦。開戦四年で兵士の半数が戦死したとまで言われているほど、その争いは熾烈であった。
そんな中、科学の進歩と共に現れたのが『人工知能同士の戦い』である。ヒトではなく人工物を戦わせることで、ヒトが悲しみを被る必要がなくなる。それが次第に戦いの主流になっていったのだ。
戦争は科学技術を進歩させる。次々と高性能の人工知能が開発されていき、最早東西の争いは技術開発の競争とほぼ同値であるまでになっている。
そこで西軍が秘密裏に考案したのは、人工知能による東軍司令部へのテロ計画。限りなく人間に似た人工知能を作り出し、それを東軍司令部に送り込むというシナリオだ。
科学技術の進歩状況から、そのような人工知能が開発されることは時間の問題であった。よって西軍司令部はこの計画を採用、開発を進めていった。
西軍第五十六区研究所は、その計画の中心であった。
ところが、順調に見えたその開発はあえなく失敗してしまった。異変に気付いた東軍のゲリラ部隊が研究所を攻撃したのだ。
研究所は全焼、研究員は全員死亡。開発中であった人工知能の行方は不明。事件は未解決のまま計画は一旦闇に葬られることとなってしまった。
第一章 エリヤ
鬱蒼とした森の中に一本、轍の残る道が通っている。そこをひとりの華奢な少女が、栗色のウェーブがかった髪をなびかせて歩いていた。軽やかなメロディーの鼻歌を歌う彼女の手には、赤い花をいっぱいに詰めたバスケットが握られている。
森の道は長い。しかし彼女の顔は少しもかげることなく、とはいえ笑顔になることもなく、華やかに歌を歌い続ける。清楚で美しい少女は、ブラウンの大きな瞳を伏し目がちにして風を受ける。雲は低く森の上に垂れ込めている。
彼女の歌も数曲を数えた頃、ようやく森に出口が見えてきた。それまで互いの枝を組み合っていた木々も、ここではばらついている。彼女はバスケットを腕に抱えなおし、今度は哀愁を感じさせる歌を歌い始めた。歌声は森の中で高らかに、また悲しく響く。
そこは少し開けた土地だった。低い建物ならば、周りの木々に隠されて周囲からは見えない、そんな土地。そしてそこには、確かに建物がある。
建物があった、と言うほうが正しい。なぜならそこにあったはずの建物は、その骨組みをむき出しにした無残な姿に変わり果てていたからだ。黒々と焦げ、折れたりひしゃげたりしている鉄骨が地面から突き出している。その足元には、鉄骨という支えを失って崩れたコンクリートが積み重なっている。その他にも粉砕されたガラスや流れ出た油のような液体が、地面をどす黒く暗鬱な色に変色させていた。
そして何よりそこに漂う強烈な死臭が、その場所でごく最近酷い惨劇が繰り広げられたということを物語っている。
少女はそのガラクタの前にひざまずいた。呆けたような表情でぼんやりと鉄骨を見上げている。目を細めると、少し煙たい感じの雲の中、黒い鉄骨が尖塔のように見えた。完全に廃墟となったこの場所でまだ直立していようともがいているようにも見え、少女は目を閉じた。
少女は、探し物をしにここまで来た。
この死の気配しかしない寂しい場所で、少女はひとつでも多くの生きているもの、動いているものを見つけ出そうと決心してここまで来た。
しかし、その望みもこの状況では絶望的である。彼女は目を閉じたまま短い弔いの言葉を口走った。
夏から秋に変わる頃に吹く、涼しい風が彼女の肩を掠めた。ノースリーブの肩を少し震わせると、そっと瞳を開けた。そしてバスケットの中の花を、廃墟の上にばらまく。赤い花がいくつもいくつも、灰色の瓦礫の上に落ちた。血のように紅い花弁が、悲しみを誇示するかのように天を仰いでいる。低い地面から見上げる空は、限りなく遠く見えた。
少女は一歩後ろに下がると、軽く握った拳で体の前に十字架を描き、丁寧に指を組んだ。顔を少し下に向けて瞳を伏せる。それから何か祈りの言葉を小さく呟き、頭を深く下げた。しばらくの間、そうしていた。
そこで亡くなったいくつもの命、そのひとつひとつに祈りを込めているかのような、それくらいの時間ずっと彼女はそうしていた。ばらまかれた花は風にゆれ、閑散とした物寂しい空気がその場を包み込んだ。廃墟のある風景は、時間が止まっているかのようだった。時空に忘れ去られたような、永久に失われてしまった何かがそこにはある。
そっと、瞳を開けた。
瞳を開けても俯いたまま、彼女は地面を見つめていた。花が寂しそうに揺れているのが見える。空になったバスケットが、ころり、と横になった。
ふと、それらに影が差した。太陽が出ていないために晴れの日よりも薄い影であるが、彼女の頭上に人型の影が落ちる。さっと顔を上げた。
「……貴方は、誰?」
見たことのない瞳と目が合った。精悍な顔立ちをし、病的なまでに白い肌の少年が、同じく病的に虚ろな瞳で彼女を見下ろしていたのだ。埃のせいで薄汚れてはいるが、何か不動のものを感じさせる風貌だ。長い睫毛が、水晶のような瞳を半分隠している。顔の両脇からは、銀糸のような滑らかな髪が下りていた。
左肩にはひとつ、何かに穿たれたような穴が開いている。
少年は黙したまま懐に手をやった。瞳は何も映さず、口は微塵も動かさず、その細い指は黒光りする重い鉄器を握り締めていた。
何の躊躇いもなく、少年は銃口を少女に向けた。長い筒が、彼女の眉間に狙いを定める。
次の瞬間、銃声と共に拳銃が宙を舞った。静かな空気を鉛玉が突き破る。
「……!」
少女は、ロングスカートもお構いなしにその細くて長い足を蹴り上げていた。彼女のつま先で跳ね飛ばされた銃は、弧を描いて廃墟の中へと落ちていく。
少年は舌打ちすると再び懐に手をやった。しかし少女の方が早かった。素早く少年の手を掴んで、動きを拘束する。そして右の人差し指を少年の額、髪の生え際より少し上の辺りに押し付けた。
「『C&A・M666・個体識別ナンバー1001・A01より外部命令口頭入力。制御モード新規、エリヤ=x」
早口で言うと、少年の瞳が暗くなった。少女は言葉を続ける。
「『人間を殺してはいけない』」
少女は囁くように少年に言った。すると、彼は先ほどまでとは打って変わって大人しくなった。
少女は人差し指を離して、少年に微笑みかけた。そして、そっと少年の肩の辺りから一枚のラベルを剥がす。
「第三型人工知能及び特殊戦闘用兵器……タイプC&A、モデル666試作一号……か」
確認するように読み上げて、それから少年の顔をまじまじと見つめた。
「ということは、君が……」
呟くように言い、少し逡巡してからまた笑いかけた。
「名前は、ないのかな?」
少年は答えない。それでも少女は気にしていないようで、彼の目を見つめて話を続ける。
「私があなたに名前をあげる。そうね、何がいいかな……」
もういちどラベルに目を落として、それから何かとても面白いものでも見つけたかのように目を細めた。
「ヨハネ、なんてどうかしら」
少年がほんの少し顔を上げる。少女はまた微笑んだ。
「私はエリヤ。よろしくね」
ヨハネと名づけられた少年の手を半ば強引に取ると、強く手を握った。
彼は何も言わずに、中身のない半透明の瞳をただエリヤの方に向けていた。
*
夏の終わりらしい涼しい日だった。
別れを告げるために訪れた場所で、私は彼に出会った。
偶然とは言い難い。
彼については不審な点や辻褄の合わない点がいくつかある。開発途中であった、の一言ではあまりに歪な気がするが、今の私にそれを具体的に説明することはできない。
彼が父の形見であると思うと少し合点がいくかもしれない。
理由については、これからゆっくり考えていこう。
*
「で、何なんだよこいつ」
小さな部屋の中、短い金髪の少年が不快そうに言った。彼の視線の先には、何も言わずに座っているヨハネがいる。
「エリヤがまた変なの拾ってきた」
赤毛を腰まで垂らした幼い少女も言う。
「そういうこと言わないで。この子はヨハネ。ちゃんと名前で呼んであげてよ」
エリヤは少しむっとすると、微動だにしないヨハネの傍らへ歩み寄って微笑みながら話しかける。
ヨハネは視点をそのままに顔を動かしてエリヤを見上げた。
「ヨハネ、私の仲間を紹介するね。金髪で私より少し背が低くて、憎まれ口ばっかり叩いているのが、アンドレ」
「……アンドレ……」
エリヤの言葉を復唱するように呟く。
「それから赤毛でちっちゃいのが、マーシャ」
「……マーシャ……」
「そう。今日からはヨハネの仲間でもあるからね」
エリヤはにっこりと笑った。が、ヨハネの頬はぴくりともしない。
アンドレがあからさまに鼻を鳴らした。
「やってられねえな。なんだってこんなマネキンみたいな野郎とオトモダチにならなくちゃいけないのさ。だいたいこいつ、肩に穴開いてるぜ」
「ヨハネ、マネキンみたい。エリヤ、マネキンと喋ってる」
アンドレとマーシャが口々に不満を言う。エリヤは溜め息を吐いた。
「どうして分かってくれないのかなあ。ヨハネにはまだ自分がどういうものなのか分からないの。それだけなのに」
そう、何も知らないのよ、自分のことを。
エリヤは手近な椅子に座り込むと口を尖らせた。ツギハギだらけの椅子がぎしりと軋んだ。アンドレとマーシャはそれぞれ気ままに遊びだす。アンドレは使い古したボードゲームを、マーシャは薄汚れた縫いぐるみを手に取った。
その中で、ヨハネは本当に人形か何かのように黙り込んでいる。
こういう風に各々がそれぞれの世界に閉じこもってしまうと、時間はただ無為に流れていく。普段は何とも思わない余暇の時間であるが、今日だけは何だかぎこちない。
エリヤは溜め息をついた。
彼女たちが住むのは、例の廃墟――元は研究所であったのだが――がある森に近い、少し開けた丘の上である。そこは村の外れに位置し、一番近い隣家でも徒歩で五分以上離れている。
そんな場所で、各々の理由で親を失った彼らは、寄り添うように生活している。
物置の倉庫を改造しただけの簡素なその家は、土台こそ丈夫なものの立て付けが悪く、強風の日には窓の軋む音が絶えない。しかし、その立地条件のおかげで風が穏やかな日は驚くほど静かである。
今日は風が弱い。静まり返った家の中は、時々遠くで森の木々が擦れ合う音が聞こえる程度だった。
「それは、研究所から拾ってきたのか?」
不意に部屋の隅から、アンドレでもマーシャでもない、低い声がした。エリヤたちは振り返る。
「レインか。帰ってきたならノックくらいしてよね」
言ってエリヤは微笑んだ。声の持ち主も笑みを浮かべる。鷹のように鋭い瞳を持つ引き締まった顔に黒髪が掛かっている、逞しい青年。少し視界を邪魔するそれを指で払いのけながら、低い木製テーブルに腰を掛けた。エリヤは椅子ごと彼に体を向ける。
「こいつ……作動停止状態だったのか?」
「いいえ。正常に動いていたわ」
「まさか。よく連れてこられたなあ……制御は掛かっていたのか?」
「全く。新規で制御を掛けたのよ。でも危なかったな。父さんが教えてくれた旧式の方法を見よう見まねでやったんだけど、本当に掛っちゃうとは……。賭けみたいなものだった」
本当にあれは予想外であった。自棄になって試してみたまでである。
エリヤはおどけたような仕草をしてみせたが、レインは少し険しい顔をした。
「……研究所で拾ったのは、こいつだけか?」
「こいつ、じゃなくてヨハネよ。それに……そうね、研究所で動いていたのは、確かにこの子だけだった」
俯いているヨハネの髪にそっと触れる。
「……ヨハネだけだったのよ」
「名前はエリヤが付けたのか?」
「そう。肩にね、M666っていうラベルがあったから」
髪がさらさらと滑る。とても人工のものとは思えない精巧さ。しかし、あまりに整った目鼻立ちはどこか人間離れしていた。
エリヤはその手を離すと膝に戻し、そっと唇を噛んだ。すると、その瞳から一筋涙が流れた。
「遅かったの。分かっていたことだけど、でももう遅すぎたの」
「そうか……」
「私は、救えなかった」
エリヤは両手の中に顔を埋めた。重い空気が部屋の中に降り立つ。
「父さんを助けられるのは私だけだったのに……!」
「エリヤ……」
「研究所は跡形もなかったのよ! 広かったあの研究所が、全部瓦礫になっていたの! 父さんだけじゃないわ……あそこにいた人は皆死んじゃったのよ! 皆、皆いなくなっちゃったの!」
細い肩を小刻みに震わせながら、エリヤはすすり泣いた。
「大好きだった研究所が、無くなっちゃった……」
レインはそんな彼女の頭にそっと手を置いた。
「自分を責めるなよ。エリヤのせいじゃないだろ」
「分かってるけど……」
アンドレが沈んだ目をして恐る恐るエリヤを見上げた。あどけなさを残す瞳がエリヤを見、そしてヨハネへと移る。
「……こいつ……ヨハネって、エリヤの父さんが作っていたヤツ?」
「ああ。知っているだろう? エリヤの父さんは科学者だった。それも、そんじょそこらのとは比べ物にならないほど優秀な」
エリヤの代わりに答えたレインの言葉に、アンドレとマーシャも頷く。
「このC&A、つまりヨハネはただの兵器開発で生まれたんじゃない。画期的な発明でもあったんだ」
「わたし、知ってる。ヨハネは、すごいの」
こぼれんばかりの大きな瞳でマーシャはヨハネを見上げた。虚ろな瞳は彼女を凝視しているようにも、また焦点が合っていないようにも見えた。
「あれだろ、感情が分かるんだよな、確か」
「そうだ。ヨハネはそれができる第一号だ。そうだろ、エリヤ」
エリヤはこくりと首を縦に振った。
「でもさあ、こいつ動かないじゃん。ホントに分かってるのかよ」
アンドレはヨハネの腕をこんこんと叩いた。
すると何の前触れもなしにその腕が動き、アンドレの手を強くはねのけた。体を使わず腕だけが飛んできたように見え、アンドレはひっと声を上げた。はねつけられた反動でアンドレは尻もちをつく。
「う……動いた……」
「当たり前でしょう。ヨハネは生きているんだから」
エリヤはやけに毅然としてそう言った。
そんなわけないだろ、と言おうとしてアンドレは口をつぐんだ。エリヤは、泣いた後の赤みが残る目でヨハネを見つめていたのだ。
「知らないだけなのよ。きっと、プログラミングの途中だか直前だかで電源が落ちたのね。ここに弾痕もあるし……」
左肩の服の穴を指でなぞる。そこには何かに焼き切られたような痕が生々しく残っている。
エリヤの脳内に、廃墟でのワンシーンがよぎる。
薄汚れた景色の中、大した傷もなく現れた少年。もしかしたらこの弾痕は、ゲリラ部隊の精一杯の攻撃であったのかもしれない。
「さっき、私に銃を向けたの。きっとあれが基本の行動パターンなんだわ。それを感情が制御するようにするはずだった」
エリヤは懐かしい研究所を思い出した。
極秘研究が始まってからはほとんど入れてもらえなくなったが、一度だけ作りかけのヨハネを見たことがあった。
その時はまだ外殻はなく、頑丈そうなガラス張りの小部屋の中で技術師と研究員が骨組と配線の試行錯誤を繰り返しているところだった。
おぼろげながら、その非常識に分厚い耐火ガラスを破壊するのは容易ではないなと感じた記憶がある。
「仕組みが人間と酷似しているんだな。……似せているのか」
レインが呟いた。
「それが目的だもの、敢えてそういう仕組みにしたかったんだと思うな。父さんのことだし」
エリヤは微笑んだ。
父さんは優秀で堅実な研究者であったが、それにしてはやけに人道や個人的な思想に誠実で、科学研究としては非合理的にみえるような手法を採ることがあった。
ヨハネに関してだって、そんな面倒な二重構造のプログラムをしなくても、目的のものは作り出せたのではないかと思う。しかしそうしなかったのは、ヨハネをただの兵器にしたくなかったからだろう。汎用性の高い優れたアンドロイド。それがたまたま兵士として機能するという、それだけのこと。
きっと、そう考えたに違いない。だって、父さんのことだもの。
感傷に浸りそうになるのを抑えて、エリヤはまたヨハネに向きなおる。
この人工知能は人間と構造が似ている。だったら。
「それで、基本パターンが揃っているならば、ハードディスク――記憶に関するところもある程度大丈夫だと思う。ロックを掛けたら正常に掛かったから、たぶん問題ないでしょ」
エリヤはぶつぶつとヨハネを見ながら呟く。ヨハネは始終瞳を伏せている。
「で、それならヨハネをどうするつもりだ?」
「そうだよ、黙っているだけでつまらないからどうにかしてよ」
エリヤはアンドレを一瞬睨んだが、すぐに微笑んだ。その目は面白い玩具を見つけた子供のようにいたずらに輝いている。
こんなのはどうだろう?
「ヨハネに、感情を教えるの」
「……は?」
さらりと言ってのけたエリヤに、一同は目を丸くする。
「どういうことだよ……?」
「だから、感情を教え込むの。データがないなら手動でやるしかないじゃない。もともとそういう風に作られたんだもの、出来ないなんてことはないでしょう」
「そりゃそうかもしれないけど、どれだけ面倒なことだか分かって言ってるのかよ」
「誰も、プログラムを組み直そうって言っているわけじゃないわ。だいたい、ここにはそんな設備はないし」
エリヤは当然かのような口ぶりで言う。
「教えるの。感情というものを、ヨハネに教えるの。父さんたちは必要最低限のことしか入力しないつもりだったろうけど、それよりももっとたくさん、色々な感情を持たせるわ」
「だからって、何でそんなこと……」
エリヤはひとつ、小さな溜息をついた。
「きっとこれが父さんの遺志だからよ。私と一緒に住んでいるなら、父さんが忙しかったことくらい知っているでしょう? C&Aを生み出すために何回研究を重ねたか分からないわ。それに、ヨハネにはそういうことを教えてあげたいの。何だか……ね」
エリヤは曖昧に微笑んだ。
エゴかもしれない。でも、構うものか。
私が拾ったのは確かに機械であるけれども、同時に父さんが作り出した人格でもあるのだ。
「私たちと生活していけば、ヨハネもだんだん話すようになるって、信じているから」
再びヨハネの頭に手を置いた。ほんの少し、ヨハネの瞳が動いたように見えた。
*
父さんが実際にはあらゆる事態を想定していたのではないかと、今は思う。
頻繁に偽名で手紙を寄越してくれたが、そこに少なからず人口知能についての知識が書かれていた。その時は研究者の無邪気な自己顕示だと思っていたが、今考えると、私に伝えておこうという意思の下でのことだったのではないかと思う。
自分を含め、研究員が試作機を何らかの理由で手放してしまった場合。
これほどの大惨事になるとは思わなくても、何か非常事態が起こることは想定内だったのかもしれない。
それならば、私には彼を匿う義務があると思い込む欺瞞も許されよう。
*
「ヨハネ、そっち持っていてくれない?」
重そうなテーブルの端を持ちながらエリヤが言った。ヨハネは何も言わずにテーブルに近づく。
ヨハネがエリヤたちの家に来て、一週間が経とうとしていた。相変わらず口数は少ないが、それなりに行動するようにはなっていた。
「たまにはアトリエも掃除しなくちゃね」
テーブルがあった場所の床を拭きながら、エリヤが言った。
「綺麗に使えば掃除する必要なんかないじゃん」
アンドレが分厚い革表紙の本を本棚に戻しながら文句を言う。
「アトリエは小奇麗にしておくものじゃないのよ。たまに整理するくらいが丁度良いの」
「アトリエっていうか、つまりは研究室でしょ」
確かにそこは無数のコードが張り巡らされているし、天井まで届くほどの本棚には様々な科学の本が並んでいる。もともとかなり小さな部屋であるが、そこにある質量の所為で余計な閉塞感と奥行きが同時に感じられる。
ここは研究所に籠もるようになる前に父さんが使っていた部屋だ。
「父さんがそう呼んでいたから良いでしょ。父さんに言わせれば、科学もアートだって」
「アート、ねえ……」
ちらりとヨハネを横目で見る。実際、息を呑むほどに美しい顔立ちや流れるような髪、細身の体躯は、芸術と称して良いかも知れない。
ふとアンドレを見ると、彼もヨハネに目を奪われていた。恐らく同じことを考えている。
しかしアンドレがヨハネと未だに打ち解けていないのは傍目にも明らかだった。認めようとしない、というのが適当だろうか。
レインのように堂々とその存在を受け入れることも出来なければ、マーシャのように無頓着でいることも出来なかったのだ。
ふと、ヨハネがアンドレに近づいてきた。アンドレは思わず目を反らす。
ヨハネはそのまま近づくと、アンドレの頭上の棚から本を取り出した。その行動の間中、アンドレはずっと固まったままだった。
ヨハネが歩き出してほっと一息つくと、ヨハネが振り返った。
「……何も、しませんから」
抑揚のない澄んだ声。アンドレは声がした方を振り返る。ヨハネが、無感動な瞳で見つめていた。アンドレはぽかんと口を開けた。
「……ヨハネが喋った」
そんなアンドレを見て、エリヤは呆れ顔になった。
「前にも喋ったことはあるでしょ。いちいち驚かないで」
「でも、今……」
アンドレはヨハネを見やる。が、ヨハネは気に留める様子もなく本棚の整理をしていた。
「今、何なの?」
「あいつ、自分から喋った」
エリヤは少し目を見開いた。
「それ、本当?」
「うん……」
「じゃあ、言葉を使えるようになってきたのかもしれない」
満面の笑みを浮かべてエリヤは言った。目が輝いている。
「ヨハネ、マネキン卒業した」
部屋の隅っこでずっと、コードの切れ端でリボンを結って遊んでいたマーシャが呟いた。そんなマーシャを見てエリヤは微笑む。
その時不意にアトリエのドアが開いた。大きな紙袋を抱えたレインが現れる。
「買出し、行ってきたぞ」
「ありがとう。じゃあ、そろそろお昼の支度をしようか」
エリヤは手を叩いて立ち上がると、明るく言った。アンドレとマーシャもそれに続く。
「ヨハネも一緒に来てね」
エリヤが振り返ると、小さく返事をしてヨハネも歩き出した。もちろんヨハネは食事を必要としないが、毎食必ずテーブルにつくことになっているのだ。
「あたし、ベーコンエッグがいい」
マーシャの言葉に、エリヤは首を振る。
「マーシャ、今朝も昨日も一昨日もそれだったでしょ。いい加減飽きてよね」
マーシャは頬を膨らませたが、それ以上何も言わなかった。
「レインがトマトとレタスとチーズを買ってきてくれたから、サラダでもつくろうか」
彼らの住む村は、戦争によって著しい被害を受けているわけではない。それでも、食べ物は貴重だ。母親代わりのエリヤが作る食事は、大きな楽しみであった。
食卓を包む空気は温かい。この頃いつも不機嫌そうなアンドレも、この時ばかりは笑顔になる。電気のない部屋も、なぜだか明るく見えてくる。
しばらくしてから運ばれてきた食事に、アンドレとマーシャが同時に手を出す。食べ盛りの二人の取り合いは、今に始まったことではない。
「喧嘩しないでね」
エリヤは笑いながら言う。
アンドレはこっそりとヨハネの方に目をやった。
その時ヨハネは、よく見なければ分からないほど微かに、でも確かに、静かに微笑んでいた。
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2007/12/23(Sun)19:12:18 公開 / 綸子
■この作品の著作権は綸子さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めまして。綸子(りんず)と申します。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二章以降は随時追加していこうと思います。
感想、指摘、批判等ありましたら、よろしくお願いいたします。
12/23 加筆修正(翼様からアドバイスしていただいた点を中心に一部推敲)
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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