『金星の子』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:佐紀                

     あらすじ・作品紹介
金星とはヴィーナス。金星の子はローマ神話にちなみ、キューピットを表す。一人の女生徒はそんなキューピットの役が好きで、そんな彼女は手にグローブをはめていた。五芒星の紋章がついた。最後の最後まで期待を裏切らないクオリティを約束します。専門分野の知識、起承転結、後味のよい最後。

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 始まりは九月の中旬。私が学校の下駄箱を開けたときに起きた。
 そのときの私はそれの中身が既に、分かっていた。私の役回りはひどいのかどうかはわからない。だが私はそれを好んでやっているし、良いバイトだとも思っている。
 下駄箱の中身、それは一つの手紙だった。
たしか下駄箱には小さな蓋がされているため私がこの手紙を受け取ったことは手紙を出した人と私だけしか知らない。初めて見る手紙だったが、要旨は分かりきっている。手紙にはいかにも女の子がしそうな華美すぎる装飾がしてあった。花やらラブマークやら、とても同性相手に送るような手紙ではないので憂鬱な気分になった。そして、手紙をあけ、一枚の便箋を取り出す。まずは目を瞑り、宛名をみない。その手紙の宛名も知っているようなものなのでクイズと同じように当ててみることにした。
 キューピッド。
 それが心に浮かべた名詞だった。同様に手紙の宛名も同じ名前が書かれていた。「よっしゃあ!」とガッツポーズを取ると、自分の教室に向かっていった。
 私の負う役回りを端的に言うとキューピッド。見知らぬ恋を成就させることだ。初めは中学校にいたとき面白半分で友達の成就しない片思いを手伝ったことから始まった。嘘の手紙で相手をおびき寄せて友達とバッタリと会わせたり、その瞬間を狙って茶化したり、挙句の果てには二人に対して映画の券を無償であげたりもした。そして見事に二人はゴールイン。キスの現場にまでこぎつけてシャッターを切った。翌日にその写真を友達に見せたら赤面して殴ってきたがその表情は笑顔だった。私はその表情が忘れられずに過ごし、いつしか『キューピッド』というあだ名を貰った。今となっては本当の名前すら忘れかけているし、今更、何の意味も持っていない。
近頃では先生にそう呼ばれているし、悪い気はしなかった。高校生になって片思いを成就させた証のキス現場の写真を数えてみると数十枚にも及んだ。つまり私は、それほどの実績を持っているということだ。
 意気揚々と教室のドアを開けると、手紙を受け取った気分を覚えながら自分の席に着いた。机の表面を見ると「ありがとう」という感謝の言葉とハートマークが書かれている。全て同性の女生徒によるものだ。つまり、男子の片思いを成就させたことは一つとしてないことを物語っていた。そろそろその手のことも始めようかな、と思ったがやっぱりその気は失せた。気が乗らないし、第一、男子なんてみんな同じようなものだ。恋愛を成就させるキューピッドとしては女生徒の喜ぶ顔を見れれば満足だし、男子の喜ぶ顔を見たとしても憂鬱になるだけだろう。
まだ早朝なのであまり人はいなかった。手紙を読むにはもってこいの状況だ。手際よく手紙を取り出し、封を開けて他人に見られないように俯きながら黙読した。
 手紙にはこう書かれていた。「こんにちは親愛なるキューピッドさんへ。お願いがあります! 私には好きな人がいるんですけど、どうしても告白とか、その、近づけないんです。どうにかならないでしょうか。お願いします、助けてください。好きな人は直接あっていいますから、よろしくお願いします!」そして、その手紙の右下の淵をなぞるように小さな文字が羅列されていた。「放課後、裏庭で」と。おそらくその時間帯に来いというわけだろう。直接好きな人を告げることが何ともいじらしいと思うのだが、わざわざ会わなくても、手紙で書けばいいのに……、と僅かに憐みを覚えた。差出人の名前は書いていなかった。この頃はそんなケースが増えてきた。まったく失礼なことだ。頼まれる側としては名前を知っていれば少なくとも行動する時間が大幅に前倒しになるというのに。
一通り読み終わると私は息をついた。普段から文字を読む習慣がない所為か余計な精神力を使った。
 やがて授業が始まるのだが緊急事態は四時間目、つまり昼休み前の授業に起きた。
その日は昼休み前とあって私は気が緩みきっていて授業を聞く気がなく、眠気を催していた。しかし突如としてその眠気が吹き飛んだ。
「プゥ」と、聞き慣れた甲高い擬音が教室に大きく響いた。この時は全員が黙って授業を聞いていたため余計に大きく響いた。端から端の席まで残さず。私は既に机に突っ伏していたが起き上がるつもりなんてなかった。だって女の子が、女生徒が大きな屁の音を教室で掻き立てたとあらば、教室のいい笑いものだろう。私は羞恥心によって顔を赤面させながら突っ伏したままを維持した。
 だが嫌な視線が私自身に向いていることが嫌なほど伝わってくる。こういう感覚的なものを受け取る五感は身体に存在しないのだろうか。体中が電気により感電し、体中の細胞が壊死するような気分だった。痛みはない、アドレナリンによる麻酔作用のような感じがした。聞いた話によると骨折したとき、人はあまり痛みを感じないらしいがその原因がまさにそれで、私の今の気分もそれだった。傷跡を見ても痛みはない。ただ傷跡を見れば痛みは来なくとも気分が悪くなる。そんな気分でしばらく突っ伏したままだった。お願いだから、このまま時間が過ぎて欲しい。そうすれば普通の授業に戻ってみんなは無かったことにするだろう。私はそう希った。
 だが現実はそうはいかない。「うわ臭い、誰だよ!」と、私の斜め左後ろの席に座る男子が叫んだ。それにつられ、他のみんなが失笑を禁じえなかった。私は机に突っ伏せたままの姿勢を維持しなければならなかった。我慢は辛いな、とつくづく思うが、この場合は違う、むしろ逃げているのだ。羞恥心から。
 そして容赦なく私に視線が浴びせられた。
やめてよ、そんな視線。私は泣きたくなるような気分になった。私はもともと上品ではないほうなので別にバレても大したことはないが『屁こき女』のレッテルを貼られることは心理的に受け付けなかった。そして沈黙を守る膠着状態のせいで私の息が止まった。次第に息苦しくなる。周りで陰口を叩かれるのが聞こえる。普通は聞こえない。だが脳が覚醒して聴覚が冴え渡っていた所為で音声ボリュームが全開のように聞こえた。脳を直接振動させるようだった。周りからの小さな罵声が耳の外耳から鼓膜を振動させて渦巻き管を伝って感覚神経から脳に入っていく。聴覚をつかさどる側頭葉が罵声によって千切りにされる感じだ。あたかもキャベツをきざむように躊躇を覚えず、精神力が根こそぎ奪い取られる感覚が自分でも分かるようだった。
「もう、やめてよ!」と教室内をこだまするほどの叫び声を漏らそうとしたが、それは叶わなかった。
「ごめん、その屁、俺だよ」私の横の一人の男子が爽やかな笑い声と共に手を上げて言った。私にはこれは救いの手にしか思えず、唯々その助けにすがらずにいられなかった。
 途端に、教室を埋め尽くしていた罵声がけたたましい笑い声に変わった。私はハッ、と驚いた顔で、隣の男子を見た。
「いやぁ、昼休み前だから気が緩んじゃってよぉ。くさかったか?」
私はその男子の名前を思い出した。たしか赤澤・神人だった気がする。はっきりとは覚えていない。別に運動、頭脳ともに平凡であった。だがその堂々と人を庇う態度がまぶしく思え、私は周りがけたたましく笑う声さえも耳に入らなかった。いや、耳に入ったとしても通り過ぎるだろう。私は瞳から神人の長い前髪から微かに見える黒くて澄んだ瞳を凝視した。意識が薄れそうな中、呆然と。
 私は胸部を巨大なランスで貫かれた気がした。その所為で私は肺の機能が一時的に著しく低下した。その所為で酸素不足になり脳に十分な思考が働かず、意識が遠のいていく感じがした。もう、考えられない。そして、首を固定したまま、ずっと同じ瞳を見ていた。
 不意に友達に聞かされた言葉を思い出す。
「好きって、唐突にくるものなんだよ」初めは信じることさえなかった。私は自らの美意識を臆病にさせていたのか、そんな感情は持ったことなどはなかった。
 だけど、今は少しだけ……分かった気がする。「……」と私がけたたましい笑い声を無視して凝視する視線を感じ取ったのか、神人は前髪を揺らしながら私に視線をくれた。
 反射的にそれに反応した。とっさに息を吸い、意識を取り戻す。私はしばらく深呼吸をすることに勤めた。激しい動悸がしていたので心を落ち着かせるために手の脈を測ることにした。トクン、トクン、とゆっくりした鼓動かと思ったら違った、激しく脈を打っている。私は信じられないといった感じで深呼吸を再びした。とにかく今は落ち着かなきゃ。
私は深呼吸を終えると、また机に突っ伏した。もうすぐ授業が終わる。それまでの我慢だった。だが思いのほか授業は長引き、終わりのチャイムが鳴る前には私は平静を取り戻していた。そしてすぐに冴えきった頭で隣の男子、神人に抱く感情を詮索した。
だがそれは一つでしかなかった。
 私は一目惚れでもしたのだろうか。
 結果論が一目惚れでも、私は認めたくはなかった。かぶりを振って必死に思考を否定した。それでも胸が高鳴り、心臓を破裂させるような動悸は、止まりはしなかった。

 やがて、放課後になった。『放課後、裏庭で』の書かれている先程の便箋を取り出し、依頼を改めて確認すると乱暴に丸めてポケットにしまった。そして走り出し、例の裏庭に向かった。鞄は、下駄箱に置きっぱなしにした。家に戻るためにおいてある自転車は駐輪場にあるし、駐輪場は裏庭の正反対にあるからだ。わざわざ持っていくだけ、無駄な労力を使うだけだから。
 裏庭には例によって園芸部の連中が植えたコスモスがある。今は秋なので丁度、咲く季節なのだが、私はそれに目もくれない。別に見る価値がないわけではない。今は件の手紙によって胸を躍らせていて周りが見えなかったからだ。
 裏庭に着くと、そこには一人の女生徒がいた。
 黒縁の分厚いレンズの眼鏡をかけていて、長髪を左右に三つ編みにして流していた。照れ屋なのか少し俯いていて目にまで視線が届かない。別に髪を染めているわけでもなく、スカートを規定の長さより短くしているわけではないので、不良というわけではなさそうだ。むしろその生真面目そうな容姿からは文学少女、という印象を受けた。
 ただショックなのは、手紙を出した本人のくせに私をみても『キューピッド』だと分からないようで、相手からは話しかけては来なかった。これもよくある。私は『キューピッド』として噂は広がっているが容姿を気にする輩などあまりいないからだ。大体の噂では「二年二組の二七番のキューピッド」としてしか知られていない、本名すら知っている人は少ないだろう。まるで二次元の世界から三次元に飛び出た感じだ。二次元ではよく知っていたキャラが三次元に飛び出して元のと似ているのだが似てないんだか……、という錯覚に陥る感じがまさに、似つかわしかった。
「やあ」私はその文学少女に声をかけた。「君? 片思いを叶えたいって人」すると文学少女は驚いておどおどと焦り、やり場のない手を宙に泳がせた。目は点になり、宙を泳ぐどころか、ギョロギョロと回し、半狂乱の少女にしか見えなかった。黒縁の眼鏡がずれて落ちそうになっていた。
 それでも文学少女は平静を保つために宙に泳いでいた手を元に戻した。そして、人差し指を口の前で立て、「しー、しー」と口ごもって静かにするよう、私に促した。
 不思議に思いながらも文学少女の意見に従い、黙った。というより既に黙っている。
「君、名前は?」私は上級生のプライドで上からの目線を捨てきれなかった。「智野・雪七っていいます」相手は、素直だった。バカ丁寧、というのが第一声になりそうだ。
「ふ〜ん、敬語ってことは、後輩?」私は細かいことに気付き、問いただした。
「はい、一年一組にいます」
「へぇ……、で、お目当ての男の名は?」
 私は早く楽しみを、推理小説で言う謎解きパズルを完成する作業を味わいたかった。何よりもキューピッドとして、恋愛を成就させたときもそれまでの道のりが楽しみであるからだ。
 彼女は一枚の紙を取り出した。何気ない再生紙に書いてある名前こそが、その人物にあたるらしい。
「ねぇ……」何か思いがかかって私は声を漏らした。
「えぇ、大丈夫です、お金はちゃんと払いますから」だが、それは私が求めた答えではなかった。「いや、そうじゃなくて」
「五万円じゃ、不満ですか?」私は求めた答えじゃないことから、戸惑ってしまった。
私は何も返す言葉がなく、押し黙った。五万円なんて額、軽く高校生が出せる額じゃないことぐらい、私も分かっている。
「それと……、これがその男子の名前です」雪七は細々とした小声で言い、手に持っている再生紙を裏返した。そこには、先程に自分が思い浮かべた名前が書いてあった。
「……」私は言葉を失った。その再生紙に書いてあった名前に目が釘付けになり、呆然とした。
 赤澤・神人。
 こんな偶然、あり得るだろうか。ついさっき自分が心を躍らされた相手が私の眼前にあるだなんて。それと共に曖昧だった彼の名が確信に変わった。
 私は失った言葉を取り戻し、微かに嗚咽を漏らした。その嗚咽は思考によるものではない、無意識に息苦しさを表したものだった。私は自分自身の嗚咽に気付き、手を口にあててその嗚咽を塞いだ。まるで吐血した血液を口内から出さないようにするようだった。
「どうしたんですか」やや強い口調で雪七は私の身を案じてきた。それに応じて私はとめどない驚きを一気に浴びて、破裂しそうな心臓を抑えた。「えぇ、どうにか」
「やっぱり無理でしたらやめにしてもいいんですよ?」雪七は途切れそうな悲しい声で私に呼びかけた。
「む、無理なんかじゃないよ! 全然っ! 大丈夫だから」私は首を左右に勢いよく振りながら、雪七の手を握った。その手に伝わる温もりでやっと、平静をもつことができた。
「よかった……、私、これが初めてなんですよ」
 それは初恋を意味するものだった。だとしたら絶対失敗させることはできない。そもそも、なんで私はさっき慌てていたのだろう。あれが初恋だという確信もないのに。
 私が知りたいのは恋という感情の境界線。だが彼女は、雪七はその境界線を悠々と踏み越えている。あたかも、ハードルをまたぐように、やすやすと。それは私に対してその男子、赤澤・神人が好きだと伝えたからだ。
 仮説を立てるならば、仮に私は神人が好きだとしよう、だとしたらどうなるだろうか。あの雪七という文学少女も同じ人物が好きなのだから、通常なら恋敵にあたるのだろう。しかも双方にとってこれが『初恋』なのだから、熾烈を極めるだろう。
 だけど私は雪七を手助けしている。なんだろう、この空虚な感情は。私は意識に霧がかかったように、何も見えなくなった。

 雪七の恋を成就させるにはまず、機会を作らなければならなかった。そのために私は幾度となく試行錯誤を凝らしてきたが、最善は一つだった。
 手紙で誘導。
 まず私が『雪七が書いた手紙』として書いて神人に渡し、行く場所を指定させる。そして雪七にも指定の場所にいくよう指示する。
だがここで注意するべきは『いきなり愛の告白』をするわけではなく、私が仲介人として登場することだ。
 翌日。私は手袋を手にはめた。単なる手袋ではない、こういった作業をする場合には五芒星の紋章が刻まれた手全体を覆わない手袋をはめるのだ。指の第二関節までしか生地は通らず、それ以外ははみ出している。私はクラスメイトの神人の下駄箱に手紙を入れた。手紙の中身はこうだ。「私は女生徒です。放課後裏庭にまつ」とても素気ない文だが、それにこそ意味がある。もしここで「本を貸して欲しい」とか、「一年一組の雪七です」とか単に呼び出す口実を書いた場合は興味ないとか、あるいは頼みごとに応えられないとかで拒否される恐れがあるからだ。重要なのは必要なもの以外書かないこと。それでいて女生徒という、異性であることを示す。大概の男子はこれで心臓を打ち抜かれた気分になるのだ。しかも、半分命令口調だから来る可能性はいっそう、高くなる。
 手筈は整った。放課後になると予想通り、神人は裏庭にいた。長い前髪を気にするわけでもなくその場にいる彼であったが、別に慌てているわけでもなく、呆けた様子で空を眺めている。だが不思議なことに雪七はきているのだが一向に声をかけようとしていない。みるとその表情は赤く、予期していたがどうも心臓が高鳴っている、という様子だった。しかも好きな人、神人に背中を向けている。視線を交わすことすら拒んでいるらしい。
 イライラした私は雪七にそっ、と正面から近付き、いきなり体当たりをした。正面から受けた雪七は「きゃあ」という悲鳴を叫びながらも突き飛ばされて神人にぶつかった。予想通りだ。背中からぶつかった雪七の体重は軽いのだが、予想外の出来事に神人は、雪七と共に地面に倒れこんだ。おそらく怪我はないだろう、少なくとも雪七だけは。
「あいててて……」神人は頭をぶつけたらしく、頭を抑えながら上半身を上げた。瞼を開けると驚きの光景が広がっていて思わず顔をそらしたのが見えた。雪七の身体が神人のそれに重なるように乗っかっていたからだ。丁度、雪七の髪の毛が鼻についてむずかゆい様子だった。
 雪七は咄嗟に事態に気付くと慌てて身体をどかした。頬には赤が射している。どうも羞恥心が多いらしい。これではキューピッドが必要になるわけだ。
「あっ、雪七じゃん!」私は同級生のように雪七に近付き、手元の金属を確認した。その金属の名前は別名『ヤスリ』とも言う。雪七を突き飛ばした時に怪我をしなかった場合に使おうとしていた道具だ。
 私は何気なく近付き、神人に気付かれないように雪七の右手を持つと、金属のヤスリで強く擦り、傷を作った。「いた」と雪七が反応することも予想通りだ。
 すかさず私は雪七に「大丈夫?」といい、返事をまたないまま、神人に向き合った。「ちょっといいかな、私、これから用事あるから、この子を保健室に連れてってくれない?」全ては予想通り事は運ぶはずだった。だが神人は私が突然現れたことに驚いた表情を見せ、迷いながら私に言った。「え? 君は、来ないの?」
 そこには二人だけの時間があった。「いやちょっと、用事があって」私はかぶりを振ってその場を急いで立ち去った。「ちょっとまってよ!」という声が聞こえたが迷わず駆け抜けた。胸にあいた空虚感は胸を侵食していった。
 私は急いで下駄箱で鞄を取ると駐輪場に向かった。あの男は、神人は私に待ってよと言った。だとしたら追ってくるかもしれない。追い付かれる、それだけは避けたかった。
 息切れを覚えながらも私は自分の自転車を駐輪場で見つけ、それを校門まで曳いていくはずを、ペダルを踏んでいった。サドルにまたがり、無理にスピードを出した。
 だが、神人は校門にいた。鞄は持っておらず、雪七を連れている様子もない。私は裏切られた感情を抱いた。しかし、神人は私と同様に息切れを起こしていた。
「ちょっと! なんであんた、ここにいるのよ! そもそも、あの子は?」
「担いでった! ここにも走ってきた! 天文部なめんなよ?」
 天文部、それは主に天体観測をする部活だった。別に体力に関係する部活ではないためここで言う必要はない、と私は思ったが口を閉ざした。
「あのなぁ。俺は成績も運動も普通だ。特徴はない。だけど馬鹿みたいに天体観測ばっかやってる。だからその手の知識ばかり、溜まってる」神人は深く吸い、空間を静寂に浸す言葉を私に告白した。
「俺はお前に惚れた」最初、その言葉が飲み込めず、はぁ? と言葉を返した。だが神人は二度言うことはない。自分の話を続けた。
「お前のその手にはめる手袋の五芒星の意味知ってるか? 金星だ。金星は黄道を八年の周期で回る。それも五芒星の頂点をなぞったように、だ。すごいだろ? 俺もこれを知ったときは驚いた。オリンピックの象徴だって最初は、その五芒星のマークになりかけたんだぜ? 驚くよな、普通」神人はそこで疲れたのか、間を取って再び語りだした。「それでさ、お前の名前、キューピッドだろ? 金星はヴィーナスっていって、美と愛の女神なんだ。ローマ神話だと、キューピッドはヴィーナスの子。美と愛の、いや、愛の象徴の子供なんだからさ、キューピッドだって恋したって、おかしくないかもよ?」
 私は、呆然として神人を見ていた。自分を庇って汚名を浴びた彼が、私が一目惚れしたかもしれない彼が、いま目の前にいる。
彼は、やっとのことで、目的の一つの言葉を私に言い放った。
「俺と付き合って欲しい」
「……」しばらく沈黙が二人を襲った。私は頷きかけた。だが思いとどまる。あの子は? 私はあの子、雪七から依頼を受けたのにどうすればいいの? 頭に空白が迫った。空白が頭を埋め尽くす前に、答えを出さなくては。
私の胸のうちに秘める空虚感は拡がり、私の身体を侵食している。そのとめどなく私を攻め立てる感情はティッシュに垂らした水のように、徐々に浸食していった。
 私は、神人に一心に恋愛感情を持っているわけではない。だが、雪七は違う。私にキューピッドの依頼をしてきた。真剣に好きなのだろう。理由がなんであれ、私が知るすべはない。
「ごめん」私は沈黙をやぶった。
 別に、これでもいいだろう。むしろ、いいはずだ。本当に好きだという彼女を手助けしているわけだから。
 神人は俯いていた。言葉が出ないのだ。その姿を私は呆気なく無視してペダルを踏み、呆気なくその横を過ぎていく。
 言葉は、なかった。そのまま私は振り返ることはない。彼はどうだろう、涙でも流しているのだろうか、だが、気にしたくはない。
 やっと、わかった。この空虚感は、恋かもしれない。だが私がどうしてもしたかったことは踏ん切りを、境界線をつけたかったことだ。空虚感がもう、身体を蝕むことはない。  
空は昼では曇っていたが今は晴れていた。

 その翌日のことだった。
 私は雪七に手紙を書かせた。「言いたいことがあります、放課後、裏庭で」雪七は書きたくないと駄々をこねていたが、私が一喝するとおとなしく従った。
 放課後、園芸部によって埋められた白いコスモスが華々しく咲くなか、雪七はまっていた。神人はいつも通り冷静を装って、裏庭に現れた。私は例によって自前のカメラを持ったまま、奥で見物していた。
 雪七は戸惑った様子だったが、奥で覗く私が一瞥をあげ、それを見ると、決心したような顔つきになった。
 雪七は神人に近付き、相手の制服の裾を握った。いじらしい感情表現だ。そして決心の思いを告げた。私はその瞬間、息を止めた。
「あの、付き合ってくれませんか? 私と」
 沈黙が走る。だが、神人は首を横には振らなかった。「いいよ」と。首をただ、ただ、上下に振るしかなかったのだった。
 雪七は顔に花が咲いたように明るい表情をすると、神人に抱きついた。
 私は迷わずその瞬間にシャッターを切り、像を結んだ。
 
 後で確認したことだ。現像した写真には二人が写っていた。雪七と神人。それも雪七が感極まって抱きついた瞬間だ。彼女は泣いていた。だがその表情は明るく、うれし泣きだということを写真に写していた。
 私はその後成功報酬として約束どおりに五万円を受け取った。決して安くない金額だ。私は大したことをやっていなかった。ひょっとするとこれはいいバイトかもしれない。
 私は自分の家の自室で机に向かっている。その机には生憎と「ありがとう」などというメッセージは書かれていない。学校じゃないからだ。私は手元をみる。そこには手袋がある、五芒星の紋章が刻まれた手袋が。今では既に分かりきったことだ。なぜ私の手元に五芒星があるのかは。それは母だということ。そして私がキューピッドだということ。キューピッドはこの季節に、コスモスが花を咲かす秋に、空に姿を現す。矢座だ。矢座は九月の中旬の夕刻、南中して姿を現す。まるで手袋の五芒星が見守られているようだ。母である五芒星のヴィーナスが息子である矢座、キューピッドに見守られていると思うと苦笑した。だって、息子に見守られる母なんて、間抜けなのではないか? 私は窓から顔を出して空を見上げる。都会の電灯が光を発し、少しも見えなかった。だが私には見える。微かではあるがその図形を、母を頭に描いた。
 まるで、矢座が五芒星に抱かれているように、キューピッドが母親、ヴィーナスに抱き寄せられているようだった。今なら長い前髪と、黒く澄んだ瞳をもつ神人の言葉が分かった気がする。
 私は雪七から受け取った五万円を見た。
 お金で愛を買えると世間が叫んでいた頃があった。それは否定できない。だが、一糸として纏わない愛は手に入れられないかもしれない。だがお金によって私は依頼を請けた。そして、一矢として纏わぬ恋を手に入れさせた。
 あれが、私の初恋だったのかもしれない。だが二人の映った写真をみるとそれはもう、どうでもよくなった。
 もし金星が空に浮かんでいるのなら今度、天体観測でもしてみよう。手袋に映る五芒星は今も私を見守るように空に浮かんでいる。

 翌日、ではなかった。休みを挟んだので明後日の一つ向こうの日にちにあたる。その日は休みボケの所為で遅刻になりかかって、ひどく憂鬱な気が胸に突き刺さっていた。その上、その日は雨が登校の最中に急に降り出したのでその気は倍増していた。
 あの日のこと、神人に好きだといわれたあの日のことを思い出した。「金星って……」と、五芒星が金星の象徴といわれ、そろそろ私は天体観測でもしたくなっていた。この頃私はあまり知らなかったが、金星は滅多に見られるものではないらしい。それでも私は見たかった。なにか、諦めきれないものがそこには存在していた。休みとはいえ、私はその天体観測用の器具持っていなかったため、学校で神人から借りようとしたわけだ。おそらく、なにかしらのものは持っているだろうという期待を膨らませていた。
 だが、今日は朝から雨。天気予報でも見ればよかった。これじゃ、もし器具が借りれても天体観測なんかできやしない。
 教室にはいり、自分の机に目をやった。表面には傷跡があり、今までの感謝の文字が卓上で踊っていた。
 私はそこに傷跡が一つ加えられていることに気付き、眉を寄せた。「五芒星?」そこには五芒星が均整の取れたマークが彫られていた。私はゴソゴソと机の中を漁った。そこには期待通り、封筒があった。
「先日はありがとうございます。あたし、なんかいつも自分を見繕って、本当の自分を隠してたと思います」雪七からだろう、だが前の手紙よりは華美ではなく、飾り気はなかった。そして封筒の中に一枚の写真があることに気付き、それを目の前に移した。
 写真には金星が写っていた。茜空に浮かぶ宵の明星。太陽の光の反射で茜色に染まり、私が知りたかった境界線がそこには紛れもなく映っていた。くっきりと、はっきりと、明瞭に、私の探し求めていたものがあった。
「ありがとうございます」写真の淵をなぞるように、それは空白の上で舞踏会を開いていた。今度は私が像を結ばれた。写真の様に。
 私の知りたかった境界線、それは自分自身が認めること。雪七は神人が好きと言った。境界線は自分が決め、自分が越えるものだ。

2007/11/17(Sat)13:22:34 公開 / 佐紀
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■作者からのメッセージ
すいません、駄文でしたwすいません、筆力がなくて、なにぶん初心者なもので、初投稿なんです。あまりにも経験不足名物で、なので、できればアドバイス、指導などを誰かくれないでしょうか?
 すいません、本当にすいません、というか存在自体にすいません。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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