『いつか星の海で』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:時永 渓                

     あらすじ・作品紹介
 ――あたしを殺して 俺に銃を向ける少女は囁くような声で強く要求する。 俺は少女を車に乗せて遠く離れた北の街へ走らせる。 俺の手で少女に終わりを与えるために

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 排気に塗れて汚れた、冷たい空気が嫌でも勝手に肺を満たす。
 あたりは薄っすらと夜霧に包まれ、目の前に聳えるマンションの所々にぼんやりと燈る薄暗い光を魅せる。
 俺は車のボンネットに腰掛け、真っ赤になったかじかむ手で煙草に火をつけた。
 もう辞めてしまいたい。
 そう思いながらもずっと仕事を続けてきた。
 今だって凄く辞めてしまいたい。
 だが、自分の意思で辞めることは出来ないのだ。俺は知りすぎてしまった。
 俺は専属の運転手をしている。
 タクシーやバスなんかっだたらどんなに良かったか。
 俺は売春組織に雇われた、娼婦の運搬専用の運転手。
 親の残した借金のために働いている。
 俺の両親は事業に失敗し、父親は自殺、母親は当時小学生だった俺が修学旅行に行っている合間に幼い妹を連れて蒸発した。
 そしてその後、俺は親戚中を盥回しにされた上、結局、施設に入れられた。
 当時の俺はこんな陳腐なドラマみたいなことが目の前で起こるとは想像もしていなかった。いや、たった十一年生きただけの子供にそんなことは考えられなかった。
 あの頃の俺は、自分だけが不幸なのだと感傷に浸っていた。
 だが、それは違った。今ならそれがとてもよくわかる。
 今、こうして両親が金を借りていた会社の紹介で運転手なんかしていて、初めて気が付いた。
 世の中、本当に腐ってやがる。
 俺の運ぶのは大抵、化粧で造り上げられた化け物じみた顔をした二十代や三十代の女だが、時には小遣い稼ぎの頭の悪そうな女子中高生、自宅に迎えに行くと涙を流して暴れる十歳にも満たない少女、また酷いときには顔面蒼白な一見、女の子に見える小学校中学年位の華奢な少年なんかを運ぶこともある。
 俺はなんてまともな人生を歩んできたのだろうか。
 もしかしたら、俺もこんなことになっていたのではないか?
 そう思うとぞっとし、同時に安心もする。そして、少年少女に同情も。
 だが、余計な感情移入はするな。
 以前は俺以外にもう一人、運転手をしている奴がいた。時々、顔を合わせる程度だったが、週に二、三度は見かけていた。
 だが、気づいたらそいつは居なくなっていた。
 そいつは、少女娼婦の一人を凄く気にかけていた。
 たぶん、奴は死んだのだ。
 いや、……殺された。
 以前、幹部の奴らと言い争っていたのを一度聞いた。
 少女娼婦のことだった。
 そのあとだ。そいつの姿を見なくなったのは。
 間違いない。奴は消されたのだ。
 俺はそうならない。
 そのために娼婦たちと口を利くな。
 そう決めている。
「だけど、こんな犯罪の片棒担ぎをするために生きる必要はあるのか?」
 呟いて、煙草を銜える。
 ないだろ。なら死んじまえ。うるせえな。心の中で一人答える。
「あの」
 突然声を掛けられて思わず体が震える。
 目の前に、背広をピシッと着こなした細身の中年男が立っていた。
「今、彼女、化粧を直しているんで時間はかかりますがもうじき出てきますよ」
 頭を下げると男は足早にそこを去る。
 見たことのある男だった。
 確か、政治家だ。
 テレビで教育問題やら児童虐待やらがどうとか言っているクソ野郎。
 普段は偉そうなこといっててもただの男。
 金で女を買うようなやつだ。
 ここの客は「センセイ」と呼ばれる奴が比較的多い。
 医者や教師、それに今みたいな政治家。
 どいつもまともじゃない。
「やっぱ、世の中腐ってる」
 俺は、銜えていた煙草を捨て、新たな煙草に火をつけた。

 
 流石におかしいと思った。
 待っている娼婦はいつまで経ってもマンションから出てこない。
 五本目になった煙草を足元に捨て踏みつける。
 娼婦はいつまでたっても降りて来ない。
 まさか、逃げられたか……?
 そうだったらやばい。殺される。
 冷たいものが勢いよく背中を這って行く。
 俺はマンションに駆け込む。
 エレベーターのスイッチを押す。
 しかし、一向に降りてくる気配はない。
「くそ」
 吐き捨てて階段へ向かう。
 確か四階だ。四○二号室。
 一段飛ばしで駆け上がる。
 二階。三階。四階。
 静かだった。
 この世の全部が俺を馬鹿にしているように感じた。
 人の気配のない通路を歩き回る
 一室、扉が開いていた。
 部屋の番号は「四○二」。
 目的の部屋。
 中へ入ると人の気配はなかった。
「おい、いるか?」
 返事はない。もともと返答を期待していなかったが。
 寝室に足を踏み入れ、照明のスイッチに手を伸ばした。
 白い光が眩く、目を細めた。
 やがて、目が慣れると異変に気が付いた。
 真っ赤だった。
 部屋中が、血に汚れていた。
 原因は、ベッドに横たわる裸体の少女だ。
 近寄って屈む。
 腹にナイフが突き刺さっている。
 死んでいた。
 やばい。
 死んでいる。
 俺も殺される。
「助けてあげようか?」
 背後で鈴の音のような声がした。
 体が縮み上がる。
 やばい見られた。
 振り返るとそこに女の子が立っていた。
 制服に細い体を隠して、手入れの行き長い豊かな黒髪が白い肌を引き立てる。
 思わず、その姿に見とれた。
 見たことのない娘だが、たぶん此処の娼婦の一人だろう。
「聞いてる? 貴方のこと助けてあげるって言ってるんだけど」
 切れ長の目が俺の目を覗き込む。
 俺は、そこでこの少女が言っている意味をようやく理解した。
「助けるって、俺を?」
 少女は大きく頷く。
 その表情に感情はない。
 ただ、虚ろな瞳が俺の奥深くを探っているよう。
「ええ。あなたが殺したわけじゃないんでしょ。だから助けてあげる」
 少女は言って、腰の辺りで何かを隠すようにされていた手を出した。
「そのかわり、あたしを殺して」
 そう押し殺された声で言った。
 手には真っ黒い銃を握り、銃口はまっすぐ俺の額の辺りに向けられている。
 俺は返答に困る。
「あなたどうせ死ぬことになるよ。だから、あたしが助けてあげる」
 あんたが俺を助ける代わりに、俺がお前を殺せと?
 狂ってる。なんだよそれ。
「今此処でじゃないよ。そう、北へ行こう。海のある街に」
 少女は片手で銃を構えたまま、ブレザーのポケットから何かを取り出して俺に向けて投げる。
 俺はそれを受け取る。銀色の――車の鍵だ。
「おい、まて。俺は行くなんていってない」
 言うと少女は銃を構える手をしっかりと確実に俺に向けた。
「あたしは別にそれでも構わないよ。あなたを今此処で消すだけだから」
 冷たい声に背筋が凍る。
「賢くなったほうがいいよ。あたしと行かないとどっちにしろ死ぬんだよ」
 そうだ、死ぬ。
 なら少しは、無駄な抵抗をしたほうがいいのではないだろうか。
 生きられる可能性は零ではなくなるのではないだろうか?
 それに、すきをみて逃げてしまえば……。
「判った」
 俺が言うと、少女は銃を下ろした。
「マンションの前に車が止めてあるわ」
 少女は部屋を出て、エレベーターに乗り込む。
 その姿は、何処にでもいる高校生。
「早く」
 俺は、少女に即されてエレベーターに乗り込む。
 少女は一階へ降りるようにエレベーターのボタンを押す。
 やがて、エレベーターは動き出す。
 階段を駆け上がった時より、ずっと長く遅く感じる。
 三階……、二階……、そしてやっと一階。
 扉が開く、少女が降りる、俺はそのあとに続く。
 マンションから出ると、俺の乗ってきた車の隣りに真っ赤な、小さなミニクーパーが止まっていた。
「これよ」
 少女は助手席側から入り、後部座席に座る。
 俺が運転するのかよ。
 ため息をついて運転席に座る。
 狭い。凄く、居づらい。
 キーを挿し、エンジンをかける。
 マンションの敷地を出ると、真っ赤に燃えるような朝焼けが白い光を放っていた。


 俺はただ北へ車を走らせた。
 バックミラーには全開にした窓に頬杖をつき外を眺める少女の横顔がある。
 少女は時々、白く細い指で強く車内を吹きぬける風に攫われる髪を退けたり、遠くの景色に目を細める以外はほとんど動かなかった。
 これは楽しい恋人同士のドライブなんかではない。そうだったらだんなに良いかと思う。
 愛しい人を助手席に乗せて、他愛のない会話とカーステレオから流れる大好きな歌。
 でも、そんなものは何処にもない。同乗者は見知らぬ少女。その少女は後部座席で世界を哀れむように景色ばかりを見つめている。
 俺はただの車を走らせるための部品に過ぎない。潮騒を思わせるラジオのノイズが唯一の音。――やはり、恋人同士のドライブとは程遠い。
「ねえ」
 突然少女が口を開いた。
「しずかちゃんは本当に 優しかったんただよ」
 バックミラーを覗くと少女は景色を見ていなかった。鏡越しに俺の目を見ている。返答を欲するように。
「悪い。今はアニメの話は聞きたくない」
 お下げ髪の女の子。あの子は確かに誰にでも優しい。幼馴染の何をやらせても巧くいかない少年にもいつも笑いかけていた。
「違うよ。そのしずかちゃんじゃない」
 少女はかすかに声を立てて笑った。
「ほら、あの部屋で殺されちゃった女の子。あの子がしずかちゃん」
 少女の声に感情の色は感じられない。
 彼女はしずかちゃんの死に対して何を思っているのだろうか。
「ふうん」
 あの娘にも名前はあったのか。そんな当たり前なことに驚いた。
「どうしてしずかちゃんなんだろ。殺されたの」
 バックミラーの中の少女は俯き加減に呟き真っ黒い銃を弄ぶ。
 俺は答えない。そんなこと俺は知らないから。
「……知ってる? しずかちゃんはあなたに惚れてたんだよ」
「へえ」
 短く答えると彼女は不満そうに綺麗な眉間に皺を寄せた。
「嬉しくないの? あんなに可愛い子に惚れられてたんだよ」
 別に嬉しくない。むしろ煩わしい。
「死んだ奴に興味はないよ」
 あえてそう答えるとバックミラーの中の少女は冷たい目を俺に向けた。
 まるで、全てを見透かそうとするかのように。
「あなた、今まで付き合った人ともそんなに長持ちしなかったでしょ」
 彼女は冷笑を浮かべると続けた。
「それもだいたい、イメージと違う。とか、一緒にいても楽しくないとか言われてフラれてる」
 言葉に詰まる。
 返す言葉は見当たらない。
 彼女の言ったことがそのとおりだからだ。
「当り、でしょ?」
 勝ち誇ったように胸を張る彼女は心底楽しそうに声をあげる。
「だって、あたしも今、そう思ったから」
 無造作に銃をシートに投げ出して再び、窓の外へ顔を向けた。
「なあ、その銃なんだけど」
「なあに?」
 彼女はバックミラーに顔を向けた。
「その銃、何処で手に入れたんだ」
「ああ、これ」
 銃を取り上げまた、弄ぶ。
「盗んだの」
 含みのある作り笑い。
「はあ? 窃盗は犯罪とかそういうのはどうでもいい。何処で?」
 俺はどんな顔をしたのだろう。彼女は一層口の端を吊り上げた。
「お父さんの書斎」
 ああ、なんだお父さんのか。
 ……って、おい。なんで父さんはそんなもん持ってんだよ。
「あたしのお父さんはさ、小さい会社を経営してるの」
「どんな?」
 彼女はにやりと口を三日月形にすると続ける。
「少ない従業員を取り仕切ってキタナイことやるような会社。簡単に言っちゃえば、『ヤクザ』ってやつ。ちなみにお父さんはあたしが自分から家を出たなんて知らないよ。置き手紙を残さないであたしの部屋を荒らして出てきたから」
 何か冷たいものがさーっと引いていく。
 はめられた。
 俺、やばいことになってる。
「ごめん。巻き込んで」
 俺はどんな顔をしていたのだろうか。彼女は申し訳なさそうに呟く。
 策略じゃないのかよ。
 そんな顔されたら罵れないだろ。
 俺はため息を付いた。
「いや」
 会話は途切れた。
 また、静寂が続く。
 話すことは、ない。
 彼女はまた窓の外に目をやる。
 この少女にはこの灰色の街並みがどんなふうに映っているのだろうか。
 羨望か、歓喜か、――はたまた絶望、か。
 俺が考えてもわかることじゃない。決して、わかりえないだろう。
 それでも、考えてしまう。
 死にたがる人間は何を思って生きているのだろうか、と。


 灰色は後ろに過ぎ去り、目の前一面が緑の山々へとかわり始め、田舎の街並みへと変わっていた。
 対向車線を走る自動車は徐々になくなって行く。
 俺は相変わらず北へ北へと車を走らせていた。
「本当は殺すつもりだった」
 運転に集中していたせいで少女の突然の声に体が強ばった。
「あの時、あたしはしずかちゃんを殺すつもりだったの」
 彼女は真上に登った太陽の光に目を細める。
 そして、その後を続けようとはしない。
「どうして?」
 俺が即すと彼女は口を開く。
「だって、しずかちゃんは優しいから」
 言って小さく笑う。
 なんだよ、それ。
「あたしはね、あそこでしずかちゃんを殺して、自分も死ぬつもりだったの。だけど――」
「しずかちゃんはすでに殺されていた」
 俺がそう続けると彼女は頷く。
「家を出るとき、銃に二発の弾を入れたの。あたしと、しずかちゃんの分。しずかちゃんが一緒なら何も心配いらない。そう思った。だけど死んでるしずかちゃんを見たら急に自分で死ぬの、怖くなっちゃった。だからあそこにいた貴方を脅したの」
 ごめんなさい。彼女はそう言って笑った。
「今も変わらないのか。死にたいの」
 俺は期待を込めて問う。
 彼女は横に首を振ると思った。
 だが、彼女は縦にゆっくりと首を振った。
 答えは、イエス、か。
「そうか」
「ごめん」
 彼女は俯く。
 申し訳ないと思うなら、生きろ。
 そう言い掛けて、慌てて飲み込む。
「腹、減らないか」
 突然空腹を感じた。俺は朝から、いや昨夜から何も口にしていない。だが、彼女は今度は首を横に振る。
 さっき欲しかった返事が今来た。
「いいよ。どこかお店入って。あたしは車で待ってるから」
 ただし、逃げないでね。そう付け足して彼女は笑う。
 俺は近くのファーストフード店の駐車場へ入る。
「じゃ、行ってくる」
 車を降りると思いの外、寒く、身震いをした。小さな駐車場にはフライドポテトの油の匂いが漂っていた。
 ファーストフードなんて何年ぶりだろうか。
 いつもは値段の割に腹にたまらないからなるべく避けてきた。
「いらっしゃいませ」
 暖かい店内に笑顔の張りついた店員の声が響いた。
 時間が時間なだけに店内にはほとんど客がいない。
 昼時はとっくに過ぎている。
「チーズバーガーのセット。飲みものはコーヒー。テイクアウトで」
 店員は俺の言ったことを復唱した。
「以上でよろしいでしょうか」
 はいと言い掛けて、止めた。
「あ、あとアップルパイとオレンジジュースも」
 レジの奥で人が動く。
 俺は代金を払って注文した品の入ったビニール袋を受け取る。
 店を出るとありがとうございました。という声が聞こえた。
 車のドアを開けると力強いギターのイントロが聴こえた。
 やがて、それに哀愁漂う英語の歌詞が乗せられた。
 俺が昔よく好んで聴いた古い曲だ。
「帰ってきたんだ」
 彼女は少し驚いた顔をした。
「当たり前だ。俺がいなきゃ車の運転は誰がするんだよ」
 彼女はおかしそうに笑った。
 俺はチーズバーガーとポテト、コーヒーを取るとビニール袋を彼女に渡す。
 彼女は受け取ると中を覗いた。
「あたしのも買ってきてくれたんだ」
「何か胃に入れとかないと酔うからな。食欲なくても食え」
 彼女はブレザーのポケットから財布を取り出そうとした。
 俺はそれを制す。
「別にこのくらい払ったからって貧乏にはならないよ」
 ありがとう、と彼女は財布をポケットに戻す。
「でもね、アップルパイにオレンジジュースはどうかと思うよ」
 奢ってもらったものに文句を言って口に運ぶ。
 俺はチーズバーガーを頬張る。
「この曲さ、悲しいよね」
 彼女はオレンジジュースを啜った。
「親友の妻に捧げた歌だもんね」
 正直驚いた。
「よく知ってるな」
 俺が言うと彼女はアップルパイを飲み込んで口を開いた。
「だって、あたしの事情によく似てるから」
 なんてね、と言って笑う。
 彼女はアップルパイの最後の一口を頬張るとゴミを片付ける手を止めた。
「車、出して」
「まだポテトが残ってる。それにゴミを残しておくと匂うぞ」
 戯けると彼女は真剣な眼差しで俺を睨む。
「そんなのいいから、早く!」
「どうしたんだよ急に」
 彼女は道路の方を指差した。
 そこには黒塗りの高級車が止まっている。
「お父さんの部下よ。お願い急いで」
 彼女は苦しそうに顔を歪める。
「貴方、殺されちゃう」


 めいいっぱいアクセルを踏み込んで車を発進させた。
 タイヤが悲鳴を上げる。
「逃げ切って! どんな手段を使っても構わないから!」
 激しく揺れる車内で少女は叫んだ。
「手段って言ったって」
 駐車場を出ると案の定、彼女の父さんの部下とやらは付いてきた。
 大通りに出て更に強くアクセルを踏む。
 だが、この古い自動車が高級車には勝てるはずもなく、どんどん迫ってくる。
「くそ、おんぼろじゃ無理だ」
 俺が呟くと彼女は掴み掛からんばかりに運転席に体を寄せた。
「あたしの愛車を馬鹿にしないで!」
 バックミラーを覗く。
 運転席と助手席に男が座っている。
「いくら車を持ってても、免許がないんじゃ愛車とは言わないよ」
 助手席の男が窓を開け、身を乗り出す。
「失礼ね! 持ってるよ。ほら」
 ポケットから免許証をだす。
 だが、そんなことより男の方に目が行った。
「おい。あの男、銃をこっちに向けてないか」
 バックミラーに映る男の手に銀色に光るものが見える。
 どうみても、ナイフじゃない。
 彼女はマジックミラーを貼られたガラス越しに高級車を見る。
 そして、後部座席に座ると携帯電話を取り出した。
「おい! こんな時に――」
「ちょっと静かにして」
 彼女は幾つかボタンに触れるとそれを座席に放る。
「ラジオも止めて」
 彼女は言って銃を手にとって大きく息を吸う。
 バックミラーに男が携帯電話を出して耳にあてる姿が映った。
『お嬢さん、ですか?』
 放り出された彼女の携帯電話から男の声が微かに聞こえた。
「河田さん……、あたし今、銃を向けられてるの」
 彼女は泣き出しそうな声色で言う。
「お願い、銃を下ろして。河田さんたちが発砲してきたらあたしを殺すって……。あたし、死にたくない」
 呟いてしゃくり上げる。
『ですが、しかし……』
 言い淀むのを聞いて彼女は小さく息をつき、頭に銃口を押し付けた。
 そして、そのまま窓の外に押し当てられた銃口が少しだけ見えるように頭を出した。
 マジックミラーを巧く利用している。
 向こうからは彼女が何者かに銃を向けられているように見えていることだろう。
『お嬢さん!』
 携帯電話から割れた声が響く。
 男達は銃を渋々おろす。
「あたしのことは心配いらないから。だから、お父さんに伝えて、あたしは無事だって」
 彼女は叫ぶ。
 高級車は徐々にスピードを落とし止まる。
 彼女は頭を引っ込めて通話を終了し、携帯電話を閉じる。彼女の瞳には涙まで浮かんでいる。
「どう? あたしの演技は」
 彼女は腹を抱えて笑うと目を拭い指を二本たてる。
 俺も思わず、つられて笑う。
「凄かった。助演女優賞間違いなしだ」
 俺が胸を撫で下ろし言うと彼女は「助演なの?」と苦笑した。
「これで当分は追っ手もないでしょう。此処からはゆっくりと寄り道ができる」
 彼女は言うと安心したように息を吐く。
「そうだな。何処か行きたい所でもあるのか?」
 と、言ってもこの辺りは何もない、北に向かうにつれ民家も点々とし、数が少なくなっている。
「うん。赤木市」
 アカギシ。聞いたことのない名前だ。
「何処にあるんだ?」
 彼女は首を傾げる。
「わからない。だけど行きたいの。死ぬ前に一度」
 彼女は真剣な眼差しで俺を見ている。
 どうしても行きたいのなら仕方がない。探してみよう。
 彼女にとって最後になるかもしれない旅だから。
「コンビニに地図って置いてあるか?」


 コンビニで立ち読みした地図によると赤木市は以外と遠い場所にあることがわかった。
 どう頑張っても、日が暮れるまで――いや、今夜中に着くことは不可能だった。
「意外とショボいんだね」
 彼女は部屋に入るなり感想を述べた。
「そうか? ビジネスホテルなんてこんなものだよ」
「ふうん」
 彼女は部屋に一つしかないベッドに倒れこむ。
 俺達はビジネスホテルに泊まることになった。
 ただ、予算の都合で一室しかとれなかった。
 今夜は固い床で眠ることになりそうだ。――だが、車で野宿より幾分もましだろう。
「疲れちゃった」
 一日に色々な事が起きたのだから当たり前だ。
 友人が死に、持ち慣れない銃をかまえ、見知らぬ男と一緒に車に乗りっぱなしだったのだから。――俺だって知らない少女のせいで疲れた。
「風呂、入るなら早くしてくれ」
 うん。そう答えて彼女はユニットバスのある所へよろよろと歩いていく。
 本当に色々な事が起こった一日だった。
 俺の残りの人生の大きなイベントがいっぺんに起こったのではないかと思うほどに。
 そういえば。そう思ってテレビのスイッチを入れてベッドに腰をおろす。
 俺のことがニュースで流れているのではないかと思った。
 だがどの放送局もそんなニュースはなかった。
 芸能人の離婚だの、グルメ情報だの、動物園に生まれたライオンの子どもだのそういうくだらないものばかりだ。
 どの局もそんな報道は一切ない。
「あたしたちのこと、流れてないでしょ」
 バスローブ姿の彼女は蒸気の上がる髪をタオルで拭きながら俺の横に座る。
 ベッドが鈍い音をたてて軋み、濡れた髪からほのかにシャンプーの香りがした。
「ああ、なんでだ?」
 彼女は笑ってテレビを消す。
「お父さんは会社のことがあるから警察には絶対言えないし、学校はあたしなんか居なくてもかまわないんでしょ。むしろ居なくて清々してるんじゃない?」
 彼女はドライヤーのスイッチを入れて、無造作に髪を乾かし始めた。
「そんなことないだろ。きっと学校には親が欠席すると連絡を入れたんだ」
 彼女は笑う。
 おかしそうに、嘲るように。
「それはないよ。みんなさ、あたしがヤクザの娘だと知ると急によそよそしくなったりするんだよ。あたしなんか居ないほうがいいんだよ」
 俺は口を開いたが、何を言ったらいいのかわからなかった。
 そんな俺を見て彼女は疲れたから寝るねと言ってベッドに潜り込んだ。
「おやすみ」
 彼女は呟く。
 俺は部屋の照明を消すと風呂場に向かった。



 風呂からあがると疲れがどっぷりと伸し掛かってきた。
 一日ハンドルを握っていたせいで肩は凝っているし、足はひどい筋肉痛だ。
 昔はこんなことなかったんだけどな。
 そう思って、もう俺もオジサンだなと苦笑する。
 彼女は暗い部屋の中のベッドに横たわったまま俺に背を向けているようだ。
 明日も早いだろうからもう寝よう。
 そう思って床に腰をおろした。
「ねえ」
 彼女が俺を見ていた。
「起きてたのか?」
 思ったことをそのまま口にすると彼女は頷いたようだ。
「どんなに目を閉じても眠れないの。ねえ、何か話をして」
 彼女は幼い子供のようなに言う。
「話なんて言ったって、俺、何も知らないよ」
 言うと彼女は何かを考え込む。
「じゃあ、貴方の家族話しが聞きたい」
 家族、か。
 俺の覚えている幸せだった頃の話でも聞かせよう。
「俺の母親は、星が好きだった。昔は天文学者を目指してたらしい」
 ベッドの端に腰掛け、話す。
「俺には妹がいた。俺と妹はよく母親に星をみに近所の小高い丘の上に連れていかれた。そこは本当に星が綺麗だった。少し汚れた空気に一面に散らばる星が瞬いていて。俺と妹はこの時が好きだった。母親が楽しそうな顔をしてくれるし。そんなある時、突然、父親が死んだ。あっけなかった。それからは母親は毎日のように俺達を星を見に連れていくやうになった」
 父親は自殺だった。とは言わない。
「でな、ある時母親は俺と妹に言ったんだ、『大切な人を遺して死んでしまった人はこの広い星の海を魚の姿で泳ぎまわりながらその人を待つの、お父さんはこの空の何処かにいるのよ』って」
 彼女が俺を見ている。
「それで?」
 彼女は先を即す。
「終わりだ」
 言うと彼女は怪訝な顔をした。
「嘘。だって貴方、最初に『俺には妹がいた』って言ったじゃない。普通は『俺には妹がいる』って言うでしょ。今妹さんはどうしてるの? お母さんは?」
 やはり聞かれると思った。
「さあな? 今頃、くたばってるんじゃないか」
 彼女はさらに整った顔を歪める。
「どういうこと?」
 せがまれたとはいえ、話したのは俺だ。答えてやるしかない。
「俺が小学校の修学旅行から帰って来たら母親も妹も居なくなってた。今何処で、どうしているのかも知らない」
 話すと彼女はふうんと呟いた。
「幸せな人生を送って来たんだね」
 いつも注がれる同情と理解したつもりになる馬鹿とは違った。
 彼女は生まれついた『ヤクザの娘』という身分で、俺の想像も出来ないような目にあってきたのだろう。
 彼女ははっとなって呟く。
「ごめんなさい。変なことを言って」
 彼女は所在なく俯いた。
「いや、明日は早く出たいから、もう寝よう」
 俺が言うと彼女は小さく頷き、布団を掛け直す。
 俺は湿ったバスタオルを床に敷き、その上に横になる。
 床の固さはバスタオルの下から充分に感じたがないよりはましだろう。
 そのうち、微睡みが波のように何度も押し寄せてきた。
「パパ、パパ」
 突然、声が聞こえて目が覚めた。
 何度も何度も父親を呼ぶ、子供のような声、だがそれはよく聞くと彼女の声だった。
 彼女が幼子のような啜り泣いている。
 起き上がり、彼女の様子を伺うと彼女の瞳は閉じられていた。
 寝言だ。きっとホームシックなのだろう。
 彼女のしっかり閉じた目蓋から涙が溢れだしてきた。
「パパどうして、どうして死んじゃったの」
 彼女はもう何も言わなかった。
 どういうことだ? 彼女の父さんは今も生きているだろ。
 やはり、ただの寝言か?
 俺は再び横になったがなかなか寝付くことが出来なかった。

 目が覚めると彼女はすでに制服に着替えていた。
「おはよう」
 彼女に微笑みかけられて気が付く。
 全部悪い夢などではなかったのだ、と。
 俺は返事をせずに洗面所へ向かう。
 顔を洗ってこのぼんやりした感じから目覚めなくては。
 冷たい水をぶつけるように何度も何度も顔にかけた。
「夢だと思ったの、昨日の事。しずかちゃんはまだ生きてると思ったし、貴方の存在も全部」
 いつのまにか後ろに立っていた彼女が言う。
「でも現実。しずかちゃんはもういないし、貴方と出会ったのも本当のこと」
 彼女は俯く。
「俺もだ。全部悪い夢だと思った。だが、目覚めると君がいた」
 彼女は顔をあげる。
 そして困ったように笑った。
「一緒、だね」


 彼女の提案で朝食は何処かレストランに入ることにした 。
 だが、こんな早朝から開いているレストランなんて存在していない。
 結局、昨日と同じ系列のファーストフード店に入った。
 と、言っても俺がひとりで店に入り、車で待つ彼女の分も買ったのだが。
「世の中凄いよね」
 彼女はチーズバーガーを頬張りながら言う。
「いつ何処に行っても全く同じ味のハンバーガーを食べられるんだから」
「それを売りにしてるのがこの手のチェーンなんだから当り前だろ」
 俺はハンバーガーの包みを開けた。
「当り前じゃないよ。指示にしたがってつくるだけでこんな全く同じ味になるなんて凄いと思わない?」
 確かにそうかもしれない。
「ま、技術の発展ってやつだよ」
 俺が言うと会話は終わった。
 駐車場に止められた車の中はやはり凄く狭い。
 ぼんやりしていると幼い子供を連れた父子の姿が目に止まった。
 それで思い出した。
「なあ、お前の父親は生きてるんだよな?」
 昨夜、彼女はパパと呼んで、どうして死んじゃったの? と寝言で呟いていた。
 彼女はきょとんとした顔をして、手を止めると小さく頷いた。
「この間、部下の河田さんに会ったでしょ。お父さんがいなければ彼が私を追ったりしないよ。その前に何、その質問、どうしたの急に?」
 彼女は眉をひそめた。
「寝言で言ってたんだ。パパ、どうして死んじゃったの? って」
 彼女が息を飲むのがわかった。
「本当に? あたしそんなこと言ったの?」
 バックミラーに映る、後部座席に座る彼女の顔は蒼白だ。
「どういうことだ?」
 彼女は口を開いたり閉じたりして言葉を探しているようだ。
 その間、瞳は素早く四方を動き回っている。
 そして、やっと言葉を選び終わった。
「今度、話す。今はまだ心の準備が出来ないから今度必ず」
 擦れた声を絞りだすように彼女は言った。
 今度、か。
 まだ、今度があるということだな。
「そうしてくれ。今度、必ず」
 今度という単語を強調していうと彼女は楽しそうに笑った。
 なんとなく安心した。
 彼女が笑っているとほっとする。
 車は山道に入り、細い道路を下り、やがて海が見えた。
 俺達の間に会話はなく、ただゆっくりと時間が流れた。
 太陽がやがて真上に登った。
 ちょうどその頃、青い長方形の標識に「赤木市」の文字を見つけた。
「やっと赤木市だな」
 小さく呟いて返事を待ったが、返事は帰ってこなかった。その代わり規則正しい小さな呼吸が聞こえた。
 バックミラーを覗くと彼女は眠っている。
 赤木市に着いたら起こせば良いか。
 俺は再び運転に意識を戻した。



 赤木市に入り彼女を起こすと間の抜けた声でうんと頷く。
 そして、重たげな目蓋をこすり、大きく伸びをしてはっとなった。
「ごめんなさい。運転させておいて寝ちゃって」
 もう一度伸びをして、彼女は窓の外に目をやった。
「もしかして、もう赤木市なの?」
「さっき言っただろうが」 彼女は首を傾げて、そうだっけと呟いた。
「あのさ、このへんで降ろして貰ってもいい?」
 彼女は頼んでいるのではない。命令だ。
「別にいいけど、車は?」
「貴方が預かっておいて」
「逃げるかもしれない」
 言うと彼女は小さく笑った。
「大丈夫。あたしは貴方を信じているから」
 俺は思わず目を大きくした。久しぶりに人からそんなことを言われた。そうはっきりと言われてしまうと逃げられない。
 車を路肩に止めると彼女はドアに手を掛け、それから一度俺の方へ向き直った。
 何かと思って彼女の顔を見ると彼女はにやりと笑って、言った。
「また、あとで」
 ドアが閉められたのを確認して、車を出した。
 バックミラーにはこちらに無邪気に手を振り歩き去る彼女がいる。
 さて、これからどうするか。
 ポケットに手を持っていき煙草を探す。
 しかし、箱の中身は空だった。
 舌打ちをして窓を開け、箱を車外に放る。
 まずは、取り敢えず煙草を調達しよう。


 潮騒に時折まじる海鳥の声が響く。
 防波堤に腰掛けて何本目になるのか忘れた煙草の煙を目で追っていた。
 ゆらゆらとゆっくり昇っては空に溶けて逝く。
 彼女を降ろして近くの自販機で煙草を買った俺は、特にすることもなく、近くの防波堤に車を止めた。
 世界は色を失って、空も、海も真っ白い。
 もうじき、初雪が降るかもしれない。
 煙草を捨てて、息を吐く。紫煙よりもさらに白い。
「どこに行ったのかと思ったよ」
 振り返ると笑みを浮かべる彼女が立っていた。
「悪い。探したか?」
 彼女は首を横に振り、ミニクーパーを指差した。
「凄く目立つね。あの車」
 俺の隣に腰を下ろすと彼女は海を見つめた。
 俺は言葉を続けずに、彼女にならって海を見た。
 さっきまでは気にならなかった潮騒がずっと近くに、ずっと大きく聞こえた。
「家に行ってきたの」
 彼女は相も変わらず波間を見つめている。
「家? 誰の」
「あたしの」
 彼女は一瞬目を伏せた。
「あたしが昔住んでいた家に行ったの。ママに会おうと、――ううん、一瞬で良いから一目見たかったの」
 彼女は、俯いた。
「だけど、さ。ママは居なかったの。代わりに知らない家族がそこに住んでいた」
 俺は煙草に火を点けた。
 彼女は、小さく声をあげて笑った。
「馬鹿みたい。会えるなんて期待して。本当に馬鹿」
 彼女は徐々に早口になっていく。
「あたしはパパの本当の子供じゃないの。ママがレイプにあって出来た子供よ。でも、パパはあたしを愛してくれた。あたしもパパを愛してた」
 でも、と呟いて彼女は大声で笑った。おかしそうに嗤った。
「お父さんが、あの男が現れて変わった。何もかも音を立てて崩れたの。あの男はね、自分がレイプして出来た子供を引き取りに来たの。あいつは整った格好でうちに来た。うちは貧しいから、パパもママもあたしが幸せになれるならとあたしをあいつに渡した。その時は知らなかった。あいつが暴力団の人間だなんて」
 彼女は真直ぐと俺を見た。
「後で知ったパパは後悔の念で悔やんだ。そして気が狂って……、死んだの。あたしが、あたしのせいでっ――」
 彼女の笑い声は嗚咽に変わった。
 必死に話を続けようとするが、それは声にならず、白い息が空を昇っていくばかりだ。
 俺は新たな煙草に火をつけ、海に視線を戻した。
 こんな時は泣きたいだけ、泣くしかない。
 潮騒は何処か遠くへ行ってしまった。
 そのせいでしゃくりあげる彼女の声が妙に大きい。
 暫くして彼女は顔をあげた。
 目はウサギのように真っ赤になっていた。
「ごめん。泣いたりして。もう大丈夫だから」
 彼女は微笑みを浮かべたがぎこちなく、崩れてしまいそうだった。
「宿、探さないとね」
 彼女は立ち上がりミニクーパーまで歩いていく。
 俺はかける言葉を見つけられずに彼女に続いた。


 不思議な目覚めだった。
 誰かに呼ばれたような気がした。
 目を擦り、テーブルに置いた腕時計を取り上げると時刻はまだ、朝の三時を回ったところだ。
 ベッドには寝息を立てる彼女が……いない。
 トイレか?
 待ってみても、彼女は現れない。
 記憶を辿る。
 昨日は二人で防波堤から車に乗り、手近なビジネスホテルを探して泊まった。
 疲れたと言う彼女は風呂からあがるとすぐに寝入ってしまった。
 俺はそのあとに風呂に入り、床で寝た。
 そして今さっき、不思議な気持ちで目が覚めた。
 誰かに呼ばれたような気がして。
 そして時計を見、ベッドを見た。
 するとベッドはもぬけの殻。彼女はいなくなっていた。
 あれは彼女が呼んだのではないのか。
 荷物をまとめ、チェックアウトをすまし、車を止めたところまで走った。
 予想通り、真っ赤なミニクーパーはなくなっていた。
 彼女が乗っていったのだ。
 でも、何処へ?
 思い当たるところが一ヶ所あった。
 ――そう、北へ行こう。海のある街に。
 きっと彼女は、昨日の海にいる。
 足は自然と駈けていた。


 東の空が赤く染まり始めていた。
 やはり彼女は此処にいた。薄暗い夜空を映す海に。
 俺は足を止めた。
 朝の澄み切った冷たい空気が熱い肺を満たす。俺はもう一度、駆け出す、彼女のもとに。
 彼女は季節に不相応な薄手の真っ白いワンピースを纏い、足を海に浸して立っていた。
 俺は彼女の近くまで走り寄る。凍てつくような海水が靴に染み、足を刺す。
「ありがとう。貴方はもう行っていいよ。これで全部終わりだから」
 彼女は頬笑む。
 だけどその目は俺を映してはいない。
 俺の役目は終わり……。
「おい、待て! 俺はお前を殺すと約束した。まだ終わってない」
 約束。俺が殺すと言った。
 血液が音をたてる。
 心臓が早鐘をうつ。
 彼女が笑う。
「終わりよ。貴方に殺されることを望んでいたけど貴方に私は殺せない」
 彼女は嬉しそうだ。
 どうしてこんな時にそんな顔をする?
「だって、貴方は優しいから」
 彼女は自身のこめかみに銃口をあてる。
 そして、……笑った。
「一緒に行こう。警察に行くんだ。それで一緒に――」
 彼女は首を横に振った。
「車の中に封筒を置いておいた。あそこの顧客と従業員のリストが入ってる」
 何の為に?
 俺の罪を軽くするため?
 でも、そんなの意味がない。
 俺がひとりになるだろ?
「ありがとう。貴方に会えて本当に、本当によかった。だから、また、いつか星の海で」
 細い指が引き金にかかる。
 俺は彼女の名前を呼ぼうと口を開く。
 だけど、ただ吐く息の虚しい音がするばかり。
 俺は、彼女の名を知らない……。

 弾ける音。
 崩れる彼女。
 散る赤。
 その刹那が永遠に感じた。――これが総ての終わり。

 どのくらいこうしていたのだろう。
 凄く長く感じた。――だけど、ほんの数分。
 目の前には満たされた顔の彼女がある。
 赤く染まる以外は眠っているように見えた。
 終わりだ。
 彼女はいないのだから。
 全部、終わったのだ。
「なあ、死んじまったら何も無くなっちまうだろ? 俺は、これからどうすればいいんだよ」
 答えてくれる者は亡い。
 頬笑む彼女は眠ってる。
 俺は、彼女の手から銃を取る。
 全部を終わらせるずっしりとした鉄の塊を。
 これが命の重み。――それにしては随分と軽い。
 これが命の脆さ。――しかしとても固い。
 そして生きることの切なさ。――一瞬にして総てを失った。


 日が昇る。
 神々しいまでの黄金色の朝日に海面が揺れる。
 総ての始まり、そして終わり。
 あの日みたのと同じ暁。
 だけど、違う。
 此処に彼女はいない。
 俺はひとり、終焉の舞台にたっている。
 全部、全部終わった。
 彼女がいなくては俺がここに存在する意味はない。
 ならば、幕を下ろさなくては。
 手を、銃を強く握る。
 そして、俺はこめかみに銃口をむけた。

2007/11/14(Wed)11:13:39 公開 / 時永 渓
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■作者からのメッセージ
 以前このサイトへちょくちょく投稿させていただいていた者7です。
 改名しました。

 稚拙な上に酷い内容で凄く戸惑っています。
 改善策をよろしくお願いします。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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