『千一夜』 ... ジャンル:ミステリ ホラー
作者:瀧河 愁
あらすじ・作品紹介
ミステリー小説です
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私は、あまり週刊誌などを好んで読むことはないのだが、いつのまに、こんな不節操な趣味を得てしまったのか。時たま、昔でいうカストリ雑誌風の、ひどく低俗な実話誌にのっている、胡散臭い猟奇犯罪の記事だとか、婦人の猥らな性生活のレポートなどといった物語を、無性に読み耽りたくなってしまう時がある。
あまりこの様な事を吹聴するのは宜しくないのだろうが、そういった娯楽誌のなどを読み、そのあまりにも妄想的で、安っぽい卑猥さに身をゆだねると、つい背筋がぞくぞくと、どうにもたまらない震えがやってきて、それが脊髄を駆け上り、脳に達するころには、甘美な揺らぎとなっり、心地良く私を酔わせてくれるのだ。
そして、そんな私が、未だに忘れられない記事が一つある。
それが乗っている雑誌自体は、そのあたりの書店の如何わしい青年誌の間によく見かける物なのだが、その中の数ページには、どことなくその雑誌の色にそぐわない、私好みの怪しげな記事があり、その始まりには、元弁護士と書かれた、記事の作者らしい、深いハンチグ帽子を、顔の上半分が隠れるほど目深にかぶった老人の、いかにも背徳感を煽るような写真が貼り付けられている。
その本は、私の本棚に、いつでも背表紙が見えるよう、できるだけ手前に置いていてたのだが、ある日、久々にそれを読み返したくなって手に取って見た所、やはりそれは色あせず、ひどく倒錯的な夢物語のまま残っており、どうにも心打たれた私は、それを自らの手でここに記し、ご紹介する事にした。
できることならば、私だけの秘密にとどめておきたかったのだが、やはり、それを誰かに読んでもらいたいという欲望が勝っており、きっとこの記事を書いた老人も、同じ様な思いであったのだろうと今では思う。
なので、これから皆様がお読みになる物語は、決して私の創作物などではない。それは、とある雑誌の、とある文章であり、その作者である老人の人生を一遍させたという、嘘とも本当ともつかない物語である。
『千一夜』
あなたは、最近月を御覧になった事がおありでしょうか。
都会にお住みになっているかたは、巻き上げられたビルの埃に赤く霞む月を。山間に御住みの方なら、夜空にばら撒かれた星屑の中央で、我が物顔に輝く白い月などを、仕事帰りの夜道などで、ふと見上げた事がございましょう。
それを見る人の気持ちは様々であって、ある者は恋人を思い、ある者は故郷を思い、またある者はその美しさに酔いしれ、夜道を歩くその足を止めてしまう事もあるのでしょう。
しかし、私はある時から、月を見上げようとすると、手足が硬く冷え切り、ガタガタと体の芯から震えがやって来て、まるでそんな私を月が嘲笑っているような気がして、まともにそれを見つめるなど、とても恐ろしくて出来ない、どう仕様も無い臆病者になってしまったのです。
これからするお話は、私をその様な体にした元凶とでも言いましょうか。それは私の心を蝕み、そして夜空を見上げる事すら出来なくした気味の悪い出来事でございます。
それは今から30年前。私がまだ弁護士をしており、立ち上げた事務所も軌道にのって、心身ともに余裕のあった時期でした。
しかしその年の秋、事務所にいた私のもとに一本の電話が入り、電話口の向こうで慌てふためいた学生時代の友人が「野宮が死んだ、自殺だ、飛び降りたのだ!」と突拍子も無い事、喘ぎながら私に伝えて来たのです。
野宮とは、私の大学時代の友人で、同じサークルに入っていた仲間でしたが、あまり仲良く接した思いでは無く、気の優しく、地味で、どこか目立たない様に生きているタイプの男だという印象だけが私の記憶に残っている程度で、たしか大学を卒業した後は、長野県の実家に帰っていたはずでした。
しかし、私はその知らせに一瞬で頭が真っ白になり、わなわなと震える手が、持っていた受話器を握り潰さんばかりに掴んでおりました。
なぜなら私はその電話が来る4日前、なんと当の自殺者、野宮からの封筒を受け取っていたのです。私はそれを、どうせ同窓会か何かの知らせだろうと、机の上に放り投げたまま、一度を中身を見ていなかったのですが、それがまさか、自殺する直前の男が私に充てた物なんて、そんな気味の悪い想像を誰が出来たでしょうか。
私は受話器を首に挟みながら、急いで封筒を手に取り、その中身を開きました。すると、中から一枚の折りたたまれた便箋が出てきたではないですか。私は電話口から聞こえてくる友人の問いかけなどを無視し、恐る恐る、そこに書かれた文字を目で追っていきました。
白く、真新しい便箋の上には、野宮のものと思わしき筆字が走しっており、よく読んでみると、簡単な挨拶から始まり、学生時代の思い出話や、自分の近況などが、とてもこれから死に行く者の書いた文面とは思えない程、えらく悠長に、長々と書かれているのです。それを、いぶかしげながら読み進んで行くと、その最後の追伸の欄には『いつか長野に来てみてくれ。是非見せたい物がある。きっと君は面白がってくれるだろう』と、嫌に楽しげな、悪戯っぽい文字が書かれているではありませんか。
その瞬間。私の脳裏に、妄想的とも言える、とある珍奇な考えが思い浮かび、電話口に向かって、野宮の自殺の様子についての説明をしてくれと、激しい口調で捲くし立てました。
その剣幕に驚いたのか、友人は少しどもりながらも、知っている限りの事実を私に話してくれました。
どうやら、野宮が自殺したのは昨日、つまり私に手紙を出した直後で、自宅の近くにある、切り立った山の渓谷に掛かる橋の上から飛び降り、その下の川原に頭をぶつけて死んだそうでした。しかし、遺書のようなものは見つからず、自殺の原因はわからない。ただ葬式は身内だけで行われる予定で、野宮は半年前にお見合い結婚をしており、悲しい事に、その妻は嫁いでからたったの半年で、哀れな未亡人になってしまったそうでした。
つまり、彼の自殺の真意は、本当の所だれも解かっていないのです。それ以上詳しい事はその友人も知りませんでしたので、私は彼に礼を言って受話器を置くと、見下ろした先にある、その手に握られた手紙が、まるで野宮の怨念が詰まっている様に思え、恐ろしくなってつい、私はその便箋を机の上に投げ出してしまいました。
その時の私は、本当の所、きっと彼は誰かに殺されたのだと朧げに、どこか確信めいた思いを胸にはせていました。
と言うのも、彼は自殺の直前に私に手紙を出し、しかもその中には私を長野に呼んで見せたいものがあるのだと書かれているではないですか。普通、これから死のうとする人間が、その様な手紙を出すものなのでしょうか。
しかし不思議なのは、どうして彼は学生時代だけの付き合いだった私に、その様な手紙を送ってきたかと言う事です。
私は覚えている限りの学生時代の彼の姿を想像しましたが、思い出せたのは、彼は酷く天体に興味を持ち、時間さえあれば、近くの山に出かけて星空を眺めるといった趣味を持っていた事ぐらいです。
そんな彼が見せたかったのは、さて、もしや長野の美しい星空だとでも言うのでしょうか。しかし、手紙の内容から察するに、彼はまるで、自分が作り上げた自慢の玩具を、もったいぶりながら見せようとする子供の様に見受けられ、私には、それをとてもただの星空を見せたかった様には思えなかったのです。
それから数週間程、私は弁護士の仕事に打ち込みながらも、野宮から送られてきたあの手紙が頭を離れませんでした。
彼は何を考え、何を思い、私にあの様な手紙を残して死んだのか。たまに、彼の手紙を読み返してみては、そんな疑問が頭の中にひしめきだしてしまい、その思考の渦は寝床に入っても消えず、今眠ったら、死んだはずの彼が枕元に立ち、私の耳元に囁いて来るのではないかと、一晩中眠れずに朝を迎えた事すらあったのです。
そして、野宮の自殺から手紙を受け取って調度一月が経ち、私は意を決して二週間程の休暇を取り、長野県の野宮の実家へと向かう事にいたしました。
もちろん、それは私を悩ませ続けた手紙の一文に書かれた、彼が私に見せたかったという物を確かめる為であったのですが、同時に、野宮の自殺の真意を暴きたいという、後ろめたい好奇心に心を擽られたからでもあります。
しかし、その好奇心こそが、すでに私が、野宮の残した恐ろしい呪縛に囚われていた証拠であるのに、愚かにも、その頃の私はまったく気が付かずにいたのです。
彼の実家は長野県の坂井戸村という、新潟県との県境に程近い山間の村にあり、私はその近くのあばら屋の様な駅を降りると、呼び寄せたタクシーに乗り、野宮の実家へと向かいました。その最中、私はタクシーの窓から見える山脈の頂上からふもとにかけて広がる暖色のコントラストや、枯れた稲穂が波打ちながら揺れる階段作りの田畑、細く、蛇のように曲がりくねった山道の上が隠れるほど広げられた枯葉の絨毯や、その天井に覆いかぶさる、赤や黄色の紅葉アーチといった、溜息を漏らさずにはいられぬ景色を、まるで御伽の国に迷い込んだ様な気持ちで眺めておりました。
そんな濃厚な自然に私が圧倒されていると、いつのまにか登り続けていた坂道が終わり、ふと目の前に、まるで秋色に染まった山の一部のごとく、紅い村の姿が見えてきました。
紅いと言うのは屋根の事で、その村にある民家の屋根はなぜか全て同じ赤色に染められているのです。
その巨大な紅葉の間をタクシーはすり抜け、さらにその道が林の間の上り坂を越えると、その枯れた木々の隙間に、先ほどみた家々と同じ、赤いトタン屋根が見えてきました。
それこそが、私の目的地である野宮家でありました。坂道を去ってゆくタクシーを見送った私は、林の合間にぽつんと建つその家を見上げました。
その家の壁は、長い間風雨に晒されてきたのが一目でわかる程黒ずんでおり、くすんだガラス張りの玄関や、歪んだ雨戸などは所々継ぎ板で直した後が見受けられ、その上を見上げると、薄く透き通った秋空の下にはまるで不釣り合いな、気味が悪い程真っ赤に塗られたトタン屋根が輝いているのです。どうやら、この村の屋根は全て同じ色にする風習がある様です。屋根には所々、新しく塗られたペンキの垂れた後が残っており、それが杉林の影に染まって、まるで、どす黒い血がトタンの上に滴っているかの様に見えました。
私は思わず、頭の割れた野宮の死体を想像してしまい、慌ててそこから目をそらすと、胸に沸いた不安を拭えぬまま、急いで野宮家の玄関を叩きました。すると、すぐに中から若い女性の声が聞こえ、立て付けの悪いドアが軋みながら開かれると、そこに、色の白い、美しい白人女性が立っていたのです。
それはもちろん、亡くなった野宮の残した未亡人、野宮美香子さんだったのですが、私が彼女を一目見たとき、外国の方と勘違いしたのは無理もございません。なにせ彼女ときたら、肌の色は透き通り、目は人形の様に大きく、睫毛も長く、手足も細長くまるでモデルの様。髪の色こそ黒いものの、どこか、田舎の民家から出てくるのは悪い冗談の様に思える程、彼女は日本人離れした美しさをその身に称えていたのです。
後で聞いた話によると、彼女はどうやら祖父がドイツ人だという、いわゆるクォーターというやつで、よく外国の人と間違われるのだと笑って話していました。それも当然でしょう、今でこそ珍しいくは無い物の、当時の田舎であれ程の美女がいれば、誰だって異邦人と疑いたくもなります。
さて、そんな彼女につれられ、昼間だというのに夕暮れのごとく薄暗い野宮家の中に足を踏み入れると、そのまま茶の間に通され、そこにまっていた着古した着物姿の白髪の老婆、野宮雅恵に挨拶をする事となりました。
雅恵さんはかなり年を召されていましたが、芯のあるしっかりとした目で私を見据え、この度は私の息子のせいで申し訳ないと、いきなり床に手をつかれたので、私はそれを慌てて制しました。野宮の父親まだ若い頃に死んだそうで、女一人で色々と苦労されたのでしょう、畳の上に付かれた両手はまるで力仕事をする男の手の様に荒く、皴にまみれたその皮膚は赤黒く浮腫んでおりました。
その後、私は持ってきたトランクから折畳んだ便箋を取り出し、雅恵さんの前に差し出しました。もちろん、それは野宮から送られた手紙であり、それが本当に野宮の書いた文字なのか、雅恵さんに確かめてもらうつもりでした。彼女はその手紙を、皺くちゃの顔を悲しげに歪めながら読み終え、私は本当にそれは息子さんの字なのかと尋ねました。すると、雅恵さんは目を潤ませ、確かに息子の字だ、間違い無いと、涙ぐみながら言うのです。
しかし、私は仕事柄か、何事も確実を求める性質でしたので、試しに隣の美香子さんにも読んでもらいましたが、帰ってきた返事は同じ。野宮は、本当に私に何かを見せるつもりで、この手紙を書いたのです。それはつまり、彼の自殺が疑わし物に変わる事を意味しました。
私は、袖で目元を拭う雅恵さんに悪いと思いつつも、彼の自殺した理由についてたずねてみました。すると雅恵さんは小さな嗚咽をもらしながら、ぽつり、ぽつりと、自殺した息子の思い出をかみ締める様に言葉を紡ぎ始めたのです。
───野宮は、幼い頃は病弱であり、家から余り外に出ない色白少年だったそうで、その為友人も少なく、彼はいつも家に篭り、一人で色々な遊びをしていたそうなのですが、そんな彼が一番熱中したのは、誕生日に買ってもらった望遠鏡で、夜な夜な自室の窓から星空を観察する事でした。彼は小さな星から大きな星、流星、彗星と、ありとあらゆる星の、その宝石の様な輝きに心を奪われ、その熱中振りは、小さいながらも、将来の夢は天文学者と両親に話す程だったようです。
そんな彼も中学生になると、突然父親が亡くなり、母親は家庭を守るために、朝も昼も働き詰めになり、野宮も朝の新聞配達や野良仕事などを手伝っていたのですが、それがより彼の孤独を強める事となり、中学になっても誰かと遊ぶ様な機械は無く、家に帰っても誰も自分の事をかまってもらえない野宮の心を癒すものは、長野の深い闇に散りばめられた、あまたの星々だけになってしまったのです。
その頃から、彼の天体に対する執着は、段々とゆがみ始めてきたのだそうです。
夜になると、彼は家を抜け出し、裏手にある小さな杉林の丘を登り、その上の開けた草原に望遠鏡を置いて、彼は一晩中夜空を見上げたそうです。止めても、彼は聴く耳をもたず、例えどんなに寒い冬の夜だろうと、彼は必ずその丘に登り、接眼部分の丸い後がクマになって残るまで、ひたすら天体観測に没頭しをしていたのですう。さらに彼は、自分の小遣いを全て天体望遠鏡や、天文図などの書物につぎ込む様になり、学校などで食べる為のお金すら使ってしまい、昼休みにはパンの耳などをかじって過ごすまでになっていました。
そんな天文狂いになった野宮でしたが、決してその趣味を他人に話す事はありませんでした。なぜなら彼は、自分のその趣味が暗く、とても陰気な物だと思い込んでいたので、そんな事を誰かに話したら、すぐに陰口を叩かれると怯えていたからなのです。
しかし、他人に言えない陰影の楽しみ程、人を虜にするものはございません。彼の天文狂いは日に日にエスカレートし続け、大学に進学した後も、彼は様々な山や海、はたまた高層ビルの上などで星を観察し、その観察記録を匿名で研究者等に渡したり、また天体に関する論文を書き上げたりして、学者達の間ではそれなりの評価を得ていたのだと言います。
そんな野宮が大学を卒業し、実家に戻ってきた時でした。彼は母親に、東京で面白い本を見つけたといって、一冊の黴臭い古本を差し出したそうです。それは、タイトルこそ忘れてしまったそうでしたが、どうも月に関する、オカルト染みた怪奇本だったそうです。
これは、後で調べた事なのですが、月の持つ不思議な力というのは、狼男をはじめ、様々な伝説や逸話となり、それこそまだあの青白い月光が、太陽の光が反射した、いわば死んだ光だという事すら解からぬ昔から、それのもつ奇怪な力が信じられていたそうです。
例えば潮の満ち引き。これは月の引力によって発生しているのは周知の事実でありますが、その引力が、何も海だけでなく、我々人間の体に影響を及ぼしていないと誰が言い切れるでしょう。
事実、これもまた奇妙な事ですが、とある学者が、満月の夜には殺人事件──とくに残酷な手合いの代物。バラバラ殺人や、幼児殺害、食人症者による凄惨な事件などといった、身の毛もよだつ、鬼の様な所業が多く発生するのだと統計学的に説明できたといいます。
しかし、それが解かった所で、その月の魔力がどうして人を狂わさずに終えぬのか……そこまでの事は何も解かっておらず、ただ、そうした噂や統計などの曖昧な結果だけが残っているだけで、実際の所、それはまだオカルトの域を出れない、ただの諸説止まりなのです。
しかし、天文青年である彼ならば、その手の話などは眉唾だと一蹴してしまう所、何故か彼は、そんなくだらない本を大事そうに抱えて、しばらくの間、その本を穴が開くほど読み続けていていました。まるでそれは、何かに取りつかれた様に、仕事の合間や、食事中、寝る前と、飽きることなくその本を読み返し続けていたそうです。
そして彼の身にどんな変化があったのかは分かりません。もしかしたら、彼もまた、その妖光に中てられたのか、はたまた、純粋過ぎるほど、天文にのめり込み過ぎた為なのか……いつのまにか、あの漆黒に浮かぶ宝石の全てに及んでいた野宮の興味は、その中央で煌々と佇む、月の青白い輝き唯一つに囚われてしまったのだそうです。
それからというもの、彼の部屋にはどこから集めてきたのか解からない、月に関する奇怪な書物で溢れ帰るようになり、中には魔術だとか、大量殺人に関する本などを部屋に持ち込んでは、それを元に、彼は月を観察し、様々な実験を繰り返していました。
実験といっても、それはとても健全で、科学的と言えるものではありません。例えば、彼は満月の夜には自殺者が増える事を証明しようと、自殺した人間の死亡日時を集め、それと月の記録を照合してみたり、またある時など、とある魔術について書かれた本から、月を利用した使者を呼び出す口寄せの術を知ると、満月の晩、彼は近くの墓地に向かうと、生きたウサギを手に持ち、死者の眠る墓の上でそのウサギの首元に鎌を突きたてるのです。すると、みるみるうちに、鎌の食い込んだ兎の、真っ白な毛の間から鮮血が溢れ出し、その血が溜まった地面の上に死んだ動物の骨を置くと、生臭い匂いが立ち込める墓場の真ん中で、怪しく光る月を見上げながら、ぼそぼそと不思議な呪文を唱え始めるといった、実に怪奇珍妙な代物なのでした。
また、彼は月そのものの美しさにも興味を示したのでしょう。彼は外に出かけると、良く月の写真を集めてきては、部屋の壁に飾っていたそうですが、それも何年かすると膨大な量になります。
ある時、母親が彼の部屋を覗いてみると、驚くべき事に、なんと天井や、壁、はたまた窓にいたるまで、部屋のありとあらゆる場所が、額ふちに入れられた、三日月、半月、満月といった、様々な月の写真で埋め尽くされているではありませんか。そんな無数の月に囲まれた部屋の真ん中で、彼は回転椅子に座り、まるで子供の様に、くるくると椅子を回しながら、口の端を吊り上げ、気見の悪い高笑いを上げているのです。母親は戦慄し、恐る恐る、何をしているのか彼に尋ねると、野宮は急に椅子の回転を止め、「今、自分は月の力を体いっぱいに感じてるいの。こんなにも沢山の月に囲まれて、僕は今体の底から力が湧き上がってきてる、どうだい母さん、こっちに来て、月を眺めてみないか」と、その顔にへばりついた笑みをぐにゃりと歪め、血走った物狂いの眼でじっとこちらを見ていたそうです。
恐ろしくなった母親は、息子を正気に戻さなければと色々な所から縁談話を持ってきました。彼女は、自分ではもう息子を止められぬと悟り、彼の伴侶となる妻さえ家に向かえれば、きっと彼にも自分のしている事の恐ろしさが判るだろうと考えたのですが、野宮はそんな母親の話も聞かず、持ちかけた縁談話を全て断ってしまい、ただ毎日を、怪しげな月の研究に没頭し続けながら過ごしていたのです。
ですが、それから数年が経ったある時、ふいに彼は、母親に向かって、見合いがしたい、縁談を持ってきてくれと言い出したのです。母親はいったい何の冗談かと耳を疑ったそうでしが、これを逃しては一生息子は気違いのままだと、彼女は急いで縁談を取り次ぎ、見合い相手は息子の希望で、母親の知り合いである、隣町に住む美人と評判の美香子さんになりました。
当時、彼の異常な性格などは、家族以外のものは誰も知りませんでしたので、美香子さんとの縁談は予定どうり行われました。見合いの席の彼は、いつもの様な物狂いの目では無く、まるで大企業に勤める好青年の様な物腰や口調、笑顔を浮かべていたので、何も知らない美香子さんや、その母親はともかく、当の雅恵さんは思わず声を上げてしまいそうに成る程、息子の変わり身に驚いてしまいました。
いったい、息子は何を考えているのか。そんな母親の心配も他所に、爽やかな好青年を演じきった彼はその後一月程で、何も知らない美しい美香子さんを妻に迎える事となったのです。
それから野宮は、まるで人が代わったかの様に、田畑の手入れや、農作業に精を出す様になり、美香子さんとの新婚生活を実に楽しげに過ごす様になりました。彼はどうやら美香子さんに惚れきっていたらしく、彼女の為にと、彼が少年時代に良く月を眺めていた裏山の草原に、3ヶ月がかりで見事な池を作ったり、自分の衣服も買わず、美香子さんに上等な着物などを買い与えていたりしたのです。
もちろん、月の研究はまだ続けていたそうですが、それも美香子さんに自分の内側を知られるのが恐ろしかったのか、決して彼女を自室に入れるような事はなく、また彼も殆どその部屋に篭るような事もなくなり、母親はやっと息子がまともに戻ったと胸を撫で下ろしていたそうでした。
しかし、それから半年が過ぎたある夜。雅恵さんが茶の間で縫い物をしている時です。突然、二階から悲鳴の様な大きな叫び声が聞こえ、次に階段を転がる様に下りてくる足音が響き、開け放たれた襖の向こうに、着物の乱れた野宮が、袖の先に錆付いた草刈鎌をぶら下げ、一心不乱に何事かを喚き散らしながら廊下を駆け抜けてゆくではありませんか。
彼女が慌てて廊下に飛び出すと、すでに開け放たれた玄関には野宮の姿は無く、代わりに後ろから、片腕から血を流した美香子さんが、よろめきながら階段を下りてきたのです。慌てて美香子さんに話を聞くと、なんと野宮が鎌を振りかざし、突然自分を襲ってきたのだと言います。雅恵さんは混乱し、とにかく息子を探し出さねばと外に出ましたが、夜もふけ、辺りは深い闇に包まれておりますので、とても一人で野宮を探し出す事などできず、途方に暮れながらふと上を見上げると、異様に大きな満月が、雲ひとつ無い夜空に浮かんでおりました。彼女は家に戻るとすぐさま警察に連絡し、事の次第を全て話すと、警官と地元の消防団による捜索が夜通し行われたそうです。
そして、翌日。近くの渓谷に掛かった橋の下、朝霧のまとわり付く川原の上に。どす黒い血の池が出来上がっており、その中央に飛び降りた野宮の、柘榴の様頭がぱっくりと割れ、体が奇怪に捻じ曲がった無残な死体が発見されたそうです。
雅恵さんは、その話を終えると、今思えば、息子は最後、「月だ、月が居る」と叫んでいたのだと言い、私は、震目の前の老婆の乾いた唇から語られる野宮の本当の姿に怯え切り、まるで道を間違え、闇夜の向こうに袋小路が現れた様な、深く、底知れぬ未知の恐怖が自分を飲み込んでいるのに気がついていました。
なんという事でしょう、もしその話が本当だとするならば、彼はいったい最後に何をみたのでしょうか。いえ、そんな問いかけは無用です、まさに彼は、長年追い求め続けた月の神秘というやつに呪い殺されてしまったのですから。
しかし、その時の私には、そんな突拍子も無い話を作り話などと思えずに、ただ、歪な不安の塊に胸を詰まらせる私を、哀れむ様に見つめる雅恵さんと美香子さんの目を、不安げに見つめておりました。
まさか、あの野宮がその様な狂人だったとは。世の中には、実に不思議な出来事というものがあるものです。
そして、その事実は、私に、彼の見せたかった物が、当然彼が熱中していた月に関する物だと容易に想像させました。
しかし、このような変質的な趣向の持ち主です。もしかしたらとんでも無く気持ちの悪い代物が用意されていたのでは無いかと竦み上がっていたのですが、正直それがどれ程の物なのかも気なって仕方がありません。
そう、その時の私は、まるで月に見入られた彼と同じように、野宮の残した深い闇の中を、おっかなびっくり歩いてゆく事を、何故か酷く楽しんでいたのだと思います。
ですから私は、湧き上がる薄暗い好奇心に掻き立てられ、翌日になってすぐ、美香子さに頼んで彼が私に渡そうとしていた物を探るため、部屋を見せてもらう事にしました。
彼の部屋は警察も入ったそうですが、部屋の様子は彼が死んだ時からあまり変わってはいないそうでした。ですから、私が彼の部屋に入った時に感じた、匂い立つ悪意は、まさに彼の心の投影したものだと考えて良いでしょう。
カーテンの掛かった窓から差し込む細い光に浮かぶ埃が辺りを舞い、秋だというのに、妙に湿った、かび臭い暗がりの向こうで、話に聞いていた、無数の月の写真達が壁を多い尽くしているのが見えました。
その時の感覚をどう表現したらよいのか、どうも言葉につまるのですが……そう、普通夜空には一つしか無い月です、それが四方の壁に数十個、ありとあらゆる形の月が並べられて、それらが右から、前から、左からと、四方八方から、まるで怯える私を嘗め回す様に見つめているような気がして、その直後、急に体の奥底からどす黒い物が這いずり出して来て、言い知れない、どこか暴力的な衝動が、私の体から溢れ出そうと必死にもがきはじめるのです。
その感覚に耐え切れず、思わず眩暈に襲わ、床にはいつくばりながらも、私はなんとか彼の残した書物を調べようと、必死になって部屋を漁り始めました。
実際、その部屋の光景よりも、彼の集めた書物のほうが異常だったといえるでしょう。彼の書物の大半は、殆ど月に関する伝承や事例、さらには歴代の異常殺人事件に関する記事や、山羊の頭をした男の古拙な版画絵が描かれた魔術本、古めかしい洋書や和書など、古本やでも滅多に見かけない、実に奇怪な内容の黴臭い書物で埋まっていたのでした。
私はとてもその様な本を全て読む気にはならず、きっと、何か手がかりがあるだろうと、彼の残した論文やメモなどを探る事にしました。
しかし、それから暫らく彼の部屋を探したのですが、どうにもその様な論文らしきものが見当たりません。ももしかしたら、警察が押収したのでしょうか。いえ、いくら警察といえども、物狂いで死んだ男の残した論文などに興味を示すものなのでしょうか。しかも事件は自殺という形で終わっているのですから、なにも論文やメモなどを押収する必要は無いはずなのです。つまり私は、彼が残した物を探すどころか、ただ彼の作り上げた暗闇の、さらに奥深くに追い込まれてしまっただけでした。
頭を使いすぎたのか、それとも私を覆う無数の月や、気味の悪い本の群れに囲まれているせいなのか、乗り物に酔ったような、妙な眩暈を覚えた私は、とりあえずその部屋を去り自室に戻り、畳の上に寝転ぶと、野宮からの手紙を穴が開くほど見つめておりました。
月の魔力について研究し、その結果、結局自身も、その魔力に食い殺されてしまった野宮。
そんな彼が、いったい、何を私に見せようとしていたのでしょう。そんな事を考えれば考える程、その狂気に私すらも取り込まれてしまいそうな恐ろしさが募り、私は思わず目をつぶって、布団の中に潜り込みました。
すると、その暗闇の向こうにぼんやりと、まるで映画のスクリーンの様な朧げな光が見え、そこに、濃い群青色の夜空に、幾つもの月が輝く、見たことも無い奇怪な光景が現れたのです。そしてその下には、馬鹿に大きな天体望遠鏡を熱心に覗き込む男の背中があり、次の瞬間、何かに気が付いた様に男が振り返ると、頭がひしゃげ、真っ赤に血で染めた野宮がまっすぐにこちらを見つめながら、その口の両端をニタリと吊り上げてみせるのです。
その晩私は、固い布団の中にもぐりこんで、恐らく、その空に満面と月が輝いていたであろう、坂井戸村の深い夜が通り過ぎるのを、じっと身を硬くして待ち続けておりました。
それから数日の間、私はあまり手紙や、野宮の自殺について考えるのを止ようと、辺りの美しい野山を散策する事に精を出していました。
なんだか、妙な胸騒ぎと言いましょうか。いくら好奇心旺盛な私でも、これ以上この事に首を突っ込んでしまったら、あの布団の中でみた幻覚が永遠と続いてしまいそうな感覚。もしそうなったら、二度とそこから戻れなくなってしまう気がして、できるだけ、事件の事から意識を遠ざけようと苦心していたのです。
その点において、坂井戸村というのは実に優れた土地で、野山を歩けば目が痛くなる程に鮮やかな秋色に染まった木々がありますし、近くには山の間を縫うように流れる大きな川もあり、その上を流れていく色取りどりの落ち葉を見ながら、川の流れるせせらぎと、どこからか聞こえる鳶の鳴き声に聞き入る事もできるのです。
そんな時美香子さんが、私が良く散歩に出かけているので、是非見て欲しい物があるといって、私を野宮家の裏手にある小高い丘になった杉林へと案内してくれました。
そこへ向かう林の間を抜ける獣道の様な坂には、枯れ落ちた杉枝が敷き詰められており、私の様な人間には、とても楽に歩ける場所では無いのですが、そんな道を悠々と歩いていく美香子さんの背中が目の前にあり、彼女に負けじと無理をして、息も絶え絶えにその坂道を登り終えました。すると、急に今まで鬱葱と茂っていた杉林が開け、そこに透き通った水が湛えられた小さな池の姿が見えていたのです。
池というのは小さすぎる、まるでどこかの庭園にある様な大きさなのですが、枯れ草が茂るその池の畔には目の冴える様な見事な枝垂れ紅葉があり、それが薄い雲の浮かぶ青空と一緒になって、まるで鏡の様な池の水面にそっくりそのまま写りこんでいるのです。
そんな溜息の出る様な光景を、私の隣で、芯の定まらぬ目つきで眺めていた美香子さんの言うには、そこが雅恵さんが話していた、彼女の為に野宮が作った池だそうでした。
ですが、その池もさることながら、その波打つ水面の輝きの中に立つ美香子さんの、どこか影のある悲しげな横顔ときたら、まるで素晴しい絵画のごとく、見るものを引き込むような魅力があるのです。
私はそんな悲しみに暮れる未亡人にその様な気持ちを抱くのは不謹慎だと、すぐにその感情を押さえ込もうとしたのですが、何故か押さえ込もうとすればするほど、脈の打つ音が耳の後ろで大きくなり、彼女の肩の上で切り揃えられた黒髪の下にのぞくうなじや、細長い手足、作り物の様な白い肌に目を奪われてしまい、私は結局、終始彼女を見つめたまま、その池での時間を過ごさなければなりませんでした。
その後、野宮家に帰ると、私の部屋に美香子さんがお茶を持ってきてくれ、色々と話をする機会がございました。
彼女は野宮の隣の村で生まれたそうですが、そこも殆どこの辺りと似たようなものだと言います。彼女は生まれてこの方、一度もこの土地から外に出た事が無いそうでした。
ですから、その様な閉鎖的な山陰で過ごして来た彼女は、私の弁護士の仕事や、東京での出来事などにとても興味を持ち、私は一方的に自分の話をさせられていました。
そういう時の美香子さんは、先ほどの様な影のある美しさとはまた違った、まるで少女の様な無垢な笑みで私の顔をみつめるので、私は目のやり場に困り、今度は、彼女からめを逸らし、終始うつむき加減で話を続ける羽目になりました。
しばらくし、て自分の話が尽きてしまうと、今度は彼女の話も聞いてみたくなって、私は何か話してくださいと、目を細めている美香子さんに言いました。
すると美香子さんは、少し困った様に眉を八の字に曲げ、それならば、私の夫のお話でもいたしましょうと、自嘲気味な微笑みを浮かべるのです。なにせ野宮家にきてから、彼の部屋を物色したりしている私です、彼女は気を使って私にそんな話をしだしたのでしょう。
しかし彼女は、どこか妙に嬉しそうな口調で、野宮についてや、たった半年という短い結婚生活の思い出話を話してくれるので、私は安心して彼女の話に耳を傾ける事ができたのです。その話の中で、彼女はいかに野宮が自分を愛していてくれたのか、そして自分もその愛にいかな形で応えていたのかを、一言一言、かみ締める様に話しておりました。それはもう、他人に話せば煙たがれる程ののろけ話でしたので、私はだんだんと、この美しい美香子さんを自分の物にした野宮を羨ましくすら思える程になっていました。
そして、最後に彼女はいきなり、彼が死ぬ最後の晩の話しをしようとしたので、私は慌ててそれを止めました。すると、彼女は申し訳なさそうに目を伏せ、自分は、野宮があの様になるまで、それ程月に狂っていたとは思いも寄らなかったと、悔しそうにぽつりと呟くのです。
そこで、私は野宮の論文やメモの類が見当たらなかったのを思いだし、話の筋を逸らそうと、それについて尋ねてみる事にしました。すると、美香子さんはただ首を振り、夫の研究などは何も知らないので、きっと警察の方が持って行かれたのでしょうと、俯いて言うばかりでした。
どうやら、妻である美香子さんには、野宮どころか、雅恵さんも何も言わないでいたのでしょう。当然真実を話でもすれば、美香子さんがいつ離縁を申し出て、その噂が辺りに広まるか解かったものではありませんので、その事は当然といえば当然でした。
そしてしばらくした後、美香子さんはそろそろ夕食の準備をしなければと、机の上の湯のみやらをお盆に載せると、私に向かって、この様な田舎で、こんな話しを出来るのは貴方だけです、よろしかったら、またお話に付き合ってくださいと、どこか儚げな微笑みを残して、襖の向こうに消え、残された私は、早鐘の様に打つ胸の鼓動を感じながら、古びた階段の軋む微かな音に、じっと聞き耳を立てていました。
今思えば、きっと私は彼女に愛情に近いものを抱いていたのだと思います。いえ、あの時の気持ちを恋や愛などと、純粋な言葉で表すのは少し違うでしょう。それは、どこか肉欲的で、私の中に眠っている雄の部分を擽られている様な感覚。あのうっすらと、濃い霧のかかった様な、美香子さんの怪しげな微笑みは、その様に私の原始的な欲求を疼かせずにはおらず、お恥ずかしい話なのですが、その夜の私は、時折彼女の姿や体を思い出しては、ふと寝床に彼女がやってきて、その乱れた着物をはらりと脱ぎ捨て、そのままとても口に出して言えない様行為に耽るといった、実に卑猥な妄想に酔いしれていたものです。
その様に魅力的な美香子さんでしたが、それも、後雅恵さんのある言葉を聞くまでの話しであって、その後私は、彼女の持つ、あの虚ろな美しさの影に怯える様になりはじめるのです。
それは、私が坂井戸村にやってきてから1週間程たった日の夕暮れでした。やはりまだ、野宮の自殺について、色々と思案するのを止めらないまま、私が近くの小川で釣りをして帰ってきた時、ちょうど野良仕事から帰ってきた雅恵さんが道の向こうから、重そうな鍬を担いで参りました。
その姿があまりにも辛そうだったので、私は雅恵さんに何か手伝う事は無いかと聞くと、雅恵さんは、なら、庭の落ち葉でも集めてくれと頼まれましたので、私は釣竿を片付けると、急いで箒と隈の手を持ち、落ち葉の敷き積もったの家の玄関の掃除に取り掛かりました。
それを私があまりにも一生懸命やっていたからでしょう、部屋様の着物に着替えた雅恵さんが遣って来て、今まで仕事をしていたにも関わらず、私の反対を押し切って一緒に庭の掃除をし始めたのです。
その最中、私が雑談の合間にふと、美香子さんがあの様にどこか物鬱気な目をするのは、やはり野宮の自殺が相当ショックだったのでしょうねと尋ねますと、雅恵さんは何故か、その言葉に首を横に振り、美香子さんは、野宮と結婚してから、時々、あの様に陰気な目をする様になったのだと、落ち込んだ声で言うのです。
それを聞いた瞬間、私は箒を履く手を止めて、思わず黙り込んでしまいました。
考えてはならない。そう思ったのですが、もう止まりません。
なぜなら、美香子さんはあの様に、野宮に対しての愛を、私にあれほど熱く語ったっていたのです。ならばどうして、あの美麗な顔に、あんな暗い影を落とすはめになったのでしょう。それが野宮の自殺が原因でないとすれば、彼女は野宮との結婚生活の間で、何か上手くいっていない部分があったと言う事なのでしょう。疑問が疑問を呼び、自然とその答えを模索する自分を、私は浅ましいと思いました。
そしてその結果。私はある一つの、身震する程の恐ろしい考えが頭に浮かんできてしまったのです。
私は、そんな訳がない、いったい私は何を考えているのだ、いい加減にしろと、必死に振り払おうとしたのですが、そんな行為も虚しく、その悪魔の様な妄想は、私の中でどんどんと大きくなり、ついにそれは、はっきりとした禍々しい姿を、私の前に現わし始めるのです。
──そう、もしかしたら、美香子さんは実の所、あの野宮の隠していた倒錯的な研究の全てを知っていたのでは無いでしょうか。
そして彼女は、全てを解かっていながら、まるで順風満帆の日々を送っている様に周りの人間を騙し続けていたとしたら……。
私は咄嗟に、野宮が死んだ日の前後に、彼女におかしな様子がなかったか尋ねました。すると、美香子さんは野宮が自殺した日の翌日、何故か朝から庭先を掃除して、集めた落ち葉を燃やしていたそうなのです。雅恵さんは、きっと美香子さんも気が動転していて、それを落ち着けるために掃除をしていたのだろうと言っていましたが、私はその話を聞いて、まったく別の事柄を想像しました。つまり、それは、野宮の部屋から無くなった論文やメモは、その焚き火の中にくべられてしまっていたのでは無いかという、自分でも呆れるような想像なのです。
ですが、雅恵さんに野宮の論文について聞いてみると、警察はその様なものを決して持っていってはいないと言うのですから、不幸にも雅恵さんは、私の想像を現実から程遠く無いものに変えてしまったのでした。
その晩、私は皆が寝静まったのを見計らって、こっそりと野宮の部屋に忍び込み、もう一度、今度は丁寧に、抜かりなく、あの膨大な書物を調べてみる事にいたしました。
なぜ、私がその様に、泥棒染みた行動にでたかと聞かれても上手く説明できないのですが、思えば、きっと私は自分が考えついた罪深い推理に一番見合う行動を、まるで役者の様に、それらしく振舞ったのではないかと思います。
そうやって忍び込んだ月の部屋で、私が片っ端から書物を読み漁るのは大変な苦労でしたが、それもそこから得られた結果に比べれば、たいしたものではありません。
私は本を調べるうちに、ある絵画集が随分と手垢で汚されているのを認め、その中身に目を通してみますと、とあるページの端に、覚え書きのような小さな文字が書かれているのを見つけたのです。
それには、『美香子』という鉛筆文字が走っており、その終わりの矢印は、そのページ中央に描かれていた日本画らしき、繊細なタッチで、まるで写真の様な、真に迫った迫力で描かれた、色の白い満月を指し示しているのです。
はたして、それは野宮がなんの為に記した文字だったのでしょう。私はその部屋を抜け出して自室に戻ると、あれこれと様々な可能性を考えては、それを打ち消すという行為を繰り返し、それから小一時間程たった辺りで、もうこれ以外には無いという所まで考えを煮詰めあげたのでした。
そしてその結果、私は、つまりあのメモが、野宮があの絵に関する何かを美香子さんに与えたという証拠だという考えにいきつきました。すなわち、美香子さんは、野宮の魔物の様な本性をしっていたばかりか、その如何わしい行為研究の対象とされ、そして彼女もそれを受け入れていたとしたら……。そう考えると、色々と不合理だったものが、まるで調度良い仕舞い方を見つけた様に、全て同じ戸棚に上手いこと収まってくれるのです。
例えば、野宮が急に縁談を進める様に言った事も、それも全て、美しい美香子さんを手に入れ、自分の研究を、より深く、陰惨なものに変貌させようとしていたら納得がいきます。そして野宮は上手い具合に彼女を手にいれ、そして彼女すらも月の魔力に貶めていたとするならばどうでしょう。すると、美香子さんが、月の研究について知らない振りをし通したのも、その手で野宮の論文を処分してしまったのも十分納得がいってしまうのです。
では、あのメモはいったい何を意味するのか。そこまでは私にもわかりませんでしたが、それに一番しっくりとくる答えは、野宮が私に送った手紙の最後の一文にあった、彼が見せようとしていたある物に関係するという憶測でした。
そして、それはおそらく、画集の走り書きにあった通り、あの美麗な未亡人が全て握っているのではないのでしょうか。
彼女は、野宮からそれを受け取った。そして本当の意味で月光に囚われてしまった美香子さんは、それを使って、野宮を自殺に追い込んだとしたら……すると、彼が最後に口走ったという、気のふれたあの言葉さえ、なんとなく意味を成してくるように思えてしまうのです。
その様な、決して理論的とはいえない、邪な想像を逞しくした私は、それからというもの、日に日に大きくなってゆく疑惑にそそのかされ、夫を自殺で無くした哀れな未亡人を暗い横顔を、事あるごとに盗み見てしまう様になっていました。
それは最初、時々彼女の顔を横目で見る程度だったのが、だんだんとエスカレートしだし、仕舞いには、彼女が部屋で縫い物をしている時や、眠っている時などまで観察する様になっていました。
そうしていないと落ち着かないのです。もしかしたら、この女が野宮を殺したのかもしれない、この女が、野宮の残した異物を懐に呑んでいるのかもしれない。もしかしたら、それを使って彼女は、あわよくば私まで殺そうとしているのかもしれないか……。私は、そんなどうしようも無い疑心暗鬼に心を食われ、終始この目で彼女の動向をこの目で確かめなければ、とても気が休まる事の無い程、疲れきった体になっていたのです。
そして、私が東京に戻るという前の晩。とうとうその妄想が、奇人の抑圧によって生み出された産物が、私の眼前に、その忌まわしい姿を顕わにする時がやって参りました。
その夜、私がいつものように、夜遅く、こっそりと美香子さんの寝室を覗いた時です。音がしないよう、ゆっくりと襖を押し、細い隙間を作り、そこから中を覗いてみますと、何故か部屋の中にはまだ明かりが灯り、その下に引かれているはずの布団は綺麗に折りたたまれたまま。美香子さんの姿は、その狭い部屋のどこにも居ないのです。
私は嫌な予感がしました。それは虫の知らせともいうのでしょうか、彼女が何かをしようとしてると私は直感し、玄関へ向かうと、やはりそこにあるはずの彼女の靴が一足無くなっていました。いったい、美香子さんはこんな夜中に何処に出かけたのかと、しばらく思案を重ねたあと、結局思い当たる場所が、あの野宮が作ったという池しかなく、私は寝巻きのままサンダルを突っ掛け、雅恵さんを起こさぬよう、ソロソロと玄関の扉を開けて外に出ました。
その夜は、ちょうど十五夜で、ずいぶんと大きな月が出ておりました。いつもなら、そんな月を見上げて溜息でも漏らしていたのでしょうが、野宮の自殺や、色々と月に関る嫌な出来事もございましたので、私はできるだけ上を見上げないよう、薄っすらと月明かりに照らされた、まるで海の底の様な杉林の間を、うつむきながら進んでおりました。
とにかく美香子さんが何処にいったのか、それだけが気がかりで、暗い夜道に転がった枯れ枝や、草木などに足を引っかき、いくら生傷が増えようとも、ちっとも気にならずに歩き続けると、やがて私の目の前に、黒々と立ち並ぶ不気味な木々の向こうに開けた空間が見え、そこに、小さな人影が立っているのがぼんやりとわかりました。
私は反射的にその場にうずくまり、寝巻きが汚れるのも気にせず、草木の間に分け入り、地べたを這いながら、林の切れ目まで進みました。そして、そこにあった木の根元に体を隠し、そこからそっと池の畔を除き見たのです。
するとどうでしょう、月明かりになびくススキの穂の向こう、池の右側の畔に、黒い着流しを来た、美香子さんとおぼしき背中がはっきりと見えたのです。
彼女は、別に何をする訳でもなく、ただぼんやりとこちらに背を向けて立っているだけなのですが、それを見る私は、不安に押しつぶされる胸の高鳴りを必死に抑えつけておりました。
なにせ、その左にあるはずの、昼間見たときはあれほど鮮やかだった紅葉の木が、今やまるで巨大な漆黒の化け物の様に変わり果て、それが、月を背にして、池に移りこんだ自分の姿を覗き込んでいる様に見えたり、、湧き水のごとく透き通っていた池の水も、夜の闇が溶け込んで真っ黒に染まっており、その背筋が冷たくなる光景の隅に佇む彼女もまた、そんな気味の悪い造形物の一つに思えてきてしまうのです。
そして、私がそうやって木の幹に顔を押し付けていると、ふと、彼女の両手がなめらかに動き、自分の襟に手をかけました。そして、するすると着流しに隠れていた、彼女の妖艶なうなじが、肩が、肩甲骨が顕になってゆき、やがて、その黒い着流しが地面に落ちた時、私は思わず声を上げそうになって、その両手を自分の口に押し付け、必死に息を殺しておりました。
───それは、月です。
彼女、その淫靡な程白い背中の中央に、夜空に浮かんでいるそれと、まったく同じ姿、形の見事な月が浮かんでいるのです。
もしや夢なのかと、私は自分の目を疑いました。ですが、やはりそこに月があり、そのすぐ斜め上の夜空には同じように輝く月光があり、その二つの月のある幻想的な景色は、どう目を凝らしえみても歪むどころか、よりはっきりとうす暗がりに浮かび上がって、いつのまにか震えたあしが、木の皮にガチガチとぶつかり、その痛みが私に現実である事を教えはじめるのです。
そして、彼女は───背中に月を背負った美香子さんは、その淫靡な白い肌をうねらせ、池に向かって、一歩、また一歩と足を進めていきました。その横顔は、まるで夢遊病者のごとく虚ろで、まるで何者かに背中を押されている様にあるいています。そして、彼女足が、ついに冷え切った池の水に足が浸かった時、美香子さんの横顔には、気の触れた、禍々しい狂人の笑みが、べったりとはりついているのが見えました。
それはまさに、月の化け物でした。もうすでに、彼女は私の知る美香子婦人ではなく、背中に月を宿した、淫らな欲望を剥き出しにした化物──彼女は、そのまま両足を水に着けると、いきり立った様に水面を叩き付けたり、蹴り飛ばしたりて水しぶきを上げ、その動きに会わせて、彼女の背中の月も歪み、暗闇の中で蠢き続けるのです。
彼女はいったい何をしていたのでしょう……それはもしかしたら、水面に移りこんでいる夜空の月を、必死になって壊そうとしていたのか、それとも、その月と戯れ、遊んでいるのだけなのか、はたまその両方だったのか……とにかくそうやって、月光に照らされながら、笑いながら水しぶきに濡れてゆく、月を背負った彼女の肉体は、あまりにも妖艶で、陰惨で、気が付けば、私の心はすっかりあの月の部屋を見た時と同じ、いえ、それよりもさらにはっきりとした、まるで獣の様な禍々しい衝動が、爪先から頭のてっぺんまで、隙間無く私を乗っ取って、意思を離れたその体は、目の前の狂乱の宴に混ざろうと、枯れ草の上を勝ってに歩き始めてゆくのです。
やめろ、とまれ、とまってくれ!……私は心の中で叫び、もがき苦しみました。しかし、遅かったのです。何もかもが、すでに手遅れになっていたのです。
私はそっと、踊り狂う月の化け物の背に近づきました。彼女は私の姿に気が付くそぶりも見せず、ケラケラと気味の悪い高笑いを上げながら、ひたすら水を叩いております。
そうして、ついに足が水につかり、彼女のすぐ後ろに立つと、まるで血の通わない、他人の様な私の手がゆっくりと伸びてゆき、その指先は、彼女の首にかかったとたん、虎が獲物の喉もに暗いつくがごとく、その白いうなじに爪を立て、力いっぱい締め上げはじめたのです。
彼女はくぐもったうめき声を上げながら、必死に私の手を振り払おうとしました。ですが、私の腕はとまりません。彼女池の上でもがけばもがくほど、私の指は信じられない力で首元に食い込んでいき、彼女はそこから逃げ出そうと、精一杯体を捻り、池のほとりにその身を投げ出しました。私は仰向けになった彼女の上にまたがるようにして、首の骨を圧し折らんばかり力を込めあげると、まるで獣の呻き声の様な、とても女の口から出ているとは思えない悲鳴が辺りにこだましました。
ですが、私はその時私が見ていたのは、ぶくぶくと泡の吹き出る美香子さんの口元や、締め上げるその細い首ではなく、私の下で隆起する肌の上で踊る、まさに生き写といった、真に迫った月の彫物でした。
いったいどれ程の腕前を持った彫師が、あれほどの月を描いたのか。今でも鮮明に思い出せるその絵は、今まで見てきたどの月よりも艶かしく色づいており、可笑しな事に、そんな月見ていると、妙に体に熱が宿り、私の肉体をのっとっていたはずの獣が、いつの間にか意識の隅々まで侵食し出し、今じぶんがしている行為が、殺人などという罪深きものに思えず、まるで愛人と情交を重ねる時の様な、触れ合う肌と肌とに熱が篭り、喉をしめつける感覚すら魅惑的な快楽に変わってゆき、自分の頬が段々と、歪な形に釣り上がってゆくのが解かってしまうのです。
そして、そうやって暫く馬乗りになっていると、いつのまにか声すら上げなくなった彼女の頭が、最後に大きく仰け反り、遠吠えの様な奇声が響き渡ると、、ぷつりと、まるで糸が切れた様に、彼女の体から一気に力が抜け落ちました。
不思議な感覚でした。彼女が死んだとわかったとたん、私の視線の先にあった美しい月の絵が、まるで油絵から、段々と絵の具が剥がれ落ちる様に、急にその色が褪せ始め、その魅力が崩れ去ってゆくのが痛い程わかりました。
そして、私は目の前の死体と、自分の両手を見比べているうちに、胸のうちに湧き上がり始めた、今しがた終えたばかりの、生まれて初めて人を殺した感覚に怯え、竦み、最後には、何かから身を守る様に、必死に草原に頭を押し付けていました。
怖かったです。なにせ人を殺したのですから、怖くて当然です。
ですが、一番私が恐ろしかったのは、そうやって殺していた最中の自分が、まるで快楽を貪る鬼の様な、恐ろしい形相で彼女を絞め殺していたのだと、容易に想像できた事でした。
狂っている、そう思いました。
何もかもが、全てが、自分が、池が、紅葉が、美香子さんの死体が、その背中の死んだ月が、その上に浮かぶ夜空が、月光が、なにもかもが狂い、歪みきっている───そう、思ったのです。
おそらく、あの野宮が作り上げたものとは、まさに美香子さんそのものだったと言えます。
彼は、月の研究をするうちに、ついに人間にその魔力を植え込むという妄想を抱いたのだと思います。そして、彼は美香子さんを手に入れ、その背中に、あのメモが記された絵画を彫り入れる事で、彼は彼女の体の中に、あの様な生き物のごとき月を作り出す事に成功したのでしょう。そして、おそらく、彼は弁護士である私の様な、現実的にしか物事を考えられない人間に、その研究の成果を確かめてもらいたかったのだと思います。
ですが、彼もまた、私と同じ様に、あの奇怪な月に魅入られる事となり、美香子さんを鎌で切りつけ、襲ったのでしょうが、なぜか彼は彼女を殺すことはできず、反対に自分の命を投げ出すに至りました。
それは、実の所、野宮は本当に彼女を愛しており、彼女を殺す事ができなかったからなのか。それとも何か、他の理由があったのかはわからりません、ただ、私には、野宮のように自ら命を絶つ勇気など無く、罪の意識に際悩まされながらも、臆病にもその田舎を逃げ出して、遠い地に身を潜めながら、この様にひっそりと暮らすはめになりました。
しかし、その代わり、私はその罪から逃げた代償として、その日から二度と、夜空に浮かぶ月を見れぬ、忌まわしい体になってしまったのです。そう、あの日から、ただの一度も、私は月を見上げたことはございません。ですから、夜道を歩かなければならない時は、必ずこの様に、目深に帽子をかぶり、うつむきながら、恐る恐る進むなんて馬鹿げ真似を、かれこれ30年程続けてきたのです。
そんな私がもしも、この帽子を取り、その夜空見上げたならば───。その様な恐ろしい事は、とても考えたくございませんが、きっと、そこには、あの美香子婦人の白く、なめまかしい背中が浮かび上がっており、それに捕らわれた私は、今度こそ、橋の上から身を投げなければならないのでしょうね。
2007/11/03(Sat)18:48:49 公開 /
瀧河 愁
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