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『壊滅的学園生活 [8]』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:バケツチーズ
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あらすじ・作品紹介
これは、学園モノと能力者バトルモノ(仮)の皮を被ったギャグっぽいのかシリアスっぽいのかよく分からない、まあでも舞台が高校なんだから多分学園モノだと思う物語である。そして全体の1割か2割くらいは能力者バトルモノ(仮)的な要素も混じっていると思う。多分。
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【ぷろろーぐ(序章)】
赤くて苦い夕陽が窓から射しこむ教室内。
その中、さほど逞しくない上半身を晒して黒板の前で四つん這いになっている俺の背中に、ぬちゃぬちゃとする大量のプリンが降りそそいでいた。
生肌をむずむずと刺激するプリンは生暖かくて、激しく気持ちが悪い。たまに首の辺りにかかってくるが、その度に俺は、びくん、と体を跳ね上げていた(びくん、だけを見ればなんだかエロく見えてしまう)。 背中で受け止めきれなかったプリンはびしゃびしゃと板張りの床に落ち、黄色と黒の汚いマーブル模様を描いていく。まるで嘔吐物みたいだな、と思った。いや嘔吐物と言い張っても通用するかもしれない。
「楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ……」
プリンを俺の背中にぶっかけている張本人がぶっ壊れた口調で何か言っている。すげぇ怖い。なんだよこいつ、なんだよこの性癖。尋常じゃねぇよ。あんたはプリンの素から生まれたプリンの妖精さんか何かですか。
確かこいつは、教室に入って来た時にはバケツを2つ持っていたはずだ。片手に1つずつだったが、それはなかなかの大きさだったような気がする。当て推量だが、容量は大体10リットルくらいか。それが2つで20リットルだから、計20キログラムのバケツプリン、か。
「楽しいなぁ楽しいなぁらのたしいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ……」
一回噛んだ。でも訂正しない。
俺は板張りの床と睨めっこしているのでこやつの方を見ることはできないが、きっと最高に幸せな顔をしているだろうな。持参した大量のプリンを、同じく持参したお玉でせこせこと半裸の男の背中にかけ続けている図。うわぁ濃い、濃すぎる。せめてこれがプリンじゃなくて弾性があるこんにゃくゼリーならまだ少しはマシだったかもしれないのに。……いや、それでも充分異質な光景だな。
「……………」
「楽しいなぁ楽しいなぁ楽しいなぁ、楽しいねぇ楽しいねぇ楽しいねぇ楽しいねぇ楽しいねぇ……」
全然楽しくなんかねぇよ。成り行き上仕方がないとはいえ、こんな異常性癖者に付き合うこととなってしまった自分が歯に貼りついてなかなか取れないでいる海苔くらい憎い。穴があったら更に深く掘ってその中に入って一生引き篭もってしまいたい。
無論この日を境に、俺がプリンを美味しく頂くことは二度と無かった。
【1】
至極平凡なことを言ってしまうが、俺は至って普通で健康的な高校二年生である。
夜な夜な街を徘徊し吸血鬼を始末していくだとか、実は異世界から来た凄腕の魔法使いだとか、あるいは覚醒すると銀髪碧眼になるだとか、そんな中学二年生の妄想めいたことは一切無い。そう、断じて無い。例え天地が引っくり返り、お天道様が月とボクシングをするようなことがあったとしてもだ、俺は吸血鬼ハンターや魔法使いや銀髪碧眼になることなど決して無いと断言できるね。
それと同様に、吸血鬼ハンター以下略のような存在がこの世界に存在しているとは微塵も思っていない。なにせ俺はひねくれたクソガキですから。非現実的なモノは一切信じない主義です。UFO? UMA? なにそれおいしいの?
まーとにかく、俺はそんな夢や妄想や希望は少しも持っておらず、中学二年生チックな特殊能力・技能も持ち合わせていないワケだが。
今、ちょっと困った事態に巻き込まれている。……語弊だな。巻き込まれているというのは正しくない。その事態の中心にいると言うべきか、うん。
前言撤回だ。俺、今日この瞬間から吸血鬼ハンターや魔法使いや銀髪碧眼の存在を信じることにするわ。あとオマケでUFOとUMAも。
信じないわけがない。信じられる要素しかない。
―――なぜならば、目の前にいるこいつは正しく“そのタイプの人間”としか思えないのだから。
/【5月15日】
「リョウ、1万円貸してくれ。担保は僕のサインだ」
俺が二限目の授業の準備をしている時に、遠藤は大真面目な顔つきで滅茶苦茶な交渉をしてきた。
「そうか。じゃあ、1万円分の価値がある俺のサインを貸してやろう。等価交換だ」
淡々とした口調で言い返す俺。しかし遠藤の表情に変化は無い。
「すまない、僕はお前が書いた字を見ると吐き気と頭痛を催す体質をしているんだ。非常に残念なことなのだけれど、その要求は呑めない。残念」
「それは残念な話だ。では交渉決裂ということで。じゃあな」
さらりと言い捨てて席を立とうとした俺の肩を、遠藤ががしっ、と掴んだ。そのまま強引に椅子に押し戻される。強行手段ときましたか。
「僕は福沢さんの笑顔が大好きなんだ。だからリョウ、お前の懐で眠っている彼を僕に貸してほしい。福沢さんがいないとダメな体に僕はなってしまったんだ」
「福沢? 福沢るみ子のことか? 彼女の話は止してくれ……」
「誰だよるみ子って。そんな奴このクラスにいないだろうがっ!」
「……2年前に死んだ、俺の彼女の名前だよ。ガーターベルトがよく似合う女性だった」
「くだらないウソはつかなくていい」
ばん、と遠藤は俺の机を強く叩いた。オマケにるみ子の存在を完全に否定されてしまった。ぬう、彼女は確かに俺の頭の中で生きていた存在だったんだがな……。
「で、遠藤くん。何の話だったかな。サインの話か? サインの話だな」
「自己完結しないでくれ。福沢さんの話だよ」
「福沢? 福沢るみ子のことか? 彼女の話は止してくれ……」
「無限ループになりそうだからお前のその発言は無視する事にした。単刀直入に言おう、今すぐ1万円貸しておくれ」
これ以上アホな漫才を繰り返していたら話が進まないことを理解したか。遠藤らしい賢明な判断であるが、芸人としては失格だな(このことを言うと彼は「僕は芸人じゃないしなりたくもない」と言うだろうがな。実につまらん男よの)。
さてしかしどうしようか。都合良く今の俺は1万円以上持ち合わせてはいるが、高校生にとってその額はぽーんと気楽に貸し出せるようなモノではない。しかし、ギャルゲーでよくありがちな設定宜しく、遠藤は小学校のときから深くて浅い付き合いが続いている所謂悪友である。切っても切れないような腐れ縁が俺と遠藤の間にはあるのだ。
でも遠藤よりもお金の方が好きだから金貸したくねぇなぁ。俺だって福沢さんのこと、大好きだもん。
そんなことをたらたらと考えている俺の傍らで、遠藤が「新しいオーディオ買うのに1万足りないんだよ」「あれ凄い性能なんだぞ? アレほら、なんかアレしてこうなるからとにかく凄いんだぞ。マジ凄い」とかなんとか喋っていたような気がするが、実にどうでもいい。お前が1万円を借りる理由なんてどうでもいい。シミュレーションとシュミレーション、どっちが正しいんだったっけか? と考えるくらいどうでもいい。使用用途が何であろうと、俺がお前に金を貸すという前提は決して崩れないのだから。
「くっ、くくっ……」
不意に、後ろの方から笑い声が聞こえてきた。堪え切れずについ声を漏らしてしまった、そういうタイプの笑いである。
「う、上田くん、遠藤くんをからかっちゃ、かかわ、いそうだよ」
振り返ると、江川奈乃子が腹を抱えてくっ、くっ、くっと小刻みに震えていた。萌えた。盗み聞きとな。ははは、こやつめ。
「違うぞ江川。それは誤解だ。遠藤は焦らされるのが大好きなヘンタイさんなんだよ」
「人の性癖を歪曲して人に伝達しないでほしい。怒るよ? ゲージ消費して必殺技出すよ? 必殺技名は“第三の足破壊”だ」
「おまっ……ボケ役に回るなよ………。空気の読めんヤツだな、ボケとボケの組み合わせだと長続きしないだろうが………」
彼が言ったとんでもなく卑猥な発言は軽やかにスルーした。生殺し状態にして中途半端な気分を味わわせてやりたかったから。
「あーもう! そんな事はどうでもいいんだよ! リョウ、お前1万円貸してくれるのか? 貸してくれないのか!? 貸せ!」
とうとう痺れを切らして怒鳴り出した。えらく必死である。彼はそんなにもその新型オーディオとやらが欲しいのか。バカだなこいつ、そんなのダンボールで作れば金なんて全然かからないのに。
「ふむ。俺はお前と10年以上の付き合いがあるからな。俺を頼りにする気持ちはよぉく理解できる。そして俺は、そんなお前の要求にできるだけ応えたいと思っていたりもする」
「ほ? 急に素直になったな。じゃあ今すぐ貸してほしい」
「だが断る」
断言してやった。
「ナニッ!!」
「この上田リョウが最も好きな事のひとつは、金を貸してくれると思ってるやつに『NO』と断ってやる事だ……」
などと格好良くセリフを決めてみたら、江川がぶほっと噴き出してしまった。笑い上戸の彼女らしい反応であった。
その後遠藤が何か言いかけたところで空気を読んだベルがチャイムを鳴らし、彼は渋々と自分の席に戻ることとなった。「この人間失格者め……」とかなんとか舌打ち混じりに呟いていたが、むしろそれは俺にとっては最高の褒め言葉です遠藤サン。
またその際に、俺の後ろの席の江川が、
「ねえ上田くん、あのネタ使ってもいい?」
とニヤニヤしながら訊いてきた。どのネタだ。
「御使用料金は一回につき2000円となります。また、御使用の際にはRYORACまで御申請をお願い致します」
俺が真顔で言葉を返したら、またも彼女は噴き出してしまった。……俺、そんなに面白いこと言ってるか?
/
遠藤と江川は俺の友人である。一応お笑いコンビではない。
遠藤はヒョロい体付きをしているにも関わらずなぜか運動神経が妙に良い(こういうタイプの人間ってどんな体の構造してんだ?)。その上、顔も性格もそれなりに良いときたもんだから、まあ女子にはそこそこ人気があるワケである。所謂モテ男くんである。そして俺はそんな遠藤を時々妬む嫉妬くんである。
江川奈乃子は高校1年生のときクラスが一緒で、席も隣だった。素直で無邪気な性格、セミロングの髪、平均的な身長、控えめなバスト、かわいらしい顔が特徴的で、男子にはぼつぼつ人気がある(しかし1年生の頃に特徴その4を彼女に向かって何気なく言ってみたら、強烈な第三の足破壊を喰らってしまったので以後その旨に関しては気を付けることにしている)。
俺と彼女の初めての会話は「ガンダムのダムの部分について」だったと思うが、彼女とはそれなりに馬が合ったので1年の間に結構仲が良くなった(ちなみに遠藤も1年の頃は俺と一緒のクラスだった)。そして二年生に進級した今でも、俺と遠藤と江川の交友は滑らかに続いている。
続かせて、いる。
以上、登場人物の説明終了。
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放課後。
帰宅部のエースである俺が帰宅に勤しんでいると、その道中で非常に稀有な場面を目撃してしまうこととなった。
ダンボールの中から顔を覗かせている数匹の猫を、中腰でじっと見つめている女の子が道端に居た。ダンボールの全面には大きく「拾ってください」と書かれた紙が貼られてある。どこからどう見ても捨て猫であった。
「ほお……」
このような場面はゲームや漫画でしか見たことがなかったので、思わず息を漏らしてしまった。
よく見ると、その女の子はうちの高校の制服を着ていた。リボンの色は緑だから1年生か(2年生は赤、3年生は青と、学年によって色が決まっている)。
それになかなか整った顔立ちをしている。長い髪もよく似合ってるな、とも思った。
捨て猫を見つめている美少女1年生。おいしい、あまりにもおいしすぎる。これは間違いなくイベントCG集に追加される場面であろう。
無論、この俺がこんなにもおいしいシチュエーションをそう簡単に見逃すはずが無い。得る物は全て得る男、それがこの俺上田リョウである。
というわけで作戦その1。何気なく話しかけて話題を発展させてみる。
「いつも通り帰宅してたら、ちょっと気になるものが目に入ったのでなんとなく声かけてみました」的な挙動と面持ちで彼女へ近づき、平静を装って話しかける。
「あれ、それ捨て猫じゃん。君いつからこうして見てるの?」
「進化キャンセルされたトランセル風情が私と対等な口を利くんじゃない」
視線を全くこちらに向けずに即答された。
あれおかしいな。何この反応。結構マジで心に突き刺さったよ、今のは。
「心外だな。せめてバグ技で増殖させた稀少価値が微塵も無いミュウと呼んでもらいたいものだ」
「……………」
「……………」
沈黙が続いた。スルーされた。俺のことを空気として捉える、彼女はそう決め込んでしまったらしい。
というわけで作戦その2。強行手段に出てみる。
「―――ふぉぉぉぉおおおおおおおお! ネコネコネコネコネコハウス! ネコ、ネコ、ネコネコネコネコネコゾーマ! ふっ、ふほっ、ふは、はははははっ!」
自分でも全く訳が分からない奇声を張り上げつつ、足元の猫入りダンボールを驚異的な速度で拾い上げる。純真無垢な眼差しを向ける仔猫たちと、一瞬眼が合った。すまん許せ後でミルク持ってきてやるから。
「WRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!」
エベレスト山よりも高く、太陽の中枢よりも熱いであろうそのテンション。猫入りダンボールをがっしりと両腕で抱えて全力疾走で道路を駆ける、駆ける、駆ける。行き先? そんなの知らん。とにかくテンションに任せてあの娘から遠ざかるのだッッ!
(これならさすがにスルーというわけにはいかんだろう! さあ追って来るがいい! そして我と対峙するのだッ!)
最早当初の目的を完全に見失ってしまっている。しかしここまでやってしまった以上、もう後には引けない。
首を後ろに回して彼女の様子を窺ってみたが、普通に走って普通に追いかけて来ていた。かなり本気でキレてるみたいだが、常軌を逸した超速度であっという間に間隔を詰められるとかそういうことは無さそうだった。良かった、どうやら俺の身体能力は彼女を上回っているらしい。さすが帰宅部エースなだけはある。
「……って、逃げ続けたらいかんだろ!」
自分で自分に突っ込みを入れたその瞬間、脇腹がずきん、と痛んだ。あ、やべ、そういや俺、こんな風に本気で走ったことなんてほとんど無かったんだった。やばい、太腿痛い。肺痛い。頭痛い。酸素足りん。停めよう。足を停めよう。これ以上走れん。走れん、マジしんどい。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
そんなこんなで、俺の逃走劇は約10秒で幕を閉じることとなった。距離にしておよそ70m。うん、よく頑張ったな俺。猫入りダンボールというウェイト付きでこれだけ走れたら充分だ。さすが帰宅部エースなだけはある。
にしても暑い。今は5月の中旬だというのに、お天道様は俺に容赦なく熱線を浴びせている。汗が止まらない。息がなかなか整わない。彼女はできない。頭は良くならない。小遣いは減る。
「………はぁっ、はぁっ、はぁっ」
ほどなくして、艶やかな黒髪を靡かせながら彼女は俺に近づいてきた。息一つ切らしていない彼女は手早い動作で俺の腕から猫入りダンボールを奪い取り、俺の眼をじっと見据えた。全身がひどい疲労感を訴えていたのでドキッとときめいたりするような余裕は無かった。
だが―――だがそんな状態の俺に対しても、この後彼女が発した言葉は、脳に直接電気ショックを加えるかのような威力と破壊力と即効性があった。
「先輩、好きです。老後は縁側でお茶をシバきながら若かりし頃の武勇伝を語り合うのを前提に付き合ってください」
そしてその電力があまりにも強すぎたあまり、思考回路が一瞬でショートした。
……なに? 俺の耳ってそんなに悪かったか? マズいなこれは。週末辺りに耳鼻科行かないと。こりゃ重症だわ。
「私、大泉栄子って言います。栄えるに子どもの子で栄子です。子どもが栄える、つまり少子高齢化対策ですね。クラスは1−2ですので、明日中にお返事をお願いします」
彼女、大泉栄子は淡々とした口調でそう言い捨てて、俺の横をすたすたと通り過ぎていった。軽い会釈すらもしなかった(俺は硬直していたのでできなかった)。というより少子高齢化対策云々は果たして言う必要があったのだろうか。
だが、どういう言葉をこの場面でどう言うべきなのか全く分からなかったので、俺は段々と小さくなっていく彼女の背中をただただぼんやりと眺めることしか出来ない。なんとも情けなかった。
「……猫、飼うのかな」
いやそうじゃない。問題はそこじゃないだろうが上田リョウ。
……これはあれか。もしかして俺、初対面の女の子に告られちゃったのか。
「しかし当事者である俺ですらそうなった経緯が不明」
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
フラグ立て・ルート派生・地道に交友等々の素敵イベントを一切合切無視して一気にクライマックスとかなんだよそれ。常識的に考えてありえない。ありえなさ過ぎる。
いや確かに彼女は欲しいよ、なにしろ俺は心も体も健全な男子高校生だから。あの大泉栄子とかいうヤツは確かに美人だ。カワイイ系よりもキレイ系に分類されるタイプだと思う。中身はともかく見た目は良い方だろうな、間違い無く。
けれどどう考えても中身がアレなので、その点はプラマイゼロと言ったところか。
でもありえないだろ。繰り返し言うがでもありえないだろ。
捨て猫を眺めている→そこに1学年上の男子生徒が声をかけてきた→適当にあしらう→男子生徒発狂、そして捨て猫をダンボールごと抱えて疾走(ここ重要)→疲弊した男子生徒へ駆け寄る→捨て猫奪還→告白
どうしてこれで恋心が芽生えるんだよ。俺が疾走していた間に一体何があった。新手のスタンド使いに洗脳でもされたのか。
が、いくら悩んでも大泉栄子の思惑など理解できる筈が無かった。そのことに気付いた俺は1時間後、ようやく考えるのを止めた。
「……………」
再び帰路を歩み始めた俺の足取りは、やたらと重かった。
恋の女神様は時には残酷になる、とよく言うが(よくは言わないか)、正しく今のこの状況がそれであることは歴然としていた。
「………どうすれば、いい」
力無く漏らしたその独り言は俺の内で虚しく反響するばかり―――。
【2】
その後、ネガティブでヘヴィなオーラを身に纏った状態で帰宅した俺に向かって我が実姉が恒例の四の字固めを決めてきた。今日はいつも以上のアルコール量を摂取していたようで、冗談でなく本気で関節があらぬ方向へ曲がりかけてしまった。ちくしょう、いつか絶対に酒瓶の中身を炭酸水で割った麦茶と入れ替えてやるから覚悟しとけよ。
どうやら彼女は、俺が半年前に「さっさと彼氏作って家出ろよ、この寄生型自宅警備員が」と冷たく言い放ったことを未だに根に持っているらしい。親に貼り付いて生きている実姉(22)よろしく、性格のほうも靴の裏で踏ん付けたガム並の酷い粘着質っぷりときた。もう手に負えない、うまい棒(コンソメ味)あげるから誰かこやつを引き取ってくれ。今ならあいつのブラジャーとパンティーも付けてやるから。
暫くして、なんとか自称消極的フリーターの魔の手から逃げ切った俺は、自室に引き篭もってぼんやりと、大泉栄子の言葉を脳裏で反芻させていた。
“先輩、好きです。老後は縁側でお茶をシバきながら若かりし頃の武勇伝を語り合うのを前提に付き合ってください”
何十年後まで見通している辺り随分と先見性があるようだが、この口説き文句はどう考えてもおかしいだろう。突込み所が多すぎるのでいちいち突っ込んだりはしないが、これが適切な告白の方法でないことは歴然としている。歴然とし過ぎていて、すこぶる反応に困る。
「……ぬぅ」
しかし―――そんな彼女の申し出をYESと受け入れるべきかNOと突っぱねるべきか考えあぐねてしまっている自分が情けない。
「……何より美人だし」
そう。
年齢=彼女いない歴=負け組数値である俺からしてみれば、容姿端麗な彼女はいわば高嶺の花なのだ。性格はともかく、見かけだけはグンバツ(これ死語か? 死語だな)な大泉栄子は(何も喋らなければ)とても魅力的な女の子にしか見えないのである。
しかしそれは罠。恐らく彼女は、花の色や形に擬態するカマキリのような存在なのだと思う。一体どれほどの男が大泉栄子という偽の花に吸い寄せられ、そして打ちのめされてきたことか。大泉栄子……恐ろしい子っ!
「……同級生とかにも俺と同じような態度で接してるのか………?」
案外、俺以外の普通な人間には何重にも猫を被って対応しているのかもしれない。
だがどちらにしても、その真意を確認できる手段は今の俺にはない。
話は戻るが、彼女の申し出にYESとNOどちらで返すべきか。まずはそれを決めなくてはならないだろう。
(んー……普通は断るんだろうな。初対面だし、電波だし。べっぴんなのを差し引いてもマイナスの方がやや多めな気がするし)
奇特な人ならYESと答えるかもしれない。その奇特な人になってみるのも悪くはないかもな、と一瞬思ったりした。だがそれは意思の確定までには至らない。
「……………」
ほどなくして、部屋のドア越しに自称新環境適応型社会人が「リョウ、ご飯できたよ」と無愛想に言ってきた。別に彼女が我が家の食事を作っているというわけではない。単なる伝言係だ。
「……後で考えるか」
小声でそう言い残し、俺は自室を後にした。
/
結局、答えは決まらなかった。
昨日大泉栄子に告白されて以降、彼女のことばかり考えていたにも関わらず、一体全体どんな言葉を返せばいいのか全く見当がつかなかった。優柔不断だな、と蔑みたければいくらでもそう思うがいい。実際そうなのだから、俺は。
そんなわけで、自室に引き篭もって返事を考えているうちになんか知らんが朝が来てしまった。つまり徹夜だ。二択問題の答えが半日以上かけて考えても分からない男上田リョウ、いやいやそんな不名誉なキャッチフレーズを呑気に考えている場合じゃないだろう。
「むう……」
時計を見ると、時刻は7時を指していた。困った、そろそろ準備をしないと学校に間に合わない。そして残念ながら“実は今日は土曜日で学校はお休みでした”などという都合の良いオチもあるはずが無かった。もしそうだったら本気で心の底から救われただろうに。
「……むう」
クローゼットから制服を取り出し、もそもそと着替え始める。2年生男子の証である赤ネクタイをきちっと締め終わった頃には、もう5分が経過していた。徹夜をして体が覚醒しきっているせいか結構スムーズに着替える事ができた。いつもなら後2分はかかるだろうに。
「ううむ……」
階下に下り、洗面所で顔を洗う。その後歯を磨き、食卓へと足を運ぶ。
朝食は既に出来上がっていた。母はいつもこの時間に主食・主菜・副菜・汁・漬け物が全品揃った俺の朝食を完成させるのである。
ニートという生物は昼まで眠る習性を持っているのであやつの朝食は無い。
「……いただきます」
机の上に並んでいる純和風の豪勢な朝食を美味しく頂き、「ごちそうさま」と我が糧となった生き物たちに感謝の言葉を送り―――送り、その後は、通学、だ。
「……………」
鞄を持ち、玄関の前まで足を進めたところで、俺の動きは停まった。
いっそ仮病を使って学校を休むか、と思った。今日はじっくりと考えていつか答えを返せばいいか、とも思った。しかしそれでは駄目だ。その“いつか必ず返事をする”の“いつか”は決して訪れないだろうから。それは、そういう“いつか”だ。
じゃあ“いつか”とはいつだ? 今日だ。
「……よし」
もうどうとでもなれ。返事は彼女を前にして咄嗟に思いついた方でいい。
直感で選択する―――それが俺なりの二択問題の攻略法であった。半日費やして考え抜いた結果がこれだ。まったく、笑えない。
「時間は放課後……いや昼休みだな。クラスは1−2だったか」
本日のスケジュールを頭の中で組み立てつつ、靴を履き靴紐をせこせこと結ぶ。
やがて靴紐は結び終わり、心も体も準備万端な状態となった。
(よし、腹は括った。やるぞ、俺はやるぞ……!)
意を決してドアノブに手をかける。ぐっと力を込めて「いってきます」と言い、ドアを開ける。
「―――え?」
その先の光景を目の当たりにして、一瞬、目が点になってしまった。
ドアを開けた先には小さな門がある。そしてその門の向こう側に、
「おはようございます、先輩。今日は道行く小学生を改造ガスガンで狙撃したくなるような良い天気ですね」
そこに、ポーカーフェイスの大泉栄子が立っていた。
「……………」
外には出ず、がちゃり、と一旦ドアを閉めて中に入る俺。
その場で大きく3回深呼吸をして、気持ちを落ち着けてみる。うん、心なしか若干落ち着いてきたような気がしないでもない。
「……よし、レッツリトライ」
再びドアを開け、門の向こう側を見てみる俺。
「どうかしました? ガスガンを無くしたのですか? でしたら私のを貸してさしあげましょうか?」
「っ!」
おまっ、何でここにいるんだよ。それにどうしてそんなにも凶悪的な発言をさらりと言ってのけることができるんだ。そして俺があたかもお前の共犯者であるかのような言い方は自重してくれ。この年でポリスメンの世話になるのはご勘弁願いたい。
「………っ、」
ええい落ち着け俺。大泉のペースに呑まれてしまっては駄目だ。それこそ正しく彼女の思う壺ではないか。
だがしかし、いつまでも門を隔てて睨めっこ、というわけにもいかない。なので俺のほうからアクションを起こすことにした。
「……………」
大泉に負けず劣らずの仏頂面を顔に貼り付け、門の所までづかづかと歩を進める。無造作に門を開け、大泉と視線を合わせて厳格な口調で一言こう言い放つ。
「すまない。私は上田リョウの双子の兄、上田リュウだ。リョウはもう学校に行ったよ」
「いえ、私の情報に誤りがなければ、上田先輩の家族構成は母・父・姉・先輩となっているはずですのでそのようなことは絶対にありえません」
よってあなたが間違いなく上田リョウ先輩です、と、彼女はビシッと俺を指差して断言した。
「……どうして俺ん家の家族構成をお前が知っているのかは敢えて訊かないでおこう。俺にとってさほどよろしくない言葉が返ってきそうだし」
「はい。そのほうがちょっとだけ助かります」
「ちょっとだけか。まあいい。ところでお前、いつ頃から家の前にいたんだ? そしてなぜ住所を知っていた?」
「午前6時頃から。住所は前夜に聞きこみ捜査で」
即答された。
しかし1時間超の張り込みに加えて地道な聞きこみ捜査ときたか。まるで刑事のような奴である。
「ところで先輩。返事は?」
「っ……」
げ、このタイミングでそうきたか。案外彼女は、いち早く俺の返事を聞きたいがために朝早くから家の前で待機していたのかもしれない。良い迷惑である。悪いヒロインである。かわいいやつである。
―――だが肝心の返事の内容は、門越しに彼女の姿を捉えたその時から既に決まっていた。
「……歩きながらでいいか?」
「はい。私、先輩のためなら首輪で繋がれて四つん這いになっても前に進むことが出来ます」
「いやそこまでしなくていいから。えっとね、日本国内でそれやっちゃうとね、ぼくたち、上のほうの怖いおじさんたちにすんごく怒られちゃうんだよ。だからね、お嬢ちゃん、それは絶対にやっちゃだめなんだよ。わかった?」
「……はあ。先輩がそこまで言うのなら仕方がありませんね………」
渋々ではあるが納得してくれた。というか今さっき気づいたのだが、彼女が右手で持っている通学用鞄の形状が妙に凸凹している。この鞄の材質って結構硬いヤツだから余程のことがなければ絶対に変形なんてしないのに。……もしや本当に、彼女の鞄の中には違法改造されたガスガンやらSMチックな首輪やらがあったりするのだろうか。ありえない、と完全に否定できない自分と、ありうる、と思わせてしまうような彼女の存在が怖過ぎる。
「あ、この中には私の秘密兵器が入っているのです」
俺の視線に気づいた彼女が丁寧に説明してくれた。
秘密兵器、ね。なんとも仰々しい言い方だが、決して大袈裟に言っているわけではないのだろう。パンパンに張っているその鞄の中には、いかにもそれらしい物品がぎっしりと詰まっているに違いない。
「それは改造ガスガンよりも凶悪な物品か?」
「はい」
「そうか。警察に絶対見つからないようにしろよ」
「ですね。あまり人に見せびらかすような物でもないですし」
そりゃそうだろうな。それほどまでに強烈な“秘密兵器”とやらを他人に見せた時点でお前の株は世界恐慌並にガタ落ちになるだろうし。
とまあそのようなやり取りの後、俺は大泉と一緒に(俺が大泉よりちょっと斜め前の位置に立って歩いてる。並んで歩くのはさすがに抵抗があるし)学校へ向かって歩き出すこととなったのだが、
「で、先輩。返事は?」
と大泉は再び催促してきた。
せっかちな彼女のことだ、そうやって急かしてくるに違いないと思っていた。
慌てふためいて醜態を晒すわけにはいかない。器が小さな男だと思われるのはなんだか癪だし。だから極力平静を装って、首だけを後ろにいる彼女のほうに向けて俺は言い返す。
「それを言う前に、ひとつだけお前に訊いておきたいことがある。いいか、訊いても?」
「どうぞ」
「お前、どうして俺のことが好きなんだ?」
こればっかりはどれほど考えても微塵も理解できなかったし想像もつかなかった。男女二人が交際する上で必要な、最も重要な理由にして最も原始的な感情のひとつ。
だってそうだろう。昨日起きた一連の出来事の中に、俺が彼女に好かれるような要素はあったか? 当事者であった俺でもひとつも無いと断言できるね。むしろ嫌われる要素のほうが圧倒的に多かったに違いない。
だから分からなかったし理解からなかった。彼女が俺に好意を寄せるその理由が。
「理由なんて、単純ですよ」
すまし顔で大泉栄子は言う。
「先輩が、小さな子どもがいる前でカードのオマケ付きウエハースを得意げに大人買いするような大人気のない人間に見えたからです」
「……………」
―――ああなるほどね、そういうことか。愚問だった。人が人を好きになる理由なんて実にどうでも良かったんだ。
ましてや電波な彼女のことだ。普通の人間めいた理由で俺のような駄目人間を好きになるはずがない。なってたまるか。
そして俺も彼女と同じく、普通の人間じみた感性で人を好きになるような人間ではない。
「大泉」
「はい?」
「お前、かわいいな」
「ありがとうございます」
変わらない歩調と口調で、俺たちは歩み続けている。
肝心の返事の内容は、門越しに彼女の姿を捉えたその時から既に決まっていた。
それは、単純にして明瞭な意思。裏の裏の恋愛感情。
「大泉」
「はい?」
「付き合おうか」
「ありがとうございます」
これでめでたくカップル成立ですねっ、と少しだけ声を弾ませてと背中越しに言う大泉。彼女は後ろにいるのでその表情は見えない。というわけでこれは俺の憶測となるのだが、このとき彼女は頬をうっすらと赤く染めて微笑んでいたに違いない。そうに決まっている。そうじゃないと面白くないし。
「先輩」
「なんだ?」
今度は大泉のターンとなった。
「並んで歩いてもいいですか?」
「いいよ」
彼女はすすーっと俺の隣まで移動する。俺と大泉の目線が交わる。
「先輩」
「なんだ?」
「毎日一緒に登下校してもいいですか?」
「いいよ」
「先輩」
「なんだ?」
「今度一緒にトランプをしませんか?」
「いいよ」
「先輩」
「なんだ?」
「今すぐここでセックスしませんか?」
真顔でとんでもない変化球を投げつけてやがったので、俺は思わず盛大に吹き出してしまった。今こいつは何て言った? ここで、朝っぱらから、ヒトの雄と雌の交尾? 冗談じゃない。俺はそんな高度過ぎるプレイは絶対に嫌だぞ。
「? どうしたのですか?」
どうやら彼女は、己の発言の重大さと病みっぷりに本気で気がついていないらしい。重症過ぎる。
「あ、あー、うん、すまんな。うん、今すぐここで、というのはかなり無理があるんだ。だからそれはまた今度、別の時間に別の場所で。うん、そうしようそうしよう」
えほっえほっとわざとらしく咳きこみながら必死にごまかす。
大泉は怪訝そうな顔で俺のほうを見ながら、
「恋人は手を繋いだりキスをしたり抱き合ったり一緒に遊んだりセックスしたりするものだと思っていたのですが……違うのですか?」
「待てまて。4つの重要なステップをカットしていきなり最終段階に到達するんじゃあない。それだと、第一走者の次はいきなりアンカーなリレーです! みたいな感じになるだろ? 更に言えば、残念ながら普通のカップルはこんな目立つ場所で堂々と性交したりなんかしないし世間様もその行為を許してやくれないんだよ。もしやお前は性欲の塊か? 歩くエロ雑誌か?」
「その通りです」
「肯定しないでほしい。エロい娘は嫌いだ」
「……ウソです」
「そうか。ならいい」
とかなんとか愉快な夫婦漫才をやっているうちに、学校の正門の前まで来てしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、なるほど確かに言い得て妙であった。
(ってか妙に周りの視線が気になるんだが……。やはり、カップルでちちくりあいながら登校する図ってのはかなりイタイタしいものなのだろうか)
まてよ。ということは、これからはずっとこの視線に耐えながら登校しなくてはならなくなるのか。「ヤダヤダ、あの子らったら見せつけちゃってサ」とか「あぁー……春だな………」とか「嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬………」みたいな陰口をこそこそ言われるようになったりするのだろうか。おお、なんと実り豊かな学園生活。オラ、すっげーワクワクしてきたぞ!
「学校、着いちゃいましたね」
正門を通り抜けるなり大泉はため息混じりにそう言った。感情表現が下手な彼女がこうも露骨にがっかりするとは珍しい。
「これでもう先輩とはお別れです。短い間の付き合いでしたが、私は絶対に先輩のことを忘れたりなんかしませんよ」
真剣な顔つきで真正面から言われた。冗談だと分かってはいるがあまりにも性質が悪すぎる。そのうえ心臓にもよろしくない。
というわけで、目の前の悪い子を軽くからかってみることにした。
「ああ。俺も大泉のことは絶対に忘れない。お前、少なくとも俺よりかは幸せになるよう生きろよ」
一昨日見た恋愛ドラマのセリフをそっくりそのまま真似て大泉に向かって言い放った。
すると彼女は、すすっ、俺に近寄り―――いやこれは近寄るとかそういうレベルじゃない。体が触れるか触れないかの絶妙かつギリギリの位置まで来た所で、彼女はぴたっ、と静止した。
上目遣いで俺を見上げている。
「嫌です。さっきのはウソです」
そして俺の背中へ両腕を回し、ぎゅうっ、と力強く抱き締めてきた。
腹の辺りに2つのやわらかな感触がクリティカルヒットした。おっぱいだ。推定C。
「! ちょっ、おまっ……!」
しかしその心地良い感触もそう長くは続かなかった。俺が(あ、俺も腕を回すべきか?)と咄嗟に考えついたその瞬間、彼女は俺の体からパッと離れてしまったのである。実に素早い挙動であった。
「では、私は教室へ行きます。また放課後に」
「……えっ? あっ、はい」
不覚にも間抜けな返事をしてしまった俺を一瞥して、彼女は凛とした面持ちと姿勢で下駄箱へと歩き出した。学年ごとに下駄箱の位置は違っているので、朝はここでお別れということになるのだ。
「……………」
下腹部の辺りで暴走している血の流れを律するのにたいへんな労力を必要とした。
俺は呆然と、昨日の夕方と同じように徐々に小さくなっていく彼女の背中を見送るばかり。
(ひとつだけ、昨日と大きく違っている点があるがな)
さて、それにしてもなんだか妙に周囲の視線が痛い。痛過ぎる。この視線パワーは間違いなく、ほんの数十秒前よりも遥かにパワーアップしている。中には「ヤダヤダ、あの子らったら見せつけちゃってサ」とか「あぁー……春だな………」とか「嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬………」みたいな陰口を言ってる奴もいるし。
だが、観衆の視線や評価などでいたたまれなくという便所のネズミのクソにも匹敵するそのくだらない普通の感性を幸運にも俺は持ち合わせていないので、この程度でめげたりはしない。……しないが、そろそろ下腹部のリミッターが決壊しそうで不安になってきたので、俺は平静を装いつつ颯爽とその場を後にすることにした。
放課後が実に楽しみである。やや前屈みな姿勢になっている俺は、そんなことを考えながら教室へ向かった。
【3】
その後。
テンパっている遠藤が「あの娘はなんだ!? 買ったのか!?」とか「リョウ、僕はお前の友人だと思っている。だからこう言う。『潔く自首しろ』と」などなど、非常に失礼なことを畳みかけるように言ってきたが、その全てを軽くあしらって過ごした。正直、相手にするの面倒だったし。
そんなこんなで時間は過ぎ、午前中の授業が全て終わり昼休みになったその時であった。凛とした佇まいで、俺の彼女こと大泉栄子が我が教室まで訪れて来たのである。
これには動揺せざるをえなかった。なにしろ遠藤と机を合わして弁当を食っている最中に、何の前触れもなく現れたのだから。遠藤は驚きのあまり鼻にミートボールを突っ込んでいた。狼狽した俺はふりかけを遠藤の頭の上に全部かけていた。
教室の出入り口の前で突っ立っている彼女は教室内をさっと見回して、そして俺を発見するなり、
「カモン、先輩」
と俺のほうを向いて手招きしてきた。
……それにしてもやけに教室内が静かになってしまっている。嫌な空気だ。他人の彼女サンがそんなに珍しいのか、こいつらは、
(……………)
だが、カモンと呼ばれたからには行かないわけにもいかんだろう。
頭と鼻が悲惨なことになっている遠藤を尻目に、俺は大泉の所まですたすたと足を進めた。
「……何用だ?」
静かに問いかける。
「今朝、訊き忘れていたことがありました」
淡々とした物言いで彼女は答える。そして言葉を続ける。
「先輩、超能力ってあると思いますか?」
………何のことだ?
何らかの物事を示唆している暗示的なメッセージだろうか、と一瞬考えたが、しかしそれにしては脈絡が無さ過ぎるし、何よりその示唆しているであろうモノが一切浮かび上がらない。
よって俺は、その言葉をそのまま文字通りの意味で捉えることにした。
「は? ……いや無いと思うけど、それがどうかしたかのか?」
超能力だとか未確認飛行物体だとか、そんな超常現象の類のものは全く信じていない。
俺の性根はひねくれているから。
「そうですか。ならいいです。では」
そう言い捨てるなり、彼女はさっと踵を返して風のように歩き去ってしまった。声をかけて呼び止めようかと思ったが、やめた。呼び止めたところで話すことなど何もないし。
「……超能力とな。はて何のことやら」
自分の知的好奇心を満たすためだけにわざわざこのクラスまで足を運んだ労力は評価しないでもないが、しかしその彼女の目的と思惑が一切分からない。あまりにも支離滅裂過ぎる。……支離滅裂の使い方って、これで合ってたっけか。
その後、街中でコサックダンスを踊っているチュパカブラでも見るかのような眼差しをほぼクラス全体から受けつつ席に戻り、再び遠藤と向かい合って(彼の頭と鼻は普通の状態に戻っていた。いつの間にか綺麗に拭き取ったらしい)昼食を再開しようとしたところで、
「……リョウ。お前の彼女、変わってるな」
彼は哀れみとも呆れとも取れるような感じでそんなことを言ってきた。
「だろう? たぶん、三千光年くらい離れた所にある未知の惑星から不思議な電波を受信してるぜ」
俺が弁当の中身を箸で突っつきながらそう答えると、遠藤は、はぁっ、と大きくため息をついた。どうやら彼は、俺と大泉の間柄に何らかの不安を感じてしまっているらしい。なんともお節介な奴である。
「まあ……言いたいことは色々あるけど。お前がそれでいいなら僕もそれでいいよ、うん……」
それはひどく疲弊したような言い方であった。
そんな遠藤の気持ちも分からなくはない。なにしろ、腐れ縁の悪友に急に彼女ができたかと思えば、実はそいつは常軌を逸している感性と思考回路を持ち合わせた女だったのだから。頭のネジが抜け落ちている女、とでも形容すべきか。
つまるところ大泉栄子という存在には、他者から敬遠されるだけの要素が充分あるのであった。
その点は否定しない。
俺も、そういう存在だから。
「あれが上田くんのカノジョさん? へぇ、カワイイね」
にやにやと笑いながら江川奈乃子が俺に話しかけてきた。彼女も大泉に興味を示したらしい。
「イグザクトリィ、その通りだ。良い感じだろ? 脳の回路が接触不良を起こしている辺りが、特に」
おどけてそう言ったら、江川は苦笑した。
「そんなこと言っちゃったらカノジョさんに失礼だよ。ところで、さっきの話はなんだったの? 超能力がどうとか」
「べつに。何でもないよ」
「なんでもないってことはないでしょ?」
「……いやだから何でもないって」
「いやでもさ、さすがになんでもないってことはないでしょ?」
彼女は妙に食い下がってきた。それになんだか、口調や表情が若干苛立っているようにも見える。
(……こいつは何が言いたいんだ?)
と俺が訝しんでいると、江川は露骨に眉をひそめて高圧的な態度でこう言った。
「だからさぁ、恋人同士なんだから、お弁当を作ってきてくれたとか。そういうのはなかったのって訊いてるの」
―――ああなんだ。そういうことか。
それなら、回りくどい言い方なんてしないで初めからそう訊けば良かったのに。分かりにくい。それとも女という生物は皆、こういう回りくどい話の仕方が好きなのだろうか。
「……無かったよ。だって、まだ付き合って数時間だぜ? あるほうがおかしい」
俺は素っ気なく答えた。
すると江川は、ぱあっ、と顔を輝かせて「そ、そう? そうよね。うん、そ、そうよね」と自分に言い聞かせるようにぶつぶつと何か言い出した。さっきまで不機嫌そうな顔だったのに、急に上機嫌になってしまった。……むう、女ってよくわからん。
「じゃ、じゃあさ、上田くん、あのさ、えっとさ、」
今度はやけにモジモジし始めた。にやにやしたりむすっとしたり嬉しそうにしたり、実に忙しいやつである。
(………?)
「れ、練習のつもりでさ、お弁当、作ってみたんだけど、いる? い、いま。わたしの鞄の中に入ってるけど」
江川は耳の先まで顔を真っ赤にしていた。まるでゆでダコみたいだな、とぼんやり考える俺。
ふと遠藤のほうを見てみたら、彼は嫉妬パワーがぎっしりと詰まったどす黒い眼でこっちを見ていた。凄い視線パワーだ。今の彼なら、憎悪と嫉妬で人を簡単に殺せるような気がする。俺にそれは通用しないがな。
―――だが、彼女の申し出に対する俺の答えはもう既に決まっている。
「ど、どうかな、上田くん? もし迷惑じゃなかったら―――」
「いらない」
「―――え?」
彼女は面食らった。きっとこれは、全く予想だにしていなかった返事だったのだろう。
「……上田くん。今、なんて………?」
強張った表情で江川奈乃子は問いかける。
平坦な表情で上田リョウは言い返す。
「いらないと言ったんだ。お前が作った弁当は必要無い。自分で食ってろ」
「………っ!」
吐き捨てるように冷たく言い放つと、江川は一瞬、泣き出しそうな顔をした。
しかしそれも一瞬の間だけだ。彼女は涙をぐっと堪えて、歪んだ表情で俺を一瞥し、
「…………」
そのまま彼女は俺に背を向ける。そして重い足取りで窓際の自分の席へ戻る。無言で。
江川奈乃子は自分の席に腰掛けるなり机に突っ伏した。ひどく哀愁が漂っている、惨めな光景であった。
「リョウ、お前……」
憮然たる面持ちの遠藤は何か言いたげにしていた。だが俺は平然とした態度で、
「江川には悪いけどさ、自分の分でいっぱいいっぱいなんだよ。俺、少食だし」
下手な嘘を、ついた。
それは虚言にも戯言にも暴言にもなりえない、あまりにも不恰好な言い訳であった。
/
それ以降、今日は江川が俺に話しかけてくるということは無かった。それどころか目すら合わせなかった。遠藤との間にもなんだか気まずい空気の層ができてしまい、結局俺は彼らにさよならの一言も言わずに下校することとなった。
「……………」
そして下駄箱から無造作に靴を取り出そうとしたそのとき、俺の手に、かさっ、と一枚の紙切れのような物が触れたのを感じた。
「……なんだ?」
取り出してみたら、それは本当にただの一枚の紙切れであった。ノートのページを一枚破り取り、そしてそれを半分に折り畳んでいるだけの紙。華やかさも異質さも無いただの紙。
「…………?」
なんだこれは、と思いつつ、半分に折られているその紙切れを広げてみた。
その中心に、無機質で小さな文字が一文、走ってあった。
「………は?
それは簡素にして残虐的なメッセージ。
俺はその一文だけの言葉に目を通して、
「………んだよ、これ……っ!」
そして戦慄した。
けれどその動揺も長くは続かなかった。更に小さい文字で、更に無機質な文字で右下に書かれているその“手紙”の“差出人”の名前を見て、俺は全身の血がサーっと引いていくのを実感した。
「……っくそ!」
誰ともなしに毒づくことによってなんとか平静を保とうとするが、しかしその行為には大した効力が無かった。別にいい。この程度で落ち着けるような精神の構造を、元から俺はしていないのだから。
(……………)
だが―――なるほど確かに、少し考えればそれはそれで納得がいくというものだ。この手紙の内容には、(ひどく屈折してしまっているが)道理もあれば論理もある。
「……………」
だからと言ってどうというわけでもない。確かにこの手紙の内容と差出人は異様だったが、だからどうしたというのだ。
この手紙に従って文字通り殺されに行くとでも? 冗談じゃない、そんな馬鹿げた話があるか。
「………………」
俺は手紙をくしゃくしゃと握り締め、上着のポケットの中に乱暴に詰め込む。
「………ふう」
息をひとつ吐き、テキパキと靴を履き替え、その場を後にした。
後ろめたさは無かった。ただ、異質に対して背を向けて逃げることしかできない自分を軽蔑はしていた。
……逃げる以外に、どうしろと。
/
校門で待機していた大泉と一緒に下校し、帰宅し、家に寄生している実姉の魔の手から逃れ自室に入ったところで、その来客はインターホンを鳴らして唐突にやって来た。
夕食の用意で手が離せない母親の代わりに俺が玄関まで出迎えに行ってみたら、そこにいたのは、
「よっ、リョウ。すまん、上がらせてもらえないか?」
制服姿の遠藤であった。鞄も持っているので学校帰りらしい。
今日のことがあったせいか、彼は無理をして“いつもの自分”を演じているように見えた。ぎこちない挙動と表情から“そういう雰囲気”がはっきりと伝わってくる。痛々しい。
「上がれよ」
そっけなく言う俺。
どういう用件で俺の家までやって来たのは大体察しがついている。江川とのあの一件のことに決まっている。
やたらと世話を焼きたがる三枚目の遠藤らしい、ありがた迷惑なお節介。
「で、何の用?」
遠藤と共に自室に入り、俺は椅子に、遠藤はベッドに腰かけて会話はスタートした。俺の無愛想な問いかけによって。
彼は俺の目をきっ、と見据えて言う。
「リョウ。お前、あの女と別れろ」
―――真顔でとんでもない変化球を投げつけてきやがった。
「……あの女ってのは、ああ、大泉のことか? おいおい嫉妬はよせよ。いやまあ、お前らしいっちゃお前らしいが、でもさすがにそ」
「別れろっつってんだろ」
彼の表情は真剣そのものだった。
……これにはさすがの俺も驚いた。まさかこんな言葉を遠藤がストレートに言うとは思ってもみなかったからである。彼は、こういうキツい言葉は極力使わずに、もっと別な回りくどい言い方でやんわりと諭すようなタイプだと思っていたからだ。
遠藤という人間はそういう人格だと思っていた。そういう言葉しか言えない人種だと思っていた。
だが違っていた。彼はその真逆になることもできるタイプの人間だった。二面性のある、厄介な人間。
(……予想外だ)
「……どうしてだ? どうして別れないといけない」
「別れるべきだからだ」
理由になっていない。
「じゃあ逆に訊くけど、おまえ、どうしてあの女と付き合ってるんだ? ひと目惚れとか言うなよ。んなくだらない理由で女を選ぶような人間じゃないだろ、おまえは。ん? なんだ? 理由、言ってみろよ」
ひどく挑発的な態度と口調だった。心と頭の底まで見透かすかのようで、虫唾が走る。
(しかし―――)
理由? こいつは一体何を言っているんだ。
そんなこと、とっくに分かっているくせに図々しい。
「理由、ね」
「そう、理由だ」
「同情だな」
ネジが不足した者に対する同情。俺と同類。
そう断言すると、遠藤は、ほお、と大げさに目を見開いてみせた。鬱陶しい動作だ。
「同情? 何のだ」
「同類に対する憐れみだ。ああでも、恋愛感情が全く無いってわけでもない」
「へえ。それで、前者と後者の比率は?」
「1対99」
俺が無愛想にそう答えると、遠藤は「笑えないジョークだな」と鼻で笑った。実際その通りだったから否定はしない。だからと言って肯定はしないが。
「じゃあ今度は俺の番だ。もう一回訊くが、どうして俺は大泉と別れなきゃいけないんだ?」
「さてな」
はぐらかしやがった。俺はちゃんとこいつの質問に答えてやったのに、自分は答えないというのは不公平だと思う。
というわけで、俺の質問にまともに答えてもらうよう促してみることにした。
「答えろよ。400字詰め原稿用紙3枚分以内で」
「いずれその理由がわかる。……ほら、3枚分以内で答えてやったぞ。満足か? わかりやすいよう無駄な段落や文節は極力省いたけど」
「国語が2のお前に期待した俺が愚かだったよ。ごめんな遠藤。お前、日本語が不自由なかわいそうな子だったもんな……」
「……やめろよ。そんなイタい子を見るような目で見るなよ」
「じゃあ答えろ。400字詰め原稿用紙1枚分以上で」
「いずれその理由がわかる。かける40。ほれ、これで満足か?」
「頭は大丈夫か? 今は算数のお勉強をしてるわけじゃないんだぞ。ああそういや、昔のきみはいつも算数で4か5を取ってたね。すごかったね。今は数学で2か3ばかり取ってるのに」
「……まてまてリョウ、君は一体僕に何と言ってほしいんだ? 先ほどの僕の発言のどこがおかしいんだ? まるで理解できない」
「ハハハ、お前の頭にはどう考えても蟲が湧いてますね。待ってろ、今すぐ黄色い救急車呼んできてやるから」
「! いやちょっ、まてって! やめろやめろ、ケータイ仕舞えってコラ!」
とかなんとか軽いやり取りをしばらく繰り返してみたが、遠藤は俺の質問にまともに答える素振りを一切見せなかった。
いや既に答えていたのかもしれない。『いずれその理由がわかる』と。しかし―――どういうことだ?
えらく曖昧で要領を得ない科白だ。逃げ口上のようでもある。
(……まあしかし、ただ単に意地悪で詳細を語っていないわけではないような)
何にしても、この話題はこれで終わりだった。遠藤はその“理由”とやらをあまり言いたがらないし、それに何より、彼が別の話題を切り出してきたからだ。
「ところでリョウ。お前、どうして江川の弁当を受け取らなかったんだ?」
やっとその話か。
「そりゃ簡単な理由だよ。ほら、あいつ俺に『お弁当、作ってみたんだけど、いる?』って訊いてきただろ? だからだ」
「……? あー、つまり? どゆコト?」
遠藤は眉をしかめてみせた。理解できなかったらしい。
当たり前だ。ひねくれ者の俺らしく、彼には理解できないように言ったのだから。
「うん? つまりだな、」というわけで補足してみる。
「“上田くんのカノジョさんがまだ上田リョウにしていないことを江川奈乃子が先にすることによって、わたしは優越感と自己満足感を得る。”―――そういういやらしい魂胆が見えみえだったんだよ、あの科白には。よって江川に心の底から嫌悪した。だからあいつの弁当を受け取らなかった」
「……………」
遠藤は眉をしかめたまま俺の話を聞いている。
「分かるか? 江川は俺を、大泉栄子の彼氏を奪おうとしたんじゃない。踏み台にしたんだ。自分自身が悦に浸るために」
「……考えすぎじゃないか?」
「考えすぎじゃない。江川のアレが単なる誘惑ならまだ良かったんだが。あいつはな、“後輩の彼氏を巡る三角関係”に陥る自分に酔いたかったんだよ。ドラマみたいに。全く迷惑な話だ。……純粋な好意? はっ、違うね。それならとっくの昔に俺に告白なりなんなりしてるだろうよ。あいつは俺に対して歪んだ独占欲しか抱いていなかった」
「でも、もしかしたらタイミングが悪かっただけかも……」
しかめっ面の遠藤が馬鹿げたことを言ってきた。思わず、口調が嘲笑気味になってしまう。
「タイミング? 違うな、あいつは敢えてあのタイミングを選んだんだ。江川の頭はそれほど悪くない」
なぜかふと、俺の下駄箱の中に入っていたあの紙切れのことが一瞬脳裏をよぎった。
「……そうか。ああいや、リョウがそれでいいなら僕もそれでいいんだ、うん。別に江川と仲直りしろと言いに来た訳じゃないし。どうしてお前が江川の弁当を受け取らなかったのか気になっていただけだ」
遠藤は表情を元に戻し、さらりと意外な発言をした。
今、こいつは何て言った? 『別に江川と仲直りしろと言いに来た訳じゃない』だと?
それは実に、やたらと世話を焼きたがる三枚目らしくない科白だった。少なくとも遠藤は“そういうレッテル”を貼られているタイプの人種だと思っていたのだが……俺の見込み違いだとでも? ……いやそうじゃないはずだ。なのにそうとしか思えない。
「……お前、本当に遠藤か?」
おかしなことを言ってしまったと即座に気づいた。失言だった。
けれど彼はにやにやといやらしい笑みを貼り付けて、
「イエス、アイアム。僕は遠藤だ」
と答えるのみ。
「ああ―――それと、話は変わるんだけどな、」
言いながら、平坦で無感動で真剣な素顔になる遠藤じゃない遠藤。
「お前、超能力って信じてるか?」
なぜかふと、俺の上着の中に入ったままのあの紙切れのことが一瞬脳裏をよぎった。
「……………」
「いやこの言い方はちょっと正しくないな。正確に言えば人間の才能か。お前、ヒトっていう生き物には才能という概念が存在していると思うか?」
やけに難解な質問をぶつけてきやがった。
俺は驚きを顔には出さずに淡々とした顔つきと口調で言う。
「……無いんじゃないかな。才能ってヤツは、積み重ねた努力のことだろう? 確かに、他人からはその努力の模様とかはなかなか見えないから―――」
「ありがとう。期待通りのクソつまらない返事だ」
彼は俺の言葉を途中で遮った。余程そのクソつまらない返事を最後まで聞くのが苦痛だったのか。失礼なヤツだ、人の話はちゃんと聞くべきだと思うのだが。
「リョウ、才能ってのは確実に存在しているんだよ」
彼は強く断定した。そのままの口調で話を続ける。
「才能ってのは“花”だ。そして人間は生まれつき“種”を持っている人間とそうでない人間の二種類がいる。後者の方が圧倒的に多いが、まあそれでも“種”を持っている人間はそこそこいるんだな、これが」
「………?」
急にわけの分からないことを言い出した。
花? 種? 一体何のことだ? 夏休みのアサガオの成長日記の話か? まだ五月だというのに、随分と気が早いことだ。
(……………)
無論、彼はアサガオの話をしているわけではないのだろう。というより高校生の宿題にアサガオの成長日記なんてあるはずが無い。
だからこれはなんらかの喩え話だ。まるで自分がそうであるかのように話す、下手な喩え話。
「肝心なのは“種”を持っている極少数の人間の方だ。種は上手に育て上げれば発芽し、成長し、蕾を膨らませ、そして開花する訳なんだが、さてここで問題。100万の“種”のうち、いくつが“花”まで到達できるのでしょうか?」
遠藤はちっ、ちっ、と指を振った。そのわざとらしい動作に、軽い苛立ちを覚える。
「……1万くらい? 丁度100分の1だし」
自分でも呆れるくらいに安直な理由だな、と思った。
「1だ」
彼はキッパリとそう言い切った。
「は?」
「1つだけなんだよ、開花することができるその“種”ってのは。中には葉っぱを茂らせる程度の奴がいくつかあるんだが―――まあそういう“成り損ない”の連中はスポーツとか学問とかの分野で活躍してるけど―――しかし開花には至らない。そういう風になってる。世界はそうする事によってバランスを保っている。“花”という異質にして上質な存在を1つだけに留めることによって均衡状態を作っているんだ」
―――最早これは喩え話などという低レベルなものではなかった。
遠藤の話し振りは虚言を言うそれではなく、正しく真実を語っているとしか思えないのであった。
(しかし……)
……なんというか、それにしてはあまりにもスケールが大きすぎる。
1つの“花”が世界のバランスを保っている? 均衡状態を作っている? 一体どこのSF小説の話なんだよと小一時間問い詰めたくほどに彼の話の内容はぶっ飛んでいた。とても正気の沙汰とは思えない。
となるとやはり、これは単なる作り話なのでは、と思ってしまうわけだが、遠藤の眼は実に真剣そのものであった。嘘を言っているようには見えない。
「だが、肥料と如雨露を持っているある人はこう考えた。『“種”を上手い具合に育てて“花”をたくさん作ってやったらどうなるのだろう』と。さて、そのある人はどうしたと思う?」
遠藤はまたも、ちっ、ちっ、と指を振った。……この動作が好きなのか? まあどうでもいいことだが。
「そりゃ、その“種”とやらを育てたんじゃないのか? 育てることができる道具を持っているわけだし」
この答えはなかなか良いセンいってたと思う。
「その通りだ。おめでとう、今のは正解だ。条件が足りていれば誰だってそうするはずだ」
ぱちぱち、と乾いた拍手を数回する遠藤。
「ありがとう。よし、じゃあ今すぐ一週間ハワイ旅行券をくれ」
「そしてそのある人は実行してみた。手近にあった“種”に水と肥料をやって、丁寧に育て上げてみた。するとなんと、見事にその“種”はすくすくと育ち、蕾を付け、膨らませ、開花したのであった。めでたしめでたし、とさ」
俺のジョークを軽やかにスルーして、遠藤はささーっと話を締めた。何がどうめでたいのか全く理解できないのだが、まあそこはさすが遠藤くんと言ったところか。伊達に国語で2を取り続けているわけじゃあないらしい。
「いや待てまて。全然めでたくないだろ。“花”を咲かせている人間が2人になったら、世界のバランスとやらが崩れるんじゃないのか?」
俺が鋭い突っ込みを入れると、彼は、はははっ、と心底おかしそうに笑い出した。……何がおかしいんだ?
「だから今、肥料と如雨露を持っているそのある人は世界がこれからどう壊れていくか観察しているんだ。そいつはとても好奇心旺盛でね。なにしろ世界規模の変化なんだぞ? これ以上に面白い事があると思うか?」
やけに浮かれた口調で喋っている。そのうえ彼の瞳は不気味に輝いていた。
「……………」
最早これは喩え話などではない。今さっき確信した。これは実話だ。
非現実的? 非科学的? 空想的? 幻想的?
―――それらの一般論が何だというのだ。旧知の間柄である遠藤の話を信用しない道理がどうしてある?
ある人とは遠藤。そして彼が肥料と水を与えたその“種”の持ち主とは―――
―――なぜかふと、俺の上着の中に入ったままのあの紙切れのことが鮮明に思い出された。
「遠藤」
「うん? なんだ?」
「お前、本当はその“種”と“花”の話をするためだけに俺の所まで来たんじゃないのか……?」
俺はついさっき思い浮かんだ疑問を訊ねてみたが、しかし遠藤は不敵な笑みを浮かべて、
「どうだかな」
とそっけなく答えることしかしない。
別にいい。質問した俺自身、今の彼がまともに言葉を返してくれるとは思っていなかったのだから。
「さて、そろそろおいとましようかな。あまり長居し過ぎる訳にはいかないし」
言って、遠藤はベッドから腰を上げて立った。彼は椅子に座っている俺を一瞥してこう一言。
「じゃあな、またいつか会おう。僕が“夏ヶ原”に“処理”されていなかったら、の話だけど」
ひどく縁起が悪い言葉を言い捨てた。
そのまま彼は部屋からスッと出て行き帰ってしまう。呼び止める気もバイバイを言う気も起きなかった。
話すことはもう無いから呼び止める必要が無い。
バイバイを言ってしまうと彼はどこか遠くへ行ってしまう気がして。怖くて。
言わなかった。言えなかったのではなく、言わなかった。
「……………」
俺の頭の中では、遠藤との会話の内容が反芻し続けていた。
【4 補足と間奏】
俺が遠藤に話した“江川の弁当を受け取らなかった理由”についてだが、実はそれには2つの不明要素があった。
今日、都合良く江川が余分な弁当を作ってきたという点がまず1つ目だ。
よくよく考えてみればいくらなんでもこれはおかしい。江川は“彼女持ちの上田リョウ”に弁当を渡す気だったと仮定すれば、“今朝彼女ができたばかりの上田リョウ”に、その本日中に弁当を作って渡せるはずがない。時間的な矛盾が生じている。
今朝のあの騒ぎが午前中に江川の耳に入ったとしてもだ、昼に弁当を渡すためには一旦家に帰って支度する必要がある。調理室で作る時間なんて無いだろうし材料も弁当箱も無い。
ではどうやって江川奈乃子は俺に弁当を渡した?
簡単だ。
毎日、弁当を作っておけばいい。
そうすれば俺に彼女ができたその当日にでも渡すことができる。
(そう、いつでも渡せる。だからそのトリックが俺には分かった)
毎日毎日タイミングを伺い、そしてその好機が今日訪れた。
だから彼女は浮かれて俺に弁当を渡した。これで何十何百個目になるか分からない弁当を。
そして俺は突っ撥ねた。その量産品を。
「……………」
もう1つの不明要素は―――これは俺が遠藤に向かって力強く言い切ったことなのだが―――江川に俺に弁当を渡そうとしたその理由だ。
どうして“彼女持ちの上田リョウ”でなければいけないのだろうか。遠藤には『優越感と自己満足感を得るため』と自信満々に言ったが、それは定かではない。いや一番可能性のある理由じゃあないのかな、とは思っているのだが確証が無い以上これはあくまで予想であり推測でしかない。そもそも人の心を他人は知りえない。
果たして本当に江川は、瞬間的な優越感と有限な自己満足感を得るためだけに“彼女持ちの上田リョウ”に弁当を渡したのだろうか。
おかしい、おかしいおかしい。これはどう考えてもおかしい。
普通、彼女がいる男が、他の女の弁当をほいほいと受け取るものか? それは江川の“量産品”にだけ言えることではない。たとえ付き合ってから数時間しか経っておらずとも―――いや、数時間しか経っていないからこそ―――彼女以外の女の弁当を受け取るのには躊躇するはずだ。あるいは頑なに拒否するはずだ。“量産品”であることが判明しておらずとも。
それなりに頭が良い江川なら、そんなことはとっくに把握していたに違いない。
なのにどうして渡した? 拒否される可能性のほうが明白に多いにも関わらず、どうして。
「……やはり、違う目的なのか?」
ではその真なる目的とはなんだ?
勝つ見込みの少ない勝負に賭けるその理由は、なんだ?
「勝つ? ……勝つ? ………待てまてまてまてまてまて、違うぞ、それは違う。これは勝つとか負けるとか、そういう問題じゃない」
―――もしかして江川は最初から、俺に弁当を受け取らせない気でいたのか?
どうしてそんなことをする必要がある? まるで理由が分からないし想像もつかない。
なぜだ? これは一体、どういうことなんだ?
まるで最初から、自分で自分を憂鬱にさせるためだけに―――
(……………)
下駄箱に入っていたあの手紙の内容が思い出される。
遠藤の“種”と“花”の話が脳裏を駆ける。
……まさか―――“そういうこと”のためだったのか、彼女の自虐的とも無謀とも取れるあの行為は。
確かにそれならば辻褄が合う。だけれどこれは辻褄が合うだけで、あまりにも滅茶苦茶であまりにも非現実的だ。非現実と非科学を愛さない俺としては考えたくもないことなのだが―――
(しかし―――)
果たしてそれ以上に、より完璧で的確で尤もな推測が存在するのだろうか。無い。いくら考えても思い浮かばない。
そもそも人の心を他人は知りえないのだから完璧や的確なんてあるはずが無いか。
「……………」
が、いくら悩んでも江川奈乃子の思惑など理解できるはずが無かった。その事に気付いた俺は1時間後、ようやく考えるのを止めた。
そして翌日、俺は江川奈乃子の思惑を理解することとなる。理解せざるを、得なくなる。
遠藤が去り際に残した“夏ヶ原”という呪いの言葉の真意と共に。
【5】
翌朝目を覚ますなり、俺は奇妙な視線を背後から感じ取った。
「………?」
ドア側に背を向けて寝ているので―――というか俺のベッドは壁際ピッタリに設けられているので、背後から視線を感じるとなれば壁と睨めっこするような形で寝るほかないのだが―――多分そいつは、この部屋の唯一の出入り口であるドアから入って来たのであろう。窓から入って来てそちら側へ回り込んだという可能性も無くはないが、生憎なことにそのような奇行に走る人物は俺が知る範疇では存在しない。ってか部屋の窓、閉まってるし。
「……………」
となるとこの気配を発している人物は誰なのだ、という話になる。
ママ上(今さっき思いついた日英混合の呼び名である)が起こしに来たのか、とまず思ったが、しかしそれにしては妙だ。普通、我がママ上は俺を起こしに来たりなんかしない。中学生になったときその習慣は卒業したし。まあ遅刻になりそうなときとかにはさすがに起こしに来るが、枕元の目覚まし時計を見ていると、時刻はAM6:30。非常に時間があり余っている(これなら、壱式スクリュー型着替えと参式メガロハリケーン歯磨きをしてもまだまだ余裕がある)。というわけでママ上の線はまず確実に無いと言える。
「……………」
となると次に疑うべきは当然、戸籍と血縁上俺の実姉ということになっているあの寄生人ということになる。というかこいつしかありえない。パパ上は仕事の都合で来週の水曜まで家に帰って来ないし。
だがあの性悪が素直に俺を起こしに来たとは到底思えない。そのような女々しい行為をするなど、たとえお日様が西から昇り東に沈みゾウがクジラに乗ってサーフィンをするようなことがあったとしてもだ、あやつの性格上必ず無いと断言できるね。
ふうむ。とすると、わざわざ俺にちょっかいを出すためだけに我が所有空間内へ足を踏み入れたか。普段は昼まで寝ているあやつにしては珍しい。しかし、ろくでもない名案をふっと閃いたときのあやつの行動力はマジで尋常じゃ無いので、こんな朝早くに覚醒していても不思議じゃないか。あやつの実弟としては、その異様なまでのベクトルを主に労働とか労働とか労働とかの方向に向けて欲しいと切実に思ってたり思ってなかったりするのだが。
「……………」
だがしかし、ドア前に佇んでいる謎の人物Xの正体が判明したはいいが(もう謎でもXでも何でも無いが)、困ったことに、自分からアクションを仕掛けるという攻撃的な気配をあやつからは一切感じ取ることができない。どうやら完全に“待ち”のスタンスに徹しているらしい。ふうむ。今回はカウンタータイプのイタズラも敷いていると見た。
迷惑なことこの上ねぇ。
「……………」
俺はこれからどう動けばのか? などという愚考を働かせてしまうほど俺の経験と本能は甘くない。どうすればいいかなんて、そんなこともう決まっている。
攻めず守りな臨戦体勢を敷き続けるか? 敷かない。そうしたところで根本的な解決にはならない。攻撃方法を変えたあやつに陥落されるのがオチだろう。
あやつが張っている罠に構わず果敢に突撃するか? つまり肉を切らせて骨を絶つ戦法だが、突撃しない。経験上、そのような無謀な攻撃は論外だ。今まで俺は、何度勇気と無謀をはき違えて潰れていったことか。
膠着状態を保つのもこちらから物理的に攻めるのもダメ。となると、やることは1つしかないであろう。
肉体的な損傷を一切与えず、精神的な損害を多大に刻む、古来より存在する原始的にして至高にして最高の攻撃手段。言語を理解する人間同士ならではのこの攻撃は、いわば拳を使わない暴力、武器を使わない殺し合い、兵器を使わない戦争。
俗に言う言葉責めというやつで、文字通り攻めるしかない。
「……おい、お前」
呼びかけるが、あやつは何も言わない。
別にいい。どうせ返事は期待してなかったし。
「胸のサイズ、若干減ったんだって? おいおい、ナマケモノすら一目置くような堕落生活を毎日続けてるってのに、どうして肉が減るんだ? ん? おい、もしや胸周りの脂肪がウェストに移ったのかぁ? 最高だな。この調子でいけば、立派な某猫型ロボット体型になれるだろうよ。あ、肉がつかえて押入に入れないか! ごめんな、無神経なこと言っちゃって。お詫びに今度ドラ焼き買ってきてやるよ」
あやつは何も言わない。
「うん? 乳なんて飾りだとでも言いたいか? 馬鹿言うなよ。人並みなことを言うがな、おっぱいには夢と希望と浪漫が詰まってるんだぜ。故に、人並みすら無いお前の胸には夢と以下略は全く詰まっていないと断言してもいい。そう、これっぽっちも詰まってなんかいない。夢が無ければ未来もない。希望が無ければ内定もない。浪漫が無ければ彼氏もない。ないないない、ナイナイ尽くしだ。そう、胸がないということはすなわち、人間失格ということなのだよ」
ひどく偏見と差別にまみれた発言であった。
乳が無ければ人間性も無い。そんな格言が誕生した瞬間である。
一日と経たずに廃れ切るだろうがな。
あやつは何も言わない。
「ほんと良いよなぁ、お前は。働かなくても飯を食っていけるんだもんなぁ。汗を一滴も流していないのに食う飯は美味か? そうか美味か! まるでブタだな、お前は! ……うん? いや、人間様の食物となり最終的に感謝されることとなるブタと違って、お前はただ消費するしか能が無いからブタ以下か。何も生み出さず、何も活動せず、ただただ地球上の資源を食い潰してばかり。よってお前は全生態系の底辺に位置するミドリムシ以下の矮小な存在であると言えよう。へぇ知らなかった。てっきり今までお前はニートという種に分類されると思っていたんだが、実のところその正体は微小な単細胞生物以下の寄生生命ときた。おい、そこの劣化ミドリムシ。ミジンコクラスに昇格したければ、その場で『申し訳ございませんでしたリョウ様。この下劣でちっぽけで卑しい劣化メスミドリムシめをどうかお許しくださいませ』と空中土下座して光の速度で謝るんだな。そうすれば考えてやらんでもない」
それは饒舌にして毒舌なロングトーク。ここまで言われてうんともすんとも言わない人間を俺は知らない。というか確実に存在しないだろう。ってか空中土下座ってなんやねん。そんな上級魔導士クラスの謝罪方法、俺は知らない。
と、そこでやっとあやつは動き出した。ぱた、ぱた、とスリッパの音を立て、俺が篭城しているベットへと近づいて来る。
(―――あ、しまった)
ここからあやつの顔を窺うことはできないが、多分、本気でぶち切れてる。“待ち”のスタンスから“攻め”のスタンスへと急遽切り替えやがった。ははあ、直接的暴力に訴えることにしたか。なんとも短絡的であやつらしい。
などと冷静に考えている場合じゃないなこれは。いやこれは非常にまずい。挑発しすぎた。ちょっとからかうつもりだったのについエスカレートしてしまった。
最良の攻撃手段だったはずの言葉責めが、最悪の挑発行為となるとは。なんたる皮肉だろう。
あやつは何も言わずに歩み寄って来る。
「! ま、待て! おちけつ。やめろそれ以上近づくな。メ、メラゾーマ使うぞ?」
息足らずなせいでやや早口になっている俺。かなり格好悪い。必死な顔してるだろ? 主人公なんだぜ、それ……。嘘みたいだろ?
あやつは何も言わずに歩み寄り―――そしてとうとうベットの真ん前までやって来て、足音は止まった。あやつに背中を向けている状態なのでその形相は窺えないが、それを見た者はただの1人も例外無く空中土下座をして光の速度で彼女に向かって(例え自分に一切合切落ち度が無かったとしても、だ)謝ることだろう。そういうとんでもない顔つきになっているに違いない。だから見たくない。見たら確実に漏らす、確信を持ってそう言える。
「! ひっ……!」
短く悲鳴を上げたときにはもう、遅かった。
あやつはベットへ体を乗り上げ、俺の縮こまったチキンボディをその覇王の四肢で取り囲むように四つん這いとなったのだ。あーやばい頭が混乱してきてる。ええとつまり、あやつはこう、「逃がさないZE☆ マイハニー!」みたいな姿勢で俺の上に覆い被さっているというかでも俺の体には触れてないしあーつまり、四つん這いになったあやつの真下に俺がいる、そういう構図になっている。掛け布団という名の実に頼りない障壁を間に挟んではいるが、これはつまりそのー、マウントポジションの一歩手前というやつではないでしょうか。
「………っ!」
なわけで、反射的に固く目を瞑ってしまった俺は決して卑怯者でも卑小者でもないだろう。
右手に日本刀、左手に45口径サブマシンガンを持ち、その上時速200kmで移動可能な熊がいたとしよう。そいつと真正面から対峙して目を背けぬ勇者がいると思うか? 目を瞑らぬ魔王がいると思うか? いない(熊は日本刀なんか持てねーしサブマシンガンなんか扱えねーし時速200kmも出ねーよこのクサレ脳ミソがッ! という無粋な突っ込みは放置の方向で)。誇張表現が過ぎていると、そう思うか? そんなことは決してない。あやつの本性を知っている俺からしてみれば、むしろこれでも控えめなくらいだ。
強力な武装をした凶悪な熊と対峙するただのヒト。これは正に、そういう構図だった。絶体絶命、断崖絶壁、弱肉強食、焼肉定食―――それらの四文字熟語な不気味なほどに嵌り過ぎている状況。……ああいや待てよ最後のは違うな、間違えた。
「! ………」
つっ、と、あやつの指先が俺の右頬に軽く触れた。ぞりっ、と、背筋になんとも言えぬ悪寒と寒気と恐怖感が走る。
これは。まさか。これは。いや。顔から触れたということは。まさか。これは。
(―――ギガティッシュドライバーか……!?)
ばかな。早朝からギガティ(略称)だと? とても正気の沙汰とは思え―――違う。今のあやつは正気じゃないからこそ、ギガティを使えるというのか。
なんたる猛攻。なんたる非常識。なんたる予想外。なんたる屈辱。なんたる、なんたるなんたるなんたるタルタルソース。
(くっ……! も、もうどうとでもなれ……!)
と、苦悩の末投げやりな態度になってしまった俺に向かって、あやつは何か言ってきた。
それは、今からギガティをその身に受ける者に対する手向けの花にして冥土の土産。早すぎるお悔やみ、遅すぎる別れの挨拶。に、なるはずだった。
「先輩、おはようございます。今日はホームレスが河辺に張っているビニールテントを自家製火薬瓶で爆破したくなるような良い天気ですね」
―――それはとんでもない不意打ちだった。
「―――は?」
何だなんだ、と呆気に取られつつ目を開ける。窓から差し込む太陽を背にしてそこにいたのは―――無論強力な武装をした凶悪な熊ではなく、戸籍と血縁上俺の実姉ということになっているあの寄生人でもなく―――我がマイハニー(死語)、大泉栄子その人であった。
……頭の中が真っ白になった。
【6】
案の定というべきかなんというかまあ案の定としか言えんのだが、彼女は純真無垢な寝顔を晒して未だに眠りついている俺の目を覚ますべく我が自室へ足を踏み入れたらしかった。
俺の上に跨っている(若干猥褻な意味合いが含まれているような気がするが、それはそれで仕方あるまい)彼女に俺は平静を装ってこう訊ねた。「どうしてここにいる。俺の親の目はどうした」と。
「ちゃんとお義母様に挨拶してから来ましたよ。その際『うちのニート予備軍にまさかこんな良い娘が……』と感激のあまり泣いておられました」
彼女は見慣れた澄まし顔で答えた。
ニート予備軍かよ。いや確かに学生だからあながち間違いではないんだが、前線で戦闘中のニート戦士が身近にいる我が家でそのジョークはさすがに笑えない。
「それより早くどいてくれ。起き上がれない」
「下は起き上がってますよ」
「それは単なる自己主張だ。そろそろ危険だからマジでどいてくれ。俺の性剣エロスカリバーの封印が解かれて辺り一帯が荒野になってしまう」
等々のやり取りの後、渋々ながらも大泉はベッドから降りてくれた。さすがに遅刻するわけにはいかないので短い朝の時間をイチャイチャワンダフルとして浪費できない、という俺の意図を汲み取ってくれたのか。まあどうでもいいけど。
(……というより、)
今はそんなことをする気分じゃあない、というのが一番の理由ではあったが。
昨晩遠藤と交わした会話が今も心の中にしこりとなって残っている。言うなればそれは、ゼリーの中に閉じ込められた気泡のようなものであった。
内部からは一切関与する事が出来ず、外部からは丸見えな気泡。気泡をどうにかしようとゼリーに手を加えたら、新たな気泡がゼリーの中に入り込んで更に悲惨な結果を招いてしまう。
今の俺は正にそれだ。
/
その後、ラブコメチックなドタバタが多少はあったものの、大泉を部屋から追い出した俺は登校準備を手早く終えて彼女と一緒に通学することとなった。
こうして彼女と並んで歩くのは三度目だ。昨日の登校時、昨日の下校時、そして今。
大して緊張して歩いているわけではなく、かと言って過度に脱力して気楽になっているわけでもない。心はほんのりと桃色の熱を帯びていて、それなりに満たされている今の俺。
黒色の世界は程遠い場所に隔離されていて。自分は平和な世界に普通に存在しているかのような、そんなありえない錯覚を覚えてしまっていて。
だから俺は、不意に彼女が振ったトンデモナイ話題にさほど驚かずに済んだ。
「先輩、ちょっと私の身の上話をしても良いですか?」
学校への道程を半分ほど進んだ頃、彼女はそんなことを言ってきた。
俺は、いいよ、と頷く。
「私、実は最終兵器だったんですよ。つい先日謎の組織に捕らわれて人体改造されて、日本が保有する最強の完全自律型兵器となったのです」
それはなんとも物騒なことで。
「……ウソですよ? そんな非現実な話、あるはずありませんしね」
お前の存在そのものが非現実な気がするが。
「で、真面目に言いますが……。私の親、とっくの昔に死んじゃってるんですよ」
そうか。
それで、それがどうかしたのか。
同情してほしいのか? だったらいくらでもしてやるぞ。お前が満足するまで、お前が経験した悲惨な出来事に対して俺は泣いてやるぞ。不憫なお前を思って泣いてやるぞ。心が篭もっていない安い涙を流してやるぞ。
「いやね、なんでも私が物心つく前に両親が脱線事故で亡き人になってしまったようで。それでとある親戚の家に預けられてそこで生活するようになったらしいんですよ」
まるで他人事のような話し方であった。
―――当然か。これは“大泉栄子”という人格が形成される以前のストーリーなのだから
「そこでは大事に育てられましたよ。その家の奥さんが子供を産めない体質だったからでしょうか。月並みな表現ですけど、奥さんも旦那さんも私を実の娘のように扱ってくれましたね。実際私自身、ずっと彼らが私のお父さんお母さんだと思い込んでいましたし」
けど、とここで彼女は一旦言葉を切った。その表情が一瞬翳ったのを、俺は見逃さなかった。
見逃せばいいものを、見逃さなかった。
「私が10歳の誕生日を迎えたその日、彼らは酔っ払い運転のトラックに轢かれて亡くなりました」
―――だろうな。
「その後葬式が開かれて、その際に親戚一同が集まって誰が私を引き取るか話し合ったんですよ。普通は義父母のどちらかの母親と父親、つまり私の義祖父母が親権者になるのかもしれませんが、義父方の義祖父母は両名とも他界しておりましたし、義母方の方は当時海外を転々と渡り歩いていてとても私を養うような環境ではなかったのです」
それで? それでお前はどうした。まさか一人で自立して生きる決意をした、ってわけじゃあないだろう?
「話を戻します。それで、誰が私を引き取るか話し合いをしていたのですが……その、その中の一人が、突然、こう、言ったんです」
見ると、彼女は小さく震えていた。眼にもうっすらと涙が浮かんでいる。
ああ、無理をしてそこから先の言葉を繋ごうとしているんだな。誰の為に?
そんな思い出したくもないような辛い過去を、一体誰の為に記憶の奥底からサルベージしようとしている?
決まっている。俺の為だ。
「『しかしこの子、不運だね。義父母が亡くなった事もそうだけど、その前に御両親も亡くしてるってのが特に』って。それで、それで……わ、私は……!」
科白の最後は彼女の嗚咽に掻き消されてよく聞こえなかった。しかし大体は想像がつく。
偽りを真実と信じて生き続けた少女。真実の片鱗さえ見ずに生き続けた少女。そんな当時の彼女が自身を取り巻く大きな真実を知ってしまったその時、きっと言い知れぬ不安な感覚に押し潰されそうになってしまったに違いない。いや、押し潰されてしまった、のか。
「そ、その人は、その、その後すぐに、しまった、って、顔しました、けど、そ、その場に、いた、皆も、そんな、顔、顔をしまし、したけど、もう、もう……うぅぅ………」
みっともなく泣き声を上げる大泉にどんな言葉をかけるべきなのか、今の俺には分からなかった。
程なくして彼女は泣き止んだ。学校に近づいて人気が多くなってきたからか、それともいい加減泣き疲れたのか。どちらでもあるような気がするし、どちらでもないような気がした。
「……それで、さっきの話の続きですが、結局私は遠縁の親戚の家に引き取られることになりました。その家には私より7つも上の娘さんが一人いましてね。幸いそこでの生活も充実していて、虐待されるようなことは無かったのですが、」
ここで再び彼女は言葉を切った。その表情が一瞬翳ったのを、俺はしかと見た。
「……私が14の誕生日を迎えたその日、義父は心筋梗塞で亡くなりました」
―――だろうな。
「まあ結構な歳でしたから無理もありません。ですがその後が大変でしたよ。ショックを受けた義母の食は細くなり、急劇な速度で痩せ衰えていき、見る見るうちに病弱な身体になっていったのです。実年齢より10は老けているように見え始めた頃、医者の努力も虚しくとうとう義母は息を引き取りました。原因は衰弱死でした」
それは、酷いな。頼れる人が義理の姉しかいなくなってるじゃないか。
「それでも、義姉がいる分まだマシでした。彼女と私はお互いを励まし合って今日を生き、明日へと繋いでいましたね。義姉と私の二人暮しが半年を過ぎた頃―――第二の義母が亡くなって半年が過ぎた頃、私と彼女は引っ越すことにしました。この土地に住んでいると辛いことばかりが思い出されて苦しい、という逃避の感情が二人とも一致したんですよ。」
それは違う。逃げることは全く悪くない。本能に従って苦い過去から遠ざかるという行為がどうして悪い? むしろそれは褒められるべき行動じゃないか。活動しにくくなった縄張りを捨てて新たな土地に移り住むというのは、実に合理的な事だろうし。
だからお前に非はない。非があるのはお前にそうせざるを得ない状況にまで追い込んだ6人だ。呆気なくぽんぽんと死んでいった6人だ。悪いのはお前の父親と母親と義父と義母とその次の義父と義母だ。その6人が悪いんだ。
罪は死人になすり付けろ。生人は己が罪をなすり付けた死人を背負え。
そうすることで、世界は廻るのだから。
「それで、ここに引っ越して来た―――という経緯です。今でも義姉との二人暮らしは続いていますよ。某アパートに住んでいます」
今みたいに感情を顔に出さなくなったのはいつからだ?
対人恐怖症に陥った経験はあるのか? あるのであればいつ?
大泉栄子はその義姉を心の底から信頼しているのか? 義姉は大泉栄子を心の底から信頼しているのか?
どうしてお前は、上田リョウを好きになった? 同類だからだ。
そう。お前と俺は似ている。類似した血が体を流れていて、酷似した肉片で形成されている同類だ。だからお前は俺に惹かれたし、俺はお前を受け入れた。
俺には物心つく前に死んだ両親も哀れな義父母も心優しい義姉もいないが、俺はお前とダブっていてお前は俺と重なっている。
当然だ。だって、俺とお前が同類にして類似品であるその最たる理由は※※から※※※※※※※である所なのだから。
「学校、着いちゃいましたね」
正門を通り抜けるなり大泉はため息混じりにそう言った。半ば自動的に足を進めていた俺が不意に立ち止まると、彼女もそれに合わせて歩を止めた。向かい合う二人。
(……………)
確か昨日もこんな感じだったな、とぼんやりと考える。デジャヴだ。
「……………」
「……………」
けれど目の前いる大泉栄子は昨日のような心臓によろしくないジョークを言わない。俺の背中に両腕を回して抱き締める素振りも見せない。
俺は何も言わない。
「……私は、先輩のことが好きですよ」
彼女はゆっくりと口を開いてそう言った。
「………っ!」
しかし不覚にも、ここで俺は思わず驚愕してしまった。しないほうがおかしい。
だって彼女は―――ああ、なんたることか。こともあろうにあの大泉栄子が―――にっこりと、屈託のないビューティフルな笑みを浮かべていたのだから。
「えっ、ちょっ、えっ……!?」
みっともなく慌てふためいてしまった。情けない。
だが、世界各地に点在する如何なる国宝や重要文化財をも超越するであろうその超ドレッドノート級スマイルもそう長くは続かなかった。大泉は恥ずかしげに「では、私は教室へ行きます。また放課後に」と一方的に言い捨てて、俺に背を向けてそそくさと下駄箱に向かって駆け出してしまった。
俺は呆然と、一昨日の夕方と昨日の朝と同じように徐々に小さくなっていく彼女の背中を見送るばかり。
(ひとつだけ、一昨日や昨日と大きく違っている点があるがな)
さて、それにしてもなんだか妙に周囲の視線が痛い。痛過ぎる。この視線パワーは間違いなく、昨日よりも遥かにパワーアップしている。中には「嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬……」とか「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い………」とか「神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ神よ………………」みたいな陰口を言ってる奴もいるし。ってかよく見たら全部同じ奴が言ってるじゃねーか。何なの、あの蒼白を通り越して土気色の顔色してる男の子は。なんかやたらギラついた目つきでこっち見てるんですけど。怖いよダメ。
さすがの俺でもこれには参るわ。というわけで、いくら消臭剤を使ってもドス黒いキャンバスのような危険な香りだけは取れそうにないあの男の子から逃げるようにして、俺は平静を装いつつ颯爽とその場を後にすることにした。
放課後が実に楽しみである。鋭利な刃物が首もとに突き刺さっているかのような視線を背後から感じつつ、俺は教室へ向かった。
【7】
教室に入るなり、頬杖をついて窓の外を眺めている江川奈乃子の姿が目に入った。
「……………」
彼女の席は一番後ろの窓際だ。教室のあちこちが生徒達の喧噪で賑わっているというのに、江川が居るその一角だけが妙に近寄りがたいダークな雰囲気を醸し出している。
誰も江川に話しかけない。
誰も江川を見ていない。
誰も江川に気を留めない。
―――江川自身がそういう空気を望んで作っているんだろうから、当たり前か。
「……………」
俺は空気が読める男の子、と自負している。生憎なことにわざわざこの空気をぶち壊してやろうなどという冒険根性を持ち合わせていない。
それに、今この状況で俺が江川に話しかける必要性がどうしてある?
陰気な彼女を作った元凶であるこの俺が話しかけて何になる? 上っ面だけの平謝りをしてめでたしめでたしハイおしまい? それでは根本的な解決にはならない。となると、今の状況を永久維持? お互いが決して相手に干渉しないようなギクシャクとした関係に? おお、それは素晴らしい。なんて素敵な対人関係。これ以上のプラスもこれ以下のマイナスも絶対に生じない、最高の事勿れ主義じゃあないか。
(……ま、奈乃子チャンも俺を放ってくれないと、その関係は成り立たないんだけどな)
なぜかふと、“俺の上着の中に入ったままの”あの紙切れのことが一瞬脳裏をよぎった。
「………」
そしてやはり教室の中に遠藤の姿は無かった。彼の席を一瞥してみたが、鞄も何も置いていない。
ホームルームまで後10分はある。けれど、彼が学校にやって来ることはまずないのだろう。
やって来るはずがない。やって来れるはずがない。彼は殺って来られたに違いないのだから。
(“夏ヶ原”ねぇ……。“処理”ねぇ……。ま、遠藤クンはどっか遠くに行っちまったのかなぁ……)
そんなとりとめのないことをつらつらと考えながら、俺はたらたらとした挙動で自分の席についた。
俺の席は、江川奈乃子のすぐ隣りだ。
/
案の定、その後の江川は頬杖をついてぼんやりと虚空を眺めてばかりだった。授業中も上の空で、まるで魂が抜け去ってしまったかのような虚ろさだ。
誰かが彼女に対して何もできやしない上に、しようともしない。だからと言って、この状況で俺が彼女に対して何かができるというワケでもない。俺もまたその“誰か”に甘んじているのだから。甘んずるしかないのだから。
(それにしても……)
ふと、俺は思う。
この江川奈乃子は、本当に昨日までのあの朗らかで人当たりの良い江川奈乃子だったのだろうか、と。
生気が込められていない眼で窓の外を見続けている今の江川に、以前の活力に満ちていた彼女を重ね合わせることができなかった。
“そしてそのある人は実行してみた。手近にあった“種”に水と肥料をやって、丁寧に育て上げてみた。するとなんと、見事にその“種”はすくすくと育ち、蕾を付け、膨らませ、開花したのであった。めでたしめでたし、とさ”
この前遠藤と会話を交わしたとき、彼はそう言っていた。才能の“種”を持っている手近な人間に水と肥料をやってみた、と。
(“種”、ね……)
なるほど。だから彼女、江川奈乃子は俺に―――。
/
放課後になった。
俺はテキパキと身支度を終えて教室から出る。しかし行き先は下駄箱ではない。屋上だ。
「……………」
ポケットの中に突っ込んでいる手が、あの紙切れをくしゃくしゃに握り締めている。
黙々と足を進めながら俺は思い出す。この一枚の手紙の文面を。たった一文だけの、簡素にして直接的にして残虐的な、とても分かりやすいメッセージ。
“上田リョウくん、あなたを屋上から突き落として殺すので、適当な日に放課後屋上まで来てください。”
それは露骨にして滑稽な脅迫だった。身も蓋も無い。恐らくこの手紙の件は、適当な法的機関にでも持って行き然るべき処置を執行してもらえば間違い無く一発で解決するであろう。
だがそれでは駄目だ。俺がそれで良くても、この殺害予告の差出人が救われない。
(俺も被害者で、あいつもまた被害者だ)
不幸なことに、あいつは俺に関わってしまった。遠藤もそうだったが、あいつも俺に深く関わってしまったのだ。この、クレイジー・ボーイに。
こんな俺と関係を持ったら、壊滅的な学園生活しか送れなくなるというのに。……違うか。あいつは今、現在進行形で送っているのか。
だからあいつを平和的な学園生活へ送り戻さなくてはならない。元凶である俺が、被害者であるあいつをなんとかしなくてはならない。
これは俺なりの後始末でありけじめだ。
大泉には「今日は一緒に帰れそうにない」と既にメールで伝えている。
これでいい。これで心置きなく―――。
「―――よし」
屋上に着いた。
今までにも何度か屋上に行ったことはあったので、そこの広さやベンチの配置位置を俺はある程度把握していた。
だから俺は手近な所にあるベンチにでも座って、そこであいつを待とうと、そう思って一番近い場所にあるベンチに視線をやった。
「―――は?」
そして絶句した。
そこで、江川奈乃子が死んでいた。
「っ……!」
彼女の遺体はそのベンチで横たわっていた。四肢はだらんと垂れていて、首がありえない方向に折れ曲がってしまっている。しかしそれ以外に目立つ外傷はなく、血も流れていない。彼女の表情も―――だから俺は、彼女が死んでいるという事実を壊れた首からしか受け止められなかった―――今朝見たあの“生気が込められていない顔”のそれと全く同じであった。
急に彼女が起き上がって、斜め130度に折れ曲がっている首を両手でごりごりと元に戻しながら「上田くん、びっくりしちゃった?」と微笑みながら言ってくれるような気がした。そうであってほしいと願った。
しかし現実は非常に非情だ。
そんな夢みたいなことが起こるはずもない。
彼女、江川奈乃子は。
誰からも救われることなく、その一生を終えてしまっていた。
―――そして現実はもう一つの非常をこの場に残していた。
かつて江川奈乃子と呼ばれていた遺体の傍らに、そいつは居た。
「あらー……。鍵、閉め忘れてました?」
眉をしかめて言う。
「うっかりしていました。むう、私らしくもない……」
ゴシック調の洋服に身を包んでいて、長い黒髪はしっとりと潤っている。育ちの良いお嬢様のような風体だ。歳は……俺とそう大して変わらない感じだが、どこか大人びているようにも見える。20は超えているかもしれない。
………誰だ?
「あなた、ここの生徒さん? 困りましたねー。見ました? 見ましたね。というより見てますね」
口元に微笑みを浮かべて、気さくに話しかけてくる。
「や、別に、目撃者も始末するとか、そういう気はちっともありませんよ。大丈夫大丈夫、モーマンタイモーマンタイ。心配せずともOKなのです」
「………」
「しかしあなた、奇遇ですねー。まさか殺人現場にばったり遭遇できるなんて。運命です。ディスティニーです。あ、コレはこれからここから落として自殺に見せかけるつもりなんですよ。頭の方から落とせば違和感なく壊れるでしょうし。ちょっと大変でしたよ、首の骨だけを折って殺すのは。まさに骨が折れるような作業、みたいな? おー、今の上手くないですか?」
「………」
「で、どうやってここから落とすか、というとですね、」
ぐっ、と、彼女は江川の遺体の歪んでいる襟首を掴んだ。
「こうです」
そのまま上に、すっ、と軽々しく持ち上げる。その華奢な肉体からは想像できないほどの腕力―――と思ったのも束の間、次の瞬間、彼女は江川の遺体を、ぽーん、と向こう側に放り投げた。まるでごみ箱に空き缶を投げ捨てるかのような、無造作な動き。こいつは江川に対して何の情も抱いていなかった。
「あ―――」
遺体は大きく孤を描き、あっという間にフェンスを飛び越える。
そのとき、濁った眼をした江川と視線が交差した。
「ああ―――!」
そのときの彼女が泣いているように見えた、などというロマンチックなことを考えたワケじゃあない。それは死者に対する冒涜だ。
罪は死人になすり付けろ。生人は己が罪をなすり付けた死人を背負え。
そうすることで、世界は廻るのだから。
罪は死人になすり付けろ。生人は己が罪をなすり付けた死人を背負え。
そうすることで、世界は廻るのだから。
罪は死人になすり付けろ。生人は己が罪をなすり付けた死人を背負え。
そうすることで、世界は廻るのだから。
―――結局彼女には、俺の罪をなすり付けてしまうこととなった。
ばぢゃっ、と、何かが潰れる音が下の方からした。次いで、耳をつんざく絶叫が響いた。
―――なんてことだ。
江川奈乃子は、二度も殺されてしまった。
「仮にアレが落下する瞬間を目撃した人がいたとしても、『飛ぶようにしてフェンスを越えて、その上既に絶命していた』ことに気づく人なんてまずいないんですよ。目で見て記憶はしても、頭がなかなか理解してくれないのです。屋上から落ちて死ぬイコール飛び降り自殺、の先入観が強いから。というよりあの高さのフェンスを越えるには、どうやっても自力で登らないと無理でしょう? 自分で登って落下するまでの間は生きていた、だからその間は首が変な向きに曲がっているはずがない。自分のあれはきっと見間違いだったに違いないうんきっとそうだ。……と、いうふうになり、これは一女子生徒のただの自殺事件となって片付くわけです」
目の前の殺人者は淡々と語っている。その仕草からは焦りも高揚も感じられない。平静そのものだ。場慣れしているとしか言い様がない。
「あ、あんたは……?」
背筋に得体の知れぬ不吉なものを感じつつ、恐る恐る訊ねる。
すると彼女はにこり、と口元にやわらかい笑みを浮かべ、静かにこう言った。
「夏ヶ原向日葵です。“超能力者”や“才人”とも呼ばれていますが、私的にはなっちゃんと呼んでもらいたいものです」
夏ヶ原、向日葵。
それが、俺に関わった人間のうち二人を“処理”した“殺人者”―――それとも彼女が言うように“超能力者”か“才人”と呼ぶべきなのか―――の名前だった。
【8】
A「虫や鳥や魚の図鑑はあるのに、どうして人間の図鑑はないんだ?」
B「お前、虫が虫の図鑑を書けるっていうのか?」
/
どれだけ時間が経っただろう。
ふとそんなことを思い、腕時計に視線を落としてみる。ここに来てからもう一時間も経っていた。ショックだ。
「…………」
ここは近所の公園だ。住宅と住宅の間に狭苦しく詰め込まれた遊具。錆びたチェーンでぶら下がっているブランコに腰かけている俺。
人の姿は無い。当たり前か。平日の正午にこんな寂れた所にわざわざ足を運ぶ輩なんてまずいない。周囲を民家で囲まれている“筒抜け”の場所だからか、溜まりに来ている不良やホームレスもいない。
うん、まあ、そんなことはどうでもいい。
「……暇だな」
あいつとの待ち合わせ時間は大幅に過ぎている。ボイコットされてしまったのだろうか。よし、後10分以内に来なかったらあいつのメアドを片っ端からゲイが集まる掲示板に載せていってやる。
しかし暇すぎる。あまりにも暇すぎたから30分くらいかけて砂場に石やら枝やらを使ってマイケル・ジャクソンの似顔絵を作ってしまったし。細部まで行き届いた見事な出来だった。そんでケータイのカメラで撮ろうとしたら、いつの間にか公園内に入ってきていた野良犬に似顔絵を踏み潰された。俺はキレた。
10分前、マイケル・ジャクソンから出目金へと変貌を遂げた地上図を前にして、わなわなと体を震わせている男の姿がそこにあった。
俺だ。
「…………」
目が飛び出た金魚を目が飛び出た外人に修正する気力がそのときの俺には無かった。うな垂れてブランコをきぃこきぃこと鳴らすので精一杯だ。
「ちくしょう、マイケルぅ……。マイケルぅ………」
落胆した俺が情けない声を上げていると、後ろのほうから唐突に、
「はーい! 一日振りですこんにちは! なっちゃんですよこんにちは! 急用が入ったので遅れちゃいましたゴメンナサイ!」
と異様にハイテンションな声をかけられたその瞬間、後頭部にバールのようなものでぶん殴られたかのような鋭い衝撃が走った。
「おぶふっ!」
半端無く痛ぇ。何これ、もしかして血出てんじゃないの? 頭に手を当ててみる。……出てない。良かった。こぶはできてたけど。
「……どうも、こんにちは」
ズクズクと痛む頭を抑えつつ後ろを振り向く。昨日と同じゴシック調の黒い格好をした夏ヶ原が(大して無い)胸を張って立っていた。
「どうです今の? 最近飛び膝蹴りの練習をしているんですよ。護身用みたいな? 護身用みたいな? 護身用みたいな?」
三回も言うなよ。時間と酸素の無駄だろうが。
(飛び膝蹴りだけピンポイントで練習しても大して意味ないだろ……。ってか俺で試すなよ)
ブランコから立ち上がって、にこにこと愛想良く笑っている夏ヶ原と向かい合う。
「はあ。努力家だな。で、わざわざ俺を学校休ませてまで何の用?」
「敬語でお願いします。これでも私は年上ですから。あなたが存在する前から地球上に生を受けていた先輩ですから。人生の大先輩ですから」
うわあ。なんかやけに腹立つなぁ、その言い方。
「チッ……。で、俺に何の用があるんですか? 初代ポケモンで手持ちポケモン全てを裏技使ってレベル99にするくらいなら別にいいですけど」
「それは10年前に通った道なので結構です。まあ裏技無しで育てたほうが強いんですけどね。ついでに言うと私のマルマインは最速です。
で、用件ですが、立ち話も何なので私のお家のほうでお話しますよ」
「や、俺は別にここでもいいですよ。むしろここでさっさと話を終えて解放されたいです」
「いえいえ、是非とも私のお家で。というよりアレですよほら、密室の中で美少女と二人っきりになれるんですよ? 二人っきりということはアレがアレなってソレですよ」
「美少女? え? もしかしてまさか仮にも万が一にもひょっとしていやしくも仮初めにもそれは自分のことを指しているんですか? さすがにそれはないですよね? え? ん?」
「…………」
「ねえどうしたんです? ん? んん?」
「……チッ。空気読めよ……」
「今何か言いました?」
「いえ何も」
「いや言いましたよね。空気読めって。後舌打ちもしましたよね?」
「気のせいじゃないですか?」
「気のせいじゃないですよ。僕、耳が良いですから。絶対に言いましたよ。それに舌打ちもしましたよ。何ですか空気読めって? いいんですかそんな口の利き方して。わざわざ時間を割いてまでこんな所まで来た僕に向かってそんな態度を示していいんですか? というかあなた、随分と遅れて来ましたよね? その点に関する謝罪の言葉をまだ聞いてないんですけど。いや謝ってほしいとかそういうのではなくて、僕としてはあなたに一人間としての常識を持ってほしいだけなんですよ。ねえ? ん? ん?」
「……………」
彼女の表情が、ぴしっ、と、微笑んでいるまま固まった。
「あれあれ? だんまりですか? ふぅん、いいんですか? あなたがそういう反抗的な態度を取るのであれば、こちらとしてもそれなりの対応をしなくてはなりま」
「君、黙ってろ」
次の瞬間、彼女が凄まじい勢いで繰り出した右フックが俺のボディに直撃した。5メートル近く吹っ飛ばされた。鈍く重い痛みが胸の底からドグドグと湧き出す。
「ぐうぬぬぬ……!」
脂汗がぶつぶつと吹き出る。動悸がする。脂汗がだらだらと流れ落ちる。意識が朦朧とする。
「ペ、ペペロンチーノ……」
その言葉を最後に、俺の意識は途切れた。
/
昨日起こった出来事を思い出していた。
「夏ヶ原向日葵です。“超能力者”や“才人”とも呼ばれていますが、私的にはなっちゃんと呼んでもらいたいものです」
ここで俺は夏ヶ原に近づき、彼女の頬を全力で一発殴った。―――鉄のような硬さだった。
彼女は痛がる素振りをまったく見せずに俺の顔を覗き込んだ。
「あらー、怒ってます? ぶちギレてます? プッツンですかー。まあ別に良いですよ、そういうのには慣れてますから」
その眼は不気味に透き通っていた。
「それであなたは私をどうしたいんですか? お友達を処理した私に何をしたいんですか? 報復ですか? 辱めるんですか? それとも何かをしてほしいんですか? 謝罪してほしいんですか? 十字を切ってほしいんですか?」
違うよ。俺はお前に何も求めてなんかいない。
「? ……んんー? ちょっと待ってください。あなたもしかして、遠藤から“肥料”と“水”を貰ってません?」
貰ってないね。あんたの気のせいだろ。
「それはおかしいですねー。なんとなく、どことなく、薄っすらほんのりと、さっき処理した出来損ないと似たような感じがしたのですが。……んんんー?」
そんなに見つめるなよ。俺に惚れると妊娠するぞ。
「……あっ! あーなるほど! そういうこと! そうだったのですか!」
何だ? どうかしたか?
「道理で出来損ないとちょっとだけ被るわけです。……なるほどまさかそうだったとは。驚きです。サプライズです。まさかこんな所で出くわすとは……」
……………?
「っと、そろそろここを離れなくてはなりません。はい、これアドレスと電話番号。では、そういうことで」
あっ、おい。いきなりこんなもの渡されても……。っていうか、お前には訊きたいことが……!
「では明日の午前11時に尾池公園で落ち合いましょう。私もあなたとじっくりねっとりお話したいことがたくさんありますから。それではさよーなら」
彼女は運動場側(江川が落とされた方向)からは逆になる側―――人が集まっている運動場側からは死角になっている―――から風のように飛び降りていってしまった。慌てて屋上の淵まで行って下を見てみるが、そこに夏ヶ原向日葵の姿は無かった。逃げられた。
その場に取り残された俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
/
目が覚めた。
部屋の中で俺は仰向けで寝ていた。板張りの天井に、そう広くない質素な畳の部屋。
どこだ?
「っつ……!」
なぜかずきずきと頭と胸が痛む。後頭部をさすってみると大きなこぶに手が引っかかった。服を捲ってみたら鳩尾の辺りに大きな痣ができているのに気づいた。どうやらこれらの負傷が原因で気を失っていたらしい。
「あらー、目が覚めましたか。まあお茶でもどうぞどうぞ」
台所から黒い格好をした女が薬缶を片手にやって来た。夏ヶ原だ。
彼女は俺の側に薬缶をどん、と放り投げるようにして置いた(薬缶から直接飲め、ということらしい)。それから俺の正面で正座をして向かい合った。
「なっちゃん、俺は一体……? それにここは……? 記憶が混乱していてまったく思い出せないんだ……」
「いえ、思い出さないほうが良いでしょう。あれはまさに地獄絵図でしたから、命があっただけでも良しとすべきです。
あ、ここは私のマイホームです。アパートですが良い所でしょう」
何やら空白の時間の中で俺はとんでもない事態に巻き込まれていたらしい。
「そうだったのか……。となると、頭と胸のひどい怪我もそのときに負ったものなのか?」
「そうです。……すいません、守りきれませんでした。ただ、あれは一歩間違えていれば間違いなく命を失ってしまう状況でしたから、それだけで済んだのであればむしろ奇跡的です。あと敬語を使ってください」
「はあ……。しかし、相手は一体どんな奴だったんです? この怪我の規模からしてとても人間業とは思えませんが……。もしかして動物園から抜け出した猛獣だったり?」
猛獣、というフレーズを口にした瞬間、なぜか彼女の表情が険しくなった。……なんだろう。お互いの為にもこれ以上この話題には触れないほうが良い、というサインなのだろうか。なんという気遣いだ。不覚にもキュンときてしまった。
「……この話はもう止めにしましょう。それよりも今は、ちょっと君とお話したいことがあるのですよ」
「ああ。なんか昨日も別れ際にそんな感じのこと言ってましたね。何ですか? 求婚ですか? 僕彼女いるんで、愛人で良ければ……」
「あなた、何者ですか?」
スルーされた。
「……至極普通の高校生ですが」
「名前は?」
そういや俺のほうからは名乗ってなかったな。
「上田リョウ」
「この上なく脇役臭い名前ですね。なんか第一章とかで雑魚キャラに殺されそうです」
「ほっといてください。これでも気にしてるんだから」
「で、リョウ君、遠藤とはどういう関係だったのですか?」
夏ヶ原の目つきが鋭くなった。
俺は物怖じせずに答える。
「一応腐れ縁の悪友ってことになってはいる。まあ友人なんじゃないんですか」
「他人事みたいに言いますね。そうじゃなくて、私はあなたの主観的な意見を聞きたいのですよ」
「親友です」
「嘘でしょ?」
「はい」
短く言い返す。
「……あなたは気づいていたのですか? 遠藤がなんとなく“普通ではない”みたいな、そういう雰囲気を出していたことに」
知ってるよ。
「薄々ぼんやりなんとなくどことなくとは感じていたような気がしないでもないです。知りませんでした? あいつ、子どもの頃からずっと俺しか友だちがいなかったんですよ?」
「なぜ?」
「周りの連中からはなんつーか遠藤から、距離を置いてるっつーより、距離を置かれてたんですよ。それなりにカオは良いし運動もできたから、まあ女子にはそこそこ人気はありましたが、でもそれだけです。その女子も遠藤から7歩分くらい距離を置いてましたよ。あのーあれだ、あれは芸能人や俳優に見惚れるソレとは微妙に違ってたんですよ。言うなれば“自分には無い物を持っている人に対する羨望の眼差し”―――みたいな」
皆が持っていなくて、遠藤だけが持っていた物。遠藤だけが持ってしまっていた物。
「なるほど。つまり、あなた以外の人々はどことなく特異なオーラを醸し出している遠藤とは関わろうとしなかったのですか。けれども別に彼を畏怖していたわけでも敬遠していたわけでもない。ただ“なんとなく関わろうとしなかった”だけ、それだけなのですね?」
「でしょうな」
「でもあなただけは遠藤と―――ああいや、逆ですか。遠藤だけがあなたと深く関われた、そうでしょう?」
「さあ」
ぶっきらぼうに答える。夏ヶ原はふぅむふぅむ、と大きく頷いてみせていた。
間が空いたようなので俺は手元の薬缶の中身を頂くことにした。注ぎ口に口をつけて傾ける。水しか入っていなかった。お茶ちゃうやん。
一口飲んだだけの薬缶を元の位置に戻す。それを夏ヶ原が素早く手に取った。彼女は注ぎ口に口をつけて傾けた。ごきゅんごきゅん、と、あっという間に全部飲み干してしまった。
間接キスだった。萌えた。
「次は俺から質問してもいいですか?」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
空の薬缶を定位置に戻す夏ヶ原。口の端からたらたらと水が垂れている。服の袖で口元を拭った。萌えた。
「“超能力者”とか“才人”ってどういう意味なんで? よーわからんのでできるだけ具体的にお願いします」
「そのとおりの意味です。……んー、遠藤からなんか聞いてません? “花”がどうとかそういうのを。遠藤、私には説教くさく話してきましたけど」
“花”。常に世界に一つしか存在していない“花”。本当の“才能”。
「ああ、その顔つきからして聞いていたのですね、“花”の話。“花”イコール“超能力者”イコール“才人”と考えてくださって結構です。“超能力者”と“才人”は私が勝手にそう呼んでいるだけですから。あなたの前で見せたべらぼーな身体能力は、まあその片鱗なんですけどね。“花”の本質はもっととんでもないですよ。半端ないです」
「どこがどう半端ないんで? “超能力者”ならそれらしく、手を触れずに物を浮かせたり瞬間移動ができたりするんですかね?」
と俺が尋ねたら、彼女は「んー……」と何やら思案しだした。言葉に詰まってしまったらしい。
「……私が言う“超能力者”というのは“超能力を使える者”という意味合いで言っているのではなく“超ド級の能力を持っている者”という意味合いで言っているのですよ。例えば、リーマン予想を5分で解く。あるいは、ドストエフスキーの罪と罰を逆読みで丸暗記する―――そういうのが私の“超能力”です。というか私の“花”が開いたのってたったの2年前ですから、自分でも全部把握しているってわけでも……」
―――2年前?
「? あらー、言ってませんでした? マイファザーが亡くなったときに成ったのですよ。“超能力者”兼“才人”兼“花”に。初めからそうだったわけではないのです。肉親がいなくなったショックでスイッチでも入ったのでしょうか。それで、丁度その頃からね、私の頭にこんな指令が届くようになったのです。本能に直接訴えかけるといいますか、全身の細胞が肉体を揺さぶるといいますか。そう―――」
夏ヶ原向日葵の目つきが険しくなる。それはさながら蛙を睨む蛇、蛇を襲う鷹。
「―――『他の“花”を摘め』と。『“水”と“肥料”を与えられた出来損ないを狩れ』と。『その元凶である“如雨露”と“水”も絶やせ』と」
それは肉体と精神を構成する全ての遺伝子に刷り込まれてしまった行動パターン。蜘蛛が巣を張るように、毒の使い方を知らない毒虫がいないように。
彼女は人間が元から備えている武器の使い方を知ってしまったのだろう。武器の使い方を知らない人間は多いが、武器の使い方を知っている人間はまったくと言っていいほど存在しない。
巣を張らない蜘蛛がいないように、毒を使わない毒虫がいないように、開花した夏ヶ原は武器を使わざるを得なくなってしまったのだろう。武器を使わない、という選択肢が消え失せてしまったのだろう。
(ああ―――なんだ)
彼女もまた被害者、じゃあないか。
「定期的に湧くんですよその出来損ないたちは。遠藤のような人が何もしなければ何も起こらないのですが。あれですね。彼らにも指令がきているのでしょう。『“如雨露”と“肥料”を使え』という実に迷惑な指令が」
ここで夏ヶ原は一旦言葉を区切った。ふぅ、と息を吐き、それからごそごそとポケットの中をまさぐり始めた。
ポケットから出した彼女の手には、一枚の紙切れが握られていた。―――俺の制服の上着の中に入っていたものだ。いつの間に盗られた?
「昨日の別れ際にスッときました。ポケットの中を気にするような素振りがあって気になったので。しかし、まぁ……」
彼女はその手紙の文面をしげしげと眺めて、呆れたように、
「狂ってますね。内容もそうですが、差出人の名前の部分が特に。何ですかこれ? これどうしたんですか? なんで、これ、」
名前を書いた後、そこを真っ黒に塗り潰しているのですか?
「……そういう名前、なんだろ」
「まっくろくろすけさん? いえいえそんなはずはありません。それによく見るとこれ、完全には消せていませんね。んー、何て読むのでしょう。え、がわ、なの、………」
ぱあん、と乾いた音が響いた。俺が夏ヶ原の頬を平手で打った音だった。
「……返してくれ」
「………はい」
彼女は痛がる様子をまったく見せずに、すっ、と俺に紙切れを手渡す。
俺はそれをくしゃくしゃに丸めて上着の内ポケットの中に押し込んだ。夏ヶ原を打った右手がじんじんと痺れている。
「では、次はこちらから質問してもよろしいですか?」
「…………」
「いいのですね」
俺は押し黙っていたが、彼女はそれを肯定と受け取ったようだった。別に構わん。
「あなた、お友達が二人も殺されて悲しくないのですか? 私が憎くないのですか?」
ああ、やっとその話か。
「悲しくなんてないし、憎んでもないですよ。あの二人は殺されて当たり前のことをしていたし、なっちゃんはやって当たり前のことをやったまでのことですから」
「達観していますね。人間らしくもっと感情的になっても良いと思いますよ」
「ですかね」
「ですよ」
と言われても、悲しめないのも憎めないのも仕方がない。というかそういうのって、人に勧められてそうなるようなものでもないだろうに。
ふと、壁に掛けてある時計に視線がいった。時刻は4時半を指している。何時間も気絶してしまっていたらしい。
それにしても4時半、か。いつもなら学校から帰宅しているであろう時間か。
「では次の質問」
そういえば大泉には何も連絡していなかったな。一人で登下校させることになってしまった。今日中に詫びを入れないと。
「あなた、何者ですか?」
かち、かち、と、時計の針の音が部屋の中で虚しく反芻している。
「至極普通の高校生、だと不服なんですか?」
「ええ」
と短く言い放ち、夏ヶ原はその場に立ち上がった。そのまま彼女は押入のほうへ足を進める。
「最初は遠藤から“水”と“肥料”を貰った出来損ないだと思っていました。でも、頭に指令が降りてこなかったので違いました」
彼女は押入に手をかける。
「次に私はこう考えました。では、彼は“如雨露”と“肥料”を持っている人間なのでは、と。しかし指令が来なかったのだから当然ながらその可能性もありません。よってその仮説は二秒で破綻しました」
押入にかけている手に、ぐっ、と力をこめるのが見えた。
「再び私は考えました。6秒くらい頭をフルに使って考えました。目一杯考えました。そして最もそれらしい結論に至りました。上田リョウ君、あなたは、」
ばんっ、と彼女は勢い良く押入を開けた。そして押入の中―――その中に所狭しと詰め込まれている物体の異質さに、思わず俺は絶句してしまった。
押入の中にぎっしりと、青いポリバケツが詰まっていた。
「“花”を持っていたことがあるのでしょう―――?」
……―――。
「あ、押入はただなんとなくカッコつけて開けてみただけです。ポリバケツの中身は普通のプリンですよ。私の明日のおやつです」
そそくさと押入を閉める夏ヶ原。ただなんとなくカッコつけてみただけとな。ちくしょう騙された。てっきり「フハハハ! そうだ、これが全ての事の真相よ!」みたいな展開を期待してたのに。っつーかあのプリン全部一人で食うのかよ。お前の体と頭はそれで大丈夫なのか。
そのとき、奥のほうから、がちゃっ、という音がした。玄関から誰か入ってきた。誰だ? と思った矢先、
「ただいマンハッタン・トランスファー」
この上なく語呂が悪い帰宅文句をその誰かさんは言ってきた。
「えっ?」
その声が聞きなれている声だったので、思わず俺はぎょっとした。玄関のほうに体を向ける。
制服姿の大泉栄子が、玄関口に突っ立っていた。
「あっ」
げ、目が合っちゃった。
「……おかえリンゴォ・ロードアゲイン」
沈黙を作ってしまったら場の空気が悪くなるかも、と危惧し、とりあえず適当に言い返してみた。
(まさか……)
大泉は言っていた。7つ年上の義姉と某アパートで暮らしていると。そして14歳の頃に義父を亡くしたとも。
夏ヶ原は言っていた。2年前マイファザーを亡くしたと。
(……まさか)
「おかえリンプ・ビズキッ……あっ」
ここで夏ヶ原さんは何か閃いたようです。がくっ、と急に膝をついて、ぜぇぜぇと呼吸を荒げ始めました。
「に、逃げてくださいエーコちゃん! このケダモノは私がなんとかしますから、早く! ハリー、ハリーハリー!」
ケダモノって俺のことかよ。笑えねぇよ。
当の大泉はというと、俺の側で失笑モノの芝居を繰り広げている夏ヶ原を無視してとてとてと室内に上がり込んできていた。
「先輩、紹介します」
すっ、と片手で(未だに痛々しい演技を続けている)夏ヶ原を指す大泉栄子。その顔つきは実に冷ややかだった。
「義姉の大泉向日葵です。なぜか夏ヶ原という苗字に憧れていますが、変質者です」
「ち、違いますよエーコちゃん! 私は夏ヶ原財閥の超エリートなのですよ。大泉は世を忍ぶ仮の姿なのですよ。あ、ちなみにですね、夏ヶ原家の他には春ヶ原・秋ヶ原・冬ヶ原と全部で四家ありまして、夏ヶ原家はその中で最も多く優秀な人材を輩出してきた由緒正しき……」
急に夏ヶ原のお家自慢が始まった。なっちゃんは半べそになって夏ヶ原家の歴史を語っている。どう聞いても妄想だった。萌えた。
「姉さん、現実見ましょうよ。フルネームで6字じゃなくてもいいじゃないですか。名前が向日葵だからって苗字に夏が入ってなくてもいいじゃないですか。なっちゃんて呼ばれなくてもいいじゃないですか」
冷たく言い放つ大泉。あ、そういや夏ヶ原も大泉だったな。……面倒だから今までどおり夏ヶ原は夏ヶ原、大泉は大泉でいいや。
「うう……。エーコちゃんはいつになったらわかってくれるのですか。これ以外にも秘密結社レッドスチームとDMA機関と幻影騎士・ナイトバロンの説明もしないといけませんのに……。というか説明したいのに……」
多分、一生説明する機会は訪れないと思うよ。
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2008/02/13(Wed)00:06:08 公開 / バケツチーズ
■この作品の著作権はバケツチーズさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
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作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。