『異臭』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:瀧河 愁                

     あらすじ・作品紹介
シュールな短編小説を目指しました。

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 『世界の国のどこよりも、日本の四季は素晴らしいと、かつて知り合いのアメリカ人に聞いた事があります。
 春、夏、秋、冬。桃色から緑、そして茶色から白へと、目まぐるしく移り変わる日本の自然は、まるで天然の万華鏡の様でもあり
 見るものを飽きさせない、不思議な魅力を持っているのです。

 そして今は秋。冬の支度をする我々の為に、自然の恩恵が豊富に実る、いわゆる『食欲の秋』と言われる季節… 』
 
 そこまで書いた所で、ふと、軽やかにキーを叩き続けていた私の指が止まった。
 まだ文章を書き始めて5分と経っていないのに、こんな所で詰まってしまうとは。私は、パソコンの液晶画面に映し出されたブログの記事作成ページを見て、あふれ出した自己嫌悪をそのままに、指先で寝癖だらけの後ろ髪を掻き毟った。
 友人に進められて始めたフログも、もう書き始めて一ヶ月になる。初めは簡単なメール程度の文章で済ませていたのが、今では何処かの雑誌の1ページ並みの文字数が、パソコンの液晶画面を隙間なく埋める様になり、それに比例して友人からのコメントは辟易とした物が多くなり始めていた。
 もともと、文章を書くのが嫌いではなかったのだが、まさかここまでのめり込むとは思わなかった。すでに私は、暇があれば、仕事の合間や、帰宅後、就寝前、さらには休日の殆どをブログを書く、文字道理のブログ中毒者として過ごす様になっている。
 現在、日本人の三人に一人がブログや、ソーシャルネットワーキングサイトを使ったネットライターと言われる時代だが、こんなにもブログにはまってしまう人間も少ないだろう。私は自嘲気味に一人きりの部屋の中で笑うと、再びパソコンに噛り付き文章の続きを考え始めた。
 しかし、いくら考えても、それから先の文章が思い浮かばない。試しに適当にキーを打ってみるが、何故か『おぞましい物体が』とか、『世にも奇妙な光景』だとか、今書こうとしている秋の美しさについての文章とは、何の脈絡も無い文字が浮かび上がって来るだけだった。
 こんな事は、ブログを書き始めてから一度も無かった事だ。しかも、次々と意思に反して打ち出される文字は、どれもこれも暗く、不気味な印象を受けるものばかりだ。
 このまま流れにまかせては、ホラー小説の一遍でも書いて仕舞そうだと、私は気分転換の為、一昨日近所のスーパーで買った菓子でも食べようと椅子から立ち上がった。
 すると突然、鼻腔に妙な違和感が沸き起こった。
 何かが腐った様なその匂いに、反射的に鼻をひくつかせ、部屋の中を見渡してみる。飲みかけのペットボトルや、雑誌が転がったフローリングの床が、蛍光灯に照らされ、鈍い光を放っていたが、そこに匂いの元となりそうな物は無い。きっと気のせいなのだと、私は自分に言い聞かせたが、辺りの空気に漂う微かな異臭は、意識を反らそうとすればするほど、大きく開け放った私の鼻に勢い良く入り込んできてしまい、否が応でもその匂いの原因を考えずにはいられないかった。
「……まさか……ガス漏れ?」
 咄嗟に浮かんだ、最悪の状況が思わず口を突いて出る。もしそうなら一大事だ。私はすでに書きかけのブログの事など忘れて、部屋の奥の台所に向かって、もつれそうになる足で床を蹴った。
 台所に向かうと、その匂いは濃さを増し、鼻を通ってきた刺激臭に思わず咳き込む。すでに気のせいなどでは到底片付けられないその異臭に、私は眩暈すら覚えながら、必死にガスコンロへと足を前に出した。
 その時、ぐにゃりと、肉を潰す様な感触が足の裏を覆った。
 続いて、背筋を駆け上がる悪寒が後頭部に達し、体全身に鳥肌が浮き出る。私は、慌てて音がした方の足を上げ、その床の上にある物を、震える眼で恐る恐る見つめた。
 そこにあったのは、白い、皺だらけになった一枚のビニール袋だった。その表面に、歪んだ文字で近所のスーパーの名前が描かれ、部屋に立ち込める異様な匂いは、明らかにそこから漏れ出しているのが分かった。
 まるで、その時をまっていたかの様に、ずるずると体の奥底から這いず出して来る恐ろしい考えを、私は吐き気を催しながら、必死にそれを否定し続けた。
 ──やめろ、そんなわけが無い、あれが、こんな所にある訳が無いだろう──。私は、すでに色すら見えそうな匂いの塊に、自分が頭を突っ込んでいる事すら忘れ。震えながらその袋を開けようと、無意識に伸びていく震える自分の指先が、まるで他人の物の様に感じられた。
 血の通わない指先が、少しづつ伸びて行き、ついに袋の端に掛かる。そして次の瞬間、その袋が勢い良く開け放たれ、私は、まるでその穴に吸い込まれる様に、血走った眼球がぴたりと釘付けにされた。
 ……それは、一匹の秋刀魚だった。
 スーパーの袋の中で横たわる、黒ずんだ肌の魚は、白く凝固した片目でじっとこちらを見つめている。私は、まるで自分を責め立てる様な冷たいその瞳をまっすぐに受け取りながら、心の中で幾度も、幾度も懺悔の言葉を繰り返した。
 ──忘れた訳じゃ無かったんだ、君を置き去りにするつもりなんて無かったんだ──。
 普通なら気絶して仕舞いそうな悪臭の渦の中、一昨日、冷蔵庫に入れ忘れた秋刀魚の変わり果てた姿に、私は、その場に崩れ落ち、ただ謝り続ける事しかできなかった。
 例え、スーパーの特売で売られていた激安秋刀魚であろうと、その命を無駄にして、無残にもこんな姿にした罪の重さに、私の心は押しつぶされてしまいそうになる。焼かれる事も無く、揚げられる事も、刺身にされる事もなく、ただ誰かに見つけられるまで、じっと部屋の暗がりで息を潜めるしかなかった秋刀魚に、ただみつめる事しか出来ない自分を殺したくなる。
 この罪は、必ず償わなければならない。せめて、食べる事ができなかった秋刀魚の無念を、誰かの胸に焼き付けてやりたい。
 私は、よろめきながら腐った秋刀魚の眠るビニール袋を手にすると、そのの端と端とを硬く結びつけ、入り口の脇に置いたゴミ袋の奥底に押し込め、覚悟を決めた。
 そして、力強い足取りでパソコンの前に向かうと、椅子に座り、ブログの投稿欄に書かれた文章を一括消去して、私はキーボードの上に指を走らせる。
 『異臭』と、タイトルの欄に打ち込んだ私は、後ろに振り返り、秋刀魚の眠るゴミ袋を見つめた後、暗闇に浮かぶ液晶画面の青白い光めがけ、荒々しく文字を打ち込み始めたのだった。

2007/10/09(Tue)20:47:14 公開 / 瀧河 愁
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