-
『幽明奇譚―蟲―』 ... ジャンル:リアル・現代 ホラー
作者:奏瓏瑛
-
あらすじ・作品紹介
闇に巣食うもの、闇に魅入られるもの。人は幽明の中に生き朽ちてゆく。
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
幽明――暗いところ、明るいところ。あの世と現世(うつよ)。
――夜が来る。
少女は息を殺し、固唾を呑んだ。
――闇に紛れて、あれ、が来る。
毎晩音を立てずにひっそりと少女に忍び寄る。別段何をするでもない。ただ、扉の影から覗いているだけのもの。
今はいい。だが。
――いつかこちらへやって来るかもしれない。
そのときはどうなってしまうのだろう。言い知れぬ不安が頭をよぎる。
鋭利な爪で胸をえぐられるのだろうか、あるいは、隠し持った牙でずたずたに裂かれてしまうのだろうか……。
吐く息が不安に震えている。どうしたらいい――助けをこうてみようか。果たしてそんな慈悲があれにあるのか――?
思って、少女は目を閉じた。
――いっそ夢だったらいいのに……。
どんな悪夢も目覚めれば終わる。苦痛も、絶望も、恐怖も、何もかもが消え去り、いつもと変わらない日常の続きが始まるのだ。
だのに――これは夢ではない。決して醒めることのない現実。
少女はゆっくりと目を開き、闇を見据えた。
雲ひとつなく、地を這う熱気は天を押し上げ、滄海たる空が頭上一面に広がっている。ときおり吹く風がほてった肌に大変心地よかった。
広理(こおり)は、額に滲む汗をタオルで拭いながらきつい傾斜を登って行く。舗装された歩道の両脇には、碧々(あおあお)と生い茂った木々の梢が、潮を帯びた重たい風に揺れている。鋭い斜度から照りつける陽射しが地に木陰を落とし、歩道を歩く人々の暑さをいくぶん和らげていた。
海が近いせいか、陽射しが強い。出かける前に見た天気予報では、今日は猛暑になるだろうと言っていた。
背後から高校生たちのにぎわう声に交じり、踏み切りの遮断機の下りる音が響きわたる。
汗で湿ったワイシャツの襟元を寛げながら、広理は自分を追いこす制服姿の少年を見送った。
「若いっていうのはいいですねえ。この暑さなんて屁でもないんでしょうねえ、きっと。私もああいうふうに颯爽とこの坂をかけ登りたいものですよ」
唐突に話しかけられて、広理はゆっくり振り向いた。
見れば、褐色の肌に白髪交じりの見るからにきっぷうの良さそうな男が、スポーツウェア姿で自転車に跨り、朗らかな笑みを湛えている。
「おはようございます」
広理は男に軽く頭を下げた。
「おはよう。しかし今日は本当に暑いですねえ。この年になるとどうにも暑さがこたえて。若者がうらやましく思えてきますよ」
「なにをおっしゃいます。剣持(けんもつ)先生もまだ負けてませんよ」
「そんなこたあ、ありませんって。老いぼれもいいとこです」
言って、快活に笑う。
剣持は広理の通う学校で長いこと教鞭を取っている。その経験たるや豊富で、万引きで捕まった生徒を警察署まで迎えに行ったこともあれば、肋骨を二本ほど折られたこともあった。
これを傷害事件だと騒ぎ立てる周囲をよそに怪我を負った剣持は落ち着いたもので、さして気にしたふうもなく、「不慮の事故ですよ」と笑い飛ばした。この発言は納得のいかない保護者たちの槍玉に挙げられたが、放っておけとこれまた一言で一蹴した。まさに剣持らしい対応だった。
剣持が人と接するときは笑顔でいることが多い。剣持の性分からいって媚びへつらうでもない、おっとりとしたその笑顔に広理は好感を持てるのだが、八方美人といとわしく思う者も少なくはなかった。
「老いぼれた人が藤沢からここまで自転車で来れますか。それにしてもよく下りずにこの坂を登れますね。僕には到底真似できません」
「私よりも宮元先生の方が若いんですから、その気になればできますよ」
剣持は自転車を降り、滴る汗をスポーツウェアの袖で豪快に拭った。
健康を気遣って自転車通勤をしているせいか、丈夫というほどでもないが、がっしりとした体つきからは今年で定年を迎えるような老齢にはとても見えなかった。
「先生もどうです? 良い運動になりますよ」
「いや、遠慮しておきます」
藤沢の剣持に比べれば鎌倉に住んでいる広理は学校まで近いほうだ。歳も剣持の半分くらいしかない。それでもこの坂はきついものがある。壁といえば大袈裟になるが、それに近い急な傾斜は歩いて登るのも億劫だった。特に暑い日はじっとしているだけでも体力を消耗し、わざわざ坂の上に学校を建てた創立者に恨み言の一つもこぼしたくなるというものだ。
そんな広理も一度だけ自転車でこの坂に挑んだことがある。広理がまだ中学生のとき、悪友と一緒に誰が一番早く登りきれるか、ジュース一本を賭けて競争をした。ルールは至って単純。坂を下ってすぐにローカル線の踏切があるためスタートは坂の真下から。地面に足を着けば失格、最後の者か、もしくは失格者が坂を制した勝者にジュースを奢るというわかりやすいものだった。
悪友の一人が腕を下ろしたのを合図に一斉にペダルを踏み込む。ろくに坂を登らないうちからペダルが鉛のように重さを増した。広理は漕ぎ出す足に体重を乗せ全身を使って踏み込んだ。身体が大きく左右に揺れるせいか車軸がぶれ、何度も倒れそうになりながらも懸命に自転車を前に進めていく。三分の一も登りきらないところで脱落者が続出したが、広理は持ち前の負けん気の強さでなんとか最後まで残った。それでも半分も登れなかった。
思い出だして、広理は苦笑を浮かべた。
「そういえば、例の生徒は今日来るんでしたか?」
「例の生徒?」
「ほら、入学式以来体調を崩して休学していた生徒がいたでしょう?」
「ああ、立川(たてかわ)のことですか。上手く馴染んでくれるといいんですが……」
「心配しなくても大丈夫。子供同士なんとかやっていきますよ」
不安げに笑う広理の肩を剣持は軽く叩いた。
「――だといいんですけどね」
どこか物憂げな面持ちの広理を見て、剣持はおや、と眉根を持ち上げた。
「なにか心配事でも?」
「いや、そういうわけでは……」
広理の歯切れの悪い返答に、剣持は心中を察したふうに目を細める。
「なあに、まだ六月の中旬ですから、焦る必要はありませんよ。遅れを取り戻すには十分です。思案するだけ骨折り損のくたびれ儲けというやつです」
剣持は広理に微笑んだ。つられて広理も複雑な笑みを浮かべた。
この坂の上に広理の赴任先である工業高校がある。
建築、設備、機械、電子、電気、土木、化学、計八つの学科があり、約四十人程度のクラス編成で、各学年に一クラスづつ、電気と機械は希望者が多いため二クラス用意されている。
習得教科は、普通と専修の二種類。専修教科の内容は科によって異なるが、実習、製図、課題研究などがあり、専修教科の全単位取得が進級するための必須条件になっている。けれども、授業時間内で単位を取得することは難しく、朝早くから登校し、放課後は夜遅くまで残り、休日を返上する者も多い。無論、夏休みなどの長期休暇も例外ではない。
特に卒業がかかっている三年の課題研究に関しては、学校に寝泊りする者までいた。
そのため、必然的にリタイアする者や留年する者が後を絶たない。偏差値は四十と低めだが、間口は広く出口が狭い、典型的な例だといえる。
なかでも広理が在籍する化学科は条件が厳しいことで有名だった。
化学科は基本的に留年を認めていない。単位が足りず進級が危うい生徒には、夜間への移籍か、自主退学か、この二通りの選択をすすめている。すると、体裁が気になるのだろう、大概の生徒は後者を選んだ。
「宮元先生は一年の受け持ちでしたね?」
「え、あぁ、はい、そうですが……」
広理は剣持に唐突に問われて戸惑い気味に答えた。
「この時期だと――たしか一年の実習は重金属の抽出ですか?」
「そうです。あいつらじゃまだ実験らしい実験はできませんよ」
「そりゃあ入学してから二ヶ月しか経ってませんからねえ。まだ早いでしょう。まずは器具や薬品に慣れてもらわないと……」
化学科の実習は、クラスの生徒を四つのグループに分け、その学年に必要な分だけの実験を学期ごとにサイクル方式で学ぶ仕組みになっている。第一グループが一階の実験室なら、第二グループは隣の製造室、第三グループからは二階の各分析室にそれぞれ振り分けられる。定められた期間を終えるごとに一つづずれてゆき、この時点で実験が終わっていない生徒も、強制的に次の課題に移ることになる。
だが、さきで述べたように実習の単位は一つも落とせないため、終わらなかった実験に関しては各自で時間を作り、現在行っている実験と平行してこなしていくしか方法がない。
「立川という子は先生のグループですか?」
剣持と目が合い、広理は苦笑して頷いた。
化学科の教諭は、担当クラスの有無や受け持ちの学年を問わず、必ず実習を担当することになっている。広理は一年生の担任の他に実験室を、剣持も三年生の担任でありながら製造室を任されていた。
広理が任されている第一グループは、器具や薬品の取り扱い方法などの説明から始まり、毛細管などのちょっとした必需品の作り方を指導する。これらの過程を終えた頃、ようやく実際に器具を手に取り、肩慣らしに遊び程度の実験を行うようになる――剣持の言う、重金属の抽出がこれにあたる。
ひとえに重金属の抽出といっても何通りかの実験を行う必要がある。立川は現段階で周囲に二回分の遅れを取っていた。一回分の遅れを取り戻すことさえ困難で二回分の遅れは致命的、三回分以上は絶望的といわれている。
思って、広理は溜息をついた。
「おいおい、今から気を負ってどうするんです。もっと気楽にいきましょう、ね?」
広理の硬い表情を見て、剣持がふわりと笑んだ。
「さしずめこの時期は、まだたいした実験もしていないし、心配しなくても私の実習までには追いついてますよ」
「……そうですね」
広理は気のない返事をかえしながら、とりあえず、と思う。
器具の扱い方などをざっと説明しながら常備薬や試薬の準備をさせ、後は個人指導で不足分をカバーすればいい。それでも足りない分は休みを返上すればどうにか追いつきそうだった。早い時期の復帰が不幸中の幸いである。
しかし、問題は他にもある。化学式やその方式、計算方法、それに合わせて危険物取り扱い丙種と計算技術検定四級の取得に向けての勉強、、ポケコン(ポケット・コンピューター)の扱い方、普通教科の補修などやらなければならない課題が多く残っている。
「まあ、なるようになるものですよ」
深刻な面持ちで黙りこくってしまった広理に剣持が微笑んだ。
剣持はふと腕時計に視線を落す。
「おっと、のんびりし過ぎた。急がないと準備する時間がなくなりますよ」
言うや否や、剣持は歩幅を広げ、いっきに広理を抜き去り、軽快に歩き始めた。どうやらバテぎみだった広理に歩調を合わせてくれていたらしい。
先を行く剣持の背を見て、相変わらず元気な人だ、と広理は微苦笑を浮かべた。
校舎は車道をはさんで東と西の二棟で構築されている。東棟は主に、土木、電気、電子などの各科があり、車道沿いにある校門からは狐色の砂地に石灰の白いラインが引かれた校庭を一望できた。校門に隣接した右側に赤土色をした三階建ての体育館があり、ぽっかりと口を開けた吹き抜けの先に学舎があった。
学舎には各科の主要施設の他、二階に図書室、三階にLL教室が設(しつら)えてある。学舎裏にはテニスコートが備え付けてあった。
また、西棟は、化学、設備、建築などの主要施設があり、校舎裏には殺風景な中庭が広がっている。そこに保健室、食堂、職員用の駐車場が用意されていた。
化学科の職員室はこの西棟の三階、南側にあった。
まばらながら制服姿の子供たちが躑躅(つつじ)の植えてある正門をくぐり学舎に入っていく。時期外れのせいか花は咲いていなかった。寂しげな花壇の横を通り生徒の波にまじって広理も先を急いだ。
昇降口を入ってすぐに下駄箱があり、その奥、ちょうど教室へ続く階段の脇に職員用下駄箱があった。
「西田先生、おはようございます」
下駄箱の前に小さな影を見つけて、広理は声をかけた。西田は広理の方を振り向き、ああと笑う。
「おはようございます」
落ち着いた感じの甘いトーンで保険医の西田が答えた。
西田の笑顔には愛嬌がある。笑うと口許に笑窪が浮かび、柔らかい色を湛えた大きな目が半分の大きさになる。年は三十代後半だが、幼い顔立ちのせいか実年齢よりも一回りくらい若く見えた。
「今日は珍しく遅いですね。ぎりぎりじゃないですか」
「そうなのよ。子供がくずっちゃって家を出るのが遅くなっちゃったのよ」
「お子さん、小さいんですよね。たしか三歳?」
「そう、三歳。手がかかって、もう〜大変。お姑さんと同居してなかったら、とてもじゃないけど働けないわ」
西田は少し疲れ気味に愚痴た。広理はお疲れさまと心の中で西田をいたわった。
ところで、と西田が続ける。
「宮元先生はいつもこんなに遅いんですか?」
「朝が苦手なんですよ」
「なに言ってるのよ。先生の家って鎌倉ですよね」
「小町通ってわかります? JR鎌倉駅東口にあるんですけど」
「もちろん知ってるわよ。美味しいコロッケ屋があるのよね。あそこのゆずコロッケが意外にいけるのよ」
西田は脱いだ靴を下駄箱にしまいながらの満面の笑みを浮かべた。
「……ゆずコロッケですか」
「そう、他には梅、抹茶、チョコレートなんてものもあるのよ」
嬉々として語る西田を見て、広理は苦笑する。
「普通のもありますよね? チーズとかそういうの」
「あるにはあるけど、せっかく面白そうなのがあるんだから試さないと」
西田は力を込めて広理に言う。広理は手で西田を落ち着かせる素振りをする。
「そんなムキにならなくても……。結構チャレンジャーですよね」
「先生みたいに保守的な人生じゃ退屈だもの。冒険も大切よ」
言って、何かを思い出したふうに真面目な面持ちで広理を見やる。
「そうそう、話がそれちゃったけど――だったら、ここまでそんなに掛からないじゃない」
西田は呆れたふうに言った。広理はばつの悪そうな笑みを浮かべて、
「いやあ、自宅が近いと、どうしてもギリギリまで寝ちゃうんですよ。しかも、僕は低血圧だから寝覚めが悪くって……」
「先生、寝穢いにもほどがありますよ」
相変わらず手厳しい、と広理は苦笑する。
「はいはい、笑ってごまかさない。まったく、もう少しっかりしてもらわないと。生徒に示しがつきませんよ」
西田は持っていた荷物で広理のお尻を軽く叩いた。広理は叩かれた箇所をさする。
「それよりも、私服で会うのは初めてですね。白衣姿しかお目にかかったことがないので一瞬誰だかわかりませんでした」
「そりゃそうでしょうよ。わたしは先生と違って優等生だから余裕を持って早めに来てますからね」
西田はわざと皮肉交じりに言って、意地の悪い笑みを浮かべる。広理は、まいったな、と一人ごちて頭を掻いてみせた。
広理が教習生としてこの学校に赴任してきたときに、西田には色々と世話を焼いてもらった。広理は人に勉強を教えるのが上手かったが、教諭として生徒を指導するとなると話は別になってくる。勝手もわからず、何をやっても上手くいかず落ち込むことが度々あった。そのつど西田が励ましてくれていた。
だからといって、広理は初めから教職を志していたわけではない。教諭になる前はさまざまな職を転々としていた。販売や営業、風俗の呼び込みもやった。しかし、結局どれも性にあわず長くは続かなかった。かといって、東京からこちらに移り住み一人暮らしをしていたので遊んでいるわけにもいかない。身の振りように困った広理は、両親が教師だったことを思い出して教諭の資格を取得することにした。ここも長くは続かないだろうと高を括っていたが、不思議なことにもう四年も勤務している。
もともと広理は他人と戯れるよりも一人でいるほうが好きな人間だった。好きといえば聞こえはいいが、ただ他人という存在に馴染めなかっただけなのかもしれない。流行の物には興味を持てなかったし、みんなが良いと思える物にもさほど魅力を感じられなかった。広理にとってその程度の差異は気にするほどのものではなかったが周りには扱い難い存在だったのだろう。これといって親しい友人はいなかった。
広理自身、自分が変わり者だと意識したことはない。みんなと同じように自然体で接してきたつもりだった。ただ、どうやっても浮いてしまうのは、やはりどこかが他人とずれているのだろう、そういう認識はあった。
そんな広理が教諭として長く努められるのは、学校というものが閉鎖的で社会から隔離された特殊な環境だからなのかもしれない。社会のように多種多様な人間が乱雑に存在し、複雑な人間関係に頭を痛めることも、面倒なしがらみに縛られることもない。あるのは、教師と生徒、先輩と後輩、至ってシンプルな構図に、一日の大半をすごす仲間との協調性が必要とされるだけだ。毎日、同じ服を着て同じ行動を取り、周囲から外れすぎないよう気をつけていればいい。実にスマートな環境といえる。だが、それでも必ずはみ出す生徒もいた。
広理はこういった生徒に親近感を抱いている。そういう生徒に頼られるのも悪くない気分がした。動機は不純だが、今ではそれなりにやり甲斐を感じていた。
西田と視線がぶつかって広理はなんとなく妙な気恥ずかしさを感じて首を捻る。白衣を纏(まと)った保健医姿の西田に比べて、私服姿の西田はだいぶ印象が違った。自分の中のなんとも言い難い感情の理由を知りたくて、西田をまじまじと見つめた。
いつも後ろで一つにまとめ上げていたので気づかなかったが、緩くウェーブのかかった髪が顔の輪郭を覆い、ただでさえ小さな顔がいっそう小さく見える。身長も広理の肩のあたりまでしかないことにいまさらながらに気がついた。
「なに? どうしたの?」
西田は訝しげに眉を顰(ひそ)めながら、顔にかかる髪の毛を鬱陶しそうにかきあげる。その仕種を見て、広理は白衣姿のときには感じられなかった女性らしさに戸惑っているのだと自覚した。
「なによ、見とれちゃって。もしかしてわたしの魅力にやられた?」
「え? 毒された?」
「毒っ!! ちょっと失礼ね。わたしは公害なわけ?」
「だって西田先生がとち狂ったことを言うから」
「とち狂うって……この魅力がわからないなんてまだまだ子供ね」
「子供……僕とさして変わらないでしょう。それって、自分でおばさんと認めたことになりますよ」
「うわっ、このうえなく失礼極まりないわ。なに、この男。なんなの、一体……」
「なにって、グレート・ティーチャー宮元広理、一教師です」
「……その台詞は反町隆史が言うから格好いいのよ。あなたみたいな色白ヘボ教師が言ったって様にならないわよ」
西田は広理に冷ややかな視線を浴びせ、思い切りむこう脛を蹴飛ばした。広理は短く呻いて、片足立ちのまま蹴られた脛をさする。
「校内暴力反対! 話し合えばわかる……はず」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと職員室に行きなさい」
西田はぴしゃりと言って、広理を邪険に追い払う素振りをする。広理は軽く肩をすくめて下駄箱を後にした。
広理は家庭科室と家庭科準備室の前を通りすぎ、突き当りを右に曲がる。ところどころ黄みを帯びた白い壁が訪れる者に建物の年月を思わせた。砕いたタイルを敷きつめたような無機質な床と薄汚れた壁は、そのどれもが電灯のほの明かりに照らしだされ、どこか寒々しく、どこか蕭然(しょうぜん)としていた。廊下の突き当たりには、日光を少しでも取り入れようと大きめに作られた窓が奥のほうまで続いていた。方角的に日当たりが悪いせいか、ずらりと並んだ窓はその役目をあまり果たしていなかった。
そこを少し進んだ先に階段があり、その脇には寂れた売店があった。広理はこの売店で毎日かかさず牛乳を買うことを日課にしていた。
「おばちゃん、いつもの頂戴」
言って、広理はカウンター越しに売店の中を覗き込む。
中はとても狭く、大概の商品は手を伸ばせば届くほどのスペースに、五十路(いそじ)をゆうにすぎた女性が背もたれのない円椅子に腰かけている。紙パックの飲料製品が陳列されたガラス製の冷蔵庫が場所を取り、とても人とすれ違うことはできない。種類に乏しい筆記用具も壁に密着させた棚に雑然と並べてあるだけだった。
広理に声をかけられた年配の女性は冷蔵庫から牛乳を取り出してカウンターの上に置いた。
「頂戴って言ってもただじゃあげないよ。百円と交換ね」
女性の良く通る明るい声は陰鬱とした雰囲気を払うように廊下に響く。東北訛りのきいた語調が親しみを感じさせた。
広理はあらかじめ胸ポケットに用意しておいた百円玉を差し出された女性の掌に落とす。皺枯れた手が銀色の玉を包んだ。
「はい、ちょうどね」
女性はお金を確認すると古びたレジにしまった。
「……今日は遅かったじゃないの。体調でも崩して休んだのかと思ったわ。ちゃんとご飯は食べてる? 朝はきちんと食べなくちゃ若いんだからもたないわよ。そうそう、給料日前だから学食は無理なんでしょ。お弁当持ってきた? どうせ持ってきてないんでしょう。今日もパンなの? それともカップラーメン? 顔は悪くないんだから早くいい女性を見つけて所帯を持ったほうがいいんじゃない? こんな生活を繰り返してたら、栄養がかたよって身体壊すわよ」
年配の女性が広理の鳩尾の高さまであるカウンターから身を乗り出し、心配そうな面持ちで息つく暇もなくまくし立てる。広理は勢いにおされ、思わず顎を引いて苦笑する。
「まるで詰問されてる気分だなあ。昼飯はパンだよ。弁当作るの面倒だし、荷物になるだろ。食い終わったら洗わなきゃいけないし。それが嫌なんだよ。──どこかに弁当を作ってくれる素敵な女性はいないもんかね。こう、道端に落ちててくれると助かるんだけど……」
「なに寝ぼけたこと言ってるの。いい女がほいほい落ちてるわけがないでしょう。あんた理想が高すぎるんだよ。何事にも釣り合いってものがあるんだから、自分ってものを知らなきゃねえ」
女性は笑い含みに言う。広理はわざとらしく眉根を寄せて、
「酷い言われようだなあ。さっきは褒めてくれたのに……」
と、大袈裟に肩を落として見せた。
「わたしがいつ褒めたって?」
女性は目を開いて声を上げた。緩んだ額の皮膚に深い皺をきざみ、目じりによった皺が伸びる。
「褒めてくれたじゃない。二枚目だって」
「二枚目〜っ! どこに二枚目がいるの、どこ? あんた一枚足りないよ。肝心の一枚をどこに忘れてきちゃったの。家かい?」
「人間足りないくらいが丁度いいって言うだろ。だから破って捨てたんだよ。僕は謙虚なんだ」
「なに言ってるんだかね、この子は。たしかに”顔は悪くない”とは言ったよ。だけどどうしたらそう解釈できるんだろうねえ」
言って、女性は盛大に顔をくしゃりとする。
「いかしてるだろ?」
「いかしてる? なんて聞いた時点で死んでるよ」
「――そうきたか。これじゃ返す言葉もないな」
「口で女に勝とうなんざ、百万年早いってもんだよ」
「そうだよなあ。特におばちゃんの場合は、年期がはいってるからなあ」
女性は大きく口を開けて言葉に詰まった。一拍間を置いてから、一本取られたと哄笑する。広理はそれを見て目を細くした。
「じゃあ、また後で」
広理は右手を挙げる。女性も広理に手を振って売店の中に消えていった。
広理は売店横の階段を素通りし廊下に戻り、実験室、測量室(実験の際に正確な重さを測るためだけの部屋。つねに室内の湿度と温度が一定に保たれている)、準備室、製造室をやりすごす。更に奥へ進むうちに明るさが増し、より涼やかになった。きっと突き当たりの扉が開いているせいだろう。そこからストレートグレイとアッシュグレイの厳ついPower4WDが見えた。横浜ナンバー――西田の車だ。
開け放たれた扉からまっすぐ渡り廊下が伸びていて、食堂の入り口まで続いていた。その渡り廊下の入り口からむかって右側に南側階段があった。
西棟の南側には職員室や分析室、移動用の授業で使う教室があった。移動教室の生徒はいったん荷物を置きに教室へ戻るため、この階段を頻繁に使う人間は職員か実験を行っている生徒に限られている。そのせいか、人通りが少なく、つねに閑散としていて物憂げな雰囲気が漂っていた。
広理は階段を一段づつ飛ばしながら跳ねるようにして軽快に昇っていく。途中、白衣姿の生徒とすれ違い、気安く挨拶をかわした。
広理が三階に着いた頃には息が上がっていた。乱れる呼吸もそのままに、広理は職員室の扉を開ける。室内の温度と外気と温度差があるのか、生暖かい空気が広理を包んだ。
「おはようございます」
「おはよう」
室内は、薄いベージュのカーテンにタバコの脂で黄色く染まった壁、淡い萌黄色の床と暖色で統一されている。天井の蛍光灯は光度を保ったまま煌々と室内を照らして、冷ややかな印象を与える廊下とは異なり、人のぬくもりを感じさせた。
広理以外の職員はすでに全員揃っていて、口々に挨拶をかわしながら入り口に一番近い席に荷物を置いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
広理は前の席でくたびれた白衣を着込んだ木津に頭を下げて席に着く。それから、手に持っていた牛乳パックからストローを取り出し、銀色の差し込み口に突き立てた。咽の渇きを潤すように一気に臓腑へ流し込む。雑談にふけって時間が経ったせいか、少し温めの液体が咽元を通り体内へ吸収されていく、この瞬間がたまらない。そのさまを木津が上目遣いに見つめていた。
広理は視線に気づいて前方を見やる。広理と視線がぶつかり、木津は形のいい眉をぴくりと動かした。それから思い切り広理を睨み付ける。
「今日も遅い出勤とはいいご身分じゃないか、え? たまには早く来て掃除の一つくらいしたらどうなのよ」
拡声器でも通したかのような声量は、職員室の扉を通り抜け、廊下まで木津の声を伝えた。
「相変わらず厳しいなあ、木津先生は」
広理は苦笑する。
木津は学会で名の知れた著名人であり、特別講師としてこの学校に招かれていた。受け持ちは広理と同じ実験室。実験は彼女が取り仕切っている。全国的に普及している実験の教科書も彼女が手がけていて、実力では化学科の教諭が束になってかかっても木津の足元にも及ばないだろう。
性格は情に厚く、破天荒で豪胆。口は悪いがはちきれんばかりの体型とは異なり、大変細やかで生徒の一人一人をよく観察している。普段は厳しいが、どんな問題も真っ向から受け止める度量があった。
そのかわり教育に関しては容赦ない。生徒が悪いことをすれば怒鳴るし、ときには、尻バット(尻叩き専用の木の棒)を持って生徒を追い回すことだってある。実験でズルをしようものなら、その生徒を問答無用で叩き出す。出て行った生徒が使用していた薬品を残らず捨ててしまい、性根を入れかえない限り実験室に足を踏み入れることを許さなかった。
それ故、木津を鼻つまみ者のように思う保護者は少なくない。しかし、生徒からは「ビッグ・マム」と呼ばれ、大変慕われていた。
この「ビッグ・マム」という愛称は、その体格と気性から畏怖と尊敬の念を込めて、木津が初めて担当した生徒たちが命名したものだった。それが代々受け継がれている。
生徒は影で木津のことを口汚く罵っていたが、どこか甘えているふうでもあった。特に口の悪い生徒ほどわざと木津を怒らせるような悪事をしでかして追いかけっこを楽しんでいるようだった。その証拠に、朝や昼休み放課後など、木津はいつも特定の生徒に囲まれていてた。その中にしばしば卒業生の姿も見られた。彼らは卒業してから自分たちの身辺が落ち着くまでの間、木津の好物であるレーズンバターサンドを手土産に職員室に顔を出す。木津が悪態をつくのを承知で来るのだから酔狂としかいいようがない。
かくいう広理もそんな木津を尊敬していた。
「へらへら笑ってるんじゃない!」
木津は腹の底に響くような声で広理を一喝する。
「いいか、今日は大事な日なんだぞ。実習ならあたしが責任を持って面倒を見るから心配はいらないけど、他の教科はもう手を打ってあるの?」
何が、とまでは言わなかったが、広理は立川のことだと察しがついた。
「そのへんのことなら心配無用です。他の教科の先生にはお願いしに行きましたから」
広理は言いながら、書類に埋もれたラックから器用に出席簿を取り出す。木津はそうかと頷いて広理を見つめた。
「ならいいんだけどね。色々とやらなきゃならないことが山ほどあるってのに、時間ギリギリに来やがって、なにを考えてるんだお前は」
木津は睨みをきかせて言う。
「……すみません」
「で、体調のほうはどうなのよ」
木津は広理に声を潜めるふうにして訊ねた。
「すこぶるいいですよ」
「馬鹿か! 誰がお前のを聞いてるんだよ」
木津のがなり声に広理は思わず身をすくめた。手に持っていた空の牛乳パックを落としそうになる。
「――冗談ですって。……そうですね、昨日会った時は元気そうでしたよ」
言いながら、牛乳パックの耳を広げて綺麗に折りたたみ、ゴミ箱へ投げ入れた。
「もう後がないんだぞ、わかってるの?」
「もちろんわかってますって。大丈夫ですから――」
言った広理の顔を見て、木津は何かを吟味するふうに机を指で叩く。広理は正視される居心地の悪さから逃れるため、視線をそらした。
木津が真面目な面持ちで口を開く。
「から、なんだ?」
「はい?」
広理は理解しかねたふうに首を傾げた。
「なに間抜け面さらしてんだ。ただでさえ締りのない顔なのに余計に馬鹿っぽく見えるだろ」
「えっと、ごめんなさい」
「別に怒ってるわけじゃないんだから謝る必要はないだろ」
「ああ、そうですよね。勢いにおされちゃって、つい……」
「で、から、なんなんだって聞いてるんだよ。朝から辛気臭い顔しやがってまだ何かあるんだろう? 下手の考え休むに似たり。あたしにできることがあれば力になるよ」
珍しく木津が穏やかに語りかける。
「特にないですよ」
「そう? ……剣持先生が悩んでるみたいだって心配してたんだよ。いい歳してあんまり周囲に心配をかけるんじゃないよ」
言われて、広理は木津の隣に座っている剣持を見る。剣持は胸の前に右手を添え、申し訳なさそうに頭を下げる。広理の顔に苦笑が浮かんだ。
「本当に大丈夫ですって。心配をお掛けしたようですみませんでした」
「あんまり考えすぎるなよ。お前はちゃらんぽらんに見えるけど根は真面目だからね」
「わかってます」
広理が言い終えると、隣で話を聞いていた遠藤が咽を鳴らした。広理は遠藤に目を向ける。
「つまり、こういうことですか。今回のような例は初めてのケースですから、宮本先生は不安に感じておられるわけだ。不登校の生徒のサポートを十分にできる自信がないんですね。まあ、貴方が不安になるのもわかりますよ。私と違って経験がありませんからね。普通はみんなそうです。それを恥じて意地を張る必要はないんですよ。今は未熟でもこれから少しづつ成長していけば問題ないでしょう」
遠藤の言葉に広理は一瞬不快に顔を歪め、咄嗟に笑顔を取り繕う。
「的確な要約をありがとうございます。流石は遠藤先生──いや、人生の先輩に流石は失言ですね、申し訳ありません。全てお見通しとはお見逸れいたしました。けれど、立川は病欠です。確かに不登校といえば不登校なのでしょうが、一般的に使われる意味とは違います。先生はなぜそのように思われたのですか?」
広理は必死に微笑んでみせた。心の中で顔が引きつっていないことを祈る。
「話したところで理解できるとは思えませんよ」
その言葉の裏に遠藤が自分を拒絶していることが伺えた。広理は食い下がるわけでもなく、
「理解できませんか、それは残念です」
すげなく言って視線を机に戻す。苦々しいものが込み上げてくるのを感じながら、机の両脇にある今にも雪崩れそうな書類の山から実習に使う資料を引き抜く。遠藤が隣でくつりと笑うのが聞こえた。
遠藤は二年生の担任で分析を受け持っているが、広理はこの男がどうしても好きになれなかった。遠藤の態度は他人への敬意に欠けているように思えて、発言の一つ一つがいちいち癇に障り不愉快だった。
思って、広理は横目で遠藤を見る。一見すると人の良さそうな優男にしか見えなかった。どうやら外見と内実は必ずしも一致するものではないらしい。
広理は、ふと一年前の傷害事件のことを思い出す。
遠藤のクラスに前澤(まえさわ)という口数の少ない大人しい生徒がいた。前澤はもともと誰よりも真面目で成績も上位に食いこんでいる生徒だった。それがとある教科で赤点を取ってしまい、なぜか頑なに補修を拒んだ。遠藤は理由を聞き出そうと職員室へ呼び出したのだが、何も言わない前澤に痺れを切らして、自分なりに彼女の心情を分析して説得を試みた。それを聞いた前澤は怒りに我を忘れ、叫びながら足元のゴミ箱を掴んで遠藤めがけて振り下ろした。その場に居合わせた剣持は前澤を止めようと二人の間に割って入り、前澤に突き飛ばされて机で胸部を強打してしまい、肋骨を二本折ってしまった。おかげで当事者である遠藤は無傷ですんだのだった。
「おや、気に障りましたか。それは配慮が足らず申し訳ないことをしましたね。私は事実を述べただけなんですがね。まあ、貴方は不登校児の担任ですから、聞いていて面白くありませんよね」
「――決してそういうわけでは……」
広理は抑揚のない語調で返す。遠藤は身体を反転し、広理のほうを向いた。憮然とした面持ちの広理を見て薄い笑みを浮かべ、人差し指と中指の間に軽くはさんだボールペンで広理の机の角を数回叩く。広理はあえて気づかないふりをした。
「無理をしなくてもいいんですよ。つまり、貴方は私に生徒を馬鹿にされたと思ったのでしょう? だから私の言うことが気に入らないわけですね。その程度のことに私が気づかないとでも? 侮られては困りますね」
この一言で室内に重く淀んだ空気が流れた。広理がそうしているのか、はたまた遠藤がそうしたのか、ひどく居心地の悪さを感じる。張りつめた冷たい空気がぴりぴりと広理の肌を伝い、まるで刃物でなぶられているような錯覚を引き起こす。少し前まで笑っていた木津と剣持も真剣な面持ちで二人を見つめていた。
「――……本当に違うんです。ただ、純粋に遠藤先生がなぜそう思われたのか疑問に感じただけです。こちらこそ気に障ったのなら謝ります」
波風が立たないうちに場を和ませようと広理は言葉を慎重に選びながら口を開く。現に広理は生徒を問題児扱いされたことに腹を立てているのではない。
「私がそんな些細なことで怒るような人間に見えるんですか? 心外ですね。私は嫌味にとられたのでは? そう心配しただけです。自分が善人だとは言いませんが、へんに勘違いされたままでは迷惑です。察しの良い方ならともかく、そうでないのなら誤解は早めに解いておいた方がいいのでは?」
いったん言葉を切って、広理のほうを見る。広理は露骨に不快感をあらわにした。それを見て、遠藤はやれやれといったふうに溜息をついた。
「――仕方がありませんね。宮元先生でも分かるように噛み砕いて説明して差し上げましょう。まず、その不登校児、確か立川とかいいましたか? その生徒は入院していたわけでも、長期間の休学に値する証拠――この場合、診断証明書ですね。診断証明書をご存知ですか? 医師が患者を診たという証書ですよ。それを提示したわけでもない。病気だというのは本人が電話で言っていただけでしょう? 流石にそれを鵜呑みにするほど宮本先生が愚かだとは思いませんが、これはズル休みをする生徒の常套手段と言っていいでしょうね」
広理は怒りで顔が紅潮するのを感じた。確かに化学科の教諭の中では広理は若輩者だが、ここまで侮辱される謂れはない。膝の上で硬く握られたこぶしが震えているのがわかった。
「宮本先生は違うと言っているんですから、いいじゃありませんか」
見かねた剣持が口を開く。
「まるで私が絡んでるみたいにおっしゃいますね。勘違いされては困りますよ。宮本先生が誤解していらっしゃるようなので丁寧に分かりやすく説明しているだけです。でもまあ、宮本先生がそれでも構わないんでしたら理解して頂かなくとも結構ですが」
遠藤は仲裁に入った剣持の言葉を一蹴して冷笑を湛えた。広理は席を蹴りたい気持ちをぐっとこらえる。――聞かない者ほど聞こえない者はいない。ここでいくら広理が遠藤に違うと熱弁を振るったところで遠藤に広理の内実が伝わるようには到底思えなかった。
思って、広理もまた遠藤に理解されたくはないのだと気づき心の中で自嘲する。
「朝からくだらねえ御託を並べる暇があったら自分の仕事をしろ!」
それまで黙ってなりゆきを見守っていた木津がついに声を荒げて遠藤をいさめた。
生徒は厚手の紺のブレザーを脱ぎ捨て、糊のきいた肌触りのかたいおろしたてのワイシャツに袖を通していた。丈の短い袖は、じりじりと身を焦がす日脚からしなやかに伸びた若々しい肌を守るのにあまり適していなかった。スカートも厚手の生地から薄手のものにかわっていた。
その白と黒が幾重にもつらなり駅前の坂を埋めつくしている。多少の乱れこそあるものの、流れに沿って生徒がそれぞれの校舎に入っていくさまは、大量生産された商品がベルトコンベヤーにのって分別されていく場景にひどく似ていた。
流れに取り残されたように佇む人影があった。正門の前で明るい栗色の長い髪を風に揺らしながら少女が西棟を見上げている。すっと背筋を伸ばし、腕は両脇で力なくだらりと垂らして、手を軽く握り締めていた。表情こそ乏しいけれど見上げる姿がうすら寂しさをまとい、まるで泣いているようにも見えた。
――こんな生徒いたかな。
少女は一応この学校の制服を着ているが見かけない顔だった。記憶の糸を手繰るようにして榎木は首を捻った。
工業高校は女子の比率が極端に低い。女子が一番多いクラスで五人しかいなかった。しかもこれは現在一年のクラスにいる人数で、卒業するまでにはおおよそ半分くらいに減っている。女子がまったくいない科もあった。
全体の割合からみても一割にも満たない貴重な女子の顔ぶれは、だいたい榎木の頭の中に刻まれていた。
榎木はか細い光明を手繰りながら記憶の海に意識を沈めていった。さまざまな情報が頭の中をよぎっては消えていくなかで、唯一これだ、と思える情報を見つけ、不要な情報をかわしながら必死にそれを引き寄せた。引き寄せられた情報は榎木の頭の中で鮮明な映像として浮かび上がる。
昨日、帰りのホームルームのときに担任の広理が休学中の生徒について話していたことを思い出した。
――あの子が立川さん?
榎木は声をかけるべきか迷った。少女の周りだけ時間が悠々と流れているかのような、それでいてある種の独特な空気が漂っていて、榎木になんとなく近寄り難い印象を与えていた。
榎木は校門へ流れていく生徒の群れに目を向けた。まったく気に留めない者、不審者でも見るような目であからさまに訝しむ者、ひたすら視線で追う者、個々別々の反応を見せていた。
榎木が踏み切れずにいると、身長一八十センチくらいの少年が流れから外れて少女に近づいていくのが見えた。榎木は驚いて目を見開いた。少年は榎木と同じ化学科の一年でお調子者の関将(せき まさる)だった。
関は上着の裾を出し、腰穿きのだぼついたズボン姿で、スポーツバッグを肩からかけた非常にラフな格好をしていた。
その格好で立川の肩に手を置き、古くからの知人のように馴れ馴れしく接する姿は、傍から見ればただのナンパでしかない。そのうえ周囲の人間より頭一つ分高く、茶色く脱色した髪がひたすら人目を惹いた。榎木は恥ずかしさと呆れとで開いた口が塞がらなかった。立川も少し身を引いているようだった。
――あのズボンを引きずり下ろしてやりたい……。
榎木は関に限らず、ズボンを腰穿きしている男子を見るたびそういう衝動に駆られる。榎木にはこのスタイルは格好いいというよりも、むしろペンギンを彷彿とさせた。これで中身が愛くるしい動物ならまだしも、むさい男ではむさくるしいを通り越して見苦しいだけだった。特にいまは榎木をことさら実行に移したい気分にさせた。
関はちらりと榎木を見た。榎木はさりげなくこぶしを作り親指を下に向けてみせたが、関はすぐに立川に視線を戻してしまい、まったく気づいていなかった。
榎木は悔しそうに小さく舌打ちをした。
関は立川の顔の横に自分の顔を近づけて何かを囁き、榎木を指差した。指の後を追って立川が榎木を見た。
すっかり行き遅れてしまった榎木はどうしたらいいのかわからず、とりあえず微笑んで手を振ってみせた。それを見て、関は口元を手で覆い立川の耳元に近づけて密かに耳打ちをする。立川は多少眉を顰めながらも関の声に耳を傾けていた。
少し離れたところから二人を見ていた榎木は、笑顔の下で釈然としない感情を持て余した。こういう話し方をされると、自分の悪口でも言っているのかと邪推したくなる。関は陰口をたたくタイプではなかった。それがわかっていても、心の中でねとついた不快なものが渦巻いて、榎木を落ち着かない気分にさせた。
榎木がこのまま教室に行ってしまおうか、そう思ったとき、関が立川の肩を二、三回叩いて榎木には目もくれず校舎に入ってしまった。榎木は目を丸くし、気の利かないヤツと心の中で悪態をついた。
こちらを正視している立川と目が合い、いまさら声をかけるのもわざとらしい気がして、残された榎木はどうしたらいいのか戸惑った。気まずさを感じているのは榎木だけなのか、立川は乏しい表情のまま榎木に歩み寄る。榎木は心の準備も相叶わず、どう対応しようか、焦りながらも頭をふる回転させた。
「榎木さん、おはよう」
唐突に名前を呼ばれて榎木は動揺した。
「あ、おはよう……」
榎木は戸惑い気味に間の抜けた声を出す。
「榎木さんの友達に名前を聞いたの――いやだった?」
緊張しているのか、それとも感情表現が苦手なのか、顔にも声色にもあまり変化がなく淡々としていた。
「――いや、別に、いやじゃないんだけど……」
相手の感情が読めずに榎木はひどく困惑する。
立川の瞳の色は髪の明るい茶を水で薄めたふうな淡く優しい色を湛えていた。それが雪肌に映え、見る者の目を惹き付ける。目尻は少し下がり気味で相手に安堵感を抱かせる穏やかな目をしていた。顔の造形も西洋系の混血なのだろうか、生粋の日本人とは違い、彫りが深く目鼻立ちがはっきりしていて、絹糸のように柔らかそうな髪も胸の下まである。それが風に遊ばれて華奢な肩を撫でる姿は、まるでフランス人形のようだった。けれど、整然とした顔つきに乏しい表情が、榎木に冷たさととっつき難さを感じさせた。
「――心細かったら榎木さんと一緒においでって、彼がそう教えてくれたの。榎木さんは頼りになるからって……」
「そうなんだ……えっと、榎木さんじゃなくて知佳って呼んでいいよ。――立川さんのことはなんて呼べばいいかな?」
「――吉乃(よしの)。立川よりそっちのほうが呼びやすいから、みんな名前で呼んでた」
「へえ、そうなんだ。――じゃ、じゃあ、吉乃でいいよね」
立川は榎木に名前で呼ばれ、笑むというにはあまりにもぎこちない仕種で口角を持ち上げる。みずみずしい桜色の唇がすうっと横に流れるように細くなった。ただ、淡い色の目だけが嬉しそうに輝き、自然な喜びを湛えていた。
榎木は思わず失笑した。立川の機嫌を損ねないように必死に笑いをかみ殺そうと努めるが、他の事を考えようとすればするほど笑いが止まらなくなり、ついには涙に目を潤ませながら抱腹絶倒する。立川は不思議そうな面持ちで笑い転げる榎木を見つめていた。
「ご、ごめっ……いや、なんていうかさ、あんまりにもギャップが凄すぎて……」
榎木は笑いで引きつりながら、苦しそうに言葉を絞り出した。
「わかり難いかと思ったらわかりやすすぎる。すっごく伝わるわあ」
「……どういう意味?」
「いや、目は口以上に物を言ったなあ、て……」
立川は意味がわからないといったふうに眉を顰めた。さきほどよりも表情が明確にあらわれているのを見て、榎木は緊張していたのか、と内心で納得した。実際に話してみると、立川との距離がそれほど遠く感じられなかった。
「ところで吉乃さあ、なんで関のこと名前で呼ばないの?」
「どうして?」
「さっきわたしの友達って言ってたじゃん。もしかして名前聞いてなかった?」
「聞いてたけど……」
言い淀む立川に今度は榎木が眉を顰めた。
「あー、関のこと嫌いだったりする?」
榎木が単刀直入に尋ねれば、立川はそうじゃないと呟く。榎木ははっきりしない立川を少し焦れた目つきで見つめた。言いにくそうに視線をそらした立川を見て、
「まあね、あんなに馴れ馴れしくされたら仕方ないか」
榎木は笑いながら言った。
「……そうじゃなくて」
「なくて?」
言いにくそうに俯く立川を榎木が覗き込む。
「――会ったばっかりだから……」
立川は小さくぽつりとこぼした。
「そんなこと気にしてたの?」
榎木は目を瞬いてからにやっと笑い、立川のそっと手を取る。
「わたしは友達だよね」
言って、榎木は立川に微笑んだ。
立川は教室の前で身なりを正し、深呼吸を一つする。それを隣で見ていた榎木がくすりと笑った。
「吉乃」
名前を呼んで榎木がやんわり笑めば、立川は平気と小さく呟き、ぎこちない笑みを浮かべる。
しばらく登校しないうちに、立川にとって学校は敷居の高い存在にかわっていた。上手くやっていけるのだろうか、一抹の不安を抱えたまま校門まで足を運んだのはいいが、怖気づいてしまい足が前に進まなかった。榎木に手を引いてもらってようやく教室の前まで来ることができた。
榎木が立川を気遣って繋いだ手に力を込める。驚いて顔を上げた立川と視線がぶつかり、目で合図を送った。立川が柔和な笑みを浮かべたのを確認して、榎木は静かに扉を開けた。
榎木の後に続いて立川が教室に足を踏み入れると、室内のざわめきがいっそう増し、クラス中の好奇の目が二人に注がれる。榎木はさして気にした様子もなく、教壇の前を通って空いている席まで立川の手を引いて導いた。
立川の席は窓側の後ろの席で、一番日当たりのいい席だった。この時間帯は主が不在なのをいいことに、クラスの連中が席を陣取り好き勝手に使用していた。それが今日に限って人が集っていなかった。そのかわりに関が椅子を引いて待っていた。おそらく、関が先回りして立川のことをクラスの連中に教えておいたのだろう、と榎木は推測した。その証拠に机のくだらない落書きは消され、綺麗に拭いた形跡があった。
「今日はやけに気が利くじゃない」
榎木は皮肉を込めて言う。
「なに言ってんだよ。俺はいつもと変わらないだろ」
関はちらりと横目で立川を見たあと、すぐさま榎木に視線を戻す。
「吉乃にいいとこを見せようとしてるくせに」
「バーカ、そんなんじゃねえよ」
関はにやけそうになるのを我慢して平然を装う。榎木は察したふうな面持ちで立川の腕をつついた。
「こういう調子のいいのには気をつけなよ」
「なんだよ、その言いぐさは。俺はいつもと同じだって言ってるだろ。人の親切を素直に受け取れないなんてさもしい奴だな。そう思わない?」
関は立川に同意を求める目で見つめた。立川は少し困ったふうな笑みを浮かべる。
「ほらあ、吉乃が困ってるじゃん」
「ばっかだな、お前は。吉乃ちゃんはお前に気を使ってるだけだろ、どうしてそれがわかんないかなあ」
「わかるわけないじゃん。――それより、ほら、どけ。あんたが邪魔で吉乃が座れないじゃん」
「ジャンジャンジャンジャン、うるせえよ」
関は鬱陶しそうにつんけんと言い放つ。
「こちとら生粋のハマっ子なんだから仕方ないでしょ」
榎木は不快な色を含んだ甲高い声を上げて、関に噛み付いた。
「ハマっ子の友達がいるけど、そうそうじゃんじゃん言わないっつーの、じゃん」
「うわ、本当にむかつく。あっち行け、胴長短足」
榎木は腹立たしそうに吐き捨てて関を通路側に押しのけた。ポケットからタオルを取り出して、関が触っていた箇所を入念に拭く。
「さ、これで大丈夫」
榎木はこれ見よがしに立川に席をすすめた。
立川は榎木と面白くなさそうな面持ちの関を見比べてくすりと笑った。それから、関と榎木にありがとうと礼を言って腰を据える。机に手をついたときに湿った感触がして、立川は関を見上げた。
「ありがとう」
関は照れくさそうにはにかみながら鼻の頭を掻いてみせた。さりげなく立川の机に手をついて、
「ところで吉乃ちゃん体調は大丈夫なの?」
「おかげさまで大丈夫です」
「そりゃなによりだ」
言いながら、関は隣の席の椅子を引いて腰を降ろした。
「家どこだっけ?」
関は椅子にだらしなく凭れかかり脚を組む。
「鵠沼の方です」
立川は鞄の中身を取り出しながら答えた。几帳面にも教科書を時間割どおりに並びかえて机にしまっている。関は脇に除けてあるキャンパスノートを立川に手渡した。
「鵠沼かあ。結構いいところに住んでるね」
「実はそうでもないの。うちは鵠沼の外れのほうだから」
「またまた〜、外れって言っても結構でかい家がどーんと建ってるじゃない。閑静でいいとこだよね」
「本当に普通の一軒屋だから。空き巣騒動とかあって以外に治安も悪いし……」
「へえ、そうなんだ」
立川は困ったふうに笑い、関が意外そうに相槌を打つ。
関はかったるそうに上体を起こし机を引き寄せて頬杖をついた。
「鵠沼なら女子高のほうが近かったんじゃないの?」
「近いんだけど私立でお金がかかるから……」
「そうだよなあ、やっぱ先立つ物がないと私立はきついわな。俺もさ、本当は近くの高校に行きたかったんだけど、金がかかるからって親に却下されたよ」
言って、関は机にあごを乗せて溜息をつく。そのまま顔だけを立川のほうへ向けて、袖の裾を小刻みに引っ張った。その仕種が母親に甘える子供のようで立川の顔が自然と綻ぶ。
「なんで化学科にしたの? 機械や電子の方が断然女子率が高いのに」
「――白衣が着たかったから、では駄目かな」
立川が関に視線を合わせようと伏せ眼がちにして小首を傾げてみせた。立川の動きに合わせて髪が僅かに擦れ、関の鼻腔を甘い匂いが掠めた。関は心の底からじんわりと暖かいものがこみ上げてきて熱を全身に伝えるのを感じた。顔が火照り、口の中がからからに渇いて、たまらず唾を飲み込んだ。
「……そんなことないって。意外とそういう安直な理由で選んだやつ多いよ。俺だってそうだし――」
関はかき乱された平常心を取り戻そうと、深く息をついた。
「吉乃ちゃんなら色白だから似合いそうだよね」
「ありがとう。関くんもそうだけど、知佳さんも似合うと思うな」
意外な名前が出てきて、関はきょとんとする。
「知佳? そんなやついた?」
「さっきからここにいるよ!」
榎木が関の頭を思い切り叩いた。関はぎょっとして勢いよく頭を持ち上げる。榎木の存在を忘れていたのだろう、心底驚いた表情のまま硬直していた。
「なあにふたりの世界を築こうとしてるかなあ。関さん、あなたちょっと露骨すぎやしませんか?」
榎木はいやらしい顔で笑う。それから立川へ視線を移す。
「吉乃、それ以上こいつに近寄っちゃだめだからね」
榎木はじっとりとした視線を関に向けた。関が反論しようと言葉を紡ごうとするのを前方から飛んできた声が遮る。
「姉さんの言うとおり、半径一メートル以内に近づかないほうがいいよ。妊むから」
立川は声のしたほうを見やる。通路をはさんで隣の席に座っている吉田と目が合った。
関は振り返って吉田の椅子の脚を思い切り蹴飛ばした。椅子が床と擦れ不快な音を立てながら僅かにずれた。
「うるせえんだよ、ヨッシー! お前だって人のことを言えた口かよ。つか、致さないで妊娠させるほど器用じゃないっつーの」
「そんな謙遜するなよ。大丈夫、将(しょう)ちゃんならできるって。もっと自分に自信をもて!」
横から茶々を入れたのは金子だった。金子は吉田の机に浅く腰をかけて誇らしげに親指を立ててみせた。金子も吉田も関と仲のいいクラスメートだった。
「おまっ、ちょっと待て。聞き捨てならねえぞ。第一、そんな自信いらないから」
関は面白くなさそうに顔をしかめて強めの口調で金子に食ってかかる。すかさず、関の前にいた木村が振り向いて、
「ところで致さないってナニをしないの?」
わざと答え難い質問を投げかけて、したり顔で笑う。関は一瞬言葉に詰まりながらも、
「ほら、それは、あれだ……な、なあ?」
困窮して榎木に視線で助けを求める。榎木はわざと「なあ、じゃわかりませ〜ん」とそ知らぬ振りをしてそっぽを向いた。関は薄情者と小さくごちた。
気がつけば、関は数人のクラスメートに囲まれていた。立川は誰が誰なのかさっぱりわからず、関の傍らで微かな笑みを浮かべながら視線を泳がせることしかできなかった。それに気づいた関が、
「俺の隣にいるのが吉田、あっちの偉そうなのが金子で、前のがらの悪い女が木村。んで、そっちのおっかねえおばさんは……言うまでもないか」
「誰がおばさんだ!」
榎木は声を荒げて力任せに腕を振り下ろす。関は飛んできた榎木の平手を身を屈めてやりすごした。追い討ちをかけるように振り下ろされた木村の肘までは避けきれず、容赦なく関の後頭部をとらえた。鈍い音を立てて関の頭が机に沈む。見事な連携プレイだった。
「あの、大丈夫?」
額を押さえたままいっこうに顔を上げない関を案じて、心配そうに立川が覗き込む。関は苦痛に顔を歪めながら大丈夫と力なく答えた。
「馬鹿じゃねえの……」
痺れるような鈍痛に悶える関の耳に、この場の誰のものでもない嘲笑が聞こえた。関は赤く変色した患部をさすりながら声のしたほうを睨み付けた。
教室の中央で佐藤のグループが関たちに侮蔑の眼差しを向けている。廊下側の一番後ろの席では槌谷たちがくすくすと嘲りを含んだ笑い声をあげていた。
「相手にしないほうがいいよ」
木村が小さな声で関に囁く。
「人のことを悪く言いたくないけどさ、立川さんも関わらないほうが懸命だよ」
木村は声を低めて立川に忠告し、槌谷たちを一瞥した。
その横で、なんか性格悪そうだよね、と槌谷たちが立川を見て話しているのが耳に届いた。全員の視線が槌谷たちに向けられ、立川の顔から笑みが消えた。
「ひがんでるんだよ。気にすることないって」
吉田は槌谷たちに背を向けて立川に微笑んだ。
「そうそう、ああいうヤツってどこにでもいるだろ? 相手にするだけ時間の無駄」
冷え冷えとした声色で金子が吐き捨てる。榎木も嫌悪感をあらわにしていた。立川は居心地の悪さを覚えて複雑な笑みを浮かべる。
「それよりさ、立川さんって見れば見るほど関ごのみだよねえ」
突然の木村の冷やかしに張り詰めた空気が明るい居心地のいいものにかわり、立川はほっと胸を撫で下ろした。
「残念なことに関には決まった人がいるんだわ。おれなんかどう?」
吉田が自分を指差して軽い調子で立川を口説く。
「相手がいるのは榎木だろ。いい加減なこと言うなよ」
関が慌てた素振りで言い放つ。立川はちらっと榎木を見た。榎木は少し照れたように、
「建築科の先輩にね……」
と笑って答える。
「優しいし、建築科では格好いいほうだよね」
「建築科ではね」
「優しいかあ? おれ、睨まれたんですけど」
吉田が露骨に怪訝そうな含みをもたせて榎木と木村の話に割って入った。
「そりゃおまえ、たまたま虫の居所が悪かっただけだろ」
さらりと言って、金子は腕を組んだ。
「それって八つ当たりって言わねえ? 性格いいやつのすることかよ」
「お前だって機嫌がわるきゃ八つ当たりくらいするだろ」
金子が呆れたふうに言う。
「たんにコンタクト入れ忘れただけじゃねえの?」
「コンタクト?」
同時に言って、金子と吉田が揃って関のほうを見た。関は伸びをするように大きく背筋を反らしてから首を回した。
「そ、あの先輩目が悪いから」
二人は何も言わずに榎木に視線を投げかけた。
「悪いってものじゃないよ。0.3だもん」
「マジ……でもさ、そのくらいわるきゃ、かかさずにコンタクト入れるでしょ」
吉田はどうだ、と言わんばかりに勝ち誇った顔で関を見つめる。関は軽く肩をすくめ少し面倒くさそうな口調で、
「そうとは限らんよ。長時間コンタクトをつけっぱなしにしてると目が痛くなるんだとさ。そうすると外すみたいよ?」
「――なんでおまえがそんなこと知ってるんだよ」
吉田は面白くなさそうに憮然と言い放った。
「そりゃ、うちの兄貴がそうだからね」
「お兄さんがいるの?」
誰から話を振られたわけでもないのに初めて立川が口を開いた。関は嬉しそうに目を細め、だらしなく座っていたのを姿勢を正して立川に微笑む。
「上に一人いるんだ。隣の教室にいるよ」
「いっこ違いなんだ」
「そう。あとで教室の前を通ることもあるだろうから、そのときに見かけたら教えてあげるよ」
「あらやだ、関さんってばずいぶんとお優しいこと」
上から声が降ってきて、立川は声の主を仰ぎ見る。その視線の先で、加藤がスクールバッグを肩にかけて高笑いの真似をしていた。
「由加、遅かったじゃない」
「ババアが起こしてくれないから寝坊しちゃってさあ」
加藤は関に負けていないくらいの長身で脱色をしたショートヘアが印象的な生徒だった。加藤は目尻の上がったきつい眼で立川を見下ろした。
「立川吉乃ちゃんっていうの、ほら、昨日宮元が言ってた……」
「ああ、あれね。加藤由加。なんて呼ばれてるの?」
突き放すような冷たい物言いに立川は僅かに眉を顰めた。不快というよりも、相手への戸惑いが眉間に刻まれていた。
「由加、そういう言いかたするから吉乃が怖がってるじゃん」
「余計なお世話。これが私なの」
加藤は折ってたたむような物言いでさらりと受け流す。
「呼び捨てでいいよ。吉乃でいいでしょ?」
「あ、はい」
「かしこまらないでよ。まるで私がいじめてるみたいじゃない」
「いじめちゃいないけど威嚇してるんだよ」
「よっ、さすがはボス」
関の言葉に吉田が調子のいい合いの手を入れた。
加藤は無表情で自分の席に着き、指を鳴らして指輪をはめたほうの手を握り締めると、関の背中をえぐるようにしてこぶしを叩き込んだ。関は弓なりにのけぞって呻きながら、
「最後のは俺じゃないだろ」
涙目で恨めしそうに加藤に抗議をする。加藤はそれを余所に見て、目の前にある立川の髪を軽く引っ張った。
「こいつになにかされたら私に言ってね。ぶっとばしてあげるから」
振り向いた立川に関を指しながらにっこり笑った。
教室の扉が開いたのを合図に生徒たちは急いで各々の席に戻っていく。広理は忙しなく席に着く生徒たちを一望した。
流行りを取り入れた制服の着こなしに多少の個人差は感じられても、髪の色にも服装にもたいした違いはなかった。こぞって同じ流行を追っているのだから仕方がないのかもしれないが、これを個性と呼ぶには少々滑稽な気がした。しかし、その滑稽が疎外感を拭うのだろう、そんなとりとめのないことを広理は思った。
「ホームルームを始めるぞ」
広理は言いながら教壇に立つ。いっこうに静まる気配のない浮かれた喧騒に包まれて、ひとまず出席簿を広げ室内を見渡した。
左右に視線を動かして窓側の後ろの席で目を止めた。いつもは誰もいない席に今日は立川が座っていた。
病み上がりのせいか線の細さが頼りなく、しかし、背筋を凛と伸ばしている姿は人目を引いた。落ち着いた雰囲気は大人びた印象を与えているのに対し顔立ちはとても幼かった。全体的にどこかアンバランスな感じの生徒だった。同時に、すでにどこかで会っているかのような懐かしさにとらわれて、広理は立川に目を留めた。
一瞬と呼べるほど短くもないが、見入るというほど長くもない。その微妙な時間は生徒の野次によって断ち切られた。
「先生、凝視してるとセクハラになりますよ」
広理ははっとして咳払いをする。
「別に見入ってたわけじゃない。何を話そうか忘れたから思い出してただけだ」
我ながらうそくさい言い訳だ、と広理は思った。生徒も疑うふうな目つきで広理を見ていた。
教室内が生徒たちのさざめきに溢れた。広理は教壇の前で声を張り上げた。隅々まで響きわたった声に教室は水を打ったように静まり返った。
「昨日話したと思うが、今日から授業に参加することになった立川吉乃さんだ」
広理は立川をちらりと見た。その視線を追って生徒が一斉に後ろに振り返る。
「これから出席を取るが、早く顔を覚えてもらうために名前を呼ばれたら手を挙げてくれ」
いったん言葉を切って、広理は教室を見渡した。
「それじゃあ、出席を取るぞ。安斎、安藤……榎木……」
呼ばれた生徒は次々に手を挙げていく。榎木も呼ばれて手を挙げた。榎木は廊下側の最前列に座っていた。隣に座っていた関もいまは教室の真ん中らへんに座っている。
次々に名前が読み上げられ、ついに立川が呼ばれた。クラス中の視線が立川に集中し、教室がつかの間の静寂に包まれる。立川は恥ずかしそうに俯き加減で返事をした。それほど大きくはない澄んだ声は、静かな教室に思ったよりもよく通った。
堀田、堀、宮本、広理は名前順に次々と出席を取っていく。生徒の声と広理の声とが一定のテンポで乱れることのない掛け合いを繰り返した。
広理がすべて読み上げると、昨日のテレビ番組やタレントの話など、生徒たちの他愛ない雑談で室内が満たされた。広理は生徒に静まるよう促す。ざわめきが僅かに小さくなった。その喧騒を割くようにして広理が口を開いた。
「時間が余ったことだし、立川に自己紹介でもしてもらおうかな」
広理が言い終えると生徒は各々に話し出してどよめき始める。立川は完全に俯いてしまっていた。
「趣味とか男性のタイプとか、何でもいいから自分の良いようにやってくれ」
広理は教壇の中央まで立川を手招きして自分は窓側へ移動した。立川は静かに席を立って教壇の前まで足を運ぶ。広理はそれを見届けて窓枠に腰をかけ、壁にゆったりと凭れかかり、立川に手で先を促す。立川は床に視線を落として深呼吸をした。
「――立川吉乃といいます。趣味は読書と映画鑑賞、男性のタイプは……とくに考えたことがありません」
立川は指を組んだり、さすったりしながら先を続けた。
「しばらく休んでいたのでわからないこともあると思います。いろいろと教えてください」
言い終えて、立川は深々と一礼する。それから広理へ視線を投げかけた。立川の視線を受けて広理が頷く。
「挨拶が済んだところでここからは定番の質問コーナーにでもしようか」
広理が言ったところで予鈴が鳴り、一時間目の開始を知らせた。
広理は扉の硝子に人影を認めて、窓枠から重い腰を持ち上げ、さんざめく生徒たちを静めるために数回手を打ち鳴らした。
「ホームルームはここまで。廊下に石黒先生を待たせてるんだから静かにしろ。続きは各自休み時間にやってくれ」
広理は生徒の喧騒に負けないよう大声を出し、機敏な動きで立川に歩み寄った。
「立川の席は窓側の後ろだったな」
言って、立川を見やる。立川はゆっくりと頷いた。
「一時間目は石黒先生だから国語か。教科書はあるか?」
広理は立川に優しく尋ねた。これにも立川は黙って頷いた。
「それならいいんだ。もし他の授業で教科書がないようなら隣に見せてもらってくれ。渡部、頼んだぞ」
広理は立川の隣の席に視線を移す。
「おれなんかに頼んじゃってもいいの?」
広理は片眉を気持ち持ち上げて、
「何だ、嫌なのか?」
「そうじゃなくて、手取り足取り教えちゃうよ?」
「……そうか」
「ホントにいいの? 身体のすみからすみまで使って……」
「お前の言いたいことは大体わかった」
渡部の言葉を遮るふうにして広理が言葉を差しはさんだ。
「馬鹿を言ってないで本当に頼んだぞ。それと余計なことは教えるなよ」
広理は渡部に釘を刺して教室の扉を開ける。廊下で待っている石黒を招き入れると会釈をして教室を後にした。
-
2007/10/10(Wed)15:13:51 公開 / 奏瓏瑛
■この作品の著作権は奏瓏瑛さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
幽明奇譚というシリーズの蟲という話です。
中学時代の作品なので、文章を電撃文庫の語調から一般向けのものに加筆修正いたしました。
小説を書く上で欠かせない地の文の描写が苦手です。どうしても説明になってしまい、キャラが立っていなかったり、主人公と接していないとキャラクターが動いていないRPGのような箇所もあると思います。気づいたところは全て描写に直しましたが、まだ直っていないところがありましたら、容赦なくご指摘くださいませ。
また、前半は説明や建物構造などの描写が多いので、漢字が多く文章がかなり硬くなってしまっているかもしれません。ただ、ここである程度、漢字を使用しておかないと地の文を統一したときに後半のでひらがなばかりの章になりそうな予感があるので、ある程度はご容赦いただけたらな、と思ってます。花の名前はどうしても漢字で書きたかったので、そこらへんも多めに見てもらえたら嬉しいです。
2007/10/06修正。漢字が多すぎて読みにくいとの指摘があり修正しました。
2007/10/10加筆。後半の生徒の会話文に描写を加筆しました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。