『無音』 ... ジャンル:リアル・現代 ホラー
作者:瀧河 愁
あらすじ・作品紹介
コンビニという日常から脱出しようと、狂気に飲まれる男の姿
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『無音』
微かに鈴虫の鳴声が漂う、人気のない路地裏を歩く菊田元は、口元にぼんやりと煙草の明かりを灯らせながら、仕事帰りの重い体を引きずっていた。
24時間営業のスーパーでアルバイトをしている菊田にとって、帰宅時間が深夜になるのは何時もの事だったが、今日は特売日の為、忙しく何時もより少し遅く店を出た。店といえば、朝から特売品目当ての、殺気と狂気で体の大半を構成された勇ましい主婦達で溢れ返っており、店内はまさに戦場。おかげで引きずるように歩く菊田の足は今や感覚も無く、太ももから下にはまるで水銀でも詰まっている様だった。
道を歩き続ける菊田の肌に、薄らと汗が浮かぶ。初夏をとっくに過ぎた蒸し暑い夜道の向こうからは、まるで、アマゾンの熱帯雨林から吹き抜けてきたような風が、容赦なく菊田の頬を撫でていった。
「嫌な風だ」と、菊田は思わず嘯き、眉間に皺を寄せる。その拍子に、咥えていた煙草の伸びきっていた灰が小さな火の粉と共に、疲れ切った菊田の背中へと流れていった。その様子を横目で追っていると、ふと菊田は、店を出る直前に聞いた、同僚との会話が思い浮かんできた。
菊田と同い年のその同僚は、普段からよく話す仲と言う訳では無く、どちらかといえばあまり仲の良くない仕事仲間の一人だった。しかし、今日の仕事終わりに偶然ロッカールームでその男と鉢合わせ、挨拶だけでは何だと思い、今日の店の込み具合だとか、最近の夜の蒸し暑さは異常だとかいった、当たり障りの無い会話を投げかけたのだった。すると、同僚も自分と同じことを考えていたのか、笑顔でそれらに受け答えすると、汗ばんだワイシャツのボタンを外しながら、何気なく菊田の顔を見て「ところで、何か面白い事あった?」と聞いてきた。
たったの一言だったが、その他愛もない問いかけに、何故か菊田は無理やり作った愛想笑いでお茶を濁すしかなかった。
どうしてあの時自分は、何も言う事ができなかったのだろうか──自問自答をくりかえす菊田の口元が、それに釣られて微かに震え、咥えた煙草が頼りなく上下に揺れた。
その事が頭から離れないまま、菊田はビールでも買ってから帰ろうと、バイト帰りに良く利用するコンビニの方向へと足を向ける。しばらく道を進むと、暗闇の向こうに、やけに白い店の明かりが見えてくる。菊田はその明かりを見つけるや否や、疲れているはずの足が自然と駆け足に近いほどのスピードにまでなりはじめた。
そこは、アパートの一階を利用して作られた、よくあるタイプのコンビニエンスストアだった。菊田は店の前までやってくると、額に浮かんだ汗をぬぐう。そして、ほとんどフィルターまで焼き付いていた煙草を自動ドアの隣の灰皿に押し付け、店内に足を踏み入れた。
店の中は、今日は嫌に静かだった。いつもなら、菊田が入った自動ドアのすぐ右手から広がる雑誌棚に居るはずの、暇そうな立ち読みの常連客も居なければ、店の奥のアルコール類の棚の前で何事かを言い争うカップルも居ない。それどころか、必ず流れているはずの有線放送の店内BGMすら流れていなかった。効き過ぎた冷房に爽快感を覚えていた菊田は、もうすぐ閉店の時間何かだろうと一瞬考えたが、ここがコンビニである事を思い出し、すぐに考えを改め、入口の左手にあるカウンターに顔を向ける。店の奥に伸びた白いカウンターの向こう側には店員が一人、奥のほうに座って、下をうつむきながら新聞か何かを読んでいる。近づいてみると、どうやら何時も見る店員のようだった。態度が悪く、愛想も無い男で、菊田はその男を日ごろから毛嫌いしていた。だが残念な事、今日はその男のシフト時間の様だった。 そっと近付いてみると、店員は顔を完全に下に向けこちらに気がついた様子も無い。先ほど新聞紙だと思ったのは、どうやら週刊誌だった様だ。男はページをめくると、何事かつぶやきながら、頭を縦にゆすっている。
見れば、男の両耳からは白いコードが垂れ、カウンターの下に消えている。あまりに暇だった為に音楽でも聞きだした所なのだろうか。それよりも、店に客が入ってきたのに挨拶の一つもしないとは、一体どういうつもりなのだろう。菊田はいっその事、コンビニが閉店していた方が良かったかもしれないと、怒りを込めて男のつむじを一瞥し、さっさと用事を済ませようと店の奥のビールの棚へ向かった。
不安になるほど静まり返った店内に、菊田の靴音だけが嫌に響く。アルコール類の並んだ、ガラス張りの冷蔵棚の前につくと、菊田はその扉を開け、迷わずその下の段にあるお気に入りの銘柄を手にとり、カゴに放り込んだ。このビールは、菊田がもっとも良く飲む銘柄の一つで、値段も手ごろ、辛すぎず、まろやかな喉越しが気にいって、最近では仕事終わりになると、必ずこの銘柄のビールを飲んで夕食にありつく習慣が付いてしまっていた。そんなビールを、今日も菊田はオレンジ色のカゴに3つ程入れ、この場でそれを飲み干してしまいたい衝動に駆られた。
次に、そのまま背中に並んだ乾物コーナーの方に向き直り、さまざまな茶褐色のツマミの中から、慣れた手つきで右下の隅に隠れていた鮭の燻製を探し当て、それもカゴの中に放り込む。そしてそのまま踵を返し、レジへ向かおうとした時、ふとある事に気がついて、菊田の足が、ネジの切れた人形のように止まった。
「たしか…」
そう呟いて、菊田は後ろを振り返り、今商品を手に取った乾物の棚に視線が釘付けになる。そう、たしか昨日もそうだった。ビールを手にとり、つまみの乾物を探すと、いつも商品の影に隠れている鮭の燻製を買い、レジに向かう。そんな、何時はじめたのかわからない自分の生活パターンに気がついた時、菊田は先ほどの思い出した同僚の言葉を、もう一度頭の中で反芻する。
──何か面白い事あった?
その言葉を、もう一度、もう一度と何度とも繰り返すうちに、菊田の目はいつのまにか、左腕の下にぶら下がったカゴの中をじっと見下ろしていた。
使い古された蛍光色のカゴの底では、先ほどかったビール缶と、色褪せた乾物の真空パックの表面が、頭の上から降り注ぐ蛍光灯の光に照らされ、安っぽい輝きを放っていた。その光に吸い込まれる様に、菊田は何度も同じ言葉を頭の中で繰り返す、そして、籠を握る菊田の手にうっすらと汗が浮かびだした頃、ついには、その言葉は喉を突き、唇を動かして空気を震わせた。
「…何か、面白い事あった?…何か、面白い事…何か…」
菊田は、その疑問を今度はカゴの中のビールと乾物に聞いてみた。当然、何の答えも返って来ないのはわかっていた。だが、吐き出す様にしゃべる度に、菊田の腕には力が篭り、その先にぶら下がったカゴの底では、まるで菊田の問いに答えるように、ビールと乾物は左右に揺さぶられる。菊田が言葉をなげかければ、ビールは黙ったまま、無様にカゴの端に転がり。もう一度聞けば、今度は違うビールが転がる。
そんな事を繰り返す内に、きっと、このビールは答えたくても答えられないのだろうと菊田は思った。それは、口が無いからではなく、ただの酒だからでもなく、きっと別の理由で──
菊田はしゃべるのを止めると、同時にカゴを震わす腕もピタリと止まる。そして、菊は、充血した目が飛び出さんばかりに、もう一度籠の中を凝視する。
カゴの底では、さっきまで揺れていたビールが一方に塊っている。顔を上げた菊田は、店の中を見回すと、さっきまで病的なまでにまぶしかった蛍光灯の明かりが、嫌に暗くなったように感じた。
そのとたん、急に菊田の背筋に冷たい物が駆け上った。その後を追うように心臓の鼓動がはやまり、それがまるで胸の肋骨をへし折って飛び出してきそうな感覚に襲われる。
──なんなんだ?いったいどうしたと言うんだ!──、菊田は誰に見られている訳でも無いのに、何故か冷静さを取り繕おうとして、状況を把握しようとしてみたが、しだいに苦しくなる呼吸に遮られ、より一層菊田をパニックに引きずり込むそして、膝がしだいに振るえだし、立っているのさえ辛くなった菊田は、ねじまがった視界に誘われ、もつれる様に冷蔵棚のガラスに肩をあずけた。
もう、何もかもが嫌だと、菊田は手から滑り落ちそうになる籠を両手で掴みながら、心の中で叫んだ。いったい、自分が何をしたと言うのだ。誰も傷つけていない、誰にも傷つけられていない、ごく平凡なこの自分が、いったい何をしたと言うのだ…
誰に言うでもなく、菊田は自分の中の神様にあらかたの疑問と不満の混ぜ物をぶつける。すると、白濁する意識の中で、やけにはっきりと、それにたいする答えだけが頭に浮かんできた。
それは、きっと平凡だからこそなのだ。似通った日々を送り、その平穏に溺れる自分の人生。何時もと同じビール、何時もと同じつまみ…毎朝同じ時間に起き、同じ道を通り、ありきたりの仕事をし、そして同じ道を通って、同じコンビニで同じ物を買う。そんな、ありきたりな人生を送る自分だから、あの同僚の言葉にも自分は答えられなかったのも、何の面白みもない自分の姿を知られたくなかっただけなのだ。
そして、自分は気がついてしまった。静寂にも似た、波風の立たない人生がこの先も永遠に続く事…それはまるで狂気の沙汰であり、死ぬまで自分は、その地獄に飲み込まれて生きねばならないのだ。
咄嗟に、菊田はここら逃げ出さねばならないと直感した。ここから逃げなければ、この地獄から逃げなければと、必死に足を前に出そうとする。しかし、まるで力がはいらない。見下ろすと、ただ、相変わらず壊れた機械の様に震える膝が、その揺れを大きくしただけで、自分の足は一ミリもそこから前に出ようとはしていなかった。
それを見た菊田は、手にもっていたカゴの存在すら気にせず、狂ったように両手を振り上げ、うめき声を上げながら自分の顔を覆った。菊田の手を離れたかごは力なく宙を舞うと、派手な音をたてて床に転がり、中身が散乱する。
もう、どうして良いのか、菊田自身にも解らなかった。嗚咽をもらしながら、その場に崩れ落ちると、ビールの缶やツマミのパックが転がった床の上に顔を埋め、体の内がわから、とめどなく湧きだす恐怖を必至に押さえつける。しかしその衝動は次から次へと湧き出し続け、胸のを突き破りそうな動悸と、震える体はより一層菊田の体を狂わせ続ける。嗚咽と唾液をもらしながら、床の上で苦しみ悶える菊田は、もう、自分一人ではどうにもなりそうに無い気がして、顔を上げ、それを覆っていた掌を開くと、唇からたれる涎も気にせず、懇願するようにレジの方向を見つめた。不気味な程真白なレジカウンターの向こうでは、相変わらず下を俯いたままの店員が、自分にしか聞こえない音楽に合わせて旋毛を上下させている。まるで自分に気がついていないその様子を見て、菊田は反射的に近くにあったビールの缶に手を伸ばした。なぜそんな行動を取ったのか、菊田自身にもわからない。それが自分を無視した店員に対する怒りなのか、それと違う感情なのか──まるで、誰かに操られているように、菊田は激しい胸の動機も恐怖も忘れて、手にした缶を強く握り締めると、そのまま頭の後ろまで手を引き、レジ目掛けてがけて腕を振りぬいた。
最初は勢い良く飛んだように見えたが、やはり腕に力がはいらなかったのか、缶はゆるい孤を描き、レジの手前で床に落ちると、耳障りな鈍い音を立てながら床を跳ね、カウンターにぶつかった。しかし、その向こう側に座る店員は、耳に付けたイヤホンのせいか、まるでその事に気が付かず、相変わらず俯いたままだ。
歪んだ視界の中でそれを見ていた菊田は、不思議と胸の動機が収まるのを感じていた。少し力がはいるようになった右手で胸を押さえながら、一方の手を伸ばし、残ったビールを手にする。
そのまま、菊田はゆっくりと膝をつき、体を起こそうとする。壁に手を付き、今にもその場で喚き散らして崩れ落ちそうになる自分を押さえ、菊田は必死に立ち上がろうとした。しかし、中腰になったあたりで、体重を支えきれない膝が暴れるように痙攣する。菊田は残った手にもったビールの缶をその膝に押し付け、心の中で「震えるな、震えるな」と呪文のように繰り返しながら、壊れそうになる体を慎重に起こしていった。そして、なんとか立ち上がった菊田は壁にもたれかかり、肩で息をしながら、カウンターに座る店員に刺すような視線を向ける。もう、正気に戻ろうなどと言う気は、菊田の中には欠片も残っては居なかった。
菊田は、もっていたビールの蓋に指を掛ける。そして、もう一度カウンターの方に目をやり、店員が自分に気が付いていない事を確認すると、蓋にかけた指を一気に引き抜いた。
開かれた穴からは、まるで今まで溜め込んできた物を吐き出すかのような、膨大な量の泡が吹き出し、それを持った菊田の手を容赦なく濡らしていく。それを、菊田は気に留める様子も無く、口元に運ぶと、一気にのどに流し込んだ。
冷たく、それでいて熱い液体が菊田の食道になだれ込み、喉を鳴らす湿った音があたりに響く。勢いあまって、口の横から流れ出した黄金色の液体は、蛍光灯の光に照らされ、艶やかな輝きを湛えながら、菊田の喉を滴って行った。
そんな買っても居ない商品を勝手に口にするという、常識はずれの行動をしていながら、菊田は不思議と気持ちが安らいでいくのを感じ、気がつけば、ひざの震えは次第に収まりはじめていた。
恐菊田は残り少なくなったビールを、顎を突き出すようにして飲み干すと、手にした空き缶が空なのを確認してから、今度はそれをカウンター目掛けて全力で投げつける。
今度は力が入っていたのか、菊田の投げた空き缶は大勢い良く飛び、今度はカウンターを大きく飛び越え、店員の背中側の壁に当たった。だが、店員はやはり気がつかずに、雑誌を読みふけっている。それを見て、菊田は満足そうに笑みを漏らした。
これだ、これが俺の求めていた物だと、菊田は心の底から実感していた。平凡な日常から逃げ出すなんて、こんなにも簡単にできてしまうのだ。そう考えると、菊田はさっきまでの自分がまるで可笑しくて、どうせ店員には聞こえないのだと、つい声に出して笑ってしまう。
しかし、もしこれがばれたら、あいつはどんな顔をするのだろうと、菊田は笑いを引きずりながら、カウンターから飛び出た黒い頭に目をやった。きっと、あの店員も自分と同じで、今日も退屈で、何もない夜なのだと信じきっているに違いない、きっと今の自分の姿を見たら、大慌てに違いないと、菊田はその姿を想像して、再び声を出して笑った。そして、やるならとことんやってやると、まだ少し力の入らない足を前に出し、床の上に散らばった残りのビールとつまみを手に取ると、その場で全て封を空け始めていった。
まずは乾き物が欲しかった。スモークサーモンの袋を手にとり、それを力任せに引きちぎると、香ばしい燻製の匂いが鼻を衝く。それに耐えられなくなった菊田は、空いた袋の入り口に思い切り手を突っ込み、そのまま勢いよくかじり付く。菊田の奥歯が、固いサーモンをかみ砕く度に、鏡のように張りつめた店の静寂をやぶって、肉をすり潰す卑猥な音が響く。一心不乱にかじり付きながら、棚の影でうごめく菊田の背中は、まるで獣の様に、不気味な力強さで丸まっていった。
続いて、ビールの缶を空け、一気に飲み込むと、なんともいえない幸福感が菊田の体を満たしていく。
もう自分に何もできない事は無いと、菊田は思った。ビールのビンを片手に、あたりを見回すと、めぼしいつまみを手にとり、次々とその封を勝手に開け始める。好物のポテトチップスの袋を開け、両手ですくい上げるように手にそれを掴むと、そこに顔をうずめるようにして菊田はむさぼる。それが終わると、今度はビールを開け、また勢いよく飲み干すと、今度はまた違う菓子の封を切った。
次第に、店の中は菊田の開けた袋と、ちらばったその中身で溢れ、色とりどりの菓子の中に座り込む菊田の、夢中でそれらをむさぼり続ける怪しげな音だけが、店の空気を静かに震わせ続けた。
そんな事を続けるうちに、菊田はふと、まだあの店員は自分の事に気が付いていないのかと気になり、帆立の貝柱の封が開けられず、その辺りから持ってきた売り物の鋏で袋を切りながら、物音ひとつしないカウンターの方へ首を曲げた。
どれほど鈍感なのか、店員は、まだ店の中でおきている異常事態に気が付いていないらしく、先ほどと同じ姿勢のままだ。その姿を見た菊田は、酔いが回って赤らんだ顔を歪めると、小さな舌打ちをもらし、両手に帆立の袋と鋏をぶら下げたまま、その場で立ち上がった。
「なぁ、おい」
普段上げた事など殆ど無い大声を張り上げながら、菊田はゆっくりとカウンターへと歩み寄る。何故こいつはここまで俺に気が付かないんだろうと、菊田は腹の底から湧き上がる怒りに身を任せ、そのままカウンターの前に立ち、さらに大きな声で、店員を頭の上から怒鳴りつけた。
「おい!こら!?聞こえてんのか?お前の店がえらい事になってるぞ!」
しかし、それでも店員にはなんの反応もみられない。菊田は苛立ち、手に持っていた帆立の袋をカウンターの上に投げつける。
「見ろ!勝手に食ったんだぞ!?金もはらわず、店のなかで、俺が買ってに食ったんだ!見ろよ…ほら、見ろよ!」
菊田は、精一杯の大声で叫んだつもりだったが、それでも店員は微動だにしない。それを見て湧き上がった、殺意に近い衝動に突き動かされ、ついに菊田は目の前の男の量耳についたイヤホンのコードを耳からひったくった。
「…え?」
その瞬間、自分でも予想外の声が菊田の口を付いて出た。さっきまで火照っていたはずの体が、急に冷たくなった気がする。
まさか、この店員は…嫌、ありえない、そんな訳が無い。菊田は必至に自分に言い聞かせながら、再び手に握ったコードを見つめる。白く、か細いその白い線を、充血した目で辿って行くと、やがて、その端までやってきた所で、菊田の額から妙に冷たい汗が滴る。
青ざめた顔で菊田が見つめるそのコードの先には、菊田が予想していた音楽プレイヤーも、競馬中継を聞くための小型のラジオも携帯も、何も付いていなかったのだ。茫然とする菊田の手から垂れ下ったその先で、ただ、むき出しになった銀色のジャックが、まるで菊田を嘲笑うかのように左右に揺れる。
つまり、この店員は最初から音楽も何も聞いてなかったのである。それは、菊田が投げたあのビールの音も、叫び声も聞いていた事になる。
まさかと思い、菊田は、再びはじまった膝の震えにも気がつかず、カウンターに身を乗り出し、その裏側を見る。すると、そこには小型の液晶テレビが一台置いてあり、数秒ごとに変わるカメラの映像が、店の中をくっきりと画面に映し出していた。
そこで、ようやく菊田はすべてを理解した。恐怖に体を奪われながら、強張りはじめた体をゆっくりとおこし、店員の顔を見る。
菊田の前に座る店員は、何の感情も抱いていない暗い目で、じっと菊田の事を見つめていた。その目はまっすぐに菊田を捉え、まるで金縛りのように菊田を締め付ける。
やがて、店員は、口元に不気味な笑みを浮かべると、静かな口調で菊田に言った。
「…それで?」
その言葉を聞いたとたん、菊田の全身が細かく痙攣しだし、静まったはずのあの恐ろしい考えが脳裏をかすめ出す。たとえどんなに足掻いても、この地獄から抜け出す事は出来ないのだ。だったら、何をすれば良いのだ、何をしたら、どうしたらここから逃げ出せると言うのか。
今にも崩れ落ちそうになる体を、カウンターの上に手をついて支えながら、菊田は心の中で自問自答を繰り返すうちに、カウンターの上の自分の手に握られている、黒い取っ手の、大き目の布切りバサミが目についた。視点の定まらない目で、ぼんやりとそれを見るうちに、菊田はそのハサミを力強く握りしめると、その手を大きく振りかぶり、店員の顔を見下ろす。その姿を見つめる店員の顔は、無表情のまま、なんの感情も表れてはいなかった。
天井に向って突き上げられた手に握られたハサミの刃が、蛍光灯の光に反射して、無機質な光を放つ。呼吸が乱れ、肩で息をしながら、菊田は目をつむる。──逃げ出すんだ、こんなありきたりの世の中から、おれは絶対に逃げ出してやる──菊田は声にださず、ぶつぶつと口の中で呪文のように呟いた。
そして、大きく息を吸い込むと、菊田は心を極め、雄たけびとも悲鳴ともつかない声を上げながら、手にしたハサミを、店員めがけ思い切り振り下ろす。
その一瞬、店員の能面のような顔にハサミを突き立てる瞬間。菊田の頭には、何故かあの同僚の言葉が、山彦のように幾重にも重なって頭がい骨の間を響き渡っていく。
──何か、面白いこと、あった?
突き刺したハサミの間から飛び散った血しぶきが顔を濡らし、菊田の顔面が鮮血で朱色に染まると、その顔には、安堵にも似た、恍惚とした笑みが口元にあふれ出していた。
東の空の濃い群青色が、薄らとさし始めた日の光に照らされ、淡く溶け始めている。そんな空を見上げる事も無く、菊田は店の自動ドアの隣で、レンガ風に塗られた壁に背をあずけながら眠っていた。イビキもかかず、少しだけ首をかしげながら眠る菊田の顔は、まるで純粋な、子供の昼寝のように見える。
そこに、微かな足音が響いて来たかと思うと、一人の頭の禿げかかった中年らしき男が、地面の上に伸びきった菊田の足元に立った。
「君、そこで何をしてるんだ?」
男がそう問いかけるが、菊田はいっこうに返事をせず、ただ静かな寝息を立てている。男は困ったように小さくうなると、今度は菊田の足元にかがみこみ、もう一度、今度はっさっきより大きな声で菊田に呼び掛けた。すると、菊田は寝むそうにうっすらと堅めを開けると、ろれつの回らない舌で、言葉とも言えない意味不明な返事をした。
「おい、ここは私の店だぞ?邪魔だから早くどいてくれないか」
男がそういって、菊田の肩を掴もうと手を伸ばした。その時、男はさっきまで、あらかたどこかで転んで泥でも付いているのだと思っていた菊田のTシャツが、顔でも拭いたのか、こびりつくようにして赤黒いシミがべっとりと付いているのに、妙な胸騒ぎを覚えた。
菊田は、自分に伸びてきた手を、気だるそうに払いのけると、口の中でぼそりと呟く。
「…今、何時?」
急に時間を聞かれ、男はすこし戸惑いながらも、菊田にはらいのけられた方の手を渋々顔に近ける。
「もう朝の5時だよ、ほら、今日もおひさまが昇るじかんだよ」
そう言って、体をひねって指差す。菊田は瞼をばたつかせながら、ぼんやりと顔をあげると、自分のま正面のビルの向こう側から、うっすらとオレンジ色の光が空に射しはじめたのが朧げに見えた。
「ほれ、お百姓さんはとっくに起きて働いてる時間なんだぞ?とっとと目を覚まさないかい」
男が呆れたように言うと、菊田は強烈な眠気に引き込まれながらも、ぼやけて良く見えない男の顔に向って呟いた。
「俺も、今日仕事なんだ…だから、このまま…」
「そんな事言って無いで、ほら、寝るなら家で寝ろ!」
男は半ば自棄になりながら怒鳴ると、先ほどは振り払われた菊田の肩をつかむ。しかし、菊田は再び眠りについたのか、何度揺すっても起きる気配は微塵も感じられなかった。
「まったく…しょうがねぇな」
ぼやきながら、男は腰をあげると、菊田の横をすりぬけて自動ドアの前に立ち、「おはようさん!」と大きな声で言いながら、自動ドアの間をくぐって行く。
その男の足元が通り過ぎた拍子に、コンクリートの上にあった、ビールの空き缶が乾いた音を立てて転がる。
その音と、どこか遠くから聞こえる悲鳴とを微かに聞きながら、菊田は瞼の間から差し込む日の光が、濃い闇に包まれていくのを感じながら、深い眠りの底へ静かに沈んでいった。
2007/09/24(Mon)16:53:57 公開 /
瀧河 愁
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■作者からのメッセージ
瀧川です。はじめまして。
コンビニを舞台にした話を書きたくて、つい
かっとなってやりました。後悔はしていません。
批評批判、お願いいたします。
作品の感想については、
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