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『虚無』 ... ジャンル:リアル・現代 リアル・現代
作者:奏瓏瑛
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あらすじ・作品紹介
どこにでもいる普通の女子高生、絵菜。ある日、イジメという残酷なゲームが平凡な彼女の生活を一変させてしまう。罪の意識、心の葛藤、友人の死。それらを通して、絵菜は自分のあり方を見直す。苦悶の果てに、彼女はいったい何を見出すのか。
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日は高く、空は澄み、鋭利な斜度から差し込む陽射が、時折カーテンの隙間を縫って机を照らし、室内に影を落とす。
気温は三十度を超え、熱中症による死亡者が十人を超えようかという猛暑の中、生憎備え付けのクーラーは故障していて全く役に立たない。少々心許無いが仕方なく押入れから扇風機を引っ張り出してみたものの、やはりそれだけでは間に合わず、案の定窓を開ける羽目になった。
しかし、涼を求めて開け放った窓は、その思いとは裏腹に、息苦しいほどの熱を帯びた風を招き入れるばかり。ただでさえむっとする暑さのせいで動かずとも汗が滴りべとつく身体が不快だというのに、外から聞こえてくるあぶら蝉のけたたましい鳴き声が一層不快感を煽った。
絵菜はフローリングの床に寝そべり、溜息を漏らした。――身体が怠い、何もする気がおきない。
こうやって寝転んだまま半日を過ごした。時計の針は正午を示していた。
何者かが階段を上って来たらしく軽い音が床を伝う。階段を昇りきったのだろう、歩調に合わせて廊下の床が軋み、部屋の前でぴたりと止んだ。絵菜は首だけをそちらへ向けて次の音を待つ。次に何が起こるのか、絵菜は既に知っていた。
暫くして、部屋のドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。
「絵菜、起きてるんでしょう?」
ドアの向こうからくぐもった声がする。
返事をするのも億劫だが、無視をすれば後々面倒なので、溜息を一つ吐き、渋々口を開く。
「起きてるけど、なに?」
「――今日は天気が良いし、気分転換に外に出てみない?」
板一枚隔てて外に居る人物は、一拍置いて返事をする。如何にもこちらの出方を伺うふうな物言いに絵菜は不快そうに顔を歪めた。
「怠いからいい」
絵菜が憮然と答えれば、
「怠いって言ってもここのところずっとこんな調子なのよ?」
と、声の主は優しげな口調で食い下がる。絵菜は言外の含みを感じ取り、忌々しげに舌打ちをした。
「怠いからいいって言ってるだろ! あんた、しつこいんだよ」
嶮を含んだ怒声を、絵菜、とくぐもった声が嗜めた。
「親に向かってそういう口の利き方は止めなさい。――ねえ、絵菜。そのままでいいから聞いて頂戴……」
これから長い説教が始まるのだろう、そう思い、絵菜はまた溜息を吐いた。
ここ三ヶ月の間、いつもこの繰り返しだった。いつまで部屋に篭っているつもりなの? 学校はどうするの? 今時分高校ぐらい卒業していなくちゃこの先大変よ――耳に蛸が出来るほど聞かされた台詞。
それを聞かされるたび絵菜は決まって黙り込む。話すだけ無駄だ。どうせこの親に理解出来るはずがない。内から沸き起こる怒鳴り散らしたい衝動をぐっと堪えて耳を塞いでいれば、それでいい。相手にしなければ空しくなるのか、そそくさと階段を下りて一階へ消えて行く。そして、夕刻を迎えた頃、仕事から帰宅した父に愚痴を零す。それが原因で口論が始まる。お前の躾がなってないとか、あなたは子供に無関心すぎる、とか。そういう言い争いが続くうち自然と口論は白熱し、親の責任についての所在のなすり付け合いに発展する。だが、苛烈極まる口論に終止符を打つのは、決まって母であった。父にぞんざいに遇われた母が必ず「全部私が悪いのよ。そうなんでしょ」と決まり文句を言い捨てて泣き崩れるからだ。
――本当に鬱陶しい。
元来、絵菜は家にいるよりも外出を好むタイプだった。性格も快活で、暇さえあれば中学校時代の友人と遊びに行ってしまい、家を空けることが多かった。今は休んでいる高校も、クラスには灰汁の強い連中が揃っていて馴染むまでは大分気を揉んだりしたが、それほど嫌ではなかった。だからといって、次の日が待ち遠しいほど楽しくもなかったが。
両親との関係も特に問題はなかった。中小企業の中間管理職で融通の利かない父と、近所のコンビニで日銭を稼ぐ気立ての良い母と、それなりに上手くやっていた。他の家庭より図抜けるほど出来た家族ではなかったが、一般的な家族像ではあった。
その絵菜が、今ではこうして部屋に引篭もり、自ら外界との繋がりを断ち切ろうとしている。掛け違えてしまったボタンのずれが、絵菜を六畳半の部屋に縛り付けているのだ。自分はそこまで大きな過ちを犯してしまったのだろうか、カーテンが遮光を遮り、一つぶんの電気しか点けていないほの暗い部屋の中で自問自答を繰り返す日々を送っていた。
絵菜は母の声を遠くに聞きながら、腕を枕にして寝返りを打つ。力強い生命の律動と全身を流れる血液の潮騒が鼓膜を揺さぶり、それがなんとも心地よい。
絵菜はゆっくり目を閉じ、潮騒に耳を澄ました。こうしていれば、嫌なことも全て忘れられる気がする。
束の間、こうしていただけで尖っていた気持ちが幾分和らいだ。ある程度気持ちが落ちついてくると、最近寝つきが悪いせいもあって、頬に伝う腕の温もりが眠気を誘い、うつらうつらと夢うつつ。絵菜の意識はあちらとこちらの境を彷徨い始めた。
もはや自分が眠っているのか起きているのかさえも定かではない混沌とした意識の中、どこからか潮騒に交じり、母のものではない少女の声が耳に響いた。
――大丈夫だって。
悪戯っぽく笑う無邪気な声。
――ねえ、それって酷くない?
その言葉とは異なり、声の調子が妙に浮き立っている。
――だって面白そうじゃん。ねえ、そう思うでしょ?
絵菜に注がれる好奇の目。その目に期待が込められているのを悟り、絵菜は苦笑ともつかない複雑な笑みを浮かべる。
――神木もやってみなって。絶対面白いから。
否、とは言わせない強引な響きを持たせた言葉。その期待を裏切らないよう必死に笑顔を繕おうとする、自分が居た。
「絵菜はいつも見てるだけだから分かんないと思うけど、マジで楽しいんだって。一回やってみ」
モップを手にしたクラスメートの一人が、開いている手で絵菜を近くに引き寄せ、足元にあるバケツの中から水を含んで重たくなった雑巾取出し、悪びれる様子もなく嫌がる手に強引に押し込めた。指の間から水が一滴、また一滴と滑り落ち、床に弾かれ放射状に散ってゆく。
絵菜は今、クラスメートと放課後の女子トイレに居る。
クラスには仲の良い者同士が集まってできたいくつかのグループがあり、絵菜が行動を共にしているこのグループは、雑巾を手渡した少女を筆頭に絵菜を含めて全部で五人。初めは六人だったのだが、残念なことに一人抜けてしまった。
リーダー格の少女――遠藤千歳は、成績もそこそこで行動力があり、周囲を統率してくれる頼もしい存在だった。けれども、良い面ばかりではない、というのが人の常だろう。
「モップはもうないから、雑巾で我慢してね」
嬉々として言う遠藤の傍らに蹲る影が一つ。その背がぴくりと震えた。
「平田、良かったね。今日は暑いからさあ、神木さんが涼しくしてくれるってさ」
取り巻きの一人が、蹲る平田をモップで突付きながら、さも愉快げに笑う。
平田と呼ばれた少女は、口数が少なくおっとりとした性格で、この年頃には珍しく、化粧っけのない実に地味な子だった。しかし、その心(しん)は確り者で、他人の意見に左右されることなく自分の意見をはっきり言える少女だった。絵菜は平田のそういうところに惹かれてこのグループに加わり、そこから意気投合し、気の置けない仲にまでなった。絵菜がこの学校で友と呼べるのは平田だけだった。けれども、時に長所は短所にも成り得る。このはっきり言う性格が災いして、平田はグループから追いやられるはめになった。
ことの発端は何気ない一言。それには絵菜のクラスいる、ある男子が関係していた。その男子はクラスの中で極めて異質な存在であった。その風体は、まるで黒いヘルメットを被っているような髪型に、背も小さく、猫背で、どもり癖のある、醜男(しこお)だった。虐められることはないが、周囲は事あるごとに彼を扱き下ろしていた。彼はそれを分かっているのかいないのか、喜色満面の笑みで返していた。遠藤はこの男子を心底毛嫌いしていて、ある日、自分達もからかってやろうと提案したのを、平田がやめておけと嗜めた。それが遠藤の癇(かん)に障ったのか、その日を境に遠藤は平田を悉く無視した。
若しかしたら、原因はそれだけではないのかもしれない。常日頃から遠藤と平田の間には僅かな齟齬(そご)が生じていた。成績も平田の方が遠藤よりも出来が良かったというのもいけなかったのだろう。
それから、平田いびりに発展するまで然程時間はかからなかった。最初は物を隠す、机に落書きをする、その程度のものだったが日に日に増長していった。クラスの連中も初めは傍観者を気取っていたくせに、そのうちこぞって平田いびりに便乗するようになった。おかげで彼女はすっかり孤立してしまった。
五人に囲まれて逃げ場を失い、平田は壁の隅に身体を小さく丸めて蹲っていた。額を床のタイルに押し付けているため顔こそ見えないが、時折聞こえる嗚咽とそれに合わせて小刻みに震える肩を認めて、絵菜は密かに同情を寄せた。
「ほら、神木さんの番だよ」
別の取り巻きに促されて絵菜は雑巾を握り締めた。彼女の身体は、絵菜が手を下すまでもなく、既に雨に打たれたように濡れそぼっている。遠藤達が水を含ませたモップで平田をからかい、こうなったのだ。その姿があまりにも痛々しくて、絵菜は酸っぱい物が胃から込み上げくるのを感じた。
「どうしたの? 遠慮しなくてもいいんだって」
遠藤に背を押されたはずみで一歩前へ踏み出す。その気配に気づいた平田が弾かれたように顔を上げ、絵菜を真っ直ぐ見詰めた。悲痛な色を湛えた目は、何かを必死に訴えている。絵菜はたまらず、視線をそらした。
「ほらあ、どうしたあ?」
「神木さーん、平田が暑いってよぉ」
取り巻き達が立ち尽くす絵菜を茶化す。絵菜は困惑した面持ちのまま床を見詰めていた。
これは酷いことだ、絶対にやってはいけない。しかし、ここで拒めば、次は絵菜があすこに蹲る番だ。それだけはなんとしても避けたい。
周囲を見やれば、誰も彼もが、絵菜が次にどういう行動に出るのか面白そうに様子を伺っている。
――酷い。
昨日までは見ているだけで許されたのに、今日は虐めに加担しろという。
見て見ぬ振りをするだけでも罪の意識に気が咎めた。まるで胃を鷲掴みにされたように苦しかった。けれど、絵菜には平田を庇うだけの勇気が持てなかった。だから、直接手を下していない事実だけが、せめてもの慰めだったのに。
絵菜は、ちらりと遠藤を見やる。その視線を受けて、遠藤は絵菜を見据えた。その目が語る――こうなりたいのか、と。
絵菜の顔が僅かに強張った。平田のようになるのは嫌だ。そんなことは耐えられない。だが、ここで手を下せば自分も彼女達も大差ない。でも。
――果たして本当にそうだろうか。
強い疑念が頭をもたげた。彼女達は虐めという罪深いことをしている。しかし、自分可愛さのあまりそれを黙認することも同じように罪深いのじゃないだろうか。絵菜は自分を蚊帳の外に追いやることで保身に走った。そうすることで、自分だけ真っ当であろうとしたのだ。それは直接手を下すよりも卑劣なことなのかもしれない。
「神木さーん、どうしちゃったんですかあ?」
「神木ぃ、まさか平田なんかに同情しちゃったわけ」
取り巻きの少女達が、硬直したまま微動だにしない絵菜に野次を飛ばす。暗に、意気地なし、と責めているのが分かった。
雑巾を握る手が震えた。してはいけないという罪悪感と、早くやれという焦燥との鬩ぎ合いが、絵菜の心を激しくかき乱す。
ついに耐え切れなくなって、この場から逃げ出そうと踵を返した絵菜の腕を、遠藤が逃がさんとばかりにがっちり掴んだ。
「どこへ行くつもり?」
遠藤は絵菜の腕をしっかり掴んだままやんわりと笑んだ。絵菜は背筋に薄ら寒さを感じ、はっと我に返る。途端、後悔の念にかられた。
――わたし、何をしようとしたの。
赤みを帯びた健康的な顔から徐々に色が失われてゆく。反射的に平田を見遣れば、訝しそうな顔をしていた。その一方、取り巻きの連中は新しい玩具を得たふうな面持ちで絵菜を見詰めている。
絵菜は恐ろしくなった。このままでは標的にされてしまう。我が身に降りかかる危険を察知して、言い訳を考えるよりも早く体が動いた。力任せに遠藤の手を振り払い、雑巾を平田に投げつけた。自分でも信じられないくらいしなやかな動きで、遠藤の足元に置いてある、水を張ったバケツを手に取り、平田めがけてぶちまける。
僅かの間、周囲から音が消えた。この場に居る誰もが呆気に取られている。当の絵菜も自分の取った行動が信じられずに茫然自失している。水を浴びせられた平田すら何が起きたのか理解しかねたふうにぽかんと呆けていた。
トイレに重苦しい沈黙が降りた。時間の流れが途絶えたように誰も動かなかった。当座、その状態が続いた。
先に沈黙を破ったのは、取り巻きらの嘲笑だった。
「うっわー、神木さんて結構だいたーん」
「平田カワイソー」
「神木っていい性格してるねぇ」
それを皮切りに、時間が息吹を吹き返したように滔滔(とうとう)と流れはじめる。
平田は悲痛な面持ちで声を立てずに涙を流した。平田の目から溢れた涙が頬を伝い、スカートをきつく握り締めた手の甲にぽたりと落ちて、散った。
それを見て、絵菜は言葉を失う。口の中がからからに渇き、胃がきりきり痛んだ。胸を押しつぶされたような苦しさに襲われ、バケツを抱える手が震える。眉間の辺りがつんとして、視界が歪んだ。大きな塊が喉を塞いでしまったかのような息苦しさを覚え、身を裂かれんばかりに胸が痛んだ。
おかしい、本当に痛いのは平田だろうに。踏みにじられ、蔑ろにされ、そこに蹲っている。だのに、絵菜もまた、辛く、苦しく、痛い。
――こんなはずじゃなかった……こんな、こんなはずじゃ……。
絵菜は怖かった。我に返った瞬間、平田の姿と己の姿が重なって、ただただ恐ろしかった。どうにかしたい一心で必死だった。本当にそれだけだった。別段、平田を傷つけたかったわけではない、それも本当だった。
――傷つけるつもりなんてなかったのよ!
口をついてでようとする言葉を咄嗟に飲み込む。遠藤たちの前で口に出すには危ぶまれた。
こんな時でさえも自分大事、どこまでも浅ましい自分に腹が立つ。腹が立ったところで、遠藤たちに歯向かう勇気など持ち合わせてはいないが。
平田が口惜しそうに絵菜を睨(ね)め付けた。絵菜は、底冷えのする冷ややかな眼光に射抜かれ、愕然とする。虐めを受けている間も、絵菜を縋るふうに見詰めることはあってもこんな目で見たことは一度たりともなかった。平田なりに絵菜の心情を察してくれていたのだろうか、それとも、いつか助けてくれると信じていたのだろうか。どちらにせよ、絵菜を思っての振る舞いならば、その暗澹たる瞳の中に浮かぶは、裏切りによる愁傷か、あるいは、裏切りに対する怨嗟か。
――そんな目で、見ないでよ。
心の中でぽつりと呟く。
――だって、仕方ないじゃない。わたしにどうしろっていうのよ。
先ほどまで嗚咽をあげて泣いていた弱々しい姿が嘘のよう、気丈にもきっと口を固く結び、気圧(けお)されるくらい力を込めた眼差しで絵菜を睨め付けたまま、涙を流している。
――わたしだけが悪いんじゃない。だって、だって、わたし……。
頭の中で様々な感情が入り乱れ、体中の血液が波立ち、思考が混迷する。胸やけがして吐気を催す、口の中に酸っぱいものが広がった。
――仕方がなかったのよ……本当に、仕方がなかったのよ!
くわんと耳鳴がした。それを合図に意識が身体を離れてゆくような不思議な感覚に襲われる。頭の中がぼうっとして、もう一人の自分が離れた場所からこの光景を見下ろしている、そんな感じがした。これは夢か、現実か、全てがまどろんで見える。
――わたしが悪いんじゃない。
頭の中で自分の声が反響する。
――遠藤たちにやらされただけだもの。わたしの意志でやったわけじゃないわ。それに、やらなかったらわたしが虐められていたのよ。それとも、その方が良かったとでもいうの?
心の中で平田に問うた。睨め付ける平田の目が、今はさほど怖く感じられない。絵菜は臆せず見詰め返した。
――元はといえば、あなたが遠藤に逆らうからいけないんじゃない。虐められる方にも、原因があるのよ。
そう、虐められる方にも原因がある。周囲の人間にそうさせる何かがある。だから、虐められるのだ。そうでなかったなら、誰も虐げたりなんかしない。
――虐めは良くないことだわ。だけど、あなたにもそうさせた責任があるのよ。
他者が平田に害をなすほどの何かが、彼女にあったに違いない。こんな酷い思いをする前に、平田はそれに気づくべきだった。そして、自らを律するべきだった。それをおこたったつけを、制裁という形で支払っているのだ。
――だから、わたしは悪くないわ。こんなの、逆恨みよ!
思って、絵菜は自分の心の奥底に、ずっしりとした重みのある冷たい塊が落ちてゆくのを感じた。
あれから数日、絵菜の学校生活は一変した。遠藤は一線を越えてしまった絵菜に率先して平田を虐めさせた。自ら手を下すよりも、それを傍観している方が面白いのだろう。平田の方も、遠藤たちより絵菜に痛めつけられる方がよほど堪えるとみえて、大げさなくらいいい反応を示した。絵菜は絵菜で、遠藤を恐れて渋々従うふうな素振りをみせるものの、平田を虐めている間、自分も辛いのか、それを必死に堪えている顔がなんとも滑稽で、いっそう遠藤を楽しませた。
然し、月日が経つにつれ、次第に絵菜の中の大切な何かが麻痺してゆき、罪悪感は徐々に薄れ、痛みの変わりにえも言われぬ快楽が芽生え始めていた。――生き物が持つ多様性とは、こういった場でも発揮するらしい。げに恐ろしきは、人の業(ごう)か。
虐めの手段も手を変え品を変え、苛烈に、陰湿に、派手になっていった。当初は教師の目を盗むようにしてこそこそ行っていたものだが、最近では、放課後の掃除の時間を利用し、教室のドアを閉め、クラスの男子に協力してもらって平田の制服を剥ぎ取り、塵(ごみ)と一緒に袋につめて焼却炉へ持っていくなど、行動が大胆になっていった。教師もそれに気づいていたが、「ふざけるのも大概にしろよ」と笑い含みに嗜める程度で、特に問題視されることはなかった。
教師の黙認が、虐めをさらに苛烈なものへと変貌させた。生徒達は場所も問わず、人目も気にしなくなった。時には授業中、廊下、校庭、教師の目前、朝会や集会など全校生徒の集まる場所、まさに所かまわず、といったふうである。汽車が峻坂(しゅんぱん)をブレーキもかけずに給炭口へ石炭をくべ続けて疾走すれば、速度を上げ、暴走する。この学校の虐めも、ブレーキをかける役割を担った大人たちが、その責務を放棄することで、過激さを増し、暴走をはじめたのだ。唯一、汽車と人との違いをあげるとすれば、暴走を続けた汽車はいつしか敷かれたレールを外れて転覆し、必ず停車するが、人間はレールを外れて暴走を続けても自らがブレーキをかけない限り止まることはない。人間にとってのレールとは、目に見えぬ導(しるべ)に過ぎず、この暴走はますます加速していった。
けれども、いつまでもこれがまかり通るわけがない。天網恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず 、と古人がよく言ったものだ。
下校途中、絵菜がいつものように遠藤らと一緒に平田を小突き回して遊んでいる姿を、買い物帰りの母に目撃されてしまった。
何も知らずに遊ぶだけ遊んで少し遅い家路に着いた絵菜を待っていたものは、憤怒のあまり顔を朱に染めた父と、気色ばんだ母であった。絵菜が靴を脱いでダイニングに入るや否や、凄まじい形相をした父の平手が飛んできて、絵菜の頭を捕らえ思い切り薙ぎ払う。突然のことに、訳も分からず呆けている絵菜に、今度は怒声を浴びせた。
「おまえというやつは、恥を知れっ!!」
声こそ張り上げて大きいが、その質は地を這うように低く、絵菜の腹にずんと響いた。絵菜はいまいち状況を飲み込めず、母に救いを求め視線を送るが、母は黙視するだけで納得のいく説明をしてくれそうにない。絵菜はやむを得ず困惑した顔を再び父へ向けた。
「おまえは、なんで殴られたのか分かっているのか?」
分かっていたら呆けてなどいない、絵菜はそう言い掛けて止めた。この状況では火に油を注ぐようなものだ。父はそれを絵菜の表情から読み取ったのか、
「平田さんを知っているだろう。確かおまえの友達だったな」
と、ゆっくりと静かに口を開く。絵菜は、父の言に驚駭(がいぜん)として目が眩(くら)んだ。一気に血の気が引き顔面蒼白になる、冷水を浴びせられたように固まり、心臓が締め付けられ、それが過ぎると、鼓動が身体の内側を激しく打ちつけた。何かを言わなければと思うのだが、気ばかり焦って適当な言葉が見つからない。
「おまえは、寄って集って友達に暴力を振るうのか?」
ずきりと胸が痛んだ。――見られていた。でも、いったい誰に……? 咄嗟に母の顔を見詰める。母は悲しげに眉を寄せた。その表情が肯定を意味していた。絵菜は悄然と項垂れる。
「……わたしだって、好きで、虐めたわけじゃない」
絵菜は、たどたどしく、やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「だって、そうしなきゃいけなかったんだもの……そうしなくちゃ、わたし、許されなかったの……」
言って、罪悪感が胸の奥でちりちり疼き、声が震えた。父はそれを黙って見詰めている。
「グループのリーダーにやれって言われたの。凄く嫌だったけど、逆らったら、わたしが虐められちゃうもの。そんなの、耐えられない。だから……」
言い終えないうちに、堰を切ったように声を上げて泣き崩れた。馬鹿みたいにひたすら泣いた。泣いて、泣いて、泣きじゃくった。涙と一緒に、それまで溜め込んできた気持ちも溢れてきた。絵菜も辛かった。ずっとずっと、苦しんできた。それが、途中から快感に変わってゆくのを感じて恐怖を覚えた。平田の苦しむ姿をもっと見たい、そんな自分を嫌悪した。
泣きながら、虐めは麻薬のようなものだ、と絵菜は思う。他人を傷つけているうちに罪の意識が磨り減り、いつしか快楽にかわる。今のままでは物足りなくなって、もっと刺激の強いものを、もっと過激なものを、そうやってどんどん深み落ちて溺れてゆく。誰かに止めてもらわないと、自分では抜け出せない、恐ろしい麻薬だ。
ひとしきり泣いて、絵菜が落ち着きを取り戻した頃、父が静かに頷いた。
「……おまえも苦しかったろう」
父の声色からあの凄まじいまでの怒りは消え失せ、優しい穏やかな物言いにかわっていた。絵菜は父の温かい言葉に涙が溢れた。自分の辛さを分かってくれたことが嬉しかった。
そんな絵菜の姿を見て、父と母は互いに目配せをする。母が心得たふうな面持ちで頷いた。
「でもね、絵菜。平田さんはもっと辛かったはずよ」
優しく言い含めるふうに言う。これに絵菜は黙って頷いた。
「人はね、一人でも味方になってくれる人がいれば、信じられないくらい強くなれるものなの」
今度は母が父を見る。それを受けて、父が後を続ける。
「絵菜、おまえがその役割を果たさなければいけなかったんだ。友達なら尚更だろう」
「お父さんの言う通りよ。起こってしまったことは仕方ない。でも、これからはあなたが平田さんを守ってあげなくちゃ。あなたまで見捨ててしまったら、平田さんは誰を頼ればいいというの。分かるわね?」
絵菜は目を見開いた。そんなことをしたら、絵菜が虐められてしまう。
「そんなことしたら、わたし、虐められちゃうんだよ。平田さんみたいな目に合うんだよ……」
明らかに怯えを含んだ声色に、母は複雑な笑みを浮かべ、
「それでもいいじゃないの。あなたには平田さんや母さんたちがいるんだもの」
母の言葉に耳を疑った。虐められてもいい、今、確かにそう言った。
「虐めはもっとも卑怯で卑劣な暴力行為よ。身体に受けた傷は時間が経てば癒えるけれど、心に受けた傷は滅多なことでは癒えないもの。下手をすれば、その人の人生に影を落としてしまうことだってあるわ。いい、絵菜。肉体的な暴力よりも虐めという暴力の方がずっと痛いものなのよ」
何を言っているんだろう、と絵菜は思った。そんな酷い暴力を平田の身代わりになって自分に受けろというのか。それを望むのか、愛する娘に。
「でも、庇って虐められたときに、平田さんがわたしの味方になってくれなかったら? わたし、独りになっちゃうんだよ」
誰がわたしを助けてくれるの? そう問おうとして言葉にならなかった。悲しくて息が詰り涙が溢れた。
「その時はお父さんもお母さんもいるじゃない。……でもそうね、仮にそうなったとしても、絶対に平田さんを責めては駄目よ。人は弱いから、それを責めるような真似をしてはいけないわ」
人の弱さを責めるな、そう言いながら、絵菜の弱さを責める両親の考えが、絵菜には理解できなかった。そして、平田の代わりに人身御供になれという、その言葉も。
本当は、父も母も絵菜の心配をしている振りをして体裁を気にしているだけのかもしれない。良からぬ考えが頭を過る。
「でも……」
「絵菜、落ち着いて良く聞きなさい」
言い差した言葉を父が遮る。
「虐めはいいことだと思うか?」
穏やかにしかしながら力強く問う。絵菜は泣きながら首を横に振った。
「そう、虐めは悪いことだ。何があっても他人を傷つけていい道理なんてないんだよ」
でも、と声を絞り出すも、嗚咽が邪魔をしてか細い呻きにしかならなかった。
「虐められる方にも原因があるという人も居るが、それは間違っている。裏を返せば、相手に気に入らない箇所を見つけたら何をしても赦されると言っているようなものだ。人に七癖我が身に八癖という諺があるように、癖のない人間なんていないんだよ。それなのに、自分の事を棚に上げて他人の短所を論(あげつら)い、虐げていいわけがないだろう」
でも、と絵菜は思う。確かに両親の言っていることは正論だ。然し、それだけでしかない。この人たちは知らないのだ。虐めがどれほど陰湿で残忍なものなのかを。だからこんな無責任な正義を振りかざせるのだろう。
「おまえは俺が理不尽なことをいっているように思っているのか?」
絵菜の顔色から心中を察したのだろう、父が寂しそうにぽつりと漏らした。絵菜は俯いたきり、否定も肯定もしなかった。
「――友達を庇って虐められたっていいじゃないか。おまえは正しいことをしたんだ。いわば名誉の負傷だ。誇らしげに胸を張れ」
絵菜は愕然と項垂れた。――虐められてもいい? 名誉の負傷? なんて酷いことを言うのだろう。
「絵菜が虐められるようなことがあれば、母さん達が学校に怒鳴り込みに行ってやるわ! 母さん達はいつでもお前の味方なんだから、安心なさい」
絵菜は、何を寝ぼけたことを言っている、と呆れを通り越して憤りを覚えた。そんなことをしたら、かえって状況を悪化させるというのが、この両親にはどうして分からないのだ。告げ口をしたと更に酷い仕打ちを受けるに決まっているではないか。
そもそも、学校に乗り込んだとしても、素直に聞き入れてくれるとは思えなかった。教師達の態度を見ても、学校側は虐めの存在を認めるはずがないのは、火を見るよりも明らかだった。絵菜はそれを身にしみて理解していた。
絵菜は口惜しそうに歯噛みをする。この人たちは本当に何も分かっていない。陳腐な正論など通用しない、そんなことも知らないで、勝手な道徳論ばかりを絵菜に押し付ける。自分たちは安全圏にいるからそんな悠長なことを言っていられるのだ。実際に高校に通っているのは絵菜であって両親じゃない。そして、虐めにあうのも。
どうしてそれを理解してくれないのだろう。絵菜だって十分苦しめられてきた。平田のように守られるべく存在なはずなのに。それなのに、なぜ責められなくてはいけない。本当に悪いのは絵菜ではなく、主犯格である遠藤たちじゃないのか。
そんな絵菜の気持ちを知ってか知らずしてか、母は尚も続ける。
「後悔してからじゃ遅いのよ。取り返しの付かないことになりでもしたら、この先、一生悔やみ続けることになるの。だから、あなたのためを思って言っているのよ」
言って、絵菜の前に膝を折る。
「お願いだから、頑なにならずに分かって頂戴、ね? あなたは賢い子だもの。本当は分かってるのよね。後で一緒に平田さんの家に謝りに行きましょう」
絵菜は、労わるように伸ばされた母の手を邪険に振り払った。それを見て、絵菜! と声を張り上げた父を母が懸命に宥めすかす。
絵菜は、二人を尻目に足早にダイニングを出て、いっきに階段を駆け上った。背後から父の怒声が聞こえたが、もはや絵菜の知ったことではなかった。
気が付けば、日付が変わり朝を迎えていた。
昨夜、親に理解されない悲しさからベッドでむせび泣き、疲れ果ててそのまま寝入ってしまったらしい。制服に皺がよっていた。
――あの後、母さんは平田さんの家に謝罪しに行ったのだろうか。
思って、頭を振る。
――どうだっていい。
あの人たちは結局自分たちの体裁の方が大切なんだ、と絵菜は思った。子供が虐めに加担しているよりも、虐められている子を庇って被害者になった方が、いっそ聞こえもいい。どうにか理解してもらおうと齷齪(あくせく)した自分の愚かさ加減に自嘲せざるを得ない。
大人なんてみんな同じだ。自らは深く関与せず、飾りたてた大義名分を偉そうに吹聴(ふいちょう)するくせ、いざ事が起これば、自分たちの力でなんとかしろとそ知らぬふりをする。絵菜一人にできることなどたかが知れているのに、「虐めは良くない」と解決を子供任せにする。間に受けて実行すれば、多勢に無勢、絵菜はかっこうの獲物になるだろう。鈍色に光る頑丈な檻を用意してくれるならまだしも、即席で拵えた見栄えばかりいい張りぼてでは、身を守ることはできない。自分の子供が被害にあって、ようやく、大人の確固たるバックアップが不足した状況で子供が虐めに拮抗することの無謀さに気づくのだろう。そこで初めて子供たちの領分に深く踏み込み、大人の擁護の必要性をムキになって訴えるのだ。それでは遅いというのに。
絵菜は陰鬱な気分を叱咤して、のろのろとベッドから起き上がり、テーブルの上の鏡を覗き込む。散々泣き散らしたせいか、瞼が赤く腫れぼったい。
絵菜は溜息を漏らした。こんな顔をして学校に行きたくない。然し、親と顔をあわせたくもない。
枕元に置いてある目覚ましがけたたましく鳴る。セットした時間よりも少し早めに起きてしまったらしい。耳障りな音を黙らせるために、ベッドサイドへ歩み寄り乱暴に時計を叩いた。チンと、最後に一鳴りしてようやく沈黙する。
――とりあえず、顔洗ってこよう。
ドアノブに手をかけて、気だるそうに押し開ける。かたん、と物がぶつかる音がして、足元に視線を落とした。ドアに弾かれた新聞が、洗面所の方を向いて落ちていた。絵菜は訝しげに眉を顰める。
新聞を拾い上げると、とある記事だけ目に付きやすいよう、赤いペンで囲ってあった。見出しには、「十五歳 男子中学生、いじめによる自殺」とある。
おそらく両親が絵菜に読ませたくて置いたのだろう。朝から縁起でもない。
絵菜は忌々しげに新聞を壁に投げつける。バラバラになって床に落ちてゆく新聞を眺めながら、得体の知れない不安にかられた。まるで少年の末路が平田の行く末を暗示しているふうに思われて、どうしようもない気分にさせた。
――平田さんは自殺するほど馬鹿じゃない――大丈夫、自分に言い聞かせるふうにして口の中で何度も繰り返し呟いた。
気を取り直して、新聞を跨ぎ洗面所へ向かう。窓からの遮光が洗面所の中を照らし、電気を点ける必要がなかった。
絵菜は歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を穂先に付けて歯を磨く。蛇口を捻って勢い良く噴出する水を、コップの代わりに手で器を作り、そこに注いだ。数回口を漱いでからついでに顔を洗う。目を閉じた瞬間、脳裏に新聞の記事が過り、背筋がぞっとするのを身震いしてやり過ごす。脇にかけてあるタオルで手早く顔を拭った。
洗面台の上の棚に置いてあるブラシで髪を梳(す)く。ねこっけのせいで毛先でこんがらがるのを根気強く梳き解してゆく。肩まである髪を結わこうか迷ったあげく、面倒なのでやめることにした。
腫ぼったい目を化粧でごまかそうと化粧ポーチに手を伸ばしたところで、ファンデーションを切らしていたことを思い出し舌打ちをする。仕方なく、眉ペンで眉を整えるだけにした。
二三歩下がり、鏡に胸から上が綺麗に収まる位置まで後退する。登校する姿にしては少々不足ではあるが致し方ない。丹田にぐっと力を入れて顔を引き締めた。
気分が萎えないうちに階段を下りて玄関へ向かった。リビングから母が顔を覗かせたが、それに気づかぬ振りをして、踵の磨り減った革靴を履く。母の呼ぶ声を無視して、何食わぬ顔で外に出て行った。
朝の柔らかい日差しが、近所の庭先に生えている木々の青を瑞々しく彩り、連翹(れんぎょうの)の黄が殺風景な町並みに鮮やかな色彩を添える。風は温かに、生命を慰撫するように優しく絵菜の頬を撫ぜた。近所のおばあちゃんがまいたのだろう、水打ちされたアスファルトが斑模様を描いていた。
絵菜は、自宅の前に止めておいた自転車に鍵を差し込み、ペダルに足をかけ、思い切り地面を蹴った。その勢いに乗って、自転車に跨り、ペダルを漕いだ。自転車がぐんぐん加速してゆく。
八時十分、住宅街にはまだ人通りが少ない。絵菜は舗装された急な勾配をノーブレーキで下る。風を切る音が耳を霞め、通り越してゆく人の影がどんどん小さくなっていった。
絵菜の通う高校は自宅から自転車で二十分ほどの距離にある。偏差値は中の上、女子の制服は紺のブレザー、男子は学蘭の公立高校だった。特に悪い風評もなく、自宅から近かったため、絵菜はこの高校を選択した。然し、入学してまもなく、この高校に根深く巣食う問題に直面した。決して問題がないわけではなかった。ただ、食わせ物の教諭らが構内の問題を揉消し、臭いものに蓋をしているだけに過ぎなかった。平田がいい例だろう。
絵菜は加速するに任せハンドルを右に切った。この角を曲がり真っ直ぐ行ったところにある橋を越えれば、住宅街を抜け、学校に続く交差点へ出る。
交差点といってもそれほど大きなものではない。元は抜け道に使われていた車道に急遽歩行者用の信号を設けた程度のもので、通勤時刻になると、車道の信号は赤だと言うのに車が猛スピードで駆け抜けてゆく、近所でも有名な交差点だった。死亡者こそ出ていないが、たまに歩行者(主に生徒)との接触事故が起こる。接触した車はそのまま走り去ってしまい、被害者は泣き寝入りをするしかなかった。
絵菜は交差点が近づくにつれ速度を落とす。ここからなら交差点が見渡せて、生徒達が車の途切れるタイミングを見計らっているのが見える。その中に見知った人影を認めて、絵菜は胃が熱くなるのを感じた。平田だ。
絵菜はちらりと横目で腕時計を見遣る。時間は八時二十分、まだホームルームまで余裕がある。思って、緩くブレーキを握る。平田との距離を測りながら慎重に自転車を進めた。
信号が青に変わった。生徒達は車の往来を確認する。車道の信号は当然のことながら赤だったが、前方から車がスピードを落とさず走行してくる。車との距離は、走って横断すればぎりぎり渡れるくらいの距離だった。
生徒達は接近してくる車の前を走り抜ける。平田はタイミングを逃したのか、僅かに出遅れて車道に飛び出した。
――間に合わない!
絵菜は咄嗟に平田の名を叫んだ。絵菜の声に平田が振り向く。二人の視線がぶつかる――刹那、ドンと鉄の塊が弾力のあるものに体当たりしたふうな鈍い音が響き、平田の身体が横へくの字に折れた。そのままボンネットへ乗り上げ、回転しながらフロントガラスに突っ込み、天高く舞う。頭から地面へ落下して、首が拉(ひしゃ)げ、地に赤い華が咲いた。赤く、大きい、不気味な華。頭を軸に背が不自然なほど弓なりに反り、操り人形の糸をふつりと切り離したふうに、ぐしゃりと地に崩れ落ちた。首も手足もあらぬ方へ捻じれている。まさに異形の姿だった。それが、小刻みに痙攣して、力なく放り出された手足がぴくぴく動いている。その上を、別の車が通り抜ける。平田を踏み潰すたび車体を揺らし、減速することなく走り去っていった。その後を、赤いラインが虚しく続いていた。
絵菜は目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。奥歯ががちがち鳴り、歯の根が合わない。呼吸の仕方を忘れてしまったふうに喘ぐ。必死に空気を吸い込もうとしてむせった。汗で服は濡れそぼり、顔は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだった。
床に手をついて重い身体を持ち上げる。壁に凭れ掛って気だるそうに座った。震える手で顔を覆い、夢を見ていたことに気づく。また、あの夢だ。いつも同じ夢を見る。途中の経過は日によって変わるが、最後は必ずあのシーンで目が覚める。あの悲惨な末路、それが駒送りのように細かく鮮明に、絵菜の脳裏に焼きついて離れない。
平田の顛末についての見解は、学校側と生徒側で意見が分かれた。生徒はわざと車に飛び込んでいったという自殺説を唱え、学校側は、遺書もなく、自殺に値する理由が見当たらないと主張し、不運な事故死として片付けた。自殺と言えば自殺、事故と言われれば事故のような気もする。それほど平田の最後はどちらともとれる曖昧なものだった。
だが、絵菜にはどちらでも良かった。平田が死んだ事実は変わらない。そして、平田の死を純粋に悼んでいる者は少なく、多くの者は、事故か自殺か、その是非を、机上の空論に勤しんでいる。しかも、目撃者がいながら誰もナンバープレートを見たものはおらず、車種も車体の色さえもあやふやな供述しか取れなかった。これでは犯人を捕まえる目星が立たないだろう。これがいっそう議論を盛り上げた。虐めの主犯格である遠藤たちは、平田の死を自殺とし、まるで自分たちが素晴らしい功績でも残したように誇らしげに風潮している。
この学校では平田の死はただの話題の種でしかない。なんて薄情な連中なのだろう、絵菜は憤りを覚えた。そして、その日から高校へ通わなくなった。
絵菜は薄暗い部屋の中で、時々思う。平田が死んだのに、なぜ自分だけ生きているのだろうか、と。平田の死は自殺だ。最後に平田は絵菜を見た。絵菜もまた平田を見た。それは自らの死を覚悟しての行為だったのだろう、と絵菜は思った。自殺に追いやった自分が、なぜ生きているのか、それがとても奇妙な感じがした。なにかが酷く間違っている、そんな気さえした。
絵菜は、一度カッターを手首に押し当てたことがある。深く切ったつもりが、大げさなくらい出血して暫くすると止まってしまった。失敗した原因を知りたくてインターネットで調べたら、どうも手首を切っただけでは人間は死ねないものらしいことが分かった。人が死ぬほどの出血を促すには動脈を切るしかないのだが、その動脈は身体の奥深くにあり、太い腱と太い神経に守られていて、麻酔なしでは到底切れぬものらしい。湯船に付けるという手段もあるが、人間は失血状態に陥ったとき、酷い吐き気と寒気に襲われ、長い時間苦しむことになるという。その間に断念し、自ら救急車を呼ぶ者が多いとか。では、一酸化炭素中毒ではどうか、と思ったが、やはり苦しむことには変わりない。ならばいっそ薬で……とも考えたが、市販の薬では大量に飲んだところで死ねない上、病院に搬送され、胃の洗浄という死ぬほど苦しい思いをしなければならない。ならば簡単に断食で餓死――これは部屋の前に運んだ食事に手をつけていない日が続けば、両親がドアを蹴破ってでも押し入ってくるだろうし、餓死ほど苦しい死に様は無いと聞いたこともあり、結局自殺を断念した。
絵菜は、自分が死んでいるのか生きているのか曖昧な時を過ごしている。実際にはちゃんと生きているのだが、絵菜自身が生きているという実感を持てずにいた。
絵菜はカレンダーに目をやった。今日の日付を赤く丸で囲んであり、下に小さな文字でHirata’s birthdayと付け加えてあった。平田がグループにいた頃、絵菜がカレンダーに書き込んだものだろう。絵菜は今日が平田の誕生日だったことを思い出した。
――生きてたら十七歳か。
思って涙が頬を伝う。生きていたら、それは違う。生きている方が自然なのだ。それを、
――わたしが殺した。自殺に追いやって、友達を、殺してしまった。
仮に事故だったとしても、あの時絵菜が声さえかけていなければ、平田も足を止めず助かったかもしれない。だから、絵菜は平田の死に責任がある。
絵菜は思う。なぜ人は死ぬのだろう。そして、生きているとはなんだろう。息をすることが生きるということならば、絵菜は確かに生きている。然し、ただそこにあるだけだ。それが生きるということなのだろうか。こうも虚空で空しいものが、生か。
平田もまた生きていた。人に踏み躙られ、蔑まれ、死しても尚、車に踏み躙られていた。それも生のあり方なのだろうか。
死というものも同じく不可解なものだ。人間の終着点、それだけではない気がする。誰もが畏れ、回避しようと必死に足掻いている。けれども中には死を畏れない者もいる。死を受け入れる者、自ら死を欲する者、様々だ。そんな人達にとって、死とは畏るるに足らず、息をするが如く至極自然なものなのだろう。
では、死とはなんだ? 生とは……?
いくら考えても答えは見つからない。絵菜は長嘆して、ぼうっと天井を見上げる。当座、そのままでいた。それから思い立ったふうに、窓辺まで歩いて行き、カーテンに手をかけた。
絵菜は眩しくて手をかざす。久方ぶりの太陽だった。
蒼い空の下、素馨(そけい)の香りも爽やかに夏の風が吹いている。
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2007/09/02(Sun)20:46:55 公開 / 奏瓏瑛
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■作者からのメッセージ
一言にイジメといっても、その表記の仕方は様々あります。「いじめ、イジメ、苛め、虐め」。
虐げるという意味が良く伝わるようにあえて最後の表記を使いました。
本来なら、もうすこし掘り下げて長編作品として仕上げたかったのですが、残念ながら私には長編をかけるほどの語彙力と文章能力がなく、長々と書き連ねて、話の主体を曖昧模糊にしてしまうくらいなら、と短く纏めてみました。
途中、残酷な描写がありますが、今回、死というものを綺麗な描写で表現するのは似つかわしくない気がして、率直な描写をさせていただきました。
この作品を読み終えた後に、少しでも心にずっしりとくるものがあったらいいな、と思っています。
ご指摘いただいた箇所を修正いたしました。
2007/09/02 20:45 修正。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。