『空へ奏でる音』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:halcyon                

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 単に、毎日同じように過ごしている日々。
 それは歯車の回転と同じ。
 でも、今日から僕の歯車の回転は変わっていった。
 毎日が、楽しく穏やかになるように、僕は彼女達と出会ったのだ。


第1章
 1

 部活が終わり、ほとんどの生徒が帰宅した夕暮れ。僕は教室に置いてきてしまった宿題のプリントを取りに、2階の廊下を走っていた。僕の教室は六年二組。二階の階段から右手に曲がって一番奥にある。
「なんで、僕の教室は毎年一番遠いところなんだろう?」
 僕は、いつもこの事を嫌に思っている。なぜなら、学年で一番の遅い足だ。そんな僕は、教室に向かうだけでも体が疲れてしまう。
 目の前に教室が見えてきた。やっとのことで着いた時はもう僕はへとへとになっていた。そこから、自分の机に向かって歩き出す。自分の机は、教室のドアから一番近いところにある。その机の中から、宿題のプリントを取り出す。宿題のプリントは、算数。出来ることなら、こんなプリント、ビリビリに破って捨ててしまいたい。そう感じながら、僕は一つ大きなため息をついた。
 でも、僕はプリントをランドセルヘ早々としまい、教室を出て歩き出した。
 ふと、小さな音が聞こえていたことに僕は気がつき、耳へと集中をする。綺麗な音色と歌声が聞こえてきた。音は階段へ近づいていくごとに大きくなり、僕の心を躍らせる。その音は、三階から聞こえていることに僕は気づいた。
「こんな綺麗な音……。誰が出しているんだろう」
 考える前に足が出ていた。でも引き返すことなく、僕は音色に引かれて階段を軽快に上っていった。
 三階へ上がると、音は音楽室から流れている事が分かった。そうと分かると、僕は音楽室へ走っていった。
 軽快な和音を弾ませるピアノの音。愉快にリズムを刻むドラムの響き。激しい音のギター。そして、僕を虜にさせた歌声。
 僕は勢い余っておもいっきり強く音楽室のドアを開けた。そのすごかった音に、すべての人が気づき、ドアのほうを見た。僕は、その視線から逃げることが出来ず、ただそこに立っていた。
「……あれ、誰?」
 ギターを抱えたどこかで見たことのある男の子が僕を指差しながら言った。
「二組の岡林だよ。岡林……」
 僕の名前を途中で言ったままのドラムのばちを持った、三組の桜坂 雅哉が言った。
「岡林 涼夜(りょうや)です」
 僕は自ら名を言った。
「ふーん。で、何のよう?」
 今度はピアノの椅子に座っていたショート髪の一組の学級委員が言った。
「いえ……。いい音が聞こえたもので……」
 僕は答えに戸惑ってしまった。そこに、ストレートの長髪の女の子が僕の前に歩き寄ってきた。
「涼夜さん。ようこそ、私たちのバンドへ。私の名前は、広野(こうや) 唯です。ボーカルをやっています」
 唯という女の子は僕に微笑んだ。とっても笑顔の綺麗な人だ。
 ドキン、と胸が大きく鳴った。どうやら僕は唯さんに、一目惚れしてしまったようだった。
 運動能力も、学力まで悪い僕が、初めて人に恋をした瞬間だった。

 2

「あの、よかったら聞かせていただいても良いでしょうか」
 僕はずうずうしいと思いながらも、唯に聞いた。唯は振り向いて、仲間とアイコンタクトをとった。
「えぇ。いいですよ」
 その言葉が、バンドの結論だった。
「俺は、四組の須藤 和。ちゃんと聞いとけよ、涼夜」
 ギターを鳴らしながら、和が言った。涼夜と男子に言われるのは久しぶりで、とても嬉しかった。なぜなら、今の僕のあだ名は『鈍足』だから。
「ウチは、キーボード担当の赤城 はるか、や」
 はるかは、僕に向かってウインクをした。
「では、はじめましょうか」
 唯は舞台へと歩いていった。
「ワン、ツー、ワンツースリーフォー!」
 雅哉が声をあげた。それと同時にそれぞれが音を奏で出す。
 僕には、音楽なんて欠片も無いぐらい嫌いな教科だ。なのに、このバンドには惹かれてしまった。まだ、なにも知らないのに。
「夜空に輝く星。私達は、それみたいに一人一人、違う光を放っているんだ」
 唯が歌い始めた。八分音符の多い速いテンポの曲だった。唯の歌声は、本物の歌手かと思えるぐらい美しかった。
「その輝きが無くならない様に、日々、生きていこう」
 声のトーンが高くなったところで、ギターの間奏が入る。ピアノは低い音から高い音へと弾いてゆく。間奏の後は、サビ部分だった。
「満天の星空。私達の未来はそこにあるんだ。今は届かないかも知れないけど―。いつか、絶対に、掴んで見せるから―」
 僕はみんなの顔を見た。笑って弾いている、はるか。雅哉と笑い合っている唯。僕を見て笑った和。みんな、楽しそうだった。だから、こんなにも音だって楽しそうに聞こえるのかもしれない。
「時がこのまま流れたら、私達はいつか離れちゃうよね」
 二番が始まった。僕は、ずっとその場に立っていた。まるで、動くことを忘れたように。でも、動いたらすべてが消えてしまうような気がして動けなかった。
「でも、今は離れたくないから、手を繋ごうよ」
 音が僕の体に入り込んでいるような気がした。
「満天の星空。私達は翼を生やして、自分の未来へ飛び立つんだ。一度、バラバラになったって、また会えるように願って―」
 曲は終盤を迎えていた。
「prayer もう一度会えるように」
 こんなに、すごいと思う曲は初めてだった。正しくは、本当はテレビに出ているバンドや歌手のほうが上手いのかもしれないけれど、音楽番組を見ない僕にとって、このバンドはすごく思えたのだ。
「満天の星空。私達の未来はそこにあるんだ。今は届かないかも知れないけど―。いつか、絶対に掴んで見せるから―」
 雅哉が両サイドのシンバルを叩く。それぞれの音が徐々に消えてゆく。曲が終わった。僕はすっかり立ちっぱなしで聞いていた。
 その時、僕は何か初めての感情を抱いた。
「すごい。…すごいよ! 僕、感動した。初めてだよ、こんな気持ち」
 僕は拍手をしていた。
「有難う。涼夜さん」
「は…はい」
 唯への言葉は、なぜか脳がショートしたみたいに言いたい言葉が言えなかった。これこそが、恋という感情なのだろう。
「なぁ、涼夜」
 はるかが問いかけてきた。
 つい、敬語で「なんですか?」と答えてしまった。
「このバンド、気に入ったやろ?」
 はるかは、僕の心を見通しているようだった。
 僕は、なんと答えていいか分からず、まぁ、とあいまいな答えを出した。
「そこでや! これから毎日見にこぉへんか?」
「へ? なんで、毎日?」
 きっと、この時僕はすごくマヌケで、おかしな顔をしていて、その上、抜けた言葉で答えてしまった。和が僕を見て笑っている。
 まさか、こんな話が出てくるとは思っても見なかった。
「いいなぁ、それ」
 右隣から声がして、僕は横を見た。雅哉も賛成のようだ。僕を置いて話が進行して行ってしまう。
「ははっ。そうしようぜ」
 続々と賛成意見が増えていく。
「だめかな…? 涼夜さん」
 最後は唯からだった。
「…はい。そうさせて頂きます。毎日来させて頂きます!」
 僕は、みんなからの重圧に耐えかねたように簡単に折れた。でも、このバンドが気に入ったのと、唯に毎日会いたいという、理由があったからだ。
「んじゃぁ、決定や!」
 はるかがガッツポーズとした。
 僕は、このバンドの客になった。

 3

「あ、もうこんな時間か」
 雅哉が壁にかけてある時計を見て言った。今の時間は十七時四十五分。いつもだったら、もうとっくに家に着いて、遊んでいる時間だ。
「片付けしよか」
 はるかがピアノを片付けだした。みんなも片付け始める。唯一、片付けが無いのは唯だけで、暇なためか机に向かって黙々と、紙に何かを書き始めた。
「なにやってるの? 唯さん」
 僕は一番近くに居た和に聞く。
 和はチラッと唯を見て言った。
「新しい曲を作ってるんだよ。よく、みんなが片付けてる時に書いてる」
 和はギターをケースに閉まって立ち上がった。
「これ、私物?」
 僕は欠かさず問いかける。
 和は僕の指差しているケースを見てから、そうだよ。と言った。
「涼夜! これも私物」
 雅哉はドラムを指した。
 僕は唖然と、驚きを同時に感じ、「すごっ」、と答えた。そこで、雅哉はニヤリと不気味に笑った。
「……って、言ったらどうする?」
 雅哉はさっきの言葉に付け足す。
 少しの沈黙が流れる。騙された僕は、口を開けたまま、固まってしまった。
「涼夜、雅哉には気ぃ付けや。あいつ、あー見えて、ほら吹きやで。ウチも初めて会った時同じ手にあったわ」
 片付けを終えたはるかが、僕の後ろに立って耳元でささやいた。
 その時、
「出来たっ!」
 唯が、紙を持ち上げて叫んだ。そして唯は、雅哉と僕との出来事を知らなかったように、雅哉のところに駆け寄っていった。
 雅哉は唯の書いた曲を見ていた。その二人の様子は僕にとって、少し心を痛めた。なにせ、二人の様子は恋人同士のようだから。
「いい? やったぁ。新曲の完成だよ!」
 唯がはしゃいでいた。本当に、音楽をやっている唯は楽しそうだ。
「その前に、早く帰ろうぜ」
 和が話しの隙を突いた。
 そうだね、と、みんなが答えた。
 本当の帰路に着いたのは、この話から十分後だった。
「まさか、みんなが僕と一緒の方向だったなんて」
 僕を真ん中に、みんなが歩いていた。
「ウチも。涼夜がこっちやとは思っとらんかった」
 はるかの言葉に僕は、「どうせ、目立ちませんよ」と、呟いた。でも、よく考えてみれば、僕だってこの四人を通学路で見た事がない。きっと、お互い様なのだ。
「でも、朝は会わないんだから、しょうがないんじゃね?」
 雅哉が言った。ほかの三人は「あぁ」とうなずくが、僕は「え?」と、聞き返した。
「会ったこと、無いだろ? だって俺ら朝練してるし」
 僕は雅哉の言葉を疑った。これもまた嘘でないかと。
「これは嘘じゃないでぇ」
 はるかが僕に向かって言った。やっぱり、はるかは僕の心を見通している。
「嘘ってなんだよ?」
「あんた、いつも嘘ついとるやないかいっ!」
 はるかと雅哉の話し合いが始まった。というより、雅哉がはるかに怒られているようだ。
「でもさ、練習始めたの五年からだから、たぶん会ったことはあるよな」
 和が話を元に戻す。一瞬話が飛んだような気がして、僕は焦ったが、すぐ話の根源を掴むことが出来た。そこで、自分の昔話を入れてみる。
「あ、絶対会った事はないよ、朝には。僕、五年の時に引っ越してきたから」
「え…、そうなんだ、涼夜さんって。どこから転校して来たの?」 
 唯が聞いてきた。
「東京から」
 ただ東京といっても、大都会ではないところに僕は住んでいた。
「いいなぁ。都会に住んでたなんて」
 唯の話し方を見ていると、僕を本当に羨ましく思っているようだった。
「そ…そうかな。ここでも十分都会だよ」
 今の僕にとって、こんな風に唯と喋れることだけが、嬉しかった。
「でも、運動会では俺らと会ってるよな」
 和が言った。雅哉のすぐ隣を車が通る。
 僕は「たぶん…」とあいまいなことを言った。
「あ、俺こっちだから。じゃーな、みんな!」
 和が左に曲がった。僕は手を振った。その先は大きな建物ばかりだった。
「あいつ、ぜんぜん見えないけど、大病院の医院長の息子なんだぜ」
 雅哉がはるかとの話を終えて、和について教えてくれた。
「あれ? 涼夜、そっちなんや。んじゃぁ、バイバイ!」
 はるかは歩行者用信号が青になると、横断歩道を渡って向こう側に行ってしまった。
 残るのは、僕と雅哉と唯。
「なぁ」
 雅哉が僕の肩に手をかけた。僕は「何?」と言った。
「今日って何曜日?」
「今日…? 今日は金曜日だよ」
 雅哉は僕がそう言うと、少し遠いところにある時計を見た。
「げっ! やば…。俺、塾なんだよ」
 雅哉の顔が真っ青になったと思えば、
「怒られる〜!」
 と、そう言って、すぐに走って行ってしまった。
 残ったのは僕と唯。一体何を話せばいいのだろう。話すテーマが思い当たらない。大体、女の子って、どんなこと考えてるんだよ?
「あの」
 僕が悩んでいると、唯が喋ってくれた。僕は良かった、と思いながら唯を見た。
「家まで遠いんですね」
「え…えぇ」
 確かにもう五分は歩いただろう。なんで、僕に限ってこんなに遠い家なのかが、知りたい。
「家どこですか?」
「駅前です」
 僕は、呼吸する間も無いぐらい、早口で言った。
「一緒ですね」
 まさか、こんな近くに共通するところがあったなんて。
「これから、一緒に帰りましょうね」
 唯が、僕に向かって笑った。頭の中で、唯の言葉が繰り返される。今、僕の心の中は天国だ。
「は…はいっ!」
 でも、これっきり話は終了。結局喋ることなく、僕達は帰った。一つ分かったのは、唯の家が僕の住んでいる家から三分ぐらいした、三階建ての家だということだった。

 4

「ただいま〜」
 僕は天国状態のまま、家の扉を開けた。
「あんた、いつもより元気だよ。非常にウザイ、そういうの」
 姉の瑞樹が口にクッキーの入った袋をくわえ、両手にはたくさんの教科書を持って僕の前に立った。ただ、姉といっても一歳違うだけで、身長などはほぼ一緒なのだ。
「いいじゃん。いっつもカリカリしてるより、百万倍マシなんだっ!」
 靴を脱いで、家に上がる。
「誰がいっつもカリカリしてるって…?」
 瑞樹の顔色が変わる。あぁ、僕はなんで天国から地獄へと引っ張られてしまうのだろう。
「誰も、カリカリなどしてはおりません」
 僕は必死になって瑞樹の怒りから逃れようとする。
「あっそ。次、言ったら殴るからね」
 ひひぃっ! それだけはやめて! 僕は頼み込む。瑞樹は昔、男子をも恐れるほどけんかが強かったのだ。
「分かってるんだったらいいのよ」
 瑞樹はそういって階段を上がっていった。
 ふぅ、と僕は一息ついた。
 リビングは冷房のおかげですっごく涼しい。こうやって、毎日が涼しければいいんだ。そうすれば、地球温暖化だって…。あ、僕、今すっごくいいこと言ったよね?
「おやつ〜。おやつ〜」
 テーブルの上に母さんからの置手紙があり、その先にクッキーがおいてあった。その一つに手を伸ばして、味を噛み締めながらモグモグと、食べる。
「上手い! 絶品……。母さん腕前上げた!」
 僕の母さんは、今お菓子屋でバイトをしている。だから、時々こうやってお菓子を作っておいてくれるのだ。
「宿題、するか!」
 僕はテーブルの上に、ランドセルから取り出した算数プリントを出した。やるところは、分数の足し算、引き算。僕にとってはこれが難しい。鉛筆を手にとった。
 開始から五分が経った。まだ名前しか書いていない。どんなにうなっても問題は解けない。もし出来るなら、誰かにやってもらいたいぐらいだ。
「わかんない!」
 僕は声をあげた。問題は、五分の三+八分の五。簡単なレベルの問題。問題を見ているだけでまぶたが重くなってくる。いや、これは寝不足というのだろうか……
 僕は、眠くなりそのまま寝込んでしまった。

 5

 起きた時には、もう日が暮れて何時間か経ったような空が見えた。壁にかかっている時計では、もう八時を回っていた。
 台所では、瑞樹が夕飯を作っている。どうやら、今日は母さんの帰りが遅くなるようだ。
 僕は、やっと一息つくと大きなあくびをした。それで、瑞樹は僕が起きたことに気づき、テーブルにやって来て一喝した。
「あんたねぇ、こんな忙しい時に寝るんじゃないよ! あたしがほとんどやらなきゃいけないじゃん? それとも、侮辱? あんた、眠いんだったら宿題をとっとと終わらせて、二階で寝てきな! いいね?」
 なんだか、一日分の怒りを僕にぶつけられた様な気がした。
「…はい」
 僕はいやいや立ち上がり、プリントなど、僕のものを持って上に向かい歩き出した。
「なんで、二階に行くんだよ」
 瑞樹が火を止めた。
「だって、二階のほうがうるさくなくていいでしょ?」
 僕は、瑞樹を見た。
「ここでやりなさい」
 瑞樹は右手の人差し指をテーブルに向かって突き出した。
 僕は少し首を傾げてから、椅子に座りなおした。そこで、瑞樹が「あ」っと、言い出す。
「何? 瑞樹」
「分かんないとこあったら、言えよ。教えてあげるから」
 僕は心の底から驚いて、瑞樹に顔を上げた。瑞樹は僕と目が合うと焦ったのか、すぐに家事へと戻ってしまった。
 僕はそこで姉の優しさを知り、「ありがとう」と呟いた。瑞樹にその言葉が聞こえたのかどうかは分からないが、「別に」と、言い返した様な気がした。
「んじゃぁさ、これ。どうやるの?」
 僕は間髪いれずに、一問目について瑞樹に聞いた。
「え? どしょっぱつからなの? あんた、どんなけバカなんだよ」
 瑞樹の様子は嫌々に見えたが、すぐに僕のところに寄ってきて、教えてくれた。
 瑞樹……。ありがとう、優しいね。
 僕は、心の中で呟いた。でも、この優しさはなんだか壁の向こう側にあるような気がして心の奥深くでもどかしく感じていた。家族や友達。唯、バンドの人達にもらう優しさは本当の優しさだと思えるのに、なぜか瑞樹からの優しさは、どこか遠くにあるような気がした。きっと、今のままでの僕では、瑞樹からの優しさが本当だとしても気づくことが出来ないだろう。
 僕は頭を上げて、教えてくれている瑞樹の顔を眺めた。

 6

 僕はランドセルを背負ったまま、階段からものすごい速さで転がり落ちた。二階から階段を伝って一階に行こうと思ったところまでは良かったのだが、それから段を下りている最中に、足を段から踏み外してしまったのだ。もし、この家の階段が螺旋階段だったら、余計に危なかっただろう。僕の着地の仕方は、頭を階段に、腰を床に、足を靴箱に。思いっきり全身を打ったまま、動けなくなってしまっていた。
「おぉ! 朝っぱらから涼夜はパワフルだなぁ」
 笑いながら、父が出勤するために玄関へやってきた。でも、玄関への道を僕が塞いでいる。そこへ、もう一人やってきた。
「あんた朝から何やってるの! 邪魔なんだけど。学校遅れたらあんたのせいだよ? もう、どいてどいて!」
 瑞樹は父を押しのける。そのあとに、僕に向かって言う。
「あんたは動かないでね?」
「え……どういう意味……!」
 瑞樹は、僕の上を飛び越えた。僕は、恐怖と驚きで言葉を失ってしまった。
「だから動かないでって言ったじゃん。バカだねぇ……。んじゃ、行ってきます!」
 瑞樹はそのまま靴を履いて家を出て行った。
「父さん……。助けて」
 僕は父に助けを求めた。父は大きなため息をついてから、「ほい」と、言って僕に手を貸してくれた。僕はやっとのことで起き上がると、靴を履いて家から学校へと出かけた。 

 今日は、学校までの長い距離を走っていた。走らなくても間に合うように家を出ているのは変わらないが、早く行けばバンドの音を聞くことができると思っていたからだ。
 信号を抜けたところで、一度肩で息をしていた僕の呼吸を整える。走ってみると、周りの景色がいつもと違うように見えていた。
「……行こう」
 僕は自分に呟いて、また走り出した。

 学校に着いたとき、時間は八時前だった。そこで、僕はランドセルを教室に置いてから、一目散に音楽室へ向かう。
 扉を開ける。昨日、聞いた通りの曲が聞こえてきた。
「あ、涼夜や!」
 はるかが、僕のことに気づいた。みんなも僕のことを見て、音を出すのを止める。
「来たんだな。偉いじゃん!」
 雅哉が僕に手を振った。僕も手を振り返す。
「え……、偉くないよ。僕なんて」
「涼夜、約束を守るのが偉いんだよ。勉強が出来る、運動が出来る、みんなから注目を受けていることが偉いんじゃない。涼夜は偉いんだ」
 和が言う。なんだか、勇気が沸いてきた。
「僕が……偉い」
「そうやよ! 偉いんや!」
「ねぇ、涼夜さん」
 周りが盛り上がっている中、辛そうな声で唯が言った。
「今のうちに、このバンドが生まれた理由を、あなたに知ってもらいたいです」
 唯はなんだか僕に重大なことを教えようとしている気がする。
「……いいよね? みんな……」
 唯の目が涙ぐんでいた。
「言うんだね。俺ら以外に」
「いいで。ウチは涼夜の事、仲間やと思てるから」
「涼夜には、知っておいてほしいから、俺も、いい」
 みんな、僕のことを信用しているみたいだった。
「だったら、言うね」
 唯は目を閉じた。窓から、強い風が吹いている。
「このバンドは……」
 小さな声が風にかき消された。

 7

「このバンドは、仲間はずれにされた人達の集まりです……!」
 唯は叫んでいた。
 唯の手が震え、みんなの視線が下を向き、僕は返す言葉を失った。強かった風は、急に勢いを失ったように弱くなる。
 信じたくない。信じたくない。信じたくない。信じたくない……!
 僕は心の中で叫んだ。でも、それを口に出すことは出来なくて、ただ立ちすくむだけだった。
 嘘だよ。嘘。そんなの、嘘だ!
 僕はみんなを見た。みんな、「これは本当です」っていう顔をしている。
 なんで? はるかは、僕に優しいじゃん。雅哉は僕の名字を知っていたじゃん。和は僕に勇気を沸かせてくれたじゃん。唯はみんなから信頼されてるじゃん……! なんで、そんな人達が、仲間はずれなんかにされたんだよ! 何でだよ! 嘘、じゃないの……?
「みんな、自分を信じてもらえなかったんです! だから、誰も私達の声を聞いてくれなかったんです!」
 唯が叫ぶと同時に泣き出した。はるかが、唯に寄り添ってなぐさめている。
 本当だよ、と、和が震えた声で言った。もう、僕は何も信じれない。
 和は今にも倒れそうなくらい、震えていた。
「涼夜は信じてくれるか……? 俺のこと、唯のこと、はるかのこと、和のこと」
 雅哉は、僕の前に立って言い張った。
「俺達は、一人になりたくないんだよ。涼夜に信じてもらいたいんだよ……!」
 僕は、何も言い返すことが出来なかった。
「……ごめん」
 僕は小さく呟いて音楽室を出た。現実逃避をしようと思ったのかもしれない。ただ、今は謝ることが、一番のことだと思っていたし、何も信じたくなかった。信じることで、この絆は結ばれたとしても、本当なのかどうか、調べてみたかった。
「……うるさくね? 音楽室」
 廊下で二人組の女子が話している。僕の足取りがとまった。

 8

「だよねー。あいつら、無視されたからって、音楽室のもの壊してんじゃねーの?」
 一人の女子が笑った。僕は女子の言葉に、真実を知った。
「それにさ、この頃先生にもシカトされてるらしーよ。もう、やばくね? 学校に来てる意味無いっつーの」
 僕の心が凍りつく。目の焦点が合わなかった。
「無いよねー。転校すればいいのに!」
 二人が笑った。目の焦点が、二人に定まると、僕の感情は我慢出来ずに、二人へ駆け寄り、一発ずつ思いっきり殴った。殴ることなんて、めったにしてないから、手がとっても痛かった。
「なにすんだよ!」
 一人の女子が、赤くなった頬を手でかばいながら叫んだ。そうとう、痛かったのだろう。僕の手もじんわりとまだ痛みが残っている。
 少女を睨んだ。この際、もう怪我なんてどうでもいいと思う。周りが騒ぎ始める。「私、先生呼んでくる」、と言う声が聞こえた。
「お前らなんかに、悲しみが分かるかよ! お前らのほうが、学校に来る意味ない!」
 もう一発ずつ殴る。手が、一発目より赤くなっていた。
「和がなにやった! 唯がなに嫌なことした! はるかが喧嘩ふっかけたか? 雅哉が殴ってきたか?」
 僕は女子に怒りをぶちまけた。
「お前、あいつらの仲間か?」
 何も、答えられなかった。
 信じなければ、仲間になれないことは分かってる。もう、僕の答えは決まっていた。
「仲間だよ! それで悪いか? お前らなんか、仲間にもなれないくせに、人の痛みが分かるかよ!」
 信じよう。仲間になろう。 
 そのとき、僕は先生に取り押さえられた。「やめなさい!」周りの人達が喋らなくなる。
「僕が何悪いことしたんだ? 悪いのは、あいつらだ!」
 後ろを振り向いたとき、見えた。
 僕を見ている唯たちを。

 9

 その後、どうやって僕が先生の説教から逃れたか、逃れられなかったのか、僕は覚えていない。ただ、その後からみんなに会うことが、億劫になったことと、手の痛みが残っていたことを覚えている。
 休み時間になったことを知らせる予鈴がスピーカーから鳴った。担任の深本先生が礼をして、教室から去っていくと同時に、僕達は勉強から少しの間、逃れることが出来る。僕や、ほかの勉強嫌いな人にとっては、大変嬉しい物だろう。
「ねぇ、涼夜さん」
 廊下から、声がした。廊下に出て行く。
「誰? さっき僕のこと呼んだの」
 前に、唯の姿があった。
「なんであんなことしたの?」
 僕の質問とは他に、唯から質問が飛んでくる。
「なんでって……」
 僕は口を濁した。話したくない。
「なんで私たちのことで、涼夜さんが怒られなきゃいけないの?」
「別にそんなこと考えなくてもいいよ」
 僕は教室に戻ろうとしたが、唯に手を握られ、動けなくなってしまった。これこそが、恋の感情なのか。手を、強く握り返してしまう。
「考えなきゃいけないよ。だって、涼夜さんは……仲間だから!」
 唯は気づいてくれたようだった。でも、仲間の本当の意味は分かっていない。
「仲間だからって、考えるんじゃないよ。仲間だから、助け合って、護りあって、傷つけ合うんだ。僕は、その中の一つをしただけ」
 もう、僕は唯たちと元の関係には戻れない。
「そっか。そうだよね。だったら、今度は私が涼夜さんを護るからね」
 唯が微笑んだ。心の中に凍っていた、すべての感情が解けていく。唯には、人を引き付ける力があるのだろうか。
「じゃあ、バイバイ! 今日の放課後ね!」
 唯は、手を離して奥の教室へと走っていった。僕は「うん、放課後」と、聞こえないと知りながら、呟いた。

第2章
 1

 帰りの会が終わると、六年二組の男女ほとんどが部活に行く。僕は、その人達に紛れながら音楽室へと足を運んだ。
「おー、涼夜やん!」
 階段を上っていると、はるかが笑いながら歩み寄ってきた。顔からいって、別にあのことは気にしてないようだ。
「はるか……」
 僕はなぜか俯いてしまった。それを見て、はるかは僕のランドセルを押して、無理やり僕を上らせた。
「はよ行こう! 今日から新曲や」
 僕ははるかの手をランドセルから振り払って、「新曲?」と、訊いた。
「そうやよ。唯が作っとったやん。楽譜もらったんやよ」
 はるかは薄っぺらい一枚の紙を差し出した。
「これ? なんか薄いね」
「そーか? 今までよりは、多いほうだけど」
 はるかは、軽い足取りで階段を上りきった。
「これで?」
 僕ははるかを追った。
「それより、曲の題名だよ。題名!」
 はるかが楽譜を指す。僕は楽譜の上に書いてある文字を見た。そこには、君、と書いてある。
「君? これのどこがいいの?」
「それなぁ、歌詞に、君を待ち続ける、って言う言葉が出てくるんやで? そこがいいやん!」
「君を待ち続ける……か」
 僕は心のどこかで自分のことを待っていてほしいと思った。
「なぁ、おいてくで?」
 気づいたときには、はるかはもう音楽室に入ろうとしていた。「別に行けるよ。そこまでなら」僕は音楽室へ向かった。
 入ったとき、雅哉が僕の前に立って先へと進めないようにした。
「何? 雅哉」
「……ごめん」
 雅哉は、僕に目線を合わせなかった。ただ、恥ずかしそうに下を向いていた。
「何が?」
「……分かんねぇんだったら、いい……」
 雅哉はすたすたと、ドラムへ向かっていった。
「変なの」
「みんな気にかけてるんやよ。涼夜のこと」
 はるかが僕の肩に手を置いた。
「僕の……こと?」
 僕は音楽室にいるみんなをそっと見つめた。外見では分からないが、みんな僕を心配してくれている。そう思うと、嬉しかった。
「みんな。ありがとう」
 和が少し笑った。雅哉が、「どーってことない」と、呟く。唯は、僕に手を振った。はるかは、「良かったなぁ」と、耳元で言った。
「うん。良かった」
 僕は笑った。それを見て、はるかが僕のもとを去って、ピアノへと向かう。
「みんな、楽譜見たよね?」
 唯の掛け声に合わせて、「おぉ!」、や、「うん!」、と言う声が舞う。
 僕の心は、未知の感情でドキドキしていた。一体、この曲はどんな曲なんだろう。
「私はここで、君を待ち続ける」
 唯が、曲の前に呟く。こんな曲もありなのか。ピアノの前奏が入る。前の曲よりもゆっくりで、曲に重みがある気がする。
「列車が通り過ぎてく。私はずっと、待ち続けてる」
 ドラムは、あまり出番がないようだ。ギターは、一音一音、音を噛み締めるように弾いている。
「約束だから、約束だから……。でも、早く来てよ!」
 なんだか、本当に攻められているような歌い方だった。
「私はここで、君を待ち続ける。何があっても……」
 ピアノの音が急に聞こえなくなる。本当は、ある場所なのだろう、みんながはるかを見つめている。
「い……痛い……」
 はるかが、右手を押さえている。唯が駆け寄る。
 雅哉がはるかの手を触る。はるかの目が細くなる。そうとう痛いのだろうか。僕もはるかへ一目散に駆け寄った。
「どの指が痛いの?」
 和の問いかけに、はるかは小指を刺した。
「ちょっと、ごめんね。触るよ」
 和はテキパキしていた。はるかの小指を曲げている。
「初めて? 痛くなったのって」
 はるかが首を縦に振る。和が、一つため息をつく。
「和、分かったか?」
「あぁ。腱鞘炎だろうね。病院にいって、見てもらいなよ。あと、ピアノは弾くな! 俺からの警告。指が動かなくなっても知らねーからな」
 みんなが喋らなくなった。
「でも、治るんだよね?」
 唯が呟く。
「たぶん、な」
 たぶん、という曖昧な答え。なんで、そんな答えがあるのだろう。
「分かったで。和のゆう通りにするわ。和がそう言うんや、きっとほんとのことや……。みんな、ウチのことは心配しなくていいからな」
 はるかの声は、別人のように辛そうな声で言った。僕の心も悲しくなる。
「……はるか、気を落とさないでね」
 唯も悲しそうだった。僕がなにかすることは無いのだろうか。
「病院行く? 俺のとこだけど」
 和の目はとても優しそうだった。僕は癒された。そのなかで、特別なぐらい、雅哉はしょんぼりしていた。まるで、自分の所為だと罪を思うように。
「分かった。行くわ。でも、保険証持ってこなかんやろ?」
 和は保険証の事を忘れていたようで、黙っていた。
 しばらくして、二人は立ち上がって、音楽室を去っていく。少し、太陽が雲に隠れて見えなくなった。風がちょっとだけ、強くなる。
「私達も、帰る?」
「あ、はい」
「俺は……、やめとく」
 雅哉は話を続ける。
「ちょっと、はるかのことが気になるから、和の家寄ってく」
 雅哉は、絶対はるかのことを好きなんだ! しょうもない事かもしれないけど、僕はカンでそうだと思った。
「そっか」
「バイバイ」
 僕と唯は雅哉を見送った。二人だけになってしまう。今日は学校から別れ道まで、ずっと二人だ。なんだか、少し心臓の拍動が速くなっていた。
「涼夜さん? どうかしたの?」
 唯が僕の様子が可笑しいことを気づいていたなんて、思わなかった僕は、とても奇妙な声を出してしまった。
「大丈夫?」
 あ、ごめん。と、僕は言い返した。「帰ろっか」僕は、ランドセルを背負った。

 2

 二人になると話せなくなる―。というのは、よく分かる。
 二人になるほうが、気にせず話せる―。すごく仲がいいのだろう。
 なら、一人が固まってて、一人がよく話す―。ってのは、どうなるのだろう。
 三つ目が今の僕達の状態。僕が固まり、唯が話す。
「……でね、私達は五年の時まで名前も知らない同士だったんだー!」
 そうなんだ。と、決まった言葉で返す。
「……聞いてる?」
「そうなんだ……」
 僕は、失言に気づく。
「本当に大丈夫? さっきから、そうなんだ。しか言ってないけど……。もしかして私のこと……」
「違う違う違う! 大丈夫だから……」
 僕は顔の前で両手を振った。そこでまた気づく。唯が「私のこと……」の後に、何を言うか聞きそびれたことに。僕は少しもったいなかった様に思う。
「そっか。ならいいんだ」
「それでさ……話が変わるけど、僕のこと涼夜って呼んで。それと敬語? 見たいなのはやめてほしいな、仲間だから」
 僕は言ってみる。
「うん、分かったよ」
 ありがとう、とお礼を言う。「それじゃあ……」と、唯も何かを言い出す。
「私のことも、唯って呼んで!」
 僕は驚いて動けなくなった。
「な……なんで?」
 やっとのことで、正気に戻る。
「だって、みんなのことは呼び捨てなのに、私の時だけ、さん付けするから。なんか、喋りにくいと言うか……。あっ、でも喋りにくいんだったらいいよ。まだ、昨日会ったばっかなのに、呼び捨てにするのって、変だな? って思うんだったら」
 唯はそんなことを考えていたんだ。僕なんて、自分のことも精一杯なのに、すごいな。少し、昨日の自分に後悔していた。
「分かった。そうするよ、唯」
 僕はゆっくり言った。唯が笑った。
「空、青いね」
 唯が当たり前のことを言った。「うん」とうなずく。
「皆の心も空みたいに、一色かな?」
「たぶん仲間は全員一色だろうね。未来とか、希望とか、楽しさとかの色で。だけど、たぶん悲しみとか、悪とか、苦しみとか、嫌な色で一色になってる人もいるんだよな。この世界では、皆違うから、一色も同じ色なんて無いのかも知れない」
 僕の心も一色なのだろうか。願うことが出来るのならば、楽しみの一色であってほしい。もし、願うことが出来ないなら、自分が嫌な色に侵食されないようにしたい。悪はきっと、これからの自分が進んでいく道の途中、一歩前にあるかも知れない。もしかしたら、一度は足を踏み入れたかも知れない。そんなところなのだ。
「空が澄み切っているように、自分の心も澄み切ってたら、いいな」
 唯は願うように言いながら、空を見上げた。「あぁ」と小さく呟いた。
 その時、唯が「あっ!」と言って駆け出す。
「どうかした?」
 僕はその後を追った。唯は知らない店の前で止まった。
「ここ、楽器屋。寄ってってもいい?」
 唯が楽器屋と言った店は、大きいけど、古びていて、京都への旅行のときに見た、饅頭屋の老舗に似ていた。
「いいよ。僕も寄るよ」
 唯が扉を開ける。中は外見と違って新しく、売り物が整理してあった。
「いらっしゃ……。唯ちゃん! こんにちはー」
 店員が友達のように言った。
「わぁ! 佐藤さん。今日がバイトの日だったんですね」
「違うのよ。今月から正社員!」
 佐藤さんは、胸元についているバッチを見せた。そこには、彼女の顔写真と、となりに『正社員』とはっきりあった。
「わぁ。そうなんだ! ここ三週間顔見せなくてごめんね」
「いいのよそんなこと! それより、彼は誰? もしかして、唯ちゃんの彼氏?」
 話が僕のことに移った。佐藤さんは僕を珍しい貴重動物のように覗き込む。僕はその眼差しに驚いて、動けなかった。
「彼氏って、それはないよー。バンドの仲間!」
 唯は笑った。
「……ないんだ」
 僕は俯いて、自分にも聞こえないぐらいの小ささで呟いた。ある意味、さっきの唯が言った「私のこと……」の後は聞かなかったほうが良かったと思う。絶望していただろうから。まだ、今は唯と言えるから、絶望はない。
 どちらかと言うと、叶わない恋のほうが多い、というのを聞いたことがある。僕の恋もこのまま叶わずに散ってしまうのだろうか。少しだけ、唯を違う国の王女様ように眺めた。
「涼夜! これどう?」
 唯が呼んだ。僕は歩みだす。「自分のために買うの?」
 唯は、皮製の小さなピアノが付いたキーホルダーを僕に見せた。
 ううん、と唯は首を振った。「はるかのために買うの」
 唯の顔は辛そうにだった。
「はるかも、持ってそうだけど」
「そうな風に見えても、意外と持ってないんだ。こういうの」
 そうか。声を低くした。「買っていきなよ。きっと喜ぶから」
「うん。そうするね!」
 唯は笑った。笑った顔をしてくれると、僕も嬉しかった。

 家に帰る時には、すっかり日は沈んでいた。少しだけ赤を残した空がだんだん藍色のような黒に染まってゆく。そのなかで、ひとつだけ星が光っていた。

 3

「遅刻だ……」
 家を飛び出して走り出した。昨日の夜、散々ゲームをしたあと忘れかけていた宿題をやり始めたため、夜中の1時過ぎに寝てしまった。その所為で、今日はものすごく寝過ごしてしまった。
「なんでこんな日に限って、誰も起こしに来ないんだよ!」
 でも、瑞樹は学校に行く前に、何回か起こしに行った、と言っていた。それでも気づかないぐらい暴睡していたのは僕なのだ。自分でもバカだと思っている。
 足が縺れる。一瞬倒れそうになった僕の体は、どうにか体制を整えて、また走り出した。よく考えれば、もう学校に着いたって遅刻は免れることは出来ない。だって、交差点の前の時計が八時半を過ぎている。僕はそれを見て急に気力が抜け、走るのをやめた。もう、怒られたっていいから、疲れたくなかった。僕は、ここ最近で随分不良生徒に近くなっているだろう。
 出勤前の大人が、がやがやと僕のすぐ隣を駆け抜けてゆく。中にはぶつかっても気づかずに走り去ってしまう人だっていた。僕の歩く方向と一緒の方向を歩いているからいいものの、逆方向に歩いていたら、僕はその波に押されていってしまうかもしれない。目の前の信号機が点滅していた。少し早足になる。僕が渡り始めるときにはもう赤信号になっていたが、大人に紛れて横断する。なんだか、罪悪感を感じた。悪の道までも歩みだしているかもしれない。
 ここを過ぎれば、大体の大人は駅に向かって右に曲がった。僕はあと五百メートルほどの学校に向かった。また唯たちに会えることを願いながら。

 4

 二時間目が終わったときの休み時間。その時、雅哉が教室に走りこんできた。
「り、涼夜……っ!」
 雅哉の表情は暗く、怖かった。まるで、何かとてつもなく悪いことが起きているように。
「なんだよ。そんなに息切らして」
「お前の前殴ったやつの母さんが来た。お前、もしかしたらヤバイかもしれねぇぞ」
「え……?」
 足音が近づいてきていることが分かった。しかも数人、声がする。
「ほら、来た。それに、唯たちが……」
「唯に何か遭ったのか?」
「唯たちのいじめが勃発した。しかも前よりすごくなって」
 本当かよ……。僕は歯を食いしばった。「雅哉は大丈夫なのか?」
 雅哉は、俺は大丈夫、と苦笑いをした。それを見て分かった。もしかしたら、僕も危ないかもしれない。
「私(わたくし)の鈴華に傷をつけたのはどの子なの?」
 声は、廊下じゅうに響き渡った。きっと、傷をつけた犯人は僕だ。教頭先生はその人の怒りを沈めながら怒っていた。
「僕、二回も怒られたくないんだけど」
「だったら俺と一緒に来て」
「無理だよ」
 僕はその後に、この教室は一番奥……、と付け足そうとしたが、もう教頭たちが目の前に迫っていた。
 見つからないように座る。教室にいたクラスメートは何のことなのか分からずに、ただ教頭とPTA会長を見つめていた。雅哉の居た気配はしなくなって、すぐ後に叫び声と共に、雅哉の声が聞こえた。「教頭先生! 赤城さんが……」
 教頭はすぐに雅哉の声がしたほうへいった。PTA会長も一緒についてゆく。僕はその後ろを気づかれないように付いていった。
「あんたさぁ、いつまでダチなんかに頼ってんの? もうあんたにダチなんか居ないんだよ!」
 どこかで聞いた声だった。
 鈴華!、PTA会長が駆け寄る。
「なんで母さんがこんなところに居るんだよ……」「教頭まで……!」
 倒れていた唯は雅哉に助けてもらいながら、僕のことを見つけると笑った。足に沢山のあざをつけた唯の足取りはままならなくて、雅哉が肩を添えても大変だった。それを見て僕は駆け寄り、もう片方で唯の体を支えた。
「保健室に行かせるぞ」
 考えることも無く、すぐにうなずく。
「雅哉……。はるかを……」
 唯は呟いた。「私がはるかを、庇ったの。だから、私より、はるかを……」唯の眼には涙があった。そして、一筋に流れる。
「涼夜、頼んでもいいか?」
「あぁ。僕が連れてく」
 そういって、雅哉ははるかを助けに行った。僕は、よろめきながら、保健室に向かっていた。

 5

 雅哉はあれから、なぜか帰ってこなかった。そっと、眠っている唯の顔を見る。綺麗だった。
「一目惚れしたんだな……唯に」
 感情を確かめてみる。出来るなら、今告白したいくらいだった。
 傷だらけの唯の手を握った。秋だからなのか、とても冷たかった。
「唯……好きだよ」
 聴いていないと分かっていながら、言ってみる。誰も聞いてないはずだ。というより、聴かれたくない。こんな事知られたら、何を言われるか……。
「雅哉」
 ふと、唯の声がした。寝言だ。僕はそっと、唯の手を握る。まるで死人のように冷えた手は、なかなか温まらなかった。
「護ってあげたいな。皆を」
 少し、唯の手は暖かくなっていた。

 6

 あれから、一週間がたっていた。あいかわらず、いじめは起こっていた。
「……じゃあ次、岡林君」
 僕は、教室の席が変わる時、窓側の席に自ら進んで座った。ここからだったら、空が沢山見えるし、陽だまりの中にいて、自分は生きていると思えるからだ。
「岡林君!」
「はいっ」
「続きを読みなさい」
 僕は、国語の教科書をぱらぱらめくった。話をきいていなかったことに今気づく。
「……すみません、聴いてませんでした」
「まったく。岡林君はこの頃可笑しいよ? ちゃんと話を聴きなさい!」
 怒られた。無言のまま、席に座った。
 本当に可笑しい。自分でも気づいていた。でも、どうしようも出来ないのだ。いつの間にか、空を見て、いつの間にか眠っていて、気づいたときには、取り戻せないぐらいの時間が過ぎる。毎日、それの繰り返しだった。でも、病気ではない。かといって、疲れているのでもない。
 一体、どうなってしまったんだろう。

 気づいたときには、授業が終わっていて、帰りの会が行われている。
「明日の日直は岡林君です。帰りの挨拶をします」
 起立。立ち上がる。
 礼。「さようなら」と、呟く。
 別れ。それぞれが動き出す。僕は、ランドセルを背負って、音楽室へ向かった。
 いつもの道。音楽が聞こえてきている。足を速める。できるだけ、早くつきたい。
「もう 僕らは 一人じゃない」
 唯の声が聞こえた。音楽室の扉を開く。
「一人じゃないから 信じる勇気を持って 歩きー出そう、未来まで」
 一曲が終わったところだった。
 また、新曲だ。一体、どんなときに作っているのだろう。
「涼夜。元気ないね、大丈夫?」
 唯が僕の異変に気づいた。自分的にはこれでも元気なほうなのだが、相手からは元気のないように見えるらしい。確かに、今日だって先生に可笑しいといわれるぐらいだ。相当、可笑しいのだろう。
「たぶん、大丈夫」
 僕は作り笑いをして、唯に見せた。でも、唯は「大丈夫じゃないね」と呟いた。僕は、どうなってしまったのだろう。右手で髪を掴む。
「大丈夫?」
 はるかが、言った。雅哉と和も、大丈夫か? と問いかけてきた。
「そう言われると、余計に大丈夫じゃないような気がするよ」
 僕は、ため息をひとつ漏らした。なんだか、色々なことに疲れてしまう。
「風邪にでも罹ったのかな?」
 僕は不意に出た咳でそう思う。額を触ってみると、僕の手の熱さよりほんの少しだけ熱かった。和が寄ってきて、僕の額に手を置き、和の額に手を当てた。そして、和は一息ついて「涼夜、熱あるぞ?」と言った。「嘘」僕は和のやったことを、自分でもやってみる。確かに熱かった。和の体温が36度だとしたら、僕は37度前後あるに違いない。
「帰るね。うつすといけないから」
 自覚した。皆がバイバイと呟いた。

2007/11/06(Tue)20:14:07 公開 / halcyon
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■作者からのメッセージ
最後まで読んでくれて有難う御座います。
これからも、なるべく早く更新して行こうと思います

コメントのお返事は、なるべく早くお返します。

久しぶりに書き込みました

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