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『ナイスミドルになれなくて……【第10話】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:鋏屋
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あらすじ・作品紹介
通勤電車から始まった中年男と女子高生のちょっと微妙な関係。2人の間にあるのは親子愛に似た気持ち? それとも恋愛感情?
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プロローグ
列車の発車到着を案内するアナウンスが流れる改札を抜け、俺は肩から下げた鞄の中から新聞を取り出しつつホームへと降りる階段を目指し歩いていく。通勤ラッシュの時間帯より1時間ほど早いせいもあってか、構内の人の姿は疎らで少々閑散としていると言える。改札を抜けてすぐの階段に、小走りに向かう人を後目に、俺は一つ先にある階段へと向かった。手前の階段から降りるホームの乗客は当然多く、それを嫌い一つ先の階段を降りるのが俺の毎日のパターンだった。
ホームに降りると、先客が1、2人ぐらいであとは駅員が1人、手に持った大きめの手帳でなにやら確認しているだけだった。俺はほとんど人気のないホームを少し歩き、足下のマーキングを確認して立ち止まり、手に持っていた新聞をに目を落としつつ、電車の到着を待った。
程なくして、電車の到着を告げるアナウンスとメロディが流れ、電車がホームに滑り込んできた。俺は読んでいた新聞を一旦わきに挟み、肩に掛けた鞄のスリングかけ直して電車に乗り込むと、周囲を眺める。いつも通り、乗客は4,5人程度でそれもよく見かける顔ばかりだ。俺は先頭車両の一番後ろのいつもの場所が空いているのを確認し、そこに腰を下ろした。そこは毎朝乗るこの急行電車での俺の指定席だった。小脇に抱えた新聞を広げ先ほど読んでいた部分を探し終え、続きを読み始める頃、電車はゆっくりと発車した。
いつもと変わらぬ時刻の電車
いつもと同じ乗客の顔ぶれ
いつものアナウンス
そして聞き慣れた規則正しい電車の駆動音
13年間通勤している何の変哲もない通勤の風景だった。
それから4,5分走った頃、車内に次の停車駅がアナウンスされ、徐々に電車はスピードを落としていく。俺は新聞越しに外の風景を眺めると、電車は踏切を越して駅のホームへと入っていくところだった。そこから見るホームには制服姿の学生達や、俺のようなスーツ姿のサラリーマンが並んでいる姿が見える。この駅は他の私鉄と交わっており先ほどの俺が乗った駅よりも若干多めの乗客が乗り込んでくる。俺はこの駅から乗り込む乗客に備え、横に置いてあった自分の鞄を膝の上に載せながら開くドアを見やる。数人のサラリーマンやOL達に混じり、部活の朝練なのか、学生鞄の他にスポーツバックやテニスラケットなどを下げた高校生の姿が見えた。俺は自然と女子高生に目が行った。
断っておくが俺はロリコンではない……と思う。
もちろん女子高生に変な悪戯を仕掛けようとするなって気は一切無い。俺はドアから乗り込んでくる女子高生の中に、ある顔を探した。俺の乗っている車両に乗り込んできた女子高生は5人居たが、どの娘も俺が探している娘ではなかった。
当たり前だ。彼女がこの電車に乗る事は無い。あるはずが無い。
やがてドアが閉まり、電車が動き出した。俺は少しの間、その閉まったドアを眺めつつ、空っぽな虚無感を感じていた。彼女の事を思い出すと、鼻の奥がツーンとして、目頭にうっすらと熱を帯びるのを感じる。俺は慌てて新聞を広げ自分の顔を周囲から隠した。電車はゆっくりとカーブするレールに従い少し傾斜を付けて進み、俺の尻の下の座席から規則的な振動を伝えてくる。
俺の隣の誰も居ない席
1ヶ月ほど前、此処で初めて彼女に出会った。彼女と出会ってからの数日間は、この1時間ちょっとの退屈な通勤電車をとても楽しいひと時に替えた。13年間何も変わらない通勤時間を過ごしてきた俺にとって、それはとても新鮮で貴重な物になった。
年甲斐もなく。まさに年甲斐もなくとしか言いようがないが。
左肩にかかる、居眠りしてもたれ掛かった頭の重み
柑橘系の微香をまとわせた瑞々しい黒髪のポニーテール
ニキビを気にして少し降ろしている前髪
猫のように良く回る瞳
刃に衣を着せぬキツイ口調
ipodの片方のイヤホンを借りて、一緒に聞いたコブクロの歌
そのコブクロを熱心に俺に薦める時の熱血教師のような仕草
時折見せる物思いげな横顔
親父ぐらい歳の離れた俺を「俊介」と呼び
少し鼻に掛かったような笑い声と
5月の晴れ渡った透んだ美空のような笑顔
俺はその全てを鮮明に思い出すことが出来る。そして、自分の娘とそれほど歳の変わらない少女に抱いた、認めたくない感情も。そうか、俺は彼女に……
中年男が、と笑うかい?それとも、今風に言えば『キモイ』と言うのかなぁ。でも一つだけ確かな事がある。
俺は、彼女の前で、ナイスミドルになれなかったのさ……
第1話 落とし物
彼女と出会ったのは4月の初め頃だった。
いつもと同じ通勤電車のいつもの席。俺はそこでいつものように新聞を読んでいた。俺が乗り込んでから最初の停車駅で、彼女は乗ってきた。
赤を基調としたチェックの少し短いスカートにベージュのブレザー。シミ一つ無い白いブラウスの胸元にさりげなく揺れる赤い小さなリボン。肩から提げたテニスラケットのケースを揺らせながら、他の乗客の間を流れるようにすり抜け、俺の前まで来た。
「あのう……此処、いいですか?」
少し鼻に掛かったような声で彼女は俺に言った。
「えっ?」
俺は新聞から目を離し、彼女を見上げた。大きめの瞳が一瞬俺と目が合った。そのとき少し彼女の目に不思議な変化があったのだが、俺はその意味をずっと後に知ることとなる。
彼女は続いて俺の隣に視線を移した。そこには俺の鞄があった。この電車のこの席は2人掛けである。向かいの席にも空席があったが、そこには男子学生が耳からイヤホンのコードを垂らして座っていた。まあ、年頃の女子高生が同年代の男の子と並んで2人掛けの席へ座るのは抵抗があるのだろう。俺はそそくさと自分の鞄を膝の上に置き、彼女の席を空けた。彼女は軽い会釈と同時に「すいません」と呟きながら俺の隣に座った。振り向き腰を下ろすとき、後ろに束ねた瑞々しい黒髪のポニーテールが揺れ、清楚な柑橘系の香りが俺の鼻腔をくすぐった。席に着いた彼女はテニスのラケットケースを足下に立て掛け、鞄からイヤホンを引き抜き耳に付けた。ピンクカラーのコードが何故か彼女には似合わない気がした。俺はまた新聞を開き、なるべく彼女に腕が当たらない様に気を付けながら続きを読み始めた。
しばらく電車に揺られていると、左肩に微かな重みを感じ、俺は彼女の方にチラリと視線を移した。彼女は居眠りをしていた。徐々に俺の方に頭をもたげてきたかと思うと、電車の揺れに反応しては戻る。何度かそれを繰り返していたが、睡魔に抗いきれなかったのか、とうとう完全に俺の肩に頭を持たせながら眠ってしまった。 俺は何度か咳払いをして肩を揺すってみた。しかし彼女は一向に起きる気配が無かった。
部活の朝練、受験勉強、それに、恐らく居るだろう彼氏との長電話やその彼と遊ぶ時間。今頃の女子高生がどんな生活を送っているかなど、今年40になる俺が解るはずもないが、色々あるのだろう。少しの間、ゆっくり寝かせてあげても良いか。
そんなことを思い、起こすのを諦め、俺はそのまま寝かすことにした。なるべく左肩を揺らさない様に新聞をめくるのは、なかなか難し技術だった。しかし、そうなると心配になってくるのが彼女の降りる駅である。かなりぐっすり眠っているらしく、微かな寝息と呼吸の度に僅かに上下する胸のリボン以外全く微動だにしない。俺は13年間、同じ時刻に来るこの電車に乗っていて、乗り込んでくる乗客のほとんどが見たことある顔だが、この娘は1度として見かけたことがない。周囲に目を向けても彼女と同じ制服を着ている学生は居なかった。もう3駅目の停車駅だ。俺は本気で心配になってきた。しかし起こしてまだ先だったらかわいそうだ。だが、乗り越したらもっとかわいそうではないか。
俺は起こすべきか、それともただのいらぬお節介なのだろうかと心の中で葛藤し、もう新聞どころでは無くなってしまったのだった。
そうこうしているうちに、電車は俺の降りる駅の1つ手前の停車駅へとさしかかって居た。次の駅では俺が降りる。俺が降りれば彼女は目を覚ますだろう。そして目が覚めたとき、降りる駅がまだ先だったら良い。だが、もし乗り越していたら、彼女は落胆するだろう。途中で起こしてあげなかった俺にも少しは責任があるのかも知れない。
イヤ待て、だいたい、見知らぬ女子高生が居眠りをして寄りかかっていたのを、俺みたいな中年親父がそのままにしているなんて、よく考えたら明らかに変ではないか。端から見ればただのロリコンスケベの変態オヤジと見られても不思議じゃない。それは町で小遣いほしさにオヤジとエッチする女子高生を物色する援助交際オヤジと同類ではないのか。
そんなことを考えているウチに、電車は駅に止まり、ドアが開いた。しばらくして、発車を告げるベルがホームに鳴り響く。だがそのとき、彼女が動いた。起きたようだ。彼女はホームにある駅名看板を確認すると、軽く舌打ちして足下のラケットケースと膝の鞄を掴み、流れるような動作で閉まり掛けていたドアの外にすり抜けた。一瞬の出来事だった。そのしなやかな動作は、俺に野生動物を連想させた。ドアが閉まり、動き出した電車の車窓から、手にした新聞を落とし掛けたのもかまわず、ホームに降り立った彼女を目で追った。彼女も俺の方を見た。目が合った。そんな気がして反射的に目をそらしてしまった。その後、俺はまた新聞を畳み直し続きを読み始めた。しかし、さっきまで感じていた左肩の重みの感触が残っており、何故か気になって全然文章が頭に入ってこなかった。さっきまでの心配していた事と、それに伴い考えていた馬鹿な思いに、自然と苦笑が漏れてしまった。
この俺が、娘ほど歳の離れた少女に、ニュースで聞くような事になる訳がない。俺はそんな変態じゃないだろ。端から見たってそう見えるさ、馬鹿な心配をしたものだ。
そう思うと、本格的に可笑しくなった。声を上げて笑いたい気分だ。やがて電車は俺が降りる駅にさしかかった。俺は新聞を畳み、網棚に捨てようと席を立った。
そのとき、何かが座席から落ち、足下に転がった。俺は何気なくそれを拾い顔の前に持ち上げた。それは銀のチェーンが付いたペンダントだった。ペンダントトップは今時珍しい写真を入れるロケットタイプだった。俺は何気なく蓋を開けてみた。
年の頃は20前歳くらいだろうか。さわやかそうな青年がはにかんだ笑顔でこっちを見ている。さっきの彼女の物だろう。写真の主は、少し歳が離れているようだが彼氏だろうか。裏返して見ると文字が彫り込んであった。
I,S S861 MASUZAKI, TOURU TO MIKIKO, ANDOU
マスザキ トオル。この写真に写っている人物だろう。そして、アンドウ ミキコ。恐らく彼女の名前だ。どうやら彼からのプレゼントのようだ。今時銀のロケットなど、ずいぶん珍しい贈り物をする青年だ。そんなことを考えているうちにベルが鳴り響いて、俺は慌てて電車を降りた。人のことを心配して、自分が乗り越したら笑い話にもないはしない。俺は手に持っている銀のロケットを見ながらホームを歩いた。
さて、どうしたものか、大切な物だろうに。明日も乗り合わすだろうか。何せ初めて見かけた娘である。明日も乗ってくるとは限らない。明日もし乗ってこなかったら、駅員に届ける事を考え、俺はそれを無くさないように、鞄のいつも使わないポケットに仕舞い、改札に向かった。
これが彼女、ミキとの最初の出会いである。
まだ少し寒い4月の、良く晴れた日の朝。今でも目を閉じれば、そのときのことを鮮明に思い出すことができる。やがて、この出会いから始まる電車の中での彼女との関係が、俺の中で忘れられない物になっていくとは、この時は想像すら出来なかった。俺はこの時、とんでもない勘違いをしていたのだが、それが解るのはもう少し先の事である。そして、この出会いがきっかけで、俺たちは急速に親しくなる訳だが、彼女が何を思い、何を考え、どんな思いをもって俺に接していたのかを、痛恨の思いで知ることになるのももう少し先、彼女が俺の前から姿を消した後のことである。
第2話 再会
翌日も俺は昨日と同じく、いつもの電車のいつもの席に座った。席に着いた俺は、新聞を広げる前に、鞄のポケットをまさぐり、昨日拾った銀のペンダントを確認する。それが確かにそこにあることを確認した俺は、あらためて新聞を広げ読み始めた。新聞を読みながら、俺は昨日の女子高生のことを考えていた。
彼女は、このペンダントが無いことに気付いて慌てただろうか?そりゃそうだろう。彼氏からのプレゼントだ。無いことに気付いた後、必至にあちこちを探しただろう。もしかしたら、昨日のうちに、駅の落とし物係に聞きに行ったかも知れない。今更だが、昨日のうちに駅へ届けた方が良かったんだろうか。帰りも通る訳だから、一旦あの駅で降りて、駅の事務所に届けてあげれば良かった。たいして家路を急ぐ理由など、俺には無い。次ぎに来る電車が各駅停車であっても、充分夕飯には間に合う筈だった。もし、それが原因で、彼との関係に亀裂が生じたら、彼女は俺を恨むだろうか。そんなことばかり考えて、ちっとも記事が頭に入ってこない。俺は新聞を読むのを諦め、広げた新聞を畳んで鞄の上に置き、窓の外を流れる風景に目を移した。
まだ、低い太陽が、春朝の柔らかな光を投げかける町並みが、後方に流れていく。欠伸をかみ殺すような朝の町の風景だった。
しばらくして電車は、昨日あの彼女が乗り込んできた駅にさしかかった。俺は窓の外に流れていくホームに並ぶ乗客の群れを目で追いながら、彼女の姿を探した。
やがて電車が停車し、ドアが開いて数人の乗客が乗り込んでくる。俺がいつも乗るこの車両は先頭車両だ。通り過ぎてきたホームに彼女の姿は無かったと思う。彼女がこの電車に乗り込んでくるなら、俺が座るこの席の斜め向かいのドアか、先の3つのドアの筈だ。俺は、乗り込んで来る乗客の顔を一人一人見ながら、彼女の顔を探した。
何故だろう。妙に胸が高鳴った。例えるなら、片思いの娘に電車内でラブレターを渡す様な感覚。何とも言えないスリリングさと、不安と、期待とが入り交じった、妙な高揚感。なんだか少し若返った感じがした。
昨日1度だけ見た少女の顔を、はっきりと憶えているなんて、自分でも可笑しかったが、何故か彼女の顔は俺の記憶から離れなかった。不意にホームに発車を告げるベルが鳴り響き、ドアが閉まった。彼女は乗ってこなかった。
俺は他のドアから乗り込んだ乗客の顔をもう1度見直し、確認したが、そこに彼女の顔は無かった。俺はもう一度鞄のポケットをまさぐり、ペンダントを取り出して眺めた。今日は朝練がなかったのかも知れない。いや、昨日はたまたま、この電車に乗り合わせただけなのだろうか。俺は非道く残念な気持ちで一杯になった。そしてふと、そんな気持ちになっている自分に苦笑した。
何を考えているんだ、俺は。
自分の娘とそう変わらない歳頃の少女相手に、何を期待しようと言うのだ。まるで、同じ年頃の男子学生のようにドキドキするなど、フフッ、馬鹿げている。
俺は今日の帰りに此処で降り、駅の事務所に届けることを決めてペンダントを仕舞い、代わりにまた新聞を広げ、電車に揺られながら新聞を読み続けた。先ほどとは違い、今度は内容がちゃんと頭に入ってきて、スムーズに読むことが出来た。きっとこの時、俺の中では昨日の彼女のことは、もう毎日の通勤での些細な出来事として記憶の中に埋もれ掛けていたのだ。
しばらくして、隣の車両から乗客が移ってきたようだったが、俺は顔を確認せず、少し投げ出しかけていた足を引っ込めて譲り、さらに新聞を読み続けた。
そのうちに、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。昨日の彼女が降りた駅だった。ふと、俺はあることを思いついた。
待てよ、乗った駅と降りた駅。果たしてどちらに届けるべきか?
今の今まで、俺は彼女が乗りこんで来た駅の事務所に届けるつもりでいた。しかし、降りた駅の方が自然ではないだろうか?だが、わざわざ降りた駅に俺が届けるのも、ストーカーみたいな気がしてくる。俺はそんなことを考えつつ、目の前に広げてあった新聞を下げて、向かいの窓の外を眺めた。
そのとき、向かいの席を見て俺は少し驚いた。向かいの席に座っていたのは彼女だった。昨日と変わらない姿で、耳からあのピンクのイヤホンコードを下げたまま、やはりまた居眠りをしているようだった。そう言えばさっき、乗客がこの車両に移動してきたのを思い出した。
俺は少なからず動揺していた。全く予想外だった。まるで何の準備もしないまま、あれよ、あれよ、とスタートラインに着かされたリレー選手のような心境だった。またさっきの動悸が俺の胸を叩いてくる。俺は軽く深呼吸をして鞄のポケットから、あの銀のペンダントを掴んだ。彼女の降りる駅が近くなってる。それほど迷っている時間はない。たかが、落とし物を渡すだけなのに、何故こうも緊張するのだろう。俺は意を決して、そそくさと新聞を折り畳んで網棚に上げ、彼女の前まで行き、寝ている彼女の右肩をそっと叩いた。
「あの、ちょっとすいません」
肩を叩く振動に反応し、彼女が起きて顔を上げた。少し大きめの、子猫のような愛くるしい瞳で俺を見上げ、耳に付けたイヤホンを外すとちょっと意外そうな表情で俺を見つめていた。正面から見る彼女は、予想以上に美人で、俺をさらに緊張させた。
「ちょっとすいません…… 」
イヤホンを外したのを見て、俺はもう一度そう言いながら、鞄からペンダントを取り出すと彼女に差し出した。
「これ、君のじゃないか?」
彼女は俺の手のひらにある銀のペンダントに視線を移すと一瞬驚いたように大きな目を見開いた。
「あっ、あたしのです。何処行っちゃったのかと思ってて、なんで? 」
彼女はそう言って、私の手からペンダントをつまみ上げた。
「そうか、良かった。昨日降りるときに落としたんだろうね」
彼女はペンダントを開いて中身を確認し、和らいだ表情になった。
「やっぱり大事な物だったんだね。直接渡せて良かったよ。彼氏かい? 」
俺はそう彼女に言った。余計な一言を添えて。
「――中見たの?」
少しの沈黙の後、彼女は俺を見つめたまま、そう聞いた。その表情は高校生ではなく、大人の女性そのものだった。俺はドキッとしながら少し調子に乗って喋りすぎた自分を呪った。
「いやっ、その、つい何のけなしに空けてしまって、別に詮索するとかそういうふうな事ではなく、悪気があった訳では……」
俺は動揺しつつ、たじろぎながら、言い訳にもならない言葉を並べた。いやな汗が噴き出るのを感じる。
「でも、見たんでしょ?」
彼女がもう1度俺に聞いた。俺は次の言葉が見つからず、思わずこう言った。
「ゴメン」
よく考えれば、確かに勝手に中を見たのは失礼かも知れない。だが落とし物を拾って礼を言われる前に、中身を見たことを咎めてくるこの少女の方が失礼なのでは? と思わなくもなかった。しかし俺はもうすでにこの時、この少女に完全に降伏していた。彼女の醸し出す独特な雰囲気に飲まれていたと言っても良い。
「見たんだ……」
彼女がそう呟いた時、電車が止まりドアが開いた。彼女はすっと立ち上がった。
「サイアク」
立ち上がり際に彼女がそう漏らした。揺れる前髪から覗く瞳が視線に絡み、俺は息を飲んだ。一瞬見とれてしまったのだ。彼女はそのままドアをすり抜け、電車を降りていった。すぐにベルの音がホームを包み、ドアが閉まった。そして電車が走り出す。取り残された俺は、周囲の乗客からの好奇な視線を浴びつつ、ホームを歩く彼女を目で追った。彼女は軽快な足取りでホームを歩き、すぐに見えなくなった。
『見たんだ……』
彼女は言った。そして
『サイアク』
スピードを上げだした電車の規則正しい振動音が車内を包む中、彼女の声が、俺の耳にいつまでも残って消えなかった。
俺は嫌われたのか?なぜ、俺はそんなことを思うのだろう。
その日1日、俺は幾ばくかの罪悪感と、自己嫌悪を抱えながら仕事をした。
第3話 俊介とミッキー
翌日、俺はいつもの電車に乗るのを迷った。昨日の印象から、また彼女に会うのが少し気まずかったからだ。
昨日彼女は、俺をどう思ったのだろう?
正直、恥ずかしい話だが、俺はそのことが気になって昨夜の寝付きが悪かったのだ。情けない話である。1人の女性、いや、俺のような中年男が女性と認識するには、明らかに幼すぎる10代の少女の言葉に、心を乱されている。それどころか、それが原因で13年間乗り続けた通勤電車に乗ることを迷っている自分が居る。全く持って情けない話だ。
やがて、ホームに電車の到着を告げるアナウンスが流れ、しばらくしてゆっくりと電車がホームに入ってきた。いつものドアが、俺の前で止まり、空気の抜けるような音と共にドアが開いた。
今日はやけにドアが開くスピードが速く感じる。まるで俺を『良いから早く乗れ』と急かしているような気がした。俺は重だるい足を引きずるように電車に乗り込み、いつもの席に着いた。そして、きっと頭に入らないだろうと思いながらも、鞄の脇ポケットに挟んであった新聞を広げた。電車はすぐに発車し、俺は新聞の脇から、向かいの席の後ろにある車窓の外の流れる風景を眺めていた。
心なしか、今日はいつもよりスピードが速い気がする。自分の中にある、彼女と顔を合わせる気まずさが、そう思わせている事は解っている。解ってはいるが、ならば、尚のこと文句を言いたい気分だった。
『サイアク』
昨日の彼女の言葉を思い出す。
―――そもそも、俺は彼女にどう思われたかったのだ?
やがて、電車は彼女の乗り込んでくる駅へとさしかかった。俺はそそくさと新聞を少々上げ気味に広げ、読む振りをしながら行き過ぎるホームを目で追った。彼女と直接顔を合わす勇気は、俺には無かった。
しばらくして、電車は止まり、ドアが開いて乗客が乗り込んでくる。俺は持っている新聞の陰に隠れながら、今日彼女が乗ってこないことを祈っていた。数人の乗客が乗り込んでくる気配。発車を告げるベル。ドアの閉まる音。
俺は、少しずつ目線を上にズラし、そして手に持っていた新聞を徐々に下げていく。ガクンという振動と共に電車が動き出した。最初に目に入ったのは、ピンク色のコードだった。俺は、はっとして見上げた。少し大きめの、子猫のような愛くるしい瞳が俺を見下ろしていた。
「隣、良いですか? 」
彼女は、左耳からイヤホンを外し、そう俺に聞いた。初めて声を掛けてきたあの時と同じ、彼女の声。俺は一瞬、返事を忘れていた。
「すわっても良い? 」
彼女はもう一度聞いた。
「あ、ああっ、どうぞ」
我ながら間抜けな反応だったと思う。俺はそそくさと新聞を片手に折り、席を右に詰めて座り直した。彼女は「どうも」と呟きながら俺の隣に座り、手に持っていた鞄を膝の上に置いた。その際、やはり初めてあったときと同様、清楚な柑橘系の香りがした。俺は緊張した。昨日の彼女の言葉が蘇ってくる。何故、この娘は俺の隣に座ってくるのだ?昨日の件の釈明を聞きに来たのだろうか。だが俺はなんと答える?決まっている。ただ落とし物を拾って届けただけだ。中を空けてみたのだって、持ち主を確かめるために仕方なくした事だ。そう言う観点から見れば、至極当然な行為である訳で、決して彼女の事をアレコレ詮索するつもりだった訳では断じてない。
―――しかし
本当にそうだったと言えるのか?通勤電車の中で見かけた可愛い女子高生のプライベートを覗いてみたいと、少しも心の中に無かったと言えるのか?いいや、いいや俺は、断じて……
「昨日は、ありがとう」
唐突に彼女がそう言った。
「えっ?」
完全に肩すかしを食らった感の俺が聞き返した。
「昨日、お礼を言いそびれたから。確かに、貴方の言う通り、アレは大事な物だったのよ。だから一応のお礼」
一言一句、確かめるような彼女の言い方だった。
「ああ、いや、俺の方こそ、すまなかった。勝手に見たりして」
俺はそう言って、軽く頭を下げた。
「貴方、名前は?」
「えっ?名前?」
俺は言葉に詰まり、聞き返す。
「ああ、先にあたしからか。あたしは……」
と彼女が言いかけるのを俺が遮った。また余計な事を言った。何故か彼女の前だと緊張して余計な、言わなくても良いことを口走ってしまうのだろう。
「アンドウミキコさん」
その言葉に反応して、彼女が俺の方に振り向きながら、その大きめの瞳を、瞬きして見つめる。
何故こうも俺の口は、余計なことを言いたがるのだろう。俺は自分の迂闊さを呪った。
「あっ、いや、昨日の、ペンダントの裏に彫ってあったから」
俺は慌てて弁解しつつ、彼女にそう言った。本当に情けない。
「ああ、なるほどね」
彼女は納得したように頷いた。どうやら怒ってはいないようだった。少しほっとする俺に彼女が先ほどの質問を再度言ってくる。
「それじゃ、今度は貴方の名前、教えて?」
「鈴木、です」
「ブ〜っ、反則です」
彼女が、口を尖らせて文句を言った。
「は、反則?」
「名字だけは反則。そっちはあたしのフルネーム知ってるのに、不公平じゃない。イエローカード1枚。で、下の名前は?」
何故、名乗らなきゃならないのだろうと思ったが、確かに彼女の言い分にも一理ある。いや、そうじゃないな。そういう言い訳を、俺は自分の中で作っているのだ。だが、そういった理由が無くても、きっと俺は彼女に名前を教えていたと思う。彼女はそんな雰囲気にさせる不思議な空気を持っているように感じた。
「鈴木……俊介、39歳」
何故か年齢まで言ってしまった。
「あはははっ、別に歳は聞いてないよ」
そう言って彼女は笑った。知らないで見ていたら、何故笑っているのか、もの凄く知りたくなるような、そんな笑い方だった。なんだかこっちまで可笑しくなってくる。
「鈴木さんって面白いね。よく言われない? 」
初めて言われたよ。
俺は心の中でそう答えながら鼻の頭を指でこすった。照れてる時の俺の癖だった。
「あたしは17歳。高校3年生。これでおあいこね」
高校3年生か……学生服来て無ければもう少し上に見えるな、と思った。俺の見方が違うのもあるのだろうが、来年高校生になる自分の娘と比べると、ずっと大人びている気がする。それほど離れていないはずなのに、たった2,3年でこうも違うのだろうか。そんなことを思っていると、彼女がこう言った。
「ねぇ、俊介って呼んでも良い? 」
「えっ? 」
俊介って、速くも呼び捨てですか。いや、それ以前に、俊介なんて家内にも呼ばれたことは無い。現役の女子高生が俺のような40男を捕まえて、『俊介』と呼ぶなんて、なにかおかしくないか?
「代わりに、あたしのこともミッキーって呼んでも良いよ。部活の友達はみんなあたしのことそう呼んでるから」
そう言って彼女は俺を見る。
「ミッキー?」
「ミキコだからミッキー。ミッキーマウスのミッキー。割と自分でも気に入ってるの。だから俊介もミッキーって呼んでもOK。ミキコって呼ばれるのはちょっと苦手かな」
彼女は自然に俺を俊介と呼びつつ、自分のあだ名の説明をした。普通に彼女に使われると、それほどおかしく無い様に聞こえるのが不思議だった。
「俊介って呼ばれるの嫌なの?」
無言で考えている俺に、彼女がそう聞いてくる。少しきつめの口調に、有無を言わせぬ圧力を感じ、俺は降参した。
「いや、別にかまわないが……」
「じゃ、俊介決定〜」
俊介にミッキー。
おいおい、何を、俺みたいなおっさん相手に。いや、自分が名前で呼ばれるのも少し戸惑うが、俺が見ず知らずの女子高生をミッキーなんてニックネームで呼ぶ事になるなんて、想像したことすらない。妙な気分だった。妙な気分だが、不思議と不快ではなかった。どことなく、何か自分が、彼女にとって特別な関係のような気がしてくる俺は、世間に溢れている『勘違いオヤジ』の一人なのだろうか。そのうちに、彼女は片方のイヤホンを外し鞄に仕舞うと、代わりに昨日のあのペンダントを取り出し開いた。昨日見たのと同じ、さわやかな、はにかんだ笑顔の青年が移った写真。
「気になる? 」
彼女がそう言って、ペンダントを少し俺の方へと傾けた。
「いや、別に」
まぁ、気にならない事もないが、また余計な事を言う可能性があるので適当に答える。
「気にならないの?普通、気になると思うんだけど」
何となく、気にしない方が怒られそうな言い方だった。俺は慌てて写真とは違う質問を投げかけ、話題を反らした。
「その裏にある名前の上の記号はなんだい? ISSなんとかって掘ってある」
彼女はペンダントを裏にして不思議そうにしばらく考え、少しして俺を見ながらこう言った。
「はは、なるほど。コレはね、暗号。秘密の暗号。まだちょ〜っと俊介には教えられないかな〜」
そう言って彼女は笑った。少し鼻に掛かったような、特徴のある彼女の笑い声。その彼女の声と笑顔は、俺に晴れ渡った5月の美空を連想させた。しばらくして、車内に次の停車駅を告げるアナウンスが、彼女の降りる駅の名を読み上げた。
「ねぇ、俊介、明日もこの電車に乗るの?」
「ああ」
それは間違いない。よほどのことが無い限り、俺は他の時間帯の電車には乗らない。
「そう、じゃあ明日も会うかもね」
彼女はそう言いながら、足下に置いてあったラケットケースと膝の鞄を持ち、席を立った。やがて電車が止まり、ドアが開く。
「じゃあ、またね。俊介」
彼女はそう言って、ホームに降りていった。昨日と同じく軽快な足取りでホームを歩き、階段へ向かう彼女の姿を、俺は目で追っていた。どことなく、嬉しそうな雰囲気に見えるのは、俺の中にある、希望的な気持ちがそう見せているのだろうか。しばらくして電車はまた走り出した。1人残された俺は、無造作に畳まれた左手の新聞を開き掛けて止めた。どうせまた頭に入ってこないだろう。
俊介。そしてミッキー。
彼女は俺を『俊介』と呼んだ。果たして、彼女ほど自然に、俺は、彼女をミッキーと呼べるのだろうか。
そんな事を心配し、やはり俺はまた可笑しくなった。ふと、俺は思いだしたことがあった。
そう言えば彼女、1度も俺をオジサンと呼ばなかったな。
名を知る前も『貴方』だった気がする。何故だろう。俺は外見的にも、そう若々しく見える訳ではない。とりわけ老けている訳でもないが、歳相応と言ったところだ。そう呼ばれてもおかしくない。いや、むしろそう呼んだ方が自然である。そこに何か意図があるのだろうか。都合のいいように考えている自分に、また笑う。
―――じゃあ、明日も会うかもね
まいったな。年甲斐もなく、その言葉通りの事を期待している自分がいた。俺は、少し口元を緩ませながら、鼻の頭を指でこすっていた。
第4話 コブクロの歌
翌日から、彼女と俺は、この電車で毎日会うようになった。
俺がいつもの席に座っていて、彼女が次の駅で乗り込んで来て、俺の隣に座る。最初のウチは、周りの乗客の目が気になって仕方がなかったが、彼女の方は全然気にした様子もなく、まるで仲の良いクラスメイトのように、いつも気さくに話しかけてきた。どうもぎこちなく、照れながら『ミッキー』と呼ぶ俺とは対照的に、さも当たり前のように、自然に、彼女は俺を『俊介』と呼んでいた。
1週間ほどすると、俺もだんだんと慣れてきて、周囲の目を気にしなくなっていった。 朝、乗り込んだとき、多少乗客が多いときなどは、わざとらしく自分の鞄を隣に置き、彼女が乗り込んできて、自分の隣に座れるように備えるなんて事もやった。そんなとき、ミッキーは決まって「隣に座って欲しいんだ?」と含み笑いをしながら、俺をからかった。
ミッキーと話していると、俺は年齢を忘れてしまう時がある。彼女の言葉の一つ一つが、心の中を波紋のように広がっていく心地よさに、俺は酔っていった。それはまるで、もう何年も前からの、同年代の親友のような錯覚を与える。親子ほど歳の離れた2人。お互いをニックネームで呼び合い。電車の中だけの、限定された関係。彼女は、この40分足らずの電車の中で、色々と自分のことを俺に聞かせた。
学校のこと、どんな授業が好きで、何が得意科目で、あの先生が面白くて、この先生が嫌いで、ウチ部活のA美は、バスケ部のG君Loveで、このバンドのこの歌が良くて……
彼女の話に、ジェネレーションギャップを感じ、困惑する俺。そしてその俺の困惑ぶりを見て、可笑しそうに笑う彼女。そして、それが妙な快感を俺に与え、一緒に居る時間を短く感じさせた。
歌と言えば、俺は初めて『コブクロ』という歌手の歌を聴いた。
「ねえ、俊介。この歌知ってる? 」
そう言って、彼女はあのピンクのコードの付いたイヤホンの片方を俺に渡した。
「俺、今時の曲なんてわかんないよ」
そう言う俺に、彼女は尚も薦める。
「良いから、聞いてみなさいって、良い曲なんだからっ」
そう言って、半ば強引に、俺の耳にイヤホンを潜り込ませた。
しばらくして、メロディーが流れてきた。
後から知ったが、それはコブクロの『蕾』という歌だった。俺は耳元で流れる曲に、聞き入った。良い歌だ。俺は素直にそう思った。歌詞の感じから春の歌なのだろうが、切ない感じがしてジーンとくる。俺は歌詞を耳で追いながら、ふと彼女に視線を向けた。彼女は、目を閉じて歌を聴いている。もみあげからうっすらと垂れ下がる、彼女の髪の間を、俺の耳から分かれたもう片方のコードが、ピンク色の細い糸のように、彼女の耳へと伸びている。
今この時、俺と彼女は、一つのコードに流れる同じ曲で繋がっている。
そんなことを考えると、なんだか自分が、してはいけないことをしているような感覚になり、俺は鼓動が速くなるのを感じた。こんな自分の気持ちが、コードを伝って、彼女に流れていって仕舞うのではないかと、本気で心配した。
「どう?」
突然彼女は振り向き、そう聞いた。目が合った瞬間、俺はそんな心を見透かされまいと、反射的に目をそらしてしまった。
「あ、ああ、初めて聞いたけど、良い歌だなぁ」
俺は慌ててそう答えながら、イヤホンを外し、彼女に返しながら、動揺を隠すように、感想を述べた。
「コブクロって言うの。聞いたこと無い?」
「ゴメン、知らない。でも低い声のパートを歌っている人の声は、俺も好きな声だよ」
「でしょーっ!小渕さんの声も良いけど、やっぱり黒田さんの声のにメロっちゃうのよね。あたしは」
「メロっちゃう?」
「メロメロになっちゃうってことよ。優しそうで、背高くて。ねぇ俊介知ってる? 黒田さん、身長193Cmもあるんだよ」
だから知らないって。存在自体、今初めて知ったんだから。
そう心の中でツッコミながら、俺は彼女の話に耳を傾けていた。彼女はさらにコブクロという歌手のことを熱く語り、その口振りは、居残りさせた生徒を一心に指導する、熱血教師を連想させた。解らないながらも相づちを入れながら、俺はそんな彼女を見つめていた。
「ねえ、俊介ってさ、娘さんが居るんだよね? 」
唐突に彼女がそう聞いてきた。
「な、なんだ、やぶからぼうに」
彼女の話が突然変わるのは、良くあることだったが、いきなり俺の娘の話が出てきて、いささか狼狽した。
「名前は?」
と、さらに質問する。
「ハルカだよ」
「ハルカちゃんかぁ。どんな字書くの?」
「青い海って書いて、青海【ハルカ】。ちょっと読めないけど」
俺は、持っている鞄の裏に、娘の名前を指でなぞりながら答えた。
「へぇ〜、素敵な名前。誰が付けたの? 俊介? 」
「家内と二人で考えたよ。青く澄んだ海のように、綺麗で広い心を持つようにって。ちょっとクサイけどな」
俺は少し照れて、鼻の頭を指でこすった。
「そんなこと無いよ。良い感じじゃん。確か中3って言ってたよね」
「そう。来年高校だよ。それがどうしたんだ? 」
「中3かぁ……」
そう言って彼女は、背にある電車の窓に頭を預け、うつむいた。
「ああ、今年は高校受験だからな。親としても気を遣う時期さ」
そう言って、俺はため息をついた。高校受験。そして3年後には大学受験が控えている。確かに自分も通ってきた道だが、いざ自分の娘がそこを通る段になると、複雑な気持ちになる。決して与えている訳ではないのだが、結果的に感じてしまう親のプレッシャー。焦りや不安と言った、負の感情に立ち向かって行かなければならない娘の事を考えると、つい憂鬱になってしまう。何か、少しでも手助けをしてやりたいと感じ、気を遣いながら接して、煙たがられ、疎ましく思われてしまうジレンマが、娘と父親の距離を、さらに離してしまうのだろう。そんな時期が、俺たち親子にも訪れるのだろうか。
「ねえ、俊介は青海ちゃんと、よく話をするの?」
そう彼女が聞いてきた。俺は彼女の意図が掴めず、「えっ?」と聞き返した。
「いやね、俊介はさ、ちゃんと自分の娘と会話してるのかな〜って思ってさ」
どういう意味だ?確かに最近、よそよそしくなった感はあるが、娘と全く会話しないと言うことは無い。むしろ他の家より会話は多いと思う。よそよそしくなったと言っても、世間一般的に、中学3年生にもなれば、女の子はみんな父親を意識して、多少関係がぎくしゃくしてくるものだろう。よくTVドラマなんかで出てくるような、『クサイ』やら『ウザイ』なんて理由を付けて、父親から遠ざかり、ほとんど顔も合わさない家庭も、実際にあると聞くが、それに比べたら、俺たち親子は、比較的仲の良い親子だと俺は思っている。
「してるさ。夕食だって、ちゃんと一緒に食べてるし、今日学校で何があったとか、部活の練習がキツイとか、聞けばちゃんと答えてくれるよ」
「う〜ん、ちょ〜と違うんだよなぁ」
彼女は少し考えた後、こう言った。
「それって、会話なのかな」
彼女のその言葉に、俺はハッとなった。
―――それって、会話なのかな
彼女の言葉が、俺の鼓膜と頭とを、何度も行き来しているようだった。
会話―――
自分は会話をしているつもりだったが、言われてみればその通りなのだ。それは会話ではない。娘は、俺から聞かれたことに答えてるだけにすぎない。それはもはや、報告ですらない。俺は、急に足下の地面が、消えていくような不安さを感じながら、彼女に言った。
「何故そう思うんだ? 何故そんなことを聞く?」
彼女は少し間を置いて、こう答えた。
「だって、俊介、コブクロ知らなかったじゃん」
えっ?そんな理由なのか?
「中学3年生の女の子がいて、名前も聞いたこと無いって、あり得ない気がする」
彼女は、鞄から取り出したIpodを操作しながら、そう言った。
「そりゃ、青海ちゃんの曲の好みなんて、あたしには分からないから、一概にそうとは言えないよ。でも、この人達の歌って、結構CMとかにも使われてるから、わりかし耳にする機会って多いと思う。
一緒にさ、テレビなんか見てたら、名前ぐらいは聞いたことあるんじゃないかなぁ。
現に俊介、いま『良い歌だ』って言ったでしょ?これ、誰が歌ってるんだ?みたいな感じで、青海ちゃんに聞いたりしないのかなぁって、そう思ったのよ」
彼女は、Ipodのイヤホンコードを巻き取ると、それを鞄の中に仕舞った。
俺は考え込んでしまっていた。一緒に夕飯を食べ、その後、俺は軽く酒を飲みながら、野球中継やニュースなんかを見ながら過ごす。娘は、早々に自分の部屋に行ってしまう。娘がどんな番組を見て、どんな歌を聴いているなど、全く知らない。興味すら感じたことはない。おおかた、くだらんバラエティか、連ドラだろう、ぐらいにしか思わず、見たければ自分の部屋で見ればよい、としていた。俺は、聞いた質問に、素直に答えが返ってくることに安心し、分かったつもりになっていただけなのかもしれない。娘の年齢は、子供以上、大人未満の、扱いの難しい年齢にさしかかっている。こんな形の親子関係に安心しきって、理解しているふりを続けて行って、近い将来、娘が本当に辛い困難に直面したとき、俺は娘の良き理解者として見守ってやれるのだろうか。
「やだ、ちょっと、なにマジに悩んでんのよ。あたしが、ちょっとそう思っただけなんだから。そんな深刻な顔しないでよ」
そう言って、彼女は「あははっ」と笑いながら、俺の膝を2,3度軽く叩いた。そうこうしているうちに、車内アナウンスが、次の停車駅を告げる。彼女が降りる駅が近づいていた。
「俊介、あたしと話してるみたいにさ、青海ちゃんと話してみたら?そうだな……ハルちゃん、とか呼んでみたり」
ハルちゃん!?娘を、愛称で呼ぶなんて、考えたこともない。小学校の低学年ぐらいならならまだしも、来年、高校に進学する娘を『ハルちゃん』なんて呼んだら、気持ち悪がられるに決まっている。
「そりゃ、俺には無理だよ」
俺はため息混じりに、そう答えた。
「そう? 悪くないと思うけどな。案外、喜ぶかもよ?そしたら、あたしみたいに、ハルちゃんも、『俊介』って呼んでくれたりして」
ないない、絶対にない。というか、呼ばれなくても良いよ、別に。
やがて、電車が止まり、ドアが開いた。
「まあ、ガンバリたまへ。おとうさんっ」
彼女はそう言って、いつものように、鞄とラケットケースを持ちながら立ち上がった。
「またね、俊介」
そう言う彼女に、俺は片手を軽くあげ、電車を降りていく彼女を見送った。
――――ハルちゃん。
彼女らしい、自然な呼び方だった。何故彼女は、こうも自然に呼べるのだろう。彼女ほど自然に、娘をこう呼べたなら、きっと娘も嫌がらないんじゃないか。自分が娘に、『俊介』と呼ばれることに、こそばゆさを感じたとしても。
第5話 サボタージュ
彼女と出会い、電車の中で話をするようになって、もうすぐ1月が過ぎようとしていた。 今まで、終始、ただ電車の規則正しい振動に揺られながら新聞を読むだけの、単調な俺の通勤時間を、彼女はその持ち前の明るさと、一種の痛快さをも憶える話し口調で、とても新鮮で楽しい時間に変えてくれた。
会社に着いたところで、通勤電車の中以上に単調な業務だった。俺の会社での仕事は、社内の他部署から上がってくる顧客クレームや、社内システムの評価などを、ただひたすら収集しデータ化していく、限りなく単調な仕事だ。何を生み出すこともなく、何かを決める訳でもなく、ただただ、集めたデータの積み上げと整理するだけの、出世とは縁のない完全な非生産部署である。そんな単調な毎日の中で、この1月あまりの、車内での彼女と過ごす一時は、俺に活力のような物を与えてくれていたのである。朝の40分足らずの限られた時間の中だったが、彼女と話すことで、俺は何か、彼女から溢れるエナジーの様な物を分けて貰うような、そんな感覚を味わっていたのだった。この頃俺は、自分の中に、ある感情が芽生えつつあることを、おぼろげながら自覚していた。それは、もう記憶が霞む位昔に、確かに経験したことのある、息苦しくなるような、もどかしくなるような、ある感情に酷似していた。だが、それを素直に認めるには、彼女は若すぎて、俺もまた歳を取りすぎていた。
―――何事にも、必ず終わりがある。
いずれ、この通勤電車内の奇妙な関係にも、終止符が打たれるだろう。それは分かっている。いつまで続くのだろうか。いつ彼女は、俺の前から居なくなるのだろうか。願わくば、それが少しでも先であることを思いながら、俺はまた、いつもの電車の、いつもの席に座り、彼女が乗り込んでくるの待っていた。
その日、いつものように乗り込んできた彼女は、いつになく、少し元気がないように見えた。いつも抱えているテニスのラケットケースも持っておらず、鞄だけを持ち、耳から伸びるピンクのイヤホンコードを揺らしながら、俺の隣に座りため息をついた。
「どうしたんだ?朝からため息なんかついて」
そう言う俺に、彼女はイヤホンを耳から外しながら、もう一度ため息をついて俺に言った。
「来月の大会のね、レギュラーから漏れたの。まぁ、分かってたんだけどね。代わりに後輩が出ることになってさ、ちょっと落ち込んでる訳よ」
「えっ? 分かってたって……だってミッキー、中学のジュニアチャンピオンだろ? 去年も全国ベスト8って言ってたよな。そんな選手を外すか?普通」
俺は彼女の部活の事は、よく彼女から聞いていた。小学校から、お父さんの影響でテニスを始めて、今までかなり優秀な成績を収めていたと聞いた。部活も3年になってキャプテンに推薦されたが辞退したと言っていた。そこまで実力のある選手をレギュラーから外すなんて、にわかに信じられない気がした。
「ちょっとね、年末から年始に掛けて、体壊して入院した事があったのよ。その後も、どうも上手い具合に調子が出なくてさ、他校との練習試合でも良いとこ無しだったし。ダブルスでもミスが多くて、逆にペアの足引っ張っちゃったし」
そう言った後、彼女は「がっくりダヨ」と呟きながら、少々オーバーにコクンと頭を下げた。口調や素振りはそれほど落ち込んでるようには見えないが、いつもの彼女とは、やはり何処か違うように見えた。
「一応、朝練には顔を出そうと思って、いつもと同じ時間に出たんだけどさ、バス乗ってから、ラケット忘れたことに気付いちゃった。あはは、お間抜けだね、あたしってば」
そう言って彼女は笑った。俺は少しでも気の利いた言葉を探すが、口に出たのは月並みの言葉だった。
「元気出せよ。秋にもあるんだろう?公式戦。その時までがんばって練習して、またレギュラー獲れば良いだろう。今がたまたま悪いだけさ。そんな時もある」
もう少しマシな事が言えないものだろうか。俺は自分の引き出しの少なさに、嫌気がさしながらも、なんとか励まそうと必至に言葉を繋ぎながら彼女に言った。
「秋かぁ、そうだね。がんばんなきゃね、あたし」
そう言って彼女は俺の方を向いて、薄く笑った。その表情は、やはり何処か寂しく、悔しそうに見えた。
「ありがとう、俊介。あたし、もっかいがんばれそうな気がしてきたよ」
その言葉に、俺は照れて、またいつものように鼻の頭を人差し指でこする。そんな俺を見つめて微笑む彼女の目が、とても優しげで印象的だった。
しばらく、俺たち2人は、無言で電車に揺られていた。明らかに口数の少ない彼女は、車窓の外に流れる風景に目をやり、さっきの部活の話しに気を遣いつつ、俺はそんな彼女の横顔をチラチラ見ていた。そのうちに、次の停車駅が近づいたことを告げるアナウンスが流れ、不意に彼女が話しかけてきた。
「ねえ俊介、降りない?」
「えっ?」
俺は言葉の意味が分からず、聞き返した。
「次の駅で降りるの。2人でサボっちゃうの。あたしは学校。俊介は会社。そんでもって、今日デートすんの。どう?」
どう?って聞かれてもなぁ。
俺はとっさに言葉が出なかった。いきなり何を言い出すのだ。
「いや、それは……それに、ミッキーさっきがんばるって言っただろ?朝練どうするんだ?」
「がんばるよ。でもほら、今日ラケット忘れて練習になんないし。授業だって、試験まだ先だし、今なら充分取り戻せるもん。あたし成績もそこそこ優秀なのよ」
いや、そういう問題じゃなくて。会社無断欠勤して、制服姿の女子高生とデートしてました、なんて社の誰かに知れたら、会社での立場もさることながら、どんな目で見られるか、想像したくもない。いやいや、それ以前に、俺のような中年男が、電車内で隣で話すぐらいならともかく、朝っぱらから女子高生と並んで町を歩いたら、絶対怪しまれるに決まっている。下手をすれば、警察に職務質問されるかも知れない。そのことを話すと、彼女はいとも簡単に笑い飛ばした。
「あはは、俊介って意外と度胸無いのね。警察?あたしが親子ですって言えば大丈夫よ。俊介は堂々としてれば問題なし。深く追求なんてしてこないって」
「しかし、会社もあるしなぁ」
「俊介、10年以上も真面目に休まず働いてきたんでしょう?有給なんて使ったこと無いって、この前言ってたじゃない。1日ぐらい休んだってクビになんかなんないよ、きっと」
確かに、彼女の言う通り、俺の部署には部下が3人居て、長の俺が欠勤したところで、業務に影響があるとは思えない。だが、そうは言っても、休む理由が理由だけに、簡単にOKを出すのには、大いに抵抗があった。そんなやりとりをしているうちに、電車は駅に止まり、ドアが開いた。そこは彼女がいつも降りるはずの駅から、2つほど手前の駅だった。
「行こう、俊介」
そう言って彼女は俺の膝を軽く叩き、立ち上がった。そして、俺の「ちょっと待て」の言葉を背に、乗り込んでくる乗客をスルリと交わし、ドアの外に出ていってしまった。俺は慌てて膝の上の鞄を掴むと、彼女の後を追った。俺は閉まりかけるドアに、左肩をぶつけながらも、何とかドアの外のホームに滑り出た。痛む肩をさすりながら、そんな俺に見向きもせず発車を促した車掌と駅員を睨んでやろうと、電車の後方に目をやるが、車掌は電車が走り出したことを確認すると、すぐに車内に首を引っ込めてしまった。駅員の方は、まるで俺など眼中に無いらしく、指さし確認を終えて、過ぎゆく電車を見送っているところだった。
まったく、人身事故でも起こったらどうするつもりなんだ。
そう心の中で毒づき、俺は鞄を持ち直し、彼女の方を向いた。彼女は、そんな俺を振り向きもせず、歩き出した。俺は慌てて彼女に声を掛けた。
「なぁ、ちょっと待ってくれよ」
俺のその声に反応して、彼女が振り返った。その表情は、少し意外そうに、驚いているようだった。どうやら、俺が降りたのに気付いてなかったようだ。
「俊介、やだ、ホントに降りたの?」
「おいおい、そりゃないだろう」
彼女のその言葉に、思わずガックリきてそう答えた。なんだよ、俺が降りると思わなかったのか?
「だって、会社はどうすんの?」
今更自分でそれを聞くのか。やっぱり俺には、まだまだ彼女を理解できないらしい。俺はため息をつきながらこう返す。
「ミッキーの言う通り、確かに1日くらい休んだって、どうって事ないよ。今のところ、さして重要な業務も無いし。後で電話入れとくさ」
そう言いながら、彼女に笑いかけた。そんな俺を、彼女は無言で見つめていた。その時の彼女の表情を、なんと表現すればよいのだろう。それも、一瞬のことで、彼女はすぐにクルリと背を向け、こう言った。
「よ〜し、何処に連れてってもらおっかな〜」
その声は、いつもの、あの少し鼻に掛かった明るい声だった。俺はその変わり身の早さに、呆れながらも苦笑しつつ、彼女の元気な後ろ姿に安心した。俺は少し早足で彼女に追いつくと、肩を並べてホームを歩き出した。不意に彼女は、俺にチラリと視線を移しながら、少し笑ってこう言った。
「2人でサボって秘密のデート。なんか、駆け落ちっぽくない?」
俺はその言葉に、少しうろたえてしまった。
やめてくれよ、後ろめたさが余計に増幅されるじゃないか。なあ、意味分かって使ってるのか、その言葉。
そう心の中でツッコミながら、俺はどことなく居心地の悪い彼女の隣を、ぎこちない足取りで、歩幅を合わせつつ改札に向かって歩いた。そんな俺を見ながら、彼女は時折「あははっ」と声をだして笑っていた。
『中年男と女子高生の秘密のデート』
何となく、いかがわしいビデオのタイトルの様だ。まるで周囲の人間が、全員俺を見ているような気がする。親子だと、堂々としていれば問題ない、と彼女は言っていた。そんなものなのだろうか。
どうひいき目に見ても、親子。そこに、一抹の寂しさを感じて、俺はまた苦笑する。いったい、どう見られたら、俺は満足すると言うのだ。
この日を、彼女が、その胸の内にどんな悩みを抱え、何に怯え、どんな思いを秘めながら俺の隣で過ごしていたのか。この時、俺はその片鱗すら感じてやることが出来なかった。どうして、気付いてやれなかったのだろう。何故俺は、もっと気の利いた言葉を掛けてあげられなかったのだろう。
その16歳という年齢では、明らかに重すぎる選択を迫られていた彼女の状況を、少しでも和らげることの出来る言葉を―――
第6話 Escape on weekday
駅を降りた俺と彼女は、一旦ホームの階段を上がり、向かいの下り線ホームへと降りた。彼女と話して、1度、いつも彼女の乗り込んで来る駅へ向かうことにしたのだ。
彼女の乗る駅は、他線と交わっており、割と拓けている。それに横浜方面へ向かう電車もあるので、移動には苦労しないからだ。しかし、いくら拓けているとはいえ、こんな朝っぱらから開いている店など、コンビニくらいなものだろう。さて、どうしたものか。
そんなことを考えていうちに、下りの各駅停車がホームに入ってきた。俺たちはその電車に乗り込んだ。なぁに、時間はある。わざわざ急行電車を待たなくても良い。俺がそう言うと、彼女も「そうだね」と快諾し、電車に乗り込んだ。
さすがに、朝の下り、しかも各駅停車だけあって、俺たちの乗り込んだ車両に、乗客は一人も居ない。俺たちは、誰も居ない車両の座席に並んで腰掛けた。
「なんかさ、貸し切りみたいじゃない?気分いいわぁ〜」
そう言って彼女は、両手を上げて伸びをした。何となく、丸まっていた猫が、欠伸をして伸びをしているようだった。とりあえず、勢いで、お互い学校と会社をサボることになった訳だが、この先、何処に行くのか全く考えていない。俺も色々行き先を検索するが、何せ連れは現役女子高生である。彼女以外、まるで接点のない、その年頃の女の子を連れて行って、楽しませる場所など、俺には見当も付かなかった。
「なぁ、何処か行きたいとこあるのか?」
「そうねぇ」
彼女は腕組みしながら考えはじめた。まるでどっかの監督のような仕草で、ほほえましかった。
「とりあえず、朝マックかな。あたしさ、今日朝ご飯食べてこなかったの。今日1日を有意義に過ごすには、まずは腹ごしらえでしょう」
そう言って彼女は、右拳を小さく挙げ、「お〜っ」と、自分で言った宣言に、自分で応えた。何故か妙に元気のいい彼女を見ていると、こっちまで元気になるような気がした。
「盛り上がっているところを悪いが、その『朝マック』ってのはなんだ?」
「ええっ!?俊介、朝マックしらないの?うっわ〜」
と、少々オーバーに驚く彼女。いや、スマンがホントにわからん。マックって言うからには、マクドナルドじゃないのか?
「まったくぅ。いい?朝マックってのは、マックの朝ご飯の事よ。マックは朝と昼じゃメニューが違うのよ。朝メニューのマックだから『朝マック』わかった?」
知らなかった。いつ行っても同じメニューだと思っていた。季節によってメニューが違うというのなら頷けるが、まさか時間帯によって、違うメニューが提供されているとは思いもしなかった。だいたい、マクドナルド自体数回しか入ったことがない。それも、娘が小さい頃、どうしても行きたいと言われ、行ったっきりだ。朝などは1度も入ったことがない。そもそも、朝入るということは、十中八九、俺1人で入ることになる訳で、マクドナルドに1人で入るなら、確実に駅の立ち食い蕎麦を食うだろう。俺がそう言うと彼女はにっこり笑ってこう言った。
「じゃあ俊介、朝マックデビューだね」
デビューって、そんな大げさな、とも思うが、最近は俺も彼女のそんな大げさな言い回しに、だいぶ慣れてきていて「ああ、遅れて来たルーキーだな」と返した。その俺の答えに可笑しそうに彼女が笑い、つられて俺も一緒に笑った。
そんなこんなで、俺たちは駅に併設された、マクドナルドに入った。カウンターに提示されてるメニューを一瞥し、サラリと注文する彼女とは対照的に、なかなか注文が決まらない俺。そんな俺を、笑みを全く絶やさず、にこやかに見つめる店員の女の子の目が、逆に『いい加減にしろ』と言っているような気がして、額に嫌な汗が滲むのを感じていた。そこへ、見かねて彼女が助け船を出してくれた。
「この『エッグマックマフィン』のセットにしたら?厚い目玉焼きとベーコンが挟んであるヤツ。セットにすれば飲み物も付いてくるし」
きっとさっきも、同じ事を店員の女の子も説明してくれたと思うのだが、何故か彼女からの説明だと、理解できるような気がする。その言葉のおかげで、何か呪縛めいた物から解放された感じがした。「じゃあ、それ1つ」と店員に告げて俺はホッとしてため息をついた。これだけ緊張するなら、絶対に駅の立ち食い蕎麦の方が良い。
程なくして、注文した品の乗る盆を片手に、俺たちは隅の方の席に座って、今日1日の行動を決めることにした。終始、妙にテンションが上がり気味な彼女は「作戦会議だね」と言いながら、ハンバーガーをほおばった。
「あたし、見たい映画があるんだ。ねえ俊介、映画見に行こうよ」
―――映画か。そういや、確かにずいぶん映画館に足を運んでいない。最近はすぐにビデオなどでレンタルされるから、映画館で見るというのがめっきり少なくなった。
「ああ、いいよ。そうだな、横浜にでも出てみるか」
「あ、良いね。元町ぶらついて、山下公園に行ったり。中華街に赤レンガでしょ、MM21で観覧車乗るのも良いなぁ。よし、決まりね」
それから、俺たちはマクドナルドで食事を済ました後、横浜方面の電車に乗り込み、横浜へ向かった。完全に一般の通勤時間帯に入ったせいか、車内はかなり混雑しており、座ることは出来なかったが、終始元気な彼女と話すことで、全く気にならなかった。
関内で降りて映画館を探し、伊勢佐木町を歩いて、目的の映画が上映している映画館に着く頃には、初回上映の15分前だった。
映画を見終わった後、俺たちは歩いて元町に向かった。歩きながら、彼女は先ほど見た映画の話題で盛り上がっていた。
「面白かった〜。ジョニー・デップ最高!超ウケるんだけど」
映画は海賊の話で、どうやらシリーズ物らしく、今観たのが3部作の完結編のようだった。俺は当然、1作目、2作目を観たことがなかったが、上映前に色々彼女から説明を聞いており、話の大筋は掴めていたので、それなりに楽しむことが出来た。彼女はこの映画の主人公がお気に入りらしい。だが、この主人公の男は、一応海賊のキャプテンなのだが、かなりいい加減な奴で、強くなくて、頼りない男なのだ。俺の持っている海賊というイメージからはかけ離れた主人公だった。顔もそれほど2枚目ではなく、どうひいき目で見ても3枚目が良いところで、一緒に行動するもう一人の男の方が、俺は明らかにいい男に見えるのだが、彼女の心を捉える要素は、どうも違うところにあるらしい。
彼女によると、最近は『顔』よりも『面白く、一緒にいて飽きない』男というのが、もてる男の第1条件なのだそうだ。そういえば、最近美人女優とお笑い芸人が結婚するケースが多いが、その辺りが原因なのだろうか。
だが、では何故、彼女は俺なんかとデートじみた真似をしているのだろう?
俺はそんな、人を楽しませたり、笑わせたり出来るような男ではない。本当に何処にでもいる平凡な中年サラリーマンである。言葉の半分も理解できない、今の若い娘など、話すら合わない。現に今だって、彼女の言葉に「ああ」とか「うん」とか、適当に頷き返すだけが精一杯で、彼女の言う『一緒にいて飽きない』という基準からは明らかにかけ離れた存在であるはずだった。しかし、彼女はつまらないどころか、終始笑顔で話しかけ、楽しげに隣を歩いている。そこに無理をしているという気配は全く無く、本当にこのおかしなデートを、心から楽しんでいる様子だった。
それから俺たち2人は、元町をぶらついた。左右にゆっくりとカーブするアーバンスプロールの石畳の道の両側には、年頃の女の子が喜びそうな、服やアクセサリー、バッグなどのショップが軒を連ねており、彼女も時折立ち止まっては、店先に出ている商品を手にとっては、鏡の前で合わせてみたり、おどけて俺に見せてみたりしていた。
それはまるで、本当に恋人同士のデートのようだった。
俺は、彼女がねだってきたら、ある程度の出費は覚悟していた。しかし彼女は、一切ねだるということはしてこなかった。確かに店内まで、俺を連れて見に行くこともあるが、合わせてみせるだけで、決して買おうとはせず、また店を出て歩き始めるのだった。
「ウインドウショッピング。こうやって合わせてみて、着たり、付けたりした自分を想像するの。あたしはそれで満足なの。別に買わなくたって、充分楽しいでしょ」
そう言って彼女は笑い、今度はバッグのショップに入っていった。振り返り、俺に手招きをする姿が、とても可愛らしく、微笑ましかった。
そんな見るだけのショッピングを楽しみながら、通りを歩いていると、ふと、彼女が立ち止まり、振り返ってこう言った。
「ねえ俊介、ちょっとベタだけどさ、プリクラ撮ろうよ」
ふと見ると、ゲームセンターがあり、入り口付近には、様々な種類のプリクラの機械が並んでいた。「コレぐらいは知ってるでしょ」という彼女の言葉に、頷きはしたものの、俺は内心怯んでいた。確かに知っていはいるが、実際に撮ったことなど、ただの1度も無い。俺は緊張しつつ、彼女に続いて店内に入った。
この店は、ビル全体がゲームセンターになっているらしく、フロアごとに設置してある機械が違うようで、俺たちの入った1階は、俗にUFOキャッチャーと呼ばれるクレーンゲームと、プリクラのみが設置してあるようだ。
彼女は一通り機械を見て回り、1つの機種を選んだ。それは此処、元町の風景がバックで映る、いわゆるご当地限定のもので、おまけに備え付けの電子ペンで、撮った写真に文字が書き込める機種だった。彼女の「コレにしよう」という言葉に、俺はただ頷くばかり。当たり前だ。側面にある『使い方』の説明を読んでも、全く理解できない俺に、決定権などあるはずがない。早くと急かす彼女の後から、俺も撮影BOXの中に入った。
「背景はコレね。文字は後から入れるから、とりあえず撮影ね。あれ?俊介、何でそんな離れてんの?もっとくっつかないとOBするよ」
数枚の100円硬貨を投入して、手際よく機械を操作する彼女の隣で、少し距離を置いてそんな彼女を眺めていた俺だったが、そう言われて彼女の隣に、文字どおりくっつくように並ぶ。腕と腕がくっついていて、非常に緊張する。なぁ、少し近すぎないか?
どこからか、『いくよ〜、ハイチーズ』という、アニメの声優のような声が流れたかと思うと、パシャ!と言う音共に、パッ!とフラッシュが焚かれ、撮影終了。程なくして、正面の画面に今撮った写真が映し出された。
「あぁ〜俊介、表情堅すぎっ!国会で謝ってる政治家みた〜い。もっとにこやかにしてよ。却下っ」
『コレで良い?』としつこく聞いてくるアニメ声に、「ダメに決まってるじゃん」とツッコミを入れながら、再撮影。2度目のパシャ!
「うっわ〜、俊介やらしそ〜、笑い方が不自然だよ。はいボツ!」
いや、笑えと言うから笑ったんだが――― そして3度目の正直。パシャ!
「ゴメン、あたし目つむった。もう一回」
もう勘弁してくれ。顔面が引きつってきた。そして4度目のフラッシュ。なんだか目がチカチカしてきた。
「う〜ん、まぁ、こんなもんかな。どう?」
画面に映し出された写真を眺めながら、彼女は俺に同意を求めた。確かに4回も取り直しただけあって、2人ともそれなりの表情が出ていた。それ以前に、俺は早くこの、2人きりの密着した空間から抜け出したくて、OKした。
それから彼女は、2人の姿の下にそれぞれのニックネームを書き入れた。
俊介とミッキー。
そして、さらに2人の姿をハートで囲んでしまったのだ。俺は照れるやら、恥ずかしいやらで、顔が熱くなり、彼女より先にBOXを出て、いつものように指で鼻をこする。それでもまだ、顔の熱は取れないようだった。参ったな。
少しして、機械から吐き出されたシートを受け取った彼女は、半分をちぎって俺に渡した。見るとそこには、可愛らしい丸文字で書かれた2人の愛称。そしてハートで囲まれ、さわやかで自然な笑顔の彼女と、隣で、まだぎこちない笑顔を向ける俺の姿があった。
俺たち2人は、店を出て、また通りを歩き出した。俺はシートを、そそくさと鞄に仕舞ったが、彼女は1枚をめくり取ると、携帯を取り出し、電池BOXを空けると、その蓋の裏にそれを貼り付けた。俺が不思議そうにそれを眺めていると、彼女はこう答えた。
「おまじない」
「何のおまじないだ?」
「ないしょぉ〜!教えたげな〜いっ、あははっ」
そう言って笑う彼女は、とても楽しそうだった。「なんだ、それ」と言う俺に「いいのー!」と言って、また少し先の店を覗きに、小走りに駆けていった。
その後、俺たちは中華街に行き、少し遅めの昼食を済ませてMM21に向かった。赤レンガに行く予定だったが、元町で充分仮想ショッピングを楽しんだので、もういいとのことだった。それより、あそこの観覧車に乗りたいのだそうだ。
MM21に向かう途中にあった電気屋に、彼女が見たい物があると言うので覗いていくことにした。そこはTVのCMでも良く耳にする、大型の家電屋だった。
店にはいると、彼女は一路、目的の売り場に直行した。そこはIpodが並ぶ携帯オーディオコーナーだった。
「ねえ、俊介、iPod買わない?」
「えっ?俺のか?」
「そう。そしたらさ、あたしがいないときでもコブクロ聞けるよ」
確かに良い歌だとは思うが、わざわざiPodを買うまでもない気がする。それにきっと、いくら説明書を読んでも、使い方が分からないだろう。
「前に青海の誕生日で買ってやったが、俺には何だかさっぱり分からなかった。無理だよ。俺には使いこなせないよ」
俺は困った顔でそう答えた。
「大丈夫、簡単だよ。もし分からなかったら、あたしが教えてあげるし。あっ、そうだ。ハルちゃんに聞けばいいじゃん。それがきっかけで、ハルちゃんと近づくことが出来るかもよ?」
と、彼女は言うが、そんなにうまくいくだろうか?
だが、彼女に言われると、何となく『それもいいか』と思えてくる。だんだんと俺も買う気になってきていた。俺は「確かに楽しそうだがな」と言いながら、並んでいる商品を手に取ってみた。値段は以前買ったから分かっている。毎日の新聞と、昼の食事以外、他にあまり金を使う事がない俺には、さして痛い出費ではなかった。
「コレ、あたしとおそろのタイプだよ」
そう言って彼女が指を指す。それは彼女と同じ、iPod nanoという、普通のiPodよりも薄くて小型のシンプルなデザインのタイプだった。確か娘に買ってやったやつもコレの筈だ。確か青海のは青だったな。俺はそう考えながら、黒いカラーの物を手に取った。
「え〜、黒ぉ〜、俊介は絶対こっちのグリーンだよ」
彼女はそう言ってグリーンを手に取った。そうかぁ?なんか若々しくないか?俺としてはあまり目立たない黒か、白っぽい方が良いのだが。
「似合うと思うよ、グリーン。なんか俊介っぽくて」
俺っぽいって何なんだ?と思ったが、何故か似合うと言われると、妙に気分がいい。俺はディスプレイされている淡いグリーンのiPodを手に取り眺めていると、ふいに、脳裏に娘の顔が浮かんできた。
果たして、娘はこんな若々しいカラーのiPodを持つ俺を見て、なんて言うだろうか―――
彼女の言う『俺っぽさ』がどういう物なのかさっぱり分からないが、娘はそれに似たイメージを感じ取ってくれるだろうか。娘に『似合わない』なんて言われたら、なんか非道く残念な気がする。しかし、それがきっかけで娘との『会話』が広がれば、それはそれで、このカラーを選んだことに意味が出てくると思う。
「俊介、今ハルちゃんの事考えたでしょ?なんて言われるかな〜って思ったでしょ?」
完全に見透かされていた。俺が黙っていると、さらに彼女が突っ込んできた。
「図星?あははっ、俊介、わかりやすいモンネ。大丈夫よ。本体はほとんど鞄かポケットに仕舞うんだから周りからは見られないし。それに、ハルちゃんだって、よっぽどこじれた親子じゃなきゃ、『似合うか?』って聞いてくるお父さんって、悪くないと思う。それなりにちゃんとした答えを返してくれるわ。娘ってそういうものよ」
娘と似たような歳の彼女の言葉に、俺は素直に納得してしまった。やはり同じ年代を生きる若者の言葉なだけに、得も言われぬ説得力がある。本当に彼女には教えられる事が多い。俺は結局、グリーンのiPodを購入してしまった。こんな物衝動買いして、本当に俺は使いこなせるのだろうか。そんな不安をよそに、彼女は満足げに笑みを浮かべてこう言った。
「今度は、iPodデビューだね」
「今日はデビューしまくりだな」
朝マックにプリクラ。そしてこのiPod。本当に初物ばかりだ。そもそも、こんな平日の真っ昼間に、女子高生とこうやって歩くこと自体、俺には初体験なのだから。だが、いつのまにか俺は、周囲の目が、ほとんど気にならなくなっていた。こうやって2人並んで歩くことが、凄く自然に思えてくる。それは、彼女が醸し出す、不思議な魅力のせいなのかもしれない。何故、彼女はこうも自然に、歳の離れた俺とつきあえるのだろうか。俺には到底真似の出来ない技能である。
俺たちは店を出て、MM21に向かった。観覧車に乗る頃は、もう夕方にさしかかっており、少し茜がかった西の空が、綺麗なパノラマを演出していた。
「綺麗―――」
そう呟きながら、観覧車の窓から西の空を眺める彼女の横顔を、俺は何とも言われぬ感情を抱えながら見つめていた。やはり、今日の彼女はいつもとは少し違う気がする。きっと、部活での一件が尾を引いているのだろう。それを紛らわすために、こんな俺のような中年男とのデートなんかを演じてみたのだろう。結局、俺はそんな彼女に振り回された、アホな中年親父に過ぎないのだ。だが、それでもいいさ。なんだかんだ言っても、これで結構楽しかった。2人に何か特別な事が起こる訳では無かったが、2人でただ町を歩くだけで、とても新鮮な気持ちになれたのだから。彼女にどんな思惑が潜んでいたとしても、俺には恨む気持ちなど、これっぽちも有りはしない。それこそ勘違いなのだろう。俺はそんなことを考えながら、彼女が無言で見つめる夕日を、同じように無言で見つめていた。
やがて、観覧車が1周して地上に着き、俺たちは観覧車を後にして駅へと向かった。駅に着く頃は、もう夕方6時を回っており、帰宅ラッシュのまっただ中で、電車はかなり混雑していた。俺たちは押される乗客の波に揉まれながら、反対側のドア付近まで追いやられ、そこで辛うじて幾ばくかのスペースを確保し、手摺りに捕まって電車に揺られていた。
俺は電車の揺れるたびに、グイグイ押されるのだが、何とか彼女の居るスペースを確保しようと、ドアに手を付いて踏ん張っていた。だが、電車が大きくカーブし、車内が大きく揺れて、彼女がバランスを崩して俺にもたれ掛かってきた。ちょうど抱きついた格好になってしまった。俺は少々狼狽して、そんな動揺を隠すように彼女に言った。
「凄い込んでるな。大丈夫か?」
「うん、平気だよ。俊介が押さえててくれるから」
彼女は、俺に抱きついたままそう答えた。上目遣いに見つめる、彼女の子猫のような目に見つめられて、俺はさらに狼狽する。彼女はそのまま、俺の胸に頭をあづけてきた。
「おっ、おいおい!」
俺は慌てて体を引いた。しかし満員電車である。引くに引けない。さらに揺れる電車で後ろから荷重がかかり、それを踏ん張るために両手を前に突き出す訳で、まるで彼女を抱きしめているような格好になってしまう。心臓の鼓動が早くなっている。絶対彼女はそれに気付いているだろう。俺は恥ずかしさでいっぱいになった。
「少し疲れた。少しこのままでいい?」
俺の胸に頭を預けたまま、彼女がそう言った。俺はうろたえながら「あ、ああ」と答えてしまった。断れる訳もない。こんな状況では、俺の飛びかけた脳が、まともな思考をする訳もないが。
「今日さぁ、楽しかったなぁ」
彼女がポツリと呟いた。それが演技だったとしても、だまされてもいいと、心から思える。そんな言い方だった。俺はこの時、どうしょうもなく彼女を抱きしめたくなってしまった。年甲斐もなく、ただ純粋に。
「ありがとう、俊介。あたしは、俊介に勇気をもらったんだよ」
彼女がゆっくりとそう言った。
「勇気?どんな勇気だ?」
俺はその言葉の意味が分からず、そう聞き返した。ここで、勇気という言葉が出てくるのが、とても不自然な気がしたのだ。何故『勇気』なのだ?
「いいの。俊介はね、知らなくてもいいの」
そう言って彼女は、俺の腰に手を回してきた。この時、彼女は少し下を向いていて、どんな表情をしていたのか分からなかった。俺は照れ隠しにこう言った。
「俺は、ミッキーから、若さを貰ったかな」
「あはは、おやじくさっ」
そう言って彼女は笑った。言わなきゃ良かった。照れ隠しに言ったつもりが、さらに恥ずかしくなった。このすし詰めの満員電車のせいだろうか。胸から伝わる彼女の頬の感触は、少し熱を帯びていたような気がした。
それから15分くらい、俺たちは無言のまま、ぴったりくっついた状態で電車に揺られていた。腰に回った彼女の手が、電車が揺れるたびに、力がこもりきつくなるのが、俺の鼓動をさらに加速させていった。
しばらくして、電車は彼女の降りる駅に到着した。俺たちは2人で電車を降りた。電車が混んでいたのと、他の理由でほてった体には、ホームで当たる風は心地よく感じられ、俺は軽い深呼吸をした。
彼女はここからバスで、俺は乗り換えて別の電車に乗って帰るのだ。彼女は何故か俺が乗るのを見送ると言って、朝降りたホームまで着いてきた。程なくして電車がホームに入ってきた。
「暗くなったから、気をつけてな」
そう彼女に声を掛けて、俺は電車に乗り込んだ。
「うん。じゃあまたね、俊介」
閉まるドアの硝子向こうに、手を振る彼女が見えた。口元に笑みを浮かべて、肩の高さで小さく手を振る彼女の姿を、俺は見えなくなるまで見つめていた。
それが、俺が見た、彼女の最後の姿だった―――
『またね』と彼女は言った。しかし、彼女に『また』は無かったのだ。
『あたしは、俊介に勇気を貰ったんだよ』
その彼女の言う『勇気』とは、俺なんかが想像できないほど、過酷で、不安な選択をするための『勇気』であることを、この時の俺は考えもつかなかった。
第7話 会話
その夜、俺は夕食の後、いつもの野球中継も見ないで2階に上がりパソコンの前に座って、今日購入したばかりのiPodに音楽を入れるべく、説明書を睨んでいた。
どうにか曲をダウンロードするサイトにアクセスしたは良いのだが、それから先が一向に分からず、何度も同じ操作をしては、やり直していた。
20分ほどモニターを睨みながら、マウスを操作していたが、何度やっても同じ事の繰り返しに嫌気がさし、俺は半ば諦めかけて椅子の背もたれに寄りかかってため息をついた。会社では、エクセルだのロータスだのを操作するのにも、若い奴から手取り足取り教えて貰いながら使えるようになった俺だ。ある程度使えるようになったので、自力でもいけるだろうと考えたが、やはり甘かったようだ。仕方がない、明日、車の誰かに聞いてみようなどと考えていると、部屋の半開きになっていたドアの向こうに、下の階に下りていく娘の姿が目に入った。
「おい、青海」
俺の呼びかけに気付かなかったのか、はたまた無視されたのか、娘の足音はドアから遠ざかっていった。「ふうっ」と俺は短くため息をつき、またパソコンの方に向き直ると、パタパタと廊下をスリッパで歩く音が近づいてきた。どうやら引き返してきたようだ。程なくして、ドアの向こうから娘が顔を出した。
「呼んだ?」
俺が声を掛けたのが意外だったのか、娘はきょとんとした顔で俺にそう聞いた。
「ああ、ちょっと教えてくれないか?」
そう言って俺は今日買ってきたiPodを娘に向けた。
「あっ、お父さん買ったの? iPod」
「ああ、聴きたい曲があってな。通勤中の暇つぶしになるかと思って買った」
少し、娘に後ろめたさを感じた。いや、聴きたい曲があるのは嘘じゃない。買った経緯をわざわざ言わなくても良いだろう。俺は自分への言い訳のようにそう答えた。
「ふ〜ん」
そう言いながら娘は近づいてきた。長袖Tシャツに膝長のジャージといったラフな格好だった。風呂から上がって間もないせいか、ショートカットの髪から、ほんのりとシャンプーの香りがする。
「サイトにアクセスしたは良いのだが、そこから先がさっぱり分からないんだ」
娘は「お父さん、ちょっとどいて」と良いながら椅子に座り、マウスを動かしながら聞いた。
「決済はクレジットカード? それともアイチューンズカード?」
「えっとな……帰りにコンビニで……あった、これだ。これで頼む」
俺は鞄からプリペイドカードを取り出して娘に渡した。クレジットカードでも良かったのだが、まずは試しにと思い、帰りがけにコンビニで買ってきたのだった。
娘はカードを受け取ると、そこに記されたコード番号を打ち込んでいく。慣れた感じでとてもスムーズに画面が切り替わり、着々と進行していく。俺が20分ほど掛けていた作業を、娘は僅か2分ほどで終わらせてしまった。その間も「このパソコン遅すぎ」とか文句を言いながら、何度かマウスを振っていた。
「これでOK。それで、なんて曲入れるの?」
「えっとな、コブクロって歌手の歌なんだが、分かるか?」
「えっ? お父さん、コブクロなんか聞くの?」
娘が驚いて聞いてきた。振り返り、俺の顔をまじまじと見る。俺がコブクロ聞いたらそんなに驚きなのか?
「なんだよ。そんなに変か?」
「変じゃないけど、ちょっと意外って感じ。へぇ〜コブクロかぁ」
そう言って娘はまたモニターに向き直り、パソコンを操作する。
「蕾って曲が良いんだが、他にも何曲か良いのが有ったら聞いてみたいんだ。なんか適当に入ってるアルバムみたいのは有るのか?」
CDじゃないからアルバムと言うのか分からなかったが、俺はそう娘に頼んだ。
「ちょっと待って。確かベストが出てたと思うんだけど」
スクロールする画面にずらり並んだ文字から、娘は一つ選んでクリックした。
「これは? 割と最近出たベストみたい。視聴してみる?」
「視聴なんかも出来るのか」
程なくして、パソコンから電車の中で、彼女と聞いているあのフレーズが流れてきた。「おお、この歌、良い歌だな」
俺はそう言いながら、流れてくる曲に合わせて鼻歌を歌った。娘もそれに合わせて、小さな声で口ずさんでいた。さびの部分が終わった後、娘と目が合い、娘が笑い、俺もまた笑ってしまった。
「お父さん、ホントに好きなんだね、コブクロ。あたしも割と好きだな」
娘はそう言って、またパソコンを操作する。
「お前も、低い声の方にメロっちゃうクチか?」
「あははっ、何それっ、お父さんから『メロっちゃう』なんて聞いたら、なんか鳥肌立っちゃうよ」
そう言いながら笑う娘の顔を見ながら、俺はミッキーの言っていた言葉を思い出していた。
『ハルちゃんって呼んでみたら?』
やはり、俺には出来そうになかった。しかし、そう呼ばなくても、そう呼べなくても、少しだけ、娘との距離が近くなった気がした。
大丈夫だよ、ミッキー。俺たち親子は。ちゃんと会話しているだろう?
だが、そう思わせてくれるきっかけを作ってくれたのは、他でもない、ミッキーなのだと俺は思った。ありがとう、ミッキー。
曲のダウンロードが終わり、続けてiPodに曲を入れる作業の時も、俺と娘はコブクロの話題で話を続けた。こんなたわいもない話題で、娘と話をするのは久しぶりだった。コブクロ以外でも、「この人達のこの歌が良い」とか「この歌の歌詞が良い」とかで、娘は色々俺に教えてくれた。俺はほとんど分からなかったが、熱心に、また楽しそうに話す娘の姿を見ているウチに、何だかとても楽しくなっていた。それは電車内でミッキーと話す時とはまた違った楽しさだった。
それと、ダウンロードの仕方も色々と教えてくれたのだが、いっぺんに憶えられる訳もなく、また近いウチにレクチャーしてくれるという約束をした。
一通り作業が終わり、娘が部屋を出ようと立ち上がった。
「ありがとう。助かったよ。俺じゃ夜が明けちゃうところだった」
俺がそう言うと娘は「うん」と照れながら頷いてドアに手を掛けた。
「iPod、良い色選んだね」
「そうか? 少し若すぎた気もするんだが」
「ちょっとね。でも、なんかお父さんぽいかも。似合ってるよ」
ミッキーと同じような言葉を残して、娘は部屋を出ていった。
俺っぽいか―――
iPodを手に、少しぼうっとしながら、椅子に座り、俺はミッキーのことを考えていた。彼女と出会って、この1ヶ月あまりの間、俺は色々な体験をした。俺の心の中で、彼女の存在が徐々に輝きを増していき、不安と期待の入り交じった得も言われぬ感情がわいてきている。本末転倒も甚だしいことだが、いつしか俺は、仕事に行くためにあの電車に乗るのではなく、彼女に会うために乗っている気がする。彼女に会い、話しをするに従い沸き上がる勝手な妄想と、馬鹿げた期待に、いつしか俺は酔っていた。
そんな自分の感情を、簡単に表す言葉を俺は知っている。しかし、それを素直に認め、言葉にするには、俺は年齢的にも、立場的にも出来ない事である。そして何より俺自身、それを認めたくは無かったのだ。
いずれ、彼女は俺の前から居なくなる。それは分かってる。今まで通り、彼女と電車で話し、時には今日みたいに町を歩いたりして、そんな微妙な関係を続けていくウチに、彼女が目の前から居なくなった時、俺はどんなことを思うのだろうか?
年甲斐もなく、臆病になっている自分に、笑ってやりたい気分だった。
そんなことは最初から分かっていたことだろう。身の程知らずという物だ。そうなったらまた1月前の自分に戻るだけだ。そう自分に言い聞かせた。だから、もう少しだけ、この状況を続けよう。彼女が、俺の前から居なくなるその日まで、『俊介とミッキー』でいよう。
俺はiPodを鞄に仕舞い、椅子に引っかけてあった上着に袖を通しつつ、パソコンを閉じて明かりを消し、部屋を出て玄関に向かった。
俺は毎日、夜自宅の周りを散歩するのを日課にしている。去年まで犬を飼っていて、犬と一緒に散歩していたのだが、年末に老死して仕舞い、今では俺一人で散歩している。元々犬のために始めた夜の散歩だが、犬が居なくなった今でも、長年の習慣のせいか、一人でも散歩に出かけている。散歩に出かけないとよく眠れなくなってしまった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるぞ」
玄関から家内に声を掛けて、俺は玄関を出て夜の散歩に出かけた。夜はまだまだ肌寒く、俺は着ていた上着のジッパーを首元まで上げ、歩き始めた。
後は、風呂に入って寝るだけだ。明日、娘との会話を彼女に話そう。彼女はなんと言うだろうか。彼女の言葉を想像しつつ、俺は夜空を眺めながら歩いていった。
早く明日にならないだろうか―――
何にでも終わりはある。
必ず最後はやってくるものだ。
出会いが唐突なら
別れもまた、突然だと相場は決まっている。
だが、それは俺にとって
あまりにも突然で
そして
あまりにも残酷な形でやってきたのである。
第8話 ペンダントの声
翌日、俺は昨日の事を思い出しながら、いつもの電車に乗り込み、いつもの席に腰を下ろした。
昨日の彼女とのデート。そして家での娘とのやりとりなどを思い出し、緩む口元をうつむきながら隠しては、外を眺めるふりをしていると、程なくして電車が走り出した。
彼女に話したいことがたくさんある。家を出てからすぐにiPodのイヤホンを耳に嵌め、コブクロの歌を聴きながら駅まで歩いてきたのだ。鼓膜に響く音に、最初は戸惑ったものの、慣れてくると心地良い響きだ。どうだ、使いこなせているだろう? 娘にも色々教わったし、こんな俺を見て、彼女はなんて言うだろうか。
―――やるじゃん、俊介
彼女の言葉を想像して、また口元が緩んでしまった。まったく、いい歳して何をやっているんだ、俺は。
早く、彼女の乗る駅に着かないだろうか。何よりも俺自身が、彼女の顔が見たくてたまらなかったのだった。
そうこうしているうちに、いつもより、速度の遅く感じる電車が、彼女が乗り込んでくる駅へとさしかかった。ゆっくりとホームに滑り込み、停車してドアが開いた。
相変わらず疎らな乗客が、車内に乗り込んでくる。俺は乗り込んでくる乗客の顔を、さりげなく眺めながら、彼女が乗り込んでくるのを待った。
しかし、彼女は乗り込んでこなかった。
程なくして、ドアが閉まり、おきまりの発車アナウンスが車内に響き、電車が走り出した。
どうしたのだろう。今日は部活を休んだのだろうか。昨日言っていた、礼の部活での出来事が、まだ引っかかっていて、朝練に出ることが出来ないのだろうか。それとも、体調を崩したのだろうか。
どちらにせよ、俺は非道く残念な気持ちになった。今までも確かに彼女と、この電車で会い、話をすることを期待していたが、今日は特別に会いたかったのだ。しかし仕方がない。今日は諦めよう。彼女だって休む事だってあるさ。
俺はそう思いながら、iPodのボリュームを少しだけ上げ、コブクロの『蕾』に耳を傾けた。
しかし、次の日も、彼女は乗ってこなかった。その次の日も、またその次の日も。
俺はさすがに心配になった。
やはり、部活での出来事が、思った以上にショックだったのではないか。いや、風邪でも拗らしたんじゃ無いだろうか。あの日サボったことが親御さんに、はたまた学校にバレて、停学になったなんて事はないか。
そして、1番考えたくないこと―――
俺に会いたくないとか……
それはない、と俺は思う。あの日、あんなに仲良かったじゃないか。まるで、本当の恋人のようだったじゃないか。それはないさ。
俺はそう思いながらも、その可能性を捨てきれなかった。
そして、彼女が俺の前に姿を見せなくなって、1週間ちょっとが過ぎた。
何にでも、終わりはある。必ず最後はやってくるものだ。出会いが突然なら、別れも唐突だと相場は決まっている。結局彼女にとって、俺は単なる『暇つぶしの対象』でしか無かったのかも知れない。単に、同じ電車に乗り合わせた、ちょっと不器用なオッサンを、話し相手の対象に誘ってみただけ。あの横浜のデートだって、部活での嫌なことを忘れるための、いわば『憂さ晴らし』で、たまたま適当なのが俺だったって訳だ。
俺は、いつもの電車のいつもの席に座り、新聞を読みながら、そんなことを考えていた。なに、別に当たり前のことなのだ。俺は中年のオッサンだ。彼女といくつ離れていると思う? 俺から見れば、娘と同じじゃないか。そんな女の子に、俺がいったいどう思われたいというのだ。年甲斐もなく、馬鹿な感情を抱いたものだ。まだクラブのホステスの方がまともな状況だろう。全く―――
だが、彼女が乗って来ていた駅に電車が停車し、ドアが開くと、無意識に活字から目を離し、彼女を捜してしまう自分が居た。そのたびに、俺は自分に笑ってしまう。中年の道化か。そんなもんさ。
俺はそう自分に呟きながら、会社に向かった。
その日は少し早めに仕事が終わり、早めに帰路に就き、いつもより早い時間の電車に乗った。
電車内は、俺のようなサラリーマンも居たが、部活帰りの学生が目立っていた。俺は運良く、座ることが出来、乗り込む前に買った夕刊に目を通しながら電車に揺られていた。
電車は彼女が降りていた駅に近づいていた。
不意に隣に座る女子高生の耳から、微かに音楽が流れてくる。ふと見ると、居眠りをしているようだ。部活の練習で疲れているのだろう。抱え込んだ鞄が、寝息に応じて上下していた。ちらりと横顔に視線を移す。ショートカットの横髪から、白いイヤホンコードが伸びていた。
そう言えば、最近iPodも聞いてはいない。鞄の使わないサイドポケットの中で眠っている。また、終始、新聞オヤジに逆戻りだ。結局、衝動買いになってしまった。そんなことを思いながら、俺は久しぶりに、iPodを取り出そうとポケットに手を入れ、まさぐった。
本体を引っ張り出し、続いてイヤホンを引っ張ると、何かが絡まって付いてきた。俺はおやっ?っと思い手元を見ると、それは鎖だった。俺はそれを引っ張り出してみた。
出てきたそれは、彼女と初めて出会ったときに俺が拾った、あのペンダントだった。裏を見ると、彼女と彼の名前、それにあの暗号のような文字が刻まれている。間違いなくあのペンダントだった。
何故、これが此処に入っているのだろう?
俺はまるで手品を見ているような、不思議な気持ちになり、ペンダントを開いてみた。
そこには、いつか見た、あのはにかんだ彼の写真ではなく、澄んだ美空のように笑う、彼女の写真があった。
『あはは、なに驚いてるの、俊介』
俺の鼓膜に、彼女の声が響いた気がした。俺はこのペンダントが此処にある理由を、どうしても知りたい衝動に駆られた。
いや、もう一度、これをきっかけに、彼女に会いたかった。会ってどうしても、直接彼女の口から聞きたかったのだ。たとえそれが、拒絶を意味する言葉だったとしても。もう一度、彼女の声を聞ければ、それで俺の中でのケジメが付くような気がした。
『またね』
彼女はそう言った。確かにそう言ったのだ。俺は心の中で、そう自問自答していた。
やがて、電車は彼女が降りていた駅に停車した。そしてドアが開く。
俺は、ペンダントの蓋を閉め、握りしめると、意を決して電車を降りた。電車を降りた俺は、ゴミ箱に、脇に抱えていた読みかけの夕刊を放り込むと、改札に向かった。
やはり不安はある。『拒絶の言葉でも良い』なんて、言うのは容易いが、実際に受けるのには、かなりの勇気がいる。誰だって、他人から嫌われることは避けたいと思ってしまう。それが、少なからず好意を持っている相手なら、なおさらではないか。
だが、俺にはその不安を上回る気持ちがある。後悔することには慣れているが、出来るなら、自分に納得のいく形で後悔したかった。
彼女の学校を尋ねてみよう。俺はそう決心していた。
改札を抜け、さてどうしたものかと思っていたが、すぐに向かうべき方向が分かった。彼女と同じ制服姿の女子高生が、駅にぞろぞろと歩いてくるのが見えたからだ。皆徒歩で、駅からそれほど遠くないようだ。俺は駅に向かう学生達が歩いてくる方向へと歩いていった。
程なくして、学校の校舎らしき建物が見えてくる。その姿が大きくなるに従って、俺の中に、不安が広がっていった。
高校時代、他校へ行くことは少なからず勇気を必要としたものだ。当時、友人に誘われ近くの女子校の文化祭に行ったことがあるが、その時ですら緊張した。大人になり、それなりの社会的地位を持つようになっても、それは少しも変わらない自分を自覚していた。ましては、自分の母校でもなく、娘の通う学校でもない。文化祭のようなパブリック化された期間でもない。そんな中、全く他人の女子生徒に会いに行くのである。自分の勢い余った行動力に、今更ながら驚いていた。
着いてどうする? 門から出てくる学生に、片っ端から聞いてみるか? いや、それじゃ変質者と間違われるに決まっている。しかし、クラスも分からず、いったいどうやって探すのだ? 部活。そうだ、部活だ。テニスラケットを持っている学生に声を掛けてみよう。不自然じゃないように、紳士然と言った感じで話しかければ、大丈夫……だろうか。
俺は、小声で尋ね方を練習しながら歩いていった。
そうこうしているうちに、校門の前までやってきてしまった。俺は緊張しながら、門から少し離れた場所に立ち、様子を伺った。
程なくして、都合良くラケットケースを下げた、少し小柄な女子高生が門から出てきた。俺は早足で近づくと、その娘に声を掛けた。
「あの、スマンが、ちょっといいかな」
女子高生は、少し引いた感じで振り返り、俺を見た。
「何ですか?」
まだ日も少しあり、また下校中の生徒もいたせいか、それほど警戒されずに答えてくれた。
「君、テニス部だよね。私は人を捜して居るんだが、テニス部にアンドウミキコという生徒が居ると思うのだが、知らないだろうか?」
俺の質問に、彼女は少し考えたようにうつむき、こう答えた。
「さあ、アンドウさんなんて名字の人、うちの部にはいませんけど?」
「えっ?」
居ない? そんなはずはない。確かに彼女はテニス部だと言っていた。
「先輩や後輩には居ないかい? 居ないはずは無いんだが」
俺は、尚も聞いてみた。結構人数が多い部活で、全員の名前を覚えていないかも知れない。
「いえ、居ませんよ。ミキコさんでしたっけ? そんな名前の人も居ないと思ったけど」
どういう事だろう。学校が違うなんて事は考えられない。確かに、この娘が着ている制服だった。特徴のある制服だ。間違いない。
「他の部のことは分からないけど、ホントにウチの部なんですか?」
「ああ、そう聞いたんだが……背はこのくらいで、髪はこうポニーテールで。そうだ、『ミッキー』って呼ばれているって言ってた」
俺は右手を頭の後ろに回し、髪を結ぶような格好をした。
「それってもしかして――― 板垣先輩の事かなぁ。たしか他の先輩達に『ミッキー』って呼ばれてた気がする」
板垣? アンドウじゃないのか?
俺は、「そうだ」と言いながら、ポケットからあのペンダントを出し、蓋を開けて彼女に見せた。彼女はペンダントを覗き込むと、頷きながら答えた。
「ああ、やっぱり板垣先輩だ。でも先輩、板垣未来【イタガキ・ミキ】って名前ですよ」
板垣未来、ミキ、ミキだから、ミッキー。
アンドウミキコではない。板垣未来。何故だ? 何故名前を偽ったのだ。ミッキーが板垣未来というなら、このペンダントに掘ってある、アンドウミキコとは、いったい誰の名前なのだろう。益々会って話がしたい。こうなると、俺は全くと言っていいほど、彼女のことを知らなかったのだ。そう、名前すら―――
「あの、もう良いですか?」
一瞬考え込んでしまった俺を、不思議そうに見ながら、彼女は、そう言った。
「ああ、すまない。ありがとう。あっ、そうだ。職員室は何処だろう?」
とりあえず、俺は職員室の場所を彼女に聞き、彼女と別れた。俺はそのまま門を潜り、校舎に向かって歩いていった。
第9話 電話
彼女と別れた俺は、校舎の正面玄関に向かった。
春の夕暮れ独特の、まだ少し肌寒い風を感じながら敷地内を歩くと、ゆっくりと影を落とす夕日を浴びた、新芽も初々しい葉の隙間を通り抜ける、その風に乗って部活動を終えた生徒達の若々しい会話が聞こえてきた。
学校という特殊な雰囲気は、遙か昔に学生時代を経験した俺のような中年男でさえ、その時の自分を思いだしてしまう不思議な空気を持っているようだ。校門に向かうべく、すれ違う生徒達を眺めながら、何故か彼らの姿に若き日の自分の姿を見てしまうのだった。 そのうちに、正面玄関らしい校舎の入り口にたどり着いた俺は、来客用のスリッパに履き替えると、脇にある来客窓口のガラス戸をノックしようと手を伸ばし、ふと躊躇した。
さて、なんと言おう。
名前も知らなかった女子生徒を訪ねに来た訳である。どのクラスなのかも解らない。従って担任教諭の名前など、解る訳もない。勢い9割で此処まで来てしまった訳だが、果たして、俺はなんと言って尋ねるべきなのだろうか。俺とミッキーの関係を、どうやって説明する? そもそも、関係と呼べるほどの物ですらない。ましてや女子生徒だ。親族でもなく、親子ほど歳の離れた男が尋ねてくること自体、どう考えても不審がられるに決まっている。何も考えずに、勢いだけで此処まで来てしまった自分の行動力に、驚くと共に、計画性の無さに呆れもしていた。そして、それと同時に、急にこみ上げてきた不安さに、腕を動かせずにいた。
そんなことを思いながら、窓の外で躊躇していると、中の女性事務員が気付き、窓を開けて尋ねてきた。
「何かご用ですか? 」
ごく当たり前な台詞で彼女はそう聞いてきた。
「あっ、あの、すいません。こちらにイタガキ・ミキさんという生徒さんが在学していると思うのですが……」
俺は、その後の言葉に詰まってしまった。
「何年何組か、わかりますか? 」
「いえ、学年は3年生だと思うのですが、クラスまではわかりません」
「ちょっと待ってください」
そう言って彼女は、脇にあるパソコンに向かい、キーボードを叩いた。
「ええと――― ああ、3年4組ですね。あれ? でも、この生徒って……」
そう言いながら、言葉を飲み込み、彼女は俺を見た。
「ご家族の方ですか? 」
家族という言葉を聞いて、俺は何故かドキッとした。そりゃそうだ。誰だってそう思う。
「い、いえ、家族ではありません。知り合いというか…… あの、彼女の落とし物を届けにきたのです」
彼女は、一瞬値踏みするように、俺の姿を見直すと、事務的にこう告げた。
「それならば、お預かりいたします。此処に御名前と連絡先、ご住所をご記入下さい」
そう言って、カウンターの上に用紙と鉛筆を差し出した。
「直接、本人に手渡したいのですが、連絡先などを教えていただくことは出来ませんか?」
俺は一応ダメ元で聞いてみた。しかし、彼女からの返答は、俺の予想通りの言葉だった。
「個人情報ですので、それは出来ません。女子生徒ですし、なおさらです。此処に記載していただく貴方の御名前、ご連絡先なども、この件意外には使用いたしませんが、ご不満でしたら御名前だけでも結構です」
俺は少し考え、名前の欄と連絡先の項目を埋めた。連絡先には携帯の番号を入れておいた。それは、ミッキーに会うことを、ほとんど諦めた俺の、僅かな希望だった。そして、鞄からあのペンダントを取り出すと、彼女に渡した。
「確かにお預かりしました。責任を持って、ご家族の方にお渡しいたします」
そう言ってペンダントを受け取ると、彼女はそれを封筒に仕舞った。
俺は、『家族の方に』という彼女の言葉に、少し違和感を憶えた。だが、こんな中年男が、女生徒に合わせろと尋ねてきたのである。あれは彼女なりの、俺への牽制だったのだろう。
「それじゃ、私はこれで失礼いたします」
俺はそう言い残して、玄関を後にした。
外に出ると、俺の落胆した心を写したように、急速にその色を失っていく夕暮れの空が広がっていた。
やはり、会うことは出来なかった。あのペンダントを発見したときの、得も言われぬ期待感も、今では急速に萎んでいる。
俺は、いったい何をやっているのだろう。心の中で何度も、何度もそう繰り返す。鞄の中にあのペンダントが入っていた。ただそれだけの理由で、こんな所までやってくるなんて。俺は自分の中の未練がましさをあらためて認識した。俺はこんなにも、女々しい男だったのだろうか。
校門から出た俺は、立ち止まり振り返って学校を眺めた。もう、2度と来ることはないだろう学校の校舎は、背に浴びた夕日で、長い影を作り、俺の道化振を覆い隠してくれているようだった。
もう、忘れよう。
俺はそう心に決め、駅へと向かって歩いていった。
それから暦は5月に入り、ゴールデンウィークが過ぎて、休み明けの仕事に少々急かされながらの毎日の中で、俺はすっかりミッキーに出会う前の俺に戻っていた。
あれ以来、2度と彼女はあの電車には姿を見せず、俺もそのことについて考えないようになっていった。
そんなある日、俺の携帯に、1本の電話が掛かってきた。
その日、早々と昼食を終えた俺は、昼休みの残りの時間を、事務所の奥のソファーに座りながらTVを見ながら過ごしていた。昼休みの定番とも言える、サングラスのパーソナリティーが司会を務める番組で、毎日立ち替わりのゲストと司会者がトークをする人気のコーナーを、何となく眺めていたのだが、不意に胸元に入れてある携帯が震え、画面から目を離し、携帯を取りだして画面を開き番号を確認する。
日頃、家族の緊急時以外、滅多に着信の無い携帯だったので、震えた瞬間は少し不安になったのだが 、画面に表示されている相手先の番号は、俺の記憶にはない番号だった。
「もしもし? 」
「あ、あの、鈴木さんの携帯で間違いは無かったでしょうか? 」
中年の女性の声だった。無論、声に聞き覚えはない。
「はい。鈴木ですが、どちら様でしょう? 」
「あの、わたくしイタガキと申します。その節は、わざわざ落とし物を届けていただき、大変ありがとうございました。なんのお礼も申し上げぬまま日が経ってしまい、大変失礼いたしました」
とても丁寧なしゃべり方で、好感が持てるのだが、何のことを言っているのか解らず困惑している俺に、相手はこう続けた。
「あ、申し遅れました。わたくしはイタガキ・ミキの母親です」
俺の鼓膜がその名前を脳に伝え、さらにそれを記憶の名前と照合するのに、若干の時間が掛かった。
『じゃあ、またね、俊介』
あの、最後のミッキーの姿が脳裏に浮かんだ。あの、子猫のような瞳を細めて、愛くるしく笑う少女の笑顔。あの笑顔を俺はどうしても偽りには思えなかったのだ。
「あ、ああ。いえいえ、こちらこそ――」
俺は慌ててそう答えた。
「あの子が色々とお世話になったそうで、あの子に成り代わり、お礼申し上げます」
そう言う彼女の言葉に、俺は一瞬ドキリとした。ミッキーは俺のことを何処まで母親に伝えていたのだろう。俺とミッキーは、他人から後ろ指さされるような、やましい関係では断じてない。しかし、お互いの歳の差を考えると、第3者から見れば、明らかに不自然で、素直に『友人でした』で納得できるとも言い切れない。ましてや俺自身、心に仄かな感情の変化を自覚していた訳で、彼女の母親からそんな風に言葉を掛けられると、後ろめたい気持ちになってしまった。今風に言うなら『微妙』そう、まさに『微妙な関係』だったのだ。
「それで、この度お電話したのは、実は私が貴方にお会いしたいと思い、お電話いたしました。突然こんな事を言って、大変恐縮ではございますが、お会いできませんでしょうか?」
「私に、ですか?」
俺は警戒しながら、そう聞いた。
「ええ、お渡ししたい物もあるので。ご都合のよろしい日時を仰っていただければ、会わせます。会っていただけないでしょうか? 」
俺と会って、何を話すというのだろう。『もう娘には会わないで欲しい』とでも言いたいのだろうか。いやいや、それどころか、あれ以来会っていない。言われなくとももう会うこともないと思っていたのだ。
確かに、歳は若干違えど、俺にも娘がいるから、そう言う親の気持ちは理解できる。俺だって、青海が何処の誰だか解らない中年男と2人で、親しげに町を歩くなど、想像したくもない。そう思うからこそ、俺は今まで馬鹿な葛藤に悩んできたのだった。
だが、電話向こうの母親の口調は、そんな気持ちを感じさせない言い方だった。どことなく、切実さの様な物が含まれているように、俺には感じた。だが、何故俺に会いたいのだろう。そして、渡したい物とは何なのだろう。迷いや警戒心を、興味と好奇心が凌駕し、俺は母親の申し入れを受けた。
「わかりました。お会いするのはかまいません」
「ありがとうございます。それで、ご都合の方はいつがよろしいでしょうか? 」
「私の方は、5時過ぎなら、いつでもかまいませんが」
「そうですか。では、明日の6時はいかがですか? 」
明日? またずいぶんと急な話だった。しかし、俺としても興味があっただけに、早く会ってみたいという事もあった。
「ええ、明日の6時ですね。わかりました。それで、どちらで会いましょうか? 」
「あの、恐縮ですが、我が家まで来ていただく事はできませんか? 」
「えっ? お宅にですか? 」
俺はそう聞き返した。俺はてっきりどこかの喫茶店か何かで会うと思っていた。普通ならそう考えるだろう。しかし、『何故家まで来い』なのだろう。
「こちらからお願いして、大変ぶしつけだとは思いますが、出来ればお越し頂きたいと思います。無理でしょうか」
かしこまって喋るその声に、俺は拒否する言葉を持たなかった。
「わかりました。おじゃまさせていただきます」
「ありがとうございます。無理を行って申し訳有りません。それで、住所を言えばわかりますでしょうか? 」
「ええ、だいたいわかると思います」
俺がそう答えると、彼女は自宅の住所を告げた。俺はそれを聞きながら、テーブルの上にあるメモ用紙に書き込んだ。最寄りの駅からの大体の道順も聞いた。念のため、電話番号も聞いて置いたので、多分たどり着けるだろう。
「それでは、明日の6時、お待ちしております」
そう言って彼女は電話を切った。最後まで丁寧な口調で、受話器越しに頭を下げている姿が目に浮かぶような、そんな感じのする話し方だった。
俺は携帯を折り畳むと、そのままそれを胸元に仕舞い、住所を記入したメモ用紙を握ったままドカッとソファーに座り込んだ。
母親の、俺に話したいこととはいったい何なのだろう。そして、渡したい物とは。俺は様々な憶測に埋もれながら、ボンヤリとメモ用紙を眺めていた。
第10話 母親
次の日、俺は少し早めに仕事を終え、会社を後にした。
仕事自体は際限なくある代わりに、今日しなくてはならない仕事もまた一つもない。
連休前や、明け頃はそれなりに忙しくもなるのだが、それでも他の部署に比べればどうと言うことはない。
各部署から上がってくるデータを、ただ、ただ統計していく単純な作業。膨大な数字の積み重ねが、この部署の全てだった。その課程で導き出される各部署の問題点が発覚したとしても、それを指摘し、何かしらの対応策を導き出すのは俺達ではない。
俺達は、求められた時に求められたデータを時間を掛けずに正確に提出するだけである。そこに才能や特殊技能の介在する余地はない。
誰かが置いたレンガの上に、またレンガを積む。そうやって積み重ねてきたデータというレンガを整理するのに、特別な才能など必要ない。
そんな部署に回されてくる人間などを会社が重要視する訳もなく、他部署から回されてくる社員は大抵3ヶ月も経たずに退社していくのが常であって『精算系統管理室』なんて言うご大層な名前が付いてはいるが、体の良い左遷先と言った感じであった。
しかし、俺は別段この部署が嫌ではなかった。この出世とは無縁の部署に配属が決まった時、むしろほっとしたと言っても良い。以前居た営業でもそれほど成績が良かった訳ではないし、上司や同僚、得意先といった煩わしい人間関係に翻弄されるのも好きではなかった。俺は此処で定年までの20年あまりの年月を、このデータの蓄積という職務と共にひっそりと過ごしていくのを望んでいるのである。
俺は昨日交わしたミッキーの母親との約束のため、彼女がいつも乗り込んできた駅で電車を降りた。俺がホームに降り立つと、俺の背後で電車のドアが閉まり、やがて電車は次の駅に向かうべく動き出した。
『暗くなったから、気を付けてな』
『うん、じゃあまたね、俊介』
彼女の最後の言葉が脳裏をよぎった。あの日、電車から見送った彼女の姿を思い浮かべながら、俺は改札へと向かって歩いていくと、改札の向こうにマクドナルドの看板が見える。
あの日、俺は彼女と此処で朝マックを食べたのだ。まるで夢だったか、と感じるほど昔のことのように思える。そんなことを思いながら、俺は改札を抜けロータリーに出た。
ポケットから、昨日電話で話した時のメモを取り出し住所を確認する。ローターリー横の交番の前にある地図を見ながらメモの住所を探すと、駅から結構離れていることがわかった。どうやらバスかタクシーで移動した方が良さそうである。俺はタクシー乗り場に向かいタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
後部座席に腰を下ろすと同時にドアが閉まり、車を発進させながら運転手がそう聞いてきた。白髪交じりの年輩の運転手で、雰囲気からベテランのようだった。俺はメモの住所を運転手に告げた。
「わかりますか?」
「大丈夫、わかりますよ。私は此処で女房の手よりも長いことハンドル握ってタクシー転がしてますから、今じゃもう無い店や家だって案内できますよ」
運転手は冗談交じりにそう答えた。俺はふと、ハンドルの横にあるモニターに目が行った。最近珍しく無くなったナビゲーションシステムだろう。しかし、電源が入っていないらしく、モニターには何も映し出されてはいなかった。
近頃はタクシーにも付いているのか……
そう言えば営業時代に比べ、めっきりタクシーに乗る機会も減ってしまった俺にとって、最近のタクシー事情など判るわけがない。そんなことを思いながら見ていると、俺の視線に気付いた運転手が照れくさそうに言った。
「コレね、先月会社から支給された、最近流行のナビって奴です。私ぁ機械がてんでダメなもんで、使えないから切っとるんです」
世の中全てがデジタル化されるのではないか? と思える今の時代にこのような運転手が駆るタクシーに乗り合わせる自分に、少し口元をほころばせた。いや、決していやな意味ではない。
そんな俺の反応をどうとらえたのか、運転手はにこやかに話を続ける。
「初めは珍しいから付けてみたんです。ところがコイツは大通りやバス通りなど、混む道ばっかり案内するんですよ。この町を初めて走るドライバーなら良いんでしょうが、私みたいに長年走ってる連中には必要ないですよ。逆にイライラしていけない……」
「でも、距離や時間が延びて儲かるんじゃないですか?」
「いやいや、大して変わりませんよ。こう言っちゃ何ですが、さっさと降ろして次のお客さん拾った方が効率がいいときもあるんですよ。それになんか機械に使われているみたいでどうも気持ちが悪いんですよ」
なるほど、そんなものかもしれない。
俺も会社ではパソコンを使い仕事をしているが、やはりペン片手に電卓の方が安心するときがある。電卓のボタンをせわしなく叩き、2度の検算で出た数字に安心感を覚えるのにどこか似ている感じがする。
この数秒の会話で、俺はこの運転手に好感を持った。
車はロータリーに面した大通りを走り、2度ほど曲がって坂を登っていく。窓の外を眺めるといつの間にか駅前のガヤガヤとした雰囲気は消え、閑静な住宅街といった様相を呈した町並みが広がっていた。
この町並みを見ながら、ミッキーは毎朝駅に向かっていたのだろうか……
そんなことを考えつつ車に揺られていると、不意に運転手から声が掛かった。
「この辺りですかね……」
どうやら先ほど指定した住所に着いたらしく、タクシーは左の歩道側に寄せてハザードを炊いて停まろうとしているところだった。
俺はメーターを確認しつつ財布を取りだし金額を払いつつタクシーを降りた。たいした時間ではなかったが、俺は愛すべき運転手と別れもそこそこに、周囲を見回し電柱に記載されている番地とメモの住所を確認した。
確かに住所を確認するとこの辺りのようだ。俺はとりあえず通り沿いに並んだ一軒家の表札と、電柱の番地を一つ一つ確認しながら坂を登っていった。
坂を振り返ると先ほどタクシーを拾った駅前が下の方に見える、なかなかいい感じの眺めだった。この眺めをミッキーも毎朝眺めながら登校していたのかと、少々感慨深くなってしまった。どことなく、今の妻の家を初めて訪問したときの心境に似ている。あのときは緊張して周りの風景など見る余裕さえなかったのだけれど……
タクシーを降りてちょうど3件目の家に『板垣』と書かれた表札が掲げられた家を発見した。その下の住居表示プレートとメモ書きの住所を確認したが間違いはない。
俺はとうとうミッキーの家までやってきたのだった。
表札が掲げられた化粧ブロックの下にあるインターホンのボタンを押す際、ふと『手土産』が何もないことに気が付いた。
学生が友人宅を訪れる訳ではない。れっきとした社会人が手ぶらで訪問するなど、少し考えればおかしいと思うはずなのに、俺は今まで気が付かずにここまで着てしまったわけである。つくづく自分の迂闊さを呪った。
しかし、今更どうすることも出来ない。ここまで着てしまった以上手ぶらだろうが呼び鈴を鳴らす他に選択肢は無い。俺は意を決し、インターホンのボタンを慎重に2度押した。
少々高鳴る鼓動に反して、その音は澄んだ音を響かせながら家の住人に訪問者を告げる。程なくして『はい』というあの電話で聞いた声が応答した。
「恐れ入ります、鈴木と申します」
俺は極力自分の高鳴った感情を隠すべく昔営業時代に培った『営業ボイス』でそう告げた。『少々お待ちください』という声とともにカチッと切断音がし、辺りに静寂が戻る。
少しして2段ほどのタイル敷きのたたき上に備え付けられた玄関ドアがガチャガチャと音を鳴らしつつ開いた。
「ようこそおいでくださいました」
俺の顔を見るなり、出てきたその女性は深々とお辞儀をした。俺もつられて頭を下げて応じる。
少し線の細い、優しそうな、それでいて芯の強そうな印象を受けるのは、ミッキーに似たあのネコのような瞳のせいかもしれない。やはり彼女とは親子なのだと納得できる雰囲気を醸し出すその女性は、さもほっとした表情の笑顔で俺を迎えてくれたのだった。
「会社を出てすぐに直行したものですから、失礼と思いましたが手ぶら出来てしまいました。すいません」
と社交辞令の謝罪の言葉を並べる俺に、彼女は優しく微笑みながら俺を案内する。
「いえいえ、どうぞお構いなく。本日は私が無理言ってお越し頂いたのですから……」
そう言って玄関のドアを開き俺を家に招き入れた。
やはり親子だからなのだろうか…… ミッキーとは雰囲気はまるで違うのに、どこか初めて遭った気がしないのは―――
俺は玄関を上がり、ちょっとした廊下を行き過ぎてちょうど6畳間を2つ繋いだほどの和室に通された。彼女がお茶を用意するといって部屋を出ていったのを確認すると、俺はぐるりと周囲を見回した。
一般的などこの家にでもあるだろう和室だったが、二間続きというのが少々意外な気がした。しかし当たり前だがこれといって変わったところは無い。少し線香の香りがするのはどこかに仏壇でもあるのだろうが、ここからは確認できなかった。
そのうちに先ほど入ってきた戸襖が開き、彼女がお茶の入った湯飲みと茶菓子を乗せた盆を持ちながら入ってきた。
「あ、どうぞ、お構いなく」
俺は恐縮しつつそう言って鼻の頭を擦っていた。
俺の前にお茶と茶菓子を置きつつ、彼女は俺のそんな姿を眺めながら少し笑った。
俺はその微笑に照れながら、また鼻の頭を擦る。
「失礼しました。娘から聞いていましたもので……少し懐かしく思ってしまって……」
彼女はそう言いながら俺の向かいに腰を下ろした。
娘から聞いていた……か。いったいどんな話をしていたのだろう、ミッキーは。しかし懐かしいとは……?
「鈴木さんのその鼻を擦る仕草…… 前の主人にそっくりなんですよ」
その言葉を聞いて俺はどんな顔をしていたんだろう。
「前の…… ご主人ですか?」
言葉を選ぶつもりだったのだが、口を付いて出てきたのは何とも陳腐な質問口調だった。
「ええ、未来の実の父親です。4年前に他界しまして…… 今の主人とは去年再婚したんです」
「そうだったんですか……」
俺はこの告白は正直ショックだった。未来ちゃん、いや俺にとってミッキーは、俺に亡き父親を重ねていたのだと言うことだったのだ。
いや、しかしそれは当たり前か…… そう考えた方が自然だと言うことは俺も判っている。5年前となると中学生だ。俺も娘がいるから何となく想像できる。一番多感な時季に父親を亡くした少女。行きずりで見かけた親父に亡き父親の面影を見るという感情はない話ではない。
所詮そんなものさ……
「ちょっと失礼します」
不意に彼女が席を立ち、俺の横を通り過ぎて続きの間に行き、何かを持って戻ってきた。
そしてまた俺の前に座り、持ってきた物をテーブルの上に静かに置いた。
それは1台の1眼レフカメラだった。
よく見ると少し汚れており、所々に傷があるように見える。そしてカメラの命とも言えるレンズには大きなひびが入っていた。
「前の主人の形見です。彼、カメラマンだったんです」
「事故…… か何かですか?」
我ながらぶしつけな質問だったと後悔した。形見、それも壊れたカメラなど、恐らく遺品に違いない。嫌な思い出をよみがえらせるだけではないか……
「事故というか…… 爆発に巻き込まれたと聞いています。かなり大きな爆発だったみたいで遺体は見付かりませんでした」
彼女はカメラを手に取り、歪んだシャッターにそっと指を添え、こう続けた。
「フリーの戦場カメラマンだったんです」
「戦場カメラマン……」
「ええ、世界中の戦地に行ってはそこの様子なんかを写していたんです。たまに帰ってきては写真集を出したり個展なんかを開いたりして…… その業界では割と有名だったんですよ」
そこまで話して、彼女はカメラを両手で抱えながら、愛おしそうなまなざしを投げかけていた。
「元々私は彼の作品のファンでした。殺伐とした戦争という状況の中で、あの人のどこか暖かみを感じられる風景や写っている人の笑顔がとても素敵でした。どうやったらこんな表情が撮れるんだろうって思って…… 私からモーレツにアプローチして一緒に住むようになって…… 半年後に未来を身籠もりました」
目を細める彼女の瞼には、恐らく亡くなった前のご主人の姿が見えているのだろう。それは同時にまだ愛していることを確かめるための儀式のように思えた。
「テニスが好きで、学生時代は全国大会にも出場したそうです。ほとんど家には居なかったけれど未来は良く懐いていました。家に居るときは未来に良くテニスを教えてやってました」
なるほど、ミッキーのテニスは父親の影響だったのか。大切な亡き父の思い出もあってあれほどテニスにこだわっていたわけだ。
「その影響もあってか、未来は中学に入ってからテニスを本格的に始めるようになりました」
「ミッキー…… あ、いや、未来さんから聞きました。全国大会で優勝するほどの腕前だったんですよね」
「ああ、そうでしたね。もうあの時は私もびっくりで、応援席で思わず涙が出てきてしまって……『何でお母さんが泣くの?』って未来に笑われちゃいました」
そう言って彼女は恥ずかしそうに笑った。
「主人が亡くなって半年ぐらいでしたから、そのこともあって一気に感情がこみ上げて来ちゃったんですよね」
そう言いながら彼女はカメラをまたテーブルの上に置いた。そしてテーブルの下からもう一つ品物を取り出し、カメラの横に添えるように置いた。
それは、俺が学校に届けたあのペンダントだった。
「学校まで届けて頂いたそうで、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました」
そう言いながら彼女は深々と頭を下げた。
「あっ、いえいえ、わ、私の方こそどうやって返したらいいか判らずに、学校を訪ねてしまって返ってご迷惑をお掛けしたのかと心配してまして……」
不意を付かれて俺は慌ててそう返した。迷惑を掛けたというより、『不審がられるのではないかと心配した』と言った方が正しいが、さすがにそれは言えなかった。
思えばミッキーとの妙な関係はこのペンダントから始まったのだ。何か特別な物を感じずにはいられなかった。
「これは元々私の物だったんです」
不意に彼女がそう言った。
「鈴木さん、このペンダントの裏にある名前を見て、あの子の名前だと思ったんですよね」
そう言いながら彼女はペンダントを裏返す。そこにはあの時に見たアルファベットの名前と、あの暗号のような番号が刻まれている。
「ええ、するとこのアンドウ・ミキコさんというのは……」
「私の名前です。そしてこのマスザキ・トオルというのは前の主人です。まだ結婚する前に、お互いの写真を入れて持っていようって…… それでこの上の数字は籍を入れたときにあの人が自分で掘ったんです。1985年5月1日、その日の日付を記念にって。あの人、自分のはちゃんと掘ったのに、私のだけ間違って反対に掘っちゃって……」
I,S, S861―――1985,5,1
なるほど、アレは日付だったのか…… 暗号でも何でもないじゃないか……
「あの子が妙に欲しがってて…… あの子父親が大好きでしたから。高校に進学した記念にあの子に譲ったんです。」
写真の青年を『彼氏かい?』と聞いた時の反応
ミッキーをアンドウミキコさんと呼んだときの彼女の表情
『コレはね、秘密の暗号だよ』と言ったときの悪戯っぽい笑顔
全部納得がいった。そう、全ては俺の勘違いだったのだ。
勘違いから始まり、その間違いを伝えぬままつき合ってきたミッキー。それに気が付かずに変な期待を抱いたまま、こんな場所にいる今の俺。俺の心の中にぽっかりと穴があいた気分だった。
なにをやっているんだ、俺は……
何もかもがただ虚しく、情けなかった。さらに恥ずかしくさえある。
まさに道化。
いや、そもそもそんなことを感じることすら馬鹿馬鹿しい。考えても見ろ、相手は16歳の少女だ。俺はそんな年頃の彼女たちが避けたがる中年親父サラリーマンだ。そこに接点などあろうハズがない。ましてや嫌がられることはあっても好意を寄せるはずが無いではないか……
そんなことを考えていると、俺は早々にこの場違いな状況から一刻も早く脱したい心境に駆られた。
「あの…… 鈴木さん、あの子に会って行ってくださいませんか?」
「えっ?」
唐突に彼女が俺にそう言った。
会う? 今更会って何を話すというのだ?
ミッキーと会わなくなってもう一ヶ月以上になる。会う必要が無いと判断したから会わなくなったのだろう。俺に父親を見ていたのは今の話からいって間違いない。それがもう必要ないから会わなくなったと考える方が自然だ。そんな相手が、わざわざ自分の家にまで会いに来るなんて嫌に決まっている。普通そうだ。
しかし、では何故この母親は俺のような中年親父に娘と会うことを勧めるのだろう。
「でも、未来さんは会いたくないんじゃないですか?」
俺は帰りたい一心でそう答えた。
「いえ、それはないでしょう。あの子はあなたに会いたかったんですよ…… だから、会ってやってってください」
そう言って彼女はまた頭を下げた。
そんな姿をした女性のお願いを退ける度胸なんて、俺は持ち合わせては居ない。俺はもうどうにでも馴れという半ば自棄のような心境で答えた。
「……判りました。それで、未来さんはどちらですか?」
確か外から見たときは2階建てだった。この和室の大きさから考えて子供部屋は2階だろう。
「後ろです」
彼女の答えに俺は度肝を抜かれ、慌てて振り向いた。
しかし、そこにミッキーの姿は無かった。俺は深く息を吐きながら振り向いて彼女を見た。そんな俺の姿を見ながら彼女は立ち上がり、俺の横を通り過ぎて先ほどカメラを持ってきた続きの間に向かった。
「どうぞ、こちらです」
俺は疑問を感じつつ立ち上がり、彼女の後について隣の部屋に入った。
先ほどの部屋と同じくらいの広さで、西側に配された窓から茜雲が見える。先ほどからする線香の香りがその強さを増したの感じ、仏壇があるのがわかった。
丁度隣の部屋の俺が座っていた場所から戸襖の影になったところにそれはあった。
数本立つ線香の煙の向こうにある白い布にくるまれた四角い物体と
揺らぐ煙の向こうで笑う色のない写真―――
『あははっ 驚いた? 俊介!』
5月の美空のような澄んだ笑顔で、モノトーンのミッキーはそう言ったような気がした。
ああ、驚いたさ…… なあ、俺、今どんな顔してるんだ?
さっきから接地感の無い足の膝が揺れるのをどうにかこらえながら、俺は心の中でそう答えていた。
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2008/07/07(Mon)19:17:28 公開 / 鋏屋
■この作品の著作権は鋏屋さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
どうも、鋏屋でございます。
初めて読んでくださった方、ありがとうございます。
毎度読んでくださる方、大変感謝しております。
相当間を空けてしまいました。読んでくださっていた方々には大変申し訳ありませんでした。もう内容忘れてしまってますよね……スイマセン。
何故か急に書きたくなってしまって続きを書きました。
あとちょっとで終わりなんですが、どうにも筆が進まずここまで引っ張ってしまいました。
スランプなんて生意気なことは言いません。偏に私のいい加減さの問題です。ホントダメ人間だなぁ
さて、ミッキーの家に来た俊介ですが、ミッキーの事が自分の勘違いだったと思いこみ凹んでおりますが、さらに畳み込むようにショッキングな事実でもうボロボロです。ちょっとかわいそうな気もしますが、もう少し彼にはがんばって貰いましょう。
ラストスパートです。デビュー作なので何とか完結させたいと思っております。
鋏屋でした。
夢幻花殿のご指摘により、修正
コーヒCup殿のご指摘により、1部削除
甘木殿のご指摘により、1部加筆
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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