『バイオリンは悲しまない』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
作者:バター                

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 浜辺に、見かけないものが落ちていた。普段は貝殻や木屑のように自然のものしかここにはないはずなのだが。

 立派な鞄だった。そんなもの、ここでは何の役にも立たないが、あるというだけで村の皆は喜ぶので、今日の手土産に拾って帰ることにした。

 拾ってみたものの、それは予想以上に重かった。波に攫われそうになりながら、何とかそれを安全なところまで引き上げる。抱えて歩くには、重すぎた。恐らくは長いこと水に漬かっていたのだろう。

 一息つこうと、鞄の横に座った、その時。

 何の前触れもなくその鞄はあいた。中には、見たこともない、茶色いものが入っていた。

 恐る恐るそれを手に持ってみる。四本の糸が、ピンと張られていて、まるで「弾け」とでもいっているように、輝いていた。そっと、人差し指を当ててみた。それだけでは、何も起こらない。


 ポーン……


 少しだけ弾いてみた。初めて聞く音だった。その音色は、優しく美しい。

 恐らくは楽器というものだろう。ここにはない、響く音を奏でる楽器。この海の向こうの人々はこんなものを弾いているのだろうか。それはなんと羨ましい。

「……これは、何だ?」

 鞄に再び目を通すと、そこには一本の、棒、のようなものがあった。弓に似ている。何かの動物の毛が張られていた。

 何に使うのか。

 そうか。

 当てるのか。

 それを手にし、楽器を立てて、弓に似たそれをそっと当てた。そしてゆっくり、横に動かす。最初はゆっくりと、時にははやく。左右に、動かしていく。

 時折その音はひどいものだったが、何度かそれをやっているうちに音色は美しくなっていった。そこで気づく。これは、こうして弾くものではないのではないか、と。

 こんな小さいものを、地面につけて弾かないだろう。持ち上げてみようか。いや、それでは弾きがたい。手に持ったまま浮かせてみようか。いや、それもまた弾きがたい。

「あぁ、こう、するのか?」

 そっとそれを首にあてる。首と肩との、微妙な位置に。なるほど、実にしっくりくる。この楽器の居場所は、きっと此処なのだ。

 そして先ほどのように、それを左右に動かす。音色は高く、遥か彼方の海の先まで、この大地の深いところまで、染み込んで、広がっていくような、そんな音だった。

 奏で続け、指を動かして音を出す。弓のようなものの動きを変えて、メロディを生み出す。なんと高尚な音を奏でるものを、海の先の人々は作り上げたのだろう。このような美しいものを、よく作り出せたものだ。

 感情は次第に昂ぶっていく。

「響け」

 響けと、叫んだ。

 叫んだのと同時に、その糸は切れた。音は消えた。もう響かない。

「もう、音は出ないのだ、な」

 少しだけ感傷に耽って、それを鞄の中に戻した。これは、自分の下にあるべきではない。この島にあるよりも、この、頑丈な箱のような鞄に入っている方がいいのだ。本当の持ち主が、持っていなければならないものだ。こんなちっぽけな島には、似合わない。


「流れていけ、楽器よ」


 名前は知らない。知っても此処では意味のないこと。あの音の美しさを、覚えていればそれでいい。

「もう二度と、はぐれたりするな。こんなところに、来るな」

 だが、礼を言おう。この世界にこのように美しいものがあるなんて、自分は知らなかったから。知らぬまま、生きていただろうから。美しさを知れて、命を終えることができるから。

 お前の在るべき場所へ、還っていけ。


 さらば、美しきものよ。







 波に揺られ、それは漂う。何度も沈み何度も浮き上がり、それを延々と繰り返す。四本の命、弦の切れたその楽器は、海水に浸されながらただ彷徨っていた。

 持ち主などとうにいない。

 とうに、この海に消えていってしまった。

 最後に奏でてほしかった。こんな暗い世界のまま、毒されて死んでいくのだけはごめんだったというのに。

 なんと神はいらっしゃるのか。最後の最後、腐りかけた弦で、音を奏でさせてくれた。見知らぬ青年に、見知らぬ土地で。だが、今まで奏でてきて、もっとも自分らしい音だっただろう。弾き方を知らぬ人間だからこそ、私の音が出せたのかもしれぬ。

 あぁ、もうじき世界は終わる。体まで毒されてきた。いずれ、バラバラの木片になって、この水の中を彷徨うのだろう。あの人に、私を美しく使ってくれたあの人の下へ行くのに、そう時間はかからない。

 礼を言おう、遠き土地で出会った見知らぬ人間よ。

 最後に、命果てるそのときに、命の音を紡いでくれて。音を世界に送ってくれて。私の生きた証を刻んでくれて。


 礼を言おう。





 
 

 沈み行くひとつの、もの。命は終わり、始まりはない。

 全うして生きたのだから。


 始まりはなく、そこにあるのは終わりだけ。






 バラバラになった其れが、海の中へ消えていく。七色の音を響かせながら。終わることの無い音の世界に、ただただ、沈んで行く。





 深く蒼い音の世界は、終わらない。





2007/06/07(Thu)10:07:27 公開 / バター
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