『地を這う蟲』 ... ジャンル:ショート*2 ショート*2
作者:藤野                

     あらすじ・作品紹介
蟲を見る妹と兄の話です。

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兄様は蟲。蟲に似ているというわけではありません。あの方は蟲そのものでいらっしゃいます。
私より十も離れた兄様は、小さい頃からよく私と遊んでくれたのですが、その頃からあの方は既に蟲であったのです。私達人間が当然持っているはずの手や腕は何処にもなく、ただ黄緑色の皮膚と、その上に赤や黒の模様を毒々しく付けて居られるのです。目も御座いません。目があるだろう所には真っ黒な得体の知れない斑点だけがあるのです。勿論口も何もなく、…あぁ、いえ、私達と一緒にご飯を食べられるので、お口はあるのでしょうが、幾分幼い私は頭もたっておりませんもので、どこにあるのやらわかりません。ともかく兄様は少なくとも私にとっては大きな大きな芋虫が着物を被って歩いてらっしゃる様に見えるのです。「兄様」と呼べばゆっくりこちらを振り返ってどうも笑ってくれているみたいなのですが、私にはその表情の違いが分かりませんもので、どうも反応に困ってしまうこともしばしばです。
先述の通り兄様は私が小さい頃から蟲であり、多分私が生まれた頃から蟲であったのでしょうが、どうしてか彼の方が蟲に見えるのは私だけであるらしく、お父様やお母様に話しても気味が悪いと言う様な顔をされてしました。お父様なんて、実の兄を蟲とは何と言うことかとおっしゃって私をお殴りになるのです。この痴れ者が、と怒鳴られても、やっぱり兄様は蟲でしかなかったので、止したら良かったのでしょうが私がそのことを繰り返せば、危うくお母様によってお医者様を呼ばれそうになりましたので、その時から兄様のことは出来るだけ言わないようにして居ります。だけども時たまどうしても我慢できなくなったときにだけ、家で飼っているミケ猫を相手にして一人ひっそり語りかけるので御座います。さて、当の兄様は私が何を言おうが只何も言わず、お父様とお母様が私に折檻するのを部屋の隅でじっと見て居られました。その時の表情は分かりません。だって兄様は蟲ですから。
黄緑色の芋虫なのです。







「兄様」
しとしとと小雨が降る中、自分の家の庭(彼の父親は名の知れた軍人であるために彼ら家族の暮らしは裕福である。よって家もかなり大きく、それに比例するように庭も広大だった)に立っていた彼は鈴を転がすような声に振り返る。振り返った先には案の定彼の妹が居た。彼から十も離れたその少女は、肩口で切りそろえられた黒髪を微かに揺らして彼を見ている。
綺麗な赤い着物を着ていた。それは切れ長の瞳を持つ少女にとても会っていて、彼は口元をほころばせるが、すぐに表情を改めて妹に完全に向き直った。
「何?」
「お父様がお呼びです」
冷たい事務口調には、兄妹の温かみなど全く感じられなくて、分かっていることとはいえ彼は少しだけ寂しくなった。
彼女にとって彼は蟲に見えているらしい。それは彼女が幼いときからそうであるらしくて、ずっとそのことを主張し続けていたのだが、当然彼は蟲ではなく、蟲ではあり得なく、妹はそれを言えば厳格な両親からののしられ、怒鳴られ、殴られ、そして話は一方的に打ち切られたのだった。一回などはあまりの執拗さに母がとうとうヒステリーを起こし、病院へ放り込まれそうになったこともあった。その時の状況は未だ覚えている。大声で彼女をののしる母。彼女のことを恥として、人にすぐ知れる病院などもってのほかの母を止める父。妹は撲たれた後が生々しい頬を押さえて、部屋の隅でどうすることも出来なかった彼をじっと見つめていた。それ以来彼女は両親の前でそのことを言うようなことは絶えて無くなって、やはり子供にありがちな妄想であったかと両親は一息ついたのだが、彼は知っている。只妹は両親の前で言うのを止めただけであって、未だ彼が蟲であると信じ続けている。
彼女が時々飼っている猫にだけ未だそれを囁いているのだ。縁側に座って猫を膝に乗せてそして延々自分の兄のことを語り続けるその光景に自分が蟲扱いされた怒りなんかより、おかしくなってしまった妹に対する哀れみ何かより、切なさを感じたことを覚えている。
「兄様。出来ればお早くお願いします。お父様に怒られてしまいます」
妹がもう一度彼に向かってそういって、彼は「うん」と曖昧に頷いた。彼女は相変わらずこちらをじっと見つめていて、その瞳にもやはり温度という温度は何も感じられず、彼はやっぱり寂しくなってしまった。だけど彼にはどうしようも出来なくて、家の方へと歩き出す。その後ろをからころと黒塗りのかわいらしい下駄を鳴らしながら妹も付いてきた。からり。

ころり。

「ねぇ」
「はい、何でしょう」
「お前にはまだ蟲が見えているのか」
振り返らずに尋ねると、彼女は何の反応もなかった。ただただ沈黙が続いて、下駄の音だけ。からり。
無視をされたのかと、彼が諦め始めたころ、後ろから細い、だけどはっきりとした声が届いた。

「はい」


ろり。



予想外に衝撃は強くて彼は少しだけ顔を歪めたのだが、それは分かり切った答えであった。

2007/06/01(Fri)14:46:56 公開 / 藤野
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