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『麦撒く人は語らない[7・7]』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:無関心ネコ
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乾いた発砲音が二発、街に轟いた
その日街には雨が降っていた
激しく、冷たく
天から注がれる雫が、硬いコンクリートに打ち付けられる
「……しませて……ちゃんを、く…しませて……」
人通りの滞ったその交差点の真ん中では、一人の少女が力なく地面に倒れている。
赤いコートを着ていて、ゆるくウェーブのかかった栗色の髪が良く似合う――その彼女が、うつ伏せに倒れたまま、小さな言葉を――呪詛の言葉を吐き出している。
冷たい雨は彼女にも等しく、容赦なく打ち付けられ、その体温を奪っていった。彼女はそれに抵抗するようにか細い呼吸を繰り返す。だが途切れ途切れだ。
彼女自身が知っているように
もはや彼女の命には終末が訪れつつある
彼女は紫色にまで変色した唇をわなわなと震わせて、言葉をつむごうとする。だが吐き出した空気はまともに言葉を作れずに、ほとんど掠れるだけの意味のない吐息に変わるだけだった。
豪雨は消え行くたった一つの命などには少しも敬意を表したりはしない。それは所詮、どこにでもある摂理でしかないのだから。空から雨が降るのと同等に、彼女は血を流し、死んで行く。
残された命を言の葉に吹き込もうとする彼女の努力はしかし、ほとんど身を結んでいなかった。無情にも、過ぎていく時間と共に、雨は激しくなっていく。そして雨水は胸とわき腹に空いたどす黒い銃創の中に分け入ってくる。それが激痛を生み、彼女は呻いた。
ふと、白い――本当に真っ白な手が、僅かに動いた。
しかしそれは何も掴むことなく力尽き、そして動かなくなる。掴めたのはせいぜい、自らの体の中から溢れ出た血とそれが混ざった雨水程度のものだった。無論、それは今の彼女にとって欲しい物ではなかった。
彼女が欲しいのは絶対的な強さだった
『この男』を殺す、具体的な強さ
「…………」
今まさに死に絶えんとする自分を見下げる『この男』を、だ。
男は羽織ったコートも真っ黒な黒髪もスーツのズボンも全部ずぶ濡れにしたまま、黙って彼女を見下げている。その表情には情感らしきものは浮かべられていない。黒目は冷たく、瞳が少しだってぶれることない。まるで無感動そうに、慌てることもなければ悲しむことも無く、じっ――と彼女を見つめている。
死の淵にあえぐ女は、唯一動かすことができる瞳を、ゆっくりと自分を見下ろす男へと向けた。
その瞳は悲劇的な美しさに満ちていた
今まさに消えんとする命の灯火の全てが、その瞳には宿っていた
「よくも……おね…ちゃん…………くるしませて……!」
『怒り』――そのたった一つの感情が込められて。
よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、お前は、裏切った、裏切ったんだ、お姉ちゃんを、お姉ちゃんを裏切って、よくも、よくも、よくも、殺して、殺して、殺しつくして、自分だけのうのうと、生きて、よくもよくもよくもよくも、殺したな殺して殺して殺して殺して
「よく……おねえちゃ…………アンタは…殺すだけ……殺す、だけ…………」
見下ろす男は表情を変えなかった。顔を伝う雫にも頓着せず、ただただ、黙ってその言葉に耳を傾けていた。彼の手には彼女を撃ったSIG P220――黒金の拳銃も握られていたが、彼はそれを使って彼女の言葉を遮るようなことはしなかった。
「……殺すことで…しか……壊す……しか……失うことでしか…………アンタ…は……自由を、得られない」
そうして紡がれる呪詛の言葉を、男は黙って聞いていた。もはや全てにおいて手遅れな彼女の傍らで、混沌とした怒りに身を焦がす彼女の傍らで、世界で今最も彼女に近い位置で、小さな小さな、呪詛の言葉を、黙って――――
雨の中の二人のシルエットは、やがて訪れた夕闇の中に消えた
■
首相官邸前に集まった数十人の記者達は、お目当ての『獲物』が官邸内から現れると、ピラニアのようにわっと一斉に彼を――『獲物』こと相沢良雄厚生労働大臣を取り囲んだ。
玄関口の階段を下りようとする彼に向かって突進し、制止するSPなど目に入っていないかのようにむちゃくちゃに前に乗り出して、フラッシュの嵐と不躾な質問の罵声を浴びせかける。
「相沢厚生労働大臣! 首相とは何を話しておられたんですか!?」「大臣、暗殺された米田氏について何か一言!」「今回の件で呼ばれたんですよね、大臣!?」「大臣答えてくださいよ!」「大臣! 米田氏が暗殺されたのは国民定義保護法が関係していると思われますか!?」「大臣、大臣!」「何か一言でいいのでお願いしますッ!」「国民定義保護法はいつ撤回されるのですか!?」「身の危険を感じることはありませんか!」「大臣ご回答お願いしますッ!」
相沢大臣は官邸から僅か五メートルの鼻先に置いてある車に向かう間に、その不満げに歪んだ顔を数百枚の写真に収められ、特注のスーツを揉みくちゃにされ、そして数百の――おおよそ同じ意味を問う――質問を投げつけられた。
だが彼はその質問には答えず、SPに囲まれながら車に無理矢理乗り込もうとする。それを制するように、さらにフラッシュが焚かれる。
質問は「どうなんだよぉ!」「おい答えろよ!!」と敵意むき出しの怒声に変わり始める。
それが午後八時四十分の話だ
真っ白一色で統一された通路。その空間はまるで病院か、それともなにか神々しい精神世界のようだ。煌々と照らされる蛍光灯の光を、壁も床も天井も一点の曇りも無く跳ね返している。
そして静寂
永遠の平行線を想起させるよな、気が狂いそうなくらい穢れの無い空間。その時は永遠に続くかに思われた。
しかし今日この日、今この瞬間、ふと、遠くの方から足音が響いた。
白と静寂の世界を切り裂く――かき乱すのではなく、『切り裂く』――ような、迷いの無い硬質の音。
奥の角から二人の男が姿を現した。
一方は若く、『鋭い』男。
猛禽類のそれに似た鋭さを持つ瞳、真一文字に結ばれた口許、す――とした鼻立ち、全体的にシャープな骨格、ミドルショートの髪は真っ黒で、着ているスーツも真っ黒、シャツは染み一つ無い純白で、血のようなどす黒い赤色のネクタイがその前で揺れている。
真っ白な壁と床の中で彼は一つのオブジェのように浮かび上がっていた。早足の歩みもまた彼を際立たせた。
その横を行くのは典型的な『疲れた』中年。
鋭さは無くむしろ丸みを帯びた――しかしもう何年も戦い続けている老兵のような『疲れた』相貌、全体的にずんぐりとした体型にふっくらと膨らんだ頬、逆U字方に禿げた髪は少しも取り繕おうという意思が感じられない。茶色のコートの襟を正しながら、短い足でやはり足早に歩く。どこか投げやりな感じがその姿立ち振る舞いから漂っていた。
「時間ピッタリだなぁ」
中年の方がのんびりとした気だるげな様子で呟いた。
「急に呼び出したのに、近くにいたのか」
その呼びかけに、しかし若い男は反応しなかった。ずんずんと前に進んでいく。中年は怪訝な顔をして
「なぁ、黒瀬よぉ」
黒瀬、と呼びかけられた若い男は、歩調を少しも緩めずに、それに答えた。
「これで給料貰ってますから」
情感の感じられない、どこまでも頑なな声色だった。
中年はその返事に心底おかしそうに鼻を鳴らす。
「やりがいのある仕事だよな」
黒瀬は答えない。
彼らはずんずんと先に進む。白と静寂をずたずたに切り裂き、突き進む。
そしてその先にゲートが現れた。完全に閉まった左右横開き銀色のゲート。
その傍らで椅子に座っていた警備員が一人、立ち上がってさっと敬礼した。
「おはようございます。赤城警備室長、黒瀬警備室務」
「ああお早う」
返事を返したのは中年――赤城警備室長だけだった。黒瀬警備室務は無言で敬礼を返す。
警備員は手にしたブレードの広いナイフ状の危険物探知機を二人にかざす。頭の先からつま先までさっと動かすと、真っ白な壁の一角に頷いて見せた。はたから見ればそれは、何もない空間に頷く奇妙な光景に見えたはずだ。
ゲートは音も無く、重そうな外見にもかかわらず一瞬で左右に開いた。その先から光が差し込む。
「あと一週間でこの仕事ともお別れか」
赤城がぼそりと呟き、黒瀬は答えずに足をすすめる。
車内に入る直前、相沢厚労相の腕が掴まれた。
SPがそれを払い落とす。さらに掴んだリポーターを背にして押し返し、「下ぁがれッ!」と怒鳴りつける。
しかしマスコミ群はそれをまったく意にかえさず、SPの怒声を越える大声で質問を投げかける。
「大臣! 現在でも八百万人以上もの日籍難民が権利も保障も無い生活を余儀なくされているんですよ!?」「この事態で日籍難民に対する取り締まりは強化されるんですかッ?」「ご自身の身の危険は感じませんか!?」「大臣!」「大臣!」「お答え下さい!!」
いくつもの腕が伸びて「逃げるな」とばかりに相沢の腕から服の袖まで引っ張り倒したが、SPはそれらを猛然と弾き返し、その背でマスコミの群れを再び押し返した。
大臣は開けられたそのスペースを無駄にせず、無理矢理に体を車内に押し込む。扉を強引に閉める。
しかし今度は扉とフレームの間に指を突っ込まれて扉を閉めることができない。
大臣は忌々しそうに舌打ちし、外で必死に人の群れを押し留めているSPの一人に「なんとかせんか」と声をかける
午後八時四十一分
「西野の一回忌だったのにな」
黒瀬がチラリと赤城の方を見た。
去年殉職した西野には妻と子供がいて、黒瀬はついこの間その事実を知った。西野はあまりそういう自身の事情は話さない男だった。港湾で手足を縛られて鎮められている姿が発見されるまで、誰も彼のプライベートな生活を知らなかった。
赤城はふんと鼻を鳴らす。
「葬式の予定ばっかり入ってくるな」
黒瀬は正面に向き直る。
次の角を曲がったとき、赤城は笑いながら付け足した。
「来年は相沢大臣の一回忌にもでなきゃならん」
SPの奮闘により二分近く経ってから、ようやく相沢大臣を乗せた車は扉を閉め、走り出した。前を塞ぐカメラとマイク、フラッシュと人の群れに猛然とクラクションを鳴らし、ゆっくりと進みだす。
そして記録によると午後八時四十二分
その瞬間を捉えたのは大手有名テレビ局のカメラだった。
進み出してから四秒後、突如後部車窓に放射状のひびが入り、ガラスの破砕音が響き渡る。弾けたガラス片がカメラの後方から車を照らしていたバックライトにキラキラと輝く。
車内の人影が、まるで電源が落ちた人形のようにぱったりと横倒しになった。
この時点で異変に気がつくことができたのは集まったマスコミの内の一割にも満たず、ほとんどの記者、カメラマン、リポーターの数々は相沢首相に対する質問を怒声として投げかけ続けている。気がつくことができた最前線のリポーター――カメラの前でマイクを握って質問をぶつけていた――も短い悲鳴を上げた後はポカンとしたまま呆然とし、カメラも三秒ほど動きを止める。
事態だけは淡々と進む
車内から黒服の男が飛び出してくる――同時に叫ぶ
「伏ぜろ゛!!」
顔を抑えて吐き出した怒声に、しかし誰も従うことは無い。
ただカメラの端でポカンとしていたリポーターが「え? え?」と疑問の声を上げるだけだ。似たようなことをする人間はいれど、伏せる人間は皆無だった。
飛び出してきた黒服は二、三歩顔を抑えたままよろけた後、ぼけっとしている一人の女性リポーターに抱きつくように倒れこんだ。
いやぁ! と悲鳴を上げて思わず退った彼女の足元に、黒服は倒れこむ。
そして顔から手が離れた
彼の頬に空いた穴からぴゅっと血が噴出す
顎に開いた穴からも
咽からも
目は潰れ陥没し、透明の液体が滴り
口から血の塊を吐き
「――ッ! ぃゃぁぁぁああああああああああああああああああーーーーーー!!」
足元に転がる、死の淵にあえぐ黒服男の姿にようやく事態を飲み込んだ彼女は、咽の奥から頭上へと突き抜けるような恐怖の金切り声を上げた。
その瞬間、ようやくマスコミ群の時間も動き出す。カメラの端でおろおろしていたリポーターが
「撃たれた? ねぇこれ撃たれた!?」
と何度も問い、その問いはまるで伝言ゲームのように周囲に広がっていく。
「撃たれた!」「なに? 撃たれた?」「おい撃たれたぞっ相沢撃たれた!!」「相沢大臣撃たれたって!」「おいうっそ」「おい前に出ろ前に」「おぉどけどけ! こっち撮らせろぉ!!」「相沢撃たれた!」「相沢死んだってよ!?」「カメラこっち向けろ! おい、前にッ!」
混乱の極みにあるマスコミ群を掻き分けて、数人のSP達が車に飛びつく。体を張って守ろうという英断だ。この時、映像には同時に遠くへ走り去っていく数名のSPの姿も映している。
マスコミ陣が束になって車に殺到する。
実際にはまだ死体を確認してないのだ。彼らは尋常ならざるこの事態に逆に使命感を引き出され、この映像をとっているカメラマンもリポーターに
「おい行くぞ! 死体撮れ!!」
と駆け出す。
しばらく怒声と悲鳴、マスコミとSPの「見せろ!」「下がれ! 危ないから下がって!!」「撮らせろよ!!」「いいから下がりなさい!」「開けろ! 中開けろぉ!」「おい押すんじゃねぇよ!!」の応酬がそのカメラに収められる。映像自体も激しく左右にぶれながら、取材器具を持った人々の狂気すら感じられる殺到のさまを途切れ途切れに映している。
そして誰かが車のドアノブに手をかけた
「やめろッ!」
とSPの一人は叫んだ。それは職務上の怒声だったのか、それともただの親切心だったのか
その制止も空しく、カメラマンは無茶苦茶に体をねじ込んで、
頭蓋が弾けとんだ『肉塊』の姿を、精確にそのレンズで捉えた
扉を蹴破るような勢いで入ってきた二つの影――赤城と黒瀬。
部屋の中は暗い。それはまっさらな闇色ではなく、むしろもう少し光度の上がった群青色だ。部屋の一角に設置された大型ディスプレイが映像を――相沢厚労相暗殺の瞬間を捉えたニュース映像を映し出している。その光が僅かに部屋を照らしているのだ。
カメラの持ち主が揉みくちゃにされるからだろう。映像は見ているだけで酔ってしまいそうな代物で、さらに「おい撃たれた! 撃たれた!」「下がれぇ! 下ぁがぁれぇ!」の応酬、制服警官によって吹き鳴らされる笛と、パトランプの明かり、そしてサイレン、女性リポーターの悲鳴――その混乱の様は世紀末の様相を呈し、酩酊感を感じさせる。
そのディスプレイの前に、赤城と黒瀬は立ちはだかった。同時に部屋の明かりが灯される。パッという音と共に部屋が一気に明るくなる。
部屋の中央に四人の男女の姿が現れた。
整然と並べられた二十個くらいはありそうな椅子の数々に、かなりの空きを持たせながら、彼らは気ままな席について、赤城と黒瀬を見つめている。
一人は瞳をキラキラと輝かせた、まるで少年のように純粋な希望に満ち溢れた男。少しクセのある栗色の髪、無邪気に持ち上がった口元、多少小柄ながら、紺のスーツをまくった腕は筋張っていて、子供っぽさと青年っぽさを合わせたような、まさに若い希望と力の象徴のような男だ。
一人は口元にハンカチを当てて、今にも泣き出しそうな表情をしている女。大きなアーモンド形の瞳、肩までの黒髪の前髪だけをピンで留め、薄い唇にうっすらと桜色のルージュを引いている。小柄な体型も合わせてどうにも弱々しく、彼女だけは妙にこの場から浮いている。ビクビクと怯えている様はまさにリスやウサギ、子犬といった小動物を連想させ、事実彼女のニックネームは学生の頃から今現在に至るまでその系統に属するものである。
一人は前かがみになりながら血走った目で食い入るように原と黒瀬を見て――睨んでいる女。肌の色は幻想的なくらい白いのに、髪は猛烈に染め上げた真っ赤なショートで、ぎらつく瞳も形だけなら人形のように無情で美しい瞳なのに、その奥底には激しく渦巻く「何か」がある。ついで態度は男そのものだ。腕は腿の上にだらりと下げられ、目は前述の通り、口はガムをかみ締めていて――――美しい様とは正反対の態度だった。赤城はかつて彼女に凶暴美貌という言葉を送っている。
一人は黙って腕を組んでいる彫りの深い男。元々柔和な相貌を、場の空気にあわせて無理矢理深刻そうな形にしている――といった感じで、しかしそれはせいぜいで「困った顔」にしか見えない。顎にもヒゲをはやして野生的にあろうとしているが、いかんせん、無精ひげの延長のようにしか見えない。優しい男であることを隠しきれない男だ。
その四人を前にして、赤城は言った。
「事態は見た通りで――」
と、折り悪く彼の胸元の携帯電話が震えた。彼は携帯電話を取り出して相手を確認し
「――黒瀬」
と傍らの黒瀬を顎でしゃくって呼ぶと、アイコンタクトで頷く。黒瀬がうなずいて返すのを見届けると、足早に部屋を出て行った。
代わりに黒瀬が前に立つ。
「状況を把握しろ」
彼は声を張り上げるわけでもなく、どこまでも一辺倒な静かな声でそう言った。
「本日午後六時二十六分、首相官邸で会合を終え、帰宅しようとした相沢厚労相が頭部に狙撃を受け、現場で死亡が確認された。使用された弾丸は軟弾頭の炸裂弾、口径5.56mm。上部即頭から侵入した弾丸は頭蓋内で瞬間空洞を形成、内圧が高まった頭蓋は破裂。相沢厚労相はこの時点で即死。その時同時に炸裂した弾丸によって、周囲に頭蓋の破片が飛び散り、それが護衛に当たっていたSP数名に突き刺ささった。一名が重症、二名が軽傷」
ディスプレイにいくつかタスクが上がった。相沢厚労相の生前の写真が映し出される。そして死後の頭蓋が炸裂して下顎だけになった姿(「ひぇ」と小さな悲鳴が上がった)、窓の銃創と放射状のひび、血が噴出す顔を手で押さえて数名の救急隊員に寄り添われ避難しようとするSPの姿(「ひへぇぇ」と小さな悲鳴が上がった)が映し出された。
「二日目にあった米田前厚労相爆殺事件を受け、警備部は相沢厚労相の警備を厳重に執り行っていたが、当日は本人の意向により最小限の警備人員に削減されていた」
「政治家って馬鹿なの?」
声を上げたのは『凶暴美貌』の女。
黒瀬は目も向けなかった。
「感知していない。使用された弾丸から狙撃は長距離レンジライフルM14/DMRで行われたと推測される。これは一般的な暴力団組織、右翼組織に流通するにしては高性能に過ぎる代物で、諸外国でも極限られた正規軍にしか流通していない。狙撃犯の背後には大きな組織、もしくは組織体が存在する可能性もある」
「〜〜ッ!」
もう我慢できないとばかりに、『若々しい希望と力に溢れた少年のような』男はブルブルと体を震わせた。
「やっと来た! こういうのをずっと待ってたんだ!」
心底楽しそうにそう言う。その彼を
「マキビ、やめろ」
『彫りの深い』男がたしなめた。
「事件は警察の手にゆだねられているが、現に今、赤城室長が呼び出されていることからも我々『別室』に引き継がれる可能性も高まっている。そこで事前に下準備は進めておくことを室長は決定した――――長戸清音」
気だるげに手が上がり、「はぁい」とふざけたような口調で「赤髪と暴力」の女が応えた。
「現場に出て狙撃手の痕跡となる何かを見つけて来い」
「警察が全部やってるんじゃないのぉ?」
「いまだに狙撃場所も特定できてない。お前が行ってお前の目と勘で調べて来い――――日向マキビ、春月華」
さっと手が挙がる。持ち主は『若々しい希望と力に溢れた少年のような』男だ。
ついで遅れたことに(なぜか)慌てた様子で「は、はいっ」と『弱々しい』女が手を上げた。
「ワンッだろ『わんこ』」
清音が椅子の背にもたれかかりながら、ニヤニヤとして言うと、華は顔を真っ赤にして清音を見て
「な、そ、言いませんそんな事!」
と叫んだ。
「前歴リストから狙撃・暗殺に関わった組織を洗い出せ、今回の犯人がどのような形であれ『教授』された可能性もある。共通点を割り出せ――――八雲イチカ」
組んだ両手を片方解いて、彫りの深い男がゆっくりと手を上げた。
「公安と連絡を取って最近のカルトと日籍難民の動向を調べろ」
「了解」
黒瀬は一度全員を見渡す。
清音は獰猛な笑みを浮かべて腕を組み、椅子にもたれかかっている。クリスマスイブの子供のようにわくわくとした様子のマキビ。華は両手をひざの上ですり合わせて、なぜか居心地悪そうに下からちらちらと周囲を見渡す。イチカは緩く腰掛けていたが、その表情は決して緩まず、じっと黒瀬を見つめていた。
黒瀬は片腕を演台の上に乗せると、ぐっと身を乗り出した。
「解決するまで休みは無い。死ぬか、殺すまで働き続けろ――――さぁ行くぞ」
■
「バックボーンは簡単だよ。まぁその分? 大衆運動化しやすくて面倒だがね」
首相官邸へ向かう車内。窓の外は夜の闇にけたたましく光るネオンが流れている。
後部座席で今年四十八になる中野警備部長が唸った。たるんだ頬と目元のシワ、大きな染みが右目の下にぼてっとついている。彼の横では柔和な表情の赤城が、しかし何も言わず座っていた。
赤城の無言を『促している』ととった中野は一度頷き、そして自分のペースでゆっくりと話し始める。
「まるで君を素人のように扱うようで悪いがね、先ず事の始めから話したいのだが、いいかね?」
赤城は表情を変えずに頷いた。
「2010年の米中戦争勃発時に国外避難――まぁ逃げた連中、だわな、彼らからいくつかの権利が剥奪されたのは当然知っておるよな。連中が『日籍難民』と呼称されているのも」
「ええ」
「君も知っているとおり、その連中に復権を約束したのが前厚労相の米田だったんだよ。当時の内閣は議席の半数以上を占めていて力を持っていたからな、わらをもすがる思いの日籍難民からすれば多少なりとも信憑性も高く感じられるだろう。米田の株は上がったよ。
ま、だが内閣自体はアレだよ、しょうも無いボロをだして退陣。米田も約束を履行しないまま退陣、そのまま引退だ。それもよしゃいいのに後任が日籍難民復権反対派の相沢だって聞いた途端、掌返して『私見を言わせてもらうと、私の退陣も運命の一環、日籍難民はやはり非国民であるというのが神のご決断なのかも知れませんなぁ』なんて余計なこと抜かすもんだから、世論は大混乱だよ」
「米田と相沢には接点があったようですな」
相沢、相沢か……と中野は唸った。
「現厚労相の……現厚労相『だった』相沢は米田のシンパに近かった男だよ。米田も相沢をかわいがっていた。『神の決断発言』で米田は背を押したつもりだったんだろうな。ま、だが端から見れば? そうは受け取れなかったわけだが?
こう捉える人間もいる――――『米田は相沢と組んで持論を捨てた。『自分たち』を裏切って相沢についた』」
自分たちを裏切って
そう言った中野に、赤城は目を向けた。
「米田前厚労相を暗殺したのは日籍難民であると?」
車がギッと音を立てて止まった。
窓の外には煌々と明かりを放つ首相官邸の玄関口が見える。
「見つかってもいない犯人についての推測と把握は警備部じゃやりかねるよ」
つい三時間前には流血の暗殺事件があった首相官邸へ続く道と階段。まだ打ち水も乾いていないそこを、中野警備部長はきょろきょろとしながら、赤城は一瞬だけ現場に目をやるだけで、それぞれ二人は進む。
「警備部長としてではなくあなた自身の私見は」
階段を上がり、豪奢な装飾とクリーム色のライトの中を歩き、数々の警備員の敬礼と使用人の会釈を潜り抜けて、そして誰の目にも届かない階段の中腹で先を行っていた中野警備部長は足を止めた。赤城も足を止める。
「私はどうあっても警備部の人間だよ、その仮説はありえないから、答えられないなぁ」
「家に帰れば父としてのあなたなのでは?」
赤城の質問に、中野は答えなかった。
そして数瞬のときが過ぎると、彼は背を向けたまま、肩を揺らして笑う。僅かに首を傾けさせ、その瞳だけを赤城に向けた。
「どうした赤城、随分自虐的じゃないか。聞きたいのか、『父』である私の意見を、『元日籍難民』である君が? 当然私の答えはきまっとるさ。それを君がどう受け取るかわからん程私ぁ愚かじゃないよ。ましてそのために大きな『喪失』を味わった君だぁ……まぁ大丈夫さ、信用しとるよ。私見がどうあれ、私はそう言うしかないしな」
中野警備部長は再び歩みを進み始めた。階段を上る。
赤城の足は進まず、ただ立っている。
彼は先を行く中野の背を見上げ――――そして爪を噛んだ。
★
★
首相官邸前を一台の黒いバンが通り過ぎる。随分乱暴な運転でそれは駐車場に止まった。
運転席のドアが開く。
「よっと」と外に飛び出してきたのは『凶暴美貌』の清音だ。ふわっとショートの赤髪が持ち上がり、飛び降りるとさらさらと音を立てて揺れた。彼女の格好は特殊部隊が戦闘時に着込むような夜間都市戦闘服姿で、ただ頭にはヘルメットではなくキャップを被っている。
彼女は扉に手をかけながら実に憂鬱そうに唇をアヒル状に尖らせて
「何で副室長がついてくんの?」
助手席側からどしゅっと降りた黒瀬――彼は普通にスーツ姿だ――は声色を変えずに返す。
「お前だけじゃ不安だからだ」
「はっ」と清音は笑った。
「おもしろい冗談」
彼女は乱暴にドアを閉めると官邸前――射殺現場まで移動する。その後に黒瀬も続いた。
まだ現場には血を洗い流した水のあとが残っていて、ところどころ赤黒くなっているところも垣間見えた。
清音はまだ肉がこびり付いて落ちていないその場所を足で突っつく。ひとしきりそれを楽しんだ後、その場所を中心にぐるりと体を一周させた。
「ワンコが見たら気絶するね」
黒瀬は答えず、眉根を寄せた。こまったものだ、と表情が物語る。
清音は周囲を見渡しながら、クルクルと体を回し始めた。――無論、踊っているわけでも遊んでいるわけでも、狙撃ポイントを探しているのだ。アナクロな方法だが、最新式の装備をもってしても発見できなかった狙撃ポイントは勘に任せてそうして探した方が見つかり易い。
だが彼女の口の方はまるで舞い踊っているかのように楽しげな口調だった。
「ワンコなんで『別室』に選ばれたんだろ。非正規の独立愚連隊には似合わないね。どっかの会社でお茶くみしながら婿さん探ししてそう」
その歯に衣着せぬストレートな物言いに黒瀬は額を押さえながら
「TRT-1の隊員だったんだ。テロリズム分析専門家だった」
「へぇ!」
彼女は回るのを止め、黒瀬の方を振り返って笑った。
「そんな風には見えないけどな」
「続けろ」
黒瀬の言葉にまた清音は唇を尖らせ、だが言われたとおり作業を開始、続行する。が、口の方は作業に集中しない。
「あたしがSATの隊員だって聞いたときビックリしたでしょ?」
SATは警察治安維持組織の特殊急襲部隊だ。通常の警察組織では対応しきれないような強い武装を持った凶悪犯、テロリスト、もしくは特殊な状況下での任務に当たる、まさに肉体派の部隊だ。当然、女性が入隊するのは難しいし、志願する人間自体いない。
黒瀬はタバコを取り出して口にくわえた。
「マキビはSAT、イチカはWAiR、ワンコがTRTだ。次に来るのはSBUかSSTかそれとも特警隊か……そう思っていたが、またSATに戻ったことで多少は驚いた」
SAT、WAiR、TRT、SBU、SST、特警隊、どれも筋金入りの特殊部隊だ。
「そういう意味で?」
拍子抜けしたように清音は言う。
「女なのに、とか、そういうのは無いわけ?」
「TRT-1のワンコがいる。彼女は女だ」
「おっもしろくなぁ!」
清音はそう言いながら、じっと一点を見つめている。その先には樹林とその間に垣間見える濃紺の空。星は見えない。
「あったか」
清音は目を細めてしばらく黙っていた。
「……確か官邸から二キロ以内に背の高い建物を作っちゃいけないって法律作られてたよね?」
不意に訊ねた彼女の質問に、黒瀬は口に挟んだタバコで不明瞭な声ながらも、すぐに答えた。
「特定の主要施設の外辺から二キロ以内に、五メートル以上の建造物を建設するのを禁ずる。違反した場合は建設業者から依頼主まで関係者全員が五年以下の懲役を受け、建設物は処理される」
「だから狙撃できる場所はかなり限定されるんだけどね……」
彼女は睨んだ方向へ進み出した。そしてその先で再びぐるりと体を回す。何度も体を回す。そしてまた一点で視線を止めると歩き出す。端から関係のないものが見ればだいぶシュールな状況だ。
「そういえばさぁ、赤城室長と副室長の話聞いてないよね。ここに来る前はどこでなにしてたの?」
黒瀬は吸い込んだ煙をほとんど謳歌することなく吐き出した。タバコを自ら吸っておきながら、タバコ自体を忌み嫌っているかのような表情だ。
「中国で戦争をしたり、国内で工作したり、色々やった。その前の俺はただの陸自先遣隊員、赤城室長は多少顔の利くただの政治家だった」
「政治家!」
清音はスットンキョンな声をあげて笑った。
「政治家が何で『内閣府情報部別室』なんて経営してんの?」
「必要だったからだろ――戦時下の統制、情報操作、非正規戦闘の指揮、そういう汚れ役が必要だった頃に丁度良い鴨だったんだ」
「何で皮肉ってんの?」
「俺が皮肉ってんじゃない。当時の状況と彼の経歴がそうさせる――室長は日籍難民だ。国家の裏切り者が国家を統制する。そうやって今でも警備部の上役に皮肉られてる」
ふと、遠くから轟くエンジン音。黒瀬が顔を上げる。清音もそれにつられて振り返った。
白の高級乗用車が一台、官邸前で止まった。サイドドアがSPの手によって開かれ、中から白髪で杖を突いた老木のような老人が現れた。
黒瀬が眉を寄せる。
「……岡部経団連会長?」
「え? 誰?」
彼の後ろで清音が間の抜けた声を上げる。
「知らなかったな、あいつがブレインか」
「ねぇ、誰なの? 岡部って?」
老人はSPが手を貸そうとするのを首を振って拒み、自らの足で官邸へと続く階段を行こうとする。
「岡部経団連会長――世界に冠する日本経済の、その基盤を支える主要経営者や会長を集めた『経済団連合』トップに君臨する……元はただの一経営者だ」
「そんなのが何でここに来るわけ?」
「岡部は日籍難民の安い雇用体勢を歓迎してる人間だ。いつの時代も、金持ちは貧しい消費者を食いつぶすまでその力を誇示しようとし続ける。今回の件で政府が屈服し、日籍難民の復権が果たされると奴らにとっては都合が悪い。安い雇用体制が崩壊するからな」
「ふーん」
わかってるのかわかっていないのか、清音は唇を尖らせて言った。
「なんか悪い奴な感じするね。もしかしてアタシの給料が手取り十八万しかないのもアイツのせい?」
「……それは仕事不足のせいだよ。さぁ、続けるぞ」
「はぁい――ほんとに監視しに来たのね副室長」
「ったりまえだろ」
そうして彼女は再び官邸に背を向けて、グルグルと周囲を見渡し始める。
黒瀬は短くなったタバコを捨てて、新しいタバコを取り出す。胸元からライターを取り出し、咥えたタバコの先に火をつけようとする。
しかしつかない。
ガスが切れたのだろうか。黒瀬は眉根をよせ、二度三度、ライターを擦った。そして不満げに四度目を擦ろうとし
爆発
世界がオレンジ色に包まれ、爆風で黒瀬の体が浮く。抗いがたい強烈な力にねじ伏せられ、彼は吹っ飛ばされる。鼓膜を突き刺す爆音、金切り音、清音の悲鳴。
なんとか体を前に転がして衝撃と飛んでくる金属片を回避し、さらに迫り来る爆風に必死にうつぶせで地面に爪を立て、耐える。殺傷能力を含んだ金属片が空気を切り裂く金切り声を耳元に受けて、黒瀬は頭を抱える。
直後急速にオレンジは収束する。それに合わせるように今度は周りの空気が引き込まれる。黒瀬のスーツが巻き上がり、あたりの木々がざわざわと揺れ、一方向へ先端を向かわせ、あたり一面に強烈な臭いが立ち込める、そして
そして――ようやく世界に落ち着きが取り戻された。
黒瀬が伏せたまま、小さく舌打ちする。
「くそ……清音! 無事か!?」
「――っいったあ! なんだよこれ!」
清音は怒鳴りながら立ち上がった。その目にはオレンジ色の光が反射している――いや、彼女全体がオレンジ色に照らされている。
黒瀬も立ち上がった。立ち上がって、そして振り返った。
官邸前に止めてあった岡部経団連会長の高級車がオレンジの火柱を上げ、濛々と燃えていた。いや、むしろそれは一塊の巨大な火の玉に近い。まともに車だとわかる部分は炎の渦の間に垣間見える焼け焦げたフレーム部分くらいしかない。どす黒い、地獄から立ち上がるような黒い煙が天に向かって猛烈な勢いで昇りつめ、周囲にゴムの焼ける嫌な匂いが立ちこめた。
黒瀬の胸ポケットが揺れた。黒瀬がとる前に自動的に繋がれ、イヤフォンから声が漏れる。
『黒瀬、官邸前で爆発だ』
今は官邸内で警備を担当していたはずの赤城室長の声だ。
黒瀬はしゃがんでイヤフォンを耳に押し付け、同時に清音に手で「伏せろ」と指示を出す。
「現場にいます。岡部経団連会長の車が爆発しました」
「三時方向移動!」
清音が立ち上がって真右に走り出し、黒瀬も立ち上がってそれに続いた。駐車場に駐車されている車の陰に隠れる。暫時の安全地帯に移動したのだ。
『負傷者は』
「スナイピングポイントを探して現場から移動していて我々は無事です。岡部会長は目と鼻の先で爆発に巻き込まれています」
『確認しろ。それと、首相を避難させたい』
「すぐにヘリを呼びます」
『たのむぞ』
通信が切れる。
拳銃を構えて周辺を警戒したままの清音が、タイミングを読んだように訊いた。
「仕事増えた?」
黒瀬は呆れたように小さく息を吐き出す。
「……合図で二時方向の木の陰に移動するぞ。燃えているあの車を中心にして迂回し、様子を確認する」
黒瀬はさっと車のフロントから頭を上げて官邸前の猛火を確認する。同時に軽く肘を曲げて手を上げた。
数瞬の間が過ぎる。
「よしいいぞ行け!」
彼の腕がさっと下ろされ、清音が二時方向へ走り出した。同時に黒瀬も車のフロントを飛び越えて彼女の後に続く。
三、四十メートルはあるその距離を、彼らは全速力で駆け抜けた。迫ってくる樹木林。
二人はそのままスピードを緩めず突っ込んだ。そして手ごろな大きさの木の陰にさっと身を隠す。ぴったりと背をつける。
「二人じゃCQBごっこもままならんか……」
いつの間にか黒瀬の手にも拳銃が握られている。その彼が木の陰から顔を出し、炎の塊を覗き見る。
官邸から数名の警備員が出てきて、階段上部まで吹き飛ばされて遠目にも虫の息とわかるSP――黒服を診ている。引きずって中へ入れようとする人間もいて、「手を貸してくれ!」と官邸内から見ているだけの人間を怒鳴りつけている。
「……よし、いくぞ」
黒瀬は拳銃の銃口を下げたまま走り、彼らの元に走って近寄った。清音も銃を左右に向けて確認しながらそれに続く。
「担架! 担架持ってきて! 番小屋の中にあるから――おいおい、あんたら何者だ!?」
初老の警備員――ネームプレートに深見とある――が咽許にガラスが突き刺さってぐったりとしているSPを引きずったまま、黒瀬達に言った。彼の指示を受けて官邸内に担架を取りにいこうとしていた警備員も足を止めて黒瀬たちを見る。
「内閣府の職員だ」
黒瀬は銃を腰に戻し、両掌をかざして見せてそう答えた。嘘ではない。彼らの肩書きは『内閣府危機情報管理部別室』である。
深見は眉間に皺を――もともとある皺にさらに皺を寄せて、疑いの目を二人に向けていた。だが黒瀬はそれに構わず、軽く手を上げて訊く。
「岡部会長は」
「……そこだ」
深見は顎で階段脇の手すりを指した。そこには手すりにもたれかかってぐったりとしている白髪の老人の姿があった。
清音は(彼女は一切拳銃をしまうような仕草をしなかった)さっとその姿に走り寄ると、しゃがんで彼の容態を確認する。
「権限はあるんだろうな」
深見が――先程から気になっていたのだが意外と少年のように声が高い――唸るように言った。相変わらず二人に疑いの目を向けている。
答えようとしたところで、清音が黒瀬を呼ぶ。黒瀬は彼女に頷き、同時におざなりに深見の質問に答えた。
「首相に聞いてくれ」
清音の許に近寄る。しゃがみながら「どうだ」と訊くと、彼女は肩をすくめた。ぐったりと頭を下げている老人の白髪をわし掴みにすると、ぐいっと持ち上げる。
ぐちょ――、と不快な音と共に粘ついた液体がその顔から尾を引いた
老人の顔には無数のガラス片が突き刺さっていて、その傷跡から噴出した血で顔全体が粘度の高い、乾き始めの血液にまみれていた。さら右目には鉄片が突き刺さっていて、完全に眼球を真っ二つに裂いてしまっている。
「死んでるのか」
黒瀬はそう言いながら、彼の首筋に手を当てた。酷い状態ではあるが、戦場に出たことがある者になら一目瞭然、まだ致命傷ではないのは明らかだ。
清音が老人の顔を下にもどした。
「致命傷はこっち」
老人の後頭部は陥没していた。脳髄が崩れてはみ出している。爆風に吹き飛ばされて、手すりに後頭部を打ち付けたらしい。手すりを見ると、血がべっとりと滴るほどついていた。
黒瀬は胸元に手を突っ込んで携帯のホットラインを開いた。
『どうした』
繋がった先は赤城の声だ。
「岡部会長は即死です。爆発に巻き込まれ後頭部を挫傷しました」
赤城が電話の向こう側で、誰かにそれを通達していた。「なんだと!?」と声が上がる。首相か、それとも他の高級官僚か。一経営者を随分頼りにしたものである。
『これ以上の犠牲を出すなよ』
赤城の言葉に、黒瀬は頷いて答える。
「時機にヘリが――――」
その言葉を待っていたかのように、上空が騒がしくなった。黒色塗装の電子戦・輸送ヘリが豪快なプロペラ音と共に黒瀬の頭上をさっと横切る。
「来ました。屋上で待機していてください」
『もう来ている。お前達は現場を確保してから身を引け』
「了解」
『引き際を見誤るなよ――指揮は一任する』
通信が途切れた。
倒れている黒服を診ていた清音の肩を叩き、黒瀬はその足で先程の初老の警備員――深見の許に向かった。彼は相変わらず倒れている別の黒服を官邸内に運び込もうとしているところだ。
「爆発の瞬間を見たか」
彼の質問に深見は作業を続けながら鬱陶しそうに答える。
「知らんよ。俺は番小屋で仮眠とってたからな。すげぇ音がして飛び起きたら長谷部が――うちの若いのが「爆発だ」だの「警察を呼ぼう」だの騒いでやがって」
「そうか、じゃぁその長谷部ってのは見たんだな、爆発の瞬間を」
「知らん、本人に聞いてみろよ――――そんなことより手伝ったらどうなんだ!」
彼は担ごうとしている黒服を指して怒鳴った。
「私が」と清音が彼に手を貸す。清音は黒瀬に目で「任せて行け」と訴えて、黒瀬は頷いて返した。訊く。
「その長谷部はどこだ」
「番小屋で警察と消防呼んでるよ」
「助かったありがとう」
早口でそういうと、黒瀬はスーツを翻して官邸玄関へ向かった。その背に深見が「女にやらせて情けないとは思わんのか」と声をかけたが、彼は片手を振ってそれを無視した。
玄関をくぐって中に入ると、うめき声と人々の雑多な足音が耳に入った。見ると、巨大な左右二枚扉の入り口が解放され、その中の玄関ホールへ負傷者は集められ、床に転がされている。彼らは口々に苦痛訴え渇きを訴え、その両方にうめき声を上げた。血と火傷にまみれた彼らに、使用人から警備まで多様な人々が手当てをしていて、彼らに口々に励ましの言葉を投げかけていた。その周りでは手当てに使う道具や水を持って女男関係なく人が走り回っている。
その境目を縫うように黒瀬は奥へ向かった。途中何度か走り回る人々に肩をぶつけられたが、誰も彼には構わず、彼自身もまた、それに構わなかった。
詰め所――番小屋は玄関を入った時点で左手にあるのを確認できていた。駅の改札口で見かけるような、小さな個室だ。窓に仕切られたカウンターがあったが、しかし今はシャッターが下がって閉じられていた。そのため、わざわざ黒瀬は玄関ホールまで回って裏口へまわってきたのだ。
黒瀬はその鉄製の扉を手の甲で叩いた。
「長谷部警備員、いるか」
何度かたたき、同じ言葉を彼は投げかけた。
しかし扉は沈黙していた。
黒瀬は目を細め、扉に耳を当てる。音は少しも聞こえない。
彼はドアノブに手をかけた。少し迷ったが、ひねって、そして押し開けた。
「長谷部け……」
中途半端な状態のまま彼は動かなくなった。
しばらくの後、彼は体を外に戻して扉を閉める。周囲の喧騒を背にして、腰から拳銃を引き抜いた。スライドを引っ張って、初弾を確認する。それを終えると足早に玄関ホールを抜けて、玄関へ向かった。
「清音!」
先程深見が運ぼうとしていたSPを、彼女は既に中に引き入れていて、手当てを施していた。黒瀬の声にぱっと顔を上げる。立ち上がった。
「何、どうしたの?」
「おい官邸内で銃を抜くなんてどういう神経してるんだ」
深見がしゃがんで手当てを続けながら、黒瀬に語気を強めた。だが黒瀬はそれを遮る。
「長谷部は死んでいる」
「何?」「は?」
清音は目を細め、深見はぽかんとした。
「手足を手錠で拘束されて――来てくれ、アンタも」
黒瀬は二人を引き連れて今来た道を足早に引き返した。悲鳴と呻き、励ましの言葉の中さっと通り過ぎ、そして番小屋の入り口にたどり着いた。
清音が番小屋のドアを開く。そして彼女と深見警備員は中に足を踏み入れた。
水滴が滴る音
入ろうとした二人はしかし、二歩目を中に踏み出すことは無かった。最初の一歩目で、部屋一面に広がった血だまり――いや、もはや血の床だ――に足をつけてしまい、びちゃ、という液体音を聞いてしまった。もう足は動かない。
部屋の隅には手足を手錠で拘束され、咽を深く――骨まで達するまで切り裂かれた警備員制服を着た死体が転がっていた。その生々しく赤黒い切り口からは、いまだに血がぽた、ぽた、と滴っている。
「ぁ……な……矢野……!?」
深見が咽を掠れさせてそう言った。黒瀬の目が細められる。
「矢野? 長谷部じゃないのか」
「矢野は長谷部と同じシフトで警備してる男で……矢野……」
黒瀬はさらに眉間に皺を寄せた。
ゆっくりと部屋の中央を見、次に死んでいる男を見た。男はだらりと両手を血だまりに垂らし、目をカッ開いて死んでいた。凄惨な死に方だ。生きたまま、咽を裂かれたのか。
黒瀬は中に入る。シフト表が壁に貼ってあり、そこには血が生々しく飛び散っていた。一週間のシフトが書いてある
『中村・一之瀬 太田・矢野 長谷部・矢野』
――今日のシフトはあまりに血みどろで読めない。
「矢野と長谷部は今日何時からここにいた」
「ぁ……ぁあ、朝からだ。俺は昼から……」
黒瀬は深見の返事に何度か頷き、そして部屋の奥へと進んでいく。
部屋の奥にはシャッターで閉じられたカウンターがあった。つまり入ってすぐのところが控え室であり、ここがメインの仕事場らしい。
「狭い部屋だな、ここに三人もいるのか」
少し声を張って、彼は深見に聞いた。深見は返事を返さなかった。呆然としているらしい。
黒瀬は息を吐き、そしてカウンターを見渡し始めた。
そしてその視線は、閉じられているシャッター見たところで止まった。眉を寄せる。考える。
「清音!」
大声で呼ばれた清音は呆然とした状態から引き戻されて、「わっ」と悲鳴にも似た声を上げた。血だまりの中には入らずに、死体を眺めながら返事を返す。
「な、何?」
「さっき狙撃ポイントを探している時、どこを見てた」
「どこって……官邸の中にはそれらしい場所も証拠も無かったって警視庁が言ってたから、主に植林の影とか、官邸の外から狙えそうな場所だとか」
「つまり中は見てないんだな」
「中?」
「官邸の中だ。この『カウンターの中』は狙撃ポイントとして見ていないんだろ」
清音は目を見開いて、すぐに血だまりの中に飛び込んだ。軍靴が血にまみれるが、今度は彼女も気に留めなかった。カウンターのシャッターを上げて、玄関を覗き、その先の外――厚労相射殺現場まで視線を伸ばす。
「――できる。狙えるよ、ここからなら拳銃でも狙える」
黒瀬はそれを皆まで聞かずに、カウンターを飛び出した。おろおろしている深見を見つけると
「おいアンタ」
その肩を掴んだ。彼は夢中にいるかのようにあいまいな「…ぁ……あぁ……」という返事をした。
「長谷部はどこにいる」
「ぁ……いや」
「長谷部は警察と消防に連絡してるんじゃないのか? そいつは通報するのに何分かけてるんだ、サイレンの音一つ聞こえないぞッ!」
「わからない……! 最初に話してから一度も見ていない!」
黒瀬はもはや彼の言葉の末尾を聞いていなかった。拳銃を下へむけて構えたまま、部屋に背を向けて歩き出す。清音は深見と二、三言葉を交わしてからその後に続く。
「フルネームは長谷部有馬だって。黒縁メガネ掛けてて、身長180cm台、髪は黒のベリーショート」
「赤城室長」
黒瀬はその報告を聞きながら、ホットラインを開いて耳に手を当てている。
「官邸警備員『長谷部有馬』を手配してください。殺人容疑で、相沢厚労相狙撃、岡部会長爆殺の嫌疑」
『応援を送る』
黒瀬は通信を切った。二人は足早に人の網目を縫って歩く。周囲に目を配ることも忘れない。
清音が口を開く。
「もう逃げたかも」
「あの床の血は少しも固まってなかった。殺してから十分も経ってない」
「それでも逃げたかもしれないって言ってんの、一人で要人二人も殺した奴だよ? それもおんなじ日に。もしかしたら米田も合わせて三人殺してるかも。要領めちゃくちゃいいよ」
二人は二階へ続く階段に足をかけた。ベタな方法だが、高い所から周囲を確認するのだ。同時に周りを人に囲まれるのを防ぐ――犯人の素性が知れない以上、全ての人間が容疑者だ。除外できるのは自分と、鋼の結束で結ばれた室員だけ。
二人は階段の中腹から周囲を見渡す。
先程と様子はあまり変わっていなかった。うめき声を上げる負傷者と、走り回る使用人、警備員しか見えない。せいぜいうめき声が弱々しく、小さくなっている程度だろうか。負傷者の何人かは既に死んだらしく、玄関の端に追いやられている。
「あ、さっきの……」
清音が声を上げた。指を前方に指す。
黒瀬が目を移すと、そこには老警備員――深見の姿があった。茫然自失の状態から復帰したのか、しっかりとした足取りで玄関へ向かっている。
黒瀬は「真面目に探せ」と清音を咎めつつ、自分も別の場所へ視線を移そうとし
視界の端で制帽が舞った
黒瀬の目は――清音の目も――その制帽に注がれた。まるで舞台上に投げ出されたシルクハットのように、それは華麗に宙でくるくると踊る。それは紛れも無く官邸警備員のもので、その持ち主は
「深見? 何やってんのあいつ」
深見はその老いた姿に似合わない、優雅な仕草で制帽を放り投げた腕をぴんと伸ばしていた。
その背が、玄関を抜ける
その向こうへ――夜の闇の中へ消える
「――――あいつだ」
黒瀬は階段の手すりに飛びついた。そこに腰を乗せて、一気に滑り降りる。清音も「はぁ!? ちょっと!」と怒鳴り、ワンテンポ遅れて階段を駆け下りた。
人の波をすり抜けるどころか、今度は押しのけて、治療中の黒服を飛び越え、前を塞ぐ人を突き飛ばし、怒声と悲鳴を背にして黒瀬は突き進んだ。
「深見が何だって!?」
彼の作った『道』を追っていた清音が聞く。
「あいつが警備員を殺ったんだ!」
「はぁ!? 殺ったのは長谷部じゃないの!?」
「だから、あいつが長谷部なんだ!」
え、と清音は言った。そして同時に気がつく。黒瀬がシフト表を見ていたことを。たしかシフト表には血がついていて、見えなかった。それに黒瀬は聞いていた「この部屋に三人も入るのか」そうだ、あの部屋に三人も入るわけが無い。二人いればバックアップも十分だ。そもそもあのシフト表には、『二人ずつ』名前が書いてあったじゃないか。
三人目はいない
深見は存在してはいけない男だ
扉をタックルして押し開けて、黒瀬は外に飛び出した。
階段を下りて、闇に包まれた向こう側に消えようとするその影
黒瀬はためらうことなく銃を構えた。怒鳴る
「止まれ長谷部ぇッ!」
銃身が揺れ、チャチャ、と小気味良い音を立てた。黒瀬の握った四十五口径のSIG P226、その銃口が精確に影の後頭部に向けられる。清音も遅れて、しかし精確に彼の後方から狙いをつける。
影はまるで時が止まったかのようにピタリと動かなくなった。
「そのまま地面に伏せろ!」
清音が後ろからカバーする中、黒瀬は影に銃を向けたまま近付く。
影は――肩を揺らして笑った。
振り返ろうと首を傾ける
黒瀬の指は瞬時に引き金を引いた。閃光が走り、影の側頭部数ミリ横を黄金の輝きが軌跡を描く。
「脳髄をぶちまけたいか!」
「――――すげぇ勘してるな黒瀬莞爾」
影が――いや、月明かりに照らされた深見――長谷部――?――が背を向けたまま呟いた。
黒瀬が目を細めた。
だが彼は足を止めなかった。銃口もぶれない。
「黒瀬、もういいから、撃てよ」
「――――膝をつけッ!」
「いいや、つかねぇよッ!」
間髪入れずに長谷部は言う。
「――だから撃てよ。一人くらい殺す奴が増えても感慨もくそもねぇんだろ――彼女を殺すのにもためらいはなかったよな? 一万人殺しても罪の意識がなかったんだ、女一人殺したくらいでくだらねぇ感傷に浸るなんて、許されるわけがねぇんだ――そうだよな?」
黒瀬の足が止まる。彼の口は閉ざされ、怒鳴る代わりにその目には本気の色が浮かび上がっていた。
清音が銃を向けたまま、二人を交互に見る。何を言っているのか全然わからない。彼女って、誰だ?
長谷部が咽の奥で引きつるような笑い声を上げた。黒瀬の目をじっと見つめ返す。
「いいな、いい目だ、全てを見捨てて、怒りに身を任せ、意思は介在せず、凶器としての己を肯定し、活けとし生ける者の命を奪うことでしか生きることができなくなった男の――――神の領域に踏み込んだ男の目だ。さぁ、俺を撃てよ」
長谷部の口調には明らかな「笑い」が含まれていた。それも今にも爆発しそうな、狂烈な笑いの衝動が。
その時、頭上から激しいプロペラ音が降り注いだ。同時に旋風が吹き荒れ、濃緑の鉄の塊が――軍用輸送ヘリが姿を現した。黒瀬達の前方に降下してくる。
応援か、黒瀬は奥歯の間でその呟きを噛み潰した。
「諦めろ長谷部!」
清音が叫ぶ。
「逃げ場はなくなったぞ!」
状況が理解しきれていない彼女に切れる啖呵はこの程度のものだった。正直、彼女自身も多少なりとも動揺していた。
そしてそれを見透かしたかのように長谷部はあざ笑うかのように叫ぶ。
「逃げ場? はっ逃げ場か!」
長谷部は身を翻す。猛烈な風を打ちつけてくるヘリを背にして、黒瀬に向き直った。ヘリから向けられたライトをバックライトにして、影は怒鳴る。
「俺は逃げない! 彼女の為だ、何だってする! ――だけど黒瀬よぉ……お前はどうだ?」
黒瀬は答えなかった。その視線は長谷部ではなくその背後にあるヘリに向けられていた。
「……もう、対峙するしかねぇんだよ。じゃなきゃ、死ね」
長谷部が一歩前に出た。陰っていた顔が官邸からの光に照らされて、顕になる。
その顔はぐずぐずに潰れていた
そこに深見と自称していた中年の顔は無かった。それは溶けていたと形容してもいい。皮膚がずれ、真っ赤な肉の筋がむき出しになり、ぼとり――と左半分の顔がずり落ちた。透明色の液体が、線を引く。
清音は引きつった悲鳴を上げた。黒瀬は上げなかった。
代わりに叫んだ
「隠れろ!!」
重い炸裂音が鳴り響いた
長谷部の後方20m先のヘリ、その扉口に設置されたM60D機銃が五秒に数十発っという弾丸を黒瀬と清音に向けてはじき出す。黄金色の光が暗闇を走りぬけ、玄関脇の柱に身を隠した清音を狙い、さらに真横に駆けて逃げる黒瀬を追う。柱は一瞬のうちに身を半分まで削り、黒瀬は足元を弾かれた。
長谷部はその閃光と炸裂音の嵐を背に腹の底から爆笑していた
「完全敗北じゃねぇか黒瀬ッ――憐れだよなぁ!! 風香を捨て、『風香』を殺し、敵を殺して子供を殺して――――全てを殺しつくしてもなお、お前はたった一人の暴力にすら勝てない!!」
彼はヘリにゆったりとした動作で搭乗し――そして車の陰に倒れこんだ黒瀬へ嘲笑を向けた。
「――――狡兎は死した……走狗は俺が煮る」
ヘリはプロペラの回転数を上げ、宙に浮く。
そして青い月の輝く空へと舞い上がり、夜空へ向けて掻き消えていった。
■
「あ、あの……ちょ、あのいいですか? あの、聞いてください」
その部屋は『別室・調査室』と呼ばれる。
暗闇の中に青白い光がぼんやりと浮かび、コンソールを叩く音が響き続けている。
それは部屋の中央に円卓のごとく設置された六つのデスクとその上面のコンパネ、そしてデスクの前に座ってコンソールを叩いている四人の男女の手によって構成されるBGMだ。
「……あの、あの、すいませんっ」
「イチカぁ、二人いないけどどこ行った訳?」
円卓の中心にはディスプレイが同じく六つ、デスクに向かい合って並べられている。部屋の中央に二重丸があるようだ。さらに西の壁には大きなディスプレイがどかどかと掲げられていて、そこには現在起動している四つのディスプレイの作業映像が映し出されている。どれもタスクが浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返していて、一般人が見たら目がちかちかしそうだ。
「あぁのっ はいっ あの、聞いて下さい――――いいですか!」
「赤城室長と黒瀬副室長ならさっき出て行ったよ」
「ふざけんなよサボりかよ――あたしも銃撃されたんだよ? しかも機銃で……なんであたしだけ二時間もたたないうちにすぐに働かされて……」
「元気そうじゃん」
「うっさいチビ。乙女の柔肌に傷がついたんだ」
「あ、それおもしろい」
「ちょ、な、何で無視するんですか!?」
円卓状に並べられたデスクには、しかしコンソールはあるがディスプイレイはない。代わりに座って作業中の四人は各々、ヘッドアップディスプレイを装着している。これは目まで覆うヘルメットのような形状をしていて、視覚全体にディスプレイの作業内容を映し出すことができ、さらには外部の視覚情報との融合も可能という優れものである。つまり実際に装着すると、透明なゴーグルのように外の様子がありのままに見えて、それに半透明のタスクが浮いているように見える。そのために、部屋は暗いほうがいいのだ。
「あぁ、でもいいなぁっ銃撃されて逃げ回るなんて……アクション! スリル!」
「うっさいッ 黙れッ 仕事しろバカッ」
「あの! 聞いて下さいってばぁ!」
華が立ち上がり、ヘッドアップディスプレイを勢いよくはずした。大きなアーモンド形の目が涙で少し潤んでいる。
するとようやく、コンソールを叩く手を休めて、一人がヘッドアップディスプレイを脱いだ。頭を少し振る。赤髪がさららと揺れて、清音の清楚な顔が暗闇に浮かび上がった。
「なに? ワンコ」
「ワンコじゃないんです! 華です!」
「はいはい、ワンワン……それで、何かあったんだろ、早く言いなよ」
華は口をへの字型にまげてかなりむっとしていたが、それを口にすることなく、グッとこらえて話し出した。
「……見つけたんです、黒瀬さんと清音さんを襲った犯人っ」
「へぇ……それで、だぁれ、その犯人って」
興味は薄そうだ。
華は彼女をへの字口をして睨んで(目が潤んでいたが)いたが、えへんっと一つ咳払いをすると話し始めた。
「……名前はチョ・ミンスクです」
華が振り返ると。その背後にあった大ディスプレイが作業内容を映すのをやめ、一人の男の写真をタスク上に表示した。
酷くやせこけた男だ。
顎の骨格が細く、目元にはシワが幾つも走っている。目も細く、まるで他人を蔑んでいるかのように見える。色の抜けた荒い茶色の髪をしていて、ところどころ白が目立つ長髪だ。全体的に年老いているようには見えないが、ただ若いようには見えない。修羅場を幾つも潜り抜けてきた雰囲気がある。軍服を着ていて、どうやら記念撮影などではなくて、ただ軍が記録の為に撮影した者らしい。背景も真っ白だ。
「国籍不明のアジア系難民で元は軍人です。半島で特別編成の人民解放軍・遊撃隊として任務についていた記録があります」
大ディスプレイにまたいくつかタスクが現れた。
先程のやせた男――チョ・ミンスクが塹壕から這い上がって双眼鏡を覗いている写真、他の数名の兵士と共に地図を囲んで、無表情にそれを見ている写真、しゃがんでいる兵士に、腕を伸ばして方向を指示している写真――――
「傭兵か」
イチカがヘッドアップディスプレイをとって、その深い相貌を大ディスプレイに向けた。腕を組み、顎鬚を撫ぜる。
「わ、よくわかりましたね」
「何言ってんのさ。腕に『青月の狐』の刺青が入ってる」
マキビが指を指し、次にコンソールをいじった。すると大ディスプレイのチョ・ミンスクの写真が拡大されて、その上腕に満月を背にしてしなだれる狼の刺青が彫ってあった。
「何ですか、これ」
「アメリカの民間軍事会社の精鋭部隊エンブレムだよ。知らないの?」
華は多少むっとしながら
「知りませんよ」
マキビはにっと笑って二本指を彼女に突き出し
「もっと勉強しなよ」
「やめろマキビ」
イチカの注意にマキビはにしし、と笑って答えた。
えへんっと華は咳払いする。
「えっと……とにかく彼は大戦前から国外で活躍する傭兵だったと。
で、明確な裏づけはありませんが、この写真を撮った後、各地で民兵を指導している姿が目撃されているます。彼の所属していた遊撃隊は部隊規模が小さくて、大規模な地上戦を展開する人民解放軍の嗜好に合わなかったため、ほとんど野放し状態だったようです。それを利用して彼らはアメリカでいうところのグリーンベレーに当たるような、民兵指導工作員として活躍していたようです。各地を点々とするんですが、現れる度に名前が変わっていて……把握できているだけでも三十七個彼は名前を使い分けています。
戦争末期になると日米軍は彼の指導した民兵に苦戦し、思ったように侵攻が進められなくなります。それで、日米軍の侵攻が遅れた一因を作った男の人として当時の通信記録に残されています。日米軍にマークされていたみたいですね」
「そうでなくっちゃ」
呟くマキビに
「あんたそろそろ自重しなよマキビ」
清音が赤髪の間から彼を睨む。彼は極自然な笑みを清音に向けて、眉をコミカルな動きで大きく上に動かした。
「それで」
イチカが手で先を促す。
「何でその男が厚労相を殺す」
「大戦末期に民兵が日米軍を苦戦させると同時期に、チョ・ミンスクは姿を現さなくなるんです。その後の彼の動向は不明――だったんですが、調べたらトルコの駐在武官が彼とよく似た人物を追っていました」
これまでのタスクが消え、今度はスーツ姿の男がパーティー会場で談笑している写真が現れた。
艶のある黒の短髪、彫が深く、笑みは柔らか、黒スーツもパシッと着こなし、いかにも有能な青年実業家、といった風の男だ。
「誰これ」
清音が変な顔をしていった。
「全然顔違う」
「駐在武官は『ロシア貿易商』の顔を持つ『地下組織工作員』として彼を追っています。親日、新米のトルコ世論を工作するような動きを見せていたと記録されていて、具体的には日本における電通のような大手広告代理会社と接触し、多額のお金を渡していたと」
マキビが眉を寄せ首かしげながら言う。
「それでなんでコイツがチョ・ミンスクなのさ」
「チョ・ミンスクは中国を出る際、民兵の一人に『妹に会いに行きたい』と話していたと記録されています。日米軍の情報はそこで終わりですが、人民解放軍の一部では彼を英雄視する流れがあり、彼について詳しく調べた形跡がありました。それによると彼の妹は会戦直前にトルコに亡命しています。それもチョ自身の手引きによってです」
「日籍難民もトルコに逃げてる輩が多かったね」
清音が言うと、華はぴっと(だけどなぜか躊躇いがちに)指を指した。
「そ――そうなんですっ、そこがポイントなんですっ」
チョ・ミンスクと思われる男の写真が画面左側に移る。同時に右側に新たな写真が表示される。
華以外のメンバーはそれぞれ、眉を寄せたり首を傾げたり唇を少しひねったりして、それぞれ困惑の表情をした。
画面に表示されているのは女だった。清音に負けず劣らずの透き通るような白い肌、セミロングの黒髪、整った目鼻立ちに、薄く柔らかそうな唇、幻想的に潤む瞳――メンバーの誰の目にも『美人』だと映り、同時に――彼女は――――酷く、悲しんでいるように映った。
白い肌は儚げで、セミロングの黒髪も夜の闇に紛れてしまいそう、整った目鼻立ちには現実感が乖離している、薄く柔らかそうな唇はあれで本当に言葉を紡ぐことができるのか、そして幻想的に潤む瞳は――――なぜ潤んでいるのか?
何を悲しみ、誰を哀れんでいるのか、それとも、哀れんで欲しいのか
「『相沢 風香』――――日籍難民の女性です。彼女の記録は公式記録から抹消されていました。何らかの方法で消された痕跡があって……この名前はいくつかある候補の内から一番確率の高いのを選択したものです。彼女は開戦直前――チョの妹と時を同じくしてトルコに避難しています」
「……同じような輩は沢山いたんだろう?」
イチカが清音に聞く。清音は「うん」、と力強く頷く。
華はそれにふるふると首を振った。
「彼女の経歴は他の人とは少し変わってます。彼女は他の日籍難民と共にトルコの駐在武官が急遽用意した施設に入りますが、その後はトルコ人夫婦の家に引き取られます。理由に関しては不明です。ただ『引き取られた』という記述しか施設には残っていませんでした。それで――あの、ここもポイントなんですけど――そのトルコ人夫婦の家には既にもう一人、女の子がいたんだそうです」
「それがチョ・ミンスクの妹?」
イチカの言葉に、華は控えめに眉を寄せた。
「ごめんなさい……それはわかりませんでした。それ以上の記録が無くって――既に居候していた女の子の以前の記録は全部抜け落ちていて、しかも定期的な『相沢 風香』の施設への報告からある日彼女の記述が抜け落ちてしまっています。それ以降その彼女自身に関する情報は一切ありません――――ただ、『相沢 風香』の定期報告の中にある日、『あの娘のお兄さんが尋ねてきた』『若い実業家で、ロシアで大成功したと話していた』という一文が介在してきます。それ以降の報告にも、彼女とその若い実業家が何度も会っていたような記述があるんです」
「その若い実業家っていうのは」
イチカの言葉に、再び華は首を振った。
「彼女の報告書には彼について情報を出すことを意図的に避けてる様な風があります。この報告書を処理する側も『恋愛感情の気恥ずかしさから来るもの』だろう、とあえてそれに触れようとはしていないようです。ですがこの『相沢 風香』の彼に対する記述は単に『恋愛感情の気恥ずかしさから』と説明するには難しいくらいの冷静さがうかがえるんです。例えばこの一文です」
大ディスプレイに映し出されていた二枚の写真は端に追いやられ、代わりにスキャナーで取り込んだと思しき手紙が映し出される。
華はディスプレイの前にまで来る。
そこではたと立ち止まった。眉を八の字型にする。
周囲が興を削がれた様な気分で彼女に話しかけようとしたとき、華はようやく「えふん」と随分おっとりとした咳払いをした。おもむろに大ディスプレに表示された手紙に向けってジャンプし、ぴっと手紙の一文を指差した。
「――と、ここです。この一文」
「背ぇちっちゃいなぁワンコ」
華は清音をむっと睨もうとしたが、彼女は人に悪意を向けるのが苦手だ――途中で変な顔になって止めてしまった。
気分を取り直すようにもう一度、今度はしっかりと床に足を置いて
「……いいですか、この一文です。
――『彼は私のことを求めているようです。私はそれに応じます。それで彼はとても助かっているようです』――
彼女が書く文は大抵『自分』が欠落したような他人事風の文ですが、この一文に関しては異様なくらいそれが浮き彫りになっています。まるで、『彼』と『私』はそういう名前の人形のように――特に『私』は――忠実に役割を演じているかのように見受けられます」
「つまり二人の間には『愛』はなかった?」
イチカが聞くと、今度は華は首をかしげた。
「私見ですけど、そうではないような気がします。愛そのものの形についても定義自体が曖昧で、彼女達のこういう関係も彼ら自身認識した上での関係だったかもしれないし……そしたら、それはそれで信頼関係は生まれてるわけだし……手紙から読み取れる情報からも互いに互いを理解しあって親交を深めているのが読み取れます」
「つまり『複雑な愛』が芽生えつつあったわけだ」
なるほどぉと、マキビが希望を全面に出した表情で頷いた。
「すげぇよ、今度はラブ・ロマンス――後はアクションがあれば最高なんだけど!」
「マぁキぃビ」
ガンガンと清音がデスクを叩いた。マキビは両手を挙げて続きを促す。
「それで」
「えーと……それで彼女達はこの後、連れ立って日本に帰ってくることになります」
「親交はかなり深まっているように見えるけどな、第三者視点では」
イチカが唸った。あくまでも第三者視点では、とも付け足す。
華はうんうんと頷きながら、続ける。
「実際に入国の際、二人の関係は『夫婦』とされていました」
わぉ、と笑みを浮かべて周囲を見渡すマキビ。
「後に相沢風香は日本国内の『日籍難民復権』を目的とする団体のトップに擁立されていきます。その過程にはチョ・ミンスクが関わっているようです。この時、チョ・ミンスクはロシア貿易商の仮面も捨ててしまっています。それどころか彼についての記録は所々で消えています。何らかの方法を用いて意図的に消したようです」
「後はあたし達が知ってる通りなんだろう?」
清音の質問に、華は「はい」とシンプルに答えた。
「日籍難民復権を目指した団体は戦後の混乱期に一貫して自分たちが日本人であり他の日本人と同じ権利を有するべきだ、と主張し続けていきます。ですが戦争に直接的であれ間接的であれ協力した周囲の人間達はその主張を拒否し、日籍難民と日本人達の間に激しい折衝が生まれます」
「やっと繋がったな」
イチカが盛大な息を吐いた。
「チョ・ミンスクは相沢 風香の主張を押し通す為、長年培ってきた軍事知識で彼女を『サポート』したってことか。厚労相暗殺はその過程に過ぎなかった……」
「じゃ、黒幕はこの女ね」
清音が顎で相沢風香を指した。
黒幕かぁ、とマキビが身を乗り出す。黒幕という単語そのものに反応しているようだ。
「だったらこの……相沢風香の目的は日籍難民の復権なのか」
「彼女が所属する団体と、その下部組織の理念に従えば、そうなります」
「――おっけ、わかった」
清音が椅子の背もたれに飛び込むようにもたれかかってそう言った。その手にはヘッドアップディスプレイが握られている。
「その線であたしも追う。相沢風香について調べなおす役はあたしがもらうよ」
「じゃ俺、チョ・ミンスクが狙いそうなトコピックアップするから」
マキビが勢いよくヘッドアップディスプレに飛びつき、コンソールを叩き始めた。
「俺は団体と下部組織について調べるか」
やれやれ、と億劫な様子で、イチカもヘッドアップディスプレイを装着し、最後に華が
「あぁ……それじゃ、私は」
「ワンコはこの話室長にしてきて、今すぐ」
清音が手をひらひらさせた。
「え……もう一回するんですか? 同じ話を?」
「そうだよ、二人は聞いてないんだからさ……とにかく、さっさと行ってこい」
華は二秒ほどポケっとした顔で突っ立っていたが、二秒後には細く長いため息を吐いて、その小さな肩をがっくりと落とした。
「もぅ……どこでサボってるんですか、二人は!?」
■
がこん――――
そうやって乱暴に商品を吐き出した自動販売機は、小さな駆動音を奏でながら、ただ『待つだけ』の己が生を再び履行し始めた。その姿は哀れには見えなかった。薄暗い部屋の中で彼は真っ白な光を放ち続けていたし、楽しげにボタンのイルミネーションを点滅させていたからだ。
その自動販売機に乱暴に手を突っ込んで商品を取り出す赤城。
黒瀬はその姿をじっと見ていた。ベンチに座って。
別室に与えられたこの施設の中で、唯一『安らぐこと』を許可されたこの部屋――『休憩室』を、黒瀬は一度も使ったことが無かった。
文字通り地下に組織された『別室』の中でも一際狭く、子供部屋程度の広さの部屋の中に丸デスクとベンチが置かれ、タバコから清涼飲料水までカバーした三台の自販機が設置されているだけのこの部屋……実はもっぱらここを使うのは帰りがけの警備員くらいのものだったりする。清音たちが時たま利用しているのを黒瀬は見るが、同時に「あそこで三十分時間つぶすなら手続きに二十分掛かっても外で十分新鮮な空気を吸いたい」と彼女達が話しているのを彼は何度か耳にしている。つまるところ、役立たずな部屋なのだ。
狭苦しく、静かで、薄暗く、自販機がぼんやりと光を湛えている――――虚無と虚像の世界に迷い込んだかのように息が苦しくなる。ここは本当に、現実の世界なのか、誰かに問いかけたくなる。一転の曇りも無い灰色の床を見つめながら、黒瀬は息をゆっくりと吐いた。
その視界に、にゅぅと手が入り込んできた。
ピントを合わせる。缶コーヒーが差し出されている。
「あぁ……もしかしてお前、ブラックしか飲めない性質だったか」
勧められたその缶コーヒーを断ると、彼はそう訊ねてきた。黒瀬は首を振った。
「仕事中です」
赤城は一瞬動きを止めたが、すぐに首を振って「そうか、仕事中だからか」と呟いた。彼はそのまま、黒瀬の横に腰を下ろす。
そして自分の缶コーヒーのプルトップに爪を立て、空けた。快音がする。
「犯人と知り合いか」
飲まずに訊ねた。
聞き返さずとも、それが二時間前の襲撃の件を問いただしていることはわかる。
黒瀬は口を開いた。開いた――が、言葉を発しなかった。彼は一度口を閉じて僅かに視線を左下に落とし、数秒の沈黙を保った。その視線は何かを思案しているようでもあるし、死んだ生物が光を失った目にも見えた。
駆動音は静かに響く
耳障りでもなく、だが誰の気持ちも高揚させたりはしない、空虚で何も含有しないまっさらな駆動音が、静かに一定に響き続ける。
「……清音に聞いた話じゃ」
赤城は真正面を見て話す。
「最近引っ越してきたお隣さん、というわけじゃないようだな」
僅かに、僅かに黒瀬の視線が上に持ち上がった。完全に地面に向いていた視線が、僅かに虚空を眺めるようになる。
口を開く
「……チョ・ミンスクは」
「女の方だ」
間髪入れず、赤城が入った。
「男の方は俺もよく知っている。“捨て去った男”ことアジア系傭兵チョ・ミンスク。年齢不詳経歴不詳名称は仮、顔も名前も変え続け、故郷は焼き払い、自分を知るものは殺しつくして『自分』という記号を全て消し去った空白の住人。大戦中お前を含めた日米軍の精鋭が追い続けてしかし尻尾も掴めんかったそうだな。だが、今とこれからの問題はそこじゃない」
赤城は黒瀬を見た。
自動販売機の光がゆれ、変わることなく一定だった駆動音がジジ――と乱れた。
「『風香』って誰だ」
光は乱れ続けた。赤城は黒瀬を見続け、黒瀬は彼を見なかった。
――部屋の隅で変わらず時を刻み続けていた時計の秒針は、その沈黙の間に五周半回った――
「……まぁいいさ」
ようやく赤城が口を利いた。
彼は手に持っていた缶コーヒーの一つを、再び黒瀬に差し出した。黒瀬が断るような仕草を見せると
「仕事中じゃなきゃ飲むんだろ、もらっとけ」
強引に黒瀬の手にそれを押し付けた。
「――お前は捜査から外れろ」
黒瀬が顔を上げる。赤城を見る。
「……なぜです」
「どういう情なのかは知らんが、多少に関わらず情があるのならこの仕事からは手を引くべきだわな」
黒瀬は険しい目で強く首を振った。
「ただの――高校時代の、ただの友人です。捜査に支障をきたすような事はありません」
「今銃あるか」
「――――は?」
脈絡の無さに虚を突かれる。
赤城が立ち上がった。もう一度聞く。
「銃、もってるか」
黒瀬は眉を僅かに不可思議そうに寄せていたが、しばらくの後、腰から拳銃を引き抜いた。銃口を下にして、見せる。
「ぉお――P226か、いい銃を使ってるな。それで俺を撃て」
「何?」
思わず聞き返す間に、赤城は自分の銃を引き抜いていた。瞬時に眉根を寄せた黒瀬に、その銃口を向ける。
「ほら、危険が迫ってるぞ、早く、撃て、撃て、撃てよ、ほら、さぁ! ――――どうした……早くしないと俺が撃つぞ。それとも『赤城室長は友人だから撃たない』か? 俺は撃つと言っているのに。引き金に指までかけているのに。あとは少しの力でいい。缶コーヒーのプルトップを開けるよりそいつは簡単だ。お前を殺す力なんてのは、それだけあれば事足りる。そういう事実がお前の目の間に今、転がっているぞ。いいか、このままじゃお前は、殺される。そういう事実が、目の前に今、転がっていると、そう言っているんだ。なのになんでだよ、なんで銃口を上げることすらしない? 俺が『赤城室長』だからか? 銃口を向けられ、殺すといわれ、それでもなお、お前は『赤城室長』を信じるのか? だったらどうなんだ? 俺が今『相沢風香』だったら、お前はどうなんだ? どこまでその『名前』を信じ続けるつもりだ? 殺されるまでか?」
黒瀬は口をつぐんだ。
あまりにも乱暴な屁理屈で、もし赤城がそれを得意げに言っていたのなら、黒瀬は怒鳴っていたろう。ふざけるな、と。事実彼は口をつぐむ前に一度反論の言葉を並べようと口を開いている。
だが言葉は出なかった
たとえ屁理屈であれ乱暴であれ、しかし確かに、確実にそれはあるのだ。赤城に銃を向けられ、撃つと宣言されてなお、「撃つはずがない」と思う自身の信頼と期待が。否定できないくらいまっさらに純粋な気持ちのそれが。
「単位は何だっていい、1mmでも1gでも、なんだっていいが、あればそれだけで期待へと変わり、勇気ある決断に陰を落とす。情ってのはそういうもんだわな」
赤城は銃をしまった。そして黒瀬の隣にゆっくりと腰を落とす。
「人間は0が好きだ。状況の計算結果がどう転んでもマイナスであっても、たった一つのプラス要素を見つけるとそれをどんどん大きな数字に膨らませて、最後にはマイナスでもプラスでもない0にしてしまう。何事も無かったかのように、これまでと同じように。常時としての自分、常時としての相手の関係を保ちたい――ま、そう思うわな。だがそれは可能か? こうなってしまった以上、結果はどうあっても最悪に移り変わるしかないのは明白なんじゃないないか? 決断が迫られた時点で既に、『いつも』は変わらざる得ないいんじゃないか? ――――それも、おまえ自身の手で」
「自分は、そんなことには動じません」
黒瀬はぴしゃりと言い切った。
床の一点を強い視線でじっとにらみつけている。
「『いつも』が移り変わることに恐怖せず今最もなすべきことを――」
「今ここで口で言うなら、誰にだって言えることだ」
赤城の口調はずっと一定だ。
「十五年前の俺もそう言っていた。当然それができると思っていた。自分を律して、敵を正確に叩く。どれだけ自分と身近だろうがそれは関係ない。ただ、機械的にそれはやれると、思っていた。だが実際に自分の妻が『別室』の情報を外に売っていたと知った時、俺は焦った。自分でケリをつけようとして――そこには卑しくもあわよくば妻も生きたまま捕らえよういう、甘すぎる見立てもあった。焦って周りが見えなかった俺は、あいつが俺の上司と関係を持っていてそれで俺を妨害しようとしていた事にも気づけなかった。大量のブラフを抱え込み、情報も漏れ続け、捜査も滞り――――それでようやくあいつに追いついた時、色々な――本当に色々なことが手遅れだった。最後にあいつが俺に何か語ろうとした。俺は撃った。苦しむように、悶え死ぬように、肺を狙って、撃った。俺は引き金を引く最後の瞬間までずっと思っていた。『これが俺の仕事』『これが任務』『俺は怒ってなど、いない』」
自販機の光の乱れが止まった。
何事も無かったかのように、一定の白光を薄暗い部屋に供給し続け、同時に静かな駆動音を染み渡らせる。
赤城はようやく缶コーヒーに一口目をつけた。
「……まずい。これもやるよ」
彼は立ち上がると黒瀬の前にある丸デスクに缶コーヒーを置いた。そのまま部屋を出て行く。
と、彼がドアノブに手をかけるより少し前に、ドアは向こうから勝手に開いた。
赤城と黒瀬が顔を上げると、そこには息を荒げてドアノブにしなだれかかる華の姿があった。
「はぁ……はぁ……な……こ……」
赤城と黒瀬は無言で彼女を見ている。華は下からじっと恨みがましい目で彼らを見上げた。
「や……やっと、見つけた…はぁ、はぁ、……何してるんですか……」
「サボってたんだ」
赤城は返した。
「さぼ……な、じゃ、何で、サボ……」
「俺はもうサボり終わったよ」
そう言う赤城を、彼女はさらに恨みがましい目で非難していたが、黒瀬が手にしている缶コーヒーを見ると、「あ」と目を輝かせた。
赤城が振り返り、同じように缶コーヒーを見る。そして視線を黒瀬に移して
「絶対にやるなよ、お前にやったんだ」
黒瀬が言葉を探しあぐねている間に、彼は「え? ……あの、あ……私、今お二人を探していて疲れて……」と主張する華を引きずる様にして部屋を出て行った。
後に残るのは、やはり静かに響く自販機の駆動音だけ。
彼は無表情だった。情感の一切を浮かべずに、閉じたドアを見つめていた。
――――そしてそれが訪れる
再び……再び自販機の光が乱れ始める
最初は明るく、そして段々と暗く――光は点滅の起伏を繰り返し、死にあえぐ生の呼吸のように、ゆっくりとその光を失っていった。
暗闇に空間が飲まれる。
黒瀬はそこで、目をつむった。暗闇の中のさらに暗部へと、沈む込んで行く。
黒瀬は思った
そして首を振った。目を開く。振り返り、そして足を踏み出した。
――――ピチャ
その足は水溜りを踏み、水滴が跳ねた。
息を飲んだ。
ぽ、ぽ、ぽ――――と頬に当たる水滴
見上げれば、そこに天井などは無い。どこまでも続く息苦しい暗雲が広がる。降り注ぐ豪雨。周囲を囲むのは壁ではなく、背の高い無機質なビル群。世界は雨だれが打ち付けられる水音に満たされ、薄いグリーンに占められ――――
あの日だった
「――――あなたはもういらないわ」
顔を上げる。数メートル先になにかある――『何かいる』。目を凝らす。雨粒と雨粒の間を視線が縫うように目を細め、それを見つめる。
血だまり――――に、立つ『赤い女』
赤い女
「(……知っている?)」
あの、『赤いコート着た女』、を、知って……いる…………知っている?
…………俺が……撃った、俺が、撃った、俺が、撃った……!、俺が撃って、あの赤い女の体から血が噴出し、そして、彼女は――――
フードまでかぶって、真っ赤なレインコートにすっぽりと身を包んだその女は、口元に――口元しか見えない――全てを受け入れるような、甘い微笑を浮かべていた。柔らかで妖艶なその唇で、言う。
「あなたはもう、いらないわ」
何のことだ、と黒瀬は聞こうとした。だが、言葉が出なかった。口が利けないのではない。何のことを言っているのか、自分は知っているのだ
――尋ねる意味はない
「殺して、殺して――殺しつくして」
女は甘美な微笑を浮かべたまま、謳うように語る。
「そうやってしか、あなたは生を実感できないのね。それで何かを救った気になって、それで自分の生に意味があるって、一生懸命に言い聞かせて――――それで一体、何度目?」
「……お前は」
口を利けば、冷たい雨粒が滴って、咽の奥に侵入する。全身はずぶ濡れで、あまりに冷たく、骨の髄まで冷気が漂い――――
「相沢澪」
彼女はそう名乗った。
「同時に、『黒瀬莞爾』。空虚な生にしがみ付く『黒瀬莞爾』を、あまりに冷たいこの雨の世界から見つめ続ける、『黒瀬莞爾』の『相沢澪』――――そうよね?」
彼女の言葉に、黒瀬の魂が抉り取られる。
彼女が口を開くたび、体に宿っているはずの力が失せ、視界が歪む。呼吸は乱れ、膝が震え出す。
自分が処刑台を目前にした囚人のように冷たい目をしていることがわかる。無感動や無情だからではない。瞳の中に宿すはずの何かが、今奪われたからだ。瞳は開いているが彼女言葉一つ一つにその力は失われ――
――そして次は何を奪われる?
考えられない
怖い
もう奪われたくない
「――――どうしようもなかっただろ……?」
自分が発した言葉に愕然とする。
「(なんだこの、媚びるような、哀れな物言いは)」
だが反論の言葉は出ない――強い言葉を吐き出せない。彼女の言葉は全て『真実』で、抗うことができない。嘘を全て見抜かれたかのように、ぽっかりと空いた感情の中に不安が注ぎ込まれる。
「――――俺には、そうするしかなかっただろ」
黒瀬の瞳からは、いつの間にか光が失われていた。薄いグリーンのこの世界に、彼の姿が紛れ始める。ただの背景の一つとして、配置物として、彼の姿から色が失われていく――――
「――他に止め方は、無かっただろう!?」
「この世界は――」
女はレインコートのフードの下から、小さく顔を上げて空を見上げた。薄い唇から、奇妙に一定な言葉を紡ぐ。
「――こんなにも冷たくなかったわここに居たのは私じゃなかったし、あなたが逃げてこられるようにもっとずっと暖かかった」
「殺しても消えないことぐらいハナから知ってる、それぐらい知っていて、だから」
「もう、あなたに逃げ場は無いのね。この世界はもう死んでいる――進まない時と、絶望した未来。私を殺すことで、その死を見たのね」
「俺は忘れようとなんかしてない、消し去ってしまおうとも――――」
「――お姉ちゃんの死を、私に見たのね」
脳が発火した
「違うッ!!」
鬼の形相と怒声
それを発したのは黒瀬だった。冷静で無感動な表情などそこにはもはや無い。異様に歪んだその表情は憎しみの権化そのもの。空虚なこの世界で浮き上がるほど、咽の奥から、怒りと憎しみが混じり合った怒声を吐き出す。
「違う! 違う! 違う――――違うッ!! ふざけるな、絶対に、絶対に違うッ! お前に、お前にッ、お前に一体ッ! お前は――――!!」
赤い女は全く意に返さない。
彼女は顔を上げた。彼女の周囲だけ時の流れが滞る。
彼女の腕が、酷くゆっくりと持ち上がり、そして黒瀬が呼吸を荒げて怒鳴り、睨み続ける中、彼女はフードを、剥いだ。
『透き通るような白い肌、セミロングの黒髪、整った目鼻立ちに、薄く柔らかそうな唇、幻想的に潤む瞳――誰の目にも『美人』だと映り、同時に――彼女は――――酷く、悲しんでいるように映った。
白い肌は儚げで、セミロングの黒髪も夜の闇に紛れてしまいそう、整った目鼻立ちには現実感が乖離している、薄く柔らかそうな唇はあれで本当に言葉を紡ぐことができるのか、そして幻想的に潤む瞳は――――なぜ潤んでいるのか?
何を悲しみ、誰を哀れんでいるのか、それとも、哀れんで欲しいのか』
黒瀬は目を見開いた。震え、怯え、かっと開いた瞳は、彼女の姿を精確に、捉える
「――――風香」
相沢風香、その人だった
「お姉ちゃんは生きてるわ。黒瀬莞爾の、『敵』として」
彼女は相沢風香の顔で、相沢風香の唇で語る、
黒瀬が口を開け息を吸おうとし、しかしそれができないで苦しむ。肺がまともに空気を吸わない。苦しい、苦しい、呼吸が、できない、息をしていても、いつまでたっても苦しみから、逃れられない
「大丈夫」
彼女は一歩、足を前に出した。
次の瞬間、鼻先が触れ合うような至近距離で彼女は微笑んでいる。そのしなやかな手を持ち上げて、そっと黒瀬の頬に添えた。
優しく、冷たい
「世界を守る為に、もう何人も殺してきたんだもの――次だってちゃんと、殺せるわ」
その言葉の意味
その言葉の残酷さ
その言葉の卑しさ
その言葉はしかし、真実
その言葉は彼女が発しているのではない
口を利いているのは彼女ではなく
脳が、発火する
「――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
ガコン
休憩室の床に転がった缶コーヒー。口から茶色い液体が流れ出てくる。
黒瀬はそれを見下ろしていた。静かに息をし、無表情で。
彼はしゃがみ、そして転がった缶コーヒーを拾う。
自販機の光は、一定を保っている。駆動音は静かに響いている。
■
朝の喧騒に包まれる中央空港。
どこもかしこも忙しそうに歩く人でいっぱいで、ひっきりなしに流れるアナウンスが、朝日が差し込む開放感溢れる空港の中に響き渡る。外へ飛び立つ希望と、故郷に帰る喜びが入り混じり、活気に満ち満ちていた。
そんな心浮き立つような空間から少し離れたベンチに、二人は座っていた。
若い男と少女。二人はぼんやりと、真正面の全面ガラス張り――の向こう側の滑走路を駆け抜ける飛行機や、それが空に飛び立つ姿、走り回る鮮やかなスカイブルーの制服を来た整備士達、青く広がる空は朝日の薄い乳白色に照らされ、その中を鳥が泳いでいく、蒼い芝生が風に揺れ、朝露がまばゆく優しい光を放つ――そういう景色を、とりとめも無くぼんやりと見ていた。
女の方はどこかの学生なのか、セーラー服を着ていた。もうすぐ夏だ。白と紺を基調とした明るい配色の制服。夏を引き立てると共に人目も引く。さらに今日は平日で、女子高生がこんな所で平然と男とぼんやりしていれば、辺りの衆目は当然一度は彼女に向く。
だが彼女自身はそれをまったく気にしていなかった。
ただぼんやりと――ただただぽけっと、彼女は視線を外へと向けていた。差し込む斜陽に照らされた端正な顔立ちは、彼女を大人びて見せた。かわいいよりも、美しい、そういう表情をしていた。
視線は景色に向けられている――だが思いはそこに無い。思考もそこには無い。視線なんてどこにやってもいいから、正面に向けているだけ。潤んだ瞳が、じっと晴れた空を見ていた。
その横の男は驚くべきことに軍服を――それも野戦服を着ていた。灰色と黒、黄土色を織り交ぜたような都市市街戦用野戦服だ。ヘルメットを両手に抱え、彼もまた外を見つめている。黙って。何を語るでもなく。淡々とした様子で外を見ている。
胸にぶら下げられたドッグタグには『Kanji Kurose』とある。
男と少女は、実は同年代だ。つまり十八歳であり、そして募集された志願兵の最低年齢は二十歳――彼は年齢を偽って日防軍に入隊した兵士だ。
彼はこの後戦線へ送られる。大戦後も小規模な紛争が続く中国で、秩序を築くためのPKOを行うのだ。だがそれが所詮は政府とマスコミが流布した詭弁以外の何物でもなく、実存は未だ水面下で続く米中戦争の支援――つまるところ、大規模戦闘への派兵が狙いなのは少し事情に絡んだ者になら誰の目にも明らかだった。マスコミは以前からの政府との癒着を土台にすえられた開戦直後からの厳しい情報統制下に沈黙し、大人や有権者と呼ばれた人間たちは戦後から続く徹底した平和教育の元誰もが無関心を装い、誰一人として声高にこの派兵に異義を訴えられるものはいなかった。この日本という狭い、しかし絶対の世界の何処にも正義なんてものは存在していなかった。あるのは詭弁と、醜い利益争いと、死だけだった。
彼の横で沈黙する少女も、そういった事情は当然知っていた。彼が一体何の為に戦地へ送られ、銃を握らされるのか、その裏に何が渦巻いているのか、それも知っていた。
だが彼女は黙っていた。押し黙って、口を利かなかった。ただただ、ぼんやりと外の景色を眺めるだけだった。じっと手をひざの上に置いて、潤んだ瞳を正面に向けて、ただ、じっと――
彼女と彼の間には少しだけ間が空いていた。人一人は入れない、しかし広すぎる間隔が。
また一機、飛行機が空へ舞い上がっていく。高く、もっともっと高くへと、飛翔。
彼女はそれを見ていた。舞い上がって、舞い上がってそれで、何をするのだろう、そう思いながら、それを見ていた。
何処までも青い空を抜ければ、その先は闇が支配する空虚な宇宙しか広がっていないのに、そこには何の希望も無いのに。空には何もない。何も無いのに。
彼女は足を、きゅ、と鳴らした。
地面に――土に足をつけて、そこから見上げるべきなんだ、空は。皆と一緒に――一人じゃなくて、二人で――一緒に。
一方彼の思いはまた別の所にあった。ここではない、別の世界だ。その生を完璧な死によって保管した英雄たちの世界。彼らが静かに暮らす、平穏なる世界。そこでの風は温かく、そこでの陽光は柔らかく、そこでの水は夢へといざなう艶かしい味――――その世界はこの場所では――この地面の延長線上には無い。この世界にいては、決して達することのできない世界だ。
だから飛ばなくてはならない。彼は飛ばなくてはならないのだ。この世界には無い、英雄たちの下へ向かう為に。
また、発機のアナウンスが響き渡った
約十秒、その間だけ、彼は待った。
何を?
それはわからない。彼自身それを直視しなかったし、何よりそれは言葉という陳腐で具体的な記号で表すには広大に過ぎ、そしてあまりにもまぶしすぎた。
その十秒が何事も無く過ぎた後、彼は立ち上がった。
ベンチ脇に置いていた荷物を持つ。何に構うことも無く、その場を去る。
いや、最初の一歩を踏み出すその前に――一度だけ外の景色を見た。
そこには平和と穏やかさがあった。幸せがあり、安寧があった。
彼はそれを見ていた。心奪われたように、じっと見ていた。
耐えられなくなったように、視線が落ちる。
――歩き出す
最初の一歩を踏み出せば、あとはもう迷う様子は無かった。二歩目より先は簡単だ。一歩目に従って二歩目を出せばいい。それが終われば二歩目に従って三歩目を出し、そしてそれが終われば四歩目を――――そうやって進めばいいことを彼は知っていた。もう止まることはない。止まることはできない。ただ自分の目指す場所に向かい、一人で歩き続ければいい。考える必要も無い。ただ、前に進む、その意思に従い、勢いに従い、足を出せば、それでいい。
それで、いいのだが
彼の足は二歩目を出していなかった。その足は一歩目で止まり、そのまま止まり続けていた。なぜか?
彼の手首を、やわらかなで小さな手が掴んでいた
少女は――彼の手首を握った彼女は、俯いていた。俯いて、座っていた。沈み込むようにそこに座ったまま、子猫をそっと撫でるような弱い力で、彼の手首を握っていた。
彼は彼女の艶やかな黒髪を見下げ――俯いていて見えないその表情を見ようとした。見ようとしたが、見えなかった。当たり前だ。彼女は俯いているのだ。その顔を見るには覗き込むしかなく、そのためには振り返って、しゃがまなくてはならない。
振り返って、しゃがまなくては、いけない
――それはとても難しい選択だった
彼が戦争に行くといったとき、彼を止める人間は実質誰もいなかった。
既に日籍難民として国外避難していた両親と妹は、上辺は心配しつつも、内心は「助かった」とほっとしているようだった。彼らは国外避難の代償として日本国民としての権利を失っており、時の政府の「何らかの形で二親等以内の人間が戦争に積極的関わっている場合、その復権を約束する」との触れ込みをどこかで聞き知っていたらしかった。
友人達の方はもう少し簡素な反応を見せた。一人は「そうか……」と呟いただけだったし、一人は「頑張れよ」、気楽な調子で肩を叩いた。担任教師は「おまえ自身が決めたなら」と頷いて、校長からは「我が校から四人目の志願者だ。大変心苦しいが、頑張ってくれ」とエールを送られた。
誰しもが、それぞれ考えてそういう態度をとった――――というような顔をしていたが、恐らくそれは違う、と彼は考えている。誰しもが考えていたのは『戦争に行く黒瀬莞爾』の事ではなく、『自分』の事だった。利己的だとか、エゴだとか、そういうのを超越した自己保身のるつぼ思考に陥っていた。何せ、戦争はもう始っていて、「この戦争に関わらなければ日本国民としての権利を剥奪する」と言われているのだ。額に拳銃が突きつけられている状況で別の誰かを心配できるのは映画の中のヒーローしかいない。逆の立場なら、黒瀬もそうしたろうし、彼自身、別段悲しんだり、怒ったりはしなかった。淡々と、志願兵としての自分の立場と、出兵という現実を受け入れていた。
そして彼の記憶が確かならば、彼が彼女に戦争に行くと話したとき、彼女もまた、他の多勢の人間達と同じように、無関心だったはずだ。いや、むしろ他の人間より反応は薄かった。こくりと頷くだけで、結局何も言わなかったのだ。
だがなぜか、彼女はここに現れて、黙って自分の横に座り、同じ時を過ごし――そして自分の手を握り、引き止めている。
引き止めている――初めての経験だった。彼はその決断を目前にしたぎりぎりの今、この瞬間、家族でも友人でも教師でもない、『彼女』に引き止められたのだ。
彼は彼女を見ていた。
時は過ぎてゆく
彼はいつまでも見ているだけだった。
彼女の手は冷たく、心地よく
二歩目はどうしても出せなくて
そして――――
もう一度、発機のアナウンスが響いた
アナウンスは冷静な口調で、「出立の時間はもう過ぎている。隊員達は迅速に集合場所に集合しろ」と厳命していた。
どうやら、自分と同じようにこの間際になって『手を掴まれている』隊員は多いらしい。彼は僅かに、視線を俯かせた。恥ずべき事だ。怖気づき、留まっただなんて、笑い種だ。自身だけの問題ではなく、小隊の、ひいては連隊の責任となり、他部隊から笑いものにされるだろう。色狂いの兵隊がいる部隊だ、と。
彼は顔を上げた。息を吸い、そして、ゆっくりと吐き出す――――
彼は振り返った。
しゃがみ込んで、彼女の顔を覗き込む。
それは『ただなんとなく』の行為ではなく、アナウンスに急かされて焦ったからでもなく――――予感がしたのだ。
彼女が泣いているのかもしれないと
そして葛藤をすり抜け、覗き見た彼女の顔には、涙が溢れかえっていた。嗚咽を上げてはいなかったし、流れる涙を擦ろうともしておらず、表情もぼんやりとしたものだったが、涙だけがぽろぽろと、次から次へと流れている。
彼女がこうして激しく感情を外に出すのを、彼は初めて見た。いつも押し黙っていて、何かあるといつも眼でじっと訴えてくるような彼女が、絶対に自分とは目をあわせようとしないまま、薄い唇をかんで、泣いている。
身震いした
そうだ
今、俺は引き止められているんだ
彼女は涙を流して、俺を引き止めているんだ
一度として経験したことの無い感情――――喜び? 怒り? 安心?――に引きずりこまれそうになる。自分のしようとしていることはなんと馬鹿らしく、下らないことなんだろうと。それと比べて、この涙を止めることはどれ程重要なことかと。
自分は一体何をし、何を終えようとしているのか。それを彼女が――彼女の涙が、かみ締められた唇が、絶対に合わせられない潤んだ視線が、物語っているのではないか――――
彼女がその薄い唇を、ゆっくりと開いた。
ふるふると震わせながら、涙をぽたぽたと落としながら、ぎゅっと強く黒瀬の手を掴んで、
声を、出して、彼女は――――
「
びーぶ、びーぶ、びーぶ、びーぶ、びーぶ、びーぶ――――――――――
目を覚ます。
ぼんやりとする頭の中。持ち上がらない体。横たわったまま。
それは金縛りにあっているのではなく、酷い倦怠感に襲われているからだと気がつくのに、黒瀬は数十秒の時間を要した。
「…………」
自分のものではない、ただの重たいだけの着ぐるみのような体を、腰の力だけで何とか起こす(他の部分は失ってしまったかのように力が入らなかった)。
首をふらふらと動かし、周囲を見渡す。
すぐに唸り続けているうるさい携帯電話に気がついた。それは彼がだらしなくもたれかかって眠っていたソファーの上に――つまるところ彼のケツの下に落ちていて、見つけ出すのにそれなりの時間を要した。
なんとかブルブル震えるそれを手におさめると開いて、通話ボタンを押す。
『ぁあ! やっと出ましたねっ』
すぐに不満げな女の声が聞こえてきた。黒瀬はふらふらと頭を揺らし、口には出さずに咽の奥の方でウンウン唸る。寝過ごしてしまったような倦怠感。
額を叩いて、なんとか意識を覚醒させながら、聞く。
「誰だ、何の用だ」
『誰って……』
少し不満げな声色。
『華ですよ。寝ぼけちゃってるんですか?』
言われて、そうだったか? と携帯の画面を見る。なるほど、確かに「春月 華」と出ている(しかしこの名前も随分インパクトがある)。
少し意識が覚醒し始める。首を振って、周囲に漂っている眠気を跳ね飛ばした。
「あぁ……そうか、華……」
華、華、と彼女の顔を思い出しながら
「あぁ……それで、何の用だ」
『大丈夫ですか? 声変ですよ』
「……大丈夫だ、声帯が閉幕してるだけだ」
『うわぁ、黒瀬さんらしい返答ですね』
黒瀬は閉口した。お前もな、と言おうとしたが、指摘されたとおり咽の調子があまりよくなかったので止めておいた。
代わりに腕時計を見る。
「午前五時二十分……俺は休暇じゃなかったのか」
黒瀬は不満げに言った。正確には不満げに聞こえるように言ったのだが。
言葉とは裏腹な少しの期待を、彼は挟ませていた。
『ああ、えと……室長がちゃんと休みをとっているか確認しろって』
「……なに?」
『心配されてるみたいですよ? 黒瀬さんが独走したり、無茶したりしちゃうんじゃないかって』
心配
二年間彼と仕事をしているが、そんな事をされたのは初めてだ。
『今まで何してました? ちゃんと家にいたんですよね?』
まるで小学生に詰問する先生のような華の(明らかに面白がっている)口調に微妙に眉を寄せながらも、彼は素直に答えた。
「家にいたよ……今まで寝てた」
『へぇ――』
にこやかな表情を想起させる口調で
『いいなぁ』
しかしどこか恨みがましく聞こえた。
『それで、これからどうするんですか?』
「これから?」
『そう、これからです』
「これから……」
彼は困惑気味に唸った。当然、特に決めているわけも無い。とりあえず、といった感じに周囲を見渡す。
自室は少々――少々散らかっていた。ファイルや記録ディスク、事件関係書類にフラッシュメモリ、辞典辞書etc etc......そういった類のものが大量に床に散らばり、重なり合って層を作り出していたりする。――――客観的に見ると多少散らかっているかもしれない。
だいぶ、かもしれない。尋常じゃないくらい、は言い過ぎだろう。
と、彼の足が一枚のDVDに当たった。フラッシュメモリの上に不安定な角度で乗っていたそれはぽろん、と床に落ち、その衝撃で(たったその衝撃で!)部屋の端に重ねてあった書類の束――と言うよりはもはやこれは書類の『タワー』――がゆっくりと倒れだす。黒瀬は慌ててそれが倒れないように飛びついたが、当然書類『タワー』は『書類』なわけで、倒れる勢いと慌てた黒瀬が突き出した手の勢いの折衝点となったタワーの中心部は見事に崩壊し、ばさばさばさ――――――――――――と豪快に崩れ落ちた。そしてそれに刺激されたのか部屋中の書類からディスクからメモリから鉛筆立てやら辞書やら専門書やらが重力に屈服し、ずだだだずだずだずだだだだだずだだずだずだ――――――とこれまた豪快かつ世界でも崩壊したかと思うような音を立てて、ピタゴラス的に倒壊していった。
「…………」
黒瀬はそうやってこの部屋が崩壊していくのを見届けた後、受話器に口を寄せて
「あー……掃除を、しようと、あぁ、そう、掃除をしようとしてたところだ。少し散らかっているから。少し」
と言った。
『あ、いいですねお掃除』
電話機越しに彼女の声が弾んだ。
『朝からずーとお掃除して、お昼で休憩しながら片づけた所見て、すっきりして、よぅしっ、あそこもやろっ! ここもやろうっ! って思うと、幸せな気分になりますよね。あと、昔の本とかアルバムとか引っ張り出すと我慢しようとしてもぜったい見ちゃいますよね。それで昔の好きな――――』
「……華、お前寝てないのか」
怒涛のように喋る華に、黒瀬はそう聞いた。
あの中学生みたいな幼い顔に不釣合いなクマを作って、目をらんらんと輝かせた不眠ハイ状態の華が目に浮かんだ。
その華が口を開く。
『え? あ、ハイっ。そうなんですよ、ひどいですよね、眠いですよね、三日前から寝てないんです。仕事増やされちゃって、大変です』
三日前
仕事増やされる
「……捜査は進んでるのか」
『もちろんですよっ』
へへーんと自慢げに(でもどこか恥ずかしがっているように)胸を(当然小さいわけだが)張る彼女の姿が浮かんだ。
『チョ・ミンスクのねぐらだって分かりましたよ』
「そうか。動きはありそうか」
『それは――あぁダメです、言えないんでした』
黒瀬が疑問符を頭に浮かべると、その雰囲気が伝わったらしく、華が慌てて
『いじわるじゃないですよっ、室長に内緒にしとけって言われたんです』
黒瀬は沈黙した。室長はよほどこの件に関わって欲しくないらしい。
『そ、そんなにしょげないでくださいよ。皆心配してるんですよ』
まさしく小学生をあやす調子で彼女は言い、気をそがれた黒瀬は「……しょげてねぇよ」と小さく息を吐いた。
『強がらなくてもいいです。話なら、聞きますから。ね?』
携帯から口を離す。静かに、深く、深く――深く息を吐き。そして何事も無かったかのように
「いいか、華」
『はい?』
「二時間……一時間でいいから眠れ」
『そんな暇ないですよぉ』
「なくても眠れ、お前は、お前が思っている以上におかしい。だいぶおかしい」
『おか――』
皆まで言わずに彼女は絶句して、黒瀬にはその続きが聞こえたような気がした。曰く、「そこまで言わなくても」
しばらくすると、電話の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。
『私、心配して、かけたのに、そういうの、あんま、り、ですよ』
違う。確か室長に言われてかけて来ているはずだ。
「あぁ、あぁ、ありがとう、だからもう、なんでもいいから寝ろ。何をしてもいいから、でも最初にまず、『寝ろ』」
電話の向こうが沈黙した。それはただの沈黙ではなく、『えっぐ、うっぐ、といった嗚咽が突如聞こえなくなる奇妙な沈黙』であり、つまるところそれは決して彼女が泣き止んだとかそういったプラスの変化ではなく、むしろ『静寂』という『不穏な空気』を示
『そんな暇全然ないんですッ!!』
鼓膜がびりびりと震える音を黒瀬は初めて聞いた。
彼女の声は濡れていて、同時に酔っ払い特有の本気の怒気もはらんでいた。
彼女を落ち着かせようと何とか口を開けるが
『黒瀬さんのッ! せいなんですッ! からッ! 全部、黒瀬さんがまねい――』
彼女の怒声の方が早い。再び黒瀬は耳を受話器から離して反射的に肩をすくめる。
しばらく電話機の向こう側からは弱々しい、女の荒い息が続いていた。黒瀬は受話器を離したまま、その音を見るようにそれを見ていた。
『……ごめんなさい』
しばらくして、受話器からはそういう声がした。
黒瀬はゆっくりと、だいぶ警戒してから受話器を耳に当て
「いい。それより、寝ろ」
彼女は沈黙した。
その沈黙は、先程のような次第に燃え広がる山火事のような沈黙ではなく、無音の時と共に悲壮感を帯びていく、沈み込むような黄昏の沈黙だった。嗚咽は無かったが、それとは違う、別の悲しみの無音が、黒瀬の耳に染み渡ってくる。
『お願いですから』
黒瀬は眉をひそめた。彼女の声色は聞いたことも無いような懇願口調だった。
『お願いですから……休まなきゃいけないのは、黒瀬さんの方ですから、ごめんなさい、お掃除するんでしたよね、がんばって……下さい。私が言ったことは、本心じゃないんです、疲れてて』
何かをかみ締めるようなきゅう、という音が聞こえた。
『私、ひどいことを……本当に』
言いつくろっているかのように聞こえるが、声色の方はそうではない。自己を保身しようとするのではなく、むしろ悲哀が込められた口調で、自責と自傷の言葉をとぎれとぎれに並べているように聞こえる。
『私は大丈夫です。皆も大丈夫ですから。黒瀬さんは一日だけでいいですから……眠っていて下さい。その間に私たち、何とかしますから』
「おい、どういう事だ」
『黒瀬さん、本当は私、看護婦さんとか……いえ、女医さんになりたかったんです』
は? と言いそうになったのを、黒瀬は半口を開けるだけで堪える。
彼女の言葉は先程の口調と一定で、突如わけのわからないことを言う分裂病患者のそれとは違う。同一の意思と感情の下に発言しているのが感じられたのだ。
『父が警察官で、戦時中は父が凄く――殺気立ってて、別の人みたいに見えて、それで『警察官になれ』って言われたら、もう怖くて、何もいえなくて、それで結局私、警察官になって――――でも私、医者になりたかった。誰かが苦しんでいるのを、魔法みたいに、夢の中にいる間に全部、ぱって消しちゃう。そういう女医さんに、なりたかった』
砕いて話すことができない『それ』を、懸命に言葉にして伝えようとする、不器用ながら日常には決してない、執念が、彼女の言葉一つ一つに詰め込まれている。そう感じた。ちゃちゃを入れるような隙は全くなかったし、ちゃちゃでなくても何かしらの言葉を介在させることは不可能なくらい、その執念は一心不乱で、感情的だった。
彼女は言った。
『黒瀬さん、手術です』
「――手術?」
『黒瀬さん、眠ってて下さい。後は私たちが、全部解決しますから』
黒瀬が投げかけようとした言葉は咽の手前で引っかかった。
受話器からは通話終了の無機質な電子音が流れる。
彼は耳から携帯電話を離し、電源ボタンを――押すのをためらったが、押した。
腕時計は午前五時四十分を指している。
一体今朝はなんていう朝だろうか。おきてから二十分も立っていないのだが。頭はすっかり冴えていた。あぁ全く、ひどい朝だ。たまの休みなのに、こんな朝を迎えるとは。
ひどい夢も見た。
あぁ、まったく、ひどい夢だった。音も色も質感も、彼女の涙の温もりも、吐息でさえも、完璧なくらいリアリティに溢れかえった夢だった。
掌を――彼女に触れたその指先を――見た。見つめた。
居心地のいい温もりだった。柔らかな肌と、さらさらとくすぐるセミロングの艶やかな黒髪――――
――ぎゅっと掌を握り締める
その拳に額を打ちつける。硬い塊が脳を揺らした。
「手術……手術、手術か」
ふと、彼は笑い出す。
咽の奥底から、這い上がってくるような笑いをくっくと吐き出す。
「あいつよく噛まずに言えたな」
腹の底から次から次へと沸き起こってくる。どうしようもなく「しょうがない」という笑い。おかしくておかしくてしょうがない。勝手に咽が引きつって、笑い声が起きる。口の端が持ち上がる。
昨夜から着の身着のままだったスーツ、その胸元からタバコを取り出す。一本口に咥えて、笑いながらその先端に火をつける。
煙を吐き出しながら、咳き込みながらなおも笑う。
「眠っている間に全部、ぱっと消しちゃう、か」
呼吸も絶え絶えにしながら笑う。
「女医さんって……お前が手術なんかできるかよ」
いよいよ佳境だとばかりに、勢い込んで笑う。まるでハイになった薬物患者のように頭をゆっくりと回す。
手が震えて、タバコの灰が倒れた書類束の上に落ちた。黒染みが広がっていく。
「消しちゃう……消しちゃうか……はは」
首ががくりと下がった。そして視線が拾う。書類に広がった黒い、焼け焦げ。
視線のブレがなくなる
止まる。時が止まる。血走った目が一点にひきつけられ、動かなくなる。
気がつくと、黒焦げの上に拳を――広げなられなかった手を差し出していた
「俺を調べたな、室長」
奥歯をかみ締めた、押さえ込もうとし、しかし漏れ出す言葉。
「俺を知ったな、華」
握り締めた拳をさらに、ぎ――と握り締める。
「俺を知り、俺を理解した気になって、その傲慢な脳みそで、消してあげる、だ?」
笑いの底に眠っていた怒りが、首をもたげた。
赤城の柔和な表情が、華のぼけっとした表情が、脳裏に浮かんだそれに猛烈な怒りを感じる。
握り締めた拳に、タバコの火を押し付ける。
「……ッ」
小さな苦悶が漏れたが、彼は構わずさらに強く押し付けた。
拳から嫌な臭いと煙が上がる。
ぶるぶると激しく震え出す。
「消えるわけ、ねぇだろ……ッ!」
獣の咆哮をあげた
彼はタバコを投げ捨て、床に拳を打ちつける。あまりに堅く握り締められた拳を、何度も何度も、打ち付ける。
顔の表情筋が引きつる。笑っているのか、憎しみに歪んでいるのか
打ちつけろ、打ちつけろ、何度でも、何度でも、血が噴出しても構わない
この拳が開くまでッ、何度でもッ 打ちつけろッ
俺、自身の手で……ッ!!
時計の秒針が五周してようやく、その儀式は終わった。
血だらけになった拳はしかし、開かれていなかった。
呼吸だけが荒い。全身で呼吸をしているかのように、肩を上下させる。
痛い。血にまみれているだけではなく、アザだらけの拳は鈍痛も携えていた。ぶるぶると相変わらず震えているそれを、黒瀬は奇妙に冷静な視点から眺めていた。
立ち上がる。書類の束を飛び越えて、ずんずんと台所へ向かった。
ステンレスのキッチン横で唸っている冷蔵庫に手をかけ、中から牛乳パックを取り出す。
グラスに注ぐ
飲む
一気だ
コトリ、とカップを流し台に置いた。そのまま蛇口をひねり、血だらけの拳を――いや、いつの間にか既に手は開きつつあった。その手を、水流の中に突っ込む。
ひんやりとした水の感触を、手に馴染ませる。じんじんと膨れ上がっていた熱の塊が、ゆっくりと氷解していくのを感じた。
無表情に、彼はそれを見ている。
蛇口をひねると、もう音がしなくなった。時折思い出したようにカラスが鳴き、風の音が二、三度部屋の外を行き交った。
「掃除――するか」
ぽつりと、そう言った
■
■
別室、調査室。
相変わらずの暗闇とディスプレイの青白い光、点滅する色とりどりの光源で構成されたこの部屋の中には、今、すーすーという静かな音が漂っている。それはほんの数分前から続いていて、殺伐とした部屋の中に奇妙な安定感を与えていた。
つまるところ、部屋で唯一生きている存在である華は、静かに寝息を立てているのだった。八・二の割合でとめられた髪の間から覗く幼い顔は穏やかで、瞳は閉じられ、唇は力が抜けて少し突き出されている。それが妙に妖艶だった。
特殊な部隊に所属する人間はさまざまな苦悩に立ち向かうことになるが、その内でもダントツでつらいのがこの睡魔だ。こればかりは荒れ狂う海を泳破するSEALの屈強な男達でも、非正規戦闘で過酷な戦いに身を投じるデルタの精鋭であろうと、抗うのは難しい。まさに字義のごとく『魔力』だ。優しくささやき、甘い世界へ――ただ、そう瞼を閉じるだけでいい。それだけで楽園へと、暖かい陽光が降り注ぐ芝生の中へと――
部屋の扉が開いた。
扉の形に準じた光が差し込む。そして光を背負うように、一人の影が立っている。
影は歩を進め、内部に入る。
そして彼はすぐに、すーすーという寝息に気がついた。彼は腰を落とし、注意深く視線を周囲へ向け(彼はそれが寝息だとは気がついていなかった)そして寝入っている華に気がついた。
彼は気がついたその姿勢のまま、しばらく静止していたが、頭を振って、中腰の警戒態勢を解いた。
彼女の肩にぽんと手を置く。
「ふひひゃぁ!?」
華は飛び起きた。まさに字義の通り『飛び』起きて、椅子から転げ落ちる。
何から身を守るつもりなのか、顔を手で覆って身を縮こめる。
「起きてますっ、寝てるわけないです!」
浅ましい言い訳に、しかし影はくすりとも笑わなかった。真正面から彼女を見据えて、黙っている。
それに煽られるように、彼女はあわあわと動転し
「ウソじゃにゃ――嘘じゃないですよ! ホントです! ちょっと脳波が3Hzを下回って……あれ」
華はキョトンとして影を見た。
顔は陰っていてわからなかったが、少し自分から近付いてみるとわかる。
「ぁ――く、ろせさん……」
無表情顔と175cmという比較的高い身長(少なくとも華よりは遥かに高い)、黒スーツに純白のシャツ、真っ赤な、血のようなネクタイ、そしてミドルショートの黒髪。何より冷淡なようでいて強い力を宿した視線が自分に突き刺さり、華はたじろいだ。
「ど、あの……な、んでここに来て……?」
「いいから」
黒瀬は両腕で抱えるように彼女を立たせる(うわっ、ちょ、やめてくださ――きゃっ)と、その頭に手を置いてグイ、と扉の方へと押しやった。
「休憩室行って、少し寝て来い」
「あの、で、でも――」
「室長にはそれらしいことを言っておく。一時間したら別の奴と代われよ」
彼はそう言うと、華のヘッドアップディスプレイに手をかけた。
途端、華の表情が一変する。とてつもない悪夢に襲われたかのように顔を真っ青にし、悲鳴に酷似した叫び声を上げる。
「だ、ダメ! 止めてくださいッ!」
彼はその声に首を向けた。
二の句を続けようとした華は、しかし言葉を一言も発することなく息を飲んだ。
彼の視線は酷く達観していた。全てを見透かしている神のような視線でもあり、死んでしまった魚の濁った目のような視線でもあり――
「どうした」
華は小さく「……あ」と声を上げた。
何を言おう
何を言っても、無駄な気がする
卑しい自分を、既に彼は知っている――?
「あの――ごめん、なさい」
「何が」
華はばっと頭を下げる。叫んだ。
「室長の指示で黒瀬さんについて調べてました!」
「そうだろうな」
予想外の答えだった。
華はゆっくりと、顔を上げる。
黒瀬は奇妙に澄んだ目をしていた。
――なんと返せばいいかわからなかった。ただ、華の頭の中は「そうだろうな」の一言と、その瞳の純粋さに驚いて、パニックを起こしている。それだけで彼女の口は使い物にならなくなった。
黒瀬はしばらく無言で彼女を見続けていたが、ヘッドマウントディスプレイを装着すると、コンソールを静かに叩き始めた。そうして表情が読めない状態になると、口を開く。
「相沢風香――お前達が引っかかってるのは彼女か? 俺は彼女について少しだけ知っている。彼女は俺と同じ高校の出身で、同級生だった。同時に俺の友人であり、俺が出兵する日、彼女は俺を見送りに来てくれた」
少しだけ彼は視線を逸らした。
「そういう存在であり、それだけの存在だ」
「……恋愛関係は、なかったんですか」
ためらいがちな質問に、彼は首を振った。
「……他に聞きたいことは無いか」
返事はそれだけらしかった。
華は言い募ろうとしたが、実際調べてみても彼と彼女の間にそういう関係が確立していたという情報はなかった(それらしい関係、なら確立していたようだったが、肉体関係などのより深い部分での関係は見受けられなかった)。二人の関係は脅威ではない。集めた情報だけで判断すれば、そういう答えが出る。
だけど、そうなのだろうか
自分が特別疑り深いのだろうか。自分が卑しい人間なのだろうか。自分を何度も疑って、暗部に首をつっこむような不快な感覚を味わいながらも、彼女は必死に考えた。彼の言っていることは本当か、本心からの発言なのか。それともそう見せかけているブラフか
これは魂の問題だ。魂自体も自分の中でまともに理解していないのに、彼女はそう感じた。そうだ、
『彼にとって、『相沢風香』と言う存在は魂そのものなんだ』
「……これ以上何について聞きたい」
うんざりした様子で黒瀬が訊いた。
「何が不満で、何が懸念の種なんだ」
「あの……」
懸念の種、それはつまる所、黒瀬の過去がはっきりしない点にある。
彼は普段から寡黙で、マキビや清音のように自分がいかに優秀であるかについて口論に興じたりはしない。いつも冗談っぽくマキビが尋ねるが、答えているような、いないような、中途半端な返答しか返さない。華はそれを疑問に感じていたが(やはり捜査官としての血が騒ぐのだ)根掘り葉掘り聞く気はなかった。
戦時中従軍していたと聞けば、それだけで口にしたくもないようなおぞましい経験をしてきたことがわかる。だからあえて聞かなかった。
それが優しさだと思っていた
だが、それは
「あの……黒瀬さんは、昔は何をしていたんですか」
間髪いれず、黒瀬が口を開く
「中国で戦争をしたり、国内で工作したり、色々やった。その前の俺はただの陸自先遣隊員で――」
「そうじゃ……」
華は思わず強く言ってしまったことに戸惑い、弱々しく
「……なくて」
黒瀬には 語りたくない過去がある
だが今回の事件は、まさしくその過去を抉るかのように現れている。まるで、黒瀬莞爾の過去を暴き立てるがために、黒瀬莞爾を葛藤の海に投げ込みたいがために、事件が起こされているかのよう――
ぐっと華は顔を上げた。
「黒瀬さん、全部……全部話してください」
黒瀬はコンソールを叩く指を止める。
「相沢風香って誰なんですか、チョ・ミンスクとどうして知り合いなんですか、まだ、話してないこといっぱいあるんじゃないですか」
「話すべきことは全部話した」
「じゃ、じゃぁ」
自分でも不思議なくらい勢い込んで、華はコンソールに飛びついた。
大ディスプレイに真っ白になった――死体の女の顔が映った。死んでいるが――いや、死んでいるからこそ幻想的な美しさに包まれた、軽くウェーブの掛かった栗色の髪を持つ女。なぜか滴が落ちている瞼が静かに閉じられている。
「これ……これ誰です!?」
黒瀬がゆっくりと、ヘッドマウントディスプレイもはずさずに大ディスプレイを見上げる。
「黒瀬さん自身のデータからはログも含めて全部消されてましたけど、所轄の個人端末の中に『黒瀬莞爾』のデータとして残されてました。写真だけで、内容はなかったですけど……何か、知ってますよね」
黒瀬はしばらく黙っていた。口元しか見えない。
「……知らないな」
「嘘です!」
気づかぬ内に詰問していた。
「所轄の一個人端末が国家機密に当たる黒瀬莞爾の名前をわざわざ使って、全く関係ない写真を一枚残すなんておかしいです。黒瀬さん、何か、何かあるんでしょう」
黒瀬は答えず、コンソールを再び叩き始める
「黒瀬さんッ!」
「お前もいずれそうなる」
脈絡の無い言葉に華は馬鹿にされたのかと何か言い募ろうとし
「お前もいずれ、自分の周りのあらゆるものが信じられなくなる。周りが敵だらけになり、味方は所詮『敵でない事』の代名詞にでしかなくなる。その女についても同じことだ。ある日突然襲われた。俺は反射的に殺した。表ざたになるのは国家機密上好ましくなかったからデータは消された。端末に残ってたのは『国家機密云々』が問題にされる前に事後処理に来てた所轄の連中の中に変態がいて、死体に欲情したからだろ。俺自身とは何の繋がりもない」
「ある日突然って……なんでですか」
「お前なんでゴキブリ殺すんだ」
急に俗っぽいことを言われて華は詰問の調子が狂う。だが、その言わんとするところに気づくと別の意味で言葉に詰まった。
「そういうことだ」
黒瀬はコンソールを打つ手を止め、ヘッドマウントディスプレイをずらし、僅かに目を覗かせて呟いた。
「鬼の首とったように騒ぐんじゃねぇよ」
今まで見たことも無いような黒瀬の暗部を見た気がした。華の背を、得体の知れない寒気が走る。
後はもう黒瀬も口を開かなかった。ただ黙ってコンソールを打っていた。言外に『出て行け』と言っているのが、華にひしひしと伝わる。
勢いが削がれた途端、急にいつもの弱気が顔を見せ始め、華は身をちぢこませて慌てて荷物をまとめ始めた。
なんであんなにも勢い込んで訊いてしまったんだろう。誰にだって触れられたくない過去があるのに、どうしてそういうこと気がつけなかったんだろう――急激に事後否定の気持ちが沸き起こってきて、頬が熱くなり、自分自身に嫌気がさす。
どうして、あんなにも勢い込んで――
ふと、手が止まった
「(あれ……そうだ、どうしてあんなにも勢い込んでたんだろう)」
何かがぽっかりと抜け落ちている。
そうだ。気の弱い自分が、現場上がりの鉄面皮を被った黒瀬莞爾に、あんなにも強気に出れたのはなぜ……?
それはかつてエジソンを含めた天才(サヴァン)達が見せた「その過程は全くわからないが結果だけは脳内ではじき出されている」状態だった。自分ではその『異変』という結果に気づいていて、だけどその理由がすっぽ抜けている。なぜ異変と感じるのか、それはあの黒瀬に対して強気に出れるほどの確実性を持ったものなのか、一体自分は何に気がついたのか――
彼女は思い出す。
それにはいつ、気がついた――?
「……顔だ」
ぽつりと、華は呟いた。
黒瀬は顔を向ける。見えないが、その目は細められているはずだ。華にはそれがわかった。
慌てて彼女はコンソールに指を滑らせる。
大ディスプレイに写真が表示される。それは悲しそうに瞳を潤ませる女
「顔がそっくりなんだ」
大ディスプレイに二つの写真が並べられる。死体の真っ白な顔の女、そしてもう一人――
「――相沢風香と、顔がそっくりなんだ」
悲しそうに目を潤ませた相沢風香の写真が、死体の顔の横に並べられていた。髪型は違うが滑らかな骨格のつくりは全くそのままで、艶やかな唇や二重まぶたも書き写したみたいに同じ、恐らく瞳を開けたらもっとそっくりになるだろう。
華がまっすぐに黒瀬を見た。
「これ、どういうことです」
黒瀬は答えない。無言で彼女を、ヘッドマウントディスプレイ越しに見つめている。
「ディスプレイくらい、取ったらどうですか!?」
華の恫喝に、黒瀬はやはり、鉄面皮を変えなかった。動揺も何もない。ただ、彼が『これからどうするか』を考えているのは、かつてTRTでテロリストの尋問にも加わったことのある華には手に取るようにわかった。
彼女は再び、荷物をまとめ始めた。
「いいです。だったら、この写真を骨格識別プログラムにかけます。そしたら全部はっきりして」
「わかったもう止めろ」
黒瀬がディスプレイをはずした。その目は強い意思をたたえていたが、同時に奥底には諦めの色が漂っていた。
「……彼女、誰なんです」
黒瀬の背後の大ディスプレイで、静かに目を閉じて死んでいる死体の顔を見つめながら、華は訊く。 もはや有無は言わせないつもりだった。
黒瀬は小さく息を吐く。
美しく、しかし死んでいる女の、瞼が閉じられた視線を背に受け、彼はゆっくりとかみ締めるように答えた。
「相沢澪――相沢風香の妹だ」
「半年前別件で捜査に向かう為、徒歩移動中に突然向かいから歩いてきた女が銃を向けてきた。何か言おうとしていたが、俺は反射的に撃って返した。結果彼女は死に――結局それだけだ」
華は首を振った。
「そんなの信じられません。なんで彼女が黒瀬さんを狙ったのか、理由があるはずです」
「そうかもしれないが真相は闇の中だ。奴は死んだ。死に際に『お姉ちゃん』がなんとかと言っていたが、俺にはほとんど聞こえなかった」
「どうして――何か知ってるはずじゃないですか、事後の捜査でも何か出たはずです。多少なりとも理由に心当たりはあるんじゃないですか」
うんざりした様子で黒瀬が頭を振り
「言っただろう、理由なんて挙げてたらきりが無いんだよ。それこそ、殺される理由なんて無数にあるんだ」
「でも、彼女は相沢風香の妹なんですよ?」
「そうであったとしてもわからない。相沢風香とは例の空港での別離以来全くあっていないし、妹のことは聞いてはいたが、彼女と直接接点を持ったことは無い。それでも理由をあげろと言うなら相沢澪がどこかの活動家に洗脳されて鉄砲玉として送り込まれたか……それくらいの予想しか立てられない」
「本当に、相沢風香とは何も無かったんですか」
黒瀬が立ち上がった。
華も立ち上がって返す。
至近距離にまで詰め寄り、黒瀬は押し殺した声で呟いた。
「俺にもわからないんだよ……何で風香の妹が俺を狙ったのか、理由なんてさっぱりなんだ。説明としてもっとも合理的なのは、さっき上げたの以外に見当たらない」
華は負けなかった。ぐっと睨み返すと、呟いて返す
「そう信じたいだけなんじゃないですか……!?」
黒瀬は黙り込み、華を至近距離で見つめていた。華も目を逸らさず、睨み返す。
「……そうだったらいいんだがな」
先に視線をはずしたのは黒瀬で、彼はどっと倒れこむように華が使っていたコンパネの前の椅子に座り込んだ。
視線を虚ろに、遠く、どこかへと向けて
「――わかっていれば、どうしてか理由さえわかれば、あるいは俺の幻覚は……」
小さく、呟いた。
口を閉ざす。
「(……本当に何も知らないのかな)」
何か大きな精神的ショックを受けてはいるようだが、本人はこれ以上、確かに何も知らないようだった。裏づけは必要だが、追求しても、相当本格的な尋問の方法をとらなければもう何もはかないだろう。経験からわかった。
話題を変える。とにかく今、黒瀬に関する事は全部知っておこうと華は思った。黒瀬には隠されていることが多すぎる。誰かが外部から消したもの、彼自身が消そうとしているもの、そういったもの全て見ない限りは、自分は安心できないだろう――華は卑しくも、そんなことを考えていた。
「……チョ・ミンスクとは一体どういう関係なんですか」
微妙な間をもって聞いた華の質問に、黒瀬は鼻を鳴らした。虚脱の中に沸き起こった、どうしようもないことに対する嘲笑のような笑いだった。
「チョ・ミンスク? それはあの男の名前か? 見誤るなよ、奴に名前なんて無い」
黒瀬の目が、僅かに輝く
「『消し去った男』――それだけが奴を形容する唯一のコードネーム」
鈍い、錆びかけの刃のような輝きだった。
■
暗い手術室
真っ暗闇で部屋の概要のほとんどが見えないが、唯一、天井からぶら下げられた円形の照明が、手術台とその周りだけを照らしている。手術台に寝かされて緑色の布をかぶせられた男、そしてそれを囲み何かしらの処置を施している医師達――医師達の顔は緑色の手術着に隠されて見えない。目元だけが真剣な視線を手術台の男に向けられている。
彼らの手はせわしなく動いている。時折事務的なことを話しながら、その手は手術台に横たわる男の『顔』に向けられていた。
部屋に肉を裂くくちゃくちゃという音が響き続けている
ふと、静かなモーター音と共に、その部屋の扉が開かれた
足音がし、人影が中に入ってくる
「……なんだ」
手術台で顔を裂かれている男が、声を上げた。まるで老人のような掠れた声だった。それはつまる所、彼の『地声』だった。
人影は、男へと目を向ける。
男の顔は皮膚がはがされ、赤黒い肉と筋の筋組織がむき出しになっている。その口が引きつったように開けられる。
「お話が、したいのか?」
「喋らないで下さい」
彼の顔を弄っている意思がマスクの下からくぐもった非難の声を上げた。
「組織に傷がついてしまいます」
「黙れヤブ医者」
男が血をピッと飛ばしながら返す。
「彼女と話している時は………喋るな」
言われた医師は視線を周囲の医師や看護婦達に向け、小さく息を吐いた。
一人、光の外、暗闇の中にいる人影は、それを黙って見ていた。
僅かに見えるのは漆黒の中でも映える艶やかなセミロングの黒髪。艶かしく瑞々しい光を放つ唇。意思なく投げ出されて重力に任せられた手――どこか投げやりで、冷たいような、寂しげなような、奇妙な雰囲気があった。
男が彼女を剥き出しの目で見つめて、訊ねる。
「どうした?」
彼女は無言だった。それどころか身じろぎもせず、黙ってただ立っているだけだった。
だが
「あぁ……黒瀬莞爾か」
男はどういうつもりか、『返事』を返した
「もちろん、知り合いだ……一年間くらい、戦場で切磋琢磨した仲でな――日米・中戦争の末期の勝敗は俺とアイツで決めたようなもんだったなぁ。アイツが俺を仕留めようとし、俺は奴をいなして日米軍をつぶそうとした」
くく、と咽の奥を鳴らす
「それにアイツは、俺に名前をつけてくれた――『消し去った男』なんていう、随分詩的な名前をな」
人影は動かない。まるでライトアップされたグロテスクな男を際立たせるかのように、その光の傍らに佇んだまま。
「――聞きたいのか?」
男は呻くように呟いた
「俺の話? それとも、黒瀬莞爾の話?」
当然、返事は返ってこない。
男はしばらくの後、視線を真正面に戻した。まぶしい円形の手術照明が彼の視界を真っ白に照らす。
かみ締めるように、呟く
「……戦場での奴は人間を捨てていた」
その表情は物語る。彼が思い出しているのものを――
かつての、灰色の記憶
押しつぶされたような、掠れ声を上げる。
「軍人として正しい道を歩んでいた……何の迷いもなく、ただ殺すことに先鋭化し、決断や判断に迷うことはない。選定基準はただひとつ、殺すか、否か、それだけだ。――あの戦争の時代、戦場にいた誰もが迷いや苦しみを抱いていた中で、奴の存在は異色を放っていた」
彼は照明を見つめ、間を置くように一呼吸し、ゆっくりと息を吐いた
「そして俺も」
沈黙があった
僅かな間だけの、確実に存在した沈黙が
「――理由があった。殺す理由がな。俺は妹守る為、黒瀬莞爾は」
男の視線が僅かに彼女の方へと向き
だがすぐに戻る
「――やはり、守る為だったんだろうな、恐らくは」
彼女の顔が僅かに揺れる
セミロングの髪が、さらさらと小さく揺れの余韻を残す
「黒瀬莞爾は俺を潰すため、日米軍が送り込んできた刺客だ。ストイックな人間で、課せられた命令に忠実だった。だが与えられている部下の数はたったの三個小隊。それも定員割れしたな。俺は数で対抗した。大した脅威だと思っていなかった俺は、だが念を押して同士――民兵を百人単位で送り込んだ。結果どうなったと思う?」
静かな、彼の顔を裂く音が部屋に響くだけ
誰も答えない
だが彼は、返事を返す
「奴らは平然と生き残ったよ。奴らはためらったり容赦したりしなかった。必要とあらば村一つに空爆も辞さない。『容赦なく生き残った』
こんなこともあった――ある日奴らは俺の潜伏先を探り当てた。もちろん、当時大国も俺の存在を探り当てることができなかった頃の話だ。大規模な軍隊を振り回して少々天狗になっていた俺の一瞬の隙を、あいつは見逃さなかった。その事も驚異的だが、より奴らしいエピソードはその後の話だ。俺がいた野営キャンプは五つの村落に囲まれていた。それ故に俺も安心しきっていた。連絡体制も過密で、武器供給も完璧。ここまでは攻めてこれないはずだと――――大きな間違いだった。黒瀬莞爾はそんなやわな男じゃなかった。寝込みをしっかりと襲撃された。俺は初めて寝込みなんてのを襲われてね、ずいぶん狼狽したものだ。命からがら逃げる途中、俺は一つの村がどうなっているか見た」
彼はわずかに言葉を詰まらせ、咳き込んだ。医師が何か言おうとしたが、その表情――見えないはずなのだが――を見て、顔をそむけた。
彼はがっくりと力を抜いて、まぶしい照明を見上げる
「……ナイフだ。わかるだろう、鋭い刃のついた鋭利な鉄塊。あいつはそれで一つの村を――他の村もかもしれないが、少なくとも俺が見た限りではあの村一つ、まるまるサイレントアサシンの手にかけた。夜音もなく進入してナイフ一本で咽を掻き切って殺す。情報漏れを極端に防ごうとした結果、子供も女も残さなかった。結果、確かに俺も俺の部下も異変を少しも悟ることができなかった――――代わりに一つの村が血の海にまみれて、後々焼き払われたがな」
と
これまで静寂を保っていたまるで人形のようだった人影が、突然動いた。
医師たちも思わず手を止め、そちらに顔をやってしまう。
彼女は首を振っていた。左右に、ゆっくりと、何度も振っていた。
「それが最も効率的な方法だった。だからやった。ありえない話だと思うかもしれないだろうが、当時大陸にいた人間たちにはそういう異常な行動に対する言い訳がちゃんと用意されていたからな」
唯一、男だけは彼女を見ていなかった
「勝たなくてはならない――例え殺してでも、戦争だったからな」
医師たちは顔を見合わせる。一人、執刀医師が一度首を縦に振り、何事もなかったかのように施術は再開される。
男はされるがまま、口を小さく開けて話す
「二十四名しかいない部隊。対し鼠算式に増える民兵部隊。例え精鋭だろうと絶対数に二倍も三倍も開きがあれば当然、絶望的な結末に引き込まれるのは見え透いてる。だとしたらどんな手を使ってもそれに対抗しなければいけない――敵に対する不利をそのまましてたら、戦場じゃ『死ぬ』んだよ。子供のためならなんだってする親がいるくらいだ――自分が生きるために虐殺するなんて、わけないことだ」
彼女はそれでも、首を振っていた。まるで男の言葉が耳に届いていないかのように。
「……勘違いしないでくれ。俺だってな、そうやって迫ってくる奴に対してあらゆる手段を講じて対抗した。中にはもちろん、残酷な手法もある。奴の部隊の捕虜の生皮剥いて捨てたり、頭から油ぶっかけて焼き殺したりな。――情報漏れの恐れがあったから、家族を殺して自分の手で自分の故郷を焼き払った事もある。俺自身の情報が漏れるのはまずかった。身を守る為に……あの戦争に勝つ為には俺自身の力が絶対的に不可欠な存在だったからな――奴はそれを見て俺のことを『消し去った男』と名付けてくれたよ」
自嘲気味にグロテスクに笑う
「自分を隠し、そのために手段を選ばず、これまで存在してきた証の全てを消し去ろうとする男――『消し去った男』」
くっくと咽の奥を鳴らす
「何の因果かな。奴にも同じような名前が用意刺されてたんだよ。
敵対者を殺し、任務の為にはいくらでも手を汚し、意識はその達成以外の何処にも向いていない。ただただ殺す。殺して、全てを消し去る為、燃やし尽くす――――『炎を背負った男』と、そう呼ばれていた」
彼女は首を振るのを止める。
そしてまた、大海に沈んでいく死体ように体から力を失い、ただ立ち尽くす
「俺と奴は根本的に同じで、同時に相容れない存在だ。わかるだろ――」
男は彼女に目を向ける
「――今も、同じ女を愛してる」
彼女の髪がふわりと、また揺れた
男の顔から笑みが消える
同時に、その顔を見る彼女の視線を遮るように、医師が間に割って入る
彼女に見えない顔
彼女に見せない表情で
男は、呟く
「あの戦争はまだ終わってない。だから、ケリをつける
――――俺にとってこれは、そういう戦争だ」
人影は、それを聞いてまた、動かなくなる
何も言わず
何も語らず
ただ、黙って彼を見つめている
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2007/07/27(Fri)16:21:40 公開 / 無関心ネコ
■この作品の著作権は無関心ネコさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
とりあえず黒瀬虐殺設定を変更しました
6月2日・更新
6月5日・パス変更
6月7日・修正
6月11日・更新
6月18日・更新、修正
設定を更新しました。
6月20日・修正
6月20日・修正
7月3日・全体修
7月18日・修正
7月27日・修正のためトルーガーレポートの項を削除
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。