『dal segno』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:もろQ                

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 ずっと、柊二はソファに腰掛けていた。狭い部屋の小さなソファにひとり座っていた。色のない静けさが、薄まった部屋の空気をぴんと張っている。壁に貼られた時計は壊れて、針も律動をやめた。指でかたくなに両目を覆う彼は、長い間そこに居座っている沈黙などまるで気にしないかのように、ただじっとして動かない。二人がけの長椅子の、右側に彼が座っている。
 そこはいつの間にか虚無の白に満ちていた。横顔に面したガラス窓に、朝が帰ったのだ。水平線の裏側へ出かけていった光が、今ひっそりと戻ってきたのである。……しかし柊二はそれを知らない。時間とはひたすら未来を追い進むもの。太陽とはその傍を出たり入ったりするだけのもの。彼はそう信じて止まなかったから。

 思い出したように、バルコニーのウインドチャイムがからんとひと鳴りした。恋人はぱっと目を開け、その精悍な顔の輪郭を光の水面に溶かした。窓の外で一輪のフリージアが優しく揺れている。柊二は椅子からゆっくり立ち上がる。綿の中のバネが軋む。か細い両腕は引力に任せてだらりと落ちた。痩せた素足がじゅうたんの上をぎこちなく歩き出し、音もなく窓辺で止まった。色素の薄い瞳が潤む。彼はもう彼女しか見ていない。いや、まだ彼女しか見ていない。あの日からずっと、自分を責め、時々その花を眺めていたのだ。絶えず延びゆく日々の中で、無論、ふたつの思いは階段を一段一段上るかのごとく昂っていったのだ。
 サッシの上につま先を載せた。

 昔、この部屋にはピアノがあった。近所の楽器店で買った安物のアップライトだが、狭いリビングの一角に置かれたそれを、清香はまるでスタインウェイに出会ったときのような表情で見ていた。
 嬉しそうだね。とソファに座る彼は話しかけた。音楽学校に通っていた君だから、さぞかし上手に弾くんだろうね。すると彼女が中指で触れていた白鍵が、すっと持ち上がった。音色もふと途切れた。ピンクのワンピース姿の彼女が、肩まで伸びた髪を揺らして振り向く。違うの。清香ははにかんだ。あなたが弾くのよ。
 それまで柊二にはこれといった趣味がなく、ある時清香が彼を残して一人で出かけたが、夜頃帰宅すると部屋は電気がついておらず、暗闇の中で柊二は目を開けたまま座っていた。そういうこともあり、彼を気にかけていた彼女が、少しでも毎日を意味のあるものにして欲しいと思い彼にピアノを贈ったのだった。
 手を引かれてほとんど無理矢理椅子に座らされた柊二は、八十八つの鍵盤を目の前に息をのんだ。怖かった。楽器を弾くなんてリコーダーを吹いた小中学校以来だったからだ。彼の緊張を察した清香はそっと肩に触れ、次に彼の人差し指を持って鍵盤に置いた。長方形の響板から温かな一音が溢れる。白い壁に囲われたこの空間を、「ド」の音が躍動する。反響は余韻を連れて、二人の聴覚へと駆け込む。彼は思わず息を漏らした。キーを叩けば音が出る、そんなことは重々知っていたはずなのに、なぜ僕はこんなにも驚いているんだろう。僕の指が空気を震わせる、ただそれだけのことが、どうしてこんなに楽しいんだろう。柊二の口元から笑みが零れた。
 その横顔をみとめた清香の心も、彼の指に震えていた。

 柊二の弾いた最初の音色は、連なってメロディーとなり、ハーモニーを生み、やがて一編の音楽になった。恋人は彼の先生として、ひとつひとつを丁寧に教えてくれた。彼が自主的に練習を始めてから、それは趣味となって、彼の平坦な日々を色鮮やかに塗り替えてしまった。
 まるで取り憑かれたかのように、ピアノに夢中になった。両手の指の感覚はもはや彼の意識を離れ、鍵盤の上で自由に駆け回り始めた。手に、新しい命が吹き込まれたかのようだった。清香がくれたピアノピースを全て完璧に弾きこなすと、彼は今度は自分で楽譜を手に入れ、まだ見ぬ音の世界をひとつずつ刻み込んでいくようになった。長い時が経つ。しかし彼にとってそれは一日にも満たない些細な時間だったろう。そう、この部屋に味気ない夜が満ちることはない。帰宅した清香がドアの前に立つと、向こう側から柊二の奏でる旋律が湧き出ているから。

 ピアノしか見えなくなった。彼は音楽に溺れていったのだ。清香は、彼の音楽に注ぐ情熱に驚きの声を上げ、嬉しく思いつつも反面あの人の邪魔をしてはいけないとどこか敬遠するようになった。隣で彼の楽しげな横顔を眺めることをやめ、部屋の中を一歩ずつ、一歩ずつ後ずさりした。やがて彼の背中しか見えなくなり、少しの退屈を覚える時も、あの人が毎日を幸せそうに生きているのだから、とソファに腰掛けながらじっと堪えていた。
 ピアノしか見えなくなった柊二には、彼女の表情に滲んだ寂しさなど分かるはずもない。夢を見た。目の前に写る白と黒の波が彼を襲い、渦になって身体の全部を飲み込む。四肢がゴムのようにねじ曲がり、自分の手のひらに似た何かが彼の足を掴む。弦の嵐に巻き込まれ、ハンマーの怒濤に押し出されて、心がどこか知らないところへ引きずり込まれていく夢。だがそこには痛みなど毛頭なく、むしろ心地良い。まさしく彼は酔っているのだった。楽器の放つ柔らかくどこか懐かしい香りに陶酔してしまったのだった。
 ある日清香はバルコニーの屋根に、ウインドチャイムを飾った。白のフリージアをモチーフにした可愛らしいものだった。彼女が窓の外で揺れる。金属の鐘が互いに触れ合って、美しいグリッサンドを奏でている。ね、綺麗だよね。彼女が満面の笑みをたたえて彼に話しかける。しかし柊二は、無言で、代わりにただピアノを弾いていた。色素の薄い瞳はいまや白と黒しか見据えていなかった。奏でた音色も、決して彼女に微笑み返すようなものではなく、それどころか彼女を突き放すかのような刺々しいものに思えた。邪魔しないでくれ。音が濁ったらどうしてくれるんだ。
 ふっ、と清香に笑顔が消えた。
 明日も途絶えた。

 久しぶりに見上げた空は晴れていた。道路に沿って植えられた並木は、うずたかく枝を伸ばし、青々とした葉が南風にそよいでいる。時おり通る車の排気ガスが鼻をつく。
 ねじ曲がったガードレール。黒いタイヤの跡。柊二は首をうなだれながら、清香の死をぼうっと眺めていた。昼日中、事故のあった場所にひとりきりで立ち尽くしていた。このままここでこうしていたい。動く気力さえ生まれない。しかし本当は、頭の中が半分狂っていて、もう今すぐにでも暴れてしまいたい。子供みたいに地面に転がって大泣きしてもいい。唐突に起こった例えようのない悲しみと、心の空白をどうすることもできない彼は、せめてもの慰めに両手に抱えた花束を横に添えて去った。白い清楚な花が、喉に溜まった嗚咽に合わせてそよいでいた。

 君がいなくなった理由は分かってるよ。僕のせいだね。君を裏切ったんだ僕は。君を忘れてピアノに愛情を注いでしまった。だから君は、寂しくてこの部屋のドアを開けて飛び出したんだろう。もう何度謝っても足りない。今、君に何度好きと言っても足りないよ。僕が君を殺した事実は何度思い返しても変わらないんだから。
 窓ガラスに額を擦って独り言を喋っていた。手のひらが平らに貼り付いている。視線の先にフリージアのウインドチャイムが揺れる。サッシに置いた両足の、かかとがせり上がっている。バルコニーの下、その煌めくような音色に今更気づかされた。
 ピアノはあの日に捨ててしまった。死別を終えて部屋に戻ったあとすぐに、業者に連絡して引き取ってもらったのだ。今ソファの向かいの壁の前には、絨毯のまだ若い色の部分が長方形に広がっている。思い出すのもおぞましい彼のトラウマに似ている。
 苦い過去を振り切るのと同時に、柊二の月日も突然色褪せていった。リビングには再び音が消え、あの輝かしい毎日も途切れてしまった。だがそれは、彼にはとても些細に思えた。それからの時間とは、自分の愚かさと、清香の愛しさを見つめるためのものであった。ひたすら未来を追い進むものになった。赤黒い太陽がその傍を出たり入ったりするだけになった。
 冗長な未来。

 何度謝ったとしても、罪が軽くなるわけじゃない。目を覆って、日がな一日自分を責めた所で、君がこの部屋に帰ってくるわけじゃない。だけどもう、他にやるべきことがないんだ。こうして屋根にぶら下がったウインドチャイムに話しかけるなんて、常軌を逸してる。分かってる。でも、僕にはそれしか残っていないんだ。君が好きだから。ねえ、君がこの部屋を出て行った後も、僕はずっと清香のことを想ってるから。

 その時、彼の口から漏れた最後のひとかけらが、陽に当たるバルコニーにもうひとつ風を呼んだ。
「なら、またピアノを弾いてよ」
 透き通るようなソプラノ。まぶたの裏で、肩まで伸びた髪を揺らしながら、彼女が振り向く。 
 照り付ける太陽が温もりを帯びていく。
「柊二のピアノが聴きたいな」
 彼は言葉を失った。かかとの位置がわずかに低くなる。フリージアがガラスを追い越して部屋中に響き渡る。
「忘れていいよ。あなたは何も悪くない。私なんかにとらわれる必要はないんだから。……寂しかった。あなたが音楽に虜になって、私はひとりぼっちになってたかもしれない。だけど、死にたいなんて一度も思わなかったよ。だってあなた笑ってるんだもん。すごく幸せそうだったんだもん」
 からん、からん、からん。言葉を噛み砕くように、ひとつずつ教えてくれる。あの頃のように。ピンクのワンピースを身に纏った清香が、撫でるようにかぶりを振っている。愛らしい微笑みとともに。
「笑ってる柊二が好きだよ」
 声がくすぶっていた。視界が音もなく滲み出す。切らずに伸びた爪が、カタカタと音を立てる。心臓の鼓動が高鳴る。胸の奥が、苦しい。
「でも、どう、すればいい。もうピアノがないんだ」
 景色の中、清香は長い睫毛をなびかせ、目を閉じた。丸みのある唇は未だ微笑みを象っている。やがて彼女はゆっくり目を開いた。
「できるわ」

 ふわり。急に、柊二は誰かが自分の肩に触れるような不思議な感覚を覚えた。思わず振り向くと、今度は彼の右手が何かに包まれた気がした。窓ガラスから、手のひらがゆっくりと離れ、置かれた。
 温かな一音が溢れる。人差し指から、水が湧き出るように響く。いつでも変わらない、優しい音色。続いて中指、薬指へと緩やかに流れ、メロディーが紡がれていく。最初のピアノピース。清香に初めてもらった世界だ。
 左手が後を追う。透明なガラスの上で、ハーモニーが産声を上げる。柔らかくてどこか懐かしいあの音が、鮮明に生きる。漠然だった毎日をそうして塗り替える。
 景色の中、清香が僕を見ている。嬉しそうに僕の顔を眺めている。僕の奏でる音楽を聴いている。ああ、君は、あの頃と何にも変わっていない。分かった、僕は何も悪くなかったんだね。彼女の華奢な身体の線が、だんだんと白い景色に溶けていく。ああ、そうか、僕を許してくれるのか。ありがとう。 
 まばゆい朝が彼の後ろ姿からこぼれ落ちる。光線は斜めに差しこみ、徐々に角度をもたげてリビングをまっすぐ横切る。繊細な音色が薄まった空気に織り込まれる。積み重なる和音。滴るスタッカート。舞い上がるスケール。旋律が光を連れて、壁に囲われたこの狭い部屋いっぱいに跳ね回る。ふたつが柊二の中で響く頃には、彼はもう泣いていた。走る指の間を、たくさんのしずくが通り過ぎた。悲しくない。ただ、幸せなんだ。

 はっ、と吐息が宙に舞った。最後の余韻。柊二は瞳をうっすら閉じて、自分が曲を弾き終えたことを静かに悟った。暗いはずのまぶたには、こうこうと残像がともっている。体の力が一瞬で抜け、つま先がようやく絨毯の上に降りた。
 どこからか拍手が聴こえる。柊二は目を開け、音のする方を振り返った。玄関へ向かいドアを開くと、一人の見知らぬ女性が緊張した面持ちでそこに立っていた。話を聞けば、外まで響いていた彼のピアノに「とてつもなく感動した」ので、扉の外でずっと聴いていたという……。

 恋人に気づかれぬまま、ウインドチャイムはバルコニーの屋根から落ちてしまった。

2007/05/24(Thu)00:15:12 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
久々にまともな(同時にストーリー的にはありがちな)作品を書いた気がします。
タイトルは「ダルセーニョ」と読みまして、セーニョと呼ばれる楽譜内の記号がある部分まで戻る、という意味があります。

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