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『ペイン』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:サトー カヅトモ
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ガキの頃、四十度を越える高熱にうなされたことがある。
その日の苦しみはもう思い出せないけれど、高熱でうなされたという記憶は未だに忘れることができない。
そして今。
あの高熱のように、絶対に忘れられないだろう思いを、この胸に抱いている。
「話あるから、時間つくって」
放課後、一階上の三年の教室からかっとんでくると、アリサは息を弾ませながら言った。
鞄に教科書、ノートの類をほいほい詰め込んでいた手を休め、俺はため息を吐いた。それが俺の精神に大きな苦痛をもたらす類の話であることは明らかなのだが、にもかかわらずアリサの相手をするのはきっと、惚れた弱みってヤツなのだろう。
衣替えまでにはまだ一月もある五月。
去年の冬から本格的な温暖化でも始まったのだろうか、つい先週に桜が散ったばかりだというのに、今日も驚くほどに暑い。僅かに汗を滲ませるアリサの額を眺め、立ち上がる。こういうときは、どうせ俺の部屋になだれ込む流れになるんだ。とっとと観念した方が、効率的だろう。
「じゃ、コンビニで冷たいものでも買ってくか。流石に今からエアコン動かす気にはなれないしな……。一応聞くけど行き先は俺の部屋でいいんだろ?」
勿論、と威勢よく頷くアリサを引きつれ、教室を後にした。
俺とアリサの付き合いは長い。幼稚園から小中高と同じで、学年はアリサが俺の一つ上。
加えて、昔はおろか今でも互いの部屋に出入りするくらいには良好な関係を築けている。殆どアリサが俺の部屋に押しかけてくるのだが。
更には、朝は目覚ましいらずのモーニングコールも完備だ。起こすのは俺の役割ではあるが。
冷静に考えてみると、都合のいい便利な男というポジションにあるだけの気もするが、それはあえて考えない方向で。真剣に考えなければいけないポイントは、そんなことではないのだから――。
専業主婦である母と適当に言葉を交わし、二階の俺の部屋へ。
セミの鳴き声さえ聞こえてきそうな暑さに、澄んだ青空。思いきり窓を開け放ち、部屋の淀んだ空気を換気する。窓からは青々と輝き始めた街路樹が見えた。そろそろ扇風機を引っ張り出そうか、なんて考えて一つ背伸びをする。アリサは遠慮など欠片も見せず、俺のベッドにダイブしていた。
「アキラ。大至急、アイスの準備!」
べっ、と差し出された手にコンビニのビニール袋から取り出したアイスを乗せる。「ん〜〜、夏場のアイスはこの溶けかけ具合がサイコーなんだよね〜〜」俺が自分の分を取り出す間に、アリサはすでにぱくついていた。どうでもいいけど零すなよ、俺のベッドに……。
「それで、話って何?」
カップアイスを掬いながら、用件を聞き出しにかかる。アリサはんー、とか、うー、とか唸りつつ、一心にアイスを貪っている。食い終わるまでは始まらないなと当たりをつけ、俺も黙々とスプーンを動かすことにした。かちこちと時計の針の行進音ばかりが部屋に響く。
男子高校生が、好意を寄せる女子と自分の部屋に二人きり――下には母がいるのだが――というシチュエーションだというのに、悪い意味でしか胸がドキドキしないのは、きっと俺がアリサの「話」とやらがどういったものであるか、予想できているからなのだろう。
「好きな人ができた」
からん、と音がした。アリサの手からアイスが消えていたことから、アイスのバーがゴミ箱に食われた音なのだろうと判断する。食いかけのアイスに墓標のようにスプーンをつきたて、ふぅんと俺は呟いた。
「今度の相手は?」
視線を合わせないように彷徨わせながら、机に背中を預ける。アリサの口から出た名前は勿論、俺のそれではなく、ウチの野球部の副主将のものだった。ちなみにその前はスキー部のマネージャーで、その前は軽音部のベーシスト。
――全く、これはなんて嫌がらせだ。
内心を決して悟られないように、アリサの視界の外で肩を竦める。アリサは月に一度くらいのペースで「こういう話」をしにくるのだ。
好きな相手の恋愛相談を自分の部屋で持ちかけられる。そしてそれは、いつだって俺のことではない。俺は胸の奥底のもやもやとしたものを必死に振り払いながら、アリサの相手をしなくてはならない。ため息を吐いて、八つ当たりにアイスを串刺しにする。
俺は、こうやって友達の延長としてアリサといられたらそれだけで満足なのに、そうするとこの心臓を鷲摑みにされるような苦しみを、毎月味わうことになるのだ。ああ、くそ、わかってはいても苛々する……。
「……何度も言うけど、もっと人選べよ。相談する相手」
殆ど液体になりかけたアイスを目の敵にしたところで、さっぱり気分は晴れやしないようだ。俺の声は露骨に嫌そうな響きだった。俺は胸中で失敗したかなと眉をひそめる。
「俺がそういう話で的確なアドバイスとかできると思うか? ていうか、そもそもアリサ、付き合ったとしても一週間くらいですぐ別れるしさ。もういいじゃん、止めとけって。今回もきっとそうなるから」
うわ、俺、ブレーキとアクセル踏み間違えた? 何、今の。本音と嫉妬が一対一くらいの割合でブレンドされてたんだけど。
気を紛らわせるためにスプーンを弄んでも、指先に反応が返ってこない。……なるほど、ここまでどろどろに溶けきってたら手応えはないわな。視線を泳がせ心を落ち着かせて、恐る恐る窺うようにアリサを見る。
「うーん……、アキラもそう思う?」
当のアリサは、えらくあっさりとしていた。持ちかけた相談をばっさりと切って捨てられたというのに、寧ろ晴れ晴れとしているようにさえ見える。いや、実際そうだったのだろう。その証拠に、思わず見惚れてしまうくらいの極上の笑顔を、アリサは浮かべた。
「実は私もさ、あんまり乗り気じゃなかったんだよね。アキラにはっきり言われて決心できたよ」
胸にドリルで抉られたような痛みを感じ、俺は目を背けた。
どれだけ暑くなっても、やはり今はまだ春なのだろう。
窓の外にはもう赤い空が広がっていた。
それは、一年前の夏の日だった。
俺は顔見知りの先輩に呼び出され、二年の教室に足を運んだ。
「好きな人を諦めるにはどうしたらいいと思う?」
キツイ西日が差し込む教室で、彼女はふいにそんなことを口にした。そんなの俺が聞きたいですよ、という本音をすんでのところで飲み込み、さぁ、と首を傾げた。俺としてはこの話題はそれで終わりにしたかったのだが、ヨーコさんはそうではなかったらしい。じっと腕組みしながら俺の言葉を待っていた。サッカー部や陸上部が走り回る校庭に視線を落とし、
「新しい恋でも探せばいいんじゃないですか?」
ありふれた答えを吐き出した。それが実ることのないモノなら、手早く気持ちを切り替えて次を探せばいい。それは、妥当な提案ではないだろうか。なのにヨーコさんに対して後ろめたさが拭いきれないのは、それを口にしている俺自身が、未だにそうすることができていないからなのだろう。自分のできないことをさも当然のように提案するなんて、誠意がある対応とはとても言えないな、と自己嫌悪する。
「私もそう思ったから、そう言ったんだ」
自らの罪を懺悔するようにヨーコさんは言った。
「それが一番正しいことだって思ったし、アリサには後悔なんてさせたくなかった。……いや、違う。こんな言い方は卑怯だな。その思いにも嘘はないが、正直に言えば、私はアリサの思いを後押しするなんて重荷を背負いたくはなかった」
この人は、アリサの親友は、真っ直ぐに物事を見る目を持っていた。酷く毛嫌いする相手でも、その長所には相応の称賛を送るし、親友を相手にしてもその行いが過ちだと判断すれば、それを見逃すことなどはしない。そしてそれは対象が自分自身に移っても、変わりはしないようだ。
「将来、アリサがその決断に後悔をしたときに、あのとき私が止めておけば、なんて悔やみたくはなかった。我が身可愛さに、親友の思いをばっさりと両断したのだ、私は」
「面白半分に背中を突き飛ばすよりはよっぽどありがたいですよ」俺は苦笑いした。
アリサがやたらと誰かを好きになったと言い出すようになった原因は、きっとヨーコさんのその言葉なのだろう。悲しくはあるが、俺だってわかっている。これがベストな結末なのだと。
「だけど――、きっとこれで正しいのだと自分に言い聞かせても、君ではない誰かを好きになったと言うアリサを見る度に、やるせなさは募っていった。……身勝手この上ない話だよ。自分でそうしろと言っておいて、いざ実行に移したら違うような気がするなんて」
片手で自身を抱くようにして、ヨーコさんは俯いた。その様子を見て、ざらついた舌のような何かが背中を這っていった。「……ヨーコさん、待って下さい」ヨーコさんが何を言おうとしているのかがわかってしまった俺は、その言葉を止めるように手で制すが、聞き入れてはくれないだろう。
薄々は感づいていても、それは妄想なのだ、ただの勘違いだと押し込めていたのに、それをこの人は暴こうとしている。恐怖と苛立ちと――、微かな期待が胸の中で渦巻いている。
ヨーコさんの後押しが得られれば、いざというときは責任の一端を彼女に押し付けることができる。そんな悪魔――いや、ヨーコさんのように正直に言えば、それはきっと悪魔のふりをした俺自身なのだろう――の囁きに一瞬でも胸をときめかせた自分に気づき、俺は顔を歪める。
「アリサを掬い上げておきながら、俺のことは突き落とそうと?」苛立ちを棘に変え、それを容赦なくヨーコさんにぶつけた。「俺が落ちるってことは、アリサ諸共真っ逆さまってことですよ? 今のままいけば一番辛くない終わりがくるのに、わざわざ俺たちの傷口に塩を塗りたくるような真似をさせるって言うんですか?」
俺のそれは酷く醜い態度だった。今言われたことは心のどこかでは待ち望んでいた言葉なのに、その上、更にヨーコさんの責任を大きくしようとしている。
反吐が出る。殴ってやりたい。自分に対してそう思うのだが、それ以上にアリサを愛することへの免罪符ができかけていることに、俺は確かに喜びを覚えていた。今までの人生の中で、今日ほど自分自身を卑怯者だと思ったことはない。血が出るくらいに拳を握り締めるが、もっともっと鋭い痛みが容赦なく心を打つ。
「――ああ、その通りだ。私は、きっと、それを望んでいる」
ヨーコさんは、はっきりと言った。こんな話をしていても真っ直ぐに目と目を合わせられるこの人には、本当に驚かされる。自分の気持ちに嘘をつけず、かといって常識知らずでもない。現実がはっきりと見えていても、夢のような理想を忘れきれない。その圧倒的な摩擦で心を痛めたことなど一度や二度ではないだろう。その痛みと苦しみを知っているからこそ、アリサに諦めるように言い聞かせたのに。自分の痛みだけで精一杯なのだから、他人の痛みまで背負ってしまえば心がもたないと、そう判断したはずのヨーコさんなのに、彼女は今、その痛みを背負おうとしている。
「アリサは、君のことを愛している。だけどそれは……、あまりにも報われないものだ。だから必死に君ではない誰かを探そうとしている。血を流し続ける心を嘘で塗り固めている。……いつかは忘れることができるかもしれないけれど、今はまだ君への愛を思い出にすることはできていない。
それくらいに愛してしまったんだよ――」
彼女は躊躇なくその痛みを俺に押し付け、それと同じ大きさの苦痛から俺を解放してくれた。
「――実の弟である、君のことを」
あの夕日の教室から一年近くの時間が過ぎ去ろうとしているが、俺は未だにどうすることもできずに悶々とした日々を送っている。この胸の内の想いを伝えても伝えなくても、きっと後悔は残るだろう。引き返せない道にアリサを誘ってしまったことを。その辺りの劇物なんかよりもよっぽど胸を抉るこの思いを吐き出せなかったことを。
夕日を見る度に思い出してしまう、あの日のヨーコさんの言葉。それはときには呪うように、ときには祝福するように俺を急かす。嗚呼、これだけ苦しみぬいても物理的なダメージが全くないというのはとても信じられない。頭がくらくらする。まるで高熱にでも侵されているようだと、ベッドに身体を預ける。
既にアリサは自室に戻り、俺は一人暗闇を眺めていた。頬に触れると自分でも驚くくらいに熱かった。
ふいに、遠い記憶が蘇った。
ガキの頃、四十度を越える高熱にうなされたことがある。
意識は朦朧とし、吐き出す息が怖いくらいに熱かったと記憶している。体温計を読み上げる母の声を聞いて、自分はここで死ぬのだろうか、と本気で怯えた。
しかし、そんな予想とは裏腹に、一晩ぐっすり寝たら翌朝は微熱程度まで下がっていた。
今ではあのときの苦しみなんて全然思い出せない。
あの痛みも、恐怖も、意識を焦がす程の熱さの記憶も、すっかり風化してしまった。
そんなもんだろう。
どんな思い出も、いつかはそうやって消えていく。時々思い出してもそれこそ高熱に侵されたように、おぼろげに霞むばかりで、はっきりとは思い出せない。
だけど、何万、何億と積み上げられていく思い出の中には、一つくらいあるのではないだろうか。いつまでたっても色褪せず、昔聞いたメロディを思い出すように脳裏に浮かんでは時を越えて胸を締め付けるような、そんな思い出が。
そして未来にはきっとそうなるであろう瞬間を、俺は今、生きている。
了
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2007/05/06(Sun)20:04:53 公開 / サトー カヅトモ
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■作者からのメッセージ
微修正を加えました。
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