『ミカンケーキ』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:たつや
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立ち上る煙草の煙が天張りでゆらゆらと漂っていた。
子供の頃、学校の図書館で見せられた蜘蛛の糸という映画の1シーンを思いだした。
天国と地獄の境、罪を犯した主人公が見上げる雲から蜘蛛の糸がするすると下りてくる。
それ相当の理由があって地獄に落とされたはず、なのに現世で行った爪の先ほどの
善意で天国に登るチャンスを与えられた悪人。
今、考えると道理に合わない、なにより地獄行きを決めた閻魔様のたつ手がない。
仏様かお釈迦様かは忘れたが気まぐれも度が過ぎると思った。
「そう言えば主人公、結局天国には行けなかったんだよな」
男の名は沢田政則、3年前まで洋菓子屋のオーナーパティシエをしていた。
開店はその3年前、代々家業としていた和菓子屋を壊し跡地にオープンカェの洋菓子屋を開いた。
地方の小さな町、洒落た店構えも人気を呼び町民はもとより近郊からも客が訪れた。
けれど目新しさも2年と持たなかった。客は減りはじめ僅か3年で潰れた。
店はあっという間に銀行に持って行かれた。
店の立て替え時、住居は別に建てる予定で設けなかった。
一時のつもりで借りた近所の一軒家が沢田と父母三人の唯一の居場所となった。
沢田の父は先祖から受け継いできた店を失った事に気落ちし、持病の糖尿病を
悪化させ寝付いた。
そして6ヶ月後合併症で呆気なく息を引き取った。母親も看病疲れと寂しさから後を
追うように1月後の朝、布団の中で冷たくなっていた。
老いた両親の為にと高い借家の賃料を払い続けていたが、その理由も無くなり
安いアパートに移り住んだ。
なにもかも失い残ったのは借金だけ。
以前からつきあっていた女も多額の借金を抱えた沢田を見限り、男を作り離れていった。
しかし、それを引き留める情熱も資格もなかった。
泣き言を言っている暇などなく借金返済と生活の為に働かなくてはならない。
同業者に働かせてくれと頼んだが使いにくいと断られた。
仕方なく大手資本の地元菓子工場で派遣社員として今は働いている。
しかし、知識があるだけに製法にあれやこれや口を挟み現場責任者に疎んじられた。
悪い癖と解っていたが洋菓子職人としてのプライドがつい言わせてしまう。
そんなジレンマから逃れようと以前は舌の感覚が鈍ると絶対に吸わなかったタバコ
に逃げるようになった。
味覚も荒れていくのだろうなと中指と人差し指の間に溜まったヤニの汚れを親指でなぞった。
窓の外を見ると空に鰯雲が浮かんでいた。
天気予報によると来週にはシベリアから大きな寒気が降りてくるらしい。
とすると冬間近の最後の晴れなのかもしれないと沢田は思った。
「今日あたりいいのかもな」
週休二日の土曜日、昔は暇さえあればゴルフに出かけていたが今はそんな金もない。
第一、そんな事に金を使うなら返済にあてなければならない。
結局のところじっとモグラのように家にいるしかなかった。
夜になり近所のスーパーへ夕食の材料を買いに出かけ帰ってくると、沢田の隣部屋の
前で女児がうずくまっていた。
寒さか疲れのせいか小さな体が震えていた。
見て見ぬふりも出来ず女児の前にしゃがみ声をかけた。
「お母さんはまだかい?」
「うん、昨日から帰ってこないの」
「電話をしてみた?」
「おうちに電話ないもの」
隣に母と子が引っ越してきたのは1月前だった。
明らかに水商売と思われる派手な身なりの母親と小学校1年くらいの女児。
挨拶を交わした訳ではないが階段で何回か出くわし親子の顔は知っていた。
生活パターンはだいたい同じ、朝方、女の子が体には大きすぎるランドセル
を背負って出て行き、母親は沢田が工場から帰ってくるとき入れ違いに出勤する。
帰ってくるのは大抵夜中の二時過ぎだった。
「ご飯どうした」
「たべてない」
時計を見るともうすぐ9時。大人なら今時の夕食も珍しくはない。
しかし、こんな小さな子供がなにも食べずにいるのをそのままにはしておけなかった。
女の子を自分の部屋に入れ、子供の喜びそうなオムライスを作ってやった。
口いっぱい頬張る満足そうなの顔を見て嬉しくなった。
そこで簡単なケーキを作ってやる事にした。
ちょうど同僚からもらったミカンあった。
なんでも実家が愛媛で毎年この時期早生ミカンが食べきれぬ程送られてる来るらしく
お願いだからと20個ほど受け取った物だ。
考えた末、ミカンのショートケーキを作る事にした。
まず時間のかかる生地をオーブンに入れ、オムライスに夢中の女の子を部屋に置き近くの
コンビニまで生クリームを買いに走った。
急いで帰宅すると煮詰めたミカンの絞り汁と生クリームに混ぜ、ミカンの香りのする
生クリームを作った。
女の子がオムライスを食べ終えようとする頃生地は焼き上がり、砂糖で煮詰めたミカン
とクリームを交互に重ねケーキは完成した。
「ほら、これも食べな」
目の前にドンとホールケーキ、艶やかなミカンの房が生クリームでコーティングされた
ケーキに花のよう飾られていた。女の子はキョトンとした。
「どうしたの?ケーキ嫌い?」
女の子は顔を振った。沢田はナイフでケーキを切り取り小皿に乗せホークを添えた。
鼻をくすぐる甘い香り。
「本当に食べて良いの?」
沢田は頭をなぜた。
「いいとも」
女の子の口はホークなど必要なのか解らないぐらいケーキに近づきパクリとかじりついた。
クリームがべったりとついた頬、その様は何とも愉快で思わず笑ってしまった。興奮した女の子
はまん丸の目で沢田を見た。
「おいしい、私ミカン大好き」
「そうか、よかったね、じゃあお名前きかせてくれるかな」
「浅田 美紀」
「そっか、じゃあミキちゃんてよんでいい?」
女の子はホークを握りしめたまま顔を振った。
「ミッチャン」
「そうかミッチャンか、じゃあミッチャンこのケーキ全部食べていいんだぞ」
美紀はハッと我に返り困った顔をした。どうしたのと聞くとお母さんと食べていい?と聞き返された。
話を聞くと母親も甘い物が大好きで、親子はお菓子を買ってくるといつも分け合っているらしかった。
その為なのか美紀は手を付けたケーキも食べる手を止めた。
「こんなにあるんだからそれくらい食べてもお母さん泣かないよ?」
「うん、でも一緒に食べる」
そう言いながらも食べたい衝動をじっと我慢しているのがありありとわかる。
母親が好きなのだなと頷くしかなかった。
そしてその母親が帰ってきたのは深夜、12時を過ぎた頃だった。
アパートの外に車が止まり、鉄骨の階段を力なく上ってくるヒールの足音が聞こえた。
鍵をあけようとガチャガチャと音を立てるが酔っているのかあけられずにいた。
「ミッチャン、ただいま、お母さんよあけて………」
美紀を起こさないようにそっと部屋の外に出た。
すると戸を叩いていた母親が気がつきなにか文句があるのという目で睨み付けた。
「あの………お嬢ちゃん、私の部屋で寝てます」
それを聞いた母親は目をつり上げた。
「このロリコン親父、娘になにするのよ」
そう言うと血相をかいて部屋に土足で上がり込んできた。
すやすやと眠っている美紀を見つけるとかけてあった毛布をはぐり娘のスカートをめくった。
沢田は目を背けた。
「なにもしてませんって」
それでも母親は美紀の恥部を確かめることをやめなかった。
誤解を解こうと視線を壁に向けたまま事情を話した。
「お嬢さん、貴女が一晩たっても帰ってこないから、戸の前でを待ってたんですよ。
でもお腹が空きすぎてぐったりしていたから可哀想で飯食べさせただけです。
疑うならお嬢さんから聞いてださい。私はそんな異常者じゃない」
母親は美紀を揺り動かし頬をたたいた。
美紀は薄目をあけた。
母だとわかるとニッコリと笑った。
母親は美紀を抱きおこし聞いた。
「このおじさんに変な事されなかったかい」
「オムレツつくってもらった、すっごくおいしかったよ、それにね」
母親は娘の話を途中で遮り、抱きかかえたまま部屋を出て行こうとした。
沢田はケーキを渡そうと冷蔵庫の上の物をさしだした。
「あの、これを」
「なによ」
振り向きざま母親の肩に掛けてあったバッグがケーキ皿にあたり床に逆さまに落ちた。
美紀は身を乗り出し叫んだ。
「ああ、ケーキが」
母親も何となくそれが娘の為に買われたか作られた物である事を感じ気まずそうにした。
しかし強気の態度は変えなかった。
「ありがとうございました。でももうこういう事はやめてください」
そう言うなり部屋の戸を後ろ手で閉め出て行った。
部屋の床にはつぶれたケーキ、クリームが無惨に飛び散り捨てるほかない。
雑巾とちり取りで片付けるのは何ともやるせない気持ちがした。
そしてもう関わるのは止めておこうと後悔した。
翌朝、出勤の身支度を調え、レジ袋に入れた背広を小脇に抱え玄関で靴を履いていた。
先日、一着しかない背広にカビが生えているのに気づき、出社途中クリーニング屋に
出していくつもりだった。
アパートの住人が階段を下りていく足跡が連なって聞こえる。
沢田は軽自動車での出勤だが、住人の半数には中学高校の子供がいてこの時間の
電車がその足となっていた。
乗り遅れたら大変と髪に寝癖をつけたまま走っていく子供が毎日いる。
親もあきれて何も言わないのだろう慌てて階段を駆け下りていくその子背中を沢田は
その度毎に笑って見ていた。
「さてと、忘れ物は」
最近、物忘れがひどくなった。まだ若いのにと50を超えた同僚にも言われるがこれ
ばかりは年齢に関係ない。
というよりこんな生活だからかああしょうこうしょうという考えることが少なくなり
刺激のない脳みそが死にかけているのだろう。
中島みゆきの曲に『忘れっぽいのは素敵なことです、そうじゃないですか? 悲しい
記憶の数ばかり飽和の量 より増えたなら忘れるより他ないじゃありませんか』
こんな歌詞があったがそれもそうだと今流行の脳トレなるあがきもすることなかった。
だがそんなことを言っても忘れ物を取りに帰るような小学生のようなことはしたくない。
一応は出がけに持って行く物を確認する癖はついた。
そして車と部屋の鍵が一緒になっているキーホルダーを右手に持ちドアの鍵を内から開けた。
すると隣の女の子が泣きはらした目で飛び込んできた。
「みっちゃん」
「おじちゃん、きて、お母さんが大変」
「ごめんね、親父さん今から会社に行かないといけないんだ」
昨日のこともあり、沢田は美紀に背を向け部屋の鍵を閉めた。
けれど美紀は腰に抱きつき、どこにも行かせないと踏ん張った。
二人の横を三軒隣の主婦がゴミ袋をもってすり抜けていった。
「あなた、これ忘れていかないでよ」
アパートから少し離れた道路で妻の声に反応した亭主が振り向いた。
主婦は階段を下りていくのが面倒なのか下まで戻ってきた亭主に
向かったゴミ袋を落とした。
そして全く恥ずかしげもなく再び沢田と美紀の横を通り過ぎ戻っていった。
ただ部屋に入る瞬間美紀におじちゃんと泣きつかれる沢田を不審な目で見た。
「わかったから、でお母さんどうしたの」
「お腹痛いって泣いてるの、血も出てるの、お母さん死んじゃう」
ただならぬ状況であることは確からしかった。
レジ袋を自分の部屋のドアノブにかけ、隣の部屋にあがりこんだ。
美紀の言葉通り真っ青な顔をしてぐったりと横たわる母親がいた。
問いかけても言葉はない、布団はめくれ血で染まったパンティーがシーツに大きな
幾何学模様を作っていた。
おそらく相当量の出血があったのだろ、それに手足が小刻みに振るえていた。
危険だと思った。顔を叩き再度問いかけた。するとかすかに意識が戻ったのかある方向
に向かって手を伸ばした。
視線を手の先にやると使い古された鰐皮のバックがあった。
「これだな」
うんと頷くとすぐまた意識を失った。
バックの中から一つずつ取り出すのもじれったく、一気に逆さにした。
化粧ポーチや財布や派手な下着が畳の上にぶちまけられた。
病院の薬袋らしき物を見つけた。
産婦人科の薬だった。
書かれてある電話番号にかけると受付か看護婦かわからない女性がでた。
「私、沢田といいますが、………」
母親の名前がわからない、しかしすぐに薬袋に名前が書かれていることに気づき
もう一度袋を見た。
浅田 由美子と印字されていた。
「浅田 由美子さんという女性が下腹部から大量に出血されていて、気を失っています。
そちらの薬袋をもっていたんで連絡しました。どうしたらいいでしょ、痙攣もしています」
「浅田 由美子さん ですね?」
そういうと応対に出た女性は電話を保留にした。題名は知らないがモーツワルトの
スローな電子音が沢田の耳に時を刻んだ。
傍らには母親を心配そうに見つめる美紀が早く早くと服を引っ張っていた。
間もなく保留音は消えさっきの女性の声が聞こえた。
「もしもし、すぐにこちらに連れてきてください」
「わかりました」
「場所わかりますか」
「たぶん」
薬袋に書かれている住所は会社に行く途中の駅裏だった。
母親を毛布にくるみ美紀についてくるようにと言った。
部屋の外に出るとといつもの高校生が階段を転げ落ちるように駆け下りていった。
沢田は美紀を膝の上に置き所在なく産婦人科外来の長椅子に座っていた。
出産間近なのかスイカのようなお腹の妊婦が母子手帳片手に幼い息子の手を引き通り過ぎる。
由美子を担ぎ込んだ朝7時10分、院内は朝食の配膳車を押す看護婦だけで閑散としていた。
しかし、8時半ともなるとスタッフがすべてそろったのだろう本格的に病院が動き始めた。
女性だらけの院内、視線さえどこに置いて良いか解らない。
しかし美紀一人置いて帰るわけにも行かない。
今はただ廊下奥の処置室の赤いランプが早く消えてくれるのを願い息を殺していた。
それから10分程経っただろうかランプか消えるより先に引き戸が開けられストレッチャーに
乗せられた由美子が出てきた。
そのすぐ後に首に聴診器を掛けた50過ぎの女医が現れ、母の元に駆け寄る美紀の頭をなでた。
「お母さんもう心配ないからね」
「ほんと?」
「ええ、でも一晩はお母さん病院にお泊まりなるけど我慢出来る?」
沢田も女医に近づきながら頭を下げた。
「ご主人ですか」
「いえ、アパートの隣の部屋の者です」
由美子が母子家庭である事を女医に話した。
自分はたまたま隣に住んでいるだけで深いつきあいではない、今朝美紀が自分に助けを求めてき
たので放っておけずここまでつれてきた。
そう説明すると女医は舌打ちをし歯をかちかちと鳴らした。
「そうですか、困ったりましたね………」
「やはり何か問題でも」
「いえ心配はありません、今は眠ってるだけです」
本来なら由美子の身内に美紀を預けるべきなのだがそのような方がいないとなると病院で預かるしかない。
しかし午後から出産予定の妊婦が4人もいて面倒をみれない。
出来るなら今夜一晩だけ預かってくれないかと女医に頼まれた。
関わらないつもりがこんな事になるなんてと運の悪さに泣きたくなった。
「先生、本当に一晩したら退院出来るんですね?」
念を押すように確かめると女医は小さな声で囁いた。
それからすると由美子は昨日昼間この病院で小さな手術を受けたのだが、その傷口が開いて出血が
止まらなかったという説明だった。
小さな手術、産婦人科、下腹部からの出血、いくら女医が言葉を濁してもそれが何かぐらい男の沢田
にも見当が付いた。
「解りました。この子は私が連れて帰ります。その代わり一晩だけですよ」
いくらお隣さんとはいえ母親の同意が得られないのに子供を預けるのは女医も抵抗ないわけでは
なかった。
しかし、沢田のズボンを掴んだまま放さない美紀を見て二人が全く見知らぬ仲でない事
を感じ、諸々の事に目をつぶり預かってもらう事にした。
「一応名刺か何かいただけますか」
女医の不安はすぐに解った。預かってくれと言いながら疑うのかとカチンと来た。
しかしあらぬ詮索もされたくはない、胸から昨日生クリームを買って受け取ったレシートを取り出し
受付の台に立ててあったボールペンで住所氏名携帯電話の番号を書いて渡した。
「名刺持つような気の利いた仕事していないんで」
そう言うと書かれたデーターが本物である事を女医に確認させるため免許証を広げて見せた。
「いえそこまでは」
「いいえちゃんと確認して下さい」
「あ、はい」
女医はすまなそうに免許証を手にした。
翌日の教えられた時間より30分ほど早めに病院についた。
しかし3時間過ぎても由美子は現れない。
受付の女性に由美子の退院はまだかと聞いた。
今朝方分娩があり、そのせいで朝の回診が遅れ遅れになっていると聞かされた。
そうこうするうちに昼食の準備が始まった。
昨日朝見た配膳車も廊下の奥に見えた。
美紀は母親に早く会いたいのか目をきょろきょろさせ、落ち着きのない子供になっていた。
しばらくすると昨日の女医が病室の方から由美子を連れこちらに向かって歩いてきた。
それも白衣をマントのようにたなびかせながら。
「お待たせしました。今朝」
「受付の方に聞きました」
いらいらしていた。結局昨日は仕事を休まざるをえなかった。
明日は早く退院させるから迎えに来てほしいというどこまでも厚かましい女医の申し出、
1時間くらいの遅刻ですむかと我慢したのにもう昼、今から親子をアパートに送り届けて出社しても
迷惑がられるばかりだった。
「もういいんですか?」
由美子はすまなそうに俯いたまま頭を下げた。しかし答えたのは女医だった。
「ええ、でもまだ無理は出来ないので宜しくお願いしますね」
なにをお願いというのか理解しかねたがそのままにした。
沢田は由美子の手に持たれたハンドバッグと多量の薬の詰まったビニール袋を受け取ろうとした。
由美子は後ずさりした。
「いきますよ、駐車場も混んできてますから」
「いえ、タクシーで帰ります」
「そんな事言われても困ります。私も今日は帰るしか無いんですから我が儘言わないでください」
理由になっているかどうかは解らない。
ただ無駄というか徒労と言うか由美子に振り回されるのがいやだった。
強い言葉にまだ病み上がりの由美子は肩をすくめた。
「みっちゃん、お母さんを連れてきて」
美紀は女医にバイバイをすると母親の手を引いた。
子供に引きずられるように病院の自動ドアを抜けると沢田が後部座席の扉をあけ待っていた。
後ろにはタクシー、運転手は由美子をちらりと見ると早く乗ってくれとでも言いたげに白い手袋の指で
ハンドルを叩いた。
「毛布敷いておいたから横になっていったらい」
こうすると体が楽なのよ、以前父親を病院に送り迎えする時、まだ元気だった母に言われた言葉を
覚えていた。
由美子は言われるがままに後部座席の毛布の上に横になった。沢田はそれを確かめると美紀を助手席に
乗せ車を出した。
「この前はすいませんでした」
「いいですよ、最近そう言う事件多いから、でもこの子よほど貴女が好きなんだね。
作ってあげたケーキすぐにでも食べたいのを我慢して貴女と食べるというんですよ」
「そうですか」
由美子はそれっきり口をつぐんだ。
アパートに帰ってからも体力の戻らない由美子はぐったりと布団に横になったまま動かない。
沢田は昨夜作ったシチューを台所のガスコンロにのせ、それではと部屋を出ようとした。
「待って下さい」
由美子はバッグから財布を取り出しそれを美紀に握らせ渡せと背中を押した。
世話を掛けた礼だと言った。沢田は受け取らなかった。
それから何日かした夜、由美子が部屋を訪ねてきた。具合はもうだいぶ良い今日から店に出る。
この前礼を受け取ってもらえなかったからせめて今週の土曜夕食作るので食べにきてくれないかと誘われた。
美紀が恥ずかしそうに由美子の後ろから覗いていた。気持ちだけ頂いておくと断った。
「そうですか………だめだって」
由美子は振り返り娘の肩に手を置いた。
「おじちゃん、お仕事いそがしいの?」
美紀が悲しそうな目で指をくわえた。
「いや、まあ、えっと」
あっさり負けた。
そしてお誘いを受けた土曜の朝、沢田は買い出しに出た。
ケーキの材料だった。
この前、美紀に食べさせてやれなかったケーキをもう一度作るためだ。
温州ミカンにオレンジリキーュルを混ぜた生クリームたっぷりのホールケーキ。
さして高くない材料で作ったそれは以前店で出していた物とは比較にならぬほどチープな見栄えだった。
しかし、二人の喜ぶ顔を思い浮かべながら作るケーキは普段の退屈な菓子作りと違ってわくわくした。
その夜、約束の時間に訪問したが部屋にいたのは美紀だけだった。
そのうち帰ってくるだろうと2人で待っていると泥酔した由美子が倒れ込むように帰ってきた。
「ごめん、お得意の客に呼び出されて飲んできちゃった。ごめん、この次にして」
「俺はどうでもいい、あんたこの子が可愛そうだとは思わないか」
由美子が帰ってくるまで美紀と話しながら、彼女がどれほど今日の食事を楽しみにしているか知った。
なぜなら普段はコンビニ弁当か簡単な炒め物を出勤用の化粧で忙しい母親の横で一人食べるのが常、
だから母親の手料理と人を迎えての夕食など美紀に取っては年に一度あるかどうかのイベントだった。
いやレベルから言うとお祭りに近いかもしれない。
だから美紀の落胆を思うと沢田は言わずにはいられず罵倒した。
「おじちゃん、だめ」
あの夜のように美紀はまた母に覆い被さった。
由美子ははあ〜と深く酒臭い息を吐き出した。
染めた髪が伸びたのだろう地毛の黒が見え始めた頭をかきむしった。
「もう、どうでもいいよ」
「………」
「こういう女なのよ」
由美子は語り出した、先日降ろした子供はパトロンの子供、避妊もしてくれないから
出来て当たり前、なのに子供は降ろせとにべもない言葉。店でもそれほど客が
付くタイプではなくいつ止めさせられても不思議ではない自分にとって
生活を維持する為にはパトロンとの関係は切れない。
しかし、今のままではまた子供ができる。
なのに産む事はできない。
先が見えているだけに苦しくて仕方ない。
この子さえいなければ自由にどこえでもいける。
そう思うときがある。
可愛くない訳じゃない。
でもその鎖が強すぎるからこそ息が出来なくなる。
もう押さえきれないと娘の前であっても由美子は胸の内をさらけ出した。
そして最後に一言かぼそい声でつぶやいた。
「もう、つかれたは」
話が難しすぎて美紀は理解できていないのだろう、いつもの愚痴だと母親の髪の毛をなでる。
沢田はそれ以上なにもいえずよった由美子を抱き起こして部屋の中に入れた。
水を与え一息ついた頃、美紀がそわそわしているのに気が付いた。
目は沢田が作ってきたテーブルの上のケーキを見ていた。
子供とは嫌な事は直ぐ忘れるというのか、そう言うあどけなさが救いとでも言うのか、由美子と沢田は笑った。
さっそくケーキを切り分けるともう待ちきれないと美紀は食べ始めた。
沢田は由美子にもホークを渡した。
いらないと首を振る彼女に口にべったりとクリームを付けた美紀がいった。
「お母さん、おじちゃんの作ったケーキ、とってもとーても美味しいよ」
「そう」
「食べよ、一緒に」
由美子もホークをとり口紅の剥げた唇にケーキを運んだ。
そして明らかに以外だという表情で沢田の顔をみた。
「あら、美味しい」
紅茶をいれる沢田に仕事はケーキ屋かと由美子は聞いた。
3年前にケーキ屋をつぶした事を隠さず話した。
こんなに美味しいのに何故潰れたのかと聞き返された。
自分でもよくわからない。
しかしまえ作っていた物は今作ったようなケーキではなく見た目にも凝った最上級の材料で作っていた自慢した。
しかしそんな話など耳に入らない美紀はもっとほしいと皿を手に持った。
ケーキだけで美紀はとても幸せそうに見えた。
由美子も安らいだ目をしていた。
「おいしいか?そっか」
「とってもとーても」
「じゃあ今度もっと美味しいケーキつくってあげるぞ」
沢田は胸を張った。
一週間後の日曜、隣の親子がいる事を確かめた上で沢田は朝早くからケーキ作りを始めた。
3時間後、充分手間とお金をかけたチョコレートケーキが完成した。
出来上がりに見とれながら腕は鈍っていないとニヤリとした。
改心の作を披露しようとお隣のドアのを叩いた。
美紀は部屋の奥から飛び出してきた。
後ろから由美子があなたも物好きねといいたげに現れた。
しかしその表情はまんざら期待していなかった訳でもないというように見とれた。
沢田は部屋に上がり込むと出来たてのケーキをテーブルの真ん中に置いた。
鏡のように光を反射するチョコレートのコーティング、ほのかにコニャックの香りが漂ってくる。
開店当時の沢田の自信作だった。
ナイフを入れると台とヘーゼルナッツのクリームが何層にもなってあらわれた。
美紀も由美子もこの前とは全く違う威厳さえ漂うケーキを前に瞼を瞬かせた。
そして緊張しながら母は子にケーキを取り分けた。
美紀は静かになり微妙な顔をした。
たまらず訪ねた。
「どうだい?」
「ん〜ん、この前のケーキの方が空き」
由美子も美紀のケーキにホークを入れ一口口に入れたあと同じ表情をした。
「美味しいんだろうけれど、なんか正直わからない」
君たちの味覚が貧弱なんだよと言い返したくなった。
しかし、このまえ、母子の喜ぶ顔を見ているだけに反論は自分へ帰ってくる。
彼女たちの口に合わない事は認めざるを得ない。
「そっか」
落胆する沢田にに母親はいった。
「この前のケーキはこの子に作って貰えたんだなって一口食べて解ったのに
このケーキはなんかよそよそしくて、つまらない」
つまらないという言葉にカッときた。
しかしその反面やっぱりと思った。
店をやっていたとき自分の技術に絶対の自信を持っていた沢田はこれが本物の
おいしさだと客にケーキを突きつけていたような気がする。
食の進まぬ美紀を見て沢田は情けなそうに呟いた。
「店が潰れた訳がわかったよ」
そういったきり沢田は部屋をあとにした。
翌日の朝、美紀が母親と共にケーキ皿を返しに来た。
浮かなそうな顔の沢田をみて母親は誤った。
「ごめん生意気な事いって、ほら私考えなしにいっちゃう女だからさ、気にしないで」
「いや、本当の事いってもらってよかったよ」
「ねえねおじちゃん、もう一回この前のケーキつくって、私あれ好き」
「ごめんね、おじさんケーキ作るの止めるよ」
「ええ、なんで」
美紀はいやいやをした。
由美子は弱り顔で首を傾けた。
「なんか責任感じちゃうよ、ねえ作らないなんて言わないでよ」
「君たちに言われたからじゃないんだ」
「じゃなに?」
昨日、美紀の顔を見て思い知らされた事を打ち明けた。
「でなんでやめるの?気付いたなら直せばいいじゃない」
「直す?店は潰れて借金まみれ、やり直すなんて出来ないさ」
裸の王様が自分のみっともない姿に気づいたときの恥ずかしさ、店を潰した
後悔の何倍もの強さで職人のプライドが砕け散っていた。
「でも、この子の為に作るぐらいいいじゃない」
「納得できず引きずっていたけど、もう綺麗さっぱり忘れたいんだ、いい切っ掛けさ」
由美子がいくら説得しても沢田はうんとは言わなかった。目を伏せ、うるさそうに
鼻をすすって見せた。
「そう、ならもういいは」
そう言うと由美子は美紀の手を引き部屋を出て行った。
1月ほどして親子はアパートをでていった。沢田の郵便ポストに
美紀からの手紙が入っていた。大きな文字で元気よく書かれていた。
いつかケーキ屋さんをしてください。そしたらお手伝いに行くね。
それから2年の月日が過ぎた。
店を潰してから5年が過ぎていた。
沢田は相変わらずお菓子工場でベルトコンベアーの上を流れていくお菓子をみつめていた。
ただ前と違うのは味付けや製法に関してあれやこれや口を出す事は止めた。
指示された事を指示されたとおりきちんとまじめにやる。
もともと仕事に手を抜く性格ではなかった。
沢田に現場責任者は正社員にならないかと誘いを掛けてきた。
正社員になれば給料は3割り増しになり、年二回の賞与ももらえる。
そうなれば残り500万ほどになった借金も2年もかからずに返済し終える。
しかし沢田の心の中では借金が終わればもうお菓子に携わる仕事を辞めようとおもっていた。
だから申し出を受けるか決めかねていた。
そんな沢田の家を日曜日訪ねてきた女がいた。
アパートを出て行った由美子だった。
水商売の派手さは消え反対に一気に老けた感じがした。
入れてくれと言うので部屋に入れた。
ひとまずお茶をだし、沢田も薄い座布団に座った。
由美子はバックから銀行通帳を取り出しテーブルの真ん中に置いた。
「どういう事?」
沢田は由美子を見た。
枝毛だらけの髪をかき上げる彼女。
「1000万あるの、これでケーキ屋を開いて」
受け取る訳にもいかないしケーキはもう作らないと言ったはずと突き返した。
由美子は通帳を見なかった。
というよりそんな物はどうでもいい、そんな虚ろな目だった。
「あの子死んだのよ」
あのあと美紀の父親から娘をくれという話があった。
もともと不倫で出来た子供、男の妻にどうしても子供が出来ない、血をわけた
跡継ぎがどうしてもいる。
認知をして正式な子供として向かい入れるからと言う頼みだった。
男は由美子に1000万円の金を提示した。悩んだ末、同意した。
こんなどうしようもない母親といるよりは生活の安定した父親の元に引き取られた方が
子供の為だと思ったからだ。
当然美紀は泣いて嫌がったが父親の元に追いやった。
「売ったのよ」
しかしつい一ヶ月前、父親から由美子の携帯に電話があった。
娘が危篤だから早く来てくれというのものだった。
訳がわからず病院へ行くと集中治療室で全身に包帯を巻かれた小さな体が横たわっていた。
ベッドの名札には忘れようとして忘れられずにいた我が子の名前があった。
しかし由美子にはそれが信じられなかった。
看護婦に背中を押され近寄ると恐る恐る娘の名を呼んでみた。
『おかあちゃーん』
か細い声が返ってきた。
間違いなく美紀の声だった。
「痛いか?」
「うん」
あまりの痛々しさに由美子は目を背けてしまった。
なぜこんな事になったのだと父親にくってかかった。
するとすまないと頭を下げ消え入るような声で話し始めた。
男の妻、娘の義理の母親が虐待していたというのだ。
そして昨夜自分が帰ると娘が台所に横たわっていた。
その傍らで妻が鍋を持ったまま立ちすくんでいた。
妻は一年も経とうとするのに未だ自分になつかない美紀に苛立っていた。
いくら愛情をかけても解ってもらえない、それどころか何かあると由美子のところに帰りたいと
泣く娘、高音質の泣き声に耐えきれず衝動的にコンロに掛けてあった鍋の油を掛けてしまった。
今、妻は警察で事情を聞かれているという。
由美子は胸が張り裂けそうになった
自分の名を恋しがる娘の哀れな姿。
自分はなんと愚かな事をしてしまったのだろうか。
泣き崩れる由美子に美紀が息も絶え絶えに言った。
「おかあちゃん、あのおじちゃんのケーキたべたい」
「おかあちゃんが つくってもらうからね 早く元気になりな」
「でももうケーキつくらないって」
「大丈夫、作るよ、お母ちゃんが作らせるから、だっておまえケーキ屋さんのお手伝いするんだろ?」
美紀は小さく頷き包帯から僅かに覗く口元をゆるめた。
しかし、その夜美紀は息を引き取った。
3度のやけどが全身に広がっていてとても助かる状態ではなかったらしい。
荼毘に付された美紀の骨はあまりにも小さな骨壺となって由美子の元へと返された。
由美子は愛人とも別れ店も止めた。
今は息をするのもつらいと胸の内を打ち明けた。
「死のうとしたの」
包帯の巻かれた手首をなでた。
しかし心配した店のママに見つけられて死にきれなかった。
病院のベットで娘の最後の言葉を思い出したという。
「お願い、あの子のためにケーキを作って、そしてお店開いて、お願い」
「自信ないよ」
「あの子はあなたのケーキが大好きだったの。忘れられないくらい好きだったの、
だからどうか作ってやって。じゃないとあの子の笑い顔が私の中から消えていくの、あの嬉しそうな
幸せそうな笑顔がきえちやうの」
由美子は通帳を握りしめ声を振り絞った。
半年後、街角に一台の黄色のトラックが止まっていた。
沢田の移動ケーキ屋だった。
1000万円の内から500万を借金に返した。
しかし残った500万では一軒家の店屋はとても開けなかった。
昔ならしゃれた店構えでなくてはだめだと言っていたであろう沢田だったが、おんぼろトラックを改造
したこの移動ケーキやで額に汗を滲ませ働いていた。
その傍らでは由美子が接客をしていた。
「すいません、ミカンショート二つ下さい」
女児の手を引いた若い母親が娘にこれでいいかとショーウインドウのケーキを指さした。
「はい、ミカンショートをお二つですね」
この店の一番人気は美紀が大好きだったあのミカンショートだった。
袋に入れられたケーキを受け取った女児は満面の笑みを浮かべた。そして早く帰ろうと母親の手を引いた。
嬉しそうに話しながら帰って行く親子の背中、沢田と由美子は二人の後ろ姿をいつまでも見ていた。
2007/04/07(Sat)22:04:01 公開 /
たつや
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