『公園の下の僕の部屋』 ... ジャンル:童話 未分類
作者:カメメ                

     あらすじ・作品紹介
 悲しい事があった日、10歳の僕は公園のベンチで一人で本を読んでいる。そこにモグラガエルがやってくる。 

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お話の1 モグラカエルと10歳の僕

 今日なんか来なければ良いのにって思っていたのに、朝は来てしまおうとしている。僕は一日寝られなくて、読みかけの「古事記の研究」を持って家の前の公園に行く事にする。まだ、それでも朝はやって来なくて、うっすらと明るい。公園でベンチに座っているのはなんだかとても良い気分。でもこのまま朝が来てしまって、今日やらなければならない事を思うと僕は昨日とは比べ物もならないぐらい悲しくなる。僕はただどうして良いか分からないんだ。だから僕は本読むことに集中しようとする。いつもと同じように考えれば、いつもと同じようにただ一日が過ぎていくだけなんじゃないかって思う。ただ、そうするだけでいいんだ。僕は一生懸命「古事記の研究」集中しようとするけれど、文字は僕の頭で意味を持とうとしてくれない。僕はぼんやりと本をながめ、空を見上げ、夜から朝になろうとする空気の中に座っている。

 ヤマトタケルのついて考えていると、声が聞こえてくる。
「ねえねえ」
 僕は周りを見渡すけれど誰もいない。
「ここだよ、ここ」
 声のありかを探すけれど、何も見えない。
「君の下、君の足元」
 僕はそっと本を閉じ、僕の足元を見つめる。そこには500円ぐらいの穴が開いてあって、その穴の中から声がしている。
「気づいたね、うん」
 穴の中からカエルが体半分現れる。
「何を読んでいるの」
 僕は今起きている事を考える。カエルが居てしゃべっている。
「君に耳が付いているのか知りたいよ。ねえ、モグラガエルが人にしゃべりかけるなんて、そうそうあるもんじゃないんだよ。これは名誉、うーんと、栄誉、うんーと、誇り、うーんと、とにかくだよ、すごい事なんだよ」
 僕はモグラガエルを見つめる。
「あ、うん。なにせしゃべるカエルと出会ったのは初めてだったから、きっと」ックック、とモグラカエルは鳴く。
「それはそうだろうね。なにせモグラガエルは特別なカエルだから。でもまあ、全てのカエルはまた特別だとも言える。分かるだろう、どんなカエルだってカエルアイディンティー、うーんとカエルアイデンディゾール、うーんとカエルパーソナルティー、うーんとそうそう、カエルとしての個性を持ち自分の存在をカエル的誇りで持って満たしながら生きているんだ」
 僕はとりあえずうなずく。
「まあ、つまりだよ。カエル世界におけるカエル存在としての、カエルディーゼルによる、うーんと、まあ、カエル的な発想による人生の探求者なんだよ」
 モグラガエルの話は幾らでも続きそうだったから、僕はまた本に目を向ける。モグラガエルは延々とモグラ世界がどうした、カエル世界がどうしたかを話し続けている。僕は2,3度アクビをする。
「ああ、そうだそうだ、だからさ、君は今どんな本を読んでいるのかって事を知りたかったんだ」
 僕は本の表紙をモグラガエルに見せる。出来るならこれ以上モグラガエルと話をしたくなかった。
「君はまだ小さいのに随分と本が好きなんだね。愛読者、うーんと、本の虫、うーんと本中毒、ックック、うーんと、まあとにかく本が好きなんだ。その本は面白い」
 僕は首を振る。モグラガエルはすっかり口を膨らませている。
「面白いとも面白くないともいえないよ。すんごい面白いとも、すんごく面白くないともいえない。大抵の本と同じに」
「なるほど、なるほど。まるで人生のようにってね。君はなかなか見所があるよ。君なら博士が喜ぶかもしれない」
 モグラガエルはしばらく口を膨らませて黙り込んだ。僕は静かになって少しほっとする。しゃべるカエルがいるのは良いけれど、うるさいカエルと話すのは楽しいとは思えない。
「決めたよ。ちょっと相談してくるから。君はここで本を読んでいたらいいよ」
 僕は言われなくてもそうするつもりだったので、また黙ってうなずく。モグラガエルが穴の中に消えていき、しばらくして穴そのものも消える。

またベンチに一人になって昨日の事を考える。僕はずーっとうつむいていて、ずーっと何もしゃべらなかった。いろんな知らない人がいて、僕はその中でなんだか一人ぼっちで、僕はただただ黙っていた。父さんはなんだかとても疲れていて、そんな父さんを見ているのもまた寂しかったんだ。
「よかったね」
 モグラガエルの声がまた聞こえてくる。
「本当に良かった、君の事を話したら博士は大喜び。なにせ博士は本を好きな子供が大好きなんだから」
 足元を見るけれど、こんどはどんな穴もない。
「連れて行ってあげるよ。君は選ばれたんだよ」
 ックック、ックックとモグラガエルの鳴き声だけが聞こえている。だんだんとその音が大きくなって、いつかその音に僕はすっぽりと包まれている。ックック、ックック。
 そして大きな穴が現れて、目の前が真っ暗になる、僕はベンチに座ったまま下に落ちていく。

お話の2 電気柴犬と博士の話
 
 まるで浮いているようにゆっくりゆっくりと落下している。僕はしっかりと本を抱きしめる。何も見えないって事がこんなに不安なものだったなんて、僕はとにかく声を出す。「あー」だったり、「ねえー」だったり、とにかく言葉を絶やさないように気をつける。もしも声を絶やしてしまったら、今度は音までなくなってしまうかもしれない。こんな時はモグラガエルのックックって声でさえ聞きたくなる。でもモグラガエルの声さえしない。自分の声だけ聞きながら僕は地面の下に落ちていく。

「お疲れさま」
落下が止まったかと思うとようやく声が聞こえる。
「ようこそ」今まで聞いた事もない声。
「モグラガエルが言っていたのは君の事だね」まだ真っ暗で何にも見えない。
「ねえ、本当に博士に会いたいって思ってるの」なんだか心配そうな声、声はドンドン小さくなる。
「僕に出切る事があるとうれしいんだけど、何か必要な事ある」
 ベンチがスッと消えてしまったようで、僕はいつの間にか地面に尻餅をついている。
「もしも出来るのならだけど、まずは明るくしてもらえるとうれしいな。だって僕何にも見えないから」
「ああ」
声が明るくなる。
「うれしい事が出来るのって大好き。それなら僕にも出来るよ。せーーの」
 ぱっと目の前が明るくなる。最初は眩しくて、ただ真っ白にしか見えない。それからだんだんと見えるようになってくる。そこは僕の住んでいるマンションの部屋とそっくりで、ちょうど僕の部屋みたい。机があって、タンスがあって、本棚には本が入っている。ただ一つ違うのは部屋の真ん中に体中が光っている柴犬がいる事。
「これで良かったのかな。これでよろこんでもらえた」
 柴犬は僕に笑いかけて見せる。
「う、うん。ありがとう。その、君の名前というか、なんというかあるのかな」
「柴犬だよ。僕は柴犬」
「それが名前」
「うん、みんなそう言うからね、そうだと思うんだ」
 僕はとにかくありがとうと繰り返す。柴犬はとっても喜んでいるみたいで、尻尾を激しく振っている。
「それで僕は君に説明をするように言われているんだ、博士にね。ただ普通は自分から望んで博士のところに来たりしないから。モグラガエルはたまに強引な事するからね」
 僕は話をする柴犬を見つめる。カエルがしゃべる事があるんだから、柴犬が光ったりしゃべったりする事だってあるかもしれない。
「その、良くわからないんだ。カエルとしゃべっていたら、真っ暗になって、ここについて」
「うんうん、じゃあ、君は博士とは会いたくない」
 僕は僕の部屋にいる、ただ話す柴犬もいる。僕はなんだかまださっぱり分からない。何かを理解したいとは思うけれど、何から理解するのが良いかも分からない。
「その、さっぱり。ねえ、質問していい」
 柴犬はまた激しく尻尾を振る。
「君が望む事なら僕はうれしいよ」
「まず、ここは僕の部屋」
「そうでもあるし、そうではないよ。ここは博士のものだし、君の部屋みたいな博士の部屋」
 僕はやっぱり分からない。僕が喜ばないのをみると、柴犬はシュンとなる。耳がペタンと下に落ち、なんだかとても寂しそうにする。
「あ、うん。そのー、うん。つまりここは博士の部屋なの」
「そう、そう。そうなんだ。ここは博士の世界、博士が絶対」
「博士って何、モグラガエルや君と関係があるの」
 柴犬はますます寂しそうになる。何だか食べたい餌をもらえなかったみたいに。
「博士は博士、僕は僕。それだけなんだ。ただ博士はたまに僕らだけじゃなくて違う人とも会いたくなるみたい。それは僕も同じ、だから僕は君と話せてうれしいよ。ただ博士はね、うん、そうだ話すだけじゃなくてね」
 柴犬は僕を見る。
「ねえ、君は僕の事好き」ととても不安そうに聞く。
 僕はモグラガエルと話したばかりだったし、柴犬が親切そうだったから「うん」と言う。柴犬はまた激しく尻尾を振る。
「僕もだよ。僕も君が好き。だから博士の事言うね。博士は君の頭をチューっとしたがると思うんだ」
「チューっと」
 柴犬は尻尾をさげて、下を向く。
「う、うん。チューっとだよ。そうやってね、君の脳みそからいろんなものを吸い取ってしまうんだ」
僕は首を振る。いくらなんでも脳みそをチューっとされるなんて嫌だし、理由も思いつかない。チューっとはされたくない。
「でも、僕は君を博士と会わせないといけないの。それが僕の言われてる事」
「嫌だよ」
 柴犬は首を上げる、徐々に体の光が小さくなる。
「分かるよ、でももう駄目なんだ。僕の光が弱くなってるから、もう上には行けないの。博士に会うしかないんだよ」
 柴犬はそう言うと、ドアのところまで歩いていってそっとドアを開ける。
「ごめんね、ごめん」
 そう言うとドアの先の暗闇から人の歩く音が聞こえて、それがだんだんと大きくなってくる。柴犬がただの電球に形を変えてしまい、その人は入ってくる。

3 髪のきれいな女の子とスパゲッティー

「ねえ、こんにちは」
 部屋の中に入ってきたのは髪の長くてきれいな女の子。彼女はにっこりと笑っている。僕はなんだか随分と前から知っている気がする。僕と同じぐらいの年齢、少し丸い顔。
「君ってモグラガエル言っていた子よね」
 モグラガエルの名前を聞くとなんだか腹が立つ。でも彼女を見ていると少し落ち着いてくる。
「はじめまして、こんな小さな男の子が落ちてくるなんてね。なんだか久しぶり」
 彼女は舌をペロッと出す。薄暗い室内がちょっとだけ明るくなったような気がする。女の子のこんなポーズ、僕はどこで見たのかを考えている。
「あなたはこれから博士と会う訳ね。あなたは知識が好きなの」
 僕は女の子の少し茶色がかった目を見ている。
「本は好きですよ」
「本ね。いろんな本を読む訳ね」
「ええ」
 女の子は何がおかしいのか、大きな声で笑う。そして僕の手をぎゅっと握る。
「いろんな本、いろんな本が好きなの。それは博士が喜ぶわ。私もいろんな本を読んだのよ。そうねー、ハイドン・グランバルンの小説とか、スキル・コーエンの構造主義の本とか、うーん、すんごいHな本とかもね」
 僕は聞いたことのない名前ばかりで、何も答えられない。それにHな本もまだ読んだといえるほどちゃんと読んだ事はないと思う。
「まあでも、あなたはとは気が合いそうだわ」
 僕も女の子に対してはとても優しい気持になれる。ずーっとずーっと前からいろんな話をしていたような、そんな気持。女の子は目をそらして、ゆっくりと真剣な顔を作る。そしてまたゆっくりと僕に目を合わせる。
「あなたは、ここにずっといて、ずっと本を読んでいくの。それを望んでいるのかしら」
僕は顔を振る。まだ何も決めていないし、考えてもいない。
「その、なんていうか。いきなりここに落とされてしまって、それでうん、いきなりここにいるから」
「また、モグラガエルが勝手に判断したのね」
やれやれと女の子はため息をつく。少し大人っぽくってちょっとドキッとする。
「つまり、チューっとされるために来たわけではないのね。永遠に本を読んでいるだけでいたい訳でも、モグラガエルの仲間になるのも嫌って訳」
「チューっとされるなんて嫌。なんか痛そうだし。それにモグラガエルは嫌いだから」
 僕はなんだか女の子に促されている気がしてきっぱりと言う。チューとされるのも嫌だけれど、モグラガエルみたいになるのはもっと嫌だ。女の子は目だけ笑う。まだ真剣な表情のままでいる。
「なら、ここから逃げないといけない。チューっとしに来るのよ、博士が」
 
 僕はどうしたら良いかなんて分からない。昨日もそうだったし、これからの事を考えても同じ事だと思う。僕は結局どうしたら良いか分からないんだ。嫌な事があったり、これから嫌な事に出会ったりしたときにどういたら良いんだろう。
 昨日だってそうだ。父さんは何も言わなかった。ただ寂しそうにしていたんだ。悲しそうで辛そうで、僕と同じようなんだと思った。何をして良いのか、何を僕に言ったら良いのか分からないんじゃないかって。僕と同じだと思うと、父さんの事をどう考えてよいのか分からなくなってしまって、僕はそれがなんだかとっても悲しい事みたいに思えたんだ。

「じゃあ、あなたはチューっとされたくないのね」
 声を小さくして女の子は言う。そしてゆっくりゆっくりとうなづく。
「いい、博士と会わないでって訳にはいかないわ。博士しかベンチをここに下ろせないから。ここから出たいのよね」
「うん」
「そう、なら博士に会って言うのよ。ベンチの上にもう一冊本を忘れてきてしまったって。そうね、ヴィドゲン・コーラーの理性批判とスパゲッティーなんて言うと博士は喜ぶと思うわ」
「ヴィドゲン・コーラー」
「そう、第2次世界大戦下のポーランドの哲学者よ。いい、しっかり覚えておくのよ」
「うん」
 僕はとにかく覚えておく事にする。他に頼れるものがあるとは思えない。そしてまた強く手を握る。とても温かくて、優しい。
「良く覚えておいてね。じゃあ」
 丸い顔をもう少し丸くしてにっこり笑うと、女の子はすーっと消えてしまう。しばらくして電球になってした電気柴犬がまた姿を戻す。
「良かった、てっきり博士だと思ったから」
尻尾がゆらゆらと動く。
「でも、不思議だよ。あんな女の子初めて見たんだ。誰なんだろう」
 うーんと電気柴犬は考え込む。電気柴犬は僕に目を向けるけれど電気柴犬に分からない事を僕に分かるはずもない。なにせ、僕はここで起きている事全部が不思議なんだから。
「悪い子じゃないとは思うんだ。話していてそう思ったから」
「うん、うん、そうだよね。きっと僕の事も好きになってくれそうだし。あの女の子はとてもよい子だよ」
電気柴犬は力いっぱいに尻尾をふる。

「楽しそうだね」
ドアの方から低い声がする。電気柴犬は「博士」だと言い、電球にまた姿を変える。
「入るよ」
そして、ドアがバンと開き、博士が入ってくる。

第4話 本の山とドアの外からの声


 やあ、これはまた麗しい少年じゃないか」僕の体の半分ぐらい、それに半分は顔。顔から直接手足が生えているみたい。
「良く来てくれたね。いやはや、ここまで利発な子だとは聞いていなかった。これは嬉しい誤算だというべきだろうね」
 大きな顔に大きな口を動かして博士はしゃべる。時々紫色のつばが飛ぶ。大きな目は赤みがかかっている。
「あまり緊張する事はないんだよ」にやりと笑う。背中がぞっと寒くなる。
「君は、いやはやお客人かね。我が王国のお客人。本は毎日読み放題。好きな知識を毎日毎日頭につめこめる。好きな物だって食べたらいい」
 ポンと博士が手を叩くと、ドアから足の生えたお皿達が入ってくる。上にはお寿司や焼きソバが乗っている。博士はお皿から焼きソバを手で取り、1口で食べてしまう。グフッグフッと焼きソバを飲み込んでいく。
「君の好きなものを言えば良い、何でもね。お寿司でも焼きソバでも、素敵なステーキでもね」
またにやりとする。
「君は何でも本を読める。好きな本を言ってもらえれば、さっきみたいにまた用意しよう。マルクスでもサルトルでも、フーコーでも何でもね」
 お皿達は1度外へ出て、今度は本を載せてやってくる。ローマ帝国興亡史や実践特許申請の手引きやいろいろな本が僕の前に置かれる。本はどんどん運ばれて来ていつの間にか、僕の前に本の山が出来ている。
「お客人。君にしてもらいたい事は一つ、たった一つだ。その本から得た知識を少し私に分けてもらえたら良い」
「チューっとの事ですか」
「どこかにおしゃべりな馬鹿がいるようだな」
博士は電球を見つめる。電球はブルブルと震える。
「まあ、そうだな。ちょっとだけ頭を吸わせてもらうんだ。なーに、怖がる事はない。大きな蚊に刺されるようなもんだ」
博士は指で蚊が刺す真似をする。
「それでチューっとされるとどうなるんですか」
「そっちの心配をしているのか。お客人、そんな心配ならいらない。知識と一緒に不安や恐れや寂しさなんかも吸い取ってあげる事もできるからね。また本を読みたくなる、本をずーっと読んでいたくなる」
博士はクルリと回り楽しそうに踊る。
「君はたーくさん本を読み、その少しを私に与えてくれれば良い。不安も寂しさも恐怖もない。あー楽しい安住の地。会いたい人にだっていつだって会えるさー。君は選ばれた人間なのだよ」
 電球が少しチカチカとする。電気柴犬は何かを言いたがっている。僕は女の子の言葉を思い出す。僕は何も分からない。ただ何も決めていないのに、何かを決められてしまうのは嫌だ。
「その、もう1冊本を忘れてきてしまったんです。ベンチを降ろしてもらいたいんです」
「本。本だって。ここにいくらでもある」
「スパゲッティー理論の本なんです。ヴィドゲン・コーラーのポーランドで1冊しかない本なんです。えーっと、正しい思考法とスパゲッティーの関連について命題論理学を使って書かれている本なんです。挿絵はかわいいし、その手に入る本じゃないんです」
 博士は本の山を見つめる。そんな本は見当たらない。手をパンと叩き足の生えたお皿が入ってくる。博士はお皿といくつか話をする。そして博士は首を振る。
「なるほど、そんな本はここにはないようだ。なかなか面白そうな知識が得られそうだ。ふーむよろしい、ベンチを降ろそう」
 パンと手を叩くとベンチがゆっくりと降りてくる。でもベンチの上には何も乗っていない。僕だって何かがあるかなんて思わない。
「はてはて、お客人。何も見当たらないが」
 ベンチに座れば何かが起こるかもしれない。僕はベンチの方にゆっくりと歩く。
「おかしいです。確かにあったはずなのに」
 ベンチに手を置き、上、下と見ていくふりをする。博士は半分笑い、半分怒っているような目で僕は見ている。
「公園に忘れてきてしまったのかもしれない。一度戻ってみようと思うんです」
僕が言い終わらないうちに、博士は僕の手を取っている。とても冷たくて嫌な感じ。
「それは出来ない相談だ。君だって本当はもう戻りたくないのだろう。ちゃんと分かっているよ。安心したまえ。戻ればまた嫌な事を考えないといけない。また悲しい思いをしなければならない。だからここに来たのだろう」
 もうすっかり夜は明けてしまっているのだろう。今日しなければならない事を考える。今日しなければならない事を考えて、今日分からなければならない事を考える。これから何度も何度もこんな思いをしなければならないんだ。
「だけど」
 僕は僕の出した声を確認する。だけど、だけど何をしたら良いんだろう。
「さあ、最初のチューっとをしようじゃないか。お客人」
 僕はだけどとまた考える。だけど、僕はもう何かを考えるのが嫌になっている。頭を博士に出そうとする。
「待って、待って」
 ドアの外から声がする。温かい声。あの女の子だ。
「博士、お久しぶりね」博士はドアの方に目をやる。
「あれはまだいたのだな」
 そうしてドアをバンと開ける。

5 脱出と今日やる事

 女の子は優雅にドアから入ってくる。にっこりと優しく笑いかける。
「まだいるのか。お前はまったく役に立たん。本も読まないし、何の知識も埋め込めん。まったく役立たずだ」
 女の子は電球を軽くなでる。電気柴犬がゆっくりと姿を現す。
「この子はここにいる子ではないわ」
「はは、まったくでたらめだな。まったくくだらない事ばかり言う」
 女の子はお皿達と何かを話している。
「そのスパゲッティーの本がドアの外にあったものだから。やっぱり見せておいた方が良いかって思って」
「それなら取ってこさせよう」
 お皿達から足が引っ込んでしまう。普通のお皿に戻ったみたい。
「その、女の子なのよ、お皿達も。だからいろいろ疲れているみたい。いろいろあるから」
 博士は女の子を睨みつけている。顔が赤くなっている。
「またくだらない事を。まったくくだらん。それなら私が見てみよう」
 女の子はまたゆっくりとドアまで歩き、ドアを開ける。そしてドアの先を指差す。博士は女の子の側まで行き指の先を見ている。女の子は電気柴犬に目で合図をする。けれど、電気柴犬は首をゆっくり振る。女の子は声に出さないで「だ、い、す、き、よ」と言う。電気柴犬は首を一度だけ縦に振り、博士に体当たり。博士はドアの外に転がっていく。
「さあ、準備OKね」
 鍵を閉めて女の子はまた笑う。電気柴犬はぶるぶる震えている。博士のうなる声が響く。
「まったくふざけている。すんごいお仕置きをしよう。さあ開けるのだ」博士の声にびっくりしてしまい、電気柴犬が光を失う。
 「怖がらないで」少しだけ光が戻る。だんだん、だんだんまた光が戻ってくる。女の子は振るている電気柴犬を強く抱きしめる。
「大丈夫よ。もうチューチューされる子を見たくないでしょう。やりましょう、あなたなら出来るの」
 電気柴犬の顔から少し恐れが消える、ちょっとだけ大人になった電気柴犬がドアを押さえる。女の子と僕にベンチまで行くように言う。
「これから5まで数えよう、すんごいお仕置きのカウントダウンだ」
 僕と女の子はベンチに座る。
「祈るのよ」
 女の子は僕の耳元で小さく言う。僕は祈る、上に戻るように。
「5」
 博士の大きな声。ドアがバンバンと揺れる。僕は必死に祈るけれどベンチは動かない。
「4」
 女の子は僕の手を取る。
「3」
 鍵が壊れる音がする。
「強く、強くお願いするの。大丈夫、絶対に戻れるのよ。ちゃんと大人になる事が出来るの」
 僕は女の子の目を見つめる。まだ小さな僕がそこに映っている。僕は女の子が誰なのかはっきりと分かる。
「2」
 電気柴犬は必死にこらえている。けれどドアは少しづつ開いている。博士の手が中に入ろうとしている。僕と女の子は祈る。今はそれに集中するかしかない。
博士の手がドアの隙間から見えてきたとき、ベンチがフワリと浮く。僕は「やった」と小さく言い、女の子を強く握る。女の子は「しっかりね」と寂しく笑う。
「1」
 電気柴犬は飛ばされてしまう。博士の体が入ってくる。さっきの3倍ぐらい大きくなっている。女の子が今度は強い顔で「大丈夫よ」と言い、ベンチから飛び降り博士の手にかみつく。博士の足には電気柴犬がかみついている。僕に「大好きだよ」としっぽで言っている。僕も降りようとするけれど、体が動かない。博士が女の子を振りほどいているうちに、ベンチはすごいスピードで上へと登っていく。博士の声もだんだんと小さくなって、ベンチのスピードが上がり続け、僕はいつの間にか気を失ってしまう。

 僕はまた公園にいて、ベンチに座っている。鳥と虫の声が聞こえてきて、朝が始まろうとしている。
「ここにいたのか」
 疲れた顔の父さんが僕の前にいる。
「眠れなかったんだな」
 僕は黙ってうなづく。何かが起こったんだと僕は思う。ただ、それは誰かに話すような事じゃないとも思う。
「父さんもだ、同じだな」
 父さんは小さく笑う。父さんはもっとずっと大きいんだって思っていた。
「いろんな事があるからな」
 父さんは僕の横に座る。それからしばらく何も言わない。僕の顔をたまに見て、ゆっくり触ったり、なでたりする。とても弱くはあるけれど、とても温かい。
「母さんに助けてもらったんだ」
 僕は小さな声でしゃべりはじめる。父さんは真剣な顔で僕を見ている。今まで僕に向けた事のない顔。僕は公園の下で起きた事を伝える。父さんには話したいと思う。父さんに知ってほしいって思う。
「僕は何にも出来なかったんだ。女の子に何にも。まだ下にいるんだよ。きっと、ずっと」
 父さんは最後まで真剣で、それからゆっくり僕の頭をまた触る。
「どうしようもない事もある。どうしようもない出来事も。父さんもそんな事に囲まれて生きている」
 それから父さんは僕を抱きしめる。僕はなんだか電気柴犬にみたいだと思う。それからなんだか悲しくって泣く。母さんが死んだ日も昨日の通夜も泣いたりしなかった。僕は何にも分からなかった。何をどう考えたら良いかも分からなかった。
 でも今僕は泣いている。しばらく泣いていて、そうして僕は理解する。モグラガエルも博士も電気柴犬もいないんだって事。そしてこれから生きていく世界に母さんがいないんだって事を。今日、母さんを焼くんだ。だから今だけは公園の下であった事を本当だって思って良いんだって思う。きっとたまにはこれからも公園の下にいる女の子の事を考えても良いんだって思うんだ。






2007/04/05(Thu)22:45:06 公開 / カメメ
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■作者からのメッセージ
 小さな冒険談みたいなを作ってみたくて、好きに話しを進めていたものです。1話づつで、子供が夜寝る時に話せるようなものを意識しました。
 紙芝居みたいに出来るといいなって思います。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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