『空を仰ぐ』 ... ジャンル:恋愛小説 ショート*2
作者:キイコ                

     あらすじ・作品紹介
叶わない願いを抱えた主人公たちのSS三連作。お茶請けにでもなれば幸いです。(それぞれのお話に関連性はありません)

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(ひとつめ)サイダーとルーシィちゃん


 ルームメイトに荷物が送られてきた。青いロゴマーク入りの無骨な段ボール箱をえいやっと開けると、涼しげなガラスの壜がぎっしりと詰まっていた。エレベーターのない安アパートの四階までこれを運んだ宅配お兄さんの苦労を思いやってあたしは心の中で合掌し、ルームメイトの可愛いルーシィちゃんは無邪気に歓声を上げる。
「サイダーだ! ねぇねぇ、カオリも飲まない?」
 あたしの答えよりも先に、心優しいルーシィちゃんはグラスを二つ出してくる。
「いいよ、私は」
 炭酸は苦手だ。舌を刺す感じが痛くて嫌い。笑って答えると、可憐なルーシィちゃんは無邪気にぷくりと頬を膨らませた。

 それにしたってサイダーの泡がはじける音は、なんだってこんなに煩いのだろう。
 夜のベランダであたしは考える。おおらかで、人にも自分にも寛大なルーシィちゃんはおよそ片付けというものに興味を示さない。コップに半分ほどのサイダーを残して、さっさと寝入ってしまった。暗い部屋の中で、ぷちりぷちり、サイダーの泡が弾ける。
 煌々と明かりが点っているせいで、この国の都会の夜は東京と同じ色をしている。部屋の中のほうがよほど闇が濃いのだ。電気もつけずに、あたしはベランダから町を眺めている。ちこちこちこ、時計の秒針の音がやけに大きい。
 わからない。あたしは呟いた。可愛くて心優しくて可憐で無邪気でおおらかで寛大なルーシィちゃんには、この気持ちはきっとわからない。
 人が聞いたら理不尽だと思うだろう。あたしを自分勝手な女だというだろう。
 でもあたしは彼が好きなのだ。可愛くて心優しくて可憐で無邪気でおおらかで寛大なルーシィちゃんの、素敵なボーイフレンドが好きなのだ。
 日本からこっちへ留学してきて、スラングもへったくれもないジャパニーズ・イングリッシュを振り回して孤軍奮闘していたあたしに、ルーシィとその彼は優しく救いの手を差し伸べてくれた。ルーシィはもともとの友達との約束を反古にしてまであたしをこの部屋に迎え入れてくれたし、彼はあたしのこの国に対する無知をいつだって改めてくれた。
 二人ともあたしにとっては救世主だったのに、どうしてそのうちの一人だけをあたしは特別に胸へ刻み込んでしまったんだろう。
 ぷちりぷちり、ちこちこちこ。
 ああ消えてしまいたい。あたしは考える。手首に額を押し当てると、鼓動が直接頭に響いてくる。とくとくとく。煩い。
 サイダーの弾ける音、秒針の音、あたしの鼓動の音、似ているのにどうしてこんなにも違うのだろう。
 サイダーの泡は弾けて消えてしまえるのに、秒針の音は積み重なってあたしを圧迫するばかりだ。
 サイダーの泡は弾けて消えてしまえるのに、どうしてあたしはそうできないんだろう?
 あたしは部屋に戻って、コップに残ったサイダーを飲み干した。長い間放置されたそれはほとんど気が抜けてしまっていて、けれど消えていく僅かな泡はどんな針よりも鋭くあたしの舌を刺した。
「……カオリ? 寝ないの?」
 背後から世界一可愛い女の子の声が遠慮がちに聞こえて、あたしはそっとすすり泣く。






(ふたつめ)ハインリッヒはどこにもいない


 その男は錐のような眼をしていた。
 比喩などでなく、その眼で見つめられると、いつでも身体を刺し貫かれるような心持がした。
 二階が倉庫になっているせいで、ビルの一階から三階をまっすぐに貫くエスカレーター。眩暈を起こしそうな高さで、その無愛想な機械を両足で踏みしめて、マルガリーテは毎晩、その男とすれ違う。
 すれ違うときはいつでも、マルガリーテが降りて、男が登っている。彼女の姿を認めると、男はいつでも薄く笑った。三日月のように唇の端を吊り上げて、そして錐のような眼でマルガリーテの眼を潰した。本当に刺されるような痛みを感じて、彼女は眼を逸らせるしかなかった。
 同じ会社にいるはずなのに、社内で彼の姿を見掛けることはなかった。
 婚約者を亡くしたその六年後の夜、マルガリーテは初めて男に出会った。それから毎晩、マルガリーテは刺し貫かれ続けている。婚約者に生き写しなその男の眼で。あの日きらきらと金色に光る指輪をくれ、そのまま逝った恋人の面影。男はいつも、黒いスーツを着ていた。
 その晩、いつものようにエスカレーターの上で男を見つけ、その白いシャツに赤いものを認めて、マルガリーテはほとんど気を失いそうになった。
 責めてるの? 無意識に唇が動く。男はこちらを見て笑っている。錐のような眼でマルガリーテを見つめている。眩暈のするような高さで、その無愛想な機械を震える両足で踏みしめて、マルガリーテは初めてまともに男を見つめ返す。
 責めてるの?
 すれ違う刹那、マルガリーテは身を乗り出して男の額に口付けた。広い額に唇をつけた瞬間、かすかに鉄の臭気が鼻腔を刺した。白いシャツのその襟が、赤いもので紛れもなく汚れている。マルガリーテは緊張で乾いた唇の、その動きだけで問いかける。
 ねえメフィストフェレス、あなたのお名前は?
 男は片頬だけで嗤ってみせる。
 知りたければ、登っておいで、グレートヒェン。
 一瞬だけ息を呑み、マルガリーテはエスカレーターを駆け下りた。着いたフロアですぐさま踵を返し、反対側のエスカレーターを駆け上る。
 たどり着いたその白い床の上に、男はいない。自らの左手を――薬指の、鈍く銀色に光る指輪を――きつく掴んでマルガリーテは眼を閉じ、天を仰いだ。自分が押し込めてきた感情を、ようやく彼女は自覚する。かつての恋人を悪魔の名で呼び、自分を正当化した自らの深淵を。償おうと振り返っても、彼はそこにはいない。
 左手に抱えた書類がばさばさと床に落ち、その間から一枚の写真が滑り落ちた。白い衣装に包まれブーケを抱える女を見まいと、マルガリーテは必死に眼を逸らす。
 ねえ許してよ、
(悪魔に魂を売っても構わないから)








六月一日、僕達の家で


 六月一日に彼女は突然ケーキを買ってきて、誕生祝いをしよう、と言った。
 僕は驚いて彼女を見つめる。僕も彼女も、他に誕生日を知っている人たちの誰にも、今日生まれた人はいなかったから。
「だれの、って、ね」
 彼女は僕の思いを見透かしたように、おおまじめに答えた。僕の頭の長い毛に右手を埋め、くしゃくしゃとかき回す。くすぐったくて僕は思わずくしゃみをしてしまう。
「だれの、って、もちろん、六月のだよ」
 だから今日はいい日なの、彼女が言った。僕は困惑して、彼女の買ってきたケーキを眺める。まっしろなクリームと赤いいちごがいかにもおいしそうで、うすいピンクの、バラを模した砂糖細工が散りばめられている。チョコレートプレートにはよく見ると、Happy birthday,June、と書かれていた。
「六月の誕生日なんだから、お洒落しないと」
 彼女は楽しげにそう言うと、自分の部屋から化粧ポーチを取ってきた。僕にはただの棒にしか見えない道具を取り出して、爪の根元に押し当てた。うすい皮(甘皮、というらしい)が押されて、爪の面積がどんどん広くなる。痛そうだ。
「六月の誕生日なんだからね」
 黙っている僕に、有無を言わせない口調で、彼女はきっぱりと言った。僕はその頑なな横顔を見つめる。
 誕生日なんだから、今日はおめでたい日なんだから。つらいことなんて何もないの。なかったの。
 かなしみでいっぱいになりながら、僕はその頑なな横顔を見つめる。
 ねえ、甘皮なんて押さなくったって、僕は君が大好きだよ。
 視線にこめた思いは、どうしたって彼女に届かない。
 真剣な顔をして、彼女は手を動かし続ける。
 誰かの誕生日にかなしい事が起きるなんてはずないもの。だから私は平気。かなしくなんてないの。ないのないのないの。
 ダッシュボードの上には写真が一枚飾ってある。一年前までは何度も何度も僕たちの家にやってきて快活に笑っていた、男の人の写真だ。写真の端っこに小さく、JUN、とサインがしてある。黒い縁に囲まれたその笑顔を、僕はじっと見つめ続ける。
「六月の誕生日なんだよ、今日は」
 またひとり言い訳のように呟いて、彼女は棒を反対側の手に持ち替える。爪に押し当てたその手が震えて、白い人差し指の先に突然、ぷっくりと赤い色が滲んだ。
 そんなのただのこじつけでしょう、今日は誰の誕生日でもないでしょう、と言って欲しかった。僕には言えないから。誰か部屋に入ってきて、たとえばそう、あの男の人に。一年前の、あのかなしい事故なんてなかったことにして、今すぐ彼女を抱きしめて欲しかった。僕には出来ないから。
 黒い服を着た彼女はそうして、一人きりで小さなお別れをしている。かなしい事なんてなんにもないふりをして、いちごのケーキを目の前に置いて。
 ハッピィバースデイ・トゥ・ユー、彼女が小声で歌った。血の滲んだ人差し指を、口元に持っていきながら。
 ハッピィバースデイ・トゥ・ユー。それから右手をダッシュボードに伸ばし、黒縁の写真をそっと伏せた。
 僕は目線を下に向ける。首輪の赤い色と申し訳程度の革のリード。無性に泣きたくなって、でも泣けないから、僕は代わりにワンと鳴いた。強いふりしないでと鳴いた。
 彼女はもう一度、僕の頭をくしゃりと撫でた。あの男の人が好きだといった、長いキャメルの僕の毛並み。彼女が小さくしゃくりあげて、僕はその手を遠慮がちに舐めた。きれいに磨かれた爪の、硬くて乾いたはかない感触。
 ねえ、甘皮なんて押さなくったって、僕は君が大好きだよ。
 視線にこめた思いは、どうしたって彼女に届かない。
 彼女が微笑むふりをして、僕は鳴く代わりにしっぽで床を叩いて見せた。





2007/01/13(Sat)17:41:02 公開 / キイコ
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■作者からのメッセージ
SS初挑戦です。二つ目と三つ目の設定が似てしまって後悔。違う展開を次々思いつける方は一体どうなっているのでしょう(おい)。
時間のあるうちに、と書き急いでいる感が否めません。落ちのあるようなないような妙な仕上がりになりましたが、読んでくださった方に心から感謝を。

1月7日  いろいろ修正しました。ご意見ありがとうございます。まだまだ不十分かと思われますので、ご協力いただけると幸いです。

1月13日  二度目のマイナーチェンジ。ログを流すのも気が引けるので、これを最後の改稿とする予定です。アドバイスなど、次回へと生かしていけたらと思います。ありがとうございました。

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