『stress』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:もろQ                

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 この世の人間が私一人だけならいいのにと思った。おととい思った。朝の満員電車に乗っていた。黒い波に揉まれていた。運良く手に入れた自分の吊革にぶら下がって、次の駅をじっと待った。黙って大人しくしていた。
 車内は客の体温が混ざった不気味な生温かさに取り憑かれている。隙間に作ったなけなしの個人スペースが、揺れるたびにどんどん狭くなっていく。中年親爺が群れて自由を圧迫する。誰かのハイヒールが私の足を執拗に踏みつけた。頭上に伸びた左腕にしびれが走る。だらしなく開かれた口から吐く息の悪臭。私を追い抜く窓の景色。黒いスーツから垣間見た車内広告、嫌いなアイドルの写真。ガタンと音を立てた空間が再び大きく揺れた。痛い、辛い。これじゃつぶれる、つぶれる。……声に出せなかった。黙って大人しくしていた。
 その時そう思った。

 しかしながら昼にもなれば、いつの間にか友達と楽しくお喋りしている。教室の端の方で、音楽のこととか、バイトのこととか、他愛もない話ばかり飛び交せる。単に私が低血圧で、朝が苦手なだけなんだ。ほら、この子たちを殺すことはできないよ。たった今自分が見せた本気の笑顔を証拠に納得した。結論はいつもそこで落ち着いた。
 クラスの中には派閥が存在する。明るくてポジティブ思考な男子集団。内向的でおとなしめのグループ。気づくとクラスの中にいくつも小クラスができていて、ふとした弾みで誰かが入ったり出たりした。私も決して全ての女子と仲がいい訳ではない。だけど自分を含めた三人の間には、今のところ大した問題も起こらず至って平和だった。カオルちゃんもマイちゃんも、みんないい子だった。 
 いつだったか、誰かが軽はずみに喋った冗談のせいで「負け組」と名付けられた。教室の隅っこの方でブスの集まりがキモ笑いをしてるから、陰湿っぽくて、何となく人生の敗者的なイメージが付いてしまったからだという。彼らははやし立てるが、当の私たちはむしろそれを喜んで受け入れた。

 「ねえぇ〜っ、ミーポ目の下にクマできてるよぉ〜大丈夫?」
 午後の移動教室のあと、背後から聴こえた甘々な声に嫌気を差しがてら振り向く。廊下を大きく陣取って、悪夢にまで見たラメリップのあいつがこっちに向かってくる。カワイコぶり女子グループの下っ端を引き連れてあいつがやってくる。ミーポと呼ばれた私はうつむき気味に返事をした。
「あ……うん、最近寝不足だから……」
 私の声は周囲の喧騒に掻き消されるほど小さかった。この子と話すといつもこうなる。二人とするときみたいに上手には喋れない。どうしてこうなんだろう。私がいけないのだろうか。
「ふぅ〜〜ん、そぉなんだ〜〜〜」 
 彼女は吊り上げた口元に嫌味を塗りたくって、立ち止まった私たちをすたすた追い越していった。数人の女子がくすくす笑いながら彼女にくっついて行く。取り残された三人が佇んでいる。
 おいおい、またそれか。またそのパターンか。結局アンタらは心配するふりして私をからかいたいだけか。ふん、まあ別にこっちだってアンタらに心配される筋合いはないけどね。にしても何だよあの喋り方は。絶対高校生じゃないだろ。ああぁっ、腹立つ。
「何だろうねあの喋り方。中学生レベル、って感じだよね」
 しばしの沈黙が終わって、カオルちゃんが今まさに私が思ったことを代弁してくれた。ああ君達はホントに……、とまたひとつ感動をもらいながら、私は二人と一緒に笑った。廊下は人が通るので窓際に避けた。ひとしきり笑った後で、今度はマイちゃんが急に真剣な顔をして、私を覗き込んで訊いた。
「でもミホちゃん平気? クマ本当に結構ひどいよ」
「うん。あのね、実はちょっと不眠症っぽいんだ」
 目の下の黒ずみを隠すように触って私が言うと、やっぱり、二人は心配そうな顔をしてくれる。口を押さえたりして、大げさに見えるほど驚いてくれる。
「マジで? 大丈夫なの?」 
「全然大丈夫。ホントたまに寝れなかったりするだけなの。寝れる日もあるんだよ」
 私はまた笑ってしまう。
「なあんだ、じゃあ全然平気なんじゃん」
 神妙な顔つきから一転して、明るく笑い飛ばすカオルちゃん。
「え、でも分かんないよー。お医者さんに看てもらってるの?」
 いつでも優しく接してくれるマイちゃん。もちろん、だから安心して。ありがと。軽やかに答える私。天井のスピーカーからチャイムが鳴り出す。窓の外の中庭、生い茂る雑草が風に揺れていた。

 また夜に囚われた。言い知れない黒の液体が部屋中を充たす。圧倒的な闇に溶ける。月光か、あるいは夜天光か、窓を覆うカーテンのみが唯一青白く光っている。視力を奪われた私はモノクロのパジャマを着て目を開けている。暗闇の世界で私は毛布を掴んでいる。スクリーンに映し出された午後の記憶に意味もなくすがっている。
 例えば旅人が「もう故郷には帰らない」と決意して、延々と伸びた道のりをひたすら歩き続ける。数多の苦難を乗り越え、例えばあと何マイルか進んだ先に自分が旅の終着と定めた地が見えるとする。肩で息をさせながらもう少しという所で現れたのは、しかし、立入禁止区域と表示された有刺鉄線だった。旅人の背の二倍はある、巨大で頑丈な鉄柵。絶対的な障壁。
 完全に起きることも穏やかに眠ることも許されない私は、結局どうすることもできない。途方に暮れて、旅路の途中で行ったり来たりしている。味気ない色々を思い浮かべながら、ぐずぐず道草を食っている。これが現在状況。暗闇に貪られた部屋に独り、冷ややかなベッドに身を預け眠ったふりをする。今日こそ私は眠れると毎夜自分に言い聞かせ、格好だけでも寝られる状態にしておく。不眠症に陥ってから夜の時間は怠慢になった。一日が二十三時間になればと思うようになった。いつの間にか閉じていた瞳の前に、いつの間にか朝の太陽が降り注いでいればいいのにと何度思ったろう。この冷たいベッドが、目覚めたとたんぬくぬくあったかい、なんでかしらと不思議に思えるあの懐かしい朝が来ればいいのにと何度思ったろう。
 そうして、長くつまらない夜がゆっくりと明けていく。グラデーションのように空の色が変わっていく。部屋と窓の明るさが同化し始める頃、二人に嘘をついてしまったことへの後悔がようやく消える。カラスの鳴き声が遠く聴こえた頃、私のお腹の奥で何か重苦しいものがごろりと音を立てる。

 朝に変わった。起きどきを見計らって、あくびもせずに身体に纏う毛布をはいだ。のろのろと自室を出、ペールグリーンのパジャマのままダイニングへ向かうと、椅子に座る父は新聞を読み、母は台所で朝食を作っている。NHKのニュースがかかっている。私が起きてきたことに気づいているのかいないのか、両親は黙りこくって自分自身の活動に勤しんでいる。子供を産んだあとも父母は同じ職場で働いている。夜中まで残業しているから、家族三人で集まれるのは実際朝ぐらいである。だから、前日の夜は私は父と母に会っていない。父母も私に会っていない。
 私はいつも通り自分の椅子に座る。向かい合うと、父の顔は新聞に隠れて見えなかった。一面に大きく載った写真に深く頭を下げた政治家が写っている。キッチンから換気扇を回す音がする。母がブロッコリーを茹で始める。何気なく私はテレビを見やる。この位置からは、窓から差す光で画面が見えづらい。テーブルに向き直った。
 背もたれにぐったり寄りかかっていると、父の顔が新聞の上からひょこっと現れた。何も言わず、自分の娘をじっと眺めている。顔を見合わせてみる。しかし父は目をそらすことなくただ私の顔を眺め続けた。なんだろう、何か言いたいことでもあるのかな。私の顔に何か付いているのかな。そう思ってハッと気がついた。
「な……なあに?」
 私はとりあえず尋ねてみる。すると父は、
「いや」
 と漏らしてそこで言葉を切ってしまった。何もなかったかのように沈黙は続行し、会話が終わったことを悟った。けれど久々に父の声を聴いた気がした。かたんという音とともに、台所の換気扇が動きを止めた。
 家族と一緒に食事をする。少し焦げたトーストにかじりつく。コップに牛乳が注がれる。陽光が射し入る。そよ風がリビングを吹き抜ける。
 「お母さんたち、また仕事が忙しいから。ちょっと明日のお昼までは帰って来られないわ」
「わかった」
 目玉焼きを口に入れたまま答える私。
「まあ前もこういうことあったし大丈夫よね。明日日曜日だし」
「うん」 
 おっとりとした母の話に合わせるよう、少し間を置いてから答えた。父は静かに皿の上でパン粉を払い、牛乳をぐいと飲み干した。父は会社へ行く支度を始めた。

 ドアが開き、中からカマキリの子のように乗客が飛び出す。うざったそうに髪を撫で付ける人、そんな暇もないほど急いで走る男、みんな辛そうな顔をしてる。客が全て降りきった矢先、今度はこちらが雪崩れるように乗り込む。まるでお祭り騒ぎだな、今日は偶然最後尾にいる私は、上からものを見るような態度で列の流れを眺めた。そして私も後を追うように車両に乗り込む。
 暑苦しい電車の中は、手前と向かいのドアの間の空間に人が密集していて、反対に左右の座席がある間のスペースは結構空いていた。私はというと、ぎゅう詰めになった乗客たちを背に、ドアが閉まるレール寸前のラインで立ち止まっている。黙って、発車の時を待つ。駅構内は人の群れで慌ただしい。駅員が無線片手に周囲を見回している。なんだか誰も、何か目的を持って生きているようには見えない。いや、単に自分がそうだから、他の人のこともついそういう感じに見てしまうだけなのかもな。思わずこぼした苦笑いのあと、けたたましい発車ベルが頭上で鳴り響いた。
 閉じたドアに寄りかかるようにして、車窓の窓ガラスに額をこすりつけた。動き出した電車は、徐々にスピードを上げ、いとも簡単にホームより脱出する。駅を出てすぐ、踏切を抜ける。黄色と黒の遮断棒に仕切られた向こうに、大勢の人と乗用車が立ち並んで、この列車が通り過ぎるのをうつむき気味に待っている。赤いライトが煩わしいほどに光る。窓の景色はこの踏切をあっさりと通り抜けていくが、実のところ、私はここを片時も忘れたことがない。

 まさに無意識のうちに校門の前まで辿り着く。家を出、電車に乗り降り、坂道を下り、「亀田商店」の角を曲がり、横断歩道を渡って学校へ到る。その全てを、半分眠った状態のまま行う。足が勝手に動いてくれている。眠れないまま登校をする。
 サボろうと思えばサボれる。両親は私が家を出たあとすぐに仕事に向かってしまうから、担任が電話をしてきても平気だし、別にこれからどこか違う場所に向かったっていいわけだ。それでも学校へ行く理由は何だろう。勉強がしたいわけじゃない、部活にも入っていない。校舎内で私に起こることは、得てして疲労にしかならない。ただ過去九年間の義務教育に慣れてしまって、無意識的に高校もそうだと勘違いしてしまっているだけなんだろうか。いや、それでも何か違う気がする。なんだろう。私は一体何が楽しみで学校に来ているんだろう。そうして一人で考えながら上履きを靴箱から取り出していると、ぽん、と誰かが私の肩を叩いた。カオルちゃんだった。

 自分は人付き合いが下手だと、それは小六の頃から気づいていた。実際友達はあまりいない方だった。高校に入っても同じで、入学してから数ヶ月は誰とも仲良くなれなかったのを覚えている。時たま親戚のおばさんから電話がかかってきて、「高校は楽しい?」と訊かれて、うんっ楽しいと元気いっぱいに答える口から舌を出していたのを覚えている。
 しかし、そんな私も半年ほどすると、席の近い子たちと自然にふれあえるようになってきた。それがカオルちゃんとマイちゃんだった。今までクラスの誰もがよそよそしくて下品な悪魔にしか見えていなかった私は、彼らのあまりの可愛らしさに言葉を失った。私はずっと隔てを作って眺めているだけだったが、話してみると、予想外に楽しかった。これが幸せか、とまだ人生の五分の一も生きていない身の上で思った。それから、彼らとずっと一緒にいたいと思った。三人でいたいと、言葉で言わずとも願っていた。驚いたことに、二年の時のクラス替えで誰一人違うクラスになることはなかった。
 教室の隅っこの方で、音楽のこととかバイトのこととか、そんな他愛もない話ができる。冗談を言って笑ったりできる。例えそれが皮肉で負け組と呼ばれても、ただの笑い話にできる。この小クラスはそういう力を持ってる。そのブスな顔にキモくて本気の笑顔をくっつけて幸せに生きていられる。
 二人はいつも私と仲良く接してくれる。私だって二人にできるだけ仲良くしてあげようと思うもの。

 「えー、急なお話だったんですが、朝倉舞さんが昨日をもって福岡の方へ転校なさいました。理由はお父さんの仕事の都合上ということです。まあ、遠い所ですけどね、今は携帯電話なんかも普及してますし、メールとかしてあげたら朝倉さんもきっと喜ぶと思います」
 全く抵抗なく、口があんぐり開いた。ついさっきカオルちゃんと、今日は来てないねーと話をしていたばかりなのに。先生の声を聞いていたのに聞こえなかった。左隣を振り向く。カオルちゃんも同じように先生を見上げているだけだった。驚きのあとで、ようやく哀しさが来た。おかしい。今までそんなこと一度も言ってなかったのに、本当に急なお話だよ。一体どこ行っちゃったのさ(福岡ですか)。大学生になって社会人になってもずっと一緒にいられるって信じてたのに、そんなのおかしいよ。メールって言ったって、顔見られないんじゃあどうしょうもない。うそでしょ? 嘘なんでしょ? メールでいいから嘘って言ってよ。寂しい。私すごく寂しいよ。……机に座った私は、真っ暗な頭の中で哀しみの独り言パレードを展開した。変な子と思われるので涙は出さなかった。だがもうちょっとで出る所だった。無感情にホームルームが終了する。
 カオルちゃんが私の手を握ってくれた。
「大丈夫? ミホちゃん」
「ダメ。私もうダメだぁ」
 突っ伏していた私が顔を上げると、カオルちゃんは同情するように頷いた。
「そうかそうか。よしよし」
「なんでだよぉ。なんでそんな急にいなくなっちゃうんだよぉ。へえぇん」
 おつむをなでられて私はますますヘロンヘロンになってしまう。端から見たらすごく惨めだなあと思った。ふと、疑問に思い私はもう一度頭を上げた。カオルちゃんに尋ねた。
「……カオルちゃん、あんまり悲しくないの?」
 泣いてないのにグスンと言って、彼女をじっと見た。するとカオルちゃんは普段より高めの声を出して叫んだ。
「そんなわけないじゃん! あたしも超悲しいよ〜」
「だよねぇぇ」
 勢いで額をごつんとぶつけた。痛がってる暇もなく落ち込んだ。落ち窪んだ。覆った耳へ入り込む教室の騒がしさに腹が立った。少しはしんみりモードにして欲しい。しばらくして、カオルちゃんのため息混じりの言葉が聴こえた。
「あー、これで『負け組』も解散かあ」
 宇宙みたいに暗かった脳みその中が唐突に真っ白になった。私は目を開けた。頭を上げた。さらに上半身を立たせた。彼女を振り向いた。
「いやいや、別に解散はしないよ。二人でもやっていこうよ」 
「えっ、でもさあ、このクラスの雰囲気的にあたしとミホちゃんとマイちゃんの三人で『負け組』って感じなんじゃない?」
「そんなことはないよ。一人欠けても負け組は負け組だよ」
「二人になったら学級崩壊だよきっと」
「三人でも十分学級崩壊だよ?」
 こういう真面目な話をしてる最中にも急にボケをかましてくるから怖い。けらけら、カオルちゃんは特有の笑い声を出して天井の方を向いている。いつもは面白がっている私なのに、なぜか今回は変に真剣になってしまう。と、私はあることを思いつき、目の前の背の高い女の子に視線を向けた。そして、考えに考えた末、本当なら決して尋ねてはならないことを、思い切って質問することにした。息を吸って、声を吐き出した。
「ねえ……もしかしてさ、そういう風に言うのってもしかして、負け組とか呼ばれるの好きじゃないってことなの?」
 彼女のけらけらがふと消え、カオルちゃんも私をじっと睨むように見た。教室の騒がしさの中、ゆっくりと沈黙が生まれた。禁忌を犯した私は、締め付けられるような罪悪感を感じつつ、それでも僅かな期待を彼女に向けた。
「ねえ、どうなの? 本当はブスとかキモイとかみんなに言われるの辛かったりするの? 負け組とか言われると、いじめられてるみたいで嫌なの? ねえ」
 声を荒げて捲し立てる。まさか。そんなわけないじゃん。これからも二人で仲良くしようよ。心の中で、私が作った偽物のカオルちゃんの声が呟いた。いや、そう呟いて欲しい。聞かせて。切に願った。彼女に答えて欲しいから、静かにして待っている。凍り付いたように固まって、二人は見つめ合っている。やがて、カオルちゃんは一瞬目を閉じて、溜め込んだものを吐き出すように口に出した。
「……本当はね、嫌だったの」
 期待が砕け散った。
「本当は嫌だった、うん。早紀ちゃんいるでしょ。あの子あたしとオナチューじゃない。高校入る前から仲良かったのよ。だけど、ね。あたしたちがそういう扱いされるようになってからさ、あんまり話しなくなっちゃったの。無視されるようになっちゃってさ、で、昨日見たでしょ。五時間目の移動教室終わったあと、あいつが連れてる女子の集団の中にいたんだよ、早紀ちゃん」
 ああ、と思い出したように力ない相づちを打つ。カオルちゃんは続ける。
「くすくす笑ってたよあの子。あたしたち見て。小馬鹿にしてたよ。……すごく、ヤな気分になった。いつもは自虐的にさ、自分のこと馬鹿だとかデブだとか言ったりしてたよ。あたしはそういうキャラなのかなーと思って。でも本当のこというと、我慢してた。言われるのも言うのも嫌だった。だから、マイちゃんが転校するのをきっかけに我慢するのやめようかなって思ったの。もう負け組にはなりたくないの」
 鋭い音を立てて、カオルちゃんは席から立った。いなくなった後も、私は彼女の座っていた椅子を眺めていた。教室を出るとき、本物の彼女の声がこう、謝った。
「マイちゃんが福岡行くの、あたし知ってた。メールで言ってた。三日前くらいから。ごめん」
 カオルちゃんの足音が去っていく。振り返るのを途中でやめ、私は正面の黒板を眺めていた。頭を下げ、机に突っ伏した。机と自分の身体の中で温めた暗がりの中、私はちょっと泣いた。私は独りでもしんみりできる。

 私は、自分がここ数週間一度も眠れていないことを誰にも話せないでいる。親には寝不足であることすら知らせていないし、気の許せる友達にさえも「軽い症状」と嘘をついた。本当はもう気づかれているのかもしれない。いくらメイクで隠しても、目の下のクマはやっぱりばれてしまう。ばれていたのだろう。しかし、こちらから自白することはためらわれた。心配かけたくないから、と理由を繕って平気な顔をしてきたが、本当は単に、心底では彼らを頼り切れていないだけなのかもしれない。親も、友達も、本来なら思い切り身を任せられる存在であるはずなのに。結局仲はそれほど良くなかったらしい。ほら、カオルちゃんだってマイちゃんだって、私に隠し事してた。友達とすら思われてなかったのかもしれない。
 昨日の夜に囚われながら、私はカーテンの明かりを見据えていた。闇に溶ける空気が冷たくて、まるで墨汁の海を漂っているようだ。光を失った私の目はこのまま起きていたってなんの意味もなさない。モノクロのパジャマを着て、何かに怯えたように毛布を掴んでいる。一番哀しいのは、夢であって欲しいと望んでもそれを夢にできないことだ。私は病気だ。誰にも言えない。黙って大人しくしている。きっと治らない。大学生になって社会人になってもきっと治らない。治らないんだ。またひとつ、お腹の中に重苦しい何かが落っこちた。ストレスだ。
 例えば旅人が「もう故郷には帰らない」と決意して、延々と伸びた道のりをひたすら歩き続ける。例えばあと何マイルか進んだ先に旅の終着が見えるとする。肩で息をさせながらもう少しという所まで来て、しかし現れたのは、踏切だった。黄色と黒の遮断棒が、目の前に無慈悲に降りている。地獄みたいな赤色を光らせて喚くライト。轟音とともに走り行く列車。立ち並ぶ大勢の人と乗用車の中のひとつに私がいる。俯いている。そうです、私は自殺するつもりでした。リラクゼーションの一環だと思っていた幼い子供は、全く軽い気持ちで踏切の前に立ってたのです。でも、ね。無理ですよ。見てご覧なさい。あんなに素早い動きで駆け抜ける乗り物を私は見たことがありません。大きくて、早くて、ものすごい唸りを上げてる。私みたいな女の子が触ったら、途端に吹き飛ばされてしまう。風圧で手足と首を刎ねられてしまう。死ぬのは痛いことです。私は弱い子です。
 健全に生きることも安らかに眠ることも許されない私は、どうすることもできない。意志薄弱の女の子は、ゾンビよろしく無気力に生きることしかできない。日々を追うごとに腐っていく自分の肢体を眺めながら毎日を過ごさなければならない。長くつまらない夜を彷徨わなければならない。カラスの鳴き声が響くのを、ひたすら待ち続けなければ。

 私は死ねない。だからみんな死んで。ここから居なくなって頂戴。おとといこんなことを思った。この世の人間が私一人だけならいい。もう何にも未練はない。誰も生き長らえないでいい。そうなればもう我慢しなくていい。辛い思いは沢山。みんな死ねて幸せね。私には無理よ。鉄柵が高すぎて通れないの。
 窓の向こうでは音も無く、夜が朝へと塗り替わる。昨日が終わり今日が訪れる。空が白み、巨大な丸い光がのっそりと浮かび上がる。ビル街の天辺が金色に輝く。夢うつつの世界に、新しい一日がまたひとつ書き加えられる。あくびもせず、冷たいベッドから這い出る。ペールグリーンのパジャマのまま廊下を歩きダイニングへ向かう。誰もいない日曜日。明日の昼まで帰って来ない。窓から差し込む太陽が、裸足の足下を照らしている。静寂に包まれた部屋。テーブルと台所の換気扇。プラグを抜いたままのテレビ。床に寝そべっている長い髪の毛の影。柔らかく整った空気に、私は危うく呼吸を忘れそうになる。見せかけの無人に笑みがこぼれてしまう。突然、時間を切り裂く音。鳴り響く電子音。素足で歩いて受話器を取る。知らない男の声。
「川上美歩さんですか。はい、落ち着いて聞いてくださいね。つい三十分ほど前にですね、あなたのお父さんお母さん、川上春重さんと教子さんが亡くなりました。お二人は自家用車で都内を走っておられたところ交通事故に遭いまして即死だったというこ」
 受話器がフローリングの床に叩き付けられる。男の声は途切れ、代わりに激しい衝突音が部屋中に弾ける。乾電池が機器の破片とともに飛び出す。私はおかしくて笑った。大丈夫、これは夢じゃない。私は一人になる。すごく楽しい気分。幸せな気分。電話を持っていた左手に残るかすかな感触が心地よくてたまらない。声を張り上げた。誰もいないダイニングに一人。何もかもが煌めいて見える。開けた道の向こう側、朝の光って美しい。痛みも苦しみも哀しみも涙も何も感じなくていい。私は笑った。大声で笑った。泣けるほど笑った。

ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

2007/01/14(Sun)04:37:00 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
結構私小説的な部分が多かったりします。そうじゃないところも多分に含んでいますが。

1/14 少々改訂

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