『滅びいく星で』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
作者:夜
あらすじ・作品紹介
真理は単純な思考にこそ宿る。王と王妃と、星を壊した男の物語。
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彼と彼女は恐らく、世界で最も幸福な夫婦だった。
彼は誰よりも強く逞しかったし、彼女は誰よりも美しく艶やかだった。二人の間には恋敵も経済的な困難も、天災すらも降りかかることが無い。
二人は、互いに深く愛し合っていた。毎日日が昇るのと同時に目を覚まし、お互いの存在を確かめ合うのを第一の日課とした。午前は暖かな日のもと散歩し、午後は快適な寝床で睦み合い、求め合うままに交わった。
二人は永遠など信じていなかった。永遠など考えても居なかった。二人の世界は酷く狭く、それでいて満ち足りていた。悩みすら存在しえない、幸福な楽園だった。
上司から理不尽な叱咤を受けたのは初めてではなかった。
苛立ちをこめて扉を乱暴に開け、俺はスーツのまま寝台へと身を投げた。酷い疲労がじくじくと体の内側からにじみ出てくる嫌な気配がする。口の中で上司を罵ってみても、一向に気は晴れない。
冷たいコークで喉を洗って、泡の刺激を楽しんだ。ため息の色合いばかりが濃厚な部屋の中で、俺は水底で溺れているような気分を味わうはめになった。
もやもやした気持ちを引きずって、電気を消した。既に夜は深まり、部屋はたちまち闇の一色に塗りつぶされる。俺の唯一の趣味には、この闇が必要不可欠だった。
慎重に覗き込めば、二つの影が絡まっているのが見えた。
俺の趣味とは、近くに住む恋人達の姿を、夜毎覗き見ることだった。電気を消していれば、奴らからは俺の姿は見えないはずだ。
二人は本当に仲が良いようだった。どこに行くにも連れたち、自分たちの家ですらも離れようとしない。独り身の俺はそれが羨ましくも、恨めしくもあった。毎日見せ付けられるその姿は、確実に俺の中に好ましくない類の感情を溜め込んでいった。それは膿を含んだ傷跡のように、僅かな衝撃に弾けてしまう危険性を秘めていた。
やがて彼女が妊娠した。彼は無論のこと、それをことのほか喜んだ。彼は何度も二人の愛の結晶となるだろう膨らみに触れては、彼女を労った。
豊かな世界に祝福されて、新たな命が生まれる朝が迫りきていた。
女の様子が変わったことに俺が気づいたのは、リストラされた日の夕方だった。
自棄酒に焼かれた脳髄の痛みを堪えながら、俺は孕んだらしき女へと向かって唾を吐きかけた。もちろんそれは女に届く前に、無情にもガラスに阻まれてしまうが。
子らは、暖かな夏の朝に生を受けた。
彼は彼女に口付けし、愛らしい家族のために何度目かの新たな誓いを立てた。
職安に通い始めて一週間、俺の仕事は未だ見つかりそうも無かった。やれ年を取りすぎてるだの、やれキャリアが不足しているだの、連中は俺を弄んでは追い出した。
日々心が荒んでいくのが自分でも分かった。理不尽な仕打ちへの憎悪が、俺の中で肥大し続けて、理性を飲み込もうと画策していた。
そんな俺の惨境に相反して、覗きこむ視界の中の夫妻はますます幸福になっていった。それを見るたびに、俺の危うい衝動が胸中に揺れる。蓄積された世間への怨嗟が、不気味に胸中に蠢いた。
ある日、二人の世界は不意にその姿を変えた。激しい空腹に苛まれて、二人は初めて苦しみと懊悩を知った。理由は全く知れなかった。運命の理不尽は往々にして予想できない攻撃を仕掛けてくる。それに理由を求める不毛はしかし、人間だけが冒す無謀だ。
決断を下すのに、然程時間は必要なかった。彼と彼女の思考は単純で、何より失えないものをよく知っていた。
そうして、彼と彼女は再び二人きりになった。
いつものように覗き込んだ俺は、息を飲んだ。
ついて、胸がつかえる悪心が込みあがってきた。数日にわたる情緒の不安定も手伝って、すぐに喉元に何か異物感を感じて、俺は洗面所へ飛び込んだ。
二人に何が起こったのかは想像に容易かった。よもや俺が仕掛けた小さな悪戯が、此処まで深刻な結果を及ぼすとは思っていなかった。
自責と後悔に炙られて、俺の脆弱な神経はますます追い詰められることとなる。ぎりりと軋むような音を立てて、情緒が悲鳴を上げた。
彼女の心の傷を癒すように、それからの日々、彼は今までにも増して王妃の傍から離れようとはしなかった。
再び均衡を取り戻した世界は、以前に比べると少しばかり光に乏しい気がする。それでも、二人が生きるには十分だった。
また機会は訪れるさ、と彼は彼女を慰め、彼女は彼に唇を寄せた。
職をなくして、一月が過ぎようとしていた。貯金額が三桁になったとき、俺は自分の神経が崩壊する音を聞いた。
ある限りの酒を買い込み、俺は自分の不運を嘆いて、社会を呪った。
酩酊でぼやけた視界を向けると、彼と彼女の姿が見えた。あれほどの打撃をうけたというのに、彼らは何事もなかったかのように、いつもの仲睦ましい姿を見せ付けていた。
俺の嫉妬は、激しい憎悪に成り代わった。悪しき感情が自分の中からあふれ出してくるのを感じながら、止めることが出来なかった。教養、理性、知恵、そんな類のものは、エゴの前には余りに弱かった。
よろめくように金属バットを持ち上げると、俺は獣じみた咆哮をあげて、二人の姿へと振り下ろした。
標的となったオブジェはあっけなく砕け散り、激しい雨音のような響きを立てて、床にぶちまけられた。
その直径30センチの球体の水槽は、バクテリアや水草、いくらかの土を封じ込めることにより、地球の生命のサイクルを再現した置物だった。
荒い吐息が静まると、俺は膝を崩して、自分が壊した星のために慟哭した。
世界の崩壊は唐突に訪れた。
冷たいフローリングの床の上に横たわって、彼は必死に彼女のほうを見ようとした。
彼女もまた同じようなことを考えていたのかもしれないが、それを確かめる術はもはやない。
息苦しさと共に消えいく意識の中で、彼は誰かの泣き叫ぶ声を聞いた。
命運を恨むほどの思考は、彼には無かった。それは恐らく彼女も同じであろう。唐突な蹂躙すらも、息絶えるまでの数瞬だけの苦しみでしかない。
動物は人間ほど複雑ではない。魂は迷わない。
床の上に転がった二匹の熱帯魚は、やがて動きを止めた。
2006/12/12(Tue)22:38:29 公開 /
夜
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■作者からのメッセージ
十二月十一日を目安に、皆様から頂戴した感想を整理し、応じて改稿させていただく予定です。
ご感想やご指導をよろしくお願いいたします。
皆様のご協力を礎に、物書きとしての精進に努めさせていただきたく存じます。
十二月十一日
頂いたご感想をもとに、改稿作業に入りました。
ご感想は引き続き募集いたしております。
十二月十二日
改稿完了。題名を始めとして大幅に変更。
ファンタジーの演出を捨て、短編としての意義を追及。
感想は引き続き募集いたしておりますが、改稿の予定はございません。
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